統計学者・実験家・哲学者

「赤ちゃんは統計学の達人」であることがわかりました。「赤ん坊は統計分析が得意だ」というのです。8カ月の赤ちゃんに主に白い玉が入った箱の中から数少ない赤い玉を取り出して見せると、赤ちゃんは確率的に起こりにくい結果に驚くことがわかったのです。赤と白の玉の割合を逆にするなど、設定を変えたさまざまな実験から、赤ちゃんは赤い玉に興味を持つなどというような別の理由は否定されているそうです。20カ月の子どもに緑と黄色のおもちゃを使って実験した場合、ある人が少ない色のおもちゃをたくさん取ると、子どもはその人がその色のおもちやを欲しがっていると考えるというのです。このようにして、赤ちゃんや幼児は科学者のように統計バターンを見つけ出し、そこから結論を引き出すことによって、周囲の世界について学んでいるのです。

さらにこんなことも付け加えています。「根っからの実験家」だということです。

4歳児は得られた手がかりから因果関係を理解するのがうまいようです。例えば、装置についた2つの歯車のうち一方が別の歯車を回しているかどうかを上手に探り当てることができるというのです。おもちゃで自由に“遊び”つつ、正しい実験と正しい理論の組み立てを行う子どももいます。積み木をある組み合わせで置くと高い確率で光る「ブリケット探知機」という装置を使った研究で、 4歳児が統計に基づいて装置の働き方を理解していることがわかったそうです。装置がそれまでにない予想外の反応をしても、きちんと考えることができたのです。それどころか、装置が積み木に対して変わった反応を示した場合には、子どもは大人よりも自由な発想で対応したのです。

もともとこの記事を書いたアリソン ゴプニックは、「哲学する赤ちゃん」(亜紀書房)を2010年10月に発行しています。この本は、当時随分と話題になり、私もこのブログで取り上げました。この本では、「哲学する」という言い方ですが、彼女は、実は、科学とは、統計や実験によって現象の因果関係の理解を修正しながら体系化してゆく作業であるのに対して、これと同じ意味で「子供(赤ちゃんや幼児)は科学者と同じやり方で学習する」という「理論理論」を2003年に提唱しているのです。

つまり、ヒトが科学する能力は、ひとりで生きられない長い幼児期間を生き抜くすべとして実装されたプログラムの延長であり、それにより人間の生活様式に画期的な変革がもたらされ未来を生き抜く科学知識が進化的にヒトに備わった、というのです。この内容が、サイエンスの中で要約されているのです。

赤ちゃんと幼児に関する発達心理学の研究は、この30年間に大きな進展がありました。ゴプニックは、これを「科学革命」と呼んでいます。これまで何も考えていない未熟な状態と考えられていた赤ちゃんや幼児が、実は統計や実験を理解し論理的に考える能力を持っていることが明らかになったのです。

ゴプニックは、著書「哲学の赤ちゃん」のサブタイトルとして、「子供たちの心が真実、愛、そして人生の意味について教えてくれるもの」ということで、幼児や幼児が自分たちの環境での実験を含め、科学者と同じプロセスを使ってどのように認知的に発達するかを探っているのです。

未完の大人?

幼い子どもは前頭前皮質の制御が不十分で、それが大きなマイナス面にも見えますが、実際のところ学習にはとても役立っているようだと言います。前頭前皮質は無意味な考えや行動を抑制するそうです。しかし、赤ちゃんや幼児は前頭前皮質による抑制がないため、自由に探索ができるのだろうとゴプニックは言います。子どものように創造的に探求し柔軟に学ぶ能力は、大人のように計画的かつ効率的に行動する能力と引き換えに失われていくと思われています。迅速な自動処理能力と余分な接続が取りはらわれた脳のネットワークなど、効率的な行動に必要な資質は、柔軟性など学習に役立つ資質とは根本的に相反するものなのかもしれないと言うのです。

過去の10年聞の研究で、幼年期と人間性についての新たな概念が生まれました。赤ちゃんや幼児は単なる未完の大人ではないということです。これは、いわゆる白紙論に対する否定的な見方です。それは、観察からだけでなく、脳のシナプスの数の過形成と刈り込みによっても明らかになってきているのです。このことをもう少し認識することが必要です。すなわち、赤ちゃんや幼児は、変化し、創造し、学び、探求するために、進化によって極めてみごとに設計されているというのです。このような能力こそが人間の本質で、人生の最初の数年間に純粋な形で表れるようです。私たちが人間として価値ある成果を成し遂げられるのは、かつて大人に依存する無力な子ども時代があったからだと言うのです。幼年期や子育ては、私たちの人間性にとって不可欠であるとゴプニックはまとめています。

この記事が掲載されている別冊日経サイエンスで、ゴプニックは「子どもの意外な“脳力”」について、キーコンセプトとしてこのようにまとめています。

赤ちゃんは、「実験し、分析しながら学んでいく」存在であるということです。その能力として、「赤ちゃんや幼い子どもは、心理学者の予想をはるかに超えた認知能力を持っている」ことがわかりました。例えば、他者の経験を想像することや、原因と結果の関係を理解することもできるのです。次に、「子どもは、科学者のようなやり方で世界について学ぶ」ようです。また、「実験したり、統計的な分析をしたり、観察した結果を説明するための理論を作り上げることもできる」ということもわかりました。そして、「人間は無力な幼児として過ごす期間が他の種に比べて非常に長い」のです。それは、「学習や創造に必要な脳の神経回路を築くために必要な期間として、進化の過程で設けられたのだろう」ということが明らかになっています。

また、この記事の中で、特に強調したいことを挙げています。

無知に見える赤ちゃんや幼児でも、科学者の予想を上回る学習能力を持っていることが明らかになってきました。また、赤ちゃんは奇抜で予想外の出来事を長く見つめます。そうした行動を観察すれば、予想していたことがわかります。

進化によって設計

別の子どもたちには「おもちゃの動かし方を教えるね。どういうときに音楽が鳴って、どういうときに鳴らないか見ていてね」と言って、先ほどとまったく同じ長い操作をやって見せました。それからおもちゃを鳴らしてと頼むと、子どもたちは“近道”をせずに、長い操作の全部を真似たのです。自分で見たことについての統計を無視したのでしょうか?おそらくそうではないとゴプニックは考えています。この行動はベイズモデルできちんと説明できると言います。彼らは「先生」が最も役に立つ操作を行うと予想したそうです。平たく言えば、もし先生がもっと短い操作を知っているのであれば、不要な操作を見せたりしないだろうという考えです。

脳が進化によって設計されたコンピューターだとすれば、非常に幼い子どもに見られる並外れた学習能力が進化した意味はどこにあり、どのような神経回路によって支えられているのでしょうか?この能力に関する最近の生物学的知見は、心理学的な研究結果とよく一致していると言います。

進化的に見て人間の最大の特徴の一つは、成熟するまでに非常に長い時間がかかることです。私たちの幼年期は他のどんな種よりも長いのです。なぜ赤ちゃんはこれほど長いあいだ無力で、大人の助けを必要としなければならないのでしょうか?

動物界全体を見ると、成体の知能と柔軟性は赤ちゃんの未熟さと相関しているそうです。ニワトリなどの「早成」種は特定の環境に適応する特殊な能力を生まれながらに持っていて、この能力に頼って生きているため成熟が速いのです。

一方、子が親の世話を必要とし、親から餌をもらわなければならない「晩成」種は、学習に基づいて生きています。例えば、カラスは1本の針金など初めて目にした物体を道具として使う方法を考え出すことができますが、カラスのヒナが親を頼る期間はニワトリよりもはるかに長いそうです。

学習には多くの利点がありますが、学習を成し遂げるまでは無力です。進化はこの問題を赤ちゃんと大人の間で分業することによって解決したようです。赤ちゃんは保護されているあいだ、他には何もせずただ周囲の環境について学ぶのです。成長してからは、学んだことを利用して生き延び、繁殖し、次世代を育てます。基本的に、赤ちゃんは学ぶようにできているというのです。

神経科学的にも、この学習を可能にする脳の仕組みの一部が明らかになってきたそうです。赤ちゃんの脳は大人の脳よりも柔軟だと言われています。ニューロン間の接続は赤ちゃんの方がはるかに多いのですが、きちんと機能しているものはありません。しかし、時間とともに使われない接続が除かれ、役立つ配線が強化されていきます。これが、過形成と刈り込みです。また、赤ちゃんの脳には接続変更を容易にする化合物が豊富にあるそうです。

人間には前頭前皮質と呼ばれる特有の脳領域があり、成熟にはとりわけ長い時間がかかります。この脳領域がつかさどる集中、計画、効率的な作業といった大人の能力は、幼年期の長期にわたる学習に基づいて育まれます。この領域の配線は20代半ばまで完成しないこともあるそうです。

確率論的モデル

子どもが本当の科学者のように意図して実験や統計分析を行っているわけではないことは明らかですが、子どもの脳は科学的発見をするのと同様の方法を無意識に使って情報を処理しているに違いないとゴプニックは考えています。認知科学では、脳は進化によって設計され、経験によってプログラムされるコンピュークーのようなものだという考え方が基本としてあるそうです。

情報工学や哲学の分野では、科学者や子どもの強力な学習能力の解明に向けて、数学の確率的な概念を取り入れ始めたそうです。機械学習用のコンピュータープログラム開発のためのまったく新しいアプローチとして、「確率論的モデル」が使われているそうです。このモデルは、「べイズモデル」とか「べイズネット」とも呼ばれているそうですが、あまり聞きなれない言葉ですね。しかし、このプログラムは複雑な遺伝子発現の間題を解くこともできるし、気候変動の理解に役立っこともあるようです。この手法によって、子どもの脳内コンピューターがどう働くのかについて新たな概念が生まれたと言われています。

確率論的モデルでは2つの基礎的な考え方を組み合わせます。まず、子どもが物事や人、言葉に関して持ちうる仮説を数学的に表します。例えば、因果関係についての知識を事象と事象とを結んだ図で表すことがてきます。「青いレバーを押す」から「アヒルが飛び出す」に矢印をひけば、仮説を表現できます。

次に、仮説と各事象が起こる確率とを体系的に関連づけます。事象が起こるパターンは科学では実験や統計分析から導かれます。データによく合う仮説がより高い可能性を持つのです。ゴプニックは、子どもの脳はこれと同じような方法で、周りの世界についての仮説を確率パターンと関連づけていると考えてきたそうです。子どもの推論の仕方は複雑かつ鋭くて、単純な関係や規則では説明できないと言うのです。

さらに、子どもが意図せずにこうしたベイズ統計解析をしているとき、異常な事例を考慮に入れるという点では大人よりもむしろ上手なようだと考えているようです。ゴプニックたちは、これから学会で発表予定の研究で、4歳児と大人にプリケット探知機を見せました。この装置の動かし方は少し変わっていて、 2個の積み木をいっしょに置く必要があります。その方法を探り当てるのは、大人より4歳児の方がうまかったそうです。大人はそれまでの知識に頼りすぎて、目の前の装置はそれに当てはまらないことを示しているのに、普通そんな動き方はしないと考えてしまうからのようです。確かに、このような刷り込みは真実を曲げ、本質を見つけるのにも邪魔なものになる可能性があります。それは、さまざまな点で思い当たりますね。

ゴプニックのチームが最近行った別の研究では、子どもは教えられているいると思うと自分の統計分析を変えてしまい、その結果として創造性が低下する場もあることがわかったそうです。実験者は4歳児に正しい一連の操作をすれば音楽が鳴るおもちゃを見せました。例えば、ハンドルを引いてから球状部を握るといった操作をすればよいのです。

何人かの子どもに「私はおもちゃをどうすれば音楽が鳴るのかわからない。みんなで調べてみよう」と言って、少し長い一連の操作をいくつか試して見せました。長い操作の最後に行う短い操作によって、音楽が鳴る場合と鳴らない場合があるようにします。さあ、おもちゃを鳴らしてみせてと言うと、多くの子どもが必要とされる短い操作だけを試し、自分で見た統計に基づいて不要だと思われる部分をちゃんと省いていたのです。

世界の仕組みを知る

別の実験で、ゴプニックは、現作はマサチュ一セッツ工科大学にいるシュルツとともに、スイッチが一つと上部に2つの歯車(青と赤)がついたおもちゃを4歳児に見せました。スイッチを入れると歯車が2つとも回るという簡単なおもちゃなのですが、どのようにして歯車が回るのか、さまざまな可能性が考えられます。例えば、スイッチが入ると両方の歯車が回転するのかもしれませんし、スイッチで青い歯車が回転し、それによって赤い歯車が回るのかもしれません。

ゴプニックたちは子どもたちに、こうした動き方を描いたイラストをいくつも見せました。例えば赤の歯車が青の歯車を押している図です。次に、そのうちのある方法で動くおもちゃを見せ、それがどう動いているかを示すやや複雑な手がかりを与えました。例えばこの因果連鎖おもちゃの昔の歯車を取り除いてからスイッチを入れても赤の歯車は回りますが、赤の歯車を取り除いてからスイッチを入れると何も動きません。

次に、子どもたちにそのおもちゃに合った動き方のイラストを選んでもらいました。4歳児は、ゴプニックたちが見せた手がかりに基づいて、驚くほど上手におもちゃの動き方を当てることができたそうです。さらに、何の説明もなくおもちやを渡された子どもは、歯車が動く仕組みを探るように遊んでいたそうです。その様子はまるで実験をしているみたいだったそうです。

シュルツは別の実験で、アヒルか人形が飛び出す2つのレバーがついたおもちやを使いました。未就学児のグループに、一方のレバーを押すとアヒルが出て、もう一方を押すと人形が出るところを実演して見せました。別のグループには、両方のレバーを同時に押すと両方のおもちゃが飛び出すのを見せましたが、レバーを別々に押すとどうなるかは見せませんでした。それから子どもたちをおもちゃで遊ばせました。

最初のグループの子どもたちは2番目のグループの子どもたちに比べ、おもちゃで遊ぼうとしなかったそうです。おもちゃがどう動くかをすでに知っていて、仕組みを探ることにあまり興味がなかったからだと考えています。ところが2番目のグループは謎に直面したため、自発的におもちやで遊び、どのレバーが何をするのかをやがて探り当てたそうです。

これらの研究結果から、子どもたちが自発的に、“ものすごく熱中して”遊んでいるときは、因果関係を調べたり、実験を行ったりしていると考えられると言うのです。実験は世界の仕組みを知るための最良の方法だとゴプニックは言います。

子どもたちのこうした特性を知って、科学ゾーンに取り組むべきでしょう。単に、早期教育だとか、また、何かを教えるような科学では意味のないことを知ります。ただ、子どもたちのこうした試行錯誤は、一人で黙々と集中して取り組むときと、皆でわいわいと言いながら取り組むときとでは、身につくものが少し違う気が私はしています。それは、個人差があるのでどちらがいいかということは言えませんが、今までの研究や、取り組みに、子ども同士が知恵を出し合うことの意味が少ないようです。しかし、“助っ人理論”ではありませんが、社会に出てそれは大切なことだと思うのです。特に、私たちの先祖であるホモ・サピエンスは集団の中で、知恵を出し合って道具を進化させていったのです。

科学的発見

赤ちゃんは統計の標本と母集団の関係を理解することもできるそうです。2008年、カリフォルニア大学バークレー校のゴプニックの共同研究者シューと赤のピンポン玉を使って実験をしたそうです。8カ月の赤ちゃんに白と赤の球を4対1の割合で入れた箱を見せ、そこから無造作に5種の球を取り出します。すると赤ちゃんは、確率的に低い赤玉4個と白玉1個を取り出したときの方が、白玉4個と赤玉1個を取り出した時よりも驚いていたそうです。その状況をより長い時間じっと見つめたというのです。

統計パターンを見つけ出すことは、科学的発見に至るまさに第一歩です。さらに驚くことに、子どもは、科学者のように統計に基づいて周囲の世界に関する理論を組み立てるというのです。

ゴプニックは20カ月の赤ちゃんを対象に、ピンポン玉を緑のカエルのおもちゃと黄色いカエルのおもちゃに変えて実験を行ったそうです。実験者が箱から5個のおもちやを取り出した後、テープルの上のおもちゃの中からどれか1つをちょうだいと子どもに頼みました。カエルのおもちゃが多い箱からカエルをたくさん取り出した場合、子どもが選ぶ色に傾向は見られなかったそうです。しかし、その箱からアヒルをたくさん取り出したとき、子どもはアヒルを選んで実験者に渡したそうです。どうやら子どもは、実験者が確率の低い選択をしたのは、無作為に選んだわけではなくアヒルを好きだからだと考えたようだと言うのです。

ゴプニックの研究室では、幼児が因果関係を理解するために統計データと実験をどのように使うのかを調べてきたそうですが、子どもの思考能力は“因果関係がわかる以前”のレベルをはるかに超えていることが明らかになりました。

ゴプニックたちは「プリケット探知機」という装置を使って実験しました。この装置を子どもに見せ、ある物(プリケット)をのせると光って音楽が鳴ると説明します。次に、この装置にいろいろな物をのせて装置の作動パターンを見せ、子どもたちがどのような因果関係を引き出すか調べたのです。「さあ、プリケットはどれかな?」と。

2007年に、ゴプニックは、現在はコーネル大学にいるクシニルと、未就学児がその装置を動かす方法を確率から学ぶことを発見したそうです。ゴプニックたちは、 2つの積み木のうち1つを繰り返し置いて見せました。黄色い積み木を置くと、装置は3回のうち2回光りましたが、青い積み木の場合は3回のうちの1回だけ光りました。次に積み木を子どもたちに渡し、装置を光らせてと頼みました。子どもたちはまだ足し算引き算ができないにもかかわらず、確率の高い黄色の積み木を置くことが多かったそうです。

積み木を装置に触れずに上方で振って装置を作動させた場合、子どもたちは作動確率の高い積み木を正しく選んだのです。子どもたちは実験の開始時点では、このような“遠隔作用”はありえないと考えていたそうですが、それは子どもたちに尋ねて確認したのですが、子どもたちは確率を使い、まったく新たな驚くべき事実を発見するに至ったそうです。

立場に身を置く

1996年に、現在ワシントン大学にいるレバチョリとゴプニックはある発見をしたそうです。18カ月児は他者が自分とは違うものを欲している場合があることを理解できるということです。

実験で、 14カ月児と18カ月児に生のブロッコリーが入った器と金魚形のクラッカーの入った器を見せ、それぞれをいくつか食べてまずそうな顔か、おいしそうな顔をして見せたそうです。手を出して「少し私にくれる?」と尋ねると、18カ月児は自分用にクラッカーを選んでも、実験者がプロッコリーをおいしそうに食べたときはプロッコリーを渡してくれたそうです。ただし、14カ月児は常に実験者にクラッカーを渡したそうです。

このように、これほど幼い子どもでも完全に自分本位ではなく、立場に身を置くことができるようです。4歳ごろまでに、人々の心理についての理解をさらに深めるようです。例えば、ある人が変な行動をしているのは何か間違った思い込みをしているからだと解釈できるようになります。

この研究結果からみると、ピアジェの自己中心性とは何だったかと思ってしまいますね。この自己中心性は、J.ピアジェが幼児の精神構造の特徴を表わすために用いた概念です。もっぱら自己を中心に据えた視点から外界に働きかけ、視点を変えたり、視点と視点の関係をとらえたりすることのできない時期の特徴としました。その特徴が幼児まで見られるとしたのですが、こうした性質は、空間知覚、言語、知的作業など、さまざまな側面について論じられるため、多くの場面で誤解を生じたような気がします。白紙論同様、もう一度乳児を考えるうえで得見直さなければいけない特徴です。

20世紀の終わりには、赤ちゃんはかなり論理的で洗練された知識を持ち、成長するにつれて驚異的な速さでその知識を増やしていくことが明らかになってきました。赤ちゃんが物体や人間のふるまいについて大人なみの知識を持って生まれてくると主張する研究者もいるそうです。新生児が白紙とはほど遠いことは明らかですが、子どもの知識が変化していくことを考えると、子どもは自分の経験を通じて世界について学んでいるのでしょう。

人間は様々な種類の大量の情報を常に知覚していますが、その雑多な情報の山の中からどうやって世界について学ぶのかは、心理学と哲学における最大の謎の一つとなっています。ここ10年間で、赤ちゃんや幼児がどうやってこれほどたくさんのことを素早く正確に学んでいるのかがわかり始めたそうです。子どもは特に統計パターンに基づいて学習する優れた能力があることをゴプニックたちは見出したそうです。

1996年、ロチェスター大学のサフランとアスリン、ニューポートは、言語の音のパターンを使ってこの能力を最初に証明したそうです。彼らはある統計的な規則性を持った一連の音節を数人の8カ月児に聞かせたそうです。例えば、「ロ」という音のあとに「ピ」という音が続くのは全体の1/3ですが、「ピ」のあとには必ず「ダ」という音がきます。その後、同じパターンの音とこの規則に合わない流れの音を聞かせました。すると、赤ちゃんは統計的に珍しい音に長く耳を傾けたそうです。より最近の研究で、赤ちゃんは楽音や視覚的な場面についての統計パターンや、さらに抽象的な文法パターンも見つけられることがわかったそうです。

脳の行為の領域を社会化

遊ばないと社会的スキルが身につかないという考えを裏付ける動物実験結果があります。1999年にBehavioural Brain Research誌に発表された研究によれば、ラットを生後4~5週の最もよく遊ぶ発達時期に2週間隔離しておき、その後の他のラットといっしょにすると、同時期に隔離されなかったラットと比べて社会的な活動が非常に少なかったそうです。

また、2002年にDevelopmental psychobiology誌に発表された研究では、幼若時に隔離して育てられた雄のラットは、優位な雄のラットから繰り返し攻撃を受けても、正常な回避行動を示さないことがわかったそうです。遊びの欠如が、こうした社会的問題を引き起こしたのでしょうか?それとも、社会的隔離そのものがいけなかったのでしょうか?

別の研究では遊びが、情動反応と社会的学習にかかわる「高位の」脳領域での神経の発達を促すことが示されているそうです。戦闘ごっこをすると、新しいニューロンの成長を促進する脳由来神経栄養因子(BDNF)というタンパク質がそうした領域で放出されることが2003年に報告されています。

対照群として13匹のラットを3、5日間自由に仲間と遊ばせる一方、同じ期間、別の14匹のラットを1匹ずつ隔離しておきます。ラットの脳を調べたところ、遊ばせたラットの皮質、海馬、偏桃体、橋は、遊ばなかったラットに比べて、はるかに高い濃度のBDNFを含んでいたのです。この論文の共著者であるワシントン州立大学の神経科学者パンクセップは「遊びには脳の行為の領域を社会化する重要な作用があると考えられる」と言っています。

さらに心の健康にも遊びがきわめて重要であることを示す研究結果があるそうです。おそらく、子どもは遊びよって不安やストレスに対処できるようになるのだろうと考えられているのです。1984年にChild Psychology and Psychiatry Journal誌に発表された研究では、 3歳児と4歳児の計74人を対象に、幼稚園の入園初日の不安の度合いを調べたそうです。不安レベルを測る指標として、だだをこねる、めそめそ泣く、懇願するといった子どもたちの行動と、手のひらの汗の量を用いました。研究者の観察に基づき、子どもたちひとりひとりについて、不安状態にあるかないかを評価した後、 74人の子どもを無作為に4つのグループに分けました。

半分の子どもたちは、おもちゃでいっぱいの部屋に連れていかれ、ひとりで、あるいは仲間の子どもたちと15分間遊びました。残り半分は、ひとりまたは複数の子どもといっしょに小さなテープルに座らせ、 15分間、教師が語るお話を聞かせました。

その後、子どもたちの不安レベルを再び評価したのです。すると、もともと不安だった子どものうち、遊んだほうの子どもは、話を聞いた子どもに比べて不安レベルが半分以下に下がったのです。初めから不安を感じていなかった子どもの不安レベルはほぼ同じままだったそうです。興味深いことに、仲間と遊んだ子どもより、ひとりで遊んだ子どものほうが、よりいっそう落ち着いていたそうです。それは、どうしてでしょうか?空想的な遊びを通して、子どもは幻想を築き上げることができ、それが困難な状況に対処するのに役立ったのだろうと研究チームは推測しているそうです。空想的遊びはひとりでいるときに最もうまくできます。

0歳児から6歳児まで

オープン保育への取り組みは様々な課題が生まれてきます。ミュンヘン市の取り組みを見てみます。まず、「オープン園」に移行する決断を園長が下し、職員全体での「オープン園」移行へ向けての研修を行います。ちなみに、ドイツでは、公立園でも園長はじめ職員の異動は本人の希望がない限りありません。ですから、園長が自分が勤務する園の方針をきちんと説明し、その趣旨に賛同する職員が集まってくるのです。そこで、このようなオープンスタイルにスムーズに移行するためには、まず大人側の発想の転換が必須です。従来の保育方法に慣れている先生たちは、最初は「すべての子どもを把握するなど不可能」という反応を示したそうです。さらに次々と露呈してくる疑問や困難を職員全体で乗り越える協力体制を作っていかなければなりません。

そのために、3年間を通して終日研修が4日間、閉園後の2時間研修が15回ほど行われました。終日研修では、ミュンヘン市学校スポーツ局の担当専門職員が講師として研修を担当しました。その中で大切だったのは、最初の研修において職員一人一人の子ども観について丁寧にすり合わせがなされました。子ども像に対する一致した認識を確認する作業に時間をかけたのです。子どもの権利という観点から保育の見直しを行い、徐々に無理のない範囲での変化を遂げていきました。最初は、過半数が園のオープン化に懐疑的であり、一番憂慮されたのは、「子どもと先生とのつながりが弱くなってしまうのではないか?」「年少児がとまどうのではないか?」という点だったそうです。

その考えが徐々に改まっていったそうです。特に変わったのが、一斉保育において消極的な立場の子どもたちでした。遊びの選択肢、遊び相手の選択肢、かかわる先生の選択肢などが広がることにより、園がより心地よい場所に変わっていることが実感できたそうです。この気づきにより、子どもと先生との絆が弱まる可能性は、実は子どもの側からの問題ではなく、先生側の視点だったこということを理解しました。先生の「子どもとつながっていたい」という気持ちや、「子どもの行動のすべてを把握しているのがいい先生である」という考え方にしばられていたことに気づいたのです。

子どもの視点にたった自発的で無理のない学びが尊重され、長期的で、人格形成の基礎となる遊びの体験に基づいた陶冶が大切とされるドイツ。子どもの願いに寄り添おうと、よりよい保育環境をミュンヘンでは模索していると言います。

今回、1日目午前中に訪問した園でもオープン保育への取り組みが行われていました。この園は、0歳児から6歳児まで45名の園です。ミュンヘンでは、以前は0歳から3歳児までのキンダークリッペと呼ばれる保育園が、生活局管轄で運営されており、3歳児から6歳児までのキンダーガルテンと呼ばれる幼稚園が、学校局管轄で運営されていました、その局が幼児教育として0歳から6歳まで、そして学童クラブを包括して陶冶・スポーツ局に一本化しました。そして、0歳から3歳児まで、3歳から6歳まで、0歳から6歳まで、そして、学童クラブとして、6歳から12歳、3歳から12歳までと様々な形態としてハウスフォーキンダーというネーミングつけたのです。この最初の園は、0歳から3歳までのキンダークリッペだったところ、0歳から6歳までのハウスフォーキンダーに変えた園です。ということは、0歳から6歳までの子どもたちが園内どこに行っても、何をしてもいいというオープン保育です。

子ども集団の在り方

私がハリスの集団社会化理論という考え方を考察するにあたって、いろいろと考えさせられました。私が最初の方に書いた本のあとがきに、「親という字は、木の上に立って、子どもを見ていると書きます。そこには、手偏もなければ、口編もありません。親とは、手も出さず、口も出さず、木の上から見守っている存在です。」というようなことを書いたのです。(本当の語源は違いますが)

その時に、問題になるのは、ではどこまで見ていればいいのか、また、どこから介入すべきなのか、いくら離れていても、子どもには寄り添った方がいいという議論が起きます。しかし、それはあくまでも二項関係の問題です。親と子ども、養育者と子ども、保育者と子どもの関係を論じています。そこには、かつて存在していたような子ども集団でのかかわりが抜けているのです。多くの時間、多くの場所で過ごしていた子ども同士の仲間集団が子どもの生活環境から消えつつあるのです。そして大人が意図して構成する子ども集団は、どうしても大人からのアプローチを主に考えられたものになってしまいがちなのです。

このような意味から園における子ども集団の在り方を見直した結果、取り組まれているのが、ドイツに広がりつつある「オープン保育」という保育です。

私がドイツに行きはじめてから何年目になるでしょうか?ツアーを組んでドイツを訪問した最初は2002年2月でした。今年は、7月1日からドイツに来ています。今年で17回目になります。ドイツ報告も長く続けてきました。その報告では、今課題だと思っている子ども集団での過ごし方を取り上げたいのですが、子どもの姿の写真を撮るわけにはいきません。それは、研究者にも言えることで、そのためになかなか研究が進まないのでしょう。

まず、おさらいとして、オープン保育とはどういう保育なのか、簡単に説明します。

2000年に経済協力開発機構(OECD)による学習到達度調査、いわゆるピサの学力調査において、ドイツは、社会階層による学力格差が大きい国であることが示されました。そこで政府は、就学前段階での教育的側面をより重視することにしたのです。それは、日本でも同じようなことが起きたのですが、日本ではその対策として小学校での教育の「ゆとり教育」を見直して、より教える内容を増やしたのです。それに対してドイツは、まず乳幼児教育を見直そうとしました。

その取り組みとして、「遊び」を通して行なわれるということはぶれずにきちんと抑えようとします。さあ、就学前教育をしましょう、何かをわからせたり、できるようにさせましょうということではなく、どのように子どもの遊びを豊かなものとし、それを自発的に行なわせようということが徹底されます。その結果が「オープン保育」という形態に次第に各園が変わり始めたのです。

では、この保育を子ども側から見るとどういう位置づけになるでしょう。「園の中はどこに行って遊んでもいい」ということのようです。核になるコンセプトは、すべての子どもたちが心地よく過ごせる場所であること。子どもたちは、どこで何をして誰と遊ぶかを自分で決めることができ、園は子どもの決定権や、参画を保証する場とされます。保育者から見ると、自分が分担するクラスはありますが、基本的には園の子どもすべての担任という意識です。職員全体で園全体の子どもたちを保育し、「私のクラス」、「僕の担任の先生」という概念がなく、「私たちの園」、「私たちの先生」、職員から見れば「私たちの園児」というとらえ方です。