授業評定

 昨日、産経新聞で面白い記事を見つけました。面白いといっては不謹慎かと思われますが、なんだか、こういう議論は滑稽のような気がします。だからといって、結論が出ないので難しい問題ではあるのですが。こんな記事です。
「最近、校長が教員の授業の技量を評定するようになった。そこに大きな問題が生じている。授業が下手な校長はいっぱいいるからである。囲碁5段の人を3級の人が評定したらどうなるか。甲子園に出場した野球選手を、草野球の選手が評定をしたらどうなるか。デタラメな方針が幅をきかし、技量ある者がやる気を失い、学校から活力がなくなっていく。 校長が勤務状況を評定するというなら話は分かる。勤務態度の誠実さ、熱心さ、教室での実践の良しあしなら、多くの校長は正しく評定できる。だが、「授業の評定」は別なのである。私の経験では8割の校長は授業が下手だ。指導主事も同じだ。話にならないくらい授業が下手だという校長が3割はいる。しかし、授業が下手でも管理職としては立派だという校長も多くいる。話にならないくらい授業が下手な校長が指導することは、すべて「形式的」な「俗物的」な指導法である。授業を批評できるには、研究授業、公開授業を500回は経験しなくては無理だ。下手な校長は50回もやっていないだろう。それでも、職員に「授業をやってみせる」校長なら評定する資格はあると思う。「授業力の評定」は別途のシステムを作る必要がある。(TOSS(教育技術法則化運動)代表 向山洋一)」確かに、いうとおりの気がします。「自分のことを棚に上げて、よく人のことを言うなあ」と思うことがあります。また、実践もないのに、頭でっかちの評論化タイプもいます。しかし、高度の技術を持った人が、高度の評価ができるというのは少し違う気がします。よく言われる、よい選手が、よい監督に必ずしもなれるとも限らないということです。リーダーシップ論ではありませんが、校長という資質と、教員の質は違う気がします。私は、日本の学校教育のひとつの問題は、校長が基本的に全員教員上がりにあると思っています。ただ、この記事で納得の行くのは、授業の下手な校長が評価はできないという点です。だからといって、上手な校長ができるということではなく、下手な校長は、なまじっかのプライドと、変なこだわりがあるから始末に悪いのです。また、古い、間違った価値観を強く持っている可能性が強いからです。私の園が、かつて第三者評価を受けたことがありました。その中で、「家庭的な雰囲気」というところの評価が少し低かったことがありました。そのときの評価者は、かつて、公立保育園で長い間園長をしていた人でしたので、たぶん、その人なりの「家庭的」のイメージがあったのでしょう。しかし、私からすると、何が家庭的かというと少し違うような気がします。それは、だいぶ個人によって違うと思います。このような個人によってからリ違うイメージを持つようなものの言い方なり、評価項目なり、目標などにするべきではないような気がします。また、何がノーマルな家庭かというと、それもここで持つイメージが違う気がします。それには、何十年も園長をやってきたからよいわけではなく、その人がよい保育者だったからよいわけでもなく、よきリーダーと同様の資質を持っていることが重要です。広い視野と、ものを深く見る力と、新しい時代を読み取る力が必要になってくるのです。

無駄

 今日は、法人の監査でした。監査のための書類作りが大変です。印鑑が一箇所押していないとか、日付記入が1日抜けているだけで指摘されます。わたしたちの法人は、確かに公金を使用しています。幼稚園にしても、直接の補助だけではなく、保護者が施設に保育料を納めるにしても、その保護者へ就園奨励金とか、児童手当という公金が支払われています。まして、保育園には運営費全額補助金ですので、公金が使われます。ですから、監査というその使途についての調査があるのです。しかし、当たり前かのように思える監査に少し疑問が残ります。いわゆる公金といわれる国民の税金が、どのように使われることが無駄遣いではないのでしょうか。たとえば、印鑑を押していないことが、どういうことなのでしょうか。もちろん、公正な使い方を、客観的に判断できるような表現が必要なのでしょう。しかし、無駄遣いかどうかは、まず、その公金が、何のために支給され、自治体は、何をすることを委託しているのでしょうか。わたしたちに対しては、それは、もちろん「幼児教育」です。幼児教育に使われていないとしたら、それは、無駄遣いです。たとえば、幼稚園教育要領では、幼稚園教育の基本として、「(1)幼児は安定した情緒の下で自己を十分に発揮することにより発達に必要な体験を得ていくものであることを考慮して,幼児の主体的な活動を促し,幼児期にふさわしい生活が展開されるようにすること。(2)幼児の自発的な活動としての遊びは,心身の調和のとれた発達の基礎を培う重要な学習であることを考慮して,遊びを通しての指導を中心として第2章に示すねらいが総合的に達成されるようにすること。(3)幼児の発達は,心身の諸側面が相互に関連し合い,多様な経過をたどって成し遂げられていくものであること,また,幼児の生活経験がそれぞれ異なることなどを考慮して,幼児一人一人の特性に応じ,発達の課題に即した指導を行うようにすること。」と書かれています。ということは、この基本を行うために公金を投入しているとしたら、(1)を見ただけでも、幼児が安定した情緒を図っていないとしたら、「無駄遣い」です。ましてや、幼児の主体的な活動を促しておらず、大人の価値観を押し付け、子どもを指示し、一斉に、言うとおりに活動させ、または、すべてやってあげ、子どもたちの自らの活動を阻止しているような保育に公金を使っているとしたら、それは「無駄遣い」です。(2)でも、遊びを通しての指導を中心にせず、ただ、座らせて早期教育を行ったり、(3)に書かれているような、一人ひとりの特性に応ぜず、個々の発達の課題に即さず、画一的な、発達の課題を無視した保育は「無駄遣い」です。将来を担う子どもたちを保育し、教育し、そのために公金を投入しているのであって、公金を使って、事件を起こし、問題を起こし、自立していかない若者を作っているのはそれこそ指摘されるべきことです。これを検査するのが「監査」や「評価」なのです。ニュージーランドでは、公金を出して、その使い道を監査するのではなく、子どもたちに対して、きちんと国が示したカリキュラムに沿った保育をしているところに対して公金を投入するのです。そして、そのカリキュラムは、「有能で自信に満ちて学ぶ人、コミュニケーションを取れる人に育ち、心身ともに健全であり、精神的な拠り所を持ち、社会に対して価値ある貢献をしているという意識を持てるように育ってほしい」という願いがこめられています。保育は、書類や印鑑のためではなく、もっと「崇高」な仕事なのです。

第6勘

 今日は、保育者採用試験日でした。各園では、採用方法についてさまざまです。できるだけよい保育者が欲しいのはどこも同じですが、何がよい保育者かというとさまざまです。たとえば、ピアノが上手に弾けることがいい保育者と思うところは、そのテストをするでしょうし、漢字力が必要であれば、漢字テストをするところもあります。また、あるところでは、高いところに掲示をする必要があるということで、脚立に上らせて、一番上に立って、手をたたくというのも聞いたことがあります。受ける側は、さまざまなところがあるので、面白いでしょうね。(本当は、緊張して、一所懸命かもしれません。)その点、私の園では、かなりいい加減です。というより、私はいい加減です。私の採用基準は、ほとんど、勘だけだからです。
私が教員のとき、通知表をつけるときにある試みをしてみました。すべて、成績を勘でつけてみたのです。A君を頭に浮かべます。そして、国語は、3、算数は、2というように、すべての教科を勘だけでつけてみたのです。そして、それを渡すときに保護者に、「私の通知表なんて、そのくらいいい加減なものだから、あまり信用しないように。」と保護者会で説明しました。(ただ、本当は、あとで、すべてのテストの平均点を出して、それと、勘の評価を比べてみたら、90%以上、正確でした。だから、「何だ、あんなに苦労して、いろいろなデータを出してつけても、勘でつけてもかわらないなら、大変な思いをしないで勘でつけよう。」と思ったのです。まあ、たった、3段階ですから。)しかし、「そんないい加減なことを、よく保護者が承知したなあ。」と、今になってみると思います。ただ、その代わり、所見欄は、あんな数行だけでは表わせないので、一人ずつレポート用紙1枚分にびっしり書いて渡しました。そこで、12月末に渡す通知表を、12月はじめから、数人ずつ毎日書いて渡したのです。子どもの評価を点数だけで表わすことは、どうしてもできなかったのです。
今、話題のライブドアの堀江氏は、クイズ番組の中で、どうしてその答えになるのかと聞かれ、「それは、単に勘です。私の人生の80%は、勘です。」と答えていました。当然、勘は外れることはあります。職員採用も、外れることもあります。しかし、その確率は、よく考えても、どんな試験をしても、なんだか同じような気がします。だから、5勘のほかに、6勘目の力をつけるようにしています。当然、6勘目は、5勘すべてをフル活用して生み出されるものだと思うからです。

グッドデザイン賞受賞(内緒)

 今年も、グッドデザイン賞を受賞しました!(本当は、10月3日にプレス発表なので、今は内緒です)
2001年度、「せいがの森保育園」で、グッドデザイン賞(新領域部門)を授賞しました。そのときのテーマは、「人々の関係性のデザイン」でした。グッドデザインといえば、どうしても形がいいと思いがちです。ですから、受賞したというと、「さすがいい建物ですね。」と言われます。しかし、形ではないもののデザインの評価ということで、「新領域部門」が2000年に創設されたのです。その部門に、園が、地域の人々、異年齢の子ども同士の関係性をデザインしていて、その結節点としての役割を担っているということで応募し、受賞したのです。面白いですね。そう思ってみると、よいデザインはいろいろなところにあります。賞といえば、せいがの森保育園がある地域のNPOが「都市景観賞」を受賞しました。私が授賞式に参加して、賞状をもらったのですが、都市の景観が美しいという評価には、三つの条件があります。まず、「町並みが美しいこと」、「官民の連携が美しいこと」、「地域住民の活動が美しい」ことが挙げられています。やはり、最近評価されるのは、人々の動きのデザインの美しさです。ということで、今年受賞したのも、ギビングツリー(私が主宰する保育環境研究所)と、株式会社世界文化社との共同開発によって作った保育家具についてですが、家具そのものではなく、「子どもの動きをデザインする」ということで、新領域部門に応募しました。コンセプトは、子どもたちが自発的に遊び、主体的に関われる環境の構成、よい「空間的環境」の実現を目指すものです。空間をデザインすることで、子どもの動きをデザインし、その動きから、今後、子どもに望まれる力を育成していこうというものです。前回の受賞のときにも思ったことですが、受賞は、私が提案した内容というよりも、これらの提案を評価する審査員の力量を感じます。保育園の第三者評価事業においても、調査者の力量が求められますね。新しい時代の保育の提案、実践を評価できる知見の広さを望みます。

学校評議員会

今日、近くの小学校で「学校評議員会」が行われました。これは、学校の教育目標、教育計画、教育活動の実施、地域との連携の進め方などの学校運営の基本方針や重要な活動に関する事項に関して意見を述べ、学校評価を行うことになっています。6月にドイツの保育園、幼稚園、学校のいくつかを訪問したのですが、まず、多くの施設で、入ったところの玄関ホールに、保護者の学校評価がはってありました。それを示しながら、まず、自分の園の評価は高く、保護者の満足度が高いということの説明から入ります。日本でも、今、保育園では第三者評価が行われていますが、この第三者というのが難しいと思います。保護者の評価は第二者(正確に言うと、二者の代弁者)であり、日本では参考意見にする程度です。というのも、どうしても人質論的な答えになったり、子どもの代弁ではなく、大人の都合での評価になってしまいがちだからでしょう。では、客観的に第三者が評価すればいいかというと、調査者が保育関係者では、自分の主観、保育観が入ってしまい、他の業種の人であれば、システムなり、書類への表現力の評価であることが多く、「保育の心」というものは評価することは困難です。今日の学校の話し合いも、データとして、市内の学校の中で、学力定着率度はかなり高いという評価はあるとしても、校長が課題として持っている「最近の子どもは、人と関わる力が落ちている」ということは、印象か、ある事例になってしまいます。しかし、そこが一番問題であり、その印象を受けての具体的な対策なり実践が、保育、教育では大切なことではないでしょうか。