ドイツ報告3

 今回のドイツ研修は、第15回です。ドイツでは、5の付く回は記念だということで、今回特別な配慮を頂き、ミュンヘン市の市職員のセミナーハウスに二泊させていただきました。そして、当局の会議の中で、長い付き合いであるということで、宿泊させていただいただけでなく、宿泊代を無料にしていただき、さまざまなおもてなしを受けることができました。

 場所は、ミュンヘン市の中心からバスで1時間ほど郊外に行ったところにあります。ドイツはあまり高い山がなく、ほぼ平らで、あってもなだらかな丘陵が続きます。風景としては、緯度は樺太くらいにあたり、日本で言えば、北海道に近い植生です。しかし、セミナーハウスは、若干高い山の麓の村の中にあり、狭い曲がりくねった道を走った先に、今回宿泊することになったセミナーハウスが車窓から見えてきました。2016semina-1

 一泊目には、私たちの他にミュンヘン市の学童クラブの職員が宿泊していました。早速、今回の私たちツアー参加者のメンバーの一部の人と、ミュンヘン市の学童の職員と記念撮影をしました。2016semina-6

部屋は、シングルで、窓からはさわやかな風が入ってきて、少し肌寒いくらいです。

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部屋の外のベランダからは、高い山や、近くの村が見えます。2016semina-3

夕食は、バーベキューで、セミナーハウスの管理人さん自ら肉を焼いてくれました。2016semina-5

 翌日の午前中は、ミュンヘン市の教育局の先生と、公立幼稚園の園長さんと職員さん4人がセミナーに参加してくれ、ミュンヘン市の保育における取り組みについてプレゼンを1時間あまりしてくれました。テーマは、現在ミュンヘン市が取り組んでいるJugendparizipation(参画)についてで、その研究家である職員さんが話してくれました。2016semina-7

 ミュンヘン市が、1997年、子どもの権利条約の採択を受けて、市長はじめ、子どもに関するすべての行政職員、ボランティアみんなで検討して取り組むことに決めた課題です。そして、バイエルンという保育指針のような幼児教育が取り組む課題として、この「参画」が書かれることになり、デモクラシーについて、考えていこうということにしたのです。そして、この参画に取り組むようになった経緯としては、子どもにとって最も効果的な学びととは、子どもに興味関心を持たせることにあり、そこには個人によっての個性があるために、参画という考え方をすることになったと言います。

 参画の例としてあげられているのは、例えば、食事について、子どもは誰と、どのくらい食べるのかを決める権利があるというようなこととか、どんな遊びをしたいか、新しい遊具を買うときにも、子どもたちによる投票によって決めます。また、買い物に行くときなどは、各グループから代表が選ばれ、彼らのよって提案されます。このような参画の内容については、それぞれの園によって子どもと一緒に、また保護者とも一緒に決め、均一はないと言います。そして、参画した結果何か問題が起きたとしたら、それはチャンスとして捉え、子どもたちに解決する力を付けます。

 それを一歩進めて、2012年、子どもたちからの苦情を聞かなければならないという法律ができ、子どもたちにインタビューすることによるアンケートを採ることになったそうです。

 この参画は、地域への参画、保護者の参画と広がっているようです。

主任セミナー

 先週、主任セミナーが開催されました。そのセミナーに定員60名のところ、83目に参加者が、全国から集まりました。組織には、様々な立場の人がおり、それぞれの役目があります。園には、よく主任という立場の人がいます。その言葉はなんだか中間管理職というイメージがありますが、園長という施設長という運営管理という仕事を、保育という現場につなげていくという役目をしているところが多いようです。ですから、現場の中ではリーダーであり、リーダーシップが必要とされます。私が、最近ある本で、「リーダーシップ」という項を受け持って原稿を書きました。どうもこういう項目は苦手です。もともとは私は、リーダーたるものは、人格を高めることが必要であると思っていますので、マニュアル的なものがないからです。しかし、原稿の中で「検討すべきポイント・視点」を整理してみました。そのリーダーは、本当は主任というよりは施設長であったり、理事長であったりしますが、副園長や主任という立場の人にも必要な事柄です。「園が、それぞれの施設の保育理念・保育目標等に基づき、園としての多様な機能を、組織体として果たすことが求められます。したがって、「組織として」というところにはリーダーが存在し、その役割が求められます。」それぞれの立場の人が絡み合って組織をつくっていきます。ですから、リーダーは必要ですが、「リーダーとは単なる肩書きではなく、リーダーとしての資質が必要になってきます。それがリーダーシップです。」リーダーは決して肩書き、地位ではないのです。リーダーとして何をするかが大切なのです。だからといって、「リーダーとしての資質が備わっていても、職員がそのリーダーについていかなければ意味がありません。また、ついていきたいと思うリーダーでなければ、その使命を全うすることは難しくなります。そのためにどんな資質が必要なのでしょうか。」ということが課題になります。よく、学校や園では、教諭や保育士だった人がリーダーになることがありますが、そうすると、どうしても経験がある分だけ自分でやったほうが早いとか、自分のほうがもっとよくできるとかと思うことが多いのですが、「リーダーは、自ら直接職務に携わることは少なく、職員を通してその使命を果たすことになります。複数の職員をいかにコーディネートすることができるかという資質も必要になってきます。」そのために、自分だけでなく、「リーダーは自らの質を高める努力とともに、直接子どもと関わる職員の質向上のための環境づくりもしていかなければなりません。それが、園としての質の向上につながるからです。」もちろん、リーダーはその組織のために存在するのですが、保育や教育という仕事は、必ずしも園のためにだけする仕事ではないのです。ですから、「時代は変化をしていきます。その時代をよく見つめ、広い視野の中から園の改革を行っていかなければなりません。その改革には、単にその園の存続の問題だけではなく、次世代を担う子どもたちの育成の視点が必要になってきます。使命としての認識を、私心を捨てて持つ必要があります。」このように考えると、園が公立であろうが私立であろうが、共に仕事はパブリックなものでなければならないのです。そのために「その職務の意義を自覚し、見識を高め、園を取り巻く社会情勢を踏まえ、その専門性の向上に努めなければならない。」のです。やはり、教育、保育という仕事を、「サービス」という言葉で表してはいけないのです。

セミナー

 今日は、私たちが主催する「保育環境セミナー」が開催されました。このセミナーも今回で第15回になりますが、120名を越える参加者が熱心に受講していました。
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 参加者がこのように多いと、セミナーといってよいのか考えてしまいます。というのは、「セミナー」 [seminar]というのは、「ゼミナール」 [Seminar]と同じ意味ですが、「大学で、小人数の学生が集まり、教師の指導の下に自ら研究し、発表・討論を行う形式の授業。演習。ゼミ。」のことをいうか、「小人数を対象とし、討議などをまじえた講習会。」ということで、どちらにしても少人数を対象にしています。今は、セミナーに参加するとかよく使いますが、思い出せば、大学時代は、ゼミということと同じことなのですね。大学時代を思い出したり、他の人と話すときに「だれだれのゼミを取っていた」ということが話題になりますが、それは、専門分野、もしくは担当教員の名前を取って、何々ゼミと呼ばれることが多いからです。このゼミのときの形態は、「一方的に教員の講釈を聞く講義に対して、教室で、少人数で対話をしたり、一緒にテキストを読んだ上で議論・報告したり、場合によっては合宿・旅行を行って親睦を図ったりするなど、コミュニケートしながら教員、そして学生同士から何かを学び取る時間である。」と書かれています。そう考えると、今回はセミナーなのかと考えてしまいますが、「ゼミナール」の元々の意味は、「種(Same、複数でSamen・転じて精子、子孫)を撒く苗床」の事だそうです。そういう意味では、今日行われたセミナーは、私たちが提案する保育を広めようというものなので、会場は、種を撒く苗床のイメージはあります。ですから、やはりセミナーでいいのかもしれません。同じようによく開催されるものに「シンポジウム」[symposium]がありますが、この場合は、一般的には、あるテーマを決めて広く聴衆を集め、公開討論などの形式で開催されるような形態をいうことが多いようです。もともと、古代ギリシャの饗宴(symposion)に由来する言葉で、もともと一緒にぶどう酒を飲むことを指しました。また、同じようなものに「フォーラム」[forum]がありますが、このもともとの意味は、古代ローマ市の中心にあった集会用の広場のことですので、こちらは場所を表しています。そしてその場所で行われた、一つの話題に対して,出席者全員が参加して行う討論のような集団的公開討議のことを「フォーラム-ディスカッション」のことを言い、それを日本ではフォーラムといいます。最近は、パソコン通信サービス中の特定の情報交換の場のことも指すようになっています。討議、討論という言葉は古代ローマに由来するものが多いですね。もうひとつの形の「パネルディスカッション」[panel discussion]とは、一つのテーマを掲げ、様々な意見・立場の論者を複数(最低3人以上)集め、公開で討議を行うことをいいます。パネルというのは、ひとつのテーマのことをいうのではなく、登録名簿の意味で、あらかじめ決められた論者のことをいいます。しかし、この論者のことをパネリストといいますが、パネラーという言葉は、和製英語です。討論をまとめたり、適切に話題提供を行う司会役は、コーディネーターといいます。あちらこちらで開かれているセミナー、シンポジウム、フォーラム、パネルディスカッションには、選んで参加したいものです。それは、その内容が自分の実になるものかどうか、その後、実際の行動に移せるものであるかということが重要だと思います。

陶冶と算数

 今日は、ドイツミュンヘンからDr. Eleonore Hartl-Groetch(エレオノーレ ハルトル-グレッチェ博士)氏をお呼びし、「世界の保育から観る今の子ども像」というタイトルで、新宿区の後援を得て講演会が開催されました。
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 彼女は、2000年より、バイエルン州都、ミュンヘン市の幼児教育施設の責任者です。今、ドイツでも幼児施設の絶対数が足りないために新設幼稚園建設の計画、実行し、2012年までに8000人分の場所が計画されています。また、幼小連携のために、バイエルン都市会議に0歳児から12歳児の代表として参加し、ミュンヘン市に0歳から12歳までの子ども時代を専門とする新しい専門高等教育機関を立ち上げ、その顧問をしています。そのバイエルン州では、今「バイエルン陶冶」というプロジェクトを立ち上げています。陶冶ということについては、2005年12月09日のブログで書きましたが、「日本や英語圏では、ケアと教育という区別の仕方をするが、ドイツ語圏では、betreuung, bildung, erziehung 保護と陶冶と教育という言い方をする」といわれています。陶冶は、「人間形成」のことをいう古い表現で、今は、「教育」とほとんど同義に使われます。しかし、教育には二通りの意味があります。ひとつは、「人間に本来備わっている能力や性質を、外部からの作用によって引き出し育て上げる」ということです。教育=educationの語源は、ラテン語のeducoの「育てる」「引き出す」からきているといわれています。もうひとつは、「人間が社会の中で、人間として生活できるように人格形成を施す」という一面です。これがビルドです。これを保育の中に具体的にどう入れるかというと、「保育者のためのミュンヘンワークブック」という冊子に書かれています。この冊子を今日いただきました。サブタイトルには、「幼児教育施設のための遊びの材料集 バイエルン陶冶-保育プランの沿って」と書かれています。この中は14章の項目に分かれ書かれています。日本語に訳していただいたのはそのうちの2章分ですが、この二つの章はとても対照的です。第5章は、「感情と社会性」ということで、「怒りは人を盲目にする?」というテーマでプロジェクト保育の内容がいくつか紹介されています。これは、人格形成との関係は見えやすい気がしますし、どの園でも取り組んでいる気がします。それに引き換えもうひとつの第8章は、「算数」です。この言葉を聴くと、日本では早期教育を思い浮かべ、人格形成と間反対にある取り組みのように考えます。この「算数」の保育をするうえでの陶冶の目的にはこう書かれています。「子どもたちは毎日の幼児教育施設に生活の流れの中で、形、数、空間、時間との付き合い方について習う。その上で数学的な問題や解決方法を口頭で伝える能力を培う。子どもたちは、算数の合法則性を把握し、日常の中で、数学的な問題解決のための手法を取り入れる。これは、次のような領域に及ぶ。「数という概念をまだ把握していない時期の領域」例:自分の体や周りのものについてのさまざまな空間―場所―位置についての体験、五感すべてを使って幾何学的な形を把握する。「数という概念を認識してからの領域」例:物体の一対一対応、数字というシンボルについて、数える能力、実際的な大きさを推測できること。「言語的、シンボル的な表現」例:概念との付き合い、数のついた言葉の使用。時間についての基本的な概念。幾何学的形の基本的な概念。とあります。いくら人格形成といっても情緒的に、心の問題として捉えるのではなく、算数の力としても捉える考え方は、ドイツらしいというか、日本には足りない部分のような気がします。

忍と「やりがい」

 昨日と今日二日間で保育環境セミナー埼玉ブロックが開催されました。対象者は、保育園、幼稚園、保育関係者で、二日目の今日は参加者200名あまりの参加がありました。昨日の公開保育に続き、今日の最初は、実践園の発表でした。その中で、保育者が保育に取り組む中で、「大変だ大変だ」と言いながら、顔が輝き、生き生きとしているという話がありました。確かに保育という仕事は、体とかは大変かもしれませんが、充実感があるようです。以前、仕事の満足度調査をしたことがありましたが、保育者は仕事が大変であると思っている人の率は他の職業に比べて多いのですが、その仕事への満足度はどの職種の人より高いのが特徴でした。人を相手にする職業、特に子どもを相手にする職業はそういうものかもしれません。仕事ではなくとも、子育てに対しても、マスコミでは、子育ての負担感を感じる親が多いという報道が多いのですが、実際は大変だけれど、子育ては楽しく、充実感があると思う親は多いようです。少し前、なにかに団塊の世代のアンケートが掲載されていたことがあります。そのひとつに「働くことを漢字一字で表すと?」の質問では、「忍」が71人とトップで、以下、「生」(34人)、「苦」(17人)、「耐」(15人)と、シビアなとらえ方が多かったようです。仕事に対する印象としてそのような言葉で象徴されることが多いとしたら、保育、教育という仕事はどんな一文字で表されるでしょうか。今日の研修会に集まった人たちは、たぶんそんな言葉を挙げないような気がします。また、「仕事で得られたこと」(複数回答可)という問いに対しては、「知識・教養」が178、続いて「忍耐力」(169)、「専門的スキル」(162)、「協調性」(161)、「社会的信用」(145)の順でした。この答えでも、忍耐力が2位というのは、なんだか切ないですね。団塊の世代は、よほど仕事で「忍」の毎日だったのですね。
 ニート問題の第一人者として有名な玄田有史氏が「働く過剰」の中でこういっています。「希望=求職欲求の実現が重要なのではない。確かに調査によれば、小さい頃求職欲求を抱いていた者は、その後ついた職業に「やりがい」を感じることができている者が多い。」そういう意味では、保育者は子どものころの、なりたい職業の上位にいつの時代でも挙げられています。私の園にも、職員として私の園の卒園児がいますが、彼女の卒園文集の「将来なりたい職業」欄に「保母さん」と書かれています。そんなころから思い描いていた職業に実際に付くことができるなんて、幸せですね。しかし、この本の中では、それだけでなく、こう言っています。「もちろん、求職欲求がなかった者も、その後「やりがい」を見つけることができている。また、当初の求職欲求が挫折したとしても、その挫折の経験の中で別の求職欲求が生まれ、結果的に「やりがい」に出会うケースも多い。」それは、自分が希望する職業でなくても、その仕事をしているうちに、充実感を得てくると、やりがいを感じてくるということのようです。「やりがい」と出会うための導入部分として、仕方なく仕事に就くということも大切であるということです。そして、その仕事が「仕方なく」から「やりがい」に変わるときは、「他者の承認」が必要といっています。そういう意味で、今回のセミナーでの公開保育は、公開した園の職員が、「やりがい」をより強く確認したきっかけになった気がします。

学校・教育施設展

今日は、東京ビッグサイトまで、「第4回学校・教育施設展2005」に行ってきました。(社団法人日本能率協会主催)この展示会は、学校・教育関連施設のリニューアル技術と経営支援までのハード・ソフトを一堂に紹介する専門展示会です。「全国の教育委員会・地方自治体・学校・幼稚園関係者ならびに建築設計担当者が抱える今日的課題の解決を目指します。」とあります。何が、今日的課題であるのか、その解決方法とは何なのか、興味がありました。特に、そのなかでの特別企画に惹かれました。展示は、「これからの教室」のモデルイメージを展示会場内に設置し、新しい学校づくりを目的とした学習環境のリニューアル事例とそこで行われる学習スタイルを提案しています。(提案しているつもりです。)また、設備・備品の使用方法、空間の有効な活用方法等につきプレゼンテーションを行います。その挨拶文には、「児童・生徒一人一人が自ら学ぶ力を養成していこう、またそのためにも選択性のあるさまざまな教育を与えていこうという教育の個別化・個性化の方針は、すでに1980年代には明確に打ち出されていたが、これまでなかなか具体的な成果 には結びつかなかった。これが近年、教育現場に急速に広がってきている。その要因をカリキュラムの面 で見ると総合的学習の導入の影響など新学習指導要領に沿った近年の教育の個性化・多様化のさまざまな施策が考えられる。ここでは従来のように教師から教えられるだけでなく、学科の枠を超え、児童・生徒が自ら課題を見つけ調べその成果 を発表することで自ら学ぶ力の養成が主眼に置かれている。また教育の個別化・多様化を推進させる大きな鍵となるのは、学校のIT(情報技術)化であろう。パソコンやインターネット技術の普及によって児童生徒が自ら学ぶ環境が整ってきているが、教師の役割もそれまでの教える立場から監督する立場へ、いわゆるティーチャーからディレクターへのパラダイムシフトが起きつつあるように見受けられる。情報化先進国の米国や北欧では学校によっては児童生徒1人に1台のパソコンが整備され、日常的にそれを利用しながら個別 学習を進めるシステムができあがっている。中には通 常の学習机ではなく、パソコンやAV機器などが設置されたワークステーションによって構成されたオフィスのような学校も登場してきた。我が国でもIT化によって個別 ・グループ学習を進めるための「新世代学習空間」が提案され、平成13年度より余裕教室などを改築・改修してつくるこの「新世代学習空間」に対して、国から補助金がでる仕組みがスタートした。古い校舎を使いつづけるためにも、校舎の耐震改修などと同時に、こうした新しい学習空間をどうやってつくっていくかが今後の課題となろう。本企画ではこういった背景のもと、スペースや家具にとどまらず、IT機器を活用した実践的な学習活動のシュミレーションも行いながら、より具体的な「既存教室リニューアルによる新世代学習空間」を提案したい。」とあります。私たちが進めようとする考え方のキーワードがいくつもありますね。しかし、展示を見たり、シンポジウムやセミナーを聞いたりして、まったくがっかりしたというか、私たちのほうが進んでいるというか、逆にやりがいがあるというか、まったくお粗末でした。たとえば、教育の個別化、多様化を進めたり、教師が、今までの教える立場から監督する立場になるための具体案は、「一人ひとりにパソコンを与える。」ことで、達成できるかのような提案でした。今、理屈や理念ではわかっていても、具体的な方法論は、考えられていないというか、考えられないような気がします。今こそ、私たちが、現場から、具体的な保育、教育の形を提案していかなければならないという思いをいっそう強くしました。この趣旨文は、今の課題、提案として参考にはなりますね。

写真

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 今日は、研究保育の二日目でした。ドイツでの夜の研修と同じ方法での研修をしました。昨日、参加者は、ほうりん保育園、高岡ほうりん保育園をそれぞれが見学しながら、写真を撮っていましたが、それぞれの人は、どの場所で、どのように思ったからその写真を撮ったのでしょう。気に入ったところ、気になるところ、参考にするところ、園に戻って職員に伝えようとするところなどの写真を撮っているのでしょう。そこで、何人かの人に、その人が撮った写真を見せてもらいました。(今は、デジタルカメラで撮っているので、フイルムの代わりにカードを借りると、パソコンから映写できます。)そして、自分は、何でその写真を撮ったかを説明してもらいます。たとえば、同じ保育園の職員でも、園長が撮ると何を撮るのか、保育士だったら何を撮ったかを比較してみると、とても面白いものです。また、自分では気がつかない観点に、気づかされることも多くあります。そんな研修でした。
 それを見ながら、私は、写真の不思議さを感じていました。実際の目で見ているときは、見ている対象は、時のなかで流れています。それを切り取ってみたときに、新しいものがみえてきます。まず、子どもとか、人の表情は、必ずその表情はどこかではしているのでしょうが、写真では、始めてみる顔の表情を発見することがあります。また、実際に見ているときは、見ている対象は絞られますが、写真で見ると、その周りも見えてきます。たとえば、実際には、保育士の行動を見ていて、それを写真に撮ると、それを見ている子どもの顔がわかります。また、写真は、本物を撮っているはずなのに、本物でないと思うことがあります。逆に、偽者をとっても、本物のように思ってしまうこともあります。そんな写真の不思議さを表現した写真展を見たことを思い出しました。それは、森美術館で、レオナルド・ダ・ヴィンチ展と同時に見た、杉本博司氏の「時間の終わり」という写真展です。杉本博司(1948年生まれ)氏は、この30年間に世界のアートシーンにおける有数のアーティストとしての地位を確立してきました人です。彼の写真は、最初はよくわからなかったのですが、順に見ているうちに、また、途中でそれを解説した映像を見て、なんとなく意図したことが見えてきました。彼の、その時間、場所、文化や歴史を通して、物事の本質を追求する独自の視点は、つねに国際的な注目を集めています。展覧会には、こんな作品が並んでいました。映画1本分の長時間露光による「劇場」、世界中の水平線を撮り続ける「海景」などです。そのなかで、わかりやすいものに「肖像」シリーズがあります。これは、名画を蝋人形にして立体化し、それを再度、絵画と同じライティングをして撮った写真です。あたかも、生きている人をその時代に撮影したかのような錯覚をします。また、「建築」シリーズも面白いものでした。設計家が、建物を設計するときに、まず、頭の中で、建物のイメージをします。そのイメージした映像は、あたかも完成された建物をぼかして撮ったものに近いのではないかということで、建物をピントをずらせて撮った写真です。写真というのは、なんとも不思議なものですね。

研究保育

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 今日から、三重県のほうりん保育園、高岡ほうりん保育園での研究保育が始まりました。朝早くから保育実践を見た後、午後それぞれの保育についての説明と、会場から参加者を募って、パネルディスカッションです。参加者は、みんな実践をしている人ばかりなので、悩みを共有し、感動を共有し、新しい発見をしたようでした。また、夜の懇親会は、それぞれの園の自己紹介をはさんで、情報交換会です。今回は、1園だけですが、幼稚園からの参加もあり、とかく狭くなりがちなこの世界に少し、広さを持たせてもらった気がします。それ以上に、園長の話で面白いと思う部分は、それぞれの園長の経歴がさまざまであるということです。たとえば、教員の集まりでの話は、ほとんどの教員は、教員しか経験がありません。校長の集まりにしてもそうです。また、出身大学にしても、基本的には、教育学部です。それは、幼稚園の園長でもほとんどそうです。それは、資格が必要だからです。その点、保育園の園長は、特別な資格が要りません。そのために、よく、保育園の園長は専門性がないという言い方をされますが、逆を言えば、幼児の世界をさまざまな角度から見ることができるということになります。私も、保育士の資格はありません。大学は、建築学科ですし、職歴は、小学校教員です。そして、今は、幼児教育とかかわっています。そのために、私は、保育という仕事を、ただの幼児教育とは捉えないで、人間としての行き方、社会のあり方として捉えます。
 昨日、ホテルの部屋に届けられた「日本経済新聞」にこんな記事がありました。
学校変える異色指導者」―自治体、教育委などに起用― 犯罪の低年齢化、不登校、フリーターなどの学校を取り巻く課題は尽きない。自治体では教育現場に新風を吹き込んでもらおうと、有名作家や元個性派教師、気象キャスターなど異色の若手指導者を教育委員などに採用し始めた。彼らの“熱い思い”は改革へとつながるのか。」と投げかけています。今、子どもの身におきているさまざまな現象、事件、その解決策は、かつての概念、考え方、方法だけからでは生まれてきません。この記事の中で、その例として、ベストセラー「五体不満足」で知られる乙武さんは、子どもと接する中でこんなことを言っています。
「お互いの違いを認める、教育のなかで大事な部分を体験してもらえたと思う。むしろ気になるのは、教室正面の額縁の中にある言葉という。明るい子、考える子、丈夫な子がベストスリー。でも、本当に明るい子がよいのだろうか。暗い性格も立派な個性。それを認めず、「明るい子」を押し付けることが子どもたちを苦しめると懸念する。」 そのような言葉は、教員だけを歩んできた人からは、なかなか出ないような気がします。もっと、社会を広く知り、さまざまな立場の人の言葉にも耳を傾け、総合的に子どものことを考える必要が、今こそ必要な気がします。

保育の質

今日は、保育環境セミナーの二日目です。昨日の理念の確認から、今日は、具体的にどんな保育に変えていかなければならないのか、そのためには、子どもをどのように支えていかなければいけないかを、ワークショップをしたり、海外の保育を参考にしたり、Q&Aから、今後進むべき方向を探りました。
一昨日の選挙において、小泉政権の圧倒的支持により、ますます、小泉構造改革の両輪である規制緩和と地方分権化は、進められていくと思います。その中で、教育、保育、少子化対策はどのように進んでいくのでしょうか。教育改革は、国による画一的な教育から、人々のニーズに応じた弾力的で多様な教育へと転換していくでしょう。そして、今行われている「特区」の試みのように、自治体がそれぞれのやり方を試し、その中の成功した手法を他の自治体が導入していくようになるでしょう。どちらにして、郵政事業の民営化同様、国任せの発想からの転換を迫られると思います。同じようなことが、保育行政に対しても行われるでしょう。介護保険同様に、利用者に直接助成する仕組みに転換していくことが予想されます。そうすることにより、助成なしに行われている認可外施設の質の向上と、量の拡大を狙います。これらの改革は、文面として聞くと、うなずけることも多く、納得がいきます。しかし、現実は、いろいろと難しい問題を含んでいます。確かに、競争することで質が高まるでしょう。しかし、その「質」とは、何でしょうか。企業の競争のひとつである、「価格競争」でしょうか。「サービス内容の質」でしょうか。私は、そのときに、本当の質が提案できる「専門性」が必要と思います。サービス内容が、ただ時間を長くするとか、休みを取らないで毎日預かるだけとか、親の手を煩わせないとか、子どもに苦労させないようにするとかだけであったら、一時、子どもの数が増えたところで、国を支え、世界に貢献する人材は育たない気がします。時代は後戻りしませんし、ただ、制度を守ろう、予算を守ろうという運動論だけでは、また、経営的強化だけに心を砕くだけでは、肝心の子どもは救えません。これからの時代を見据え、しっかりした「保育内容の質」を構築し、それを、きちんと自治体や保護者に提案できるような「専門性」をつけていかなければなりません。それを考えるきっかけとなれるような研修を目指しています。

オルタナティブ保育

 今日から三日間、今年2回目の「第九回保育環境セミナー」が開催されています。毎回定員100名を超える参加者が全国から集まります。そのテーマは、新しい時代の保育を考えていこうとするものです。
 家の冷蔵庫の扉には、妻がいろいろなものを貼ります。その中の1枚の紙切れには、これからの時代のキーワードとなるべき言葉が書かれています。その中のひとつに、最近出会うことが多くなりました。また、私の話の中にも使うことが多くなり始めている言葉があります。それは、オルタナティブ「alternative」という言葉です。(オルターナティブともいうこともあります。)意味は、
(1)二者択一。代替物。代案。
(2)既存のものと取ってかわる新しいもの。
(3)1990 年代のカウンター-カルチャー,音楽スタイルのこと。オルト-カルチャーとも。
(三省堂提供「デイリー 新語辞典」より)

ですが、オルタナティブ教育というように使われることがあります。それは、二番目の意味の、既成のものと取って代わる教育という意味で使われます。ただ、既成のものは何かということで、イメージするものがかなり違うようです。日本では、オルタナティブ-スクールというと、新語事典には、フリースクールのことを言うと書いてあります。フリースクールとは、授業への出席を強制しない,校則を全校集会で決めるなど,子どもの自由や自主性,個人差などを配慮した、児童中心主義の教育を行う学校形態の総称をいいます。それは、今の既成の学校は、授業への出席を強制する。校則を、教師か一部の生徒で決める。子どもの自由や自主性は認められず、個人差は配慮されず、教師中心主義の教育を行っているので、それに取って代わる教育ということです。「オランダの教育」(平凡社)の著作者である「リヒテルズ直子」氏は、既成の教育といわれるのは、長い間習慣とされてきた、同じ年齢の子どもをひとつの教室に集め、先生が教壇に立って、主に一方通行で知識を伝達し、子どもはそれを受身に習う、という形式の教育と考えて良いと思っています。この意味で、欧米では、新しいオルタナティブ教育が行われてきているようです。
では、私たちの保育はどうでしょうか。何が、既成のものとして思われているでしょうか。私は、まったくリヒテル直子さんが言っているように、「同じ年齢の子どもを、ひとつの保育室に集め、保育者が前に立って、主に一方的に知識や活動内容を伝達し、子どもはそれを受身に、言われたとおりに活動するという形態をとっている。」という保育が、既成のものとして行われている気がします。今の時代にあった、それに取って代わる保育を考えないといけないと思います。