家庭環境

12年を費やした研究をまとめた本が2000年に出版されました。この研究の調査対象は、みな両親の揃った安定した家庭で育てられたきょうだいですが、中には親が再婚した継きょうだいもいたそうです。さらには一卵性、二卵性双生児も含まれていました。このように研究を構成したことにより、研究者たちは今回測定の対象となった行動や特徴についてその遺伝子による影響を考察することが十分可能となったのでした。対象とした行動や特徴には反社会的活動、社会性、勤勉さ、自尊心、自立心、鬱症状等などが含まれていました。研究者たちはそれらの評価を複数の評価者から収集したのです。母親、父親、被験者自身、そして熟練した観察者たちも皆、評価を下しました。評価の平均値がとられましたが、この研究の場合、それは問題になりません。なぜなら親も子も、評価される行動や特徴はどれも家庭でのものだからです。家庭内の評価と学校での評価を一緒くたにしたわけではないのです。

この研究の目的は、以前ハリスが「いずれでもない」と述べた事象、すなわちきょうだい間の性格上の違いは遺伝子でも共有する家庭環境でも説明がつかないことを検証することだったのです。研究者たちは家庭内のわずかな環境の違い、親の子どもへの姿勢の違いなどからきょうだい間の違いを説明できるのではないかと考えていました。

たしかに親の子どもへの姿勢に違いはありました。だがそれできょうだい間の違いを説明できるわけではないのです。年齢の異なるきょうだいは、置かれている環境や条件が違いますが、そのきょうだい間の関係についても説明はつきません。「この壮大な12年にも及ぶ研究が遺伝子でもない、共有する因子でもないなにかを見つけるために設計されたことを踏まえると、十分な結果を得ることができなかったのは、残念ではあったが、むしろ気持ちが昂ぶった」とレイスは語っているそうです。

レイスにとって残念だったかもしれませんが、ハリスにとっては違っていました。この研究は重大な結果を導き出したと考えたのでした。親の姿勢の違いは、子どもの行動への反応であることがわかったのです。きょうだいでも同じようには行動しません。それはある部分は遺伝的な違いによるものですが、親はその遺伝的な違いが表出した状態に反応していたのです。

きょうだい間にみられる遺伝子以外の違いについては「十分な結果を得ることができなかった」のは仕方ありません。研究者たちが測定したいずれの事象も遺伝子以外の違いで説明できるものではありませんでした。研究者の一人、ロバート・プロミンは後にこれらの違いの原因を家族内だけで探したのが間違いだったと後悔したそうです。プロミンは、「ハリスが1998年に痛烈に主張したように、家族の外にも目を向けて、結果なしという事態を避けるべきだった。と述べています。

少なくとも研究に費やした労力と時間のすべてが無駄になったわけではありません。この壮大で、丁寧に実施された研究では子どもから親への影響を示すもっとも明確な証拠を得ることができたのです。子ども二人に対して、親がそれぞれ別の扱い方をするのは、子どもたちがそれぞれ違うからなのです。とはいえ、その違いは一般的に言うところの遺伝子による影響とは限らないのです。親は年少の子を年長の子と同じように扱うわけではありません。病弱な子を健康な子と同じように扱うことはしません。一卵性双生児であっても親は別々に扱うこともあります。二人は同じ遺伝子を持っているはずなのにです。少なくとも2008年まではそう考えられてきました。この年、学術誌アメリカン・ジャーナル・オブ・ヒューマン・ジェネティックス上で、一卵性双生児においてもわすかな遺伝子の相違があるという研究が発表されたのです。

親の目、教師の目

ディーター‐デッカードとプロミンの研究同様、アヴシャロム・カスピとテリー・モフィットが中心となって実施した二つの研究も母親と教師がデータを提供しています。父親の在不在、反社会的活動についても、子どもが虐待されているか否かも、すべて母親が回答しています。母親はまた子どもの日ごろの素行に関する問題や反社会的活動を評価するアンケート用紙も記入しました。教師も同様のアンケート用紙を記入しました。しかしここで研究者たちが二つのアンケートをどのように処理したのかに注目してもらいたいとハリスは言います。母親と教師による子どもたちの反社会的活動に関する報告は合算され、まとめて一つの反社会的活動スコアとして扱ったのです。

研究者たちは母親と教師による報告を別々に表示するのではなく、一つにまとめてしまったそうです。そのため、発表された報告書からは、不適切な活動に従事する父親の存在もしくは家庭内での身体的虐待が家庭内での子どもの行動に影響を及ぼしたのか、それとも学校での行動にも影響したのか、知る由もありません。それどころか、子どもの家庭内での行動についても疑わしいのです。というのも、その情報は、父親の反社会的な活動に関する情報と、子どもの過去の虐待に関する情報の提供者と同じ人物から得られたものだからです。二つの異なる質問に同一人物が回答した場合、ほとんどの場合、二つの回答の間に相関関係が見られます。この反応の偏向について以前ハリスは論じています。教師の回答に加えてもなんら解決にはならないと言います。もし教師による回答が学校での行動になんら悪影響を与えていないことを示していても、母親の回答と合算されていては、その結果を見出すことはできるなくなるからです。研究者たちはこの重大な欠陥を弁明するつもりで、一つの研究では教師と母親の評価の間に相関関係が認められたと発表したそうです。その相関関係は、五歳児で0.29、七歳児で0.38だったそうです。しかし、こうしたささやかな相関関係は、単に評価対象となった行動に及ぼした遺伝子の影響かもしれません。子ともが持つ素因遺伝子によるもので、それらは家庭から学校へ、またその逆へと継承されるものだとハリスは考えています。ディーター‐デッカードとプロミンの研究ではこの点は問題になりませんでした。なぜならきょうだい間では素因遺伝子が異なるとは考えられないからだそうです。

2000年に出版されたとても重要な本があるそうです。12年を費やした研究をまとめた一冊です。その研究を行なったのが、家族療法を専門とする精神科医であるディヴィッド・レイスと、行動遺伝学者であるジャネイ・ナイダーヒーサーと、発達心理学者であるE・メイビス・ヘザーリントン、そして行動遣伝学者であるロバート・プロミンだそうです。対象となったのは、10歳から18歳までのきょうだい720組です。彼らはみな両親の揃った安定した家庭で育てられたきょうだいですが、中には親が再婚した継きょうだいもいたそうです。さらには一卵性、二卵性双生児も含まれていました。すなわち被験者同士で共有する遺伝子の割合は一卵性双生児の場合の100パーセントから継きょうだいの場合のゼロまでということになります。

裏付けとなる証拠

ハリスは、人とのかかわりがあらゆる人間にとって重要なのだということを主張しているのです。私はハリスに共感し、同意するのはこの説です。それは、人は社会を形成して生きていく生き物だからです。また、教育の目的は、平和で民主的な社会の形成者としての資質を備えることにあるからです。

ハリスはこれら三つの説の裏付けとなる証拠を相当量集めて説明しました。とはいえ、どれだけ集めても集めきれないし、集めれば集めるほどより優れたデータを求めたくなるようです。彼女が初版出版後、関連した研究がいくつか発表されたそうです。ハリスは、その中で成果のあった研究、なかった研究をいくつか紹介しています。

カービー・ディーター‐デッカードとロバート・プロミンによる研究はハリスの学説をわかりやすく検証してしているそうです。彼らは実のきょうだいと養子縁組によるきょうだいの攻撃性を研究しました。子どもたちの攻撃性は数年間にわたり複数回、その親と教師により師価されました。結果はハリスの学説が推論したとおりだったそうです。親は年長が年少よりも攻撃的だと評価しましたが、教師は両者ともほぼ同じと評価したのです。第一子は家庭では親による評価より攻撃的でしたが、学校では教師による評価ではさほどでもなかったのです。第一子の年少の子どもたちに対する支配的な行動と、年少の子が年長の子のご機嫌取りをする行動は、家の中だけでみられる行動パターンだったのです。学校ではその第一子がより体格の良い子どもたちの言いなりになることもあれば、その弟妹がクラスでは一番体格がいいということもあるかもしれないのです。

二つの要因がこの研究の説得力を高めているそうです。一つ目はディーター‐デッカードとプロミンが年長の子を年少の子と比較したことです。両被験者グループとも遺伝子的に等質であると言って間違いありません。両者の間に体系的な遺伝子の違いはありません。よって両者を比較することにより、遺伝子の影響が統制された測定結果を得ることができるのです。二つ目は、ディーター‐デッカードとプロミンが親と教師の両方の評価を対象としたことです。親の評価は子どもの家庭での振る舞いの、完全とはいえませんが、指標となり、教師の評価からは子どもの学校での振る舞いを知ることができます。第一子も、第二子以降も、学校で経験することは似たり寄ったりですが、家庭での経験は全般的に異なります。ですから、ハリスは、これら二つの状況下での評価は異なるはずであるという学説を唱えたのです。実際、異なる結果が出たのです。これはハリスの第三の説に対する強力な裏付けとなります。

次に注目したいのが、ハリスのひらめきをもたらしてくれた少年非行に関する論文の筆者であるアヴシャロム・カスピとテリー・モフィットが中心となって実施した二つの研究の結果です。ともに研究対象は双子です。双子を選ぶというこの判断にはハリスも賛成しています。一つ目の研究では、研究者によると、良い父親をもつ子どもは父親と同居していれば良い子に育ちますが、父親が「反社会的な活動」にのめりこんでいるような場合は、父親と離れて暮らすほうが子どもは良い子に育つというものです。反社会的な父親が近くにいると、その子どもたちも好ましくない行動を取るようになる可能性が高いのです。二つ目の研究が示すのは、こちらも研究者によると、「虐待を受けた子どもは好ましくない行動をとる」、すなわち「反社会的な活動に従事する可能性が高い」ということです。

三つの説

様々な分野で様々の研究がされています。よくエビデンスが大切であると言われます。エビデンスとは、もともとは証拠・根拠、証言、形跡などを意味する英単語に由来する、外来の日本語です。それは、様々な分野でも使われることが多いのですが、主に医学や保健医療に使われることが多いようです。それは、医療行為において治療法を選択する場合、患者の命にかかわる問題であり、治療を施したり、投薬する場合などはできるだけリスクを避けるために、確率的な情報として、少しでも多くの患者にとって安全で効果のある治療方法を選ぶことが必要だかです。また、研究には、より客観性を持ち、数量的にも豊富なデータが必要だとも言われます。しかし、それは、多くは科学的な研究の際であり、人の存在や生き方などに関するものは、哲学に近いものが必要になると思います。ですから、答えは一つとは限らず、また、仮説を立てることが必要になります。

ハリスは、様々な他人からの批判や否定に屈せず、新しい考え方を発表しました。それは、児童発達に関する仮説を検証したものでした。この児童発達において、特に三つの説を述べています。第一の説は子どもの既格形成に親は完全にあるいはほとんど無力ということです。子どもはその性格と行動が親と似ることはありますが、その理由は二つあるとハリスは言います。一つは親から遺伝子を受け継ぐため、もう一つが両者は通常同じ文化あるいはサブカルチャーに属するからだと言うのです。

第二の説は子どもたちが社会化を果たし、性格が形成されるのは、家庭の外での経験、すなわち仲間と共有する環境の中だということです。

第三の説は一般化に関することです。一般化とは、ある刺激に対して条件反射が形成されると類似した刺激に対しても同様の反応をもたらすことをいいます。心理学者たちは長年、人の行動パターンはそれに伴う感情とともに、ある社会的状況から別の社会的状況にいとも簡単に継承されるものだと信じてきたそうです。第三の説によればその思い込みは間違っているとハリスは言うのです。異なる社会的状況においてどこか似た行動をとるのは、その多くの場合、遺伝的要因によるものだと言うのです。遺伝子はどこまでもついてきますが、親きょうだい間で身につけた行動は親きょうだい間でだけ有効だと言うのです。子どもたちは過去の社会的状況で学んだ行動パターンを引きずりながら新しい状況に向かうわけではないと言うのです。現状に即した新しい行動パターンを身につける準備はしっかりできているのです。

ハリスの考えはこれまで何度も要約されてきましたが、この第三の説に言及されたことはほとんどなかったそうです。しかしハリスにとってはこの第三の説こそが、最も重要な仮説だと言うのです。メディアではハリスの考えは次の八文字に集約されているそうです。それは、「親は重要ではない」というものです。もちろん親は重要であることは間違いありません。それは、ハリスも強く主張するところです。しかし、どこで、どのように重要なのか。「どこで」への回答につながるのがこの第三の説だと言うのです。親が重要な場面というのは「家庭」です。そして「どのように」への回答が人との関係だと言うのです。人とのかかわりがあらゆる人間にとって重要なのだということを主張しているのです。

知能への影響

今日の西洋社会では、もはや長子相続制は死に絶え、子どもたちがきょうだいと過ごすのは、ほぼ家庭内だけに限られるようになっているようです。家庭の外では、子どもたちは同年代の仲間とともに過ごすのです。家庭では兄の支配下におかれる弟も、仲間集団では優勢な地位に就く場合があります。きょうだい関係で育まれた行動様式は、移民の子どもにとっての親の言語と同様、玄関から出るときには家に置き去られてしまうのです。

おそらく長子相続制の時代には、出生順位による影響も実在していたのだとハリスは思っているようです。サロウェイの本に登場する歴史的データはそのように解釈できるのかもしれないと言います。性格に関する有効な測定値をを対象とした最近の研究では、出生順位による影響は認められていませんし、とるに足りないものであるとの結果が得られているのです。カー・ショーラーは自身の論文を「出生順位による影響―今ここには存在しない!」と題したそうですが、それは正しい判断だったとハリスは言うのです。

では知能への出生順位による影響はあるのでしょうか。IQにおいては第一子が優勢であるという主張が周期的に発表され、その都度注目を浴びてきました。しかしハリスはまだ納得できないと言います。もし第一子が実際により賢いのであれば、学業成績は第二子以降より良いはずですが、実際にはそうではありませんし、大学進学率が高いわけでもないのです。幸いにも、この特定の論争がどう決着しても、ハリスは、自分にとってはなんら得にも損にもならないと言うのです。ハリスの仮説は性格と社会的行動に関するもので、IQについては語っていません。性格が出生順位による影響を受けることはないのです。なぜなら家庭内で身につけた行動パターンは一度家からできると無効になるからです。対照的に、家庭内で身につけた事実情報および認知能力はどこにいっても役に立つのです。

ハリスは再度「性格と出生順位」について述べています。よほどその時にその議論がまことしやかに語られていることに対してハリスは憤り、順にきちんとその反対理論を説明していったのです。これは、その関係性についての是非論だけでなく、多く語られていることに対する再考の必要性と、言い伝えの危うさというものを教えてくれている気がします。育児論については、何度か新しい考えが提示されてきました。そして、それが、流行かのように広まったものもありました。しかも、それは新しい考え方でもあるにもかかわらず、昔からそうだった、ずっとそうだったという言い方で、あたかもそれが真理のような言い方をするものもあります。

そんな時に私に教えてくれたのは、著名な研究者の研究でもなければ、過去の偉大な研究者でもなく、子ども自身の姿でした。私は、ハリスと違って、過去の研究を再考するというよりも、子どもの姿をじっと眺めることにしたのです。そして、職員からの子どもの姿の報告を検討することにしたのです。そこでは、常識と言われているものにも、刷り込まれているものにも惑わされず、子どもの姿を観察することにしたのです。そして、そこで感じたことを、他の現場の園長、職員に話してみたのです。すると、実践をきちんとしていた人たちから共感されたのです。

ハリスも、様々な他人からの批判や否定に屈せず、新しい考え方を発表しました。それは、児童発達に関する仮説を検証したものでした。

きょうだい殺し

最後に、サロウェイの考え方では、社会が激変するのは人口における第二子以降の割合が高いときに起こりやすいということになってしまいます。フレデリック・タウンゼンドは20世紀のデータをもとにこの推測の信憑性を検証し、きっぱりそれを否定しました。1960年代の若者の反逆的行為にかかわったアメリカの20歳から25歳の世代では、実際には第二子以降の割合は低かったのです。第二子以降の比率は平穏だった1950年代の方がはるかに高かったのです。その比率は1970年代に入りふたたび高まりましたが、その頃には若者による反逆的行為はちょうど消沈しつつあったのです。

サロウェイの説は、ダーウィンの適者生存の概念である、がむしやらになる者こそ生き残るという進化論に基づいているそうです。サロウェイ的な見方をすれば、きょうだいとは家族の富を求めて死闘を繰り返すものであるということになります。彼がモデルとするきょうだい関係はカインとアベルであり、はじめに卵から孵ったヒナが巣内の競争を少なくするために後から孵ったヒナを一羽つつき殺す習性のあるカツオドリだとハリスは比喩しています。

しかしながら、きょうだい殺しは、同時に生まれた子どもたちが同時に育てられる種において主に見られるのです。霊長類は一般的に子どもを一人ずつつづけて育てます。それに対して、チンパンジーのきょうだいは、子ども時代は遊び仲間、成人後は貴重な盟友になる場合が多いのです。同じことは伝統的社会の人間のきょうだいでも言えるそうです。カインとアベルは別にして、きょうだい殺しはハリスの住むアメリカを含め、人間社会においてもっともまれな殺人のかたちなのです。

しかしきょうだい殺しはある状況下でより頻繁に見られるそうです。王国、称号、そして農場までそのすべてが長男の手にわたり、それ以降の子どもたちには微塵も与えられないという時代や場所では、より一般的になります。このような状況下で行われる殺人は、表面上、まさにサロウェイの描いたきょうだい間の葛藤です。親に気に入られること、そして家族の富を求めての闘争です。しかし、ここで人を殺人へ駆り立てるものは、親の前での地位を高めたいという弟の欲望ではないとハリスは思っているようです。第一子を殺しても、それを手に入れることなどとうてい無理なのだからと言います。殺人へと駆り立てるのは、成人後に過ごすことが運命づけられた社会において自分の地位を高めたいという弟の欲求なのではないだろうかと言います。長子相続制の社会では年長の兄は家族内だけでなく、集団内においても優勢です。集団内における優勢をめぐる競争は殺人に発展することもあり、それはあらゆる種、さらにはどの人間社会においても見られることなのだというのです。

きょうだい関係は、家族内だけでなく家族外の要因にも左右されると言います。だからこそ出生順位による影響が見られるようになるのです。ヨーロッパ諸国でまだ長子相続制が当たり前だった頃、年下のきょうだいは、家族の中だけでなく、どこへ行こうとも長兄の影に隠れて成長してきました。裕福な家庭の子どもたちが家庭で教育を受け、貧困家庭の子どもたちがまったく教育を受けられなかった時代、子どもたちはその大半をきょうだいとともに過ごしたのです。弟は、家庭においてのみならず、遊び集団においても兄に支配されていたのです。集団内での地位の低さはとりわけそれが何年間もつづくと子どもの性格に一生消えることのない痕跡を残すことになる、というのがハリスの考えだそうです。

政治的行動

『反逆者に生まれて』の書評の中で、歴史家ジョン・モデルは本の中に提示されている歴史上のデータをどうとらえるべきかが難しいと述べているそうです。著者の「熱烈なまでの唱道により、それは仮説を評価するためにというよりは、読者を圧倒するために必要なものとして提供されている。」それにはハリスも同感しています。そのためサロウェイの主張の真偽を見きわめるためには別の研究者がもたらした証拠に頼らざるをえなくなりました。

サロウェイは、第一子と第二子以降では政治的な見解も異なる、すなわち第一子はより保守的で、第二子以降はよりリベラルだと考えています。アルバート・ソミットとアラン・アーウイン、そしてスティーヴン・ピータースンは1996年に出版された出生順位と政治的態度に関する本の中で、文献を調べ、次のような結論に達したそうです。

「われわれは、われわれが確認しうる出生順位と政治的行動の関係に関するすべての文献に、目を通した。本研究のいうところの行動とは広範囲に及ぶ。個人として政治に参加すること、政治への関心、リベラルか保守か、言論の自由に対する態度、リーダーシップ志向、政治的社会化、マキアヴェリズム、伝統に反する行動、さらには役職の指名制と選挙制についてまで。これらの研究の多くでは、そこで提示されたデータからは出生順位との意義のある関連性は認められなかった。かかる関連性が報告されたものに関しても、控えめに言うならば、批判的な分析によって結果の有効性に重大な疑惑があることがわかった。」

サロウェイは、第二子以降はより反逆的で親の規準には従おうとしない傾向にあると断言しているそうです。子どもたちや思春期の若者たちがよく見せる反抗的行為の一つに、学業の怠慢があります。そうした行動は成績という実に収集しやすいデータとなって現われます。そうしたデータを収集すると世間一般の考えとは矛盾する結果が得られたそうです。学校で実力を発揮しない傾向と出生順位との関連性は認められなかったのです。心理学者ロバート・マッコールによると、「系統だった研究においても…実力以下の成績をとることが第一子よりも第二子以降においてより多く見られるという傾向は確認できなかった」と言っています。

サロウェイは第二子以降は、革新的な考え方を受け人れやすいと主張しました。心理学者マーク・ルンコは子どもにおける「拡散的思考」、すなわち風変わりな思考傾向に関して調査したそうです。第二子以降が「拡散的思考」項目において高い得点を記録するような傾向は見られなかったそうです。この調査で最高得点を記録したのはむしろ第一子もしくは一人っ子だったのでした。

一般的に、結婚生活は性格や態度が類似している夫婦ほどうまくいくということは、研究によって明らかにされているそうです。もし出生順位が性格や態度を大きく左右するのであれば、第一子同士や第二子以降同士の方が幸せな結婚生活を送れるはずです。ハリスが唯一見つけたこの内容に関する研究の結果は、その逆を示唆していたそうです。心理学者ウォルター・トーマンは出生順位の異なる者同士のカップルは離婚する可能性がより低いと報告しているそうです。

家庭内に存在

エルンストとアングストが再考した調査の中には、親が子どもの性格を評価したもの、もしくは子どもたちが自分のきょうだいを評価したものがいくつか含まれていたそうです。これらの研究結果は概してサロウェイの考え方、そして世間一般のステレオタイプと一致していたそうです。第一子は親から見れば、真面目で感受性が強く、責任感があり、不安げで大人志向が強い。第二子以降は独立心があり、愉快で反逆的。第二子は、兄や姉のことをいばっていて攻撃的だと評しています。

親やきょうだいによる評価を用いた少数の研究はその数に見合わないほどのデータをサロウェイのメタ・アナリシスに提供したに違いないとハリスは言います。そのほとんどは複数の結果をもたらし、さらにその結果の大多数はサロウェイの考えに肯定的なものばかりでした。実際、エルンストとアングストが取り上げた研究のうち、サロウェイ説に肯定的な結果の割合は自己報告式のアンケートでは22パーセントだったのに対し、家族評価に基づく研究では75パーセントとなっていたそうです。

エルンストとアングストはこれら二つの形式では結果が符合しないことに気づき、家族による性格評価を使用することを批判しました。彼らはまず親が子どもの性格を判断することの有効性には疑問があると述べています。家庭による判断は家族以外の人間の判断と一致しない場合が多いとハリスも随所で述べています。そのうえ、親が自分の子どもたちを語るときには、否応なしに第一子である上の子と第二子以降の下の子とを比較することになるため、上の子はより成熟しているように評価されてしまうのです。

親やきょうだいが性格を評価した場合では出生順位による影響はしばしば見られるようですが、普通、家族以外の人によって評価された場合には見ることはできません。エルンストとアングストはこの不一致に対していくつかの説明を試みているそうです。彼らの思いついた仮説の一つは、性格は社会的状況と関連している、というものです。第一子が第一子のように、第二子以降が第二子以降のように行動するのは、親もしくはきょうだいの面前だけのようです。「第一子的性格は親と一緒のときにしか現われないのかもしれない」とエルンストとアングストは言っています。ハリスが紹介した証拠は、この仮説と一致しています。子どもたちは、親やきょうだいとともにいるときの行動様式を身につけるようになりますが、それは他人や他の状況にもちこまれることはないようです。

性格への出生順位による影響は確かに存在します。しかし、それは家庭内に存在するのです。人はそれを家の中に置き去りにしたまま、玄関を出ます。家族による評価がからんだ成人向けの研究のほとんどで、出生順位による影響が見られないのはこのような理由からのようです。

『反逆者に生まれて』の主眼点は性格全般ではなく、革新と反逆にありました。サロウェイによると第二子以降は、他人の急進的な考え方や革新的な考え方を受け入れやすく、親の時代遅れな考え方を退ける傾向にあるといいます。サロウェイは歴史上の人物、すなわち後世のためにその発言や行ないを記録に残すに値するだけの重要人物の見解やその行為に関するデータを示し、その仮説を裏づけようとしたのです。

1980年以降の研究論文

出生順位研究において、もっとも「ゴールド・スタンダード」を満たすものに近いものといえば、エルンストとアングスト自身が行なった研究だとハリスは言います。その目的は彼らの調査結果を裏づけること、もしくはそれらが間違いであったことを示すことであり、その詳細は同じ本の後半に掲載されているそうです。彼らはすべてを正しく統制し、再考した中でも最も根気強い研究よりも多い、7582名の若者を被験者とし、自己報告式のアンケートを用いて、寛大さを含む12の性格に関する項目を測定しました。二人きょうだいに関しては、測定したどの性格項目においても有意な出生順位による影響は認められませんでした。三人きょうだいとなると、一項目においてのみ有意な影響が認められたそうです。末子はわずかですが男らしさの測定値が低かったそうです。

どういうわけか、サロウェイは『反逆者に生まれて』の中ではこの研究については触れていないそうです。

エルンストとアングストが調べた出生順位研究は1980年までのものであり、サロウェイにしても同じです。しかし、出生順位研究はその後も実施されています。そこでハリスはエルンストとアングストが区切りとした1980年以降に発表された研究論文を探すことにしたそうです。今日では、大学の図書館に足を伸ばせない者にとってもこのような検索作業はさほど難儀なことではなくなっています。ハリスが加人しているプロバイダーでは、〈サイコロジカル・アブストラクツ〉にアクセスすることが可能で、そこではキーワード検索の上、発表されている論文の要約を読むことができるそうです。

〈サイコロジカル・アブストラクツ〉で、今日にいたるまでに出版された「出生順位」と「性格もしくは社会的行動」というキーワードに関連する論文をハリスが検索してみたところ、該当する論文が合計123もあったそうです。性格もしくは社会的行動に及ぼされる出生願位による影響には関係のない研究や、要約に研究結果が記されていないものを除くと、50の研究が残ったそうです。それぞれの結果から各研究をサロウェイ説に肯定的、サロウェイ説に否定的、混合、差なし、不明瞭に分類したそうです。その結果、肯定的7、否定的6、混合5、差なし20、不明瞭12となったそうです。ハリスはエルンストとアングスト同様、出生順位は成人後の性格にはなんら影響せず、もし影響があったとしてもあまりに微々たるもので当てにならず、実際には取るに足りないほどであるとの結論に達したと言っています。

出生順位が成人後の性格を大きく左右するわけではないのなら、なぜ人々は出生順位による影響が存在すると思いこんでいるのでしょうか。さらになぜ第一子および第二子以降の人物像が何年間も変わらずに定着することになったのでしょうか。サロウェイの描いた弟像は、一般的な弟としてのステレオタイプとかなり一致しています。穏やかで、愉快で、反抗的、そしておそらくちょっぴり幼稚。もしこのステレオタイプが正確性に欠けるというのなら、そのステレオタイプはどこからきたのでしょうか。

ハリスは、その答えは家庭だと言います。子どもたちの行動を観察する親ときょうだいの行動を観察する子どもたちからきていると言うのです。すなわち家庭内の行動を観察することによって得たものなのだと言うのです。

研究の規模

昨日示したような結果は、研究の規模が小さいものは大きいものよりも有意な効果が認められる可能性が高いことを意味するわけではありません。ハリスは、よりもっともらしい説明をするならば、規模の小さい研究は、有意な影響が認められなければ、公表される可能性がさらに下がるということだと言うのです。研究者たちは不思議そうなそぶりを見せるたけで、さっさと別の研究に着手してしまうと言うのです。社会科学の分野でも、差が認められなかった研究結果が公表されないことは問題だとの認識があるものの、それは生死にかかわるほどのことではないと考えられていると言うのです。医学で同じ問題が生じることがあるそうですが、医学ではそんな結果もより重要な意味あいをもつそうです。差がないという結果さえ、もしそれが高価な新薬を使っても痛ましい手術をもってしても患者が治癒される可能性が増すわけはないということを意味するのであれば、それは貴重な情報となります。にもかかわらず、医学の世界においてでさえ、差がないという結果は公表されにくく、仮に公表されるにしてもそこまでの道のりは相当に長いようです。

ごみ入れごみ出しとはコンピュータ・サイエンスの言葉ですが、これはメタ・アナリシスにも当てはまるとハリスは言います。細かな研究を一つにまとめると大きなものが完成しますが、それは必ずしも有用であるとは限らないのです。医療の世界では、細かな研究は正しく統制されていない場合が多いようです。患者は無作為には選ばれません。おそらく新しい治療法を施される患者は、従来の治療法が施される患者よりも病状が重いか、もしくは軽いのだろうとハリスは言います。そのような研究では二重盲検法が用いられていないと言うのです。すなわち治療を施す医師と治療が有効だったかどうかを判断する医師は同じ人物であり、患者もまた自分が従来の治療法を受けているのか、それとも新しいものを受けているのかを承知しているのです。

一般的には、新たな医療は最初に規模も小さく、統制も正しくされていない研究によって査定されることが多いのです。しかし、もしそこで有望だとみなされれば、最終的には医学研究者たちが「ゴールド・スタンダード」と呼ぶ、より確かな研究が行なわれることになります。ゴールド・スタンダードを満たす研究とは、規模が大きく、最低でも患者数1000名以上の中から無作為的に行なわれ、二重盲検法を用い、研究者たちと治療法や薬の提供元の間になんら金銭的なつながりがないものを指します。残念ながらこのような研究は心理学の分野では見ることができないと言うのです。心理学の中でも時折医学誌に取り上けられるような研究もありますが、もしそれが医学研究の掲載の可否を判断する際に適用されるのと同じ規準で判断されていれば、それは掲載にはいたらなかったことだろうとハリスは言うのです。

《ニューイングランド・ジャーナル・オプ・メディシン》に掲載された論文に、ゴールド・スタンダードを満たす医学研究とそれ以前に実施された小規模な研究のメタ・アナリシスの結果とを比較したものがあるそうです。研究者の結論は、「われわれの調べた12に及ぶ無作為で統制ずみの大規模なトライアルの結果を、同じ内容で以前に公表された研究のメタ・アナリンスの結果から推測した場合、その35パーセントは正しく推測できていなかった」でした。こうした不一致が見られた場合には、見識ある医者であれば、小さな研究を集めたメタ・アナリンスよりも規模の大きい、より統制された研究を選ぶでしょう。