12年目に

ブログを始めたのは、2005年、8月29日でした。今日から、12年目に入りました。第1回のブログを振り返ってみました。

どうも、私は強くシンクロニティーを感じるタイプのようです。日本語で言うと「共時性」です。(心に思い浮かぶ事象と現実の出来事が一致すること。ユングの用語)このブログを始めるにあたって、「私は何がしたいのだろうか。」という問いを自分にしてみました。するとそのときに読んでいた本(司馬遼太郎著「峠」)の中の分が答えを代わりに言ってくれている気がしました。
「心を常に曇らさずに保っておくと、物事がよく見える。学問とは何か。心を澄ませ感応力を鋭敏にする道である。」
心を澄ませ、感応力を鋭敏にするための「ブログ」かもしれません。
心は万人共同であり、万人一つである。しかし、人間には、心のほかに気質というものがある。その気質によって、賢愚がある。気質には、不正なる気質と正しき気質とがある。気質が正しからざれば物事にとらわれ、たとえば俗欲、物欲にとらわれ、心が曇り、心の感応力が弱まり、物事がよく見えなくなる。つまり愚者の心になる。学問の道はその気質の陶治にあり、知識の収集にあるのではない。気質がつねにみがかれておけば心はつねに明鏡のごとく曇らず、物事がありありとみえる。その明鏡の状態が良知ということである。」
そして、よく知ることは知るだけでとどめず実行がともなわないといけないと思っています。今、子どもの身に起きている危機は、学んでいるだけでも、知識を蓄えるだけでも、憂いているだけでも、人に伝えるだけでもなく、何かの行動に移さないといけないという思いの一つが「ブログ」かもしれません。
「学問はその知識や解釈を披露したりするものではなく、行動すべきものである。その人間の行動をもってその人間の学問のを見る以外に見てもらう方法がない。」
「人の世は、自分を表現する場なのだ。」
「人の人生はみじかいのだ。己を好まざることを我慢して下手に地を這いずりまわるよりも、おのれの好むところを磨き、のばす、そのことのほうがはるかに大事だ。」
ということで、この「ブログ」を始めることにしました。

20000

 ちょうど200731日のブログ「利根川」に今日(2015211日)にコメントした「k.taka」さんで20000件目でした。ちょうど10000件目は、2012628日のブログ「視線と表情」に201299日にコメントを入れていただいた「toshi0509」でした。ブログを始めたのは、20058月末からですので、コメントが10000件になるのに610か月かかったのですが、その後、20000件になるのに27か月半しかかかりませんでしたので、最近は、ずいぶんと多くコメントしていただいています。

 しかも、最初に入れたブログには、当日にはだれもコメントを入れませんでした。その日の内容にコメントを入れてくれたのは、何と8年後に、今は常連になってくれている「もりぐち」さんでした。そして、最近のブログには、1日に145人の人からコメントを頂いています。

 最近のコメントの人数だけでなく、内容についてもレベルが高い気がします。そのレベルとは、書き込みの内容が深いとか浅いとかいう意味ではなく、それぞれがブログの内容を自分のこととして考察しているからです。ブログから、自分を振り返っている人が多いのです。それを読むことで、私もずいぶんと勉強になります。最近の私のブログは、ある書物を読み進めながらその内容の紹介や解説をしています。それについて、単に自分が読む代わりに私の解説で読んでいるというよりも、私たちが進める保育にダブらせて考えているのです。

 これは、毎年研修に行っているドイツ研修にも言えることです。ドイツを見て、「へえ、そうなんだ」「ドイツではこういう保育なのだ」というように単に対岸の火事のように眺めているだけの海外研修と違って、自分の園の保育環境を振り返って、どこを参考にしようか、どう取り入れようか、どこが共通しているのかというように、主体的な見方をしてくるのです。

 このようなコメントは、私にとっても学びであり、交換書簡であり、塾での学びのレポートであり、そのコメンテーターとの関係を深く感じます。こんな共に学ぶ仲間と出会えたことに感謝しています。

新しい年は未知の年

 あけまして おめでとうございます。このブログで、この挨拶をするのも10回目になります。1年は非常に速く過ぎるという思いはあるものの、新しい年を迎えるにあたってワクワクを感じます。ただ、もちろん健康に関しては年々不安になりますが、それ以上に、新しいことを知る楽しみがあります。そのきっかけが、何と、自分が書いているこのブログからです。ブログを書こうとするおかげで、周りをよく観察するようになりました。最初の頃は、街を歩くとき、電車に乗るとき、新聞を読むとき、様々なところに深く知ろうとする題材はあふれていました。

 私は、何年か前に脳神経の病院で受診したことがありました。その時の助言に、「あなたは、24時間同じことを考えている。できれば、少しは違うことを考えた方がいいという助言をしたいのだけれど、そういわれれば、きっとあなたはかえってそれがストレスになるタイプでしょう。ですから、私からいえる助言は、脳は心配ないので、安心して、十分と同じことを考えなさい!」と言われました。この医者は、現在世界を飛び回るくらい、特に東南アジアで有名なお医者さんです。たしかに、この助言をするとは名医ですね。

 この助言の通りでいいのですが、ただ、人からあまり「専門バカ」というように、園長というのは、自分の世界だけによってしまい、世の中のことに疎く、狭い視野を持った職種であると言われたくなく、また、逆に保育、教育に携わる人こそは、視野を広く持つべきだということで、ブログでは、なるべく意識して、保育、教育のことは話題にしませんでした。

 それは、もちろん無理をしていたわけでもありません。私は、もともといろいろなことに興味を持ち、いろいろなことを知りたがり、いろいろなことに挑戦したいタイプですから、いろいろなことを考えるのはとても楽しいことでした。しかし、ここ数年、とてもワクワクすることが次々と現れてきました。それは、私が常々、現場で子どもを見、職員を通して子どもを知り、また、孫を3人見ることから、乳幼児について、自分なりの発達観、保育観、教育観を感じるようになりました。それが、最近の研究で裏付けされていくダイナミックさに、喜びを感じるのです。

 私は、未知のものにあこがれます。ブログでも取り上げたと思いますが、私は、なぜかスターウォーズの「フォース」や、ハリーポッターの「philosopher」という魔法、アキラのもつ超能力などに興味を持ちます。それらは、私にとっては、いまだ解明されていない能力で、未知力です。この力を多く持っているのは乳児であり、成熟とは、次第にその能力を忘れてくることだと思っていることが、自分ながらワクワクすることなのです。

 新しい年とは、未知なる地にどれだけ自分の足跡を残せるだろうかという期待の年なのです。そして、そのワクワク感を、できるだけ多くの人たちと分かち合いたいと思うのです。それが、私にとって保育道です。ということで、最近のブログは、保育、乳幼児教育の内容が多くなりました。

 ぜひ、新しい年を、みなさんと一緒にワクワク過ごしましょう。きっと新しい、楽しいことが起きると思います。そんないい年になりますように!

生臥竜塾

 私は、このブログによって臥竜塾という「学びの場」を提供しています。しかし、これは、自分自身のためが大きく、読んでみたいが、それほど時間がないだとか、内容が難しくさっともむことができない場合、その本を読み進めながらこのブログで整理していくと、内容がわかりやすくなります。また、個人的な特性かもしれませんが、周りのこと、モノ、それらの興味があり、それらからいろいろと学ぶことが好きです。逆を言えば、参考書から学ぶことはあまり好きではありません。その気付きを、ブログに書くことによって、より理解が深まります。そのようなことは、江戸時代に各地で生まれた「寺子屋」とか「塾」の役割だったのかもしれません。

 また、江戸時代の塾は、松下村塾のように、話を聞きたい人が集って、将来について語り合う場もありました。そこでの集まりが、その後の日本を動かすことになっていったのです。そんな集まりを、以前のブログでも紹介したと思いますが、「生臥竜塾」として行っています。

 今までは、そのメンバーは塾生として様々な学びをしてきたのですが、そろそろ、自らも発信していくべきであろうということで、彼らが独自でHPを立ち上げました。そこからいろいろなことを今後発信していこうと思っているようです。

 ぜひ、このブログだけでなく、その兄弟である「生臥竜塾」のブログを読んでみてください。まだまだ若く、書き方も慣れていないかもしれませんが、こちらへもコメントをお願いします。彼らの励みになると思います。

アドレスは、
http://namagaryujuku.com/
です。

満三歳

どうも、私は強くシンクロニティーを感じるタイプのようです。日本語で言うと「共時性」です。(心に思い浮かぶ事象と現実の出来事が一致すること。ユングの用語)このブログを始めるにあたって、「私は何がしたいのだろうか。」という問いを自分にしてみました。するとそのときに読んでいた本(司馬遼太郎著「峠」)の中の文が答えを代わりに言ってくれている気がしました。
「心を常に曇らさずに保っておくと、物事がよく見える。学問とは何か。心を澄ませ感応力を鋭敏にする道である。」
心を澄ませ、感応力を鋭敏にするための「ブログ」かもしれません。
心は万人共同であり、万人一つである。しかし、人間には、心のほかに気質というものがある。その気質によって、賢愚がある。気質には、不正なる気質と正しき気質とがある。気質が正しからざれば物事にとらわれ、たとえば俗欲、物欲にとらわれ、心が曇り、心の感応力が弱まり、物事がよく見えなくなる。つまり愚者の心になる。学問の道はその気質の陶治にあり、知識の収集にあるのではない。気質がつねにみがかれておけば心はつねに明鏡のごとく曇らず、物事がありありとみえる。その明鏡の状態が良知ということである。」
そして、よく知ることは知るだけでとどめず実行がともなわないといけないと思っています。今、子どもの身に起きている危機は、学んでいるだけでも、知識を蓄えるだけでも、憂いているだけでも、人に伝えるだけでもなく、何かの行動に移さないといけないという思いの一つが「ブログ」かもしれません。
「学問はその知識や解釈を披露したりするものではなく、行動すべきものである。その人間の行動をもってその人間の学問のを見る以外に見てもらう方法がない。」
「人の世は、自分を表現する場なのだ。」
「人の人生はみじかいのだ。己を好まざることを我慢して下手に地を這いずりまわるよりも、おのれの好むところを磨き、のばす、そのことのほうがはるかに大事だ。」
ということで、この「ブログ」を始めることにしました。
これは、2005年8月29日の第1回のブログです。自分では気がつかなかったのですが、職員に言われてみれば、ちょうど今日がブログ3歳の誕生日です。今日から4年目に入ります。ちょっと初めのころは字数が少ないですが、基本的には内容や書きぶりは変わっていません。また、写真だけを掲載して時があり、そのときは1日に2回アップしたので日数とは合わないのですが、昨日で1111回書いています。今は、1日にだいたい1400字から1500字書いていますので、今までに400字詰め原稿用紙に4000枚くらい書いたことになります。それよりも自分で感心するのは、丸3年間1日も休まなかったことです。それは、まず、常に健康であること。次に、毎日書く時間を確保したこと、また、その日過ごすであろう地域のネット環境を事前に予想し、対応を考えておくことなどです。特に、私はかなり色々な地方に行くことが多いので、ヒヤヒヤもんです。ただ、気持ち的には、毎日必ず書こうとは思っていません。そんなに頑張っていないつもりです。しかし、こうなると、書かない日があると、何人かは、私の健康を心配するでしょうね。
ありがたい話しです。

1秒

 あけまして おめでとうございます。
 皆さんは、どこでカウントダウンをしたでしょうか。今年は、いつもの年より1秒得をします。もしかしたら、1秒損をしています。どちらでしょうか。皆さんが知っているように、時間は地球の公転と自転から決められています。そこで1年を決めて、1日を決めて、時刻を決めています。しかし、1年のずれが起きるので、「うるう年」が決められていて、4年に1日多くします。それが、最近になると、もっと正確になっています。というのも、時刻を決めるために、現在では、原子の振動を利用した原子時計をもとに決められるようになり、非常に高精度なものとなっています。このため、逆に天文時に基づく時刻との間でずれが生じるようになりました。そこで、原子時計に基づく時刻を天文時と0.9秒以上ずれないように調整を行った時刻を世界の標準時として使うことにしています。そこで、今年は、地球の公転・自転に基づく時刻とのずれが0.9秒に近づいたために、「うるう秒」として調整が行われました。なお、最近では7年前(平成11年(1999年)1月1日)にうるう秒の挿入を行いました。調整の仕方としては、日本では、平成18年(2006年)1月1日(日)午前8時59分59秒と午前9時00分00秒の間に「8時59分60秒」を挿入する方法を取るようです。電話の時刻の案内では、10秒前から0.1秒ずつ延ばしていくそうです。
 この1秒という時間は、どんな時間でしょうか。先日行った経済館では、1秒ごとに日本の借金が増えていきますので、1秒長くなるということは、借金が、何億と増えることなのでしょう。同じように1秒で何ができ、世界で何が起きているかを考えると、得なのか、損なのかわかりません。そんな本があります。「1秒の世界」山本 良一責任編集です。(出版 : ダイヤモンド社)こんなリードが書いてあります。「1秒間に人は93mlの空気を呼吸し、世界に420万tの雨が降っている…。世界の変化を1秒で見ると「地球の今」がリアルに実感できる。宇宙と生命の真実を認識し、有限な地球で豊かなエコライフを実現するためのテキスト。」1秒は確かに大切ですし、1秒の間にいろいろなことが動いていきますが、なんだか私はあまりそんな世界は好きではありません。ゆったりと時が流れる感じが好きです。もし、1秒を大切にしようとするのであれば、次のような詩が好きです。
詩「1秒」 永田 光男
『はじめまして』この1秒ほどの短い言葉に 一生の時めきを感じる事がある。
『ありがとう』この1秒ほどの短い言葉に 人の優しさを知る事がある。
『がんばって』この1秒ほどの短い言葉で 勇気が蘇ってくる事がある。
『おめでとう』この1秒ほどの短い言葉で 幸せに溢れる事がある。
『ごめんなさい』この1秒ほどの短い言葉で 人の弱さを見る事がある。
『さようなら』この1秒ほどの短い言葉が 一生の別れになる時がある。
1秒に喜び 1秒に泣く 一生懸命  1秒...
 
そんな意味で1秒を大切にしたいですね。
もし、早口で言ったらこんな言葉も1秒でいえます。「あけまして おめでとう」

学ぶの半ばなり

 今日で今年が終わりです。このブログを振り返って、「自分ながらよく続いたな。」と思います。しかも、内容はつまらないだろうし、長くて読みづらいし、読む人は、大変だろうと思います。私は、日記も続いたことはありません。ほかのことでも、続いたためしがありません。そのなかで、ひとつだけひと月ですが、毎日続いたものがありました。それは、教員を辞めるときの最後のひと月の間、クラス便りを日刊で出していました。その頃は、コピーもなく、印刷も手回しでした。家に帰ると、鉄筆で原紙に書いたものです。間違えたときは、あの独特のにおい(マニュキアのにおいと同じ)の修正液を使います。そして、朝早く学校に行って、印刷をします。紙も、わら半紙というものです。こんな毎日のなかで、ふと思ったことがありました。「こんなに毎日書いているのに、何の反応もないは、何でだろうか。読んでいないのではないだろうか。」と保護者を疑ったのです。そして、ある日のクラス便りに、その不安を書きました。すると、その次の日に、大勢の保護者がお便り帳をよこしました。そこには、みんな楽しみに読んでいると書かれていましたが、ある保護者のお便り帳に書かれている内容に頭を殴られた気がしました。そこには、「先生は、クラス便りを毎日出しているのは、ほめられたくて書いていたのですか?反応が欲しくて、書いていたのですか?先生のことをいいと思っている保護者を疑っているのですか?」私も、まだ人間ができていない気がし、とても反省しました。その時を含めて、いろいろなところで、ずいぶんと保護者に育てられた気がします。
 そのときに書いていたのは、確かに書きたいことが山ほどあったからです。子どものことを伝えたくて仕方なかったのです。決して、ほめられたくてではなかったはずです。だから、毎日続いたのでしょう。
このブログが続いていることについても同じことが言えそうです。毎日続けて大変でしょうと人はいいますが、今のところ、私は、毎日ふたつくらい書きたいことがあります。ですから、毎日、「何だ、一つしか書けないや。」と思うことにしています。また、長さも、最初に書いていくと、倍か3倍の長さになってしまいます。書きたいことがたくさんあるからです。それを、できるだけ1600字を限界にして縮めています。毎日が、いっぱいいっぱいだったら、たぶん続かないでしょう。
 読む人は、自分にとって、興味のあるところ、退屈しているとき、自分ながらの読み方をしてください。つまらないかもしれませんが、これが、私にとって、自然なことだからです。書くことで、自分も勉強になっているからです。
 私が、見学者の対応する時でも、講演に地方に行くときでも、それが自分にとって、自然な気がすることと、自分にとっても勉強になるから、できるだけ受けてしまいます。
「教うるは学ぶの半ばなり」(書経)です。
来年もよろしくお願いします。

始めるにあたって

どうも、私は強くシンクロニティーを感じるタイプのようです。日本語で言うと「共時性」です。(心に思い浮かぶ事象と現実の出来事が一致すること。ユングの用語)このブログを始めるにあたって、「私は何がしたいのだろうか。」という問いを自分にしてみました。するとそのときに読んでいた本(司馬遼太郎著「峠」)の中の分が答えを代わりに言ってくれている気がしました。
「心を常に曇らさずに保っておくと、物事がよく見える。学問とは何か。心を澄ませ感応力を鋭敏にする道である。」
心を澄ませ、感応力を鋭敏にするための「ブログ」かもしれません。
心は万人共同であり、万人一つである。しかし、人間には、心のほかに気質というものがある。その気質によって、賢愚がある。気質には、不正なる気質と正しき気質とがある。気質が正しからざれば物事にとらわれ、たとえば俗欲、物欲にとらわれ、心が曇り、心の感応力が弱まり、物事がよく見えなくなる。つまり愚者の心になる。学問の道はその気質の陶治にあり、知識の収集にあるのではない。気質がつねにみがかれておけば心はつねに明鏡のごとく曇らず、物事がありありとみえる。その明鏡の状態が良知ということである。」
そして、よく知ることは知るだけでとどめず実行がともなわないといけないと思っています。今、子どもの身に起きている危機は、学んでいるだけでも、知識を蓄えるだけでも、憂いているだけでも、人に伝えるだけでもなく、何かの行動に移さないといけないという思いの一つが「ブログ」かもしれません。
「学問はその知識や解釈を披露したりするものではなく、行動すべきものである。その人間の行動をもってその人間の学問のを見る以外に見てもらう方法がない。」
「人の世は、自分を表現する場なのだ。」
「人の人生はみじかいのだ。己を好まざることを我慢して下手に地を這いずりまわるよりも、おのれの好むところを磨き、のばす、そのことのほうがはるかに大事だ。」
ということで、この「ブログ」を始めることにしました。