親が子どもに与える影響

心理学の研究結果はその多くがはかないものであるとハリスは言います。それは、ある研究で興味深い影響が見つかったとしても、その多くは次の研究では見つからないことが多いからです。しかし、行動遺伝学の研究結果は統計学者の言うところの「確固たるもの」だと言います。どの研究でも同じ結果が出ます。成人後のきょうだい間で見られる類似性は、そのほとんどすべてが共有する遺伝子に由来するものです。二人か幼少時に共有した環境によって生ずる類似性は皆無に等しいと言います。

同じ家庭で育てられたからといって、きょうだい同士が似るとは限らないのです。もし「毒親」が存在するとしても、子どもたち全員に対して毒親になるわけではないと言うのです。たとえその子どもが一卵性双生児であっても、子どもたちはその毒性に対してそれぞれ違った反応を示すだろうと言います。「毒親」の影響が、子どもの中でもたった一人だけに認められ、そしてその一人が相談所を訪れることになるのですが、他の子どもたちにはまったく問題が見られないことは何を意味するのだろうかとハリスは疑問を投げかけています。

多くの社会化研究者たちは行動遺伝学者が未解決のまま放置している結果を見て見ぬふりをしてきたとハリスは指摘します。それに注目した数少ない研究者の中でももっとも卓越した存在であったのが、以前のブログでも紹介した、スタンフォード大学教授のエレノア・マコビーです。彼女は、誕生当初の社会化研究が失敗であったことを長い年月の後に認めたその本人です。

1983年、マコビーは同僚のジョン・マーティンとともに、社会化研究に関する透徹した長い論評を発表しました。その中で彼らは社会化研究で活用される研究方法、結果、さらには仮説を考察し、親が子どもに与える影響、そして子どもが親に与える影響についても議論を展開しました。字がぎっしり詰まった80ページにも及ぶ論評の後、彼らはこの分野に関していだいた印象を数段落にまとめました。彼らは親の行動と子どもの特徴の間で見られた相関関係は強いものでもなければ、常時見られるものでもないと指摘し、サンプル数が大きかったことを踏まえ、認められた相関関係が偶然によるものではないかとも疑ったのです。さらに、同じ家庭で育てられた養子たちは性格的にはまったく異なり、さらに生物学的なきょうだいですらその相関関係は低いというような行動遺伝学で得られた不可解な結果に言及し、読者の関心を呼んだそうです。

社会化研究において見られた傾向がゆるやかであったこと、さらに行動遺伝学の研究から得られた不可思議な結果をふまえ、マコビーとマーティンは次のように結論づけたのです。

「これらの結果は、親が子どもに与える物質的な環境も、家族内の子ども全員にとって本質的に同じである親の特徴、たとえば教育姿勢や夫婦関係なども、わずかな影響しか及ぼさないことを強く示唆している。実際何を示唆しているのかと言えば、親の態度は何も影響を及ぼさないこと、もしくは親のあり方の中で何が効果的に作用するかは同じ家族内でも子どもによって大きく異なるということである。」

親はなんら影響を及ぼさないのか、それとも親は子ども一人一人に対して異なる影響を及ぼすのか、マコビーとマーティンが世間に与えた選択肢はこの二つだけだったのです。

同じ家庭、同じ親

親によって子どもへの態度や家庭のあり方に対する考え方が異なります。ある家庭ではユーモアが徳とされ、笑いがその報酬とみなされます。おもしろいことを言うのであれば子どもたちも会話に割りこみ、少々生意気な口を利くことも許されます。ハリスは、まさに自分はそのような家庭で育ったと言っています。彼女には、高校時代の友人にレノアという子がいたそうですが、ハリスの家は知的とはほど遠かったのに比べて、彼女の家庭は知的な雰囲気だったそうです。ある晩、彼女がハリスの家でタ食を食べることになったそうです。食後に彼女は、「この家の子どもだったらよかったのにな」と言ったそうです。ハリスの家の夕食はにぎやかで、皆が一度にしゃべり、冗談や笑いが飛び交っていました。一方エレノアの親は厳格で礼儀正しい人でした。彼女いわく、彼女の家庭の夕食はまったくつまらなかったそうです。ハリスの家庭で育てられた人はレノアの家庭で育てられた人よりも笑い性の得点が高くなるのではないでしょうか。二人ともハリスの家庭で育てられた場合と、一人がハリスの家庭でもう一人が、レノアの家庭で育てられた場合では、二人ともがハリスの家庭で育てられた場合の方が二人の笑い性のレベルが似るのではないでしょうか。

もし子どもが「どちらにもなりうる」、つまり子どもたちは親と同じようになるかもしれないし、また同じようにすんなりと逆の方向に向かうかもしれないと考えているのであれば、それはすなわち、親は子どもに予測しうる影響を及ぼさないと考えていることになります。その観点を多少柔軟にとらえて、ほとんどの子どもは親の影響を受けますが、中には反抗して逆の方向に進む子もいると考えるのであれば、子どもの多くは反抗しないことから、きょうだいは似るものだという全体的な傾向が見いだせるはずです。本来子どもとは一人一人異なるものであり、きょうだいが親の態度や行動にまったく同じように反応するとは思わないと言います。とはいえ、概して冗談や笑いが奨励される家庭で育てられた人間は、「何がおもしろいの?」的な家庭で育てられた人よりも笑い性の程度は高くなるはずです。

ところが、行動遺伝学において明らかになった結果はそれとは異なっていたそうです。行動遺伝学者たちがあらゆる性格特性について調べたところ、すべてにおいてほぼ同じ結果が出たそうです。データを見るかぎり、同じ家庭で、同じ親によって育てられても、そのことは成人後のきょうだいの性格になんら影響を及ぼしてはいなかったそうです。影響を及ぼしているとしてもごくわずかだったそうです。一緒に育てられたきょうだいは性格的に似てはいましたが、その類似性は遺伝的に規定される程度に過ぎなかったそうです。彼らの共有する遺伝子だけで、彼らの類似性をすべて説明できてしまうのです。説明しきれずに、共通する環境にまで説明を求めざるを得ない状況にはいたらなかったのです。いくつかの心理的な特徴、特に知性は、子ども時代に家庭環境の影響を一時的に受けていることが実証されているそうです。養子縁組によるきょうだいの思春期前の値にはわずかだそうですが相関関係が認められたそうです。ところが、思春期後半ばともなると、遣伝的に規定されているもの以外の類似性はすべて消え去ってしまっていたそうです。IQも性格と同じように、養子縁組によって同じ家庭で育てられた養子間の成人後の相関関係はゼロに近かったそうです。

予想外の結果

もし笑い性がすべて遺伝によって規定されるものであれば、一卵性双生児は笑い性においても酷似するはずであり、彼らが一緒に育てられようと別々だろうと差はないはずです。もし笑い性がすべて環境によって規定されるものであれば、一卵性双生児であっても二卵性双生児であっても、養子縁組によるきょうだいであっても、一緒に育てられていれば皆笑い性の程度は同じになり、別々に育てられていればその程度はまったく異なることになります。最後に、もし笑い性が遺伝と環境の相互作用によるものであれば、これが本命であることは間違いありませんが、共通する遺伝子をもつ二人は笑い性の程度がどことなく似ていて、同じ家庭で育てられた二人もどことなく似ていますが、同じ遺伝子をもちかつ同じ環境で育てられた二人こそその程度が最も似ていることになるはずです。

この推論は、論理的に聞こえるかもしれませんが、はたしてそうでしょうかとハリスは問いかけています。もう一度考えなおしてもらいたいと言うのです。もし笑い性が今まで研究されてきた他の特性と同じパターンにはまるのであれば、私たちが辿り着くべき答えは前述のいずれでもないことになると言います。

予想外の結果が出だしたのは1970年代半ば頃からだそうです。1970年代後半には行動遺伝学が礎としてきた大前提が間違っているのではないかと疑問視されるほど多くのデータが揃い始めてきました。そのデータが示しているのは、遺伝子の作用に関する前提が疑わしいのではありません。それはまったく問題ありませんでした。遺伝子を共有する人々は共有しない人々よりも性格的に似ています。正しくないのではないかと疑問視されたのは、共有する環境の影響に関する前提でした。同し家庭で育てられた二人は、別々の家庭で育てられた二人よりも際立って似ているわけではないという結果が次から次へと表出したのでした。しかもそれらの結果は、すべては遺伝に由来するという前提にも当てはまらなかったのです。遺伝的につながりのある者同士でも十分に似ているとは言えず、相関関係が低すぎたのです。遺伝子とは別の何かが被験者の性格に影響を及ぼしているのですが、それは彼らの育つ家庭ではないようだったのです。仮にそれが家庭環境だとすると、その影響は何とも不可解な形で及ぼされていることになると言います。きょうだいが似るように影響しているのではなく、似ない方向に影響していることになるのだとハリスは言います。

多くに人は、なぜその結果が予想外なのかと不思議に思います。同じ家庭で育てられたからといって、どうして二人が似なければいけないのか。親が内気で表情に乏しければ子どももそうなるのか、それともその反対になるのか、どちらも考えられるのではないかと思います。陰気な親と性格がまったく対照的な、一人が親のように陰気で、もう一人が明るく愉快であるというような二人の子どもが家族として暮らしていてもおかしくないではないかとハリスは言います。

問題なのは、行動遺伝学者を含む子どもの発達研究に携わる人々が、親の態度、性格、さらには育児習慣が子どもたちにどのような影響を及ぼすのか、それを大方予想できると考えていることだと言います。疫学名は特定の食習慣やライフスタイルが個人の健康や寿命にどのような影響を及ぼすかを予測しようとします。発達心理学者は親の行動や育児スタイルが子どもの心の健康や性格にどのような影響を及ぼすのかを予測しようとします。

ミネソタ大学の研究

ミネソタ大学では行動遺伝学者のグループが「別々に育てられた双子の研究」というプロジェクトをつづけているそうです。別々に育てられて成人した双子がいるとわかると、双子には費用全額支給のミネアポリス旅行がプレゼントされ、一週間を通してさまざまな心理テストを受けてもらうそうです。もし二等賞たるものがあるとすれば、二週間テスト攻めに遭うのかと思ってしまったりもしますが、実際のところ、プロジェクト・チームの申し出を断わる双子はほとんどいないそうです。同じ胎内で育った相棒とおそらく臍帯が切断されて以来はじめて会えるチャンスを棒に振る者はいないからだろうと推測できます。

テストを受けるためにミネアポリスに足を運んだ双子の中にお笑い姉妹として知られる二人がいたそうです。この二人の女性は別々の家庭で育てられ、しかも二人とも養父母を内気で表情に乏しい人々であると評価しているにもかかわらず、二人ともびっくりするくらいの笑い上戸だったそうです。実際、お互いが再会するまでは自分以上に笑う人には出会ったことはなかったと言っていたそうです。

このお笑い姉妹を観察していると、笑いは遺伝すると早合点しそうだったと言います。しかしこれは一例にすぎず、データでなく逸話として紹介しているだけであるとハリスは言います。この二人の育った家庭環境も実際ずいぶんと似ています。この双子が成人後もあれだけ笑えるのは、二人とも子どもの頃にあまり笑う機会がなかったからかもしれません。本当のところ、この双子が二人とも笑い上戸なのはまったく同じ遺伝子をもつからなのか、それともこうした結果を誘発した共通の経験があったからなのか、それを断定することはできないのです。二人が同一の遺伝子をもっていることから、お互いに異なる点は遺伝によるものではなく環境によるものであることは間違いありませんが、お互いの共通点は遺伝によるものであるのか、環境によるものであるのか、もしくは双方の相互作用によるものであるのかとも考えられます。

このお笑い姉妹に関しては調べることはできませんが、彼女たちの特性については調べることができます。行動遺伝学者に、血がつながっているかどうか、一緒に育てられたかどうかということには関係なく、数十組の双子やきょうだいを提供すれば、よく笑う傾向を規定しているのが遺伝なのか環境なのか、もしくは両方の相互作用なのかを調べることができます。それは、行動遺伝学での方法論は、養子は養家の親に似るのか、それとも生みの親に似るのか、という昔からの問いに変化を加えたものを基本としているからだそうです。この問いの中で「親」とあるところを「きようだい」と置換することで、年の離れた人間同士を比較する複雑さを排除することができ、しかも元の意図を活かすことができます。この方法は、二つの前提の上に成り立っています。一つは、同じ遺伝子をもつ者同士はもたないもの同士よりも似るということです。もう一つは、子ども時代に同じ環境で育った者同士はそうではない者同士よりも似るということです。

一卵性双生児の共通点

幼少時に離ればなれになり、別々の家庭で育てられた一卵性双生児には不思議な共通点があるという話題はマスコミでも何度か取り上げられ、人々の想像力をかき立てました。ハリスは、ここで、二人のジムの話を紹介しています。二人とも爪を咬む癖があり、日曜大工が好きで、同じ型のシボレー車に乗り、タバコはセーラム、飲むのはミラーライト。さらに二人は息子をそれそれジェイムズ・アラン(Alan)とジェイムズ・アラン(Allan)と名づけていました。地元の新聞には、同じ顔をして、ともに消防ヘルメットをかぶった二人の男性が写真入りで紹介されていました。二人はボランティアの消防団員になったことで再会を果たした双子でした。またジャック・ユーフェとオスカー・シュテールの話です。一人はトリニダードでユダヤ教徒の父親に育てられ、他方はドイツでカトリック信者であった祖母に育てられていました。再会したとき、二人はともに四角いワイヤーフレームの眼鏡をかけ、短い口ひげをはやし、エボレットのついたツー・ポケット・シャツを着ていました。二人とも雑誌を後ろから前へ読み、トイレは使用前に流すという習慣がありました。おまけに二人ともエレベータ内でくしやみをして周囲を驚かせるのが好きでした。また別の双子、エイミーとベスの話もあります。二人は別々の家庭に引き取られ、エイミーは親から冷たくされ、ベスは溺愛されましたが、その二人がともにまれな認知障害と人格障害の併発に悩まされていました。

これらの別々に育てられた一卵性双生児の実話は、遺伝子の影響力を実証するもので、たとえ育った環境がかけ離れていても、遺伝子によって性格上の特徴に驚くほどの類似性が生ずる可能性があることを物語っています。現在解明されている遣伝のメカニズムや脳神経生理学では説明することのできない方法で遺伝子は人間の行動を巧みに、そして複雑に支配していることを示唆しているようです。

ところがその逆はめったに取りざたされません。つまり、同じ家庭で育てられた一卵性双生児でも期待するほどそっくりにはならないという点です。別々に育てられた双子があれだけの類似性を示すことを踏まえると、一緒に育てられた双子なら印刷された2枚のクリスマス・カードのように、うりふたつになるはずだと期待します。ところが実際には、一緒に育てられた双子も幼少時に引き離され別々の家庭で育てられた双子も、たいして変わりません。共通する細かな癖は多くても、お互いに異なる点も多いのです。

似ている度合でいえば、一緒に育てられた双子は、別々に育てられた双子と大差ないのです。まったく同じ遺伝子をもち、しかも同じ家庭で、同じ時期に、同じ親によって育てられた二人であるのにもかかわらす、性格は同じにはならないのです。一方が人なつっこければ、他方はさらにその傾向が強くなります。一方が転ばぬ先の杖を心がければ、他方は出歩くことすらないかもしれないのです。一方が相手の意見に賛成できなくても落ち着いて対処できるのなら、他方はくそくらえと暴言を吐きます。こうした二人でも一卵性双生児です。外見はあまりにもそっくりで見分けもつきませんが、性格テストを受けるとなると彼らは別々の回答に印をつけます。同じ家庭で育てられた一卵性双生児の性格テストに基づいてさまざまな方法で推断された性格特性の相関係数は、わすか0.50程度だったそうです。

環境の作用

行動遺伝学は遺伝子の作用と環境の作用とを識別することを目的としています。研究者は特徴を一つずつ取り上げ、その特徴内のさまざまなばらつき、すなわち被験者間の違いを遺伝子によるものと環境によるものに大別します。その結果はというと、研究対象となった大部分の心理的特徴に関しては、そのばらつきの半分は被験者の遺伝子によるもので、残り半分が環境によるものでした。しかし遺伝によるものとされた半数の中には間接遺伝子作用、すなわち遺伝子作用による環境作用が含まれています。それはすなわち、さまざまなばらつきの他方半分は直接、間接を問わず遺伝子の作用ではない純粋に環境による作用、ということになるのだとハリスは言います。。

ばらつきの半分であっても、社会化研究の材料としては十分だと言います。しかし社会化研究者の役目はたんに環境全体が子どもたちに影響を与えるということを実証することだけではありません。環境の中でも、とりわけ親の育児態度という一面が子どもたちに影響を与えていることを証明することなのです。ハリスは、彼らはまだ職務を全うしてはいないようだと考えています。確かに才気ある親の子どもは才気ある子どもになりやすいかもしれませんが、それは遺伝によるものとも考えられます。確かに手厚く育てられた子どもは粗暴な扱いを受けた子どもより心やさしい子どもになるかもしれませんが、それは子から親への影響かもしれないのです。

社会化研究者たちは自分たちの研究材料の中に、子どもたちが生みの親から受け継いだ遺伝的な類似があるとは考えようとしないとハリスは言います。しかし、子どもも親に影響を及ぼす、すなわちこの人間関係は相互作用型であることは徐々に認められるようになってきています。今では親の行動と子どもの行動の相関関係に関する論文のほとんどすべてが、論の終わり近くにではありますが、これらの囚果関係はあいまいであり、報告されている相関関係は親が子に及ぼした影響ではなく、もしくはそれに加えて、子が親に及ぼした影響によるものであるかもしれないとの免責文を記載するようになっているそうです。もっともこの免責文はまるでタバコの箱に記載されている警告文と同じで、記載は義務づけられていますが、それを真に受ける人は誰もいないとハリスは言うのです。

彼女の印象では、社会化研究者たちは子どもから親への影響は存在しますが、そのような影響は他人のデータ上の話で自分の研究には無関係だと信じているようだと評しています。彼らは自分たちのあいまいな研究結果を、かつて一度もその真実性が疑われたことすらない子育て神話に基づいて解釈していると言うのです。社会化研究は、親が子に与えた環境は子どもの行動様式と性格に一生影響を及ぼしつづけるという仮説を立証することを目的としていたのではありません。彼らにとって、その仮説は立証するようなものではなく、既定事実だったのです。

ハリスは、自分の役目は、子育て神話を問いなおすことだと言っています。今までブログで紹介した彼女の考え方や、指摘したことは、子育て神話を支えてきた根拠自体の間違いをいくつか示しました。私たちが当たり前だと思っていること、他人の言うことをそのまま信じてしまっていることが、実は刷り込みによるものであったり、ある仮設に惑わされていたことに気が付きます。次に、彼女は、この子育て神話への反論材料について、様々な観点から紹介しています。

遺伝子作用

子どもの臆病さは実際には遺伝子の影響を強く受けているため、もしその子が双子で地球の裏側にそのかたわれがいたとすれば、その子もまた臆病な子どもになっていることでしょう。育ての親が違っても母親たちはおそらくもどかしさも感じながらかわいそうだなと思っているに違いありません。父親たちはかわいそうなどとは思わず、むしろもどかしさを強く感じていることでしょう。家庭の外では、その子も遠くのかたわれも、仲間にからかわれたり、いじめられたりとおそらく似た境遇にいることでしょう。臆病な子どもにとって、休み時間は決して楽しい時問ではないのです。

子どもの経験というものが臆病さや端麗な容姿といった生得的な特徴によるはたらきであるとすれば、一卵性双生児は二卵性双生児よりも似た経験をすることになります。社会化研究者たちはこの点においては正しいかもしれません。困ったことに彼らに求められているのは、一卵性双生児がそっくりである理由を、それが同じ遺伝子によるものなのか、それとも似た経験によるものなのかを説明することではないのです。求められているのは、彼らがなぜそれ以上にうりふたつにはならないのかを説明することなのです。同じ家庭で育った一卵性双生児ですら、性格となるとうりふたつにはならないのだからです。

遺伝子の中には体や脳が形成されるときに命令を下すものがあり、顔の造作一つ一つや脳の構造やはたらきを決定しています。身体的特徴こそ、遺伝子の下した命令が実行されたことを示すわかりやすい例なのです。ハリスは、それを直接遺伝子作用と呼んでいます。臆病さなども直接遺伝子作用だと考えています。赤ちゃんの中には過敏な神経をもって生まれる子がいるのです。生まれつき美しいというのも直接遺伝子作用だと言うのです。

こうした直接遺伝子作用はそれ自体がある作用をもたらします。ハリスは、それを間接遺伝子作用と呼んでいます。つまり遣伝子作用による作用です。臆病な子どもは母親に元気づけられ、姉にバカにされ、仲間集団からはからかわれます。顔だちの愛くるしい子は親に溺愛され、大勢の友だちに慕われます。これらは間接遺伝子作用だと言うのです。一卵性双生児のそれそれが同じような人生を歩むことになるのは、この間接遺伝子作用によるものだとハリスは考えています。

行動遺伝学者たちの双子研究のとらえ方に異議を唱える社会化研究者たちは、行動遺伝学の方法論では環境の類似性も遺伝子も一緒くたにしていると指摘している点では正しいかもしれません。実際、行動遺伝学の手法では直接遺伝子作用という遺伝子作用と間接遺伝子作用という遺伝子作用による作用とを区別することはできないと言うのです。彼らが「遣伝性」と呼んでいるのは直接遺伝子作用と間接遺伝子作用とを組み合わせたものだからというのです。区別できればそれにこしたことはありませんが、それが不可能な現実があるかぎり、ハリスは甘んじて間接遺伝子作用を「環境」ではなく、「遣伝」の一部として受け人れることにしたそうです。間接遺伝子作用は専門的に考えれば子どもの環境の一部分ではありますが、それらは子どものもつ遺伝子がもたらした結果です。とはいえ、ハリスは行動遺伝学者たちはこの問題への対応が不十分であるとの社会化研究者の指摘には共鳴しています。自分たちの研究を明確に説明できずに直接遺伝子作用と間接遺伝子作用を一緒くたに扱っていたことを彼らは咎められるべきだろうとハリスは言うのです。

双子の環境

調査結果によると、親は二卵性双生児に対してよりも一卵性双生児に対しての方がより似た態度を示すようです。一卵性双生児の一方が、親の愛情を感じたと答えれば、他方もたいてい同じように答えています。しかし二卵性双生児の場合、一方が親の愛情を感じたと答え、他方は自分もそれを実感できたと答えるかもしれませんし、冷たくされているように感じたと答えるかもしれません。親は一卵性双生児のそれぞれに違った洋服、違ったオモチャを与えるかもしれませんが、それでもなお、二人とも同じように愛情を注ぐか、もしくは注がないようです。一方、二卵性双生児となると、その容姿や行動も大きく異なる場合が多いためか、親は一方を他方よりも愛らしいと思うこともあるのかもしれません。その意味では、一卵性双生児は二卵性双生児よりも似た環境で育つという考え方も正しいといえるかもしれません。

実際、一卵性双生児は仮に別々の家庭で育てられたとしても、二卵性双生児よりも似た環境が与えられるのかもしれません。幼い頃に離ればなれになり別々に育てられて成長した一卵性双生児では、幼年時代の記憶が驚くほど似ていることがあるそうです。育ての親の愛情の深さについて質問すると、ほぼ同じような答えが返ってくるそうです。同じ見解を示すのは、陽気な双子は幼年時代の明るい思い出が記憶にあり、陰気な二人ならばつらい出来事の記憶が多くなるなど彼らの記憶回路が似ているからかもしれませんが、それだけではないとハリスは考えています。別々に育てられた双子も実際にそれぞれの育ての親から同程度の愛情を注がれていたのではないでしょうか。なぜなら一卵性双生児は容姿もそっくりだからです。一方がかわいければ、他方もかわいい、逆に一方が不器量ならば他方も不器量であるはずです。子どもの器量、不器量が親の子どもへの態度にかなり影響することは研究者によって明らかにされているからです。ある研究では、一般的に母親は不器量な赤ちゃんよりもかわいい赤ちゃんの面倒をよく見るという結果が出ているそうです。これは、赤ちゃんのかわいらしさは、研究とは無関係のテキサス大学の学生によって評価されているそうです。対象となった赤ちゃんは十分愛されている赤ちゃんばかりだっとそうですが、かわいい赤ちゃんは不器量な赤ちゃんよりも見つめられることが多く、よく遊んでもらえ、より多くの愛情が注がれていたそうです。この研究報告にはヴィクトリア女王が嫁いだ娘の一人に宛てた手紙が引用されていました。九人の子どもを産んだ、ある意味で赤ちゃんのプロであった女王がこう言っています。「醜い赤ちゃんほどやっかいなものはない」。

醜い赤ちゃんもそのほとんどはときとともに容姿が改善されていきますが、そうならなかった子どもはどうなるのか。人は不器量な子にはかわいい子にほどやさしくはありません。不器量な子が過ちを犯したら、きれいな子よりも厳しく叱責されます。何も間違ったことをしていなくても、すぐ何かしたのではと勘ぐられます。不器量な子どもと容姿端麗な子どもとでは経験する内容が違うようです。別々の環境で育つということになるのです。

もちろん子どもが何を経験するかは彼らの容姿だけで決定されるものではありません。人が彼らにどのような反応を示すかは、彼らのもつ他の素質によっても左右されます。マークのような臆病な子どもはオードリーのような大胆な子どもとは違った扱われ方をされるのです。

双子による研究

一般的な傾向その二は、抱きしめられることの多い子はやさしい子になり、叩かれることの多い子は難しい子になりやすいというものです。この文脈を逆に読んでも、同じようにまことしやかに聞こえます。すなわち、やさしい子は抱きしめられるようになり、難しい子は叩かれやすいということになります。抱きしめるから子どもがやさしくなるのか、それともやさしいから抱きしめられるのか、もしくはその両方が正しいのか。叩かれるから子どもが難しくなるのか、それとも難しい子だから親の堪忍袋の緒が切れてしまうのか、それともその両方が正しいのか。一般的に、社会化研究では、これらの前後逆転する解釈を区別する術はなく、その困果関係をはっきりさせることはできないようです。ですから、だれでも納得しそうな一般的な傾向その二は、立証されているようで、立証されているとはいえないとハリスは言うのです。

ギリシャ神話におけるカストールとポリュデウケースや、ローマ神話に開けるロームスとレムスのように、昔から双子の存在はそれを見る者、読む者を魅了してきました。行動遺伝子学者にとって、双子は研究材料として欠かせない存在でした。別々に育てられた双子である必要はありません。実際、行動遺伝学研究の対象となった双子の多くは同じ家庭で、同じ生みの親に育てられた双子たちだそうです。その双子たちをどのように研究するかというと、彼らを一卵性双生児と二卵性双生児の二つに分け、、一卵性双生児の類似性と二卵性双生児のそれとを比較することによって、双子のもつ特定の特徴が遺伝子に支配されているのか否か、もし支配されているとすればその程度を判断します。たとえば、体を動かすことへの指向性について調べるとします。もし一卵性双生児のそれそれの指向性が、二人とも常に活発に活動しているか、もしくはテレビの前にじっとしているかというようにかなり似ており、二卵性双生児間の類似性がそれより明らかに低ければ、その特徴には遺伝子の作用が関与していると立証されたことになります。

社会化研究者たちは、その根底にある仮説である「一緒に育てられた二卵性双生児二人の環境は一緒に育てられた一卵性双生児二人の環境と変わらず類似したものであるという考え方」は疑わしいとしてこの手法に反論しています。もし実際に一卵性双生児が同性の二卵性双生児よりも似た環境で育つのであれば、一卵性双生児において類似性が一段と高まるのは、似た遺伝子が多いからではなく、もしくはそれに加えて環境の類似性が高いことによるものであるとも考えられるというのです。

では一卵性双生児の方が二卵性よりも似た環境で育つのでしょうか。それは洋服の枚数やオモチャの数を比べればよいというものではないとハリスは言います。彼らそれぞれに注がれる愛情やしつけの程度が問題なのだと言うのです。同じだけ抱きしめてもらえているか。同じだけお尻を叩かれているのか。調査結果を見るかぎり、親は二卵性双生児に対してよりも一卵性双生児に対しての方がより似た態度を示すようです。思春期の双子たちに、親からどれだけ大切に、もしくは冷たく扱われたかと質問したところ、一卵性双生児は二卵性双生児よりも一致した見解を述べる傾向にあったそうです。一卵性双生児の一方が、親の愛情を感じたと答えれば、他方もたいてい同じように答えています。

赤ちゃんの反応

親子関係はそれ以外の人間関係同様、互いに影響し合う関係だとハリスは言います。それはすなわち、当事者にはそれそれ役割が与えられ、継続的にやりとりしていくことを意味します。この見解は、とても大切ですね。同時に、保育者と子どもの関係にも言えるようです。その二人が相互に作用しあうとき、一方の言動は部分的には他方の直前の言動に反応して発せられるものであり、また過去の言動への反応でもあると言えます。

幼い赤ちゃんですら親子関係に積極的にはたらきかけていることがわかっています。生後二カ月にもなると、赤ちゃんのほとんどは親と目を合わせ、徴笑み返すようになります。赤ちゃんの徴笑みほど心が満たされるものはないとハリスは言います。たいていの赤ちゃんは親の苦労をねぎらうかのように、親と視線が合ったときに満面に笑みを浮かべてその喜びを表現するのです。

しかし中にはそれをしない赤ちゃんもいます。特に自閉症の子どもたちです。自閉症の赤ちゃんは親と視線を合わすことはありません。微笑み返すこともなく、親の姿を見ても喜ぶそぶりを見せません。親としては自分の存在を喜んでくれない赤ちゃんを心から歓迎することは難しいです。視線を合わせてくれない子どもとつき合っていくことも難しいです。故ブルーノ・ベッテルハイムは、長年自閉症児のための施設を運営してきた人物だそうですが、自閉症の原因は母親の子どもへの愛情の欠如、冷淡さにあると主張しました。後日、そんな罪を着せられたある母親が公然とベッテルハイムを「家族全員を社会から追放し、苦悩を与えた恥すべき人間である」と呼び、抗議したそうです。べッテルハイムは残酷なだけではなかったのです。彼は間違ってもいたのです。自閉症は脳の障害によって起こるもので、生まれつきのものだということがわかっています。母親のあからさまな冷淡な態度が子どもの異常な行動を引き起こしていたのではないのです。母親の冷淡さは子どもの異常な行動に対する「反応」だったのです。

ジョン・ワトソンはきょうだいのそれぞれに違ったところがあれば、それは親の扱い方が違っていたからだと考え、その考えは子どものいないベンおじさんも同じでした。しかし、二人目の誕生からまもなくすると、子どもとは生まれながらにして違っているのだとほとんどの親は気づきます。子どもによって扱い方が違うのは、子どもたちがそれそれ違う特徴をもっているからなのです。怖がりは安心させ、無鉄砲な子どもには注意をうながします。よく徴笑む赤ちゃんはキスを浴び、遊んでもらえますが、反応の乏しい赤ちゃんは授乳時とおむつをかえる時以外はベビーベッドに入れられたままです。社会化研究者が関心を寄せているのは親が子どもに及ぼす影響です。親は子どもに影響を及ぼします。しかし、逆も真なりなのです。子どもも親に影響を及ぼしているのです。ハリスはそれを「子から親への影響」と呼んでいます。

一般的な傾向その二は、抱きしめられることの多い子はやさしい子になり、叩かれることの多い子は難しい子になりやすいというものです。この文脈を逆に読んでも、同じようにまことしやかに聞こえます。すなわち、やさしい子は抱きしめられるようになり、難しい子は叩かれやすいということになります。