結婚、離婚

江戸時代は、私たちが思っている以上に少子化であり、その対策を幕府や各藩が行っていることにびっくりします。また、当時の都会である江戸では、今の東京に見られる現象と同様なことが起きていました。それは、有配偶率、特に男性の有配偶率の低さです。縄目氏の調べたところによると、幕末江戸各地の男性の有配偶率は、5割程度となっており、農村部の「皆婚」ぶりと比べ極めて低いものとなっているようです。現代の東京と比較しても男性の有配偶率は大差がなかったというのです。最近の少子化の原因として大きく上げられる結婚しない男性ということがありますが、江戸時代において江戸各地では、同じことが起きているのです。住民の職業を見ても日雇稼、棒手振等の不定期就労者が多く、昔も今も江戸(東京)は独身者と非正規雇用が多い街だったと縄目氏は指摘します。

また、最近は、離婚が多いという話もよく聞きますが、明治以降の推移をみると、明治初期・中期の離婚率が現代より高かったことがわかります。明治民法施行(明治31 (1898) 年)以前の日本の離婚率の高さが推測されるのですが、江戸時代の離婚率は、どうだったのでしょう。縄目氏は、陸奥国下守屋村と仁井田村を例にとっています。それによると、平均普通離婚率は4.8 に達しているといいます。これは現代の米国を上回る高水準なのです。また、武家の離婚率も高かったと推測されています。また江戸時代は、配偶者との死別に伴う再婚も多く、夫婦が一生寄り添うという家族のイメージは、離婚率が低下し、平均寿命が延びた明治以降に形成されたものだと縄目氏は、指摘しています。

そういうわけで、江戸期の人口と家族について言えば、1家族4人程度の直系家族、低かった出生率、人口の減少、都市部での高い未婚率、現代より高い離婚率− 江戸期の人口・家族を巡る状況は、ある意味で明治∼昭和前期より「現代的」な側面があったとさえ言えるのではないだろうかと縄目氏は考えています。

では、明治から昭和中期にかけてはどうだったのでしょうか?明治中期から1920 年代にかけての高出生率・高死亡率の「多産多死」の時代がやってきます。そして、1920年代から戦中を挟み1960年代までの「多産多死」から「少産少死」への「第一次人口転換」の時代を迎えます。そして、1970 年代から、人口置換水準を下回る少子化の進行による「第二次人口転換」の時代が始まり現在まで続いてきているのです。

第一次人口転換では、戦後日本において想定されてきた、夫婦が2~3人程度の子どもを生み、また夫婦何れかの親と同居する場合もあるという 「標準的」 家族像が、江戸期に成立した直系家族を出発点としつつ、出来上がっていきます。数字的に見てみると、明治初期の出生率は比較的低かったものの、 明治中期以降高い出生率を維持し、 1920(大正9)年には普通出生率が36.2 とピークに達します。この年の出生数は200 万人を突破し、1873(明治6)年の出生数(約80 万人)の2倍半に達しています。この結果日本の人口は同時期に3,481 万人から5,596 万人へと2,000 万人以上増加しており、正に人口爆発といっていい急増ぶりを示しています。一方、死亡率も高く、普通死亡率は一貫して20 を超えている。 この時代が多産多死であったことがわかります。

この傾向について、縄目氏は、農地の生産性に縛り付けられていた江戸時代から、工業化の時代を迎え、生活水準が向上し、出産を抑制する必要が少なくなったこと、医療・衛生・栄養等の改善等により平均寿命が伸びたこと等を考えています。しかし、私は、出生率と、戦争は大きく関係していると思います。特に日露戦争で一般庶民において多くの犠牲者を出し、そのために多産が奨励化されたということがあるように思います。それは、ある意味で兵隊という労働力を多く必要としたからです。しかし、縄目氏は、戦争の影響については触れていませんが、どうなのでしょうか。

江戸時代の出生率

最近、問題になっているのは、人口減少というよりも少子化です。江戸時代での出生率はどうだったのでしょうか?縄目さんは、江戸時代の出生率を、各地の「宗門改帳」によって推測しています。この宗門改帳とは、江戸時代に、キリスト教禁圧のため、全住民が仏教徒であることを証明するため、世帯毎に各家族や奉公人が所属する宗派・寺院を記したものです。 そのための宗門改は毎年行うことが原則とされ、各世帯の人員構成や続柄、出生、結婚、死亡等が記載されるため、人口学上極めて貴重な資料となっているのです。

例えば、この宗門改帳等により推計される粗出生率(人口1,000 人当たりの出生数)は、陸奥国下油田村(1773-77年:18.4、1808-12年:28.2、1832-36 年:19.1)、(イ)信濃国横内村(1671-1871 年:26.3)、(ウ)尾張国神戸新田(1838-70 年:31.2)、(エ)美濃国西條村(1773-1868 年:31.9)、(オ) 和泉国塔原村(1792-1851 年31.48)、(カ)備前国吹上村(1693-1860 年:26.0)、(キ)肥前国野母村(1766-1871 年:28.8)等となっています。

この数字によって縄目さんは、「東北地方の出生率が低かったこと、中部以西の出生率が比較的高かったことがうかがえるが、総じて多産という江戸時代のイメージより出生率が低いという印象を受ける。 」と書いています。それに比べて、明治33 (1900) 年の全国の普通出生率は32.4、大正元(1912) 年は35.1、昭和元(1926) 年は34.6、「団塊」の出生期であった昭和22 (1947)年は34.3 であり、私たちが今の少子化について比較する数字は、この時代のものであり、江戸時代は明治∼昭和前期より出生率が低かったようです。

確かに、江戸時代の資料にはいろいろな問題がありますし、いろいろな事情がありますが、それを加味しても確かに江戸期の出生率は、明治~昭和前期に比べ高かったとは言い難いようです。しかも、当時の乳幼児死亡率の高さ、 医療、衛生、食料等を考慮すれば、なるべく多い子どもを産む必要があったでしょうが、江戸後期の出生率は必ずしも十分ではなかったと言えるのではないかと縄目氏は考えています。

この少子化の傾向は、幕府や各藩の政策ではありませんので、悩みであったようです。それは、生涯出生数は地主や比較的大規模な自作農の方が、小規模自作農や小作より高く、 出生力の低い小規模自作農や小作は絶家となる例も多かったために、耕作減少に結びつくからです。そのために、各藩、さらに幕府は、間引きの禁止や「赤子養育」のための養育金支給等の施策を行いました。少子化による、年金を支える若者の減少に対して、様々な手を尽くそうとしている今の政府にとても似ています。江戸後期は意外と出生率の低く、「少子化対策」に苦慮する社会であったと縄目氏は説明しています。

一方、現代の政策も東京を中心とした都会に対する取り組みが多くなりますが、江戸時代でも、当然江戸の町に対しての政策が多くなったでしょう。では、江戸の人口・家族はどうだったのでしょうか?すでに、江戸時代中期以降の江戸の町の人口は、100 万人を超える大都市でした。しかし、縄目氏は、ここに男女比の異常さに目をつけています。「享保6年の男女比は男100 に対し女55 であり、当時の江戸が異常な「男性過多」社会であったことがわかる。天保14 年は89 となっており、男女比は均衡しつつあるが、いずれにせよ男性の流入民により人口が増大してきた江戸の性格がここに示されていると言えよう。」と書いています。

その片寄りはどうしてでしょうか?

人口減少

 私たちが学校で習ってきた歴史の多くは、為政者の歴史であり、時代を知るのは政治的な動きであるので、当時の生活を知るのもどうしてもその階層のものであることが多かったようです。一方、民俗学は、庶民というか、多くの人々の暮らしが中心になります。すると、いかにいろいろなものの刷り込みが多かったかを知ることができます。「昔からこうだった」「最近の傾向は困ったものだ」とう言葉を聞くと、「昔からっていつからのはなしなの?」「昔はそういうことはなかったの?」と突っ込みたくなります。

 既婚率が増し、人口が急増したのは、江戸時代前期からです。しかし、人口増加も18 世紀半ば以降、停滞期に入ります。 この背景として、人口の推移を研究している縄目さんは、まず、「工業化以前の時代、農業生産の拡大には限度があったこと」であると考えています。彼は、全国の石高の推移からそう判断しています。それから見ると、耕地拡大の頭打ちがおこり、農業中心の社会においては、人口の抑制が必要となったのです。基本的には、人口増加の必要性の一面には、子どもを含めて労働力の必要性だったのです。

 次の要因は、「18 世紀を中心として世界的な寒冷期が襲い、日本でも飢饉が相次いだこと」であるとしています。江戸時代を言えば、何度も襲う飢饉があります。農耕を中心とした生活では、気候が大きく作用します。それは、人口動向にも影響します。それは、作り手としてだけでなく、消費者としての数に関係してきます。その気候の変化は、定期的に起きるのですが、18 世紀の世界は小氷期とも言われるほどの世界的な寒冷期でした。江戸三大飢饉といわれた享保の大飢饉(1732年)、天明の大飢饉(1782年∼1787年)、天保の大飢饉(1833年∼天保1839年)もほぼこの時期に当たっており、多数の餓死・病死を招き、また出産制限をも引き起こしたと考えられています。

次の要因は、「生活水準を維持するため、産児制限が行われていた」と推測しています。 飢饉において、まず犠牲になるのが子どもであるように、大人の生活を維持するためにも子どもが犠牲になったようです。そのために、いわゆる「間引き」が行われていたのではないかとの指摘があります。問題の性質上、間引きは記録に残っていませんが、地域によって、女子100 に対し男子120 を上回る異常な性比を示しているのは、有効な避妊や中絶の手段に乏しかったこの時代、間引きが行われていた可能性をうかがわせると縄目さんは推測しています。また、間引きは飢餓に伴う緊急避難的なものと考えられがちですが、 近年では土地の分割や生活水準の低下を避けるためにも行われていたとの指摘もされています。

今の時代、少子化になってきた原因として、「生活水準維持のため子供の数を減らす」 という行動が大きく占めます。まだ、日本では、少人数の子どもにかける費用を減らしたくないというのが中心ですが、隣の韓国での少子化の原因として大きなものに、「大人が、自分たちの生活水準を下げたくないから子どもを作らない」というものがあると何かの番組で聞いたことがありました。このような考え方が、既に江戸時代中期にもあったことに、びっくりします。

どうも、人口の推移は、右肩上がり、右肩下がりというような単純なものではないようです。

既婚率

 最近の家族の傾向として、少子化、晩婚化、未婚化、離婚の多さなどが問題にされます。それは、本当に最近の傾向なのでしょうか?「歴史的に見た日本の人口と家族」という著作の中で縄田康光氏が考察しています。

 吉野ヶ里遺跡を見ても、人々は農業を共同作業で行っていました。その中で、しだいに権力を持つものが現れ、彼らを統制しはじめます。平安末期以降の荘園・公領は、名主と呼ばれる有力農民の下に下人等、多くの隷属農民が属する形態となっていきます。しかし、室町時代以降になると、隷属農民は徐々に経済的に自立する動きを見せてきました。そして、その流れを決定的にしたのが16 世紀末に行われた太閤検地です。太閤検地は一地一作人制を原則とし、農地一筆ごとに耕作する農民を確定したのです。このことは、家族をどのように変えていったのでしょうか。縄目さんは、「小農の自立を促し、家族を単位として耕作を行う近世農村への道を開いた。」と書いています。

 そうはいっても、まだ江戸時代初期には、名主的な有力農民の下に、下人等の隷属農民、名子や被官などと呼ばれる半隷属的小農、半隷属的傍系親族等が大規模な合同家族を形成するという形態が見られました。しかし、これらの下人、名子、傍系親族等は徐々に独立して小農となっていったのです。それに伴いこれら小農は新たな世帯を形成し、大規模な合同家族を中心とした家族形態から比較的小規模な直系家族を中心とした家族形態への転換が起こったということを縄目さんはこんな例を挙げていいます。例えば、諏訪地方の平均世帯規模は17 世紀には8人程度であったものが、19 世紀には4人程度と半減しているといいます。世帯規模が、半分になったのですね。それは、他の地方でも認められるようです。

 このような新たな世帯の増加とは、即ち「今までは結婚できなかった隷属的農民が結婚して世帯を構えることが可能となった」ということであり、有配偶率の増加と未婚率の減少につながったということで、江戸中期以降、農村部では「皆婚」に近い社会が生まれたのです。これも縄目さんが数値で表しています。例えば信濃国湯丹沢村の16 歳以上の者の未婚率は、1675 年時点で男子の46%、女子の32%であったのに対し、1771 年時点ではそれぞれ30%、14%に低下しているのです。 また1716 年から1870 年の陸奥国下守屋村と仁井田村の未婚率は、45 歳から49 歳の男子で4.8%、同じく女子で 0.6%であり、ほぼ皆婚といってよい状況となっています。逆に言えば、それまでは、男子の半分近くが結婚しなかったということです。2011年のNHKのテレビ番組で「日本人の生涯未婚率の上昇が止まらない。現在は男16%・女8%であり、2030年には男29%・女22%までになるであろう。」と危機感を訴えていました。しかし、全員が、結婚すべきだというのは、家族単位で農業をするようになった江戸時代に始まったのですね。

 縄目さんは、「このように小農が独立し、結婚して世帯を形成することが可能となったこと、旺盛な新田開発もこれを経済的に裏付けたこと、小家族経営による農耕が農民の勤労意欲を高めたこと、兵農分離や参勤交代による都市人口の増加が農産物需要の増大を招いたこと等が相まって、17 世紀の“人口爆発”を招いたものと推測される。」と人口増についても考察しています。しかも、現代において伝統的家族と考えられている直系家族という考え方も江戸時代に生まれたのであると言っています。

 では、そのまま人口増加が進んでいったのでしょうか?

屋敷と寺社

 私は、よく富山に行くのですが、車で移動している途中の景色で珍しいものを見ることがあります。それは、田んぼの中に転々としている屋敷のまわりを、きれいな森が囲んでいることです。この森は、「屋敷林」といって、日本各地の風の強い地域に見られます。これと同じような森を、同じくよく行く出雲でも見ることができます。この田んぼの中に点在する緑の森である屋敷林は、風や雪を防ぐため、家の周りに造られた人工の森で、富山県砺波平野や島根県出雲平野などでよく見られます。
出雲平野の屋敷林は、木々が、四角形にきれいに切りそろえられているのが特徴です。日本海に面した出雲平野は冬場、北西にある海から強い季節風が吹き抜ける、風の通り道です。そこで、屋敷林は、北西側に大きな壁のように植えられ、屋敷を風から守っています。使われるのは,黒松の木。築地松といいます。昨年、NHKの「美の壺」という番組で「屋敷林」が取り上げられていました。その中で、住民がこの地の屋敷林が四角く整えられるには出雲の人々の知恵と美意識が隠されているといいます。 「屋敷構え、全体として家屋、築地松一体となった緊張感のある安定感のある美しさを出すためと言われています。」また、高さ10メートル、築地松の上で行われる陰手刈りと呼ばれる作業は、築地松の枝葉を薄くすいて、家に日ざしを取り入れるせんていのことを言います。防風林としての効果が保てるギリギリのところまですいていく熟練の技は、まさにレースのカーテン越しに屋敷が透けて見えるかのようです。快適さと風格を追い求めたどり着いた形。屋敷林には風土に根ざした美があるのです。
このような屋敷林は、日本各地に見られます。2009年には、家屋を風から守り、地域の景観形成でも重要な役割を果たしている「屋敷林」について話し合う初のサミットが、安曇野市で開かれました。ここには、同じように屋敷林が点在する富山県砺波市と東京都武蔵野市の関係者も参加して意見交換しました。また、その翌年には、「2010全国屋敷林フォーラムin砺波平野」が、富山県砺波市で開かれ、「屋敷林の再発見とその保全・創造」をテーマに基調講演やパネルディスカッションが行われ、屋敷林の景観や生活の中で果たす役割の重要性を確認し合いました。
屋敷林が屋敷のまわるに植えられ、屋敷を守ったように、寺社林という森が寺社を守っていました。特に、寺社林は、鎮守の森ともいわれ、「伐らずの森」と言われるほど大切にされました。江戸幕府の厳しい伐採・流通規制、森林再生促進など森林保護政策の結果として、日本列島の森林資源は回復に転じました。同時に、幕府は、急激に人口が増えた江戸の町にも屋敷林や寺社林を勧めました。その屋敷林や寺社林は、ある意味で里山活動だったり、ビオトープ作りだったのです。
空から東京を見てみると、意外と転々と緑が残っています。それは、以前のブログで書いた江戸上屋敷とか、下屋敷があったからですが、実はその屋敷のまわりは中に屋敷林が存在しているのです。また、東京は意外と寺社が多くあります。そこには、必ず寺社林が存在します。
人口100万人の江戸の町には、武家屋敷の周囲を囲む屋敷林、寺社が所有する森が広がり、江戸市域全体の緑被地率は42.9%と世界でもまれに見る緑豊かな都市でした。

江戸の町作り

東京の町を歩いていると、いろいろな所に江戸時代の面影を見つけることがあります。しかし、私は子どものころから住んでいるのですが、今までは、それほど興味がなかったというか、それほど気にしていなかったというか、特に気がつきませんでした。私の子どものころに住んでいた町は「鳥越」と言いますが、この由来は小学校の時の自由研究で調べたので知っていました。それは、江戸時代のことではなく、11世紀中頃のことです。八幡太郎義家が、奥州征伐に向かう途中、川を渡ろうとしたところ、浅瀬がわからなかったのを白鳥に教えてくれたので、「鳥が越えさせてくれた」ということだった気がします。
しかし、隣町の柳橋は、先日のブログのとおりですが、もうひとつの隣町の「蔵前」は、江戸時代の町づくりに関係します。
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江戸城を含む江戸の町づくりには、防御という機能と同時に、町を発展させる工夫もみられます。寛永13(1636)年に完成した江戸城は、神田川から汐留川に及ぶ最外周に外堀を配し、その中にいく重もの内堀と運河を巡らせることによって、水に囲まれた城郭都市をつくったのです。江戸城は、もともとは15世紀、室町時代に太田道灌が江戸湾付近に建てた平城でした。ですから、非常に攻められやすい造りでした。徳川が政権を取り、江戸に幕府を開いたころは、まだまだ政権の基盤は不安定でした。そこで、平城だった江戸城は、敵襲に備えて大改修され、周囲15キロの江戸城郭の堀の配置はさながらサザエにも似た渦巻状に堀をめぐらして「難攻不落の城」に変えます。それに伴い内堀、外堀も渦巻きのように形を変えました。本丸、二の丸、三の丸の外に堀がありその近くには譜代大名が詰め、西の丸堀外や、内堀外には外様、旗本、御家人屋敷の甍が並びます。
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そして、神田・日本橋界隈には町屋ができました。隅田川といった大河も、自然の要害とされていったのです。その先の多摩川や荒川も自然の要害だったのです。そして、各々の堀には城内に入るための橋が架けられ、橋の内部には敵の侵入を想定した防衛のための枡形門が設けられました。そこを通らないと城内に入れなくして、枡形に入る不審者を監視する仕組みになっていたのです。この「枡形のある、堀に面した城門」を見附と呼びました。その見附が江戸城には36ヵ所あるとされ、俗に「江戸城三十六見附」と呼ばれています。
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 私の子どものころ使っていた駅は、JR「浅草橋駅」でした。この駅は、「江戸城三十六見附」の中で、隅田川に近い外堀から渦巻状に数えると最初になるのが、「浅草橋門」です。浅草橋御門は、奥州道中の起点となる門で、戦略上高い位置づけを与えられていました。明暦の大火の際には、この門が閉じられたため、大勢の人が逃げ場を失い焼け死んだと言われています。それまでは、家康は、文禄3年(1594)に隅田川で最初の橋である千住大橋を架けていましたが、江戸の防御のため、この橋以外は隅田川に橋を架けるのが禁止されていました。しかし、明暦の大火以後、隅田川で2番目となる両国橋が架けられました。その後、いくつか橋がかけられました。浅草御門の前にも橋が作られました。その橋が、浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ばれましたが、いつしか「浅草橋 」と呼ばれるようになりました。
 これら江戸城の周りには多く整備された濠割は、敵の防御だけでなく、水上輸送の便を得て商業発展の礎をも築きました。 この輸送力が城下町の建設にも大きな力となったのです。土木資材、食糧、燃料のすべてを消費する江戸の町は、大坂などからそれを供給しなければならなかったため、水運、船運は欠かせませんでした。その水運に、隅田川、荒川、多摩川、利根川が使われ、海路から江戸湊へ荷が着けば、そこから府内までは堀を通じた水路が使われた。「蔵前」という地名は、幕府の御米蔵がこの地にあったことに由来しています。
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この御米蔵は、元和年間に大川端を埋め立てて建てられましたが、最盛期には、数十棟もの蔵が建ち並んでいたといわれています。そして、ここに関東各地から舟運によって、米が集積されたのです。
 私の子どもの頃は、ずいぶんといわれのある場所に住んでいたのかと今になって思います。

仙台堀

天正18年(1590)家康は、駿府から江戸に移り、道灌が築いた江戸城を居城とします。当時は、江戸城間際まで日比谷入江が入り込み、現在の皇居外苑のあたりまで海だったそうです。江戸湾沿いの地帯には多くの汐入地が点在し、満潮になれば海水が入り込み、潮が引けば、葦や萱などが生い茂る湿地帯になったことが伝えられています。また、後ろには、山や武蔵野の林に覆われた原野が広がり、平坦な土地は極めて少なく、大勢の人が生活するような場所ではありませんでした。ですから、家康が、江戸に居城を構えることにした決定はすごいですね。しかし、そのために多くの改造をしなくてはならなかったのです。この大改造が、徳川3代にわたって行われました。
家康は、徳川幕府を開く以前から、極めて大規模な都市改革を着々と進めていました。それは、家康が天下を取った後に、江戸を関東一というだけでなく、日本一の都市にすることを計画したのです。戦国時代の最後に政権を取った徳川氏は、数々の戦いの経験上、長期政権を維持するために、さまざまな工夫をします。それは、参勤交代のような制度などで人質を取っていただけでなく、地方大名の財政を苦しいものにしました。神田川の整備も、秀忠が、仙台の伊達藩の財政を圧迫するために計画したともいわれています。その結果、徳川の世が長く続くことになったのです。
江戸城は、当初本郷台地から攻めるとなると、まったく無防備でした。そこからのルートは、遮る堀もありませんでしたので、すぐに江戸城に入ってしまいます。そこで、二代将軍秀忠が、仙台城の伊達政宗に城を守るための普請を命じたのです。まず本郷台を分断するため、当時は神田台(神田山)と呼ばれた部分を川にまで掘り下げました。そして、掘ったために大量に出た土砂は、日比谷入江を埋め立てに使いました。入り江を埋め立てることは、当時、江戸城近辺まで氾濫することもあった洪水を防ぐことに役にたったほか、江戸時代に急激に江戸の人口が増加していったために、江戸の用地確保にもなりました。
そうして、1625年、仙台藩の力で大工事が完了しました。このときに、本郷台地が堀によって分断されたのですが、この分断された本郷台地の江戸城側は、家康付きの旗本(駿河衆)が家康没後に多くの屋敷をかまえたため「駿河台」と呼ばれるようになり、分断するための堀としての神田川は、この部分だけ、仙台藩が普請したため、江戸時代を通じて「仙台堀」と言われることになったのです。しかし、その普請によって仙台藩の財政を非常に苦しいものにしたのです。
神田台の掘割の西には水道橋が架けられ、神田上水は日本橋まで給水できるようになった。後に日本橋の旧平川河道と神田川は再び結び付けられ、日本橋川となります。しかし、高度経済成長期には、この川に生活排水が流れ込み、水質が悪化し「死の川」と呼ばれました。私が高校生の頃、通学にこのわきを走る電車を使っていました。本当に、汚い川というか、臭いのするどぶでした。私が、二十歳になったときに「成人の作文」という成人の日にちなんだイベントがあり、私は、東京都のこのイベントに作文を書いて応募しました。そして、6人の入賞者の中に入り、成人式の日に当時の皇太子から賞状を頂きました。この時の作文の最初は、「この川に電車が差しかかったとき、車内のある子が“わあ、汚い川”と叫んだことに対して、こんなに汚くした私たちの責任を感じたのですが、逆に考えてみると、この子は、きれいな川を知っているのだと言うことに気が付きます。怖いのは、川とはこんなものだと思う子が多くなることで、私たちは、きれいなもの、正しいものを見失わない目を持つべきである」というような内容だったと思います。
その後、神田川は、園の近くにある落合水再生センターなどの下水道網、下水道処理施設の整備が進み、また、この川の流域には、元々湧水が多いということもあり、非常にきれいになっています。園の近くの神田川では、毎年夏に子どもたちが入って遊ぶことができるような浅瀬をつくっていますし、鯉や鮎、鮒などが生息するようになってきています。

六義

 私は、特に予定のない土曜日に職員の有志と、下町を歩いています。地方から出てきている職員だけでなく、東京出身の職員も、地元のほかは、渋谷とか新宿、池袋などにはよく行くのですが、なかなか下町を中心とした東京らしい町をあることはしないようです。そこで、いろいろと私が説明しながら歩いています。そんなときに気がつくことは、東京には、大きな日本庭園が意外とあるということです。
東京には、大きな日本庭園や、意外と緑が多い理由の一つには、江戸時代、各藩は、江戸に幕府から藩邸としての用地が与えられていたからです。それが、上屋敷・中屋敷・下屋敷などとよばれる江戸藩邸です。この藩邸は、藩によって大きさがさまざまですが、そのまま庭園として残っているほか、現在、都内に大きな敷地を持っているビルは、ほとんど藩邸跡地に建っています。庁舎として使われているのは、新宿区にある防衛省庁舎は、元尾張藩徳川家上屋敷ですし、霞が関にある外務省庁舎は、元福岡藩黒田家上屋敷ですし、法務省庁舎は、元米沢藩上杉家上屋敷です。また、大学も大きな敷地が必要になるので、ほとんど藩邸跡地です。東京大学本郷キャンパスは加賀藩前田家上屋敷、青山学院大学は西条藩松平家上屋敷、三田の慶應義塾大学は島原藩松平家中屋敷、上智大学は尾張藩徳川家拝領屋敷などです。
その中で、そのまま日本庭園として残っている藩邸があります。その一つが、職員と訪れた「六義園」です。元禄8年(1695年)、五代将軍・徳川綱吉から郡山藩柳沢家下屋敷用地として与えられた駒込の地に、柳沢吉保自ら設計、指揮し、作庭した庭園です。この土地は、もともとは加賀藩下屋敷でしたが、柳沢吉保は、将軍の信頼が非常に厚く、その土地を拝領したのです。学校時代に習う吉保は、「生類憐みの令」という悪法と結びついているので、なんとなくイメージが悪いのですが、実は、かなりの文化人だったようです。文化的、文学的素養がなければ日本庭園は作庭できないのです。それは、「六義園」という名称からのわかります。
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「六義」というのは、中国の古い漢詩集である「毛詩」の「詩の六義」という、詩を作る上での根本を構成する六つの「体」のことを言います。すなわち風(そう)は、民間におこなわれる歌謡のこと、賦(ふ)は、感想をそのまま述べたもの、比(ひ)は、例をとって感想を述べたもの、興(きょう)は、外物にふれて感想を述べたもの、雅(が)は、朝廷でうたわれる雅正の詞藻、頌(しょう)は、宋廟頌徳の詞藻という分類法を、紀貫之が転用した和歌の「六体」に由来します。
つまり、吉保は、歌枕や名所をはじめいろいろな歌人が和歌に詠んだ場所や風景を八十八か所選んで、これを象徴する景観を、平坦な武蔵野の一隅に池を掘り、山を築き、7年の歳月をかけて園内各所に配置して、それらを園路でつなぎ、「回遊式築山泉水庭園」を和歌の世界に仕上げようとしたのです。ですから、六義園は吉保の文学的造詣の深さを反映した繊細で温和な日本庭園なのです。
明治時代に入り、この庭園は、三菱の創始者である岩崎弥太郎が所有します。日露戦争が終わった1905年の秋、弥之助が久弥と共にこの場所で催した大園遊会は、2度に分けて行われ、なんと一万三千名以上の将兵を招待したようです。その後、当園は、昭和13年に東京市に寄付されて一般公開され、昭和28年3月31日に国の特別名勝に指定されています。

小宇宙

広島駅の近くに、縮景園という庭園があります。この庭園は、広島藩主浅野長晟が、元和6年(1620)から別邸の庭園として築成されたもので、作庭者は茶人として知られる家老の上田宗箇です。この園の名称は、幾多の景勝を聚め縮めて表現したことによるのですが、中国杭州の西湖を模して縮景したとも伝えられています。園の中央に濯纓池を掘って大小10余の島を浮かべ、周囲に山を築き、渓谷、橋、茶室、四阿などが巧妙に配置され、それをつなぐ園路によって回遊できるようになっています。
 また、熊本には、水前寺公園があります。ここは、肥後細川藩初代忠利公が鷹狩の際、渾々と清水が湧くこの地を殊の外気に入って、茶屋として作られたのが始まりです。その後、綱利公の代に大規模な作庭がなされ、桃山式の優美な回遊式庭園が完成し、陶淵明の詩(帰去来辞)にちなんで、成趣園と命名されました。池泉回遊式庭園があり、東海道五十三次の縮景は非常に有名です。大学生の頃、初めて訪れて、水の美しさと共に、見て回ることで、途中に富士山があったり、東海道を歩いているかのような趣を感じる庭園は、何とも不思議な気分でした。
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 日本庭園の手法として、「借景」のほか、「縮景」という作庭方法があります。縮景園の名称にあるように、「幾多の景勝を聚め縮めて表現した」庭のことです。この手法も、囲まれた狭い空間の中に、広い世界、雄大な景色を取り入れるために考えられたのでしょう。昔の人は、なかなか日本中も、ましてや中国など海外の名所旧跡を訪ねることはできませんでしたから、庭の中を散策、回遊することで、そこを訪ねた気分になったのでしょう。
 進士氏は、「古今東西を問わず庭園の主題は“ミクロコスモス(小宇宙)の実現であった。人間は自然があって生きてゆける、いわば自然によって生かされる存在である。しかし、ダイレクトに自然の中で生きることは難しい。そこで、気心が知れた、いわば、人にやさしく、快適な環境構成、“人間の理想”を盛り込んだ“文化化された自然”としての庭園を身近に営んだのである。そしてそれは人間の要求や都合に合わせて加工された“二次自然”や“人為自然”で、人間がコントロールし秩序づけられた小自然ゆえに、心おだやかに見ていることができる。」
自然は、美しさだけでなく、脅威さえ感じる荒々しさも兼ね備えています。自然をみることで、必ずしも心落ち着くとは限らず、不安になることも多くあります。荒れ狂う大波、噴き上げる火山、今回、その自然の恐ろしさをまざまざと知らされた東北大災害でした。しかし、その活動は、小さな存在である人間だからこそ感じる恐怖であり、もっと俯瞰して、地球から見たり、宇宙から見ると、それらは一つの成長でもあり、持続するための変化でもあるのです。そこで、自然に対して、心おだやかに、安心感を得ようとして、庭の中に、草や木、水や土を使って宇宙を表現しようとしたのです。そして、その宇宙、世界を、見ている人間という存在がコントロールできる空間として表現するのです。進士氏は、「小さくて不安な存在である人間が、絶対的な安心感を得たいと思う必然的結果であろう。宇宙や世界の秩序の中に自分の居場所を構えることは、絶対秩序の中に自分を関係づけることである。そうすれば、最高の安定と安心が得られる。」と言っています。
このような意味で、「縮景」は、単なる「縮尺した風景」ではなく、完全なる世界、秩序ある一つのまとまりに世界を表現することであったとする進士氏の考えに納得がいきます。

幸せな子ども

2005年?2009年にかけて、世界155の国と地域を対象に数千人を対象に行い、各地域住民の生活に対する満足度(1?10点で評価)を分析し、ランキングをアメリカの調査機関が出していました。この調査によると、1位はデンマークで、続いてフィンランド、ノルウェー、スウェーデン、オランダとなっており、上位5か国のうち4か国が北欧でした。ちなみに日本は香港と並び81位、中国は125位でした。この幸せを感じる観点を分析していましたが、もちろん、「上位にランクされた国々では、国民の基本的なニーズがほぼ満たされているため、幸福と感じる」としていますが、一方で「収入は幸福と密接な関係があるものの、心理的に得られる満足感や社会との関わりも幸福のカギになっている」と分析しています。心理的満足感、社会との関わりが幸福のカギであるという分析は、日本人が幸福と感じない理由がわかる気がします。
少し前に話題になりましたが、2007年に発表されたユニセフの報告書で、オランダが先進国の中で子どもの「幸福度」がもっとも高いと報告されました。そのカギは、「オートノミー(自律)」にあると言われています。たとえば、カリキュラムは子どもが決めます。それは、オランダの小学校は4?5人の小さなグループ単位になって授業が行なわれますが、先生は「今から算数と国語の説明をするから、どちらか自分がやりたい方を勉強していいわよ」と一言声をかけます。自分で好きな方や苦手と思っている方を選んで始めるのです。 算数や、国語は分かっているからいいやと思っている子は、他の勉強をしてもいいのです。先生は、子供のその選択を尊重しているのです。
また、「ステイ」という留年がありますが、それを決めるのも自分で決めます。前の学年で勉強したことが「内容が難しく、ついていけない」と感じると、自らの判断でもう一年学び直すことを決めるのです。クラスメートも、留年をネガティブに捉えてはいません。親もまた、「子どもが自分で決めた事なので」とその選択を尊重し、その決定を応援してくれているのです。オランダでは、「オートノミー(自律)」という価値観が最も尊重されています。そのため、小学校からこうした教育が行われているのです。この「オートノミー」とは、物事を自分で選択することですが、わがままとは違います。辞書には「自律とは、自分で自分のわがままを抑えて行動すること」と記されています。オランダではその「オートノミー」の考え方で決断した選択を周りが尊重してくれる社会環境ができているのです。そして、人は、自分の行動や判断が認められることに最も「満足感」や「幸福感」を持てるのです。
そしてもうひとつのオランダの子どもたちが「世界一幸せ」と考える理由に「親と過ごす時間」が長いことが挙げられます。オランダでは、これが社会的に保障されている権利でもあります。子どもにとって、自分を最も身近で認めてくれる親と長い時間一緒に過ごすことが出来る環境があるのです。
明治の初め日本に来たモースは、こう書いています。「世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供の為に深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい。彼等は朝早く学校へ行くか、家庭にいて両親を、その家の家庭内の仕事で手伝うか、父親と一緒に職業をしたり、店番をしたりする。彼等は満足して幸福そうに働き、私は今迄に、すねている子や、身体的の刑罰は見たことがない。」
「小さな子供を一人家へ置いていくようなことは決してない。彼等は母親か、より大きな子供の背中にくくりつけられて、とても愉快に乗り廻し、新鮮な空気を吸い、そして行われつつあるもののすべてを見物する。日本人は確かに児童問題を解決している。また、日本人の母親程、辛抱強く、愛情に富み、子供につくす母親はいない。だが、日本に関する本は皆、この事を、くりかえして書いているから、これは陳腐である。」
このころの日本の子どもたちは世界一幸せであったかもしれません。それは、そのころ日本に来た外国人が書いた本には皆書かれているというのですから、誰でもそう感じたのでしょう。