人種による違い

ハリスはこのX要因が何であるかを知っていると思うと言っています。そして、その要因についてかなり明確に説明できるだろうとも言います。黒人の子どもたちと白人の子どもたちは、それぞれ違う規範をもつ違う集団と自分を同一視します。その違いは集団対比効果により誇張され、その結果は年月とともに雪だるま式に膨れ上がると言います。それがX要因だとハリスは言うのです。

子どもたちは三歳くらいになると、人は人種によりカテゴリー化できることを知っていきます。その後数年で、人種による違いがますます顕著になり、それが子どもたちを小集団に分裂させるいち手順となります。このように分裂するか否かは、一つには単純に数の問題であり、すなわちあるときある場所での子どもの人数によると考えられています。遊び相手を選べるほど子どもの数が多くないときには、男の子も女の子も一緒に遊び、自分たちをともに〈子ども〉としてカテゴリー化しますが、白人と黒人の子どもたちもそれと同じだと言います。

アメリカの子どもたちは生徒の数が少ないほど、教室では多くのことを学ぶ傾向にあるようです。クラスの人数が少ないほど、教師が集団をまとめやすくなるからだと考えられています。子どもの数がさほど多くなければ、学業に対して対照的な態度をもつ対照的な集団に子どもたちが分かれにくくなるからです。

社会学者ジャネット・ショーフィールドは、彼女が「ウェックスラー」と呼ぶ学校に通う6年生と7年生を数年間にわたって調査したそうです。ウェックスラーとは、ほぼ同数のアフリカ系アメリカ人と非ヒスパニック系の白人の生徒で構成された都市部にある学校です。白人の子どもたちの多くは中流階級の家庭の子どもたちで、黒人の子どもたちの多くは労働者層もしくは低所得者層の家庭の子どもたちでした。教師たちや理事たちも人種の調和を目指しましたが、結果は達成とはほど遠いものだったそうです。黒人の子どもたちと白人の子どもたちはお互いに、用心深く、疑うような目で相手を見て、一歩間違えればラトラーズとイーグルズのような公然たる敵対行為が勃発しかねない状態にあったそうです。ウェックスラーでは、黒人の子どもと白人の子どもが一緒に校庭で遊んだり、食堂で同席したりすることはまれだったそうです。

ウェックスラーにはさまざまな社会階級の子どもたちが揃っていますが、彼らはそれを認識するわけではありません。彼らが認識するのは人種によって定義づけられた二つの社会的カテゴリー間の違いです。この学校では黒人の子どもたちも白人の子どもたちも、白人を成績優秀者として、黒人を勉学を拒否した者として考えていたのです。

黒人であるシルヴィアはこう言います。「彼ら(黒人)は勉強することなんてどうでもいいと思っているのよ。白人の子は勉強したくてうずうずしている。」白人のアンは、こう言います。「黒人の子どもたちは成績のことなんて気にしないのよ。」

両集団の違いは成績に関するものたけではありません。黒人の子どもたちも白人の子どもたちもともに、白人の子は柔和で弱虫、黒人の子は強靭で攻撃的だと思っています。白人の子は「どうしようもない」とある黒人の女の子は社会学者に言ったそうです。「だって喧嘩の仕方もわからないんだもの」。また、人種を分ける境界線を越えようとすると、同じ集団の仲間から非難されかねません。

黒人のリディアはこう言います。「彼女たち(他の黒人の女の子たち)は誰かが白人と仲よくなると腹を立てるんです。…黒人は黒人同士で、白人は白人同士で友だちになるべきだというのです。」

IQの違い

年齢とともにIQの遺伝率が上昇するのは、そのほとんどが間接遺伝子作用、すなわち遺伝子作用による作用によるものです。はじめのわずかな差異がのちに大きく膨らんでいきます。実際、知能検査ではこの差異の膨張が過小評価されているかもしれないとハリスは言います。なぜなら知能検査の結果は相対評価だからです。子どもたちは同年代の子どもたちとのみ比較され、年齢ごとに同じ割合で130台、100台、そして70台へと振り分けられます。

学業成績に基づいてクラスが小集団に分かれると、対比効果により集団間の差異が拡大します。その影響はクラスの中でも成績の思わしくない集団において、顕著に現われます。成績優秀者はすでにここまで最善の努力をしてきているからです。このような集団対比効果は、IQにはたらく間接遺伝子作用の重要な源となっているとハリスは考えているようです。

教室内の子どもたちが人種や社会経済的地位に基づいて小集団に分かれると、そこでも対比効果により集団間の差異が拡大します、もしくはなかったところに差異が生まれます。もし教室内の子どもたちを無作為にマイルカ・チームとネズミイルカ・チームに分けたときに、マイルカ・チームに優秀な生徒が二人おり、ネズミイルカ・チームにはついていけない子どもが一人か二人いた場合、両チームの当初のIQ平均値が同じであったとしても、両チームの学業に対する態度は対照的になるかもしれないとハリスは言います。そのまま数年間学校に通った後、彼らがひきつづきマイルカ・チームとネズミイルカ・チームとして自分たちを認識していたとします。子どもが一緒に過ごすのは主に同じチームメートで、どちらのチームに属しているかによって、学校での学業に励んでいるか、学業を馬鹿にしているかのどちらかになります。当初は学業への態度が違っていただけですが、それがIQの平均値の違いとなって現われると言うのです。

ダニエル・セリグマンによる『知能について』という著書がありますが、彼はその中で『ベル・カーブ』と同じ指摘を『ベル・カーブ』ほど煽動的ではないにせよ、いくつかしているそうです。『ベル・カーブ』という本を私は読んだことはありませんが、1994年にリチャード・バーンスタインとチャールズ・マリーによって書かれた本だそうです。その指摘というのは、黒人と白人のIQの違いを取り上げ、その理由を環境の違いに求めようとする社会科学者たちの懸命な努力について述べているそうです。社会経済的地位の差や所得の差はその違いを説明するには十分ではないということをセリグマンは指摘しているのです。同じ社会経済的地位の子どもたち、もしくは親の所得が同じ子どもたちを見ても、IQの平均値には差があるというのです。セリグマンにとって、これらの結果は不本意なものであったそうですが、それでももう一つの環境に帰結する解釈にわずかな望みを託したそうです。

「これらの詳説は決して環境の影響に関する論議に終止符を打つものではない。原則的には、黒人と白人の間の溝のすべて、もしくはそのほとんどは違う種類の環境的要因、すなわち標準的な社会科学データではとらえられない要因に帰することができるのである。環境論において、最後に望みを託されるものとして時折登場するのがX要因だ。X要困とはその影響力を測ることも、さらにはそれを明確に説明することさえもできないものだが、議論をつづければ、それはアメリカで黒人として暮らす経験からくるものである。それがあることによって黒人の生活は、白人の生活とはまったく異なる、比較することもできないものとなる。その過程において、両者の溝を埋めることができる環境の働きがわずかながらに存在することを示したであろうすべての相関係数の正当性がX要因によって蝕まれてしまう。さらに誰も明確にはできない方法で、要因は知的能力を抑制してしまうのだ。」

特別な社会的カテゴリー

ミスAは自分の教室に集う多種多様な子どもたちを一つのやる気ある学習者、一つの〈われわれ〉としてまとめあげる不思議な才能をもっていたのだろうとハリスは分析します。この〈われわれ〉は名称の有無にかかわらず、一つの社会的カテゴリーです。おそらくミスAは子どもたちに、自分たちは特別な社会的カテゴリーに属しているのだという意識を植えつけたのでしょう。「機密の、しかも実行しがたい作戦を任された勇敢なる兵団の一員」であるという意識を。この自己カテゴリーは彼らがミスAの教室から巣立った後もそのまま生きつづけました。反学校的態度への盾となり、同じ学年の他の子どもたちよりも優秀だという意識をもたせました。さらにこの特別な社会的カテゴリーは残念ながらミスAの生徒になれなかった人たちにまで及んでいたに違いないと言います。だからこそ、ペダーセンが話を聞いた人の中に、自分はミスAのクラスにいたと主張した人がいたのです。彼女のつくり上げた集団の一員であったと、もしくはその一員であることを望んでいたのです。安アパートから鉄格子の張られた古い学校に通う子どもたちの中に、たとえ実際にミスAの教室に入ったことがなくても、自分たちを「ミスAの子どもたち」だと考える、やる気ある学習者の集団がいたのです。

おそらくエイジル・ペダーセンもその一人だったのでしょう。だからこそ、一年生のときの担任はミスBであった彼が、学校の同窓生の中でも最も成功した一人となり得たのだろうとハリスは考えるのです。

子どもの発達には悪循環が多いと言われています。仲間に嫌われている子どもは社会性を養う機会が限られてしまい、太めの子どもは運動を避けることによってますます太ってしまいます。ところが、知性に関するものほど質の悪い悪循環はないとハリスは言います。はじめは仲間にわずかに劣っていただけの子どもも、自分を賢くするはずの事柄を避けるようになります。その結果、彼らはますます落ちこぼれてしまうのです。同様に、他よりもわずかに先を行っていた子どもは脳の訓練を繰り返すのです。

行動遺伝学者たちによると、の遺伝率は年齢とともに増加するといいます。たとえば年配者では0.80と推測され、それは老人の間に見られるのばらつきの80パーセントは遺伝子に原因があると言っているようなものです。ところが、そのような解釈は誤解を招きやすいようです。なぜなら、ばらつきのすべてが遺伝子の直接的な効果によるものではないからです。その大部分は人々が子ども時代に、そして大人になってから、自分で決断したことによるのです。テレビを見ようか、それとも宿題をしようか。野球をしようか、それとも図書館に行こうか。また、ブリタニーのグループにいつづけようか、それともブリアンナのグループに乗り換えようか、大学へ進学しようか、そこで何を専攻しようかなどです。さらに、ロジャーと結婚すべきか、それともロドニーとか。こうした決断が人生にどのような結果をもたらしたかは、行動遺伝学の研究では遺伝子がIQに及ぼした影響、すなわち素質的なものとして表面化します。ところが、実際には研究者たちは直接遺伝子作用と間接遺伝子作用の両方を測定しているのです。

 

優秀な教師

リーダーが集団に影響を及ぼす方法には三通りあるとハリスは考えています。第1に、リーダーは集団の規範、つまりメンバーたちが順応しようとする態度や彼らがふさわしいと考える行動に影響を与えます。第2に、リーダーは集団の境界線を引くことができます。第3に、リーダーは集団のもつ自己イメージ、すなわちステレオタイプを定める力をもっています。本当に優秀な教師とは、この三通りすべてでリーダーシップを発揮するのです。本当に優秀な教師なら、クラスをいくつかの異なる集団に分裂させることなく、多種多様な生徒たちを全員一つの〈われわれ〉に統合することができます。学業を修める者として自覚する〈われわれ〉に。その〈われわれ〉は、自分には能力があり、自分は勤勉だと意識する人々なのです。

優秀な教師はどのようにそれを実行するのでしょうか?と訊かれても答えられないとハリスは言います。ボリビアからの移民で、イースト・ロサンゼルス高校でメキシコ系アメリカ人に微積分を教えた、映画《落ちこぼれの天使たち》でその功績を永遠に称えられたハイメ・エスカランテはまさにそのような教師でした。伝記作家はエスカランテが生徒たちに及ぼした影響を次のように説明しているそうです。彼は生徒たちに「機密の、しかも実行しがたい作戦を任された勇敢なる兵団の一員である」と自覚させたのです。もう一人そのような才能に長けたリーダーはジョスリン・ロドリゲス、ニューヨーク州・ブロンクスのミドルスクールの教師です。ロドリゲスのクラスのほとんどは黒人とヒスパニック系でしたが、その生徒たちを固く団結させて一つのコミュニテイを築き上げることに成功したのです。クラスはそれぞれのコミュニティに名前をつけ、旗をデザインし、コミュニティの歌を作曲しました。彼女の生徒の一人はリポーターにこう話しています。「みんな友だちだから、近くに座っても別に嫌ではないわ」

このような例外とも言える教室に特徴的なのは、勉強を苦手としている子どもへの他の生徒の態度です。そのような子どもたちをバカにするのではなく、元気づけるのです。ロドリゲスの担当したクラスには読むことを苦手とする男の子がいましたが、彼の読む能力が向上しはじめると、クラス全体がそれを祝いました。「彼が読めるようになりはじめると、クラス全員が彼に拍手喝采するのだ」

同じような現象はアジア諸国の学校でも見られるとハリスは言います。その例として、彼女は日本を取り上げています。子どもたちは、あるまじき行為をしでかすと同級生から批判され、よい行為をすると元気づけられるというのです。ある子どもの問題行為はクラス全体の汚点とされ、ある子どもの向上はみんなの功績とみなされます。日本人の子どもたちが他よりもやさしいわけではないとハリスは言います。遊び場では、他の国々同様、いじめが横行していると言います。教師たちがどのような手段を使っているのかはわからないと言います。それが彼らの教育的手腕によるものなのか、文化的なものなのか、それとも両者の組み合わせによって可能になるのかはわからないながらも、彼らの一体感こそが、アジア系の子どもたちが多くの学科でアメリカ人生徒よりも優秀な成績をおさめる理由なのではないだろうかとハリスは分析しています。教室に反学校的、反知的な態度をとる集団がなく、生徒全員が最大限の努力をすることによって、教師は一気に前に進むことができるのだと思っているようです。

その実態は別として、海外では、日本の小学校においてこのような班活動や連帯責任、教師に従順であることなどの評価は高いようです。

永続的な影響

元生徒の話から判断するに、ミスAは聖人に近かったようだとハリスは言います。堪忍袋の緒が切れることなどありませんでした。勉強についていけない生徒のために放課後も残って面倒を見ました。あらゆる家庭環境をもつ生徒が集まっていましたが、すべての生徒が文字は読めるようになりました。親がお弁当をもたせるのを忘れた生徒、もしくは経済的にもたせることのできなかった生徒には自分のお弁当を分けてあげました。彼女は生徒たちが教室を去ってから20年たっても彼らの名前を覚えていたと言います。

教科書のサイド・ストーリーでハリスは、こうしたミスAの永続的な影響は彼女が一年生に与えた幸先のよいスタートによるものだとしました。ところが「へッド・スタート」のように、計画的に与えられた幸先のよいスタートは短時間で驚くほどの向上をもたらしますが、それは時間とともに消滅してしまいます。ヘッド・スタートとは、就学前の子どもに対して施す米国政府の教育事業で、主に経済的に恵まれない子どもを対象とし、教育、医療、栄養面でサポートし、初等教育を受けるにあたり不利がないようにとの配慮で行なわれているものです。ではなぜミスAの効果は消減しなかったのでしょうか。

ハリスは、ここに一つのヒントがあると言います。ペダーセンが話を聞いたミスAの元生徒の中には一年生のときの担任の名前を誤って答えた者はいませんでした。ところが、彼女のクラスにいなかった四人は誤ってミスAが一年生のときの担任だったと答えたのです。これを「願望思考」とペダーセンは読んでいます。

この「願望思考」が、一度も足を踏み入れたことのない教室の記憶を創造させたのでしょうか。記憶とは世間が考えるほど信頼をおけるものではないとハリスは考えています。記憶とは創り出すことも、破壊することもできると言うのです。しかし、ここでは何か別のものが作用していたのではないだろうかとハリスは考えます。

それを説明するためには、脇道にそれてしまいますが、リーダーについて話さなければならないとハリスは言います。集団には、必ずとは言わないまでも、リーダーが存在します。リーダーはその集団のメンバーであるとは限りません。集団は内部からも外部からも影響を受けます。教師とは集団の一員ではないものの、ある集団に影響を与える立場にいるリーダーなのだとハリスは言います。

リーダーが集団に影響を及ぼす方法には三通りあると言います。第1に、リーダーは集団の規範、つまりメンバーたちが順応しようとする態度や彼らがふさわしいと考える行動に影響を与えます。そのために集団のメンパー全員に直接影響を与える必要はありません。その過半数、もしくは集団の支配層にいる注目度の高いメンバーたち数人に影響を与えるだけで十分だと言います。テレビなどの文化的な力も同じように影響を及ぼします。集団社会化説によると、集団の男子全員が同じテレビ番組を見ている必要なありません。仲間の多くが見ていさえすれば、その子がその番組を見ようが見まいが、その子の規範が受ける影響は同じだというのです。

第2に、リーダーは集団の境界線を引くことができます。誰が〈われわれ〉で、誰が〈彼ら〉であるか。これはヒトラーが得意としていたことだとハリスは言います。

第3に、リーダーは集団のもつ自己イメージ、すなわちステレオタイプを定める力をもっています。

偉大な功績

学校に対してさほど好意的な態度をいだかない生徒は、たとえばアフリカ系アメリカ人の生徒は、集団としてはヨーロッパ系もしくはアジア系アメリカ人ほど成績はよくありませんが、自尊心については他の人種集団と比べて低いわけではありません。これまで、このテーマに関して考えてきたこと、読んできたことは忘れ去るべきだとハリスは言います。総体的に、若いアフリカ系アメリカ人の自尊心は若いヨーロッパ系アメリカ人のそれに決してひけをとりません。自尊心とは集団内の地位がもたらすものです。自分自身を同し集団内の他のメンバーたちと比較することによって、人は自分たるものを判断するというのです。

ハリスが手がけた児童発達の教科書は、彼女が子育て神話の実状を見抜いてそれへの信心をかなぐり捨てる前、すなわち集団社会化の威力を理解する前に書いたものだそうです。その教科書にはサイド・ストーリーとして「ミスの偉大なる功績」という文章が掲載されていました。彼女は、この内容は謝罪しなくてはならないようなものではありませんが、当時はミスAのクラスで一体何が起きていたのか、なぜそれらが起きたのか、それらを十分理解してはいなかったと振り返っています。しかし今では理解できるようになった気がすると言っています。

ミスAとは教育学者アイジル・ペダーセンとその同僚たちが《ハーヴァード・エデュケーショナル・レヴュー》上の記事で名づけた名前だそうです。ミスAは1940年代にペダーセンが通った小学校で一年生の担任を務めていました。その学校はまさに古めかしく、まるで要塞のような建物で、窓には鉄格子がはめられていました。都心のスラム街にある学校で、周りには安アパートが建ち並び、貧困層や移民の子どもたちが通っていました。全体の三分の二が白人、三分の一が黒人でした。その卒業生の中から大学に進学する者はごくわすかで、高校を卒業できた者もほとんどいませんでした。喧嘩や問題行動は日常茶飯事で、罰にはムチが使われました。一日に二、三度はムチで叩かれたのです。ハリスは、「なんて古きよき時代だろう!」と言います。

アイジル・ペダーセンは成功を収めた数少ない卒業生の一人でした。高校を卒業し、大学へと進学、さらに1950年代に教師としてこの学校に戻ってきたのです。この学校で教鞭を執りながら、彼はなぜこの学校の生徒が高校すら卒業できないのかを解明すべく、学校の記録を詳しく調べるようになりました。ところが、記録をたどるうちに非常に興味深い事象が見つかり、当初の目的を捨て、一年生を担当していたミスAが生徒に及ぼした影響についての研究に集中するようになっていきました。

ミスAは彼女の生徒たちに絶大なる影響を及ぼしていたのです。彼女の受けもったクラスの成績がよかったことはなんら意味をもちません。おそらく彼女は採点に甘かったのでしょう。ところが、ミスAの生徙たちは、翌年彼らが数人の二年生の先生のもとに分かれてからも総体的に成績がよかったことに、ペダーセンは気づきます。生徒たちの学校での経歴を調べていくと、ミスAの生徒の優秀さは七年生になってもまだ目につきました。好奇心をそそられたペダーセンは学校を離れた世界にまで調査の範囲を拡げ、数人の卒業生を捜しだし、話を聞きました。ミスAの元生徒たちは、一年生のときに他の先生が担任であった生徒たちよりも、成人としてより望ましい生活を送っていました。社会的地位の上昇という点では、彼らは他の同窓生よりも高いところまで昇りつめたということです。

所属集団

集団性により、人は自分の所属集団に最も好意を寄せるようになります。読書の苦手な集団でもそれが当てはまるのかと疑問をいだくかもしれませんが、答えはイエスであるとハリスは言います。彼らにさえも当てはまるとハリスは思っているのです。彼らは読解力はありませんが、他のこと、たとえば性格や容姿、もしくは運動神経では他人よりも勝っていると思うかもしれません。彼らは読解力はありませんが、しょせん読書は重要ではないと思うかもしれません。学校とはつまらないところで、そこで優秀な成績を残す奴はバカで、いい子ぶりっ子で、ご機嫌とりだという態度をとるかもしれません。イーグルズはラトラーズを見下して口汚ないと言い、ラトラーズはイーグルズを見下して弱虫だと言います。

読書の苦手な集団がいだくであろう態度、すなわち読書は重要ではなく学校はつまらないという態度は、時間経過とともにいっそう膨れ上がります。読書が苦手というだけで、子どもは自分をクラスの中でも出来の悪い生徒だとカテゴリー化してしまうかもしれません。たとえ教師がそのようなグループを正式に認めていなくてもです。そうなると子どもはその集団の規範に従い、その態度を引き継ぐようになりますが、その態度とはおそらく反学校的、反読書的なものとなるだろうと言います。結果は子どもにとって有害であり、しかも蓄積していく類のものです。頭の回転の速い子と遅い子との集団対比効果により、頭の回転の遅い子はますます鈍くなるような規範、正確に言えば、自分を賢くしてくれるようなことを避ける規範に従うようになると言うのです。

集団対比効果はまさにくさびのごとくはたらきます。二つの集団間にあるわずかな裂け目であるごくわずかな差異に打ちこまれ、それを拡げます。こうした効果が生まれる原因は、人に深く根づく自分の所属集団への忠誠心にあると言います。私は〈われわれ〉の一員であり、〈彼ら〉ではありません。〈彼ら〉のようになるなんてとんでもないとハリスは言うのです。

学校において、子どもたちの集団の連帯感は成績や勉強好きの程度に応じて形成されることが多いと言います。読書が得意な子と苦手な子。ガリ勉と運動バカ。ご機嫌とりと落ちこぼれ。高校生になるまでは、そのような集団に名前がつくことも、メンバーが固定することもありませんが、小学校においてさえ同じような原理で動く同志的小集団は存在します。クラスでも、よい生徒と行動をともにする子どもたちは学業に対しても好意的な態度をとりますが、あまりよくない生徒とともに行動する子どもたちは、好ましくない態度をとる傾向にあります。さらにもしある子どもが年度中にある集団から別の集団へと移籍した場合、それは小学校ではまだ見られる現象だそうですが、子どもの態度は新しい集団に順応するよう変化するのです。

これは自尊心の問題ではないとハリスは言います。実践することで術を身につけるかどうかなのだと言うのです。学校に対してさほど好意的な態度をいだかない生徒は、学校を重要だと認識している子どもほど頭をはたらかせないだけだと言うのです。彼らが好意的に思わないのは、自分自身に対してではなく、学校に対してのみなのです。一般的に、彼らの自尊心は低いわけではありません。

学校とは

ハリスは、子ども集団の存在する学校をどのように分析するのでしょうか?学校に通う子どもたちにとって、教室内で最も重要な人とは他の子どもたちだとハリスは言います。彼らのほとんどにとって、最も重大なこととは仲間内での自分の地位です。それによって、学校はなんとか耐えられる場所にも、地獄にもなりうると言います。教師の権限のほとんどは、うまく個々の子どもたちに脚光を浴びせ、仲間たちの注目の的となるように導くためにあると言うのです。教師の意図次第で、子どもは公衆の嘲笑の的にも、羨望の的にもなりえます。

しかし、教師の力はそれだけではありません。ハリスは、彼女の主張において、彼女が親からその権力と責任を多く奪い去っているという印象を持ったとしても、教師に対しても同じ罪を犯しているとは責められないだろうと言います。教師が権力と責任を保持しているのは、教師が子どもたち全体を支配下におさめているからだと言います。教師たちは子どもたち全体の態度と行動に影響を与えます。さらにその影響力は長期的な作用を及ぼすと考えられている場所でふるわれていると言うのです。家庭とは別の世界、子どもたちにとって大人になってから生活の場となる世界でです。

子どもたちは大きくなるにつれ、現代社会が人々に与える複雑に入り組んだ社会的アイデンティティをうまく操縦できるようになると言います。席から離れなくても、筋肉一つ動かさなくても、7,8歳の子どもは幾多の自己カテゴリー間を行き来することができます。あるときは自分を3年生の女子、別のときは3年生、そしてまた別のときにはマーティン・ルーサー・キング小学校の生徒だと自覚します。彼女は自分を最も優秀な読書班の一員、もしくはクラスの中も優秀な生徙の一人だと思うことがきます。こうした社会的カテゴリーに名称は必要ありません。彼女はまた〈私〉と〈われわれ〉との間を行き来することもできます。ある集団の一員だと思うときもあれば、自分個人の地位がより重要になる場合もあります。

学校という環境下では社会的カテゴリー化が常に作動していると言います。あまりに多くの子どもたちが一堂に会するので、あらゆるサブカテゴリーが形成される可能性があります。大集団は一致団結するなんらかの理由がないかぎり、小集団へと分裂する傾向にあると言います。

併存する集団間では対比効果が見られます。前に、ハリスはそうした対比である男子集団対女子集団の結果にいて言及していました。子どもたちが自分自身を〈女の子〉もしくは〈男の子〉とカテゴリー化し、これらのカテゴリーが顕著な場合、異性間の違いが拡大すると言いました。このケースでは元から違いがありますが、仮にはじめに違いがなくても、対極関係にある二つの社会的カテゴリーが存在するだけで、差異は生じます。以前紹介したラトラーズとイーグルズはそれを証明しています。

能力別集団形成、もしくは能力別クラス編成が実際私たちが目にしているような作用をもたらすのはそういう理由からだとハリスは言います。教師が子どもたちを読書の得意な子と苦手な子とに分けると、得意な子の読解力はますます向上し、苦手な子の読解力はますます低下します。それが集団対比効果です。二つの集団ではそれぞれ異なる規範がつくり出されるため、異なる行動、異なる態度が要求されるようになるのです。

集団の規範

以前は男性だけのものであった遊びに、今では女性も入れてもらえるようになってきました。問題は、いまだにそれらの遊びが男の子のルールに従って行なわれていることだとハリスは言います。子どもの頃に学習したことが現代の社会においても、男性を有利に導き、女性を不利にします。

人々がそれぞれ違うのはジェンダーによる社会化だけが原困ではないと言うのです。集団の内外からその集団の規範に適合するよう圧力がかけられることも、集団の対比効果がそれぞれの規範に差異をもたらすことも、一因にしかならないと言います。男女間の心理学的差異は統計的な違い、つまり二つのベル・カーブにおいてそれぞれの頂点の間にある距離だというのです。子どもの頃にはその曲線はわずかに離れますが、完全に離れることはありません。常に重複する部分があるのです。背の低い男性もいれば、背の高い女性もいます。やさしい男の子もいれば、強靭な女の子もいます。仲間たちの前であってもそうなのです。

ハリスは、それがどのように行なわれていたか、記憶にあるかもしれないと言います。あなた自身が行なった記憶すらあるかもしれないというのです。クラスメートの間で交わされる小粋な合図。それは教室のルールを逸脱しない範囲で、自分たちは教師の言いなりにはならないぞという意思表示だったと言うのです。社会学者シャロン・カレーレは教師としての経験をもつそうですが、彼女の言うところの「小細工をはたらく」、すなわち教師には見つかりにくい方法で子どもたちが教師に行なう公然とした謀反的行為に使う技についていくつか説明しているそうです。その一つが「ゆっくりごみ捨て」で、それを紹介しています。

「生徒たちはごみ箱まで身体を揺らしながらゆっくりと進む。その場所に達すると、ごみから手を離して、それをごみ箱に正しく入れるまでの作業工程が、たいへん注意深く確実に実行される。実行後は数秒間、ごみ箱に収まったごみを見つめるのが常だった。

他にも、「本棚での分身の術」というものも紹介しています。

「彼らは片手に本をもち、あたもそのとき本を読みたくて仕方がなかったかのように一心に本を読みふけるふりをするか、もしくはおもしろそうな本を探しているかのように本を眺めるふりをする。この組織的に仕組まれた行動の何がおもしろいかというと、その行動が体の一部分でしか行なわれていないという点だ。通常、上半身は読書に没頭しているように見えるが、下半身はというと、周りにちょっかいを出し、おふざけに興じている。隣の人の足をやんわりと蹴飛ばしたり、近くにあるものを足を使って操作したり、ふさがっていない方の手で握り拳をつくり、隣の人をやさしく、騒動にならない程度に小突いたりしていた。」

楽しみの半分はそこに行き着くまでの道程です。「体でリズムをとり、踊りながら進む」、オモチャの兵隊を真似たり綱わたりをしているふうを装ったり、もしくはアヒルになりすますなど、ごみ箱や本棚までの道のりを陽気にする楽しみ方はいろいろあります。プロ級ともなると、「教室の正面をまるでステージ中央に見立て、観客の中にいるであろうファンのために特別にパフォーマンスした」。

そのファンというのは、もちろん教室の子どもたちです。教師はファンではありません。教師は〈彼ら〉の一員で、こうした小粋な抵抗には欠かせない引き立て役なのだとハリスは言うのです。

自分について

自分についてどう思うかを左右するものは二つあるとハリスは言います。その一つは地位であり、もう一つは気分です。今一つ明確でないのは、どちらが先かという点だとハリスは言います。どちらが原因でどちらが結果なのかということだと言います。臨床心理学者の多くは自尊心の低さが鬱状態を招くと考えていて、確かにそのようなケースもあります。ところが、両者の関係は逆である場合も多いのです。以前は躁鬱病と言われていたものが、最近は双極性気分障害というそうですが、この障害を患っている人を見ればわかるだろうとハリスは言うのです。この障害をかかえている人が躁状態にあるときには、何でもできる、自分が世界一だと意気衝天です。鬱状態になると、自分はまったく生きている価値がないと思いこみます。変わったのは気分だけで、他はなんら変わりません。同じだけのよい記憶、悪い記憶をかかえているにもかかわらず、あるときには自分のことで最高の気分、別のときには最悪の気分になるのです。

双極性気分障害は男女とも発生率は同じだそうですが、思春期にはいると、躁状態がなく、鬱状態のみである単極性鬱病は女性に多くなるそうです。この年代の女の子たちの一部が体験する自尊心の低下は鬱の原因ではなく、その症状なのかもしれないとハリスは考えています。

なぜ鬱状態は男性よりも女性に多いのでしょうか。確かなことは誰にもわからないそうです。ハリスは、それは脳の内部の徴妙な違い行動を誘発するメカニズムと行動を抑制するメカニズムの繊細なバランスの違いによって生じているのではないだろうかと考えているそうです。脳の中でなにか不都合が起きた場合、男性は行動過多に傾きやすく、暴力へとつながります。女性は反対方向に傾きやすく、不安と鬱状態に陥ります。このように考えると、双極性気分障害とはこれら2種類のメカニズムのバランスが不安定な状態と考えられるというのです。

女の子と男の子では生まれたときからなんらかの違いがあります。その後の16年間でその違いは拡大していきます。子どもの頃にそれが拡大するのは、少なくともその期間の一部では、女の子と男の子は自らをそれぞれ別の集団の一員であると認識するからだとハリスは言います。思春期になると性差はふたたび拡大しますが、このときは肉体的な理由からだと言います。

生まれとは効率よくできているもので、決してやさしくはありません。平均的に女性は男性よりも弱く、非攻撃的で、あらゆる人間社会において女性は殴られる危険と隣り合わせだというのです。それは、あの高貴な狩猟採集民族も例外ではないと言います。メスのチンパンジーでさえもオスに殴られることがあるそうです。現代は女性にとって、過去600万年の中でもっとも過ごしやすい時代であるとハリスは言います。ハーヴァードの大学院生だった頃、研究所には女性の居場所などない、と公然と口にする大学教授がいたそうですが、今日ではそのようなことを口にする大学教授などまずいないだろうとハリスは言います。