ジェンダー以外のカテゴリー

女の子の多くはかなり早い時期に、自分が男の子に対してあまり影響力がないことを悟ります。そのため男の子が女の子を避けはじめる前に、女の子の方が男の子を避けはじめるのです。女の子の方が言いたいことを聞いてくれるので、女の子は女の子と遊ぶことを選ぶことになります。男の子はいつも自分のやり方を押し通すのです。

こうして女の子は女の子で別の集団を形成し、やりたいことをやるようになります。思春期まではそれも順調につづきます。そのうち男女がふたたび求め合うようになるのですが、残念ながら、それを駆り立てる力についてはハリスは触れていません。思春期には、ジェンダー以外のカテゴリーが目立つようになります。運動系の集団、頭脳系の集団、非行集団、そしていずれにも当てはまらない集団というぐあいです。こうなると各集団には男女とも含まれるようになります。とはいえ、それらはすべて男の子の現準で動いています。男女が混在する集団では、話すのも笑わせるのも男性の方で、女性は聞き手や笑い手に徹する場合が多いようです。これは、私の園で実感するところです。それは、私の園には、男性職員が4割弱いて、いつも笑わせ、それにつられて「ばかばかしい!」といながらも女性もつられて笑いだすということが多く見られます。

女の子の自尊心は思春期の初めに急降下すると言われています。必ずしもそうではありませんし、そのようなケースがあっても新聞では大げさに取りあげますが実際の影響はたかが知れているとハリスは言います。それでも彼女は概してそれが真実であると考えていると言っています。女の子の中には自尊心が低下する子がいると言うのです。ハリスが賛成しないのは、その原囚が親や教師、もしくは「文化」という名の漠然とした力だとされていることであると言うのです。ハリスの個人的な見解では、これは思春期に入った女の子がおかれる状況に原困があるのではないだろうと言います。子どもの頃は女の子だけの集団を形成することで、男の子から支配されることを避けてきました。ところが、生物学的な時計が「13の時」の鐘を鳴らした途端に、母親の手から離れて以来常に支配を振りかざしてきた人々とのやりとりが恋しくなったと言うのです。その人々、すなわち男の子たちが自分とサイズ的にも同じか、わずかな期間ですが自分よりも小さかったときでさえ、さんざんな目にあわされたのに、今では彼らが急激に大きくなってきているのです。

男の子が支配している集団の中で、ティーンエイジの女の子がなんらかの地位に就くためには、男の子が重んじる何かに長けているか、器量がよくなくてはなりません。いずれの取り柄にも欠けていれば、彼女はまず無視されてしまうでしょう。努力すればどうにかなるというものではないのです。子どもの頃は女の子の集団でかなり高い地位にいたかもしれませんが、器量が悪ければそれは何の役にも立たないのです。

自分についてどう思うかを左右するものは二つあるとハリスは言います。その一つは地位であり、もう一つは気分です。所属集団での地位が低くてそれをどうにもできない場合、彼女の自尊心は低下します。自尊心は意気消沈しているときにも低下します。思春期の初め以降、女性が臨床的な意味で鬱状態になる可能性は男性の倍だそうです。鬱状態と自尊心の低さとの関連性はすでに十分立証されているそうです。

子どもの数

狩猟採集民族の小さな集団では、男の子と女の子が別々の集団を形成できるほど子どもが多くない場合がほとんどであるため、エフェ族の男の子と女の子は一緒に遊びます。その結果、エフェ族の子どもたちの間で顕著な社会的カテゴリーは〈男の子〉と〈女の子〉ではなく、〈子ども〉と〈大人〉となるそうです。そのため男の子も女の子も行動はたいへん似たものとなるそうです。大人同士でもジェンダーの境界線は想像するよりも不明瞭だそうです。それとは対照的に、エフェ族と隣接してレセ族がいるそうですが、農業を営むために人口密度が高く、その社会では性別によって区別されている面が多く、レセ族の集落は大きく、女の子と男の子は別々の集団に分かれることが可能なのです。

さらに別の伝統的な狩猟採集民族に、アフリカのカラハリ砂漠に居住するクン族がいます。今日では農業と牧畜を営んでいますが、20年前まではクン族の中にはバンドを形成して遊牧生活を営む集団もいたそうです。それらの集団を調査した人類学者によると、遊牧生活を営むクン族の中では、女の子も男の子もともに遊び、性差は最小限だったそうです。しかし、定住し、食料を生産するようになったクン族の中には、女の子と男の子が別々の集団を形成できるぐらいに子どもの数が多い群もあり、そこでは彼らの行動様式に見られる性差はかなり目立っていたそうです。

別々の集団を形成するほど子どもの数が多くない地域において、女の子と男の子の行動様式が似ているのは、こうした地域では子どもたちは自分自身を〈子ども〉としてカテゴリー化するからです。彼らが似るのは、同じ仲間集団の中で、またその集団によって社会化を果たすからであると言います。今日の私たちの社会の子どもたちに見られる誇張された性による区別化は、まさに文化の産物なのかもしれないとハリスは言います。わずか一万年前の農業の発明という文化革新によって、子どもたちに多くの遊び仲間となりうる人たちを提供できるようになったのだと言うのです。

子どもを男性的でも女性的でもないように育てたいという親へのアドバイスは、遊枚する狩猟採集民族の一員となることです。もしくは子どもの人数が少なすぎて彼らが二つ以上の集団をつくれないような地域に転居することなのです。

エフェ族の子どもたちが小さな弓矢で遊んでいる様子の中で気づいたことはないだろうかとハリスは問います。男の子も女の子も一緒に遊んでいましたが、彼らは男の子の遊びに興じていたのです。アメリカでの近所同士の遊び集団ではどうでしょうか。そうした遊び集団に参加した女の子は自ら、自分はおてんばたったと言います。こうした男女が混在する集団では、保育園・幼稚園以降になると、人形のおむつ換えはまず見られないそうです。女の子は男の子と遊びたければ、男の子のルールに従って遊ばなければならないのです。

仲間たちに対する支配欲はわずか2歳半頃からヒト科のオスに見られるようになります。ヒト科だけでなく、哺乳類のほぼ全般でオスの方が、攻撃性が強いということはすでに立証されています。種馬は去勢された馬である騙馬よりも攻撃的ですが、それはたんに精巣のある、なしの問題ではないと言います。「男女の一卵性双生児」の場合、精巣は生後17カ月で除去されていたにもかかわらす、女の子として過ごしていた期間は「女の子の集団の中でも支配的な立場にいることが多かった」そうです。ホルモンの機能不全のために脳と生殖器の一部が男性化する先天性副腎皮質過形成という状態で生まれる女の子は、誕生後には医学的にホルモンの状態が矯正されるにもかかわらず、自己主張の強い子になる傾向があるそうです。

年齢的支配

男の子が周りにいなければ、女の子はさほど女っぽくはならないようです。ところが女の子が周りにいなくても、男の子は相変わらず男の子らしく振る舞うようです。少なくともそういう面がいくつかあると言います。また男らしさに欠けると思われる場合もあると言います。イギリスの全寮制の男子校出身者は声も高く、好みにもうるさく、洗練とは無縁のアメリカ人の目にはその姿が軟弱に映ると言います。しかし、こうした学校で行なわれている、もしくは行なわれていた新入生歓迎の儀式はまさに男のものです。准男爵の父をもつサー・アントニー・グリンは全寮制の学校に入学したときの手荒い歓迎の儀式を次のように振り返っています。

「プレオアラトリー・スクールに人学した直後の一週間は男の子にとって、一生のうちでも忘れたくても忘れられない一週間になるだろう。何しろほんの八歳で、心の準備も何もできていなかったのだから。そのときまで、世の中には自分のことを殴り、傷つけようとする人間がこれほどまでに存在すること、さらに昼夜を問わず、こうした人間がそれを行なう機会があまりにも多いことなど思いも寄らなかった。」

殴る子、傷つけようとする子とは、他の男の子たちであり、年長の男の子たちです。女の子たちが存在しないことによって、ジェンダーのカテゴリーが消減しているのです。その結果、年齢的な違いがより顕著となり、集団内では支配的地位の争奪戦が一気に頂点に達したのです。他に集団が存在しないとき、集団内での競争が増えます。ドッジボールに興じていた女の子たちからもわかるように、これは女の子でも同様です。年長の子どもたちが年少の子どもたちを支配するのも、男女ともに見られる現象だそうです。もっとも女の子が年少の子を支配する様相は男の子の場合とは異なるそうです。女の子はあまり攻撃的になりません。女性が攻撃性を抑制する傾向は、不完全ながらも生得的なものだと考えられているそうです。なぜならこのブレーキがきかなければ、自分の子どもに危害を及ぼしかねないからだと言われています。

共学の学校で、特に女の子集団と男の子集団とに二分されて遊び場に集うときなどは、自ジェンダー別カテゴリーの特徴が顕著になり、性差別がはびこります。父親がおむつを換え、母親はトラックを運転しているかもしれませんが、その息子はフットボールに、娘は縄跳びに興じるのです。男の子と女の子は本質的に似ている、幼い女の子はペニスと精巣のない幼い男の子だ、と親は心底信じているかもしれませんが、子どもはそう簡単にはだまされません。

ハリスは奇妙な話だとことわってこう言っていますですが、人類の平等が叫ばれている現代の女の子や男の子は、私たちの祖先である狩猟採集民族の子どもたちよりも、女の子、そして男の子のステレオタイプに高いかもしれないと言うのです。わずかに残存する狩猟採集民族の中にザイールのイトゥリ森林に居住するエフェ族がいます。ある研究者はエフェ族の生活の様子を次のように説明しているそうです。

「マウは狩猟採集民の思春期の少年だが、キャンプで座る彼の膝の上では、兄の15カ月になる娘が布をまとって、さほど遠くないフィンガー・ピアノの音色にうとうとしていた。彼がポットに入った粥状のものであるソンべを混ぜようと手をのばしたとき、幼い男の子と女の子の集団は子どもサイズの弓矢を使って“果物当て”に興じていたのだが、その子どもたちがマウのかまどに危険なほど近づいたので、マウは子どもたちを諭すかのように“アウー”と声を出した。…キャンプの周りを見わたすと、数人の女性は釣りの準備の真っ最中で、他の者たちは男性とともにタバコを吸い、のんびり過ごしていた。」

男女の存在

バリー・ソーンは女の子と男の子とがやりとりを行なう状況もあるという事象を盾に、女の子と男の子が自分たちで両者の違いを引き起こしているという考え方に反論しました。ところが、やりとりがあるからといって、子どもたちが女の子としてのふさわしい行動様式、男の子としてのふさわしい行動様式という概念を養うことを妨げるわけではないとハリスは言うのです。そうしたやりとりが子どもたち自身や他のクラスメートを女の子、男の子としてカテゴリー化することを阻止できるわけでもなく、これらのカテゴリーの特徴を和らげることもないと言うのです。

ハリスは、ジェンダー別カテゴリーの特鼓を和らげるには、そうした交流をいっさいなくすことではないかと言うのです。すなわち異性の不在です。集団が一つしか存在しない場合、集団性が弱化し、自己カテゴリーの方向性が〈われわれ〉から〈私〉へとシフトすると言うのです。そういうときに集団内分化が起きるのです。集団のメンバーたちの間で地位の争奪戦が展開され、それぞれが異なる役割を選ぶか、もしくは決められてしまうのです。

周りに男の子がいない場合、女の子はさほど女っぽくはなりません。この現象はある研究者グループによって明らかにされているそうです。彼らは12歳の女の子たちが男女共通の遊びであるドッジボールに興ずる姿を観察しました。この調査では二つの異なる集団が被験者となりました。一方はシカゴの私立校に通う中流階級のアフリカ系アメリカ人の女の子たち、他方はアリゾナ州の居留地に暮らすホビ族の女の子たちでした。研究者たちは女性の地位が違う文化を意図的に選びました。伝統的なホビ文化は母系制で、女性には大きな社会的、経済的権力が与えられています。

男の子がいないときには、女の子たちは両集団とも真剣にドッジボールに興じたそうです。競い合っていましたし、中には素晴らしい選手もいたそうです。ところが、男の子たちがゲームに参加した途端、女の子の遊び方が劇的に変わったのです。それまではすぐにでも動けるような体勢で準備していたのが、ホビ族の女の子たち足を交差させ、腕を組み、恥ずかしそうにして、とても運動などできないかのように立ちすくんでいたのです。アフリカ系アメリカ人の女の子の方は、ペちゃくちゃとおしゃべりをはじめ、他の選手をからかいました。女の子たちは両集団ともその行動の変化にまったく気づいていなかったそうです。どうして男の子がいつも勝つのか、と研究者が聞いたところ、彼女たちは男の子がズルをしたから、と答えたそうです。男の子はズルなどしていません。彼らは彼女たちよりも頑張っただけでした。この年齢では、平均的な男の子は平均的な女の子よりも明らかに背が低く、体重も軽いのですが、それでも男の子は勝てたのです。

男女とも、いだいている男の子のステレオタイプ、女の子のステレオタイプは似ているとハリスは言います。両者とも、男の子は女の子よりも竸争心が強く、スポーツも得意だと思っています。そして大概はそれが正しいのです。ジェンダー別カテゴリーの特徴が顕著な場合、女の子は女の子のステレオタイプにますます近づき、男の子は男の子のステレオタイプにますます近づくと言うのです。両者間の違いは対比効果によりますます誇張されるのです。

ジェンダーに対しての考え方

エレノア・マコビーは女の子と男の子はそれぞれ異なる文化で育つと言ったそうです。『わかりあえない理由―男と女が傷つけあわないための口のきき方10章』の著者である言語学者デボラ・タネンも同様の考えを表明しているそうです。

中にはそれに反対する人もいるそうです。校庭での男の子と女の子の行動を調査した社会学者バリー・ソーンは、「異なる文化」という考え方に異議を唱えています。女の子も男の子も実際には多くの社会的状況の中でやりとりをしていると彼女は指摘しています。家ではきょうだいと、近所の遊び集団では同性の友だちとも異性の友だちともやりとりがあると言うのです。学校の教室でも読書班や学習班では、女の子も男の子もともに平和な時を過ごします。性別によって最もくっきり分かれる遊びの場でも、女の子と男の子が一緒になることもあると言うのです。ソーンは彼女が目撃したある事件について述べています。ドンという名の男の子が遊び場の指導員に不当に罰せられて大変ショックを受けていた時、クラスの女の子も男の子も一緒になって彼の味方になったと言うのです。ソーンは、男の子と女の子の行動様式の違いや、さらにはお互いを避けす傾向は、なんらかの形で大人の文化から継承したものではないかと考えているそうです。彼女は具体的にどのようにとは言わずに、また子どもたちが最も性差別的になるのは大人の支配の最も及ばないときであることも認めているそうですが、教室で子どもたちを「男の子たち、女の子たち」と呼ぶことや性差別的なポスターを壁に貼ることの影響についてもほのめかしているそうです。

ジェンダーに関するハリスの考えは、マコビーやタネンなどの考え方とだいたい一致しているそうですが、ソーンの考え方にも一理あると思っていると言います。男の子も女の子も実際には別々の文化を持っているわけではないからです。同じ年齢、同じ民族的背景、近所に住み、同じ学校に通う男の子と女の子であれば、同じ子ども文化の一員です。男の子や女の子のあるべき姿に関しても、男性と女性のあるべき姿に関しても、彼らの考え方は共通していると言うのです。社会的カテゴリーごとに人々の行動様式が異なるのは文化として当然だと言うのです。男の子と女の子では、ある一つの行動が好ましいかどうかという点では意見が異なりますが、男の子と女の子のあるべき姿という点では、考え方はほぼ一致しているとハリスは言います。

社会的カテゴリーは異なっても、文化が異なるわけではありません。社会的カテゴリーは状況によって明らかに異なってきますが、文化はむしろ一定していると言います。自分をどのようにカテゴリー化するかは、自分がどこにいて、誰と一緒なのかに左右されるとハリスは言うのです。幼い子どもでさえ、自分をカテゴリー化する際には、子どもなのか、女の子なのかなどの選択肢を与えられていると言うのです。年齢的なカテゴリーの特徴が顕著であれば、ジェンダー別カテゴリーは自動的に影をひそめると言うのです。ドンを不当に罰した遊び場の指導員のように、大人が大人としての威嚇をふるっている場合は、年齢別カテゴリーが優勢となり、ジェンダーは後ろへと追いやられます。男の子も女の子も一緒になってドンの支えとなったのは、こうした理由からだとハリスは考えています。学齢期に子どもたちを、たとえば能力別の読書班のように別の形で分けると、ジェンダーは影をひそめ、その読書班に属するという意識の方が強くなると言うのです。

男性的、女性的

集団性がオスや男性においてより強く作用するのは、進化的な理由があるからだとハリスは思っています。オスはメスよりも体格的にも大きく、筋肉質であり、子どもの頃からより速く走り、より遠くにものを投げることができます。子を宿すことも赤ちゃんを連れまわすこともなく、肉体を危険にさらすことへの束縛が少ないため、仲間と団結し、集団を守り、他集団への襲撃を試みるのはオスの役目となります。集団間闘争は私たち人類が進化を遂げてきた環境の一部であり、敵に対して優勢になるのであれば、小さなY染色体も、男女差を生み出すために骨を折るのを惜しみませんでした。男の子たちの好む遊び、世界中で通用するその遊びは戦闘能力を養うのにはうってつけだとハリスは言います。作家ハーマン・メルヴィルはこんな言葉を残しています。「戦いはすべて男性的、そしてそれを戦うのも男の子たちだ」

ロバーズ・ケイヴでの調査や、過小評価・過大評価に関する調査のように、社会心理学の

分野における著名な研究の多くは、被験者として若い男性を選んでいますが、そこには理由がありそうだとハリスは推測します。もしそこに女性の被験者が含まれていたら、あれほどまでに明快な結果は得られなかっただろうと言うのです。ロバーズ・ケイヴ実験を行なった研究者たちは、有名さでは劣るとハリスはいますが、別の実験も行なっています。その実験では、男の子たちにまずはじめに友人関係を結ばせ、その後友人関係を引き裂き、二人を競い合う二つの集団に分けました。引き裂かれた友人関係はそこで消滅しました。友人同士が敵同士へと変わったのです。もし同じ実験を女の子で試していたらどうなっていただろうかとハリスは考えています。「お願い、ジェンカとクレアを入れ換えて。そうすればジェンカと一緒にイーグルズになれるから」と言うでしょう。

メスや女性は集団性に欠けているなどと言うつもりはないとハリスは念を押します。オスの脳にもメスの脳にも、集団性を司るモジュールもあれば個人間の関係を司るモジュールもあるのです。もし違いがあるとすれば、それら二つのモジュールが相反する要求をした場合にどちらが優先されるかだと言うのです。

ハリスは、男女間について、次のように考えているようです。男の子の集団では階級制をつくる傾向が強いようです。リーダーがいて、他の子どもに指示を与えます。男の子はそれぞれ上位をめぐって競い合います。自分の弱みを見せまいとします。自分が負けたと認めることになるので、人に指示を仰ぐことはしません。

女の子の関係はより親密で排他的ですが、必ずしも永続しません。女の子は男の子のように、相手に対して敵対心をむき出したりはしません。敵に仕返しをするのなら、自分の友人にも相手に対する敵対心をいだかせるようにします。女の子の集団でのリーダー的存在には危険がひそんでいると言います。生意気だ高慢だと言われるようになるかもしれないからだと言うのです。女の子は友人をこき使うのを嫌います。彼女たちは協調性と交替制を重んじるからだと言うのです。

仲間たちと一緒のとき、男の子は強靭さを、女の子はやさしさを誇示します。こうした違いを指摘するのはハリスは自分がはじめてではないと言います。また、成人した男性と女性の行動様式が違う原因を、子ども時代に仲間集団で果たした社会化やそこで学んだ社会的なやりとりのパターンに求めるのも彼女がはじめてではないと言うのです。

遊ぶ対象

学校の校庭や男女共学のサマーキャンプなどでは遊べる対象が多いので、女の子と男の子は分裂し、〈われわれ〉対〈彼ら〉の戦いが展開されるようになるのです。遊び場での男女間のやりとりは社会学者バリー・ソーンが言うところの「ポーダーワーク」という形をとることが多いと言います。すなわち男女を分ける境界線がさらに深く、さらに顕著になるようなやりとりのことだとハリスは言います。少なくとも表面的にはそのやりとりは敵対心に満ちています。もっともその裏側はもっと複雑なはずだとハリスは言います。男の子たちは女の子の遊びを邪魔しようと遊びに割りこみ、スカーフやカバンをかっさらいます。早熟な子のブラジャーの紐をパチンとはじきます。ところが、こうした小競り合いの被害者になるのは女の子とは限りません。ハリスが五年生のとき、孤立することの多い赤毛のかわいい男の子がいたのですが、何人かの奔放な女の子たちが、その子にキスするぞと迫っていたそうです。そのときハリスはすでに奔放さを失っていたため、その一員ではなかったそうですが。男の子にとってこれは死よりも恐るべきことで、いつもやっとのことでそれを免れていたそうです。相手の意志に反して女性にキスを迫る男性もいますが、遊び場では、キスを武器にするのはむしろ女の子のほうなのだとハリスは言います。

集団間の違いが顕著な場合、集団間の敵対心は喚起されやすくなります。異性に対して友情を示す徴候を見せまいとするその気のつかいようは、大人の介入が最も少ないランチルームや遊び場においてビークに達するとハリスは言います。とりわけ男の子は、女の子と遊んだり、隣に座ったりするとたちまち仲間たちの嘲笑の的にされてしまいます。大人の影響力が強くなると、男女間でも友好的なやりとりが増えてきます。性別による分裂をはじめるのも、またそれを維持しようとするのも、大人ではなく、子どもたち自身なのです。

ハリスが知っている親たちは子どもが異性の友人を一人でも二人でももっていればそれで満足していると言います。そのような友情は実際に存在しますが、もしそれが就学前にはじまった友情であれば、学齢期には水面下で育まれることになります。その女の子と男の子は家で、もしくは近所でのみ顔を合わせます。学校ではお互いの存在すら知らぬふりをし、会釈すらしません。親たちは、二人の友情を認めていますが、学校では誰も知りません。これは友情であって、恋愛感情ではないと言います。学齢期の子どもたちが水面下で恋愛感情をいだくことはあっても、大概それは片思いに終わります。愛情の対象は自分が違った眼で見られていることすら気づかないと言うのです。

友情も恋愛も個人間の関係であって、自分がある集団に属しているという了解やその集団を一番だと考えるような感情といった集団性と混同してはならないとハリスは言います。集団性と個人間の関係ではルールも違うし、発生理由も違えばもたらす影響も違うからです。また目的が食い違うこともあると言います。たとえば、好きではない集団に属している人を好きになるといった場合がそうです。時には相反する要求が生じ、いずれかの選択を迫られる場合もあります。こうしたジレンマに陥った場合の対処方法が男性と女性では違うことがたびたび観察されているそうです。女性は個人的な関係を重んじます。男性は愛する者の腕をやっとのことで振りほどき、「名誉を愛するのでなければ、愛しい人よ、君をこれほど愛することはできないだろ」と真剣に説きながら戦地へと赴きます。彼女のために戦うとは言うものの、実際には集団のために戦うのです。伝統的な社会では、生まれた集団に生涯とどまり、必要に応じて村のために戦うのは男性の方で、女性は結婚と同時に村を離れます。以前ハリスが紹介したチンパンジー社会では、連帯を結ぶのはオスであり、そうして彼らは一致団結してカハマ集団を襲撃したのでした。

男集団と女集団

理由はどうあれ、性別による二極化は子ども時代において年齢を重ねるごとに顕著となるようです。両者の境界線がもっともくっきりと描かれるのは思春期の前、その境界線が消えはじめる直前です。人口も少なく、幼い子どもたちが男女混ざり合って遊ぶような地域においても、思春期前になると性別ごとに集団を形成するようになります。それが可能になるのは、子どもたちが家からさらに離れたところまで仲間を探しに出かけることができるようになるからだと言います。

学齢期における男集団と女集団の違いについてハリスは何度も取り上げられてきました。エレノア・マコビーはそれを次のように簡潔にまとめています。

「仲間集団内に見られる社会構造は、男性集団と女性集団では異なる。男性集団は人数的にも多く、階級制が強くなる傾向にある。集団内における個々のかかわりあい方は、男子集団と女子集団とではだんだんとその違いも大きくなり、異なる「らしさ」を反映し、違ったスタイルが見られるようになる。男の子たちでは、競争心や優勢であること、縄張りを築き上げてそれを守ること、強靭さを誇示することへのこだわりがより強くなる。そのために他の男の子たちとも衝突し、危険を冒し、挑戦をし、また挑戦を受け、我を通し、弱みを隠す機会も増えるのだ。男の子の間では同性愛を念入りに批判する話題と同様に、性的(性差別的)な話題にこっそり興じることがある。女の子は、各人の目的を達成することに関心をもつことは言うまでもないが、男の子以上に集団の結束力や協調性、さらには相互に助け合う友情にこだわる。彼女たちの関係は、男の子たちのそれよりは親密だ。」

マコビーが言っているのはもちろん一般論です。いかなるルールにも例外があるように、これらの整然と分類されたカテゴリーのいずれにも当てはまらない子もいるのではないかとハリスは言います。男の子の集団の荒々しさや競争意識から退く子いるはずです。彼らは孤独に陥りやすく、少なくとも学校ではそうだと言います。女の子の中には男の子と遊ぶことを好む子もいるでしょう。スポーツに長けているのなら仲間としても認めてもらえるでしょう。

ところが校庭では女の子が男の子の遊びに入れてもらえることはまれです。男の子と一緒に遊ぶ女の子のほとんどは、学校にいるときではなく家の近所の男の子と遊ぶときです。家の近所では校庭に比べると遊べる対象が限られているため、子どもたちはさほど選択的になれないのです。そのため、選択的になりたくない子どもにとっては格好の言い訳ができるのです。いずれにしても近隣地域の遊び集団はあらゆる年齢の男子女子で形成されている場合も多いと言います。あらゆる年齢が一緒に遊ぶことによって、路地裏の遊びが年長から年少へと代々伝承されていきます。男女とも一緒に遊ぶことによって、多くの女性、ある調査では全体の50パーセント以上が、幼い頃はおてんばで男の子ともよく遊んだなどと言うようになると言います。

遊び仲間

チベットの寺院で育てられたダジャ・メストンは自分自身を「チベット人の心が宿る白い肉体」と表現したそうです。この矛盾を解消できる外科医はいないとハリスは言います。ダジャは身長が高すぎる、肌の色が白すぎるといった理由で仲間たちから拒絶されていました。だからといって、彼が仲間たちのような男の子として自分をカテゴリー化することができなかったわけでもありません。チベット人として社会化を果たすことが妨げられたわけでもありません。同じようにジョアンやジェイムズのような子どもたちも、自分を拒絶する集団の一員として自らをカテゴリーすることはできるのです。自分がその一員であることを実感するために、同じ社会的カテゴリーに属するメンバーたちに好かれる必要はないとハリスは言います。また彼らを好きになる必要もまったくないと言うのです。

以前、ハリスが紹介した発達心理学者エレノア・マコビーは、二歳半から三歳までの初対面の子どもたちを二人ずつに分け、オモチャの散らばった実験室に入れたときの様子を観察したそうです。その後どうなったかは、その一組が男女の組なのか、それとも男同士、女同士の組なのかによって異なったそうです。男同士、女同士で組んだときには男の子も女の子も同じように友好的でしたが、女の子と男の子を組ませると、そのバランスは不穏にも崩れてしまったそうです。女の子は、同じ女の子と組むときのようにはパートナーとは遊ばず、傍観者に徹することが多かったそうです。マコビーの報告によると、「男の子と組ませた場合、女の子は端に立ち、男の子にオモチャを独占させてあげることも多いのです」と言っているそうです。まさに、三歳になるかならないかの幼い子どもたちがです。

他者と遊ぶには協調性が要求されます。協調性とは、時として他者が望むことを行なうことを意味するとハリスは言います。協調性への誘いは、提案や要求といった形をとることがあるとも言います。研究によると、幼い女の子たちでは、成長するに従って遊び仲間への提案が増えつづけ、その遊び仲間が女の子であれば、その提案を従順に受け入れてもらえる可能性はますます高まります。ところが、その同じ時期に男の子たちは、提案を受け入れることに対してますます従順ではなくなります。特に女の子たちからの提案であればなおさらだと言います。他の男の子たちにはまだ耳を貸すことがあるのは、おそらくそうしたコミュニケーションが丁寧な依頼という形ではなく、要求という形をとるからなのだろうとハリスは推測します。こうした現象は実際に起きていると言います。しかも平均的な男の子と女の子の間で、体格的にも体力的にもほとんど差のない年齢から起きているのです。

幼い女の子たちが幼い男の子たちを避けるようになるのも、こうした理由からかもしれないとハリスは考えています。自分の提案に耳を傾けようともしない人や、「貸して」とも言わずにオモチャを引ったくってしまうような子どもと遊んでもおもしろくないでしょう。ところが、まもなくすると男の子たちもまた、女の子を避けるようにもなります。おそらく人形のおむつを換えるようなつまらない遊びをする人よりも、オモチャのトラックをブルルルルといわせるようなおもしろい遊びを好む人たちと遊んだ方が楽しいのでしょう。もしくは、こうしてお互いに避けるようになるのは、〈女の子〉と〈男の子〉という二つの対照的なカテゴリーへの分類とそれにより誘発される〈われわれ〉対〈彼ら〉感情による結果なのかもしれないとハリスは言います。

ジェンダー意識

遺伝的には男性ですが医者の過ちの積み重ねにより、男性器官が損傷を受けてしまったある人の話では、子ども時代からずっと違和感を感じていたと言うのです。エストロゲンが投与されはじめて胸が膨らみを帯びるようになっても、彼は自分が女の子であるとは思えませんでした。反対に、正常な男性器官をもち、男の子として育てられた人の中には、自分が男の子だと思えない人もいます。著述家ジャン・モリス、生まれたときはジェイムズ・モリスだった彼は次のように語っているそうです。

「何かの間違いで男の子の身体に生まれてきてしまったが、自分はほんとうは女の子なのだと気がついたのは、三歳の時だった。もしかしたら、四歳だったかもしれない。とにかく、その時のことはよく覚えていて、私の最も古い記憶となっている。」(竹内泰之訳『苦悩』立風書房)

このような子どもたちは、女の子たちからも男の子たちからも拒絶されやすいのです。彼らは「変わり者」とみなされ、また彼ら自身もそうだと思っています。まるで打ちこまれない、もしくは打ちこんでくれる人も現われない杭のようなものだとハリスはたとえています。とりわけ女っぽい男の子は苦労するようです。幼稚園時代を過ぎれば、男の子たちは彼らをいじめ、女の子たちも仲間に入れたがりません。彼らはしばしば、友だちもなく孤立したまま成長します。それでも彼らは社会化を果たします。彼らは自分たち自身で社会化し、しかも性別による社会化を果たすのです。ジェイムズ・モリスは自分を女の子としてカテゴリー化し、その結果、他人からは男の子とみなされても、女の子として社会化を果たしたのです。成人したジャン・モリスは、ジョアンの意志に反して施された手術と同じ手術を受けることを自ら申し出たのです。それだけ女性である自分が男性の体を借りて暮らすことが苦痛だったのです。

《チャイルド・ディヴェロップメント》に掲載された記事では、ある研究者がジェレミーという幼い男の子に関する実話を詳述しているそうです。ジェレミーはある日、髪の毛にバレッタをつけて保育園に行くことにしたそうです。両親はそれをおかしいとはまったく思いませんでしたが、同級生たちの意見は違ったようでした。特に一人の男の子がジェレミーの髪型をからかいつづけ、ジェレミーを女の子と呼びました。自分が女の子ではないことを証明するために、彼はズボンを引きずり下ろしました。「その男の子は驚きもしなかった」と研究者は述べているそうです。「その子はたんに、『おちんちんは皆がもっている。バレッタをつけるのは女の子だけ』と言っただけだった」

ジェレミーの同級生は現実的には間違っていましたが、論理的には正しかったのです。ジェンダー意識、すなわち自分が男の子であるか、それとも女の子であるかという意識は、その人に備わった性器の種類によって決まるものではないとハリスは言います。ましてや親が与えようとして与えられるものではないのです。ふたたび男性に戻ったジョアンを面接した心理学者ミルトン・ダイアモンドは、それは自分と仲間たちとを比較することによって形成されるのではないかと考えているようです。彼は、こう言っています。「子どもたちは自分を知り合いの男の子や女の子たちと比較し、『一方と私(ボク)は同じだ、他方と私(ボク)は違う』と判断する。心の中でどのように思っているのか何に関心があり、どのように行動したいのかに基づき、彼らは自分がいずれのカテゴリーに属するのかを決める。そしてそのカテゴリーにおいてこそ、彼らは社会化を果たすのだ。」