つわり

 最近のテレビで、「“盲腸”は“役に立たない臓器”ではなかった? 」という内容の番組が放映されていました。それは、まだ研究途上だそうですが、「“盲腸”ってムダな臓器」というこれまでのイメージを覆すような発見が、いま相次いで報告されるようになってきているというものでした。人間の体や、反応には何か意味があるということで、無駄だと思われていたものは、ただ、解明できていないだけということのようです。そういう意味では、妊婦に起きる「つわり」も何か意味があるのかもしれません。

ですから、つわりを解消するために、効果の疑わしい薬を処方されるときには慎重になった方がいいとダンバーは忠告しています。その例が「サリドマイド」です。サリドマイドは、たしかにつわり止めには効果がありましたが、その先の影響を誰も考えませんでした。こうして、1960年代に、サリドマイドによる悲惨な薬禍が引き起こされることになったのです。つわりは妊婦に伴うホルモン変化の副作用に過ぎない、というのが医学界の定説でした。ただの副作用なのだから、薬で止めればいいというわけだったのです。しかし、進化の産物には、「ただの副作用」で片付けられないものも多いとダンバーは言います。そもそも妊婦自体はこれ以上ないくらいに自然なプロセスなのに、なぜつわりのような忌まわしい副作用があるのでしょうか?

ダンバーは、たしかに忌まわしいけれど、実はつわりはありがたいことなのだといいます。少なくとも生まれてくる赤ん坊にとっては、妊娠14週までにつわりを経験した妊婦は、流産の危険が明らかに低く、しかも大きくて健康な赤ん坊が産まれることが多いそうです。進化生物学者たちは、その理由を探ってきました。まず考えられるのは、母親の食事をめぐる胎児との闘争説というものがあるそうです。私たちは、おいしいからとか、気分がしゃきっとするとかいった理由で、弱いながらも毒性のある食品、さらには明らかな毒物さえも口にしていると言います。アルコールしかり、コーヒー、唐辛子しかり。ブロッコリーもそうだそうです。そうした食品に含まれるのは多くが発がん性物質だそうですが、催奇形物質と呼ばれるものも少なくないそうです。これは妊娠中に大量に摂取すると、胎児に異常を引き起こす恐れがあるとダンバーは警告しています。

健康なおとなであれば、催奇形物質を少量摂取しても体内で薄まるので問題はないそうです。しかし、胎児は非常に小さいので、母親経由でほんの少し入ってきただけでも悪影響を受けるというのです。ですからつわりは、母親が胎児に良くないものを食べすぎないようにする働きだというのです。

また、つわりの嘔吐は、食べ物と一緒に取り込んだ有害細菌を体外に排出する作用だという説もあるそうです。いたんだ肉を口にすると、胃がむかむかしたり、もっとひどいときは下痢をしたりしますが、いずれにしてもすぐ体調は回復します。ただし、これは大人の話であって、母親なら平気な量でも、胎児には大打撃です。ことに危ないのは、肉や乳製品だとダンバーは言うのです。リヴァプール大学のクレイグ・ロバーツとジリアン・ペッパーは、つわりの頻度と食生活を世界各地で調査をしました。その結果、まずコーヒーなどの刺激物とアルコールとの関係が明らかになったそうですが、それ以上に強い相関関係があったのは、実は肉、動物性脂肪、ミルク、卵、シーフードの消費量だったそうです。穀類や豆類ではそうした関連はなかったそうです。

フェアな分配

 チンパンジーは、「フェアな獲物の分配を伴うゴールの共有」ということを示していると思われていましたが、最近の研究では、そうではないことを示しているそうです。

それは、第1に、獲物を仕留めたチンパンジーはすぐに、できることなら獲物と一緒に仕留めた場所から雲隠れするか、梢の橋まで登って、他のチンパンジーの接近を制限して仲間を避けようとするそうです。すなわち、とっさに独り占めしようとするのです。しかし、多くの場合、独り占めは成功しません。肉を引っ張って分配を求める個体に囲まれてしまうことになるのです。獲物の所有者は、要求者がいくぶんかの肉を得るのをたいていは認めてしまいます。

その行為を研究者が調べてみたところ、要求や嫌がらせに対する直接の反応としてこのような寛容が起こることが分かりました。要求者は、要求や嫌がらせをすればするほど、より多くの食物を得ているようなのです。嫌がらせの激しさは、それを行なう個体がどの程度本気で戦うつもりなのかの指標であり、この戦う意思は、少なくとも部分的には、狩りに参加したことによる興奮からもたらされていると考えられます。

獲物を仕留めることに参加したものが、多く分配を受けるのは、参加したためにその報酬として多くとるのではなく、参加したことによる興奮が、激しい要求として分配を多く受けるというのです。そうなると、仕留め損ねた狩猟者ですら、後から来た個体よりは多くの肉を得られる可能性があるということになります。狩りに参加していた狩猟者たちは最初に獲物に接し、物乞いを行えるけれど、後で来た個体たちは、第2陣に甘んじることになるからです。

チンパンジーの集団狩猟に関するこういった見解を、以前、ブログで紹介した2本のロープを同時に引かないと、食べ物を手元に引き寄せられないようにした実験の結果が後押しをしていると考えられます。つまり、ひとやまにした食物のときには協力をしないという結果だったことです。一般的にチンパンジーは食物に関して、競合的であるため、彼らが行為を同期させられるのは、獲物の分配問題がなんらかの形で、解消に向かう場合に限られてしまうのです。

このような行為は、人間に最も近く、より協力的であると言われているボルボでさえ、それほど大きな差は出ないのです。それが、ヒトの子どもの場合は、食物が凝集しているからといって協力行動が妨げられることは全くなかったそうです。それどころか、彼らは、小競り合いすら起こさずに等分するために様々な手段を講じるのです。しかも、この実験の子ども同士の関係には兄弟はいなかったそうです。

 そして、興味深いことに、このような中で子どもたちは互いに、公平性を巡って異議を申し立て合うことがあるそうです。実験した中で、一人の女の子が、パートナーと一緒に引き寄せたキャンディーを独り占めしてしまったことがあったそうです。しかし、キャンディーがもらえなかった子は、異議を申し立て、欲をかいた方の子はすぐに折れることになったと言います。二人とも同じだけ分け前を手にした時には、異議申し立てをするのを見たことがなかったそうです。

昼食の可能性

外食が増えることで、一家だんらんの場が少なくなりましたが、もう一つ、家族の昼食における共食の場を奪ってしまったものがありました。日本ではすでに少なくなっていると思いますが、昼食のために学校や職場にはお弁当を持って行っていました。私の子どもは、中学はお弁当でした。その時は、どうせ作るならと、旦那さんの弁当作りもあわせてしている家庭が多かったようです。それが、学校給食が始まると、旦那さんの弁当も作らなくなり、外食で昼食を済ませるようになりました。こうして、学校給食が昼食を手づくりの弁当から社会の側が用意する外食へと変化させるきっかけになったのです。以前のブログで取り上げましたが、確かに学校給食は子どもたちにある恩恵を与えましたが、失ったものもあるのです。

このように、家庭から昼食における一家だんらんの場を失くしていきました。いわゆる、家庭の共食の場という面では、「ひるめし」は影が薄い存在になってしまったと酒井さんは言います。しかし、食生活における変化はそれだけにとどまりません。それは、昼食はそうであっても、朝食と夕食は共食の形を長い間守ってきましたが、そこにも変化の波がやってきました。酒井さんは、このように指摘しています。「住宅地域が都心から郊外へと広がり、学校や勤め先などの時間に合わせて、家族の一人一人が自分の都合のよいときに朝食をとる、そのような生活パターンを持つ家庭が確実に増えてきているのである。社会の側への依存度の高い昼食とは異なって、朝食は家庭の側で準備する食事であるにもかかわらず、家族の共食の場という意味合いは薄れつつある。このようにして家庭では、家族の共食の場が目に見えて減ってきているのである。」

酒井さんの指摘以外に、最近朝食を抜く家庭も現れてきています。それは、朝の忙しさに、落ち着いて朝食をとる時間がなくなってきたという事もあるようです。また、女性の社会進出もあり、朝食を料理することが減ってきているようです。そして、この傾向は、夕食にも現れてきつつあります。

食事の場は、すでに昼食においては、主婦の管理の元から完全に切り離されてしまい、家族一人一人が別々の場で、別々のメニューで食べるようになってしまいました。昼食を家庭で食べているのは、幼児のいる家庭か、あるいは高齢者の家庭だけになってしまったと酒井さんは言います。その場でさえ、昼食には、インスタントの麺類や、パンにハムと牛乳といった加工食品がよく食べられており、社会側への依存度の高い昼食になっていると酒井さんは嘆きます。

このように、社会への依存度が大きくなれば、家庭内の仕事は当然減り、余暇の時間が増えてきます。主婦の義務であった料理を男女をとわず多くの人が参加できる趣味となる可能性が高いと酒井さんは言います。つまり、日常の食事はインスタントものなどの加工食品にちょっと手を加えるだけで済ませ、あるいはてんやものや持ち帰り弁当なども含めた外食で済ませておき、ときどき家族がそろうときにおおごちそうを作るといったことが、近い将来の食事の姿について描けるのではないだろうかと酒井さんは言っています。

そうして、こう提案しています。「休日の昼食には家族そろって庭や郊外でバーベキューを楽しんだり、親子が力を合わせて昼のご馳走を作ったり、あるいは日頃家庭サービスの十分でない父親が家族のために腕を振るったり、昼食はこのような要素を取り込んだ食事という側面を持つようになるであろう。昼食時に家族全員がそろって共食をすることによって、薄れつつあった家族の連帯感を取り戻すための格好の機会となるのではなかろうか。」

食生活の変化

 食事を家事労働としてのプロセスが省略され始めてきて、加工食品が増えただけでなく、最近の食生活についての変化があります。それは、社会の側が用意した食卓ともいえる外食産業で食事をする回数が年々増えてきていることです。

 内閣府で平成2412月に行った「食育に関する意識調査」によると、自分で調理し食事をつくる頻度は、男性では、「毎日」と答えた人の割合は10.7%であり、「ほとんどない」と答えた人の割合は45.4%だそうです。また、女性では、「毎日」と答えた人の割合は77.2%であり、「ほとんどない」と答えた人の割合は4.7%だったそうです。また、20歳代女性では「毎日」と答えた人の割合が34.0%と他の年代に比べて最も低くなっています。

また、外食をする頻度は、男女ともに「月に数日」と答えた人の割合が最も高く、男性で36.6%、女性で44.1%である。性別・年齢別にみると、男女ともに、年齢が高くなるにつれて「ほとんどない」と答えた人の割合が高いようです。毎日外食と答えた人の年齢層は、面白いのですが、2029歳では5.7%であるのに対して、3039歳では1.8%に減ってくるものの、4049歳になると、5.6%に一気に増えます。この年齢では、子どもが思春期の頃、父親とほとんど食事をしない割合ともいえます。

この外食の増加には、家庭の問題だけでなく、外食産業の目覚ましい発展があります。ファーストフード、ファミリーレストランだけでなく、最近は、誰でも気軽に、安く、いろいろな種類を食べることができます。また、コンビニや、デパ地下なども充実し、衣住と同様に、ますます、家庭での食事は、きれいに盛り付けることとおいしく食べることだけへ、つまり食事行動のプロセスの中の楽しい部分だけに特化されてつつあります。それは、最近のお弁当を見ても同様なことが言えます。手づくりのように見えて、中身はほとんど冷凍か家庭外で作られたものを詰めることが多くなり、盛り付けを楽しむという部分だけを家庭内で行うようになってきています。

もう一つ、「日本人のひるめし」の著者である酒井さんは、私たちが常々言っていることと同じことを指摘しています。それは、家庭内での主婦の仕事を社会の側へ委託してきたことだけでない変化があると言います。「家庭で食事をするという事は、家族そろって共食をするという事である。13回の食事には家族全員がそろって食卓を囲むのが、かつてはどこの家庭でも見られた光景であった。明治時代になって教育制度が整備されてくると、子どもたちは学校に通うようになり、一方では工業化が進んで都会型の生活が広まるにつれて働きに出る人が増えてきた。昼の弁当を持って出かける人が増えるにつれて、家庭の共食の場という面では“ひるめし”は影の薄い存在になってしまった。」

確かに、子どもたちが学校に行くようになると、まず、家庭から昼食を一家団欒で食べるという事がなくなりますね。給食は、子ども、家庭にとってとてもありがたいものですが、違う見方をすれば、昼食における共食がなくなったという事です。ドイツでは、小学校、中学校は基本的には半日制ですので、昼食は家に帰ってから食べますし、また、昼食を食べにいったん学校から帰る国もあります。

学校給食は、「ひるめし」のありかたにも影響していきます。

加工食品

ウィキペディアの「家庭料理」という項目に面白いことが書かれてありました。「家庭料理は、家庭内で料理して家族で食卓を囲む(→一家団欒)際に食べられているものであるため、食育やスローフードないし地産地消といった、食事と家庭教育や躾といった「家族の持つ育児的機能」という面で重要な要素だという認識も見られる。」

家庭料理は、家族のもつ育児的機能を担っているという見解は、面白いですね。しかし、その中のいくつかが最近欠けてきています。まず、「家庭内で料理」という点はどうでしょうか?そして、「家族で食卓を囲む」という事はどうでしょうか?さらに、昨日のブログでも書いた、食生活における一連のプロセスのどこかが欠けてきている気がします。酒井さんは、こう指摘します。

「食生活において、額に汗する仕事のウェイトが高かったところから、工業化が進んだ都市型の社会へと変化してくるにつれ、調理や盛り付け、そして料理を食べることなど、衣や住の生活と同様に楽しい部分の比重が高まっていている。穀物を精白したり製粉したり、あるいは牛や豚を解体したり、野菜を洗ったり肉や魚を切ったりする作業、つまりは額に汗する労働を伴う作業は社会の側へと依存する仕組みが完成していると言います。食生活でも、ここ100年余りの間に急速に、大変な仕事、楽しくない仕事、進行してきているのです。また、その範囲は年々広がっている気がします。以前のブログにも書きましたが、みかんの皮をむくこと、お茶っ葉でお茶を入れることまでも面倒くさくなってきているようです。

酒井さんは、こう振り返ります。「かつては主婦の家事労働は所得としての価値はほとんど認められておらず、主婦は支出を節約するためには家事労働をいとわないのが一般的な風潮でした。生活意識の変化とともに、家事労働から解放されるためには、現金を支出するのは当たり前という考えが生まれ、大多数の主婦に共通する意識として定着してきている。」

最近、かつて家事として行ってきたもので、最近は現金で購入するものとして、沢庵や白菜漬け、梅干しなどの漬物、サバのみそ煮やきんぴらごぼうなど、おふくろの味と称される惣菜までも出来合いを買う人が増えていると言います。この他にも、ただ温めるだけ、揚げるだけ、といった具合にあまり調理を必要としないインスタント食品や冷凍食品、さらにはレトルト食品なども着実に食生活の中に入り込み、主婦がこれらを使う機会も間違いなく増えていると言います。現在では、家計の食糧消費の50%以上を加工食品が占めるようになってきたそうです。

この加工食品は、法律によって食品表示が義務付けられており、私たちはその情報を活用し、適切に選んだり扱うことが必要です。その種類とは、水産練り製品・肉加工品・乳加工品・野菜加工品・果実加工品・油脂食品・嗜好食品・調味料・菓子類・冷凍食品・レトルト食品・缶詰食品・びん詰め食品・インスタント食品等、多岐にわたります。その中でも最近は、時間的な問題や経済的な問題などから冷凍食品・レトルト食品・インスタント食品等、調理済み・半調理済みの食品の利用が増えています。

食品学I(五十嵐脩, 辻悦子編)には、このような注意書きがあります。「これらの加工食品は、食品の加工・処理する過程での栄養素量の低下や食品の味や色等の低下が考えられ、その分を調味料や食品添加物などで補い、品質を整えています。調理済み・半調理済みの加工食品は手軽で、経済的にみても比較的安価であるといった利点もありますが、利用頻度が高くなるとエネルギーや脂肪・食塩などの過剰摂取につながるといった問題点もあるため、食生活のなかで上手に利用することが重要です。」

他にも、最近の食事情で考慮しなければならないことがあります。

食の変化

 「日本人のひるめし」という本の中で、酒井さんは「食生活における家庭と社会の役割分担」という章で面白い分析をしています。「日頃の生活の中で、衣服と住居に関しては楽しい部分だけを家庭で味わい、汗を流さなければならない仕事はすべて社会の側に委ねるように生活文化が変わってきている。衣食住の中では食が最も保守的であり、民族が食習慣や食生活を変えるのには、世紀単位の年月が必要であるとさえ言われている。」

その一例として戸塚文子の書いた「食のかなた」(日経1980年)の中で、ハワイの日系34世のピアノ・パーティーに招かれた折の印象を書いてある部分を紹介しています。「みんなが集まって。ピアノ・パーティーをするのに招かれた。休み時間に釣ってきた魚を手際よく刺身にし、わさび醤油も昔の味で、納豆にはきざみネギ、おでんも並ぶ。箸を使って食べている若い顔を眺めながら、その口から、日本語が出ないのが不思議にさえなった。」

このように保守的な食生活の場で、家庭と社会の役割分担はどのように変わってきているかを酒井さんは書いています。「食生活を一連のプロセスとして捉えると、まず精白や製粉など原料を処理すること、次いで材料を洗ったり、切ったりする下ごしらえ、材料を煮炊きしたり味付けしたりする調理の仕事、食欲がわくように見た目にきれいに盛り付けることや配膳、会話を交わして団欒を楽しみながら食べる時間帯、汚れた調理器具や食器の片付けから成り立っている。農村型の社会では原料の処理や材料の下ごしらえなど、家庭で額に汗する仕事のウェイトが高かった。」

酒井さんは、かつて家を建てる時には、村人たちみんなが集まって例えば屋根をふいていたと言います。しかし、江戸時代までは、隣近所の応援を求めたものの、基本的には自らの力で家を建てていたと言います。それが、城下町や門前町では、庶民が自分で家を建てることはなく、地方からやってくる人々を対象に、立ち並ぶ長屋に住むようになり、明治から昭和にかけて核家族化が進み、都会型の生活様式が全国に広まり、社会の分業体制が整ってくるとともに、家を建てることは自らしなくなりました。それでも、私が子どもの頃は、ちょっとした小屋を作ったり、修繕は父親が自らやっていました。それらももはや他人に委託するようになり、汗を流さなければならない仕事は社会の側に任せるようになってきたといいます。

同様に、衣についてもいえるようです。かつては、どの家庭にもミシンが必需品でした。それは、繕い物をするだけでなく、洋服を自ら縫っていました。よく、服の型紙が雑誌の付録などについていたことが思い出されます。また、明治の終わりごろには、作詞不詳ですが、「冬の夜」には、「ともしび近く 衣(きぬ)縫う母は」という歌詞がありますし、窪田聡作詞作曲の「かあさんの歌」の歌詞には、「母さんが夜なべをして 手袋編んでくれた」とか、「母さんは麻糸紡ぐ 一日紡ぐ」というところがあります。今は、和服を自分で仕立てられる人は、プロを除けばきわめてまれになったと思います。衣服は、持っていることの楽しみと、着ることの楽しさだけを味わっているだけになり、作る楽しみにはなくなってしまっています。

同じように、食の面もこの衣住に比べて保守的であったものの、最近同じような変化がみられると言います。

日本食、海外へ

一昨日の日経新聞に、こんな記事が掲載されていました。「日本食、共同で売り込め 中小が連携して海外へ」という見出しです。リードには、こう書かれてあります。「“和食”が国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に登録されてから1年。欧米やアジアなどでの日本食への関心は一段と高まる。日本市場の縮小が避けられないこともあり、中小事業者が連携することでコストやリスクを抑えながら、日本食の多彩な魅力を売り込む動きが広がっている。国なども積極的に後押ししており、全国的に同様の動きが増えていきそうだ。」

 内容は、こう書かれてあります。11月下旬に日本の飲食業経営者ら約20人がシンガポールの繁華街を訪れた際、現地の人たちなどであふれる居酒屋やすし店の繁盛ぶりに驚いたそうです。その視察は、シンガポールのレストラン街に焼き鳥やすしなど1520社を出店する予定があるからだそうです。ここに出店するのは、一つの企業ではなく、運営は新設する現地子会社が担い、間接部門などを合理化するという計画のようです。また、現地で評価の高い日本の食材をまとめて輸入することなどでコストを減らし、「様々な分野の日本食が集まるため、アピール力も増す」と見ています。

 また、こんな計画もあるようです。それは、日本の調理専門学校などと連携し、来日している留学生を教育して従業員として活用する計画です。官民ファンドのクールジャパン機構(海外需要開拓支援機構)や大手飲料メーカーなども出資を検討しているといい、将来は他のアジア諸国や欧米でも同様の仕組みを展開する考えのようです。

 また、電子商取引(EC)サイトなどを活用して日本食を売り込む動きも広がっています。この動きは、日本茶を栽培する農家や茶器メーカーなど約60社を組織化しようとしています。このサイトでは、一般的な抹茶や煎茶などはもちろん、海外では手に入りにくい特殊な茶葉など30種類以上をそろえています。欧米を中心に50カ国以上から注文が入っているようです。しかし、「海外では健康面などから日本茶への関心は高いが、言語や輸出手続きなどが壁になり、しっかりと売り込めていない」という指摘もあります。そこで、サイトでは急須や湯飲みなども販売するほか、日本茶のいれ方や用語の解説なども掲載するようにしているそうです。

 また、水産加工の企業では、味噌・しょうゆメーカーなど中小6社によって、共通ブランドを立ち上げ、海外市場に挑んでいるようです。パッケージデザインなどにも工夫を凝らし、海外での展示会やイベントなどに積極的に出展しているようです。

 このように、日本食の海外進出が盛んですが、それは、2013年に、「和食」の無形文化遺産への登録が、ユネスコの事前審査で勧告され、登録されたからです。この和食とは、日本風の食事のことを指し、日本でなじみの深い食材を用い、日本の国土、風土の中で独自に発達した料理を日本料理とか日本食と言います。ブログで書いてきたことからわかるように、必ずしも日本発祥の食べもものことではなく、日本の国土、風土の中で独自に発達した料理のことを指します。

 ですから、もちろん、日本食では、米(穀類)・野菜・魚が多くの場合料理の基本素材とされており、寿司および刺身、天ぷら、蕎麦などは日本食です。同時に、オムライスやカレーライスなどの洋食でも、ラーメンなどの中国料理をルーツとする中華料理でも、イタリア料理をルーツとするスパゲッティナポリタンなどの料理は、日本に定着し一般的に食され日本で独自の発達を遂げているために、日本国外において日本の料理として扱われています。

かけ・もり・ざる

 屋台のそばを食べる人の中には、ちょっと寄る、食事の合間に小腹を満たす、などきちんとして食事というよりも、立ったままちょっと食べるために人足などが利用していました。そのために、冷やかけにして出したのが、そばに汁をかけて食べるようになった始まりとされています。やがて、寒い季節になるとそばを温め熱い汁をかけて出すようになります。これなら器も一つですむと重宝がられ、やがて「かけ」は、屋台をはじめ、江戸の街に広く普及するようになります。

 「かけ」が普及するにつれ、それまでの汁につけて食べるそばを区別して呼ぶ必要が生じてきました。従来から、そのような食べ方は、そばをせいろに高く盛り上げてあるので、「もり」と呼ぶようになります。そのような「もり」が普及するにつれ、江戸時代中期、深川洲崎にあった伊勢谷が、せいろの代わりに竹の小さなざるに盛って出すようになります。それを「ざる」とよび、「ざるそば」の元祖になります。江戸時代の「ざる」は、間違いなくざるにそばをのせて出したのです。

 しかし、この「もり」「ざる」が指すそばは、時代によって変わっていきます。明治になって、「もり」とは形の異なるせいろにそばを盛って、もみ海苔をかけたものを「ざるそば」と呼ぶようになります。江戸時代から1流のそば屋は、「もり」専門で、特に注文されない限り海苔をかけることはずっと後までしなかったようです。海苔の香りで、そばの香りが消されないように、そばのほのかな香りを楽しんでもらおうとしたためでした。

 幕末近くなって、「かけ」の上にいろいろなタネをのせた加薬そば、つまりタネものが工夫され、そばの新しい魅力が生まれてきます。讃岐うどんも、かけうどんに、自分の好きなものをトッピングして食べますが、そばも同じようでした。「あられ」はバカガイの貝柱をタネとして乗せたもの、「花まき」は、かけそばにもみ海苔を散らしただけのもの、「しっぽく」は大きな平椀に盛ったそばの上にいろいろなタネを乗せたものでした。これらのそばは今ではほとんど姿を消してしまったようですが、現在の好んで食べられている加薬そばもあります。それは、「てんぷらそば」「あんかけそば」「かも南蛮」などです。

 江戸時代に形作られた「そば」の形は、明治に入って文明開化の波の中、いろいろなものの西洋化が行われても、日清・日露戦争を体験しても、日本の社会が近代化へ向かってまい進しはじめても、そば屋は江戸時代からの古風な伝統を守り続けてきたのです。よほど、日本人の味覚に合っていたことと、江戸だけでなく、日本中に広まっていたという事があるのでしょうね。

 食は、文化です。それは、文化としての進化を遂げていきます。それは、時として消滅することもありますし、変わっていくものもあります。そば屋は、大正時代まで店の構えは変わりませんでした。土間から下足を脱いで畳敷きの広間に上がってそばを食べる、昔ながらのつくりのままでした。今でもたまにそのような作りのそば屋があります。そこは、江戸時代から庶民性は失われず、手軽に小腹を満たすために立ち寄るという店という役割を果たし、また、同時にちょっと一杯の酒を飲むための場所でもあったのです。

 この店構えが一変したのは、大正12年に起きた関東団震災だったと言います。それは、江戸の町並みの面影から、近代都市としての東京への変身でもあったのです。下足を脱いで座敷に上がって食べるスタイルから、他の飲食店と同じようなテーブルと椅子に、靴を履いたまま食べるという形式に変わっていきました。さらに、その店のメニューも、麺類だけでなく、カレーライスや親子丼、かつ丼などの飯類も加わり、現在のそば屋とほとんど同じそば屋が生まれていったのです。

醤油

 味噌から滴り落ちる液体である「たまり醤油」に対して、違う製法を考え出します。それは、大豆を蒸すとともに、小麦を炒ります。これらを「種麹」と呼ばれる麹菌を繁殖させたものとともに混ぜ、「麹室」と呼ばれる部屋のなかで3日間おいておくと、「麹」ができます。この麹を、食塩水とともに数か月桶に仕込みます。この「諸味」(もろみ)を、「櫂」という棒でかき混ぜ、発酵・熟成させていきます。これを搾ると「生揚醤油」(きあげしょうゆ)ができます。さらにこの生揚醤油に火入れをして、濃口醤油が出来上がります。

 この濃口醤油は、江戸っ子の味覚と関係して作られるようになったのです。江戸の人々は、江戸前や相模湾などで獲れた生魚の数々を食していました。その生魚をたまり醤油につけて食べると、どうしても生臭さが残ってしまいます。そこで、味だけでなく香りも引き立てようと、大豆だけでなく、そこに小麦を混ぜてつくってみます。すると、味よし香りよしの濃口醤油が出来上がりました。この醤油は、江戸っ子の嗜好にあい、次第に江戸や関東のみならず、全国に波及することになるのです。

 1666(寛文6)年、播磨国の龍野地方で、円尾屋円尾孫右衛門という人が、濃い口醤油では色が濃すぎ、味がきついので、醤油の色を淡くするため塩の量を増やし、さらにまろやかさを出すため甘酒を加えてみます。そうしてできた醤油が、色の淡い「淡口(うすくち)醤油」になるのです。この淡口醤油のつくりかたは、門外不出でしたが、やがて、京都の懐石料理や精進料理をはじめ、関西地方で広く使われるようになっていきます。そして明治時代に入りようやく製法が解禁されたのです。

 ほかにも、醤油づくりの工程で食塩水を使う代わりに、すでにつくっておいた生揚醤油を使う「再仕込醤油」、小麦を使ってつくる、やや甘味があり、色は琥珀色をしている「白醤油」を含めた5種類が、現在の日本農林規格(JAS)により醤油として認められています。こうして、醤油は、日本独特の味覚を生み出していきます。それは、もはや日本だけでなく、世界にも広がっています。なぜ、醤油が日本独特の味なのでしょう。それは、麹菌によって作られているからです。この麹菌のつくる酵素は、大豆や小麦からなる物質をばらばらに分解し、麹菌が分解した成分が、醤油乳酸菌や醤油酵母の栄養源となります。すなわち、麹菌は、醤油の味わい深さを醸し出す主要材料を作り出すのです。日本は、この麹をつくるのに適した風土なのです。

 江戸時代の中期になると、醤油の普及が進み、料理屋はもとより屋台や行商でも使われるほどにまで普及していきます。麺類の普及に大きな役割を担ったのが醤油であり、その普及と大きな関係があったのです。と同時に、大量にしかも安く醤油が作られるようになり、全国に出回るようになることにより、ほとんどの日本の料理の味付けに醤油が使われていくのです。

 元禄のころから、そばを食べるたびに汁につけないで済むように、椀に入れたそばに熱い汁をかけて食べたのが「ぶっかけそば」です。それが次第に省略されて「かけそば」になります。さらに、その呼び名も省略され、たんに「かけ」と呼ぶようになります。本当は、そばに汁をかけて食べるのは下品な食べ方と思われていました。それが、次第に普及していくことで、「もり」「ざる」の普及につながっていくのです。

味噌

 料理物語に書かれてあるうどんやそばの味付けを「汁はにぬき(煮貫)叉たれみそ(垂れ味噌)よし」と書かれてありますが、それを見ると、味付けのベースは「味噌」と書かれてあります。現在、うどんやそばの味付けのベースは「醤油」です。それは、その歴史に関係があるようです。

 味噌と醤油は、日本食には欠かすことができません。この二つが、日本食の特徴である「うまみ」をつくり上げるからです。特に、醤油は、ただしょっぱいだけではなく、甘味、酸味、苦味、塩味、そして旨味という、5つの味の成分を兼ね備えた万能調味料だ。甘味、苦味、酸味、そしてうま味を兼ね備えた、この類まれなる複雑な調味料であると言われています。この醤油は、実は室町時代に「ある副産物」として生み出され、各地で様々な製法の改良を経てきた調味料です。

 日本酒、味噌、醤油と日本の味覚を代表する食品は、日本風土に関係して出来上がります。それは、どれも日本の高温多湿な風土で育つ「麹菌」というカビによる発酵食品で、その発酵が風味を醸し出しているのです。

 そんな日本の食の代表格のような醤油ですが、実は、やはり、そのルーツは中国大陸から伝わったとされています。ただし、中国では調味料というよりも中国由来の保存方法に使われたのです。それは、「醤」(ひしお)と呼ばれる保存食なのです。狩猟生活だった時代、狩った獲物の肉を保存しなければなりませんでした。そこで、肉を塩漬けにしました。これを「肉醤」(ししびしお)と言います。それがしだいに農耕生活に変わっていきます。すると今度は、大豆や小麦などの穀類を保存しなければなりません。そこで、やはり塩を加えて漬けて保存しました。それを「穀醤」(こくびしお)と言います。この保存方法に「醤」が使われています。

この「穀醤」の作り方が、日本に6世紀の仏教伝来の頃と同じ時期に伝わったと言われています。しかし、この醤づくりは、まだ調味料としてではありませんでした。それでも、日本で日本独特なものとして進化していきます。まず「未醤」(みしょう)なるものが生まれます。これは、この字のごとく、「豆の粒が残っている醤」という意味です。この未醤が、やがて味醤、味曽、味噌と変化していきます。しかし、醤同様、味噌も調味料というよりは豆やその他の穀物を塩漬保存した保存食であり、つまんで食べることができました。徒然草には、北条時頼と北条宣時が、台所に残っていた味噌だけを肴として酒を酌み交わしたという逸話が書かれています。

その味噌が室町時代になると、各地で発達していきます。そして、戦国時代には兵糧として重宝され、兵士の貴重な栄養源になりました。そして、江戸時代になって、現在のように調味料として認識されるようになっていったのです。ですから、まず味付けのベースは味噌だったのです。味噌を作っている過程で、その味噌から液体がしたたり落ちます。それを「たまり」と言いますが、その液体の調味料として独立していきました。この偶然に見つけた産物が「醤油」となっていくのです。そのうちに、大豆を主原料とするたまり醤油とは異なる醤油のつくりかたが生まれます。関東地方で「濃口醤油」が誕生するのです。