旭川

 今週はじめの月曜日から今日までさっぽろ雪祭りが開催されています。大きな雪像は、毎日、テレビで放映されていますが、この雪まつりは、1950年に、地元の中・高校生が6つの雪像を大通公園に設置したことを きっかけに始まったそうです。寒い地域では、冬の楽しみにいろいろと考えるものです。同じ北海道の旭川でも、札幌で柱高校生が雪像を作った4年前の1946年、当時旭川警察署では交通安全のため道路の除雪を奨励しましたが、たくさんの雪の山の処理に困っていました。その時、当時の観光協会会長佐藤門治が郷土出身の彫刻家 加藤 顕清氏の助言を得て、雪像を芸術化することに気づき、これを提案したのが旭川冬まつりの発祥といわれています。そして、途中中止されていたのを1959年、秋に祭りをやろうとの声が上がり、翌年2月に現在の冬まつりのスタートである「第1回旭川冬まつり」が開催されています。

昨日、たまたま旭川で研修会があったのでその前日この「旭川冬まつり」に行ってきました。この冬まつりは「雪と氷とあかりの祭典」としてギネスにも認定されているそうですが、大きく二種類の企画があります。それは、世界最大の雪像と氷彫刻世界大会の作品です。氷彫刻世界大会は、氷彫刻の大会としては、日本国内で唯一実施される公式国際大会だそうで、夜はそれぞれの彫刻像がライトアップされ、昼間と夜に見に行ったのですが、買物公園会場は幻想的な世界でした。
雪像会場では、タカラトミーとの協力により、トランスフォーマーがテーマです。そこで、今年の大雪像は、「トランスフォーマー」に登場するメインキャラクター“オプティマスプライム”で、その上から大滑り台が創られていました。この「トランスフォーマー」は、もともとは株式会社タカラが「ミクロマン」や「ダイアクロン」などの変形合体玩具を“同一の世界観をもったもの”として再編成した、“日本の玩具発”コンテンツで、それを映画界の巨匠スティーブン・スピルバーグ氏が絶賛し、映画にもなりました。その映画のパート3を私はドイツに行く飛行機の中で見たのですが、正直、内容は意味がわかりませんでしたが、「ロボットが身の回りにある、ありとあらゆる物体に自由自在に変形し、潜んでいる」という唯一無二のコンセプトや、自由自在に変形することができる超ロボット生命体が宇宙を舞台に戦う壮大なストーリーは、世界130以上の国と地域で人気があるようです。
旭川といえば、もう一つ、旭川ラーメンが在ります。札幌ラーメンの味噌、函館ラーメンの塩、それに対して旭川ラーメンは「醤油ラーメン」が基本です。旭川市ではかつて養豚業が盛んで、廃材となる豚の骨を活用する為に豚骨スープが考え出されたのですが、豚骨特有の強い臭みを消し、なおかつ風味を加えるための工夫として煮干や昆布類を併用するようになったそうで、このダブルスープで独特のコクを生み出しているのが人気があります。この旭川ラーメンの直接的な原点となったのは、戦後間もない1947年(昭和22年)にラーメン専門店として創業し、現在まで続いている蜂屋と、同じ年に屋台から始められた青葉の2店ですが、この蜂屋でラーメンを食しました。このラーメンは、スープともう一つポイントがあります。旭川の冬はとても寒く、その冬に体を温め、スープに甘み・まろみを与えると同時に、表面に膜を張り、熱を閉じ込める「ラード」が加えられています。Wスープとラードが旭川ラーメンの特徴です。そのなかに中太の縮れ麺、麺は加水率の低さが特徴です。
 私が食べた「蜂屋」は、もともとは、ハチミツを使ったアイスクリームやうどんも出す店だったようですが、やがて評判となったラーメン一本で勝負することにしたそうで、屋号はこの蜂蜜からとってあるそうです。

歴史の中の嵐

今回の台風で、東京は大騒ぎでした。電車が至る所で止まり、帰ることのできない人々が駅にあふれていました。台風には、東京の交通網は弱いようです。今回止まってしまった交通手段は、鉄道と飛行機でした。その点、昔の交通手段は、主に歩きですから、台風が来て困ったとしたら、川の増水で渡れなくなることかもしれません。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と詠まれたように、川が増水すると足止めを食っていました。
もうひとつ、大きな交通手段に船がありました。船は、交通手段だけでなく、荷物の運搬に重要な役目をしていましたから、台風などが来ると困ったでしょう。また、日本は海に囲まれていましたから、海外とだけでなく、国内においても、船は、戦いのためにも使われていました。そんなわけで、日本の歴史の中で、船と嵐に関係する出来事が多くあります。よく知られているものに、「元寇」と呼ばれている「文永の役」「弘安の役」があります。史実はよくわかりませんが、台風に随分助けられたようです。
昔は、日本の船はそれほど立派ではないために、船で大陸に渡るのは至難のわざだったようです。その有名なものに630年から894年までの265年間に、およそ20回計画された遣唐使があります。当時世界で最も繁栄していた唐から、最先端の知識や技術、文化などを取り入れるため、幾多の秀才や名僧が選ばれ海を渡ったのです。しかし、未熟な日本の造船技術と航海技術によって、当時の遣唐使の航海の成功率は約50%,往復すると25%の確率であったようです。日本の船は船底が扁平で戸板を張り付けただけの構造であるから荒波には大変に弱い構造であっただけでなく、多くの航海術と言われるものは、陰陽師による占いで船の進路を決めていたといわれていますから、台風などの直撃にあってしまったこともあったでしょう。
遣唐使船の航路としては、「北路」「南島路」「南路」の3種類あったようです。「北路」は、遣唐使の派遣された前半に用いられたもので、大阪から瀬戸内海を通って、福岡に行き、壱岐、対馬を経由し、朝鮮半島の西岸沿いを北上し、黄海を横断して山東半島に上陸するもので、このルートが最も安全と考えられていました。8世紀の初頭から中頃まで「南島路」を用いました。九州から南下し、南西諸島、屋久、奄美、沖縄、石垣などの島々を経由、東シナ海を横断して揚子江の河口を目指します。このルートは、外洋を渡ることから危険が多いコースでした。8世紀後半から最終的に選ばれたのが、五島列島を経由する「南路」です。このコースは、最短でしたが、外洋を最も長く航海するため、非常に危険性の高い航路でした。
その中で、五島に関係し有名なのが、804年、第16次遣唐使船4隻が、久賀田之浦に寄泊後、唐に出発したと伝わるもので、この船団の中に、当時31歳の空海、38才の最澄が乗船していました。二人は大変な苦労をしながらも見事入唐し、帰国後、五島各地を巡り数多くの伝説を残しています。先日、五島で研修会があったので、合間を見てそれらの史跡を案内してもらいました。
魚津ヶ崎は、肥前風土記・松浦の郡・値嘉の郷の一節に、「値嘉の郷、八十余りの近き嶋あり、西に船を泊つる停二處あり、一處の名は、相子田、一處の名を川原浦という、遣唐の使は、これよりたちて…」とあるように、遣唐使船が寄泊したところで、その地形は、蛇行3キロにも及ぶ深い入り江を持ち、周囲を山で囲まれた天然の良港となっています。そして、魚津ヶ崎の岬が細長く入り口を狭めるように突き出て、湾の外に広がる東シナ海からの風波を防ぎ、浦内を守っています。また、唐から日本に戻る途中で嵐に遭遇した空海は、大宝の浜に漂着したと言われ、大宝寺に滞在し真言宗を開いたといわれています。大宝寺もそれまでの三論宗から真言宗に改め、紀州高野山に対して西の高野と呼ばれています。

研究者

「東京大学宇宙線研究所 神岡宇宙素粒子研究施設」は、本来は、昨日のブログで紹介したダークマタ―を検索するためではなく、大量の純水を巨大タンクの中に蓄え、素粒子が反応することによって発生するチェレンコフ放射光をその周りを取り囲む光センサーで捕らえる実験をしているところです。この研究施設は1995年にスーパーカミオカンデ実験を推進するために設立されました。ここのスーパーカミオカンデは、大気中で発生するニュートリノ、太陽の中心部で生成されるニュートリノ、または粒子加速器を使って人工的に作られたニュートリノを検出するなど、基礎科学の分野で世界をリードしています。
 この実験では、宇宙線などのノイズがあると正確には測れないということで地下深いところにつくられた地下実験室です。まず、研究棟を訪ねました。その建物はさほど広くなく、研究所員も多くいる感じがなかったのですが、感心したのは、どの廊下にも、階段にもその壁面はホワイトボードで覆われ、そこには難しい数式やら図式やらが英語でびっしり書き込まれていました。それは、どこにいても新しい発想を描き込んだり、どこででも理論を議論するためと言われ、なるほどと思い、園でもその環境はいいかもと思いました。
その後、所長さんの案内で、そこから少し離れた実験場まで車で移動し、地下1000メートルのところまで潜って行きます。最初、それは、エレベーターか何かで潜るのかと思っていたら、車で行くというのでびっくりしました。それは、発想の転換です。というのは、なんと、坑口から水平に1.7km入ったところが、1000メートルの高さの山の真下に出るのです。ですから、その実験室の上には、1000メートルの土が盛られていることになります。
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そこは、元神岡鉱山の坑道の跡を利用したもので、ここでは宇宙線のバックグラウンドが地表に比べて10万分の1になり、宇宙線に起因するバックグラウンドが少ないきれいな環境になっているそうです。したがって、ニュートリノ反応のように稀にしか起こらない事象を捕まえるのに適しているのです。また、大深度の地下は地面振動が小さく、時空の歪を検出する重力波検出装置や地殻の歪を検出する地球物理学研究実験装置などにとっても非常に有効だということでした。
 この実験では、宇宙線のほかさまざまな放射能が測定の邪魔になります。まず、それは、周りの土とか岩から発するので、実験室の周りはすべてポリでコーティングされています。また、人間がもちこむということで入口は二重になっており、外で靴を脱いで、中で違う靴に履き替えます。
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ドームの天井の下にある観測装置である「カミオカンデ」は、直径15.6メートル、高さ16メートルの水槽に純水3,000トンを満たし、高速荷電粒子が水中で発するチェレンコフ光を捕らえて、水槽内で起きた様々な現象を観測します。水槽内壁には、この実験のために特に開発された、直径約50センチの光電子増倍管を約1,000個、1平方メートルに1個配置してあり、この光電子増倍管でチェレンコフ光を捕らえます。と言っても、その検出器の蓋をした上を歩くだけで、中を見ることはできませんが、足元には、まわりを約1,000個の光電子増倍管が配された大きな筒があると思うと、すごいものの上にいるという実感を持ちます。
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もともと、カミオカンデは、日本の物理学者である小柴 昌俊氏が、自らが設計を指導・監督した実験場で、陽子の崩壊事象を調べる実験に使われていました。ところが、1987年に、超新星爆発により大量発生したニュートリノを偶然にも感知し、史上はじめて自然に発生したニュートリノの観測に成功したことにより、2002年にノーベル物理学賞を受賞しました。このニュートリノを観測すれば光では観測不可能な星の中心部を直接研究することが可能になったり、天体ニュートリノの観測は天文学及び素粒子物理学にとってきわめて重要なことなのです。
もちろん、どうして重要なのかはよくわかりませんが、子どもたちの誰かは、どこかでこんなことに興味を持ち、研究者になるかもしれません。もしかしたら将来、大発見をする研究者の子ども時代は、常識で縛られている私たちから見ると奇妙な子かもしれません。しかし、そんな子どもを大切にしなければと思いました。

暗黒

 私は、以前のブログで映画では「スターウォーズ」が好きであることを書きましたが、その理由の一つに「フォース」という超常的な力があります。この力は、目で物を見たり、鼻で物のにおいを感じたり、五感を使って物の実態を把握するのではなく、人間が心の五感を使って敏感に感じ取ることができる力のことです。私は、その力は、第六感と言われる力とは少し違う気がしています。この映画の中では、そのフォースという力が特別に強い一部の人間としての使命を描いています。しかし、このフォースは、二つの側面を持っています。それは、善悪という側面ですが、善の側面を「光明面」(ライトサイド)、悪の側面を「暗黒面」(ダークサイド)と言います。人は、この両面を持っています。それを、それぞれの面を持った者が、自らの面のほうに引っ張ろうとします。そして、ある出来事、人との出会いなどを通して片方の面に偏っていくのです。
 映画では、光明面を持ったジェダイと呼ばれる銀河の守護者たちが、暗黒面に引っ張られないように修練を積み、フォースを正義のために使うのですが、「感情に身を任せて、その力を奮うことは、厳に慎まねばならない」というように、怒りや恨み、欲といった、人間の心のマイナスな要素に身を任せてしまうと「暗黒面」に引き込まれてしまうのです。映画の中でエピソードとして語られるのは、アナキンという主人公がダースベイダーという歴史上最後の暗黒卿となる過程が描かれています。それは、「母を殺された怒り」「自分の力を認めてもらえない怒りや焦り」「自分の力が他者より勝っているという驕り」から、次第に「銀河の単独支配」という名誉欲、独裁欲、さまざまな怒り、恨み、欲が暗黒面へ導くのです。
 この暗黒面を含め、フォースという力は目で見ることはできません。しかし、どう考えてもその存在は必要であるというものがあります。想像上ではなく、実体が目に見えないというのは、そのものが光を発していないもの、光を反射していないもので、それらは目には映りません。その物質を仮想上の物として「暗黒物質」(ダークマター)と呼んでいます。また、それは、物質だけでなく、目には見えないエネルギーが存在していることが確認されています。それは、「暗黒エネルギー」(ダークエネルギー)と呼ばれています。なぜ「暗黒」かというと、その存在は確認されてはいるもののその実態は何なのか、どのようなものなのかは全くわかっていないのです。それなのに、宇宙全体の物質エネルギーのうち、74%が暗黒エネルギー、22%が暗黒物質で、人類が見知ることが出来る物質の大半を占めていると思われる水素やヘリウムはたった4%ぐらいしかないことが分かってきているのです。
 このダークマタ―を直接探索しようとする実験が日本で行われています。その実験室を今日見せてもらいました。幸いにしてこの研究施設長が、私の高校の時の同級生だったからです。そこは、岐阜県の神岡鉱山にある素粒子の巨大観測装置スーパーカミオカンデを持つ「東京大学宇宙線研究所 神岡宇宙素粒子研究施設」です。この実験は、XMASS検出器と言い、約800トンの水を蓄えた直径10m高さ10mの円筒形のタンクと、その中央に約1トンの液体キセノンを詰めた直径約80cmの球形の検出器があります。
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 このXMASS検出器が設置される空洞が2008年8月に、検出器が昨年神岡の地下施設に完成したそうです。空洞をくぐりながら、意味はよくわからない内容であっても、なんだかワクワクしました。
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ナギ1

 先週末、島根に行っていましたが、島根は日本海に面しています。よく太平洋の海と日本海との違いを感じることがありますが、まず、色は何となく日本海側のほうが濃い色のような気がします、それは、太陽の反射と、空の色に関係していると思いますが、確か日本海側の風景の売りは「海に沈む夕日」というのが多いですね。少し前に石川に行った時の帰りに、日本海に沈む夕日を見ましたし、島根にも、露天風呂から日本海に沈む夕日が眺められる宿があります。また、地図で見ると、太平洋がどこまで続く海というイメージですが、日本海は、北方から南西方向にかけて細長い海で、入り江とか、湖のように見えます。その海は、対馬海峡、間宮海峡、宗谷海峡、津軽海峡などの出入口により、それぞれ東シナ海、オホーツク海、北太平洋につながっています。各海峡はともに幅が狭く、外海からのうねりが日本海に直接入り込むことは、ほとんど無視できると言ってもよいほどだ。台風や低気圧の発達で仮にうねりが発生しても、日本海の面積が約130万平方kmと小さい為、うねりの消滅は意外と早く、一昼夜ほどでベタ凪となることも珍しくないと言います。それに対して、太平洋側は、遠くアメリカ大陸で地震が起きても、そのうねりは大きくなって日本に襲いますし、もちろん、日本列島の近くで起きた地震によっても大きな津波になって沿岸を襲います。
日本海の波浪を「有義波」といい、太平洋の波浪は「有義波」と言いますが、どちらの海がもっとも荒れるのかみてみると、累年平均の有義波高は地域差が小さくて1.1?1.2mの範囲で、意外と波高はほぼ同じだそうです。しかし、波浪の「周期」となると、日本海沿岸で約6.1秒前後であるのに対して、太平洋沿岸では約7.4秒程度となり、太平洋岸の方が日本海沿岸よりも周期が約1秒程度長くなっています。と言うことは、日本海沿岸の波浪は太平洋沿岸の波浪と比べて「波長」が短いことになるので、波高がほぼ同じであっても日本海の波浪は波形勾配が急峻であるということなので、「日本海は太平洋よりも荒々しい海面状態を造り上げている」と言われる所以です。
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島根で風に当たりながら静かな海を眺めていて、少し中学生のころを思い出しました。日中は、海より陸の方が温度が上がりますので、風は海から陸の方へ吹き、その風を「海風」と呼んでいます。夜になると海よりも陸のほうが温度が早く下がり、今度は昼間と逆に風は陸から海の方に吹きます。この風が「陸風」と言います。夜間はこの逆です。この風の向きが逆転する時に、一時的に風が止まります。同時に、波のうねりも止まります。この時は、陸風から海風になるとき、海風から陸風になるときの1日に2回あります。これを「凪(なぎ)」と言い、朝になって陸の温度が上がり始め、風向きが変わる前を「朝凪」、夕方陸の温度が下がり始め風の向きが変わる前を「夕凪」と言います。「凪」という漢字は「かぜがまえ」に「止まる」という字を書きますが、よく意味を表しています。
しかし、この「なぎ」という言葉は、日本では非常に重要な意味があります。それは、古代にもさかのぼることができます。
同じ発音である「薙ぎ(なぎ)」とは、山が崩れ平らになりつつある状態や、草木を刈った平坦な野原をさします。私はその字を見ていると、草むらに日本の国鳥である雉(きじ)が潜んでいて、その草を無くすと雉が現れる状態にすることを「薙ぎ払う」とか「薙ぎ倒す」と言ったのではないかとイメージしてしまいます。この「薙」という字を見ると、「草薙の剣」を思い出す人がいると思いますが、ここに古代から「なぎ」という言葉が大切にされてきたことがわかるのです。

安曇野

 先週の土曜日は長野県安曇野で講演がありました。安曇野といえば、現在NHK朝の連続テレビ小説「おひさま」の舞台として脚光を浴びています。そんな安曇野の大糸線「穂高駅」の近くに「井口喜源治記念館」という建物があります。ここは、研成義塾を起こした井口喜源治生家の跡地に、教え子たちが中心になって昭和44(1969)年に建てられたものです。
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 研成義塾の教育精神は、「人はいかなるものになろうとも、何をしようともその前によき品性の人になれ」「教育は、一人の教師(人格)が一人の児童、生徒に愛と信頼をもって相対するところに行われる」「教育は“できる”“できない”というレベルだけでなく、その子のよさ(天賦)をどう伸ばすかにある」「教育は、人間を現実の人間から真実の人間に育て上げていく営み」などで、これは今日でも厳然と生きています。
 井口は明治3年、長野県南安曇郡穂高町に生まれました。中学卒業後、明治法律学校へ進学しますが、内村鑑三、厳本善治ら宗教家・宗教的教育家に会い、教育の道に興味を持つようになります。そして学校を中退し、上高井高等小学校小布施分校の教師となりました。その後、松本の垣内小学校と言われている松本尋常高等学校に教師として招かれます。その後、結婚を機に、東穂高高等小学校に転任し、そこで、生涯の友となる相馬愛蔵らが創立した東穂高禁酒会に入会します。この「東穂高禁酒会」というのは、とてもおもしろい会で、明治24年に創立されました。禁酒会の目的は、27年に、村に芸妓を置いて繁栄を図ろうとする計画に対し、反対運動を展開し、豊科署に請願を提出したことからもわかるように、単に禁酒そのものより社会浄化、自らの節制、勤勉といったことを勧める色合いの濃い会だったようです。この東穂高禁酒会の運動は次第に村の若者達に広がりますが、その広がりから怖れをなし、排斥されてしまいます。ことの成り行きを心配した相馬愛蔵ら禁酒会のメンバーが、井口が理想の教育を行えるようにと、村の有力者の援助を得て、明治31年私学校「研成義塾」を村に起こします。
この相馬愛蔵とその妻星良(黒光)は非常に面白い人生を送ります。東京専門学校(早稲田大)を出た後、蚕種製造に携わります。黒光と結婚後、明治34年上京し、東大赤門前の本郷中村屋を譲り受け、パン屋を始め、そこでクリームパンを発明して。新宿に開店したのが今の中村屋です。その裏には彫刻家萩原守衛のアトリエをつくったり、中村屋には、明治の末から大正にかけて、美術・演劇・文学その他広い分野にわたる多彩な顔ぶれの人々が集まるようになりました。その交友の世界は、いつしか「中村屋サロン」とよばれるようになりました。
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 研成義塾は、設立趣意書に書かれてあるように、建物は小さくても、そこには、「学生の多数を望まず、校舎の壮大なるを望まず」「一人の教師が一人の生徒と信頼をもって相対」するという確固たる教育精神があり、井口が脳溢血で倒れる昭和7年まで明治・大正・昭和と34年間続けられ、800人余の教え子たちを世に送り出しています。塾生には、彫刻家荻原守衛(碌山)をはじめとして、外交評論家清沢洌、思想家斎藤茂、実業家東條たかしなどがいます。日本のキリスト教界を代表し、無教会主義の創始者内村鑑三は、ここを何回か訪れ、「南安曇郡東穂高の地に、研成義塾なる小さな私塾がある。若し之を慶応義塾とか早稲田専門学校とか云ふような私塾に較べて見たならば実に見る影もないものである。其建物と云へば二間に四間の板屋葺の教場一つと、八畳二間の部屋がある許りである。然し此小義塾の成立を聞いて余は有明山の巍々たる頂を望んだ時よりも嬉しかった。此の小義塾を開いた意志は蝶ヶ岳の花崗岩よりも硬いものであった。亦之を維持するの精神は万水の水よりも清いものである。」と言い、井口を高く評価し、「穂高の聖者ペスタロッチ」とまで称揚しています。
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彼も新渡戸と同じようにキリスト教に基づいた人格主義教育をめざしたのですが、後に信州教育に影響するようになった彼の「教育は人格の問題であり、知識はその次である」という思いの根底には、きっと日本人に流れている「武士道」が影響しているのかもしれません。

自然のみ師

 各地に飛行機で行くときに気になることは、空港と中心地への距離です。なんといっても、ありがたいのは、福岡空港から博多駅に出る時ですね。地下鉄で、渋滞にも関係なくすぐ行くことができるからです。しかし、多くの空港は、広い敷地が必要なため、山の中か、海辺にあるので、空港バスに乗って中心地に行くことになります。その中で、大分空港は、大分県北東部の国東半島の沿岸の海域を埋め立てて造成した空港ですので、大分市とは湾を挟んで反対側にあるため、2009年10月まではホバークラフトが就航しており、空港ビルに隣接して乗り場がありました。しかし、現在は、廃止されているため、空港バスのみの運行になっています。
 そのバスに乗って、空港を出発して間もなく、「国東は、梅園の里」と書かれてある看板が目に入ります。これを見て、何気なく「このあたりには梅園があるのかな?」とか、「国東市は、梅の名所なのかな?」と思ってみるのですが、カボスが名産ではあるのですが、梅は関係なさそうです。空港で観光案内をみると、どうも「梅園の里」とは、立派なレジャー施設のようです。それだけでなんとなく解決して、特に気にとめませんでした。それが、昨日、たまたま大分空港のロビーで新渡戸稲造の「武士道」をあらためて読んでいたら、その第2章「武士道の源泉を探る」にこんな文章を見つけました。
 「三浦梅園は、学問を、それが実際に役立つまでには何度も煮なければならぬ、臭いの強い野菜にたとえている。また、彼はいう“少ししか読まぬ者は少し衒学くさく、多く読む者はそれだけより衒学くさくなる。両者ともども不愉快なものである”と。」この梅園の言葉を新渡戸は、知識というものは、それが学習者の心に同化し、かつその人の性質に表われる時にのみ真の知識になるということを述べていると解釈しています。
 この三浦梅園こそが、大分県国東市に生まれなのです。「梅園の里」とは、「三浦梅園の生まれた里」ということだったのです。梅園は号で、名は晋で、字は安貞といいました。江戸中期の哲学者、経済学者、自然科学者で、諸侯から招聘を受けてもすべて辞退し,生涯この地で医を業とし、かたわら家塾を開いていたそうです。その人となりは温厚篤実で安分知足をモットーとし、豊後聖人の称がありました。
 彼は、少年時代から、見るもの触れるものがすべて疑問に思えたようで、このことが哲学者としての梅園の才能を示すよい例だといわれています。彼は、「多賀墨卿にこたふる書」にこんなことを書いています。この書は、弟子に請われ自分の哲学の方法をやさしく解説したもので、梅園が自己の哲学を判りやすく和文で書いたものです。そこには、「我よりして是を観れば、其雷自身をあやしむこそあやしけれ。故いかんとなれば、其人地動くを怪しみて、地の動かざる故を求めず、雷鳴る所を疑いて、鳴らざる所をたづねず、 これ空々の見ならずや。」
梅園は、少年のときから不思議に思っていることの原因をどうしても知りたくて、自分の家にある本を手当たりしだいに読んだり、先生について学問をするために遠くまででかけたりしました。しかし、その謎はとけず、22歳のとき、長崎の出島に出かけ、西洋や中国の学問を学びました。それをもとにして、空を見上げながら自分で天球儀をつくりあげ、宇宙のなぞを解こうとしました。そして、「宇宙の出来事すべては目に見えない力やある道筋によって動いている」と考えるようになり、本に書き上げました。そして、「玄語」「贅語」「敢語」などの本に書き表しました。これらが、「梅園三語」といわれ、これらは条理学と呼ばれています。
この梅園のなんでも不思議に思う気持ちが、日常的な常識世界をも問い直すことになるのです。個人が単に常識に従う人間ではなく、良識をもった人間であることを優先しようとする気持ちからでしょう。そして、やはり「多賀墨郷君にこたふる書」の中で、「此故に、天地達観の位には、聖人と稱し佛陀と號するも、もとより人なれば、畢竟我講求討論の友にして、師とするものは天地なり。」と言っているように、自然のみを師としていた態度は、ドラッカーの言う、組織を破壊するマネージャーは、「何が正しいかよりも、誰が正しいかに関心を持つ者」に通じるものがあります。

住処

 今回の大地震の日のブログに「安心」というテーマで、「高度開発によってわれわれの住む社会が、知らず知らずのうちに脆弱になっていることも関係しているような気がします。」ということを書きました。そこでも書いたのですが、これからのまちづくりは、「安心・安全」がテーマになりそうです。これまでは、とにかく自然をコントロールし、それを抑制し、征服していた歴史があります。巨大な堤防を築き、海を埋め立て、山を削り、これが開発といわれてきました。しかし、今回の災害によって、住むところは、自然に逆らわず、自然と共生し、人も自然も共に心地よい住環境をつくっていかなければならないでしょう。
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 古代人は、長い歴史の中で、そんな場所を住まいに決め、生き延びてきました。もしかしたら、そうではない場所に住んでいた原人たちはそこで滅びてきたのかもしれません。そんなおもいのする原人の住処であっただろうと言われている場所に先週末行ってきました。そこは、1967年に沖縄で発見され、2008年の8月8日から一般公開されている、沖縄でもっともホットなスポットとして話題を集めている「ガンガラーの谷」です。ここは、太古の森と出会える秘境、守り慈しむべき聖地です。その谷で、約90分のヒトの起源と向き合える壮大なネイチャーツアーに参加しました。
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ガンガーラの谷ツアーのパンフレット
この谷は、約1万8千年も前に生きていた日本人のルーツとされる港川人の居住区であった可能性が高いため国立科学博物館と沖縄県で共同の発掘調査が行われています。港川人は、新人(現代型ホモ・サピエンス)に属する南方系の古モンゴロイドの一派と考えられており、専門家の調査研究によりインドネシアのワジャク人(インドネシア)と類似していることから、海に沈んだスンダランド(タイ湾から南シナ海へかけての海底)からやってきたワジャク人が琉球に定着して港川人になった可能性が強いそうです。身長はおおよそ150cm前後で、現代人に比べると小柄です。その骨格から、森の中を歩き回りながら狩猟採集の生活をしていたであろうと推測されています。
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太古の時代、日本人の祖先は、子を生し、森を歩き、食べ物をとり、暗闇に寝、この地で生を営んでいました。ここは、恵まれた亜熱帯の森で、豊かな実りをもたらしてくれる反面、同時に過酷な環境でもあったでしょう。それでも、この地で生き延び、他の地にも広がり、山を越え海を渡り、多くの命を犠牲にしながらも、世代を重ねて今、私たちの命に受け継がれてきました。
日本列島に、私たち“新人”(ホモ・サピエンス)が住み始めたのは、およそ3万年前からと考えられています。アジアの各地でさまざまな環境に適応し生き残った人々が、独自の文化をもって、いくつかのルートで日本列島にたどりつき、互いに影響を与えつつ融合して“原日本人”が誕生したといわれています。日本列島に到達した私たちの祖先が厳しい自然環境と共生しながら、技術・文化を築き上げてきたのです。
 現在判明している世界最古の人類は、アフリカ中部で発見された約700万年前の猿人トゥーマイで、その後、様々な人類が誕生し絶滅しました。そして、私たちホモ・サピエンスは今から20万年ほど前にアフリカで誕生し、10万?6万年前にアフリカを飛び出し、世界中へと旅立ったと言われています。そんな私たちは、きっと、これらの困難にも負けず、立ち直っていくでしょう。

海の男

先日、「あけおめ丼」を頂いたのは、遠く日本海を望む高台にある道の駅「ゆうひパーク浜田」にある「会津屋八右衛門」という海鮮レストランです。この会津屋八右衛門の石碑が、浜田港を望むところに突き出ているかのように立っていました。
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この会津屋八右衛門は、犯罪者であり、幕府に対しては反逆者ですが、地元にとっては藩の窮乏を救った海の男として讃えられています。この事件に、間宮林蔵が関わっていたのです。
隠密の仕事というわけではありませんが、江戸時代におけるご法度は、外国と接点を持つことを極力させまいと目を光らせていました。シーボルト事件のように日本の文化を国外に出すだけでも処分されていたわけですから、本人が、国を出るだけでも犯罪者でした。しかし、漁師のような仕事をしている人は、漁の最中に嵐などに出会い、遭難漂流してしまうことがあり、国外に出てしまうことがありました。そんなときには、不可抗力ですから特別に罰せられなかったのですが、海外の文化、産物を目にした時の驚きは想像に難くありません。
島根県浜田港の漁師清助は、1819年、江戸に向けて航海中、紀州沖で嵐に遭って遭難し、オランダ船に助けられました。そのまま南方の国々を回って、3年後、こっそりと日本に戻ってきます。このことを幕府が知っていたか、役人が知っていたかわかりませんが、当然、外国で見聞きしたことを周りの人に話したでしょう。それを近くで聞いて、話の内容に感化され、外国に憧れる他のは、当然清助の息子の八右衛門だったのです。彼は、密航計画を練ります。まず狙いを付けたのは、日本海に浮かぶ竹嶋でした。この竹嶋は今の島ではなく、鬱陵島のことです。ここに渡って李朝朝鮮と密貿易しようとしたのです。その動機としてはよくわかりませんが、どうも異国への好奇心だけでなく、慢性的な藩の財政難を見かね、鎖国の掟を破り、竹嶋と呼ばれた現在の鬱陵島へ渡航したのではないかといわれています。やがて朝鮮半島、中国、そして台湾、フィリピン、南洋諸島まで広がり、漁業伐木だけでなく、異国船との交易も進めました。輸出品は、国産の刀剣類が主で、様々な珍しい産物を持ち帰り、莫大な富を得たのです。
この富は、個人だけの問題ではなく、財政難の浜田藩にとっても魅力的なものでした。しかし、表立っては魅力のある計画だったものの、幕府の禁を犯すわけにはいかず許可しませんでした。そこで、家老岡田頼母、その家臣橋本三兵衛はこれを黙認します。天保元年(1830)から数年で何十万両もの利益を上げ、それによって浜田藩は窮乏から脱したといわれます。
やがて、浜田藩の密貿易は、噂になり、幕府にも聞こえてきました。そこで、薩摩藩の密貿易を内偵中であった幕府隠密、間宮林蔵は、会津屋の密貿易を調べ上げ、八右衛門は捕らえられて死罪になりました。また浜田藩の重臣も切腹し、藩主は蟄居、息子の代には転封されました。これが、「竹嶋事件」です。
その後、会津屋八右衛門の石碑が、昭和10年(1935)12月23日に浜田市松原自治協会によって建てられました、「会津屋八右衛門氏頌徳碑」という書は、内閣総理大臣海軍大将岡田啓介によるものです。
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隠密として

 現在、領土問題で日本も揺れ動いています。一つは、北方領土で、もうひとつは竹島問題です。この問題は、なかなか難しく、どちらの領土であるかというかという論議はこの場ではやめようと思います。しかし、その両方に関係しているのが、なんと間宮林蔵であることを最近知りました。間宮林蔵といえば、19世紀のはじめ、北海道から樺太千島列島で20年以上も生活して、その間の樺太探検では、間宮海峡を発見し、その名前が今でも世界地図にあります。子どものころからある意味では、日本人のヒーローとして伝記などを読んだ思い出があります。しかし、その評価、彼の業績は素晴らしいものですが、実は、彼は、幕府の隠密として日本中を歩き回っていたといわれています。
 間宮林蔵は、現在の茨城県に生まれますが、小貝川を堰止める工事がなかなかうまくいかなかったところ、よい方法を提案したところうまくゆき、林蔵の才能が認められ、幕府の役人として仕事をするようになります。江戸に出て、伊能忠敬に師事をして軽量術を学びます。そして、日本各地で行われた治水工事や、新田開発工事で、工事をしながら測量や土木技術を勉強したようです。19歳になった年、はじめて北海道に行き、43歳までの23年もの間、北海道を中心として活躍します。その間に間宮海峡を発見、その後、北海道測量という大事業を行います。29歳の時、蝦夷地御用掛(北海道)として西蝦夷を探検し、35歳の時、当時は樺太は大陸へと続く半島ではないかと思われていたのが誤りで、一つの独立した島だと言うことを証明します。
こんな偉業を成し遂げた彼は、江戸に戻ってから、今度は全国をくまなく歩き、外国の船が日本に来たという報告の調査の仕事をします。これが、隠密としての仕事なのです。そのきっかけとなる有名な事件があります。それは、「シーボルト事件」です。
シーボルトは、長崎郊外に、診療所も兼ねていた私塾「鳴滝塾」を開き、庭には日本各地でシーボルトが採取した薬草類が栽培していました。彼は、出島から塾まで通い、ここで西洋医学や自然科学など科学の幅広い分野を教授しました。この私塾の跡地は現在の長崎市鳴滝にあり、国の史跡「シーボルト宅跡」となっています。
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そのシーボルトらが江戸参府から出島に帰還する間に、1000点以上の日本名や漢字名植物標本を種集します。また、彼は日本の北方の植物にも興味をもち、間宮林蔵が蝦夷地で採取した押し葉標本を手にいれたく、間宮宛に丁重な手紙と布地を送ります。しかし、間宮は外国人との私的な贈答は国禁に触れると考え、開封せずに上司に提出します。この手紙の内容が発端となり、シーボルトが帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた伊能忠敬実測の『日本図』・間宮林蔵の『蝦夷全図/えぞぜんず』など多数の物件などが見つかり、それを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか十数名が処分され、シーボルトも国外追放のうえ再渡航禁止の処分を受けます。そこで、この事件は、間宮林蔵の密告によるものだと言われています。
しかし、奇しくも間宮海峡と命名したのはシーボルトだといわれています。国外永久追放されたシーボルトでしたが、個人的な感情とは別に、蝦夷地・樺太を探索した間宮林蔵の功績を認めており、後年、樺太と大陸の間にある海峡に「間宮海峡」の名前を付けます。
しかし、この事件により、間宮は法的に処分はされなかったため、世間からは「卑劣な密告者」として批判されてしまいます。その結果、彼は、その後は幕府側に付き、隠密として暗躍することになるのです。その隠密としての行動として、薩摩藩の密貿易・石見浜田藩の密輸事件の摘発は記録として残されています。石見浜田藩の事件のことを、先日連れて行ってもらった浜田で知ることができたのです。