表情の持つ力

 人間にとって、「泣く」というのにはさまざまな意味があり、この世に生まれて、一番初めにする行為です。その次にする行為として「笑う」があります。この笑うという行為にも人類にとって重要な意味があるようです。それは、もう一度NHKスペシャル「ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか」という番組の中で紹介されたエピソードから考えてみたいと思います。

 テレビで紹介されたのは、ある有名な逸話です。アメリカ軍がイラクでの任務として、ある地域の聖職者と会って「イラクの人々に、有力者から抵抗を止めるように話してもらいたい。そうすればアメリカ軍は戦いを止め、出来るだけ正常に戻すようにする」という話し合いに向かったときのことです。すると、群集のあるものが、その様子を見て「彼らは聖地を汚しに行くのだ。聖職者を殺しに行くのだ」と叫び、それをきっかけに騒ぎが始まり、石を投げたり、荷車を押し倒したり混乱が加速していきました。そのときの司令官であったヒューズ大佐はこう考えました。軍隊では、群衆を静めたり、群集の緊張をそぐためには、空に向けて銃を撃つと教えられています。そうしたなか、冷静に考えました。「私は縦列の前に行き、武器の安全装置を外し、空に向かって打つ準備をしていました。しかし、冷静に考えてみると、もし威嚇したとしても、その後どう収集させるというのか。自分はアラブ語も話せない。誤解を解くすべもないのです。」

 そこで、どのようにコミュニケーションをとろうかと考えます。言葉がしゃべれないので、この状況を打開するには言葉を使わない方法でしなければなりません。視覚的に相手に訴える形で何かをしなければならなかったのです。群集すべての人に、「私たちには敵意はないのだ。話し合いをしたいのだ」ということを印象付けるにはどうしたらよいかを考えます。次の瞬間、ヒューズ大佐は部下たちに向かってこう叫びました。「笑え、笑うんだ」
 一瞬にしてその場の空気は変わり、大勢の人たちが、笑顔を見せる兵士たちに微笑み返したのです。混乱は収拾し、事なきを得ました。そのときのことをヒューズ大佐はこう言っています。「私は世界の89カ国に行っていますが、言語の壁、文化の壁、民族や宗教の壁があっても、笑顔の力が働かないのを見たことはありません。この世界で、笑顔はひとつの意味しかありません。ですから、暴力があり、不安があり、怒りがあり、混乱がある状況だったとしても、あなたがその人に笑顔を見せたら、少なくとも対話がはじまります。」

 このエピソードの不思議さに二つの要素があると番組では検証しています。ひとつは、表情に関するもので、「笑顔にそれだけの力があるのか」という疑問です。たかが笑顔を見ただけで、心の交流まで築けたように、いったいなぜ、私たちの心はそこまで表情に反応したのだろうかという疑問です。「表情の持つ力」についてですが、人間の目が顔にきわめて強い関心を持っていることはさまざまな研究で指摘されていることです。赤ちゃんに、知らない人の顔写真と、たとえば野菜など顔以外の写真の両方を見せたときの反応を、いろいろな調査方法で調べてみると、赤ちゃんは、顔写真を見せたときのほうが脳の活動は盛んになるということがわかりました。

 赤ちゃんにとっての認識は、どうも、二つの目と口の配置を頼りに人間の顔を認識しているということ、そして、顔に対しての特別の関心を払っているらしいということがわかりました。そういうことは、人間にはそもそも顔に注目するメカニズムが備わっていることを意味しているといわれています。

 私の園で、赤ちゃんが一番先に出会う絵本は、乗り物でもなく、動物でもなく、先生が撮った人間の顔の写真です。

赤ちゃんの睡眠

平成18年から行われている「早寝早起き朝ごはん」という取り組みに対して、園の保護者から「何時に寝れば、早寝になるのですか?」と聞かれたことがあります。調査でもわかりますが、就労している保護者にとって、保護者の帰宅時刻が遅いために、子どもを早寝させるのは大変なようです。

日本赤ちゃん学会編の「赤ちゃんカフェ」編集部が、0~3歳児を中心に睡眠の実態調査の結果を2009年の本誌に掲載しています。それによると、早寝早起きへの関心度では、「少し気になる」「気になる」「とても気になる」を合わせると9割以上の保護者が「はい」と答えています。そして、それを「実行している」もしくは「実行しようと努力している」との回答が7割近くあります。気にはしているが、実際はできていない家庭が3割はいるようです。そのできていない理由として、やはり、現在就労中の保護者でしたし、早寝早起きを「やろうと思わない」と回答した人は、全員就労中の保護者でした。

では、就寝時間や起床時間はどうでしょうか。理想だと思っている就寝時間は20時から22時、起床時間は6時から7時の回答が一番多かったようです。では、実際はどうかというと、21時台に寝て、7時台に起きる子どもが多いようです。

なぜ、このような調査結果を眺めるかというと、最近、保育園における「お昼寝」について考えることがあるからです。保育園では、保育時間が長いということで、園児はお昼寝があるのですが、その理由は一見納得がいくのですが、考えてみると、もし、保育時間が短いといっても、その子は家に帰って活動しているわけですので、条件は同じはずです。それに対して、子どもは保育園にいる間は、非常に疲れるが、家庭ではリラックスできるからという人がいますが、そんな緊張し、疲れるような環境の中に長時間子どもを置くのはおかしいということになります。大人は、仕事をしている間はとても疲れるということで、1週あたりの労働時間が40時間以内と決められています。それに対して保育園児は、私の園では1週当たり、一番長く園にいる子で78時間にもなります。それを、お昼寝をすることでカバーすることは可能なのでしょうか。

「赤ちゃんカフェ」には、睡眠の変化についてこう書かれてあります。3ヶ月の在宅の赤ちゃんは、夜の睡眠と昼の睡眠の活動がなんとなく分かれてきた頃です。しかし、まだ夜は0時以降に時々目覚めていますし、日中の睡眠も細切れです。それが、7ヶ月の在宅の赤ちゃんは、日中の睡眠はまだ細切れですが、夜中に目覚める回数は減っています。そして、1歳になると在宅の赤ちゃんは、夜中に目覚めることはほとんどなくなり、日中の睡眠は、まだ細切れのままです。どうも、夜の睡眠の意味と、昼の睡眠の意味が違うようです。ただ、昼間の睡眠が細切れなのは、明るさや音などの刺激が多いからかもしれませんし、昼間はもともとそのような睡眠の仕方なのかもわかりません。

2歳児になると、在宅の子は、夜中には途中で目覚めることはなく、午睡も1回くらいになりますが、保育所利用児は、夜中にも起きる子がいるようです。そして、3歳前後までには、睡眠と午睡の時間が明確になり、一定していますが、土、日、休日などでは起床時間が遅く、午睡の時間も細切れになります。それに対して、3歳くらいの在宅児では、夜中に起きることはありません。また、起床も7時前後で安定しています。一方、午睡は少し遅めで、時間はばらばらで、就寝時間もいろいろです。

この結果をこう考察しています。「夜寝て日中起きるという睡眠リズムは、成長に併せて自然に徐々にできてくるものだということがわかります。また保育所に通うことで、午睡や就寝、起床時間が決められていくという可能性も考えられます。」

どうも、子どもたちは、環境によって睡眠が変わってくるようです。では、本来の人間の体では、どのような睡眠が望ましいのでしょうか。

警戒心

 赤ちゃんは、生まれて間もなくでも、隣で寝ている赤ちゃんが泣いていると、それにつられて泣き出し、泣き声の大合唱になることがあります。また、親がイライラしたり、不安になったりすると、その気持ちが赤ちゃんに伝わることがあります。先日の2月22日AFP通信によると、「まだ話すことのできない赤ちゃんも、相手をからかったり、友情を結んだりする方法を知っているとの研究を、オーストラリアのチャールズ・スタート大学の研究チームが発表した。」というニュースが流れました。その記事には、こう書かれてありました。

研究チームは、保育所の赤ちゃんたちの頭部に小型カメラを装着し、他の赤ちゃんとどのように交流するかを2年間研究した。赤ちゃんたちにはカメラの装着を強要せず、1回の装着時間も10~15分ほどだったという。こうして収録された映像には、生後6~18か月の赤ちゃんが洗練された非言語手段を使って友達を作り、互いを笑わせ合う様子が映っていた。同大学の幼児教育学教授、ジェニファー・サムション氏は、この研究から、スプーンでさえも特大サイズ見える「赤ちゃん目線」の世界を知り得ることができたと述べる。

「赤ちゃんたちの社交能力や助け合う能力、さらにはグループに他の赤ちゃんを誘ったりと、赤ちゃんたちのとても洗練されている様子を見て私たちはとても驚きました」と、サムション氏はAFPに語った。サムション氏によると赤ちゃんたちは、視線と手の動作、それとユーモアを使って交流をしているとし、また赤ちゃんたちが「間近で観察しないと気づかないような、ちょっとした社交遊びをしている」という。例えば、相手におもちゃを渡すふりをして最後の瞬間にさっと遠ざけたり、隣り合う子どもいすに座った赤ちゃん同士がふざけて互いの飲料ボトルを取り換え合ったりするなどの遊びが見られた。あるときは、1歳の女の子が、不安気な様子の赤ちゃんに反対側が透けて見える布をそっとかぶせてあげ、赤ちゃんの視界を確保しつつも安心感が得られるよう配慮する姿がカメラにとらえられていた。「私たちが驚かされたのは、これほど幼い赤ちゃん同士で行う遊びについてでした。これを確認できたのは非常に有益です」と、サムション氏は語った。

このような赤ちゃんの行動は、毎日保育園で赤ちゃんと接している私たちは気づいています。しかし、その行為は、赤ちゃんの集団がいる場でなければ観察することができません。ですから、どうも今までは、赤ちゃんのこのような力の研究はされてこなかったようです。どうも、赤ちゃんにとっては、母親との関係だけが大切で、もしくは特定の養育者との関係が大切で、その二者の関係の中で向き合うこと、愛情を確かめることが絶対的なことであることが協調されてきました。オーストラリアでの研究対象は、生後6~18か月の赤ちゃんであり、保育園で言えば、0歳児クラスの子どもたちです。このころは、特定の大人との関係が大切で、徐々に他の大人と触れ合わせ、そこには、特定の人との愛着形成が欠くべからずといわれてきたことに、少し修正が必要であることがわかってきているのです。

どうも、人間の赤ちゃんは、生まれつき、いろいろな人、特に隣の赤ちゃんに興味を持ち、触れ合おうとします。その警戒心の弱さが、赤ちゃんの特徴かもしれません。

共視から共感へ

 赤ちゃんは、共に同じ物を見るという「共視」によって、何を学んでいるのでしょうか。この行為によって、開かれる発達の可能性はとても大きいということが言われています。まず、赤ちゃんは、他の人の視線を追いかけることによって、その人の注意がどこに向けられているのかを知り、その人が、その視線の先にあるものについて、何か関心を持っているということ、あるいは何かを思っているということ、場合によっては、何かを言っているのだということに気がつき始めるのだといわれています。それは、赤ちゃんがことばを習い覚え始める頃にとても大切な働きをするということが言われています。それは、ことばは、人に何かを伝えようとする道具であり、その道具を効果的に使うためには、相手の視線の行方を知ることが大切になるわけですから、まず、人の視線が向いているほうを知る練習が必要かもしれません。また、ことばは、あるものを指したり、ある行為を表したりするわけですから、そのものを大人がことばで説明したときには一緒にそのものを見ていないといけないわけです。

 また、共視はそれだけの意味ではなく、そのものへの感想や思いまで伝わることになります。遠藤氏は、こう言っています。「気持ちの読み取りにおいて視線と共に重要な役割を果たすのが顔の表情や声の調子などです。私たちは、日常、何かを見ているときに、とりわけそれが自分自身の関心に深く関わるものであるときには、つい顔にある表情を浮かべたり、声を発したりしてしまうことが少なからずあるものです。そして、その様子をそばで誰かが見ていたとしたら、その人は、私たちの気持ちをたやすく感じ取ることができるはずです。」こうした視線と表情を手がかりにした人の気持ちの読み取りや、それを通したものの意味の推測のことを、心理学では「社会的参照」というそうです。この行動は、他の霊長類でも見られることですが、人におけるこの能力は飛びぬけているといわれており、人がこれほどまでの知性を身に付けることができたのは、この「社会的参照」によるのではないかと考える人もいるそうです。

 たとえば、私たちが飛行機に乗っているときに大きく揺れたら、先ず、スチュアーデスの顔を見ます。慌てた顔をしていないと安心します。同じように、赤ちゃんは、1歳前後になると、見ず知らずの人と出会ったときに、母親の顔を見て、その人が安心できる人かどうかを判断します。もしかしたら、初めての食べ物、初めてのにおい、それらは、自ら体験しなくても、人の視線や表情を見るだけで、そのものがどういうものであるかのかを感じることができるのです。ですから、非常に効率的な学習方法だといわれているものです。しかし、時には、それは、思い込みになったり、刷り込みになったり、食わず嫌いを起こしたりする可能性があるかもしれません。

 この「共同注視」や「社会的参照」の発達がさらに進むと、赤ちゃんは、自分が関心を持ったものに、指さしなどを使って他の人の注意を呼び込み、自分の気持ちを自発的に伝達しようとし始めます。それは、そのものを見て欲しいとか、そのものを取って欲しいとかという思いからそのものを指さすだけでなく、自分が喜んだり、驚いたりしたことの感想めいたものを他の人と分かち合おうとするような場合もあります。そのものを一緒に見て!という合図です。

もう一つ、こんな役割もあるようです。私が赤ちゃんの部屋を覗いたときに、私に関心を持った数人子が私のほうに近づいてきて、一生懸命自分をアピールしようとしました。普通は、腕を差し出して、抱っこをせがむのですが、そこまでまだ私に気を許していないグループです。その赤ちゃんたちが、自分をアピールした方法は、何かを指さすのです。しかし、指さした先には、何もありません。何もない空中を指さします。しかも、私が指さしたほうを見ると、指す先を変えます。どうも、自分を見てというときに、自分を指ささずに、どこかを指さすようです。指さしは、自己アピールの役目もあるようです。

視線

 最近、保護者の間で「おんぶ」がまたはやっているようです。どうも、非常に楽なおんぶ紐があるということらしく、ある数人の保護者から、教えてもらいました。一時、お母さんと赤ちゃんは向き合うほうがいいということで、おんぶよりも抱っこがいい、バギーは、赤ちゃんは前を向くタイプよりも、母親と向き合うほうがいいということで手前を向くタイプがはやり、授乳するときには、赤ちゃんの顔をじっと見て、見詰め合って飲ませたほうがいいと言われていました。

「人間は共食する動物である」ということを、何度もブログで取り上げましたが、この共食という行為での重要な観点は、共食の中で子どもが自然に食行動や食文化、対人関係や自他理解を発達させる環境であるということです。ということは、子どもたちが他の人がするのを見るということで、決して親子が向き合って食べることではないのです。それは、「共同注視(ジョイントアテンション)」というそうで、私は、「共食」と並んで「共同注視を略して「共視」と名づけています。

赤ちゃんは、他人から面倒を見てもらわなければ生きていけません。そのために見てもらえるように働きかけます。外見的にも、思わず面倒を見たくなるような姿や顔つきをしています。その一つが黒めがちであるということがあります。それが、次第に人間は白目ができてきます。それは、視線の方角が人からわかるということです。動物にとっては、獲物を狙うときには、それは不利になるので、大人になっても白目ができませんが、人間には白目ができてきます。ですから、赤ちゃんは、早い時期から母親がどちらを向いているのかを知ることができます。

赤ちゃんは、母親などの養育者などと目と目を合わせ、じっと見つめあうことがあります。赤ちゃんの社会性を研究している東京大学大学院准教授の遠藤利彦氏は、赤ちゃんと養育者などとの目と目を通したやり取りは、見ていても心温まるものですが、実は、赤ちゃんからすれば特に意図してそうしているわけではないといいます。他の人や目や視線の動きに半ば自動的、反射的に応じてしまう仕組みのようなものがあって、それによってコミュニケーションのごく初歩的なものが成り立っていると考えたほうがいいといいます。また、そうしたやり取りは、あくまでもその「見詰め合う」二人の関係の中だけに閉じてあり、自然と気持ちの共鳴が生じてしまうようなものといえるのかもしれないとも言います。

発達心理学の研究では、母子を実験室の中で観察したものであるとしたら、当然、見詰め合うという行為だけが突出して観察できたでしょう。しかし、実際は、生後半年よりも前からすでに、複数の人と同時にコミュニケーションをとろうとするような側面があるということがわかっています。よく、お母さんとお父さんが隣り合って、赤ちゃんのほうを向き話しかけようとしているときなど、赤ちゃんは、たとえば母さんと活発にやり取りしている最中でも、お父さんに時おり、視線や表情を送るようなことがあり、その様子は、まるで3人一緒に会話を楽しんでいるかのように見えるといいます。

先日、オーストラリアのチャールズ・スタート大学の研究チームが発表したものに「赤ちゃんの視線」がありましたが、その研究では、「生後6~18か月の赤ちゃんが洗練された非言語手段を使って友達を作り、互いを笑わせ合う様子」が観察され、「赤ちゃんたちは、視線と手の動作、それとユーモアを使って交流をしている」ことがわかったというものです。

赤ちゃんは、ただ、母子で見つめあうことだけが必要なのではなく、複数の人とのコミュニケーションの体験が早い時期から必要であるということのようです。

子ども同士だけ

最近、私がミラーニューロンの存在を職員に話したために、乳幼児を保育しながらその存在らしきものを発見するようです。先日も、1歳児の子ども同士がふざけあっていて、片方の子が頭を机にぶつけたとたん、もう片方の子が「いたっ!」と相手がぶつけた頭のあたりを抑えたそうです。かつて自分が頭をぶつけたときに、痛かった部分を、相手がぶつけたのを見ただけで自分の脳のなかに移し取って、反応したということでしょう。こんなことを繰り返していくうちに、他人の行動を、自分のなかでの体験の一つとして脳が動くわけですから、他人と一緒に遊ぶことは、ある意味で、倍の体験をしていることになるのかもしれません。しかし、大人と違って、意識して、相手の気持ちになると言う共感の心が生まれているかはよくわかりません。

 ピアジェは、年少の子どもたちが、自己中心的な思考をしていると考えました。あらゆることを自分に引き付けて考えてしまうために、聞き手や他者の立場から物事を見ることができないということです。そして、この自己中心的な思考は、おおむね7歳頃から始まる具体的操作期段階まで続くとされました。しかし、どうもピアジェが考えたよりも、子どもたちは有能な存在なようです。それ以上に、乳児においても、認知において、他人の存在は大きいような気がしています。

先日、職員から見せてもらった動画には、1歳半くらいの赤ちゃんが、数ヶ月くらい月齢の高い子がマットの上で飛び跳ねて転ぶのを見て、キャッキャと笑っていました。笑われた子は、今度はもっと笑わせようと、何度でも転んで見せます。それが5分以上続きました。すでに、1歳児から一緒に遊んで楽しんでいるようです。これは、大人があやしているときと同じ反応なのか、また、物が転がったときに面白がることと同じ反応なのかよくわかりませんが、少なくとも、何度も転んで見せた子の方は、明らかに見ている子を意識しています。この場合、相手が大人の場合は、転んだのを見て面白がるかもしれませんが、こんなに何度も心から喜ぶことはしないでしょう。そういう意味では、子ども同士のかかわりが重要であることは確かです。

このような事例が、園では0歳児クラスの中でよく見られます。だからと言って、乳児は、いつも他児と楽しそうに遊ぶだけでなく、同じくらい意地悪もします。ある子が遊んでいるおもちゃを取り上げてしまったり、突然、顔をつかんだり、たたいたりします。しかし、私から見ると、その行為は決して攻撃的なものではない気がします。なぜなら、乳児は、自分のつめで自分の顔や手足を引っかくことがあるからです。ですから、他の子を引っかくから、即「ひっかき!」と思ってしまいますが、乳児においては、自分と他人を意識する行動のような気がします。相手の顔や手足を確かめているような行為に見えます。物に触って、そのものを確かめるように他人の顔をつかむのです。ですから、「なでる」と言うよりは、「つかむ」ような動作になるのです。そこで、大人から見ると、危険な行為に見えてしまい、赤ちゃん同士を近くに置かないか、大人だけが相手をしてしまうのです。大人は、顔をつかまれても、かわいい行為だと思って我慢しますから。しかし、嫌がる他の子の存在、嫌がられる体験、また、やられる体験も必要な気がします。

生まれてから

 胎児は、母親のおなかの中で、生まれてからのいろいろな準備をしています。それは、運動と知覚の繰り返しの中で生命維持に欠かせない活動を行うためのものであり、他者とのコミュニケーションをとるための準備であり、自他の認知のための準備です。この発達の準備を見ると、人類はいかに社会が必要であることがわかります。生命の維持のための呼吸や嚥下などと同じように準備しているのですから。しかし、その準備は、将来のためだけでなく、準備をする過程でも重要な役目があるのです。それは、「脳を育てている」ということです。運動をすることによって、何かを認知することによって、脳に「身体地図」を作っていると考えられているのです。この「身体地図」というのは、脳自身が、それぞれの刺激に対して、脳のどの部分で感じ取っていくかという脳の役割を分けていクコとです。

 このように、胎児は、生まれてからの準備をしているわけですが、実は、それは、実用的ではないこともあります。実際に、まだ世の中で体験していないわけですから、修正が必要になります。そこで、生後、赤ちゃんは必要なものを選択し、修正をしているのです。その修正、選択は、周囲の環境から見る、聴く、触るなど五感への刺激を受けながら行われていくのです。この一連のプロセスは、遺伝子によってあらかじめプログラムされたものから、妊娠後期から本人の意思による学習へと変化していくことが最近の研究でわかっています。

 人類は、運動と知覚の発達の中で「自他認知」が生きていくうえで大切ですが、これは、生後、周囲の人たちとの関係の中で、「情動」を経験するのに欠かせない能力となっていきます。喜び、悲しみ、驚き、怒り、恐怖なでの感情は、赤ちゃんは、生まれてから周囲のものに興味を持ち始め、五感を使って行動範囲を広げ、人との関わりの中から学んでいくのです。他人からの称賛、注意、叱責などに付随する顔色やしぐさから、赤ちゃんは自分の動作が歓迎されているか、いないかを知って、適切な行動様式を学んでいるといわれています。そして、次第に、相手の行動を予測し、他人の感情を理解することを学んでいくのです。

 このときの、子ども同士の役割についての研究は、まだあまりされていないようです。3~4歳児になるころの集団遊びについては研究されているのですが、赤ちゃんが、非言語的、言語的コミュニケーションを手がかりに、他者の心の動きや感情を類推する能力が、同じような能力を持った他事とのメッセージの交換から、次第に役割分担や協力関係を結ぶ「社会性」を学んでいく過程については、あまり資料がありません。しかし、現場で赤ちゃんを観察していると、1歳児を過ぎるころから他児との役割分担や、協力関係を結んでいる姿がみられますし、それは、その前の0歳児のころにじっと他児を見つめていることから学んでいるように思います。そのときの環境による経験が、本格的に集団生活が始まる準備をしているような気がします。

 赤ちゃんは生後3ヶ月ごろになると、自分の手を頻繁に眺めるようになります。これは、「ハンド・リガード」といわれる行動ですが、それは、「自分には身体があることを赤ちゃん自身が知る始まり」といわれています。いつも自分の目の前に手があり、その手が動くたびに独特の感覚を覚えることに気づき始めると、赤ちゃんは「自分自身」であることを知ります。さらに、目の前で動く手が自分の意思で動かせることに気づくと、自分の進退や目の前にあるものに触れて、そこから返ってくる反応を確かめようとします。そのとき、次第に赤ちゃんは、隣で寝ている子の手や足に触ろうとします。それは、どうも、自分の身体でないことを感じ取ろうとしているかのように思われます。

 この時期に、赤ちゃんを隣同士で触りあう距離に寝かせる研究はあまりしてこなかった気がします。この時期の、母子関係の研究が多かったようですが、園では、この時期の赤ちゃんの行動を観察することができます。

個の確立

 赤ちゃんは、「食事の中で自己を知り、他者を知る」という内容で、北海道大学の川田学氏が学術集会の講演で話したことはブログで紹介しました。自己の確立と社会化は、表裏一体のものであり、矛盾するものではなく、それどころか、非常に深い関係にあると思います。明治大学文学部教授で、臨床心理士である諸富祥彦氏は、日本トランスパーソナル学会長です。トランスパーソナル心理学の描く自己成長の第1段階は、個としての「自分」を確立する事から始まると言っています。以前のブログで書いたように、社会が求めている行動と同じように行うことが求められ、社会との同化が求められてきた中で、孤立を恐れるあまりに、自分を出すことをためらい、自分を見失いがちになります。そのような状況の中で、トランスパーソナルとは、世間に埋没し、ただ流されて生きてきた如く自己喪失状態にある私達が、自分を縛ってきた何かを断ち切って、そこから抜け出し、個としての「自分」を確立していくプロセスです。それは、プレレパーソナル(個の確立以前)からパーソナル(個の確立)へのプロセスなのです。
第1段階の「自己成長」とは、日本的な人間関係のしがらみを断ち切り、他者の愛を失わない為に「偽りの自分」を演じ続けるのを止め、過去のつらい出来事や、心の傷への囚われから「自分」を解放する事であり、「自分が生きている」と実感できる自分、自己決定できる自分を確立する事であるとしています。
第2段階は、「人間の自己成長の完全なサイクル」であり、パーソナルからトランスパーソナルヘ至る過程であるとしています。それは、自分を確立した人が更にそれを越えていく成長のプロセスなのです。この段階で決定的に重要なのが、「自分とは何か」についての感覚を見直すことであり、それまで思っていた「自分」は、自分というもののホンの一部でしかなく、むしろ、自分を生かし成り立たしめている「いのちの働き」こそが、自分の真の主体である事に目覚める、という事であるとしています。ここに至るには、自分を越え、自分を離れたところから自分自身を見る「眼」を養う事であり、言い換えれば、自己から離脱したところに、自分を見る眼を設ける、という事であるとしています。その様な視点を育む事で、はじめて「自分」と「自分を見る目」の間、「見る自分」と「見られる自分」との間に必要な「間」を設ける事ができるといいます。その「間」をとる事で初めて自分の全体に目を行き渡らせる事が可能となり、自分自身のどこか執着している状態(同一化している状態)から離れる事ができるのといいます。
自分の持っている特性に気づくためには、他者を知ることが大切ですが、自分を離れたところから、自分自身を見る「眼」を養うことも重要になります。自分を客観視するということです。諸富氏は、「自分を離れたところから自分自身を見る超越的な「眼」。その様な超越的な眼差しを通して自分自身を見る事で、このような深い、深い自己肯定が初めて可能となるのである。」と言っています。そして、この様な、自分を離れたところから自分自身を見る眼のことを「高い次元の自分」と言っており、それが「人間の自己成長の完全なサイクル」の第2段階である「パーソナルからトランスパーソナル」ヘ進む道であると言っています。
そして、第3段階は、「下降の道」であるといいます。ひたすら真理を求めていくのが第2段階の「上昇の道」であるのに対して、日常に着地しつつ、自分を越えた何かの働きを享受するのが「下降の道」だというのです。「上昇の道」は、純粋な精神や理想に導かれてこの世を越え出ていこうとするスピリットであり、男性的な衝動であり、「下降の道」は、肉体や大地にしっかりと根ざしたソウルであり、女性的な調和の感覚であるとしています。
日本人は、世界一自尊感情が低いと言われています。自分が好きという感情は、災害や危機にあったときに、そこから立ち直るために必要な要素だと言われています。その立ち直る力は、その後復興する力になり、皆で協力する力となっていくのです。