雨水

 今日の来客は、長い間話が盛り上がり、とても楽しいひと時でした。3人で見えたのですが、一人は、日本建築学会水環境運営委員会委員である黒岩哲彦氏で、もう一人は、自然食と自然エネルギーに取り組んでいる神宮司真人氏と、ガーデンフラワーデザイナーの横田みさき氏です。それぞれが、それぞれの分野で面白いのですが、黒岩さんの取り組みは特に興味を持ちます。まず、「水環境」とはどういうことかというと、「『雨』は、私達が自由に取り扱うことのできる身近な資源であると同時に、地球環境を改善していくためのカギとなるものだ。」ということで、雨の循環を捉え直し、地球環境の改善に役立つ技術とその技術の普及をしていこうというものです。私の園でも、黒岩さんといろいろな取り組みをしました。
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  園の雨水タンク
 今朝のラジオで、今、新たに月に人類が行く計画を立てているという話の中で、月には水があるので、人類が住めるということでした。水は、人を救います。しかし、最近の水は、局地的な少雨や多雨、酸性雨、ヒートアイランド化など、被害を及ぼすことが多い気がします。しかし、これらの現象は、私たちに「地球の水循環の現状を、隣に座る優れた家庭教師のように直接的に教えてくれている。」といいます。そして、「私達はこれまで見過ごし、雨を軽視し排除してきた。」ことのつけが回ってきているとも言います。そこで、「雨水利用」を使い捨て感覚で捉えている領域では、もはや解決できないということで、水資源・熱資源・養分伝達資源・エネルギー資源として注目しようというのです。たとえば、東京のような都会では、雨の約7割は河川や道路ではなく、誰かの持ち物である「敷地」に降り注ぎます。それらは速やかに下水に集められ、あるいは鋪装された道路を流れ、地球環境を破壊しながら河川や海へ流されるのです。雨は大地に浸透することも、大気を潤すこともなく、ただ捨てられています。もういちど、私達の暮らしに身近な雨水に着目し、それを通して地球の水循環を捉え、地球環境の改善に役立たせようとするものです。4月に開園する園は、水が豊富に湧いています。この水をどのように使うかで、話が盛り上がりました。水の話は、土の話になり、虫や草の話につながっていきます。それは、「ビオトープ」になっていきます。「ビオトープ」とは、簡単に言うと、ドイツ語で、「生物が生きていくための空間」「住み場所」という意味です。ドイツでは、確かに豊かにはなったけれど、時間のゆとりがなくなり、以前なら身近にあたりまえにあった自然もない暮らしが、果たして人間らしい生活といえるだろうか?という疑問が1970年代に起こってきました。この疑問が子どもたちや親たち、教師たちへ、そして連鎖反応のようにさまざまな市民層に広がり、今までの社会とは違う社会にしようというエネルギーになっていったのです。そして、ついに「これからの子どもたちのためにも、生き物と共存する社会を作ろう!」ということをポイントにしたビオトープ法を含んだ、「ドイツ連邦自然保護法」が、1976年に制定されました。このドイツ連邦自然保護法を踏まえて、各州ごとにそれぞれ自然保護法が独自に制定されています。さらにそれらをもとに、州で「景域構想」を、地域で「景域基本計画」を、そして市町村で「景域計画」を作成し、実行するシステムが完成されています。日本でも、「緑の基本計画」や「都市緑化推進計画」のように似たものはありますが、これらは行政の政策目標にとどまっていて、法的拘束力はありません。なにか、新宿から、保育だけでなく、これらのことも発信できないか、楽しみです。

 今日は、こどもの日です。先日、園で「子ども日祭り」をやったときのことです。こいのぼり役をした保育者が、途中で元気がなくなりました。(もちろん、演技です)司会者が、元気にするためにいろいろな食べ物をあげますが元気になりません。何が好きなのだろうと子どもに問いかけたところ、年長さんみんなが、大きな声で「空気!」と叫んでいます。確かにそうでしょうが、司会者は、「風」と答えさせたそうです。たしかに、考えてみると、こいのぼりは、風が吹くと元気になりますが、口から入るものは空気ですね。どうして、空気が口から入るかというと、体の一番先頭に「口」があるからです。顔は、「口」を中心にできたものだといわれています。動物にとって、口は食べ物を入れる場所だけではなく、一番の「武器」になることが多いのです。ですから、人間以外の動物は、通常は胴が水平になっていて、体の一番先頭に口がついています。こいのぼりは、口が先頭にあるので風が入っていいのですが、普通は、口を先頭に歩いていると、いろいろな物が口に入ってきてしまいます。また、障害物にもぶつかってしまいます。そこで、危険を判断するために、目や鼻や耳などほかの感覚器官が顔に集まってきたそうです。それらの位置関係も、その生きていく環境にあわせて適応してきたのです。そうして、人間の顔ができてきました。そして、今、顔には、生殖器系と泌尿器系を除いた器官系がすべて集まっていて、複雑な構造になっています。人間にとっての「口」は、ものを食べる、呼吸をする、感覚するといった機能的な役割を果たすことだけにとどまらず、心が現れる舞台としての役割があるといわれています。立教大学の名誉教授である「香原志勢」氏がこのように言っています。「『顔』。それは人間の心が無意識に表れる場所でもある。また、意識が顔を現す場所でもある。顔だけでその人自身を表せるほど要の部分でありながら、自分の顔は自分で直(じか)に見ることができない。それは、人間が人間を探求しながら、なかなかその見えざる本質に辿りつかないことにも通じてはいないか。自分では見えない自分自身を探るひとつの手掛かり、それが『顔』なのではないだろうか。」
 先日、園に尋ねてきてくれた須賀さんから、自分が訳したという本をいただきました。「顔立ちから 子どもを知る」(L・コルマン著 須賀恭子訳 北小路書房)という本です。サブタイトルに、「ルイ・コルマンの相貌発達心理学」と書かれています。いろいろな学問があるのですね。その本の「訳者あとがき」にこう書いてあります。
「人と人との直接の交流は、相手と顔を見合わせることから始まる。初対面であっても、最初の一瞥でお互いに第一印象をこころにいだく。相手から顔をそらしがちになるのは、互いに受け入れがたいことを暗示している。言葉を交わしている間も、言葉以外の手段がコミュニケーションの底流を支え続ける。この間、顔の表情の交流は特に重要な役割を果たし続け、相互に第一印象を修正しながらもより強い印象を形成していく。」
 少し前にテレビのNHKの番組でやっていましたが、赤ちゃんに話しかけるとき、母親が、目をそらして話しかけたり、携帯電話で話しかけたり、ついたての陰から離しかけても、赤ちゃんの前頭葉は少しも刺激を受けていませんでした。直接顔を見つめて話しかけること、そうすることで、前頭葉も、コミュニケーション能力も、育っていくようです。

だるま

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 私の記念のブログ第1号で、なにを書いたかというと、「私は強くシンクロニティーを感じるタイプのようです。日本語で言うと「共時性」です。(心に思い浮かぶ事象と現実の出来事が一致すること。ユングの用語)」ということです。これが、よく、「連想ゲームのように」という書き方で、ブログの中で共時性を書くことがあります。一昨日、園に行ってびっくりしました。私の机のそばに、大きい箱があるのです。それを開けてみると、大きなだるまでした。これは、明日見学に来る高崎市の園長会からの贈り物でした。高崎といえば、「だるま」で有名だからです。この張り子の縁起だるまは、高崎にある少林山達磨寺から生まれました。昔、大洪水で流れて来た大木で、一了行者が達磨大師の像を彫ってお堂に安置したのがこの寺の起こりです。その達磨寺境内に「洗心亭」があります。これは、日本に亡命したドイツ人建築家ブルーノ・タウト氏が日本文化の研究にいそしんだ場所です。この日曜日にたまたま行った「東京?ベルリン/ベルリン?東京展」では、展示がいくつかのコーナーに分かれていました。そのひとつのコーナーが、「バウハウスとブルーノ・タウト 1930年代の建築とデザイン 」でした。彼は、ドイツで名声を確立した後、ナチスを嫌ってまずスイスに移住し、さらに日本に1933年に亡命するような形でやってきました。3年余り日本に滞在し、あちこちを旅しながら日本美の再発見に努めました。そして、「日本美の再発見」などの著書が多数あります。また、現在、世界遺産に登録されている白川郷・五箇山の合掌造り民家を見て、「これらの家屋は、その構造が合理的であり、論理的であるという点においては、日本全国全く独特の存在である」と称賛し、その骨太の構造物を「ゴシック式と名付けるべきだ」といっています。また、「この辺の風景は、もうまったく日本的でない。少なくとも私がこれまで一度も見たことのない景色だ。これはむしろスイスか、さもなければスイスの幻想だ。」と著書の中で述べています。
頂いた達磨は、最初は、「一筆だるま」に似た「座禅だるま」、それが次第に繭の形に似た「繭型だるま」になり農家に広がり、形が丸く起き上がりやすくなり、現在の「縁起だるま」の形になっていきます。最初の坐禅だるまは両眼とも見開いていました。それが、養蚕農家が七転八起にあやかって蚕の起き(目覚め「4度脱皮すること」)がよくなるよう大当りの祈願をするため、眼を描かず願いを込めて片眼(向かって右)に墨を入れました。やがて蚕が良い繭を作ると、残った片眼にも墨を入れて大当りと喜び、お祝いしたのが始まりです。それが一般に広まって、達磨大師の不屈の精神にあやかり、目標(願い)を立て、精進努力して無事達成するよう願かけをするようになりました。それが、「願かけだるま」です。高崎だるまの特徴は、マユは鶴、鼻から口ヒゲは亀をあらわし、とても縁起のよい顔の福入だるまです。
 達磨大師は、インドの香至国の王子として生まれ、のちに出家し、お釈迦様から28代目の教えを継がれて、中国に渡りました。そこでの、梁の武帝との問答や、中国少林寺での面壁九年の話は特に有名です。この話は、またいつか、何かの折に書こうと思っています。どこで、どうつながるかわかりませんから。

韓国からの取材

 今日は、韓国文化放送からの取材がありました。この放送局は、韓国内地上波公営テレビ局で、2月28日に特別番組「女性」というテーマで放映されます。この番組の趣旨は、「出産率が世界最低水準である韓国女性たちが、育児に対する心配なく社会活動ができる環境を作るためにどんな条件が必要なのかを、フランス、日本などの現地取材を通じて調べる。」というものです。3時間の特別番組のようです。
 昨年の韓国の出生率は1.16人を記録し、過去最低となりました 1970年から2003年の間に日本の合計出産率は2.13人から1.29人に0.84人、ドイツは2.03人から1.34人に0.69人、英国は2.43人から1.73人に0.72人減少していますが、韓国では、4.53人から1.19人へと3.34人減少し、昨年は1.16人まで減っている状態です。米国の場合、1970年2.46人から1980年1.84人にまで減った後、1990年からは同じ水準を維持、2003年には2.04に持ち直しています。この期間中の合計出産率の下落幅は0.42人に過ぎず、韓国と比較した場合、約8倍近い格差があることが分かりました。日本より深刻のようです。それは、女性の社会進出が活発になり、結婚年齢が高くなると共に、出産可能な年齢にある女性の人口が減っていることも大きな原因であるとされています。しかし、最近、韓国では、「ディンク族」という人たちが増えています。「ディンク族」は英語のDINK (Double Income, No Kids)で、子供を作らずにのんびり生きていくことを選んだ共働き夫婦を意味します。収入に余裕がなかったり仕事のため仕方なく出産をあきらめた夫婦とは違い、「ディンク族」は趣味活動など夫婦同士のやりがいに重きを置き、子供は面倒くさいと思っているのです。特にずっと一人っ子で育てられたせいか、多少自己中心的で、「子供なんか人生の幸せには関係ない」とも言う人も少なくありません。問題は社会全体に「ディンク族」が拡散しつつあることのようです。少子化の根っこには、共働きをしながら子供を育てられるような職場環境、社会環境が整っていないことはもちろんあります。しかし、こうした「ディンク族」の風潮がさらに広まったら、少子化社会に悩んでいる政府がどんな対策を立てても歯止めがかからないでしょう。そこで、韓国でも少子化対策が緊急課題で、政府も新人口政策に取り組んでいます。
 取材の内容として、0歳児保育の充実、保育園の充実を取り上げていますが、それは確かに少子化の主な原因の一つである「育児と仕事の両立」という点では有効な手段の一つですが、こんなことを答えました。(ただ、これは、放映されないと思いますが。)ディンク族に対しては、決して両立支援ではなく、子どものいる幸せを感じさせないといけないのではないでしょうか。今は、子どもがいろいろな事件を起こしたり、面倒をかけたり、のんびり生きる邪魔をする存在になっています。そこで、今の課題は、少なく生まれている子どもをどう育てるか、その子が、どのように成長していくのかが課題のような気がします。特に、韓国では今は学力が確かに高水準です。しかし、それは、競争原理からの高さであって、この熾烈さを見ると、子どもは欲しくなくなるでしょう。また、一人っ子政策での子どもが大きくなると、自分を優先します。子どもを生ませようとするほうにお金を投入すると同時に、今の子どもの保育、教育にお金を投入し、より質の高い保育、教育をしていくべきではないでしょうか。記者の人も、まったく同感だといっていました。

台北より

 今日の見学は、面白いところから来ました。「臺北市立教育大學兒童發展研究所」というところからです。中華民国の台湾にある台北市立教育大学の児童発展研究所です。依頼書が、中国語で来ましたが、改めて、日本と中国の関係をかんじます。なぜかというと、漢字で書かれている依頼書は、まったく中国語がわからない私でもほぼ理解できたからです。訪問趣旨もこのように書かれています。「為促進臺灣與日本幼兒教育之國際學術交流及了解日本幼兒教育的制度及教學實施方式,由本所林佩蓉教授、陳銀螢教授領隊前往貴園參觀與訪問,敬請 惠允,並予指導,謹致謝忱。」なんとなくわかりますね。見学者は、総勢48名(依頼書には、45名)でした。依頼書には、「參觀人數:45位(大學教授4位、碩士班研究生20位、大學部學生11位、幼教老師7位、小朋友3位)」とあります。このメンバーの中で、男性は、1名でした。やはり、幼児教育は、女性のものなのでしょうか。何を見ていくのかというと、「參觀重點:(1)教學理念 (2)園舍與教室環境規劃 (3)教學?容與方式」です。午前中だけの、ほんの短い時間でしたが、終わってからの質問タイムで、感心したことがあります。まず、質問する前に、見学をした感想を言ってくれます。ただ聞くのではなく、きちんと、こちらにも何かを返してくれようとします。それから、返事なり、取り組みで感心すると、みんなで手をたたいて、褒め称えます。(ただ、これには、少し、閉口しました。話すたびに拍手をされても、照れるだけで、どう反応してよいかわからない場面が多かったからです。)もう一つ、代表の教授が、質問を確認しあって、途中で質問して答えてもらったことは、あとでお互いに交換すればよいということで、答えが重複しないようにしてから質問したことです。もちろん、私のほうは、質問が重複しても、丁寧に対応をするのですが、時間を有効的に使おうという思いが伝わります。そして、質問を始める前に、子どもの様子、園を見た感想を取りまとめて、教授が伝えてくれました。「感心したことが、主に3点ありました。一つ目は、子どもが自主的に行動していたこと。1,2歳児でも、自分がやれることは、きちんと自分でやり、先生は、それを温かく見守っていたこと。二つ目は、非常に子どもたちの情緒が安定していたこと。見学者が多いにもかかわらず、それに乱されることなく、子どもたちがとても落ち着いていたこと。三つ目は、地域に対しても、保護者に対しても、きちんとコミュニケーションをとっていること。環境の工夫が、地域にとっても、保護者にとっても、とても優しさをかんじ、コミュニティー形成にとても貢献していること。」こんなに見学時間が短いのに、的確に私たちが伝えたい保育を捉えている感じでした。見学者の質の高さを感じました。大勢の人数のために、しかも通訳が一人しかいないために、見学は自由に見てもらい、あまり説明はしなかったのですが、すごいですね。通訳の人(彼女は、上海の人と言っていました)は、事前に私の本を読んできたということですので、もしかしたら、事前に研修したのかもしれません。それに比べて、観光バス会社の人は、前日に、突然、駐車できるのかとか、途中で、どう行けばいいのかとか、どこを曲がるのかと、問い合わせてきました。きちんと、事前に調べないのでしょうか。案の定、予定の1時間近く遅れて到着しました。ただ、帰りに、競って、私といっしょに写真をとりたがった見学者の姿は、いかにも女子大生といった感じでした。

伊那小

 今日の来客は、伊那市から公立の保育士さんが5名でした。最近、伊那市から、自主的に、交代で私の園に研修に来ています。市の公立の保育を見直そうとするものです。伊那市というのは、長野県ですが、昔から、「信濃教育」として、独自に先駆的に行ってきていることで有名です。その中で、特に伊那市にある「伊那小学校」の取り組みは、とても有名です。私も、その授業を見に行ったことがありますし、その中で、ポニーを通しての取り組みは、当時、テレビのニュースステーションにも取り上げられました。この学校の主な特徴として、大きく二つあります。ひとつは、先進的に昭和53年には1,2年生、昭和54年から全学級で総合学習を実施してきたということです。そして、総合的な学習として、テーマ学習をしていること。もう一つは、通知表がないということです。しかし、その独自性は、校門を入るとまず感じます。玄関にある石碑には、「教育の目標」が書かれています。そこには、「眞事(まこと)」「眞言(まこと)」「誠(まこと)」とあります。「真事」は「事」にある。「事」を責め立てて、具体的に事が何かはっきりさせることが、真事への第一歩である。教育としては、「教師は教材を十分研究し、教材のつぼ、指導のつぼを心得る努力が大切である。学年会、教科会を重視し、学年会は児童の側から、教科会は教材の側から事を責め立てて、手だてを究明し、その研究と実践を重んずる。」ということになります。「真言」は「ことば」である。教師と子ども、子ども同士に虚言がなく、真実のことば、思いやりのあることばをもって接することが第一歩である。「真言」は「愛語」である。愛語「よく回天の力あることを学すべきなり」正法眼蔵児童愛に根ざし、児童の言をよく聞き、深く理解して、実 のある自分のことばを責め立てて説得にあたるべきである。そこで、「読み合わせ会を重視し、ことばのもつ意味を究明し合うと共に、平常、常に辞書を引き、ことばの感覚を磨くべきである。」ということです。「誠」とは、「ことば」が成り遂ぐる義であるから、言行一致が「誠」の具現の第一歩である。ということで、「教師は、子どもの毎日の清掃、遊び、勤労作業、諸行事等、常に子どもと共にあり、その行動を通して誠実に対処することが大切である。」なかなか、いい言葉ですね。この学校の特徴は、クラス名にも現れています。普通は、1組、2組というのですが、この学校は、学年によって、クラス名が違います。1年生は、春、夏、秋、冬組です。2年生は、謹直敬順、3年生は、剛毅正礼、4年生は、智仁勇学、5年生は、忠孝文明、6年生は、山川森泉という各学年4クラスずつです。なんだか江戸時代のようですね。そして、昭和31年度から、従来の通知票が廃止され、期末懇談会を新たに設け、一人ひとりの子どもについて、学業・性格・行動・身体など、日々に歩んでいる生き生きとした姿を中心に、父母と直接話し合うようにしたそうです。これは、成績を家庭に知らせないのではなく、むしろもっと具体的に話して、家庭での指導と学校での指導が一体化していくことを意図してなされたものです。総合学習の特徴は、クラスで子どもたち自身の発意による共同探求を長期にわたって発展的に展開していくことを学級での学習、生活の中心に据えている点です。これらの取り組みは、賛否両論あり、また、教師間格差を生む気がしますが、学校教育を、子ども主体にしようとする意気込みは感じます。もう一度、今の時代でのあり方を検討し、幼児教育を含めた教育を発信してもらいたいですね。

労使関係

 あるところで、新しい試みの話をした後、アンケートで「その試みを実行しようとするときの障害は、何ですか?」と聞いたところ、保育者の回答のほとんどは、「園長」と答えていました。逆に園長に尋ねた回答のほとんどは、「保育者」でした。お互いが、お互いを壁と感じているようです。
今日の来客は、とても珍しいパターンです。今まで、数日間にわたって園の職員を全員交替で実習によこし、最後にそこの主任が来て話をし、そして、今日、そこの園長が来ました。園職員全員で来ることはあっても、それぞれ別々の日に園長、主任を含めて全員が来るというのは珍しいです。別な日なので、それぞれの本音が聞けるからです。そして、園に戻って、みんなで話し合えるからとてもいいと思います。(特に、園長と職員)
園というのは、企業ではありませんが、企業の「労使関係」という考え方が、職員との関係で参考になることがあります。保育園、幼稚園では、企業でいうと、中小企業です。中小企業の場合は、とくに労使の間の個人的なつながりが密接で、従業員と使用者との人間関係が、その企業の労使関係に及ぼす影響が強くなっています。経営者の従業員に対する人間的理解の欠如が原因となって、労使関係が悪化した多くの例があります。人間関係に十分な心づかいをして、従業員との信頼関係を築き上げていくことが、労使関係をよくするためにはとても必要なことだといわれています。私は、そのほうの専門家ではないので、詳しくはわかりませんが、一般に大きくアメリカ型とドイツ型に分けられるようですが、どうも最近は、労使関係でも「ドイツ型」が提案されているようです。アメリカ型は、会社の主催者の意向は経営に強く反映します。しかし、企業に対する一体感は薄く、企業内部での一体感もあまりありません。一方、ドイツ型は産業民主制の立場から、労使の関係は対等であり、経営に対する責任分担は両者共同で行われます。このため、企業内での一体感は高まりますが、意思決定が対立した場合は調整が難しくなります。ドイツでは、協調的問題解決型、すなわち協約自主性というようです。参考に、トヨタの労使関係を見てみました。トヨタの人事労務は「労使相互信頼」を基本理念としています。労使相互信頼は、「従業員の生活向上は会社の繁栄があって初めて実現するものであり、労使が会社の繁栄を共通の目的として価値観を共有する」が基本精神のひとつにあります。そして、その基盤として「相互信頼」に「相互責任」が加わっています。
園に見学にきた保育士さんから、こんな感想のメールをいただきました。
「お話を聞かせていただき、私が特に印象深く残ったのは、園長先生が現場の職員の先生方を信頼し感謝をしていて、その園長先生の姿勢にしっかりと受け答え、実践していらっしゃる現場の先生方とのチームワークです。つまり「輪」ですよね。「輪」は「和」にもなります。きっと、通園している子どもたちは、いちばん身近なところにいる大人が安定して穏やかであれば、自然と心が和むことでしょう。そして、子供の様子を見れば、その子どもたちの保護者の方々も、我が子をしっかりと受け止めて下さっていると確信して先生に協力したいという感情が湧いてくるのでしょうね。『子どもが外の社会で最初に生活をする場の大人が信頼できる人間であること』とても大切だと思います。」

公私の幼保

 今日の来客は、社会福祉法人立保育園、学校法人立幼稚園、東京都昭島市立保育園、長野県伊那市立保育園の園長、保育者でした。いわゆる、幼稚園と保育園、私立と公立です。しかし、どこも乳幼児期の子どもを預かっている施設です。ドイツで、キンダーガーデンといわれている施設を、幼稚園(ようちえん)と訳します。(独・英:kindergarten)そして、その施設とは、「3歳から小学校就学までの幼児を保育し、年齢に相応しい適切な環境を整え、心身の発達を助長するための教育施設のことである。」と辞書に書かれています。いわゆる、日本でいう幼稚園の内容です。しかし、ドイツに行って気がつくのは、では、保育園はなんていうのかというと、日本の3歳以上児の保育園に相当する施設が見当たりません。というのは、ドイツでの保育園は、すべて3歳未満児を預かる施設だからです。逆を言えば、3歳以上児を預かる施設は、すべてキンダーガーデンというからで、そこにいる園児は、お昼で帰る子、3時に帰る子、5時に帰る子と様々です。ですから、キンダーガーデンの親は、専業主婦の場合であろうが、勤めていようが関係ありません。親がどのような生活形態を取ろうが、子どもに対する幼児教育は変わらないのです。第55回日本保育学会で、パメラ・オーバーヒューマー所長(ドイツ・バイエルン州立幼児教育研究所)が、「1997年EU各国の国際調査をもとに、それぞれの特徴の解説」をしました。そこで、「スペインやフィンランドは、6,7歳までを対象にした幼児教育保育所で、教育と養護(ケア)といった区分や年齢による区分がなく、統合された調和のある保育を目指している。スペインは、教育省、フィンランドは社会省の所管に一元化され、いずれも義務教育部門とは別になっている。ベルギーやルクセンブルグは、就学前教育専門家として位置付けられ、行政レベルが作成したカリキュラムに基づいて教育が行われている。そして、教育と養護(ケア)が分かれている。フランスやオランダは、教育と養護(ケア)が区分されている。デンマークやドイツは、幼児教育保育者のほかに、社会的保育者(ソーシャル・ベタゴーグ)がいて、学校外の保育システムがつくられている。」という講演を行いました。どの国でも、所轄官庁は、年齢で分かれているか、一元化されていて、それらの国と比較して、同じ年齢の子(3?6歳児)を違う省庁(文科省と厚労省)の管轄で行う国は、日本しかないそうです。日本は、何で、親の利用の仕方、保護者のライフスタイル、運営母体の違いで、子どもの処遇がちがっているのでしょう。国主導の「総合施設」のようなものではなく、現場から、幼保と、また、公私とそれらの区別なく、同じ子どものための保育、幼児教育の質を考えなければならない時代が来たのかもしれません。そんな思いを強くした、今日の来客でした。

慣れる

 今日は、園への見学者が、一昨日からのセミナーの続きで26名いました。この数が多いのか少ないかは、微妙なところです。月曜日は、60名以上いましたし、月に数日は20名を超えることもありますので、職員は、なれてしまっているかもしれません。なれているといえば、見学者からよく「子どもたちが、見学者になれているようで、少しも動じませんね。」と言われます。それは、子どもたちは、見学者がいようと、いまいと、物事に集中していますし、自分たちのことを黙々とやっているからです。しかし、慣れるということは、どういうことなのでしょう。意味としては、
(1)たびたび経験した結果、当たり前のこととして受けとめるようになる。なれっこになる。
「都会での生活に―・れる」「会議の雰囲気に―・れる」「待たされるのには―・れている」
(2)何度も経験してうまくできるようになる。習熟する。
「料理も―・れれば手際よくなる」「―・れた手つき」「―・れない仕事で疲れた」
(3)接触する機会が多く、心理的な隔たり・距離感がなくなる。
(ア)人に親しみをもつようになる。「生徒はようやく新しい先生に―・れてきた」
(イ)獣・鳥などが人に対して警戒心や敵愾心(てきがいしん)をもたなくなる。
「野生の動物はなかなか人に―・れない」
(4)体になじんで具合がよくなる。「足に―・れた靴」
(5)動詞の連用形や名詞の下に付いて、何度も経験して具合がよくなる意を表す。
「履き―・れた靴」「書き―・れた万年筆」「旅―・れた人」
 これらのなかで、見学者が使う「なれているのですね。」は、どの意味なのでしょうか。
(1)の意味が多いかもしれません。見学者のいることを当たり前のこととして受け入れているようになっているようです。 (2)の意味であれば、子どもたちは、次第に見られることに習熟してきて、感心してもらえる行動を心得てきたということになります。しかし、ほぼ毎日見学者がある状態であるときに、子どもたちは、見学者へ気を使っていたら、どこか無理がきます。(3)は、少しあるかもしれません。見学者に対して、親しみまでは行きませんが、警戒心は持たなくなってきている気がします。(4)(5)では、どうもなさそうです。
 やはり、どうも1番目の意味ですね。ということは、子どもたちが熱中しているという姿は、見学になれているので、普段のままの様子が見られるということです。見学者にとって、子どもの普段の様子が見られるので、参考になると思うのですが、どうも、なれてくると、特別な姿になることだと思っているようです。私が教員のときに、教室の後ろに、保護者がいつでも見に来てもいいように椅子を3脚置いておきました。授業参観の日の子どもの姿は、特別な姿ですから。

看護師

今、看護学校から実習に来ています。現在、准看護師の資格は持っていて、正看護師になるために、「健常児と触れ合う」という課題を持ってきています。
2002年3月より保健婦・保健士、助産婦、看護婦・看護士、准看護婦・准看護士の名称は、それぞれ保健師、助産師、看護師、准看護師という名称に変更になりました。「保母」が「保育士」に変わったのと似ている状況があります。ひとつは、女性だけではなくなったということで、男女共通の呼び名に代えたということです。しかし、もともと、女性を「看護婦」男性を「看護士」と呼んでいたため、共通として、保育士のように「士」を使わずに「師」を使うことにしたのでしょうね。もう一つは、「婦」という字です。これは、なかなか難しい問題があります。「婦人」「主婦」なども議論を呼んでいます。漢和辞典(学習研究社「漢字源」)では、そもそも「婦」の原義は、「女+帚(ほうきを持つさま)で、掃除などの家庭の仕事をして、主人にぴったりと寄り添うよめやつまのこと」であり、「つまり、婦人、主婦、○○婦など、「婦」の使用は、女性は家にいて家事をという男性優位社会の固定観念を認め、それを助長することになるという主張です。しかし、語源というものは、いろいろな説があり、「掃く」という行為は、旺文社の「標準漢和辞典」によると、「女と帚(ほうき)とを合わせて、一家の祭事を行なう女・よめの意。のちにひろく、おんなの意に用いる。」とあり、帚(ほうき)は家事を行なうためでなく、祭事を行なうためのものと解しています。昔は家事ではなく、祭礼であるというのです。そのほかにも、どうも神聖な仕事をするようなイメージの解釈が多いようです。また、陳舜臣氏によれば「婦」は古来、上流の女性の階級名であり、掃くという意味はないといいます。しかし、もし「婦」という字を当てられたり、その呼称で呼ばれることが不愉快な人が多ければ、新しい字を考えてもいいかもしれません。また、「士」と「師」も難しいですね。ある辞書を調べると、「士には仕える」「師は先生をさす」とあり、別の辞書は、「士は資格・役割を持つ者」保育士や弁護士や栄養士などで、「師は技術者」のことで看護師や医師や美容師がこれに当たるといいます。また、准看の「准」も、「準」とどう違うのでしょうか。眠れなくなりそうですね。