成功と幸せ

日本を襲った災害の中で、東日本大震災では、私たちに絆の大切さを教えてくれました。今回の新型コロナでは、絆を切ることを推奨しているかのように思えます。しかし、人類の進化の歴史を見ると、もし今後も、ホモ・サピエンスが地球上で生き残っていくとしたら、きっと新たなコミュニケーションの在り方、絆の在り方が提案されていかなければならないと思っています。そのヒントを得るために、学習科学・発達心理学の世界的権威であるキャシー・ハーシュ=パセック氏とロバータ・ミシュニック・ゴリンコフ氏が書いた「科学が教える、子育て成功への道」(扶桑社2017/8/20)を読んでみました。そこには、「世界中でかつては想像もできなかった事件が頻発し、自然災害も我々の想定を大きく外れた凄絶なものとなっている。そんななか旧来型の〝エリート〟の非力さが浮き彫りに……。旧来型の知識偏重、学歴偏重のエリートが見限られている昨今」において、子どもたちにはどのような力が必要なのか、わが子を「成功」させ、「幸せ」な道を歩ませ、「超」一流の市民とさせるためには、どうすればよいのかということを、エビデンスを基に説いていきます。

ここで、彼らは、「成功」「幸せ」ということをこのように定義づけています。「健康で、思慮深く、思いやりがあり、他者と関わって生きる幸せな子どもを育て、皆が他者と協力し、創造的で、自分の能力を存分に発揮する責任感溢れる市民となる」こととしています。また、「『超』一流の市民」とは、無為の二流に甘んじることなく、一流というブランドに惑わされることなく、誰もが様々な分野で「『超』一流」となって輝くこととしています。

では、どうしたら良いのかということで、そのカギとなる能力として、六つのCの力=6Csを提唱しています。それは、

Collaboration:それぞれの強みを活かし弱みを補い合う

Communication:対話によって互いが満足するストーリーを作る

Content:専門領域について熟知し直感が働く

Critical Thinking:根拠に基づき熟慮して上手に疑う

Creative Innovation:変革について大きなビジョンを持つ

Confidence:熟慮した上で失敗にひるまず挑戦し続ける

この六つの力を見ると、その中の1,2は、他人との関係が示されています。私たち科学と言うと、実験室に一人閉じこもって、試験管を振ると言うイメージがあります。しかし、ここには、1ではお互いに「補い合う」という人類の進化における特性である、協力する、助け合う、ということが求められています。また、2では、対話を大切にしています。もちろんこの対話は、言葉によるものだけではないかもしれません。そこには、共感など、心の問題もあるかもしれません。ということから、私は、これからの時代における本当の新しい生活様式、教育の目指す方向を考える上でのヒントがあるのではないかと思っているのです。

この本の「はじめに」には、こう書かれてあります。この本の著者キャシー氏とロバート氏は、この本を通じて、「もしこうだったら……。」と想像して遊びたいと言っています。なぜなら、それが、子どもの学びの質と成功に大きく関係するからだと言うのです。

3密

コロナウイルス感染症を避けるためにもこの3密を控えるようにすることを求められています。3密(3つの密)とは、密閉、密集、密接から名づけられた言葉です。この3つの「密」は、日本における新型コロナウイルスの集団感染が起こった場所の共通点を探した際に、この3つの密が共通となっているということが分かったということで、それを回避するように提案されています。そして、「感染拡大を予防する新しい生活様式」でも3密の回避が含まれています。

しかし、この3密は、人類の進化の過程でとても大切なものであり、特に子どもたちにとっては、発達上重要な役割を持つものであるということがわかっています。

「密閉」についてですが、人類は、安心できた密閉空間があることで、赤ちゃんが大声で泣くことができ、自由にハイハイをすることができたのです。幼稚園というキンダーガーデンとは、子どもの庭という意味ですが、ガーデンとは、ガードされたエデンの園から来ていると言われています。ですから、家庭というときにも庭と書きます。

また、「密集」についての説明で、「密集とは、人がたくさん集まったり、少人数でも近い距離で集まること」とあります。その例として、学校が挙げられています。ということで、その対策としては、このような施設に行く場合でも「他の人と互いに手を伸ばしても届かない十分な距離(2メートル以上、最低でも1メートル)を保つようにしましょう」とか、「真向かいに座らず互い違いに座る、対面に座らず横並びで座る」などの対策が言われています。しかし、知識だけを座学で学ばない小学校などは、今後どのような授業になっていくのでしょうか?それ以上に、幼児施設では、どのような保育が行われていくのでしょうか?

もう一つの密である「密接」についてはどうでしょうか?密接とは、互いに手が届く距離で会話や発声、運動などをすることを言います。そして、密接の対策は、会話、発声、運動などの際に、十分な距離を保ち、マスクを着用することだと言われていますし、運動をグループではなく少人数で行ったり、会話をビデオチャットにするなども対策も必要だと提案されています。会話を学ぶ時期、社会を学ぶ時期の乳幼児期では、どのような方法でそれらを体験させてあげることができるのでしょうか?

こんな言葉もよく使われます。「ソーシャルディスタンス」です。これは、日本語では社会的距離を意味します。この言葉を聞いたときに、「社会」とは何かということです。基本的な意味とは、「(人間が)集まって生活を営む、その集団」とあります。また、「社会」を意味するsocietyという英語の語源は、ラテン語で「親交、友愛、絆」を意味するsocietas(ソキエタース)からできた言葉だそうです。さらに遡れば「仲間」、「友」を表すsocius(ソキウス)という語に由来しているそうです。また、このsociusという言葉自体「分かち合っている、結びつけられた」という意味をもつ形容詞でもあると言います。私は、英語は堪能ではありませんが、単純に、人が集まっているのを見て、「ソーシャルディスタンスです!」と言って、人を遠ざけるのはちょっと違う気がするのですが。

このような新しい時代の象徴として、リモートワークとか、オンライン学習とかが言われています。それは、今までの仕事の在り方、学習の在り方に対して、新しい科学を駆使した生活、文化を創造しようとするものかもしれません。しかし、科学とは本当にそのような役割なのでしょうか?科学の進歩は、私たち人類の進化に対してどのような変化をもたらすのでしょうか?それは、幼児教育にどのような変化を求めているのでしょうか?

成人期の準備

もう一つ、進化から考える課題があります。それは、子どもはなぜ「遊ぶ」かです。子ども期の多くの側面は成人期の準備として機能し、進化の過程で淘汰されてきた乳幼児期の経験は個体が成人としての生活を準備するためにあるという考え方は、発達心理学でも進化発達心理学でも同様です。乳幼児期のある側面は、おそらく成人期に役立つ社会的集団の様式を学習する機会を子どもに与えるために淘汰されて残ったとしています。遊びの諸側面は準備メカニズムのよい例であると言うのです。子どもは遊びを通じて身の回りの物理的環境や社会的な世界について多くのことを学び、それが後の人生で役立つということです。

しかし、乳幼児の特徴のなかには成人期の準備としてではなく、発達のある特定の時期に適応的な機能を果たすように淘汰されてきたものがあると言います。乳児期や子ども期の多くの側面は成人期の準備と見なすことができるのですが、それがすべてではないと言います。乳児期や子ども期の多くの特性は、子どもが後の生活の準備をするためではなく、発達のその時期にだけ適応的な機能を果たすよう進化において淘汰されてきたものもあると言うのです。ビョークランド氏は、まず、成人してうまく生きていくのに役立つ情報を学習するひとつの方法、すなわち、成人期の準備としての遊びとして遊びを捉えました。しかし、遊びの多くの側面には即時的な機能があるとも考えていると言います。遊びによって運動し自分の現在の環境に関する知識が得られ、社会的階層を確立しコホートにおける「自分の立場」を学習するための安全な場として遊びは機能すると言うのです。子ども期が長くなったことによって、子どもは複雑な成人の社会的集団における生活を学習し、準備をする時間を得ることができるのは明らかです。しかし生殖可能な成人として生きる助けとなる経験を子どもに与えたとしても、子どもが乳児期、子ども期をうまく乗り越えられなければ何の役にも立ちません。進化は子ども、そして他の種の幼体に、未来の環境に向けて準備するためではなく、その直接的な環境にうまく適応していくための多くの特徴を与えてきたとビョークランド氏らは提起しているのです。

また遊びの他にも新生児模倣や自分の能力の過大評価など、いくつかの社会—認知的な現象も、成人としての質的に異なる生活の準備をするためではなく、主として乳幼児が個体発生のある特定の時期に適応するために機能する可能性があるとも考えているようです。

このように、進化による心理的メカニズムの多くはすべてではありませんが、本質的に領域固有である進化心理学の基本理念によれば、進化したのは領域固有の情報処理プログラムであり、私たちの祖先が進化適応の環境で繰り返し直面してきた比較的特殊な問題に対処するために淘汰されてきたということは確かなようです。

このような人類の進化の過程で、今回の新型コロナウイルスの世界的な流行は、何を私たちに示唆しているのでしょうか?人のつながりを分断し、社会を形成する集団を否定し、人のかかわりを避けるような行動は、私たちにはどのような意味を持っているのでしょうか。最も避けるようにと言われている、いわゆる「3密」は、人類にとって、特に子どもたちにとって、必要な環境であるように思うのですが。

進化心理

ホモ・サピエンスが地球上に誕生し、各地に広まり、それぞれの文化を作る中で、その共通とは何かを知るためには、進化から考えることが必要だと私は思いました。たとえば、ダンバーが「友達の数は何人?」とダンバー数なるものを考えたのは、「つながりの進化心理学」からのアプローチでした。また、かつてブログでも紹介したビョークランドは、発達心理学における現象の多様性があるものの、進化の原則に基づく発達的な視点から見ると、共通点が見えてくると言っています。進化発達心理学は、発達心理学のメタ理論として有効であり、催奇形物質に対する胎児の反応から感覚発達、空間認知、攻撃性、遊び、心の理論まで多様なトピックを発達の一つの大きな側面のものにまとめることができるとビョークランドらは考えているようです。

特に私が興味を持ったのは、彼が進化心理学から考えた、「長い子ども期はヒトの社会的共同体の複雑性を学ぶために必要である」というものでした。ホモ・サピエンスが他の種と異なる点で、とくに発達的視点に関連しているのは、長い未成熟期です。ビョークランドは、「ヒトの個体発生のホモ・サピンスが他の種と異なる点は多くあるが、特に発達的視点に関連しているのは、長い未成熟期である」と言っています。ヒトの個体発生のタイミングは、霊長類の系統発生に見られる傾向が延長されたにすぎないのですが、ヒトは他の哺乳類より「前生殖期」が長いと言うのです。若い時期の長期化には明らかにコストがあります。死亡率は乳児期以降、急激に低下しますが、先史時代の多くの子どもは伝染病や病気、事故によって、性的に成熟する前に死亡していたことは明らかです。ですから、発達の速度が遅いことに伴う、多くのコストを上回る何らかの非常に大きな利益があったはずだとヨークランドは言います。そして、それらの利益は、ヒトが複雑な社会的共同体にうまく対処することに見てとれると言うのです。

ヒトの認知的な進化について現在よく用いられる説明では、ヒトの知的進化にかかった唯一最大の圧力は同種個体と協力し、競争する必要があったことであるというのです。そして、ヒト科の集団がより複雑になるにつれて、個体は自分自身をもっとよく知り、同種個体の思考や願望、知識をよりよく理解し、おそらく他者を操作することが必要になったと言うのです。社会的な世界でよりよく生きていくことができた者は、質の高い配偶者や資源を得るという意味でより多くの利益を手にし、自分の認知的特徴を子孫に伝えていきました。しかし、世界中でヒトの集団は類似してはいるものの、多様性も高く、集団生活の予測のつかない変化をうまく乗り切るためには柔軟な可塑性に富む知能が必要になります。これには大きな脳が必要なだけではなく、脳の完成にも長い時間がかかってしまいます。大きな脳や社会的複雑性、長い未成熟期が混じり合い、現代のヒトの心の舞台が作られたのだというのです。

このような考察は、私がどのような保育が必要なのかという視点に大きな影響を与えました。今回ミラー氏の進化心理学の本を読んで、その点については少し物足りなさを感じました。しかし、いろいろな人間における現象を、どのように考えたらよいか、どのように説明できるかという点では参考になりました。

発達心理

保育の世界に、子ども理解に対して大きな貢献をした人がいます。それは、心理学者であるジャン・ピアジェです。彼は、心の発達を研究する「発達心理学」の分野で大きな功績を残し、その理論は多くの学者に影響を与えました。ピアジェが唱えた「発生的認識論」は、特に、学校の教員だけでなく、看護師や保育士など子供を相手にする職業の人たちに学ばれています。それは、子どもを相手にするときに、子どもが心身をどのように成長させていくかを知ることにより、子どもの発達を支援しやすくなるからです。子どもたちが、「どうしてそんなことするのか」「何をしたがっているのか」その意図を理解することによって、適切に指導することができるようになるからです。

ジャン・ピアジェは1896年、スイスのヌーシャテルという街で生まれました。彼は、最初、生物学に興味を持っていたそうです。そこで、彼は研究を進めて軟体動物の研究で博士号を取得しました。その後、精神分析学に関心を持つようになり、フランスで心理学を学びます。そして1921年、ジャン=ジャック・ルソー教育研究所の所長として招かれ、教育学・児童心理学の研究を進めました。その結果、1955年に発生的認識論国際センターを立ち上げ、1980年に亡くなるまでセンター長として研究を続けました。同時に、彼自身の3人の子どもの知的発達を観察して、発生的認識論において重要な概念のひとつである「段階的発達」を提唱しました。これは成人としての最終的な段階に達する前に、子どもは感覚運動期、前操作期、具体的操作期、形式的操作期の4つの段階を経るというもので、発達の速さや達成度合いには個人差があるものの、どのような環境であるかにかかわらず子どもはこれら4つの段階を普遍的な順序で経験していくと考えたのです。

彼は、生物学者で、生物たちがどんどん変身して発達するそのすごさに感動していました。ですから、人間も同じように捉えようとしたのです。「生物には精密な仕組みがあり、それが発達というものを作り上げていく」という、個人自身が自分で発達する力を持っている「個人的構成主義」という考え方を提唱したのです。しかし、今日では、この「心理学的なまなざし」のようなものが体の中にしみこんでいるところがあると感じていて、それは「おかしかったんだ」と言われ始めています。

その多くは、他人との関係です。人間は赤ちゃんの頃から他人の気持ちがわかっているということで、1歳半でも相手の立場が想像できると言われています。また、新生児の頃から、他人に共感することがわかってきましたし、誕生直後から対話をすることもわかってきました。ということで、保育の場面では、家庭における行動とは別の集団における心理学があるのではないかということから、「児童心理学」とか「教育心理学」にその要素を取り入れた「保育の心理学」というものを保育者になるための教科として位置づけたのです。

人間は、本来は「共に生きる存在」であるということから、私は、少し前から「進化心理学」に興味を持っていました。それは、人についての発達心理学が保育に応用されるようになってから、人はどのように行動するのか、どのように考えるのかということを知ることができたことは事実です。しかし、より深く赤ちゃんの行動を理解する上で、また、保育という営みを理解する上で、人類がどのように進化してきたかを理解することが必要だと思ったからです。

進む進化心理学

ミラー氏が最後に挙げたいくつかの問題現象について、進化心理学が説明するには、まずこうした現象があらゆる文化に共通する人間の普遍的な行動だということ、もしくは、文化によって多少の違いはあっても、その違いは、進化的な心理メカニズムと地域の生態系と環境との間の相互作用で説明できることを確認しなければならないとミラー氏は言うのです。文化的に普遍な行動でなければ、生物学的、進化的なルーツをもつことはまずあり得ないからだと言います。進化心理学が広くみられる行動を説明する際に、最初にしなければならないのは、その行動が文化的に普遍であると立証することだと言うのです。

進.化心理学の草分け、デヴィッド・M・バスは80年代にまさにそうした作業を行ったそうです。ミシガン大学の学生を対象にした理想の配偶相手に関する調査結果があらゆる人間社会で広く共有されるものかどうか、6大陸の37カ国で調査を実施したのです。他の研究者たちもこれに倣っているそうです。最近の例をあげれば、6大陸と13の島におよぶ、世界52カ国、10地域での調査で、多様な相手を求めるといった性的欲求と、その結果としてのメイト・ポーチングである「配偶相手の略奪」と呼ばれる、他人の配偶相手を盗むなどの行為は、多かれ少なかれあらゆる社会にみられることが確かめられたそうです。文化的な普遍性は、進化的な心理の指標の一つであるとミラー氏は言うのです。

進化心理学における理論的に未解決の問題をざっとミラー氏は紹介していますが、これによって現代の進化心理学には設定されるべき多くの問いや解決すべき多くの謎があることがわかってもらえれば幸いだと言っています。ミラー氏らはロバート・ライトの1994年の著書「モラル・アニマル」のたった一つの文章、「肥沃な上地がたくさんあるのに、それを耕す農夫はあまりに少ない―今のところ、これが進化心理学の現状である」を読んで、社会学から進化心理学に転じたそうです。彼らは農夫になり、肥沃な土地を耕しはじめたのです。今では状況は大きく改善されていると言います。学部段階では心理学や人類学を専攻した多くの若い才能ある研究者が、進化心理学に進んでいると言うのです。そして、進化心理学はいま最も成長目覚ましい学問分野と言えるだろうとミラー氏は言うのです。

2004年にベルリンで開かれた進化心理学の主要な学会である「人間行動進化学会」の第17回年次総会で、ボビー・S・ロウ会長が、この年次総会を企画・運営した委員の数は、わずか20年前にこの学会の前身である組織が誕生したときに集まったメンバー全員よりも多いと語ったそうです。80年代にミシガン大学で年次総会が開かれた際、創設時のメンバーの多くは、ロウの家の床で寝泊まりしたそうです。その20年後、2005年にテキサス州オースティンで開かれた年次総会の会場はハイアットリージェンシー・ホテルだったそうです。それは、参加者は500人近くにのぼり、いくらロウが寛大に客を迎えるといっても、この人数を泊めるのはとても無理だったからです。

国際的な広がりも見落とせないとミラー氏は言います。進化心理学に限らず、科学のあらゆる分野で研究活動が最も盛んなアメリカとイギリスに加えて、日本とベルギーにはこの分野の研究者が多くおり、他分野と比べても進化心理学の人気が非常に高いそうです。しかし、残された多くの理論的な謎を解くためにも、進化心理学はまだまだ優秀な頭脳を必要としていると言います。多くの若い”農夫“がこの新たな分野の開拓に加わることをミラー氏は願ってやまないと最後にしめています。

親子の愛

親は自分をいちばん愛してくれる子どもではなく、適応度がいちばん高くなりそうな子ども、より魅力的、知的で健康な子ども、また、親が裕福な場合は男の子、貧しい場合は女の子に投資するよう動機づけられます。成人後の子どもの場合はなおさらです。親が若く、まだ子どもをつくれるなら、成人後の子どもが親に資源を分け与えるのは進化的に理にかなっていると言います。きょうだいは遺伝子の半分を共有する存在ですから、きょうだいが増えれは、遺伝子を次世代に伝えられる確率は高まり、したがって自分の適応度が高まることになります。しかし、親が生殖可能年齢を過ぎればそうはいきません。成人後の子どもが老いた親の世話をすることは、進化心理学的にはまったく説明のつかないことなのだと言います。

にもかかわらず、膨大な証拠が示すように人間社会では子どもは親を愛します。これは進化心理学では解けない謎であると言われているのです。むしろ進化心理学にとってのみ、諸であると言ったほうがいいかもしれないとミラー氏は言っています。

次の問題は、「豊かな先進国では少子化が進むのはなぜか」ということです。これは、最近の大きな問題であり、それを食い止めようと各国が必死ですが、その問題を考えるうえで、もう一度進化から考えてみることは意味あることかもしれません。しかしこの問題は、ライトがリストの3番目に挙げた「なぜ子どもをもたないことを選択する人がいるか」という間題とは徴妙に違うことを理解する必要があるとミラー氏は言います。

大半の人、たとえば今のアノリカで言えば90 %の人たちは子どもをつくります。しかし、中流層のアメリカ人のほとんどは4人か5人の子どもを余裕をもって育てられ、全員に十分な資源を与えられるにもかかわらず、多くの夫婦が2人程度しか子どもをつくりません。

この上にもう一つ謎が重なるとミラー氏は言います。ほとんどのアノリカ人は男の子二人か女の子二人ではなく、男の子と女の子の両方をもちたがります。実際、男の子と女の子が一人ずつできたら、それで子づくりを打ち止めにする親が多いのですが、男なり女が二人続くと、3人目をつくる確率が高いことがわかっているそうです。欧米の親はなぜ、余裕をもって養え資源を与えられる数だけ子どもをつくらず、男の子と女の子の両方を望むのか。これは進化心理学にとって、今もって謎だそうです。ということで、少子化に対する対策が功を奏しないのでしょうか。それとも、違う観点からの考察が必要なのかもしれません。

最後にミラー氏が挙げた未解決な問題は、「なぜ日焼けした肌が魅力的とされるのか。テレビのリモコンを手放さずに絶えずチャンネルを変える癖が男性に多くみられるのはなぜか。毎日の料理はたいがい女性がするのに、バーベキューや肉を切り分けるときは男性の出番となるのはなぜか」などです。これらは、ミラー氏らや他の研究者たちが着目した現象のほんの一部だそうです。いずれも、多くの社会で一貫してみられ、偶然や社会化によるものにしては、あまりに根強いです。このような行動には、なんらかの生物学的、進化的な理由があると考えられます。実際、日焼けした肌が好まれることとそれに関する性差については、すでに研究が進められているそうです。

未解決の問題

ライトが挙げた六つの質問のうちで最後の質問は、「兵士が国のために死ぬのはなぜか」です。この質問に対しても、ミラー氏は、自分の知るかぎり、この現象について進化心理学の視点から満足のいく説明は出されていないと言います。しかし、いくつか言えることがあると言います。まず、国のために兵士が死ぬのは、国が戦没者をたたえ、残された妻と子どもの生活を保障する場合のみであること。事実、文明社会では、国のために戦って死んだ男たちは必ずたたえられます。第二に、多くの男たちは召集されて戦地に赴く直前に結婚することが多いようです。そのために戦地にいる兵士たちの多くには、まだみたことのない生まれたばかりのわが子がいることになります。一部の兵士にとって、国のために戦って死ぬことは繁殖戦略なのかもしれないとミラー氏は言うのです。自分は子どもに十分な資源を提供できないが、戦死すれば国が子どもを確実に扶養してくれるからだと思えるからです。歴史的に、兵士は下層の出身者が多いです。さらに付け加えるならば、男たちが戦地に向かう前に最後にすることは、結婚して新婚の花嫁をはらませることですが、敵を征服したときに最初にするのはときとして、被征服社会の女性をレイプすることです。その行動も繁殖成功度を高めるのに役立ちます。国のために進んで戦い死ぬ覚悟がなければ、こうした機会を獲得できないでしょう。しかし、これらはあくまでミラー氏らの観察にすぎず、兵士がなぜ国のために死ぬかについては、彼らも他の研究者も今のところ明確に説明できないと言います。

というわけで、ミラー氏は、現時点でライトが94年にあげた六つの疑問のうち、三つについては満足できる答えが出ましたが、あとの三つは未解決のままだと言います。さらに、残る三つに加えて、さらにいくつか未解決の問題があると言います。ミラー氏は、彼の見解から、今のところ進化心理学で謎とされている事柄を挙げています。

まず、「子どもはなぜ親を愛するのか」という問題ですが、この問いは、一見すると、愚かしい質問のように思われるかもしれないと言います。言うまでもなく、子どもが親を愛するのはごく自然な感情だからです。しかし、なぜ自然な感情なのでしょうか。

進化心理学的には子どもが親を愛して、老親の介護をする理由はまったく見当たらないと言います。親にとっては、愛情を返してくれる子どものほうがかわいく思え、その子に投資する意欲がかき立てられるからだという人もいます。これはおもに親の立場からの意見ですが、進化的に言えば、そうではないと言います。親は子どもが愛情を返してくれるかどうかにかかわらず、子どもに愛情を注いで、資源を与える必要があります。ディリーとウイルソンの「親の差別的な気遣い」説が示唆するように、親は自分をいちばん愛してくれる子どもではなく、適応度がいちばん高くなりそうな子ども、より魅力的、知的で健康な子ども、また、親が裕福な場合は男の子、貧しい場合は女の子に投資するよう動機づけられます。二人の子どもがいて、親の資源が限られている場合、一人は知能が高く、肉体的に魅力があり、健康な子どもで、もう一人は親をとても愛しているが、魅力的でない病弱な子なら、親は後者ではなく前者に投資するだろうと言います。残酷なようですが、単純に遺伝子の論理で言えば、そういうことになると言うのです。だとすれば、子どもは親を愛する必要がないわけなのです。

3,4,5番目の問題

子どもを何人もつかが遺伝子に左右されるとしたら、進化のロジックと矛盾します。遺伝的要因が働くなら、きょうだいが多い人は、彼らの両親は子だくさんだったことになりますが、子だくさんになり、きょうだいが少ない人は、それは、彼らの両親は子どもを少ししか作らなかったということですが、少ししか子どもをもたないということになるのですが、進化のロジックではその逆になるはずです。きょうだいが多ければ、子どもが少なくても、きょうだいに投資することで繁殖成功度を高められます。子どももきょうだいも、あなたの遺伝子の半分をもっているからです。逆にきょうだいがいなければ、子どもをたくさんつくる必要があります。きょうだいに投資するという選択肢がないからです。このように、遺伝的な要因が子どもの数に影響を与えることは、進化心理学にとってはいまだに謎であるとミラー氏は言います。

次の問いの「なぜ子殺しをする親がいるのか」という問題が、なぜライトの1994年のリストに載っているのか理解に苦しむとミラー氏は言います。マーティン・デイリーとマーゴ・ウィルソンの1988年の著書『人が人を殺すとき―進化でその謎をとく』ですでに解決ずみだからだと言うのです。この本は、それよりも前に発表された著者らの論文を下敷きにしているそうです。デイリーとウィルソンは、「なぜ子殺しをする親がいるのか」という質問に対する答えは、「人は子殺しをしない」であると述べているそうです。子殺しをする親のほとんどは、被害者となった子どもと遺伝的なつながりのない義理の親です。警察は進化心理学の知識をもちませんから、生物学的な親と義理の親を統計上区別せず、結果的に犯罪統計では血のつながった子どもを殺す親がいるかのようなデータが出てしまうと言うのです。

進化心理学の視点から言えば、義理の親が子どもの養育を放棄したり、投資を惜しんだり、さらには配偶相手が、将来生まれる子どもも含め自分との子どもに時間と資源を集中するよう、義理の子どもを殺すことは十分考えられます。ヒヒやライオンなど多くの動物では、新たな雄が子連れの雌グループを乗っとったときに、真っ先に行うのは組織的な子殺し行動だそうです。それによって、すべての雌を生殖可能な状態にするのです。ヒトも動物である以上、当然そうした衝動はあるはずだと言うのです。

親が血のつながった子どもを殺す少数のケースも、デイリーとウィルソンの「親の差別的な気遣い」という概念で説明できると言うのです。デイリーらが指摘するように、どんな親でも子どもに投じられる資源には限りがあるのです。親は子どもの数を最大限にするのではなく、孫の数を最大限にすることで、自分の適応度を最大限に高めようとするのです。この徹底してダーウィニズム的な視点から言えば、性的に成熟するまで生き残れない、あるいは伴侶を見つけて生殖する能力がない子どもに投じた資源はまったくの無駄になることになります。そのため、病気の子どもや肉体的魅力に乏しい子どもの養育を放棄したり、虐待したり、殺す確率ははるかに高くなると言うのです。それによって、生殖に成功する見込みがある子どもに限られた資源をシフトできるからです。このような結論は居心地の悪いものかもしれませんが、そうした側面があることは否めないとミラー氏は言うのです。親は義理の子どもより血のつながった子どもをかわいがるばかりか、実の子どもでもかわいがり方に差があり、知能、容貌、健康、社会性にすぐれた子どもを優先する傾向があると言うのです。

物議をかもした研究

ハリスについては、ブログで何度か取り上げています。彼女の考え方は、最近の研究に随分と影響を与えているようです。特に、ブログで取り上げた、1998年に書かれた彼女の著書「子育ての大誤解―子どもの性格を決定するものは何か」(早川書房)で、親の育て方が子どもの性格を形づくる決定的な要因であるという普遍的な思い込みを、周到な議論で打ち砕いたのです。ハリスによれば、親による社会化が子どもに与える影響は取るに足らないと言うのです。同年代の友達の影響が非常に大きいからだと言ったのです。ミラー氏は、彼女のことをどう評価しているのでしょうか?

ミラー氏は、当時の世間からの彼女の評価に対して、こう言っています。「ハリスの主張は、政治家やメディアの猛反発をくらいましたが、行動遺伝学の研究結果とは一致しているのです。」行動遺伝学によれば、遺伝、家庭環境、家庭外の環境が子どもの発達を左右する割り合いは大ざっぱに言って50 / 0 /50だといわれています。つまり、遺伝的な要因は50 %、きょうだいで共有する家庭環境で決定されるのは0 %、きょうだいで共有しない学校や社会で決定される割合は50 %だというのです。

ハリスの研究は家庭外の環境が子どもの発達に大きな影響を及ぼすことを示したものであり、そこから同じ両親に育てられたきょうだいでも、それぞれ個性が異なる理由も説明できるとミラー氏は言います。メディアはハリスの著書を親不要論であるかのように紹介し、激しく攻撃しましたが、実際には子どもの発達にとって親は重要ではないなどとは、一言も述べてはいません。子どもは血のつながった両親から100%遺伝子を受け継ぐのであり、親が重要であることは言うまでもありません。ただ広い視野でみれば、親による社会化が、子どもの成人後の人格に及ばす影響はそれほど大きくないというだけの話だとミラー氏は捉えているのです。

サロウェーとハリスの研究はいずれも物議をかもしましたが、反発したのはおもにメディアや一般の人々でした。研究者、なかんずく進化心理学の研究者は、彼らの独創的な研究と、常識をくつがえす結論を支持したのです。サロウェーは家族の力関係が成人後の人格を形成する決定的な要因であると主張し、ハリスは家庭の外に目を向けて、同年代の友達の影響が重要だとしているので、当然ながらこの二人は互いの論文に批判的だそうです。

次の問いに対する説明は、二ついっぺんにしています。その一つは、「子どもをもたないか、一人か二人しか産まないことを選択する人たちがいるのはなぜか」と「なぜ人は自殺をするのか」という問いです。

ライトの94年のリストのうち、最初の二つの間題では、進化心理学と行動遺伝学は大きな成果を上げましたが、続く二つはいまだに解けない謎として残っているとミラー氏は言います。なぜ子どもをつくらないことを選択する人たちや自殺する人たちがいるのか、という問いに対して、ミラー氏らの知るかぎり、説得力ある仮説は提出されていないと言います。行動遺伝学で最近、生殖行動の遺伝的な基礎が発見され、子どもをたくさんつくるか少数しかつくらないかは部分的には遺伝子に左右されることがわかったそうです。しかし、まったく子どもをつくらない人については依然として説明がついていないそうです。子どもをつくらない遺伝的な傾向が、性淘汰によって残されるはずがないことは言うまでもないからです。