愛着分類スタイル

北アメリカ以外の国の調査では、愛着分類スタイルの最も多い型は、大半のアメリカの研究で報告されたものとは異なっているそうです。たとえば、北ドイツのサンプルでは49%の乳児が回避型あり、安定した愛着をもつとされたのは33%に過ぎなかったそうですが、そういう傾向が生じた理由は、母親が乳児を拒絶しているためではなく、母親が文化基準に従うことを望んでいたためであるとされています。同様に、イスラエルのキブツで育った乳児の研究では、約50 %の乳児が不安定な愛着をもつと分類されたそうです。これらの傾向から、育児実践の文化差によって異なる愛着の傾向が生じていることが示唆されます。北ドイツやキブツで育った子どもの約半分が不適応な愛着スタイルをもっているという別解釈も考えられますが、それを支持する証拠はないそうです。もっと簡潔な結論は、子どもは環境条件に敏感であり、その環境に最適な愛着行動を発達させるということです。

同様に、年長の子どもに注目した研究者らが一貫して報告しているのは、より厳しく、批判的で、情緒的につながりの薄い養育スタイル、それを権威主義的といいますが、それに比べて、要求は厳しいがあたたかさのある養育スタイル、それを権威的と言いますが、その方が、結果がより好ましいということです。この傾向は世界中で、幅広い民族や社会階級、家族構造で報告されているそうです。しかし、例外があります。たとえば、バウムリンドによると、スラム街のアフリカ系アメリカ人の女子のサンプルでは、両親が権威的スタイルである場合と比較して、より厳しい権威主義的なスタイルである方が適応が良かったそうです。異文化間の愛着調査と一致して、異なる養育スタイルは、異なる環境と相関しており、異なる行動の適応パターンが生じていると思われる。

ベルスキー、スタインバーグ、ドレイパーは、子どもの早期、そして後の家庭環境の影響は、愛着スタイルだけではなく、後の繁殖戦略の重要な側面にも影響を与えると主張しました。彼らは進化論にもとづくモデルを発展させ、家庭における初期の愛着に関連した経験や、後に続く思春期や、青年期の恋愛行動について説明しました。

初期経験とは、最初の5 ~ 7年間の中で、主要な進化的機能は子どもに、環境の中にある広義の資源の利用可能性と予測可能性や、他者への信頼性、親密な対人関係の持続を理解させることです。そして、それらすべてが、発達途上のその人が後にどの程度繁殖に力を注ぐかに影響するといわれているのです。

ベルスキーたちは、すべてのヒトが追求しようとする唯一の「最適方略」があると断定するのではなく、ヒトには幼児期の環境の特性に敏感な、進化によるメカニズムがあり、それが思春期の成熟度を促し、繁殖戦略に影響を与えると主張しました。不安定な愛着で、父親がおらず、否定的でストレスの多い家族経験をもつ場合には思春期の成熟が早く、性的乱交や、不安定な男女関係をもつようになります。もう一方の安定した愛着で、ストレスが低く、父親がいる場合は、少なくとも女子に関しては思春期が遅く、性的活動の開始は遅く、より安定した男女関係を築くようになるようです。

安定した愛着

トンプソンたちは、乳児の泣きの進化的機能についてまた異なる理論を呈示し、乳児の苦痛の泣きは呼吸器の緊急事態の症状と似ており、親の注意をひきつけ、栄養を摂取するための乳児の一種の偽装であるという仮説を立てました。この仮説を支持する結果が出たものの、次のようにも報告しています。3分間のセッションの過程で、乳児の苦痛が和らいできたと大人が判断することがあり、それにより結果の解釈は複雑になるというのです。トンプソンたちによる「偽装」仮説は興味深く、実証的な検証が必要です。しかし、どのようにして大人、特に親が乳児の泣きや、泣きと苦痛との関連や、泣きの質を解釈し、そういった泣きに対してどのような応答をするのかということについては今後の研究にゆだねられているとビョークランドは言っています。

極端に剥奪された乳児以外は皆、母親への愛着をもつようになりますが、その愛着の質はそれぞれの乳児で異なります。ボウルビーは、最も適応的な愛着戦略は、乳児が母親を「安全基地」として利用することを学び、比較的安全な身の周りの環境を探索するものであると主張しています。このパターンから逸脱した愛着タイルをもつ乳児は、古代の環境では生き残る可能性が低く、現代社会においては心理的不適応を起こすと主張しました。メアリー・エインズワーとその支持者たちは、ボウルビーの主張の真実性を立証するために幅広い研究を行ったそうです。有名なストレンジ・シチュエ―ション法、つまり、新奇な環境に乳児をおいて養育者が退出し、戻って来たときの反応パターンから乳児の愛着分類を判定する方法を用いて、アメリカの乳児のおよそ3分の2 は安定した愛着に分類され、残りの乳児は、3つの不安定な愛着型、すなわち、回避型、抵抗・アンビバレント型、無秩序・無方向型のどれかに該当しました。

安定した愛着をもつ乳児の母親、あるいは他の養育者は乳児に随伴的に応答し、乳児の身体的、社会的欲求の合図に応答的である傾向が高かったそうです。縦断的研究によっても、乳児期や歩行期に安定した愛着をもつとされた子どもや青年は、不安定な愛着をもつ乳児より、よりよい社会的、認知的機能をもつと報告されています。これらの比較的強固なパターンから、多くがボウルビーの主張と一致した結論に至っています。つまり、安定した愛着は最も適応的なスタイルであり、不安定な愛着は適応不足や精神病理を予測するということです。

もっと最近、愛着システムは乳児の生存を促すことに加えて、個体がその後の環境に適応するために進化してきたという説明がなされているそうです。この説によれば、さまざまな型の愛着は、たとえば親の投資量といった子どもの局所環境の生態学的条件に応じて発達すると考えられています。さらに、愛着分類は現代の環境に適応したものでなくてはならず、時間を経て生態学的条件が変化すれば、愛着分類も変わってくるはずです。この最後の論点を支持する証拠として、高ストレス、低収入の家庭の乳児はあまりストレスのない家庭の乳児と比べて、愛着の分類が6ヶ月以上安定しないという知見があるそうです。同様の傾向が乳児期から青年期にわたる愛着の安定性においても見出され、中流階級のサンプルでは愛着は安定していますが、ハイリスクのサンプルでは安定していないということがわかりました。

泣く意味

乳児が泣くことに関して様々な仮説が言われていますが、この仮説には非常に興味をひかれますが、どのようにして苦痛の泣きがそもそも親の世話を引き出し、最終的に乳児の中に選択されたのかということに関する理論が必要ではないかとビョークランドは言います。ある研究でファーローは、乳児の泣きの音響構造が乳児の健康と相関していることを示唆する証拠を見出しました。母親は乳児の泣き声の高さや泣きの頻度によって得られる手がかりを、乳児の表現型の質を表すものとして用いるのかもしれないと言います。母親は乳児の状態を見きわめるための鋳型のようなものをもっていて、そのひとつの要因が、乳児の泣きであることも示唆されているそうです。さらに、長時間泣くのはかなりのエネルギーを消耗するため、泣き続ける余裕のある乳児はより健康である可能性があり、親が投資するには、あまり力強く泣かない乳児より賢明な選択である。したがって、母親が長く泣きやすい乳児を見捨てる可能性は低いだろうと考えられます。

ケニアで牧畜社会を営むマサイ族の調査はこの仮説をある程度支持しているそうです。飢饉や干ばつはマサイ族には日常的であり、その時期には乳幼児の死亡率がかなり上がります。デヴリーズは、飢饉の時期に生まれた13人の乳児のうち生き残ったのはわずか6人であったと記述されています。「ぐずりやすい」、つまりよく泣く6人の乳児のうち死亡したのは1人だけだったそうです。反対に「扱いやすい」、 つまり大泣きをすることがほとんどない7人の乳児のうち5人が死亡したそうです。デヴリーズは、おそらく飢饉というストレスの下で、扱いやすい、気質をもつ乳児は無視されやすくなり、死んでしまったのではないかと述べています。泣いたり、ぐずったりして訴えることが最も多かった乳児は、母親になだめられることが多く、したがって、食べ物を与えられることになったのでしょう。もちろん、ぐすりやすい乳児は頑強な体質も確かに持ち合わせていたであろうから、より元気に泣いて生存できることとなったともいえるかもしれませんが。

トンプソンたちは、乳児の泣きの進化的機能についてまた異なる理論を呈示し、乳児の苦痛の泣きは呼吸器の緊急事態の症状と似ており、親の注意をひきつけ、栄養を摂取するための乳児の一種の偽装であるという仮説を立てました。彼らの主張によると、進化適応の環境において、乳児が窒息しないように親が見守っておくという、大人による基本的な呼吸管理メカニズムがあったと言うのです。乳児は生命に関わりのない状況で呼吸困難のまねをすることによって、親のこの応答を利用するためのメカニズムを進化させました。このことを検証するために、 24ヶ月児の泣きを見慣れない部屋にひとりで放っておかれる時間の長さを関数として調べたそうです。この調査は、ストレンジ・シチュエーションテストの一部として、母親が部屋を3分間離れ、また戻って来た状況で行われました。彼らは、泣きの音程変化率の極端なかたよりは乳児の苦痛を示しており、大人がもつ進化による世話行動が放置される時間が長くなるほど、正常よりかたよるはずであると考えたのです。彼らは、3分間のセッションでまさにこの関連を見出し、乳児の苦痛の泣きは乳児の偽装、つまり、低換気あるいは過換気のふりをすることによるものであるという仮説を支持したのです。

乳児の泣き

ビョークランドは、愛着のある形式は他のものより適応的であるというボウルビーの主張を評価し、親の投資など子どもが感知した資源の入手可能性に応じて、異なる発達の道筋をたどることになる代替的愛着戦略を検討しています。この代替的愛着戦略とは、私は初めて聞きました。これは、どのような研究なのでしょうか?

ビョークランドらは、乳児がもつ知覚的パイアスと学習能力によって、乳児はヒト、特に母親への志向性を示すことで、愛着が促進されていく可能性について検討しました。しかし、乳児の身体的特徴や成人の気質のなかには、人生初期の愛着プロセスにさらなるバイアスをかけるものもあるかもしれないと考えたのです。

行動生物学的視点と一致して、ボウルビーは、乳児の身体的特徴と行動は成人、特に母親の養育行動を活性化させると主張しました。たとえば、さまざまな種に関するローレンツの観察と一致して、ボウルビーは、ヒトの養育行動は乳児の未成熟な特性に誘発されると考えました。ローレンツは、多くの種の乳児は共通して体の大きさに比して大きい頭、顔の残りの部分に対して大きい額、大きい目、丸い頬、平たい鼻、短い手足といった特徴をもつことを指摘しました。たいていの大人はそういった特徴を見てかわいらしいと思い、そのことによって愛着が促進されます。この考えを支持するのが、未熟児あるいは病気の乳児の研究だそうです。そういう乳児は乳児らしい顔の特徴を完全に備えていないことが多く、発声やアイコンタクト、大人の行動に随伴した反応といった、発達の節目となる出来事の出現が健康な乳児より遅く、そのため虐待を経験しやすいと言うのです。

乳児の泣きも強い刺激となって大人の注意を引き出します。乳児の泣きは無視しがたく、親になったばかりの人の多くは乳児が嫌がって泣くのを聞いて、恐れで身が縮まる思いがし、どんな悲劇が起こるのかと気に病みます。乳児のストレスに満ちた泣きにすぐに応答することを学習するということもあるでしょうが、親はそういった泣きに対して積極的に応答するよう「準備されて」いて、そのような応答をするのを公式に学習する必要はほとんどないということもあるでしょう。「赤ちゃんが泣いたときにすぐに応じると、嫌がって泣くのが止まるし、赤ちゃんは生きているわ」と確認でき、それは進化発達的視点とも一致しているのです。

また、ボウルビーは、赤い腹がトゲウオの攻撃的な反応を引き起こすのと同じように、乳児の泣きは生得的解発メカニズムとして働くと主張しました。進化の時を経て、苦痛で泣いている乳児に応答する大人は、子どもが繁殖できるようになるまで生きのびる傾向があったと言うのです。あるいは、苦痛の泣きは同様に反射的な方法で、年長者の同情や利他的行動を引き出すのかもしれず、そのことによって、無力な乳児は世話をしてもらい、生き残る見込みが高くなると言うのです。同じように、母と乳児の接触頻度が高いことが生存を高めるために必要であったために、先史時代には泣くことは捨てられたことを示すものだったかもしれないと言います。そのため、母親は常に乳児を自分のすぐ近くに置いておき、同種の個体や、おそらく捕食者によって乳児が殺されてしまうのを未然に防いだのでしょう。また、泣くことは乳児のたくましさや活力を示す可能性もあります。

攻撃行動

さらにこの時期は男性が最も活発に仲間と競う時期であります。現代文化においてそのような行動の大半は社会的処罰が下され、愚行と考えられているにもかかわらず、ヒトの男性には、危険な競争をすることで平均して包括適応度が高まるような状況に適応した心理が遺伝的に受け継がれているそうです。馬鹿な行動と言われることを男性はしてしまうのですね。それは、攻撃行動やリスクティキングの利益がコストを上回っていたからだと言う尾です。そういった行動はもちろん「プログラムされ」たり、「必然的な」ものであったりするけではありませんが、経験によて形成され、他よりも発現しやすい環境とそうでない環境があるのは確かです。

たとえば、重要な文化的資源を入手する機会が限られていて平均寿命が短い場合には、若い男性は、より慎重に息の長い接近方法をとるよりも、配偶者や獲得したい資源をめぐって精力的に競争をする方が理にかなっていますね。したがって、豊かな国の貧しい地域に代表されるそういった状況下においては、男性が他の男性に対しより高いレベルでリスクティキングや暴力行動を起こすことが予測されています。これは、アメリカにおけるアフリカ系アメリカ人の男性の殺人率に見られる傾向とまさに一致します。年齢傾向は白人系男性の傾向と類似しているそうですが、絶対的な割合はより高く、スラム街のアフリカ系アメリカ人が白人と比べて教育的、経済的機会に乏しいことと関連しています。このような傾向から、格差社会は、非常に危険な行為や、暴力行動を起こすことが多くなり、危惧されているのでしょう。

次にビョークランドアは、「関係」について考察しています。乳児の最初の関係は、その主たる養育者との愛着です。愛着は乳児と養育者との間に築かれる、親密で双方向的な情緒的絆のことであり、たいていは母親との愛着を指します。愛着は広範囲にわたる種において研究されており、「接近行動」「分離時の不安」「愛着対象が不安になった乳児を落ち着かせることができる程度」という3要因の組み合わせによって測定されることが多いです。現代のヒトの愛着研究は、言わずもがな精神分析学者で行動生物学者のジョン・ボウルビーに端を発しています。彼は、愛着の本質についての精神分析学的考えに進化論的視点を組み込みました。ボウルビーはローレンツが早成鳥で観察した行動である「刷り込み」と、ヒトの母親と乳児の関係に機能的な類似性を見出したのです。どちらも乳児にとって危険の高い時期に、乳児と母親が非常に近接させる機能をもつのです。ボウルビーは、ホモ・サピエンスの進化適応の環境において、乳児が自分の母親に愛着をもつようになる行動は、正の淘汰を受けたのであり、そのように「愛着を形成した」乳児は、「愛着を形成しない」乳児よりも生き残る可能性が高くなると主張しました。

永続的な母親と乳児の絆はヒトに特有のものではなく、当然、他の哺乳類、特に霊長類にも見られます。ボウルビーのもともとの関心事は、最も適応的な愛着のスタイルや、愛着をうまく促進させていく母親と乳児双方における心理的メカニズムを見極めることでした。

ビョークランドは、親、特に母親と乳児がもつ、おそらく進化によるメカニズムで愛着を育む役割を果たすものなど、愛着に関するボウルビーの主張の一部を検討しています。

リスクティキング

男性はすべての年齢で女性より身体的攻撃をよく用い、青年期や成人初期の男性の攻撃行動は、女性や青年期より年長および年少の男性の攻撃行動より重症に至ることが多く、死を招くこともあります。このように、青年期や成人初期に男性の暴力行為がより多いのは、アメリカや他の先進国に限られたことではなく、世界共通であり、親の投資における性差に由来するそうです。

この親の投資における性差については、以前のブログでも紹介しました。基本的に、子どもへの投資が多い方の性は配偶者の選り好みをし、子どもへの投資が少ない方の性は多くの投資をする性を手に入れるために競争するというものです。ヒトや哺乳類全般的に、メスの方が子どもに対して誕生前も後もかなり多くの投資をし、オスはメスを手に入れるために盛んに竸争します。もちろん、メス同士もオスをめぐって競い合いますが、その競争はオスが昔から競ってきたほど激しくはありません。このことはヒトのような種、つまり、ほぼ一夫多妻制が存在する種にはきわめて重要な問題であり、1人以上のメスを独占できるオスもいれば、まったくメスを手に入れられないオスや、あまり望ましくないメス、すなわち繁殖価が低いメスしか手に入れられないオスもいます。大半の哺乳類のメスは、非常に望ましい相手ではないにしろ配偶者を見つけます。それに対し、哺乳類のオスは適応分散が大きく、まったく交尾できないオスも多く存在します。その結果、競争的なリスクティキングを好むオスの心理に淘汰圧がかかります。そういったリスクティキングや、それに伴う暴力はオスが生殖期に入ったときに頂点に達しますが、それがヒトでは青年期にあたるようです。

リスクティキングや事故は、競争行動や「誇示」行動の結果であることが多く、同性の他のメンバーと競争したり、異性のメンバーに印象づけようとしたりすることが目的です。たとえば、自動車事故による死亡率は男性の10代後半で急増し、20代半ばで減少するまで増加し続けるそうです。女性も同様の傾向を示しますが、割合でいうと男性の半分だそうです。この傾向に対する仮説のひとつは、運転の機会と運転経験、それは、もっと若い10代の若者は運転できず、成人は運転経験があるということに関連していますが、女性の傾向はこれに反するそうです。10代後半に死亡率は上がりますが、20 ~ 24歳で下がるのだそうです。男性も女性もほぼ同数が運転するにもかかわらず、死亡率は同年齢で男性の方が2 ~ 3倍高いそうです。

リスクティキングの年齢差は、外傷患者の負傷の種類を調べることでもわかるそうです。そして驚くことではないとビョークランドは言いますが、女性の外傷患者の割合は、男性のおよそ3分の1で、ロサンゼルスはアメリカ、あるいは世界一般を代表するわけではありません、これらのデータは、銃が容易に手に入る近代都市において起こる青年や若年成人のリスクティキングの極端な結果を反映していると言います。

最後に、青年期と若年成人期の男性は殺人事件の被害者にも加害者にもなりやすいそうです。これは調査されたすべての文化や時期において見出されてきた現象です。1995年から1997年のアメリカにおける、年齢別、男女別の殺人事件の犠牲者の割合を見てみると、殺人事件の犠牲者になる可能性は女性より男性の方が高く、その割合は10代後半から20代初期にかけて上昇し、その後次第に減少していきます。殺人罪を犯す可能性については、それとほぼ同一の傾向をたどるようです。

青年期の仲間

子どもは青年と比べて、大人のそばで過ごす時間が多いため、子どもたちの行動は監視されており、乱暴な行動や、攻撃行動、反社会的行動は少なくなります。一方、青年は仲間と過ごす時間が多く、大人の監督の目から離れているのです。このように直接的に監視されないため、青年は少なくとも一時的に、自分の仲間集団の価値に従い、それが大人の価値とは正反対のこともあります。しかし、青年期に親子の断絶が突然起こることはあまりありません。親子の断絶がある場合には、子どもの自立と管理をめぐる問題を中心とする、親子の葛藤が一般に高まっているようです。

仲間との相互作用は、子どもの頃の空想をテーマにした遊びや、取っ組み合い遊びから、男子では身体を使うゲーム、女子ではあまり身体を動かさない社会的な相互作用へと変化します。さらに、男子が男子の仲間と相互作用をする程度と頻度は低下していきます。またこの時期に、男子は男女混合の仲間集団で時間を過ごすことが多くなるようです。男子で身体を活発に動かす行動が減少するのは、女子の身体を動かさない行動スタイルに合わせるためかもしれないと言われています。この異性間の相互作用はそれぞれが性的に成熟する時期と一致し、おそらく、異性関係や、最終的な結婚に興味を抱くことを反映しているだろうと推測されます。

児童期後半と青年期に目立ってくる攻撃行動のかたちは、いじめだそうです。いじめは、強い者が弱い者に攻撃行動をしつこく繰り返すものです。いじめは女子より男子に多く、大半の産業国の小学校人口の約10%で起こているそうです。いじめは、小学校から中学校への移行に伴って増加し、青年期に入ると再び減少します。それはおそらく、若者が中学校で新しい社会集団を作っていく際、いじめが優位性を確定するために用いられるということだと推測されます。たとえは、男子は同性の仲間をいじめるのに身体的な攻撃を用い、女子は他の女子に関係的攻撃を用いることが多いが、どちらも資源を獲得するためです。攻撃行動の割合は、優位性が確定した後に減少します。いじめの被害者には、身体的に弱く、友達や仲間が少ない子どもがなりやすいと言われています。たしかに社会的な親和的関係が欠如すると、いじめの被害者になりやすいようです。しかし、いじめの被害者が社会的ネットワークに入るか、いじめの加害者がいる場から離れると、被害の受けやすさは低下するそうです。事実、さまざまな状況でいったんいじめの被害者と見なされた子どもたちも、まったく「健常」な発達をしているようです。このようないじめの被害者の適応性は、代替方策の概念をかなりうまく表しています。つまり、資源は、最優位の者やいじめの加害者だけではなく、他の集団のメンバーも獲得可能なのです。たとえば、低地位の者は、他の低地位の仲間や、第一位の者に挑みたいと考えている高地位の仲間と協力関係を築くことによって、資源を入手することができるのです。

今回、中学校で道徳が教科化され、それに沿った教科書が発表されました。その内容で、どの教科書も取り上げているのが、この「いじめ」についてです。しかし、このいじめの分析を見ると、少しその対応は違っているように感じます。道徳だけではなくならない気がします。もっと、人類の進化からの考察が必要な気がします。

子ども期の社会的相互作用

では、社会的相互作用について子ども期ではどうでしょうか?就学前児の社会的相互作用の研究は、児童心理学者ミルドレッド・パーテンのミネソタ大学における博士論文が先駆けとなったそうです。彼女は、子どもの社会的参加を、一人行動、平行的行動、連合的相互作用、協同的相互作用という視点から記述し、この順序で発達が連続的に進むという仮説を立てました。私は、これには少し異論があります。それは、彼女の論文に影響されて、乳児期では、一人行動をとり、その後、ヒトとかかわりを持たない平行的行動が現れるとし、それまでは、子ども集団ではなく、親子の関係をしっかり構築すべきである考え方が広がってしまったのです。実際に乳児を見ていると、子どもは早いうちから子ども同士が関わります。しかし、それは必ずしも一緒に遊んだり、協力したりするわけではなりませんが、相手をじっと見て学んだり、真似しようとしたり、その後の社会的かかわりを学んでいる時期であり、そのためにも子ども集団が早いうちから必要であるということを訴えてきました。

しかし、その後の研究によって、協同的な相互作用は時間とともに増加していきますが、パーテンが言ったような社会的相互作用は、個体発生的な順序を表してはいないことが見出されています。それどころか、平行的行動は子どもが社会的集団に仲間入りする際に用いられる方略であり、一人行動は協同的行動と比べて必ずしも「未成熟」ではないということが最近は主張されるようになっています。

社会的行動を種間で比較してみても、未成熟期の子どもはかなりの時間を誰かと相互作用して過ごしていることがわかると言います。研究者のなかには、霊長類に特徴的な長い未成熟期の重要な機能は、その期間に子どもが社会的スキルや関連する認知を身につけられることであると主張する者もいるようですが、私もその考えに同意をします。

幼児期では歩行期と比較すると、身体的な攻撃が減少し、ことばによる攻撃が増加します。しかし、就学前児の攻撃は歩行期と同じように物をめぐる争いの結果生じることが多いようです。この時期に身体的攻撃が相対的に減少するのは、おそらく、子どもが認知的方略、たとえば、満足の遅延や、言語的方略、たとえば、代替方略を呈示して妥協するということをよりうまく使えるようになった結果であろうと考えられています。就学前の時期の子どもが認知的に高度化していることは、関係的攻撃を用いる能力にも表れているようです。この時期に子ども、特に女児は、数ある戦略のなかでも疎外したり、うわさを広めたりすることによって、社会的関係を攻撃的に操作し始めます。すでに議論し、かつ攻撃行動や協力行動は興味深いかたちで一体となり、優位性というかたちで集団の構造に影響を与えます。しかし、優劣関係における関係的攻撃の位置づけはよくわかっておらず、それはおそらく、女性の優劣関係が十分に研究されていないためであるのではないかとビョークランドは言います。

では、青年期になるとどうなるでしょうか?子どもと青年の相互作用の基本的な違いは、それぞれの年代の集団が時間を過ごす場所と相手の違いと関連していると言います。

他者への指向性

強く性差が現れる社会的相互作用のひとつに、女性の方が他者への志向性が高いことがあげられますが、この違いは乳児期から見出されるようです。たとえば、乳児期の女児は誕生直後から、男児よりも頻繁に顔や声のする方へ向くと言われています。乳児期や歩行期の女児は男児よりも共感的であり、他者の苦痛に反応を示すこともわかっています。たとえば、ザーン=ワクスラーたちは、 12ヶ月児と20ヶ月児の、他者の悲しみに対する反応を調べたそうです。それによると、女児は男児よりも悲しんでいる者をなぐさめたり、悲しんでいることについての情報を求めたりすること、たとえば、「どうしたの?」と聞くようなことが多かったそうです。また、女児は男児よりも、悲しげな表情を見せたり、相手を心配しているような共感的なことばかけやしぐさをしたりしましたが、男児は他者の悲しみに対して反応を示さない傾向が強かったそうです。

社会的相互作用に関するこういった基本的要素は、ヒト以外の多くの霊長類でも見られるようです。笑顔や遊びの表情はサルや類人猿にもあり、協力的、遊び的な働きかけであることを伝えるために用いられます。同様に、パターン化されたやり取りが遊びのかたちで、多くの哺乳類の社会的相互作用にも見られるそうです。たとえば、ネズミやハムスターの社会的な遊びは、相互の交代や同型の運動ルーチンが特徴的だそうです。

葛藤行動も乳児期に見られます。表情で表す怒りは乳児期に現れ、文化的な均一性があり、生物学的な基礎があることが示唆されています。4ヶ月までに乳児は確実に怒りを表出し、そうすることで社会的なコミュニケーションを行います。

1歳の間に、怒りや攻撃性はまずは養育者に、次に仲間に向けられます。母親との葛藤も進化論から説明できると言います。進化論によると、長期間乳児を世話することに対する母親のコストの懸念と、乳児が継続的な保護を求めることとの間で葛藤が生じるからだと言うのです。怒りの表出は個人の気質の違いに左右されるものの、ある研究では、歩行期の子どもは家庭で母親が見ている時間全体のうち平均7 %の時間、怒りを表出したそうです。自分と多いですね。平均でもこんなにあることを多くの母親が知ると少し安心するかもしれませんね。

一方、仲間に向けられた攻撃性は0歳代の終わりに見られ始め、それも、たいていは物をめぐる争いの状況で生じます。たしかに、歩行期の子ども同士の相互作用の大部分は葛藤的ですが、それ自体、攻撃的なものではありません。またこの時期に幼児はことばでけんかしたり、向社会的行動によっていざこざを解決したりするようになると言われています。

葛藤や攻撃性が資源をめぐる争いの状況でまず生じるのは、系統発生的な記録とたしかに一致しているそうです。先に簡単に説明したいくつかの要因、コストや相手の戦略、資源の価値といった要因次第で、攻撃行動は非常に効果的な戦略となったり、非効果的でコストのかかる戦略になったりします。また、歩行期の子どもが一般的に他児のおもちゃを欲しがるのは、必ずしも不適応と見なすべきではないと言います。ホーレーは、歩行期の子どもの限られた交渉能力を考えると、おもちゃを「取る」ことは資源を獲得する効果的な手段であり、「事実、世界に対する健全な主張的アプローチであり、結果的に、成長し生存していくための物質的報酬を得ることにつながるであろう」と指摘しています。もっと、このことを知っておく必要がありますね。大人のような略奪ではないのです。

社会的相互作用

なぜ強くて優位な立場にある個体が、公然と打ち負かした個体をなだめたり、慰めたりするのだろうか?という疑問を考察しています。実際、園現場ではそのような状況を目撃することが多くあります。ドウ・ヴァールの説明には非常に説得力がありますが、優位な動物は優位なスタイルをもっており、親和的関係を維持するために、様々な度合いの力と融和を使い分けているというのです。協力的、融和的な戦略は、優位な個体が従属者を必要としており、従属者が集団を自由に離れられる状況で用いられると言います。。

私たちは実際に感じていることですが、同様のことが、子どもについても報告されているそうです。たとえば、「開放状況」という、自由に集団を離れてよい状況では、集団を離れることができない状態である「閉鎖状況」と比べて、葛藤の解決や協力がより多く観察されるそうです。優位性を親和的関係や敵対行動から見る観点は、幼児期や青年期初期のデータと一致し、優位性は人気と有意な正の相関があります。優位性の階層の存在は、社会的知能の進化において決定的な役割を果たしてきた可能性があると言うのです。個体は所属する社会的集団における他者と比較した自分の階級に気づき、どんな行動が認められ、あるいは許されないのかを知り、他者がいつ規則を破ったのかということに気づき、どんなとき捕まらずにだますことができるかということにもおそらく気づかなければならないのです。この点からすると、個体は攻撃的行動を戦略的に用いていることになります。このような「マキャベリ的」な攻撃的行動は、「いじめっ子」でありながら、他者の視点をとることも、心の理論課題もかなりできる子どもや青年にも観察されていると言うのです。社会的推論が長い幼児期を持つ大きな脳の生物で進化したのは、こういった状況においてであっただろうとビョークランドは考えています。

彼は、次にさまざまな発達の時期、つまり、乳児期、子ども期、青年期における、子どもの相互作用、関係、集団について検討し、これまでに議論した進化発達心理学の減速や理論という観点から解釈しようとしています。議論の焦点の一つとして、社会的行動における性差を、特に成人役割の準備に関連する可能論があるものとして取り上げています。これらの内容は、私が提案する新しい知見からの集団の在り方、乳児からの他人との相互関係、そんなことに関係してきます。とても興味を持ちます。

比較的最近まで、乳児は自己中心的な存在であり、同年齢の子どもと相互作用する意欲も能力もないと見なされていました。しかし、乳児は2ヶ月頃には相互注視をするなど、基本的な社会的相互作用を示すことが明らかになっています。そして、生後1年間でより精緻な形式の社会的相互作用、たとえば、仲間に意識的に笑いかけたり、仲間の様子を意図的に見たり、仲間に反応を返したりするようになりますが、それは協力行動の基礎であるということがわかってきています。歩行期には、子どもは相互注視、パターン化したやりとりや、交代、相互模倣などといった「ゲーム」をするようになることがわかっています。私は、ある意味では歩行するという行為は、もしかしたら、積極的に人と関わろうとする時期の表れかもしれないとさえ思えるほど、時期が一致します。逆に、歩行によって、多くの人と関係を持つことが可能になるのかもしれません。