臥竜塾
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藤森平司ブログ 保育ブログ from保育環境研究所ギビングツリー
ja
2010-09-02T22:52:34+09:00
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龍馬と小楠
http://www.caguya.co.jp/blog_hoiku/archives/2010/09/post_1709.html
坂本龍馬が、勝海舟とともに長崎へ行く途中、熊本で「横井小楠」と会うのですが、龍馬はこのときに初めて会っているのではありません。実は4回目です。初めて会ったのは、文久2年(1862)8月に松平春獄の紹介で江戸でした。1858年4月には松平春嶽が当時31歳であったころ、横井のいた肥後藩に交渉して、50歳の横井を政治顧問に 迎えていたのです。彼を福井に招聘するように進言したのは、福井藩医の子として、当代一と言われた蘭学塾である緒方洪庵が作った「適塾」に学んだ橋本左内でした。彼は、開国交易に注目し、藩政改革の目玉として横井小楠を招聘することを進言し、がちがちの攘夷派だった藩主「松平春嶽」を開明的な君主に変貌させたのです。そして、横井小楠と組み、藩主松平春嶽を徳川幕藩政治の中枢に押し出したのです。そのために、横井小楠を家老の上である藩主のすぐ下に置き、藩全体の政治顧問として扱い、藩政改革を推進していきます。そのために、福井藩は、わずかな年数で、貧乏藩から一躍雄藩に変貌します。そんな福井藩に、神戸海軍操練所をつくる時、幕府からは自前で金を集めるよういわれ、出してもらえなかったとき、海舟の使いとして龍馬が福井藩へ出向き、春嶽に交渉して資金を借りた話が、「龍馬伝」で放映されました。
その横井は、安政2年(1855)から明治元年(1868)に維新政府に招かれて上京するまで、福井藩にいた間を除く前後8年を、熊本市の東はずれ、秋津町沼山津に居宅を構えます。そこを、四季の眺めを楽しめるというところから「四時軒」と名づけ、自らも沼山と号しました。そして、そこで学問と思想を若い藩士に教えていました。

今は、横井小楠記念館として業績の紹介と遺品などを展示しています。ここに、龍馬は3度やって来ています、ここに初めて来たのは、龍馬が横井と会うのは4度目でしたが、勝海舟のお供として訪れた時です。私も先週末、ここに初めて訪れたのです。その建物から眺める外の景色は、遠くに山並みが見え、まだまだ暑い夏の景色でしたが、さぞかし、その名の通り四季の風景が美しいことでしょう。また、龍馬と横井が対談した11畳の客間が、昔のままの姿で残っています。横井は、その時に龍馬の話を聞き、「海軍問答集」を執筆することになるのです。

また、このときに横井と会った勝海舟は、後に「氷川清話」のなかで、「今までに恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と西郷南洲だ」と述べています。しかし、坂本龍馬が、6回目に会った慶応元年(1865)5月、二人は意見の対立をみて、けんか別れをしてしまいます。龍馬は、元治元年8月、西郷と意気投合、長州藩の薩摩不信を除去するよう仲立ちしていました。坂本は、この「薩長同盟」の推進に、横井にも力を貸してほしいと思います。しかし、当時の小楠は、沼山津蟄居中で、その構想が理解できず、幕府の第2次長州征伐への熊本藩の対応をめぐり二人が激論になります。二人の論争は一昼夜におよび、しまいに龍馬が先生の説は凡人以下になってしまったとして、「先生といえども、こんな僻地にいると天下の事情に通じておられない。今、天下に勤王をもって称せられるものは、薩摩と長州をおいてどこがありましょうか。この二藩にかけるべきでしょう」と悪態をついてしまいます。そこで横井は怒って「坂本君、もう二度と来るな、帰れ!」と怒鳴りました。「帰りますとも。わしは西郷や大久保と大芝居をやりますきに、先生は二階にすわって酌でもさしながら見物していてつかされ」と言って喧嘩別れしたエピソードも残っています。横井は、禁門の変など長州の暴発は「私」であるとして、日本の「公」のため叩き潰すべきである、と思ったのです。しかし、のちに横井は長州への誤解を解いて、龍馬の考えを追認することになり、また龍馬は、生涯、小楠を尊敬し、明治維新政府の参議に推薦しています。
坂本龍馬は、日本せましと動き回りますが、それは、地理的だけでなく、人的にもいいと思った人にはすぐに接触した積極性があったようです。熊本城の近くに横井小楠をめぐる群像が置かれてありました。(前に横井小楠、後ろに左から坂本龍馬、勝海舟、松平春嶽、細川護久)

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講演先にて
fujimori
2010-09-02T22:52:34+09:00
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熊本から長崎
http://www.caguya.co.jp/blog_hoiku/archives/2010/09/post_1708.html
NHK大河ドラマ「龍馬伝」を見て感心するのは、当時活躍している人の行動範囲の広いことです。テレビでは簡単に江戸から京都、そして長崎と画面が変わりますが、その移動には飛行機ならわかるのですが、新幹線を使ってもかなり時間がかかります。それを、当時おもに歩いての移動ですから、大変だったと同時に時間がかかったでしょう。坂本龍馬に限らず、いろいろと活躍した人の足跡を見ると、その移動距離はすごいものがあります。ただ、テレビで見るほど、何回も行ったり来たりはしていないかもしれませんが。

最近の龍馬伝の舞台は京都です。先日も今日の薩摩屋敷が放映されていました。薩摩屋敷は、現在の同志社大学の構内の中にありました。敷地は、5800坪(19000㎡)9棟の建物もあるほどの広さだったようです。一方、長州屋敷は、木屋町通、御池通の北に京都藩邸がありました。現在は京都ホテルオークラが建ち、桂小五郎像と長州屋敷跡の碑が建っています。もう一つの舞台は、寺田屋がある伏見です。ここを行ったり来たりしています。

また、少し前までの主な舞台は長崎でした。坂本龍馬が亀山社中を立ち上げた長崎です。その前は、江戸でした。そして、江戸から神戸へと移ります。勝海舟の海軍塾の塾頭だった坂本龍馬は、英仏米蘭4カ国連合艦隊の長州攻撃を阻止するために、海舟とともに外国勢との調停役としての幕命を帯びて、当時海軍塾のあった神戸から長崎へと旅立ちます。その時の道中のことが、勝海舟 による「海舟日記」に書かれています。
往路では、10日間かかり、復路は9日間かかっての旅のようです。まず、往路についてこう書かれてあります。
「元冶元年 (1864年)2月14日神戸を出港」とあります。まず、瀬戸内海の海路を進みます。当時の乗り物の第1は、船利用です。日本は、海で囲まれ、国土の中を川が走っています。水路利用は、さまざまな商品を運ぶ上でも重要であり、その為に、栄えた町は港とか、川に沿ってありました。その船は、「15日佐賀関に入港。徳応寺に止宿」とあるように、大分県に着きます。現在でも、国道九四フェリーが九州大分県佐賀関と四国愛媛県三崎(佐田岬半島の先端)を最短航路(31km)をわずか70分で結んでいます。また、この間の豊予海峡で捕れる関アジや関サバは有名です。徳応寺 にある第10世住職によって書かれた「日本人物誌」には、勝海舟 が 佐賀関 に上陸したことを絵入りで紹介し、宿泊 したことが記載されているようです。
その後は、九州横断の陸路を取ります。「16日豊後鶴崎の本陣に宿泊。17日野津原に宿泊。18日久住に宿泊。19日内の牧に宿泊。20日大津宿を経て熊本城下新町の本陣に宿泊」とあるように、肥後街道を歩いていったようです。龍馬は、各宿泊地では偽名で泊まったようです。熊本に着いた龍馬は、海舟の使いで横井小楠を訪ねています。その後何度かここを訪ねるのですが、先週末、講演の合間に横井小楠記念館に連れて行ってもらいました。彼については、明日書いてみようと思います。
そして、「21日夜大津宿より乗船。島原へ渡る。21日払暁、島原へ着船。城下本陣へ休息。直ちに出立。」とあります。先週末、私も龍馬同様、熊本から船で島原に上陸しました。私が上陸した港の近くに、坂本龍馬が上陸した碑が建っていました。その前の日のNHK大河ドラマ「龍馬伝」では、「薩長同盟」を結んだ日のことをやっていましたので、感慨深いものがありました。

「此地より長崎迄は、土地磽かく、田畑の間大石雑わり、小石、道路満ちて甚だ悪し、雲仙の嶽噴火せしによるか、西洋に云うラアの之年を経しものあらむ。22日会津(愛津)に宿す。23日長崎着、日見峠甚だ難所、直ちに奉行之御役宅へ行き面会、洋船未着之由を聞く、福済寺旅宿となる。」こうして、長崎に着いたのです。私も今日まで長崎で研修です。
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講演先にて
fujimori
2010-09-01T23:07:23+09:00
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集中
http://www.caguya.co.jp/blog_hoiku/archives/2010/08/post_1707.html
以前、文科省に聞いたのですが、今ある小学校で、1時間の授業時間を短縮する試みが行われているそうです。その内容が、昨日の朝日新聞に取り上げられていました。「授業時間 割ったり足したり」という記事です。現在、授業一コマは小学校45分、中学・高校は50分がスタンダードです。私の高校は、都立高校という公立校でしたが、1コマ100分で、1日3コマでした。ですから、時間割は2週間で1サイクル、最後の土曜日は休みでした。それが、近年、教える内容に応じて短く「小分け」にする試みが続いているようです。それは、どうも「子どもの集中力が落ちている」ことが原因のようです。
最近行われている試みとして鹿児島県のある中学校では「放課後モジュールタイム」ということで、25分間の授業を1日の終わりに設けているそうです。現在の学習指導要領が施行されてから、1コマの授業時間を必ずしも50分としないで弾力的に運用することが可能になっているからです。この中学校での生徒の感想は、「集中して勉強ができた」「苦手なところがわかった」というようなもののようです。
「集中力」という著書がある立正大学名誉教授である山下登美代教授は、朝日新聞の記事の中で子どもの勉強に集中できる時間の限界は、「一般的には小学生は『学年×10分』と言われています。」と話しています。低学年の頃は、周りの音などに反応し、すぐに注意がそれがちですので、教員は逆に音を出したり絵を使ったりして子どもの目をうまく導かなければなりません。しかし、それが高学年になるにつれて、やる気や好奇心が育って集中力がついてくるものですが、近年は全般的に子どもの集中力が落ちたと言われています。それに対して山下教授は、「小学校高学年でも、音や視覚効果で子どもたちの関心を引く必要が出てきている。背景には社会環境の変化がある」と言っています。今のテレビやゲームは、限られた画面の中にたくさんの情報が流れています。「目や耳からたくさんの刺激が入ると、注意が分散している状態になる。それが子どもにとって当たり前の生活になると、例えば先生一人の声を耳で聞いているだけの授業はひどく耐えがたいものになってしまう」というのです。
このような背景を踏まえ、授業時間を短くする試みは、なんと大学でも始まっているそうです。メールやツイッターをやっていると、「読む」「聞く」「書く」はすべて短いし、テレビのインターネットは興味があるところだけ見る。おもしろくなければすぐ他のページに行く。最近の若い世代の特徴をこうあげます。そして、この記事の中で、今の学生たちは、IT機器を短い時間で同時並行的に使いこなすというように、今の社会ならではの知識を得る方法にたけている面もある。集中力は当然身につけさせたいが、昔からの授業スタイルを押しつけて才能を消してもいけない。悩ましい問題ですと結んでいます。
最近、世界では「乳幼児期における権利」を検討していますが、この「乳幼児期」とはいつのことを言うかというと、出生、乳児期、就学前期間、および、学校への移行期にあるすべての子どものことを指すようになっているようです。それは、出生から8歳までの期間を乳幼児期に関する適当な作業的定義として提案しているのです。小学校入学する時期を境に昔からの学校教育方法に切り替えるのは、どうも無理があるようです。
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保幼小
fujimori
2010-08-31T22:18:25+09:00
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共生の中での共食
http://www.caguya.co.jp/blog_hoiku/archives/2010/08/post_1706.html
昨日のドイツの写真を見ていくつか気がつくことがあります。保育者が乳児に離乳食を食べさせる場面を周りで取り囲んでみている子どもたちは、さまざまな年齢の子たちがいることです。発達過程の異なる子どもたちが複数で取り囲んでいるということです。このような風景を見ると、日本では、それでは乳児は周りが気になり、気が散って落ち着いて食べることはできないのではないかということを危惧するでしょう。乳児にとっては、食べさせてくれる大人一人だけを見ることによって、誰が食べさせてくれているのか、また、きちんとここの発達を理解した人がいることが子どもに安心感を与えると思われています。また、家庭ではお母さんは一人であり、いろいろな人に見てもらうわけではないということも言われます。しかし、人はいろいろな環境で育ち、その環境から保育のモデルを求めることがありますが、私は下町で育ちましたが、お母さん一人が必ずしもいつも子どもの世話をしていることはありませんでした。家にはお子守さんがいたり、お手伝いさんがいたり、また、近所のおばちゃん、いろいろな人に抱かれて育ちました。また、家族内にも兄弟がたくさんいましたし、祖父母がいた家庭も多くありました。いつも同じ人がおむつを替えたり、食事を食べさせたりしてはいませんでした。ただ、それらの人々は、突然ある日子どもを見ていたわけではなく、普段から、社会みんなで子どもたちを見守っていたのです。子どもたちが安心感を持つのは、お母さん一人が自分を見ていてくれるのだという気持ちよりも、地域の人みんなが見てくれているのだという確信のほうが精神的に安定をもたらしていた気がします。これは、隣の家が遠いところにある過疎地などは違うかもしれませんが、逆に村の人がみんな家族という意識だったような気がします。
川田学準教授は、学術集会の中でこう言っています。「親が子どもと向き合って、じっくり食事をとるということは大切なことかもしれません。しかし、幼い子どもにとって食には遊び的要素だ満載で、思い通りにはなりませんし、1対1で向き合っていると息苦しくなることもあるように思います。」かつて、あるベテラン保育者から言われたことがあります。「食事は遊びではあるまいし、手でぐちゃぐちゃ食べたり、手づかみで食べたりするなんともってのほかです。ですから、私たちは、乳児から子どもの後ろに回って、キチンと手を添えてあげてスプーンの使い方を教えるのですよ!」もちろん、食事は大人のいう「遊び」ではありません。しかし、子どもにとっての学びである「遊び」であることとしての食として見直さなければなりません。しかし、どうしても子どもの行動を母親がネガティブにとらえてしまうのは、現代的な環境にあると川田さんは指摘しています。「乳児と若い親という、発達的に最もかけ離れたペアによる1対1の食事ですと、子どもが他者を観察し、好奇心を働かせる余裕(遊び)が、また美味しそうに食べるのを見て思わず手を出してみたり、食具使用を模倣したくなるというプロセスがなかなか生まれにくいでしょうし、いきおい、“食べなさい”“遊ぶ”“自分でやりたがる”という面が、ネガティブにとらえられ、葛藤だらけの食事になってしまうこともあるでしょう。」
育児の中で、子どもの行動をネガティブとして受け取ることは、何も食事の場面だけではなく、子どもの特徴であるさまざまな行動についても起こりうることのような気がします。それが、最近の子どもへの虐待につながることになっていることもあるような気がします。子どもの遊び、生活の中で子ども集団での行動としての「共生(協力)」も「共食」と同じように人間としての特徴であることをもう一度思い出すべきでしょう。
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近頃思うこと
fujimori
2010-08-30T22:26:45+09:00
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共視共食
http://www.caguya.co.jp/blog_hoiku/archives/2010/08/post_1705.html
今日から、このブログも6年目に入りました。
おんぶには、スキンシップという面だけでなく、こんな役目があることをアーノルドという人が指摘しています。「(おんぶによって)あらゆる事柄を目にし、ともにし、農作業、凧あげ、買い物、料理、井戸端会議、洗濯など、身の回りで起こるあらゆることに参加する。彼らが4つか5つまで成長するや否や、歓びと混じりあった格別の重々しさと世間知を身につけるのは、たぶんそのせいなのだ。」このように子どもたちが他の人がするのを見ることは、社会性の発達の中で重要な役割をしていたのではないかということが最近発達心理学の中で重要視されてきているそうです。この行動を「共同注視(ジョイントアテンション)」というそうですが、おんぶにはそのような効果があったのであろうという指摘は、とても面白いと思います。
同様に、最近、食事をみんなで一緒に食べることによる社会的認知的発達や、自己と他者理解に効果があるのではないかということを、香川大学の川田学準教授「食の中の模倣過程と自他関係の形成」ということで発表しています。これは、おんぶ同様に、みんなで食べる意味を社会性の発達の中で重要であるとするのは、とても面白い観点だと思います。いままで、みんなで一緒に食べることで食欲が増すということは知られています。また、最近、他の人と食べることで味覚が変わることもわかってきています。いわゆる、たくさん食べようとする意欲が生まれたり、好き嫌いがなくなるのは、みんなで食べることによるということが分かってきているのです。
最近、どこでも「食育」ということが言われていており、新しい学習指導要領、幼稚園教育要領、保育所保育指針にも食育が取り上げられ、食の営みとして見直されてきています。一方、一時期、家族の生活リズムの違いから子どもたちが一人で食事をするという個食や孤食が問題になり始めました。また、孤食をさびしいと感じずに、好むようになってきた子どもたちも問題になってきています。また、一緒に食卓で並んで食べていてもそれぞれのメニューが違う個食ということも問題になっています。また、乳幼児では基本的にはだれかに食べさせてもらわなければなりませんので、孤食はないのですが、母親と乳幼児2人きりで食事をするというケースが多いようです。
人類学的視点から見たヒトの食は、「人間は料理をする動物である」および「人間は共食する動物である」といいます。複数の個人が集って食事をするという共食が、ヒトの食を特徴づけ、また、人類における家族の起源と共食は深い関係にあり、子どもは家族を中心とした共食環境の中で、食行動や食文化はもちろん、他者理解や社会的ルールを学ぶ機会を得てきたのです。特に、食の基本が形成される乳児期では、多くの発達過程が見える中での食事は、食の自立、食具使用の発達、社会認知的発達においてとても重要であったようです。
最近取り上げられる「食育」は、栄養指導、料理活動、栽培活動での事例が多く、どれも「食材」に焦点が当たっていますが、誰と食べるかも重要です。そういう意味では、少子社会において、幼稚園や保育所で、子ども集団による食事はとても意味があります。特に、乳児からの食事も大人との二人きりで食べることは見直さなければならないようです。今年ドイツに行ったときに、園で保育者が乳児に食事を与えている姿を、幼児にも見せていました。

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近頃思うこと
fujimori
2010-08-29T21:56:07+09:00
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文明化
http://www.caguya.co.jp/blog_hoiku/archives/2010/08/post_1704.html
外国人が日本や日本人を見て素晴らしいというのは、必ずしも的確な指摘ではなく、未知のもの、東洋的なものへのあこがれからよく見ることもあるでしょう。しかし、その誇張の中にも、我が国を客観的に見たときに、そのように見えるのだということも確かですし、数カ国を旅した中で、他の国の批評を見ると、必ずしも誉めているわけではないことがわかります。明治維新の直前の1865年に、トロヤの遺跡を発掘したドイツ人ハインリッヒ・シュリーマンは、日本と清国を訪れています。そして、その両国で見聞きしたこと、考えたことを細かく記した「シュリーマン旅行記、清国・日本」という本が出版されています。そこに書かれてあることは、彼の目、外国人の目からですので、確かな評価かわかりませんが、なんだか、今の日本にも当てはまることがあります。彼は、その書籍の中で、日本の文化・風俗、教育は賞賛しているのですが、当時の政府の政治活動には厳しい評価をしています。どうも、日本というのは、文化は素晴らしいものを持っているのですが、政治や外交は下手のようです。たとえば、「封建体制の抑圧的な傾向は民衆の自由な活力を妨げ、抹殺する方向に動く」と、幕末の封建制を批判しています。また、「この国の将軍は各地に散在する大名らの利害を優先的に考えるあまり、外国との自由な接触によって莫大な利益を得、知的道徳的な進歩が促され、封建体制による支配が揺らぐことを危惧している。」と、民衆よりも一部の階級を大切にし、利権を中心にした幕府の政治は、もうすぐ崩壊することを危惧しています。
その厳しい指摘に反して、日本における教育は称賛しています。「日本には、少なくとも日本文字と中国文字で構成されている自国語を読み書きできない男女はいない」と記し、「教育はヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている」と、絶賛しています。江戸後期から幕末期における日本の教育水準は、来日した外国人にとっては驚きの的だったようです。そして、人々の勤勉で誠実で清貧なところ、町の清潔さに驚き、特に工芸品の巧みさについては、「工芸品において蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に達している」と大絶賛です。そして、「この国には平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序、そして世界のどの国にもましてよく耕された土地が見られる」と高く評価しており、「文明という言葉が物質文明を指すなら、日本人は極めて文明化されて」いるという言葉を聞くと、明治以降の「文明開化」というのは、何を指しているのかと思ってしまいます。
大森貝塚を発見したモースは、日本の風習の中でおもしろい所に目をつけています。彼の著作「日本その日その日」に、スケッチとともにこんなことが書かれてあります。「子どもを背負うということは、至る処で見られる。婦人が5人いれば4人まで、子どもが6人いれば5人までが、必ず赤ん坊を背負っていることは誠に著しく目につく。(中略)赤ん坊が泣き叫ぶのを聞くことはめったになく、又私は今迄の処、お母さんが赤ん坊に対して癇癪を起しているのを1度も見たことはない。私は、世界中に日本ほど赤ん坊のために尽くす国はなく、また日本の赤ん坊ほどよい赤ん坊は世界中にないと確信する。」そう言えば、最近、電車の中や町の中で、赤ん坊が火がついたように泣いているのに癇癪を起している母親の姿をよく見るようになりました。私が子どもの頃は、そう言えば、それほどそんな光景は見なかったような気がします。それは、おんぶのおけがだったのでしょうか。
また、おんぶの効用をスキンシップという面だけでなく、こんなことも言っています。「小さな子どもを一人家に置いて行くようなことは決してない、彼らは母親か、より大きな子どもの背にくくりつけられて、とても愉快に乗り廻し、新鮮な空気を吸い、そして行われつつあるもののすべてを見学する。日本人は確かに児童問題を解決している」
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江戸文化
fujimori
2010-08-28T21:53:59+09:00
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江戸の教育
http://www.caguya.co.jp/blog_hoiku/archives/2010/08/post_1703.html
薩摩スチューデントたちや長州ファイブのメンバーたちが広い世界から受けたカルチャーショック、驚き、恐れ、それにもまして好奇心の旺盛さから、近代日本の建設に活かそうという若い情熱を感じます。また、メンバーの体験は、自分たちの国をその内側からではなく、外側から客観的にとらえていくという共通の経験があることによって、帰国してからのつながりができていったような気がします。
しかし、明治になっての変化は、江戸時代が長く維持され、鎖国政策の中で外国に左右されず、長く緩やかな日本型の合理化・近代化をしていったのです。その近代化は、他国の影響を受けないだけに非常に自律的な形をしていました。ですから、寺子屋への就学率も、義務教育という形はとらなくても、世界の中で非常に高い就学率を誇ることができたのでしょう。その自律的な近代化は、この過程で現在まで続く日本型社会を形成してきました。そして、その中でも何々の改革が何度か行われています。その改革で、国家システムは合理化され、国家主導のもとで、国民教育も大いに普及したと言われています。
すべての近代化が、明治維新によってはじまったというのは間違っていて、規制緩和、地方分権、首都機能移転などの今日的な政治課題同様、教育制度においても、江戸時代に国民諸階層の教育制度が整備されており、幕府、藩、庶民のレベルでの郷学、町や村の寺子屋など、国民的規模で整備されています。この整備は、国家が庶民を教育の対象として捉えていたことは、日本では教育に対する国民の意識が高かったことを示しています。そして、この国民的規模での社会の近代化・均質化が、明治以後活躍した人材の育成に貢献したのです。
江戸時代の教育が非常に進んでおり、その中で、以前のブログでも何回か取り上げたのですが、最終的には四書、五経という儒教の基礎を勉強させるべきと述べていますが、それまでには、発達段階に応じた教材として往来物の利用をしてきたことがあります。その様子を、外国の人からはどのように映っていたか、いろいろな書物から知ることができます。
黒船に乗ってきたペリーは、「ぺルリ提督日本遠征記」の中で、本が安く大量に売られていることを驚き、「教育は同帝国至る所に普及して居り」と、教育の普及ぶりを評価しています。プロイセンの画家ハイネは、「ハイネ世界就航日本への旅」という書物の中で、子どもたちがしっかりと男女ともに小学校に入って勉強し、読み書きと祖国の歴史を教わっていると書いています。同じことが、イギリス外交官の秘書ローレンス・オリファントも、「エルギン卿遣日使節録」で、「子供たちが男女を問わず、またすべての階層を通じて必ず初等学校に送られ、そこで読み書きを学び、また自国の歴史に関するいくらかの知識を与えられる」というように書いています。また、ロシア海軍軍人ゴロウニンは、「日本幽囚記」に、「日本の国民教育については、全体として一国民を他国民と比較すれば、日本人は天下を通じて最も教育の進んだ国民である。日本には読み書き出来ない人間や、祖国の法律を知らない人間は一人もゐない」また、「しかしこれらの学者は国民を作るものではない。だから国民全体を採るならば、日本人はヨーロッパの下層階級よりも物事に関しすぐれた理解をもってゐるのである」と、非常に高い評価が記されています。スイスの全権主任アンベールは、「アンベール幕末日本図絵」上巻で、「成年に達した男女とも、読み書き、数の勘定ができる」と、驚いています。イギリスの初代駐日公使オールコックは、「大君の都」に、「日本では教育はおそらくヨーロッパの大半の国々が自慢できる以上に、よくゆきわたっている」と述べています。
外国に行った日本人は、いろいろな進んだ文明に驚いていますが、日本に来た外国人たちは、日本のすすんだ教育に驚いているのです。
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江戸文化
fujimori
2010-08-27T23:16:57+09:00
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幕末に
http://www.caguya.co.jp/blog_hoiku/archives/2010/08/post_1702.html
いよいよNHK大河ドラマ「龍馬伝」が大詰めに近づいてきました。龍馬というと一番の功績と言われるのが、中岡慎太郎と奔走し、犬猿の仲であった薩摩藩と長州藩を結びつけた「薩長同盟」です。

竜馬と慎太郎像
私が子どもの頃は「薩長連合」と言っていたのですが、最近では「薩長密約」とか「薩長盟約」と呼ばれることも増えてきました。テレビを見ていると、本当に薩長は仲が悪いようですが、どうなのかはいろいろな説があるようです。しかし、どちらにしても、両藩がその後の倒幕の中心になっていくのは確かですし、明治になってからも多くの要職を薩長で占めていたことも事実です。その影響を、今でも感じるくらいですが、なぜ、薩摩と長州が中心になったのでしょう。その理由の一部は、両藩とも先を見る力があったということでしょう。先を見るというのは、攘夷と言いながら、欧米の文明の進んでいることを認め、攘夷などはできるものではなく、それよりも早く欧米の文化を学んだ方がいいと思っていたことです。
実は、薩長は同盟を結ぶ前から、同じような考え方をし、両藩の関わりを持っていたのです。薩摩藩は、薩英戦争でイギリスと戦って、イギリスの文明のすすんでいることを目の当たりにします。そこで、攘夷の不可能を悟り、1865年、島津久光の意向でイギリスに国禁を犯して15名の留学生と4名の引率者を派遣しました。その薩摩藩派英の留学生のことを、「薩摩スチューデント」と呼びました。このメンバーであった森金之丞(森有礼)は、外務卿、初代文部大臣になりますし、松村淳蔵は、海軍中将、畠山丈之助(畠山義成)は、東京開成学校(東京大学の前身)の初代校長になります。
一方、これに先立って、これより数年前に長州からも秘密裏にイギリスへ留学のため派遣された5人がいました。こちらは「長州ファイブ」呼ばれ、映画にもなって話題になりました。メンバーの5人は、それぞれ功績を残しています。井上聞多(井上馨)は、初代外務大臣で、欧化政策を推進し、不平等条約改正に尽力します。遠藤勤助は、造幣事業に一生を捧げ、「お雇い外国人」から独立し、日本人の手による貨幣造りに成功します。山尾庸三は、グラスゴーで造船を学び、明治4年に工学寮(のちの東京大学工学部)を創立し、また、聾盲唖教育の父とも呼ばれています。伊藤博文は、もちろん初代内閣総理大臣となり、大日本帝国憲法を発布します。野村弥吉(井上勝)は、鉄道の父とよばれ、新橋-横浜間に日本初の鉄道を敷き、以後、全国の鉄道敷設工事を指揮しました。岩崎彌太郎とともに小岩井農場を創設します。
イギリスでは、時を同じくしてイギリスの留学していた薩長は交流をしていたようです。それにしても、イギリスに着くまでに見た外国の姿や、イギリスに着いてからも驚きの連続だったでしょうね。そんな日本人を見たイギリス人は、日本人はなんと野蛮で遅れている国民なのだろうと思いますが、しばらくしてその日本人たちは、農機具などすぐにマスターし、イギリス人たちを指導するようになります。今度は、イギリス人たちは、日本人はなんと優秀な国民だと思うようになります。それは、彼らのあくなき探究心の現れですが、もうひとつは、江戸時代の教育の成果ともいえます。
進んだ外国の文化に触れて驚く彼らですが、実は、日本の文化も決してひけをとらない高い水準を持っていたのです。
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近頃思うこと
fujimori
2010-08-26T23:52:46+09:00
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納得
http://www.caguya.co.jp/blog_hoiku/archives/2010/08/post_1701.html
日曜日の朝9時になると、東京ではTBSラジオから天地総子さんの声で「ダイヤル ダイヤル ダイヤル ダイヤル 回せば ジャカスカ ジャカスカ … 子ども 電話相談室!」という元気な歌声が流れ、「全国こども電話相談室」が始まります。この番組は、1964年7月13日から2008年9月28日まで続いた人気番組です。司会者で印象に残っているのは、高階鈴子さんで、1966年4月から1970年5月まで担当していました。回答者として印象に残っている人として、永六輔さん、無着成恭さん、大橋巨泉さん、動物園長の矢島稔さん、そして、ドラえもんの声で回答していた大山のぶ代さん、天気のことについて回答した森田正光さんなどがいました。
この番組では、子どもたちがさまざまな大人が答えに困るような質問や、今更聞けないような質問が多く出て、大人にも人気があったのですが、もうひとつ印象に残ることがありました。アナウンサーの女性の方が、回答者が答えたあとで「わかりましたか?」とか「わかった?」と念を押していたのを、ある時から全く言わなくなったことです。たぶん聴取者から局に、「しつこく子どもたちに念を押すのはどうか」とか「無理やりに子どもたちに納得させるのはどうか」という苦情がいったからだと思います。
子どもたちはさまざまなことに興味を持ち、好奇心を持ち、知りたがります。よく大人に「なぜ?なぜ?」と質問をします。その問いに大人が答える時に、どの程度まで説明するのかを迷うことが多くあります。それは、質問をした子どもの理解度が年齢などによって違うからです。逆に、小さな子どもにわかりやすく説明するのは、とても大変です。たとえば、「テレビはどうして映るの?」と3歳児に聞かれたときにどう答えたらいいかわかりません。
また、大人に対しても相手に納得がいくように答えるのはなかなか難しいことです。しかも、相手にだけ納得がいく答えをしていても、他の人にとって納得がいくものでなければ単に独りよがりにすぎないのです。以前のブログで紹介した「理科」という教科を学習するうえでの考え方があります。一人の人が納得がいったというのは、この人の頭の中で矛盾のない,調和のとれた一つの自然科学的な知識の体系ができたからですが、それは出発点であり、さらに,いっそう進んだ,あるいは完全な科学となるためには,納得のいった主体である自分を検討しなければならないといっています。この主体である自分が,単なる一個人限りのものであると,実は科学とはいえず、独りよがりでなく,多くの人が判断しても同じ結論が得られるものでなくてはならない。ということは,多くの人の経験した事実にも矛盾しない解釈が下されているということになるのです。これは,科学が主観的なものでなくて,客観性のあるものだといわれることだといいます。また,条件が同じであれば,常に同じ結果が,どこでも,いつでも得られなくてはならず、これか科学の普遍性といわれるものであるのです。
このように納得のいった解釈が,客観性や普遍性をもっているならば,このような解釈で築きあげられている知織の体系は,完全な科学ということができるのです。そして、そのような科学を子どもたちは,それぞれの発達の段階において持っていると考えられているのです。そして、その知識の体系は,だんだんと発達していき、次第に広く,深くなるのであって,子どもの科学といわれるものは常に進歩すると考えてよいです。ですから、幼児の疑問に対しては、質問に答えることではなく、そのことへの理解が深まるまで疑問を持続させることに意味があるのです。そのために不思議さに共感することが必要になってくるのです。
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近頃思うこと
fujimori
2010-08-25T20:35:48+09:00
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太平
http://www.caguya.co.jp/blog_hoiku/archives/2010/08/post_1700.html
夏目漱石の「吾輩は猫である」という小説は、彼を自己本位の境地を自覚させることになるのですが、同時に、ロンドンで悪化した神経衰弱を和らげるために書かれたものであると言われています。そのため、自己本位に至る経過の中で、西洋かぶれを揶揄し、少々投げやり的なところがあると同時に、しばしば神経衰弱から逃れようと必死になっている姿も感じることができます。私は、この小説を読んで、その苦しみと、居直りは人へのやさしさと感情の繊細さからくる苦しみであり、誰でも持ちえている部分である気がします。
その時の気持ちが、この小説の最後の場面によくあらわれている気がします。
「吾輩は猫である」の冒頭は、人によく知られてはいますが、最後のどうなるかはあまり知られていません。主人公である名前のない「猫」である自分は、「気がくさくさして」ビールを飲んでみようと思います。しかし、そんなにおいしいものではありません。命のあるうちに、なんでもやってみようと思うのですが、舌の先がピリピリして、腐った感じがしておいしくありません。しかし、人間だって「良薬は口に苦し」と言って薬を飲むのだからと思い、我慢をして飲みます。二杯飲んだところで酔ってきます。そして、ふらふらと外に出て行ったところ、なんと、水の入ったかめの中に落ちてしまいます。水を掻いても、後足で立ち上がろうとしてもそこに足がつきません。
もがいて、前足で縁をがりがり掻いても少し浮きあがるだけで、すぐに潜ってしまします。そのうちに体が疲れてきます。気は焦りますが、足は利かなくなり、自分が何をしているかもわからなくなります。そんな苦しさの中で、こんな風に考えます。
「その時苦しいながら、こう考えた。こんな呵責に逢うのはつまり甕から上へあがりたいばかりの願である。あがりたいのは山々であるが上がれないのは知れ切っている。吾輩の足は三寸に足らぬ。よし水の面にからだが浮いて、浮いた所から思う存分前足をのばしたって五寸にあまる甕の縁に爪のかかりようがない。甕のふちに爪のかかりようがなければいくらも掻いても、あせっても、百年の間身を粉にしても出られっこない。出られないと分り切っているものを出ようとするのは無理だ。無理を通そうとするから苦しいのだ。つまらない。自ら求めて苦しんで、自ら好んで拷問に罹っているのは馬鹿気ている。
「もうよそう。勝手にするがいい。がりがりはこれぎりご免蒙るよ」と、前足も、後足も、頭も尾も自然の力に任せて抵抗しない事にした。」
必死になって、その場から脱しよう脱しようとすればするほど、どうにもならなくなることを悟ります。無理を通そうとするから苦しいのだとわかります。もう、自然に任せようとします。そうして、こう最期を迎えます。
「次第に楽になってくる。苦しいのだかありがたいのだか見当がつかない。水の中にいるのだか、座敷の上にいるのだか、判然しない。どこにどうしていても差支えはない。ただ楽である。否、楽そのものすらも感じ得ない。日月を切り落し、天地を粉韲して不可思議の太平に入る。吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。ありがたい ありがたい。」
日月を切り落し、天地を粉せいして不可思議の太平に入るのです。逆説的にいえば、今存在している世は、太平ではないことが生きている証拠でもあるのです。
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近頃思うこと
fujimori
2010-08-24T23:47:29+09:00
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大福
http://www.caguya.co.jp/blog_hoiku/archives/2010/08/post_1699.html
8月16日の岐阜新聞に「1000年以上の歴史を誇る美濃焼で知られる岐阜県多治見市。今、日本一暑いまちとして注目を集めている。食ではうなぎが名物だが、ほかにないものか?」という記事が掲載されていました。毎日暑い日が続き、食欲もなくなる今日この頃、何かおいしいものでもないかと探していたら、こういう記事にぶつかりました。そのおいしいものとは、真夏を涼しくする和のスイーツで、「たじみのブルーベリー大福」だそうです。白い餅の中に紫色のあんとブルーベリーが丸ごと何粒も入っていて、大福餅からブルーベリーのいい香りが漂い、ひんやり冷たい餅は柔らかく、口の中で、冷えた生のブルーベリーがはじける食感だそうです。そして、あんの甘みと果実の酸味が溶け合い、ほどよい甘さが染み込んだ餅皮が、口の中で溶けてなくなったという記者の感想です。
このブルーベリー大福は2007年から発売されているそうですが、この食感を読むと「いちご大福」を思い出します。このいちご大福は、昭和後期になって登場した新しい和菓子で、当時、不思議な組み合わせで私もずいぶんと食べたものです。この菓子の由来について、よくあるような本家争いがあるようです。老舗の一つである「とらや本家」は1985年(昭和60年)頃に自社で開発したと主張していますが、「製法が外部に流出するのを恐れて特許などの申請を行わなかった」ということで、現在、いちご大福の製造法の特許を保有しているのは、「大角玉屋」です。この店のHPによると、元祖いちご豆大福は、昭和60年に、当時、大福の中にいちごを入れるなんて誰も思いつかなかったところ、大福にいちごを入れたらおもしろいかもしれない!と、三代目・大角和平は発案し、作ってみたら、これがなかなかの美味。ということで、女性を中心に人気商品になったとのことです。
もともと、大福とは餅皮を薄く、小豆でできた餡を包んだもので、丸くふっくらしている様子がウズラに似ているので、当初はうずら餅とも呼ばれました。または、うずらの腹がふくれていること、食べると腹がふくれるので、「はらぶと餅」とも呼ばれていました。のちに「腹太餅」を「大腹餅」に書換えられたのですが、この「大腹」という字より、「大福」 の方が縁起がよいということで「大福餅」となったそうです。そして、この餅は、和菓子屋で売られていたのではなく、1780年頃は夜にこの大福餅を売り歩 くことが流行し、人々は冬の寒い夜などはそれを鍋で焼いて食べました。また賀寿の餅として大福 餅の上に「寿」と紅で記して賀寿当人が親戚への配り物としても利用されました。
この餡の代わりに、イチゴをはじめとして果物を使った大福が何種類か売り出されています。ブルーベリー大福のほか、栗大福、オレンジ大福、ピーチ大福、メロン大福などがあるそうです。「まるごとみかん大福」は、「秘密のケンミンSHOW」でも紹介されていましたが、愛媛みかんが丸々入った大福です。私は、夏ミカン大福を頂いたことがありますが、とてもおいしかったです。
また、中身が果物でないものを多く出回っています。小豆餡の代わりに梅の甘露煮が入っている「梅大福」、小豆餡にコーヒーの風味を付けたものや生クリームが入っているもの等がある「コーヒー大福」「カフェオレ大福」「モンブラン大福」、小豆餡の代わりにマロン・クリームが入っている大福、小豆餡の代わりにプリンのクリームが入っている「プリン大福」、ティラミスのクリームをコーヒー味の餅でくるんだ「ティラミス大福」、ここまで来ると、なんでもOKですね。しかし、歳を取ってくると、やっぱり中身は餡子に戻ります。
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新聞記事より
fujimori
2010-08-23T22:09:39+09:00
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西洋かぶれ
http://www.caguya.co.jp/blog_hoiku/archives/2010/08/post_1698.html
物事は、広い視野の中から見るべきです。これからの時代は、ますますグローバル化していき、世界は近くなっていくでしょう。そして、これからは世界で活躍する子も増えてくるでしょう。また、日本社会に多くの外国人が生活するようになるでしょう。当然、園にも外国人が増えてきます。保育の国際化を考える聖徳大名誉教授・上海市教育委員会諮間委員である日名子太郎氏は、外国人保育を行うにあたって、どうしても学ばなければならないことについてこう述べています。
「まず己れのこと、つまり日本の歴史・文化についての学習」が必要であると言います。「鎖国以来今日までのわが国の歩んできた道には数々の誤りがあり、しかもそれを何回も飽きることなく繰り返している傾向がある。外国人は、日本のことについて知りたいことが多く、関心も強い。逆に日本人はあたらしがり屋で日本の伝統文化も含めて無知に近いのは、もちろんわが国の親の考え方、進学中心の教育観といった方向へ直走りした結果によるものである。したがって、「温故知新」―古いものを理解し、その結果として新しいものに眼をむけること―という立場に立つことによって、まず古いものを十分に学び、大切にし、自国の歴史、文化について学び、その間に諸民族、諸外国とのふれ合い、関係などを知り、ついで新しいものへ関心を移すということが、ほんの形式的にしか行われていなかったということへの反省が必要である。」
戦後、どうしても日本は欧米に対して劣等感があります。それは、戦争に負けたからというだけでなく、長い鎖国をしてきた後の反動である明治期にも、西欧に追いつけということと、西洋化することがモダンに見え、日本社会全体が、一斉に西洋文明かぶれになりました。それと、どうも国民性としての「新し物好き」という気質もあるのかもしれません。そんな盲目的な西洋追従に対して、夏目漱石は、危機感を持ちます。圧倒的な優位にあった西洋文明一辺倒になっていくのを見て、そのような風潮に流されていく自分、社会を憂い、もっと自己を確立すべきであるとしてその風潮を律するための対抗原理として、「西洋」という「他人」本位への対立概念として、自己本位を掲げたのです。 数日前のブログでも書いたように、ただカタカナの名前を出し、そんな人がこう言っているというと、なんだかそれが正しいかのように思え、偉そうに吹聴する人を「吾輩は猫である」の中で皮肉っています。
“友人で美学とかをやっている人が来た時に下のような話をしているのを聞いた。「どうもうまくかけないものだね。人のを見ると何でもないようだが自ら筆をとって見ると今更のようにむずかしく感ずる」これは主人の述懐である。なるほどいつわりのない処だ。彼の友は金縁の眼鏡越しに主人の顔を見ながら、「そう初めから上手にはかけないさ、第一室内の想像ばかりで画がかける訳のものではない。昔イタリーの大家アンドレア・デル・サルトが言った事がある。画をかくなら何でも自然その物を写せ。天に星辰あり。地に露華あり。飛ぶに禽あり。走るに獣あり。池に金魚あり。枯木に寒紈鴉あり。自然はこれ一幅の大活画なりと。どうだ君も画らしい画をかこうと思うならちと写生をしたら」”
こう助言された猫の主人は、一生懸命に写生をします。しばらくしてきた美学をやっている友人に話したら、“美学者は笑いながら「実は君、あれは出鱈目だよ」と頭を掻く。「何が」と主人はまだわられた事に気がつかない。「何がって君のしきりに感服しているアンドレア・デル・サルトさ。あれは僕のちょっと捏造した話だ。君がそんなに真面目に信じようとは思わなかったハハハハ」”
漱石は、「野分」という作品の中で「西洋の理想に圧倒せられて眼がくらむ日本人はある程度に於て皆奴隷である」と言っています。もっと、自己本位という日本の文化を大切にすることが必要であることは、今の時代にも言えることです。
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近頃思うこと
fujimori
2010-08-22T21:05:18+09:00
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新聞の中の漱石
http://www.caguya.co.jp/blog_hoiku/archives/2010/08/post_1697.html
私の園の近くには、夏目漱石つながりの施設が多く点在しています。それは、漱石誕生の地と、終焉の地が近くにあるために、彼が過ごした中での様々な人とのつながりにおける施設も多くあるからです。たまたま、妻と終焉の地を訪れたことから始まった漱石に関するブログが続いているのですが、最近の新聞紙上でも、どういうわけか夏目漱石が取り上げられることが多いように感じます。昨日の新聞記事にもさまざまな話題が紙面を飾っていました。
朝日新聞他の新聞では、「夏目漱石が33歳の時に留学のために渡英して今年で110年になることを記念し、ロンドンにある漱石記念館に漱石の胸像が置かれることになり、18日、お披露目された」ということが取り上げられていました。ロンドンにも、漱石記念館があるのですね。この漱石記念館は、恒松館長が1984年に私財を投じて、漱石がロンドンで5番目に下宿した家の真向かいに開設したそうです。留学時の漱石にまつわる資料などが多く展示されているようです。日本にもいくつか胸像があり、私が訪れた漱石終焉の地にも胸像があるのですが、ロンドンにある胸像は、ポリエステル樹脂製で、高さ約70センチとほぼ等身大で、留学したときと同じ30代前半の漱石だそうです。しかし、当時の漱石の髪型は角刈りだったそうですが、胸像での髪形は千円札でおなじみになった髪形にしたそうです。服装は、コートの下にネクタイと丸襟のシャツを粋にきめていて、窓越しに下宿を眺めつつ、隣に置かれたシェークスピア像と対話しているかのようだそうです。その表情について、制作した鹿児島県の指宿商業高校で美術の非常勤講師を務める田原迫華さんによると、「女性の視点から『まじめで頑固そうなイケメンの先輩』というイメージにした」ということで、「日本が西洋の価値観に(苦労して)対応している時代に、自分の価値観をはっきり述べる気概やプライドのある」漱石を表現したと言っています。

もうひとつの記事も昨日の朝日新聞に掲載されていたのですが、「俳都ハイクや公開選句会で今秋、新たな観光客誘致へ」という企画のニュースです。その企画というのは、近代俳句の創始者・正岡子規や高浜虚子ら多くの俳人を輩出した松山市が、「俳句」 をテーマにした新たな観光客誘致策で、名付けて「松山はいく博」というそうです。松山はいく博は、俳句と「ハイク(歩く) 」 を掛け合わせており、旅行客に人気の高い「まち歩き」 に、テーマ性を持たせることにしたというものです。長崎で好評であり、その企画の期間を延ばしている「さるく博」と同じような企画です。ガイドツアーは、市立子規記念博物館や道後公園、道後温泉本館、熱田津の道などを巡りながら俳句を詠んで子規が過ごした時代を体感してもらうコース、秋山兄弟生誕地や明治時代の電車道、道後温泉本館などをめぐり、小説「坂の上の雲」 の世界を体感してもらうコースの二つの案を検討しているそうです。こうしたテーマを面白おかしく解説するガイドボランティアの養成も進めているそうで、「きちんとした解説」ではなく「面白おかしく解説」というのが面白いですね。その中には、夏目漱石が子規の実家を訪れた際に一粒残さず食べたという「もぶり飯」と、鯛の刺し身を使った「活き鯛飯」を食べる企画も盛り込む予定のようです。
いろいろな記事から、もう一度夏目漱石を見直すきっかけをもらった気がします。
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新聞記事より
fujimori
2010-08-21T16:37:55+09:00
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今年のさんま
http://www.caguya.co.jp/blog_hoiku/archives/2010/08/post_1696.html
今年は、日本全国、本当に暑いですね。といっても、日本はせまいようでいて広いのですから、必ずしも暑いことで困っている人だけではないと思いますが、基本的には、いつもと違うために困ることは多いようです。ニュースで流れてくるのは、やはり自然を相手にしているような職業は、生活が大変なようです。今日のニュースでは。「道東沖のサンマの不漁が続いている」というニュースが流れていました。どうしてここにきてそのようなニュースが流れてきたかというと、今月の15日から、水揚げ量が多い100トン以上の大型の棒受け網漁船の操業が解禁され、漁が本格化したからです。そして、その船からの水揚げ量が報告されてくるからです。たとえば、根室市の花咲港では、大型船が初めて荷揚げした19日の水揚げ量は、小型船などを合わせても約144トンしかなく、昨年の初日と比べてわずか1割にとどまったようです。
サンマと言えば、古典落語「目黒のさんま」を思い出します。夏目漱石が学習院で講演した「私の個人主義」にも、例として出てきます。
「私が落語家から聞いた話の中にこんな諷刺的のがあります。――昔あるお大名が二人目黒辺へ鷹狩に行って、所々方々を駆け廻った末、大変空腹になったが、あいにく弁当の用意もなし、家来とも離れ離れになって口腹を充たす糧を受ける事ができず、仕方なしに二人はそこにある汚ない百姓家へ馳け込んで、何でも好いから食わせろと云ったそうです。するとその農家の爺さんと婆さんが気の毒がって、ありあわせの秋刀魚を炙って二人の大名に麦飯を勧めたと云います。二人はその秋刀魚を肴に非常に旨く飯を済まして、そこを立出たが、翌日になっても昨日の秋刀魚の香がぷんぷん鼻を衝くといった始末で、どうしてもその味を忘れる事ができないのです。それで二人のうちの一人が他を招待して、秋刀魚のご馳走をする事になりました。その旨を承って驚いたのは家来です。しかし主命ですから反抗する訳にも行きませんので、料理人に命じて秋刀魚の細い骨を毛抜で一本一本抜かして、それを味淋か何かに漬けたのを、ほどよく焼いて、主人と客とに勧めました。ところが食う方は腹も減っていず、また馬鹿丁寧な料理方で秋刀魚の味を失った妙な肴を箸で突っついてみたところで、ちっとも旨くないのです。そこで二人が顔を見合せて、どうも秋刀魚は目黒に限るねといったような変な言葉を発したと云うのが話の落になっているのですが、私から見ると、この学習院という立派な学校で、立派な先生に始終接している諸君が、わざわざ私のようなものの講演を、春から秋の末まで待ってもお聞きになろうというのは、ちょうど大牢の美味に飽いた結果、目黒の秋刀魚がちょっと味わってみたくなったのではないかと思われるのです。」
なんだか皮肉めいていますね。しかし、それはこういうことがあったからだと続いて説明しています。前後して大学を出て、当日講演を聞いていた大森教授が、かつて夏目に「どうも近頃の生徒は自分の講義をよく聴かないで困る、どうも真面目が足りないで不都合だ」といったことに対して、夏目は「君などの講義をありがたがって聴く生徒がどこの国にいるものか」と言ったのです。このことについて彼は謝罪しながら、そう言ったのは、他人本位という考え方であり、学生側に立つと、そのような攻撃する勇気がないと言っています。今、自分の話を聞こうとするのは、「お大名が目黒の秋刀魚を賞翫したようなもので、つまりは珍しいから、一口食ってみようという料簡じゃないかと推察されるのです。」と言い、「もしこの学校の教授にでもなっていたならば、単に新しい刺激のないというだけでも、このくらいの人数が集って私の講演をお聴きになる熱心なり好奇心なりは起るまいと考えるのですがどんなものでしょう。」と言っています。
謙遜しながら、他人本位で物事を見るのではなく、きちんと自分本位で物事を判断するべきであることを言っているのでしょう。
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近頃思うこと
fujimori
2010-08-20T21:16:04+09:00
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中村
http://www.caguya.co.jp/blog_hoiku/archives/2010/08/post_1695.html
先日、子規庵を訪れた折、その斜め向かいに興味をひく建物がありました。そこは、「書道博物館」です。今、開催されている企画展は、“中村不折コレクション「漢字のはじまり ―古代文字の不思議を探る―」でした。なんで、この場所にそのような博物館があるのかというと、ここは、洋画家であり、書家でもあった中村不折が、その半生40年余りにわたり独力で蒐集した、中国及び日本の書道史研究上重要なコレクションを有しているのですが、彼が亡くなるまでの30年間、この地に住んでいたのです。
夏目漱石の「吾輩は猫である」は、漱石の不安な日々の中で執筆されたのですが、その第一回は、明治38年(1905)に雑誌「ホトトギス」第8巻第4号に掲載されました。昨日のブログで紹介しましたが、漱石は、この小説をはじめは一回限りのつもりで書いたのですが、大きな反響を呼び第十回まで同誌に断続的に掲載されました。そして、「吾輩ハ猫デアル」上篇が刊行されたのですが、この上篇の挿絵を担当したのは、フランス留学から帰国したばかりの画家・中村不折だったのです。
彼は、明治維新の前々年に江戸京橋東湊町に生まれるのですが、維新のごたごたで職を逸し、不折が5歳のとき郷里長野県高遠へ帰ることになります。しかし、父親の仕事はうまくいかず、長野県の伊那や松本に職を求めて移り住む生活が続きます。この間に小学校を終えた不折は、上諏訪町の呉服店に勤めることになります。私の祖先は、この上諏訪町で織物関係の店を商っていたので、もしかしたらどこかで関係があったのかもしれません。中村は、その時の縁からか、後に上諏訪の宮坂醸造の清酒「真澄」のロゴを書いています。日本酒と言えば、「日本盛」も彼の書です。

そののち小学校代用教員をはじめとしていろいろな仕事をしますが、22歳のとき、絵を勉強するため上京しますが、金銭的に余裕がないため、高橋是清邸の空き部屋、三畳一間を借り自炊生活を始めます。そして、小山正太郎に師事し本格的に絵を学び、36歳の時渡仏します。それまでの10数年間は、風景画を中心に絵画の勉強に打ち込みますが、生活の糧としては新聞社の挿絵や教科書の挿絵描きを行います。その時の日本新聞社の副編集長は正岡子規で、生涯の友となります。また、師事した小山正太郎は、私画塾「不同舎」を開きますが、その門下生には、中村不折のほか、青木繁、鹿子木孟郎、満谷国四郎、小杉未醒、坂本繁二郎、萩原守衛など洋画で活躍する画家を多数育てました。中村は、その中でも特に後輩の荻原守衛(碌山)と時を同じくして渡仏するなど、互いに影響を受けあいます。また碌山からの紹介で中村屋の創業者、相馬愛蔵・黒光夫妻とも知り合います。そこで、現在、中村屋が使用しているロゴは不折の書で、明治の終わり頃に揮毫されたものです。

彼は、お酒やタバコ、身なりなど全く構わないことでも有名で、稼いだお金を書道に関する資料収集に費やし、その後の書道博物館設立につながっていきます。挿絵も、「吾輩は猫である」のほかにも多数書いており、「若菜集」「野菊の墓」などの挿絵や題字を書いています。
このころのいろいろな文士や画家などの交友がしのばれます。
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散歩
fujimori
2010-08-19T22:36:56+09:00