非認知能力の成績

実験によって検証可能なデータに基づく説明がされなければ、また、あるスキルをはっきり提示し測定することができなければ、人々に真剣に受け止めてもらうことはむずかしいとタフ氏は言います。ですから教育者も、研究者も、政策立案者も、読み書き計算のスキルとおなじように、非認知能力を分析、分類しようと努めるのです。SATの数学のセクションがその生徒の高校数学の能力を測るのに便利なのは誰もが認めるところです。もちろん多少の異論はあるそうですが。しかしその生徒のグリットや誠実さや楽観主義の度合いを測るのに、同様に広く受けいれられる「ものさし」はないのです。そういう「ものさし」をつくろうとする試みがないわけではないそうです。教師や学校に生徒たちの「非認知能力の成績」の提示を求める試みもあるそうです。

こうした試みを推進する動きは大きくなっているようです。2013年、アメリカ合衆国教育省は、カリフォルニア州の八つの学区からなる合同システムであるカリフォルニア教育改革オフィス(CORE)に対し、落ちこぼれゼロ(NCLB)法が求めてきた成績の基準を放棄することを認めたそうです。2016年春、この八つの地域にある学校は新しい評価システムを導人しました。この評価システムには生徒本人の自己評価に基づく心の成長、自己効力感、自己管理、社会意識の測定結果が含まれているそうです。同時に、国じゅうの役人が、2015年12月に施行されたNCLB法に代わる新しい法律である「全生徒成功(ESSA)法」にどう対応するべきか検討しはじめ、学業成績でないものを少なくとも一つ含む独自の成績表をつくるよう各州に求めました。COREは一つのモデルと見なされているそうです。

学校管理者の当面の難題は、COREが使用する生徒の自己評価が主観的である点だとタフ氏は指摘します。将来、もしある州が教師や校長に生徒の非認知能力の発達について責任を求めることにしたら、もし、たとえば教師や校長の次年度の給与が、生徒の社会意識の増加によって一部なりとも決められるとしたら、スコアを操作する誘惑も生じるかもしれません。2015年、非認知能力の分野における代表的な二人の研究者、テキサス大学オースティン校のディヴィッド・イェーガーと、ペンシルべニア大学のアンジェラ・ダックワースは、非認知能力を評価するさまざまな道具についての論文を発表しました。ダックワースはグリットを自己評価する「ものさし」をつくりだした張本人でもあり、このものさしは現在最も広く使われているそうです。二人の結論によれば、ある学校、もしくはあるクラスの生徒をべつの学校やクラスの生徒と比べる場合、とくにそれが成績責任を測る道具として使われるケース、つまり、それによって学校への予算配分や教員の給与が左右されるケースにおいては、自己評価ではうまく比較できないというのです。

しかし生徒の非認知能力を評価する試みには一考の価値があるとタフ氏は言います。そしてそれは、生徒たちがもっと生産的な行動を取れるようにするにはどうやって動機づけをしたらいいのかというさらに大きな疑問を解く、新たな手がかりになるかもしれないといいます。ノースウエスタン大学の若き経済学者、キラボ・ジャクソンは、数年前、教師の有効性を測定する方法を研究しようと思いたちました。ジャクソンは、ノースカロライナ州で2005年から2011年のあいだのすべての9年生、総数46万4502人を追跡した詳細なデータベースを見つけたのです。

定義や測定

デシとライアンの研究を見れば、教育関係者が注目しはじめている自制心やグリットのような非認知能力が、モチベーションと強く結びついていることは明らかです。将来のチャンスを最も大きなものにする行動を子どもたちに取らせたいなら、課題を粘り強くこなし、衝動をコントロールし、目先の楽しみよりもっと先の満足を選ばせたいなら、彼らにその困難な道を進ませるために、どんな動機づけをすればいいか考える必要があるとタフ氏は言います。

この問いを考えるうえで、もう一度「能力の新しいカテゴリーについて、私たちがいままでに考えてきたことはすべてまちがっていたのではないか。」ということから考えることが必要であると言います。非認知能力を、教えたり、測定したり、ありきたりなやり方で鍛えたりできる学習スキルとおなじと考えても仕方かないのではないかということです。それよりも、非認知能力は心の状態のようなもの、環境に左右される複雑な土台であると考えたほうがよいのではないかというのです。よい学習習慣を身につけるために子どもたちが何より必要としているのは、自分が自立した存在であり成長していると感じられる環境、なおかつ帰属意識の持てる環境で、できるだけ多くの時間を過ごすことではないかというのです。デシとライアンの言葉を借りるなら、「自律性」「有能感」「関係性」を経験できる環境なのです。

そこで、タフ氏は、非認知能力について、その能力をどう定義し、どう測定するのか、そもそも定義や測定ができるのかどうか、という議論に戻って考えることが必要だというのです。以前は目を向けられることのなかった非認知能力が、注目を浴びるようになったのは、もともと現在の教育制度が頼っているテストの得点が、高校や大学の卒業といった長い目で見たときの教育成果を問題にする場合には明らかに不十分な指標だとわかったからです。もちろん、標準テストの得点も無関係ではありません。高い得点を取れる生徒は、平均的に見て、得点の低い生徒よりも高校や大学でうまくやっていけます。しかし、こうした得点は、たとえばGPAという成績評定平均値などのほかの指標と比べると、成功を予測する際にそれほどあてにならないことがわかってきたのです。研究者らの発見によれば、高校生のGPAは、大学進学のための共通テストであるSATやACTなどの得点よりも、その生徒が大学を卒業できるかどうかを予測する際の指標になります。これは、GPAによって捉えられるのが認知能力の高さや知識の量だけではないからです。GPAには非認知的な行動、ものの見方、気質も反映されるのです。つまり、生徒が自分の持つ認知スキルを学校生活のなかで有効に活用するための力なのです。

こうした重要な新しいスキルを測定する、信頼に足る「ものさし」を求める人々が不満に思うのは、GPAがいわばなまくらな刃物であり、その生徒の成功の具体的な要因を切り離してはっきりこれと示すことができない点です。教育政策を取り巻く現在の環境では、実験によって検証可能なデータに基づく説明が非常に高く評価されます。こうした現状では、あるスキルをはっきり提示し測定することができなければ、人々に真剣に受け止めてもらうことはむずかしいというのです。

三つの促進する環境

掛け算の九九を暗記することに強い内発的動機を持っている子どもは稀だとタフ氏は言います。

この瞬間、つまり内なる満足のためでなく、何かべつの結果のために行動しなければなくなった瞬間に、「外発的動機づけ」が重要になるというのです。デシとライアンによれば、こうした外発的動機づけを自分のうちに取りこむようにうまく仕向けられた子どもは、モチベーションを徐々に強化していけると言っています。ここで心理学者は、人が求める三つの項目に立ち戻ります。「自律性」「有能感」「関係性」です。この三つを促進する環境を教師がつくりだせれば、生徒のモチベーションはぐっと上がるというわけです。

では、どうやったらそういう環境をつくりだせるのでしょうか?デシとライアンの説明によれば、生徒たちが教室で「自律性」を実感するのは、教師が「生徒に自分で選んで、自分の意志でやっているのだという実感を最大限に持たせ」、管理、強制されていると感じさせないときであると言います。これは、幼児にも当てはまりますね。また、生徒が「有能感」を持つのは、やり遂げることはできるが簡単すぎるわけではないタスクである、生徒たちの現在の能力をほんの少し超える課題を教師が与えるときであると言います。さらに、生徒が「関係性」を感じるのは、教師に好感を持たれ、価値を認められ、尊重されていると感じるときであると言います。デシとライアンによれば、この三つの感覚には、机いっぱいの金の星や青いリポンよりも、はるかに動機づけの効果があるといいます。生徒のモチベーションを高めたいと思うなら、教室の環境や生徒との関係を調整し、この三つの感覚を強化する必要があるというのです。「生徒が自律性、有能感、関係性を実感できる教室環境は、内発的動機づけを育てるだけでなく、あまり面白くない学習作業も進んでやる気にさせるものだ」デシとライアンはそう結論づけています。

こうしたモチベーションの力学は、低所得層の生徒たち、とりわけ幼いころに受けた有害なストレスの影響が見られる生徒たちの学校生活では、さらに大きな役割を果たすと言われています。子どもたちにトラブルがあれば、勉強に関することであれ、行動に関することであれ、多くの学校は締めつけをきつくします。そうやってただでさえ脆弱な生徒の「自律性」をさらに弱めてしまうのです。また、落ちこぼれることで、低所得層の多くの子どもがそうですが、生徒の「有能感」は徐々に低下していきます。さらに、教師との関係に警戒が必要だったり、争いがあったりすると、強力なモチベーションになるはずの「関係性」も経験できなくなると言います。そしてひとたび生徒の心が離れ、やる気が失われると、どんなに物質的なインセンティブや、反対に罰を与えても、動機づけにはなんの効果もないというのです。少なくとも、深く響く効果、長期にわたる効果は得られません。

しかし貧困層の子どもを大勢抱える学校は、自己決定理論よりも行動主義を原則として運営されていることが多いようです。たいていの校長は、標準テストの結果が上がっていることを示さなければならないというプレッシャーを感じているし、教員は、規則に従わず、成績も悪い生徒が「自律性」を、うまく発揮できるとはまったく思っていません。結果として、生徒たちは適切な外発的動機づけを切実に求めているにもかかわらず、教室の環境は正反対の方向に働いてしまいます。外側からさらに締めつけ、子どもたちの「有能感」を減少させ、教師との関係を悪化させるというのです。

内発・外発

デシが昔おこなった有名な研究の話は、ダニエル・ピンクの著書『モチベーシン3・0』(講談社)にも出てくるそうです。当時カーネギーメロン大学大学院で心理学を研究していたデシは、二つの学生グループに対し、キューブ型のパズルを図のとおりに組み立てるようにと頼みました。一日めは、どちらのグループも報酬をもらいませんでした。しかし二日めになると、デシは一方のグループに対して、パズルを一つ完成させるごとに一ドル支払うことを申し出ました。三日め、前日支払いを受けたグループに対し、デシはもう資金が底をついたからと説明し、きようはパズルを完成させても報酬は出ないと告げました。

三日を通じていちども報酬を受けなかったグループは、だんだんパズルに夢中になりました。ただ単純に面白い、楽しいと感じられたからでしょう。日を追うごとに、パズルを完成させるまでの時間を短縮させていったのです。デシがマジックミラーを通してひそかに観察していると、学生たちは休憩時間もパズルをつづけ、時間を計ったり観察の対象になったりしていないと思っているあいだもパズルをうまく完成させようとしていたのです。

けれども二日めに報酬を受けたのち、三日めには受けなかったグループは、異なる行動を取りました。二日めには、予想どおり、学生たちは小遣いを稼ごうとしてより懸命に、より早くパズルを完成させました。けれども三日め、デシがちょっと席を外すと、彼らはパズルに見向きもしなくなったのです。しかも支払いを受けた日より取り組みに熱意がなくなっただけでなく、支払いのことなど考えず、本能的にパズルを楽しんでいただけの初日と比べても意欲が下がっていたのです。いい換えれば、わくわくするパズル遊びが報酬の導入によって「仕事」になってしまったのです。仕事となれば、支払いも受けられないのにやりたがる人はいません。

デシとライアンやほかの研究者たちは、この発見をもっと年齢の低い子どもの調査でも確認しました。この例は、有名ですね。私もよくこの例を幼児教育を語る上で出すことが多いです。スタンフォード大学の心理学者、マーク・レッパーがおこなった実験では、お絵かきの好きな幼稚園児のグループに、その日は絵を描いたらお帰りのまえにご褒美として青リポンと賞状をあげると告げました。ニ週間後、園児たちは明らかに絵を描くことへの興味を失っており、自由時間にお絵かきをすることもご褒美をあげた日の前より減っていたのです。もともと熱心だった四歳児たちにとって、お絵かきが仕事に、つまり青いリボンがもらえなければする価値のない物事になってしまったのです。

デシとライアンは教育に関する著述を、人間は生まれながらの学習者で、子どもたちは生まれつき創造力と好奇心を持っており、「学習と発達を促進する行動を取るよう、内発的動機づけがなされている」という前提から出発したのです。しかしながら、このアイデアは「退屈さ」によって複雑になります。何かを学ぼうと思ったら、それが絵を描くことであれ、プログラミングであれ、八年生の代数であれ、たくさんの反復練習を要します。反復練習はえてしてかなり退屈なものなのです。デシとライアンは、教師が生徒に日々求めるタスクの大部分は、それ自体が楽しかったり満足できるものだったりするわけではないと認めています。

動機づけ

なぜインセンティブを利用したプログラムは、本来の対象であるモチベーションの低い生徒や、貧困層の生徒に効果がないのでしょうか?この疑問にタフ氏はこのように考えています。

この大きな疑問は、インセンティブに関する特定のプログラムのみの問題を超えて、非認知能力に関する核をなす疑問にもつながると言います。低所得層の子どもたちかもっと懸命に勉強して、学校でがんばり通せるようにするには、どういった動機づけが効果的なのでしょうか?あるいはもう少し掘り下げて、そもそも誰かに何かをさせるには、どういう動機づけをすればよいでしょうか?経済学者がこの問題を考えた場合、報酬を支払うか、何かほかにインセンティブとなりそうなものを差しだすことで動機づけをすればよいという、かなりストレートな結論に至ることが多いかもしれません。しかしこの問題に取り組んでいるのは何も経済学者だけではないとタフ氏は言います。心理学者もモチベーションに関する問題については日々熟考しており、経済学者の説明とはまたべつの答えにたどりつく場合があるというのです。

フライヤーがおこなったようなインセンティブに関する研究を複雑にする、動かしがたい事実があるそうです。困難な環境で育った子どもたちには、よい教育を受けたいと思う重要なインセンティブがすでにあるはずなのです。高校を卒業した大人は、そうでない大人よりはるかによい人生を送れます。平均的に見て収入が多いだけでなく、家庭も安定し、より健康で、逮捕されたり刑務所に入ったりする確率は少ないのです。大学を卒業した大人とそうでない大人にもおなじことがいえると言います。若者たちは当然これを知っています。それなのに、進路の分かれめに影響を与える重要な決断をするべきときが来ると、逆境に育った若者はたいてい目に余るほど自身の利益に反する選択をして、ゴールをより遠く、到達のむずかしいものにしてしまうというのです。

心理学の分野には、こうした明らかな矛盾を説明する重要な研究があるそうです。それは、ロチェスター大学の二人の心理学者、エドワード・デシとリチャード・ライアンのライフワークである「自己決定理論」です。二人が研究をはじめた1970年代は、心理学の歴史のなかでは行動主義者が優勢な時代でした。つまり、人間の行動はひとえに生物学的な必要を満たすためになされるため、人はストレートな褒美と罰に敏感に反応する、という考え方が主流だったのです。

これに反して、デシとライアンはこう論じました。私たちは多くの場合、自分の行動が生む表面的な結果ではなく、その行動によってもたらされる内面的な楽しみや意義を動機として決断を下す。二人はこの現象を「内発的動機づけ」と名づけたのです。さらに二人は、人が求める三つの鍵を見きわめました。「有能感」「自律性」「関係性(人とのつながり)」です。そしてこの三つが満たされるときにかぎり、人は内発的動機づけを維持できると述べたのです。

デシとライアンは数十年をかけて複数の実験をおこない、外的な報酬である、フライヤーの研究で中心となった物質的なインセンティブは、長期にわたるプロジェクトへの動機づけとしては効果がなく、多くの場合、むしろ逆効果でさえあることを示したのです。

インセンティブ

貧困地域のあるアメリカの都市の公立学校に通う生徒を対象として、もっと一所懸命に勉強するようにと、PTAの会合に出席した保護者、本を読んだ生徒、生徒のテストの点数をあげた教師らに報奨金を支払うという、アメリカ史上最大にして最も徹底した教育実験をおこないました。しかしながら、このインセンティブ・プログラムには、ほほすべてのケースでまったく効果がなかったそうです。フライヤーはニューヨーク市で2007年から2010年まで、市の教育課および教員組合との合同プログラムを監督、評価しました。これは市内の教育困難校のいくつかで、インセンティブとして教師に7500万ドルにのばる現金を配布するプログラムだったそうです。4年間これを実施したあとのフライヤーの結論はどうだったのでしょうか?教師へのインセンティブが生徒の成績、出席率、卒業率をあげると信じるに足りる証拠はまったく見つからなかったそうです。報奨のおかげで生徒や教師の行動が変わることもありませんでした。反対に、とくにマンモス校では、教師に対するインセンティブが生徒の成績を下げたことはあったそうです。

シカゴ、ダラス、ニューヨーク市では、2007年から2009年までのあいだに総額940万ドルの現金を2万7000人の生徒にインセンティブとして配ったそうです。ダラスでは読書に対して、ニューヨークではテストの得点に対して、シカゴでは教科の成績に対して報奨を与えたそうです。またもや効果はありませんでした。「実験の結果は驚くべきものだった。生徒の成績に関する金銭的なインセンティブの効果は、どの市でも統計的にセロだった」のです。

2010年から2011年にかけてヒューストンでおこなった最後の実験では、公立の教育困難校25校の5年生に対し、インセンティブとして現金を与えました。また、その生徒たちの親と教師にも現金を渡しました。目的は、算数の自宅学習時間を増やし、標準テストの得点を上げることでした。子どもたちはお金をもらうのに必要なだけの勉強はしましたが、七カ月後の算数のテストの平均点にはまったく変化がなかったそうです。さらに、読解のテストの得点は下がっていたそうです。

ヒューストンの実験では、テストの得点にほんの少し改善が見られたこともあったそうですが、それはもともと成績のよい子どもたちだけの現象であり、成績の悪い子どもたちは変わらなかったのです。似たような現象はべつの実験でも見られたそうです。ノースウエスタン大学の経済学者、ジョナサン・ガーヤンがおこなった実験では、子どもたちの読解能力を改善しようと、夏のあいだの読書に対してインセンティブを与えました。夏休みのあいだに読んだ冊数に応じて現金がもらえるのです。インセンティブに応じて子どもたちの読了数はいくらか増えたそうですが、読解テストの得点の平均は変わりませんでした。そしてヒューストンのケースとおなじく、ガーヤンの実験でも、ほんの少し改善が見られたのはもともとモチベーションの高い子どもたちだったのです。モチベーションの低い、反抗的な子どもたちには、ほんとうはこちらが支援のターゲットなのですが、なんの効果もなかったのです。

規則

停学処分を擁護する人々は、処分を受けた生徒本人には弊害があるとしても、教室に残された生徒たちにとっては有益であると主張しています。常習的なトラブルメイカーがいなくなれば、教室はおちついた雰囲気になり学習効率もあがる、というわけです。しかし、ケンタッキー州の都市部で1万7000人近い生徒を対象におこなった2014年の研究では、それとは反対の結果が出たそうです。対象となった複数の学校のうち、停学処分の多く出たところでは、停学になったことのない生徒の数学と読解の学期末試験の結果が、人種にかかわらず落ちていたそうです。もしかしたら、厳しすぎる規律のほうが、問題行動のあるクラスメートよりもストレスと不安の原因になったのかもしれません。あるいは、あたりまえの罰則として停学に頼ることをしない教師のほうが、荒れた生徒をなんとかおちつかせ、混乱した教室に秩序と平穏を取り戻す方法を見つけられるのかもしれません。理由はどうあれ、クラスメートの停学が多い教室では、トラブルに巻きこまれたことのない生徒さえ、学習効率の悪い雰囲気をつくることに加担してしまっているのです。

最近、日本でも校則が問題になり始めています。また、その改革で話題になっている麹町中学での校則廃止によるその後の影響を見ても、このアメリカにおけるタフ氏の分析は参考になります。

こんにちアメリカの学校で実践されている大部分の規則の背景にあるのは、そして1990年代からずっと優勢だった「いっさい許容しない」方針や停学を多発するアプローチの背景にあるのも、行動主義だとタフ氏は言います。行動主義的なアプローチの背後には、人は「インセンテイプ(刺激)」と「強化」に反応する、という考え方です。つまり、ある行動に対して肯定的な強化が得られれば、人間はもっとそれをするようになるし、否定的な強化を得たなら、あまりそれをしなくなる、という図式です。アメリカの教育界ではこの考え方が非常に優勢で、改めて口にされることもないそうです。多くの学校で、年度はじめの最初の数週間は、クラスの規則についての話し合いにたくさんの時間が割かれるそうです。インセンテイプになるものとならないものは何でしょうか。ご褒美のステッカーやピザ・パーティーと、罰則の居残りや停学についてどう実施するのでしょうか。多くの教室で、こうした話し合いは多かれ少なかれ一年を通しておこなわれるそうです。

もちろん、ある程度は行動主義がうまく働く場合もあります。人々は、子どもも含め、少なくとも短期的に見た場合には、行動のきっかけによく反応します。しかし研究により徐々にわかってきたところによれば、教育における賞罰の効果には限界があり、とくに神経や精神の発達が強いストレスの影響を受けてきた若者には、直接的な賞罰システムでは効果がないことがわかってきています。

ハーバード大学の著名な若き経済学者、ローランド・フライヤーは、ここ10年のあいだヒューストン、ニューヨーク、シカゴなど、貧困地域のあるアメリカの都市の公立学校に通う生徒を対象とした実験をおこない、あらゆる種類の報奨制度を試してきたそうです。PTAの会合に出席した保護者、本を読んだ生徒、生徒のテストの点数をあげた教師らに報奨金を支払いました。もっと一所懸命に勉強するようにと、子どもたちにインセンティブとして携帯電話を与えました。フライヤーが配った報奨金や賞は全部で何百万ドルにもなるそうです。アメリカ史上最大にして最も徹底した教育実験をおこなった研究といえるそうです。

出校禁止処分

若者の行動、とくに深刻な逆境を経験してきた若者の行動は、多くの場合、理性とはかけ離れた感情や精神やホルモンの影響を受けているのです。もちろん、だからといって、教室での悪いおこないを教師が許したり無視したりすればいいわけではないのです。しかし、長い目で見たとき、問題を抱えた若者の動機づけとして、なぜ厳しい罰則では効果がないのかはこれでわかるというのです。学校の規律に関するプログラムは、罰を与えることよりも、生徒がみずから自制能力を発達させようとする状況や仕組みをつくりだすことに重点を置いたほうが、もっと効果があがるはずだとタフ氏は言います。

こんにち、アメリカの学校の大部分は、1980年代、90年代と変わらない方針に従って運営されています。80~90年代といえば、暴力やドラッグの使用などの非行については「いっさい許容しない」態度で望むほうが、学校の安全や効率を守れると信じられていた時代だそうです。その結果、停学の件数が急激に増加したそうです。この傾向は国内の大部分でつづいていると言います。2010年の調査では、全国の公立高校の生徒の10分の1以上が、少なくとも1回は停学処分を受けたことがあったそうです。停学の割合は特定の層において大幅に高くなります。全国的に見て、アフリカ系アメリカ人の生徒の停学者数は、白人の生徒の3倍だそうです。停学についてよく分析され、とくに良質なデータがあるシカゴの高校では、2013年から2014年にまたがる1年度のあいだに、市の最貧困地域に暮らす生徒のうち27パーセントが出校禁止処分を受けており、そのうちの30パーセントが虐待やネグレクトを受けた経験があったそうです。

シカゴの出校禁止処分の60パーセントは、暴力とはまったく関係のない違反行為によるものだそうです。「学校のスタッフへの反抗」「規律を乱す行為」「校則違反」などです。「学習のための積み木」が頭にあれば、この種の行動、つまり大人にやりなさいといわれたことを拒否しているだけの行動は、態度の悪さや反抗的な性格の表れではなく、ストレス反応システムがうまく調整されていないせいだと容易に見て取れるのではないかとタフ氏は言うのです。教室で口ごたえをした勝手なふるまいをしたりするのは、少なくとも部分的には、子どもが衝動を抑えることができないせいか、あるいは対立をやわらげることや、怒りなどの強い感情をコントロールすることかできないせいだというのです。たいていは、ごく幼いころに実行機能の発達が阻害されたために起こる自制心の混乱のせいなのだというのです。

このタフ氏の見解は、私が常々講演で話していることと一致します。まず、アメリカでの大きな問題は、最近の若者による犯罪は、エモーショナルコントロールという感情の制御力の力が不足しているために起きていること、それは、この部分の脳の感受性が高い時期の発達が環境によって損なわれていること、そしてその環境に大きな部分を占めるものに、ごく幼い頃における子ども集団があり、その中で育つであろう実行機能の発達が阻害されたためであるということです。

タフ氏は、さらにこう言っています。神経生物学の研究成果を踏まえるなら、出校禁止処分が生徒の自己管理能力を改善するのに大いに役立つとはとてもいえないと言います。むしろその生徒がますます勉強で苦労するようになるだけだというのです。停学になる生徒は、すでに落ちこぼれている場合が多いのです。シカゴでは、成績評定平均値が下位4分の1の高校生は、上位4分の1の高校生よりも、停学になる確率が4倍高いそうです。

理論上のモデル

「教育者が子どもたちのこうした能力や心のありようを優先せず、学習と統合して考えることもしないなら、生徒たちは仕事をするための道具がない状態、つまり学ぶための言語がない状態のままになってしまう」とスタフォード-ブリザールは述べているそうです。さらに、そうした能力がなければ「生徒たちは毎日やってくる大量の指示を処理できず、指示に沿って物事を進めることが、できないとはいわないまでも、ひどく困難になる。これが達成度の差となって現れる」と言っています。

「積み木」というのは、おもに理論上のモデルでしかありません。しかし、子どもの発達に関心のある人々や教師にとって、このモデルは貴重なレンズとなるというのです。このレンズを通して見れば、教室で不利な状況にある子どもたちの問題を見る目もおのずと変わると言います。私たちは、ミドル・スクールやハイ・スクールの生徒たちに、がんばり通すこと、レジリエンスを持つこと、障害物に直面してもやり通すことができるようになってほしいと願います。しかし、そうした能力が深く根差す場所について、子どもたちが順に踏むべき発達のステップについて、立ち止まって考えることはありません。

タフ氏は、特定の支援について説明するのではなく、ションコフやスタフォード-ブリザールのいうプロセスについてもっと詳しく考察しています。幼児期の逆境から多くの貧困家庭の子どもに起こる神経生物学的な適応は、正確にはどのように人間関係や勉強での苦労につながるのでしょうか?学校はこうした生徒たちにどのように対応しているのでしょうか?よりよい結果を生むために、現行のアプローチに代わるものはあるのでしょうか?そんな疑問を解き明かしていきます。

「学習のための積み木」について書いたレポートのなかで、スタフォード-ブリザールはこう述べているそうです。深刻な逆境にさらされてきた子どもたちが学校でいちばん必要としているのは「ストレス反応から影響を受けているはずの能力を、改めて発達させるチャンスである。それは、絆をつくる能力、ストレスを調整する能力、何より自制する能力だ」。しかし現実には、こうした能力に欠けるために苦労している生徒たちは、学校システムのなかではこう見なされています。「どうしたら規律を守らせることができるのか?」学校側には、子どもが健全な自制のメカニズムを発達させられずにいることがわかっていないとタフ氏は言います。彼らの目には、単に問題行動をくり返す子どもとしか映らないというのです。

私たち大人は、子どもが何か悪いことをしたときに、直感的にこう決めてかかります。「子どもがこんなことをしたのは、自分の行動の結果を理性的に考えて、代償よりもその行動による利益のほうが大きいという計算が働いたからだ」そこでふつうは子どもたちが受ける罰を重くして、悪いおこないの代償を大きくしようとすると言います。しかしこの方法に効果があるのは、悪いおこないがほんとうに理性的な打算の産物だった場合だけだとタフ氏は言うのです。ところが実際これは神経生物学の研究によって判明した重要な点の一つでもあるのですが、若者の行動、とくに深刻な逆境を経験してきた若者の行動は、多くの場合、理性とはかけ離れた感情や精神やホルモンの影響を受けているのです。

幼児期の体験

親や世話人と、穏やかで安定したやりとりを重ねてきた子どもたちの場合には、注意を向けたり集中したりするための能力の土台となる神経の連結ができあがっているはずだといいます。もしこうした性質が身についていなければ、幼稚園での生活への移行はずっと困難になると言います。習得するよう求められる物事が多すぎて圧倒されてしまいます。神経認知機能障害は、すぐに学習の機能不全に結びつくというのです。教科書のページに集中できない子どもたちは、決められた期間内に読むことができるようにはならないと言います。感情や不安が神経システムの負担になり、気が散ってしまう子どもたちは、数感覚の基礎を身につけられないと言います。勉強そのものがむずかしくなるにつれ、そういう子どもは落ちこぼれます。落ちこぼれることによって、ますます自分も学校もいやになります。それがさらなるストレスを生み、問題行動の原因となるのです。問題行動は教室での非難や罰につながり、ストレスのレベルは高いまま、ますます何事にも集中できなくなるというのです。こうした悪循環が小学校に通うあいだずっとつづくというのです。

このような感情面、精神面の能力は幼児期の体験に根差しているので、幼稚園から12年生までを担当する教育者の多くは、親や幼児期前期に担当した教員のせいだと思いこんでいるとタフ氏は言います。つまり、基本的なスキルを身につけずに幼稚園にあがってしまうと、子どもたちはそれを伸ばすような援助を受けられないというのです。学校管理者はたいてい、どう手助けしたらいいかわからず途方に暮れてしまうというのです。

タフ氏は、ここで何年か早送りして、こうした生徒たちがミドル・スクールやハイ・スクールにあがったころのことを考えてみようと呼びかけています。このころになると、実行機能の問題は多くの教師や学校管理者の目には「態度が悪い」あるいは「モチベーションが低い」ように映ります。しかし、ハーバード大学の児童発達研究センター所長、ジャック・ションコフが指摘するところによれば、教師たちのそうした認識は、重要なコンテクストを見逃していることから起こると考えます。「ごく幼い時期に、過剰なストレスの緩衝材となってくれる人間関係のない環境で育った子どもに対しては、たとえば10年生の数学のクラスでやる気を示せないとしても、ぐずぐず文句をいわずにやればいい、とはいえないかもしれません。多くの場合、集中力や作業記億、認識力の柔軟性の問題なのです。それに、こうした能力が育っていないのは、幼少期にあった出来事のせいかもしれません」とションコフは言っています。

ニューヨークを拠点とする非営利団体である「ターンアラウンド・フォー・チルドレン」は、2016年に作成した報告書のなかで、こうした幼少期の能力を「学習のための積み木」と呼んでいるそうです。ブルック・スタフォード-ブリザールというコンサルタントが書いたこの報告書によれば、レジリエンス、好奇心、学業への粘りといった高次の非認知能力は、まず土台となる実行機能、つまり自己認識能力や人間関係をつくる能力などが発達していないと身につけるのがむすかしいと言っています。こうした能力も、人生の最初期に築かれるはずの安定したアタッチメントや、ストレスを管理する能力、自制心といった基幹の上に成り立つというのです。