世界の育児

 ドイツに行くことによって、国による文化の違いを知ると同時に、共通な部分も見えてきます。それは、不易な部分と、世界的な時代的な要請によるものがあります。また、お互いが影響し合って、融合した新たな文化を形成していくこともあります。

 それは、子育てについての習慣にも見られます。いくらグローバルな時代であるといっても、まだまだ根強い、その国ならではの子育て文化が存在します。それが、時として真逆なこともあります。今年の5月に「LINE Corporation」で、「ビックリ!! 国が違えばここまで違う【世界の子育て法】 」という特集がありました。その中で、ずいぶんと国によって育児方法が違うのですが、ヨーロッパ間でもずいぶんと違います。しかし、何となく、ヨーロッパに共通するところがあって、アジアの子育てに比べて、自立を第1優先にしているような気がします。フランス流では、泣いたときの対処法はこうします。「赤ちゃんが泣いたらまずはお腹がすいたのかチェックとオムツチェック。これは日本と一緒だと思いますが、日本みたいに「赤ちゃんが飲みたいときに、飲みたいだけ飲ませなさい!」ではなくて、だいたい時間できっちりさせます。また、産後すぐにみんながお見舞いにきます。日本だと「産後は、疲れているだろうから、帰ろうか」という状況が多いのですが、フランス人は帰らないようです。みんなでおしゃべりしてワイワイして赤ちゃんが、寝ていようがおかまいなしで何時間もいるようです。まや、生後3ヵ月で添い寝をストップします!!その理由は、(1)子どもの自立を阻害する(2)夫婦の生活が侵害される(3)近親相姦を思わせる(4)押しつぶして窒息させる危険がある(5)乳幼児突然死症候群(SIDS)が起こりやすい、などだそうです。

イギリス流では、ほんの幼児の頃から、「子供は悪魔」と思って厳しくしつけるようです。それは、「大人になってから恥ずかしい思いをしないよう、小さいときに、守らなければならない社会のルールだけはしっかり教えておくのが親の務めです」だそうです。また、今年王妃が生まれたときにびっくりしましたが、「産む直前に来て、産まれたら6時間で退院」します。イギリスにはNHSと呼ばれる国民保健サービスがあり、出産を含むほとんどの医療が無料で受けられるのですが、そのサービスは決して行き届いたものではありません。長々と居てもらったのでは、つぎつぎ来院する妊婦さんを“こなせない”ということでしょうか。激痛と不安の中、病院にいられないというのは不安で、衝撃的です。

では、ドイツ流とはどのような子育てなのでしょうか?まず、「赤ちゃんのときから一人で眠る訓練」をします。赤ちゃんのときからベビーベッドに寝かされ、泣いてもすぐに抱っこしないことが推奨されています。また子どもが眠る時間も早いです。小学生の場合、19時に就寝する習慣が一般的で、遅くとも20時には子どもたちはベッドに入らなければなりません。また、ドイツでは外だけじゃなく家の中でも、赤ちゃんを裸足にはしないそうです。

また、耳に対しても「この帽子、耳が出てるわよ!」「帽子をもっと引っ張ってあげて!耳を隠さないと!」「耳に風を入れちゃだめよ!赤ちゃんは耳から風邪をひくのよ」など、とても気にしている様子です。

ドイツのお昼寝部屋ドイツのお昼寝部屋

オランダのお昼寝部屋オランダのお昼寝部屋

 

 子どもが早く寝る習慣というのは、ぜひ、見習いたいものですが、添い寝をしないとか、泣いてもすぐに抱っこしないというのは、最近、問題視されてきているようです。一人で寝る習慣も、ドイツだけでなく、オランダも、ヨーロッパ全体の考え方で、保育園のお昼寝の時間も、先生がそばについているということはないようです。それどころか、寝る部屋にも大人はいないで、子どもたちだけで寝ます。

意図運動の身振り

 チンパンジーの個体発生的に学習された意図運動の身振りには、たとえば、遊び始めるときの「腕上げ」とか、乳児が母親に抱っこして欲しいと頼む時にする「背中さわり」などがあります。これらの意図運動のシグナルは基本的に社会的行動の行程を省略したものであり、ほとんど二者間で成立するものであり、伝達者が相互のやり取りにおいて、直接受け手の行動に影響を与えようとするもので、第3者に関する情報を与えるものではないのです。

 このような意図運動の身振りを類人猿がどのようにして習得するのかという点において、たとえば「模倣」が考えられますが、以前のブログでも取り上げましたが、模倣は、人類だけの特徴で、チンパンジーや他の類人猿が模倣によってとは考えられず、種に個体発生的な儀式化によって、最も柔軟な意図運動の身振りを学習するという証拠がいくつも挙げられています。

 類人猿の使うもう一つのタイプの身振りは相手の注意を引きつける行為であるとトマセロは言います。この種の身振りは、まず確実に動物界で広くは見られないようです。おそらく、類人猿だけ、もしくは大型類人猿のみに限られるものかもしれないと言います。この相手の注意を引きつける行為とは、たとえば、「地面たたき」「つっつき」「物投げ」などであり、それもやはり外部に指示対象物ではなく、二者間で成立する場合が多いと言います。地面を叩いたり、つっついたり、物を投げている伝達者に受け手の注意を引きつけるものなのです。

 これらの注意を引きつける行為は、意図運動とは機能が異なるために、学習のされ方も異なるようです。特定に社会的行動と結びついていないため、注意を引きつける行為は繰り返し行なわれる社会的な行為から直接的に儀式化することはできません。その代わり、それらはコミュニケーションとは別の理由によって、地面を叩いたり、ものを投げたり、他者を押したりする行為をした個体が学習すると言います。これらの行為をすれば、当然のごとく他の個体の注意を引きつけるこの行為を行なった個体は、そのことに気がついて、その後はこのことを理由するのだと考えられています。ひとたび学習されると、注意を引きつける行為は、遊び、毛づくろい、授乳などのような多くのさまざまな社会的目的のために非常に広く用いられます。

 この間接性こそが本当に目新しいものだとトマセロは言っています。伝達者には受け手にして欲しい行動があって、それを達成するために受け手の注意を何かに引き寄せようと試みます。もし、伝達者が受け手に見て欲しい場所を、受け手が見れば、受け手は伝達者の望む行動をとってくれるという期待に基づくものなのです。子どもたちに何か大切な話を伝えようとする前に、まず、こちらに注意を向けさせようと声を出したり、何か身振りをしたりするのと同じようですね。そのときに、どのような声を出したらいいのか、どのような身振りをしたらこちらを向いてくれるかということを、体験から学習していくのですね。まだまだ、それは、ヒト特有のコミュニケーションではありませんが、そのようなことから人間らしさを見つけていくのでしょう。

 このように相手の注意に注意を向けていることからすれば、チンパンジーや他の霊長類は、特定の順序で連続した身振りをするのか、すなわち、まず注意を引きつける行為をしてから、意図運動をするのか、という疑問が当然わいてきますが、トマセロは、それは違うと言っています。

私の発達観

 私は、人間の発達とはどういうものかを、よく考えます。というのは、日々目の前にいる乳幼児を観察すると、発達過程という考え方に疑問に思うことが多いからです。というのは、乳児においての発達過程は、本人が意識的にその行為を行っているのか、そうではなくすでに遺伝子に組み込まれている行為なのかを考えます。しかし、たとえば「人は歩く生き物である」とか「人は言葉を話す生き物である」「人は道具を使う生き物である」というように表現をすることがあります。では、人は誰でも歩くのか?言葉を話すのか?道具を使うのか?というと、必ずしもそうとは限りません。オオカミに育てられた子は、歩く年齢になっても歩きませんし、暗闇の中で育てられたり、拘束されて育てられた子は、歩きはじめると発達過程で書かれてあるおおむねの年齢になっても、歩きません。言葉を話すことも、言語における障がいがなくても、人と話す機会がなかったり、言語を話す人と接することがなければ、話すようにはなりません。

 また、たとえ、ヒトとしての遺伝子によって歩いたり、言葉を話したりする機能を持って生まれたからと言って、産まれてすぐに歩き出すわけでも、話すわけでもありません。そうなるように適切な環境や学習が必要になります。だからといって、そのような環境、学習すれば、他の生き物でも話すことができるようになるのか、直立で歩くことができるようになるかというとそうなりません。

 と言うことは、様々なヒトとしての機能は、人類という種の中で、持って生まれた遺伝子と、それを引き出していく環境が必要になってきます。そして、それを引き出していくことが、保育であり、教育なのです。また、特に遺伝子で受け継いできた生存戦略としての社会という環境なのです。その社会の中で、社会の形成者としての資質を育てるために、乳幼児期は、非言語、非認知的な手段によってのヒトとの関わり、すなわちコミュニケーションのあり方を学んでいき、次第に言語を手段として、コミュニケーションをとっていき、また認知的なものを学習することによって、次第に社会の一員として自分がどのような能力を持って社会に貢献していくことができるかを学んでいき始めると思っています。

 このように発達をとらえると、保育所保育指針に書かれてある「子どもの発達は、子どもがそれまでの体験を基にして、環境に働きかけ、環境との相互作用を通して、豊かな心情、意欲及び態度を身に付け、新たな能力を獲得していく過程である。」という文章の中で、「環境」というとらえ方、「新たな能力を獲得」という意味がはっきりします。新たな能力とは、決して認知的なことだけを言っているわけでもありませんし、何かができるようになるという能力だけを指しているわけでもないのです。また、「獲得」と言うことも、教え込まれて得ることではなく、引き出されていくという意味が含まれていることも理解できると思います。

 このような発達観を持つと、「おおむね○○歳になると△△ができるようになる」ということは、元々そのような機能を持っている遺伝子を持ち、それが現れるようになるためにそれまでの環境、準備も大切になります。また、それが現れるということも、目に見えるようになるとか、自分で表現できるようになるということもあり、それができない年齢においては、そのような機能が備わっていないということにはならないのです。ですから、乳児のおける発達は、気をつけないといけないと思っています。最近の研究では、思っている以上に赤ちゃんに能力が備わっていることが分かってきたというのは、目に見えないものもわかり始めてきたということもあるような気がしています。

社会的困難

マイケル・ジャクソンが「スリラー、を歌いながらダンスをするシーンは目に焼き付いています。それは、彼のキレのいいダンスと、彼の後ろで一緒に踊っているゾンビの姿です。それは、その姿の不気味さだけでなく、無表情な、感情がまるでないような姿で踊っているからです。それは、もともとゾンビとは、何らかの力で死体のまま蘇った人間の総称をいうからです。

このゾンビのように、何の感情を他との関係性によって影響を受けないことを、心の哲学では、「社会的ゾンビ」というそうです。それに対して、「哲学的ゾンビ」は、ヒトと同じ身体構造を持ちながらも主観的な内的状態を持たないヒトを想定しています。この哲学的ゾンビは、社会の中で普通にふるまうことが可能で、哲学的ゾンビと一緒に時間を過ごしても、わたしたちには相手が哲学的ゾンビであるかどうかは分からないと言われています。
 一方の社会的ゾンビは、他者と自分との間の関係性に応じて、自分の行動を調整することはありません。ただ、それ以外の条件はわたしたちと同じです。知性は高く、会話もきちんとできます。また、哲学的ゾンビと違って、主観的な感覚も持っていて、ものの手ざわりや色などの質感なども感じることができます。また、感情もあって、腹が立てば怒るし、おかしければ笑います。しかし、この社会的ゾンビは、集団のなかではその欠陥が見えてきます。哲学的ゾンビは、たとえ内的な主観を持っていないとしても他の人と違いが分かりませんが、社会的ゾンビは、きっと浮かび上がってきてしまいます。

このゾンビの存在は、私は人工知能とダブって見えます。17世紀のドイツの哲学者ライプニッツが著書『モナドロジー』の中で、風車小屋を引き合いに出して、次のような論証があります。それは、「思考できる機械があるとして、その機械を風車ほどまで大きくしたとする。このとき、そのなかに入って周りを見渡したら、いったい何が見えるだろうか。」ということです。ここでいう思考できる機械とは、人工知能のことを言っていると思います。人工知能のように、ものを考えたり、感じたり、知覚したりできる仕掛けの機械があるとして、その機械全体をおなじ割合で拡大し、風車小屋のなかにでもはいるように、そのなかにはいってみたとすると、そこには何が見えるかと考えたときに、そこには、お互いに動かしあっている機械の姿だけで、表象について説明できるようなものは、けっして発見できはしないというのです。

いわば、人工知能や社会的ゾンビは、「空気」を読むことがまったくできないというのです。藤井さんは、こう表現しています。「誰かとても偉くて怖い人が部屋に入ってきて、部屋中が凍りついてしまうような場面でも、その状況の意味を理解できないのです。その直前まで友達と会話をしていたとすると、空気が凍り付いて他の誰もが口を閉じた後も、平気でしゃべりつづけるでしょう。そんなことが頻繁に続けば、社会的ゾンビが自bんの所属するグループ内での居場所をだんだんと失っていくのは、十分に想像できるでしょう。」

しかし、このような状況について社会的ゾンビは、知性や様々な能力については他の誰と比較してもそん色がないにもかかわらず、通常の社会生活を送り続けることが困難になります。人工知能では、社会の一員となるのは難しいようです。

環境による行動

 人がとる行動は、どんなに考えて、そのような行動をとるのかを選択しても、結局はその行動の社会的な意味を決めるのは、自分ではなくそれを見る他人であり、最終的に相手が自分の振る舞いをどのように感じるかに依存するという特徴があるのです。そして、そのような社会的な影響を与える他人や環境などの条件は、各個人がそれぞれ独自に持っているものであり、絶対的なものではないということだと藤井さんは言います。そうであるのなら、社会と呼ばれる構造が、それを見る人の視点の数と同じだけあるわけですから、それぞれの人が持っている無数の社会が重なり合って、社会ができているということになります。そして、一人の人の中に複数の視点を持てるのであれば、世界がその視点の数だけあることになると言います。

 

 では、そんな人によって態度を変えるのはおかしい、そんなにかしこまることはないのではないか、他者に対する我慢を取り払ったらどうなるかと思うとしたら、藤井さんはおそらく私たちが属している社会は完璧に壊れると断言しています。彼は、他者との関係に応じて行動を切り替えないということは、一言で言えば「空気を読んだ行動をとれない」ということだと言います。私たちは、日常でその場にふさわしい振る舞いを無意識のうちに選択しています。ここで言う「空気」とは、ある特定の場所に、特定の瞬間にだけ発生する拘束条件だと考えると、この拘束条件は、目に見ることはできませんし、うまく言葉で表現することも難しいのですから、その場にいる誰にも感じられる一種の強制力として依存していると言います。

 

 一時、「日本人とユダヤ人」という書籍が話題になり、ベストセラーになりましたが、その著者と言われている山本七平という人がいます。彼は、日本社会・日本文化・日本人の行動様式を「空気」「実体語・空体語」といった概念を用いて分析しました。そこでは、「空気を読む」のは日本人に特有の性質であると言っています。その独自の業績を総称して「山本学」と呼ばれています。しかし、藤井さんは、「空気」を読んでそれに従うのは、社会的な生き物である人類が共通して脳の中に持つ機能ですから、日本人に特有というわけではないと言います。ただ、比較するなら、たしかに日本人は欧米人と比べて「空気」を読み過ぎるきらいがあるかもしれないと言っています。

 

 この「空気」が引き起こす私たちの振る舞いは、人類の特徴であるにもかかわらず、非常に複雑です。ここで、藤井さんはこう分析します。先に出した天皇陛下との関係性は、通常はそこに居合わせた複数の人々が、特に申し合わせたわけでもなく、同じように振る舞いためのルールが瞬間的に成立し、ほぼ全員がそれに従います。ですから、その行動への影響は再現性が高いことになります。ということは、この行動様式は、人工知能にインプットすることはできます。

 

 しかし、「空気」には、そのような安定性がなく、瞬間的なものです。また、その合意が論理的でもありません。しかも、決定過程は全く不明であることが多いのです。そのため、空気を読み損なってしまったときには、何となくバツが悪く、しかも腑に落ちないことが多いものだと藤井さんは言います。とはいうものの社会の中で生きていくためには、この空気を読む力は必要だと思います。

行動指針

 理化学研究所の研究センター適応知性研究チームのリーダーである藤井直敬さんは、こんなおもしろい例を出しています。誰かと打ち合わせをするために、ある会社を訪れて、応接室に案内され、お茶とケーキを出されました。「こちらで少々お待ちください。お茶とケーキはご遠慮なくお召し上がりください。」といって立ち去ります。そのときに、どうしますか?「1.ケーキに手を伸ばすか?2.お茶だけに手を伸ばすか?3.両方に手を伸ばすか?」です。私も、よく園内研修に行って、時間までの間に接待を受けることがあります。それはお菓子であったり、ケーキであったり、抹茶を点ててくれることもあります。それは、とても厚いおもてなしの心を感じますが、手を出していいか、食べていいかを迷うことが多いのです。

 

 そのときにとる行動は、立場によって変わってくると藤井さんは言います。訪れた先が子会社で、これから強気な立場で打ち合わせに臨もうとしているなら3かもしれないと言います。もしくは、その会社への転職の面接に来ているとしたら、面接の相手が現れるまでは、お茶にもケーキにも手を伸ばせないかもしれないというのです。

 

 つまり、ここでの選択の可能性は、各個人がそのときに感じている、社会的な文脈によって決定されるということになるのだと言います。もちろん、これはそれぞれの人によって、きわめて主観的な決定になりますし、誰でも共通する絶対的な正解があるわけではないと断っていますが。しかし、藤井さんのおもしろい解説は、このような点にあります。「僕たちがどんなに考えて、どのような行動を選択したとしても、結局その行動の社会的な意味を決めるのは行動している僕たちではなく、それを見る他人であるという点です。つまり、私たちの行動の評価は、どこまで注意深く未来を読んでも、結局のところ最終的に相手が私たちの振る舞いをどのように感じるかに依存するという特徴があると言います。

 

 自分が行動する指針は、結局は人との関係が影響するのですね。それが、ある意味では「空気を読む」ということであり、その場の「雰囲気を察する」ということになるのでしょうね。そのときの判断要素として藤井さんはおもしろい例を出しています。ケーキやお茶に手を出すか迷っているときに、もしその部屋にいきなり天皇陛下が入ってきたらどうするかと聞きます。その設定の不自然さは置いておいて、そのときにケーキとかお茶に手を出せるのは、日本人であれば少数派ではないかと言います。たとえ、陛下から「遠慮せずにどうぞ」と言われても、普通の人なら手を伸ばすことは無理だというのです。

 

 どうして、このような例を藤井さんが出したかというと、ほとんどすべての日本人に同じような行動パターンを引き起こすような、脳の仕組みがあると考えられるのではないかということです。ですから、全く同じ質問を欧米人数人にしてみたところ、天皇陛下の写真を見ても誰だかわからないために、きょとんとしていたそうです。このような私たちの振るまい、空気感は文化に依存しているところが大きいために、国が違ったり、地域が違った場合は、違ったものになるでしょうし、違った行為となって現れるのでしょうね。

 

それは、天皇陛下でなくとも、身近な人の中にもそれぞれの人にはそのような存在の人はいるかもしれません。家族の中にいるかもしれませんし、職場の人の中にいるかもしれませんし、近所の人の中にいるかもしれません。そうなると、その人の行動は、より個人的な環境によります。その行動指針は、人工知能にインプットするのは難しいことかもしれません。

宇宙の中の私

 人が今をよりよく生きるためには、どのように誕生し、どのような人生を送り、将来どのような未来を培っていくかが課題となります。そんなかで特に、乳児の研究は、ますます大切になっていきますし、その対象時期はますます誕生直後に迫ろうとしています。私は、それは、個人の問題だけでなく、人類の誕生から見ていくことが、今の生き方に示唆を与えると思っていますし、将来、人類はどのような生き方をしていくのか、その時にはどのような力が必要になってくるのかを考えるときの根拠を教えてくれると思っています。そのために、人類がどのように誕生したのか、その時にどのような環境、どのような育児、どのような生き抜く力を身につけてきたかを考えることが大切になってくると思います。

 もっと広い視点から見るために、私は、地球の誕生、宇宙の誕生にも興味があります。特に宇宙の誕生には非常に感銘を受けます。そして、現在の研究テーマの一つは、宇宙の誕生直後の研究です。

今年の2015131日に残念なニュースが流れました。それは、「ノーベル賞級の成果ならず…宇宙誕生直後の“重力波の痕跡”は誤り」というものです。それは、米研究チームが昨年3月に、138億年前に宇宙が誕生した直後の「重力波」の痕跡をとらえたというものです。もし、これが成功していれば、ノーベル賞級の大発見と言われていたのです。

 以前のブログでも取り上げたことがありますが、宇宙は138億年前の誕生直後、超高温で超高密度の火の玉のような状態になり、爆発的に膨張する「ビッグバン」が起きました。私たちは、それを爆発と言っていましたが、今は爆発的に膨張し始めたということになっています。その爆発的な膨張の後は、冷えて膨張も緩やかになり、現在の姿になっていきました。その時の研究課題は、ビッグバンがなぜ起きたのかを説明することです。その一つの理論が、佐藤勝彦東大名誉教授と米マサチューセッツ工科大のアラン・グース教授が1980年代初めに、それぞれ独自に提唱した「インフレーション理論」です。

 この理論によると、生まれたばかりの宇宙は原子よりも微小でしたが、誕生からおよそ1036乗分の1秒後、微生物が瞬時に銀河の大きさになるほどの急膨張が起きます。そのとてつもない膨張は、空間が超光速で拡大するということから、物価の上昇を指す経済用語の「インフレーション」からイメージして「インフレーション理論」と名付けられたのです。この理論によって、急膨張で空間の性質が大きく変わり、潜んでいた熱が放出されてビッグバンが起きたというビッグバン理論の矛盾点を解決し、宇宙の標準理論になっているのですが、光が届かない暗黒時代の原始宇宙で起きたため、観測できないことが大きな課題でした。それを裏付けようとしたのが、昨年発表された宇宙が誕生した直後の「重力波」の痕跡をとらえたとしたものだったのです。それが、今年になって、「重力波の痕跡」は誤りであったというのです。

 結局は、宇宙の誕生から1036乗分の1秒後からの研究どまりなのです。それ以前は、どうも発想を変えないと解明できないのではないかとさえ言われています。そして、そこから1秒後までのあいだに、その後宇宙に起きるであろうすべての準備が整ったと言われています。その中に、後の宇宙の中に、私が生まれるであろう用意がされたと考えると、生まれた責任を感じます。

生きにくさ

 先月、政府が平成26年度の「男女共同参画白書」を発表しました。それを受けて、昨日NHK総合テレビの「クローズアップ現代」で、「男はつらいよ1000人の心の声」が放送されました。それは、今回の白書で、「現在幸せである」と回答した女性が34.8%だったのに対し男性は28.1%だったことに関して、男性は何に生きにくさを感じているかを考える放送でした。

幸せを感じるのは、女性にしても随分と低い数値で、世界の中ではかなり低い値になっています。そして、男性は、それをかなり下回っている結果なのです。しかし、実際の社会は、働き方や価値観が大きく変わる中で最近、国も企業も女性活用の重要性を重視し、女性に光が当たっていますが、日本はまだまだ男性中心の社会と言えます。働く女性で非正規の仕事に就いている人の割合は53.9%と、19.4%の男性よりもはるかに高く、女性の平均賃金は男性の7割程度。さらに1日に家事に費やす時間は女性が男性の5倍という数値から見ると、日本は、女性の方がかなり生きにくい国であると言えます。しかし、なぜ男性の幸福度は女性より低いのでしょうか?国際的な調査では日本の男性、女性の幸福度の差は他の先進国より際立って大きいのです。今の男性が感じている生きづらさとは何なのでしょうか?

 NHKが全国の10代~80代の男性に送ったアンケートの結果、1081人のうち「生きづらさを感じている」男性は54%もいました。その理由として最も多かったのが「仕事での人間関係」、次に「収入への不満」「労働時間の長さ」「家族との関係」でした。さらに生きづらいと感じる度合いも以前と比べて変化があるかも尋ねると、半数の人が以前よりも生きづらくなったと回答しています。

 実はアンケートの中で341人の男性が生きづらさの原因として選んだのは「夫・父・恋人として求められる役割」「男らしさという幻想」です。一家の大黒柱、イクメンなど時代と共に求められる男らしさと現実とのギャップに戸惑っているというのです。様々な男らしさに男性はしばられているようです。社会生活における男女の役割と脳の機能の関係性について研究してきた横浜市立大学の田中名誉教授は、大脳新皮質や海馬などは幼い頃からの周囲の言葉や行動を記憶していると言います。父親が家計を支え、母親が育児や家事を担う両親の元で育つと男女の役割をそう認識するように脳が作られ、「男の子なんだから泣かない」と教育を受ければ泣くことを抑制するように脳が学習し、それを男らしさだと認識します。こうした価値観は20歳前後までには定着し、それ以降に更新するのは難しくなり生きづらさの原因の一つになっているというのです。

 この番組は、男性に焦点を当てて考察していますが、そこからの脱出のヒントは、セリグマンによる心理学の考え方の変化にあるかもしれません。以前、このような理論が流行しています。例えば、フロイト派は、子ども時代の未解決の葛藤が、成人してからの行動を決定づけるのだと主張しました。B・F・スキナーの信奉者たちは、行動は外部からそれを強化する力が働いたときにだけ繰り返されるのだと主張しました。行動学者たちは、行動は遺伝子によって決定づけられている、決まった活動パターンの結果であると言い、クラーク・ハルの弟子たちの行動主義心理学者たちは、私たちは内部からの動因を減らし、生物学的なニーズを満たす必要性から行動へと駆り立てられるのだと説明しました。

 これらの学説が1965年ごろから覆され始めたのです。

体育会系

 よく、「体育会系」ということが言われます。学生時代に体育会系のクラブ活動をしていた人のことを指すのでしょうが、それは、彼らにある特徴があるからでしょう。まず、体育会系と言うと運動部のことでしょう。しかし、最近、クラブ活動で文化部というものがあるのでしょうか。私は、運動は好きですし、自分でいうのも変ですが、運動音痴ではありません。どちらかと言うと、得意な方です。しかし、運動部に所属したことはありません。小学校の時は「算数部」、中学の時は「科学部」、高校の時には「生徒会」、大学の時は「帰宅部?」でした。

 クラブ活動では運動部ではありませんでしたが、中学1年生の時には、毎朝授業の始まるまで1時間友達と卓球を体育館でやっていましたので、息子が小学生の時に、PTA卓球大会で優勝しました。また、中学3年生の時には、クラスメイトにバスケット部のエースがいたので、彼から毎日バスケットボールの特訓を受け、小学校の教員試験の時に、バスケで好成績を取りました。また、高校時代には、やはりバレーボールクラブの友達といつもバレーボールをして、彼とクイックの練習をし、園長になってから、市内保育園バレーボール大会でエースアタッカー(まだ、9人制)としてまあまあ、活躍しました。と言うことで、私のイメージの体育会系とは、運動が得意な人ということではありません。

 では、どういうイメージかと言うと、偏見かもしれませんが、縦社会の中で、礼儀正しく、返事がよく、上下関係をきちんと守る人というイメージです。ですから、何かを頼んでもいやと言わず、いろいろなことに率先してやるというイメージで、会社や、組織の中では、好まれ、就職に有利と聞きます。しかし、以前のブログにも書きましたが、私は、あまり体育会系が好きではありません。それは、物事を考えないですぐに返事をしてしまうとか、心から信頼するというよりも、地位や歳が上だから言うことを聞くというようなところがあるからです。実際はそうではないのでしょうが、どうも、物事に対する分析力に弱いような気がしていたのです。

 最近、上場報道で注目を浴びるリクルートホールディングスの活躍を目にすることがあるのですが、この会社における人材登用のあり方が変わってきたと言います。同社の好調を支えるのは「データサイエンティスト」集団であると言います。今まで、元気でノリが良い「体育会系集団」とされていたのが、ここ数年は、マーケティングや物理学など多様な分野で分析力を磨いた人材を登用するようになったと言います。いわゆる、「体育会系」から「分析集団」へ変化してきたというのです。

リクルートは、分析力を武器に、ネット分野でさまざまなサービスを展開する会社です。今までは、「足で稼げ」「体力勝負だ」と言ってきた働きから、現在の時代は、データ分析力が必要になってきたからです。そこで、中核となるデータサイエンティストの採用、育成に積極的に取り組み、博士号を持つ「超高学歴」人材も登用しはじめているそうです。

数年前、マイクロソフトやグーグルなどが統計学の重要性に気付き始め、分析人材の需要が高まってきました。それは、情報系ではもちろん増えてきていますが、他の分野でも、たとえば、医療系などでも次第に求められ始めているようです。もしかしたら、教育、保育分野でも、分析力が必要になってきているかもしれません。

人手不足対策

ドイツに行く前に、保育園・幼稚園の人材確保の困難さと、離職率の高さについて書きました。保育者へのなり手がないのは、ドイツでも同じですが、離職率についてはずいぶんと事情が違うようです。それには、今の若い人は、様々な社会、様々な人、様々な年齢差を持った人との関係の経験が少ないことが考えられるということは書きました。しかし、それらは、若い人を含めて本人の問題ですが、一方、事業者側にもいろいろな問題があるようです。それは、最近の傾向として、何も保育園だけでなく様々な企業における人手不足と同じ傾向を見ることができます。

それに対して、様々な企業では働き方、従業員への考え方の見直しが行われています。それは、以前のブログで書いたユニクロの変革に見ることができます。こんな記事も目にしました。「スタバ、正社員登用の理由 働き方改革、競争力の源に」というものです。その内容は、「暴利をむさぼっているのではないか」と、中国の国営放送局が昨秋、米スターバックスのコーヒーの値段が不当に高いと批判しました。この批判によって、スタバは「外資たたき」の標的になりかけたのですが、そこに思わぬ援軍が現れたのです。

その援軍とは、ネット市民や他の中国メディアだったのです。結果、「スタバは快適な空間を提供している」といった意見も広がり、批判は下火になりました。スタバのサービスの質への支持がピンチを救ったのでした。それは、最近、強く感じます。私の園で、来年区からの要請で学童クラブを廃止して、定員を1.5倍に増やさないといけないのですが、それに対して、保護者達は理解を示してくれて、質を落とさないだろうということに信頼を寄せてくれています。また、地域が様々なことに協力的なのは、地域の人から園の保育の質が高いということから信用があるからだと言われました。では、その質は、どこから生まれてくるのでしょうか?スタバについての記事を読むと、全く私の園にも言えることでした。

スタバの競争力を支えているのが、従業員の強い忠誠心を生んだ企業風土であるといいます。アメリカは「投資家利益が最優先」という考え方が強いのですが、スタバは従業員向けの福利厚生などを充実させ、働く場所としての魅力を高めてきました。それは、日本法人も同じ考え方を持ちます。今春、コストが増えることは覚悟の上で新しい人事制度をつくり、契約社員約800人を正社員に登用しました。

では、現在の人手不足は、このスタバの決定にヒントがあるのでしょうか?人材を引きつけ、その人材をどうすれば生かせるのか、といった経営の基本が、人手不足を背景に改めて問われるようになってきています。今回のスタバの決定も、サービス業や建設業で深刻になっている人手不足への対策と思われがちですが、実は、現実は少し違うようです。

スタバ日本法人で人事・管理担当の荻野博夫執行役員は「人事制度見直しの着手は3年前。人手不足がきっかけではない」と話しています。事実、スタバ社員の定着率は高いのです。厚生労働省によると、新卒の3年以内の離職率は大卒で30%ほどですが、スタバは5%未満だそうです。新制度で意識したのは契約社員の待遇改善だけでなく、平均年齢が35歳に上がった正社員の働き方の改革も重要なポイントなようです。