私の思考

ピアジェは子どもの道徳的な考え方は年齢とともに変化すると考えました。また、この考えを「ハインツのジレンマ」という葛藤状況を含む話を使って、より客観的に調べる方法を生み出したのがコールバーグです。それによって、3水準(6段階)からなる道徳性の発達段階を考案しました。はじめは、罰を避けるような「前慣習的水準」で、次に社会的ルールを意識した「慣習的水準」、その後に、自らが定義した道徳的価値によって判断する「脱慣習的水準」へと発達するとされます。この研究により、理性を働かせた道徳性の発達の様子がわかりました。このように幼児期から児童期にかけて、言葉や論理的思考が大きく発達するとともに、子どもの道徳的判断も変化を遂げることが長い間知られていたのです。

しかし、最近の研究では、道徳的判断において直感が最初にあることが示唆され、発達心理学でもこの傾向は同様だそうです。最近の説として、非常に興味深いものだあります。直感となると、幼児期から大人と同じような形で存在している可能性もありますし、もしかしたら、乳幼児の方が、大人より直感力に優れている可能性もあるからです。また、最近の教育の中で、道徳が強化され、その教育の重要性が叫ばれていることに対して、少し違和感を感じます。これらのことについては、来週にしようと思っています。

私の思考は、年間どうも周期があるようです。不思議なことですが、よくブログのテーマも、数年前の同じ日のあたりに、同じ事を考えていることが多い気がします。過去のブログにコメントを入れている人は気づかれると思いますが、不思議ですね。2015年10月24日のブログに、こんなことが書かれてあります。

「明日から、毎年恒例のドイツ研修が始まります。そこで、その間はドイツ報告をしますので、しばらく、道徳の起源についてはお休みをします。私が、現在ブログで取り上げているのは、ポール・ブルーム著の「ジャスト・ベイビー ―赤ちゃんが教えてくれる善悪の起源―」という本を読み進めて行きながら、間に現場から見た感想を少し入れたり、解説をしたりしています。」

実は、今年も明日から、ドイツ研修が始まるのです。ですから、今年のブログにも、こんなことを書かなくてはなりません。「ドイツ研修の間はドイツ報告をしますので、しばらく、道徳の起源についてはお休みをします。」ということです。2年前のドイツ研修は10月ですから、別に季節に関係はありません。また、数日と違わずに、まったく同じ日であることにびっくりします。

今年のドイツ研修は、とても面白い、興味深いことが待っているようです。それは、ここ数年、エキサイティングなことが起きています。一昨年は、ミュンヘン市が、毎年訪れるということで、外国の人ははじめて訪れたという、郊外にある子どもの宿泊施設へ連れて行ってもらったのです。そして、そこで、明るい寮母さん自ら調理したおいしい昼食を頂きました。昨年は、やはり郊外にある、今度は市の職員さんたちセミナーハウスへ招待されました。そこでは、バーベキュー大会、近くの湖が見下ろせる山へのハイキング、さまざまな体験をさせてもらいました。

今年はどんなハプニングが用意されているでしょうか?

発達研究

林は、道徳についての印象をこう語ります。「道徳という言葉を聞くと、何か深い精神性と客観的な思考の上にある崇高なもののようにも感じられますが、カルネアデスの板やタイタニックの例からもわかるように、私たちの道徳的な認識には、論理的な判断や理性によるものだけでなく、それを超えた何かもありそうです。」と語っています。

ここで林は、以前ブログでも取り上げた「トロッコ問題」を例に出しています。道徳を論じる上で、その議論は外せないようです。これらの例からも、私たちの心の中では、論理的思考や理性が道徳的判断を生むものではなく、まず直観的判断があり、その後に、それを正当化する道徳的な理由付けが生み出されると、近年の心理学では考えられているそうです。社会心理学者のハイトは、この2つのプロセスを「象」(直感的で自動的なプロセス)と「乗り手」(理性にコントロールされたプロセス)という比喩で巧妙に表現しているそうです。乗り手(論理的思考)は、役に立つ助言者ではあっても、先頭に立って引っ張り、ものごとを引き起こす力を持っているのは、あくまで象(感情をともなった直感)のほうというわけです。

最近の研究は、面白いですね。最終的に「直感」であるとすることは、やはり人間であると言うことなのかもしれません。では、このような直感は、何歳頃から見られると林は言うのでしょうか?これまで、それをテーマにさまざまな研究が成されてきました。私のブログでもポール・ブルーム著の「ジャスト・ベイビー ―赤ちゃんが教えてくれる善悪の起源―」という本に沿って考察してきました。この本では、「赤ちゃんは自己中心的で、両親や環境から社会性や道徳を学んでいく」と長年信じられてきたこの通念に、発達心理学者である著者は真っ向から反対し、赤ちゃんは既に善悪を判断する能力を持っているといっています。この本は2015年5月に発売されています。そこで、今年の2月に発行された林の「子どもの社会的な心の発達」という本の中では、その後に研究が参考にされているのか、また、その後新しい知見が発表されているのか、また、違う視点(心の理論)からは、どのように道徳を捉えているのかを知りたくて、彼の本を読んでみようと思ったのです。

もちろん、林もその本からずいぶんと影響を受けているでしょうし、参考にしているでしょう。しかし、最終的に道徳とは直感であるという知見には驚きました。プラトンなど有名な哲学者が、道徳の背後に意識的な理性の働きを考えていたからです。そして私たちが、道徳という言葉を聞くと深い精神性と客観的な思考の上にある崇高なものを感じるように、心理学でも長い間、道徳性は理性によるもので、経験や学習の影響の大切さが主張されてきたのです。それは、道徳に限らず、研究とは、客観性を必要するものだということを聞かされてきたのです。

道徳的判断の発達研究もピアジェに始まると言われています。ピアジェの典型的な研究方法は、2つの似た話を子どもたちに聞かせるものです。道徳的判断では、「男の子がドアの後ろにコップがあるのを知らないままドアを開けてコップを15個割ってしまった」という話と、「男の子が、高い戸棚の中のジャムをこっそり食べようとして、無理に取ろうとした際に、コップを1個割ってしまった」という話を比較させます。すると、7歳頃までは最初の方が悪いという判断が多く、その後は後半のほうが悪いと判断し、「結果論的判断」から「動機論的判断」へと判断基準が変わったそうです。このように、子どもの道徳的な考え方は年齢とともに変化するとピアジェは考えたのです。

道徳的判断

正直さを促進させるには、ポジティブな結果となる話が有効であることが追認されているそうですが、私もそれは実験結果からではありませんが、日頃から子どもと接する中で思うところです。ずいぶん前のことになるかも知れませんが、ブログでも取り上げましたが、私の子どもが幼児だった頃、お話でもネガティブなものは好みませんでした。お話の中で名作と言われるものは、意外とネガティブな結果のものが多くあります。うそをついたことでネガティブな結果となる話で思い出すのが、私の子どもが嫌いだった「ごんぎつね」です。教科書にも取り上げられるほどの名作で、大人にとってはしみじみとした哀感のある話ですが、わが子にとっては、その結末は許せなかったようです。

うそや表情研究の第1人者であるエクマンは「ハロー効果」の影響に気をつけるべきであると示唆しているそうです。ハロー効果とは、ある特性が優れていると、ほかの特性も優れているととらえてしまう人間の一般的な認知の傾向を指すそうです。この作用はネガティブな方向にも働くそうです。つまり、ふだんの素行が悪い子どもは、うそをついていなくてもハロー効果の影響でうそつきであると誤解されることがよくあるそうです。これは、大人が子どもを育てる際に普段から心に留めておきたい重要なポイントだと林は言います。このように、大人が人間の認知的な傾向を認知する、つまりメタ認知することで、子どもの社会性を育む際に生かせる点があるようです。

うそと欺きについてのさまざまな研究を知ってくると、その発達における教育的意味を感じてきます。しかし、林は、他者にうそをつかれたり、欺かれたりしたままでは不利益をこうむりますので、他者の行為の善悪を適切に考える道徳的判断も必要になると考えています。他者を欺くことと、その行為を考える道徳的判断は「裏表の関係」にあるということで、道徳の発達について考察する必要があるというのです。

林は、「道徳」ということを考える上で、「カルネアデスの板」という、古代ギリシャの哲学者カルネアデスが提起した問題を紹介しています。

船が難破して二人の船員が波間に漂っているところへ1枚の板が流れてきたものの、その板は二人をともに支えるだけの浮力がないため、一人の船員が助かりたい一心から、もう一人を溺死させて生き残ったというものです。

ここでの問題は、「その生存者が許されるかどうか」ということです。もし感情を排して冷徹かつ「論理的」に考えれば、二人ともが死んでしまうのを避けて一人でも生き残ったことは、功利主義的に考えれば望ましいことだったといえるかもしれないと林は言います。功利主義とは、哲学者ベンサムの「最大多数の最大幸福」という言葉で代表されるように、善悪は社会全体の効用や公益性などによって決定されるとする考え方です。刑法でも、「カルネアデスの板」のような場合、「緊急避難」の規定で、一定の要件を満たせば罰しないとされているそうです。しかし、私たちの多くは、他人を犠牲にして自分だけ助かろうとすることに、道徳的によくないものを「直感的」に感じてしまうと林は言います。豪華客船タイタニックの沈没を描いた映画「タイタニック」では、ジャックは愛するローズを救い、自分は海に沈んでいくという痛ましくも感動的なシーンがありました。私たちがローズの立場になれば、生き残ってしまった自分は本当に良かったのかと心の中で自問しながら生きることになるかもしれないと林は言います。

ポジティブな結果

簡単に「うそ」といってもさまざまなレベルがあり、その発達は、心の理論の発達や実行機能の発達など社会を形成するために必要な要素もあるようです。だからといって、子どもに「うそをつきなさい」とは言えませんし、うそをつくのを見逃していいわけではありません。林は、子どものうその発達に対して、大人の側はどう理解し、どのように教育していくことが望ましいのかという疑問について提案しています。

リーらは、古典的寓話を題材にして、子どものうそを低減させる、正直さを促進するには、何が有効かを検討しているそうです。この実験では、「誘惑に対する抵抗」で、のぞき見した3~7歳の子どもに次の四つの寓話のいずれかを聞かせてみたそうです。一つ目は「ピノキオ」で、うそをつくことで鼻が伸びてしまうというネガティブな結果となる話です。二つ目は「オオカミ少年」で、「オオカミが来た」とうそを何度もつくことで信じてもらえなくなり、本当にオオカミが来たときに襲われてしまうという、これもネガティブな結果となる話です。三つ目は、「ワシントンと桜の木」で、ジョージ・ワシントンが幼い頃、父の大事な桜の木を切ってしまったことを正直に告白したところ、その正直さを褒められたというポジティブな話です。四つ目は「ウサギとカメ」で、これはうそや正直さとは関係がない話であり、結果を比較するためのコントロール群として設定されました。その結果、のぞき見を認めた、うそをつかなかった子どもの割合は、「ワシントンと桜の木」を聞かされた群でのみ、コントロール群より高かったそうです。このことから、子どものうそを低減させる、すなわち正直さを促進するには、ポジティブな結果となるお話が有効であることが示唆されたのです。

この実験には続きがあるそうです。もしかすると、ジョージ・ワシントンという偉人の話だった影響があるのかもしれないと考えられるので、リーらは、話の最後を改変して、うそをついたことでネガティブな結果となる「ネガティブなワシントンと桜の木」の話を用意して、二つ目の実験を行なったそうです。その結果、「ネガティブなワシントンと桜の木」を聞かされた群で、のぞき見を認めた子どもの割合は、実験1のコントロール群や「ピノキオ」、「オオカミ少年」を聞かされた群と同程度に過ぎなかったそうです。したがって、子どものうそを低減させる、すなわち正直さを促進させるには、ポジティブな結果となる話が有効であることが追認されたそうです。

この結果は、教育的に重要な示唆を含んでいると考えられます。というのも、不正直さという負の面を強調するより、正直さという正の面を強調する方がよいわけですが、実際には、親や教師は逆のことをしがちで、正直さをほめるよりは、欺きを罰しがちです。しかし、幼い子どものうそとして最も典型的で、頻繁に見られるのが、「罰を避けるためのうそ」です。子どもはネガティブなことに対して敏感なので、それを強調する道徳的な話は、幼児の正直さを促進する上で十分ではないかもしれないと林は言います。親や教師は、「うそをついたことを罰する」ことをしがちですが、「正直さをほめる」ことが効果的なのです。また、「のぞき見をしていたとしても怒らないから、本当のことを言ってくれるとうれしいな」などと、罰の免除と「良い子」に戻る方法の両方を提示することも有効と言われています。このように教育の工夫は、たくさん考えられるようです。

うその発達

二次のレベルで心の状態を読み取ることで、うそと冗談の区別が出来るようです。たとえば、男の子がお母さんに「僕は大そうじをしたよ!と言ったときに、お母さんは部屋が散らかったままであることを「『知らない』と思って」発言したのであれば、「うそ」ですが、「『知っている』と思って」発言したとすれば、「(自虐的な)冗談」と言えます。実際に、この二つのお話を1年生から6年生に聞かせると、3年生頃である8~9歳頃からうそと冗談を区別することが正確になり、二次の心の理論に関わる質問や二次の誤信念課題の成績とも関連したそうです。

このように、児童期は心の理論のさらなる発達に伴って、表出ルールやホワイトライなど、他者を気遣ったうそが発達し、人は状況に応じて選択的に感情を隠したり表出したりすることの理解も進んでいくようです。こうしたことから、場の空気を読む能力が高まり、コミュニケーションも洗練されると言います。つまり、社会性が深まり、大人に近づいていくと考えられています。

このようなうそと欺きの発達について、心の理論や実行機能といった認知的な視点からの研究として、タルワーとリーの論文とリーカムの論文から、子どものうそが三つのレベルで発達していくという知見を発表しています。

まず、リーカムの用語で「レベル1」、タルワーとリーによる用語では「最初のうそ」と呼ばれるレベルがあります。それは、罰を避けようとして、事実と違う発言をするうそで、3歳頃から見られるようです。例えば、「箱の中を見たの?」と聞かれると「見ていない」と否認するようになりますが、この年齢の子どもでは、一貫させることが困難なようです。続けて「箱の中は何かな?」と聞くと、「おもちゃ」と正直に答えてしまいます。また、心の理論の発達も不十分なため、意図的なうそをつかれても、相手が欺こうとしていることに気づけず、事実と違う発話は間違いであると考えるようです。

これは、よく保育の中で見られますね。そんなときには、むきにならずに、心の理論を獲得していくための発達過程であることを理解しておく必要がありそうですね。つくづく大人の理論で子どもの発言を判断してはいけないということを感じます。

次は「レベル2」とか「第2のうそ」と呼ばれるものです。4~6歳頃が該当するようです。このレベルへの移行は、一次の心の理論の発達が大きな鍵を握るそうです。相手の心の状態に注意が向き、誤信念を生み出す意図的なうそがつけるようになるそうです。「うそ泣き」という興味深い行動も示唆されているそうです。また、虚偽の発話がわざとでないかも区別できるようになるそうです。ですから、うそを勘違いと識別できるそうですが、この時期の子どものうその定義は大人と違うことがあり、勘違いの状況もうそと見なす興味深い現象も見られると言います。

その次が「レベル3」とか「第3のうそ」と言われるレベルです。7~8歳頃から見られるそうです。うそが洗練され、一貫性のあるうそもつけるようになります。このレベルへの移行は、二次の心の理論の発達が鍵を握るようです。自分の心の状態が相手にどう思われているかまで考慮できるようになり、ホワイトライのように他者を気遣う「向社会的なうそ」もつけるようになります。また、「人は状況に応じて選択的に感情を隠してうそをついたり、本心を表出したりする」ことを理解し始め、うそと冗談や皮肉の区別といった高度な理解もできるようになると言います。

隠したり表出したり

一度ついたうそがばれないためには、その後もつじつまを合わせる必要があり、ここで、二次の心の理論がとても重要になります。「『自分が知っていること』を相手は知っている」かどうかも理解できるようになり、裏の裏をかくことができるからだと言うのです。実際、タルワーらは、6~11歳の子どもを対象に、最初についたうそとその後の発話を一貫させ、つじつまを合わせられるかどうかを検討しているそうです。この研究によると、こうしたつじつまを合わせる能力は、年齢が増すとともに高まっています。さらに、この能力が高まるほど、二次の誤信念課題の成績もよいことがわかっています。つまり、二次の心の理論の発達は、「うそをつく」だけでなく、「うまくうそをつく」ためにも重要なのだと林は言います。

また、自閉症のB君ができなかったことですが、うそには他者を気遣う向社会的なものもあると言います。たとえば、好みでないプレゼントをもらったときのように、落胆や悲しみの表情を出さずに笑顔で応対すべき場合があります。このように相手の感情を傷つけないように社会的慣習に従って表情を示すことを「表象ルール」と呼ぶそうですが、これも二次の心の理論に関連するのです。

私は、この表象ルールが行なわれるのは、人工知能ではなかなか難しいことだと思っています。しかも、それは社会的慣習に従うというように、社会によって若干違う気がしています。その社会は、日本においてより重要視されてきた気がします。それが、「もてなし」という態度に表れていると思っているので、日本の文化の誇れるひとつに私は入れてあるのです。とくに、「相手の感情を傷つけないように表情を示す」というのは、いかにも日本的ですね。

それに対して、表情でなく言葉による表出は、英語で「ホワイトライ(white lie)」というように、欧米では、言葉によることが多い気がします。表情、言葉、どちらにしても、「悪意のないうそ」といったことで、ともに心の理論と関連します。

しかし、本当の感情を偽ることが常に有益というわけではないと林は言います。たとえば、他者が余計なことばかりをして、迷惑をかけられている場合もあります。このような場合、相手に相手自身の行動が無神経であることに気づいてもらうために、「あえて本当の感情を表出する」場合もあると言います。つまり、「人は状況に応じて選択的に感情を隠したり、表出したりする」のですが、このことを子どもが何歳頃から理解しているのでしょう。

林は、この問題について実験してみたようです。すると、6~7歳頃までは、人は状況に関係なく本心を示すと考えている傾向があるようだということがわかったそうです。しかし、二次の心の理論の発達とともに、8~9歳頃には、「人は状況に応じて選択的に感情を隠したり、表出したりする」ことを理解し、児童期後期の10~11歳頃までにこうした理解が明確になることが明らかになったそうです。

また、二次の心の理論に発達によって、うそと冗談、あるいはうそと皮肉のような微妙なニュアンスの区別もできるようになったそうです。しかし、どちらも勘違いではなく、意図的に事実と違うことを言っているので、一次のレベルでは両者を区別できないそうです。二次のレベルで心の状態を読み取ることで、うそと冗談の区別が出来るそうです。

ババ抜き

自閉症児であるA君は、ババ抜きをしているとき、すべてのカードが周囲に人に見えるような持ち方をしただけでなく、「ババを持っているのは誰だ?」と言うほかの子どもの発言に対して、「はい、僕です!」と自ら手を挙げ、さらにはババのカードだけ「このカードを取ってくれ」とでも言うように飛び出させて、相手に差し出したそうです。この研究論文では、このように「正直に」進んでいてババ抜きは、定型発達児にはスリルがなく、淡々と進んでおもしろさが感じられないけれども、自閉症児には相手の手の内がわかった上でゲームを進めることのほうが、面白いのかもしれないと考察されているそうです。

この論文の考察を見て、私は、幼児とババ抜きをするときにも同じような状況があることに思い当たります。他人を欺いて、なんとかババを引かせようというスリルよりも、ババを引き合う楽しさを感じているように思っていました。それは、例えば、鬼ごっこをするときにも、必死に鬼にならないように逃げるよりも、わざと目の前に立ったり、わざとゆっくり逃げて、捕まる楽しさを感じているのではないかと思うこともよくあります。そんなときに、私はまだそこまで発達していないというよりは、発達上優先するのは、人を欺くとか、人から逃げる、避けるよりも、協力する、一緒に関わって楽しむ、ということであり、また、勝ち負けという結果のために勝負をするよりも、関わって遊ぶという過程を優先しているのではないかということを感じます。

田中は、論文の中で、もうひとつの事例を挙げています。それは、IQが130近くある自閉症の高校生B君です。B君は、友だちに「『明日一緒に映画に行こう』って約束したけれど、なんだか君と行くのは気分がのらないんで、僕は行かないことにしたんで」と電話で言ったそうです。さらには、それが聞こえて驚いている田中先生に対してB君は、「やっぱり悪かったですね。映画の約束を破って」と言ったそうです。このことについて、この論文では、「悪いのはそのこと以上に、体調が悪いとか、家の幼児で急に家族で出かけることになったなどの「うそ」の理由ではなく、『君と一緒に行くのは気分が乗らない』と理由を正確に表現したことのほうであると『普通』思うのでは」と指摘されているそうです。

それに対して、「B君が正直者であることは間違いはありません。しかし、正直であることは、この例が示すように、ときには残酷でもあるのだ」と林は言います。「うそは悪いこと」とされますが、私たちは発達とともに本当のことを正直に言ったばかりに人を傷つけてしまうことを体験しながら、どのような状況でうそをつけば、人間関係が壊れないかをスキルとして身につけていくのだと林は言います。場を読んで柔軟に行動を変えることが難しい幼児期にこうしたスキルを身につけていくのはまだ難しく、児童期に発達が進むと考えられているのです。

4~5歳頃から意図的なうそをつけるようになることは知られていますが、うそがその場限りで終わるという事はあまりなく、一度ついたうそがばれないためには、その後もつじつまを合わせる必要があります。ここで、二次の心の理論がとても重要になると林は言います。「『自分が知っていること』を相手は知っている」かどうかも理解できるようになり、裏の裏をかくことができるからだと言うのです。

敵味方

二つの実験結果から考察すると、子どもは「葛藤状況を理解できていない」ようです。しかし、そこにはいくつかのレベルがあり、第1に、「同時に注意する」ことができなかったという可能性が考えられると言います。複数のことに同時に注意を払うのが難しいことを示し、実行機能で言えば、シフティングや更新(ワーキングメモリ)に限界があったのかもしれないと林は考えています。第2に、注意に問題がなかったとしても、「葛藤状況が意味すること」をどう捉えてよいかわからないという可能性もあると言います。つまり、「味方に伝えると、敵にも伝わってしまう」という理解の不十分だというのです。この理解は状況を読んで欺くために、決定的に需要だと考えています。

以上の結果は、子どもが「秘密を守れない」ことの一端を説明できるものではないだろうかと林は考えています。子どもと話していると、情報を知られたくない人が近くにいるにもかかわらず、その情報を子どもが口にして、「どうして、ここで話してしまうの!」と感じる場合がありますが、この実験結果を知ると、それは起こりうることだとわかるのではないかと彼は言います。子どもは内緒にしておけないとよく言いますが、それとは違った意味で、内緒にしておけるはずですが、葛藤状況では話してしまうという意味で、秘密をある意味、非意図的に漏らしてしまうこともあるのだということをこの実験は示しているのではないかと考えられるようです。

このように、大人であれば躊躇するところで、子どもが即時的に反応してしまうのには驚かされますが、これほど秘密を守ることが困難であると、逆にできる子の方が際立つことになります。実際、子どもの中にはまれにだそうですが、オオカミの存在を意識した反応も見られたそうです。具体的には、オオカミが立ち去るまで45秒間待ち続けた反応があったり、「オオカミがいるから、小さい声で言うね。(小さい声で)赤い家」と言ったり、指先だけを曲げた小さな動きの指さしをしながら口をパクパク動かせてウサギの居場所を伝えようとしたりする様子が見られたそうです。これらは、幼児期においてすでに状況を的確に読み取り、自分の行為をコントロールできたことを示す高度な反応と言えるのではないかと林は考えています。これこそ「その場に応じて柔軟に変化させる人間らしいコミュニケーション」の先駆けであり、人間関係を把握して振る舞うことの基礎につながると感じるというのです。

「嘘つきは泥棒の始まり」と小さい頃、親に言われて育ちました。しかし、どうも、ここで言う「うそ」とは、単に「本当と違うこと」ということを指しているわけではなさそうです。林も小さい頃から「うそをつくな」と教育されてきたと言います。では、もしこの言葉通りに本当に「うそをつくことが許されない」とすれば、私たちの生きる世界はどのようになるのかを問うています。

こんな田中真理の論文を紹介しています。自閉症児は、定型発達の子どもほど心の理論をうまく働かすことができません。ですから、うそや欺きが苦手と言われています。論文では、自閉症児であるA君がトランプの「ババ抜き」をしたときの様子です。

変装

林の実験を見て思うのは、まず、人間たらしめている他人の心を察したり、他人との関係でその場の空気を読んだりすることは、社会を形成する上でとても大切なことであり、人類が社会を形成することによって脳が拡大していったということがよくわかります。かなり、頭を使います。また、そのための実験が複雑ですので、子どもがその意味を理解するのであろうかということです。その場面、ストーリーが理解できないために答えることができないことが、他人の心が理解できていないことになるのかが疑問になります。

そんな疑問を林が行なった実験で思うだろうということで、再度これを修正して行ないました。今度は「オオカミとキリンが同時に存在する」という葛藤場面を明確にするために、キリンの隣にオオカミを立たせることにしたのです。ただし、オオカミが真横にいる状態でオオカミと仲の悪いキリンが子どもに尋ねるのは不自然ですので、オオカミが「クマに変装する」という状況を考えたのです。

ここで、キリンが「見かけはクマであるが、本当はオオカミである」ことが幼児にわかるのかという疑問を持ちます。それについて、林は「先行研究から4歳頃にはすでに『見かけと本当の区別』ができるようになっており、今回は5~6歳を対象としますので、問題はない」と考えています。実験の状況は、一つ目の実験と同様の非葛藤条件に加えて、それらに対応する変装条件を用意したのです。「変装-非葛藤条件」では、オオカミが登場後にクマのパペットをかぶり、「これなら、クマに見えるだろう!」と言って、子どもにウサギの居場所を教えるように求めたのです。

「変装-葛藤条件」では、同様にクマのパペットをかぶり、「これなら、俺がオオカミだってわからないはずだ!」と言いました。そして、シーン3dでキリンが登場し、「あっ、クマさんもいたんだ。ねえ、クマさん、ウサギさんがどこにいるか教えてくれない?」と聞きます。クマに変装したオオカミは「俺も知らないんだ。◯◯ちゃんに聞いてみてよ」と答えます。そこでキリンは「◯◯ちゃん、ウサギさんがどこにいるか教えてくれない?」と子どもに尋ねたのです。

実は、実験2を行なう前の予測で、林はたとえ葛藤場面であっても変装条件であれば子どもはウサギの居場所を教えるのを躊躇するだろうと思っていたと言います。まさか、オオカミが真横にいるのに、教えたりはしないだろうと思っていたのです。しかし、結果は驚くべきものだったそうです。幼児の多くが、何の躊躇もなくウサギの居場所をキリンに教えたというのです。しかも、これらの子どもは、変装-非葛藤条件で正答していたので、「クマが本当はオオカミである」ことをわかっていたにもかかわらずだったのです。なかには、「本当はオオカミだよ!」と警告してくれる子さえもいたそうです。

この結果をこう林は解釈しています。まず、一つ目の実験での場面設定には問題がなく、二つの実験結果は子どもが「葛藤状況を理解できていない」ことを意味すると考えています。しかし、そこにはいくつかのレベルがありそうだといいます。第1に、「同時に注意する」ことができなかったという可能性が考えられると言います。子どもたちは、オオカミが木の陰に隠れるまで視線で追っていたため、「オオカミがキリンの様子をうかがっている」という状況そのものは理解していましたが、キリンが出てくると即時的に教えてしまったのです。それは、どういうことでしょうか?

状況に応じる

さまざまな実験が紹介されると、その結果を疑うわけではありませんが、実際にやってみたくなります。特に、欧米での実験結果について、日本の子どもでも同じような反応をするだろうかということを考えてしまいます。以前のブログで紹介したように、誤信念課題における「助っ人課題」が、海外の学会での発表に「それの結果は日本人だからではないか」という評価を知ったからです。それは、私の推測ですと、多くの気質をつくったのは、欧米では狩猟民族での生活からであり、日本人は農耕民族としての生活の中から培われてきたものではないかと思っているのです。その生活の中では、日本人はより「助っ人」を必要としてきたのではないかと思うのです。ですから、子どもへの質問に対して、子どもはその人の気持ちになるというよりも、その人の助っ人になる気持ちのほうが優先するような気がしています。それは、人類がもともとも持っている赤ちゃんから「教えたがる」という気質が強く残っているのではないかと思います。

「その場の空気を読む」ということを、子どもはいつ頃からするようになるのかという課題から林は、これまでの欺き研究のように、「協力場面と非協力場面が独立している状況」で、情報を伝えるべき相手と、伝えるべきでない相手から個別に情報を求められる状況である「非葛藤条件」に加えて、両者が同時に存在するため「協力場面と非協力場面が葛藤する状況」(葛藤条件)をあらためて設定してみた実験を行ないました。その結果、とても興味深いものがあったそうです。

まず、非葛藤条件では、シーン2a(非協力場面)で、オオカミにウサギがいる家を教えた反応を「誤反応」とし、ウサギがいない家を教えた反応と、答えるのを拒否した場合を「正反応」としています。その結果、4歳から5歳にかけて正反応数が増え、5歳になると多くの子どもがオオカミを欺くことができたそうです。しかも、正反応だった場合は、ほぼ全員がシーン3a(協力場面)でキリンが現われてウサギの居場所を聞くと、即座にウサギがいる家を教えたそうです。つまり、相手によって選択的に欺くことができたと言うのです。

葛藤条件では、シーン3b出の次の四つの反応を「正反応」としています。第1は「無反応(完全)」、第2は「無反応(不完全)」です。両者は、「キリンに聞かれても、即時的に反応しなかった」と「(少なくとも一度)木の陰に入るオオカミの方に視線を向けた」の二つの基準を満たすものとし、このうち、オオカミが去るまでずっと無反応を保つことができた場合を「無反応(完全)」としています。この場合、オオカミが去った後にキリンからウサギの居場所を聞かれると、すべての子どもが即座にウサギのいる家を教えたそうです。これに対して、途中でキリンに教えた場合は「無反応(不完全)」としています。

第3は「小さい声で伝えた」です。たとえば「オオカミがいるので気をつけてね。小さい声で言うよ、(声をひそめて)赤い家」というように、オオカミに聞こえないように自分の行動を調整した場合に当てはめています。第4は「逆」です。これは、キリンにウサギがいないほうの家を教えた場合ですが、オオカミに捕まらないよう考慮したと考えられるため、正反応としています。以上の四つ以外は、キリンから聞かれた際に、キリンにウサギの居場所をすぐに教えるという即時的反応であった「誤反応」としています。

その結果、葛藤条件の正反応数は、どの年齢でも少なく、6歳でその平均は、4歳の非葛藤条件より低かったそうです。これは、状況に応じて行動を調整する工夫は、幼児期にはまだ難しいことを意味するのではないかと林は言うのです。