文化の創造

私たちが考えているような文化は、仲間の意図を推測できる社会的な種でしか進化しなかっただろうと考えられています。少なくともトマセロたちが述べているような模倣学習程度の複雑性をもつ社会的学習ができなければ、儀式や科学技術、そして生態に関する重要な知識を、次の世代に効果的に伝達してゆくことはできなかっただろうと言います。また、心の理論がなければ、形成される社会的関係性は3歳児やチンパンジーの群で見られる程度のものにとどまるだろうと言います。そのような関係性もときに非常に複雑であり、優位性の階層およびたくさんの仲間や過去の相互作用の歴史に関する記憶が関わっているのです。しかし、「心の理解を欠く(マインドブラインド)」個体が集まって形成する文化は、複雑性や結東性が非常に乏しくなるのです。

子どもは、他者の意図を推測する能力をもっては生まれてはきません。しかし、ヒトのこの能力は生後早期に発達し、4 ~ 5歳までに、大型類人猿は絶対に達成できないと思われる社会的認知を示すようになります。この例外が、ヒトに近い養育環境で育てられた類人猿です。いくつかの課題では、文化化したチンパンジーやオランウータンはヒトの飼育員の意図を推測できるようです。この「文化化仮説」への決定的な結論はまだ得られていませんが、これらの知見から、ホモ・サピエンスの社会的知能のルーツは、ヒトがオランウータンとの共通祖先を最後に分かち合っていた、おそらく1500万年前にまでさかのほることが示唆されます。社会の複雑さの変化や未成熟期が長くなったことで、養育環境の修正が促進され、その結果、他者の意図を理解する能力が生じ、最終的に文化の創造に至ったと思われます。

このような社会的知能の発達の知見を見ると、まず、生後早期からの環境が大切であることがわかります。そして、それは幼児期までの期間が重要なのです。また、社会的知能による文化の創造は、他者との日々の相互作用の中に反映されているといことからも、他人との関係性の大切さがわかります。しかも、それは模倣学習程度の複雑性を持つ社会的学習が必要であると言うことからも、子どもたちの異年齢集団における学びの大切さもわかります。そして、それらは、私たちホモ・サピエンスがヒトとして進化していった大切な要因であるのです。

この項の最初にビョークランドが指摘したように、「ヒトに特有な知能の進化は、社会集団内の仲間とのやり取りをする必要性から生じた」という観点を、少子時代を迎えた現代、もう一度振り返る必要があります。そして、そのやり取りから学ぶ必要な力とは、他者の知識、欲求、意図を表象する力です。それがなければ、成人として成功することは困難なのです。協力のしかた、競争のしかた、そして一般的な社会的方略の中で、どの方略が最善か学ばなければなりません。他者との協力と競争に共に成功した個体が、社会性の乏しい個体よりもうまく適応し、私たちの先祖となったと考えられているのです。

そのために必要なのが、「社会的認知」と呼ばれるものなのです。それは、社会的関係性や社会的現象に関する認知なのです。そして、社会―個体モジュールとして、非言語的行動、言語、顔の処理、心の理論に関連する情報処理が含まれ、社会―集団モジュールとして、血縁、集団内の地位、集団外の地位、社会的イデオロギーに関連する情報処理が含まれるのです。

社会的推論

ハリスとヌニェスでは、決められたルールの違反が含まれる短い話と、同じ内容でルール違反がない短い話を子どもに聞かせました。たとえば、規範的(義務的)条件では、子どもに「ある日、キャロルは絵を描きたいと思いました。キャロルのお母さんが、絵を描くのならエプロンをつけなさいと言いました。」と話します。記述的条件の子どもたちには「ある日、キャロルは絵を描きたいと思いました。キャロルは、絵を描くときにはいつもエプロンをつけると言いました。」と話します。その後、子どもに実験者が説明をしながら4枚の絵を見せました。たとえば、キャロルがエプロンをつけて絵を描いています。キャロルがエプロンをつけないで絵を描いています。キャロルがエプロンをつけて絵を描いていません。キャロルがエプロンをつけないで絵を描いていません。といいます。そして、義務的条件の子どもには「キャロルがお母さんに言ったことをしないで、悪いことをしている絵を教えてね。」と言い、記述的条件の子どもには「キャロルが言ったことをしないで、違うことをしている絵を教えてね。」と言います。3歳児、4歳児共に、義務的条件でも記述的条件でも、正しい絵を選択した割合が4つの選択肢のなかで最も高かったのですが、両群共に、義務的条件( 3歳児、4歳児それぞれ72%、83% )において、記述的条件(3歳児、4歳児共に40%)よりも正答率が高かったそうです。成人と同じように、幼児は、社会的約定の違反が起こる問題については正しく推論できますが、社会的義務が明示されていない問題の場合にはそれほどよく推論できなかったのです。

カミンズは、子どもの義務的推論能力は生得的であり、霊長類の群れにおける優位性の階層の文脈で進化したと主張しているそうです。優位性の階層内で生き残るためには、自分の地位で許される行動、あるいは、許されない行動はどんなことかを知り、他者がルールに従っているときあるいは違反しているときを認識しなければならないと言うのです。それが、階層におけるその個体の地位に影響を及ほしかねないのだと言うのです。これだけでは、心の理論も社会的推論も必要ありませんが、カミンズは、階層的に組織化された霊長類の複雑な社会システムと、大きな脳との複合的な力によって、社会的推論が進化したと主張しているのです。ビョークランドらは、この主張に同意していますが、それに加えて、子ども期が長いことも、義務的推論の進化の必須要素であったのではないかと考えているようです。

こうした観点から、この推論は「生得的」なのではなく、子どもは社会的約定や社会的交換に関連するフィードバックに注意を向けやすい傾向があり、またそうしたフィードバックに敏感であることにより、義務的推論の発達が促進される、とビョークランドらは考えているようです。

ヒトという種のすばらしい知的達成について考えるとき、新しい科学技術の発明や、衰弱性疾患の医療処置や治療法の発見、あるいは、アインシュタインの相対性理論のような抽象的あるいは数学的な発見に注意を向けがちであると指摘しています。しかし、私たちの最も際立った知能は、少なくとも広い視点から見れば、他者との日々の相互作用のなかに反映されているのです。私たちが考えているような文化は、仲間の意図を推測できる社会的な種でしか進化しなかっただろうと考えられています。

義務的推論

コスミデスとトゥービーは、抽象的な問題の解決に用いる論理と、同じ論理を社会的約定問題の解決に用いる場合とを比較する一連の実験を実施しましが、この問題は難しいので、大学生でもできないかもしれないと言います。しかし、彼らは、抽象的な問題の解決に用いる論理と、同じ論理を社会的約定の間題に適用するよう参加者に求めた場合に、どうなったかを調べてみました。たとえば、成人に、「ビール コーラ 1 6歳 25歳」というカードを提示しました。そして、参加者には次のルールを確かめるよう求めました。「ある人がお酒を飲んでいたら、その人は21歳以上である。」昨日のブログの間題と同様に、参加者は裏返す枚数をできるだけ少なくして、ルールの真偽を判断するよう求められます。成人はほとんどが、「ビール」と「16歳」のカードを裏返し、この問題を簡単に解決しました。参加者は、「25歳」のカードの裏と「コーラ」のカードの裏には、何が書いてあっても関係がないことが即座にわかったのです。コスミデスとトゥービーは、世界中のどの文化でも、大人は「ビール/ 16歳」問題のような社会的約定問題は簡単に解決できますが、より抽象的な、あるいは社会的約定以外の問題の解決には、通常、これと同じ論理を用いることができないことを示したのです。
彼らは、同じ論理を用いる問題であっても、「抽象的」な問題と「社会的約定」の問題とでは成績に差が生じた理由として、論理的な問題を解決する際に、人は常に一般的な問題解決能力を用いるのではなく.社会的約定に限られた、領域固有に進化した「ごまかし検知」メカニズムを用いると提唱しています。同様の観点から、社会的約定問題には、義務的推論が関連すると考えられています。義務的推論とは、人がするであろう、すべき、あるいはする義務があることに関する推論です。それに対し、抽象的問題には、記述的推論または指示的推論が関連すると言います。これは「事実」の単なる記述に関する推論であり、社会的ルールの違反は関与しないと言うのです。
この議論をさらに進めて深化させたのがプルーナーだそうで、彼は、「物語的思考」は個人的な義務的事項に関するものであり、「論理―形式的思考」はより論理数学的な推論と関連があると指摘しました。この考え方では、人は両方のタイプの思考を利用でき、そのどちらを使うかは、その時点の環境の要因によって決まると言います。最も基本的なレベルでは、慣例違反や、個人的価値や義務を示す「must」や「should」などの義務的な法助動詞で示される個人的な葛藤によって、物語的思考が「誘発」されると言います。ヒトは明らかに形式の異なる2つの論理(形式的では、抽象的な論理と、具体的な社会的相互作用に関与する論理)を自由に用いることができると考えられるのだと言うのです。
義務的推論は幼児期にも認められることがわかっています。前述の4肢選択課題を簡略化した課題を3 、4歳児に実施した実験で、状況を単に描写した問題の場合に対して社会的逸脱をはらんだ問題として呈示された場合には、チャンスレベル以上の成績を示すことが報告されているそうです。たとえば、ハリスとヌニェスでは、決められたルールの違反が含まれる短い話と、同じ内容でルール違反がない短い話を子どもに聞かせました。

社会的交換

心の理論については、何度もブログで取り上げてきましたが、ヒトの集団における高度な社会的相互作用に不可欠な一連の認知能力であると考えられています。どのような文化であっても、その中でうまくやっている成人、あるいは10歳児が、少なくとも素朴な信念―欲求の推論すらできないというのは考えにくいとビョークランドは言います。私がこの心の理論をよく取り上げるのは、最近の若者だけでなく、老人においても、この能力が欠けている人が多いことを実感するからです。しかし、心の理論は、世界中のすべての村や町、都市で日常的に行われているものであり、より高度な社会的認知のための土台に過ぎないと言います。効果的な社会相互作用のために、心の理論を持つことが必要ではありますが、十分条件ではない一つの領域が、社会的交換――いうなれば、取り引きすること――と、ごまかしをしている人を検知する能力であると言うのです。

進化心理学者レダ・コスミデスとジョン・トゥービーは、うまく社会的約定を形成し、ごまかされないようにするためにはいくつかの特定の認知能力が必要であると提唱しているそうです。その中には、たくさんの違う人を認識する能力、人との過去の相互作用を覚えている能力、自分の信念と欲求を他者に伝える能力、他者の信念と欲求を理解する能力、そして、交換している商品やサービスのコストと利益を表象する能力があると言います。なんだか、自分はこのような能力を持っているのか?と振り返ってみる必要がありそうです。さらに彼らは、社会的にごまかしている人を見分ける能力を最終的に左右するのは、交換の論理を理解する能力であると言うのです。しかし、形式的な論理については、それが社会的交換の文脈に関するものではない限り、ヒトはそれほど得意ではないそうで、少し安心します。

コスミデスとトゥービーは、抽象的な問題の解決に用いる論理と、同じ論理を社会的約定問題の解決に用いる場合とを比較する一連の実験を実施し、その結果を報告しています。ます、抽象的な問題としてコスミデスとトゥービーが用いたのは、ウェイソンの課題の修正版だそうです。成人の実験参加者に、4枚のカードをテープルの上に、たとえば「A G 2 7」のように呈示します。そして、参加者に次のルールを伝えます。「母音が書かれているカードの裏には、偶数が書かれている。」そこで参加者は、目に前にあるカードがこのルールに従っているかを判断するように求められます。ただし、このルールの真偽を判断するために裏返すカードの枚数は、できる限り少なくしなければなりません。ほとんどの人が「A」のカード、あるいは、「A」のカードと「2」のカードを裏返しました。「A」のカードは確かに正しいです。ルールによれば、母音のカードの裏には偶数があるはずであり、これを調べる唯一の方法は「A」のカードを裏返すことです。

しかし、「2」のカードを裏返すのは無駄です。このルールでは、偶数のカードの裏には必ず母音が書かれているとは言っていません。つまり、「2」の裏に何が書いてあっても、このルールの正否は判断できません。ここで重要なカードは「7」です。「7」の裏に母音が書かれていれば、ルールは破られます。つまり、この問題を最少の動きで「論理的に」解決する方法は、「A」と「7」のカードを裏返し、他の2枚には手をつけないことです。この問題は難しいので、大学生でもできないかもしれないと言います。

類人猿における心の理論

保護施設で育った類人猿も、指さしの訓練をすることは可能ですが、この場合は、明らかに指さしと報酬との関連を学習しているだけであり、指さしを他の個体に情報を伝える手段とは理解していないと考えます。たとえば、コールとトマセロは、保護施設で育ったオランウータンに食べ物の隠し場所を指さすよう訓練をし、食べ物のありかを知らないヒトの飼育員がその指さしを元に食べ物を探し出してオランウータンに与えました。しかし、食べ物を取り出すために必要な道具を一番目の実験者が隠した場合は、オランウータンは道具の隠し場所を次に登場する実験者に確実に指さして示すことはなかったそうです。さらに、保護施設で育った大型類人猿は、ヒトが示す指さしの意味を理解していないと考えられるようです。たとえば、ポヴィネリたちの研究では、保護施設で育ったチンパンジーが、報酬の場所を表象するコミュニケーション装置として指さしのしぐさをするのではなく、欲しい報酬にヒトの手を近づけることが示されたのです。もちろん.身振りの参照的な性質に関する理解を示しているのは、前者のみだったそうです。

それとは対照的に、文化化したオランウータンやチンパンジーは、見ていない物体に他者の注意を向けさせる手段として、参照的指さしを理解していることが、統制された研究によって示されているそうです。たとえば、先に簡単に触れたコールとトマセロの指さし実験で、保護施設で育ったオランウータンは、隠された道具に人の注意を向けさせるのに指さしを使えませんでしたが、文化化したオランウータンのチャンテは、試験2日目にはほば満点の成績を示したそうです。文化化したオランウータンと保護施設で育ったオランウータンを対象とした2番目の研究では、実験者がいくつかある容器のうち、1つに食べ物を隠し、その後、そのターゲット容器を指さしてから部屋を去ります。そして、第2の実験者が部屋に入ってきて容器の前に立つと、文化化したオランウータンのみが、ターゲト容器をチャンスレベルよりも有意に多く指さしたそうです。これと同様の成績を文化化したチンパンジーが示すことが、関連研究で報告されているそうです。

確かに、大型類人猿が心の理論をもつかどうかという問題は、単純ではないとビョークランドは言います。ヒトと大型類人猿は系統発生の上で関係性が深いことから、私たちの共通祖先が心の理論の基礎となる能力をもっていたとしても不思議ではありませんが、すべての種は、それぞれの生態学的ニッチに適合した認知を進化させてきました。もし大型類人猿が心の理論をもたないのであれば、なぜヒトにはこうした能力が進化したのだろうか?とビョークランドは疑問を投げかけます。これは文化化した大型類人猿を対象とした研究によって明らかになるだろうと言います。脳が大きく、複雑な社会的な群れで生活をする、未成熟期が長い動物が、種に非特異的な環境におかれると、種に非特異的な認知や行動が発達すると考えられています。その新奇な環境が安定的に続けば、そして新奇性が失われれば、認知や行動のパターンも安定し、新しい表現型が生じ、進化的変化が生じる準備となると言います。おそらく、オランウータンやチンパンジーは、認知的な柔軟性が高いため、ヒトのような環境で育てられると、心の理論に関連のある重要な認知能力がヒトに近いかたちで発達するのだろうと言います。このような認知能力が存在することや、それが種に非特異的な環境で発現することは、社会的学習に対する前適応を反映していると考えられるというのです。現代の大型類人猿とヒトの共通祖先も、養育環境に応じて変化するこのような高い認知的可塑性をもっていたとすれば、ホモ・サピエンスに至った認知的進化を生じさせたメカニズムのひとつが見えてくるというのです。

文化化した類人猿

野生の大型類人猿は、近距離での社会的相互作用で、同種の仲間と身振りのコミュニケーションをします。しかし、野生の類人猿が、遠くの物体を指さすような身振りをするかどうかについては、はっきりとした観察結果が得られていないようです。さらに、野生の類人猿間で見られる身振りのコミュニケーションは、そのほとんどが、観察(社会的)学習によるものではなく、個体発生上の儀式化のメカニズムに起因するものであると言います。個体発生上の儀式化では、コミュニケーションの合図が、 2者間で相互作用を繰り返すなかで学習されます。たとえば、チンパンジーAが、チンパンジーBの頭をたたいて、遊びの闘いをけしかけるとします。チンパンジーBは、 Aがたたく前に必ず手を振りかざすことに気づき、最終的にはAが手を振りかざすだけで、Bとの遊びが始まるようになるそうです。

別の例としては、乳児が母親から授乳を受けたいとき、母親の手を除けて母親の乳首に頭を近づけるかもしれないというのです。こうしたエピソードを繰り返す中で、母親は乳児の意図を予測し、乳児が最初に触れた時点で授乳の準備をするようになるだろうと考えられます。その結果、乳児は行動を簡略化することを覚え、単純な接触や身振りだけで自分の意図を伝えられるようになるというのです。このような事例は、2者が互いの行動を形成しているため、複雑な身振りのコミュニケーションのように見えますが、比較的単純な連合学習のメカニズムで説明できると言います。

野生の類人猿や保護施設で育った類人猿に関する観察結果とは対照的に、文化化した大型類人猿は、どの種でも、ヒトとの相互作用で指さしを用いることが観察されているそうです。しかし、これらの研究の多くは、厳密な統制が欠けていることに注意が必要であるとも言っています。ヒトに近い環境で類人猿を養育する場合には、遠くにある物体を指し示す行為が含まれ、類人猿がヒトが指さす方向に目を向けたり、あるいは、ヒトに物体を指し示すと、社会的強化が与えられます。こうした共有-共同注意の日常的やりとりは、ヒトの乳児-大人間の相互作用ではよく見られ、子どもが参照的指さしを理解する上で不可欠な経験といえると言います。

文化化した類人猿の研究の中心テーマは、参照的指さしの基盤にあるメカニズムに関するものであると言います。類人猿が遠くにある物体を指さすのは、そうすれば報酬、社会的または有形の報酬、たとえばおもちややごほうびの餌などがもらえるからだろうかとビョークランドは考えます。あるいは、指さしをすれば、他者の視点では見ていない、あるいは知らない物体に、他者の注意を向けさせられることを理解しているのだろうかと言うのです。後者の解釈は、類人猿が心の理論の基礎を有するという考えと一致するものと、ビョークランドは考えているようです。類人猿は、自身が有する知識は他の個体のものとは異なること、そして、指さしによって他者に注意を向けさせられることを理解しているのだろうと疑問を持ちます。

指差しについての研究も、以前のブログで随分と長く紹介しました。そこでも、保護施設で育った類人猿にも、指さしの訓練をすることは可能であることを紹介しましたが、この場合は、明らかに指さしと報酬との関連を学習しているだけであり、指さしを他の個体に情報を伝える手段とは理解していないと考えます。

他者の視線を追う

チンパンジーは他者の視線を追っているし、欺きについての多くの観察には、「見ることは知ること」の理解が必要と思われるとビョークランドは言います。これは、大切なことです。子どもを「見守る」ために「見る」ということは、子どもの姿や発達、子ども同士の関係性を知ることが大切なのです。この「見ることは知ること」という言葉に、私たちヒトにおいても当てはまるでしょう。

しかし、ポヴィネリらの研究の妥当性をビョークランドらは疑っているわけではないと言います。ポヴィネリのチンパンジーは、目から知識が得られることを明らかに理解していませんでした。ヘアたちの結果とポヴィネリたちの結果に認められるこのような矛盾から、 EDDモジュールは、提唱者であるバロン=コーエンが言うよりも、複雑で領域固有性が高いモジュールであることが、少なくともチンパンジーに関しては示唆されます。ポヴィネリの研究とヘアの研究で認められた、この差の原因となっている条件を正確に特定することはできませんが、ヘアたちの研究では条件、同種の仲間との食べ物をめぐる竸争というような、より自然的であったことが、大きな要因であると考えられると言います。生後間もなくからヒトと相互作用している研究室のチンパンジーが、同種の仲間については見ることの源が目であることを理解しながら、ヒトの飼育員についてその推論ができなかったのは、少し意外だとビョークランドは言っています。この結果からは、見ることに関する理解は、単に経験と結びついているだけではなく、いくつかの重要な文脈、たとえば、食べ物の獲得や食べ物をめぐる竸争や、おそらく、同種であることの認識と関連があることが示唆されます。

大型類人猿が心の理論をもつことをめぐる近年の議論で中心的なテーマとなっているのが、文化化の問題だそうです。コールとトマセロは、大型類人猿の文化化を、「意味のある相互作用において、ヒトやヒトが作った物と、ほぼ毎日接触すること」を含む養育環境と定義しています。こうした環境が、種に特異的な個体発生の軌道を変更することとなることがわかっているようです。類人猿がこうした環境にさらされることによって、母親に育てられた類人猿が示すよりも、ヒトの子どもに近い認知能力を示すようになる証拠が得られているといいます。

たとえば、言語訓練に成功した類人猿は、その全例が、ヒトに近い養育環境を長期間経験しています。たとえば、チンパンジーのワショー 、ボノボのカンジ、オランウータンのチャンテ、ゴリラのココという存在があるようです。彼らの例から、即時的模倣や延滞模倣は、ヒトとの接触が多いチンパンジーやオランウータンにしか認められないことがわかっているそうです。

また、研究所で育った類人猿や母親に育てられた類人猿が、統制された条件下で意図的なコミュニケーションや意図の理解を示したという観察例はこれまで一例もないそうですが、暫定的ながら文化化した類人猿がそうした能力を示したという証拠が存在するそうです。そこで、ビョークランドは、この意図的なコミュニケーションや意図の理解について詳しく考察しようとしています。

目の重要な役割

研究室での研究から、チンパンジーは目が知識の源であることを、本当の意味では理解していないことが示唆されているそうです。私は、「見守る」という行為は、進化上どのような意味を持つのかと関心がありますが、あらためて、「見る」という行為をチンパンジーで考察していることを初めて知りました。ポヴィネリとエディの研究では、保護施設で育ったチンパンジーに、ヒトに向かって手を伸ばすと、ごほうびの餌がもらえることを教え、チンパンジーと顔なじみの飼育員2名がチンパンジーの前に立ち、うち1名はチンパンジーが手を伸ばすしぐさが見え、食べ物を与えることができ 、もう1名にはチンパンジーが見えないようにしました。すると、後者の飼育員に手を伸ばすしぐさを示しても、見えないので、ほうびはもらえません。チンパンジーは、自分に背を向けている(すなわち、チンパンジーと反対側の壁に向かっている)人物に、手を伸ばす反応を示すことはほとんどなかったそうです。この場合は、チンパンジーは見ることのできる人(すなわち、チンパンジーの方を向いている人)に対して、手を伸ばすしぐさを一貫して示したというのです。

しかし、チンパンジーは、人物が頭にバケツを被っている、目隠をしている、あるいは目を閉じている場合には、見ることのできる人との区別があまりできなかったそうです。多くのチンパンジーにおいて、これらの条件の課題成績はチャンスレベルであり、見ることのできない人とできる人のどちらにもほば同頻度の反応を示したそうです。こうした結果から、チンパンジーは、人が背中を向けている場合はこちらが見えないということは理解しているものの(これは多くの場合正しいが、正しくない場合もある) 、目前の環境に関する有益な知識を獲得するためには、目が重要な役割を担っていることの理解が欠けていると考えられると言います。

しかし、より自然的な状態での実験で、ヒトの飼育員ではなく同種の仲間が見ることができるときとできないときで評価すると、状況によっては、チンパンジーが「視線を向けることは見ることという知識を確かに示すことが示唆されているそうです。ヘア、コール、トマセロたちは、地位の高いチンパンジーと低いチンパンジーを1つにつながった檻に入れ、檻の中のさまざまな場所に食べ物を置く一連の実験を行いました。上位、下位のチンパンジー両方から見える場所に食べ物を置いた場合には、上位のチンパンジーがほほ毎回食べ物を手に入れたそうです。しかし、食べ物が自身からは見えるが、上位のチンパンジーには見えない場所に置かれた場合には、下位のチンパンジーが食べ物の獲得に成功しました。ヘアたちはこの実験を変形させていくつか実施し、別の解釈の可能性(たとえば、下位のチンパンジーは上位のチンパンジーの行動を監視しており、上位のチンパンジーが食べ物がある方向へ動かなかったときにだけ、食べ物を取りに行った)を棄却したのです。そして、少なくともこの条件下では、チンパンジーは、他のチンパンジーに何が見えて何が見えないかがわかっており、その知識をもとに判断をしていると結論しました。

ヘアたちの研究は、野生のチンパンジーあるいは捕獲されたチンパンジーの群れでの社会生活に関する観察結果や、私たちの直観に合致するものであると言います。

見ること

ビョークランドは、欺きは心の理論と一貫性のあるものですが、一方で、このような欺きには、他の動物の心を読んでいるのではなく、単に、特定の状況で成功しなかった行動を避けることが、最善の策だっただけと考えています。その証拠に、より統制された研究室環境では、類人猿が心の理論をもっことを示すはっきりとした証拠はほとんど得られていないと言います。たとえば、非言語的な誤信念課題として、コールとトマセロは、ごほうびの餌を障害物の後ろ(類人猿からは見えないが、ヒトの「伝達者」からは見える場所)に隠す課題を行っているそうです。障害物が取り除かれてから、伝達者は正しい容器に印をつけて、類人猿に食べ物の場所を教えたそうです。

その後、餌を別の容器へ移すのを追跡できるようになったら、間違った容器(食べ物が隠されていないことを類人猿が知っている容器)に伝達者が印をつけた場合、その印を無視するように学習させたそうです。類人猿がこれらの課題に成功してから、誤信念課題を実施しました。伝達者は、ごほうびが容器の1つに隠されるところを見た後に、部屋を離れます。その後、別の人物が、類人猿が見ているところでごほうびの場所を入れ替えます。それから伝達者は部屋に戻り、最初にごほうびが隠されるのを見た容器に印をつけます。類人猿が5歳時と同等の心の理論を有するならば、伝達者がごほうびの場所に関して誤った信念をもっていることがわかるだろうと言うのです。類人猿が餌を手に入れるためには、伝達者が餌の場所について異なる(誤った)知識をもっていることを理解し、伝達者が印をつけていない容器を選ばなくてはなりません。

この誤信念課題は難しく、4歳児はほとんどが失敗したそうですが、 5歳児は成功したそうです。しかし、オランウータン2頭、チンパンジー5頭はいずれも課題に成功しなかったそうです。この課題の手続きが複雑であったために、類人猿は求められていることを完全に理解するのが難しかったとも考えらますが、コールとトマセロはこれとは別の解釈をしており、この結果は、大型類人猿にはヒトの5歳児と同等の心の理論はなく、複雑な社会的関係性の問題を、類人猿は連合学習によって解決している、という解釈と一致すると主張しています。

また、霊長類について、心の理論の難易度が低いと思われる側面の評価を行った研究もあるそうです。その一例が、視覚的注意に関する大型類人猿の知識の研究です。たとえば、類人猿やサルが同種の仲間の視線を正確に追うことに関しては、実験による確かな証拠があり、このことから、類人猿やサルが、他の動物が注視する方向には、その動物が見ているものがあることを理解していると示唆されます。しかし、このような知識は、他の動物が注視していることと、何らかの重要なおもしろい結果との間に関連性があることを学習したことによって得られたとも考えられます。つまり、バロン=コーエンの理論のEDDモジュールに対応する「視線を向ける」ことは「見る」ことであるということを、その動物が理解しているとは必ずしもいえないのではないかと言うのです。

欺き

いろいろな研究でチンパンジーの行動を参考にすることが多いのですが、確かに人とチンパンジーは違うところが多いかもしれませんが、進化の過程を知ることによって、ヒトの行動を考察するうえでは参考になりますね。

“欺き”は重要な社会的技能ですが、大型類人猿が自分の利益のために他者を欺くことが、多くの観察で確認されているそうです。その例として、昨日の例のほか、まだまだあるようです。プレマックは、チンパンジーが餌のごほうびをくれる訓練士とごほうびをくれない訓練士をすぐに区別できるようになり、敵対的な訓練士にはあまり反応を示さなかったそうです。しかも、ある事例では訓練士を積極的にだました報告もあるそうですが、好意的な訓練士にはそのような態度は示さなかったそうです。

メンツェルの研究では、チンパンジーのベルに食物の隠し場所を教えたところ、ベルはその後、数頭のチンパンジーをその場所へ連れて行ったそうですが、地位の高いオスのロックは蹴る、咬むなどして食物を奪ってしまうので、ロックがいるときには群れをすぐには食べ物の場所へ導かなかったそうです。しかも、ロックがいるときには、ロックが立ち去るのを待ってから食べ物を取り出したそうです。また何度かは、群れを食べ物とは反対方向に連れて行き、ロックが探している間にベルは引き返して食べ物を取り出すこともあったそうです。チンパンジーでもそんなことをするのですね。というより、いくら地位が強い相手でも、みんなを守る方を優先させるのですね。これは、私たちも学ぶべきですね。もしかしたら、そのような行動は、人類が生存してくるために必要な行為であり、私たちが遺伝子として持ってきているものを、いつからか権力にしたがうようになり、優先順位を間違ってしまうことが多くなってきてしまったのかもしれません。このことは、ちょうど今、NHKで放映されている大河ドラマの「西郷どん」でもテーマになっています。

さらに、別の試行でも、こんな行動が報告されています。は、実験者が余った食べ物を2つ目の場所に隠したところ、ベルはロックを2つ目の残り物の隠し場所へ連れて行き、自身は食べ物がたくさん隠してある場所に向かったというのです。同じような観察結果が、若いチンパンジーのフィガンに関するグドールの報告にあり、フィガンは地位の高いチンパンジーがその場所から離れるまで、バナナを採ったり、見たりしなかったそうです。

大型類人猿に関するこうした欺きの証拠は、大型類人猿が複雑な社会的知能をもつことを示すものであり、また、このような知能の進化的ルーツは深く、現代の類人猿とヒトの共通祖先まで、あるいはそれ以前にまでさかのほる可能性があることが示唆されています。ここでもわかるのは、欺きは、他者を陥れるための能力ではなく、多くの他を守るために使われてきたのですね。ですから、いまに至るまで受け継がれてきたのでしょう。

しかし、ビョークランドは、少し違う考え方をしているようです。彼は、欺きは心の理論と一貫性のあるものであるが、一方で、このような欺きには、必ずしも他の動物が何を考えているかを知っている必要はないと言います。むしろ、類人猿は特定の状況での特定の反応を学習した可能性もあると考えます。たとえば、ロックが近くにいるときに食べ物の隠し場所に直行したら、食べ物を取られるということを学習した結果であるかもしれないというのです。このような場合は、他の動物の心を読んでいるのではなく、単に、特定の状況で成功しなかった行動を避けることが、最善の策だっただけと考えられると言っています。