時代の移り変わり

 昨年のNHK大河ドラマ「八重の桜」では、新島襄が執念で大学設立に奔走し、八重が女子大を作ることに奔走した姿が描かれていました。その新島襄と親交があり、同じように大学設立に奔走した人がいます。彼の名は成瀬仁蔵で、彼は19歳でキリスト教に出会い、大阪の浪花教会で洗礼を受けた後、伝道活動を行う一方、梅花女学校で主任教師を務めます。その時に出会ったのが、同志社英学校を設立し、日本におけるプロテスタントの代表者であった新島襄でした。成瀬にとって、新島は信仰上の尊敬する大先輩であり、伝道活動のことなどを相談する仲でした。また成瀬が牧師となるための儀式には新島が出席しています。2人の交流は、新島が亡くなるまで続きます。

 彼は、梅花女学校長となりますが、その時に『女子教育』を出版し、女子高等教育の必要性を訴えて奔走します。そして、日本女子大学校を創立します。ここでは、人格教育を重視し、自発性を尊重する教育を進め、生涯学習を主張しました。そして、死を前に告別講演を行って、その教育理念を信念徹底・自発創生・共同奉仕の三綱領として書き遺したのです。

 この精神のもと、日本女子大を智恵子は卒業し、のちの宮本百合子こと中条ユリは英文科予科に入学したのです。そんな中条ユリの父は建築家で、札幌農学校の設計のため札幌に赴任し、百合子は 3歳までその地で過ごし、後に上京し、一家は旧駒込林町に住みます。17歳の時に『貧しき人々の群』で文壇に登場、天才少女として注目を集めます。そして、1918年、父と共にアメリカに遊学、翌年コロンビア大学聴講生となり、そこで知り合った 15歳年上の古代東洋語研究者荒木茂と結婚します。帰国後、夫婦の間での生活の面での食い違いが生じて、離婚します。その後、野上弥生子を介して知り合ったロシア文学者湯浅芳子と共同生活をおくりながら、破綻した不幸な結婚生活を長編『伸子』にまとめ、近代日本文学の第一級作品といわれました。

 そして、プロレタリア作家として1927年 12月から湯浅と共にソ連へ外遊します。そして、西欧旅行などを経て帰国後、日本プロレタリア作家同盟に加入、プロレタリア文学運動に参加します。そして、文芸評論家で共産党員でもあった 9歳年下の宮本顕治と結婚しますが、プロレタリア文化運動に加えられた弾圧のために顕治は非合法活動に従事することとなり、過酷な人生を送ることになります。

 何度も検挙や執筆禁止などを繰り返し経験し、体調を害する事もありましたが、粘り強く文学活動を続けていきます。戦後、戦時中の執筆禁止からも解放され『風知草』、『播州平野』、『道標』など多くの作品を残します。そして、51歳で急死します。そんな、「宮本百合子ゆかりの地」に立つと、この地域でいろいろな時代に挑戦するような活動があったのだということに感慨深いものがあります。

 ブラヘイジは、そんな時代を振り返るきっかけを与えてくれると同時に、今何をやるべきかということを考えるきっかけにもなります。そして、その時代に必要な活動には、人のつながりを含めた縁が必要であることを感じます。縁が、個々の思いをつなぎ、それが一つの運動になっていくのですね。

目覚めて動くなる

「青鞜」創刊号は、歌集『みだれ髪』や日露戦争の時に歌った『君死にたまふことなかれ』で有名な与謝野晶子の12連からなる詩「そぞろごと」から始まります。この「そぞろごと」は、女性の覚醒を高らかに、誇らかに謳いあげたものですが、私は、今こそ、子どもの権利条約をもとにして、子ども主体の世の中になるべく、世に訴える時かもしれないと思っています。特に、乳児における人権の覚醒を促すべきだと思っています。そう思って、与謝野晶子の「そぞろごと」を読むと、感動します。その一部を紹介します。

「山の動く日来(きた)る。かく云えども人われを信ぜじ。 山は姑(しばら)く眠りしのみ。その昔に於て 山は皆火に燃えて動きしものを。されど、そは信ぜずともよし。 人よ、ああ、唯これを信ぜよ。すべて眠りし女(おなご)今ぞ目覚めて動くなる。」

 女性だけで作る雑誌は前代未聞で、しかも、皆、編集に関しては素人でした。当初は「女流文芸誌」であり、女性の解放という目的もありませんでした。しかし、この創刊号は、1000部をたちまち売り切れになります。その後も購読申し込みが相次ぎ、翌年には3000部に達しました。この数字は、文学雑誌ではあり得ない部数でしたし、青鞜社には毎日のように多くの女性から感動と賛意、激励の手紙が殺到したそうです。

 この青鞜創刊号の表紙は、のちに高村光太郎の妻となる長沼智恵子が描いています。「『青鞜社』発祥の地」から鴎外記念本郷図書館(この時は工事中でした)を過ぎ、団子坂を上ると「高村光太郎旧居跡」があります。takamurakyotaku彫刻家であり、詩人・歌人でもあった高村光太郎は、彫刻家高村光雲の長男として台東区下谷に生まれますが、10歳の時にこの近くに移り、そこで育ちます。その後、父の家からここに移ります。ここには建て物はありませんが、当時、自分で設計した木造(外観は黒塗り)の風変わりなアトリエだったようです。

 智恵子は、18歳で日本女子大学校に入学します。しかし、このころ油絵に惹かれます。そこで、日本女子大学校を卒業後、洋画家の道を選んで東京に残り、太平洋画会研究所に学びます。そこで、26歳のときに、雑誌「青鞜」が創刊されその表紙絵を描くことになります。そして、その年、柳八重の紹介ではじめて高村光太郎のアトリエを訪ねています。その後、28歳の時に、光太郎の後を追って上高地に行き、一緒に絵を描き、ここで結婚の意思をかためます。翌年、光太郎詩集『道程』が刊行され、ここ駒込林町(現在の東京都文京区千駄木)のアトリエで光太郎との生活を始めるのです。このころの女性は非常に元気があるだけでなく、いろいろな分野に力があります。

 この地には、まだまだ元気な女性がいました。鴎外記念本郷図書館の手前の路地を入ると、「宮本百合子ゆかりの地」があります。miyamoto明治36年(1903年)4月、智恵子は日本女子大学校に入学していますが、のちの宮本百合子こと中条ユリが日本女子大英文科予科に入学するのは大正5年(1916年)でした。彼女は、女子大 1年の時、毎年行っていた父方の郷里である郡山市郊外の農村を舞台にした小説『貧しき人々の群』を書き、天才少女と謳われます。そして、女子大は一学期で退学し、作家生活に入ります。

 もともと、鴎外記念本郷図書館を訪れようと始まったブラヘイジでは、目的は工事中で見ることはできなかったのですが、次々と波乱万丈の女性ゆかりの地を歩くことになったのです。

青い靴下

 「ブラヘイジ」という、私が主宰(非常に私的なもの)する下町をめぐるクラブ活動について何度かブログで紹介していますが、このクラブの面白いことがいくつかあります。それは、まずなにかに由来する目的地を決めます。しかし、ブラヘイジは、幼児教育と同じで、目的地に行くことが目的ではなく、その途中のいろいろな出会いが目的です。それは、おいしい店であったり、名物であったり、よく聞く有名な店であったりします。また、東京には、その場所が、どんな由来があるかという碑がいたる所にあります。それを知ることは、いろいろなことにつながるのでとても面白いです。そして、以前訪れた場所が、だいぶ経った後に新聞とかテレビで取り上げられることがあると、「あっ、行ったところだ!」と参加した人は感動します。

 先日の新聞に村上信彦著『大正女性史』が紹介されていました。「東京都文京区の地下鉄千駄木駅から西に折れ曲がりながら続く“団子坂”。徒歩圏内に東京帝国大学があったため、明治期には数多くの学者、文化人が住んだ地域だった。坂を上り切り、50メートルほど先のマンション前の植木の片隅に「『青鞜社』発祥の地」の銘板が立っている。」と最初に書かれてありました。まさに、その通りにブラヘイジで歩いたことを思い出しました。その時に、この「『青鞜社』発祥の地」の銘板が見つからず、そのあたりを何度も行き来した記憶があります。見つからず、あきらめようとしたその時に見つけて記念写真を撮ったのです。
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 新聞の紹介にも、「ほとんどの通行人は目もくれずに歩き去っていく。しかし、ここは女性の人権を無視した男性原理社会の「山」を動かそうとした女性たちの「梁山泊(りょうざんぱく)」であり、女性解放の烽火(のろし)が上がった記念すべき場所である。」とあります。

銘板によると、「青鞜」の名は評論家の生田長江が「ブルーストッキングはどうか」と提案したことによるそうです。この青い靴下という名は、18世紀半ばごろ、ロンドンの資産家女性のサロンで男たちと科学・芸術について論じ合った女性らが青い靴下をはいていたことにちなんでいるそうです。そこで、「森鴎外がストッキングに『鞜』の字をあてたことがあるというので、『青鞜』とした」と書かれてあります。

青鞜社は、平塚らいてうの首唱で、20代の女性5人が発起人となり、明治44年(1911年)6月1日に結成されました。そして、月刊『青鞜』がその年9月に創刊されました。この創刊号に書かれたらいてうの発刊の辞「元始、女性は実に太陽であった」は有名で、女性たちの指針となりました。

それは、このような文章です。「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依(よ)って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼(あお)白い顔の月である。(略)私どもは隠されてしまった我が太陽を今や取戻さねばならぬ。」

これは、まさに、「この女性の自我宣言は、当時のわかい娘たちの胸にまさに爆弾を打ち込んだようなものであった。略 女の手で雑誌を刊行し、真向から社会の壁に挑戦して女の権利を主張するというのだから、あたかも歴史が一変するような感銘に打たれたとしてもふしぎではなかった。」(村上信彦『大正女性史』上巻)とあるような時代だからこそ、教育面でも「新教育運動」が起きたのでしょう。変えようとするエネルギーは、のちの世に影響を与えていきます。

ミチ

 私は、ブログで紹介したと思いますが、この「臥竜塾」というブログから私の考えであったり、私が見聞きしたことから学んだことなどを発信していますが、それに対して「生臥竜塾」という、実際に集まっての勉強会をしています。そこには、塾生として若い男性6人が常時参加しています。彼らとは、まず、みんなで夕飯を作り、みんなでそれを食べるところから始まります。その会費は、原則ワンコインです。また、その日のテーマは、夕食のメニューを考えた人が出します。

 そんな会ですが、年に1回は、忘年会と称して、贅沢に食事会をしようということにしています。(といっても、当然、保育大会の時の懇親会費よりは安いのですが)その会が昨日ありました。今年の場所は、銀座です。費用だけでなく、いつもラフな格好そしているのが、その日だけは少しきちんとしようとしているのですが、みんなジャケットを持っていないため、私から見ると、ずいぶんとラフな格好です。(本人は正装と思っているようです)食事会が終わって、少し夜の銀ブラをしながら帰りました。

 最近の銀座はいろいろな意味で変わろうとしています。先日のブログでブランド店を紹介しましたが、昨日は、そのビルの夜景を見ました。hikarimiti3昼間以上に、そのディスプレイや派手なものでした。しかし、デパートの案内図や掲示板が、中国語や韓国語で書かれてあるところを見ると、たしかに外国人顧客を狙ったものかもしれません。

 昼間に歩いた時に気がついたのですが、その道路沿いのいたるところに「ヒカリミチ」と書いた旗がひらめいていました。それが何かを昨日実感しました。hikarimiti2このイベントの趣旨には、こう書かれてあります。「銀座の街から東北へ、幸せを願う気持ちを届けたい。そんな願いからはじまった「GINZA ILLUMINATION」プロジェクト。3回目となる今年のテーマは、「希望の輪」です。銀座を行き交う人々の想いがつながり、光り輝く輪となって広がっていく。そんな様子をイメージしてつくられたイルミネーションが、銀座の街を彩ります。この冬、ここ銀座からあなたの想いを届けてください。」

 クリスマスから年末に向けて、いたるところでイルミネーションを見ることができます。とくに、発光ダイオードのおかげで、カラフルでいろいろな演出のイルミネーションが全国で見られます。ブログでも、何か所か紹介しました。

 銀座の「ヒカリミチ 〜希望の輪〜」というイルミネーションは、それほど派手ではありませんが、いろいろな試みがあるようです。演出意図としては、「特別に開発した“スペシャル・シャンパンゴールド”色のLEDを使用し、銀座でしか見られない銀座らしい上質な色彩で、銀座通り(中央通り)の1丁目から8丁目、そして晴海通りの数寄屋橋から銀座4丁目交差点付近までの合わせて約1500メートルの沿道を18万3千個のLEDが華やかに包み込みます。銀座通り(中央通り)ではイルミネーションロードの上に74本の光の三角柱を設置し、その三角柱の上部には“希望”を意味する輪が輝いています。晴海通りではガードレールと街灯へのスペシャル・シャンパンゴールドLEDの装飾を行います。」とあります。
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この企画は、銀座通り・晴海通りにショップを構える国際的なラグジュアリーブランド7社が協力し、銀座地域の更なる認知向上と活性化を図るため、2002年に設立されたGinza International Luxury Committee(略記:GILC 略称:ギルク)という団体です。現在のメンバーが、「ブルガリ、バーバリー、カルチェ、ダンヒル、アルマーニ、グッチ、ハリー・ウィンストン、エルメス、ロンシャン、ビトン、モンブラン、フェラガモ、ティファニー、ヴァン クリーフ&アーペル」というブランド店です。どのくらい知っていますか?

私が子どものころの日本橋

私が子どもの頃、銀座のデパートに行くと言えば、「白木屋」でした。もともと白木という上質な木を表わす言葉からわかるように、1662年に、近江長浜の材木商・大村彦太郎が日本橋通二丁目に間口一間半の小間物店「白木屋」を創業したのが始まりです。その後、次第に呉服へと手をひろげ、越後屋(現・三越)、大丸屋(現・大丸)とならび、江戸三大呉服店の一つになっていきます。そして、1878年(明治11年)に白木屋本館として新装開店をします。そして、1903年(明治36年)に、地上3階建ての新館落成し、日本初の和洋折衷建築のデパートとなります。

その後、震災に遭ったり、火災に遭ったりと様々な災害を乗り切っていきますが、ついに、1967年(昭和42年)に、白木屋日本橋店「東急百貨店日本橋店」と改称され、国内の「白木屋」を呼称する店舗が消滅してしまいます。それも、1999年(平成11年)に閉店し、336年の歴史に幕が閉じられました。その跡地にはコレド日本橋が建設されています。コレド(COREDO)とは、「核(CORE)」と「江戸(EDO)」を重ねた造語だそうです。そして、この裏手にコレド日本橋アネックス広場があります。その広場内には、「名水白木屋の井戸」の石碑があります。
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歴史が長いだけに、白木屋には様々な物語があります。白木屋二代目安全は日本橋一帯の良水の乏しさを救うため、白木屋の店内に井戸を掘ることを思いつきます。しかし、かなりの難工事で、途中で挫折しそうになりますが、ある日、井戸掘りの鍬の先に何か手応えがあって、一体の観音菩薩像が出現し、これを機に良水がこんこんと湧き出してきたそうです。この霊水は良水の不足に悩む付近の人々を潤したばかりでなく、この水のおかげで、長年の病気が癒えたという人も出たと伝えられています。

2005年7月4日発行の中央区民新聞にこんな記事が掲載されていました。「早稲田大学が、“コレド日本橋”の中心を通る道路入口に“漱石名作の舞台の碑”を建立し、6月27日に関係者多数が集まり除幕式が開催された。漱石の研究に造詣の深い同大学の武田勝彦名誉教授が、漱石の作品には日本橋の地が数多く登場しているので“この地に碑を”と働きかけ実ったもの。」
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夏目漱石と言えば、園の近くで生誕し、亡くなっていますが、当然、日本橋にはよく出かけていたはずで、彼の文学作品には日本橋が登場したのも頷けます。武田教授によると、「漱石は体で文書をかいた人。虞美人草には三越の前身・越後屋の客は羽織に八丈がすりを着ていると書いて、そのグレードの高さを表現している。碑の立つこの通りには木原店という寄席があって、三四郎、こころに登場している」と説明しています。たしかに、「三四郎」や「こころ」には、ここの路地の寄席であった木原店や料理屋が描かれています。また、漱石はロンドンを舞台にした作品にも日本橋が登場させています。

また、2006年12月11日発行の中央区民「中央区で3番目の「漱石の碑」、「漱石の越後屋の碑」除幕」という記事があります。この「漱石の碑」は、日本橋三越の屋上にあります。やはり、武田教授の提案です。漱石の小説には越後屋呉服店、三越呉服店とそして日本で始めての百貨店三越に至るまで、時代の変化とともに表現されています。この縁から三越が屋上の神社横の土地を提供して石碑が実現したそうです。

 これらの碑も、妻と散歩しているときに見つけたものです。

漢方医

 以前のブログで紹介したように、東京では東京駅周辺や銀座周辺が大きく変わっています。前にはどんな建物があったかと思うほど、あたらしい建物が次々と建てられています。単独ビルの銀座店だけでも「エルメス銀座店」「コーチ銀座」「ディオール銀座」「ルイ・ヴィトン銀座並木通り店」「ダンヒル銀座本店」「ティファニー本店」「カルティエ銀座2丁目ブティック」「カルティエ銀座本店」「シャネル銀座」「プラダブティック銀座店」「フェラガモ銀座本店」「グッチ銀座」「バリー銀座店」「セリーヌ銀座店」「アルマーニ / 銀座タワー」と並びます。ブランドものには興味がない私でも、名前だけは知っているブランドが並びます。
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日本中にある「銀座」同様、ここは、江戸時代の「銀座役所」に由来します。「銀座」という座組織は幕府のために銀貨をつくる組織で、銀の買い入れや銀の管理、事務を取り扱う役所と、銀貨の鋳造を行う工場とがありました。そのほかには、主に職人たちの住む町でした。呉服橋という地名が残っているように、恵比須屋、亀屋、布袋屋といった呉服店が軒を並べ、日本橋の三井越後屋に匹敵する商売繁盛ぶりだったといいます。そして、銀座には観世、金春、金剛の能役者たちの拝領屋敷があり、周囲には関係者たちが居を構えました。このように、銀座は日本橋を起点とする東海道の一部でもある銀座通りに大きな商店がにぎわいをみせ、取り囲む川で活発な舟運流通が行われる一方、裏手に職人町がひろがり、能役者や歌舞伎役者、常盤津の師匠、画家たちの住んでいたのです。

そんな町に町医者として幕末に江戸中にその名を知られた名医がいました。その人の名は、「尾台榕堂」といいます。彼は、現代においても漢方の最高峰と称されており、数々の著作があります。特に「類聚方広義」は名著中の名著といわれ、漢方を学ぶ人は誰もがこの本をまず読まなければと言われるほどです。その彼が医院を開設していた場所には、現在記念碑が建っており、そこを日曜日に妻と歩いているときに通りました。
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彼は、あくまでも現場人で、庶民の診療に一生をささげた人でした。当時としては傑出した名医であるとともに、人間愛にあふれ、心に仁を持って治療にあたり貧しい人であっても親切をつくした仁医であったと言われています。そんなことがしのばれる逸話がいくつか残っています。

彼は、現在の十日町市中条の代々続く医家に生まれますが、16歳で医学を究めたいとの青雲の志を抱き江戸に出府、尾台浅嶽のもと修業をします。しかし、病気の母や兄を心配して中条に帰り、開業しました。10年後、江戸の大火で恩師の家が焼失し更に師が亡くなるという悲報に接し、尾台家を継いでほしいと頼まれ、江戸で仮小屋で診察します。1年後には待合場に人が入りきれなくなり、立て替え、さらに弟子も増えていき・塾の名を「尚古堂」という名の塾を開塾します。そこには、越後から来た弟子もいて、30年ほどで300人が全国に巣立っていきました。

そんな中、1861年幕府から医師の依頼がありましたが、「私は町医者で将軍さまも、大事だが百人の庶民には百の病気がある」と、断りました。しかし、どうしてもとなんども言っているので、「むこうが飲めぬ条件を出せばこなくなるでしょう。」と、「頭を剃らぬ事(御典医は丸坊主にしなければならなかった)」「常時 勤めるのでなく 御用の時だけとする」「庶民の診断も認めること」という三つの条件を出しました。すると、幕府から「承諾する」と返事が来たのです。そこで、しぶしぶ14代将軍 家茂の侍医になったのです。

彼の「事実をありのままに見る」という理念は「科学的に物事を考える」という西洋医学に対して反対を唱えるのではなく、受容するものであるにも関わらず、今でも古医方を主軸とする日本漢方に対して「理論がない」との批判する人がいます。しかし、彼の実践が、医療は、名誉や金のためではなく、民のためという姿勢が必要であることを教えてくれています。

龍めぐり

 私は、ブログの名前が「臥竜塾」と言うことと、四神の中のひつとであり、東を守ってくれる「青龍」にちなんで、園の4階は、龍を中心とした装飾がされています。龍は、天から恵みの雨を降らせ、豊作をもたらし、家運を隆盛させるといわれています。そんなこともあり、龍のさまざまな色紙や装飾を集めているのですが、集めるのには、今年はチャンスです。それは、今年が辰年ということで龍に関するものが多いからです。龍の色紙はもちろん、龍の暖簾や手ぬぐい、カレンダー、置物などです。

  そのような龍に関する企画の中で、京都では現在、「第46回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開」ということで、このような企画内容です。「普段は見学できない庭園、建築、襖絵、仏像―。大河ドラマ「平清盛」放映記念として清盛ゆかりの地や、平成24年の干支「辰」にちなみ「龍」に会える寺院の文化財など、様々なジャンルから選りすぐられた文化財の数々が期間限定で特別公開されます。」昨日、ちょうど京都に行く機会があったので、龍図を見て歩きました。
  この企画の中で公開されているのは、京都五山第二位に列せられる名刹である臨済宗相国寺派の大本山である相国寺です。公開期間は、平成24年1月11日(水)〜3月18日(日)で、公開されているのは、法堂という重文に指定されている日本最古の法堂建築で、1605年に再建された物が今に伝わっています。室町幕府三代将軍の足利義満により創建されました。そこの天井には、狩野光信筆になる堂内で手を打つ反響音が龍の鳴き声のように聞こえ、通称「鳴き龍」として知られる天井画「蟠龍図」があります。易経をブログで取り上げたときに、さまざまな時期における龍を紹介しましたが、ここの龍は、「飛ぼうか、どうしようかと迷っている龍」だそうです。「蟠」の訓読みは、「わだかまり」と読みますが、「心のモヤモヤ」している様をいいます。ここで、説明を聞いたのですが、別名「八方にらみの龍」とも呼ばれ、法堂内をめぐりながら龍を眺めると、どこに行っても自分のほうを見ているように見えます。正面からは、こちらをにらみつけるような顔に見え、裏に回るにつれて、こちらを信じ、穏やかな顔に見えてきます。ほかにも、相国寺には、開山・夢窓国師像、開基・足利義満像、円山応挙筆杉戸絵などがある夢窓疎石を開山としている「開山堂」も公開されています。ここの庭は、江戸時代中期の枯山水庭園「龍淵水の庭」と言い、枯山水庭園でありながら奥には苔むした庭が広がり、そこを流れる川は、あたかも龍が身をくねらせているようで「龍淵水の庭」と名づけられています。
 建仁寺にも行ったのですが、ここは建仁2年(1202年)に建立されているので「建仁寺」と名づけられ、将軍源頼家が寺域を寄進し栄西禅師を開山として宋国百丈山を模して建立されています。 この寺は、俵屋宗達作の国宝「風神雷神図」の屏風があることで有名ですが、ここの仏殿は、法堂とかねており、その天井には、平成14年(2002年)創建800年を記念して、小泉淳作による「双龍の絵」が描かれています。小泉は、約2年の歳月をかけて描いており、108畳の広さに描かれています。ほかにも桃山時代の画壇の巨匠である海北友松の描いた襖絵「竹林七賢図」・「雲龍図」・「花鳥図」等が文化財として保存されています。
 
  今回は、「蟠龍」「龍淵水」「雲龍」「双龍」というさまざまな龍を見ることができました。

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旧安田庭園は、その名に残っているように「安田財閥」に関係があります。もともとは、徳川綱吉の母親である桂昌院の異父弟であった常陸国笠間藩主本庄因幡守宗資の下屋敷でしたが、旧備前国岡山藩主池田章政邸となりました。彼は、廃藩置県で岡山県になるまで岡山藩知事を務めていました。彼の江戸邸だったのが、明治24(1891)年、安田財閥の創始者初代安田善次郎の所有となりました。

 彼は、もともとは越中国富山の生まれです。彼の実家は、幕末に富山藩の最下級の武士の身分でしたが、実際は、半農半商で生活は貧困していました。そんな生活の中で、善次郎は20歳のとき江戸に出て市内を行商したのち、日本橋小舟町の両替店に手代奉公します。そして、1864年、零細な鰹節小商兼銭両替店の安田屋を日本橋人形町の裏通りに開業して独立します。そして、維新後は安田商店と改称し、新政府が発行した不換紙幣(太政官札)を取り扱い、巨額な利益を手にし、その後も次々に発行された公債を買い、当時屈指の新興の金融業者に成長します。そして、明治9年には、第三国立銀行の設立に参画、次いで13年には安田商店を安田銀行に改組し、15年には新設の日本銀行の理事に就任して、日本銀行を背景に両銀行の経営を発展させていきます。そして、26年に帝国海上保険を設立するとともに日本最初の火災保険会社の東京火災保険の経営を引き受け、これがのちに安田火災保険となります。しかし、大正10(1921)年9月28日、84歳のとき、刺殺されてしまいます。彼の死後、大正11(1922)年、この家屋及び庭園は東京市に寄付されました。そこで、この旧安田邸跡地は寄付者の名を残して「旧安田庭園」と命名しました。同じように、彼の名を残しているものに、生前寄付することを約束した東大安田講堂および東京市政会館、日比谷公会堂、千代田区立麹町中学校校地などがあります。これらは、「名声を得るために寄付をするのではなく、陰徳でなくてはならない」として匿名で寄付を行っていたため、生前はこれらの寄付行為は世間に知られていませんでした。

 この日のブラヘイジの最終目的は、大江戸博物館で開催されている特別展「平将門」を見ることです。この特別展は、初めて武士による世の中を作り上げた「時代への挑戦者」平清盛の生涯を描いた50年目の節目を迎えたNHK大河ドラマ「平将門」にちなんだ展覧会です。この展覧会では、世界遺産・厳島神社に伝えられる多数の至宝をはじめ、この時代を生きた人々の肖像画や書跡、主要な源平合戦を描いた絵画のほか、平安末期の文化を象徴する美術・工芸品などが展示され、平清盛が活躍した時代が紹介されています。

 平氏は、海賊退治などで瀬戸内海に進出、清盛が安芸守に任じられると、航海の守り神・厳島神社を一門の氏神のように篤く信仰しました。清盛は後白河法皇をはじめ多くの人々をともなって参詣し、社殿を造営し、社領や宝物を相次いで寄進します。今回の展覧会での目玉は、清盛が長寛 2 年 (1164) に一門の繁栄を願って奉納した、善美を尽した装飾経「平家納経」を4巻です。「平家納経」は、平清盛が一族の繁栄を願い厳島神社に奉納した装飾経で、経文名を記した題箋に鍍金した金銅を、軸には水晶を使い、両端に精緻な細工を施した金銀金銅の透かし彫り金具をつけている非常に美しいもので、国宝に指定されています。料紙には雁皮紙を使用し、表裏に金銀の箔や砂子を撒き、金泥・銀泥、或いは岩絵具や型押しで地紋を浮き出たせ、更にその上に金銀泥、岩絵具で絵や模様を描き、文字は墨・緑青・金泥を使用しています。これらの経巻を清盛、重盛、頼盛、教盛、そして重臣ら32人が一人一巻ずつ書写したと願文に記されています。

 この日のブラヘイジは、両国駅で、体の温まる飲み物をみんなで飲んで、帰路につきました。東京は、あちらこちら行ったようですが、それぞれが近く、総歩数は、約13000歩でした。

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  墨田区の「東京都慰霊堂」の裏には、「安田庭園」があります。この庭園は、案内には、「もと常陸国笠間藩主本庄因幡守宗資により元禄年間(1688?1703)に築造されたと伝えられる隅田川の水を導いた汐入回遊式庭園で、明治維新後は、旧備前岡山藩主池田侯の邸となり、次いで安田善次郎氏の所有となりました。氏の没後大正11年東京市に寄附されました。関東大震災後、太平洋戦争を経て東京都から墨田区に移管され、全面的改修をを行い、復元、開園しています。」とあります。

  この庭園からいろいろなことがつながっていきます。昨年の暮れ、私は妻と京都の嵐山に行き、その散策の途中で「清涼寺」に立ち寄りました。ここは、浄土宗の元祖法然上人が、24歳の時に人々を救う仏教を求めて、同寺の釈尊像の前に7日間こもったと言われている寺院として有名で、入ってすぐのところに法然の青年像が建っています。また、この本堂(釈迦堂)は、たび重なる焼失の後、徳川5代将軍綱吉と、その母桂昌院の発願により、大阪の豪商泉屋吉左衛門らの発起により再建されたとあります。この豪商泉屋は、江戸時代はじめに蘇我理右衛門が若いときから銅吹き(銅の精錬と細工)を身につけて、19歳から京都で店を構え、「南蛮吹き」という銀銅吹き分けの新技術を、一人の西洋人から習得しました。この銅吹き所は、徳川時代を通じて銅精錬業の中心となっていきました。その後、事業を京都から大阪に移し、三代友信が初めて吉左衛門を名乗り、江戸、長崎に出店を設けました。そして、銅の鉱業、精錬と輸出は事業の中心でしたが、ほかに両替業、札差業、砂糖、薬種などの輸入などという多角経営が行われ、これが「住友財閥」になって行きます。

  また、清涼寺の本堂は、桂昌院の発願で、伽藍の復興がおこなわれたのですが、この桂昌院についてもずいぶんと面白い歴史があります。彼女は、徳川三代将軍家光の側室で、後に五代将軍綱吉の生母となったのですが、実は、京都・堀川通西藪屋町の八百屋仁左衛門の娘から登り詰めた、いわば日本版シンデレラなのです。運命というのは不思議なもので、まさか、八百屋の娘が後に将軍になる綱吉の母親になるとは思ってもいなかったでしょう。それは、京都の公卿の娘が尼になって、江戸城で家光に拝謁したところ、家光が一目惚れして側室にさせたのがお万の方で、彼女に腰元としてついていったのがお玉でした。腰元お玉の、いきいきした下町娘ふうな美しさが家光の目にとまり、彼女は妊娠し、しかも男の子が生まれて、これが五代将軍綱吉になったのです。ここでも運命のいたずらがあります。まず、生まれたのが男の子であったこと、別の側室に長男家綱、二男網重と男の子が2人いたのですが、四代を継いだ家網は子どもなしで早死に、続いてその弟、網重も亡くなり、綱吉に将軍の座が回ってきたのです。

  この桂昌院は、非常に教育ママだったようで、綱吉にいつも「勉強しなさい!」といっていたようで、綱吉は徳川歴代将軍の中でも特筆されるほどの好学将軍になり、四書五経、大学、中庸など彼の知識レベルは学者並みであったと言われています。また、桂昌院は、とても身内を大事にしていたようで、弟の本庄宗資は、はじめ公家の家臣でしたが、本庄氏は小大名でしたが 桂昌院の庇護の元、将軍家より松平姓を賜り、常陸笠間藩や丹後宮津藩の藩主を歴任していきます。この常陸笠間藩五万石の藩主、本庄因幡守宗資が下屋敷として拝領して、元禄4(1701)年、この地に下屋敷として築造したと伝えられているのが、旧安田庭園なのです。

ブラヘイジ2

1950年7月、東京都台東区浅草菊屋橋で(株)萬代屋が設立されました。この会社のスタートは、セルロイド製、金属玩具の販売業でした。その後製品を続々と市場に投入し、70年代には、マジンガーZ、仮面ライダー、80年代にはガンプラ、90年代にはたまごっちといった商品が大ヒットします。1961年には社名を「バンダイ」に変更します。この、バンダイ本社が、駒形にあり、「駒形どぜう」の店舗の道を挟んでの隣にあります。ここが、ブラヘイジで最初に立ち寄ったところです。ビルの脇に並んだキャラクターの前で、思い思いに記念撮影です。

その後、隅田川に架かる駒形橋を渡り、吾妻橋からつながっている浅草通りに沿って歩いていくと、業平橋に差し掛かります。この「業平」とは、もちろん、平安時代に「伊勢物語」を書いた在原業平から採られています。「駒形橋」から上流へ「吾妻橋」「言問橋」と続くのですが、この言問橋の名称にはこんな由来があります。「歌人・在原業平は官位を取り上げられ、無官の時期が10年も続きました。業平はこの時期に諸国を放浪し、東国滞留は数年におよびました。隅田川の渡船で業平が詠んだ歌は、江戸時代になり隅田川に架かる橋を詠唱の「言問わん」から言問橋と名付け、業平が遊歴彷徨した故事を偲び、地名・橋名から名付けられたものと思われます。」と東武鉄道の説明に書かれてあります。この歌とは、「名にしおはばいざ言問はむ都鳥我がおもふ人はありやなしやと」というもので、この在原業平の「東下り」の故事にちなんで、ここにある「地名や橋名」に「業平」とつけられています。

ただ、東武鉄道では、2012年春に予定されている東京スカイツリーの開業にあわせ、玄関口となる伊勢崎線・業平橋駅の駅名を「とうきょうスカイツリー」に改称すると発表しています。なんとなく残念です。ということで、次の目的は、もうすぐ開業の「東京スカイツリー」の真下に行くことです。東京スカイツリーは、5月22日のグランドオープンに向けて急ピッチで周辺の施設を建設中です。真下からでは、全景を写真に撮ることはできませんし、ましてや人を入れた写真となるとスカイツリーの下の方しか写りません。そこで、地元の人たちでカーブミラーをいろいろなところに用意してあり、そのミラーに映し出された姿をとれば、魚眼レンズのように全景を写すことができます。

そこから、両国に向かいます。まず、立ち寄ったのは、「東京都慰霊堂」です。ここには、私が子どものころにはよく遊びに来ました。そのころは「震災記念堂」と呼んでいましたが、その名のとおり、関東大震災の慰霊堂です。もともと、この場所には陸軍の「本所被服敞」があり、関東大震災が起きた1923年9月1日は公園予定地として更地でした。震災発生後、東京下町の方々から火気が立ち、やがて町中が火の海になってしまったので、ここは格好の避難場所になったのです。しかし、しばらくしてこの地に火災旋風がおきました。多くの家財道具が持ち込まれ、足の踏み場もないほどの状態のなかで火災旋風が起こったわけで、ここで東京全体の犠牲者数の半数以上である3万8000人もの犠牲を出してしまったのです。その後、この跡地に慰霊記念堂が建てられ、震災の犠牲者約6万人の遺骨が納められましたが、その後東京空襲での犠牲者約8万人の遺骨が収められ、名称が東京都慰霊堂になったのです。
もう少し、ブラヘイジは続きます。