教育介入プログラム

教育介人プログラムが功を奏するためには、集団としての子どもたちの行動や態度に修正を加えるものであるべきだとハリスは思っていると言います。そのようなプログラムが長期的な効果を発揮するためには、子どもたち同士が連絡を取り合って、一つの集団をつくり上げているという意識をもちつづけることが必要となります。ゆえに、学校全体の子どもたちを対象としたプログラムのほうが異なる十数校に通う17人の子どもたちを対象にしたものよりも効果があるのではないかとハリスは推論しています。

ハリスが思い描いているのは学齢期の子どもたちの攻撃的行動を減少させ、相互の助け合いを増やすよう設計されたプログラムなのです。訓練は対象として選ばれた学校の生徒全員に施され、その結果、彼らの校庭や食堂での行動にわずかですが有意な進歩が認められたそうです。変わったのは集団の規範でした。ハリスはこの仮説を予言していたそうですが、子どもたちの家庭での行動には進歩は見られませんでした。

親向けの教育介人プログラムは子どもたちの家庭内の行動に改善をもたらすことはあっても学校での行動には効果はありません。学校を基準とする教育介入プログラムは学校での行動に効果はありますが、家庭内については変わりません。ハリスがこの説を主張してから10年になりますが、この結果は今もなお真実であり続けており、それこそが子育て神話に対する強力な反証となるとハリスは言います。なぜ強力かというと、正しく実行された研究であれば、子どもたちは教育介入プログラムを受ける実験群か、受けない実験群かに無作為に振り分けられるからです。すなわち両群の子どもたちは遺伝子的に同質と見なされ、その研究では遺伝子の影響がすでに統制されていることになるということです。さらに導人された研究法は因果関係の有無を検証する実験研究であり、相関研究でなかったという点も大きいと言います。

以前ハリスが紹介した人物に、シンデレラの他にジョゼフという少年がいました。彼は実在する少年だそうですが、本名ではないそうです。彼が7歳半のとき、ジョゼフの両親はポーランドからミズーリ州の片田舎に移住してきました。ジョゼフにしても、その父親にしてもアメリカに到着した時点ではまったく英語を話せませんでした。母親だけは六週間の語学コースを受講し、いくつかの英単語は発音できていました。

ジョゼフの両親は手に職をもっていたわけではありませんでした。ミズーリで父親がはじめに就いた仕事は庭園業の作業員、その後は守衛としてはたらきました。母親は外の仕事には就かず、移住してから7年たっても彼女の英語力はたいへんに乏しいものでした。ハリスがこのように彼の背景について述べているのは、ジョゼフには遺伝的にもしくは文化的になんらかの有利な条件があり、それが彼の新しい生活への移行を容易なものとしたのでは、との疑いを避けるためであると言います。ジョゼフを調査した心理言語学者の報告書を見るかぎり、彼は普通の両親をもつ、普通の男の子でした。

ジョゼフがミズーリ州に到着したのは五月でしたので、彼は夏の間に英語を話す友だちをつくり、彼らが話す言語を学びはじめることができました。学校がはじまった八月の終わりの時点で、心理言語学者たちは彼の英語力は二歳程度だと評価していました。学校は、彼に通訳をつけることも、英語を話せない子どもたち向けの特別クラスを編成することもしませんでした。彼は同年代の子どもたちと同じ2年生のクラスに入れられました。ポーランド語を話せる子どもは一人もいませんでしたし、先生もポーランド語を話せませんでした。彼への指導はすべて英語でした。時に「泳ぐか、沈むか」と呼ばれる方法だったのです。

男女の判断

昨日紹介した実験は、赤ちゃんとは本来同質のものですが、デイナやデイヴィッドといった名前をつけられ、その後違った扱いを受けるために、男の子は男の子のように、女の子は女の子のように育つのだということを立証するはずでした。ところが、その16年後、別の研究者二人が多少違った実験を実施しました。一人ではなく、数人の赤ちゃんの様子をフィルムにおさめ、それを大学生に見せて登場するすべての赤ちゃんについて判断してもらったのです。フィルムには赤ちゃんの性別を示すような手がかりは何一つなく、名前もつけられていませんでした。そのような状況にもかかわらず、おしなべて女の赤ちゃんの方が、感受性が強く、男の赤ちゃんの方が元気がいいと判断されたのです。もし12名の健康な赤ちゃんを借りてきて、男女の見分けのつかない洋服を着せ、「ジェイミー」や「ディル」、さらには「ヤンツェン」などと呼び、道行く人にその赤ちゃんの性別を推測してもらったとしても、おそらく半数よりずっと多くの人が正しく言い当てることができるだろうと言います。

ハリスが担当して1984年に出版された児童発達に関する教科書の初版には、「男女の一卵性双生児のケース」が付録として掲載されていたそうです。それはジョンズ・ホプキンズ大学のジョン・マネーとアンケ・エーハルトによるレポートに基づいたものだそうです。マネーとエーハルトは、一卵性双生児の男の子をもつ親のカウンセリングを担当することになりました。その双子のうち一人は、残酷な不幸に見舞われていました。生後七カ月のときに受けた包茎手術の失敗が原因でペニスが損傷を受けてしまっていました。両親は田舎生まれで、小学校までの教育しか受けていませんでしたが、彼らには無傷な息子と、一点を除きあらゆる点でその子とそっくりな息子がもう一人いたのです。その一点とは、ペニスが欠損していることだったのです。

医者は両親にペニスを再生する方法はないと告げました。次善策は負傷した双子の一人を女の子として育てることだとも告げていたのです。その子の精巣を摘出し、男性ホルモンの分泌源を取り除くことを医者は勧めました。思春期にエストロゲンを投与すれば、女性的な体つきになれるはずだと言ったのです。

両親は数カ月思い悩んだ末、その子が生後17カ月のときに決断しました。男の子は精巣を除去され、外見的には女性の外性器と同じになるよう再生手術が施されました。女の子の名前がつけられ、それ以降、女の子の服装が着せられ、女の子として扱われました。

マネーとエーハルトの報告によると、両親は心からその子の新しい性を受け入れている様子だったそうです。心理学者はその後数年の間に母親から何度か話を聞いていましたが、彼女は常に双子のうち、一人は男の子で、もう一人は女の子であるとはっきり意識していました。ハリスの担当した参考書の付録には、その母親の言葉が引用されているそうです。

「彼女は(双子の兄よりも)上品なように思います。それは私がそうなるよう心がけたからかもしれませんが。…とにかく髪の毛を整えてもらうのが好きなのです。そのためには1日中ドライヤーを当てられていても平気なくらいです。」

子どもも親も変化に順当に適応しているようには見えましたが、マネーとエーハルトは、さほど重大ではないものの、いくつかの問題点を指摘していました。「その女の子はとてもおてんばだった。たとえば、力があり余っていたり、たいへん活発であったり、頑固でもあり、女の子集団の中でも支配的であることが多かった」と彼らは報告しています。

2019年1月1日

あけまして おめでとうございます。

このブログの中で、このような挨拶を今年も言える幸せを感じます。

現在、私のブログの中で連載中ですが、昨年は、1994年にハリスが提唱した新しい理論に出会えたことは、私にとって大きな出来事でした。彼女は、子どもの発達について、家族よりもピアグループ(同年代の友人・仲間たちとの関係)に焦点を当てました。私は、「よりも」というほど強くはありませんが、最近の講演の中で強調しているのは、子ども同士の関係の重要性です。

同時に、私の考えに影響を与えたものが、脳の年齢による機能拡大のグラフです。このグラフは、昨年の1月に保育所保育指針の改訂にあたって、乳児保育について検討する会議に厚労省から提出された資料のうちの一つで、OECDの中で「Council Early Child Development、2010)として示されたものです。この中のグラフにも、ピア・ソーシャルスキルという脳の機能の発達のグラフが取り上げられています。

この二つの理論、資料から見ても、乳児、未満児から子ども同士の関係がいかに重要であるか、それは、親の愛情だけでは補えないものであるかを示しています。そのことを、もう少し現場の子どもの姿から示していくことが今後必要なことであるということが確認できました。将来、社会の一員として社会に参画していく子どもたちにとって、その時期の仲間との体験が欠くことができないということを訴えていくべきであるということを再認識しました。

今年も皆さんと一緒に、子どもたちが将来、生き生きと生きる喜びを感じ、平和で民主的な社会の一員として人生を送れるようなお手伝いをしていきたいと思っています。

昨年末の奄美大島での日の出

40,000件目

今日の、この時点でのコメント数が39,999件になりました。誰が40,000件目になるのでしょうか?これまでずいぶんとコメントをいただきました。そのメンバーも入れ替わりがあったり、コメントする時刻の駆け引きがあったり、コメントからだけでも時の経過を感じます。

また、コメントを読むことによって、ブログの内容について振り返りも多い気がします。ありがたい話です。

今までこのブログを読んでもらっていても、コメントするのはハードルが高いかもしれません。しかし、ぜひ、入れていただければ、様々な考え方を学ぶことができますので、気軽にコメントしてください。

親の関心

サロウェイによると、第一子は幼少の頃から現状にどっぷりつかることを覚えてしまうと言います。親とうまくいかないなど、サロウェイが列挙するその他の理由がないかぎり、第一子は反逆しようなどとはまるで思わないのです。分け前以上の恩恵を受けてきた既存の仕組みをあえて崩そうなどとは思わないというのです。親から与えられるもの、その最も顕著な例が親の関心ですが、それをすべて真っ先にもらえるのが第1子なのです。親のお気に入りでありつづけるためには、「はい、ママ」「はい、パパ」と言ってさえいればいいのです。こうしてご機嫌とりの役割は第一子がすでに独り占めしてしまっているため、年少のきょうだいは家族の中で別の役を見つけ出さなければなりません。こうして反旗を翻すのが第二子以降の役目となるのです。成人してからの第二子以降はサロウェイの言う「異端的(正統的の反対語として)」なものの見方に傾倒しやすくなります。

このような説明に納得がいってしまいます。なるほどと思わせるものがあります。しかしハリスは、フランク・サロウェイの考えに偏見をもってしまっていると言うのです。なぜなら、ハリス自身が異端的なものの見方をするとされている第一子だからです。サロウェイ自身は第二子以降で、第一子に対して手厳しいと言います。彼の著書の中で第一子は、自分勝手で、偏屈で、嫉妬深く、頭が堅く、攻撃的で傲慢な性格として描かれています。カインは第一子であると、サロウェイは何度も指摘しています。彼は明らかに自分をアベルと同一視しているのだとハリスは言います。よく考えてみると、私も第1子ですから、ハリスと同じ印象を持ちます。どうも、身の回りの当てはまる例から判断してしまうことがあるようです。

サロウェイはエルンストとアングストが取りあげた研究をふたたび検討し、別の結論、それも自分の仮説を裏づけるような結論を導きました。しかし、ハリスは、この再分析は説得力に欠けているように思っています。サロウェイは、エルンストとアングストが大がかりな研究を行なったことや、そこでは注目すべき作用は何も見つからなかったことにはいっさい触れていないということを指摘しています。とりわけ彼らは第一子と第二子以降での意思疎通性に違いを見いだしてはいなかったことには触れていないとも言います。

出生順位による作用はちらっとは目に入りますが、目を凝らして見ると見えなくなる、そんなものであるとハリスは言うのです。その作用が何度となく結果として現われるのは、たんに人々がそれを求めつづけ、その結果が現われるまでデータを分析、再分析しつづけたからにすぎないというのです。出生順位の作用は、最近の大規模な研究よりも、古く測定数の少ない研究にしばしば出現しますが、最も頻出するのは、被験者の親やきょうだいが被験者の性格を評価する場合だと言います。

親の愛情も関心も均等に配分されるものではありません。サロウェイはその点では正しかったかもしれません。彼の本では、二人の子どもをかかえる母親の三分の二は、一方の子どもを偏愛している、特に目にかけていることを研究者に対して認めているという研究結果が紹介されています。ところが彼は、これら偏愛する母親の大多数がより関心をいだき、より愛情をもって接しているのが、下の子であると言っていることについては触れていないようです。この結果は後続する同様の研究でも裏付けられました。その研究ではははおやと父親の双方が面接を受けていますが、そのおよそ半数が一方の子により愛情を注いでいることを認めています。そのうち、母親の87パーセントと父親の85パーセントが下の子にとりわけ関心をいだいていたそうです。

新たな試み

保育に欠かせないものとして「心理学」があります。心理学とは簡単に言うと心と行動の学問であると言われ、ウィキベデアには、「心理学の主な流れは、実験心理学の創設、精神分析学、行動主義心理学、人間性心理学、認知心理学、社会心理学、発達心理学である。また差異心理学は人格や知能、性などを統計的に研究する。」とあります。その流れの中で、保育は子どもの発達を援助する行為のために、発達心理学を学ぶ必要が言われていました。そのために保育者養成校や保育士試験には発達心理学という学問がありました。

発達心理学を学ぶ意義には次のようなことが言われています。保育という仕事は、様々な年代の子ども達の保育を担当するために、子どもたちの発達状況に応じた心理的特徴を理論として身に着けておくことで、日々の保育の場面で、適切な対応をとることができるからと言います。そして、感情の表現の仕方や、論理的な思考の深さなども日に日に変わっていく子どもたちを正しく導くためにも必要であると言います。

一方、保育には、子どもの心の発達だけでなく、身体的な発達、病気や精神的な病気や発達障害も学ぶ必要があります。それが「精神保健」です。保育士試験にはこの科目もありました。平成24年度からは発達心理学と精神保健の二つを「保育の心理学」として一つにしました。さらに、保育は子どもの集団における独特な心理学もあるのではないかということで新しく保育の心理学にした経緯もあると聞いたことがありましたが、どうも子ども集団はなかなか研究対象になりにくく、単純に発達心理学と精神保健を一緒にしただけというイメージがあります。もう少し、子ども集団としての心理学を研究していってほしいと思っています。

また、最近の研究では、保育は単に目の前にいる子どもの発達を見るだけでなく、人類という大きな視点からどのようにヒトは生存し、遺伝子を残し、進化してきたのか、という観点から子どもの心理、行動を考えるということから、進化論と心理学の両面から育児、子どもを考えようということから進化発達心理学が生まれています。さらに、今後の学問として求められるものとして、様々な知見、既知の知識を組み合わせて新たな知見を生み出していく必要性も言われています。私は、特に保育という行為は、ヒトを相手にするために、より総合的な知識が必要だと思っています。多くの研究者たちは、様々な分野において研究をしてきました。それは、ヒトが生きてきた営みを、切り口を変えて研究をしてきたのだと思います。すなわち、ヒトの生活を切り分けて考えてきたのです。そこで、保育という仕事は、それぞれ切り分けられた分野からの研究を今度は一つに集めて、考えていかなければならないと思っています。

私は、今年の11月をめどに本を出版しようと準備を進めています。それは、切り分けて研究されてきたヒトの生存についての研究を結び付けていくという趣旨があります。この本の最初のほうの目次は、「1.人類の進化から考える保育」「2.人類学から考える保育」「3.民俗学から考える保育」「4.脳科学から考える保育」「5.住居学から考える保育」「6.社会学から考える保育」と続いた後にそれらを踏まえて「7.心理学の見直し」があり、様々な視点からもう一度保育を考えていこうとしています。

ファンタジー遊びの性差

女児の方がファンタジー遊びを好むという性差は、言語課題で女児が男児より優れているという結果と一致しています。ファンタジー遊びにおける性差に関するさらなる考察をビョークランドは行っています。

遊びのテーマは一般的に、利用できる道具に内在するテーマに従うことになります。驚くことではないのですが、子どもが医療に関するテーマを示す道具を使って遊んでいるときには、その遊びはその医療のテーマに従って進んでいきます。いわゆるお医者さんごっこをしているときです。しかし、プロックや廃物の発泡スチロールなど、道具に明示的なテーマがあまりない場合には、遊びのテーマにはもっと多様性があります。さらに、道具にあるステレオタイプ的な性役割は、ふり遊びの精緻さの度合いやレベルに影響を及ぼすことがわかっています。人形など女児が好むおもちゃを使って男児が遊ぶ場合は、男児が好むプロックなどのおもちゃを使って遊ぶ場合よりも精緻ではないそうです。実際、年長の就学前の男児が、女児が好む道具を使って遊ぶときには、年少の男児がそれらで遊ぶときよりも精緻ではありません。私たちは、このあたりをもっと意識して保育の中で観察する必要がありそうです。

このことから、子どものふり行動は、この時期に性役割のステレオタイプに準拠し始めることが示唆されます。つまり、男児は女児が好む道具を使って遊ぶことは避けるべきものと見なすようになります。この議論と一致して、女児が男児の好む道具を使って遊ぶ場合は、女児の好む道具を使った遊びよりも精緻ではありません。

歩行期の男児は女児より、異性の活動や遊び道具を避ける傾向が高いことを実証した研究もあるそうです。たとえば、25ヶ月の女児はステレオタイプ的に男性的な活動、女性的な活動、中性的な活動を同程度に模倣しましたが、男児は対照的に女性的な活動よりも男性的な活動と中性的な活動を模倣することが多かったそうです。さらに男児は2歳の時点で、中性的な道具を使って相互作用する時間が長く、性のステレオタイプについての知識をもち、女性的な活動を避けていました。男性役割に与える社会的価値の大きさもたしかにこの性差の一因となっているでしょうが、これだけ幼い時期に性差が現れることから、男児は女児よりも早くから強く性ステレオタイプ的な行動をとりやすい可能性があることが示唆されます。

3歳を過ぎるまでに、ふり遊びは、仲間と共にかなり精緻に社会的役割遊びを行うスキルを伴うものとなるようです。こうした社会的な役割遊びをスミランスキーは「社会劇的遊び」と名づけていますが、かなり複雑な物語が演じられていることは、よく現場では見ることができます。たとえば、 2人の3歳児が、医者の道具と人形を使って、相互に関連した一連の短い会話のやりとりをつなぎ合わせて遊ぶかもしれないのです。たとえば、こんな子ども同士の会話をビョークランドは紹介しています。ジョアン:うわぁ、赤ちゃんがベトベトだ。スーザン:うわぁ、ベトベト。ジョアン:きれいにしてあげて。スーザン:終わったよ。ジョアン:赤ちゃん病気なの。

このような会話を私たちも聞くことが多くありますね。

思春期の時期

ヒト以外の哺乳類において、血縁関係のないオスのフェロモンがあることで、メスの思春期の発達速度が加速するということは、発達中のメスと血縁関係のない大人のオスとの間の繁殖の可能性を高める働きをすると考えられます。ヒトの研究では、女性の生殖サイクルは男性の腋窩(腋の下)の分泌物の影響を受けることが示されているそうです。したがって、エリスとグレイバーは、思春期が促進される原因は父親不在それ自体ではなく、血縁関係のない成人男性の存在であるとの考えを呈示しています。

エリスとグレイバーは仮説を検討するために、思春期の時期を主に、下位中流階級から中流階級の家庭の87名のアメリカ人女子について調査したそうです。さらに、その女子の母親との構造化面接を実施し、うつを中心に気分障害を判定しました。得られた尺度は崩壊した家族関係や、母親の恋愛関係におけるストレスに関するものですが、同様のものが女子の母親からも得られたそうです。そして、実の父親や継父、母親の恋人の存在についてもデータを収集しました。先行研究と一致して彼らは、家庭にストレスがあり、父親がいない女子は、家庭にストレスが少なく、実の父親と一緒に住んでいる女子よりも早く思春期に入ると報告しています。しかし、これらの効果はどちらも、母親の気分障害の経歴(これも思春期の年齢を予測する)が媒介しており、母親の精神病理は家族のストレスや父親不在の遠隔原因である可能性があり、それによって女子の思春期が早期に訪れることが示唆されるようです。

おそらくエリスとグレイバーの結果で最も興味深い点は、継父や母親の恋人の存在の効果であり、女子の思春期の時期に関係する家族のストレスと相互作用していることであるとビョークランドは言います。。父親が継父であるか、母親に恋人がいる女子は、家族のストレスが高いときに、ストレスの程度に関係なく、実の父親と暮らしている女子や、父親が継父あるいは母親に恋人がいて、家族のストレスが低い暮らしをしている女子より、有意に早く思春期に達したそうです。さらに、思春期の成熟と娘の年齢には、継父や母親の恋人が女子の生活に入り込んでいるときに有意な関係が見出され、その女子に血縁関係のない父親が現れた年齢が幼いほど思春期に達する時期が早かったそうです。対照的に、思春期の時期と実の父親がいなくなった年齢との間には、有意な関係は見出されなかったと言います。エリスたちによる関連研究において、父親がいることと、特に、父と娘相互作用が良好であることが、女子の思春期の時期が遅いことを予測しており、このことから、父親の投資の肯定的な質は娘が思春期に入る時期に影響を及ぼすことが示唆されます。

ビョークランドらは、エリスとグレイバーの結果、および、エリスたちの結果は興味深いと考えているようです。一方で、彼らの結果はベルスキーたちによって呈示された一般モデルを支持しています。女子は家族における資源関連要因に敏感であり、多数の要因として、母親の気分障害、家族のストレス、父親の不在、父親の投資の質などの相互作用次第で代替的な発達の道筋をたどります。しかし、高いストレスを抱えた家庭環境における血縁関係にない父親の存在は、早期の思春期を引き起こす最も直接的な事柄である可能性があり、その父親が娘のもとに来る年齢とも関連しているようです。ヒト以外の動物では、血縁関係にないオスがいることでメスの思春期の開始が早まり、年長のオスと若いメスが生殖する機会が増えるようです。現代の、そしておそらく古代のヒト集団においては、継娘と継父間の性的活動はストレスの原因となるであろうし、家族構造にとっても大半の家族内の個人にとっても適応的ではないだろうと考えられます。

なぜ、利他的行動?

資源をめぐって競争が生じる生態系において子孫が繁殖し、生存するという点で、利益を最大化する能力によって判断されます。利益を最大化する能力は、得ようとする利益に付随するコストやリスクとの関連からの見方では、ある個体が他の個体より得をするかどうかという点から容易に理解できるので、特にリスクが低い場合には、一連の社会的行動、たとえば攻撃行動を説明するのは容易であると言います。その場合、自然淘汰は、配偶者や資源を効果的に守るために攻撃行動を起こす個体に対して、明らかに有利に働きます。経済的観点からいうと、自然淘汰は利益がコストを上回る戦略に有利に働くのです。そのためたとえば、資源や配偶者を手に入れる機会を得るといった利益の方が死や負傷などの付随するコストを上回るなら、攻撃行動は選択されるでしょう。

攻撃行動に関連したコストが利益を上回る場合、たとえば、配偶者を確保するために衰弱するほどの傷を負う場合には、その攻撃行動は選択されないでしょう。攻撃性の適応度を説明するのは比較的単純ですが、進化論は当初、協力行動や利他的行動があることと折り合いをつけなければならないという困難を抱えていました。これまでの説明は、随分と難しく、回りくどい気がしますが、何度も言いますが、それが研究なのでしょう。要するに、私たちは進化の過程で、競争と協力の両面を持って生存してきました。その時、自分が生存するためには、相手を攻撃したり、相手の生存を阻止することで自分たちを守るということは容易に想像がつきますが、協力をするとか、自己犠牲を払うということは、一見自分たちの生存にどう結びついていくのかは見えにくいものです。とくに、自己犠牲の上で、他人のために行動すると行くことはどう理解したのでしょうか?また、、なぜ自然淘汰において有利に働くのでしょうか?

この問題を解決しようと試みたのが、群淘汰の理論だそうです。簡単にいうと、群淘汰の理論では、自然淘汰の単位は集団であり、個体ではありません。そうすれば、協力や利他的行動は、集団全体の利益という点から説明できると言うのです。つまり、利他的行動は個人にとっては非常にコストが大きいのですが、集団にとっては多大な利益をもたらすと考えられるのだと言うのです。私たちは、自分にとっての利益だけを考えていくことでは、私たちがとってきた生存戦略は説明できませんが、集団を構成し、集団の利益という点から考察すれば、その行動は説明がつくと言うのです。

しかし、この理論は、分子生物学における発見や、 DNAコードの解読によって反撃を受けることとなったそうです。簡単にいえば、それらの進展により示唆されたのは、自然淘汰の単位は個体、より正確には遺伝子であり、集団ではないということなのです。したがって、進化論は利他的行動を説明するという難問に再び直面することになったのだそうです。

その中で、利他的行動を最初に説明したのは、ハミルトンの包括適応度の理論だそうです。この理論は後にトリヴァースが発展させたそうですが、この包括適応度の理論によると、個体の協力行動や利他的行動、反社会的行動は、相互作用する者同士の遺伝的血縁度の度合いによって変化するとしました。個体は、血縁関係の遠い者や血縁関係のない者と比較して、自分と関係が近い者とより協力すると言うのです。

シンガポール報告2

以前の配膳

見守る保育での配膳

今日は、「見守る保育」を実践している園を数か所見学しました。まず、各園を見ての感想ですが、昨年5月にシンガポールから代表が見学に来て、その後8月に打ち合わせに来て、帰国して私の園の報告を代表から受けて、そしてその時に「見守る保育」の書籍を購入して帰ってから各園の園長先生がその本を読んだだけで、よくここまで理解し、それを実践に移したなあということを感じました。今年参加したほかのメンバーからも同様の感想を聞きました。

また、現在日本でも、「見守る保育」にどこから取り組んできたかということを悩んだ経験を書籍にまとめようとしています。私の園に見学に来た方の多くは、このような保育がいいと思うのですが、いざ取り組もうと思っても、どこから、どのように取り組んでいったらよいのかで悩む園が多いと聞きます。それを、シンガポールの園では、さっそく取り組んでいるのです。140園近く運営している法人の責任者から聞くと、トップダウンでこのような保育に取り組みなさいということを言おうと思ったようですが、考えをやめて、自主的に取り組むように、各園に任せたようです。すると、各園では園長先生が、自分の園では、どこを見直したらよいのか、また、どこから取り組んでみようかということを考えたそうです。

そのような導入がよかったのでしょう。取り入れた一部から、子どもの姿が変わり、保護者の理解が得られ、徐々に取り組みが広がっていったようです。最初に訪れた園では、子どもたちが意見の衝突があったときに、話し合う場所として設営されている「ピーステーブル」を部屋の中に作るところから始めた園でした。まず、そこで子ども同士がけんかなど対立したときに話し合う場所であることから、よく話し合いの場としていいと言われる対面ではなく、お互いがはす向かいに向き合う形をとっていました。この形は、他の園のピーステーブルでも見ました。そのほかにも色々と工夫され、参考になることも多くありました。

その一つが、ピーステーブルの前に貼っている紙です。私の園では、話し合うルールが参考に書かれてあります。「相手の話を最後までしっかり聞こう」「話を聞くときは、相手の顔を見よう」「自分の気持ちを言葉で言おう」という3点です。これを子どもの字で書かれてあります。シンガポールの見学した園では、前に数種類の顔が書かれてあります。それは、感情が高ぶって自分の気持ちをなかなか言えない場合があるので、自分の気持ちがあらわされている絵を指さして伝えると言います。怒っている顔、悲しい顔、泣いている顔、うれしい顔などです。それは、絵で自分の気持ちを伝えるだけでなく、自分の気持ちを見つめるのにも役に立ちます。

それから、ここに来る場合は、感情が高ぶっていることが多いため、ここにきて、感情を鎮めるためのグッズが置かれてあります。中にゆっくり動くものと水が入っているペットボトル、握ると感触がよいもの、話しがしたいときにチーンとならすもの、そんなものが置かれてあります。場所だけでなく、いろいろな工夫がしてありました。

次の園では、給食の配膳の見直しから始めたそうです。それまでは、先生が調理室から運ばれてきた給食を、さも、子どもに与えるように配り、子どもたちも言われたとおりに黙って食事をしていたと言います。そうしたときには、年長になっても手で食べたり、行儀が悪かったそうです。それを、当番が、その日の献立のメニューをみんなの前で発表し、子どもの当番さんが量を聞きながら配膳することにしたそうです。まだ、おやつだけだそうですが、次第に給食でも取り組みたいということでした。