昨日のブログで紹介した山極さんの話は、人類はどのように進化してきたかを考える上でとても示唆に富むものでした。では、私たちはどのような保育をすればいいのでしょうか?それは、彼のそのあとに続く掲載記事による指摘を見る必要があります。私は、よく話をしますが、私たちは何も保育をただ変えようとしているわけではありません。子どもたちの環境によって、人類の進化から見た子どもたちへの継承が断たれてしまうのを危惧するからです。では、彼は現状をどのように捉えているのでしょうか?
“現代はどうでしょう。集団とのつながりを断ち、集団に属することで生じるしがらみや息苦しさを軽減する。個人として存在しやすいように技術は進み、経済成長を実現してきました。次々にマンションが建ち、個人は快適で安全な環境を得ましたが、地域社会の人のつながりはどんどん薄れた。
直近では、人々はソーシャルメディアを使い、対面不要な仮想コミュニティーを生み出しました。人間の歴史の中にない集団のつくり方です。思考や時間に応じ、出入り自由なサイバー空間で「いいね!」と言い合い、安心し合う。現実世界であまりにもコミュニティーときり話された不安を心理的に補う補償作用として、自己表現しているのかもしれません。でも、その集団は、150人の信頼空間よりおおかたは小さく、いつ雲散霧消するかわからない。若者はますます、不安になっています。
クリスマスを一人で過ごす若者の中に「一生懸命働いた自分へのご褒美」に、自分に高級レストランを予約する人もいると聞いて考え込んでしまいます。人間は他人から規定される存在です。褒められることで安心するのであって、自分で自分を褒めるという精神構造をずっと持たなかった。それがいま、少なからぬ人々の共感を呼んでいる。やはり人間関係が基礎部分から崩れていると感じます。
土地とも人とも切り離され、社会の中で個人が孤立している時代です。人類はどうやって安心を得たのか、生身の体に戻って確かめるために、霊長類学が必要とされているのでしょう。”
ここに、私たちが子どもたちに伝えなければいけないことが見えてきます。というのは、繰り返し主張しますが、このような集団を乳児の頃から持っているのが、保育施設であるからです。私たちは、集団という言葉を使うのは慎重になります。それは、集団教育が、子どもたちを間違った方向に導いてしまった経験があるからです。それもあって、「一人一人に」「個々に」という言葉が多く使われるようになりました。しかし、それが一人一人をバラバラに切り離してしまったのです。この指摘は、私はずいぶん前からしてきました。山極さんは、「思い合うことが信頼や安心をもたらしてくれる」と言います。それは、人間は、一人ではどうにも生きられない存在だからなのです。そして、最後にこう結論します。
「グローバル化で社会が均一化すると、逆に人々の価値観は多様化する方向へ向かいます。個人が複数の価値観を備え、自分が属する複数の集団でそれぞれのアイデンティティーを持つようになります。そうした時代には、5感をフル出動させた人間関係のつくり方がさらに重要になるでしょう。」