母親ことば

 人間の母親は、赤ちゃんに聞かせる歌うような語りかけを行ないます。ディーン・フォークは、それは、言語の起源ではないかと考えています。それは、その言葉には赤ちゃんを落ち着かせる効果があるからです。しかし、それだけではなく、赤ちゃんの発達を後押しする効果もあることがわかってきました。ケンブリッジ大学で生物人類学専攻のポスドクだったリリー・モノットが、52組の母親と新生児を一年間観察したところ、母親ことばをたくさん聞いた赤ん坊ほど発育が速く、にっこり笑うといった発達の指標に順調に到達していたことがわかったそうです。ダンバーによると、これは、けっこう怖い話だと言います。

 サルや類人猿の場合、母親ことばのような声の調子で赤ん坊をなだめることはないそうですし、抱いて優しく揺らしたりもしないそうです。母親ことばは、ヒト独特の行動と思われるのですが、その始まりは容易に想像できると言います。歌うように話しかけることで、赤ん坊のむずかりがおさまります。健康な赤ん坊ほど機嫌が良いのです。となると、そこに淘汰圧が発生して、母親ことばが盛んに行なわれるようになるようです。しかし、どうしてヒトだけで、類人猿のいとこたちはやらないのでしょうか?

 その理由は、ヒトの赤ん坊が類人猿やサルに比べて、1年ほどで遅れているからだというのです。類人猿の赤ん坊は、すぐに自分の面倒をある程度見られるようになりますが、ヒトの赤ん坊はつきっきりで世話をしなくてはなりません。チンパンジーの新生児と同じレベルに追いつくには、一歳の誕生日を過ぎてからです。親の手を煩わせる期間が長く、世話も大変なので、赤ん坊をあやし、おとなしくさせておく手段がどうしても必要だったのではないかとダンバーは考えています。

 それをもとに、母親ことばが発達した時期も推測できると言います。脳の容量が劇的に増え、出産パターンが大きく変化した結果だとすれば、古代型ホモ・サピエンスが出現した50万年前頃と考えられると言います。音楽もほぼ同じ頃と考えていいだろうと言います。母親ことばは音楽の前身、さらに言うなら音楽と言葉の間の踏み台だったのかもしれないとダンバーは考えます。

 母親ことばは厳密には言葉ではないと言います。単語が含まれることも多いですが、不可欠ではなく、意味のない音節で事足りるのです。ねんねんころり……のようにリズムがあって語呂が良ければ充分なのです。そうした特徴からも、言葉が進化する前の先駆的な存在だったことがうかがわれると言います。歌詞のない歌唱やハミング、つまり純粋な音楽に近いかもしれないと言います。母親ことばと共通点が多いのが、アウターヘブリディーズ諸島の女たちに伝わるワーキングソングだというのです。

 台所のテーブルを囲み、織り上げたばかりのツイード生地を伸ばし、やわらかくしながら歌われる独特の歌唱で、これといって意味のないはやし声もあれば、貧困や厳しい労働、悲しい物語を背景にした、いささか卑俗な歌詞が歌われることもあるそうです。口承だけで受け継がれてきた貴重な伝統だと言います。言葉が最初に使われた状況も、こんな感じではなかったかとダンバーは想像しています。たき火を囲んで、あるいは果物を集めたり芋を掘ったりしながら、女たちが声を合わせていたのだろうと言うのです。合唱は、エンドルフィン放出の引き金になります。みんなで、声を一つにすれば、つらい仕事も楽になるのだというのです。

会話の男女差

 美容院や床屋さんに行くと、店員がいろいろと情報を与えてくれます。何となく、黙っていると気まずいのか、いろいろと話しかける店員が多いような気がします。しかし、客の中には少し黙っていて欲しいと思う人もいます。そこで、最近、やる前に「話しかけて欲しいか?話しかけて欲しくないか?」というアンケートを取る店があるようです。また、その会話の内容は男女で違うようです。

 ダンバーは、男女の好む話題が大きく異なるのは、そもそも参加しているゲームが違うからだと言います。注意深く聞けばそれはすぐわかると言います。女達の会話は、もっぱら社会的ネットワークのためにあるのだといいます。たえず変化する社会の中で、複雑な人間関係を構築し、維持していくためには会話が欠かせません。会話に参加できるということは、集団の一員として認められているからにほかならないし、それが誰かの最近動向を常に知っておくのも重要だと言います。雑談なんてとんでもありません。女のおしゃべりは社会という回転木馬の中心軸、社会そのものを支える基盤なのだとダンバーは考えています。

 これに対して男の会話は自己宣伝が大きな目的だと言います。男がしゃべるのは自分のことか、自分のよく知っている言葉からだというのです。オスクジャクの尾羽と同じであると言うのです。オスは、繁殖縄張りの中を行ったり来たりして、そこに入りこんできたメスに色鮮やかな尾羽を広げてディスプレイをします。メスはいろいろなオスの縄張りを訪れ、尾羽を比べて繁殖相手を決定するのです。

 ヒトのオスは、それを言葉でやっていると言うのです。男だけで話をしているときと、そこに女が加わったときで、会話を比べてみるといいと言います。メスが近づいた途端、尾羽をご開帳するオスクジャクのように、女がいると、男の話は突如自己宣伝モードになるというのです。内容だけでなく、話し方もこれみよがしになって、笑いを取ろうとがんばるのだと言います。しかし、知識をひけらかそうと、専門的な話ばかりされるのは正直うっとうしいとダンバーは言います。男の会話は、いわば政治ゲームで、ライバルを蹴落とし、自分という人間を売り出すのが目的だというのです。言葉は、まことに多面的な手段なのであると彼は言うのです。

 アメリカの人類学者ディーン・フォークは、母親が赤ん坊に聞かせる歌うような語りかけこそが、言葉の起源ではないかと指摘しているそうです。そうした独特の話法は、母親ことばと呼ばれ、幼児に話しかけるとき、特に女性は自然と口をついて出るというのです。母親ことばは、規則的なリズム、2オクターブの高低差を自在に行き来するイントネーション、ふつうの会話よりはるかに高いピッチが特徴で、音楽との共通点が多いと言います。赤ん坊に語りかける母親を見かけたら、その声に注意深く耳を傾けてみるように提案しています。その口調には、遙か遠い昔の響きがこだましているはずだと言います。赤ん坊の様子を観察することも忘れないようにと注意しています。母親の声が奏でるこの音楽は、赤ん坊にはとても魅力的らしいと言います。赤ん坊は、安心してにっこり笑い、母子の絆はいっそう強まるであろうというのです。これもまた、エンドルフィン・マジックなのだというのです。

 このような言葉がけを保育者は心がけるべきかもしれません。ベテランと言われる保育者は、自然とそれを行なっているのかもしれませんね。

自然な関わり

 アタッチメントの研究で有名な遠藤利彦氏の見解の中で、私が特に興味を持つのは、保育所におけるアタッチメントです。多くの場合、母子関係のアタッチメントの研究がされてきました。そして、保育所では、特に乳児において、母親の代わりとしての役目が強調されてきました。ですから、担任を母親代わりとして考え、母子関係のアタッチメントを当てはめてきました。しかし、保育所には、多くの子どもたちがいます。そして、保育士も複数います。このような集団状況では、家庭における母親などと同じように保育者が子どもに対して関わることが、必ずしも効果的であるとは限らないということが、最近言われてきているようです。

 私の園で、学童保育を行なっているときに、私は、「学童保育は、家庭の代わりではなく、学校と違う学びの場である」と言ってきました。よく学童保育は、家庭的であるべきであり、子どもたちは家に帰ってきたような雰囲気であるべきであると言われてきましたが、家庭には、こんなにも多くの子どもはいません。このような子ども集団がありません。ですから、学童クラブは、異年齢の子どもたちが、教科、時間割に基づかない、より自発的な活動による第2の教育の場として位置づけるべきであると考えていました。同じように、保育所は、子どもが複数存在する集団状況で、保育者も複数で子どもたちのケアをする場であり、親子のように二者関係でうまく機能するわけはないと思うのです。ということで、最近、保育者のケアは、親子のケアとは異質なものである可能性が指摘されているのです。

 親子関係のような文脈で重要になるのは、子ども個人の欲求に対する反応の素早さとその的確さという意味での敏感性です。それに対して、集団状況でより重要性を増すのは、子ども一人一人というよりは、集団がうまく楽しくまとまるよう気を配り、全体の活動を構造化し、子どものちょっとした過ちや粗相などには子どもがあまり萎縮しないで済むよう、できる限り許容的に振る舞うといった意味での敏感性ということがわかってきていると言うのです。

 こんな研究があります。保育者が母子関係におけるような二者関係的敏感性を備えていることと、その保育者と子どものアタッチメントの安定性が高くなることとの相関は、子どもの数が少ないときはそこそこ大きいのですが、子どもの数が多くなると、徐々にその相関が小さくなることがわかったのです。それに対して、集団状況に置ける集団的敏感性と、保育者と子どものアタッチメントの安定性との相関は、子どもの数が増えても、さして変化しないということがわかりました。こうしたことからうかがえることは、元来、複数の子どもを同時にケアせざるを得ない保育のような集団状況では、完全に母親の代わりになることが必ずしもいいとばかりは言えないということなのです。このような研究の結果から、遠藤氏は、保育の現場には、家庭とはまた違った形での、子どもとのアタッチメントのつくり方があってしかるべきなのかもしれないと分析しています。

 ここで遠藤氏が紹介した考え方は、世界各地行なわれてきた膨大な数のアタッチメント研究によって実証的に裏打ちされたものだそうです。そして、彼はこうまとめています。「私たち大人はつい、何か特別なことをできるだけたくさんしてあげることが子どもに対する豊かな愛情のように思いがちなのかもしれません。しかし、子どもの健やかな育ちには、むしろ、日々の生活の中での、それこそ安全感の輪のような、何気ないごく自然な関わりの積み重ねこそが、より大切なのだと言うことを強調して、この章を結ぶことにしたいと思います。」

新しい子ども観5

従来、発達心理学の領域では、子どものさまざまな側面の発達に対して、養育者の特性として、子どもの欲求や心の状態を適切に読み取ったうえで、確実に応答するという敏感性というものが重要であるということが仮定されてきました。それは、重要ですが、最近の発達心理学において、少し考え方が変わってきています。最近は、むしろこの敏感性よりも、「情緒的利用可能性」という考え方が強調されるようになってきているそうです。これは、どのようなことを意味するかというと、大人は子どもの状態を気に掛けて、その後ろをいつも心配してついて回るのではなく、どっしりと構え、子どもが求めてきたときに、「情緒的に利用可能」な存在であればいいということだと言うのです。そして、じつはこのことこそが、アタッチメントの基本原則とも言えるものだのだと遠藤氏は言います。

このことは、私は実際に赤ちゃんを観察していて、かなり昔から考えているものです。よく、人から「見守ると言っても、どこまで見ていて、どこから手を出してよいか、難しい」と言われます。そのときに、私は、「それは簡単なことです。子どもから求められたら、関わってあげればいいのです。例えば、抱っこ!と言われたら抱っこをしてあげるべきですが、一人で遊んでいるときに、後ろから抱き上げるようなことはしない方がいいです。」と答えています。そして、愛着とは、このように子どもが求めてきたときに、いつでも答えることのできる距離で見守っていることです。」と答えることにしています。

遠藤氏も、このように言っています。この情緒的利用可能性は、逆に言えば、特に必要とされないときは子どもの活動にあえて踏み込まない、専門的な言葉で言えば「侵害的でないこと」の重要性をも強調しています。もう少し、詳しくこの情緒的利用可能性という考え方について説明しています。この考え方は、もともと養育者個人の特性としてではなくて、養育者と子どもの関係の特質として提唱されているそうです。つまり、さまざまな違いを持った子どもに対して、養育者が適宜、それに合わせた関係を築けるかどうかということを強調するものなのだと言います。

もっと言えば、情緒的利用可能性という考え方は、養育者側の要因と子ども側の要因が絡み合って決まってくるものであり、たとえば、養育者側の要因には、敏感であることや侵害的でないこと、そして子ども側の要因としては応答的であることや養育者を相互作用に巻き込むことなどが想定されていると言います。たとえば、子どものほうが養育者を自分との相互作用に頻繁に巻き込もうとする状況では、それに積極的に応じてあげるということが親の行動としては適切であるということになるのです。ただ逆に、子どもが養育者を自分との相互作用にあまり巻き込まず、むしろ一人で自分の活動に熱中しているという場合には、養育者はあえてそこに踏み込まず、子どものこうした状態を温かく見守っているということのほうが、大切になるものと考えられると遠藤氏は言います。

このように、情緒的利用可能ということばは、ある意味、子どもを主体とした概念であり、子どもが求めてきたときに確実に応じられるということを養育者としての望ましい関わり方として仮定していると言います。そして、だからこそ逆に、特に必要とされていないときには、何もしない、侵害しない、そして子どもが一人でやっていることを背後から励まし促していく。これは、すなわち自律性の発達を促し、子どもの独り立ちを支えるものと言えるかと思っていると遠藤氏は言っています。

新しい子ども観4

 「原始歩行」ということは多くの保育者の知るところとなりました。その後、新生児から真似をするという「新生児模倣」という言葉を知りました。最近では、「生理的微笑」という、新生児期に赤ちゃんが自発的に笑っているということが知られてきました。それが、さらに超音波によって、胎児が笑っているような表情が見られることが明らかになっているそうです。それは、生まれてきたときに親に愛情を喚起するための方法を、準備している証拠ではないかと言われています。

 それ以外にも、新生児は甘い、苦い、酸っぱい味を区別することができ、味に合わせて大人と同じような表情をするとも言われています。こうしたさまざまな表情の多くは、胎児期にすでに準備されているということなのかもしれないと小西氏は言います。さらに、胎児の眼球や口唇の動きを観察することで、胎児の睡眠についての研究も可能となったそうです。レム睡眠とノンレム睡眠が胎児期にすでにあることも確認されているそうです。視聴覚、味覚あるいは触覚が胎児期にすでに機能していることはもはや常識となっており、胎児顔との弁別や母親の声を学習していることなどもわかりつつあるそうです。

 赤ちゃんは、「白紙状態で生まれる」わけでは無いことがわかってきたと言えるのです。

 このように、最近科学的に赤ちゃん研究が進み、育児、保育についての考え方が変わってきました。これらの情報は、どのように伝わっているのでしょうか?特に、ある時期の育児論は、否定されている部分が多くあります。しかし、昔ながらの思い込みや、経験に基づく育児法などがいまだに氾濫しているようです。それだけでなく、情緒的に、愛していればいいというような観念論的な育児を行なっている人も多く見かけます。それが、母親であれば、まだうなずけるのですが、専門性を要する保育者にみられるのは、どうしてでしょう。

 小西氏はこんなことを言っています。「そもそもヒトが生き残り戦略として集団を作ったことはよく知られていますが、その集団には弱い者の存在があったと思います。つまり、赤ちゃんや老人、あるいは障害を持っているがゆえに人の助けを借りなければならない人たち、その人たちこそ集団の核であろうと思います。弱い者を集団の中で育ててゆくことによってヒトの社会は成り立っているのです。」

 ほかにもさまざまな新しい知見が出されていますが、特に私が興味を持っているのが、乳児からの社会的な心の発達です。赤ちゃんは、まず母親との関係の中で社会を知っていきます。そのときのアタッチメントの重要なことは明らかです。しかし、その関係において、最近の知見が少し変わってきています。アタッチメントの研究で有名な遠藤利彦氏の考察にこんなことが書かれてありました。それは、子どもにとってのアタッチメントが、十分に機能的なものになるために、養育者あるいは子どもに関わる大人たちがどのようなことに気を配ればいいのかということの提案です。従来、発達心理学の領域では、子どものさまざまな側面の発達に対して、養育者の敏感性というものが重要であるということが仮定されてきました。この敏感性というものは、子どもの欲求や心の状態を適切に読み取ったうえで、確実に応答するという養育者の特性を指して言います。このこと自体が重要であるということは間違いありませんが、最近の発達心理学において、少し考え方が変わってきています。

新しい子ども観3

 ダーウィニズムは、遺伝子によって作られた粗い神経組織が、第一段階で、遺伝子によって神経細胞の細胞死は決まり、第2段階で、シナプスの刈り込みは、学習という過程によってより頻繁に使う回路は残され、そうでない回路は淘汰されるということを提唱しました。これは、使わないと回路が消失するということとは決定的に違うと小西氏は言います。常に選択という過程があり、どちらを選んで消したり、逆にさらに強化する過程が発達そのものだというのです。そのことは、あくまでも自発的な行動でなければならないということ、自分の意志によって行なわれる活動こそが学習であるということなのでしょう。

 このように、あらかじめシナプスを多めに用意しておき、不要になった段階で適当に刈り込み、回路を円滑に運営するというシステムは、人間の脳の発達にとって好ましいことだというのです。

 このことを踏まえ、早期教育肯定派の人は、この「シナプスの数が最大になる乳幼児期に、子どもの能力を伸ばすために多くの刺激を与えることが豊かな育児環境である」と唱えるようになりました。ところが、最近になって、あまりにいろいろな刺激を与えることが疑問視されはじめてきているそうです。刺激が強すぎることによって、本来バランスよく行なわれるはずのシナプスの刈り込みに支障をきたし、子どもの脳に悪い結果をもたらすのではないかという懸念が、専門家の間で広がっているというのです。

 たとえば、注意欠陥多動性障害(ADHD)を例に考えています。ADHDは、年齢にそぐわない注意力の欠如、集中困難、多動、落ち着きのなさ、衝動性がみられる障害で、前頭葉の動きの低下が原因で起こるのではないかと考えられています。ADHDの原因の一つが、シナプスの刈り込みがうまくいかないことにあるのではないかという研究もあるそうです。 「無駄なシナプスをバランスよく削りながら成長する脳」というコンセプトは、何でもかんでも刺激すればするほど成長する、という従来の考え方に警鐘を鳴らすように思えると、小西氏は考えているようです。

 三つ目の新しい子ども観は、「赤ちゃんは無力ではない」ということです。赤ちゃん学のもっとも大きな成果は、まったく無力であると思われていた胎児期から新生児期(生後一ヶ月まで)、乳児期(生後1年まで)の赤ちゃんにきわめて優れた能力があることを発見したことにあると言います。赤ちゃんの優れた能力については、様々なところで述べているので、この本では、胎児の能力について紹介しています。

 長い間、胎児と母との関係は、「2の体、1つの心」と言われてきました。それは、胎児を直接観察することが出来なかったためだろうと小西氏は考えています。しかし、1950年代に導入され始めた超音波装置は、子宮の中の胎児を生きたまま観察することを可能にしました。最近では、さらに3Dの超音波装置が開発され、胎児の観察がより行ないやすくなりました。その結果、胎児のさまざまな表情や複雑な行動がそのままリアルタイムで見られるようになりました。3Dで見る胎児の表情は、生まれたばかりの赤ちゃんの表情模倣にきわめてよく似ているという報告があるそうです。生まれたばかりの赤ちゃんが他人のする表情や舌出しなどの動作を真似することはよく知られていますが、こうした表情が生まれる前からできているということのようです。

新しい子ども観2

ピアジェが、「赤ちゃんにおける原始反射を用いて、周囲とのやり取りを繰り返すことによって、次第に自分の意志で動かす運動である随意運動が発言する」と主張したことに対して、プレヒテルは、「赤ちゃんの運動は、自発的な運動が主であり、原始反射はそれに含まれているだけである」ということを主張したのです。このことは、育児にも大きく関わることであると小西氏は言います。赤ちゃんは外からの刺激によって初めて動くのだということは、赤ちゃんを育てるには外からの関わりがなければならないという考え方にもつながりますが、自発運動説では、赤ちゃんは自ら動き、自ら育つのであるという考え方になり、育児観を大きく変えることになります。つまり、赤ちゃんは自ら動くことによって、他者や周囲の環境を認知するということになります。

この発見が、私が提案する「見守る」につながります。まず、子どもの自発性を保障し、そのために、自発的に関わることのできる環境を用意しなければならないということなのです。しかし、それは、この説が打ち出されたからではなく、私たちが毎日現場で子どもの行動を観察することから提案していることで、この説が裏付けたということなのです。

二つ目の新しい子ども観は、「バランスよく削りながら成長する」ということです。このことも何回かこのブログで紹介してきました。今まで、発達神経学では、新生児は、脊髄や延髄レベルの機能、それを原始反射と呼ぶのですが、その機能によって行動している脊椎動物であるとされてきました。そこでは、神経系の成熟と子どもの行動は11で対応していると考えられています。やがて大脳皮質の機能によって原始反射が抑制され、消失するようになると、中脳の成熟と関係している「立ちなおり反射」といわれる運動が出始めます。つまり、お座りや寝返りができるようになるのは、そうした脳の発達によるものであるとされてきました。さらに成熟が大脳皮質にまで及ぶと、つかまり立ちや独り歩きなどの行動ができるようになると考えられていました。

しかし、原始歩行が消失した乳児をベルトコンベアーに乗せたり、あるいはプールの中に入れると消失した原始歩行が再び出現することが発見されました。それは、行動パターンの変化と神経系の成熟過程が11に対応しないことが明らかになったのです。既存の神経学では、この現象は説明することができなくなったのです。そこで、こうした既存の神経学に代わるものとして、脳、身体、環境などとの相互作用を包括的に扱う枠組みを系全体の自己組織性という観点から考えるダイナミックシステムアプローチが提唱されたのです。つまり、環境が行動を変え、それによって脳そのものも変化し、それによってまた行動が変わり、環境もまた変わるという相互的な自己組織化のシステムなのです。

ここでは、20世紀後半に発見された神経科学の二つの重要な所見がもとになっています。それは、「神経細胞の自然な細胞死」と「シナプスの過形成と刈り込み」です。その所見をもとに、ダーウィニズムが、「遺伝子によって作られた粗い神経組織が、二つの段階を経て無駄を削りつつ成長する」ということを提唱したのです。第一段階は、神経細胞の細胞死は遺伝子によって決まっているということ、第2段階は、シナプスの刈り込みは、学習という過程によってより頻繁に使う回路は残され、そうでない回路は淘汰されるということなのです。

新しい子ども観

ブルームは、「ジャスト・ベイビー」の中で、私たちの天性の資質に「道徳感」があると言っています。その他には、「共感と思いやり」もあると言います。「共感」については、新生児の「つられ泣き」に始まり、周囲の人の苦しみに胸を痛め、その苦しみを消し去りたいと願う気持ちです。1651年、トマス・ホッブズは、「自然の状態の」人間は、よこしまで自己中心的だと主張しました。しかし、その後の研究によって、赤ちゃんの頃から「公平感」という「資源の平等な分配を好む性向」や、「よい行動が報われ、悪い行動が罰されるのを見たいという欲望」である「正義感」があると言われています。そして、ブルームは、本書の中で、私たちがどうやって、想像力、思いやり、そして知性から、このような生得的な道徳を乗り越えるかを考察しているのです。

その考察を読みながら、私は、道徳は、人類において、種の生存戦略であり、種の維持戦略としてもっとも有効的だったのではないかと思うのです。そして、その戦略として、集団で群れ、協力して敵に備えたのです。そのために必要であった特性が、公平感であり、正義感だったのでしょう。

このように、ずいぶんと今までの赤ちゃん観が変わってきました。その主なものが、「赤ちゃん学を学ぶ人のために」(小西行郎、遠藤利彦編)に整理し列挙されています。まず、「赤ちゃんは自発的に動く」ということです。20世紀に行なわれた研究では、「赤ちゃんは、外から受けた刺激や学習によって成熟する」という考えが長らく主流でした。それは、「刺激→反応」という構図をベースに成り立っていると解釈されてきたのです。当然、赤ちゃんに刺激を与えると、赤ちゃん反応を示し、学習します。ですから、「赤ちゃんは白紙のキャンバスだ。刺激を与えればどんどん吸収する」と誰もが考えたのだと言います。

生まれたての赤ちゃんは、原始歩行や新生児模倣のような「原始反射」と呼ばれるような刺激に対して反射をします。この反射とは、人間や動物が刺激に対して神経系のみを介して行なう、意志が介在しない反応のことです。すなわち、行動に「心情、意欲、態度」を根拠にしていないのです。ピアジェは、このような赤ちゃんにおける原始反射を用いて、周囲とのやり取りを繰り返すことによって、次第に自分の意志で動かす運動である随意運動が発言すると主張しました。

その考え方に対して、原始反射そのものに対する新しい見解をプレヒテルが打ち出しました。それは、「赤ちゃんは勝手に動いている。そしてそれを“見る”ことが理解につながる」という信念のもと、行動学を赤ちゃんの研究に導入し、赤ちゃんを延々と観察することを重視しました。その結果、身体に触れられるなどの刺激を与えられなくても自然に起こる「自発運動」を行なっていることを発見したのです。

彼の共同研究者によって、自発運動と原始反射との関係は、タンスと引き出しにたとえられているそうです。つまり、自発運動をタンスとして、ある決まった刺激によって同じ運動が引き出しのように引き起こされるのが原始反射だと言ったのです。今まで赤ちゃんの運動と言えば原始反射であると思われていたのですが、そうではなく自発的な運動が主であり、原始反射はそれに含まれているだけであるということになるのです。

スミスに現代の課題を見る

 明日から、毎年恒例のドイツ研修が始まります。そこで、その間はドイツ報告をしますので、しばらく、道徳の起源についてはお休みをします。私が、現在ブログで取り上げているのは、ポール・ブルーム著の「ジャスト・ベイビー 赤ちゃんが教えてくれる善悪の起源」という本を読み進めて行きながら、間に現場から見た感想を少し入れたり、解説をしたりしています。

そして、ちょうど第2章「共感と思いやり」という章の最後に、ブルームはアダム・スミスの著書「道徳感情論」の中の一節を紹介して終わりにしています。ここで、それを紹介したいと思います。

「人間は、どれほど利己的であるように見えようと、あきらかに、その本性の中にいくつかの原理を持ち合わせている。それによって、人は、他者の運命に興味を抱き、他者の幸福を自分にとってかけがえのないものとする。たとえ、それを眺めるという喜びのほかに何も得るものがないとしても。憐れみや同情もこの種のものであり、私たちは他者の不幸を見たり、じつに生き生きと思い描いたりするときに、その情動を感じる。私たちがしばしば他者の悲しみから悲しみを引き出すという事実は、明白すぎて証明するまでもない。この感情は、人間本性のほかの根源的な情念と同様に、徳の高い人や情け深い人にもっとも鋭敏に感じられるとしても、けっして、こうした人たちにかぎられるものではない。」

この文章から見るスミスは、人間が徹頭徹尾利己的な生き物であるとはつゆほども信じておらず、思いやりという心の牽引力に非常に敏感だったことが読み取れるとブルームは言います。

それは、この文章から、他人に対する共感や同情が、人間を道徳的な方向へ導くと考え手いることがわかるからでしょう。それは、ブルームの考え方の元となっている考えであり、他者という観察者の視線を気にしてしまうことから、人間は他者から共感を得えようと行動するようになるということになります。ほかにも、スミスはこの本の中でどのようなことを言っているのでしょうか?スミスは「国富論」において自由競争を肯定していますが、その基底には、フェアプレイの精神があります。スミスのフェアプレイでは、妨害などの行為が禁止されています。それが、「道徳感情論」の中でこう言っています。

「富、名誉および昇進をめざす競争のなかで、個人は可能なかぎり懸命に走り、すべての競争相手より勝るために、すべての神経と筋力を精一杯使っても良いのである。だが、もし彼が競争相手の誰かを押したり、投げ倒したりしたら、観察者の寛恕は完全に尽きるだろう。それはフェアプレイの侵犯であり、誰も認めることができないことである。」

スミスは、競争は肯定していますが、公平な観察者の視線を基準とすることによって、社会に秩序がもたらされると考えているようです。他者の視線を内面化し、第三者の目を自己の内部に取り込むことによって、フェアプレイが可能な社会が実現可能になるとスミスは考えているのです。

数年前から日本で、アダム・スミスブームが起こっています。それは、今の時代、彼が「道徳感情論」を著した、道徳哲学者としての顔が求められているからでしょう。道徳哲学とは、文字通り道徳について原理的に考察する学問のことを指します。つまりスミスは、どういう生き方が正しいのか説いているのです。これこそ、ブルームが取り上げた動機であり、私たちが保育を考える上で必要なことだと思うのです。

子どもの罪悪感

赤ちゃんが他人に対してその人がどのような人であるかという研究は何とかで来ても、自分自身をどう評価しているかという研究は、難しいようです。そうはいっても、幼児期の自己評価のサインを観察することならできるようです。赤ちゃんや幼い子どもたちは、しばしば他人によいことをしたときに、誇らしげな様子をしますし、逆に罪悪感もあります。生後1年に満たない赤ちゃんでも、他者を傷つけると、心を痛める様子を見せますし、その頻度は成長するにつれ増えていくようです。

1935年に、心理学者のシャルロッテ・ピューラーは、子どもの罪悪感を引き出す、うまく考えられた調査を行ないました。それは、一人の大人と一人の子どもが一緒に同じ部屋にいます。大人は子どもに、子どもの手の届くところに置いてあるおもちゃに触ってはいけないと命じます。次に大人は、部屋をしばらく留守にします。研究者たちは、1歳児も全員例外なく「大人との接触が断たれた瞬間、禁止は取り消されたと解釈して、おもちゃで遊ぶ」ことを発見しました。しかし、大人が突然戻ってくると、14ヶ月児の60%、1歳児半児の100%が、「極めてばつの悪い様子で、顔を赤らめ、ぎくりとした顔で大人の方を見た。」のです。ある19ヶ月児は、おもちゃを素早く元の場所に戻して、何事もなかったかのように取り繕おうとしたのです。

子どもたちが示したおそれに、道徳的な異様ななかったかもしれないが、ばつの悪い様子で、顔を赤らめたということは、とても驚く結果でした。それ以外にも、驚くことが子どもに起きていたのです。年齢が上がると、子どもたちは罪悪感を反射的に示す代わりに、言葉で自分を正当化するようになるのです。この調査では、2歳児は、「例えば、おもちゃは自分のものだと主張することによって、言いつけに従わなかったことを正当化しようとまでしたのです。

赤ちゃんは、自分で良い行いや悪い行いができるようになるずっと前から、他者の良い行いや悪い行いに敏感であるということが判っています。そこで、「道徳感」は、まず他者に向かって伸びていき、その後、成長のどこかの段階で、内側に向かうと言えそうであるとブルームは考えています。このとき、子どもたちは自分を道徳的行為者として捉えるようになります。そして、こうした認識が、罪悪感、羞恥心、誇りという形で現れると言います。

子どもたちの共感や思いやりには、ある程度限界があるとは言え、こんな幼い生き物にも、こうした道徳的な行為や感情を見出せることが感動的であることに変わりはないはずだとブルームは言います。サミュエル・ジョンソンは、違う言い方でこんなことを言っているようです。「それは、犬が後ろ脚で歩くのに似ている。うまくはない。しかし、歩いていること自体が驚きなのだ」

本当に、この事実を知って、驚くと同時になんだかホットもしますし、将来の展望も明るく感じます。しかし、孟子が「惻隠の情」と表わしたように、ダーウィンや、それ以前の時代の科学者、哲学者、神学者の多くには、意外なことではなかったようです。それは、アダム・スミスの「国富論」の中で、繁栄は、利己的な行為者のやり取りによってもたらされるとしながらも、スミス自身は、人間が徹頭徹尾利己的な生き物であるとはつゆほども信じておらず、思いやりという心の牽引力に非常に敏感だったようです。