伊丹城が、荒木村重と関係があることを、伊丹城を訪れた時に知っていることは、生きていくうえで意味があることだろうかと考えてしまいます。また、NHK大河ドラマを見ていて、荒木村重が登場した時に、以前訪れた伊丹城を思い出すことは、番組を楽しむために意味あることだろうかということを考えてしまいます。とはいうものの、こんなことを考えるのは、ブログを書いているかもしれません。つながりを感じたときには、それがどういう意味を持つかなど考えずに、ただ「へえ~」とか「そうなんだ!」とか、納得したり、感心したり、すっきりしたり、気持ちのいいことが多いのです。
では、学校で歴史を学ぶことはどのような意味があるのでしょうか?生きるうえで、気持ちがいいと感じるためでしょうか?それだけではないでしょうね。もし、それが教育だとしたら、それを知ることは、人格の完成に影響を及ぼすはずです。それは、どちらかというと、「教育」よりも「教養」に近い概念かもしれません。しかし、それだけですと、自分自身を高めるだけの意図が強くなります。教育のもう一つの目的である「社会の形成者としての資質を備える」ことがあります。歴史を知っていることが、なんらか、社会を形成する力にならなければなりません。これが、「人格主義的教養主義」が否定される部分でしょう。
どうしても、「教育」とか、「教養」というような、昔から議論されている言葉を使うと、私が思っていることと違ってきてしまいます。もしかしたら、ドイツで最近取り組んでいる「Bildung」という概念かもしれません。しかし、これも「陶冶」と訳してしまうと、ちょっと違ってきてしまいますね。私からすると、人格形成にしても、社会を形成するために役に立つというのも、結果の話で、目的として初めに置くことではない気がします。というのは、教育にしても、教養にしても、楽しいとか、知りたいとか、面白いとかいう興味、関心、好奇心という、人類の遺伝子が持っている心持ちがまず大切だと思うからです。その心情がなければ、人格にも影響しませんし、社会をつくる力にはならないと思うのです。
理屈は置いておいて、今年のNHK大河ドラマでの発見がありました。俳優のもこみちさんが演じている槍の名人がいます。彼は、官兵衛の家来として、黒田二十四騎の中でも特に重用された「黒田八虎」の一人です。彼の名は母里太兵衛と言い、槍の名人だけでなく、力も強く、酒も強かったようです。その彼が、あるとき、のちに広島城主になる福島正則のもとへ使いとして赴きます。彼も、槍の名人で、大酒豪でした。ですから、使いを出した黒田は、二人が席をともにすれば必ず酒が話題に上るだろうと案じて、母里太兵衛に使い先での飲酒を固く禁じてだしたのです。
しかし、酒好きの福島正則は、黒田家から使いが来るその日を、昼間から酒宴を開いていました。そこへ黒田の使いとして母里太兵衛がやってきたので、当然福島正則は、母里太兵衛に是非にと酒を勧めます。しかし、飲酒を固く主君である黒田家から言い渡されていたために勧めを固く固辞し続けました。ところが、酒が入っていた福島正則は、「この大杯を飲み干したなら、ぬしの望みのものを取らせよう。」とまで言うのですが、固辞し続けました。これに業を煮やした福島正則は、「名に負いし母里太兵衛ですらこれしきの酒に背を向けるとは、黒田の者は腰抜けばかりか!黒田など腑抜け腰抜けの藩であるな!」と挑発します。
その言葉に我慢できず、差し出された直径一尺、朱塗りの大杯を三度、空にします。その豪快さを大いに称え、天下に名高い名槍・日本号を褒美として取らせました。これが、「酒は呑め呑め 呑むならば 日本一のこの槍を 呑みとるほどに 呑むならば これぞまことの 黒田武士」と歌われた「黒田節」です。この人形を私の息子が生まれたときに、知り合いからいただきました。いまだに部屋に飾ってあります。