2017韓国での講演

世界銀行が提案しているように、社会的流動性を高めるためには、教育への投資が、効果ありそうです。南アフリカのように、一層貧困状況の悪い(教育への投資もはるかに少ない)国々よりも悪い成績を収めている学校がほとんどである国の脆弱な学校制度では、賃金上の特権階級をなくすほど急速に能力が成長することは見込めません。そうなると、政策上の焦点は教育の質を向上することに置かれるべきであるということになるのです。

このような観点から、『OECD保育白書2017年版(Starting Strong 2017)』でも、安価で質の高い早期幼児教育・保育(early education and care, ECEC)を提供する取り組みを強化するべきだと提案しているのです。ここで、「安価」という意味がこの文からだけですとよくわかりませんが、社会的流動性のためにも、質の高い幼児教育を提供することが必要であるとしているのです。この報告書によると、「ほとんどの政府が近年、入園、入学者を拡大するためにより多くの託児所と学校を開設するための投資を増やしていることを明らかにしています。今後各国は、教諭の労働条件の改善、あらゆる子供に公平な利用の機会を確保すること、新たな指導方法の導入などに焦点を当てる必要があります。」とあります。そこでは、世界銀行が思い切った教育改革が必要とあるように、あらたな指導方法の導入を勧めています。

「あらたな指導方法」とはどういうことでしょうか?それは、時代的に、少子高齢化社会を迎え、AI社会の到来に向けて、本来の人類の進化から伝統的育児を見つめ直し、そして格差社会において、インクル-ジョンの考え方からの保育に取り組まなければならないこと、そして、乳児からの教育の必要性など、今回、私が韓国での講演に際し、最初にこのような提案をしたのです。なぜ私が乳幼児教育において「見守る保育」を提案しているのか?それに対して、子どもの主体性と自発性の保障、自ら取り組める環境、それらは、常に不易であり、大切なことです。しかし、それらはすでに韓国ではヌリ課程により規定され、すべての園で取り組んでいます。しかし、少子化以降、子どもたちの育ちに変化があり、新しい保育が必要であること、それは、乳児からの子ども同士の活動、また、大人からの指示で動くのではなく、子どもへの言葉がけは、子ども自身が考えるような質問形式で行なうこと、自分の考えを言う機会を増やすことなどの提案をしたのです。

私の園での1歳児の朝のお集まりから、午前のおやつに至る動画を見ながら、解説をしていきました。まず、お集まりには、先生はせかすことなく、子ども自身が判断して、集まり、自分の座る席を探し、そしてみなが揃うのを待っている様子。その後の午前のおやつのパンは、子どもにただ配って歩くのではなく、一人一人にジャムが付いたパンか、何も塗っていないパンかを子どもに見せて、「ジャムが塗ってあるパンと、何も塗っていないパンのどちらがいい?」と聞きながら配っていきます。食べ終わりも、自分の判断でやめ、自分で食べきれないパンや飲みきれない飲み物を残菜カゴに入れ、食器を片付けていきます。その後のお手ふき、エプロンの片付け、1歳児は自ら試行錯誤しながら、また、友だちや先生の手を借りながら行なっていきます。この動画は、韓国の園長先生たちには、大いに感心されました。

このように、かなり反応があった講演会は終わりました。

格差

『OECD保育白書2017年版(Starting Strong 2017)』で、「各国は、社会的流動性を高め、あらゆる子供が自分の能力を最大限活かす機会を得られるように、安価で質の高い早期幼児教育・保育(early education and care, ECEC)を提供する取り組みを強化するべきだ」としています。これをどう解釈したらいいのかは、本文を読んで、その前後関係を読まないとわかりません。ですから、OECDが提案することとは別に、この文章から私が日頃考えていることを書いてみます。

まず、「社会的流動性」とはどういうことなのでしょうか?世界銀行のブログページに、“所得格差と政策の選択 [via: The World Bank]”という記事が書かれていたことを、編集者である松本優真さんが紹介しています。そこでは、「政府による教育への投資が、所得格差を埋める重要なカギになる、というのが前者での主張でしたが、この論考では南アフリカの教育の現状が紹介され、単に政策的な投資がなされているというだけでは問題はほとんど解決せず、長期的な視野でもっていかなる形で投資するのかが肝要だ」ということが示唆されているそうです。それは、例えば、アメリカで1960年代に行われた「ペリー幼稚園プログラム」が有名です。このプログラムでは、貧しい地区に生まれたアフリカ系住民の3歳から4歳の子どもたちに、質の高い就学前教育を提供したペリー幼稚園に通った子どもは、通わなかった子どもに比べて、「人生の成功者」になる確率が高いことがわかったというものです。それは、どういうことかというと、たとえ貧しい家に生まれても、質の高い就学前教育を受けることができれば、高い学歴を手にし、安定的な雇用を確保し、犯罪などに走ることが少ないということを示しているのです。その結果を受けてアメリカ政府では、教育に投資して、所得格差を埋めようとしています。

しかし、この世界銀行のブログでは、南アフリカの教育の現状を見ると、単に政府からの投資だけでは、問題はほとんど解決されていないと分析しています。どのようなところに、どのように投資するかを長期的な視点で考えないと効果がないという主張なのです。効果がないということは、貧困層と富裕層の格差は、埋めることができないということになります。これが、「社会的流動性」が低いということになります。

さらに世界銀行のブログでは、「所得の分配は、政府の政策決定の文脈であれ、国家開発計画の策定の場であれ、あらゆる政治的な議論で特に取りざたされる論題です。しかしながら、こうした不平等の根本が、労働市場の、とりわけ賃金の分配に横たわっていることや、賃金の分配状況を変えるためには南アフリカ国内の学校のほとんどの低い教育水準を劇的に改善しなければならないということが十分に理解されているとは言えません。」とあります。今回、日本では選挙が行なわれましたが、その際の政策公約に、消費税の分配がありました。政府としての所得の分配です。今回、幼児教育の無償化と防衛費の増額に使われるとの公約が掲げられました。それらは、社会的流動性を高めることになるのでしょうか?南アフリカでの格差を埋めるためには、その根本が賃金格差にあるということ、その格差を埋めるためには教育水準の劇的な改善が必要であることを指摘しているのです。

それは、労働市場の不平等の根本原因、つまり教育の質にこそ取り組まなければならないことを提案しているのです。

遺伝?環境?

赤ちゃんや子どもについてどのような存在であるかという言葉が、その時期をどのように考えていたかがわかります。例えば、「かわいい」「無邪気」「純粋無垢」、それらを少しネガティブな表現として、「なにもできない」「大人の手が必要」「無能」などがありますが、それを根底にして、育児、教育、指導、という言葉の意味、行為が議論されてきました。赤ちゃん、子どもに大人が「どうすればいいのか」、「何をすればいいのか」ということを考えるのです。

森口佑介は、「おさなごころを科学する」という本の中で、「進化する乳幼児観」を述べています。そのなかで、まず、第1章「無能は乳幼児」として、かつて乳幼児期をどのように捉えてきたかを紹介しています。

よく、教育は小学校に行くようになってから始まり、それまでの子どもは基本的に遊び、寝て、食べるというだけであるというように考える人を見かけます。実際に、乳幼児研究が本格化したのは、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、心理学や教育学の熱が高まってからのことです。それまでは、有能な学者たちが根拠もなく、主観的に乳幼児を議論していたそうです。そして、そこに見られるのが「乳幼児が無力であり、無能な存在である」という考え方だったのです。

ここで、一つの疑問がまず浮かびます。それは、教育の有効性です。どういうことかというと、何か事件を起こした人に対して、「仕方がないよ。生まれつきそうだから。」「遺伝的に備わっているから」ということがありますが、人の行動や行為がそれだけであれば、教育は無力でしょう。では、教育をすれば、すべての人がそうなるかというと、そうでもありません。また、直接的な関わりである教育からだけでなく、環境も影響してきます。

最近、興味深い海外の研修の動画を紹介されました。それは、男女の刷り込みについてです。よく私たちは、男の子は車とか電車が好きだけど、女の子は人形とかドレスとかが好きだと思っています。その動画は、女の子の赤ちゃんに男のような格好をさせ、男の子の赤ちゃんに女の子に見えるような格好をさせ、ベビーシッターに子どもの遊び相手をしてもらいます。すると、女の子でありながら男の子の格好をさせた子に対してベビーシッターは、無意識に男の子用のおもちゃを提供するのです。いろいろなおもちゃを手にする中、車とか電車が多いのです。しだいに、その子は自然にそれらのおもちゃで遊ぶことが多くなるのです。それは、逆でも同じようなことが見られました。もちろん、生まれつき車が好き、お人形が好きということもあるでしょうが、環境、大人の刷り込みがそのようにしたということもあるというような研究です。それは、たとえば、兄弟における上の子か下の子かによって性格が違うというのも、生まれつきがあるかも知れませんが、そのように育てられたからということもあるでしょう。

遺伝か環境か、またはそれを是正する教育の力はどのくらいの効力を持つのかはたぶん、永遠の課題かも知れません。もちろん、それぞれがそれぞれ影響をしていることは確かでしょうし、すべてが絡み合って影響していることは確かです。しかし、これらの問題は、さまざまな人の発達を考える上で、とても重要な事なのです。

記憶する方法

メタ認知能力について、幼児を対象にしたおもしろい研究があるそうです。4歳児に10個の事物を覚えるようにお願いすると、約半数の子どもが「全部覚えられる!」と答えたそうです。また、ある子たちは、10個の事物を覚えるには大人でも時間がかかるはずなのに、子どもはわずかな時間で全部覚えたということもあります。しかし、記憶のテストを行なうと、実際に覚えていたのは3個程度に過ぎなかったというのです。このような状況は、保育の中で多く見られますね。さらに、この結果を伝えても、「次は全部覚えられるから」と言って、自分の記憶力を疑わなかったそうです。そこで、もう一度やってみても、やはり3個程度しか思い出せませんでした。この4歳児の反応は、メタ認知が働いていない状態です。自分がどの程度記憶できているのかを正しく把握できていませんし、別の記憶方法を試すこともしていないのです。そのため、成績を改善することもできないということになるのです。

では、児童期になるとどうでしょうか?記憶についての知識を、幼児期から児童期に当たる時期の子どもに様々な形で質問した研究があるそうです。このうち、「直後―遅延項目」では、電話番号を教えられたら、すぐに電話をかける場合と、水を飲んだあとにかける場合とで違いがあるかを聞いてみたそうです。また、電話番号を覚えておきたいときにどうするかも聞いてみたそうです。これは、ワーキングメモリに関することで、ポイントは「情報を忘れずに覚えておくにはどうすれば良いか」という点にあります。

その結果は驚くべきものがあったそうです。小学1年生でも、70%がすぐに電話をかけると答えたことから、記憶が消失するものだということには早い時期から気づいているようなのです。ところが、忘れないようにするために、「実際に声を出して繰り返したり、頭の中で繰り返し唱える」ことに注意が向く割合は、3年生でも低く、5年生になって「書き留める」のと同じくらい意識が向くようになることがわかったそうです。

このように、メタ認知は児童期を通じて発達していくというのです。また、中学校以降の青年期も発達が続き、大人の思考に近づいていくのです。この結果から見ると、小学校低学年の子が、なかなか覚えられないときに、「なんで、書いて覚えないの!」と注意しても無理だったのですね。注意する側や、助言する側が大人ですから、当然、大人が自分と比較しても子どもには無理なことが多いのです。しかも、幼児に対してはなおさらであるのに、大人がむきになって子どもを怒っている姿を見ることがありますが、もう少し子どものメタ認知についての発達を理解する必要がありそうです。

さらに、このメタ認知は社会性やコミュニケーションの発達にとっても重要です。実際、心の理論の発達と相関するという研究結果が報告されているそうです。たとえば、ロックルとシュナイダーによる縦断的研究では、3歳と4歳での心の理論に関する課題の成績が、その後のメタ認知に関する課題の成績と正の相関があったそうです。また、この両者の関係は、言語能力の個人差を統計的にコントロールした場合にも見られたそうです。この研究で調べられたメタ認知は、主に記憶にかかわるメタ認知知識という点で、部分的ですが、心の理論を働かせることで、他者や自分の内的な状態に注意が高まり、より一般的な人間の記憶や認知についても考えていけるということを示唆しているかもしれないと林は言います。

心の働き

メタ認知を大きく二つにわけて考えます。一つ目は、自分の認知状態に気づき(それをモニタリングと言います)、目標を設定し、修正する(コントロール)もので、「メタ認知的活動」と呼ばれます。二つ目は、普段の経験や学習などによって蓄積されるもので、自分の認知的特徴を普段から知っていることを示し、「メタ認知的知識」になります。

メタ認知というと、一つ目のメタ認知的活動に相当することだけを紹介する場合が多いようです。しかし、二つ目のメタ認知的知識もかなり重要になります。たとえば、「共同注意をともなったほうが、物の名前が伝わりやすい」ということを知っている人は、すなわち、メタ認知的知識を持っている人は、そうでない人に比べて、子どもに物の名前を教える場合に、アイコンタクトや指さしなどを積極的に行なうので、子どものことばの発達が促されるはずだと林は言います。それは、子どもに対してだけでなく、しょうがいを持った子にたいしても有効な指導が出来るはずだと私は思っています。

ただし、せっかくこのメタ認知的知識を持っていても、物の名前を教える場面で、「今、何かすべきことを忘れていないか」といったメタ認知的活動であるモニタリングが機能しなければその知識を活用できないのです。実際に、赤ちゃんが何かに注目しているまさにその時に、一緒に視線を向けたり、指さしをしたりするのを忘れてしまうと、赤ちゃんは物の名前を覚えられないのです。つまり、メタ認知的活動とメタ認知的知識が協調して働くことが重要なのです。

このことは、大人同士の社会的場面でも当てはまりますが、子どもにとっても重要です。社会的場面から離れますが、小学校の低学年で学習する足し算の例を林は出しています。足し算の問題を見て回答する心の働きは「認知」です。数字を見るのが「知覚」です。その数字を頭に入れるのが「記憶」です。そして計算という処理をするのが「思考」です。この年齢の子どもたちの多くは、単純に計算して、繰り上がりを忘れてしまいます。しかし、なかには「ちょっと待てよ。何かおかしいぞ」という気づきが入る子どももいます。これは、自分の認知自体をモニタリングしているので、メタ認知的活動が働いていることになります。さらにその際に、先生から教わった「繰り上がりのある場合は、補助数字をメモすると忘れない」という認知傾向に関する知識であるメタ認知的知識を思い出すことができれば、実際に繰り上がりの処理をして、正しい計算結果を出すことができるのです。

また、これができるためには、メタ認知的活動とメタ認知的知識の両者が協調して働くことが大事です。メタ認知的活動によって何かおかしいと気づいても、それに対応するメタ認知的知識がなければ正しく計算はできません。逆に、メタ認知的知識を持っていても、実際に足し算する場面でメタ認知的活動が働かず、それを思い出せなければ、正しい計算ができないのです。このように、簡単な足し算ひとつにおいてもメタ認知が適切に働くはどうかで結果が大きく変わるのです。メタ認知が働いていない子どもは、何度も同じミスを繰り返してしまうのです。

それでは、子どものメタ認知能力はどの程度で、どのように発達するものなのでしょうか?

真のうそ

「うそ」とは何であるかということに対して、このような発話はどうでしょうか?「学校でテストの結果が戻ってきましたが、D君はすごく悪い点で、恥ずかしくなりました。家に戻るとお母さんから『テスト、どうだった?』と聞かれたので、D君は『うん、とても良かったよ』と言いました。」この場合のD君の発言に対しては、多くの人は「D君は、うそをついている」と思うでしょう。それは、この場合、発言が事実と違うだけでなく、D君自身が「発言が事実と違う」ことも知っていて、それをお母さんに信じさせようとして言っています。つまり、真のうそと呼ぶには、「発言が事実と違う」だけでなく、「発言が事実と違うことを自分は知っていて」、「相手に『自分の発言は本当だ』と思わせようという意図がある」という三つが揃う必要があるのだと林は言います。

子どもの「うそ」を最初に研究したとされるのは、シュテルン夫妻だそうです。実に1世紀以上も前のことです。彼らは、うそを二つに大別して考えているそうです。ひとつは、「欺く意図のある虚偽の発言」と定義し、「真のうそ」としました。もうひとつは、空想による虚偽や問い詰められたときのとっさの否認などで、「見かけのうそ」と考えたのです。そのように子どものうそを二つに区別していった結果、真のうそは4歳頃から見られる一方、見かけのうそはもっと年少から見られると報告しているそうです。これは、現在知られている知見と大きなズレはないそうです。

その後、ピアジェは、道徳的判断の研究の中で、うその発達に着目しています。正確に言うと、うその理解の発達に着目したのです。そして、誇張や過失などさまざまな組み合わせによる二つのお話を子どもに比較させる研究をしているそうです。

具体的には、次のような話だそうです。一つ目は、町を歩いているときに犬に出くわして恐怖を感じた男の子が家に帰り、母親に「牛みたいに大きな犬を見た」と言う、という話です。二つ目は、学校から家に帰ってきた男の子が、実際はその日にテストを返してもらった事実は何もないのに、母親に「先生が良い点をくれた」と言ってご褒美をもらったという話です。「どちらの男の子のほうが悪いか」を子どもに聞いてみると、7歳くらいまでは、話に登場する男の子の意図を考慮せず、発言の内容が現実から離れているほど悪いと判断したそうです。このように「牛みたいな犬を見た」といったあり得ない誇張や、あるいは単にできごとを誤認していただけでも、事実とは異なる発言は、子どもにとって、うそと判断されるとピアジェは報告しているそうです。

こうした知見は、ウィマーらの次の話を使った研究からも追認されているそうです。兄である男の子がチョコレートを青い棚に入れて出かけた後に、妹からチョコレートの置き場所を聞かれます。チョコレートを妹に食べてもらいたいと思っている男の子は、「青い箱」と答えますが、実は男の子が出かけた間に母親がチョコレートを青い棚から緑の棚に移していました。男の子には妹を欺く意図がないにもかかわらず、結果的に事実と違う情報を妹に伝えたことになるのですが、4~6歳の幼児の多くは、このような場合もうそと判断したそうです。しかし、男の子の意図や道徳的判断について、幼児の多くは正確に理解していたそうです。この話との比較として、男の子がチョコレートを独り占めしようとして、「緑の棚」と答えたとしたら、それは、結果的に正しい情報を伝えていたけれども、妹を欺こうとしたことになるのですが、その場合のほうが意地悪だと判断できたそうです。

社会的な発達

 人の発達は右肩上がりにあるのではなく、らせん状に上がっていくものであると言う人がいます。私の考える発達観は少し違うのですが、人の考え、理解は、らせん状により深く理解していくものだと思っています。それは、同じことを繰り返しながら、しかし、そこにまた新しい知見が加わり、よりその理解が深まっていくものだと思っています。ということで、子ども理解や、赤ちゃんの理解は、同じことをこのブログの中で繰り返しながら、少し違う観点、また違う研究者によっての知見を理解することで、より深まっていきます。そして、私からそれを読み進めることで、理論、考え方がどうも実際の園での子どもの姿、子どもの発達、子どもの行為と違和感を感じていたものだ、新しい知見によって、少しずつ納得のいくものに変わっていくことを実感しています。

 特に、園では、子ども集団があり、子どもたちはその集団の中の一員として存在しています。その姿は、母子における姿とは違っていることがあります。それは、発達における発現の時期は、ずいぶんと違っている気がします。それは、人はまねをすることで学習するという特性によるもので、まねる相手がいるかどうかで違ってきます。また、人は他人を意識し、負けまいとする気持ちが赤ちゃんの頃からあります。ですから、近くに他の子がいる場合と、一人で遊んでいるときとは、その行為が違うだけでなく、発達にたいしての刺激が違う気がします。

 それ以上に大きく違うのは、人との関わりにおいてです。幼児期における学びの基礎力の育成において重要であるものとして、幼児が人やものに興味をもち、かかわる中で様々なことに気付くとともに、それらを深め、広げていく過程の中で、自己発揮と自己抑制を調整する力を育むことであり、それらを通じて、個人として、また社会の構成員としての自立への基礎を養うこととあります。ということで、環境として大切なものが、興味を持ち、関わることのできるもの、人が必要なのです。その関わる人が、母親である場合と、子ども集団の中の一員として保育者と関わる場合とは違ってきます。

 それが、長い間、母子のかかわりを、保育者との関わりに当てはめ、そのモデルに近づこうとしてきました。そうであれば、当然母子の関係のように、子どもと保育者との関係を11に近づこうとします。そして、できるだけ子どもの視界の中に他の子どもが入らないようなかかわりをしようとします。特に、子ども同士がまだ関わらないように見える乳児において、それにこだわろうとします。それにまして、「乳児は未熟な存在である」とか「さまざまな刺激を大人から与えなければならない」ということで乳児と関わろうとしてきました。昨日までのブログで紹介したように、最近の赤ちゃん観は、ずいぶんと変わってきています。それに対して、研究はずいぶんと遅れているようですが、子ども集団における発達や関わり、特に乳児、未満児における集団の中での発達や関わりには、母子には見られない特性があるような気がしています。

 そういう意味では、もう一度私たちは、子どもの社会的発達を見ていく必要がある気がしています。その内容は、このブログではかなり前から取り上げてきました。早い時期から「ミラーニューロン」について、201111月頃には、「心の理論」について、20126月頃には、「社会脳」について取り上げてきました。このあたりのことは、最近の研究ではどのように捉えられているのでしょうか?

赤ちゃん研究

 赤ちゃんの研究は、日々新しい知見を提供してくれます。同時に、過去からの通念を覆すような見解も発表されています。発達心理学者であるポール・ブルームによる一昨年発刊された「ジャスト・ベイビー:赤ちゃんが教えてくれる善悪の起源」では、「赤ちゃんは自己中心的で、両親や環境から社会性や道徳を学んでいく」長年信じられてきたこの通念に、真っ向から反対し、赤ちゃんは既に善悪を判断する能力を持っているということを説いています。そして、道徳、差別、嫌悪感など、さまざまな問題を提起すると同時に、よりよい社会をつくるために私たちに何が必要かを提言しています。

 この本は、彼が2007年から2008年にかけてジョンズ・ホプキンス大学で行なった連続講義をまとめたものです。その講義の主題は、「宗教の認知科学」だそうなので、後半はずいぶんと宗教について書かれてあったので違和感を感じたのは無理ないことだっとのです。その後、彼は間を少し開けて2010年に、「赤ちゃんの道徳生活」という記事をニューヨーク・タイムズ・マガジンに発表しました。そこで、2011年には、イエール大学での連続講義シリーズで、「日常生活の道徳」というテーマで講演をしたそうです。

 このような経緯の中で書かれた本書の中で、彼は、道徳についてさまざまな実験や観察、いろいろな人の研究などを参照しながら説明していっています。そして、その根拠として、進化生物学と文化人類学などを通して考察しています。それは、私にとって、とても興味深いものです。そして、私が考える「人類の進化の中で、生存戦略として淘汰されて来たものが、道徳であると思うのです。そして、この意識の中で―それは無意識であるかもしれませんが―子育て、保育をすることが道徳を継承することになっていると思うのです。」というところにつながります。それは、ブルームが本書の中で、私たちの天性の資質には以下のようなものがあると言っています。

 まず、「道徳感」ですが、人の行動の中で、親切な行為と残酷な行為がありますが、これを識別する能力であるともいえます。どうしてそのような能力が必要であるかというと、当然ですが、親切な行為は、私たちの遺伝子を子孫に繋ぐ行為であり、残酷な行為は、私たちの遺伝子を途切れさせていく行為だからでしょう。

 5日の朝日新聞に、「我々はどこから来て、どこへ向かうのか」シリーズの中で、未来の日本国家を構想したユニークな憲法草案を紹介しています。批評家の東浩紀氏が中心になって2012年に発表した「新日本国憲法ゲンロン草案」です。その前文に「日本は繁栄する国でなければならない」と書かれてあるそうです。そこで、記者は、「繁栄とは何だろうか」と東氏に尋ねたところ、彼は即答したそうです。「繁栄とは子どもを産んで育てられることです。」と答えたのです。

 「今後の世界で何がポジティブな目標になるか。思いついたのは、次世代が生み出されることぐらいでした。次の世代に未来が手渡されること。つまり繁栄です。」と答えたそうです。その記事の中で、日本でも注目を浴びた、昨年10月にドイツの最高裁に当たる連邦通常裁判所が出した判決を紹介しています。その裁判は、「保育所がなく、仕事に復帰できなかった親が所得の賠償を求めたものです。その判決は、ドイツは法律で、保育機会を子に与えるよう自治体に義務づけられているということで、「財政難という理由では保育所設置の義務を免れない」という判決でした。

道徳のかけがえのない部分

  心理学者のメラニー・キレンとアダム・ラットランドは、3歳半の子どもたちに、大人のいない部屋で遊ばせ、そのやり取りを記録しました。そこから見えてきたことは、子どもたちは道徳的説得のプロセスを完全に身につけていたということでした。子どもたちはお互いに尊重し合い、客観的な理由を説明して、それに従ったのです。そして、子どもたちの説明はかなり高度だったのです。平均的な哲学の講義よりも高度なのは、歌で説得したり、脅かしてみたりしたのです。しかし、子どもたちは公平の原理に訴えてもいたのです。自分の欲求や好みを口にするだけではなく、どうすれば「公平」であるかを主張していたのです。また、順番に使うという原理にも訴えていたのです。

この子どもたちの言い争いが、その例のような結末を迎えるとは限りません。公平な提案ではなく、独り占めしておく別の理由を主張したかもしれないと言うのです。ひょっとすると、こうした理由のどれかが、公平な分配の原理を覆して、他の子を説得したかもしれないのです。論理的思考は、私たちを思いがけない方向へ進んでいく場合もあるからです。

ひとたび公平の原理に傾倒すれば、公平の原理が私利私欲に勝利する場合もあるといます。正しいと感じることを行なうために犠牲を払うのです。まさにこれを、身をもって示したのが、ユダヤ人を虐殺から救うためにすべてを投げ打ったオスカー・シンドラーであり、ハンフリー・ボガード演じる「カサブランカ」のリック・ブレインだとブルームは例を挙げています。ちょうど今日の新聞に、シンドラーがユダヤ人のために作った工場が、政府によって歴史文化保護地区に指定されたという記事が掲載されていました。また、「カサブランカ」という映画は、ずいぶんと懐かしい映画ですね。ブルームはよく映画を観ているようで、こんなシーンを思い出しています。映画の終わりで、リックは恋人のイルサ・ラントに、なぜ夫と去らなくてはならないのか、自分を置いていかなくてはならないのかを説明します。リックは、自分の説明に説得力を与えるために、道徳の公平性について熱く語るのです。「なあ、俺はたいした人間じゃない。だが、このいかれた世の中で、3人のちっぽけな人間の問題なんて取るに足りないってことはすぐわかる」

ブルームは、このリックの言葉からもう一度「人間は情念の奴隷である」ということを考えています。すなわち、私たちの道徳的判断や道徳的行為は、自分がまったく自覚していない、意識のコントロールの及ばない、神経メカニズムの所産であるという、徐々に市民権を得つつある見方を考えてみようとしています。人間の道徳的本性に対するこうした見方が真実であるのなら、進んで受け入れなければならないと言います。しかし、これは真実ではないと言います。なぜなら、日常の経験にも、歴史にも、そして発達心理学という科学にも否定されているからだというのです。

正しくは、私たちの道徳感は、二つの部分から成り立っていると彼は考えています。道徳は、私たちに生まれつき備わっている部分から始まっているからだと言います。そしてそれは、目を見張るばかりに豊かでもあるのです。赤ちゃんは道徳的な生き物だということは明らかになっています。進化のおかげで、他者に共感し、他者を思いやることができます。他者尾行動を評価することもできます。正義と公平も少しは理解しています。しかし、私たちは、単なる赤ちゃんを超えた存在なのです。私たちの道徳のかけがいのない部分、私たちを人間たらしめているものの多くは、人類の歴史と、個人の発達の過程で現われます。それは、私たちの思いやり、想像力、そして、合理的思考を可能にするたぐいまれなる能力の産物であると結論しています。

共感と理性

 共感を働かせれば、私たちは、つまるところ自分は特別ではないと気づくのです。それが、公平性の原理の概念を支え、私たちを、これからも他者の身になろうと動機付けることになるのだとブルームは考えています。では、共感と理性はどう連携しているのでしょうか?ブルームは、その例として、心理学者のマーティン・ホフマンが「誘導」と呼んだ親の行動を考えてみています。親は、子どもが誰かに害を加えたり、害を加えようとしたりすると、「あなたが歩道に雪を投げたら、誰かがもう一度片付けなくてはならないでしょう」とか、「あの子は自分のタワーを自慢していたのに、あなたが壊してしまったから、がっかりしているのよ」といったことを言って、子どもに被害者の視点に立つように促します。ホフマンの見積もりによれば、子どもは2歳から10歳までの間、1年でおよそ4000回の誘導を受けると言っています。これは、共感の促しであり、子どもたちに他者の視点に立つ習慣を身につけさせようとする試みだというのです。しかし同時に、子どもに向かって何度も「あなたは道徳的に特別な存在ではない」と念を押してもいるのだというのです。

 この辺りも最近の傾向に対して心配なケースを見ることがあります。子どもを愛するということを、子どもに向かって「あなたは、特別な存在よ」ということを思うべきであると言われることがあります。これは、確かなことで、子どもにとって、自分は親から特別な存在であると受け入れられていると感じることは情緒が安定するためには重要なことです。しかし、それは、社会に対してある特権を持っているということではありません。「あなたは道徳的に特別な存在ではない」という言葉は、子どもを愛しているのであれば、常に念をおす必要があるのです。そして、子どもに対して、他者の視点に立つ習慣を身につける必要があるのです。それが、共感の促しであり、社会の一員となるために必要なことなのです。しかし、最近、世界の中で、シティズンシップということが教育の中で取り上げられてきているのは、ホフマンの言う、親としての当然である子どもとの関わりが、失われてきたということなのでしょう。

 さらに、幼い子どもは、道徳的な主張を受動的に受け止めるばかりではないと言います。自らこうした主張を行なうこともできるというのです。そんなとき、私たちは、人類の祖先が、自分の行為を正当化するために、合理的説明に訴える必要に迫られたであろう状況の再現場面を目にすることができます。心理学者のメラニー・キレンとアダム・ラットランドは、3歳半の子どもたちに、大人のいない部屋で遊ばせ、そのやり取りを記録しました。子どもたちは道徳的説得のプロセスを完全に身につけていたことがわかったのです。

 子どもの会話のやり取りからわかったように、幼い子どもは、資源を分けるようにと言われると、出し惜しみをします。他人については公平な分配の原理を支持しますが、いざ自分の資源を分配する立場に置かれると、いちばん大きな分け前を取っておこうとします。しかし、実際の子どもたちの会話を聞いていると、そのやり取りはそれほどケチケチしているようには見えないことが多いようです。子どもたちはお互いに尊重し合います。そうしなければならない、というのは大きな理由だと言います。シンガーの仮説に登場する遠い昔の先祖と同じく、「私はそうしたいんだ」では、済まされなのだと言うのです。子どもたちは、客観的な理由を説明して、それに従わなくてはならないのです。