つながり

ダンバーは、互いの関係を深め、調整するコミュニケーションとして霊長類において「毛づくろい」をあげています。毛づくろいは、直接身体を接触されるものですが、それを、距離を離れて行なうツールとして進化したものをヒトによる「言語」であるとしています。ですから、私たちの会話は、その中身よりも、つながること自体にまず意義があります。こう考えると、それは声という音を出す行為です。しかも、離れた距離で行なうわけですから、ある程度大きな声です。それを騒音と捉えるようになったら、もう人類の存続に問題がありますね。

ちなみに、言語機能を司る大脳新皮質の大きさは、集団内のメスの数に比例することもわかっているそうです。おしゃべりに夢中になる彼女たちこそ、私たちの脳を発達させ、ヒトならではの複雑な社会・つながりを、そして言語を発達させた功績なのかも知れないとダンバーは考えています。とくに「母親ことば」は、音楽の起源にもつながっているというのです。

また、メディアとしての言語には、病原体の感染しやすい熱帯地域で、同じ言葉を話す集団規模が小さい理由のひとつではないかと考えています。似たような役割は、方言にもあると言います。方言のおかげで、よそ者の区別がつき、自分たちの集団の利益が守られるというのです。このことは、内輪のコトバを駆使する日本のさまざまな小集団にも当てはまるようです。

次に健康とつながりとの関係を考察しています。家族や親類に囲まれ、つながっている者のほうが、より健康になれるということがわかってきていると言います。また、つながりには、脳内の化学物質も関わっているそうです。オキシトシンは、互いの信頼を高め、エンドルフィンは絆を一層強くします。

笑いや音楽も、エンドルフィンをぐんと高め、絆づくりに役立っています。ここで大切なのは、ひとりではなく、集団で行なうということでした。チンパンジーは単独でしか笑いませんが、仲間と一緒に笑うのはヒトならではの特性であり、おそらく大規模な集団の絆を深める役割を果たしているに違いないというのです。

また、ダンバーは、宗教もこうした社会的な絆づくりとして発展したのではないかと言います。笑い、音楽、宗教は、ともに大規模集団でエンドルフィンを分泌させ、結束意識を促す三大メカニズムだというのです。そして、信仰を共有するには、心を読み取る高度な意識レベルが求められます。こうした5次志向意識水準は、約20万年前に、私たち現生人の祖先が登場して芽生えたようだと言います。そして、社会集団の人数が現在と同じ150人になったのも、まさにこの頃だと言うのです。

ダンバーが取り組んでいる進化心理学は、とても興味深い分野ですが、さまざまな興味深い説も、その裏付けが取れていないことが多いようです。そのなかで、ダンバーが注目されるのは、集団の規模と脳の大きさの相関を明らかにするなど、実証的な調査研究をしっかり行なっていることにあるようです。だからこそ、ハイテク時代にある私たちも、「石器時代の心」と共に生きていることが実感されるのだと、「ダンバー数とつながりの進化心理学」という本の出版プロデューサーである真柴隆弘氏は本書の解説でまとめています。

重なり合う領域

「教育」とは何か、どのようなことを子どもたちに学習させる必要があるかということは難しいですね。私は、ダンバーが言う「教養」とか「学識」というものがとても重要であると思っています。私が高校を受験したときに、受験科目は9科目でした。英、数、国、理、社に加えて、音楽、保健体育、美術、技術家庭がありました。それらは、すべて筆記テストですから、丸暗記をしました。音楽では、各学年で習う必修鑑賞曲のはじめの何小節を階名で暗記しました。そして、和音、移調、転調を習いました。それが良いのか悪いのかは別として、楽譜は読めるようになりましたし、和音の伴奏でピアノも弾くことができるようになりました。クラッシックを聴いても、いくつかは口ずさめるようになりました。

体育では、いくつかのスポーツのルールを覚えましたし、どの体操が体のどの部分を鍛えるかなど、美術では、補色関係や色と光の三原色、黄金比、有名な画家の代表作、技術家庭では、釘を打つときには、「木表」を上にするほうが、板の両端が浮いてくるので、その浮きやすい部分に釘を打つ事が出来、「木裏」を上にすると、ささくれだってしまうということや、のこぎりを使うときには、木目に沿って切るときには粗い歯のほうを、木目に対して直角や斜めに切るときには、細かい目の方を使うとか、やわらかい板や薄い板を切るときには15~30度の角度で切り、堅い板や厚い板を切る場合には30~45度の角度で切るといいとかを覚えました。金づちは、打ち始めはへこんだ方で、最後打ち付けるときにはふくらんだ方で打つということも覚えました。

これらの知識は、私にとっては、実際には現在大いに役立っています。しかし、その後入試改革が行なわれ、3教科、もしくは5教科になり、その他はふだんの授業による内申書というもので判定されるようになっています。また、大学ではもっと専門化していて、文系と理系に分かれることが多く、保育は文系になっていることが多く、数学や科学は基本的には学びません。

ダンバーは、進化生物学と認知心理学と人類学の重なり合う領域で活躍しています。学問、研究は、決してひとつの分野からだけでなく、さまざまな観点からの考察が必要になってきます。とくに、人間を研究対象とする場合には、なおさらです。ダンバーは、ヒトの心や行動を、進化という背景から解き明かしていきます。その発想から、ダンバーの名を一躍知らしめた「ダンバー数」という概念が生まれたのです。

ヒトは、一夫一妻という夫婦の形を取る上で、1対1のつながりを持たなければなりません。そのつながりは、より複雑な交流であり、うまくいかなそうな相手を見抜いたり、相手に合わせて自分の行動を変えたりしなくてはなりません。こうしたつきあいは、脳が大きくならないとこなせません。つまり、婚姻スタイルは、脳、それはすなわち心の発達、進化に深く関わっていることになります。

そこで、ダンバーは、霊長類の群が大きくなるほど脳の新皮質の比率も大きくなるという相関を見出します。そこから類推すると、ヒトの場合は、気の置けないつながりを維持できるのは、ほぼ150人という規模になるということを発表したのです。それは、膨大なデータと緻密なリサーチを重ねた末の成果なのです。最近、その数字はネット・コミュニティ論や組織論などとしても、あらためて脚光を浴びています。

バーンズの詩

スコットランドの詩人であるバーンズは、生殖の仕組みがそうなっている以上、ほ乳類のオスはもともと一雄多雌だと言いました。また、オスがメスを1匹だけ選ぶのは子育てに直接投資できる場合だけで、そのためほ乳類の単婚は、イヌの仲間を除くとむしろ例外中の例外だそうです。ほ乳類の95%は、一夫多妻なのだと言うのです。しかしこの考え方に欠点があったのは、ヒトがその例外中の例外だということだったということでした。ヒトの場合、子育ては乳離れが終わればそこで終了というわけに行かないのです。子どもを一人前にして社会に送り出す、一族の富を引き継がせる等々、父親の果たす役割もたくさんあります。ただ、ヒトの一夫一妻は、白鳥をはじめとする鳥類ほど完全に固定化しているわけではないのです。ほ乳類とは対照的に、鳥類は90%の種が単婚だそうです。バーンズもこう書いているそうです。

「ヒナに囲まれてうずくまるツグミ 誠実な夫と苦労をわかち合う……」

ここでダンバーは、バーンズの名誉のために付け加えているのですが、近年の分子遺伝学の発達によって、強固な一雌一雄型だと思われていた鳥類のあいだでも、パートナー以外との交尾はけっこうふつうであることがわかってきたそうです。それどころか、巣に並んだ卵の父親が全部ちがうオスということさえありうるのだそうです。メスが異なるオスの精子を体内に保存し、産卵時に適当な精子を選んで受精させることもできるのだそうです。

それは別として、バーンズの詩はあっと驚く一節がいくつかあって、ここ10年ほどでやっと正しいことが証明された内容に言及する部分もあるそうです。例えば、ダンバーが提案する「友人の数はどんなときも一定だ」という説もそうだと言います。「J・ラブレイクへの書簡詩」のなかで、バーンズはそれとなくこう書いているそうです。

「さて、あなたは大勢の友人をお持ちかもしれないが、ほんとうの友は一握り それでも、名簿がすでにいっぱいならば 私を入れていただくのにはおよびません」

もうひとつのほうは、ダンバーにとってまさに衝撃的だったようです。ヒトとそれ以外の動物の本質的な違いが明らかになったのは、つい10年ほど前のことです。それは、ヒトは一歩離れた視点から現実を眺め、未来のことを予測できるというものだとダンバーは言います。動物にはそんなことはできません。彼らはいま経験していることを受け止めるのが精一杯で、それ以外の可能性があったとか、どうしてこうなったのかという想像まで頭が回りません。このふたつの疑問を持てるからこそ、科学と文学は成立するとダンバーは考えています。「ネズミに寄せて」という詩の最終連は、まさにそのことを言い当てているのです。

「それでも私にくらべれば、おまえは恵まれている… おまえに触れてくるのはいまという時間だけ しかし悲しいかな、私が視線をうしろにやると 荒涼とした風景が広がっている!前を向いても何も見えてはこないけれど、恐ろしい予感が襲ってくるのだ!」

ネズミはいまの世界をそのまま受け入れますが、人間は過去を思い返したり、未来を予測したりしては不安や恐怖を覚える、ということを言っているのです。

わたしはバーンズを知りませんし、彼の詩を読んだことがありません。しかし、ここで紹介された詩から、科学する心、科学の心理を読みとるダンバーの考察からは、その造詣の深さを感じます。

教育の意味

運動能力と学業の関係が本当に成り立つとしたら、愚かで意地きたない少数意見のせいで、全員がつまらない目に遭うのは賢明ではないと言います。リスクをきちんと受け入れ、スポーツ活動中に事故が起こっても、すぐにいきり立ったり、学校に乗り込んだりしないことが重要であるとダンバーは言うのです。人生はリスクだらけです。しかしそのリスクを引き受ければ、はかりしれない恩恵がかならずついてくると言います。うまくいかなかったら誰かのせいにすればいい、世界の名だたる銀行が痛い目に遭っているのは、この教訓を活かさなかったからだというのです。目先のことにとらわれて、リスクへの対処を正しく学べないのは、子どもたちにとって不幸としか言いようがないとダンバーは嘆いています。

知能が高いと何かと有利ですが、それだけでは不十分だとダンバーは言います。IQがアインシュタイン並みというのは、たとえるなら最大級のコンピューターを持っているようなものです。それ自体すばらしいですが、ソフトウェアがなければただの箱です。となると、やはり教育が鍵となるとダンバーは言います。生まれつきのIQだけでは、どこへも行くことができません。知の世界を掘り下げ、探求するための知識と技能を仕込む必要があります。

彼は、ニュートンの有名な言葉を引用しています。「教育があるからこそ、私たちは過去という名の巨人の肩にのれるのだ。知識、特に科学的な知識は過去からの積み上げにほかならないとダンバーは言うのです。このような見解に対して、私たちはよく誤解をすることがあります。知の世界を掘り下げ、探求するための知識と技能を仕込むことが重要ですが、それをより効果的なものにするために、また、その機能をより発揮することができるようになるために、段階が必要になります。突然、何かを教えるとか、覚えさせるとか、できるようにさせるということではなく、まず、知の世界を掘り下げ、探求しようとする態度を養わなければなりません。そのためには、知の世界の不思議さ、楽しさ、それを探求しようとする好奇心などが必要になってくるのです。その部分を受け持つのが幼児教育であると思います。

ダンバーは、最も成功した教育実験のひとつは、スコットランドで宗教の名の下で行なわれたものであると言います。ただ、後年の科学と宗教の摩擦を考えると皮肉な話だというのですが。小作人たちが聖書を自分で読めるようにしようというカルヴァン主義長老派の試みから、19世紀初頭に世界でも指折りの優れた教育システムが生まれたそうです。すでに18世紀には、スコットランドの識字率は70%に達していたようです。イングランドとウェールズはせいぜいその半分、ヨーロッパの残りの地域は言うに及ばずであると言います。

しかし、私は、世界中で最も成功した教育実験のひとつに、江戸時代の日本の藩校や寺子屋教育があると思っています。江戸時代の幕末期においては、武士はほぼ100%読み書きができ、庶民層でも男子で49~54%は読み書きができたといわれています。また、1850年頃の江戸の就学率は70~86%でした。もちろん、寺子屋は義務教育ではなく、庶民自身の主体的な熱意で自然発生した教育システムでした。そして、それを支えたのは、日本では宗教ではなく、人々の探究心であったり、楽しさであったり、意欲の強さだったのです。

忍耐力

天才は、何の苦労もなく優れた業績をあげることができると、人々は、昔も今も、そう信じて疑いません。その例として、さまざまな逸話が伝えられてきました。しかし、この種の逸話は97%が誇張だとダンバーは言います。天才たちは例外なく、陰で、大学図書館とかで、凄まじい努力をしているのです。ロレンスは、中世十字軍の城跡に造詣が深く、パレスティナでの発掘に参加して独創的な論文を書いたほどですが、その膨大な知識にしても、神からの霊感で与えられたものではありません。デカルトにしても、毎日ベッドでごろごろしているだけではなかったはずだとダンバーは言います。優れた数学者がよくやるように、潜在意識で思索を深めていただろうと推測できるのです。

ここでエンドルフィンが登場します。エンドルフィンの役割は、心身の消耗が引き起こす苦痛やストレスを和らげることです。たくさん本を読み、難解な証明やうまくいかない実験について考えていると、眼精疲労や頭痛に襲われ、イライラが募ってきます。しかし、生まれつきエンドルフィンがたくさん放出される幸運な人は、それを軽々と乗り越えていけるのです。凡人たちが力尽きてあきらめた後も、新鮮な心持ちのまま次に進めるのだとダンバーは説明しています。

体内のエンドルフィン濃度を高めるには、日常的に激しい運動をするのもひとつの方法かも知れません。もちろん運動すれば誰でも天才になれるわけではなく、記憶力とか論理的な思考の速さとか、IQはその人の特徴を多面的に伝えるものですが、私たちはその1つを見過ごしているのではないだろうかと彼は言います。それが、「忍耐力」だというのです。どんなに優れた脳みそを持っていても、それを徹底的に使いこなす努力をしない人は成功しないとダンバーは断言します。

やはり、ここでいくつも疑問が湧いてくるだろうと言います。大学の講義では、行列代数の証明に取りかかる前に、まずは10分間柔軟体操をやればいいのではないのか?湿原を歩いてフィールドワークを行なう生物学者は、1日中机に向かっている英文学者の同僚よりも立派な業績をあげられるのか?頭を酷使する職場では、脳内エンドルフィン濃度が高いことが採用の必須条件になるのでは?就職面接では、やっているスポーツについて根掘り葉掘り尋ねられるのか?もしスポーツとは無縁です、と答えたらどうなる?

ダンバーは、こんなことを言っています。「どうしても決めたかった就職先で採用されなくても、筆記試験が悪かったのかと気に病むことはない。きっと隣のやつのほうが、筋肉がぴくぴくしていたせいだ。」

このことは、子どもの教育を考えるときの参考になるのではないかとダンバーは言います。最近では、子どもにやらせたい活動のリストからスポーツが外れることが多くなってきていると言います。それは、「全員を一等賞にしなくては」という悪平等がはびこっているせいでもあり、訴訟ばやりの昨今、学校も地域も裁判沙汰を極度に恐れているからでもあるとダンバーは指摘しています。しかし、運動能力と学業の関係が本当に成り立つとしたら、愚かで意地きたない少数意見のせいで、全員がつまらない目に遭うのは賢明ではないと言うのです。

健全なる身体

背の高い男性ほど既婚率が高く、子どもを持っている割合が多かったという研究結果について、当然背の高い男は魅力的だからパートナーを見つけやすく、子どもをもうける可能性が高くなるというのがこれまでの解釈でした。しかし最近、外見の美しさと生殖可能性の関係は、それだけではないことがわかってきたそうです。キングズ・カレッジ・ロンドンのロス・アーデンらがアメリカの軍隊を対象に行なった分析で、身体の対称性は、精子の数及び運動性と相関関係にあることが判明したというのです。美しい人は、それだけで子孫を多く残せるということになります。ダンバーは、なんて世の中は不公平なんだと嘆いています。

オックスフォード大学のあるカレッジに伝わる話を紹介しています。1960年代の学監は入学面接の時、部屋に入ってきた志望者にいきなりラグビーボールを投げたそうです。ボールを受けそこねたらアウト、すかさずドロップキックをしてゴミ箱に入れたら、その場で奨学金の授与が決まります。もちろんこんな選考方法は、お高くとまったほかのカレッジからは苦々しく思われていました。

もっとまじめに選好するカレッジもある中で、そのカレッジは面汚しだったかというとそうではありませんでした。各種スポーツの大学別成績で言うならば、むしろ逆だったのです。さらに1970年代に発表された教育達成度の長期調査で、立場は完全にひっくり返ったそうです。ひとかどのことを成し遂げる人物は、メガネ・肥満のガリ勉タイプではなく、スポーツ万能で勉学優秀、その上社交性も抜群というオールラウンド・プレーヤーであることがはっきりしたというのです。

この結果は、ある意味それほど意外でもないとダンバーは言います。成功は成功から生まれるものだからだと言います。それにしても、「健全なる身体には健全なる精神が宿る」という古からのことわざは、あまりにもそのままの意味ではないかと彼は言います。もちろん、スポーツができるというだけで知能がずば抜けて高くなるわけではないと言います。しかし、スポーツに本格的に取り組んで猛練習に励むことと、学業成績の上昇を結びつけるものがひとつあると言います。それが最近よく話題になる脳内麻薬、つまりエンドルフィンだというのです。

エンドルフィンは、体内で生成される鎮静剤です。身体がストレスにさらされると脳内に大量に放出され、組織損傷で生じる痛みをブロックしてくれるのです。そうすれば、ケガをしたときも身体がある程度自由に動くので、外敵に捕まる危険が少なくなります。しかし、この鎮痛剤は、頭脳活動とどんな関係があるのかというと、その答えの鍵は、私たちが頭脳活動を「知的努力」としばしば言い換えるところにあるとダンバーは言うのです。

天才は、何の苦労もなく優れた業績をあげることができると、人々は、昔も今も、そう信じて疑いません。ルネ・デカルトは、この誤解を根付かせた犯人の一人だとダンバーは言います。ディレッタント気取りのデカルトは1日の大半をベッドの中で過ごし、そこで優れた著作の構想を練ったと言われています。アラビアのロレンスは大学時代、オックスフォードのなかでも優秀なジーザス・カレッジに所属していたのですが、たった数回講義に出席しただけであっさりトップクラスの成績を取ったと言われています。

どんな人が

これはたわいのない話のようですが、実はけっこう重要な意味があるとダンバーは言うのです。エディンバラ大学の心理学者ティム・ベイツが250人以上を対象に調べたところ、指、手、耳の長さで比較したところ、IQと身体の対称性には、小さいが無視できない関係があることがわかったそうです。対称性は私たちが美しさを感じる要素の1つです。つまり、美しい人は、概して知能が高いといえるといいます。もちろん現実には他に様々な要因も働くわけでそうとは言えないことも多いのでしょうが。

さらにここから派生的な結論も導き出されるようです。身長が高い人ほど社会的、経済的に成功するというのはまぎれもない事実だそうです。ウォール街でもイギリスの金融市場でも、背が高い人ほど、同じ仕事でも金を多く稼いでいるそうです。ただ、私はこのような身体的な特徴には少し疑問に思っています。なぜなら、身体的特徴は、その地の気候、風土に適した身体が重要なので、国によって違ってくるような気がしています。この研究は、あくまでもアメリカやイギリスでの研究の結果のような気がしています。

しかし、このような身体的特徴が人生に置いて優位であるかということと同様のことがIQでも当てはまりそうだというのです。実際、IQと社会的成功の相関関係を示す研究がいくつか発表されているそうです。ある研究では、アメリカのベビーブーム世代、正確には1957年~64年生まれの人を長期的に追跡したそうです。この年代は、日本でも同様なことが起きましたが、第二次世界大戦後にやってきた出産ラッシュの末期に相当します。ただ、時期としては、日本ではベビーブームは普通、昭和22年(1947)から昭和24年(1949)ごろでしたので少し日本より遅いようです。

アメリカのベビーブーム世代に対するIQと社会的成功の相関関係を示す研究では、IQが1ポイント高くなるごとに、年収は234~616ドル増えるという結果が出たそうです。ただし、それがかならずしも生活の豊かさを反映しているわけではありませんが。別の研究でも同様でしたが、ここでは両親の社会的・経済的地位の影響もあることがわかったようです。親は、慎重に選んだ方がいいということですが、もしそこで失敗しても、頭のできさえ良ければ自力で這い上がることは可能であるとダンバーは言います。

ダンバーはこの結果に対して、傷口に塩を塗り込むような話で申し訳ないと断わりながら、美しい人は裕福になれるだけでなく、子宝にも恵まれるという研究もあると言います。彼がヴロツワフ大学のボグスロフ・バウウォフスキーと共同で、ポーランドの医療データベースを分析したところ、背の高い男性ほど既婚率が高く、子どもを持っている割合も多かったそうです。これは進化的に適応度が高い、つまり種の遺伝子プールへの貢献度が高いことになると言います。ダンバーらのあとにも、ニューカッスル大学のダニエル・ネトルがイギリスでの長期調査のデータから、同じ結論を導き出したそうです。この調査の対象者は、ネトルの分岐時点で50代に入っていたので、生殖活動はほぼ終了したと見なしていいのではないかとダンバーは言っています。

なぜ、背の高い男は既婚率が高いかというと、魅力的だからパートナーを見つけやすいからです。となると当然子どもを儲ける可能性が高くなるというのが、これまでの解釈でした。しかし、最近はちがう解釈が行なわれています。

IQと死

エディンバラ大学のイアン・ディアリは、11歳の時点でのIQと、85歳の誕生日をお祝いできる可能性とのあいだには、もっと直接的な関係があることを発表しました。しかし、これだけでは、社会的剥奪の影響とIQの影響を区別することができません。そのとき、1970年代にベーズリーとレンフルーの在住者で、1932年にIQテストを受けた人を追跡調査したことが役に立ったのでした。そこでは、対象者の健康状態、雇用、社会的剥奪のレベルを中心に調査されていたのです。この調査から、ディアリらは、1932年にIQテストを受け、なおかつ70年代に中年期の健康診断を受けた男女、それぞれ549名と373名の所在を確かめることができたのです。ですから、この人たちのその後4半世紀の生活状態は、国の記録を使って追跡できたのです。

IQの平均値は100で、85~115までの範囲に全体の三分の二の人がおさまります。ディアリが1932年のIQ一斉テストのデータを分析したところ、社会階層と社会的剥奪のレバルを統計的に処理すると、11歳の時点でのIQが1ポイント下がるごとに、77歳までに死ぬ可能性が1%高くなることがわかったそうです。正常とされる範囲内でも、たとえばIQ=85の人が77歳の誕生日をお祝いできる確率は、IQ=100の人より15%低くなるということです。

社会階層が下の集団になると、その影響がさらに強くなるそうです。経済的な困窮が健康を低下させることは衆知の事実だそうです。しかし、ディアリの分析で明らかになったのは、社会的剥奪、教育的剥奪、経済的剥奪の3条件は、それぞれ単独でも多少の影響があるとはいえ、全部が揃わないと、IQ死亡可能性の関係はできあがらないということだそうです。両者の関係は、もっと有機的なものであるに違いないとダンバーは考えています。

これに関してよく言われるのは、IQは発達段階初期の指標ではないかということです。「生物としての完成度」、すなわち身体のすべてのシステムが順調にでき上がり、効率よく機能しているかを測るものさしがIQではないかということです。胎児期の成長のしかたが、成人してから心臓疾患にかかる危険性や、心臓発作で死ぬリスクを左右することはすでに知られているそうですが、どんな胎児期を送ったかは、生まれたときの体重にも影響するそうです。そして出生時体重が少なかった子どもは、学校の成績、ひいてはIQもふるわないということが言われていると彼は言います。

映画「ビューティフル・マインド」は、ナッシュ均衡を発見し、1994年にノーベル経済学賞を受賞した天才ジョン・ナッシュを描いたのもです。ただし、このタイトルからは、ビューティフルな頭脳の持ち主が、肉体もビューティフルかどうかまではわからないとダンバーは言います。いや、ナッシュを演じたラッセル・クロウがどうというのではありませんが、ダンバーの経験では、学生の時一緒だったガリ勉たちが、みんなダサくて、カッコ悪くて、みっともなかったかというと、そうでもなかったと言います。立派な身体つきの者もたくさんいたそうですし、スポーツができるやつもいたそうです。

この映画は、私は観ていないので、その内容についてはコメントが出来ませんが、たしかに私の高校には、非常に成績がいいのに、そうガリ勉でもなく、スポーツも得意で、スタイルもいい同級生が何人もいました。その観点からだけで比較すると、世の中は、不公平だということを感じたこともありました。

健康

ダンバーは、人間がいまあるのは、優れた知能のおかげであると言い、これは疑いようのない事実であることはたしかです。私たち人類は、すでに絶滅したものも含めて、あらゆる種の中で最も成功していると言えます。ただ、違う観点から見ると、古今を通じた動物全種の25%ほどは、甲虫だそうですが。それは別として、人類の成功は、さらに、積み上げてきた知識をもとに、問題を徹底的に追求する能力があればこそだと言います。そうでなければ、私たちは地球のすべての大陸を征服し、万里の長城を建設し、ラジウムを発見することはなかっただろう、バッハのカンタータも、モーツァルトのオペラもなければ、月に着陸することもなく、インターネットも出現しなかったと言います。優れた知能は、意外な形で様々な結果を私たちにもたらしてきました。それをいたずらに否定するべきではないと彼は言います。ですから、知能指数、つまりIQだって良いものなのだと言います。

このIQについて、彼はさらにこう考えています。もし、あなたが1921年にスコットランドで生まれた人ならば、IQと聞いてまず思い浮かべるのは、1932年6月1日の水曜日だろうと言います。この日はどのようなことが起きたのでしょうか?彼は、特に大事件が起こったわけではないと言います。サッカースタジアムを観客が埋め尽くした決勝戦があったとか、ヘブリディーズ諸島が予想外の嵐で被害を受けたとか、エディンバラ西部にかかるフォース橋が落ちたとか、そういうわけではないと言います。何ということのない初夏の1日だったと言います。では、その日に何が起こったのでしょうか?

この日は、1921年に生まれたスコットランドの人たちが、学校で楽しい時間を過ごす代わりに、地元の集会場みたいな所に行かされて知能テストを受けたということです。その後の人生の浮き沈みにまぎれて、当時の記憶はもうおぼろげかもしれなくても、いまにして思えば、それは壮大な試みだったとダンバーは振り返ります。知能テストの対象は、スコットランドでこの年に生まれた学童全員だったからです。これは、ひとつの国の学校教育の実態を伝える、完全でユニークな記録となったと言います。

1932年のあの日、テストと格闘した学童たちの努力は報われていると言います。この一斉知能テストから得られたデータは、研究者にとって宝の山であり、そこから貴重な所見がいくつも得られているそうです。特に注目されているのは、IQと健康と死の関係だそうです。知能と健康と死亡率の関係は昔から知られていたそうですが、それはあくまで、社会的剥奪や教育機会の不足といった間接的亜要因によるものとされてきました。しかし、エディンバラ大学のイアン・ディアリが行なった研究で、11歳の時点でのIQと、85歳の誕生日をお祝いできる可能性とのあいだには、もっと直接的な関係があることがわかったそうです。

それを突き止めるのは簡単なことではなかったはずだと推測されます。ディアリの研究チームは、過去の調査に参加した人のその後を追跡して、死亡しているか存命かを確かめたそうです。過去の調査とは、アバディーン市民2800人を対象にしたもので、70代まで生きる可能性とIQとの関係がここではじめて示されたのです。しかし、これだけでは、社会的剥奪の影響とIQの影響を区別することができません。そのとき誰かが、1970年代に行なわれた調査のことを思い出したのです。

宗教の意味

ダンバーは人類の歴史の中で、なぜ宗教が生まれ、発達していったかという説明をしています。しかし、彼は、それはあくまで彼の立場からの考察であって、宗教側の言い分とは一致しないことをことわっています。宗教の起源については、神は歴史の中でその瞬間を選んで、人間の前に姿を現したという主張あるだろうということはわかっていると言います。そのなかにも多少の真実が含まれているかもしれないとは言いつつ、説得力があるとは思えないと言います。なぜもっと早く、あるいはもっと遅くではないのか?という疑問が湧いてくるというのです。そして、なぜほかの動物ではなく、人間だったのか?と彼は言います。

もし宗教に人智を超越した特別な何かがあるのなら、人間の認知能力がそれを支えられるぐらい発達したことや、集団規模が限界を突き抜けるには、宗教も認知能力も必要だったことは、偶然と呼ぶにはあまりにできすぎていると言うのです。宗教は個人レベルはもちろん、親密なグループでも何らかの意味がありそうだと言います。しかし、宗教が本当に威力を発揮するのは、きめ細かなコミュニティづくりにおいてではないかと考えているようです。おかしくなるのは、宗教の役割を国家が引き受けたり、宗教組織が巨大化しすぎたときだと言います。宗教の心理的な影響力はとても強く、どんなに合理的な思考の人も、宗教がからむと頑迷な暴徒に変貌すると言います。昔から切れ者の政治家たちは、コミュニティを征服するために宗教のそんな心理メカニズムをうまく利用してきたと言うのです。

そういう意味では、マルクスはやはり正しかったと言います。宗教は人民のアヘンという有名な言葉は、エンドルフィンの働きを考えるとまさに文字通りの意味になると言います。本人はそこまで考えていなかったでしょうが、そして同時に、宗教は小さな社会の接着剤と看破したデュルケームも正しかったと言います。宗教はコミュニティの共通ルールにみんなを従わせるために発達し、脳内アヘンを分泌させる儀式という手段を活用してきたと言います。歌ったり祈ったりして脳がエンドルフィンで満たさせると、息が詰まる人間関係のうっぷんが晴れますし、自分も伝統的な小さなコミュニティの一員だと実感できるのだというのです。

しかし、宗教のいちばんの効果は、認知面にあるのではないか、儀式の中身に疑問を抱かずにすむのはそのためではないか、と彼は考えています。化学物質の単純なトリックに過ぎないことなのに、深遠で謎に満ちた真理に到達したと思い込めることで、人間関係もまた簡単には割り切れない奥深いものになると言います。もともと単純だったプロセスも、進化がせっせと活用して磨きをかけることで、人間ならではの精緻を極めた認知や行動へと発展していったのです。宗教もその一例と言えるかもしれないと言います。となると、進化はやはり驚異そのものですし、進化にまつわるさまざまなプロセスを見出したダーウィンは天才だったのだとダンバーは再確認しています。

宗教とは、何を指しているかということは、ダンバーの考察を読んでいると、私たちが第一印象としてイメージするものとは違い、もっと大きく捉えたものであることに気がつきます。それは、集団をまとめるために、その集団における共通理念ということもできますし、単なる集団を社会として機能するための手段ともいえるかも知れません。そう考えると、その発生には、最初は意図性がなく、必然であるかもしれないと思えてきます。