融合

ある傾向、たとえば、青年男性の暴力が、進化的な考察をもとにすると「自然」であったとしても、その傾向が道徳的に「よい」とか必然的であるわけではありません。現代文化における子どもの発達についていえば、学校教育は「進化によるメカニズムが必ずしも適応的ではない」最たる例かもしれないとビョークランドは言っています。進化発達心理学の観点からすると、私たちの祖先が決して直面することのなかった課題を教えるという点で、学校で子どもに教えることの多くは「不自然」であるからです。そして、行動の「正常な」個人差、活動レベルの高い子どもが示す行動などであっても、現代の環境ではとりわけ不適応になってしまうものもあるのだと言うのです。

発達心理学は、進化論が主要な役割を果たした19世紀後半の生物学の考え方に端を発しているそうです。進化論は20世紀の大半にわたって主流の発達的な説明からは姿を消しましたが、主として、通常ヒトより下等な哺乳類や鳥といった種を研究した発達心理生物学者の考えの中で生き続けてきたそうです。進化論は復活し、学会でも、自然淘汰や進化による心理的メカニズム、大型類人猿との共通点についての考えを公言できるようになり、また真剣に受けとめられるようになりました。

発達心理学者はこの流れに少し乗り遅れていたと言います。その一因はこの分野の歴史と主題にあるとビョークランドは考えています。主流の進化心理学者は、一見して適切な環境的文脈が与えられた成人に現れる「ダーウイン的アルゴリズム」を論じていたため、発達を考慮する必要性はほとんどないように思えたのです。それは生物学的進化の有力な説明、つまり現代の総合説においても同じであり、基本的に個体発生が系統発生に影響を与える余地はないとされてきました。しかし、発達学者は新生得主義、行動遺伝学などの独自の理論を生み出し、また、進化における個体発生の役割に注目する者は、暗黙的あるいは明示的に進化に関する仮説を組み入れていきました。しかし、これらの理論家は必ずしも進化や個体発生の過程を同じように考えていたわけではなく、統一された発達理論は出てきそうにありませんでした。

時代思潮は変わり、個体発生の進化にもとづく理論の可能性を考える発達心理学者が増えつつあり、その一員であることをビョークランドは嬉しく思っていると言っています。そして、この考えは、発達を真剣に考えるすべての人に広がっていくことだろうと言うのです。現在重視されている発達の進化的な説明が次第に消えていくこともありえますがビョークランドらはそうならないと考えていると言います。実験を行い、理論を立てる上で進化を重視する研究者が多くなるにつれて、発達の説明における進化の役割は時間と共に必ずや変化していくだろうと言います。しかし、現代の生物学の基礎となっている理論は、現代の心理学や発達心理学の基礎にもなるはずであり、それがすぐに過去のものになってしまうことはないと信じていると言います。

ビョークランドは、もともと発達心理学者です。子どもが受精し出生して、大人になり、そして年を経て死に至ります。その過程での変化を強調するのが発達心理学です。それに対して、進化論に基づき、淘汰の過程を成熟個体が子孫を残すことを通して自らの遺伝子を伝えるところに求めるのが進化心理学です。その二つを融合しようとしたのが進化発達心理学です。それは、それぞれの主流の考え方には、あまりにも争点が多いからだと言います。今後もこのような融合された視点から育児、保育を考えていく必要があると思っています。

進化適応の環境

遊びによって運動と、自分の現在の環境に関する知識が得られ、社会的階層を確立し、コホートにおける「自分の立場」を学習するための安全な場として遊びは機能します。子ども期が長くなったことによって、子どもは複雑な成人の社会的集団における生活を学習し、準備をする時間を得ることができるのは明らかだと言います。しかし、生殖可能な成人として生きる助けとなる経験を子どもに与えたとしても、子どもが乳児期、子ども期をうまく乗り越えられなければ何の役にも立ちません。進化は子ども、そして他の種の幼体に、未来の環境に向けて準備するためだけではなく、その直接的な環境にうまく適応していくための多くの特徴を与えてきたとビョークランドらは、提起しています。また遊びの他にも新生児模倣や自分の能力の過大評価など、いくつかの社会、認知的な現象も、成人としての質的に異なる生活の準備をするためではなく、主として乳幼児が個体発生のある特定の時期に適応するために機能する可能性があると彼らは考えています。

子どもらがとる行動には、そのような意味があるとしたら、唐突ですが、私は子どもが持つ愛着という行為も、同様だと考えます。愛着というものは、子どもたちが、将来、複雑な成人の社会的集団における生活のために必要なものであり、同時に、乳幼児が個体発生のある特定の時期に適応するために機能する可能性があると思えるのです。

進化心理学の基本理念によれば、進化したのは領域固有の情報処理プログラムであり、私たちの祖先が進化適応の環境で繰り返し直面してきた比較的特殊な問題に対処するために淘汰されてきたと考えられます。心は広範囲の問題に等しく十分に応用できる多目的の装置ではなく、一連の独立し、特殊化したモジュールから成っているというのです。発達学者の視点からいえば、乳児はある情報を他のものより容易に処理し、学習するよう「準備」して生まれてきて、その準備は子ども期から青年期にわたって社会的、認知的発達をとげるための土台として役立ちます。モジュールは、とりわけ物理的な知識である物の永続性、数学、言心の理論について提起されてきたのです。

主流の進化心理学のいう領域固有のメカニズムの重要性について、ビョークランドらは基本的に同意していますが、次のようにも考えていると言います。つまり、ヒトには領域一般の能力があり、その能力は系統発生を経て淘汰されてきており、個体発生の過程で領域固有のメカニズムと相互作用するのであると考えます。当然ながら、単一の領域一般のメカニズムで、すべての学習や認知を説明できるとは考えていないと言います。しかし、多くの課題成績に影響を与えるいくつかの領域一般のメカニズムであるワーキングメモリ容量、処理速度があり、そのメカニズムが進化の過程で淘汰圧を受けたと彼らは提起しています。この提起は現存するデータを説明するように思われ、どのような進化心理学理論であれ、これを検討することなくして十分明確なものとはいえないと言うのです。

社会的、行動的、認知的傾向のなかには、先史時代の祖先に適応的であったというだけで、それが現代のヒトに適応的であるわけではないものもあります。同様にある傾向、たとえば、青年男性の暴力が、進化的な考察をもとにすると「自然」であったとしても、その傾向が道徳的に「よい」とか必然的であるわけではありません。

何のための子ども期?

「成人期の準備としての子ども期」仮説を、おそらく最も大きく反映しているのが性差だと言われています。そこで、成人の機能を扱う進化心理学者は性差に焦点を当てることが多く、男性と女性は異なる自己利益をもつため異なる心理を発達させてきたと仮定します。これは特に配偶行動や育児、同性間競争に関する性差に現れていると言います。しかし、これらの行動や傾向、思考過程は、思春期のホルモンによってはじめて突然に現れるのでも、生まれたての子どもの泣き声を聞けばすぐに現れるのでもありません。こうした行動や傾向、思考過程には発達的な歴史があり、子どもは進化による性質を基盤として、性特異的な行動をその場の規範に合わせていくと考えられているのです。

今までのブログでも、ビョークランドの考える子ども期における性差の例を繰り返し紹介してきました。この性差は男性と女性の成人役割、もっと的確には、進化適応の環境における先祖を特徴づける「伝統的な」性役割の準備をしているように見えます。その例が異なる遊びのスタイルだというのです。就学前の時期に始まり、すべての文化において、男児、そして、多くのヒト以外の哺乳類のオスは、女児よりも取っ組み合い(R&T)遊びを行う傾向が高いのです。R & T遊びにあるとされる機能のひとつは、 R&T遊びと成人の行動の類似性をもとに考えると、男性が行う成人の戦いと狩りの準備であるということです。一方、女児は男児よりままごと遊び、たとえば、人形遊びをすることが多く、女児の遊びは身体にもとづく優劣関係に重点がおかれることは少ないようです。これは女性が主に子どもの世話をすることと関連している、そして、成人男性の関係は身体的な優位性にもとづく傾向が強いという進化による性質と見なされています。とりわけ攻撃性や競争、リスクティキング、空間認知、行動抑制に関する子ども期の性差は同様に、男児と女児で成人の生活への準備が異なることを反映していると仮定されているのです。

進化発達的な視点からすると、種全体にわたるこのような性差は、いかなる生物学的決定論の考え方にも当てはまりません。むしろ、進化による後成的な規則によって男児と女児にバイアスがかかり、異なる環境と経験をもつようになると考えられます。そして、それらのバイアスを文化が支えている限り、子どもは「正しい」方向、つまり、何世代にもわたって繁殖的な成功と結びついてきた成人の行動へと導かれていくと言うのです。しかし、そういった進化によるバイアス自体は、発達的パターンを作り出すには十分ではありません。ヒトの行動は非常に柔軟であり、ある結果が他の結果よりも起こりやすいとはいえ、それが実現するには環境的な支えを必要とするのです。

乳児期や子ども期の多くの側面は成人期の準備と見なすことができますが、それがすべてではないというのです。乳児期や子ども期の多くの特性は、子どもが後の生活の準備をするためではなく、発達のその時期にだけ適応的な機能を果たすよう進化において淘汰されてきたと考えられています。ビョークランドらは、成人してうまく生きていくのに役立つ情報を学習するひとつの方法として遊びを捉えています。しかし、遊びの多くの側面には即時的な機能があるとも考えているとも言います。遊びによって運動と、自分の現在の環境に関する知識が得られ、社会的階層を確立し、コホートにおける「自分の立場」を学習するための安全な場として遊びは機能するのです。

相乗的相互作用

ヒトの新生児は白紙状態であるという概念は時代遅れであり、ほぼ世界中の発達心理学者が却下しています。では、新生児は何をもって生まれてくるのでしょうか?ビョークランドは、その答えは、後成的なプログラムであり、それは悠久の時間をかけて進化してきた、太古の祖先が経験した環境の一般型に対応したものであると答えています。これらのプログラムが絶え間なく環境と相乗的相互作用をすることによって、発達のパターンや、その結果として成人行動が生まれ、私たちはひとつの種としての特徴を手にするのだというのです。

ホモ・サピエンスが他の種と異なる点は多くありますが、今までのブログでも書いたように、特に発達的視点に関連しているのは、長い未成熟期なのです。ヒトの個体発生のタイミングは、霊長類の系統発生に見られる傾向が延長されたにすぎませんが、ヒトは他の哺乳類より「前生殖期」が長いのです。若い時期の長期化には明らかにコストがあります。死亡率は乳児期以降、急激に低下しますが、先史時代の多くの子どもは伝染病や病気、事故によって、性的に成熟する前に死亡していたことは明らかです。しかし、その時期が長いことによて、発達の速度が遅いことに伴う多くのコストを上回る、何らかの非常に大きな利益があったはずです。それらの利益は、ヒトが複雑な社会的共同体にうまく対処することに見てとれると言います。ヒトの認知的な進化について現在よく用いられる説明では、ヒトの知的進化にかかった唯一最大の圧力は、同種個体と協力し、競争する必要があったことであると言われています。ヒト科の集団がより複雑になるにつれて、個体は自分自身をもっとよく知り、同種個体の思考や願望、知識をよりよく理解し、おそらく他者を操作することが必要になってきたのでしょう。社会的な世界でよりよく生きていくことができた者は、質の高い配偶者や資源を得るという意味でより多くの利益を手にし、自分の認知的特徴を子孫に伝えていったのです。

しかし、世界中でヒトの集団は類似してはいるものの、多様性も高く、集団生活の予測のつかない変化をうまく乗り切るためには柔軟な可塑性に富む知能が必要でした。これには大きな脳が必要なだけではなく、脳の完成にも長い時間がかかってしまいます。大きな脳や社会的複雑性、長い未成熟期が混じり合い、現代のヒトの心の舞台が作られたのだとビョークランドは言うのです。

乳幼児期の経験は個体が成人としての生活を準備するためにあるという考え方は、おそらく発達心理学の規範のひとつです。進化発達心理学の見解も同様であり、乳幼児期のある側面は、おそらく成人期に役立つ社会的集団の様式を学習する機会を子どもに与えるために淘汰されて残ったと考えます。そこで、遊びの諸側面は準備メカニズムのよい例なのです。子どもは遊びを通じて身の回りの物理的環境や社会的な世界について多くのことを学び、それが後の人生で役立つのです。

子ども期にはこの説明に合う側面が多くありますが、「成人期の準備としての子ども期」仮説をおそらく最も大きく反映しているのが性差なのです。

遺伝と環境

どうも研究というものは、難しい言葉で定義づけるものですね。まあ、誤解を受けないように、違う解釈をされないようにということはわかるのですが、かえって難しくしている気がします。その説明によると、発達心理学者は、最近は、「遺伝と環境がどのような相互作用をして、発達のある特定のパターンが生み出されたのか」と問うようになったそうです。それに対して、進化発達心理学では、発達システムアプローチは、生物学的および環境的要因がいかにして個体の複数のレベルで作用し、個体発生の特定パターンを生み出すのかを明らかにしようとしています。この立場からすれば、新しい形態学的構造や行動は、単純に遺伝子の青写真を読み取った結果生じるのではなく、遺伝から文化まで、全レベルの生物学的、経験的要因が継続的かつ双方向的に作用した結果出現すると考えます。ここでまず重要な点は「あらゆるものが発達する」ということです。初めから表現型というかたちで、つまりは完全な形式で現れるものはないとします。新しい構造や機能は、それ以前のものから確率論的に生じるとします。二番目に重要な点は、「経験」は広義に定義されており、たとえば、神経細胞の発火といった自己産出活動など、個体にとっての外因的、内因的双方の事象を包含しているということです。あるレベルの機能は隣接したレベルの機能に影響を与え、レベル間で絶え間なくフィードバックし合っていると考えます。発達システム的な見地からすると、純然たる遺伝的効果も環境的効果も存在しません。あらゆるものは構造と機能の双方向的な関数として、絶え間なく、受精から死に至るまで全体にわたって発達していくのだと考えるのです。

それでは、進化心理学者が主張する、進化による心理的メカニズムをどう理解したらよいだろうかという疑問を持ちます。そのようなメカニズムは遺伝的にコード化された「メッセージ」や「経験則」と考えることができ、後成的な規則に従って、この場合もやはり広義の環境と相互作用し、やがて行動を生み出すと考えます。個体それぞれが独自の経験をすることによって、発達の結果にはかなりの多様性が生じます。なぜなら、どの個体も同じ経験をすることはないため、どんな種にあっても、まったく同じ表現型が出現することはないからです。しかし、発達システムアプローチは、個体は種に特異的なゲノムだけではなく、種に特異的な環境も受け継いでいると主張しています。ヒトでいえば、これには子宮や授乳する母親、血縁者と非血縁者双方を含む社会的集団などが当てはまります。ヒト、あるいはアヒルやチンパンジーが共有する、世界共通の身体的、行動的、心理的特性をもたらしているのは、種のゲノムの類似性だけでなく、種の環境の類似性でもあるのです。個体がその祖先の環境と類似した環境で成長する限り、種に特異的な傾向に従うはずであると考えます。このことをもう少し進めて考えた人がいます。アメリカ合衆国の心理学者であるジュディス・リッチ・ハリスです。彼女は、なぜ人の個性がそれぞれ異なっているのか、同じ家で育った一卵性双生児でさえ同じでないのはなぜかの説明を試みています。そして人間関係、社会化、ステータスという三つの異なったシステムが人の個性を形成すると提案しているのです。彼女の考え方は次回に譲るとして、では、ヒトの新生児は白紙状態であるという概念は時代遅れであり、ほぼ世界中の発達心理学者が却下しているとしたら、新生児は何をもって生まれてくるのだろうか?

進化発達心理学では

進化心理学者が必ずしも無視してきたわけではありませんが、また完全には組み入れられてはいない証拠資料があるとビョークランドは言います。第一に、比較心理学という分野があり、特にホモ・サピエンスと私たちヒトの遺伝的な近縁種である大型類人猿との類似点や相違点が調べられています。ビョークランドらが比較データを数多く用いて考察するのは、認知的な進化に基本的な連続性があると考えているためだと言います。ただし、それぞれの種は直面する問題の解決策を独自に進化させたことも認識しており、系統発生の不連続性には常に目を光らせているとも言います。第二に彼らには最も重要だそうですが、乳児や子ども、発達の過程を検討することだそうです。私たちヒトには行動的、認知的可塑性があるため、「完成版」の大人に注目するだけではヒト独自の本質についてゆがめられた姿を伝えてしまいます。そこで、子どもが生まれつき備えている「知識」は何か、そして、その知識はどこからきたのか)、そして、原初的な心理的パイアスがいかにして成熟した形式の思考や行動へと変わっていくのか?というような問いを考えるうえで、発達的な視点によって、ヒトの本質を理解するために最高の場が生まれると彼らは確信していると言います。

当然ながら、発達的な視点は「大きな疑問」に答えるのに十分ではないと言いつつ、しかし必要であるとも言っているのです。さらに彼らの見解では、ヒトの本質は単に生まれつき備わっているだけではないと言います。というよりも、ヒトの本質は進化によって成立した性質として出現し、個体発生の過程を通じて種に特異的な環境と相互作用をして発達するのだと考えているのです。

進化発達心理学は成人に特徴的な行動や認知だけではなく、子どもの行動や心の特徴も自然淘汰の産物と見なしています。進化発達心理学では、ある種の全メンバーに特徴的なパターンである普遍性だけではなく、個体が自分の特定の生活環境に適応する方法も扱っています。彼らが、その主張の中で明らかにしてきた進化発達心理学の基本原理の一部を紹介しています。

進化発達心理学は進化による後成的なプログラムの発現を扱う多くの心理学者は認識していませんが、進化心理学者はいかなる遺伝子決定論にも賛成しておらず、進化による心理的メカニズムが局所環境と相互作用をすることで、特定のパターンの行動が生み出されると考えています。しかし通例、成人の機能に関心をもつ進化心理学者は、個体と環境の相互作用の性質をあえて特定する必要はないと考えているそうです。進化発達心理学では、発達システムアプローチの原則に従って遺伝と環境の相互作用に関する明確なモデルを示すことによって、この欠点に対処していると言います。発達心理学者は遺伝を環境問題を言い直し、ある特徴が「どの程度」遺伝あるいは環境によって生じたのかと問うのではなく、「遺伝と環境がどのような相互作用をして、発達のある特定のパターンが生み出されたのか」と問うようになったそうです。しかしこのように問いを言いかえただけでは、議論はほとんど進展しません。発達システムアプローチは、生物学的および環境的要因がいかにして個体の複数のレベルで作用し、個体発生の特定パターンを生み出すのかを明らかにするものです。

細分化されている中で

発達心理学の分野は細分化されすぎ、あまりお互いを知ろうとしないだけでなく、もし学者たちが他の学者の研究に利点があると思ったとしても、分析のレベルが違いすぎて共通の興味を抱く余地はほとんどなく、特に語り合うこともないことが多いそうです。さらに、発達心理学における「主要な」下位区分間のコミュニケーションを考えると、その分裂はもっと大きくなっているそうです。

おそらくこのコミュニケーション不足は単に、基礎知識が急激に広がっている状況のなかで、科学者が専門性を高める必要があった結果として生じたのであろうとビョークランドは考えています。おそらくジェネラリストの時代は終わったのだというのです。たしかにこの言い分には一理ありますが、少なくとも発達心理学の領域内では、知識の統一の見込みがあると考えられており、それは発達を理解するための共通点が見出されてはじめて達成されうると考えられています。

ビョークランドらは、彼らの考察から、発達心理学における幅広いトピックからのデータを呈示し、現象には多様性があるものの、共通性を見出したと確信しているそうです。この共通性と関連しているのが、進化の原則にもとづく発達的な視点だと言うのです。進化発達心理学は発達心理学のメタ理論として有効であり、催奇形物質に対する胎児の反応から感覚発達、空間認知攻撃性、遊び、心の理論まで多様なトピックを発達のひとつの大きな側面のもとにまとめることができると彼らは考えているのです。このメタ理論は、問うている発達の特定の側面を説明する、より領域固有の理論の必要性を排除するものではないと言います。メタ理論によって得られるものは発達の全側面に適用できる包括的な一連の原則であり、この領域の人々に十分共有されれば、すべての発達科学者のコミュニケーションの土台として役立つと考えていると言います。

進化発達心理学は「ヒトであるとはどういうことか?」という心理学の核心となる問いへの答えを出す上でも、きわめて役に立つとビョークランドらは考えているそうです。この問いは少なくとも古代ギリシア時代以来、そしておそらくさらにラスコーの洞窟画家や狩猟採集者たちにまでさかのぼって、人類の興味をひきつけてきました。この「生命の意味」の問いに答えるための標準的なアプローチはないと言われています。しかし、多くの人たちはすでにそう考えているだろうとビョークランドらは思っているそうですが、これこそが正しいと主張するのではなく、論理的に考えることこそが進むべき最良の道筋であると考えているようです。しかし、どのような種類のデータを探索し、ヒトの本質を考えていけばよいのだろうか?と疑問を投げかけています。明らかに、ヒトの大人を慎重に検討して「完成版」の実態を把握する必要があります。しかし、ヒトの本質には文化が介在しているため、非常に多様な社会的状況で生活しているそれぞれの人たちが、全てのヒトが直面する同じ問題をどのように理解し、解決しているかを評価する必要があるのです。進化心理学は良い実績をあげてきており、大学生に巧みな実験をし、独自のデータ、記録文書によるデータの双方による異文化間のデータを用いて、この核心となる問いを評価するためのデータベースを生み出しているとビョークランドは考えていると言います。

遊びの変化

子どもは歴史、そして先史時代を通じて、他の社会的な哺乳類の子どもと同様に、遊ぶ機会を与えてくれる環境を「期待」することができました。しかし、今日では、子どもが育つ環境の多くは、古代の環境よりも安全で、肉体的には大変ではないかもしれませんが、学校教育の必要性、「組織化した」遊び、たとえば、リトルリーグの大人の監督、テレビ鑑賞など座ったままの活動の誘惑によって、現代の子どもの多くが経験する遊びの量と質が変わっています。それがひるがえって子どもの発達に微妙な影響を与えているとビョークランドは指摘しています。「遊びは子どもの仕事」というのは決まり文句ですが、遊びは子ども期に特に適応したもののようであり、子どもが行うよう「意図」されています。このことを念頭におけば、遊びを犠牲にしてまで、 1つの目標を達成するために子どもの環境を変えてしまう、たとえば、学校での学習をより焦点化したものにするまえに、もう一度よく考える必要があることがわかるだろうとビョークランドは言うのです。

彼はこれまで考察してきたように、単に「遊び」が子どもにとって大切であるということではなく、どのような遊びが、どのようなために大切なのか、また、それらの遊びはヒトの進化の過程でどのような役割を持ってきたのかを見つめなおさなければならないということを言っているのです。それは、進化から見て大切な遊びの多くは、現代の環境に中では必ずしも奨励されていないからです。それどころか、大人にとって迷惑なものであったり、社会にとって迷惑なものであるというような大人の価値観からその是非が問われてしまっている部分が多いような気がします。

怪我をするから、うるさいから、勝手なことをするから、などという理由から、子どもにとって大切な遊びが制限されてきているのです。さらに、それらの行動は、情緒が安定していないとか、落ち着かないということで、しっかりと特定の大人の監視のもとに置かれ、大人好みの子どもにしてしまっているのが、特に少子国家では見られるようになっている気がします。小学校における道徳の教科化も、もしそのような意図があるのであれば、子どもたちは、将来、社会を形成する一員としての資質が育たなくなってしまうのではないかということを危惧します。

発達心理学は、細分化された領域であり、多様な下位区分やさまざまな理論的見解が対立しているように見えることが多いと言います。認知発達の専門分野など一見関連性の高い分野でさえ、学者間のコミ、ニケーションは乏しいことが多く、ある特定分野の発達科学者、たとえば、ワーキングメモリなどの基本的なプロセスを研究している者は、他の発達学者、たとえば、メタ認知を研究している者の研究を評価したり理解したりできないようです。メタ認知や心の理論など、高次プロセスを研究している者は、「意味」のレベルよりずっと下の分析に還元しても細かいことがわかるだけで、理解はほとんど進まないそうです。基本水準のプロセスを研究する者にとっては、自己認識やメタ記憶などの明確に定義されていない概念の検討に時間を費やすことは、哲学的には満足しても科学的には空疎だと考えているそうです。そして、学者たちが他の学者の研究に利点があると思ったとしても、分析のレベルが違いすぎて共通の興味を抱く余地はほとんどなく、特に語り合うこともないことが多いそうです。

遊びの機能

ビョークランドが指摘しているように、研究には実験室での実験だけに限界があります。しかし、これらの限界を議論したからといって、物を使った遊びが重要ではないということではありません。イモを洗ったり、シロアリ釣りをしたりするヒト以外の霊長類の研究のように、自然の生息環境における研究から動物は新しく創造的な方法で道具を用い、遊びによって物を柔軟に扱う機会が得られることが示唆されているのです。そのため、研究計画はこのような柔軟性を支持する十分な機会を提供するものでなければならないとビョークランドは言います。たとえば、比較的なじみのある状況で繰り返し観察することで、子どもがさまざまな課題で能力を発揮しやすくなるはずだからです。彼の指摘している通りの状況である、「比較的なじみのある状況で繰り返し観察することができる」のは、私たちの現場である園なのです。そのために、私たちは、日々の子ども観察からの研究が非常に重要になってくるのです。

大半の哺乳類の子どもは遊びますが、生活史の観点からすると、ヒトはどんな大型動物よりも子どもとして過ごす時間が長いのです。実際、遊びによって生活史との関連から未成熟期の特徴を定義すれば、ヒトでは生殖期、そしておそらく老齢期まで未成熟期は伸びることになります。遊びは一見して「目的がない」という特徴がありますが、動物の遊びの理論家もヒトの遊びの理論家も、遊びにはたしかに機能がおそらく無数にあるという考えで一致しています。遊びの機能のなかにはたとえば、運動や、子ども期における社会的関係の確立と維持といった即時的な機能もあります。また、危険のない文脈で成人役割を練習するといった遅延機能もあります。遊びは、若者が身の回りの物理的、社会的世界を探索し、そうしている間に神経回路を修正する方法として役立ちます。2つの狩猟採集集団に関するプラートン・ジョーンズの比較研究に示されているように、これらの傾向は地域経済に付随する状況の中に埋め込まれていると言います。他の研究者たちと同様に、ビョークランドらも遊びは哺乳類の進化の過程で淘汰圧を受けてきたと考えていると言います。ヒトの遊びが長期間に及ぶのは、ヒトの子どもには学習すべきことが山ほどあり、その学習に長時間が必要であると同時に、最終的な成人役割を習得するためには安全な環境が必要であることによるというのです。この観点は、人間としての意味としてとても重要ですね。仲間との遊びを通じて身につけられる相互作用や教訓は、おそらく他のどんな要因よりも社会化を促進し、その社会で男性あるいは女性として生きていくとはどういうことかを学習する機会と柔軟性を子どもに与えるだろうと言うのです。

ヒトは、未成熟期が長いと言うのは、ある意味で遊びが長期間に及ぶことであり、それは、遊ぶことから学習することに長時間必要だからです。その遊びからの学習は、仲間との遊びを通じて身につけられる相互作用や教訓は、おそらく他のどんな要因よりも社会化を促進するからであり、その社会で男性あるいは女性として生きていくとはどういうことかを学習する機会と柔軟性を子どもに与えるからだと言うのです。この子どもにとって人生における大切な時期に携わっている私たちは、そのことをもっと認識すべきでしょう。さらに、この時期における将来社会で生きていくための学習は、まさに「遊び」なのです。

物を使って遊ぶ

連続的な順序づけのある活動と物を使ったサプルーティンが道具の発明には必須であり、それはヒトの系統発生的な歴史上明白であっただろうとシルヴァ・プルーナーとジェノヴァらは主張しているのです。あいにく、性差については報告されていないそうですが。

同じような文脈で、ダンスキーとシルヴァーマンは、物を使った遊びが子どもの連想のなめらかさ、つまり、よく使用する物の新しい使い方を考え出すことに与える効果を調べました。遊び条件の子どもに、実験物で10~15分間「遊ぶ」ように促しました。他の統制条件や観察学習条件に参加した子どもたちには、訓練の後に、実験物や新しい物の新しい使い方を考え出すよう求めたのです。それぞれの場合で、遊び条件の子どもは他の条件の子どもより、新しい使い方をより多く考え出したそうです。

シルヴァたちの研究やダンスキーとシルヴァーマンの研究により、物を使って遊ぶ子どもは、その物を使って後に新しい問題を解決する可能性が高いことが示されました。このように、子どもは遊びを通して物について何か特定のことを学んだことにより、その物を後の状況で道具として用いる可能性が高まったと考えられます。もっと最近の研究ではグレドレインが、物を使った遊びをする傾向が強いことと、一般的に後の道具の使用との関連を調べたそうです。彼の研究では、3歳児が1人ずつ一連のおもちゃを使った自由遊びセッションに参加し、一部の子どもには物を使った遊び、たとえば、レゴ、木のプロックを組み合わせて家を作るリンカーンログをするよう促しました。別のセッションで子どもには、どれも遊びセッションでは見たことがない物が置かれたテープルの前に座り、そのうちの1つだけが、手の届かないおもちゃをうまく取り出すのに使うことができると言います。これは、先に述べたチェンとシーグラーが用いた手続きをもとにしています。グレドレインは、男児は女児よりも物を使った遊びをし、自発的に道具を使用しておもちゃを取り出す傾向が強かったことを報告し、男児の物を使った遊びをする経験の多さが、男児の方が道具使用課題の成績が高かった一因であると指摘しているそうです。チェンとシーグラーと同様、グレドレインは、道具使用課題の女児の成績は単純なヒントを与えられただけで男児のレベルにまで上昇したことを報告し、道具の使用における実際的な能力に性差はないことを示唆したそうです。むしろ主要な性差は、男児の方が物を使った遊びや、道具の使用に動機づけを持っていることにあり、物を使った遊びが多いことがおそらく物を潜在的な道具として見る傾向を強めているのであろうとビョークランドは考えています。

これらの研究は遊びの好ましい利益を示していますが、慎重に解釈しなければならないとも言います。なぜなら第一に、実験室において遊びを実験的に操作してわかることは、ある特定の変数がいかに行動に影響を与えるかということだけであり、必ずしもそれらの行動が現実に発達していく道筋がわかるわけではないからです。さらにもっと根本的なこととして、多くの遊びの充実実験では内的妥当性の重大な問題があると言います。たとえば、多くの実験で、遊びの処遇と大人が遊びながら子どもに教えることとが交絡しています。その上、このような研究の多くで実験者バイアスの統制がなされていないため、機能に関する多くの結論の正当性を立証できないと言うのです。内的妥当性の問題が制御されたとしても、たとえばある場合には10分間という短い時間で実験が行われており、そんなに短い実

験で3~5歳の子どもの安定した行動を変える効果があるかについては疑問視せざるを得ないというのです。