明治

 数日前のブログで、焼津に行った時の話を書きました。その時、焼津とは結びつかなかった小泉八雲との関係を、記念館を訪れて初めて知りました。小泉八雲は水泳が好きで、焼津の深くて荒い海が気に入って、海岸通りの魚商人・山口乙吉の家の2階を借り、以後、亡くなるまでほとんどの夏を焼津で過ごしたということを知りました。今回、講演先で立ち寄った場所に、なんとその焼津の家が移築されてそのまま残っていました。そこは、犬山にある明治村です。
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 茶室ほど洗練されていませんが、その地域の気候風土の中で、生活に密着したつくりになっています。この村の中では、現在、駄菓子屋を開いてますが、やはり質素ながら無駄のないつくりをしています。明治初年に建てられたこの家は、間口5.5m、奥行13.2mの町屋で、木造二階建桟瓦葺、両側面には和風のたて板を全面に張ってあります。本屋は軒の低い二階建、前面に一間程の庇を出して店構えとし、内部片側に通り土間を通す形式は、当時の町屋の典型的な形で、この家も、右側は通り土間で、左に店、座敷が並ぶ。通り土間のほぼ中央、壁寄りには、屋根裏まで抜ける換気用の吹き抜きがあります。この店の部分で、現在この村の中では、駄菓子屋を商売としています。
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二階では壁に囲まれて煙突状になっていて、厨子二階とも呼ばれた屋根裏部屋が発展した形で、広い座敷二部屋と納戸になっています。天井が一部傾斜しており、屋根裏部屋の名残をとどめています。二階の窓は戸袋を片側に寄せ、低い軒下を開け放って障子をいれています。

 明治村は、明治時代の建物を保存している屋外博物館ですが、明治時代は、我が国が門戸を世界に開いて欧米の文物と制度を取り入れ、それを同化して近代日本の基盤を築いた時代です。長く築き上げられてきた日本の文化が、江戸時代に花開き、優れた木造建築が生まれました。その伝統の蓄積の上に、開国によって急速に取り入れ、欧米の文化に追い付け追い越せということで、新たに欧米の様式・技術・材料を取り入れ、石造・煉瓦造の洋風建築を導入し、産業革命の進行に伴って鉄・セメント・ガラスを用いる近代建築の素地を築いていきました。ですから、飛鳥・奈良と並んで、我が国の文化史上極めて重要な位置であると言われ、芸術上、歴史上価値あるものが多いのですが、震災・戦災などで多く失われ、ことに戦後の産業の高度成長によって生じた、大小の公私開発事業により、少なからず姿を消していく状況を見て、その保存を計るため、旧制第四高等学校同窓生であった谷口吉郎博士(博物館明治村初代館長)と土川元夫氏(元名古屋鉄道株式会社会長)とが共に語り合い、二人の協力のもとに明治村が創設されたのです。
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その保存された建物は、たとえば、アメリカの建築家フランク・ロイド・ライトによって設計された帝国ホテル中央玄関などのような近代化を感じる建物のほか、小泉八雲の避暑として使われた漁師の家のほか、東京で森鴎外と夏目漱石の両文豪が奇しくも相前後して住み数々の名作を残した由緒ある住宅や、石川啄木が東京ではじめて家族生活をした新居である新井家経営の理髪店喜之床などの建物のような、民家なども残されています。

また、ここの展示は、建物だけでなく、ほとんどが中に入ることができ、そこには生活備品も展示されています。民家には、夏の風物としての風鈴や釣り偲ぶ、蚊帳などもつりさげられていました。
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理念と美

 最近、保育園の竣工式に呼ばれることが多くなりました。私が最初に園長になった園の開園は昭和54年で、当時、市内に同じ年6園もできました。その少し前から、「ポストの数ほど保育園を!」と言われ始め、各地に多くの保育園が作られていきました。その動きは、戦後、1949 (昭和24)年頃から幼稚園で起き始め、急激に増加していきました。1948年当時の幼稚園数は1,529園であったのが、年々増加を続け、1953 (昭和28)年には2.3倍の3,490 園となり、1956 (昭和31)年には4.0倍の6,141園にもなりました。

 建物には減価償却資産として耐用年数が示されています。その建物の用途によって違いますが、事務所ですと、木造・合成樹脂造のもので24年、木骨モルタル造で22年、鉄骨鉄筋コンクリート造・鉄筋コンクリート造のもので50年、れんが造・石造・ブロック造のもので41年です。ということで、幼稚園、保育園の建て替えが行われているのです。その竣工式に出席して設計士さんとよく話すのですが、「設計をするうえで、園長先生にきちんとした理念があると設計がしやすいです。どのような保育をしたいのかを聞くことの方が大切ですが、ただ、収納を多くしてほしいとか、窓を多く、高さをどのくらいかばかりを要求されることがあるのです。」と言います。

 保育園、幼稚園という建物は、子どもを収容する箱ではありません。そこで、子どもが生活し、子ども同士の触れ合いの中で学習していく場なのです。再三このブログでも強調していますが、ドイツでは、「建物は第二の教師である」という感覚を持ちます。だからといって、機能的であればいいということではありません。機能を追求していくと、そこには「美」が生まれると思っています。そしてその美は、周りに攻撃的に存在するのではなく、周りと調和をし、周りと一体となって新たな美を産みだします。その環境をの調和によって新たな美を作り出す技を、私は日本人が世界の中で優れている民俗な気がします。それは、四季があり、豊かな自然に囲まれているからでしょう。また、鋭く、細やかな感性も日本人は持ち合わせている気がします。
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 私は、それらを、茶室から強く感じます。外観は、自然と一体になりながらも自然を直線で切り取り、そのたたずまいは、簡素にして、無駄なく、また、様々な五感を刺激していきます。今回、講演の合間に、信長の実弟が建てた、昭和11年に国宝の指定をうけた茶室弘庵を見ることができました。ここは、犬山城の東にある庭園・有楽苑にあり、庭園内には、国宝茶室如庵のほか、重要文化財旧正伝院書院、古図により復元された茶室元庵、新しく建てられた茶室弘庵などがあります。
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茶室は、屋外空間も含めて演出されています。ここのつくばいは風雅な音色を奏でる水琴窟となっており、それは静寂をより際立たせているようです。茶室の外観は柿葺入母屋風の屋根の妻を正面に向けて、左方に入り込んだ土間庇を形成し、大悔筆の「如庵」の額をかかげてあり、無駄を一切排除した非常に端正な作りとなっています。

室内は、亭主が上座につく、亭主床と呼ばれる床構えになっており、二畳半台目の向切りの茶室です。この広さは、ゆとりがありかつ緊張感を失わない室内空間をつくり、「二畳半、一畳半は客を苦しめるに似たり」と言い切っています。躙り口入って左側奥に四尺の出床、その右手やや奥に勝手からの入り口です。茶道口と給仕口を兼ねるこの勝手口からは給仕の動線に沿って斜行する壁を立て足元には三角形の板畳「鱗板」を敷いています。篠竹を打ち詰めた「有楽窓」、古暦を腰に貼った「暦張り」も独創的です。
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これらの建物は、光と風も演出し、無駄を省き、合理的でありながらも、「美」を中心においています。それは、理念がしっかりしていることが美を産みだすという証です。

オランダ報告1

 今日からオランダでの研修が始まります。少しイエナプランの話を中断して、異国情緒を味わってもらいます。

 オランダというと、何をイメージするでしょうか?まず、運河、風車、チューリップ、木靴などをイメージします。確かにオランダの国土の約8%を河川、水路、運河が占めています。オランダ中に張り巡らされた運河や内陸水路は全部で5000kmにも及ぶそうです。首都であるアムステルダムは、都市計画により建造された5つの大きな運河が街を取り囲み、環状に市街を区画しています。その運河の数は総計165本、それにかかる橋の総数は1000にも及ぶそうです。
また、ナポレオンがザーンセ・スカンスを訪れたとき、「類いまれなる場所だ」と称えたと言われています。このザーンセ・スカンスは、アムステルダムから程近いところにあり、約250年前、このエリアには600基以上の風車がひしめいていて、世界初の“工業エリア”を形成していました。これらの風車では、木材板、絵の具、マスタード、油や紙などを生産していたそうです。

チューリップがオランダに持ち込まれたのは、6世紀のことです。気候が適していたために栽培しやすく、すぐに広まりました。しかし、オランダとチューリップの関係は、ある事件が世界で有名になったからです。それは、「チューリップ狂時代」とか「チューリップ・バブル時代」とか言われるものです。チューリップは他の植物より交配がしやすく、改良を重ねるたび色や模様が変わることに楽しさがありました。なかでも、珍しい模様のチューリップは1630年頃にもなるともとの値段の10倍以上の値段がついたりもしていました。この時代、チューリップによって、金持ちになったり、金儲けに夢中になった結果、失敗して財産をうしなう人も少なくありませんでした。そこで、政府は637年、ようやく事態の沈静化に乗り出しました。チューリップの取引を規制し、やっと事態は収まりました。

というようなイメージの国ですが、実は、そんな歴史的に魅力があるだけでなく、有名なあたらしい建築が多いことでも知られています。例えば、オランダの空港といえば、アムステルダム国際空港ともよばれている「スキポール空港」があります。オランダ最大の空港で、スキポールという地名は、「Schip」は船、「hol」は穴という意味で、昔一帯は湖だったそうです。この空港は、世界中のトラベラーから高く評価されおり、世界の空港のお手本と言っても過言ではないと言われています。
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その評価は、空港内のサインが大きくて見やすく、あちこちに空港見取り図や発着案内モニターがあり、フライトによっては、着陸前にその飛行機がどのターミナルに着くか、また次のフライトがどのターミナルから出るかを案内してくれます。待合場所には、荷物を預けられるロッカーがあちこちにあり、一般の乗客が利用できるエリアが多いので、安心してゆったりと休むことができます。そして、一部のエリアには頭まで支えられる大きな椅子が置いてあるので、仮眠を取ることが可能です。そして、空港内にはたくさんの椅子があるので、ゆったりと休むことができます。

このスキポール空港のサービスのフィロソフィ(哲学)は「いろいろなお客さんがそれぞれに快適に過ごすことができる場所であること」だそうで、ゆっくりと休むことができる場所、ショッピングが楽しめる場所、さらにはカジノで遊ぶこともできますし、本物の油絵を見ながら過ごすことができる美術館まであります。
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ドイツ報告2013-21

 今年で、ドイツに行き始めて11回目になります。その前の年に、下見でローマ、フランクフルト、ミュンヘンと視察した結果、ミュンヘンに決めたので私は12回目となります。よく、他人から「どうしてドイツなのですか?」と聞かれることがありますが、「どうして毎年同じ場所に行くのですか?」ということはあまり聞かれません。それは、参加者は、特に毎年行くわけではないからでしょう。毎年行くのは、私だけですので、私はあるとき「たまには、いろいろな国に行ってみたい」と妻に行ったことがありました。その時、妻に「観光じゃあ、あるまいし、きちんと一つの国に決めた方がいいんじゃないの?」と言われました。確かに、いろいろな国に行きたいと思うのは、いろいろな国の実態を知りたいというよりも、単にいろいろな国に行きたいという観光に近い理由があるかもしれません。

 というのは、いろいろな国によく行く園長の園が、どのように保育が変わっていったかというと、部分的に、参考にしているという程度で、一貫性が見られないことが多い気がします。それは、先方の受け入れ方も違ってきます。私の園にも見学者が来ますが、毎年、見学に来る園への対応は緊張します。見学後、1年間で実践し、それがほぼ理解できた時にまた次にまた来るからです。ドイツで、毎年行く園は違うのですが、それをコーディネーターしてくれる教育局の人は、ドイツでは、異動がないのでずっと同じ人です。そこで、毎年訪れることをとても評価してくれ、篤いおもてなしを受けます。

 6月12日の午後視察した「森の学童クラブ」のホームページに、「日本からの訪問者」という記事が集合写真入りで掲載されていました。
「エバーズベルグの「森の学童」が、様々な分野の人々に大きな関心を呼び起こしています。「子どもたちには物事の決定に参加することができます。森の中のどの場所に行くか、そこで何をするか、あるいはたとえば何を創造するか、どんな経験遊びをするか、あるいはオタマジャクシを観察するのかを子ども自身で決定することができます。」とエバーズベルグ「森の学童」の教育指導員Karen Brummerさんが説明します。子どもたちは、「森の学童」の中で、経験豊かな教育者がそっと付き添うことで、自分自身のイニシアチブを育て、自分自身の考えを実行していきます。こうしたことが、「なんでも与えられすぎる今日という時代でどれほど大切なことでしょうか。」と彼女は強調します。

この説明に、日本から視察に訪れた教育者たちはうなずき、熱心にノートを取ります。時折、少し驚嘆した声が聞こえてきます。多数の本を著し、日本の中で高く評価されている教育者の一人である藤森氏を中心とした日本全国から来た20人の代表団が、4日間ミュンヘンとその周辺に滞在しています。メンバーには、多くの保育施設の園長さんや二人の建築家もおります。その建築家は日本で施設の建設を計画しています。彼らは様々な乳幼児施設を訪ね、さまざまな概念に触れます。ミュンヘン市「陶冶スポーツ局」の教育者ベルガ―有希子さんが代表団の調整世話役をします。エバーズベルグの「森の学童」の概念は、日本からの視察団にとって特別な関心をもったようです。

強調されることは、教育的雰囲気と子どもの環境の創造です。学童の発達史、部屋の刷新、財政コンセプト、ケアのポイント、宿題のケアのような「ハードな事実」の多くのことが明確になった後、グループ全体で森の中へ出かけていきます。エバーズベルグの森の様々な場所で子どもたちが午後の時間、創造的活動をする場所を体験し、自然から学んでいます。視察団の皆さんは森を通過するだけでなく、適切に見学していました。子どもたち自身で上手に作った倉庫や小屋、木の手紙受け、素材を集めて作った自然の芸術作品の形状をカメラにおさめていました。日本からの視察団の皆さんは、非常に新鮮な森の空気を肺いっぱいに吸い、たくさんの豊かな印象を得ることができ、心からここにずっと居続けたくなったようです。
フィリードリケ シュメルツ、エグゼクティブ 」

ドイツ報告2013-20

 一昨年、ドイツで「森の幼稚園」を視察しました。ドイツに行くと言えば、「森の幼稚園に行きますか?」と聞かれるほど有名です。2001年時点では、その数はドイツ全土で300以上にものぼり、バイエルン州だけでも30の森の幼稚園があるそうです。しかし、視察してみてわかったのは、日本が持っているイメージと大きく違うことでした。まず、森の幼稚園は、園舎がなく、森が園舎だということですが、そのような園は日本にもあるのですが、日本では認可されません。ドイツでは、認可されています。それは、どうしてかというと、ドイツでは、森の中で、バイエルン州の陶冶プログラムである「バイエルン」に沿って、きちんと保育しているからです。領域である、数も、科学も、メディアもやるのです。日本では、森の中で身体を使ってアスレティクのようなことをすることが中心ですが、そんなに崖をよじ登ったり、高いところから飛び降りたり、丸太を渡ったりするようなことはしません。そして、園舎がないと言っても、全くないのではなく、一昨年訪れた「森の幼稚園」では、トレーラーハウスを園舎代わりに使って、室内活動もしていました。もちろん、素材は自然物が多くを占め、五感を使っての森の中での自由遊びが中心ではあるのですが。

 今回のドイツ視察では、「森の学童クラブ」を訪問しました。ここは、小学校1年生から4年生まで16名を、3名のスタッフでみています。長期休みになると、子どもたちは25名になるので、スタッフはあと2名増員されるそうです。設立はとても新しく、昨年の2012年2月に作られました。「森の幼稚園」を卒園した子どもたちの保護者の要望で、設立されたそうです。ここでは、基本的に、雨の日も雪の日も森の中で過ごします。ただし、宿題をやるときと雷雨の時だけ建物内で活動します。
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 日課は、学校(地域の4校)が終わると、スクールバス(利用料2ユーロ)かタクシーでこの森に来ます。そこは、きちんとした建物でした。そして、宿題をやり、ケータリングの昼食(スープ、サラダ、メイン料理で1食3.5ユーロ)です。食器を自分で棚から出して、食べ終わると、食器を食器洗浄機の中に入れます。そして、森に行く服装(長袖・長ズボン)に着替えます。次に森の中の様々なポイントである写真を見て、自分が行きたい場所の写真の上に石を置きます。そして、17時?17時30分に帰宅します。

 ここにおける子どものイメージは、「子どもは、独自開発の俳優です。」ということで、「それは創造的な演技をする人で、活動的な人です。」そして、「すべての児童は、ユニークで、個人的な責任を負います。」「子どもたちは本質的に興味津々です!」などが書かれてあります。 そして、基礎として「安定した自己のアイデンティティを開発する 」「正の自己概念、自尊心と自己認識の獲得 」「自信、自己愛と喜び 」「自分の倫理観と信念を開発する 」「好奇心、開放性、想像力、創造性と創意 」「自信を持って、自分の感情や自分の体を使う」「性別特定の役割行動への対処」「フラストレーションへの抵抗と寛容」「メディアにより、有意義な余暇時間を開発するためのスキル」「シェーピングおよび社会的変化との積極的な参加 」が揚げられています。そのほかにも、「社会的スキル」や「財産や自然スキル 」も身につけることが目的とされています。

 日本でも、これから学童クラブがいろいろと課題を抱えてきます。託児ではなくある教育機関としての役割を考えていかなくてはならないでしょう。

ドイツ報告2013-19

私が読んだアレン卿夫人が書いた「都市の遊び場」という本は、1970年代半ばに日本で翻訳・紹介されたもので、その後、日本でも冒険遊び場づくりとして全国で草の根的に広がりました。そして、1990年代後半からは飛躍的に活動団体が増えています。その活動に一躍買ったのは、この本の訳を書いた大村虔一、大村璋子です。大村 虔一は、都市設計家ですが、NPO法人日本冒険遊び場づくり協会代表を務めています。設計家としてしては、「東京オペラシティ」がありますが、宮城県教育委員会委員長、東北大学大学院教授、宮城大学副学長、(財)宮城県地域振興センター理事長などを歴任しています。その中で、冒険広場としては、世田谷ボランティア協会理事として、「羽根木プレーパーク」の区と住民の協働システムをつくったことで有名です。

 一方、大村璋子は、日本への冒険遊び場の紹介者で活動推進者です。彼女は、IPA(子どもの遊ぶ権利のための国際協会)初代日本支部長のかたわら、夫とともに地域住民手づくりの冒険遊び場運営をスタートし、世田谷区と協働の羽根木プレーパーク創設、全国の遊び場づくり運動のきっかけをつくりました。彼らの活動により、地域住民による運営が広がっているのは、世界的に見た日本の冒険遊び場づくりの特徴といえます。ただ、私は日本における冒険広場の多くは知りませんが、日本における冒険広場は、「廃材を使って」というよりは、「冒険遊び場」の原点である「子供の遊び場を豊富で自由なものにする」ということを重視しているように見えます。

ドイツの冒険広場は、前回訪れた「モグラの家」同様に、廃材を使って、子どもたちが家を作るということがメインのようです。そのために、働いて、ここで通用する通貨をもらい、その通貨で廃材を買ったり、工具を借りたりするというようなことが行われます。毎日、6歳から13歳までの子どもたちが80?100くらい利用するそうです。彼らは、無料で、とくに届はいらず、いつでも(13時?18時)気軽に来て遊べるようです。全体の敷地は1400平米、雨天時や冬期間使用する建物は約400平米あります。費用的には、企業その他の後援団体が多いそうです。ただし、スポンサーではないということです。

ここのチラシには、こう書かれてあります。「 冒険遊び場は、危険なことができます。 様々な既知および未知の脅威があります。特にあなたが見ている突き出た釘とボード上。 それが濡れている場合は、特に住宅やケーブルカーに注意する必要があります。」日本では、注意書きのトップに「危険なことをしない!」と書くでしょうね。それが、「危険なことができます。」から始まるのです。
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また、ここのルールには、「怒って、ほかの子に、それを表わしたり、呪いの言葉はつかわない。」「投げるものと吐くは許可されていません。」「口語言語はドイツ語であるため、我々はすべて、お互いを理解し合わなければならない。」「屋根へのアクセスは禁止されています。」「火は暖炉です。薪を燃やし、紙や段ボールは、照明のためにのみ使用することができます。」「サッカーは許可されていません。」「建設遊び場で頑丈な靴を着用してください! 」「あなたは、1つまたは複数のルールに対して頻繁に違反した場合は、禁止され得ることができます。」「施設に入る営業時間外に禁止されています。」「違反が表示されます。」
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何となく、日本から見ると、禁止する事項と許す観点が少し違う気がします。

ドイツ報告2013-18

私が大学を出たかそこらのころに読んだ本に「都市の遊び場」(アレン・オブ・ハートウッド卿夫人著、大村 虔一/大村 璋子 訳)という本がありました。この本が、数年前に多くのひとの要望により復刻版が出版されました。この本の中で、私の脳裏に焼き付いているのは、たき火の上を飛び越えている子どもの写真で、子どもは、危険なこと、危ないことに挑戦ことも遊びにしてしまうというようなことが書かれてあった気がします。もう一度、それを引っ張り出して読んでみようと思っています。

第二次世界大戦のさなか、デンマークの造園家ソーレンセン教授は、専門の造園業から、都会では、子どもたちはどのような場所であそんでいるのかを長年観察した結果、子どもたちは、こぎれいな遊び場よりも、ガラクタのころがっている空き地や資材置き場で大喜びして、生き生きと遊んでいる姿に気がつきました。そこで、彼は、「冒険遊び場」を提案します。彼は、1931年に「都市と農村のオープンスペース」という本を刊行します。そこで提案しているのは、「子どもが古い車や箱や木材を使って遊べる適当な広さの廃材遊び場をつくってみるべきだろう。子どもたちがあまり乱暴に争ったり怪我したりしないように、多少の監督が必要であったが、そんな監督は必要でなくなるかもしれない。」というものでした。
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この提案に基づいて、1943年、コペンハーゲン市郊外に建築家ダン・フィンクがデザインし、初代プレーリーダー、ジョン・ベルテルセンと子どもたちによって、「エンドラップ廃材遊び場」が作られました。そして、大戦直後、未だ戦火の消えないヨーロッパで、幼児教育にたずさわっている人々が、国境を越えて子ども達のために協力する目的をもって、国際機関を創設しました。それが、OMEP(Organisation Mondiale Pour l’〓ducation Pr〓scolaire)と呼ばれている「世界幼児教育機構」です。

この初代会長であるイギリスの造園家アレン・オブ・ハートウッド卿夫人は、1945年に、この「エンドラップ廃材遊び場」を訪れます。彼女はこの遊び場に深く感銘を受けてその思想を持ち帰り、ロンドンの爆撃跡地に冒険遊び場をつくります。そして、ロンドン冒険遊び場協会長として世論を喚起して、冒険遊び場運動を隆盛させていきます。このように、彼女は、造園家としてイギリス造園学会副会長を務めただけでなく、イギリス保育学校協会副会長や、障害児ホリデイクラブ会長を歴任します。また、1944年に施設児童の生活を告発した単独キャンペーンで、1948年の児童憲章を実現して行きます。

このイギリスで力強い大きな流れとなった冒険遊び場づくりは、発祥の地、デンマークに逆輸入され、やがて1950?70年代を中心に、スウェーデン、スイス、ドイツ、フランス、イタリア、アメリカ、オーストラリアにも広がっていきました。現在、ヨーロッパ全体で1,000カ所程度の冒険遊び場があり、そのうち半数程度がドイツにあります。また近年になって、香港やカナダで、冒険遊び場づくりの新しい動きが生まれてきています。その一つであるミュンヘン市にある「冒険広場ABIX」に、13日訪れたのです。市内には、4か所の冒険広場がありますが、同じ趣旨で、同じ時期に作られた「モグラの家」という施設には、過去2度ほど訪れていますが、ここは、今回初めてでした。
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ドイツ報告2013-17

 現在、旧石器時代の洞窟に書かれた壁画が発見されていますが、そこには、いつ、どんなものを描いているかということは分かりますが、一番重要な「何のため」に描いたかがわからないことです。それが、実用品であったり、生活に直接関係のある物であったならば、推測は容易かもしれませんが、芸術となると、現在でも「何のため?」と言われても答えられないものがあります。しかし、昔は、基本的には意味がなく描いているはずはないのです。しかも、様々なところから発見されているので、「趣味のため」とか、「芸術心が心の中から湧き上がってきたから」というような理由であるわけはないのです。

 それでも、現在では、研究者の間では意見が一致している点が一つあるようです。100年前に壁画の古さが確認されて以来、研究者たちは長い間、壁画が描かれた唯一で普遍的な理由を探してきました。しかし実際には、そういうものは存在しないということで意見が一致しています。壁画を描いた理由は決して一つではなく、個々のケースによって、様々な背景があったと考えられています。

 最近の研究は、洞窟内の空間や壁面の形状、光、そして音響などが、描く対象、技法、使う色などの選択にどう関係したのかといった、新しいテーマのもとで進められています。壁画は、土地の自然環境や文化を背景にもつ多面的なものとして捉えなくてはならないというのが、現在の専門家たちの認識です。

 壁画を描く動機に、洞窟内の空間や壁面の形状、光、音響などが影響しているとは面白いですね。空間が、行動を左右しているのです。ドイツの陶冶プログラム「バイエルン」には、「学びの環境」として、「園の建築、内装などすべてが子どもの感覚養成に関係してくる。」としています。以前のブログでも、ドイツでは「第二の教師は建物である」と言われていることを紹介しましたが、その建物の形状、建物内の空間、建物の内装、すべてが子どもの感覚に訴え、子どもにとっての学びとなっているというのです。日本では、どの園でも方形の何の工夫もない空間の中で、子どもの感覚に訴えるどころか、感性を壊してしまうような装飾、または、全く味もそっけもない空間のなかで、子どもたちに生き生きと活動するように促しても無理なのです。

 バイエルンには、「美学的な陶冶は子どもの全人格に働きかける。頭(知識)心(感情)手(運動)」としているものの、「型紙や作り方の例などは、創造的な活動の邪魔をする。」とし、あるものを見てその通りに描くとか、例えば、七夕の飾りを作るからと言って、作り方を示し、その通りに作らせるような活動は、創造的な活動の邪魔をするといって排除されています。また、「上手にかけた絵が目的なのではなく、その絵にたどりつく創造的な活動にこそ意味がある。」としています。私の園でも、出来上がった絵や作品を展示するような作品展をやめて、子どもがどのように成長したかを絵を通して保護者に伝えるというような趣旨の成長展を開催することにしています。

保育というものは、デジタルなものではなく、過程が大切であるアナログの世界です。どうしても、保護者は、例えば泣いているという子どものある瞬間の姿を見て判断することがあるのですが、どうして泣いたか、どうやってそこから立ち直ったかが大切なのです。

ドイツ報告2013-16

 保育士の資格は、現在、試験でも取得できます。その中で実技の試験科目は、「音楽」「絵画制作」「言語」の中から二つ選ぶようになっています。この内容は、子どもたちに指導する内容でしょう。そうすると、ドイツでの領域の考え方からすると、考える部分があります。

 まず、日本ではかなり重視する「絵画制作」が領域の中にありません。それは、どうしてでしょうか?その分野について、「バイエルン」にはこう書かれてあります。「芸術に積極的に取り組む子どもたち」の中に分類され、そこに、「美学、芸術、カルチャー」と「音楽」が位置付けられています。日本では、絵画制作や音楽は「表現」に位置づけられています。ですから、「感じたことや考えたことを自分なりに表現することを通して, 豊かな感性や表現する力を養い, 創造性を豊かにする。」ことが目的になります。ドイツでは、まず、「五感を通しての学びは小さな子供にとっては陶冶の基本である。」としています。ということから、「最初の芸術、美学的経験はまさしく手でつかむことが、観念上の把握という形につながっていくことである。」として「美学、芸術」をとらえます。

 人類は、どうして「芸術」を生み出すようになっていったのでしょうか?また、赤ちゃんには芸術を生み出す力はあるのでしょうか?ゲオ術の存在が確認されたのは、旧石器時代の芸術作品があります。それは、1万8000年前の壁画で有名なスペイン北部の「アルタミラ洞窟」です。ここには、岩の凹凸を巧みに利用して洞窟の天井に何頭ものバイソンが描かれています。この壁画は、地元の地主親子によって発見されたのですが、あまりに芸術的なため、旧石器時代のものとは認められませんでした。それは、当時の学界では、はるか昔の原始人に、これらの現代美術とそん色ない絵を描くだけの知能はなかったという考えが支配的だったからです。

 しかし、その後様々な洞窟から同様な壁画が発見されたのですが、ここに書かれてある動物が遠い過去に絶滅した動物であること、旧石器時代の遺物を含む地層に覆われて存在していることなどから、旧石器時代のクロマニョン人による洞窟壁画であることがほぼ確定しています。

 では、クロマニョン人は何を描いたのでしょうか?動物、ヒト、抽象図形などのようですが、人に関わる壁画として圧倒的に多いのは、「手形」だそうです。これは、ドイツで多くみられた手形による装飾とは関係はないかもしれませんが、なんだか不思議な気がします。

 他には、数はそれほどないそうですが、ヒトと動物が合体したような半人半獣の絵や、いくつかの動物が混ざっているものがあります。それらは、動物のマスクをかぶったシャーマンとみなされていましたが、今は、想像上の生き物を描いた可能性が考えられています。

 この人類が芸術を表わし始めたころに関係はないと思いますが、ドイツの幼児における絵画は、まず、「子どもは頭の中に絵を描いて考える。」という「Kinder denken in Bildern」が重視されます。それは、「好奇心、自分で創造することの楽しみや意欲は子ども時代の人格形成のモーター(原動力)となるものである。」ということに根拠を持っています。

 ドイツにおけるバイエルンは、人類の成り立ちからは考えていない気がしますが、私は、何となく、そんな気がするのです。

ドイツ報告2013-15

 日本と領域の考え方で大きく違うところがいくつかありますが、その一つに対象年齢があります。日本では、保育所保育指針の中では特に対象年齢は書かれてありませんが、3歳児以上を対象とする幼稚園教育要領と全く同じ文言であるところを見ると、領域の対象は3歳以上であることがわかります。それは、以前の保育指針でははっきりしていました。それに対して。ドイツの陶冶プログラム「バイエルン」にはこう書かれてあります。

 「新生児は『能力のある乳児』としてこの世に生まれてくる」とし、「子どもは誕生の瞬間から自分の陶冶と発達について積極的に働きかけている」とあります。ここには、子どもは生まれながらにして教育される権利を持っているという精神が貫かれています。それは、生まれながら「能力ある存在」として尊重されます。それは、決して情緒的なことではありません。この「バイエルン」の背景には、「脳科学、発達心理学の間では、乳幼児期の学びの大切さが自明の理である。乳幼児期は、発見の喜びや、興味、新しい経験に対して一番敏感である。そして、その敏感期は、大人が適切な学びの機会を与えないと、その扉は閉じてしまう。」と書かれてあるように、きちんと科学的根拠も考察しています。

 また、この「バイエルン」は、「モンテッソーリやシュタイナー、レッジオ、世界の様々な、いいところを取り入れ、自分の国にあったものを作りました。」というように、いろ位ソロ参考にしています。こんな、孔子の言葉も引用しています。「説明してもらったら、わたしは忘れるであろう。見せてくれたならばわたしは思い出すであろう。わたしに実際にやらせてください。そうすればわたしは理解するであろう」そして、この言葉は、脳科学の新しい事実である「実際の体験がシナプスをつなぐ」ということであるとしています。その意味から0歳児からいろいろな体験をすることができるような環境を用意しています。それは、コープなど0歳児から6歳児までの異年齢で過ごしていれば当然0歳児でもいろいろなものに触ることができますし、体験できます。また、キンダークリッペという0歳児から3歳児までの園でも、全く同様な環境、ゾーンが用意されています。

 ドイツでのこのような事情が分からなかった昨年は、乳児保育園でも難しい科学教材が置かれていたことにびっくりしました。というのも、領域の中で、「言語領域」や「音楽教育の領域」「身体表現、スポーツの領域」などは、乳児からその発達に合わせた課題があるのは分かるのですが、「数学の領域」や「科学技術の領域」や「メディア教育の領域」では、乳児に対してどのような環境を用意すればよいかのイメージがわきにくい領域です。それは、ドイツでも同じような事情があるようです。ですから、これらの領域についての具体的な取り組み方や、その教材が開発されていました。

 例えば、「数学の領域」では、「“人形は椅子の上に寝ている”とか“ドアの向こうにかくれて”“まずズボンをはいてそれから靴をはいて”などという日常の言葉の中にも数学の秩序という概念が入っている。」というような例が書かれてあります。そこには、「最近の数学の学習プロセスで重視されるのは、数や形の概念というよりも、むしろ数学的考え方の獲得、発展であり、問題を解決しようという能力である。」とあります。また、「乳児がはじめて数学に出会うのは、形である。」ということで、きちんと乳児からの教育を研究されています。

 日本でも、もっと乳児からの数、科学、メディアなどの領域の研究もされていかなければならない気がします。