2017年ドイツ報告28

毎年、ドイツ研修を行なっているのですが、その定番として、まずドイツに着いたら安着祝をします。その様子は報告しました。そのときのメニューは、ドイツに入国したという実感を持つために、ビールとソーセージとザワークラウトが中心です。そして、ドイツ最後の晩は、フェアウェルパーティーをします。「フェアウェル(farewell)」とは、日本語で「お別れ」という意味ですので、辞書には「人を送り出す会合のこと、別れの会、さよならの会、送別会」などと書かれてあります。私たちのフェアウェルパーティーでは、最後の晩に、食事をしながら思い出話に花を咲かせたり、別れを惜しんだりする会です。メニューは、1週間ドイツ料理をたんのしたので、だいたいは中華料理にします。(意外と日本料理はドイツにはあるので)しかし、今回は、レーゲンスブルクではホテルの近くにはなかったため、イタリア料理にしました。

いつものフェアウェルパーティーには、ドイツでお世話になったベルガーさんと通訳の田中さんを招待するのですが、今回は特別にグレッチェさん夫妻をお呼びしました。本当にレーゲンスブルクでは、お世話になりました。まず、グレチェさんからのプレゼントです。参加者の皆さんには、このブログで紹介した「KITAへようこそ」という冊子です。それから、毎年ドイツを訪れている國信さんと、今回事務局を務めた西村君に、側面にドイツ語で、「星は見えるときと見えないときがあっても、いつの空にあるようにいつも私たちはいつも友だちでいる」というような詩が書かれてあるマグカップです。(申し訳ありませんが、そのときにはその内容に感動したのですが、今になっては、はっきりとは覚えていません)私には、すてきな花の絵が描かれてある夫婦コーヒーカップと、今回のいちばんの思い出の旧市庁舎を描いたスケッチを頂きました。

次は私たちからの贈り物です。グレッチェさんには、私から和ろうそくと縮緬の風呂敷、参加者を代表して岡崎さんからは高岡銅器の「おりん」と剣道の指導者用の短い打ち込み棒という竹刀と木刀をプレゼントしました。そして、事務局を務めた西村君が、グレッチェ夫妻に茶を点てて差し上げました。外国の方には、茶道はとても興味あるようですが、その作法は難しいようですが、一生懸命に作法を学ぼうとしてくれました。その後、みんなで今回の研修についての思い出に花を咲かせ、夜が更けるのも忘れて、楽しいひとときを過ごしました。

今年のドイツ研修の最終日になりました。今年は月曜日出発月曜日戻りの予定で計画しました。出発は羽田空港6月26日(月)12時35分発で、ミュンヘン空港同日17時40分着です。帰りは、7月2日(日)16時15分発、羽田空港7月3日(月)10時50分着です。ということで、ミュンヘン空港に向かうのは12時頃だということで、午前中に、私たちの部屋で、最後の振り返り研修を行ないました。四つのグループに分かれて見学した学童施設についての報告を受けて、自分が行っていない施設についても共有することができました。

今回のドイツ報告は、毎年行なっていたのとは少し異なり、園見学だけでない、観光や他国の文化を知るという研修についても報告させてもらいました。もちろん、他の海外研修よりは観光が少ないかも知れませんが、その中でも充分にドイツの文化に触れたり、ドイツの人々との交流など、毎年訪れることによって、より深いものになっていることを感じます。

2017年ドイツ報告27

ヨーロッパの川というと、まず「ドナウ川」を思い浮かべます。それは、「ドナウ川のさざ波」だけでなく、「美しく青きドナウ」という曲などドナウ川を題材とした名曲が数々あるからです。この曲を作曲したのは、ワルツ王とも呼ばれるヨハン・シュトラウス2世ですが、当時、ウィーンではウィンナ・ワルツが隆盛した時期であり、数々のドナウを題材とした名曲が誕生しています。

もうひとつこの川が有名なのは、この川は、多くの国の中を流れているからです。不思議な気がします。日本では、国をまたがって流れる川はひとつもないからです。そのため、ドナウ川では、その川の運行には各国をまたがるため調整が必要になります。そこで、その沿岸国が加盟したドナウ川委員会が設立されており、その本加盟国は2014年から、ドイツ・オーストリア・スロバキア・ハンガリー・クロアチア・セルビア・ルーマニア・ブルガリア・モルドバ・ウクライナの沿岸10ヶ国とロシアを合わせた計11ヶ国にもなります。

川の長さで言うと世界2位です。しかし、1位の大河はヴォルガ川ですが、この川は、ロシアだけの川で、カスピ海に注いでいます。一方ドナウ川の源流は、ドイツ南西部シュヴァルツヴァルト(黒い森)と呼ばれる森林地帯です。そこから南ドイツを東に横断し、さらに東に流れてオーストリアのヴィーンを通り、スロヴェニア、ハンガリー、クロアチア、セルビア、ブルガリアを経て、ルーマニアとモルドバから黒海に注ぎます。その全長は2850kmだそうです。毎年訪れるミュンヘンを流れるイザール川は、ドナウ川の支流です。

私たちが乗船した船

こんなドナウ川のクルーズが、今回の研修ツアーの最後としてレーゲンスブルク市からのプレゼントだったのです。レーゲンスブルクはパッサウよりドナウ川の上流、ドイツの中に入った位置にあります。そして、ドナウ川とレーゲン川の合流近くに位置しているため、水上運輸の要所としての役割を果たしたのです。このレーゲンと、中世の城塞都市という意味のブルクを併せて街の名前になっています。この街は、支流が土砂を運んで来るために、中州がいくつもあります。ですから、私たちが乗ったクルーズは、この中州の周りの支流をめぐるものでした。

こんな時にドイツの文化を感じたのは、乗船チケットの改札です。日本では、スタンプを押すとか、はさみを入れるのですが、ここでは、チケットをちぎったのです。ちぎることで、使用済みでもう使えないということです。せっかくのチケットが瞬間にゴミになってしまうという感じで、もったいなく思ってしまいました。それから、市の人から乗船記念品をもらいました。なんと、海賊がよくしている黒い眼帯です。大の大人でも船に乗るとき、海賊になった気分になるのでしょうか?しかし、なんで海賊というとこの眼帯をしているのでしょうね。

船は石橋をスタートして進みます。途中には、船上ホテルがありました。また、中州の建物がお洒落です。ビールを飲みながら優雅な気分でクルーズが終わり、今回のレーゲンスブルク研修は終了しました。船を下りて、レーゲンスブルクでお世話になった市当局の人たちと別れを告げて、私たちはホテルに戻りました。そして、その夜は、グレッチェ夫妻、ベルガーさん、通訳の田中さんを招待して、お別れパーティです。

 

2017年ドイツ報告26

午後からの集合場所は、初日に市長主催のレセプションを行なった旧市庁舎前ですが、この隣には新市庁舎があります。この市庁舎が建てられる頃は、また低迷期にありシンプルな造りとなっています。そして、壁には、いかにも立派な窓枠のように見えるだまし絵が描かれています。そして、1階には観光案内所があります。

ここに集合したのは、グレッチェさんはじめ、彼女のご主人さん、市の職員さんたち、とくにイベント係や観光課の人たちで、午後の行動に一緒に参加してくれました。そして、私たちのために、日本語の観光ガイドさんをお願いしてあり、その案内で街の名所巡りをしました。

少し歩いて行くと、360度見回せる広場に出ました。この広場の周りの家は、富豪商人たちの家で、塔が高ければ高い程、その家を立てた富豪商人はお金持ち、ということを意味したそうです。その中で最も高い塔は、13世紀に造られたものだそうで、アルプス山脈より北に位置する、同類の塔の中で、最も高く、52mあります。

街の中を歩くと古代ローマ時代の市門の遺跡など昔を偲ぶ場所が残っています。ある城壁の石積みが壁の一部に残っている場所がありました。ドナウ川は、古代ローマ帝国とゲルマニアとの国境にあたる、レーゲンスブルクの町は古代ローマの要塞が起源となっています。ガイドさんはさすが、狭く曲がりくねった石畳の道や戦災をあまり受けなかったために中世の雰囲気が残っている街を巡りながらある場所に向かっていきました。

レーゲンスブルクは、古い美しい街並みが有名ですが、実は、大学や単科大学がある、学生都市でもあるのです。人口の5人に1人が学生だと言われているくらいで、確かグレッチェさんも、こちらの大学を出たと聞きました。そして、レーゲンスブルクは、レストランとカフェの割合が、ドイツでも一番多いといわれているそうです。その日の昼食に食べたワッフルだけでなく、お皿に乗り切らないほど大きなピザを焼くお店やケバブのお店もあります。ドイツ最古の喫茶店(1686年営業開始)もあれば、最も北にあるイタリアの街らしく、美味しいカプチーノを提供するお店も何件もあります。そして、石橋のたもとには、800年の歴史をもちドイツ最古といわれる、緑色の小さなソーセージ料理店(ヒストーリッシェ・ヴェルストキュッヘ)があります。地元の人たちもそれを知っているのか、買うための行列が出来ていました。

そんな街中を通って向かったのは、この街の世界遺産の中心であるレーゲンスブルク大聖堂(Dom)です。この建物は、純粋なドイツゴシック建築のすぐれた例で、バイエルン州の代表的なゴシック建築とも言えます。着工は1275年で、尖塔以外が完成したのは1634年のことで、尖塔の完成は実に1869年のことだったそうです。中に入ってみると、ステンドグラスの素晴らしさに圧倒されました。とくに正面に面したものは14世紀のものだそうです。さらに2009年に造られた世界最大の壁かけ型のパイプオルガンは、約37トンの重さがあり、4本の鋼鉄ロープでつるされているそうです。

そして、向かったのは、この街に入るときに渡った石橋のほとりにある船着き場です。ここで、ガイドさんとお別れです。次に市の方たちが計画してくれていたのは、ドナウ川のクルーズでした。  

2017年ドイツ報告25

今年のドイツ研修もいよいよ見学としては最終日になりました。今日は土曜日ということで、保育施設はどこも開いていません。日本では、福祉の充実ということで、延長保育、休日保育、夜間保育、病児保育とさまざまな取組みがされていますが、これらの保育はドイツにはどこにもありません。それは、福祉が充実していないのではなく、児童福祉が徹底しているからです。なぜならば、子どもを持っている人が、17時以降に働いたり、休みの日に働いたり、夜まで働いたり、子どもが病気になったときまで働くことは、児童福祉が貧困だという考え方だからです。

そこで、土曜日は徹底して観光(といっても研修)を計画してくれました。今日は、13時30分に初日に行った旧市庁舎前に集合です。それまで、自由行動で、昼食もそれぞれ独自で摂ります。ちょっとした冒険です。ここレーゲンスブルクは、バイエルン州、ミュンヘンとニュルンベルクの間に位置し、中世の街並みが残る街です。その街の自由散策は異国にいる雰囲気たっぷりです。しかし、このような古い情緒あふれる街並みが残っているということは、ある意味では、発展から取り残されたからとも言えます。レーゲンスブルクが、ドナウの水運を利用し、世界中からの交易品が飛び交う栄えた街だったのは、11~14世紀です。その後、アウグスブルクやニュルンベルクなどの周辺都市が、手工業によって発展していくのに引き換え、レーゲンスブルクの力は次第に弱まっていったのです。旧市街内にある13~15世紀を中心に造られた富豪商人達の家は、財政難から、いつ床が抜け落ちるかわからない程荒れ果てていきます。更に、戦争の被害をほとんど受ける事がなかったため、中世の家並みがオリジナルのまま残ることになったのです。

このレーゲンスブルクは、1950年代にはバイエルン州でも一番貧しい街の一つになっていたのです。しかし、1955年に火災がおき、それをきっかけに、財政援助のための制度を70年代に整え、改築に力を注いでいきます。そして、20世紀の終わりには、今のような歴史的な建築が残され、美しい街へと修復されていったのです。そして、世界遺産都市に立候補を意識して街の整備にかかり、7年目、審議委員の全員の賛成を受け、2006年、世界遺産都市に指定されたのです。

レーゲンスブルクを歩いていて、気がつくのは、あちこち細い道があることです。それは、紀元前、ここにはケルト人が住んで、西暦179年に街ができます。そして、イタリアからやってきた軍の拠点として、城壁が作られました。そのため、城壁という限られた範囲内で発展していったため、旧市街内は道が狭いということだそうです。そんな旧市街内には、重要文化財に指定された建物が、なんと960もあるのだそうです。ですから、街全体が世界遺産なのです。

そんな街を私の園の職員と二人で歩き回ったのです。まず行ったのがレーゲンスブルク駅です。その駅にはショッピングモールがあります。ここだけがなんだか現代的です。しかし、この駅はミュンヘン中央駅と違って途中駅のため、それほど情緒はありませんでした。そこから、街の散策をして、オープンカフェでワッフルを食べて(こちらはどこに行っても量が多いので、ふたりでひとつ)、集合場所に急いで向かったのです。 

2017年ドイツ報告24

今回、レーゲンスブルクへ行って感じたことのひとつが、地域や保護者などのボランティアさんたちがこぞって、私たち日本から来たお客さんに対して歓迎してくれたことです。以前も、このドイツから日本の文化である「おもてなしの心」を学びました。どうも最近、日本では忙しいことに追われ、笑顔が減り、自分のことを優先して考える人が多くなった気がします。それでも、今回の大分の災害などには、多くのボランティアさんたちが訪れているそうです。もう一度、私たち人類が私たちの祖先から繋いできた助け合うこころを取り戻していかなければならにと思っています。

先日の読売新聞の編集手帳にこんなことが書かれてありました。「ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』の巻頭に新約聖書を引いている。『一粒の麦もし地に落ちて死なずば唯一つにてあらん。もし死ねば多くの実を結ぶべし』。日野原重明さんはその一説を印象深く読んだという。これほど異常な状況下の読書もない。1970年3月、赤軍派にハイジャックされた日航機『よど号』の機中である。ましてや、人質の乗客に向けたサービスで用意されたものか、犯人から借りた本である。『業績をあげて有名に医師になる。そういう生き方は、もうやめた。生かされてある身は自分以外のことにささげよう』。当時58歳の日野原さんは心に誓ったという。『よど号』から生還したとき、名声と功績を追い求める麦は一度死んだのだろう。-後略」

彼は、長寿の秘訣を「人と関わること」「人のために尽くすこと」「笑顔を絶やさないこと」と言っています。そんな日野原さんが105歳で死去しました。こんな人生を送りたいものです。

多くのボランティアさんに支えられて私たちのツアーは、四つのグループに分かれてそれぞれの学童施設を見学したあと、みんなで落ち合いました。そこから向かったのは、ある園が催している「夏祭り」に招待されたのです。園に近づいていくと、賑やかな音楽が聞こえてきます。そして、出店でいろいろな物を売っている子どもたちの声が聞こえてきます。夏祭りの会場は、その園の園庭でした。音楽が聞こえてきたのは、近くのしょうがい施設の職員さんと入所者で結成されたバンド演奏でした。歌と踊りを交えて、とてもリズム感があって、会場を盛り上げていました。園から、そのバンドに公演を依頼したのだそうです。

私たちが到着すると、みんなで譲り合って、席を用意してくれました。机の上を見ると、ドイツの旗と並べて、日の丸の旗が立っていました。そして、急いで、飲み物と、大きなホットドックを持ってきてくれました。しかし、申し訳なかったのですが、私は、それまでのおもてなしでおなかがいっぱいで、こっそり持って帰って、あとで、ホテルで頂きました。そして、私たちのメンバーで若い男性参加者が、子どもたちに刺激されて、顔にペイントしてもらいました。あとで知ったのですが、それを書いたのは、この園の保育者さんたちだったそうです。

18時になって、夏祭り終了後、片付けているあいだ、園内を案内してもらいました。

踏み台が引き出せるようになっています。

数の数え方が日本と違います。

基本的には、ミュンヘン市と同じような環境で、保育内容について詳しい話は聞きませんでしたが、子どもたちは生き生きと、自発的な遊んでいるであろう姿は想像できました。

3種類に分けた分別

2017年ドイツ報告23

レーゲンスブルクでの最初の見学先は、モンテッソーリ園でした。ミュンヘンでは、その考え方やいくつかの教具は取り入れているものの、今はほとんど「モンテッソーリ園です」と言われるような園はなくなっていますので、私もきちんとした園を久しぶりに見た気がします。ここは、モンテッソーリ協会が運営しており、ほかに幼児施設としては、0~3歳までの施設2園、0~6歳までの園3園を運営しているそうです。また、小学校1年生から小学6年生までの学校(ドイツの小学校は普通は4年生まで)、12歳までの学童クラブ(ドイツでは普通は10歳まで)、専門学校11年、12年生(高校)、研修センターなどを運営しているそうです。

各室には、きちんと教具が並べられ、見学した時間は、子どもたちは外遊びをしていた(見学者がいるため)ので、子どもたちの保育を見ることはできませんでしたが、落ち着いて、集中して取り組んでいるであろう姿が容易に想像できました。しかし、ミュンヘンの学校局の人からの質問で、「ままごと遊びやブロック遊びのようなものはしないのですか?」という答えに、「子どもたちが友だちと共有して遊ぶようなものは一切行ないません」とあるように、それではたしかに保育室内は静かだろうし、一人が集中してそれぞれの「お仕事」といわれることに取り組むであろうと思いました。もちろん、園庭では友だちと楽しそうに遊んでいる姿はあるのですが。

この見学のあと、先方で用意してくださった今日の昼食会場に向かいました。この園はお城の跡のシュロス・エンメラム・パーク内にあるため、途中は緑豊かで、その端にあるホテルは、何かの宮殿かと思うほどきれいが装飾が施されていました。ドイツでは、どこでも建物の大きな門をくぐると、その奥が中庭になっています。今回の昼食の場所は、そんな中庭にありました。そこには、ドイツにもあるのかと思ったのですが、あじさいや朝顔が咲いていました。予約された席に行くと、私たちはいくつかのグループに分かれました。それは、午後からの見学先を4カ所に分かれるためで、それぞれの見学先の園長先生と、通訳さんと、ボランティアさんと同じテーブルで昼食を摂るためです。また、私たちのテーブルには、その他に日本人の方で、お子さんをこちらの園に預けている方も参加していただき、町総ぐるみで歓迎してくれていることを感じます。

午後からの見学先は、ホルトという学童クラブの見学です。昨日の午前中に小学校を見学したのですが、そこにはターゲスハイムという学童施設が併設されていました。ドイツでは、小学校の授業は昼で終わってしまう半日制ですので、学童クラブはとても重要です。ホルトという学童施設は、日本の学童クラブと同じようなもので、いくつかの小学校の児童が、通ってくるところで、異年齢で過ごします。たまに、小学校の教室を使う場合もありますが、多くは幼稚園に併設されている場合が多く見られます。今回私たちが見学した施設は単独の施設でした。それに対して、ターゲスハイムという学童施設は、小学校内にあることが多く、小学校をそのまま午後まで行なうというイメージで、学年別に行なうことが多いようです。

今回の見学先では、子どもたちがみんなで歌を歌ってくれました。      

2017年ドイツ報告22

レーゲンスブルクの旧市庁舎を見学案内してもらって、最後の部屋には少しびっくりしました。それは、地下にある拷問室と廊です。地下牢や拷問室はかなりリアルです。当時実際に          使われていた拷問器具は当時のまま保存され、身の毛のよだつような恐ろしい器具でしたので、私はあまりよく見ることはできず、そそくさとその場を立ち去ってしまいました。しかし、実際に使用されることは少なかったようですし、ここで裁かれたのは、重大な罪を犯した人ではなく、商売でごまかしをした人が中心だったそうです。

といっても、そのあと見た牢は、暗くじめじめとした場所で、とくに処刑される前の日に入れられる牢では、ここに収監されていた人の怨念がありそうで、私はあまり見ることはしませんでした。急いでそれらの部屋を通り過ぎて、最後の部屋に行くと、そこには塩を計量した、当時のままの天秤や、大砲なども見ることができました。ここに塩を計量した天秤が置いてあるのは、レーゲンスブルクは塩で繁栄した街でもあるのです。南ドイツのバイエルン・アルプスで掘り出された岩塩はドナウ河を遡って運ばれてきました。当時、中世ヨーロッパでは塩を「白い黄金」と呼ばれていたほど貴重なものだったのです。それは、日本でも同じように貴重だったことが、現在放映されている「直虎」を見ていてもわかります。その時代、レーゲンスブルクは陸路を運ぶために荷物を積み下ろした港として賑わい、発展してきたのです。その塩の倉庫が石橋のふもとにあり、後日、今は塩の博物館になっているその場所を見ることができました。

そんな旧市庁舎の見学が終わると、レーゲンスブルクの宿泊先へ向かいました。そこは旧市街地域から少し離れたところにあり、閑静な住宅街にありました。ミュンヘンでは、街の真ん中の繁華街の中のホテルでしたから、ホテルの周りには、スーパーが一カ所、食事をするところが一カ所という具合でしたので、自由に夕食を食べたのですが、結局は何人かが同じところで食事をすることになってしまいました。

次の日からレーゲンスブルクでの研修が始まりますが、実はここに来る午前中に、ミュンヘンの小学校の見学をしてきていたのです。そこで、夜の研修会は、その小学校での見学の振り返りをしました。ミュンヘンの小学校を見学してみて、まずびっくりしたのは、校長らしからぬ女性の校長先生からの挨拶です。若いずいぶんと派手な校長先生でした。そして、日本との大きな違いを感じるところは、教室の内部のつくりです。まず、机は、どこでも三角形をしていて、その机を組み合わせて、さまざまな授業の受け方をしています。三角形は使いにくいと思うのですが、はやりでしょうか。レーゲンスブルクでも、その形の机をいろいろなところで見ることがありました。

教室内は、後ろの方には、コーナーがあり、プリントやパソコンなどが置かれており、くつろげるクッションが置いてあるのは以前紹介しましたが、後ろの方に窪みがあり、そこにクッションが敷かれ、癒やしの空間になっていました。アルコーブと呼ばれる空間です。

あとびっくりしたのは、子どもたちが与えられた課題に取り組んでいる場所です。あるクラスでは、廊下の吹き抜けが望めるところに机を持っていってそこでやる子、廊下の靴箱の上でやる子などいろいろなところに散らばっています。

 

ですから、教室内には子どもたちはほとんどいなくなっています。

 

 

2017年ドイツ報告21

ゆっくりと街の中を散策したかったのですが、先を急いで向かった先は、レーゲンスブルクの旧市庁舎でした。レーゲンスブルクは、10世紀から14世紀にかけて、全盛期を迎えます。交易によって栄えた1245年には、帝国自由都市になり自治権を得ています。しかし、15世紀になると衰退期を迎えます。しかし、1663年から1806年までのあいだ「永続的帝国議会」の開催地となり、再び隆盛を迎え、ドイツだけではなく、ヨーロッパ規模の政治活動が、レーゲンスブルクで行われました。

そのひとつの舞台が旧市庁舎で、現在は帝国議会博物館となっています。その中は、部屋数は11室あり、控えの間や会議室、地下の拷問室や牢などを約1時間のガイドツアーで見学することができます。しかし、見学者だけでなく、ドイツの人たちでもめったに入ったことのない部屋に着くなり通されました。その部屋は、重要な会議室で、真ん中に椅子が七つ並べてあります。ここは、かつて七人による合議制で政治が行なわれていたときにその判試合に使われていた部屋だそうです。今ではこの部屋は、他国や他市からその首長が訪問したときに招待をする部屋だそうで、私たちの前にその部屋に入ったのは、ミュンヘン市長だそうです。

その部屋に招かれたのは、そこに、ミュンヘンから移動した当市の教育局長であるグレッチェさんとレーゲンスブルク市長さんが待っていて、私たちを歓迎してくれたのです。そして、歓迎の言葉を述べられました。そこで、私からお礼の言葉を述べた後、プレゼント交換をしました。先方からは、日本語で書かれた町の観光案内と、レーゲンスブルクの観光名所が2枚ずつ印刷されたカードゲームを全員が頂きました。神経衰弱のような遊びをするそうです。

私たちからは、日本の白磁の茶器をプレゼントしました。そのあとしばらく飲み物が配られ、お互いに歓談しました。そこには、市長さんやグレッチェさん他、市当局の人たち、市内の幼児施設の園長先生たちも出席してくれました。その人たちもこの部屋に入ったのははじめてとみえて、部屋の中を一生懸命に写真に撮っていました。この姿を見るだけで、いかに私たちが特別な接待を受けたかがわかります。

市長さんが退出した後、何冊も本を書いている歴史学者から、レーゲンスブルクの歴史のレクチャーを受けました。この旧市庁舎で最初に建てられたのが、1250年ごろに建設された塔がある中央部で、徐々に拡張していき18世紀に現在のような建物になったそうです。交易によって栄えたのは1200年代ですから、日本で言えば鎌倉時代ですから、ずいぶんと古いですね。日本のどことも姉妹都市を結んでいないということで、日本でも歴史のある京都を思い浮かべますが、鎌倉の方がいいかもしれませんね。

そのあと、一般の人が見学ツアーをするコースを案内してもらいました。まず、入ったのが、帝国ホールです。舞踏会や祝祭ホールとして利用していたそうですが、それほど大きくはなく、とても質素ですが、天井材をはじめとして、歴史と伝統、重厚感があります。天井の真ん中には一本の梁があり、その中央にセント・ペーターの小さな像が装飾されています。そして、正面の中央に、天蓋がある場所があり、そこには皇帝、後ろの赤布張りのベンチは選帝候、手前の緑の椅子には諸侯が座り、中央のベンチは貴族や高位聖職者が座っていましたそうです。

2017年ドイツ報告20

ここ数年のドイツ研修は、いろいろとエキサイティングなことを先方が用意してくれています。一昨年は、子どもたちが使う郊外の宿泊施設の見学と、そこでのおいしい昼食への招待でした。昨年は、ミュンヘン市の市職員が研修で使うセミナーハウスの宿泊と、近くの湖への散策のお誘いでした。私たちの研修ツアーは、毎日午前1カ所、午後一カ所の施設をじっくりと園長先生の話を交えて見学し、夜はホテルの会議室でその日の振り返りをします。そんな毎日の日程の中で、市当局ではいろいろと気を使ってくれて、その他にもいろいろな経験ができるように計画をしてくれるのです。同じ場所に長く訪れるというのは、そこでの変化を見ることができるというだけでなく、先方からの信頼も篤くなります。

毎年いろいろと保育施設訪問の手配をしてくれるのが、ミュンヘン市の学校局の局長であるグレッチェ博士です。しかし、今年彼女は自分の実家がある出身地であるレーゲンスブルクという町に移動になりました。そこで、今年の研修は、ミュンヘン市に3泊、レーゲンスブルクに3泊することにして、それぞれの市の保育施設を見学する計画を立てました。

レーゲンスブルクは、ミュンヘンと同じバイエルン州で、ミュンヘンから焼く車で1時間くらいのところに位置しています。この旧市街は、2006年の第30回世界遺産委員会で登録されたドイツの世界遺産で、古代ローマ時代にカストラ・レギーナ(Castra Regina,レーゲン川沿いの要塞)として成立した街です。そして、ドナウ川とレーゲン川の合流点に位置する交通の要衝として、特に中世には一大交易地として栄えました。

まず、レーゲンスブルクとドナウ川をはさんで対岸にあり、やはり世界遺産に登録されているシュタットアムホーフでバスを降りました。降りて感じるのは、はやり街のたたずまいが地域によって異なっていることです。建物の形、色に特徴があります。そんな街中を通り過ぎると、ドナウ川に架かる橋に出ます。この石橋は、シュタイナーネ橋(Steinerne Brücke)と呼ばれ、1135~1146年に建設されたドイツ最古の石橋です。この橋ができるまでは、ウルムとウィーンの間には橋が無く、800年以上もドナウ川に架かる唯一の橋でした。ですから、第二次十字軍と第三次十字軍の騎士たちは、聖地エルサレムに向けた行軍の際に、この橋を渡ったそうです。十字軍が渡った橋との記録も残されています。

この橋はとても頑丈に造られ、17世紀の三十年戦争と第二次世界大戦で爆撃を受けてしまいましたが、一部は壊されたものの破壊されず現在も当時のものです。

レーゲンスブルクは、戦災による被害をほとんど受けなかったために、中世の面影を今に伝え、2000年間も変わらぬドナウ川の流れを楽しめる美しい古都です。ゆっくりと周りの景色の写真を撮りながら歩いて行くと、対岸にレーゲンスブルクの町並みが見えてきます。振り返ると、シュタットアムホーフの教会と町並みが見えています。少し進んでいくと、橋の上をゆっくり歩くと、Gその橋の先にある、オレンジ色の時計付きの塔のが見えてきます。その門は14世紀に造られたものだそうです。

ドナウ川を渡っていると、その川の流れの音が聞こえてきます。これぞ、ルーマニアの作曲家ヨシフ・イヴァノヴィチが1880年に作曲した有名なワルツ「ドナウ川のさざなみ」だと思って聞き入っていると、先を急ぐせかす声が聞こえてきます。これから、急いで行かなければならないところがあるようです。

2017年ドイツ報告19

ドイツは、日本と同様、少子化に苦しんでいます。そこでその対策に必死です。しかし、いくら子どもが少なくなってきていると言え、幼稚園に入れない「待機児童」の問題は深刻です。また、保育士不足も深刻です。そんな日本の同じような状況ですので、その対策は参考になることが多くあります。

高齢化が進む中で「少子化対策」のひとつとして2013年8月1日から法令施行によってドイツに居住する全ての1歳以上の子どもは、希望すれば全員、預け場所が確保できる権利が保証されることになりました。特に1歳以上3歳未満児を受け入れる保育施設を充実させることにより、出生率を上昇させ、母親の復職や再就職を促進させたいドイツ政府の意向によるものです。それまで、ドイツでは、3歳以上の子どもは全員、幼稚園に入ることができることになっていました。それが、未満児にも適応することになったのです。その法令を受けて、自治体は急ピッチで受け入れ体制の整備を進めました。しかし、施設が追いつかない状況です。今後、未満児入園希望者は7割に達するのではないか、と予想する専門家もいる状況です。同時に、施設の新設に伴い必要になるのは保育士ですが、日本同様、なり手がいないそうです。それは、旧東西ドイツを問わず、保育士の仕事は重労働・低賃金であることがネックになっているのは日本と同じですね。

だからと言って、日本と違うところですが、以前ブログで紹介したように、保育士資格を取得するのがかなり厳しく、たとえ取得しても誰でも採用されるわけではありません。小さな子ども相手の仕事ですから、保育の質を落とすわけにはいきませんし、採用にあたっては慎重にならざるをえないということで、実習や採用面接時は勿論、採用後も、半年間の試用期間に各応募者の性格・特性をじっくり見抜くそうです。

このようなドイツですから、1歳以上で入園している子は、保護者が保育に欠ける欠けないには関係ありません。ということで、降園時間は家庭によってかなり幅があります。昼に帰る子、3時頃帰る子、最後5時に帰る子とさまざまです。レーゲンスブルクで配られる冊子の最後のページには、夕方のお迎えの様子が書かれてあります。「見て!お迎えが来ましたよ。さようなら、また明日、お会いしましょう!」お迎えに来たのは、お父さんでしょうか?お母さんでしょうか?子どもたちは急いでその元へ駆け寄ります。ここにも保育者は出てきません。

すべてのページの中で、保育者が描かれているのは、絵本を読んであげているところと、食事の時に、ピッチャーとリンゴを持って子どもたちに聞いている箇所しかありません。この冊子は子どもの園での生活が描かれているので当たり前かも知れませんが、同時に、子どもたちが主体的に生活し、自発的にいろいろなことを経験しているのが園であって、保育者が指導したり、何かをわからせようとする場所ではないことがはっきりします。よく保育のエピソードを書くことが多いのですが、その内容は保育者と子どもとの関係におけるエピソードが多く語られることがあります。保育者が子どもの行動をどう考えるか、どう子どもの相手をするかと言うことを課題にすることが多いような気がします。

配られる冊子を見るだけで、ずいぶんと保育に対する考え方がわかります。