過大評価

昨日の例を見てもわかりますが、共同することによって、より多くの学びが生じます。しかし、その過程は少し意外なものであり、幼児の未熟な認知が多くのソースモニタリング・エラーを引き起こし、実はそのことが学習を促進しているのだというのです。文脈によっては学習を阻害するどころか、促進しているという主張と一致するものだとビョークランドは言います。

幼児の認知が不十分であることが、協同学習課題に利点をもたらすことを示したラトナーとフォーリーの結果と同様に、子どもの自身の模倣能力に関する理解であるメタ認知が不十分であることにも、利点が隠されていることが示されているそうです。たとえば、課題の模倣がうまくできると思うかを幼稚園児に評価、予測させた自然的研究では、全試行の56.9%で自身の模倣能力を過大評価していたそうです。過小評価は5.1%と少なかったそうです。

モデルの模倣を実際に試みた後の評価、後測では、自己の行動を少し的確に評価できるようになったそうですが、それでも試行の39.6%で過大評価をしていたそうです。この場合も、過小評価はほとんどなかったそうです。さらに、幼児の自身の模倣能力に関する知識はIQと関連しますが、この関連性は年齢に伴って変化するそうです。3,4,5歳児に、モデルが、1~3個のボールでジャグリングをするといった課題を行うところを観察させ、その行動をどれくらいうまく模倣できると思うかを尋ねたそうです。そして、その課題を実際に行ってみた後、自分がどれくらいうまくできたと思うかを評価させてみたそうです。すると、自身の成績をどの程度過大評価するかという子どものメタ模倣の正確性は、言語性IQの指標と関連があったそうです。ほぼ全員の子どもが自身の能力を過大評価したため、得点が低いほど過大評価が少なく、正確性が高く、得点が高いほど過大評価が多く、正確性が低かったのです。

5歳児で模倣能力の予測及び事後評価の正確性が高い子どもは、ということは過大評価が少ない子どもは、正確性の低い子どもよりもIQが高かったそうです。これと同様の関連性が、6歳以上の子どものメタ認知課題でも認められているそうです。反対に、3歳児、特に4歳児では、IQの高い子どもが自身の模倣能力を過大評価する傾向が高かったそうです。この結果から、状況によっては、メタ模倣の不十分さが、実は幼児に利益をもたらしていることが示唆されているのです。

幼児が、自身の認知能力や身体能力を過大評価することはよく知られていることだそうです。メタ認知的知識が未成熟であることによって、幼児は様々な行動の模倣を、それが無駄だと考えることなく試みることができます。その結果、頭の良い幼児は、新しい行動の実験と古い行動の練習を続け、試行錯誤学習が非常に重要な時期に能力を高めていくと考えられているのです。

子どもの運動能力の向上に伴い、メタ認知能力も向上します。メタ認知能力は、発達の過程で後に、より高度な認知に関連してきます。これまでにもビョークランドが言うのように、子どもの未成熟な認知には子どもの発達的ニッチにうまく適合している側面があり、必ずしも克服しなければならない欠陥とは言えないのです。

共同

トマセロたちは、ヒトの文化学習として3段階のレベルを提唱しました。それは、模倣学習、指導学習、協同学習です。ということで、第3段階は、協同学習です。協同学習とは、模倣学習や指導学習のように、到達度の低い個体が、到達度の高い個体から単純に学ぶといったものではなく、2名で共通の問題を、一緒に解決しようとすることから生じる学習であるとしています。トマセロたちは、協同学習は文化の伝播というよりは、文化の創造の過程であると言います。この言葉は、とても大切な言葉ですね。協同学習のためには、子どもは仲間が反省的主体であることを理解しなければならないと言います。反省的主体は、自身の思考や相互作用をする相手の思考を省察することができるというのです。反省的、あるいは再帰的な表象の例は、子どもが、他者が自分と異なる視点を持ちうるという理解に加えて、他者が他者の視点について思考できるという理解を示すようになった時であるとトマセロは言うのです。

たとえば、「ピーターは、私が彼はケリーを好きだと思っていると、思っている」というのが再帰的思考です。これは、協同学習には不可欠であり、意見の対立や衝突の場面でよく生じる、たとえば、共同で学び、新しい視点を共有しようとしているとき、子どもは自分が出した提案に対する仲間あからの批評を評価し、それにコメントできなければならないのです。トマセロたちは、これが最初にできるようになるのは児童期初期である6~7歳のころだと言います。

以前のブログでも紹介しましたが、協同学習は、ソビエトの心理学者レフ・ヴィゴツキーの考え方の流れを汲んでいます。ヴィゴツキーによると、子どもの学習は、文化的に適切な活動に参加すること、特に、自身より能力の高い大人や仲間との相互作用を通して進むと言います。教師たちは、単独で作業するよりも協力して作業する場合の方が、一般的に達成度が高いこと、また、共同によって一番利益を得るのは、最初パートナーよりも能力が低かった子どもたちであることを報告しているのです。

協同学習に関する興味深い発見は、他者の行動を自身の行動として記憶する「ソースモニタリング・エラー」を、幼児がおかしやすいということだとビョークランドは言います。たとえば、就学前児を対象とした研究で、子どもと大人が交互に1枚ずつ紙を貼ってコラージュを作成し、コラージュ完成後に、コラージュの各アイテムを、自分、大人のどちらが貼ったかを子どもにいきなり尋ねたそうです。すると、4歳児では、実際に大人がコラージュに貼り付けたものを自分が貼ったと答える過ちが、その逆の過ちよりも多く、大人の行為を自身の行為として再符号化していることが多かったそうです。このような例は、現場で見ることがありますが、それは、決して自分を弁護したり、自分の手柄にしたがっているわけではなく、そのような発達における傾向だったのですね。

フォーリーとラトナーは、このバイアスが他者の行為を自分に誤って帰属することによって、その行為が共通ソースである自分自身と結びつき、その結果、記憶がより統合され、検索しやすくなることを挙げているそうです。この解釈に一致する結果として、大人と共同で課題を行った5歳児は、たとえば、人形の家に家具を共同して置くといった課題の後、このようなエラーを多くおかしたそうですが、非共同群の子どもよりも各部屋に置いた家具の場所をより多く記憶していたそうです。

学習の備え

ハイソンたちの研究によると、一般に、学問志向の強い就学前教育プログラムには長期的な効果はなく、逆に、マイナスの結果、例えば、強いストレスを生じさせる可能性もあることを示す証拠を示しました。こうした結果からハイソンたちは、幼児期の学習指導の推奨を弁護する理由はないと結論付けています。むしろ、中流家庭の子どもの認知発達や創造性は、子どもの能力の限界を考慮に入れた発達上適切な幼児教育プログラムで最も良く育まれることを示したのです。ハイソンたちは、「子どもの発達のためには、大人の時間割を押し付け、不安にさせるのではなく、子どもが自分のペースで世界を探索できるようにすることが賢明である。」と述べています。

以上や関連する研究結果の解釈には慎重さが求められるとビョークランドは言いながらも、乳幼児期の認知発達は、学校教育的な教師主導の環境ではない場所で最もよく進もうとする見解と一致すると言います。幼児の認知システムは未成熟であるため、学習や発達は、構造化されていない環境下で最もよく進むのかもしれないとも言っています。幼児が持つ能力は、児童期以降の子どもが持つ能力とは異なりますが、それは、人生のその時期に必要な学習に理想的な能力なのだと思われるのだと言います。これらの結果から言えることは、子ども時代にはそれ自体に目的があるのであって、子どもにこの時代を急いで通り過ぎさせてはならないということを強調しています。

ビョークランドは、「学習への備え」としてのまとめをこう結んでいます。

人の乳児の心はタブラ・ラサ(白紙)であるという哲学者ジョン・ロックの有名な思想は、心理学者に古くから否定されていました。しかし、この「白紙ではない」とする立場が何を意味するのかが認識されるようになったのは、こぐ最近のことであると言います。人の乳児が、文化から提供される経験に満たされるのを待っている空の容器ではないとすれば、子どもは何らかの「知識」を持って生まれてくるはずです。今日では、少なくとも、従来考えられていたような意味での「生得概念」を持って生まれてくると主張する心理学者はほとんどいません。

乳児が持って生まれてくるのは、処理のバイアスと制約(自然淘汰の産物)であり、これが人の心の発達の基礎となります。もちろん、物体、数量的関係性、空間や言語の理解の骨組みを、社会の成熟したメンバーと同じものに発達させるためには、経験が不可欠です。しかし、乳児はヘッドスタートを切っており、生まれてきたときには、潜在的なレベルで、生まれてくる世界について何らかの知識を持っています。このような知識の具体性のレベル、たとえば、制約の本質は表彰か、あるいは構造か?などに関する議論は多くありますが、ヒトの乳児がある特定の事柄について習得しやすいように準備されていることに関する論争はほとんどないそうです。このような準備性は、ヒトと他の動物に共通の認知領域、たとえば、物体に関する知識や空間認知、ヒトに特有の認知領域である「言語」、そしてその中間にある認知領域である「計算」について研究されてきました。それらの領域についての研究についてビョークランドは紹介してきましたが、割愛したものの中には、たとえば子どもの直感的生物学もあると言います。間接的に触れたものでは、「社会的領域」があると言いますが、これはかなりの準備性が存在すると考えられていると言います。いよいよ、これが私がもっとも最近重視している、乳幼児期に準備をしていると思っている領域の話です。

準備性と学校教育

最近、様々なメディアでは、学校教育が論じられています。それは、今回の学習指導要領の改訂を含め、大学入試の見直しなどの改革についてです。その中で、過去のさまざまな取り組みの見直しが語られる中で、あらためて「ゆとり学習」についても説明されています。ゆとり時代、ゆとり世代と言われ、学力低下が叫ばれ、この取り組みは数年で見直されてしまっていますが、実は、ゆとり教育を受けた子どもたちの学力が下がったわけではなく、今各界で活躍している人たちは、かえってゆとり教育を受けてきた子どもたちだともいわれています。このように、教育の成果、教育の在り方を論じることは難しく、慎重にしなければなりません。

ビョークランドは、「準備性」と幼児教育についての考え方を進化から述べています。まず、こんなことを言っています。学校教育は、ホモ・サピエンスにとって新しいものであり、長く見ても数千年の歴史しかない文化的発明であると言います。人の大多数が中等レベルの学校教育を等しく受けるようになったのは、つい前世紀のことだというのです。しかし、いくつかの文化では、子どもの学校教育を幼児期から始めます。さらには、乳児や胎児の学習に関する発見を受けて、学校教育をベビーベッド、場合によっては子宮にまで持ち込もうとする動きが出てきたと懸念します。しかし、進化発達論的な観点からは、生物学的に学習の「用意」または「準備」ができる前に子どもに学校教育を課すことは、良い結果をもたらすことは少なく、悪影響を与える可能性もあることが示唆されていると言います。意外なことに、この社会的に重要な問題について体系的な調査がほとんどなされていないと嘆いています。しかし、わずかながら素晴らしい研究もあるそうです。

ある研究で、マリオン・ハイソン、キャサリン・ハーシュ=パセックとレズリー・レスコーラは、学習的要素が高い幼児教育プログラムと低いプログラムが中流家庭の子どもの幼稚園での行動に与える影響を比較したそうです。子どもには、学力、社会的能力、情緒面の健康、創造性に関するテストを入園前プログラムの終了時に実施し、同テストを卒園前に再び行いました。学習的要素の高い就園前プログラムでは成人主導の指導が重視されるのに対し、学習的要素の低いプログラムでは、そうではなく、「発達に適した」カリキュラムに従っていました。所属園のプログラムの学習的要素の高低による子どもの学力の差は、就園前、卒園前ともに認められませんでした。わずかながら差が認められたのは、卒園児のテスト不安であり、学問性の強い園に所属する子どもの方が、発達上適切なプログラムを行う園に所属する子どもよりも不安が高かったそうです。さらに、発達上適切なプログラムを行う園に所属する子どもは、学習的要素の高いプログラムの園に所属する子どもよりも、幼稚園に対して肯定的な態度を示す傾向があったそうです。

こんな研究があるのですね。私たちは、もっと、このようなことを検証する必要がありそうです。ハイソンたちは、こうした効果のほとんどは、統計学的に有意ではあっても、その大きさは小さいと注意を促してはいます。しかしながら、一般に、学問志向の強い就学前教育プログラムには長期的な効果はないことは明らかになっています。中には、マイナスの結果、例えば、強いストレスを生じさせる可能性もあることを示す証拠もあるそうです。

言語獲得の敏感期

言語獲得に関する新生得主義的な考え方と一致する見解が、言語の獲得には敏感期があるという考え方であるとビョークランドは言います。子どもの脳は、生後初期に耳にした言語を理解できるよう準備されており、この発達の窓は、時間と共に閉まっていくと言われています。少なくとも、部分的には閉じていくのです。言語獲得の敏感期があることを示す証拠には、少なくとも4種類あると考えられています。それは、生後長期間言語に十分触れられなかった子ども、第2言語の習得、聴覚障害児の手話の習得、そして、脳損傷からの機能回復に関する研究から得られたものだそうです。

最初の種類の証拠は、最も多くの議論を呼んできたものだそうです。いわゆる野生児、大きくなってから発見されるまで人と十分な接触がなかった子どもに関するデータや、社会的剥奪を受けた子ども、つまり親が病的であったために、隔離され、話しかけられた経験がほとんどない子どもに関するデータです。青年期までに保護されなかった場合、このような子どもたちは、集中的に教育を受けても、3歳児の言語能力にも達しなかったそうです。こうした事例でよく記録されているのがジェニーの事例です。ジェニーは、13歳で発見されるまでベッドに鎖でつながれて生活し、家族からはほとんど無視されていました。発見後、ジェニーの社会的能力や問題解決能力は大幅に発達し、多くの語彙を習得しました。しかし、彼女が用いる言語はピッカートンのいう原型言語に類似しており、言語として重要な文法的構造はないに等しかったそうです。

社会的剥奪を受けた子どもも、青年期に入る前に発見されてリハビリを受ければ、完全な言語を発達させる可能性は高くなることがわかっています。たとえば、コルチョヴァは、11ヶ月~7歳2ヶ月まで虐待やネグレクトを受け、栄養失調であった一卵性双生児の事例を記録しているそうです。7歳で発見されたときに、2人は言葉を話せませんでした。養護施設に預けられて、集中的な教育を受けた2人は、11歳のテスト時にはIQが93と95であり、言語能力も正常と判断できたそうです。社会的剥奪児に関する証拠は、敏感期仮説と一致するものですが、長期間剥奪を受けた子どもは全般的な知的能力の遅れも認められることが多いか、あるいは、乳児期の遅滞が孤立の起因となった可能性もあるかも知れませんが、そのため、発達のタイミングがもつ役割を明言することはできないと言います。

敏感期の存在に関する証拠として最も多いのが、第2言語の習得に関する研究であり、外国語の最終的な熟達度は、その言語に最初に触れた年齢に関連することが示されているのです。英語を第2言語として習得した中国語または韓国語を母語とするアメリカ移民を対象としたジョンソンとニューポートの研究にこのことがうまく示されているそうです。研究参加者のアメリカ入国時の年齢は3~39歳で、研究実施時点でのアメリカ在住期間が3~26年でした。全員教育を受けた成人です。参加者には英語の文をいくつか示し、それぞれ文法的に正しいかどうかを判断させました。3~7歳でアメリカに移住した人の得点は、英語母語話者と同様だったそうです。アメリカ入国時の年齢が8~10歳から成人の場合には、アメリカ在住年数ではなく、その年齢に応じてこのテスト成績は確実に低下したそうです。移民が10代までに第2言語を習得していない場合に、母語のアクセントが残ることは意外ではないですが、このデータは、数十年間在住しても、文法が母語話者と同レベルに達することが難しいことを示したのです。

絶対から相対へ

ある音を聞いただけで、他の音とは独立して、その音にラベリングできる能力を絶対音感と言うことがあります。他の音との関係から音をラベリングする相対音感と対比されます。この定義に従うと、絶対音感は、音のカテゴリー弁別と、それに適切なラベリングをするという連合学習の二つの要素から成り立っているそうです。絶対音感を持つ人は、これらの能力が優れているということになります。

絶対音感には臨界期や敏感期があるとされています。ある総説論文では、絶対音感を保持する成人の87.5%が、5~6歳頃に音楽を始めており、9歳を超えて音楽を始めた人はいないとされています。大人に絶対音感のトレーニングを施した場合の成功例はないようで、5~6歳児に同じトレーニングを施して比較したところ、子どもの方がトレーニングの成果が出たという研究もあります。興味深いことに、3~4歳児だとトレーニングの成果があまり出ず、早すぎても遅すぎても絶対音感は身につかないようです。ただし、音楽の初期経験は、絶対音感を持つのに必要ですが、十分条件ではないようだと森口は言います。音楽経験の質にもよりますし、楽器の状態にも影響されるそうです。調律の乱れた楽器を使うと、絶対音感は育まれないようです。

このように、幼児期に音楽のトレーニングを受けると、絶対音感を持っているという可能性があります。ですから、幼児期から音楽をやらせた方がいいという早期教育が一部推奨されていますが、私は、逆に、では、絶対音感を人類は必要としただろうかと疑問を持ちました。絶対音感を身に付けることによって生きていく上で有利になるのだろうかと思ってしまいます。それよりも、社会で生きていく上では、それと対比される相対音感の方が必要ではないかと考えます。ですから、赤ちゃんは、絶対音感を刈り込んでいき、自然に相対音感を持つようになるのではないかと推測していました。

ある研究では、8ヶ月の乳児が、絶対音に感受性があるのかを調べたそうです。実験手続きは、馴化・脱馴化法が用いられたのですが、用いた刺激が少々複雑なのでここでは省きますが、結果、乳児は絶対音感者であるようだということが示されました。同じ実験を大人に実施したところ、絶対音感の変化には反応せず、相対音の変化に気づいたそうです。大人と乳児のコントラストがきわめて興味深いところだと森口は言います。いつまでは絶対音優位で、いつ頃から相対音優位に変わってくるかについての詳細な検討は今のところなされていないそうですが、絶対音から相対音への発達的変化には言語を聞く経験の影響が指摘されているそうです。言語音は、基本的に相対音であるため、聴覚の変化に影響を与える可能性があると考えられているようです。

このように脳という視点から乳幼児を捉えた際に、大人が持っていない知覚能力を持っている可能性が次々と示唆されているようです。しかし、大人と乳幼児の心の世界や能力が異なっているとしても、ここまでですと、結局のところ乳幼児の脳が未熟であるにすぎず、異なった能力を持つことの意義はあまりないように思えます。どうして、赤ちゃんは、大人と異なった能力を持ち備えているのでしょうか?きっと、肯定的な意味で必要だったのでしょう。

早期の損傷

言語を処理する脳領域がある左半球の早期の損傷は、言語機能の発達に影響を与えるのでしょうか?初期の研究では、2歳までに脳損傷を受けた場合、左半球の損傷も右半球の損傷も影響は変わりませんが、10歳までの間に損傷を受けた場合は、左半球の方が言語発達の問題につながりやすいと考えられていたそうです。しかし、その後の研究によって、生後早い時期から左半球の優位性が示され、早期であっても左半球に損傷を負った人が、右半球よりも、音韻課題や文法課題に問題を抱えやすいことが示されているそうです。一方で、ベイツ博士らは、脳損傷を抱えた子どもの言語発達を縦断的に検討し、どの脳領域であれ脳を損傷すると言語発達に問題を抱えること、そして、右半球に損傷を抱えた乳児の方が、左半球に損傷を抱えた乳児よりも、単語の理解に困難を示すことを示しているそうです。このように、結果は一貫していないそうです。

また、近年、左半球の言語野に損傷を抱えた子どもたちがいかに脳を再組織化し、言語処理を行なっているかについてfMRIで調べた研究があるそうです。言語損傷の研究では、一般的に左半球の言語野が早期に損傷した場合には脳内の再組織化が起こり、右半球のブローカ野に該当する領域が言語機能を担うという考えがありますが、その仮説を検証したそうです。提示された名詞に対して適切な動詞を答える課題では、左半球のブローカ野周辺に損傷を抱えた子ども5名のうち4名は、ブローカ野周辺の言語処理とは関係のない脳領域を活動させており、残りの1名は右半球のブローカ野に該当する領域を活動させたそうです。むしろ、左半球のブローカ野ではない領域に損傷を抱える子どもでは、右半球のブローカ野に該当する領域を活動させる傾向にあったそうです。これらの結果は、右半球のブローカ野に該当する領域が、言語機能を担うという説とは一致しないのです。一方で、同様の課題を与えた場合に、左半球に損傷を抱えた子どもは、右半球のブローカ野に該当する領域を活動させることを示した研究もあるそうです。

これらの結果を見ても、言語関連の脳領域損傷後の、単純な脳のパターンはないように思えるようだと森口は言います。さらに彼は、実際のところ、どの領域を発達の同時期に損傷し、どのような療育を受けるかによって、結果は異なってくるのではないかと言うのです。現時点では、敏感期があるとまでは言いきれませんが、発達早期の言語野の損傷であれば、脳内に再組織化が起こり、異なった脳領域で処理することもある、くらいは言えるのではないかと言うのです。

人間の行動に関する限り、臨界期はふさわしくなく、敏感期といったほうが適切ではないかと森口は言います。発達の特定の時期が、他の時期よりも重要であり、それはある経験をする最初の時期だということは間違いないのですが、あくまで視覚野言語などに限られており、早期教育論者が推進するような知能のような高次の認知機能については、科学的な検証は、あまりなされていないのが現状だそうです。

次に絶対音感についてです。これについては、私も講演でよく述べる例です。絶対音感とは、いろいろな意味があるようですが、ここでは、ある音を聞いただけで、他の音とは独立して、その音にラベリングできる能力のことを指します。

臨界期から敏感期へ

脳に関する話題のひとつとして、脳の臨界期ということが、特に早期教育を勧める人たちの話題によく載っていたことがありました。しかし、この臨界期という言い方は、その意味からして誤解を生じやすく、強すぎるということで、最近は、特に人間の行動などを対象にする場合、敏感期ということが多くなってきているそうです。敏感期は、臨界期ほど厳密なものではなく、ある時期が他の時期よりも経験の影響が大きい時期であり、ただ、その時期の影響は永続的で非可逆的であるとまでは言えないというもののようです。

知覚の刈り込みについて例に出した顔知覚は、生後1年頃までに、経験の影響で起きることから、顔知覚の発達の敏感期と言えます。しかし、臨界期とは言えないそうです。杉田博士がこの点を、ニホンザルを対象にした研究から検討しているそうです。この研究では、サルの乳児は誕生後6ヶ月、12ヶ月、24ヶ月のいずれかの期間、あらゆる顔を見る機会がありませんでした。一方、顔以外の、色や形などを見る機会は与えられました。顔遮断期間後、サルたちは、1ヶ月間ヒトの顔、もしくはサルの顔のうち、一方だけ見る機会を与えたそうです。1ヶ月経過後に、ヒト・サルの顔が弁別できるかを検討したそうです。その結果、いずれのサルも、顔遮断期間後の1ヶ月間で接した種の顔のみ弁別ができたそうです。

たとえば、6ヶ月の顔遮断期間後に1ヶ月間サルの顔のみ見ていたサルは、その後ヒトの顔に接する機会が与えられてもヒトの顔は弁別できなかったのです。そして、興味深いのが、最初の遮断期間の長さは何ら影響がなかったという点でした。つまり、生後6ヶ月間顔を見ないでも、24ヶ月間顔を見ないでも、顔に弁別能力は変わらなかったのです。遮断期間後の最初の1ヶ月間が重要だったのです。

この研究では、サルは遮断期間でも、顔以外の色や形などを見る機会はあったので、知覚の刈り込みにおける敏感期は、視覚経験が始まってからの期間ではなく、顔に接してからの期間であることが推測されるのです。色や形の情報を処理する脳領域と、顔を処理する脳領域が異なるために、このようなことが起きるのではないかと森口は考えています。

では、言語発達の敏感期はどうなのでしょう。オオカミに育てられたとされるカマラとアマラなどの事例報告から、言語発達には臨界期があると主張する人がいるそうです。研究者は、そのような解釈に慎重だそうですが、ものごとを批判的に見ることができない人たちがその節を流布しているようだと森口は言います。彼らは、オオカミに育てられた子どもたちは言語を発達させられなかったので、生後数年間の経験が重要だと主張しているそうです。このような主張は、鈴木博士の著書「オオカミ少女はいなかった」などで明確に反駁されているそうです。生後数年間の言語入力が言語発達において重要なのは、間違いありませんが、オオカミに何年間も人間が育てられることはありませんし、このような逸話を根拠に早期教育を勧めるのは感心できないと森口は警告しています。

彼は、言語発達の敏感期についての根拠ある研究は、脳損傷の研究だと考えています。多くの人において、言語を処理する脳領域である言語野は左半球にありますが、早期の左半球の損傷は言語機能の発達に影響を与えるのかどうかの研究があるそうです。

2017韓国での講演

世界銀行が提案しているように、社会的流動性を高めるためには、教育への投資が、効果ありそうです。南アフリカのように、一層貧困状況の悪い(教育への投資もはるかに少ない)国々よりも悪い成績を収めている学校がほとんどである国の脆弱な学校制度では、賃金上の特権階級をなくすほど急速に能力が成長することは見込めません。そうなると、政策上の焦点は教育の質を向上することに置かれるべきであるということになるのです。

このような観点から、『OECD保育白書2017年版(Starting Strong 2017)』でも、安価で質の高い早期幼児教育・保育(early education and care, ECEC)を提供する取り組みを強化するべきだと提案しているのです。ここで、「安価」という意味がこの文からだけですとよくわかりませんが、社会的流動性のためにも、質の高い幼児教育を提供することが必要であるとしているのです。この報告書によると、「ほとんどの政府が近年、入園、入学者を拡大するためにより多くの託児所と学校を開設するための投資を増やしていることを明らかにしています。今後各国は、教諭の労働条件の改善、あらゆる子供に公平な利用の機会を確保すること、新たな指導方法の導入などに焦点を当てる必要があります。」とあります。そこでは、世界銀行が思い切った教育改革が必要とあるように、あらたな指導方法の導入を勧めています。

「あらたな指導方法」とはどういうことでしょうか?それは、時代的に、少子高齢化社会を迎え、AI社会の到来に向けて、本来の人類の進化から伝統的育児を見つめ直し、そして格差社会において、インクル-ジョンの考え方からの保育に取り組まなければならないこと、そして、乳児からの教育の必要性など、今回、私が韓国での講演に際し、最初にこのような提案をしたのです。なぜ私が乳幼児教育において「見守る保育」を提案しているのか?それに対して、子どもの主体性と自発性の保障、自ら取り組める環境、それらは、常に不易であり、大切なことです。しかし、それらはすでに韓国ではヌリ課程により規定され、すべての園で取り組んでいます。しかし、少子化以降、子どもたちの育ちに変化があり、新しい保育が必要であること、それは、乳児からの子ども同士の活動、また、大人からの指示で動くのではなく、子どもへの言葉がけは、子ども自身が考えるような質問形式で行なうこと、自分の考えを言う機会を増やすことなどの提案をしたのです。

私の園での1歳児の朝のお集まりから、午前のおやつに至る動画を見ながら、解説をしていきました。まず、お集まりには、先生はせかすことなく、子ども自身が判断して、集まり、自分の座る席を探し、そしてみなが揃うのを待っている様子。その後の午前のおやつのパンは、子どもにただ配って歩くのではなく、一人一人にジャムが付いたパンか、何も塗っていないパンかを子どもに見せて、「ジャムが塗ってあるパンと、何も塗っていないパンのどちらがいい?」と聞きながら配っていきます。食べ終わりも、自分の判断でやめ、自分で食べきれないパンや飲みきれない飲み物を残菜カゴに入れ、食器を片付けていきます。その後のお手ふき、エプロンの片付け、1歳児は自ら試行錯誤しながら、また、友だちや先生の手を借りながら行なっていきます。この動画は、韓国の園長先生たちには、大いに感心されました。

このように、かなり反応があった講演会は終わりました。

格差

『OECD保育白書2017年版(Starting Strong 2017)』で、「各国は、社会的流動性を高め、あらゆる子供が自分の能力を最大限活かす機会を得られるように、安価で質の高い早期幼児教育・保育(early education and care, ECEC)を提供する取り組みを強化するべきだ」としています。これをどう解釈したらいいのかは、本文を読んで、その前後関係を読まないとわかりません。ですから、OECDが提案することとは別に、この文章から私が日頃考えていることを書いてみます。

まず、「社会的流動性」とはどういうことなのでしょうか?世界銀行のブログページに、“所得格差と政策の選択 [via: The World Bank]”という記事が書かれていたことを、編集者である松本優真さんが紹介しています。そこでは、「政府による教育への投資が、所得格差を埋める重要なカギになる、というのが前者での主張でしたが、この論考では南アフリカの教育の現状が紹介され、単に政策的な投資がなされているというだけでは問題はほとんど解決せず、長期的な視野でもっていかなる形で投資するのかが肝要だ」ということが示唆されているそうです。それは、例えば、アメリカで1960年代に行われた「ペリー幼稚園プログラム」が有名です。このプログラムでは、貧しい地区に生まれたアフリカ系住民の3歳から4歳の子どもたちに、質の高い就学前教育を提供したペリー幼稚園に通った子どもは、通わなかった子どもに比べて、「人生の成功者」になる確率が高いことがわかったというものです。それは、どういうことかというと、たとえ貧しい家に生まれても、質の高い就学前教育を受けることができれば、高い学歴を手にし、安定的な雇用を確保し、犯罪などに走ることが少ないということを示しているのです。その結果を受けてアメリカ政府では、教育に投資して、所得格差を埋めようとしています。

しかし、この世界銀行のブログでは、南アフリカの教育の現状を見ると、単に政府からの投資だけでは、問題はほとんど解決されていないと分析しています。どのようなところに、どのように投資するかを長期的な視点で考えないと効果がないという主張なのです。効果がないということは、貧困層と富裕層の格差は、埋めることができないということになります。これが、「社会的流動性」が低いということになります。

さらに世界銀行のブログでは、「所得の分配は、政府の政策決定の文脈であれ、国家開発計画の策定の場であれ、あらゆる政治的な議論で特に取りざたされる論題です。しかしながら、こうした不平等の根本が、労働市場の、とりわけ賃金の分配に横たわっていることや、賃金の分配状況を変えるためには南アフリカ国内の学校のほとんどの低い教育水準を劇的に改善しなければならないということが十分に理解されているとは言えません。」とあります。今回、日本では選挙が行なわれましたが、その際の政策公約に、消費税の分配がありました。政府としての所得の分配です。今回、幼児教育の無償化と防衛費の増額に使われるとの公約が掲げられました。それらは、社会的流動性を高めることになるのでしょうか?南アフリカでの格差を埋めるためには、その根本が賃金格差にあるということ、その格差を埋めるためには教育水準の劇的な改善が必要であることを指摘しているのです。

それは、労働市場の不平等の根本原因、つまり教育の質にこそ取り組まなければならないことを提案しているのです。