つながり

ダンバーは、互いの関係を深め、調整するコミュニケーションとして霊長類において「毛づくろい」をあげています。毛づくろいは、直接身体を接触されるものですが、それを、距離を離れて行なうツールとして進化したものをヒトによる「言語」であるとしています。ですから、私たちの会話は、その中身よりも、つながること自体にまず意義があります。こう考えると、それは声という音を出す行為です。しかも、離れた距離で行なうわけですから、ある程度大きな声です。それを騒音と捉えるようになったら、もう人類の存続に問題がありますね。

ちなみに、言語機能を司る大脳新皮質の大きさは、集団内のメスの数に比例することもわかっているそうです。おしゃべりに夢中になる彼女たちこそ、私たちの脳を発達させ、ヒトならではの複雑な社会・つながりを、そして言語を発達させた功績なのかも知れないとダンバーは考えています。とくに「母親ことば」は、音楽の起源にもつながっているというのです。

また、メディアとしての言語には、病原体の感染しやすい熱帯地域で、同じ言葉を話す集団規模が小さい理由のひとつではないかと考えています。似たような役割は、方言にもあると言います。方言のおかげで、よそ者の区別がつき、自分たちの集団の利益が守られるというのです。このことは、内輪のコトバを駆使する日本のさまざまな小集団にも当てはまるようです。

次に健康とつながりとの関係を考察しています。家族や親類に囲まれ、つながっている者のほうが、より健康になれるということがわかってきていると言います。また、つながりには、脳内の化学物質も関わっているそうです。オキシトシンは、互いの信頼を高め、エンドルフィンは絆を一層強くします。

笑いや音楽も、エンドルフィンをぐんと高め、絆づくりに役立っています。ここで大切なのは、ひとりではなく、集団で行なうということでした。チンパンジーは単独でしか笑いませんが、仲間と一緒に笑うのはヒトならではの特性であり、おそらく大規模な集団の絆を深める役割を果たしているに違いないというのです。

また、ダンバーは、宗教もこうした社会的な絆づくりとして発展したのではないかと言います。笑い、音楽、宗教は、ともに大規模集団でエンドルフィンを分泌させ、結束意識を促す三大メカニズムだというのです。そして、信仰を共有するには、心を読み取る高度な意識レベルが求められます。こうした5次志向意識水準は、約20万年前に、私たち現生人の祖先が登場して芽生えたようだと言います。そして、社会集団の人数が現在と同じ150人になったのも、まさにこの頃だと言うのです。

ダンバーが取り組んでいる進化心理学は、とても興味深い分野ですが、さまざまな興味深い説も、その裏付けが取れていないことが多いようです。そのなかで、ダンバーが注目されるのは、集団の規模と脳の大きさの相関を明らかにするなど、実証的な調査研究をしっかり行なっていることにあるようです。だからこそ、ハイテク時代にある私たちも、「石器時代の心」と共に生きていることが実感されるのだと、「ダンバー数とつながりの進化心理学」という本の出版プロデューサーである真柴隆弘氏は本書の解説でまとめています。

忍耐力

天才は、何の苦労もなく優れた業績をあげることができると、人々は、昔も今も、そう信じて疑いません。その例として、さまざまな逸話が伝えられてきました。しかし、この種の逸話は97%が誇張だとダンバーは言います。天才たちは例外なく、陰で、大学図書館とかで、凄まじい努力をしているのです。ロレンスは、中世十字軍の城跡に造詣が深く、パレスティナでの発掘に参加して独創的な論文を書いたほどですが、その膨大な知識にしても、神からの霊感で与えられたものではありません。デカルトにしても、毎日ベッドでごろごろしているだけではなかったはずだとダンバーは言います。優れた数学者がよくやるように、潜在意識で思索を深めていただろうと推測できるのです。

ここでエンドルフィンが登場します。エンドルフィンの役割は、心身の消耗が引き起こす苦痛やストレスを和らげることです。たくさん本を読み、難解な証明やうまくいかない実験について考えていると、眼精疲労や頭痛に襲われ、イライラが募ってきます。しかし、生まれつきエンドルフィンがたくさん放出される幸運な人は、それを軽々と乗り越えていけるのです。凡人たちが力尽きてあきらめた後も、新鮮な心持ちのまま次に進めるのだとダンバーは説明しています。

体内のエンドルフィン濃度を高めるには、日常的に激しい運動をするのもひとつの方法かも知れません。もちろん運動すれば誰でも天才になれるわけではなく、記憶力とか論理的な思考の速さとか、IQはその人の特徴を多面的に伝えるものですが、私たちはその1つを見過ごしているのではないだろうかと彼は言います。それが、「忍耐力」だというのです。どんなに優れた脳みそを持っていても、それを徹底的に使いこなす努力をしない人は成功しないとダンバーは断言します。

やはり、ここでいくつも疑問が湧いてくるだろうと言います。大学の講義では、行列代数の証明に取りかかる前に、まずは10分間柔軟体操をやればいいのではないのか?湿原を歩いてフィールドワークを行なう生物学者は、1日中机に向かっている英文学者の同僚よりも立派な業績をあげられるのか?頭を酷使する職場では、脳内エンドルフィン濃度が高いことが採用の必須条件になるのでは?就職面接では、やっているスポーツについて根掘り葉掘り尋ねられるのか?もしスポーツとは無縁です、と答えたらどうなる?

ダンバーは、こんなことを言っています。「どうしても決めたかった就職先で採用されなくても、筆記試験が悪かったのかと気に病むことはない。きっと隣のやつのほうが、筋肉がぴくぴくしていたせいだ。」

このことは、子どもの教育を考えるときの参考になるのではないかとダンバーは言います。最近では、子どもにやらせたい活動のリストからスポーツが外れることが多くなってきていると言います。それは、「全員を一等賞にしなくては」という悪平等がはびこっているせいでもあり、訴訟ばやりの昨今、学校も地域も裁判沙汰を極度に恐れているからでもあるとダンバーは指摘しています。しかし、運動能力と学業の関係が本当に成り立つとしたら、愚かで意地きたない少数意見のせいで、全員がつまらない目に遭うのは賢明ではないと言うのです。

健全なる身体

背の高い男性ほど既婚率が高く、子どもを持っている割合が多かったという研究結果について、当然背の高い男は魅力的だからパートナーを見つけやすく、子どもをもうける可能性が高くなるというのがこれまでの解釈でした。しかし最近、外見の美しさと生殖可能性の関係は、それだけではないことがわかってきたそうです。キングズ・カレッジ・ロンドンのロス・アーデンらがアメリカの軍隊を対象に行なった分析で、身体の対称性は、精子の数及び運動性と相関関係にあることが判明したというのです。美しい人は、それだけで子孫を多く残せるということになります。ダンバーは、なんて世の中は不公平なんだと嘆いています。

オックスフォード大学のあるカレッジに伝わる話を紹介しています。1960年代の学監は入学面接の時、部屋に入ってきた志望者にいきなりラグビーボールを投げたそうです。ボールを受けそこねたらアウト、すかさずドロップキックをしてゴミ箱に入れたら、その場で奨学金の授与が決まります。もちろんこんな選考方法は、お高くとまったほかのカレッジからは苦々しく思われていました。

もっとまじめに選好するカレッジもある中で、そのカレッジは面汚しだったかというとそうではありませんでした。各種スポーツの大学別成績で言うならば、むしろ逆だったのです。さらに1970年代に発表された教育達成度の長期調査で、立場は完全にひっくり返ったそうです。ひとかどのことを成し遂げる人物は、メガネ・肥満のガリ勉タイプではなく、スポーツ万能で勉学優秀、その上社交性も抜群というオールラウンド・プレーヤーであることがはっきりしたというのです。

この結果は、ある意味それほど意外でもないとダンバーは言います。成功は成功から生まれるものだからだと言います。それにしても、「健全なる身体には健全なる精神が宿る」という古からのことわざは、あまりにもそのままの意味ではないかと彼は言います。もちろん、スポーツができるというだけで知能がずば抜けて高くなるわけではないと言います。しかし、スポーツに本格的に取り組んで猛練習に励むことと、学業成績の上昇を結びつけるものがひとつあると言います。それが最近よく話題になる脳内麻薬、つまりエンドルフィンだというのです。

エンドルフィンは、体内で生成される鎮静剤です。身体がストレスにさらされると脳内に大量に放出され、組織損傷で生じる痛みをブロックしてくれるのです。そうすれば、ケガをしたときも身体がある程度自由に動くので、外敵に捕まる危険が少なくなります。しかし、この鎮痛剤は、頭脳活動とどんな関係があるのかというと、その答えの鍵は、私たちが頭脳活動を「知的努力」としばしば言い換えるところにあるとダンバーは言うのです。

天才は、何の苦労もなく優れた業績をあげることができると、人々は、昔も今も、そう信じて疑いません。ルネ・デカルトは、この誤解を根付かせた犯人の一人だとダンバーは言います。ディレッタント気取りのデカルトは1日の大半をベッドの中で過ごし、そこで優れた著作の構想を練ったと言われています。アラビアのロレンスは大学時代、オックスフォードのなかでも優秀なジーザス・カレッジに所属していたのですが、たった数回講義に出席しただけであっさりトップクラスの成績を取ったと言われています。

IQと死

エディンバラ大学のイアン・ディアリは、11歳の時点でのIQと、85歳の誕生日をお祝いできる可能性とのあいだには、もっと直接的な関係があることを発表しました。しかし、これだけでは、社会的剥奪の影響とIQの影響を区別することができません。そのとき、1970年代にベーズリーとレンフルーの在住者で、1932年にIQテストを受けた人を追跡調査したことが役に立ったのでした。そこでは、対象者の健康状態、雇用、社会的剥奪のレベルを中心に調査されていたのです。この調査から、ディアリらは、1932年にIQテストを受け、なおかつ70年代に中年期の健康診断を受けた男女、それぞれ549名と373名の所在を確かめることができたのです。ですから、この人たちのその後4半世紀の生活状態は、国の記録を使って追跡できたのです。

IQの平均値は100で、85~115までの範囲に全体の三分の二の人がおさまります。ディアリが1932年のIQ一斉テストのデータを分析したところ、社会階層と社会的剥奪のレバルを統計的に処理すると、11歳の時点でのIQが1ポイント下がるごとに、77歳までに死ぬ可能性が1%高くなることがわかったそうです。正常とされる範囲内でも、たとえばIQ=85の人が77歳の誕生日をお祝いできる確率は、IQ=100の人より15%低くなるということです。

社会階層が下の集団になると、その影響がさらに強くなるそうです。経済的な困窮が健康を低下させることは衆知の事実だそうです。しかし、ディアリの分析で明らかになったのは、社会的剥奪、教育的剥奪、経済的剥奪の3条件は、それぞれ単独でも多少の影響があるとはいえ、全部が揃わないと、IQ死亡可能性の関係はできあがらないということだそうです。両者の関係は、もっと有機的なものであるに違いないとダンバーは考えています。

これに関してよく言われるのは、IQは発達段階初期の指標ではないかということです。「生物としての完成度」、すなわち身体のすべてのシステムが順調にでき上がり、効率よく機能しているかを測るものさしがIQではないかということです。胎児期の成長のしかたが、成人してから心臓疾患にかかる危険性や、心臓発作で死ぬリスクを左右することはすでに知られているそうですが、どんな胎児期を送ったかは、生まれたときの体重にも影響するそうです。そして出生時体重が少なかった子どもは、学校の成績、ひいてはIQもふるわないということが言われていると彼は言います。

映画「ビューティフル・マインド」は、ナッシュ均衡を発見し、1994年にノーベル経済学賞を受賞した天才ジョン・ナッシュを描いたのもです。ただし、このタイトルからは、ビューティフルな頭脳の持ち主が、肉体もビューティフルかどうかまではわからないとダンバーは言います。いや、ナッシュを演じたラッセル・クロウがどうというのではありませんが、ダンバーの経験では、学生の時一緒だったガリ勉たちが、みんなダサくて、カッコ悪くて、みっともなかったかというと、そうでもなかったと言います。立派な身体つきの者もたくさんいたそうですし、スポーツができるやつもいたそうです。

この映画は、私は観ていないので、その内容についてはコメントが出来ませんが、たしかに私の高校には、非常に成績がいいのに、そうガリ勉でもなく、スポーツも得意で、スタイルもいい同級生が何人もいました。その観点からだけで比較すると、世の中は、不公平だということを感じたこともありました。

社会をまとめる接着剤

ダンバーは、進化における適応度という意味で、宗教には少なくとも四つの利点があると考えています。第1に、霊的世界を仲介させつつも、私たちが理解してコントロールできるような形で宇宙を体系的に説明してくれることです。第2に、宗教は人生を過ごしやすくしてくれます。第3に、宗教はある種の道徳規範を提供し、執行することで、社会秩序を保ってくれるという点です。そして第4に、宗教は共同体への参加意識を持たせてくれます。

この第3,第4の説は、まとまりがあって強力的な集団に所属することで、個人がどんな恩恵を受けられるかという話です。集団の構成員が同じ行動する上で、道徳規範が果たす役割は明確だとダンバーは言います。しかし、今日の代表的な宗教は、官僚的な巨大組織による世界宗教運動とか、教会と国家の癒着といったことが絡んでいると彼は言います。そうした宗教が熱心に説き、推進している道徳規範からは、宗教の原初の姿を想像することが難しいと言うのです。宗教研究者のだれもが認めることだそうですが、いちばん最初の宗教は、伝統的な小さな社会に見られるシャーマニズムに近かったはずだというのです。シャーマンや呪医や巫女は特別な能力があるとされていましたが、基本的に信仰は個人単位で行なわれていたというのです。シャーマニズムは、知の宗教というよりは情の宗教であり、行動規範を押しつけることよりも、個人の霊的体験を重視します。

ダンバー自身は、宗教のほんとうの利点、それはなぜ宗教が人を幸福・健康にするのかという理由でもあるのですが、第4の説にあると考えているようです。宗教は、社会をひとつにまとめる接着剤のようなものだと最初に提唱したのは、現代社会学の父とも呼ばれるエミール・デュルケームだそうです。ただし彼は、なぜ、どのようにということまでは言及していないそうです。それから1世紀以上たったいま、そのあたりの仕組みが少しだけわかってきたそうです。

宗教が社会のまとまりを良くするのは、一連の儀式を通じてエンドルフィンの分泌を促しているからだと言います。脳内鎮痛剤であるエンドルフィンが分泌されるのは、そこそこの痛みが慢性的に続いているときです。そして、脳内にエンドルフィンが行き渡ると、いわゆる「ハイ」な状態になるのです。

ですから、宗教儀式には、身体にある程度のストレスを強いるものが多いのだと言います。歌ったり、踊ったり、延々と身体を揺らしたり飛び跳ねたり、数珠を操るのも、ひざまずいたり蓮華座を組んだりするのもそうだとダンバーは言います。ときには自分をむち打つなどして、本当に痛めつけることもあります。それでも信者たちは幸福感に酔いしれているのです。彼らは、毎週お祈りをすることで、ヤクを打っているようなものなのだと彼は言います。そしてここが肝心だと彼は言うのですが、エンドルフィンには、免疫システムが万全に機能するよう「チューンナップ」する働きがあるというのです。つまり、信仰心が篤い人ほど健康になれるということだというのです。

父親似

ヒトは、新生児の頃には皆同じような顔をしています。それが、子どもによって、父親似の顔に変わってきたり、父親似の瞳に変わってきます。新生児の頃に皆同じ顔つきをしているというのは、生まれた赤ん坊が、実の父親が誰であろうと、父親が、生まれた赤ん坊をかわいいと思い、育児をする母親のそばについてあげようと思わせるためだと言います。それを、心理面でも後押しをしていると言います。カナダのマグマスター大学で、マーティン・ダリーとサンドラ・ウィルソンが行なった研究では、新生児と母親、母親の両親がいるところに父親が入ってくると、目・鼻・顔・あご……が、いかに父親似かという話題に急に切り替わったそうです。

メキシコでの研究でも同様の結果が報告されているそうです。しかし、正直なところ、どう見ても新生児に父親の面影などないとダンバーは言います。もちろん、話す方もそんなつもりではなくて、お父さんにこれからがんばってもらうための動機付けを提供していると言うのです。それでいいのであると彼は言います。さらに彼は、きっと、そうだと言い聞かせています。

 ダンバーは、自分は姓の魅力にとりつかれていると告白しています。それは、生物学的な進化の中で、これほど複雑に発達したものは他にはないからだと言います。何が複雑化というと、性別がらみで生じるややこしい人間関係もそうですが、彼が言いたいのは、生物学的なことだそうです。性別はX染色体とY染色体がどうしてこうして決まるだけではないのかということだそうです。少なくとも学校ではそう教わりますし、あながち間違ってはいません。ごく標準的なほ乳類である人間は、父親からX染色体かY染色体のどちらかをもらい、母親からのX染色体と一緒になることで、性別が決定します。XYなら男というように、たしかに単純そのものだと彼は言います。しかし、実際のところはもう少し複雑になると言います。性染色体の話の一部でしかないと言います。XYだからといって、必ずしも男になるとは限らないというのです。

 あらゆる要素が正しいタイミングであるべきところにおさまらないと、男にはなれないというのです。それはいわば「男になるための競争」であり、競争から脱落すると、染色体がXYの胎児が初期設定から男モードに切り替わるためには、早い段階で生成されるある種の脂肪細胞が一定量増えなくてはならないそうです。その脂肪細胞が引き金になってテストシテロンが分泌されると、胎児の脳は男モードに切り替わり、さらに脳の指令で身体のほかの部分も男になっていくのだと言います。

 そもそも染色体の段階からややこしいことになったりもするとダンバーは言います。両親の染色体が混ざり合う過程で失敗すると、XoX染色体しかない)、XXYXXYYXXXYYXYYといった染色体異常が発生するそうです。ただし、X染色体が欠けたYoはありえないそうです。さらに、Y染色体はとてもちっぽけだといます。しかもそのDNAはごく一部しか機能しておらず、初期設定の女モードを男モードに切り替える仕事をするだけだそうです。ですからX染色体がないと、そもそも初期設定が成立しませんので、残念ながら強制終了ということになるそうです。XY染色体の数が狂うと、深刻な障害や異常を引き起こすことがわかっているそうです。ただ、幸いにというか、起こる割合はとても低いそうです。

直立歩行のために

私たち人類の祖先は脳を大きくする数百年前に、まずは直立歩行をしようと決意します。そのために、骨盤は、お椀型へと進化していきます。それは、骨盤がお椀型ですと、上半身と頭、とくに大きく発達した脳をバランスよく支えるのに好都合だったからです。ヒト属の最古の祖先であるホモ・エレクトスが二本脚で歩き始め、長距離移動が可能になった頃、つまり少なくとも200万年前に骨盤はこの形になります。しかし、それと引き換えに、ぎっくり腰という爆弾を抱えることになります。それから数百万年か経ち、脳を大きくしようとした私たちの祖先がぶつかった壁は、産道がとても狭くなるということでした。

このころ、気候が大きく変動していて、絶滅への下り坂を転げおちていた大型類人猿もいました。人類は、それと同じ運命をたどることからのがれるためには、新しい環境に適応するための大きな脳が必要になったのです。しかし、狭い産道を通って生まれるために私たちの祖先がたどり着いた解決策は、胎児が母親のおなかにいる期間を大幅に短縮して、脳の発達を未完のまま出産することだったのです。本来ならば21ヶ月必要なところが、9ヶ月になったと言うのです。ただ、これには代償が伴います。生まれてくる赤ん坊が、脳だけではなく、そのほかの部分も未熟で無力だということです。サルや類人猿の赤ん坊は、誕生して数時間、長くて数日もすれば活発に動き回るようになりますが、ヒトの赤ん坊がそうなるには丸1年かかるのです。

ですからヒトの赤ん坊は、たとえ月満ちて生まれても無事に育つかどうか危ういのです。早産で誕生した場合はなおさらです。過去10年前後のデータでは、早産の赤ん坊がのちのち発達面の困難、たとえば、成績不振や身体的な問題などの困難に直面する割合は、とても高いと言われています。もちろん、早産の子がみんなそうなるわけではありませんが、リスクは大きいのです。

 ヒトの赤ん坊は、生まれて1年間は、肉と骨のかたまりでしかありませんので、細心の注意で育てていかねばなりません。世話をする者にはかなりの負担になります。赤ん坊をあらがいがたい魅力がたくさんあるのは、確実に面倒を見てもらうためでもあると言うのです。ただ、そこでまた新たな悩みが生じます。母親からすると、男がそばにいてくれると何かと助かりますが、しかし、もし赤ん坊がその男の子どもでないと面倒なことになります。こういう場合の選択肢はふたつしかないとダンバーは言います。それは、赤ん坊を父親そっくりの顔にするか、似ても似つかぬ顔にするかです。男が本当の父親であれば前者で問題はありませんが、残念ながらいつもそうとは限りませんから、無難なのは後者だというのです。ですからヒトもそちらを選択したと言うのです。ヒトの新生児がだれでも同じような顔つきをしているのはそういう理由からだというのです。瞳の色も、白人なら最初はみんなブルーですから、父親は邪念をしなくてすむというのです。その瞳が、ブラウンやグリーンに変わっていくのは、大きくなってからだと言います。

 さらに、念には念をということで、心理的な側面でも後押しをしていると言います。新生児に接する機会があったら、出来れば自分の子でない方がいいそうですが、周囲の人たちの感想に耳を傾けてみるようにダンバーは勧めます。それは、どんなことでしょうか?

 

脳の大きさ

 私たち日本人は、肌の色から見て、アフリカから世界に拡散していった私たちの先祖であるホモ・サピエンスがいつ頃日本に来たのかわかるかもしれません。また、どのようなルートを通って日本にたどり着いたかもわかるかもしれません。ダンバーは、私たちは肌の色をもとに、近い祖先がどこに住んでいたのかを推測できると言います。ただし、肌色が変化するスピードは、進化全体の流れからすると、桁違いに速いそうです。現代ヨーロッパ人の祖先が、いわゆる北欧に落ち着いたのは最後の氷河期が終わってからで、ほんの1万年前のことです。ということで、スカンジナヴィア人の金髪碧眼は、歴史がとても浅いそうです。

 ダンバーは、「赤ん坊はかわいい」し、両親や祖父母からすればなおさらだと言います。彼は、「でもそれでいい」と言います。なぜならヒトの赤ん坊はとても未熟な状態で生まれてくるからだと言います。さらに、妊娠期間を決めるのは脳の大きさだということは、ほ乳類全体に言えるといいます。脳組織が増える速度は一定だということですので、脳を大きくしたければそれだけ時間をかけるしかないのです。そのため、脳の大きい種は妊娠期間が長いのがふつうです。生まれ落ちるタイミングは、赤ん坊自身が決めるそうです。

 ただヒトの場合、この脳の大きさが厄介なのだと彼は言います。ほかのほ乳類を基準にすると、ヒトの妊娠期間は21ヶ月なくてはならないことになるそうです。しかし、実際は、たったの9ヶ月ほどしかありません。その理由は明白で、私たちの先祖は脳を大きくする数百年前に、まずは直立歩行をしようと決意したからだと言います。こうしてヒトの骨盤は、サルや類人猿の縦長の骨盤から離れ、独特のお椀型へと進化していったのです、骨盤がお椀型ですと、上半身と頭、とくに大きく発達した脳をバランスよく支えるのに好都合だったのです。同じヒト属の最古の祖先であるホモ・エレクトスが二本脚で歩き始め、長距離移動が可能になった頃、つまり少なくとも200万年前に骨盤はこの形になったのです。

 進化につきものの悩み、それは完璧な構造を設計するのは不可能だということであるとダンバーは言います。ヒトの場合、長距離歩行と引き換えに犠牲になったのは腰です。もちろん、進化の過程で、背骨の下半分をきわめて強固なものにするとか、ものすごく太く大きい骨にするとかいった工夫もないわけではなかったのですが、そうなると体重が重すぎて自力歩行は出来なくなってしまいますし、身体の柔軟性も失われてしまうことになったでしょう。背骨の柔軟性がなければ、私たちは今のように歩いたり走ったりすることはできません。球を速く遠くに投げることもできませんし、槍で獲物をしとめることもできません。異なる2つの世界をいいとこ取りした結果、ヒトはぎっくり腰という爆弾を抱えることになったのだとダンバーは言います。

 それから数百万年か経ち、脳を大きくしようとした私たちの祖先は、またしても壁にぶち当たります。お椀型の骨盤ですと、産道がとても狭くなるということです。無理矢理通そうとすると赤ん坊の脳が大変なことになってしまいます。

 この段階で、選択肢は限られてきます。もちろん、脳を大きくすることをあきらめてしまえばいいかもしれませんが、そうなると私たちは進化のニッチに留まってしまっていただろうとダンバーは言います。

物語の演出

なぜ、私たちはそれほど物語を好むのでしょうか?それは、物語の多くは起源を伝えるということがあるからだと考えられます。そして、物語では、コミュニティについても語られるので、帰属意識も強まります。その意識によって、世界観が共通で、行動するときのルールも同じだと考えるのだとダンバーは言います。おそらくはるか昔は、生活を共にしたり、血縁どうしだったりしなければ、こうした知識を共有できなかったはずだというのです。

そんなことから、ツウな知識を共有しているしているとわかった途端に仲間意識が生まれ、ほかの連中とは違うのだと思うようになります。宇宙の奥義を握る秘密結社気取りで、内輪だけに通じる隠語をやたらとつくりたがるのもそれだろうと彼は言います。まったく、秘密なんでろくなものではないというのです。

巧みな話術で語られる優れた物語は聞く者を夢中にさせます。そのうえ、夜にたき火を囲みながらとなると、すっかり引き込まれるに違いないと言います。地域や文化を問わず、物語を聞くのは夜に限ると言います。薄暗い闇の中で語られる物語は、どうしてあんなに生き生きとしているのだろうと彼は言います。

夜にたき火を囲むひとときは、たしかに最高にリラックスできる時間だとも言います。今日の仕事はすべて終えて、これといって用事もなく、あとは寝るだけです。それならば、サルや類人猿のように日暮れとともに寝床に入ればいい話ですが、私たちヒトはそんなことはしません。しばらくのあいだ起きていて、おしゃべりを楽しみます。しかもこの時間は、お客を夕食に招いたりと社交にも活用されます。仕事のない週末であれば、朝食や昼食、あるいは、お茶に招待してもいいわけですが、やはり好まれるのは夕食の時間であると言います。ときには、たき火を囲みながら、衣服のつくろいや狩猟道具の手入れといった作業をすることもありますが、そんなときでも物語は語られるのです。

日本の歌にも、こんな光景が歌われています。「ともしび近く きぬ縫う母は 春の遊びの、楽しさ語る。居並ぶ子どもは指を折りつつ 日数かぞえて喜び勇む。囲炉裏火はとろとろ 外は吹雪」子どもたちが、囲炉裏の周りで、母親は衣服を縫いながら語る物語に、胸を弾ませて聞いている姿が思い浮かびます。そのそばでは、父親は縄をなっています。まさに、ダンバーがイギリスの家庭を表現しているその姿は、万国共通なのかもしれません。しかし、現代では、多くの国では、もうそのような姿は見られなくなっているでしょう。

しかし、このような姿は、そのシチュエーションが演出して、人々の心に作用します。ダンバーも、「きっと、雰囲気とか心理的なものが作用しているのだろう。」と言っています。薄暗がりのほうが、語り手は聞き手の感情を操作しやすいし、聞く側もわくわくします。神秘的な生き物が登場する話も多いために、昼間だと現実が見えすぎて興ざめなのかもしれないとも考えられます。闇の中で人は不安になり、無力になります。猛獣にしろ、人間の悪党にしろ、外敵が容易に、外敵に見つかっても逃げおおせる距離である「避難距離」を越えて、接近できるからだとダンバーは言います。語り手は聴衆の感情を意のままに操るには、夜のほうが好都合なのだと彼は言うのです。

そのような意味で、夜子どもを寝かしつけるときの本の読み聞かせや、物語を語ってあげることは子どもの心に深く刻み込まれるのでしょう。

 

母親ことば

 人間の母親は、赤ちゃんに聞かせる歌うような語りかけを行ないます。ディーン・フォークは、それは、言語の起源ではないかと考えています。それは、その言葉には赤ちゃんを落ち着かせる効果があるからです。しかし、それだけではなく、赤ちゃんの発達を後押しする効果もあることがわかってきました。ケンブリッジ大学で生物人類学専攻のポスドクだったリリー・モノットが、52組の母親と新生児を一年間観察したところ、母親ことばをたくさん聞いた赤ん坊ほど発育が速く、にっこり笑うといった発達の指標に順調に到達していたことがわかったそうです。ダンバーによると、これは、けっこう怖い話だと言います。

 サルや類人猿の場合、母親ことばのような声の調子で赤ん坊をなだめることはないそうですし、抱いて優しく揺らしたりもしないそうです。母親ことばは、ヒト独特の行動と思われるのですが、その始まりは容易に想像できると言います。歌うように話しかけることで、赤ん坊のむずかりがおさまります。健康な赤ん坊ほど機嫌が良いのです。となると、そこに淘汰圧が発生して、母親ことばが盛んに行なわれるようになるようです。しかし、どうしてヒトだけで、類人猿のいとこたちはやらないのでしょうか?

 その理由は、ヒトの赤ん坊が類人猿やサルに比べて、1年ほどで遅れているからだというのです。類人猿の赤ん坊は、すぐに自分の面倒をある程度見られるようになりますが、ヒトの赤ん坊はつきっきりで世話をしなくてはなりません。チンパンジーの新生児と同じレベルに追いつくには、一歳の誕生日を過ぎてからです。親の手を煩わせる期間が長く、世話も大変なので、赤ん坊をあやし、おとなしくさせておく手段がどうしても必要だったのではないかとダンバーは考えています。

 それをもとに、母親ことばが発達した時期も推測できると言います。脳の容量が劇的に増え、出産パターンが大きく変化した結果だとすれば、古代型ホモ・サピエンスが出現した50万年前頃と考えられると言います。音楽もほぼ同じ頃と考えていいだろうと言います。母親ことばは音楽の前身、さらに言うなら音楽と言葉の間の踏み台だったのかもしれないとダンバーは考えます。

 母親ことばは厳密には言葉ではないと言います。単語が含まれることも多いですが、不可欠ではなく、意味のない音節で事足りるのです。ねんねんころり……のようにリズムがあって語呂が良ければ充分なのです。そうした特徴からも、言葉が進化する前の先駆的な存在だったことがうかがわれると言います。歌詞のない歌唱やハミング、つまり純粋な音楽に近いかもしれないと言います。母親ことばと共通点が多いのが、アウターヘブリディーズ諸島の女たちに伝わるワーキングソングだというのです。

 台所のテーブルを囲み、織り上げたばかりのツイード生地を伸ばし、やわらかくしながら歌われる独特の歌唱で、これといって意味のないはやし声もあれば、貧困や厳しい労働、悲しい物語を背景にした、いささか卑俗な歌詞が歌われることもあるそうです。口承だけで受け継がれてきた貴重な伝統だと言います。言葉が最初に使われた状況も、こんな感じではなかったかとダンバーは想像しています。たき火を囲んで、あるいは果物を集めたり芋を掘ったりしながら、女たちが声を合わせていたのだろうと言うのです。合唱は、エンドルフィン放出の引き金になります。みんなで、声を一つにすれば、つらい仕事も楽になるのだというのです。