真のうそ

「うそ」とは何であるかということに対して、このような発話はどうでしょうか?「学校でテストの結果が戻ってきましたが、D君はすごく悪い点で、恥ずかしくなりました。家に戻るとお母さんから『テスト、どうだった?』と聞かれたので、D君は『うん、とても良かったよ』と言いました。」この場合のD君の発言に対しては、多くの人は「D君は、うそをついている」と思うでしょう。それは、この場合、発言が事実と違うだけでなく、D君自身が「発言が事実と違う」ことも知っていて、それをお母さんに信じさせようとして言っています。つまり、真のうそと呼ぶには、「発言が事実と違う」だけでなく、「発言が事実と違うことを自分は知っていて」、「相手に『自分の発言は本当だ』と思わせようという意図がある」という三つが揃う必要があるのだと林は言います。

子どもの「うそ」を最初に研究したとされるのは、シュテルン夫妻だそうです。実に1世紀以上も前のことです。彼らは、うそを二つに大別して考えているそうです。ひとつは、「欺く意図のある虚偽の発言」と定義し、「真のうそ」としました。もうひとつは、空想による虚偽や問い詰められたときのとっさの否認などで、「見かけのうそ」と考えたのです。そのように子どものうそを二つに区別していった結果、真のうそは4歳頃から見られる一方、見かけのうそはもっと年少から見られると報告しているそうです。これは、現在知られている知見と大きなズレはないそうです。

その後、ピアジェは、道徳的判断の研究の中で、うその発達に着目しています。正確に言うと、うその理解の発達に着目したのです。そして、誇張や過失などさまざまな組み合わせによる二つのお話を子どもに比較させる研究をしているそうです。

具体的には、次のような話だそうです。一つ目は、町を歩いているときに犬に出くわして恐怖を感じた男の子が家に帰り、母親に「牛みたいに大きな犬を見た」と言う、という話です。二つ目は、学校から家に帰ってきた男の子が、実際はその日にテストを返してもらった事実は何もないのに、母親に「先生が良い点をくれた」と言ってご褒美をもらったという話です。「どちらの男の子のほうが悪いか」を子どもに聞いてみると、7歳くらいまでは、話に登場する男の子の意図を考慮せず、発言の内容が現実から離れているほど悪いと判断したそうです。このように「牛みたいな犬を見た」といったあり得ない誇張や、あるいは単にできごとを誤認していただけでも、事実とは異なる発言は、子どもにとって、うそと判断されるとピアジェは報告しているそうです。

こうした知見は、ウィマーらの次の話を使った研究からも追認されているそうです。兄である男の子がチョコレートを青い棚に入れて出かけた後に、妹からチョコレートの置き場所を聞かれます。チョコレートを妹に食べてもらいたいと思っている男の子は、「青い箱」と答えますが、実は男の子が出かけた間に母親がチョコレートを青い棚から緑の棚に移していました。男の子には妹を欺く意図がないにもかかわらず、結果的に事実と違う情報を妹に伝えたことになるのですが、4~6歳の幼児の多くは、このような場合もうそと判断したそうです。しかし、男の子の意図や道徳的判断について、幼児の多くは正確に理解していたそうです。この話との比較として、男の子がチョコレートを独り占めしようとして、「緑の棚」と答えたとしたら、それは、結果的に正しい情報を伝えていたけれども、妹を欺こうとしたことになるのですが、その場合のほうが意地悪だと判断できたそうです。

社会的な発達

 人の発達は右肩上がりにあるのではなく、らせん状に上がっていくものであると言う人がいます。私の考える発達観は少し違うのですが、人の考え、理解は、らせん状により深く理解していくものだと思っています。それは、同じことを繰り返しながら、しかし、そこにまた新しい知見が加わり、よりその理解が深まっていくものだと思っています。ということで、子ども理解や、赤ちゃんの理解は、同じことをこのブログの中で繰り返しながら、少し違う観点、また違う研究者によっての知見を理解することで、より深まっていきます。そして、私からそれを読み進めることで、理論、考え方がどうも実際の園での子どもの姿、子どもの発達、子どもの行為と違和感を感じていたものだ、新しい知見によって、少しずつ納得のいくものに変わっていくことを実感しています。

 特に、園では、子ども集団があり、子どもたちはその集団の中の一員として存在しています。その姿は、母子における姿とは違っていることがあります。それは、発達における発現の時期は、ずいぶんと違っている気がします。それは、人はまねをすることで学習するという特性によるもので、まねる相手がいるかどうかで違ってきます。また、人は他人を意識し、負けまいとする気持ちが赤ちゃんの頃からあります。ですから、近くに他の子がいる場合と、一人で遊んでいるときとは、その行為が違うだけでなく、発達にたいしての刺激が違う気がします。

 それ以上に大きく違うのは、人との関わりにおいてです。幼児期における学びの基礎力の育成において重要であるものとして、幼児が人やものに興味をもち、かかわる中で様々なことに気付くとともに、それらを深め、広げていく過程の中で、自己発揮と自己抑制を調整する力を育むことであり、それらを通じて、個人として、また社会の構成員としての自立への基礎を養うこととあります。ということで、環境として大切なものが、興味を持ち、関わることのできるもの、人が必要なのです。その関わる人が、母親である場合と、子ども集団の中の一員として保育者と関わる場合とは違ってきます。

 それが、長い間、母子のかかわりを、保育者との関わりに当てはめ、そのモデルに近づこうとしてきました。そうであれば、当然母子の関係のように、子どもと保育者との関係を11に近づこうとします。そして、できるだけ子どもの視界の中に他の子どもが入らないようなかかわりをしようとします。特に、子ども同士がまだ関わらないように見える乳児において、それにこだわろうとします。それにまして、「乳児は未熟な存在である」とか「さまざまな刺激を大人から与えなければならない」ということで乳児と関わろうとしてきました。昨日までのブログで紹介したように、最近の赤ちゃん観は、ずいぶんと変わってきています。それに対して、研究はずいぶんと遅れているようですが、子ども集団における発達や関わり、特に乳児、未満児における集団の中での発達や関わりには、母子には見られない特性があるような気がしています。

 そういう意味では、もう一度私たちは、子どもの社会的発達を見ていく必要がある気がしています。その内容は、このブログではかなり前から取り上げてきました。早い時期から「ミラーニューロン」について、201111月頃には、「心の理論」について、20126月頃には、「社会脳」について取り上げてきました。このあたりのことは、最近の研究ではどのように捉えられているのでしょうか?

赤ちゃん研究

 赤ちゃんの研究は、日々新しい知見を提供してくれます。同時に、過去からの通念を覆すような見解も発表されています。発達心理学者であるポール・ブルームによる一昨年発刊された「ジャスト・ベイビー:赤ちゃんが教えてくれる善悪の起源」では、「赤ちゃんは自己中心的で、両親や環境から社会性や道徳を学んでいく」長年信じられてきたこの通念に、真っ向から反対し、赤ちゃんは既に善悪を判断する能力を持っているということを説いています。そして、道徳、差別、嫌悪感など、さまざまな問題を提起すると同時に、よりよい社会をつくるために私たちに何が必要かを提言しています。

 この本は、彼が2007年から2008年にかけてジョンズ・ホプキンス大学で行なった連続講義をまとめたものです。その講義の主題は、「宗教の認知科学」だそうなので、後半はずいぶんと宗教について書かれてあったので違和感を感じたのは無理ないことだっとのです。その後、彼は間を少し開けて2010年に、「赤ちゃんの道徳生活」という記事をニューヨーク・タイムズ・マガジンに発表しました。そこで、2011年には、イエール大学での連続講義シリーズで、「日常生活の道徳」というテーマで講演をしたそうです。

 このような経緯の中で書かれた本書の中で、彼は、道徳についてさまざまな実験や観察、いろいろな人の研究などを参照しながら説明していっています。そして、その根拠として、進化生物学と文化人類学などを通して考察しています。それは、私にとって、とても興味深いものです。そして、私が考える「人類の進化の中で、生存戦略として淘汰されて来たものが、道徳であると思うのです。そして、この意識の中で―それは無意識であるかもしれませんが―子育て、保育をすることが道徳を継承することになっていると思うのです。」というところにつながります。それは、ブルームが本書の中で、私たちの天性の資質には以下のようなものがあると言っています。

 まず、「道徳感」ですが、人の行動の中で、親切な行為と残酷な行為がありますが、これを識別する能力であるともいえます。どうしてそのような能力が必要であるかというと、当然ですが、親切な行為は、私たちの遺伝子を子孫に繋ぐ行為であり、残酷な行為は、私たちの遺伝子を途切れさせていく行為だからでしょう。

 5日の朝日新聞に、「我々はどこから来て、どこへ向かうのか」シリーズの中で、未来の日本国家を構想したユニークな憲法草案を紹介しています。批評家の東浩紀氏が中心になって2012年に発表した「新日本国憲法ゲンロン草案」です。その前文に「日本は繁栄する国でなければならない」と書かれてあるそうです。そこで、記者は、「繁栄とは何だろうか」と東氏に尋ねたところ、彼は即答したそうです。「繁栄とは子どもを産んで育てられることです。」と答えたのです。

 「今後の世界で何がポジティブな目標になるか。思いついたのは、次世代が生み出されることぐらいでした。次の世代に未来が手渡されること。つまり繁栄です。」と答えたそうです。その記事の中で、日本でも注目を浴びた、昨年10月にドイツの最高裁に当たる連邦通常裁判所が出した判決を紹介しています。その裁判は、「保育所がなく、仕事に復帰できなかった親が所得の賠償を求めたものです。その判決は、ドイツは法律で、保育機会を子に与えるよう自治体に義務づけられているということで、「財政難という理由では保育所設置の義務を免れない」という判決でした。

道徳のかけがえのない部分

  心理学者のメラニー・キレンとアダム・ラットランドは、3歳半の子どもたちに、大人のいない部屋で遊ばせ、そのやり取りを記録しました。そこから見えてきたことは、子どもたちは道徳的説得のプロセスを完全に身につけていたということでした。子どもたちはお互いに尊重し合い、客観的な理由を説明して、それに従ったのです。そして、子どもたちの説明はかなり高度だったのです。平均的な哲学の講義よりも高度なのは、歌で説得したり、脅かしてみたりしたのです。しかし、子どもたちは公平の原理に訴えてもいたのです。自分の欲求や好みを口にするだけではなく、どうすれば「公平」であるかを主張していたのです。また、順番に使うという原理にも訴えていたのです。

この子どもたちの言い争いが、その例のような結末を迎えるとは限りません。公平な提案ではなく、独り占めしておく別の理由を主張したかもしれないと言うのです。ひょっとすると、こうした理由のどれかが、公平な分配の原理を覆して、他の子を説得したかもしれないのです。論理的思考は、私たちを思いがけない方向へ進んでいく場合もあるからです。

ひとたび公平の原理に傾倒すれば、公平の原理が私利私欲に勝利する場合もあるといます。正しいと感じることを行なうために犠牲を払うのです。まさにこれを、身をもって示したのが、ユダヤ人を虐殺から救うためにすべてを投げ打ったオスカー・シンドラーであり、ハンフリー・ボガード演じる「カサブランカ」のリック・ブレインだとブルームは例を挙げています。ちょうど今日の新聞に、シンドラーがユダヤ人のために作った工場が、政府によって歴史文化保護地区に指定されたという記事が掲載されていました。また、「カサブランカ」という映画は、ずいぶんと懐かしい映画ですね。ブルームはよく映画を観ているようで、こんなシーンを思い出しています。映画の終わりで、リックは恋人のイルサ・ラントに、なぜ夫と去らなくてはならないのか、自分を置いていかなくてはならないのかを説明します。リックは、自分の説明に説得力を与えるために、道徳の公平性について熱く語るのです。「なあ、俺はたいした人間じゃない。だが、このいかれた世の中で、3人のちっぽけな人間の問題なんて取るに足りないってことはすぐわかる」

ブルームは、このリックの言葉からもう一度「人間は情念の奴隷である」ということを考えています。すなわち、私たちの道徳的判断や道徳的行為は、自分がまったく自覚していない、意識のコントロールの及ばない、神経メカニズムの所産であるという、徐々に市民権を得つつある見方を考えてみようとしています。人間の道徳的本性に対するこうした見方が真実であるのなら、進んで受け入れなければならないと言います。しかし、これは真実ではないと言います。なぜなら、日常の経験にも、歴史にも、そして発達心理学という科学にも否定されているからだというのです。

正しくは、私たちの道徳感は、二つの部分から成り立っていると彼は考えています。道徳は、私たちに生まれつき備わっている部分から始まっているからだと言います。そしてそれは、目を見張るばかりに豊かでもあるのです。赤ちゃんは道徳的な生き物だということは明らかになっています。進化のおかげで、他者に共感し、他者を思いやることができます。他者尾行動を評価することもできます。正義と公平も少しは理解しています。しかし、私たちは、単なる赤ちゃんを超えた存在なのです。私たちの道徳のかけがいのない部分、私たちを人間たらしめているものの多くは、人類の歴史と、個人の発達の過程で現われます。それは、私たちの思いやり、想像力、そして、合理的思考を可能にするたぐいまれなる能力の産物であると結論しています。

共感と理性

 共感を働かせれば、私たちは、つまるところ自分は特別ではないと気づくのです。それが、公平性の原理の概念を支え、私たちを、これからも他者の身になろうと動機付けることになるのだとブルームは考えています。では、共感と理性はどう連携しているのでしょうか?ブルームは、その例として、心理学者のマーティン・ホフマンが「誘導」と呼んだ親の行動を考えてみています。親は、子どもが誰かに害を加えたり、害を加えようとしたりすると、「あなたが歩道に雪を投げたら、誰かがもう一度片付けなくてはならないでしょう」とか、「あの子は自分のタワーを自慢していたのに、あなたが壊してしまったから、がっかりしているのよ」といったことを言って、子どもに被害者の視点に立つように促します。ホフマンの見積もりによれば、子どもは2歳から10歳までの間、1年でおよそ4000回の誘導を受けると言っています。これは、共感の促しであり、子どもたちに他者の視点に立つ習慣を身につけさせようとする試みだというのです。しかし同時に、子どもに向かって何度も「あなたは道徳的に特別な存在ではない」と念を押してもいるのだというのです。

 この辺りも最近の傾向に対して心配なケースを見ることがあります。子どもを愛するということを、子どもに向かって「あなたは、特別な存在よ」ということを思うべきであると言われることがあります。これは、確かなことで、子どもにとって、自分は親から特別な存在であると受け入れられていると感じることは情緒が安定するためには重要なことです。しかし、それは、社会に対してある特権を持っているということではありません。「あなたは道徳的に特別な存在ではない」という言葉は、子どもを愛しているのであれば、常に念をおす必要があるのです。そして、子どもに対して、他者の視点に立つ習慣を身につける必要があるのです。それが、共感の促しであり、社会の一員となるために必要なことなのです。しかし、最近、世界の中で、シティズンシップということが教育の中で取り上げられてきているのは、ホフマンの言う、親としての当然である子どもとの関わりが、失われてきたということなのでしょう。

 さらに、幼い子どもは、道徳的な主張を受動的に受け止めるばかりではないと言います。自らこうした主張を行なうこともできるというのです。そんなとき、私たちは、人類の祖先が、自分の行為を正当化するために、合理的説明に訴える必要に迫られたであろう状況の再現場面を目にすることができます。心理学者のメラニー・キレンとアダム・ラットランドは、3歳半の子どもたちに、大人のいない部屋で遊ばせ、そのやり取りを記録しました。子どもたちは道徳的説得のプロセスを完全に身につけていたことがわかったのです。

 子どもの会話のやり取りからわかったように、幼い子どもは、資源を分けるようにと言われると、出し惜しみをします。他人については公平な分配の原理を支持しますが、いざ自分の資源を分配する立場に置かれると、いちばん大きな分け前を取っておこうとします。しかし、実際の子どもたちの会話を聞いていると、そのやり取りはそれほどケチケチしているようには見えないことが多いようです。子どもたちはお互いに尊重し合います。そうしなければならない、というのは大きな理由だと言います。シンガーの仮説に登場する遠い昔の先祖と同じく、「私はそうしたいんだ」では、済まされなのだと言うのです。子どもたちは、客観的な理由を説明して、それに従わなくてはならないのです。

 

公平性と共感

 ピンカーは、「なぜ、自分に危害を加えるべきでないか、という理由に訴えて、相手を思いとどまらせようとすれば、ただちに、共通目的として危害の回避への同意に巻き込まれる」とコメントしています。このように、私たちが注目しているのは、危害という特殊なケースですが、この論理はもっと一般的なケースにもあてはめられるとブルームは言います。大型動物の狩りや子ども養育の分担といった企てにおいて、協力の恩恵に浴するには、行動を連携させる必要があると言うのです。より大きな善のために犠牲を払わなくてはならない人も出てくるだろうと言います。これを成功させるには、共同体内部で公平に適応される報酬と罰のシステムが必要だと言います。

 ここで、ブルームは、協力の恩恵に浴するものとして、「大型動物の狩り」と同時に「子どもの養育の分担」という企てを例に出していますが、これは、とても重要な気がします。それは、子育ては、まず共同体で分担をしてきたということです。子育てというのは、協力という体制の中で行なわれてきた営みなのです。そのために、道徳が必要だったのです。それは、子育ては、人類にとって「大きな善」であるので、多くのものに優先されるべきものだからです。その子育てという人類にとっての大きな善が、母親という個人の役割に狭められてきています。それが、もしかしたら、道徳の意識の低下を生んでしまっている要因の一つかもしれません。もっと、社会の中での営みとして捉え直す必要があると思います。そういう意味で言うと、保育園の設立を地域が排除するという意識は、道徳の低下を表わしている気がします。どう、共生していけるかを一緒に考える必要があるのでしょう。

さらに、公平性が必要なことがもっと明白になるのは、食べ物など、財の分配の場面だとブルームは言います。この考え方も、参考になります。彼は、こう言います。もし誰かが全部を取ろうとして「私はこれが欲しいんだ!」と叫べば、戦いになると言います。そして、みんなが痛い思いをします。しかし、「私は公平な分け前がほしい」とか、「私は人より働いたのだから、人より多くほしい」という発言は、合理的な人には理解できます。こうした基準は、原則として、全員に適応されるからだとブルームは言います。

この説明によると、公平性は、合理的で利己的な人間の行動を連携させるという問題への、合理的な解決策として生まれます。しかし、共感も役立っているのかもしれないと言います。相手の立場に立てば、自分の欲望だけが特別でないことはすぐにわかると言います。傷つけられたくないのは自分だけではないからです。あの人も、この人も、傷つけられたくないのは同じなのです。これは、誰も傷つけられたくないという一般化の土台となり、そしてさらに、もっと広い危害の禁止を裏付けているのです。共感と公平性は、多くの場面で、互いに補強し合います。共感を働かせれば、私たちは、つまるところ自分は特別ではないと気づくのです。それが、公平性の原理の概念を支え、私たちを、これからも他者の身になろうと動機付けることになるのだとブルームは考えています。

どうも、最近のトラブルや、苦情、寛容性の欠如など、様々な問題は、この共感と公平性に欠けていることに原因があるのではないかという気がしています。それが、道徳意識の低下をもたらしているとしたら、子どもたちにあらためて道徳を教科化するよりも、大人、年配者も、もう一度道徳を考えた方がいいかもしれないということを思ってしまうのです。

不易としての道徳

 あけまして、おめでとうございます。今年もよろしくお願いします。人類が誕生以来、何回正月を迎えたのでしょう。と言っても、正月という概念ができたのは年中行事の中では古いと言われていますが、それでも人類の誕生から見るとほんの最近のことでしょう。そんなに長い間、人類は生き延びてきたのです。もし、人類の遺伝子の中に、人類が滅びる要素が生まれたときには、その遺伝子を持った民族は滅びていき、生存しようとする遺伝子だけが今の私たちにつながってきているのでしょう。

 それが心の中に無意識に芽生え、行動に表れるのが、道徳かもしれません。ですから、他者の遺伝子を途絶えさせるような道徳は、時代によって意識的に作られた価値観であり、本来の道徳とは言えないものでしょう。それが「貢献」という理念につながります。だからと言って、必ずしも遺伝子をただ子孫に残すとか、将来のためにというだけでなく、今存在するそれぞれの遺伝子を大切にするという行為も含まれると思います。それは、私たちは社会という共同体を作って生存してきたからです。それが「共生」という概念なのです。ということで、そのような道徳は、いつの時代でも、どの宗教観によっても変わることはないのです。

 ブルームは、いろいろな人の言葉を引用しています。キリストが言った「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい」という言葉も、ユダヤ教の指導者ラビ・ヒレルは、「自分がされたくないことを隣人にしてはいけない。それがトーラーのすべてであり、残りはその注釈である」と言っているそうです。孔子は、徳を一言で何というかと尋ねられ、「それ恕か。おのれの欲せざるところは人に施すことなかれ」と答えています。イマヌエル・カントは、道徳の核心を、「何時の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理となるべく行為せよ」としました。アダム・スミスは、道徳的判断の試金石として、公平な観察者の判断に訴えました。ジェレミー・ベンサムは、道徳の領域においては、「各人を一として数え、誰も一以上ではない」と主張しました。ジョン・ロールズは、公平で正しい社会について熟考するときは、無知のヴェールをかぶった状態を、すなわち、自分の能力や立場に関する知識を持たない状況を想像するべきであると提言しています。ヘンリー・シジウィックは、「一個人の善は、宇宙の視点からすれば、他の個人の善よりも重要性において優ることはない」と記しています。

 シンガーは、公平性の論理は、人類史の過程で、自分以外の理屈が通じる相手に、自分の行為の正当性を説明する必要から生じた発見だと言っているそうです。誰かを殴った理由が、たんに「そうしたかったから」なら、あなたの楽しみが他者の苦しみに優先してもかまわないほど、特別だというのか?と言うのです。しかし、「やつが先に私を殴ったから」とか、「やつが私の食べ物を盗んだから」と言うなら、現実的な言い訳にはなります。誰だって同じ状況に置かれれば、あなたを殴った相手も含めて、同じことをしたかもしれないのです。

 シンガーは満足げにニュームの言葉を引用しているそうです。それによると、正当な弁明を行なうものは、「個人的で特殊な状況を離れ、自分にも他人にも共通の視点を選ばなくてはならない」と言います。これが、理由を伝えるという行為の意味だというのです。シンガーの発言に対して、ピンカーが、「なぜ、自分に危害を加えるべきでないか、という理由に訴えて、相手を思いとどまらせようとすれば、ただちに、共通目的として危害の回避への同意に巻き込まれる」とコメントしています。

身近な問題

道徳について、私が国民性によって少し違和感を感じるのは、中絶や死刑といった道徳や政治上の大問題に関してです。しかし、道徳と言っても、多くは、身近な問題についてであり、日常の道徳的ジレンマを議論することが多いのです。それは、道徳というように構えないで、単に何が正しい行為かについて考えることも含まれるのです。すると、国民性によって違和感を感じるよりも、人類という大きな輪の中で共通なものが見えてきます。しかし、多くの心理学者は、これらの道徳をめぐる熟慮を見逃すことが多いとブルームは指摘します。一つには、みんなの受けがいいのは、直感に反する発見だからだと彼は言います。説明するのが難しい道徳的直感が人間に備わっているという発見は、刺激的なだけでなく、一流の科学雑誌にも掲載してもらえるというのです。飲酒運転は間違っているといった、簡単に説明のつく道徳的直感が人間に備わっていることを発見しても、あたりまえで、面白くないし、雑誌にも取り上げてもらえません。

犯罪者の刑罰を決める立場にある人の判断が、たとえば、部屋に国旗が飾ってあったというような、本人が意識していない要因や、たとえば、犯人の肌の色などのような、意識的に否定するであろう要因に影響されているという発見は人を惹きつけますが、刑罰の軽重が、犯罪の深刻さや犯罪者の前科などの合理的な判断材料に影響されるという発見は、退屈であるとブルームは言います。「焼きたてのパンの匂いがしたら、人助けの意欲が高まります」という研究は面白いですが、「過去に親切にしてくれた人には、助けようとする意欲が高まる」という研究結果は、あまり面白くないと彼は言います。

私たちはときおり、活字にされるものにこうした偏りがあることを忘れて、科学雑誌や大衆紙に掲載されたものを、心の働きの最良の知識を正確に反映していると考えてしまいがちであるとブルームは指摘しています。しかし、それは、夜のニュースを見て、レイプや強盗や殺人が、すべての人にとって日常的なできごとだと思い込むようなものだとブルームは言うのです。実は、夜のニュースでは、この手の事件がいっさい起きない圧倒的多数の事例は、報じないことを忘れているのです。

論理的思考力が芽生えるには時間がかかるとブルームは言います。そのため、赤ちゃんの道徳生活に限界があるのはしかたないと考えられます。赤ちゃんにも、私たちのような性向や感情はあります。赤ちゃんは、苦しんでいる他者をなだめようとします。そんな姿は、私たち現場ではよく見る光景です残酷な行為に怒りを感じる、悪さをする者を罰する者を好むということもわかっています。しかし、赤ちゃんには足りないものも多いのです。とりわけ公平という道徳原理、すなわち、共同体の全員に平等に適用される禁止と要求、そんなものは理解していないようです。

こうした原理が、方と正義のシステムの根幹にあるとブルームは考えています。ピーター・シンガーは、公平性の概念はどの宗教、どの道徳哲学でも明文化されていると指摘しているそうです。これは、さまざまな黄金律の形で表わされているそうです。たとえば、キリストは「人としてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい」と命じているとブルームは言いますが、私も小さい頃からこんなことを言われて育った気がします。

論理的思考

ブルームは、多くの道徳的直感は説明ができると言います。そして、こうした論理的思考こそが、現実世界に変化をもたらすと言います。これについては、公民権運動の最中にアメリカ南部で、黒人と白人の子どもたちが味わった苦難を研究したロバート・コールズや、中絶するかどうかを決めようとしている若い女性にインタビューしたキャロル・ギリガンら、多数の研究に詳しくあるそうです。これらを含めて、道徳についての考察に対する宗教などの論理的思考を見ると、多分に国民性が影響している気がします。これらの研究は、私たちにもとても参考になりますが、読み進めるに従って、常に日本では、どうなのかを考えてしまう部分が多くあります。しかし、その違和感こそが、私は道徳について、ある意味、本質に関係する気がするのです。日本人が、道徳的問題を解決するために努力をしてきた例は、多分、彼らの研究と違う観点を持つであろうと思うのです。

それを踏まえて、アメリカでの研究を見てみると、そこには論理的思考が、周囲の意見と衝突する結論に、ときに人をどう駆り立てるのかを理解できるとブルームは言います。道徳的理由のために菜食主義者になった人たちが、なぜ、自分が菜食主義者になったかを、あるときは動物に加えられる危害を根拠にして、家畜に対して横行するサディズムや拷問に目が開かれた以上、動物を食べることは二度とありません。また、あるときは権利という言葉を使って、よどみなく理路整然と説明できることを明らかにした聞き取り調査もあるそうです。どのような権利という言葉を持ちいたかというと、公平に考えて、動物が、生きて、自分の生を享受する権利は、人間の、欲するものを手当たり次第に食べる「権利」に、優先されるべきだという考え方があるのです。心理学者のカレン・ハッサーとポール・ハリスは、菜食主義でない家庭に育ちながら、菜食主義者になった、6歳から10歳の48人の子どもを対象に、面接調査を行ない、子どもたちが全員、自分の決定を道徳的に説明できることを明らかにしたのです。

以前、私がインドに行ったときに、菜食主義者の多いことに驚きました。街の中のマクドナルドのハンバーガーショップにも、菜食主義者用のバーガーがありました。その点、日本人は、私から見ると道徳的意識が高く、動物も大切にする日本人でありながら、あまり菜食主義者には出会わないことを不思議に思っていました。その意識の違いから、よく海外と動物愛護について見解の相違を見ることがあります。特に、食はその国も文化ではあるのですが、どうして菜食主義に走らなかったのでしょう。たしかに、日本でもほ乳類の肉は食べませんでしたし、江戸時代生類憐れみの令が出されたときも、ほとんど道徳的動機はなかったように思います。

しかし、ブルームは、この種の熟考こそが人間の本質なのだと言います。子ども同士のやり取りを見ていて、生徒を罰するときに教師が意地悪ではなかったか、音楽を無料でダウンロードするのが正しいかといった日常の道徳的ジレンマを議論するときの熱心さに気づかない人はいないだろうと言います。言うまでもなく、大人も何が正しい行為かについて、1年中、反芻し、懸念し、議論していると言います。テーマは、中絶や死刑といった道徳や政治上の大問題ばかりではないといいます。アルコール依存症の同僚にどう接するべきか、借りたお金を返す気があきらかにない親戚にどう対処すべきか、原稿の締め切りを守らないのはどのくらい編集者に悪いか、といった身近な問題についても同様であるとブルームは言います。

理性と情念

ブルームは、理性を使って、道徳的発見を成し遂げてきたと考えています。しかし、こうした立場は、一部の人には奇異に思われるでしょうが、彼は、それは承知していると言います。確かにその考え方は、時代遅れだからです。直感や無意識の動機を重視し、合理的な熟慮を軽んじるのが、心理学や神経科学の今のトレンドだからです。政治・文化のコメンテーター、デヴィッド・ブルックスによれば、重要なのは冷静な理性ではなく、その下にある「情動、直感、バイアス、願望、遺伝的傾向、性格特性、社会規範」であり、心理学や神経科学は私たちに「純粋理性より情動、個人の選択より社会の絆、IQより性格が重要である」と言っています。

理性の凋落は、道徳心理学の分野で特に顕著だそうです。これに大きく貢献したのが、心理学者ジョナサン・ハイトの研究だそうです。ハイトは、2001年に発表した有名な論文で、「道徳的推論が、道徳的判断を導くのではない。むしろ、道徳的推論は、通常、判断が下された後で、後付けとして考え出される」と主張しているのです。ハイトによれば、道徳的直感が道徳的推論を促すのは、「イヌが尾を振るのと同じくらいたしか」なのだそうです。

理性がまったく無力だと主張する者はいません。ブルックスは、人は、ときには直感を覆すために知性を利用できると明言しているそうですし、ハイトは、一部の専門家、たとえば哲学の専門家などは、ときおり道徳的熟考を巡らすことを認めています。しかし、要は、理性は、道徳の舞台では端役に過ぎないということだそうです。この結論は、現代心理学と、道徳哲学の一大勢力、デヴィッド・ヒュームの「理性は、情念の奴隷であり、ただ奴隷であるべきである。つまり理性は、情念に付き従う以外の役目を申し立てることはできない」という言葉をスローガンとして掲げる一派を結びつけているそうです。

ヒュームの主張になにがしかの真実があるのは、ブルームは認めています。思いやりが最初に湧き上がらなければ、そもそも人間が道徳的存在になれるはずがないからです。さらに、私たちの道徳的判断の中には、あきらかに、理性の結果でないものもあります。そしてハイトが言うように、こうした判断に対する説明は後付けにすぎない場合も多いと言います。さらに、私たちが自覚さえしないうちに、多くの要因が判断や行動に影響を与えていると言います。手を洗えば、道徳にやかましくなります。散らかった部屋を見たり、おならスプレーを嗅いだりしても同様です。香ばしいパンの匂いが漂っていたり、小銭を拾ったりすると、人助けをしようという意欲が高まります。

しかし、これらはいずれも、理性が無関係であることを示してはいないとブルームは言います。何はともあれ、多くの道徳的直感は説明ができます。なぜ飲酒運転がいけないのか、松葉杖をついている人のためにドアを開けておくのがよいことなのか、などについて聞かれても、言葉に詰まる人はいません。人に向かって怒鳴るより、人を殺す方が悪いのはなぜか、雇用主が、白人従業員より黒人従業員の給料を安くしようとするのが間違っているのはなぜか、そう聞かれて、答えに窮する人はいません。こういった問題について、例えば子どもから質問されたら、危害、公正、平等に関する懸念に触れれば、筋の通った説明はできるとブルームは言っているのです。