特定の領域

私はわりと早い時期から乳児が有能であり、自発的な活動をすることを色々なところから学びました。その研究が、「見守る保育」という保育のあり方を考えるの一つの根拠となっているのです。赤ちゃんは無能とまでは言わないまでも、未成熟で、大人の手を借りなければ、大人から世話をされなければ、大人が介入しなければならないということを基本とした乳児保育に疑問を持ったからです。どのようなことばで保育のあり方を表現すれば、乳児の有能さを認め、自発的な行動をすることを保障できるかと考えた結果、日本で大切にしてきた「見守っている」というスタンスを提案したのです。そして、2001年に、「やってあげる保育から見守る保育へ」という本を出版し、サブタイトルには、「子どもたちが自発的に活動できる保育環境とは」と名付けたこの本が、初めて「見守る」ということばを使った最初です。考えてみると、もう15年以上も前のことになります。

それ以後も、次々に乳児の有能さが研究されてきました。例えば、乳児の認知機能はどうなのでしょうか?この機能を理論的にはどのように説明されるのでしょうか?この点を考える上で重要なのが、哲学者フォーダー博士が提唱した「モジュール性」という概念ではないかと森口は言います。モジュールとは、特定の領域の問題のみ扱い、特定範囲の情報のみを用いた、それ自体独立した計算過程のことを指すそうです。この特定の領域の問題を領域固有性と言うそうです。

この領域固有性とは、「認知科学事典」によると、「思考あるいは認知が、様々な領域に区切られており、かつそれぞれが独自の特徴や構造を持つことを主張する」ものであり、「人は思考のための一般的なメカニズムを持つというよりも、対象の領域に応じた複数のメカニズムを持つ」ことを指します。これに対置される概念が領域一般性であり、「様々の領域を越えて適用される一般的な心的構造を想定する考え」のことを指します。

この説明は少し難しいので、森口はわかりやすく具体例を挙げています。「高校の科目には、物理や生物といった科目がありますが、生物が得意で物理が苦手な人もいれば、その逆の人もいます。こういう例を見ると、私たちの脳の中には、すべての科目の問題を解くための仕組みが備わっているという領域一般性という考え方よりは、物理を専門に解く仕組みや生物を専門に解く仕組みがそれぞれ備わっていて、それが寄せ集められていると考える方がいいのではないか。そして、進化の過程の中で、人が生存するために重要だった問題を解決するための仕組みがいくつか備わっているのではないか。」と、領域固有性という考え方を簡単に説明します。

ピアジェは、領域一般性の考えの代表者としてよく取り上げられるそうです。彼によれば、ある発達段階にいる子どもは、どの問題も同じように解決します。認知発達研究に領域固有性の考えを取り入れた初期の研究者は、ケアリー博士だと言われているそうです。彼女は特に、生物学的認識についての独自の理論を発展させました。ケアリー博士は、ピアジェのアニミズム的思考について論じています。ピアジェにとって、アニミズム的思考は、前操作期の子どもの自己中心性のあらわれだと考えていました。重要なのは、自己中心性は、生物的知識の領域に限らず、三つ山課題のような課題でも見られるという点です。つまり、様々な領域一般的な傾向です。一方、ケアリー博士は、幼児がアニミズム的思考を持つこと自体は認めて、このような幼児の言動は、彼らの生物学領域の知識が不足しているせいだと考えたのでした。

物体認識

バウアー博士は、新生児は、環境にある特性を、特定の感覚に頼ることなく取り入れていると主張しました。このように、新生児の知覚研究は、知覚についても新しい視点を提供したのです。

乳幼児の実験的研究が進む中、認知的能力も研究されるようになってきたのです。認知能力の研究は、1歳にも満たない乳児が成人と類似した知識や概念を有していることを示し、乳児の有能さを強調するに至っているそうです。例えば、以前のブログでも紹介した対象の永続性に関する研究においてもそれが言えるそうです。たとえば、ぬいぐるみが布に隠されると、乳児は探そうとしなくなってしまいます。このことから、ピアジェは、対象が目の前から消えてしまうと、乳児はその対象がもはや存在しないと考えていたということを紹介しました。ところが、新しい時代の研究者たちは、生後半年以下の乳児が対象の永続性を持つことを示したそうです。

この点について有名なのはベイラージョン博士の研究だそうです。彼女は、3ヶ月半の乳児が対象の永続性を持つことを示したのです。この研究では、テーブルの上にスクリーンを置きます。そのスクリーンは、乳児から遠ざかるように回転し、180度になるまで回転し続けます。続いて、スクリーンは反対方向、つまり乳児に向かって回転し始めます。この様子を乳児に何度も見せ、馴化させます。乳児が飽きた頃に、テストが行なわれます。テストでは、箱をテーブルの上に置き、その箱は、スクリーンが90度に達したとき、スクリーンに隠れてしまう位置に置いてあります。

テストの条件は二つあります。可能事態条件では、スクリーンが最初の状態からちょうど箱にぶつかるところまで回転し、箱の位置でスクリーンは動きを止め、元の状態に戻ってくる事態が乳児に示されました。これは、物理的法則に従ったものでした。もうひとつの不可能事態条件では、スクリーンが90度の位置まで回転してもさらに、そこには箱がないかのように180度の位置まで回転し続ける事態が乳児に示されました。箱があるのにスクリーンが180度に位置まで回転するわけですから,物理的にはあり得ない、不可能な事態です。もし乳児がスクリーンで隠されても存在すると思っているなら、不可能な事態が生じた場合に、驚くに違いありません。可能な事態では、驚かないだろうという予測も立てられます。つまり乳児は、可能事態よりも、不可能事態を長く注視するはずだということです。結果は、この予測を支持したのです。3ヶ月半の乳児でも、対象の永続性は理解できていることが明らかになったのです。

このような物体について乳児が持っている素朴な知識や直感的理解のことを素朴物理学と呼ぶそうです。ボールから手を離すと落ちる、個体は別の個体を通過させない、などの知識のことです。素朴物理学は、学校教育で習う科学的物理学とは矛盾することもありますが、乳児は生後間もない時期から物体の連続性などの素朴物理学的な知識を持っていることが示されているそうです。

もしかしたら、この直感的理解とは、私が考えている赤ちゃんが持っているダークセンスであるフォースに近いものかも知れません。

新生児でも

バウアー博士は、子どもの発達において対象物に向かって手を伸ばす行動であるリーチングを生後数日の乳児が行なうことが示しました。それは、視覚と把握行動の協応という感覚と感覚の関係、つまり感覚間協応についての問題です。それは、ピアジェが考えていたよりも早い時期に乳幼児が視覚と運動を協応させていたということです。

また、メルツォフ博士らは、視覚と触覚の間にも出生直後から協応関係があることを示したのです。この研究では、おしゃぶりを使用します。まず、1ヶ月児に見えないように、イボイボがついたおしゃぶりと、普通のおしゃぶりのどちらかを口に含ませます。乳児がこれに慣れた後に、二つのおしゃぶりを乳児に視覚的に提示します。そうすると、乳児は口の中に含んでいたおしゃぶりを好んで見たそうです。触覚的に認識していたものを視覚的に認識することができたということです。

もうひとつ、有名な新生児模倣についての研究があります。それは、私も何度も講演で例に出しているので、知っている人も多いと思います。新生児模倣というのは、新生児が、他者の顔の動きを模倣する現象のことです。この新生児模倣も、視覚像と自分の顔の動きをマッチングさせる必要があることから、感覚間協応のひとつといえます。メルツォフ博士らは、大人が「舌出し」等の行動をすると、新生児が大人と同じような表情を作ることを報告したのです。この新生児模倣が、心の理論などの社会的認知能力の発達の基礎にあると主張され、注目を集めているそうです。

一方で、この新生児模倣には批判も少なくないそうです。新生児模倣に批判的なアニスフィールド博士によると、報告されている研究には分析などにおいて問題点があり、新生児模倣の中でも、信頼に足る証拠と言えるのは舌出し行動だけだと言うのです。この舌出し行動についても批判があり、舌出し行動は他者の顔を見ていないときにも、一種の探索行動として乳児が産出することが知られています。つまり、この舌出し行動は模倣とは言えない可能性があるというのです。いまだに議論が尽きないと言うところですが、新生児模倣が、感覚間協応の証拠であるという点に関しては、森口は異論がないと言っています。

これらの成果を受けると、ピアジェの考えは修正を迫られるようです。大きく二つの考えがあると森口は言います。ひとつは、メルツォフ博士のように、生得性を重視する考え方です。生まれつき感覚間の協応は持っており、それは発達とともに構成されるものではないというものです。もうひとつの考え方は、バウアー博士によるもので、まず知覚は全体的に未分化な状態にあり、発達とともにそれぞれの感覚に分化していくのではないかというものです。つまり、視覚や聴覚、触覚などは新生児期には全部つながっており、発達とともに、視覚や聴覚に分化していくという考え方です。この考えは、ジェームズ・ギブソン博士の生態学的アプローチに大きな影響を受けたようです。知覚研究で広く知られているように、ジェームズ・ギブソン博士は、知覚とは環境に含まれている高次の特性、これをアフォーダンスというのですが、この特性の能動的な探索プロセスであると主張したのです。

ここで重要なのは、バウアー博士は、アフォーダンスの考えを取り入れ、新生児は「どの特定の感覚にも依存しない刺激作用の形式的で抽象的な特性に反応している」と「賢い赤ちゃん」の中で主張している点です。つまり、新生児は、環境にある特性を、特定の感覚に頼ることなく取り入れているということなのです。

優れた五感

乳幼児の優れた能力が次々と研究されています。例えば、視覚については、新生児は目が見えないと考えられてきましたが、科学的な検証の結果、新生児は、視力は悪いものの、全く見えていないわけではないことが明らかになっているそうです。約30cm先にあるものに対して、焦点が合わされており、大人のように焦点を変化させることはできないのです。また、生後直後の乳児でも、動く物体を注視しようと試みますし、顔のような配置の図形を好んで見つめることも明らかになっているそうです。それは、通常、乳児の30cm先にあるものは、養育者の顔なので、そこに焦点を合わせているのです。また、動く物体を注視しようとしたり、顔のような配置の図形を好むというのも、養育者に対する反応なのでしょう。

では、聴覚についてはどうなのでしょうか?やはり、母親のおなかにいる頃から機能していることが明らかになってきているそうです。生後数日において母親の声と見知らぬ女性の声を提示した際に、母親の声を好むことや、父親の声と見知らぬ男性の声を提示した際には、好みが見られなかったことが示されているそうです。これらの結果には、赤ちゃんが母親のおなかの中にいるときに母親の声を聞く経験が影響していると考えられています。また、新生児は、音を知覚するとその音の音源に対して顔を向け、大人と同様に、不協和音を嫌い、協和音を好む傾向があることも知られているそうです。

臭覚や味覚については、まだ研究は少ないそうですが、新生児は苦い味よりも甘い味を好み、他人の母親よりも自分の母親の母乳の臭いのするパッドを好むなど、味覚や臭覚も乳児期から機能していることが明らかになっているそうです。さらにわかっていることに、大人の臭覚は、方向弁別能力という、臭いの元は左か右かを判断する能力は低いそうですが、驚くことに、乳児は左右の弁別ができるという報告もあるそうです。私が考えるには、味覚は、生まれたあとに赤ちゃんが口にするものに対しての防衛でしょうし、臭覚は母親の乳首を探して、そこに吸い付くためであろうということは容易に推測できます。生まれたあとのためにその機能を発達させているのでしょう。

このように新生児や乳児が視覚や聴覚などの感覚を発達させていることが明らかになってきたのですが、ピアジェの理論と最も大きく異なるのは、感覚と感覚の関係、つまり感覚間協応についての問題です。ピアジェは、把握や視覚などの枠組みは、早期には独立して機能し、後にそれらの枠組みが協応して働くようになるという考えを持っていました。この考えでは、新生児や生後間もない乳児では、視聴覚統合や、視覚と触覚の統合はあり得ないことになってしまいます。しかしながら、実験手法の確立により、新生児にも感覚間協応があることが示されているのです。

これらの研究で有名なのが、バウアー博士らの新生児のリーチング研究だそうです。リーチングとは、子どもの発達において対象物に向かって手を伸ばす行動のことで、例えば、乳児が、仰向けで寝ている姿勢で、目の前に興味のありそうな玩具を出したときにそれを見ながら手を伸ばし、触れたり掴んだりする行動のことです。そこには、玩具を見るという視覚と、それに触れたり掴んだりするという把握行動があります。ピアジェは、視覚と把握行動の協応ができるようになるには、生後数ヶ月を要すると考えていました。ところが、バウアー博士がネイチャー誌に報告した研究では、生後数日の乳児が、視覚的に誘導されたリーチングを行なうことが示されたのです。

知覚能力

様々な研究装置と指標を用いることによって、この時代の研究者は、乳児が有能であることを確信し、彼らの能力を引き出すために様々な指標の有効性を検証しました。このような方法論の進展の背景には、ビデオカメラのような技術の進展があるようです。視線計測の研究では、実験中にデータを分析することは難しいので、乳児の視線パターンを録画し、あとから分析するのが基本だそうです。乳児の有能さの実証に大いに寄与したメルツォフ博士らは、著書「0歳児の能力はここまで伸びる」の中で、ビデオカメラによって乳幼児研究が著しく進展したと言っているそうです。これは、私の園でも実践していることです。現在では、若い人は大きなビデオカメラを持ち歩かなくても、スマホを使って簡単に動画を撮ります。ですから、シャッターチャンスを逃さないようです。

一方で、この時代には様々な手法が提案されたそうですが、現在まで広く使われている手法はあまりないそうです。例えば、視覚的断崖の装置は、興味深い知見を多数生み出していますが、スペースや費用の問題からだれもが用いることができるわけではありません。バウアー博士が開発したような手法も然りだそうです。選好注視法や馴化・脱馴化は、比較的コストも低く、場所もそれほどとらず、様々な研究に汎用可能であるため、今でも広く使われているそうです。

いずれにしても、研究手法の著しい進展が、有能な乳幼児観を生み出したことは間違いないでしょう。

初期の研究は、乳児の知覚能力の解明に焦点を当ててきたそうです。このような研究は需要ですが、心理学者下條博士の著書「まなざしの誕生」など、我が国においても多くの良書が存在していると森口は言います。

視覚については、新生児は目が見えないと考えられてきました。今でもそう考えている人も多くいるようです。しかしながら、科学的な検証の結果、新生児は、視力は悪いものの、全く見えていないわけではないことが明らかになっているそうです。約30cm先にあるものに対して、焦点が合わされており、大人のように焦点を変化させることはできないのです。また、生後直後の乳児でも、動く物体を注視しようと試みますし、顔のような配置の図形を好んで見つめることも明らかになっているそうです。

このような、乳児が30cm先にあるものに焦点が合うという点と顔のような図形を好むという点は、乳児にとっては重要な意味を持ちます。 通常、乳児の30cm先にあるものは、養育者の顔です。乳児は無力ですから、養育者の助けが必要であり、養育者に対して積極的に働きかける必要があります。養育者の顔が見えているということは、自分の生命を守るという意味では、非常に有利であると言えます。これ以外にも、乳児は半年を過ぎるまでには、物体のサイズや奥行き、色なども認識できるようになるそうです。

断崖

視線から乳児のことがわかるということから、様々な研究方法を生み出したようです。そのための様々な研究装置が開発され、乳幼児研究の進展に大きく貢献していたようです。最も有名な例のひとつに、エレノア・ギブソン博士によって開発された視覚的断崖があるそうです。この装置は、乳児の奥行き知覚がいつ頃獲得されるかを検討することを目的としては遺髪されました。この装置は、中心にプラットフォームはあり、それを挟んで一方は浅く落ち込んでおり、もう一方は深く落ち込んでいます。両方とも透明のガラスがはめ込んであるのが、視覚的な断崖とよばれる所以だそうです。乳児はそのガラスの上を自由にハイハイすることができます。ただ、ガラスが透明であるため、深く落ち込んでいる方に行くと落ちてしまうように見えます。もし乳児が奥行きを知覚できるのであれば、深い方ではなく、浅い方を選ぶのではないかという仮説の基に研究が実施されました。その結果、乳児は深い側を避けて、浅い方を渡るという結果が得られたのです。生後半年頃の乳児には奥行きを知覚する能力が備わっていることが明らかになったのです。

この実験から、乳児が奥行きを判断するということだけでなく、私は、深い方では落ちてしまうという危険を察して、行かなかったということもわかると思います。たぶん、人類は、かつてはこのような断崖がたくさんあるところで生き延びてきたでしょう。そのためには、奥行きを理解し、危険を避ける能力を持って生まれたのだと思います。それは、大人が危ないからといって段差をなくし、奥行きのある床を避け、平らなところでしか乳児をハイハイさせなければ、乳児は、奥行きを感じ、そこを越える危険を避ける能力を失ってしまい、段差から落ちてしまうようになってきてしまったのではないかと思っています。

以前、ブログで書きましたが、旭山動物園で、高いロープを渡っていくオランウータンを見上げながら係員が、「もし落ちたらどうするかと心配するお客さんがいますが、もし落ちるようなことがあったのなら、今までオランウータンは生き延びてこれなかったでしょう。」と言ったことを思い出します。

その他、新しい研究装置の開発といえば、バウアー博士が有名だそうです。例えば、彼は投影機とスクリーンを使った装置を用いて、乳児の奥行き知覚を検討したそうです。この研究では、スクリーン上に、ある物体を投影機で写します。物体は大きくも小さくもできます。私たちは、スクリーン上の像が小さいものからだんだん大きくなっていくと、その物体が近づいてくるような印象を受けます。この研究では、スクリーンの前に乳児を座らせ、スクリーン上の物体の大きさを変化させた際に乳児がどのような反応を見せるのかが検討されました。その結果、生後2週目の乳児ですら、顔を手で覆ったりするなどの防御反応をとったそうです。驚きですね。この研究は、乳児期初期から距離を知覚する能力が備わっていることを示唆しているのです。

このように、様々な研究装置と指標を用いることによって、乳児が様々な能力を持ち合わせていることが明らかになってきたのです。森口は、この時代の研究者は、乳児が有能であることを確信し、彼らの能力を引き出すために様々な指標の有効性を検証したという点で高く評価しています。

視線実験

ファンツ博士と、同時期に同様の研究を発表したベリーネ博士の研究により、視線を用いた研究は、一躍注目を集めることになったそうです。代表的な手法のひとつが、選好注視法というものです。この手法は、二つの対象を対提示し、乳児がどちらか一方を選択的に注視するかどうかを調べるものです。たとえば、ストライプの図形と、灰色の図形を対提示し、図形から少し離れたところに乳児を座らせます。この状況で、二つの図形のうち、どちらかの図形をより長く見ることがあれば、乳児がその図形をより好んだと解釈できます。それがファンツ博士の主張だそうです。もちろん、一方を長く注視したからといって、乳児が本当にそちらの図形を好きだとは限りませんし、二つの刺激の間の注視時間に差がなかったからといって、乳児がどちらも好まなかったということにはなりません。

問題点を挙げればきりがありませんが、この手法においては、少なくとも乳児が二つの刺激を区別していることはわかりそうだと森口は言います。この手法により、乳児は単純なものよりも複雑なものを好んで見ること、非対称的なものよりも対称的なものを好んで見ること、パターンがないものよりもパターンがあるものを好んで見ることが明らかになりました。この手法は、単純で再現性もあり、大がかりな装置を必要としないことから、乳幼児研究において急速に広まっていったのです。

選好注視法は、乳児がある対象に対する好みを持っていない場合には利用できないという問題点があります。この点について、ファンツ博士は、さらに馴化・脱馴化法も生み出しました。この馴化については以前ブログで紹介した概念です。この方法は、乳児が対象を見つめる傾向に加えて、新しいものが好きであるという傾向と、すぐに飽きてしまう傾向を持つことを利用しています。乳児は新しいものが提示されると、それを注視し、その対象が何であるかを学ぼうとします。乳児が飽きっぽいことは誰でも知っていますね。研究者がいちばん苦労するのは、研究の都合上、乳児に対して同じ刺激を何度も呈示したときに、乳児が飽きてしまってすぐに見なくなってしまうことだと言います。

馴化・脱馴化法では、まず、乳児にひとつの刺激を繰り返し提示します。たとえば、女性の顔を繰り返し提示するとします。乳児は新しいもの好きなので、見知らぬ女性の顔が提示されると、その顔を見つめます。乳児の目がその顔からそれると刺激を一度消して、再び同じ女性の顔を提示します。このようなことを繰り返すと、乳児はその女性の顔に飽きてしまい、その顔を見つめなくなります。このように飽きたときを馴化と言います。そのとき、別の刺激を提示して反応の回復を調べます。この反応の回復を脱馴化と言います。たとえば、女性の顔に飽きた乳児に、見知らぬ男性の顔を提示したとします。すると、乳児はその顔を見たことがないので、注視します。このような実験から、乳児が男性と女性の顔を区別していることが明らかになるというわけです。もちろん、この場合、乳児が女性と男性の区別をしているのか、ある顔と別の顔を区別しているのかは明らかではありませんので、研究デザイン自体に工夫が必要になるようです。

ほかにも、期待違反法とよばれる方法もあるそうです。それは、乳児が知っていることとは異なる出来事を提示して乳児の興味や驚きを誘発する方法です。たとえば、物理的に起こりえない事象を乳児に提示した際に、その事象に対する乳児の注視時間や心拍数などが変化するそうです。これは、すでに持っている知識と目の前で起きている事象とが一致しないために、乳児が驚いて反応するためです。実際の研究では、この方法を馴化・脱馴化法などと組み合わせて使うこともあるそうです。

過小評価

ピアジェから始まった本格的な乳幼児研究は、素晴らしい業績を残したと同時に、彼の研究手法では、乳幼児の能力を充分に測り切れていないという批判が20世紀後半に相次いでなされたのでした。こんな批判もされました。彼は、文化や社会の影響を軽視しているというのです。彼にとって、乳幼児は、自らの知識を獲得し、思考を構成していく存在でした。彼は、乳幼児の周りの他者や文化の影響をあまり考慮せずに、乳幼児自身の力を強調したのでした。しかし、私たちの認識は、その時代の社会や文化に影響を受けているということは明らかだと森口は言っています。その他にも色々とありますが、森口はとくに触れておきたい点として、ピアジェが発達の非連続性を考慮していた点であると言います。彼は、認知発達の質的に異なった発達段階を想定していたのです。そんなこともあって、今では、発達は段階ではなく、連続性を考慮して、発達過程という言葉を使うようになったようです。

私が何回かブログでも紹介したように、乳幼児研究は、非常に困難です。とくに乳児に関しては、そのような行動を自ら行なうことが少ないからです。また、幼児に対しても、実験対象として本人に言い含めることは出来ず、遊び相手をするように誘いかけながら、そのときの行動から判断するしかなかったのです。この時期の研究者は、自ら世界や環境について働きかける、能動的で活動的な乳幼児観を持っていたため、観察法が研究手段として確立していったのです。しかし、その手法では、乳幼児は論理的に思考することはできず、知的能力は非常に制約されていると考えることは当然だったでしょう。ですから、ピアジェの観察よりは、当然もっと早期からそのことができているのだということが後々にわかることになるのです。

では、どのような手法が開発されたのでしょうか?このこともなんどかブログで紹介しました。ピアジェの時代では、主に観察手法が用いられていました。しかし、そこでは、子どもの能力を過小評価しているという問題点があります。日常行動の観察に基づいた場合、乳幼児の能力は著しく低いように見えます。乳児は自分で移動することもできなければ、食事をすることもできません。彼らの運動能力の低さから、彼らの知的能力や認知能力も低いと考えられていました。しかしながら、実験的手法の進展によって、乳幼児は運動能力が低くても、様々な知的能力を有していることが明らかになってきたのです。

ピアジェ以降で広く行なわれている実験手法は、乳児の視線を利用したものです。乳児は、養育者などの周りにあるものは積極的に見つめ、目で追い、それが何であるかを学習しようとします。このように乳児の視線の動きは非常に活発で、その視線から乳児の知的能力を調べようという考えが生まれたのでした。この視線計測を用いた実験手法は20世紀初頭からその有効性が指摘されていました。例えば、ある研究者は権威のある心理学専門誌に発表した論文の中で、生後30日以内の乳児が動く物体を追視することを報告しているそうです。このことだけでも、私たちが知っている「動いているものを目で追うようになる」という時期よりもずいぶんと早い頃からできると言うことに驚きます。

これらの研究は厳密性を欠いていましたが、科学的な研究の第一歩としての重要な役割を果たしたのです。現在標準的に用いられている手法は、アメリカの心理学者ファンツ博士の研究に基礎をおいているそうです。

ピアジェから

ピアジェは。子どもの思考は生物と無生物を区別しないところから始まると考えました。つまり、発達早期の子どもにとって、世界にあるものは基本的に同じカテゴリーに属するということになると言うのです。生物概念の発達に関して言えば、この初期状態から、生物と無生物の区別をする過程であると言えるのです。自然は様々な生命を含んでおり、いかなる存在も多かれ少なかれ生命らしさや意識らしきものを持つように見えるというのです。子どもはその中で、生物らしさを、自発的に動くものに帰属させ、それ以外の動きには帰属させないことを学習していくと考えたのです。

ピアジェは、事物に生命や意識を帰属させる傾向としてアニミズムを定義しているのです。そして、生命を、あるものが生きているかどうかであり、意識とは、あるものが知っていたり感じていたりするかどうかということにしました。このアニミズムと同様に重要な概念として、少し難しいのですが、「実念論」と「人工論」という考え方を提示しました。実念論とは、子どもが、心的な出来事と物理的出来事を混同することです。子どもは、思考が口や耳で生み出されていると考えますし、夢が頭の中だけで展開されていることを理解できません。自分の思考と外界の区別ができていないからです。その結果、魔術的思考のような非論理的な思考が生み出されてしまいます。例えば、石に動けと念じたことで、動いたように思ってしまうというようなことです。

人工論とは、すべての事物は人がつくったものだと考えることです。ピアジェは、太陽と月の起源や水、空、雲などの起源について検討しました。子どもは、これらの対象を誰が作ったのか、何からできているのか、ということに疑問を持ちます。対象によって違いはあるものの、共通する法則として、最初は、子どもは地球や太陽は人もしくは神が創造したと考えます。次に、人工論と自然な説明が共有する段階があると考えました。例えば、太陽は雲が凝縮してできたものであるが、雲自体は家の煙突から作られると説明します。最後に、自然な説明ができるようになります。例えば、人の活動を介さないで、太陽や月の起源について説明できるようになります。ピアジェは、このような人工論が、教育や大人の指導の産物である可能性を認めつつも、子どもの自発的な思考であることを強調しているのです。

ピアジェにとって、この時期の子どもは、非論理的な思考によって特徴づけられると考えました。自己中心的な思考や、中心化を克服し、子どもたちの思考は論理的になっていくと考えたのです。

ピアジェの理論は、詳細な観察データに裏付けられており、乳幼児の日常的な様子ともマッチすることから、広く受け入れられてきました。森口も、その意味では、ピアジェが偉大であることは間違いないと言っています。しかしながら、現在ではピアジェの理論は様々な批判を受けているのです。

最も多い批判が、子どもの能力を過小評価しすぎているというものだと森口は言います。ピアジェは、乳幼児は有能ではないが、能動的・活動的な存在だと見なしました。この根拠は、自らの子どもを中心とした観察データでした。しかし、この研究手法では、乳幼児の能力を充分に測り切れていないという批判が20世紀後半に相次いでなされたのでした。

私も現場で多くの乳幼児を観察していると、ピアジェの理論に違和感をずいぶんと感じていました。ただ、それは直感でしかなかったのですが。

中心

ピアジェの幼児研究で有名なものに「幼児の自己中心性」があります。それは、幼児の思考は、自分以外の視点が存在することがわからず、周りの人も自分と同じように外界を知覚していると思っていると考えました。それを、こんな有名な実験を基に主張しました。三つのそれぞれ高さや形が違う山の模型を子どもに見せます。これらの山は、ある場所から見た場合と、別の場所から見た場合では見方が違います。子どもはある場所に座らされ、子どもとは異なる位置に人形が置かれます。当然、子どもから見た場合と、人形から見た場合とでは、山の見え方は異なります。子どもに人形が見ている光景の写真を一枚選んでもらうと、6,7歳以前の子どもはほとんど自分が見ている山の姿を選んでしまいます。自分の視点が中心になってしまっていると言うのです。

またピアジェは、この自己中心性とともに「中心化」も前操作期の特徴だと考えました。中心化は、ある特徴にのみ着目し、別の特徴を考慮できない子どもの傾向のことを言います。以前紹介した「保存」における子どもの行動も、高さと底面積という二つの特徴を考慮して水の体積を考えなければいけないところ、高さという特徴に着目して、他の特徴を考慮できないからだと考えたのです。この量の保存だけではなく、数の保存も、長さの保存も同じような行動を取ります。

保存以外に、包含の問題もあります。全体と部分の関係についての認識です。10個のボールのうち、8個が赤色のボール、2個が白色のボールだとします。前操作期の幼児に、赤色のボールと白色のボールのどちらが多いかと尋ねると、正しく赤色と答えます。ところが、赤色のボールとボールはどちらが多いかと尋ねると、幼児はこの場合も赤色と答えてしまうのです。ピアジェの考えでは、このような幼児の反応は、全体と部分の関係を認識していないから生じると考えたのです。しかし、実は、自己中心性や中心化、包含の課題におけるピアジェの実験は、後々大いに批判されることになるのですが。

それにしても、ピアジェは次々に幼児における研究を発表しますね。もうひとつ、「アニミズム」に関する研究も重要な業績として認められています。アニミズムは、前操作期の幼児に見られる認知的傾向のひとつで、これも自己中心性の表われだと考えられました。アニミズムは、自分にとって未知の事物、例えば太陽などを自分のよく知っている人間や生き物の枠組みに同化することで生じると考えました。ピアジェは、アニミズムを、事物に生命や意識を帰属する傾向と定義しています。ここでの生命とは、あるものが生きているかどうかであり、意識とはあるものが知っていたり、感じていたりするかどうかということとしました。

ピアジェによると、子どもが意識を帰属させる傾向は、まず、人間にとって何らかの機能を果たしているものは、例えば石のようなものが意識を持つと考える段階があり、次に6,7歳から8,9歳にかけて、風や水のように動くものだけが意識を持つという段階になり、そして、8,9歳から11,12歳になると、自発運動をする者だけが意識を持つ段階になり、最後に、11,12歳以降になると、動物だけが意識を持つ段階の4段階で発達すると言います。例えば、自転車は自発運動をしないので、8~9歳の子どもにとっては意識を持たないということです。生命の帰属についても、同じように発達していくと考えました。