黒田の武士

 伊丹城が、荒木村重と関係があることを、伊丹城を訪れた時に知っていることは、生きていくうえで意味があることだろうかと考えてしまいます。また、NHK大河ドラマを見ていて、荒木村重が登場した時に、以前訪れた伊丹城を思い出すことは、番組を楽しむために意味あることだろうかということを考えてしまいます。とはいうものの、こんなことを考えるのは、ブログを書いているかもしれません。つながりを感じたときには、それがどういう意味を持つかなど考えずに、ただ「へえ~」とか「そうなんだ!」とか、納得したり、感心したり、すっきりしたり、気持ちのいいことが多いのです。

では、学校で歴史を学ぶことはどのような意味があるのでしょうか?生きるうえで、気持ちがいいと感じるためでしょうか?それだけではないでしょうね。もし、それが教育だとしたら、それを知ることは、人格の完成に影響を及ぼすはずです。それは、どちらかというと、「教育」よりも「教養」に近い概念かもしれません。しかし、それだけですと、自分自身を高めるだけの意図が強くなります。教育のもう一つの目的である「社会の形成者としての資質を備える」ことがあります。歴史を知っていることが、なんらか、社会を形成する力にならなければなりません。これが、「人格主義的教養主義」が否定される部分でしょう。

どうしても、「教育」とか、「教養」というような、昔から議論されている言葉を使うと、私が思っていることと違ってきてしまいます。もしかしたら、ドイツで最近取り組んでいる「Bildung」という概念かもしれません。しかし、これも「陶冶」と訳してしまうと、ちょっと違ってきてしまいますね。私からすると、人格形成にしても、社会を形成するために役に立つというのも、結果の話で、目的として初めに置くことではない気がします。というのは、教育にしても、教養にしても、楽しいとか、知りたいとか、面白いとかいう興味、関心、好奇心という、人類の遺伝子が持っている心持ちがまず大切だと思うからです。その心情がなければ、人格にも影響しませんし、社会をつくる力にはならないと思うのです。

理屈は置いておいて、今年のNHK大河ドラマでの発見がありました。俳優のもこみちさんが演じている槍の名人がいます。彼は、官兵衛の家来として、黒田二十四騎の中でも特に重用された「黒田八虎」の一人です。彼の名は母里太兵衛と言い、槍の名人だけでなく、力も強く、酒も強かったようです。その彼が、あるとき、のちに広島城主になる福島正則のもとへ使いとして赴きます。彼も、槍の名人で、大酒豪でした。ですから、使いを出した黒田は、二人が席をともにすれば必ず酒が話題に上るだろうと案じて、母里太兵衛に使い先での飲酒を固く禁じてだしたのです。

しかし、酒好きの福島正則は、黒田家から使いが来るその日を、昼間から酒宴を開いていました。そこへ黒田の使いとして母里太兵衛がやってきたので、当然福島正則は、母里太兵衛に是非にと酒を勧めます。しかし、飲酒を固く主君である黒田家から言い渡されていたために勧めを固く固辞し続けました。ところが、酒が入っていた福島正則は、「この大杯を飲み干したなら、ぬしの望みのものを取らせよう。」とまで言うのですが、固辞し続けました。これに業を煮やした福島正則は、「名に負いし母里太兵衛ですらこれしきの酒に背を向けるとは、黒田の者は腰抜けばかりか!黒田など腑抜け腰抜けの藩であるな!」と挑発します。

その言葉に我慢できず、差し出された直径一尺、朱塗りの大杯を三度、空にします。その豪快さを大いに称え、天下に名高い名槍・日本号を褒美として取らせました。これが、「酒は呑め呑め 呑むならば 日本一のこの槍を 呑みとるほどに 呑むならば これぞまことの 黒田武士」と歌われた「黒田節」です。この人形を私の息子が生まれたときに、知り合いからいただきました。いまだに部屋に飾ってあります。kurodabusi

ドラマつながり

 私は、毎年妻とNHK大河ドラマつながりの地を訪れていました。そして、それは、ブログのネタになり、かならずその話題を取り上げていました。しかし、孫が生まれてから、めっきりいかなくなりました。それは、一昨年、息子と娘の両方に孫が生まれ、妻はその孫の世話のヘルプに行くことが多くなったからです。もちろん、土、日は孫の両親がそろっているので行くことは少ないのですが、親が、たまに日曜出勤があったり、具合が悪くなったり、出かける用があったりと、いつヘルプの要請があるかわかりませんので、いつでも出動できるように待機をしているために、遠くには出かけなくなったのです。

 しかし、大河ドラマの取り上げる時代はある程度重なっているために、舞台が、以前訪れた場所であることが多いことと、講演などで訪れたことのある場所が、あらためて大河ドラマの舞台になるということで、また以前のブログを読み返したりすることがあります。

 今年の「軍師 官兵衛」では、現在、秀吉とともに毛利攻めをしようと、様々な策略を練るところで、この時代は何回も取り上げられているのですが、知らないことが多く、とても面白くみています。その中で、荒木村重という人物が出てきます。官兵衛が窮地に落ちたときに助けに来た武将です。

 2012年6月27日のブログで取り上げたのですが、講演で伊丹市を訪れたことがあります。その時には、すでに今年の大河ドラマで官兵衛が取り上げられるということは分かっていたようで、そのゆかりの地ということで、伊丹市の子育て課の課長さんが伊丹市を案内してくれました。まず、最初に、この市の名前の由来である「伊丹氏」が、南北朝時代に築いた伊丹城跡を最初に案内してもらいました。その時に、「ここが、再来年、NHK大河に登場する、あの荒木村重の居城だったところですよ。」と言われたのですが、その時はなんだかピンときませんでした。それが、今回のテレビでなんとなく実感がわいてきました。
伊丹氏によって、その本拠の伊丹城はしだいに整備されていきました。しかし、池田城にいた池田氏の家臣であった荒木村重は、織田信長に仕えて信頼を得、天正2年(1574年)、伊丹氏に代わって伊丹城に入城します。そこで、城の名前を有岡城と変えて、摂津国の支配を任されました。ここの市は、伊丹市として痛みという名前が残っていますが、有岡という言葉はあまりなじみがありません。しかし、その城跡には、「伊丹城」ではなく、「有岡城」と書かれてあります。
itamijo-2その後、この城での出来事が、官兵衛の人生において、一つの転機になるのです。NHKたがドラマの中で、前半での大きな山場は、この城での出来事ではないかと思っています。テレビを楽しみに見ている人にとっては、その顛末を話してしまうことは楽しみを奪うことになるので、詳しい話はやめておきますが、息子ともども窮地に陥ります。その窮地から、当時豊臣秀吉の軍師であった竹中半兵衛の起点によって救われるのです。また、荒木村重の行動によって、その後の黒田官兵衛の人生を大きく変えていくことになるのです。

そんな城ですが、この城が落城後間もなく廃城となり、現在は有岡城跡として土塁の石垣などが残るだけになっています。その跡を見学したことを思いだすと、荒木の人生が思い浮かびます。とどうじに、戦国時代の誰を、何を信じればいいのかという過酷さが偲ばれます。

形の神秘

 いよいよ今年も残りあと数時間になりました。年末になるとこのブログで取り上げる内容はいつも同じような内容になってしまいます。それは、年末というのは、何とも言えない独特の雰囲気があるからでしょう。今は、1歳年を取るわけでもありませんし、借金がチャラになるわけでもありませんし、お店が一斉に休みになるわけでもありませんので、年々、新年という意識を持つ条件はなくなってきているはずですが、不思議ですね。年が変わることに、何か神秘的なものを感じます。

 新年を迎えるときのいろいろなしきたりは、その神秘さを表わしています。フレーベルが形に神秘的なものを感じたように、正月に関することで、形に意味を込めたものもあるようです。フレーベルが恩物の1番目にした球ではありませんが、丸い形には神秘的なものを感じたようです。例えば、鏡餅は丸い形をしています。

 もともと日本人は米が大切な食べ物でした。ですから、米に関する行事が多く残っています。そこで、稲に関して、稲魂(いなだま)とか穀霊(こくれい)という言葉があるように、人間の生命力を強化する霊力があると考えられてきました。この稲や米の霊力は、それを醸して造る酒や、搗き固めて作る餅の場合には、さらに倍増するとも考えられました。そんなことから、餅が古くから神妙な食べ物であったことを物語る伝説は、奈良時代に編纂された「豊後国風土記」や「山城国風土記」でも見られます。餅を弓矢の的に見立てて射ようとしたところ、その餅は白鳥となって飛び去り、人びとは死に絶え水田も荒れ果てたという言い伝えが書かれてあり、白餅は白鳥に連想されており、決して粗末に扱ってはならないもの、神妙な霊性を宿すもの、と考えられていたのです。
そして、宮中の正月行事では、新年の健康と良運とさらなる長寿を願う意味で、歯固めの祝いと餅鏡つまり鏡餅の祝い、とがセットになっていました。年齢という言葉に歯の字が含まれているように、健康と長寿のためには丈夫な歯が大切だと考えられていたのです。

 そんな大切な米から作られた鏡餅のその形は、その昔、鏡餅は年神様の依り代ですから、ご神体としての鏡をお餅であらわし、三種の神器の一つである“知”をもって世の中を治める道具とされた銅鏡の形の鏡は丸い形をしていたので、それをあらわしていると言われています。また、元禄8(1695)年に出版された「本朝食鑑」に「大円塊に作って鏡の形に擬える」との記載があることから、鏡餅は拝み見るべきものである鏡の役割をしているということで丸いと言われています。また、心臓の形をあらわしているとか、満月のように丸い形が生命力を表すとか、また丸く円満な人間の霊魂をかたどっているなどと言われていますが、同時に、年神様の神霊が宿る聖なる供物でもあります。それを大小二つ重ね合わせるのは、月(陰)と日(陽)を表しており、福徳が重なって縁起がいいと考えられたからとも伝えられています。

また、鏡餅の飾り方にも形の神秘性が使われています。鏡餅は、一般的には、三方(折敷に台がついたお供え用の器)に白い奉書紙、または四方紅(四方が紅く彩られた和紙)を敷き、紙垂、裏白、譲り葉の上に鏡餅をのせ、昆布、橙などを飾ります。また、正月に飾るシメ縄や玉串にも、ひらひらした切り紙がついています。これは、紙垂(しで)といい、様々な形のものがあります。この形は、落雷があると稲が育ち豊作なので、紙垂は、邪悪なものを追い払うという意味で雷光・稲妻をイメージしているようです。

形の神秘さは、自然の中のものから見出していることが多いようです。

神話の意味

日曜日に神社に行くと、七五三詣りのために晴れ着を着た子どもたちをよく見かけます。大きな神社は、多くのの子どもたちでいっぱいです。東京都心で人気のある場所は、明治神宮です。
以前のブログでそのいわれなどを書いたことがあったと思いますが、いろいろな説があり、古くからの風習である三才の「髪置(かみおき)」、五才の「袴着(はかまぎ)」、七才の「帯解(おびとき)」に由来するといわれています。よく、それぞれの年齢によって、祝う男女が違っていますが、それは、この由来からきています。「髪置」は、この日を境に髪を伸ばし始めましたという議式ですので、男女児ともに行われまし。また、「袴着」は男児がはじめて袴を着ける儀式ということで男児だけ、「帯解」は女児がそれまでの幼児用の付紐をやめ、大人の帯を締める儀式ということで女児だけです。

つい最近のブログで、徳川綱吉の生類憐みの令により、犬が保護されていた中野の地を紹介しましたが、この令が出された理由については定かではありませんが、綱吉に子どもができなかったからと言われています。その綱吉に徳松という子どもが生まれます。その時代、生まれても乳幼児の死亡率が高く、3歳まで、そして5歳まで、7歳まで無事に育ったということを祝うという意味があり、「七つまでは神の内」と言うように、それまでの子どもの成長を神さまにお任せするしかなかったのです。綱吉が、息子の徳松の健康を11月15日に盛大に祈願したことから、その慣わしは庶民に広がり、今に至っていると言われています。しかし、実際は、徳松は5歳で亡くなるのですが。
この意味から、本来は、七五三では、子どもが無事に育つことができたことを皆で祝い、これまで見守って下さった氏神様やご先祖様にお参りをして感謝の気持ちを表し、これからの健やかなる成長をお祈りするという意味があるので、自分が住んでいるところの氏神様にお参りするのが普通のようです。それは、お宮参りも同じで、たまたま、近くの神社に孫のお宮参りのことを聞きにいったら、「住んでいる場所の氏神様はここではなく、赤城神社です。どうしてもというのであればやりますが、そちらの神社に行った方がいいと思いますよ。」と言われました。

赤城神社には、岩筒雄命(いわつつおのみこと)と、相殿として赤城姫命(あかぎひめのみこと)を祀っています。日本の神社は、「八百万の神」と言われるように、様々な神を祀っています。ですから、1日にいくつもの神社をはしごしてお参りしてもいいそうです。そして、そのまつられている神は、いくつかに分類されます。ひとつの分類は、自然をつかさどる神です。もともと、日本では、山にも、海にも、森にでも、木にも、神が宿っていると思われていました。また、それぞれの神の誕生もユニークです。

赤城神社に祀られている岩筒雄命は、火の神である迦具土神から生まれています。その名前の「迦具(かぐ)」とは現代語で「輝く」を表します。また、この「かぐ」という音から「(においを)かぐ」、「かぐわしい」という意味にもつながります。つまり迦具土神は、「輝く(火の)神」、「ものが燃えるにおいのする(火の)神」という意味になります。この神の両親は、日本列島を作ったと言われているイザナギ・イザナミです。迦具土神は、火を司る神ですから、誕生の際に、イザナミの陰部に火傷を負わせてしまい、それがもとでイザナミは死んでしまいます。後に、それを怒ったイザナギに十拳剣で切り殺されてしまいます。「古事記」によると、この迦具土神の血から、石筒之男神が生まれたことになっています。

なぜ、このような話を古事記にまとめたのでしょう。どんな意図を持って、このような神話を綴ったのでしょうか?古事記に書かれてある神話は、何かを象徴しているのでしょうが、不思議な話ですね。

路地とつくばい

 私は、東京の下町で育ちました。下町の家々には、庭というものがほとんどなく、家と家が密着していました。ですから、隣の家の今晩の夕食が何かわかり、少し多く作りすぎると、隣に持っていく「おすそ分け」という文化がありました。ですから、よく私は言うのですが、「東京の人は、隣近所が何をしているかわからない」というのはおかしい表現だと思っているのです。このような下町における子ども達の遊び場は、家と家との間にでる「路地」と呼ばれる空間でした。その空間は、家と家が向かい合っているので、多くの大人たちから見ることができます。以前、私は、「路地裏とは、子どもたちを見守ってくれる父親の背中のようだ」という詩を書いたことがありますが、路地は、まさにそのような空間でした。その地域の人々に親しまれている路地は生活に密着し、住民の暮らしを見守り、コミュニケーションの場でもありました。

 かつて、武家屋敷は広い敷地を持ち、また、寺社も広い敷地を持っていましたが、都市部に店を構える町人は、限られた狭い敷地を住居にしていました。このような商家のことを「町屋」といいましたが、その町屋の家と家とを結ぶ細長い通路が「路地」です。また、その町屋では、間口は狭く、しかも、そのほとんどを店舗にとられていたため、庭は、「通り庭」と呼ばれる細長い庭園として発達していきました。それが、茶室へと繋がる通路ということで「路地」、あるいは道すがらという意味の「路次」の字をあてていました。そして、江戸中期になると、「露地」の字が使われるようになり、「露地」という茶室に付随する庭園となっていったのです。

 この露地には、一般的に、飛石、蹲踞、腰掛、石燈籠などが配されています。そして、次第に、『南方録』に「露地は草庵寂寞の境をすへたる名なり、法華譬喩品に長者諸子すでに三界の火宅を出て、露地に居ると見えたり、又露地の白牛といふ、白露地ともいへり、世間の塵労垢染を離れ、一心清浄の無一物底を、強て名づけて白露地といふ」とあるように、露地はただの茶室に向かう通路というだけでなく、高い精神性が付与されるようになっていきました。
そして、亭主から準備ができたということを知らされると、飛び石をわたって手水鉢まで行きます。神社の鳥居の前にも必ず手水鉢があり、ここで参拝者は手をきれいにするというだけでなく、精神的・霊的な意味合いが強い一種の行事です。水浴みによって体の汚れを洗い落とすと同時に、心の罪、けがれを祓う「禊(みそぎ)」を簡略化させたものともいえ、身を清め、「けがれ」が神域に及ばぬようにします。

 しかし、そのときにいつも困るのは、まず、荷物を持っているときに、その荷物をどうするか困ります。しかも、左右の手を清めるので、荷物を持ち替えてもぬれてしまいます。ですから、どこかに荷物を置く場所があればいいのにと思います。次に、次に、手を拭くのに、濡れた手で、ポケットからハンカチを出さなければならないし、もし忘れていたら濡れた手をどうしたらよいか困ることがあります。以前、どこかの神社の手水鉢のそばに手ぬぐいがかけられていて、手が拭けるようになっていました。

 ここで、茶庭における手水鉢のしつらえに、「おもてなしの心」を見ます。まず、客が手水を使うために乗る「前石」をその前に置き、湯桶を置く「湯桶石」、灯火を置く「手燭石」の役石と、「水門」別名「海」で構成されています。手を清めるときに、持っているものを置く台を左右に配し、水門で、水がはねないように石を敷き詰め、それを、「海」に見立てるとは、庭の中に、広大な自然を取り入れる日本の文化の精神性を感じます。

園に造られた「つくばい」

隅田川と神田川

 私の園は、かぐや姫の歌で有名な神田川の近くにあります。神田川の吉祥寺にある井の頭公園が源流であることはよく知っているのですが、最後はどこに注ぎ込んでいるかということは意外と知らない人が多いようです。少し前に、職員数人と都内に買い物に行ったときに、私が「神田川の最後を見せてあげようか?」と言いました。神田川は、東京湾に注ぎ込んでいるのではありません。隅田川に注ぎ込んでいるのです。
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そのために、隅田川での涼を楽しむための屋形船や東京湾での釣りを楽しむための船が、何艘もこの合流地点あたりに浮かんでいます。
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一度、この屋形船に園の職員厚生として乗ったことがあります。このあたりの船宿から乗りこんで、隅田川を下り、東京湾に出たところで停泊し、船の中で揚げた天麩羅を頂きました。そして、竹芝か日の出桟橋につけてもらい下船をしたのです。天麩羅は、食べ放題だったのですが、少し揺れる船の中ですので、そんなに食べることができなかった思い出があります。
また、神田川と隅田川の合流地点の地名を「柳橋」と言います。ここは、私の小学校の学区域内で、小学校の同級生が何人も住んでいます。町名の柳橋という名のとおり、そこには「柳橋」と称する橋があります。
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柳橋という町名は、この橋の名からとられました。この橋のたもとには、石碑があり、そこにはこの地名の由来が書かれてあります。「柳橋の名は、江戸中期から花街として人によく知られ、橋のほとりには船宿が並んで賑わっていた。ひところは、料亭および芸者衆も多く、隆盛を誇ったものである。「柳橋」は、元禄11年(1698)に初めて架けられた。神田川が大川にそそぐところにあったことから、その当時は、川口出口之橋と呼ばれていたが、橋のほとりに柳が植えられていたことから、いつしか柳橋と呼ばれた。現在の橋は、昭和4年に架けられたものでローゼ形式の橋である。」若い人は知らないと思いますが、私が子どもの頃、昭和を代表する芸者歌手である市丸さんという人がいました。彼女はこの柳橋に住んでいて、その跡地が今は、ギャラリーになっています。
NHK大河ドラマ「江」に、将来、江の夫となる徳川秀忠が登場しています。秀忠は、家康と家光の間に挟まれ、それほど脚光を浴びてきませんでしたが、実はさまざまな業績を残しています。Sの一つが神田川に関係します。神田川は、もともと「平川」と呼ばれ、現在の日本橋川の分流点付近から南流し、現在の丸の内・日比谷に入り込んで、日比谷入江に注ぎ込む川でした。当時はこの平川が豊嶋郡と荏原郡の境界となっていました。天正18年(1590)に江戸に入府した徳川家康は、海辺で井戸によって真水を満足に得ることができない江戸の飲料水を確保するために平川を改修し、井の頭池と善福寺池、妙正寺池を水源とする神田上水を整備します。この改修により井の頭池を出て善福寺川、妙正寺川と合流する上流部分は現在の姿となり、神田上水は川の本流から目白で分流して小石川、本郷に水を供給したのです。私の園がある場所は、落合という地名ですが、神田川と妙しょうじ川が合流する(落ち合う)場所ということで命名されています。
徳川秀忠の時代に、江戸城の東北の守りを固めるために平川を天然の堀とすることが考えられました。そこで、小石川から南流していた流路を東に付け替える工事が行われました。この工事では、水道橋から東は神田台と呼ばれる台地が本郷から伸びていたため、これを掘り割って通し、現在の御茶の水に人工の谷を造成しました。そして、神田台の東では、元からあった川を利用して神田台から真東に浅草橋、柳橋の東で隅田川に合流するようにしたのです。この改修によって、平川の元の河道は切り離されて江戸城の堀となり、東に流れるようになった平川は「神田川」と呼ばれるようになったのです。
今の神田川の名の由来、その流れの道筋をつくったのが、徳川秀忠だったのです。

母子

 今回の東北大地震で、多くの犠牲者を出し、その中には子どもたちもいると思うと胸が痛みます。我が子を亡くした親ほどつらいことはないと思います。それは、今回の災害だけでなく、病気にしても、けがにしても、親よりも先に子どもが亡くなるのは、かなりショックで、私の昔の教え子が何人かなくなっているのですが、何十年たっても、その傷は癒されないようです。
 我が子が大切だと思う気持ちから行いを悔い改めたという有名な話があります。その昔、インドに王舎城の夜叉神の娘である訶梨帝母とよばれている人がいました。彼女は、結婚して多くの子供を産みました。しかしその性質は暴虐この上なく、近隣の幼児をとって食べるので、人々から恐れ憎まれました。お釈迦様は、その過ちから帝母を救うことを考えられ、その末の子を隠してしまいました。その時の帝母の嘆き悲しむ様は限りなく、気も狂わんばかりにその子を探し回りますが見つかりません。するとお釈迦様が現れて、「千人のうちの一子を失うもかくの如し。いわんや人の一子を食らうとき、その父母の嘆きやいかん」と戒めました。そして、今までの悪行がそのような形で現れたのだと諭します。この事件で親の心を知り心を入れ替えた帝母は仏道に帰依し、子どもを守り、安産をさせてくれる慈愛の仏、鬼子母神となったと言われています。
鬼子母神の像は、しばしば吉祥果を持っています。これは見た目は柘榴のようですが、心を入れ変えた後の鬼子母神は子どもを食う代りに、この吉祥果を食うようになったとされます。後に、この吉祥果には魔障を除く力があるということになってきました。園の近くに「雑司ケ谷鬼子母神」がありますが、ここの鬼子母神像は、鬼形ではなく、羽衣・櫻洛をつけ、この吉祥果を持ち、幼児を抱いた菩薩形の姿をしています。また、ここで使っている「鬼」という字は、本当は角のつかない鬼の字を用いているそうです。
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このご尊像は、室町時代、雑司の役にあった柳下若挟守の家臣、山村丹右衛門が清土(文京区目白台)の地の辺りから掘りだして、星の井あたりで像を清め、東陽坊(これが今の法明寺に合併され、その境内に鬼子母神堂があります)という寺に納めました。ところが、東陽坊の一僧侶が、その霊験顕著なことを知って、ひそかにご尊像を自身の故郷に持ち帰ったところ、意に反してたちまち病気になったので、その地の人々が大いに畏れ、再び東陽坊に戻したとされています。その後、信仰はますます盛んとなり、安土桃山時代「稲荷の森」と呼ばれていた当地に、村の人々が堂宇を建て今日に至っているのです。現在のお堂は、本殿が1664年、徳川4代将軍家綱の代に加賀藩主前田利常公の息女で、安芸藩主浅野家に嫁した自昌院殿英心日妙大姉の寄進により建立され、その後現在の規模に拡張されています。
本当に鬼子母神に諭したお釈迦様の言葉ではありませんが、千人のうちのたった一人の子どもを失うことの悲しみ、ましてや自分の子を失った父母の嘆きは大きなものでしょう。その大切な子どもたちを預かる仕事の重要性をあらためて肝に銘じたいと思います。

 私の園には、「省」という字がつかわれています。そして、園には「三省」という保育の振り返りの観点が三つ掲げられています。このときに「省」という字を見て、どのような印象を持つかは人によって違うようです。私がこの字を使うときには、「かえりみる」という意味で「せい」と読みます。ある人は、厚労省などに使われるように、「しょう」と読みます。また、ある人は、「はぶく」と読んで、除かれるというイメージを持ちます。そこで、字統という辞書を読んでみてもなんだかはっきりしませんでした。しかし、「47ニュース」というサイトに、文化勲章を受けた漢字学者の白川静さんの研究を基にして、漢字の体系的な仕組みを楽しく伝える企画がありました。小山鉄郎さんという共同通信社編集委員兼論説委員が、白川静文字学をやさしく紹介しています。その漢字の中に「省」という字が開設されていました。
私が、絵画指導をしていたときに、子供たちに目鼻がない顔に、目や口やまゆ毛を置いて、いろいろな顔の表情を作ってもらったことがありました。顔の表情が変わるのは、おもに目とまゆ毛の傾きによることを子供たちは気がつきました。ですから、この二つが美しければ顔が美しいことになるので、「眉目秀麗」という言葉があるくらいです。小山さんは、まず、「眉」について解説しています。
古代文字では、横形にかかれた「目」の上に「眉」があります。これは単なる眉ではなく、呪術的な力を増すための眉飾りをつけている字形なのだそうです。「眉」に飾りをつけ「眉」と「目」の力を強調したのです。確かに、この二つを強調することによって、顔に神秘的な表情を表したのでしょう。この眉飾りのついた漢字に「省」があります。「省」という字は、「目」の上に「少」が付いていますが、この部分が眉飾りだといいます。なぜ、呪術的な力を増す眉飾りをつけた目が必要だったかというと、その目で地方を見回り、取り締まることが「省」のもとの意味だそうです。さらに自分の行為を見回ることに意味を移して「かえりみる」になり、見回った後に除くべきものを取り去るので「はぶく」意味となったようです。こう考えると、「はぶく」という意味の「省」は、除くべきものをとり除くということなので、いわゆる事業仕分けかもしれません。
 「直」という字も眉飾り関係の漢字だそうです。これは「十」と「目」と「 」を合わせた形で、この「十」の部分が眉飾りで「少」の省略形です。つまり「十」と「目」とで「省」のことになります。「 」は塀を立てる意味です。つまり「直」は「省」に「 」を加えた形で、ひそかに調べて不正をただすことという意味になり、そこから「なおす」意味になったそうです。
 「徳」も呪術的な力を増す眉飾りをつけ、各地を見回ることを表す文字だそうです。この「徳」という漢字は、「十」「 (ヨコメ))」「彳」「心」でできた文字です。「十」と横長の目である「 (ヨコメ))」の部分は「目」の縦横が違いますが、「直」の字から「 」を除いた部分と同形です。「彳」は十字路の左半分の形で、道を行くことです。そういう人が持つ本当の力は、その人の内面から出ていることが自覚されて「心」の字形が加えられて「徳」の字ができ、「人徳」「道徳」などの「徳」の考えが生まれたのだと言います。
 「省」という漢字は、「直す」につながり、「徳」につながる、なかなかいい漢字です。

ミヤマヨメナ

東京では、ここに2,3日急に暖かくなりました。そういう季節になると、さまざまな花が咲き始めます。園の裏の入り口には、昨年植えた草が残っていましたが、春になって花をつけ始めました。一つは、パンジーといわれている三色スミレです。大きな花の品種や、小さい花の品種とも花をつけています。
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もう一つは、これはパンジーのように決して派手ではありませんが、この花からとても日本的な美しさを感じます。また、その名前もとても日本らしさを感じます。
この花は、もともと日本の多くの場所に自生する多年草のキク科の草です。道端でよく見かける野菊の一つで、秋にうす紫か白い菊の花をつけます。一般的にそれらをまとめて「ヨメナ(嫁菜)」と呼ばれます。この種類は、若芽を摘んで食べることがあり、古くは万葉集の時代から使われていたようで、オハギ、あるいはウハギと呼ばれています。それを入れて炊き込んだ「ヨメナご飯」なども有名です。そのヨメナの中で、山地の日陰に生える多年草で、多くの野菊が夏から秋にかけて咲きますが、3,4,5月の春から夏にかけて開花する種類があり、その名を和名で、は深山に生えるヨメナの意味で、「ミヤマヨメナ(深山嫁菜)」と呼ぶ品種があります。春に開花するので「野春蘭」「野春菊」「東菊」と呼ばれ、古くから栽培されていました。
こうしてミヤマヨメナは、栽培品種として改良されてきました。特に江戸時代から、茶花、庭の下草として利用されるようになり、それ故に改良が行われ、様々な園芸品種が存在しています。切り花に向く草丈の高くなる品種と鉢植えに向く背の低い品種の2タイプに分けることができます。花色は主に紫、白、ピンクなどと多くあります。
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時は鎌倉乱世の時代。源実朝が急死して源氏直系の将軍が居なくなったために北条政子は京の皇族の鎌倉への下向を、後鳥羽上皇に要請しました。その結果、源頼朝の血筋で左大臣・九条道家の子・三寅が決まりましたが、まだ幼いため、政子が代理として政務を見る事になりました。そして、三寅は8歳で元服して藤原頼経と名のり、征夷大将軍になったのですが、この将軍後継者問題で、幕府の横暴に屈した後鳥羽上皇は、その子・土御門上皇、順徳天皇らと密かに倒幕の計画を練り、ついに後鳥羽上皇は諸国の兵を募って挙兵します。武士が政権を握って以来、初の朝廷と武士との対決であった「承久の変」です。そして、上皇軍は敗北し、首謀者の後鳥羽上皇は隠岐島へ、土御門上皇は土佐へ、順徳天皇は佐渡へ流されます。その後、順徳上皇は、20年余年後に亡くなるまで佐渡島で暮らします。都での雅やかな生活が忘れられない日々の続くある日、庭に咲く清楚な野菊に目がとまり、気に入ってこの花がそばにあればしばし、みやこのことも忘れられると漏らします。そして、こんな和歌を詠みます。「いかにして契りおきけん白菊を都忘れと名づくるも憂し」それ以来、島民の間ではミヤコワスレと呼ぶようになったといいます。
それが、ミヤマヨメナの別名として栽培されるようになったのです。今の時期、花屋に行くと色とりどりの花の中にあって、清楚で可憐な草姿をし、日本的風情が感じられる「ミヤコワスレ」は、その名からも哀愁を感じ、ずっと親しまれてきました。これらの由来にはいろいろな説があるようですが、その花を眺めながら、そんな時代と、その時の思いに気持ちを馳せることも、花を眺めるときの趣向かもしれません。

 昨日は、少し風邪気味でしたので、あまり遠くには行かず国分寺にある「お鷹の道」をのんびりと歩きました。
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江戸時代寛延元年より国分寺市内の村々は、尾張徳川家の鷹場に指定されていました。それにちなんで地元では、崖線下の湧水が集まり、野川にそそぐ清流沿いの小径を「お鷹の道」と名づけ、現在約350mを遊歩道として整備されています。四季折々の散策路として人気がありますが、今は、沿道のいたるところに「カラー」の花が群生していて、白い色がきれいでした。
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園の裏手にある「おとめ山公園」も、江戸時代に将軍家の狩猟地で、一般の人の立ち入りを禁止したので御留山といわれたように、ずいぶんと将軍家は狩りが好きだったようです。
三鷹という地名も、かつて徳川将軍家及び御三家が鷹狩を行なった鷹場の村々が集まっていたことと、世田谷領・府中領・野方領にまたがっていて「三領の鷹場」だったことに由来すると言われています。徳川家康や三代将軍・家光などもたびたび鷹狩りに訪れているようです。江戸城を中心に五里(20km) 以内の村々は幕府の鷹場、それより遠い外側の村々は尾張・紀伊・水戸の徳川家などの鷹場で、三鷹の地はその境界だったようです。
日本では支配者の狩猟活動は権威の象徴的な意味を持ち、古墳時代の埴輪にはすでに手に鷹を乗せたものも存在しています。日本書紀には仁徳天皇の時代には鷹狩が行われ、タカを調教する鷹甘部が置かれたという記録があります。そして、そのころから鷹場が禁野として一般の出入りが制限されていました。中期以降になって、貴族層による鷹狩が主流となり、坂上田村麻呂、在原行平、在原業平は鷹狩の名手としても知られています。
江戸時代には代々の徳川将軍は鷹狩を好んで、徳川家康や三代将軍家光は特に好み、将軍在位中に数百回も鷹狩を行ったようです。その後、五代将軍綱吉は動物愛護の法令である「生類憐れみの令」によって鷹狩を段階的に廃止しましたが、八代将軍吉宗の時代に復活しました。
 目黒区に「鷹番」と言う地名があります。このあたりにも、江戸時代、代々の徳川将軍がしばしば鷹狩りに来ていました。鷹狩りは放鷹といい、飼い慣らした鷹を拳にすえ、山野に放って野鳥を落としたり捕らえさせたりする行事で、将軍が放鷹を行う場所を鷹場、御拳場、御留場などといいました。この放鷹は本来、武の鍛錬と娯楽を兼ねた行事でしたが、鷹狩りに託して領内の民情などをさぐろうとした傾向もありました。
三鷹を境とした5里の範囲内に6筋が設けられました。目黒筋の御鷹場もその一つで、鷹場組合、鳥見役所が設置され、鷹匠や鳥見の役などがおかれて鷹の飼養、訓練や鷹場の管理にあたりました。また、鷹場の各所に鷹番を置いて鷹場への立ち入りを禁じた高札をたてて村の連帯責任で見晴らせたりしました。目黒筋の鷹番が居住していた所が、鷹番と言う地名になったのです。
 イギリスでも、貴族や名士のスポーツとして300年の歴史を持つとされるキツネ狩りを禁止する法案が可決されていますが、禁止反対の声は保守党支持の傾向が強い富裕層にとどまらず、「農村の伝統軽視」と反発する狩猟愛好者や農家にも広がっているといいます。一部の人の贅沢が、歴史と緑を都会に残しているとは、難しいですね。