2010年02月04日 [江戸文化]
氷川
横浜市指定有形文化財にも指定され、横浜市山下公園前の横浜港に係留されている「日本郵船氷川丸があります。この氷川丸という船名は、埼玉県さいたま市大宮区にある氷川神社に由来しています。それは、この船のブリッジの神棚に氷川神社の祭神が勧請されていたからです。この氷川神社は、スサノオを主祭神とする氷川信仰の神社で、大宮を総本社として、全国260以上もあるようです。そのひとつが、私の園の近くにある落合氷川神社です。ここは、八岐大蛇退治の物語で有名な「素盞鳴尊」と、その妻である「稲田姫命」と、別名を大国主命であり、大黒様と呼ばれている「大己貴命」を祭ってあります。その中で、高田の氷川神社が素戔嗚尊を主神とするため「男体の宮」と呼ばれているのに対して、こちらはその妻の奇稲田姫命を主神とするため「女体の宮」といわれています。
この氷川神社の創建は相当に古く、孝昭天皇の時代だといわれていますが、鳥居は第二次大戦で焼けてしまい、再建されたものだそうです。この神社の面白いのは、入口に対の狛犬があるのですが、左側の狛犬は一匹ではなく、下から子どもの狛犬が見上げている像なのです。自分の子どもに厳しい試練を与えて、立派な人間に育て上げることのたとえである「獅子の子落とし」を表しているのでしょうか。このような狛犬は、赤坂の氷川神社をはじめとして、何箇所かにあるようです

昨日、この神社で行われた「節分祭」に年長の園児と行ってきました。それは、境内での豆まきへの参加だけではなく、室内で神楽を見るためです。神楽とは、神道の神事において神に奉納するために奏される歌舞で、宮中で行われていた神楽とは別に「里神楽」というものがあります。里神楽とは、神社の祭礼を中心に、神社の神楽殿などで行われている芸能です。この中で有名なのは、島根などで行われている「石見神楽」ですが、「江戸里神楽」というのもあります。この江戸里神楽にも大きく分けて江戸流と相模流の二つの流派があります。今回見せていただいたのは、相模流の代表的団体の一つである「はぎわら会」の里神楽です。里神楽の音楽は、笛、大拍子、大太鼓などを中心に演奏し、演者は、面、装束を付け、身振り、手振りによる表現で演じます。台詞のない、無言劇であることは里神楽の特徴の一つです。演目には、「古事記」「日本書紀」といった日本の古典神話を題材とした神代神楽、「お伽草紙」を題材としたお伽神楽、能や歌舞伎の演目を素材にした「現代神楽」がありますが、今回見たのは、おめでたいということもあり、相模流でしか演じていない「七福神」もので、打ち出の小槌を持った大黒様とひょっとこ面の従者が演じるものでした。

里神楽は、能、狂言、歌舞伎などの流行を取り入れたり、江戸で興業された壬生狂言にも影響を受けるなど、各時代に対応した発展をしつつ、現在に至っていると言われています。はぎわら会が伝承する相模流里神楽は、江戸時代中期に発展した里神楽が相模地方に伝わったものであるといわれています。
また、今回、里神楽以外にも、寿獅子を見ることもできましたが、これも、はぎわら会で伝承し、各行事やイベントなど幅広い場で演じているようです。

それらの活動により、はぎわら会は1991年に新宿区より無形民俗文化財の指定を受けています。
今年は、賀詞交歓会から始まり、どうも日本伝統に縁があるようです。
投稿者 fujimori : 21:03 | コメント (4)
2010年01月24日 [江戸文化]
大根
今日の夕食に「おでん」をいただきました。おでんについてはブログで書きましたが、その中に入れる具で好きなものは年齢によって変わってきました。今は、大根がおいしいと思います。もともと大根は地中海地方や中東が原産で、古代エジプトから食用としていた記録があるそうですが、日本には中国を経て、弥生時代に伝わり、現在の消費量は世界1位です。また、大根は1年中食べられますが、じっくり煮ておいしいのは冬の大根で、おろしたりして、生でおいしいのはどの季節でも新鮮な大根がいいそうです。
大根の辛味成分であるアリル化合物には炎症を鎮め、せきを止めるほか、殺菌の働きもあるといわれており、風邪をひいた時は、大根とショウガのすりおろしたものをお湯に溶かして飲んだり、大根の角切りをハチミツや水飴に漬けておいて、溶け出したエキスを飲むと咳が止まったり、風邪にいいといわれています。また干した大根の葉には、温泉成分にみられる塩化物や硫化イオンなどの無機成分が多く、皮膚のたんぱく質と結合して膜をつくり、保温効果を高める働きがあることから、大根を使った風呂も、昔から農村地帯で冷え性や婦人病治療のための民間療法として使われてきました。
明日から調理セミナーが行われますが、江戸時代の食生活はどんなんだったでしょう。江戸時代の江戸の人口比率は、街づくりのために男性が圧倒的に多い町でした。しかも、独身者も多かったようです。ですから、食生活の中心は、今でいう外食だったようです。落語などにもよく出てきますが、屋台で、そば、おでん、寿司、てんぷらなどをつまんでいたようです。また、長屋などの家では、朝に1日分のご飯を炊きました。朝食には、そのご飯と「しじみ」「わかめ」「豆腐」「野菜」などを具にした味噌汁に漬け物程度です。子どもたちは朝に寺小屋へ行き、昼になると家に戻って昼食を食べました。昼食は、朝に炊いたご飯と味噌汁、そして野菜の煮付けがありました。その後は再び寺小屋へ行き、午後2時頃に帰ってきて3時のおやつに焼き芋や餅などを食べました。夕食は、一汁一菜が基本で、ご飯に漬け物や魚、野菜の煮付けなどです。
このメニューを見ると分かりますが、野菜をよく食べました。その中でナンバー1は、「大根」でした。また、江戸時代の「享保・元文諸国産物帳」によると、大根が品種数のもっとも多い野菜と記述されています。また、料理の種類も多く、江戸時代の大根料理専門書にはおよそ百種類も掲載されています。「大根一式料理秘密箱」(1785)刊の序には「物の名も所によりてかはれども大根の生ぬさともあらじ。はにふのすまゐにも香物つけぬ事もあるまじ。<中略>貴賤老若 雅人鈍ぶつにすゝむともよもふさいだ口あかぬもあるまじ」ここには、大根は、地域の差もなく、住まいの差もなく、貧富の差もなく、老若男女の差もなく、風雅人であろうが愚鈍な人でも、誰にでもすすめても喜んで食べるであろうと書かれてあります。
科学的に成分が分析されなくても、経験から体にいいものがわかっていたのですね。
投稿者 fujimori : 22:33 | コメント (4)
2010年01月23日 [江戸文化]
漢字の教科書
学校では、いろいろなことを、教科書を使って学びます。私は、学校の学びは勉強なので、当然やらなくてはいけないものけど、つまらないものだという考えがあります。その勉強に使う教科書の内容もつまらないものだという印象があります。しかし、目的はいろいろな情報を子どもに伝えることとしたら、面白くしてもいいはずです。
最近、小学校で英語教育が始まっている学校が増えてきました。子どもたちは初めて英語に触れるために、歌を歌ったり、踊ったり、ゲームをしたり楽しみながら、まず英語に触れ合いさせます。子どもたちは、小学校に入学するとそのほかの強化に初めて触れます。国語や算数などですが、これらの教科では歌ったり、踊ったり、ゲームをしたりしないで、最初からきちんと椅子に座って机に向かっていわゆる勉強をさせられます。国語で文字を覚えるのにも、書き方ノートに「あ」から順に50音の練習をします。昔は、すべての文字を入れ込んでそれを一つの文章にしたのが少し前にブログで書いた「いろは」です。「いろは」47文字を声に出して読み上げ、その次にお手本を見ながら筆を使って書きながら一字ずつ覚えていったのです。
では、漢字はどのように覚えたのでしょう。やはり、ただ新出漢字を順に覚えていったのではなく、1,000の異なった文字が使った漢文の長詩である「千字文」というテキストを使って子どもたちは漢字を覚えていったのです。この「千字文」という漢字の初級テキストは、中国で6世紀に作られ、日本にもほぼ同時期に伝わりました。ひらがなを覚えたあとは、次にコレで漢字を覚えたわけです。これによって漢字を学ぶことは、平安時代では貴族の必須科目でした。が、室町期になると、特に庶民はすっとばして、「庭訓往来」を使用するパターンもあったようです。
この「千字文」の構成は、四字一句にまとめて、250句の詩にしてすべて違う1000字が表わされています。しかも、そのそれぞれの一句ごとにちゃんと意味があります。歴代の皇帝のエピソードとか、当時の都や宮廷の様子とか、道徳や教訓についてとか各分野にわたって書かれてあります。見事としか言いようがありません。
これを使ったのは、6世紀初頭に南朝の梁の武帝が、文官の周興嗣に作らせたもので、一夜で千字文を考えたそうです。それを考えるのにかなり頭を使ったために、一晩で白髪になってしまったという伝説があります。そんな傑作ですから、日本だけでなく、多くの国の漢字の初級読本として使用されました。また、この注釈本も多数出版されています。また、書道の手本用の文章にも使われています。
千字文の最初の句は「天地玄黄」です。「天地玄黄」という言葉は、古代中国の占筮の書であり、儒教の基本テキストである四書五経の五経の筆頭に挙げられる経典である「易経」が出典のようです。天は黒色ということで、玄人の「玄」に通じ、赤が含まれた色で、奥が深いとか、雄大さも表わしています。また、地は黄色であるということですが、中原とか華北とか呼ばれる地域には、黄土が広がり、中国では、大地は黄いろいというイメージなのでしょう。ですから、後に続く句は、「天地玄黄。宇宙洪荒。」で、宇宙は洪荒なりということで、なんと雄大な始まりなのでしょう。
文字を覚えながら教養も身につき、面白い世界を覗ける学習の始まりです。
投稿者 fujimori : 21:32 | コメント (4)
2010年01月22日 [江戸文化]
落ちこぼれ
寺子屋での教科書の中心が四書五経だとすると、私たちは今その書物を読んでもとても難解の気がします。しかし、当時の子どもたちはそれを教科書として学習していたとなると、当然、今でいう落ちこばれが出るのではないかと思われます。しかし、沖田行司さんの「日本人を作った教育」(大巧社)によると、寺子屋は「落ちこぼれない教育」といって紹介されています。
まず、最近よく論議されている「ゆとり」ですが、寺子屋での時間割はどうであったかというと、全体で「五ツ時」(現在の午前7時半頃)から「八ツ時」(現在の午後2時半頃)までの7時間ほどでした。これを「七ツ習ひ」と言っていました。そして、寺子屋から帰宅するいわゆる下校時間を「御八ツ」といい、子どもたちは空腹のまま帰宅して、夕食までの間の間食をとることを「おやつ」と呼ぶ習わしになったのです。ただし、「八ツ時」まで授業をしたわけではなく、午後からは、女子は琴や三絃、裁縫などの師匠について習うことも多く、男子の場合も、午後から算盤(そろばん)の教授を行った寺子屋もあったそうで、どうも、授業は午前中で、午後は課外授業のようです。現在のドイツの小・中学校に似ています。休日は、日曜日という考え方はなかったので、毎月朔日(1日)と「五の日」(5日、15日、25日)に休む所があったり、6日に1日の割合で休んだりしたようです。また、五節句などの伝統的祝日なども休んでいたようで、年間授業数は、260日から300日くらいだったようです。今は、大体196日から205日が多いようです。今のほうが大分少ないのは、土曜日休みと夏休みなどの長期休みがあるためでしょう。江戸時代では、逆に農繁期などは「朝習い」といって早朝や夜に手習いの時間をあてた延長授業があったようです。
教科書のひとつは、出版社が刊行している「往来もの」を使います。往来とは手紙のことで、手紙の様式を覚え、手紙文を通して読み書き能力を獲得するほか、この中では、手紙文の形式をかりて単語の習得、生活風習、動植物などが書かれ、生活中心の実用性を重んじたものでした。それに対して、四書は、教養の習得だったのです。では、なぜ、落ちこぼれという問題が起きにくかったかというとこのように分析しています。
寺子屋での教育における形は、今日多くの教室で見られるような教師が前に位置し、それに子どもたちが列をなして対面しているものは寺子屋が描かれている図では皆無です。基本的には、子どもたち同士がそれぞれの天神机を対面に配置して座り、師匠は全員の寺子が見通せる場に位置する。それは、一斉授業を行っていないということです。そこで、子ども一人ひとりの発達の度合いに応じた指導が可能になるのです。また、天神机の配置の仕方によっては、先に進んだ子どもが遅れた子どもを指導するということも可能になります。均一な個性に仕上げるために一定の基準と目的を設定して一斉に授業をするといった近代に導入された一斉授業とは異なり、一人ひとり異なる個性と能力を持った人間を教育した寺子屋とは基本的に異なるのです。
一定の基準を、一定の期間において習得させる、また、社会や経済に還元しうる知識や情報の獲得を目的にするために落ちこぼれるという考え方が出てくるのです。
何も、世界の教育を参考にしなくても日本でも参考になる取り組みは多いですね。
投稿者 fujimori : 23:42 | コメント (5)
2010年01月11日 [江戸文化]
育児書
私がここのところ紹介している室町時代に書かれた「世鏡抄」は、その第7である「若身持之事」という章であり、乳母や子育てを担当している人の心構えを書いてあるもので、ある意味では「保育書」です。途中では、その書き方や、対象者の混乱が少し見られますが、今でも参考になることが多く見られます。このように、子育てについてのアドバイスはいつの時代でも必要であったようで、いわゆる子育て書の歴史は古いようです。この世鏡抄は、誰が書いたかわからないようですが、どこかの武家の家訓として書かれたものだったのでしょう。それが、庶民に対しての子育て書が、江戸時代に現れてきます。
たとえば、中江藤樹の「翁問答」などもその一つです。この1巻にはこう書かれてあります。「子孫の教育は幼少の時が肝心である。昔は「胎教」と言って、母の胎内にあるうちから胎児への「母徳の教化」を行った。しかし、それは幼少の時分には教育がないものと勘違いするのであり、「教化」の本質を知らずに、ただ口だけで教えるばかりが教育と思い込んでいるために、このような誤りを犯すのである。本当の教化とは「徳教」である。口で教えるのではなく、時分の身を正して道を行い、それによって周囲の人間が感化されていくことを「徳教」というのである。これは、あたかも水が物を潤し、火が物を乾かすようなものである。」これは、最近、ECECで提案されている就学前教育の考え方と全く同じような気がします。このECECでは、就学前教育を学校準備としてとらえるのではなく、陶冶という人格形成期ととらえるべきであると言っているのです。もしかしたら、陶冶が徳教なのかもしれません。
そのために翁問答では、「幼い者の心立てや身持ちは、その父母や乳母の心立てや身持ちに見あやかったり聞きあやかるために、父母や乳母の徳教が子孫の教育の根本となるのである。従って、乳母の人柄を吟味し、父母の身を修め、心正しくして、親孝行の道を語り聞かせ、また、身に行って、教育の根本を培養すべきである。」ということが大切になります。私が提案している「見守る保育の三省」の2番目は、「子どもに真心を持って、接しただろうか。(子どもを見守るということは、人格が伝わっていくということを理解し、
偽りのない心で、子どもに主体として接することである)」としています。
その後、小児の誕生から養育までの万端にわたって詳述した、日本最初の本格的な育児書と言われている「小児必用記(小児必用養育草)」が香月牛山によって書かれます。香月牛山(啓益)は、筑前の医師であり、育児学的立場から小児の健康と病気の病状、療養、看護の面からの諸注意を書きしるしたものです。このころの育児論は、親の溺愛に対して警告を出しています。そして、過干渉の結果、あとでその子を放り出してしまうことを心配しています。「玉と育ててのちに勘当」ということです。たとえば、保嬰論に、「小児の安からん事をおもわば、三分の飢と寒とを帯ぶべしと見えたり。」とあります。徐春甫の説には、「世間の父母、その子の愛着に惹かれて、わが子は何事もよきとばかり思えて、誉めそやし、姑息を持て育つる類の者多し。隠姑息を持て育ちたる児は、極めて悪しき風俗となるなり。」と言っています。
どの時代でも子どもを愛することと、過干渉とを取り違えてしまうことに危機感を感じているのですね。
投稿者 fujimori : 22:24 | コメント (4)
2010年01月05日 [江戸文化]
江戸情緒
今日は、新宿の賀詞交歓会に行ってきました。朝、職員に「賀詞交歓会」に行くと言ったら、ほとんどの人がその言葉を初めて聞いたようでした。「賀詞」というのは、お祝いの言葉のことで、「交歓」は、歓びを交ぜるということで、新年のお祝いをお互いに交わし合い、新年の喜びを分かち合うことです。会社なら、よく行いますので、知っている人が多いかもしれませんが、普通はあまり馴染みないかもしれません。私も、あまりそのような会に出ることは少ないのですが、今日は、たまたま来客の予定もなく、園としての予定もなかったので、どんなものか出席して見たわけです。
出席してみてとてもよかったことがあります。まあ、挨拶(それも思ったよりも短く助かりました)はあるとして、そのあとの出し物がとてもよかったです。ひとつは、新宿の名誉区民である「鶴賀若狭掾」氏の新内節浄瑠璃による新内舞踊でした。この新内節は江戸浄瑠璃の一つで、彼が流祖で、流し・座敷での演奏を中心に独自の発展をとげました。彼の歌は、切々たる哀調を帯び、その伴奏の三味線も泣くように弾きます。また、その舞は、松の扇子を持って3人で踊り、充分と正月気分と、江戸情緒を堪能しました。
もうひとつの出し物は、江戸消防記念会の「木遣り」でした。

もともとは、「木遣り」とは木を遣り渡す(運ぶ)という意味で、重い木や石を大勢で運ぶ際、息をあわせるために一人の号令にあわせながら運びました。この号令の役目となったのが、木遣り唄といわれています。そして、のどのよい者たちが酒宴などで披露するようになり、次第に祝唄としての性格を持つようになっていきました。
江戸では、町火消しの鳶たちのたしなみとして発展し、棟上や祝儀、また祭礼などの練り唄に転用されていきました。寛政年間、町火消しの神田よ組にいた喜六、弥六という木遣り名人の兄弟がいました。兄は声でほかに並ぶものがなく、弟は節上手であったそうです。木遣りは、音頭を出す木遣り師と受声をする側とで構成されていますが、木遣り師をアニ・オトと称するのは、この名人たちに由来するとされています。そして、江戸独特の木遣り唄が生まれたのです。そして、この江戸木遣りを、江戸消防記念会が、纏や梯子乗りとともに今日も毎年1月6日に行われる消防出初式を始め、神田明神や日枝神社の祭礼などや、各地の建前、地鎮祭、劇場のこけら落としなど、お目出度い行事の席上で、祝儀の歌として歌われ、その行事に華を添えています。また、江戸文化を外国に紹介する催事に関しても、纏振りや梯子乗りと共に木遣り歌を披露して国際親善に貢献しているそうです。今回の出し物でも、兄木遣り(アニ)と弟木遣り(オト)は交互に声を出し、かけあいをするように、朗々と唄い上げていきました。
普段ですと、「賀詞交換会」のような儀式的なものは苦手ですが、あまり毛嫌いをせず、なんでも出てみるものですね。寺子屋などの江戸時代の教育を調べるだけでなく、その時代の文化や、江戸情緒を味わうことが、その時代を理解するうえでは大切なことだということを学ぶことが出来ました。
投稿者 fujimori : 21:22 | コメント (4)
2009年12月30日 [江戸文化]
江戸時代の集団
『未来のための江戸学』(小学館)という本を出版した法政大学教授である田中優子さんが産経新聞に連載している「ちょっと江戸まで」というコラムが、昨日で終了になりました。その最終回のテーマが、「寺子屋の教育取り戻せ」でした。この記事は、私が常々ブログで書いている内容と同じことが書かれてありますが、ひとつ、私と大きく認識として違うところがあります。その部分が、今年、新めて見つけた私の保育についてのテーマであり、来年から取り組もうとしている課題です。それは、集団とはどんなことなのかです。
少子時代になり、家庭、地域には子どもを取り巻く社会が希薄になりはじめています。また、子どもたちは、地域で、家庭で子ども集団で遊ぶことをこのまなくなっています。その中で、子どもたちにとって学校は、友達がたくさんいるところです。それは、昔の寺子屋でもそうだったでしょう。田中さんが、コラムの中で、寺子屋の様子を書いています。「渡辺崋山その他によって描かれた寺子屋(手習い)の絵がたくさん残っている。絵を見て驚くのは、寺子屋は、そもそも学級崩壊しているという事実だ。いや「学級のまとまり」という概念がないのだから、崩壊もない。なにしろ子供たちは先生を見ていない。今の学校のように机を整然と並べて全員が黒板と教師に顔を向けている、などという事例は皆無。子供たちは入学時に持ってきた自分の机を自分の好きなところに置き、めちゃくちゃふざけながら勉強している。とても楽しそうだ。」
寺子屋へは、家から机も持ち込んで好きな所に置いていたこともあったようです。残っている絵では、机を丸く輪にして並べている姿も描かれているものがあります。子どもたちはあちらこちらを向いていますし、顔に墨をつけあっている子もいます。全員が前を向いて、先生の話を聞いている図はありませんし、ましてや、先生が姿勢がどうの、聴く態度がどうのと注意している姿は見られず、確かに楽しそうです。その教授の姿を田中さんはこう書いています。
「教科書は往来ものや算術など何種類かあり、それらを個々の生徒ごとに組み合わせる。つまり寺子屋教育とは個人教育なのだ。個人教育が集団教育に変わってゆくのは、近代の学校制度になってからである。教壇に教師が立ち生徒が教師の方に顔を向ける教室の配置、行進の練習、集団生活を身につける修学旅行などは、日本人の「近代化」のために作られた。江戸の日本人は他人と歩調を合わせて歩いたり、同じ態度を統一的にとることなどできなかったのである。「日本人の集団性」は国家戦略として作られた性質なのだ。」
これを読んだときに、私は果たして寺子屋が個人教育で、一斉に生徒が先生の方に顔を向けて授業をするのが集団教育なのだろうかと思いました。一斉に先生の方を向いて話を聞くというのは、先生と生徒との関係しかなく、一斉の個人授業の気がします。先生の考えが一人一人の個人に伝えられる教育です。集団教育とは、集団を活用することなので、子ども同士が話し合い、意見を交換しながら授業を進めていくことを言うのではないかと思います。いわゆるグループ学習です。学び合いです。江戸時代の寺子屋や塾は、少数で議論を重ね自分の言葉を磨いてゆく授業だったのです。
間違っていた教育は、集団教育ではなく、みんな同じことをするという間違った集団性である一斉個人教育だったような気がするのですが。
投稿者 fujimori : 19:40 | コメント (4)
2009年12月29日 [江戸文化]
江戸から現在
10月から産経新聞に「ちょっと江戸まで」というコラムを法政大学教授である田中優子さんが執筆しています。彼女は、今年の10月1日に『未来のための江戸学』(小学館)という本を出しています。私は、最近江戸時代の教育に、特に寺子屋、藩校、薩摩の郷中教育、会津の什教育などに関心があります。それは、その頃の教育は、明治に入っての日本人の外国にも劣らないエネルギーを生み出したことに、今に通じる何かがあるように思うからです。興味があります。また、江戸時代の教育だけでなく、環境問題、リサイクル、エコについても世界に誇る取り組みをしたことも評価されます。だからといって、江戸時代に戻るわけも行かず、また、教育の目的も時代で大きく変化していることもあり、私は江戸時代から100年進化させた今の日本のあるべき姿を作っていくべきであると思っています。いわゆる「温故知新」です。
コラムを書いている田中さんは、江戸文化を研究しながら「私たちの近現代は何を乗り越えたのか、あるいは何を克服しそこなったのか、とりわけ、何を捨て何を失ったのか」という問いを持ち続けているようです。そして、その研究の面白さをこう書いています。「過去の時代を知る面白さは、異なる価値観や美意識や奇妙な人間たちに出会う驚きの連続で、終わらない旅のようなものだ。戦後生まれの私にとって江戸時代は、どれだけ研究しても驚愕の異文化なのだ。しかし、江戸時代に驚いてばかりはいられなくなった。いったん江戸時代側に立って現代を眺めてみると、それもまた驚きの連続である。食料自給率39%という数字は多く見積もっての話で、飼料や種子や加工食品の原料のことを考えに入れると、米以外はほとんど自給できなくなっている。気候変動、テロ、伝染病、戦争、何が起きても日本人は飢餓に陥る可能性がある。江戸人から見ると、なんと不安な国なのだろうか。子供の貧困は進み、いざというときの受け皿となっていた共同体はもはやない。子供さえ孤立し、親からも他人からも助けてもらえない。江戸人から見ると、何と過酷な国だろうか。」
最近、日本の貧困率の高さが話題になり、日本は豊かな国だ、私たちはみんな豊かだという幻想が打ち砕かれました。それに反して、世界の中でブランドに走る若者が多く、クリスマスは高級ホテルや高額ディナーショーがいっぱいになり、どこが貧困かと疑いたくなる人たちも多いようです。それは、「景気回復」が真っ先に叫ばれ、そのために節約をしないで、消費すべきだという「金を使えば豊かになる」という信仰が叫ばれていることの影響しているのかもしれません。そのことについて田中さんは「経済」という言葉は「経世済民」という意味であることから江戸時代の考え方を紹介しています。
「江戸時代には、未来につなげたい考え方がいくつかある。そのひとつは「持続可能な豊かさ」である。「経世済民」という経済の理念を実現すべく、必要を満たしながらも配慮と節度をもって使いさえすれば、自然は永遠に持続可能な豊かさの源泉だった。質素倹約こそ、豊かさの基本なのである。貪欲と浪費はたちまち「貧しさ」に直結する。私たちの時代は、貧しさの直前まで来ている。もうひとつ未来につなげたいことは「因果関係」への鋭敏さである。今自分がおこなっていることや日々の生き方は、数年後数十年後にどういう結果となって現れるのだろうか。今が過去の結果であり、同時に未来の原因であるとすれば、今日をどのように生きるべきか。そういうことに意識的であれば、なりふりかまわぬ競争はできなくなり、勝ち負けはどうでもよくなる。大事なのは生き方だからだ。だからこそ、江戸時代は明治になって否定されたのだろう。」
今の姿は、過去の教育の結果なのです。
投稿者 fujimori : 21:26 | コメント (4)
2009年12月23日 [江戸文化]
江戸時代の遊び
西田知己さんの「寺子屋の楽しい勉強法」には、現代における教科と対比させて、寺子屋ではどんな勉強をしていたかを紹介しています。当時の「読み」「書き」「算盤」は今の国語や算数を学ぶことだろうとは想像がつきますが、理科や社会は何によって、どのように教えていたのかは想像つきません。逆に総合的学習は、寺子屋というよりも、昔の学問そのものという気がして、いろいろな学びは、総合的に行われていたのだろうと思います。この本の「はじめに」には、このように書かれてあります。
「時代が違えば、教育の狙いや方針も異なります。その差は優劣で割りきれる話ではありませんが、現代の教育にも有益な先人の教えが読み取れるかもしれません。」
この本の中で寺子屋の正月の意味を紹介しています。大きく二つあったようです。まず、江戸時代の正月はもちろん旧暦ですので、今の1月下旬から2月の中旬にかけて正月が来ます。その正月は、その字のごとく、「正に」ということは、物事のはじまりを表します。それは、最初の姿が正しいという考え方を伝える字で、堕落したり、脱線してしまったものを、元の姿に戻す時の理想が「正」ということです。ですから、寺子屋の教えとして、「正月は、今年1年のお手本となるような過ごし方を心がける月、笑顔を絶やさずに楽しく過ごすのが第1で、子どもは福笑いやカルタ取り、はねつきやコマ回し、凧上げなどに熱中しました。」と書かれてあります。
正月の子どもの遊びには、昨日のブログの「なぞなぞ」同様、子ども集団の中で遊ぶもので、子どもたちは、手先や脳、運動能力をつけると同時に、遊ぶ中で社会を知っていったことでしょう。この本に書かれてある遊びのほかにも、江戸時代には様々な遊びがお正月に行われていたようです。特に、「貝合」「絵合」「花結び」「小鳥合」「十種香」「盤遊び」「縫物くらべ」など盛んに行われたようですが、これらの遊びは春の遊びとして平安時代から伝わってきたものです。しかも、これらは対戦型で、やはり一人遊びは少ないようです。
ブログに書いたと思いますが、凧にしても日本の凧は持ち手が必要になることで協力を知っていったと言われています。凧は、立春の空を仰ぐのは養生のためにいとして、盛んに揚げられ、より高く揚げるために工夫することも学んだと言われています。それに対して、外国の凧であるゲイラカイトは、一人で揚げることができ、より速く走ることが要求されます。一人で生き抜く力をつけるのです。
そのほかにも、子どもの遊びには面白いだけでなく、意味がありました。明治になっていっぱんに正月の遊びとして定着した「福笑い」ですが、最近は、目隠しをして顔を作り、その出来上がりの顔が変なことを笑うのでよくないのではないかということで、やらなくなりましたが、私は、顔の目鼻、口、まゆ毛の位置や傾きで顔の表情が変わることを知るのによい教材だと思っていました。若いころ、子どもたちに絵画指導をしていたことがありましたが、目隠しはしませんでしたが、顔のパーツを子どもたちに動かせて、顔の表情を様々に変えた体験をさせたことがありました。そうすることによって、絵の中の人物に様々な表情をつけることを知ってもらったのです。
有益な先人の教えを、今に有益なものとして受け取る力が欲しいものです。
投稿者 fujimori : 21:48 | コメント (4)
2009年12月22日 [江戸文化]
なぞなぞ
最近の子どもたちは、テレビゲームなど一人で遊ぶことが多くなりました。しかし、子どもが他の子どもを相手に遊びことの必要性が、脳の問題やコミュニケーション能力などの問題で言われてきています。かつては、子ども同士で遊ぶことが多かったのですが、少子時代で、兄弟の数は少なくなり、地域に子ども集団がなくなりました。
昔から集団が必要だった子どもの遊びは様々なものがあります。その中で、今でも子どもたちの間で人気のあるものに「なぞなぞ」があります。この遊びは、問いかけに対して、とんちを利かせた答えを要求する言葉遊びを用いたクイズですので、コミュニケーション力をつけるのには最適です。また、普通のクイズとは違って正解は事実に基づくものではなく、言葉の意味をこじつけた駄洒落・洒落が多かったり、韻を踏んでいたり、何かにたとえられたりすることも多いので頭を使います。人と触れ合い、頭を使うので脳が活性化しますので、ボケ防止にも最適だと言われています。
このなぞなぞは、日本では、室町時代に広く民間に普及しました。それまでは、上流階級の間で和歌などを題材とした一種の言葉遊びのような形式のなぞなぞが作られていました。この言葉遊びは、戦国時代の後奈良天皇の御製による『後奈良天皇御撰何曽』が残されています。しかし、民間に普及したなぞなぞは、シンプルな掛詞がよく使われ、そのまま江戸時代にも伝わりました。そのなぞなぞが寺子屋の勉強にも使われていました。それは、この言葉遊びは、当時の子どもたちにとっても和歌よりも楽しかったに違いありません。
「なぞなぞ」とは、「何ぞ何ぞ」という言葉かが由来です。今でも、なぞなぞを出した後に「何だ」という文句を「なーーんだ」と節をつけて歌うように語ることがあります。世界では、フェキオン山のスフィンクスが通りかかる人間に問いかけたという「朝は四本足、昼は二本足、夕は三本足。この生き物は何か?」というなぞなぞが有名ですが、日本では、どんななぞなぞがあったのでしょう。西田知己著「寺子屋の楽しい勉強法」の中に室町時代の「なぞたて(謎立て)」が紹介されています。
「十里のみちをけさ帰る」この問題を読んで答えがわかるでしょうか。答えは、「濁り酒」です。10里の道は5里の2倍なので、九九の要領で「二五里(にごり)」ということで、「けさ」が「(ひっくり」かえる)ということで「さけ」になります。ですから「にごりざけ」」となります。次の問題は、「三里はん」です。3里半は4里に掛っていますので、正解は「寄り掛かり」ということで、座椅子や脇息(肘掛け)です。
江戸時代には、言葉遊びだけでなく、「判じ物」といって絵入りのなぞなぞもはやりました。「御前なぞはんじ物」も絵入りなぞなぞです。たとえば、この答えは、今でも使うことがあります。問題は、「あたひ(値)をと(取)らぬ渡し守」です。

答えの絵には、平清盛の弟だった「忠度」の絵が描かれてありますが、忠度(薩摩守)とただ乗りをかけて、車や船などに無銭でのることや、そうする人のことを「薩摩守」ともいいました。
なぞなぞの最初の問題などは、国語と算数の力が必要なように、遊びには様々な力が必要になります。ですから、子どもにとっての「遊び」には、さまざまな「学び」があるのです。
投稿者 fujimori : 23:09 | コメント (5)
2009年11月08日 [江戸文化]
長ーい
小学校の長い一直線の廊下を見ると、なぜか走りたくなるのは子どもなら当然でしょう。すると、週目標に「廊下を走らないこと」とあげられるのも常のことでしょう。最近の学校は知りませんが、どうなのでしょうか。昨日のブログで取り上げたのですが、保存された宇和町小学校の第一校舎の109mの長い廊下を見て、若いカップルがその廊下で雑巾がけの競争をしたところから、この町の「雑巾がけレース」が生まれ、NHKテレビでも取り上げられるほど話題になっています。何かの始まりは、ただいけないではなく、それをどう取り上げるかですね。
保元の乱の頃(1156年頃)に熊野の蕪坂源太という者がいました。彼がたまたま京都の三十三間堂に来ました。ここの正式名は、蓮華王院と言いますが、その本堂は、「三十三間堂」とみんなから呼ばれていました。それは、この建物が東に面していて、南北にのびるお堂内陣の柱間が33もあるという建築的な特徴があるからです。「三十三」という数は、観音菩薩の変化身三十三身にもとづく数を表しています。今で言うと、奥行き22mに対して、南北の長さは、120mもある、とても細長い建物です。建物の端から向こうの端まで眺めると、胸がすくくらいに一直線です。
ここに来合わせた蕪坂は、そこを走ろうと思ったわけではなく、雑巾がけをしようと思ったわけでもなく、武士が台頭してきた時代ですから、その軒下のこちらから向こうまで矢で射てみたら届くだろうかと思って、軒下を根矢(実戦用の矢)で射通して見たのです。これが面白いということになって、この軒下で矢を射ることが流行ったのが「通し矢」と呼ばれる競技です。この話はあくまでも伝説ですが、たぶん、初めはだれかが試しにやってみたに違いありません。
しかし、あまりに天正年間頃からはやりすぎ、文禄4年(1595年)には豊臣秀次が「山城三十三間堂に射術を試むるを禁ず」とする禁令を出したくらいです。「廊下を走らないこと」と同じようですね。しかし、どうも内緒で、秀次自身も弓術を好み、通し矢を試みたらしいです。しかし、そのころは個人的に試していただけですが、雑巾がけと同じように、江戸時代に入ると、それが競技になります。はじめてこの競技の記録が残るのは、「年代矢数帳」〈1651年〉序刊)の中で、1606年、清洲藩主松平忠吉の家臣朝岡平兵衛が、100本中51本を射通し天下一の名を博したと記録されています。以後射通した矢数を競うようになり、新記録達成者は天下一を称しました。
このルールは、お堂西縁の南端から120メートルの距離を弓で射通し、その矢数を競ったもので、矢数をきめて的中率を競う「百射、千射」等があり、江戸時代、殊に町衆に人気を博したのは「大矢数」というルールで、夕刻に始めて翌日の同刻まで、一昼夜に何本通るかを競うものでした。耐久レースですね。また、この競技には、実施には多額の費用が掛かったそうですが、藩が援助していたようです。そして、武芸者の栄誉をかけたものとなり、京都の名物行事となって行きました。
記録に残っている最高記録は、なんと18歳だった紀州・和佐大八郎が1686年4月に打ち立てた、総矢13,053本中、通し矢8,133本です。命中率はもとより、その射った矢の数はすごいですね。24時間での総矢13053本ですから、1分に約9本を射ったことになりますから、その速さ、技術だけでなく、精神力は想像を絶っします。
現在でも、その伝統に因み、「楊枝のお加持」大法要と同日(1月中旬)に行われていますが、場所は軒下ではなく、本堂西側の射程60mの特設射場で行われます。伝統を引き継いであるのは形式だけで、その精神力と気力は引き継いでいないようです。
投稿者 fujimori : 22:37 | コメント (4)
2009年07月13日 [江戸文化]
遊びの什
江戸時代における薩摩藩と会津藩の取り組みが非常に似通っているのは、どうしてでしょうか。教育視察団が派遣されたのでしょうか。たしかに、会津の教育システムの見学には佐久間象山とか吉田松陰が訪れたという記録は残っているそうですので、見ているのかもしれません。また、一昨日書いた私の園での子どもの様子は、なにも会津藩に見学に行ったわけでもありませんが、同じような取り組みです。
会津での「什教育」による「什の掟」の説明書きにはこう書かれてあります。「これは藩校日新館に入学する前の遊び仲間(6~9歳)が毎日午後に集合し遊びの前に話し合う自活的な定めで制裁もある。日新館入学後の日新館童子訓による学校教育の前提となるもの」
ですから、藩校・日新館に入学する前に少年達が行なっていた行為のことを会津では「遊びの什」ともいわれていました。この什という組織に所属している子は6歳から9歳までの4年間ですが、その頃の年齢は数え年でしょうから、いわゆる今でいう脳の臨界期までということになるでしょうか。常々私は、脳の臨界期までの教育と、その後の教育方法は分けるべきであると主張してきました。乳幼児教育から、8歳くらいまでは、人格形成を中心にし、子どもたちの発達をきちんと踏み固めていくことが必要であると思っています。課題としては、コミュニケーション能力とか問題解決能力とか、我慢をする力である行動抑制力などを育てる必要があると思っています。そのときに子どもにとって必要な環境は「異年齢子ども集団」であり、子ども同士が学び合う環境や大人による働きかけが必要になるのです。そのために、アメリカなどでも、8歳くらいまで、小学校でも円形に子どもたちが集まります。その時期の発達をきちんと遂げることによって子どもたちは情緒が安定し、きちんと座って人の話を聞けるようになります。そして、初めて認知的なことを先生から教わるのです。
それが、会津では10歳になると入学する藩校「日新館」なのです。会津藩校「日新館」という名前は、「大学」にある「苟ニ日モ新タナラバ日ニ日ニ新タニ マタ日ニ新タニセン」(日々心を新たにし、進歩向上しよう)からきています。その言葉を盤銘に刻み、毎日読んで自戒したといわれています。
その教育は藩祖の遺訓を旨とし、文武両道にわたる幅広い内容であったといわれています。まず、15歳までは初等教育として孔子をまつった大成殿を中心として素読所(小学ともいった)があり、そこでは、礼法、書学、武は兵学をはじめ弓術・刀術等武芸全般を学びました。この素読所を修了した者で成績優秀者は講釈所(大学)への入学が認められ、そこでも特に優秀な生徒は、この日新館をおえると、江戸(東京)や長崎にも藩の費用で留学することができました。この「講釈所」での文は漢学を主とし、天文学、蘭学、舎密学(化学)等にわたる多数教科制で、天文台、開版方(印刷所)、文庫(図書館)、水練場(プール)といった施設まで完備し、全国に数ある藩校の中でも屈指の教育機関でした。

講釈所と水練場(日本最初のプール)
この日新館は文化元年(1804)、5代藩主松平容頌の時代に完成しましたが、当時、藩の借金は40万両を超える額となっており、農民も数年間続いた天明の飢饉などで苦しんでいました。そのため、容頌は藩の一大改革へのりだしました。その基本は、藩政の基盤が士農工商の振興にあり、それをなしとげるためには 家臣団の教育と人材登用にあるという考えにもとづくものでした。
国を立て直そうとするときには、まずは「教育」というのはいつの時代でもいうことですが、その教育を重視するということがどういうことであるか、どのような教育をしていくのかを違ってしまうと、まったく逆の人材を作ってしまいかねません。
投稿者 fujimori : 22:44 | コメント (4)
2009年07月06日 [江戸文化]
牽牛
明日の7月7日は新暦の七夕です。七夕とは年に一度、おり姫星と、ひこ星が天の川をわたって会うことを許された特別な日とされています。このおり姫星とは織女星として知られ、こと座のベガです。一方、ひこ星とは牽牛星で、わし座のアルタイルという星です。このベガとアルタイルは、はくちょう座のデネブとで夏の大三角を形作り、夏の星の中で王座です。
このひこ星が牽牛星と言われているのは、彼は牛の世話をすることが毎日の仕事でした。また、こんな逸話もあります。「彼は牛小屋の藁を寝床にしました。彼は毎日牛の世話をして、兄夫婦の生活を助けました。彼には名前が付けられなかったので、近所の人達は彼を「牽牛」(牛引き)と呼びました。」というように牽牛の牽とは牽引すると使うように引っ張るという意味です。古代中国では、牛はとても貴重な動物で、その世話をすることが大切な仕事だったのです。ですから、ひこ星は織姫をあまりに愛したために牛を追わなくなったために2人の仲を裂かれてしまうのです。
古代中国で大切にされた牛と取引されたと薬という説と、中国の古医書「名医別録」では、牛を牽いて行き交換の謝礼にした薬がありました。その高価な生薬はその由来から「牽牛子」(けんごし)と呼ばれるようになりました。この薬は、下剤や利尿剤や幻覚剤として使用されました。この薬とは、朝顔の種を粉末にしたものです。朝顔の種は、煮ても焼いても炒っても効能があります。
もともと朝顔は、今から千百年以上も前の奈良時代に中国から遣唐使によって我が国に伝来したと言われています。当時はこの朝顔の種子と言うものが大変貴重な漢方薬として珍重され下剤用として使われていました。また薬として入って来た朝顔が今のような鑑賞用として栽培されるようになったのは江戸時代に入ってからの事です。奈良時代初に薬用として中国より導入されました。その時は花の色は青色だけでした。その花色も、赤・白などが表れ、文化・文政の頃から観賞用植物として盛んに栽培されるようになりました。そして、明治中期ころ、「入谷の朝顔」と世に宣伝されるようになりました。今日から三日間、入谷の鬼子母神での朝顔市です。そこに行って、朝顔を買ってきました。
実は、明治中期から始まったのですが、昭和20年終戦の時には、このあたりは一面の焼け野原になってしまい、江戸以来の情緒も、下町の人情も消えうせてしまいました。このころは、情緒などというより先に、今日は食べ物にありつけるかというように食料の確保や様々な物資の確保の方が身に迫っていたのです。しかし、昭和 22年になって、商店街の再建と共に人心の荒廃を療そうと「入谷の朝顔」を復活させようという動きが起こり、焼けた街路樹の跡や、空地に種を捲き、人々に配ったのです。こうして、「入谷の朝顔」が復活しました。 翌年、朝顔を中心とした植木の市(現在は朝顔のみを売る朝顔市)が牽牛星と織姫が1年に一度会う七夕にちなみ、7月6・7・8 日に決められました。それは、朝顔の種子を牽牛子ともいうからです。

しかし、この時期に開催するとなると、本当に朝顔が咲くようになる時期よりはだいぶ早いので、当初は大変苦労をしたそうです。現在では、ビニールハウスの利用や栽培技術の発展により、朝顔市の日には、立派な花を咲かせた朝顔が所狭しと並べられています。この情景はとても情緒があります。
投稿者 fujimori : 23:58 | コメント (4)
2009年04月09日 [江戸文化]
子どもの文化
昨日のブログで書いた日本における児童観について、同じようなことを山口県立大學の准教授であるウィルソン・エイミーさんが書いていました。
「アメリカでは、子どもは“小さな大人”としてみられることが多いように思います。生まれて間もないのに、飾り付けがきちんとされた個室を与えて、1歳児なのに、小さなジーパンをはかせて。厚い生地のジャケットやひも付きの靴、大人のものと変わらないようなファッション。お話が少しできるようになったら、選択肢を与えて“今日はパン?シリアル?”“どっちの絵本がいいの?”とか、子どもの考え方や意見がしっかり育つような教育をしています。しつけにおいても、大人の社会で子どもが礼儀正しくいられるように、しっかりとした“YES・NO”を求めるし、従わないと罰を与えることがあります。(近年では、体罰ではなく、好きなテレビが見られないとか、一定期間と友達と遊べないとか)。それがうまくいったときに、礼儀正しい子どもに育つのですが、その逆に、ショッピングセンターのど真ん中で体を床に投げ出して大泣きしている子どもを見ることも少なくありません。」
子どもに選択させるというのは、一見子ども主体に思いますが、実は礼儀から意見を言わせようとしたり、また、責任をとらせようという大人の考え方をあてはめていることが多く、子どもの意見を尊重しているというわけではないようです。ですから、かえって、このような礼儀正しさの強要は、わがままを言ったり、無理なことを強引に押し通そうとする子を生んでしまっているのです。それに比べて、日本では、こう考えているということが続けて書かれています。
「それに対して、日本では、子どもに自分で着やすい服を着せること、一緒に寝ること、子どもの行きたい方向に親も行くといった、子どもを中心とした生活をしているように思います。私の子どもの保育園の保育士を見て、いつも感動し自分も見習おうといているのは、子どもの怒りやイライラ感を無理やりにやめさせようとせずに、そのまま受け止め、子どもの気持ちをわかってあげることで子どもが素直になるということです。
日本の子育てがうまくいったときに、アメリカと違った意味での“子どもの文化”を伝えることで、子どもらしさが育っているような気がします。」
新入学の時期に、小1プロブレムについてのコメントがいろいろなところで言われていますが、1年生が自分勝手なのは、幼稚園、保育園時代に個性を重視しすぎるからということを聞くことがあります。しかし、私は、どうもアメリカのように子どもを早くきちんとさせようとすることに原因があるように思います。幼児期に、きちんと子どもを子どもとして扱われ、その時期の育ちをきちんと保障され、子どもの思いをきちんと受け止められた子ほど情緒が安定し、素直になると思います。また、1年生できちんとさせようと急ぐよりも、寺子屋のように、小学校に入っても、もう少しおおらかに、子どもらしさを保証してあげる環境を考えたほうがいと思うのですが。
「昔のように子どもをきちんとさせる」という「昔」とはいつのころのことなのでしょうか。戦時中のことなのでしょうか。礼儀正しい武家社会でも、子どもが大切にされていた「子どもの文化」が日本にはあったようです。
投稿者 fujimori : 23:22 | コメント (4)
2009年04月08日 [江戸文化]
許容
この絵は、謙堂文庫所蔵の「文学万代の宝」というものですが、沖田行司さんの書いた「日本人を作った教育」(大巧社)の扉に取り上げられています。その裏には、こんな説明が書かれています。
「近世の寺子屋を描いた浮世絵のほとんどが、このように一見して“学級崩壊”を思わせるような状況を描いている。むしろこうした状態が一般的であったのだろう。そこには、本来子どもは無邪気で生き生きとした存在であるという児童観が投影されている。子どもを小さな大人と見る視点が導入されるのは、子どもの世界に大人の秩序観が適応されてくる近代に入ってからのことである。このように、無秩序にみえても、一定の範囲と限界を越えたときには厳しい罰則が用意されていた。」
この「一定の範囲と限界」というのはどういうところなのでしょうか。ある意味では、人を許容する範囲でしょうが、これは子どもに対してだけではなく、他人に対して最近狭くなっている気がします。上杉謙信の家訓16カ条というのがありますが、その中の16番目は、「心に迷いなき時は人を咎めず」とあるように、人を咎めるときは心に迷いのある時で、すなわち、最近人に対して許容範囲が狭くなってきているということは、心に迷いが多い人が増えているということでしょうか。また、子どもをやたらと怒りつける人は、心に迷いの多い人なのでしょうか。
このような許容の心を持つ指導は落ちこぼれをなくし、学ぶ意欲を増していたと考えられます。そのような教育法は、何も理論的に構築されたり、マニュアルとして伝わってきたのではなく、実践から生み出されたものでしょう。そして、当時の子ども観が影響していると思います。この日本における子ども観が、私は今の時代に必要なことであり、世界でも先駆的な考え方のような気がします。それを前出の本にこう書いてありました。
「“子どもは未熟な大人”という欧米社会に根強くみられる児童観とは異なり、ある一定の年齢に達するまで、なるべく人間の手をくわえないで、子どもを自然の状態においてその成長を見守るという児童観が日本にはあった。今も各地に子どもを中心とするお祭りが多く残っているが、それは子どもが大人に比べて神に近い存在と考えられていたからである。」
だからといって、子どもは何をしてもいいというわけではなく、「一定の限界」がありました。寺子屋においても教育指導としての「罰」が用意されていたようです。この本にはどんな時に「罰」が与えられていたかが書かれてあります。
「不品行にして他人に妨害を加うる者」「怠惰にして学業未熟なるもの」「喧嘩争論するもの」「他人を欺き若くは盗するもの」とあります。「怠惰…」という項目以外は、基本的に他人に危害を及ぼす時で、いわゆる共生する社会人になるためのルールであり、自分だけが行儀が悪かろうが、あくびをしようが、姿勢が悪かろうが、そんなことは気にはならなかったようです。
また、罰するときにも、武士の子どもの教育では体罰は好ましくないものとされていたようです。誇りを重んじる武士社会にあって、その存在を否定するような体罰は、むしろ武士の誇りを傷つけるものと考えられていたからです。子どもといえども、一人の人間としての尊厳を守ってあげていたのですね。
投稿者 fujimori : 21:10 | コメント (4)
2009年04月07日 [江戸文化]
小野
寺子屋における教科書ともいえる「往来物」によく登場する人の一人に「小野小町」がいます。彼女は、女子のための往来物によく登場するようです。彼女は、クレオパトラ、楊貴妃と並ぶ世界三大美女の一人といわれています。また、百人一首の中にも収められているように歌の才能も多くの認めるところだったようです。しかし、その美しさゆえに恋多き女性として、華麗な恋遍歴を積み重ねていきます。その美貌も歳とともに衰え、多くの男性は去っていきます。そんな心境を歌にしたものが有名です。
「色見えでうつろうものは世の中の 人の心の花にぞありける」(花の色は目に見えて色などがはっきりと変わっていくことが分かるが、それに比べてその変り方が目に見えないのは、人の心だ)というように、人の心の中が変わっていく虚しさをうたっていますし、晩年には、あの百人一首でも有名な「花のいろは移りにけりないたずらに 我が身世に降る長雨せしまに」(いたずらに過ぎていく時の移ろいの中で、春の長雨が降っている間に、自分もただ眺めているだけで何もしないうちに色褪せてきてしまった。そんな今は、どうすることもできない)というような、美しさの人生は、最後は嘆きの人生のようです。
寺子屋の教材としては、あまり恋物語は適していないので、歌人としての紹介だったようです。それにしても、小野の小町はずいぶんと逸話が多い人物です。また、その逸話を題材にした能や浄瑠璃や謡曲などがあります。それらの作品群のことを「小町物」というほど一つのジャンルを形成していました。能の小町物には、和歌の素晴らしいよみ手として彼女をたたえるものと、恋物語を題材にするものなどがありますが、「卒塔婆小町」などに代表される小野小町が年老いてからの話などがあります。この話の挿絵には、年老いて、乞食になって卒塔婆に腰かけている姿が描かれ、とてもみじめなもので、こんな姿で、百人一首のあの歌を詠んだと思うと、みじめになりますね。
こんなに逸話を多く残した小町ですから、各地に彼女にまつわる場所があります。先日、妻と訪れた山形県にある「小野川温泉」もゆかりがありました。
小野川温泉の開湯の由来は、こんな伝説があります。承和3年(836)に小野小町が父親を探して京都から東北への旅を重ねます。そのころ父親は、出羽の守(山形県知事に該当)として山形に居たのです。僅かの供をつれた若い女性の孤独な旅でした。しかし、長旅で身も心も疲れ果てて米沢の街はずれの小野川までやっと辿り着いたとき、小川に自分の顔を写してみました。すると、川面に映った自分の顔は、疲れきって、鬼のように見えます。(後に土地の人達はこの川を鬼面川と呼ぶようになりました)そして、疲労が重なり大病を患って倒れてしまいます。しかし、小町は偶然その川辺に湯煙を見つけました。そこを少し掘ると滾々と湯が湧き出てきたために、これは天からの授かりものと考え、その湯に3日ほど浸かると、小町の体の内側から元気が湧いてきて肌にも張りがでてきました。そうして後もう一度小町は、おそるおそる川面に自分の顔を映してみました。すると、そこには今度は若く妖艶で美しい顔がありました。しかも、偶然釣りにきた父親とも再会する事が出来ました。さらに温泉療養を続けて、病気も完治し、京へ帰ることにしました。再び美しくなった小町は、京でまた貴公子たちの注目を集めます。しかし、残酷にも歳には勝てないということを思い知らされるのです。この小町が開湯した温泉は、「小野川温泉」と名付けられ、この地には「小町休み石」や「薬師如来尊堂」など小町に縁があるものが点在しています。天正17年(1589)には伊達政宗も湯治に訪れたそうで、米沢市の奥座敷として米沢十湯の一つに数えられています。
投稿者 fujimori : 23:27 | コメント (4)
2009年04月06日 [江戸文化]
教科書
今日は、小学校の入学式でした。卒園児たちが文部科学省から贈呈された新しい教科書を、ピカピカのランドセルに入れて挨拶に来てくれました。

いよいよこの教科書を使って授業が始まるのですが、1年生でも様々な教科があります。その中でも、とくに「国語」の授業が多く、全体の3.6割くらいを占めます。1.6割くらいを算数が占めています。寺子屋でも「よみ・かき・そろばん」が重視されていましたから、当然そこに時間を多く割いていました。その中でも、文字の習得が一番の課題でしたから、今でいう「国語」の授業は、全体の6~7割も占めていたようです。
文字に関して、小学校学習指導要領では、「平仮名及び片仮名を読み,書くこと。また,片仮名で書く語の種類を知り,文や文章の中で使うこと。」「第1学年においては,別表の学年別漢字配当表の第1学年に配当されている漢字を読み,漸次書き,文や文章の中で使うこと。」とあります。おおざっぱに言うと、平仮名47文字、片仮名47文字、漢字80字です。ところが、寺子屋では、このほかに「変体仮名」がたくさんあり、それも覚えなければなりません。漢字も、学年ごとに配当されていたわけでもありませんでしたし、名前に使う漢字もずいぶん難しいものもありました。それをどう教えたのでしょうか。寺子屋の楽しい勉強法「子どもたちは象をどう量ったのか?」(西田知己著 柏書房)の中で紹介されています。
「寺子屋の師匠は“いろは”順にこだわらず、身近なところから言葉を増やしていくよう指導していました。鳥や花など、すでに知っているものの名前を書かせ、読み書きの能力を広げていったのです。だんだん文字が読めるようになり、身の回りにあるものの名前の知識も増えてくると、それに応じて読む分量も増やされていきます。単語をつなぎ合わせた、やや長めのフレーズに進み、そして今度は、ひとまとまりの内容を持つ文章へと次第にステップ・アップしていきます。」
その内容は、まあまあ今の教科書と大差なさそうですね。しかし、そこには実は大きな違いがいくつかあります。まず、一斉に前で先生が講義をするという形でないために、ステップ・アップしていく教材や時期は、個々によって、違っているのです。また、学びが自発的であるために、そばであくびをしていたり、顔に墨を塗ったりしてふざける子がいても先生はあまり気にしません。
教科書の内容も今と少し違っていました。今の国語に取り上げられている文章は「説明文」と「物語文」です。それに対して寺子屋での教科書(往来物)は、寓話タイプの昔話が多かったようです。これも物語文ではありましたが、社会性のある教訓が織り込まれていたようです。
また、机の並べ方も自由でした。寺子屋に入学するときにそれぞれは机を持ち込んでいました。それを、好きな所に好きなように並べていました。たとえば、みんなで輪になり、向き合ってお互いの顔が見えるようにして手習いをしている絵が前出の本に紹介されていました。
以前のブログでも紹介しましたが、アメリカでは、授業の導入時は、教師は子どもたちを教室の床の上に車座に座らせて、自身はその中心に陣取って説明を行います。そして、この車座のガイダンスが終了すると子どもたちは次々とグループや個別の学習作業へと移行していきます。移動する先は様々であり、床の上に寝そべって本を読み始める子ども、机の下に入り込んでコミュニケーションをとる子どもなど学習の姿勢も様々です。
なんと、江戸時代の寺子屋にその原型を見ているようです。
投稿者 fujimori : 16:44 | コメント (5)
2009年04月05日 [江戸文化]
小1
東京都教育委員会では、平成16年に「東京都教育ビジョン」というものを出しています。その中で「幼稚園・保育所・小学校の連携強化による小学校への円滑な移行」が提言されていますが、その意図として「現在、小学校では、「小1プロブレム」と呼ばれるような状況が生じており、幼児期からの心の教育や幼稚園・保育所と小学校教育との接続の重要性が改めて注目されている。」とあります。
私は、幼小連携は大切だと思います。子どもたちの発達は連続性があり、行く施設が変わる時の連続性をどう保障していくかはとても重要な課題です。しかし、ここにあげられている「小1プロブレム」は連携の希薄さからだけでしょうか。先月に品川区の新しい取り組みが新聞で紹介されていました。
「小学校に入った児童が授業中に座っていられないなどの「小1プロブレム」に対応するため、東京都品川区教育委員会は、幼稚園・保育園と小学校の一貫教育のカリキュラムを作ることを決めた。集団生活のルールなどを教え、就学前後の教育の連続性を得る目的。2010年度にも導入する。区立・私立の幼稚園や保育園の園長、区立小の校長、学識経験者らを集めた「就学前教育推進委員会」を5月に設ける。カリキュラムは、入学前の10月頃から小1の6月頃までの子供が対象。集団生活に慣れるよう、ドッジボールや合奏など集団で力を合わせる体験を盛り込む。「トイレには休み時間中に行く」など、入学後に必要になるルールも教える。幼稚園などには小学校教員が出向いて教える方法などを想定しており、入学までに簡単な計算やひらがなの読み書きを教えることが出来ないかも検討している。」
先月卒園していった子どもたちは、いよいよ小学校生活が始まります。その子たちは、園では集団で過ごしていました。当然トイレには自分ひとりで行き、お集まりなどではきちんと座って先生の話を聞いていました。また、集団で遊ぶときには当然ルールがあり、それを守らないと他の子から注意をされていました。「東京都教育ビジョン」の中で書かれている「小1プロブレム」について注釈が書かれてあります。
「4月 小学校に入学したばかりの小学校1年生が集団行動が取れない、授業中に座っていられない、話を聞かないなどの状態が数ヶ月継続する状態。これまでは1か月程度で落ち着くと言われていたが、これが継続するようになり就学前の幼児教育が注目され出した。」
なぜ、こんな状態になるのでしょうか。また、この状況に対して「就学前の幼児教育が注目」というのはわかりますが、どうして、「就学後の学校教育の在り方の見直し」を考えないのでしょうか。寺子屋での教育を見ると、6,7,8歳の授業態度は今の時代からすると、かなりひどいものがあります。それを認めて、本人の自主性を重んじた教育が、教育効果を上げているのです。最近、子どもたちの学力が低下してきているといわれていますが、その原因の一つにじっと座れなかったり、きちんと人の話を聞けないということがあるといわれています。しかし、どうして寺子屋のような授業態度で、成果が上がっていたのでしょうか。
投稿者 fujimori : 22:07 | コメント (5)
2009年04月04日 [江戸文化]
男女
今年の初め、NHK総合テレビで、NHKスペシャル「女と男」という番組を3回シリーズで放送していました。その第2回目のテーマは、「何が違う?なぜ違う?」ということで、男女の差についての放送でした。その番組の中で、男女平等の国の代表であるアメリカで新たな“男女区別”がはじまっているという内容で、小学校や中学校の義務教育現場で、男女別授業を行う学校が増えていることを紹介していました。私が子どものころにも、男女別々に授業をしたことがありました。それは、家庭科とか保健体育の授業です。なぜ分けたかというと、男女に対して教える内容が違っていたからです。それは、ある刷り込みによって、男女の役割分担をしていたからです。それはおかしいということで、男女が同じ内容を、同じ教室の中で授業を受けることになりました。しかし、同じといっても、成長期には特に男女の差=性差が出てきます。そこで、それぞれの性に合った教育をしようという試みです。すなわち、教える内容は同じでも、その教え方、学び方に男女差があるのではないかということです。
この性差について医学の分野でも、病気の男女の違いを重視する動きが広まっています。こうした動きの背景にあるのは、最近、次々と新たな男女差が見つかっているからのようです。特に、脳は、性ホルモンなどの影響で性差が生まれていることが最近になってはっきりしてきました。そして、その差は、「同じことをしていても、脳の使いようが男女で異なっている」ということがわかってきたからです。では、脳の使い方が違うというのはどういうことかというと、「男女それぞれで得意なことが違う」ということです。では、なぜ人間は男女で得意なことをわざわざ違うようにしたのかというと、「ともに生き延びる」ためであるといいます。狩猟採集時代では、ヒトの祖先はいつも飢えとの戦いのなかにあったために、役割分担をしていろいろな食糧を確保する生存戦略を採ったといわれています。
脳の使い方に男女差があるということは、教育方法を変えてみようと思うかもしれませんね。番組の中では、授業を女子はみんな仲良く、みんな友達だと言って姿勢を正しくして話を聞くと身になるようですが、男子は、ハイハイと競って手を挙げて、床に転がったり、姿勢を悪くしたほうが身になるというのです。ということで、園や学校で、「姿勢を正しくして、前を向いてきちんと先生の話を聞きなさい!」というのは、女子には通じますが、男子の場合は、そうすることで耳を素通りしてしまって、身にならないといいます。ということは、園や学校では、女性脳に向いているような授業がされているのではないかということが言えそうです。
知能テストを解くときに使った脳の場所を調べたところ、男女で違っているらしいという事実が浮かび上がってきています。得意な能力を生かせるように、男女では脳のネットワークが異なっている可能性が高いということがわかってきた今、ただ、大人の一方的な論理から子どもに「きちんとしなさい!」「背筋を伸ばして!」という声かけは、子どもの得意なことを失わせているかもしれません。思い思いの格好での学びを寺子屋ではおおらかに認めていたようです。それが、江戸時代の日本が、世界最高の教育水準を誇る教育先進国であったゆえんのような気がします。
投稿者 fujimori : 21:28 | コメント (4)
2009年04月03日 [江戸文化]
一斉
小学校の新1年生が入学式を終えて、教室に入るとまず何をするのでしょうか。私は、新しい学校建築を体験するために小学校に勤務したことがありますが、新1年生を担任したことを思い出します。体育館で入学式を終えて教室に戻る途中で、並んでいた一番後ろの大きい子が手をポケットに突っこんで、ぶらぶら歩いていました。そこで、私が「手をポケットから出しなさい。」というと、「うるせえなあ、てめえだってするくせによ!」と言われたのです。この後の経緯については、かつてブログで書いたのでここでは書きませんが、そのあと教室に入ると、みんなきれいに並んである机の前に立ちます。そして、一斉に「起立!礼!着席!」という号令のもと、イスに座ります。この日から、子どもたちは延々と何年も机の前に座って、多くの時間は先生の話を聞いて過ごすことになるのです。考えてみると、なんともすごい話です。
このような一斉授業に対して、最近多くなっているのが学習塾などで見られる個別指導といわれるものです。しかし、どうもこの定義はあいまいで、塾によって違うようですが、多くは講師1人に対して生徒が少人数であるとか、いわゆるマンツーマンで指導することを指しているようです。一斉に多くの人数を相手にするよりは、少人数を相手にするほうがきめ細かな指導ができるというものです。
では、寺子屋などで行われた個別指導というのはどのようなものだったのでしょうか。どうも、塾で行われているような個別指導とは少し違うようです。また、「江戸の学び」(河出書房新社)の本の中から読み取ってみたいと思います。まず、一斉授業の象徴である教科書ですが、寺子屋ではどのような教科書を使っていたのでしょうか。たとえば、「読み書きそろばん」となると、当然手本が必要になってきます。これも以前のブログで紹介しましたが、「往来物」という往復書状を師匠が書き写した手書きの「お手本」が渡されました。それを見ながら「草紙」という練習帳に写していくのです。その時に、「個別指導」というのは、個別に教えるということではなく、その子にあったお手本が渡されるということのようです。本の中で群馬県のある寺子屋の例が書かれています。「師匠が弟子一人ひとりの必要性を勘案して策定した計62人分の個別学習カリキュラムを記した「弟子記」「次弟子記」がつくられた。一人ひとりの名前を挙げて、そのものが学ぶべき教科書である往来物が選択されている。」
いわゆる学習は自主性と自発性を持って行われていたために、個別指導というのは、個別の習熟度によって教材を変えたり、指導内容を変えたりしたということで、教え方の問題ではないということで、特に、一人ひとりを相手にしたということではないのです。そのように環境をその子にあったものを用意するということがきめ細かいということで、教師一人当たりの子どもの人数を少なくして指導するようであれば、かえって、一斉よりも管理が強くなってしまうことになるのです。
このような寺子屋での個別指導は、画一性や落ちこぼれをなくし、おおらかな教育を生んできました。本の中で、「もしも、寺子屋で一斉教授を行おうとすれば、寺子屋で起きていた子どもたちの悪ふざけは、学習の障害として排除されなければならなかったであろう。子どもたちのおおらかさは、寺子屋で採用されていた個別教授のあり方に強く規定されていたのである。」
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2009年04月02日 [江戸文化]
学齢
来週には、小学校の入学式があります。東京では、桜の開花は早かったのですが、そのあと冷え込んだために入学式のころは、桜が満開のようです。「サクラ咲いたら一年生 ひとりで行けるかな 隣に座る子いい子かな 友達になれるかな 誰でも最初は一年生 ドキドキするけどドンといけー ドッキドキドン!一年生」
日本では、小学校への入学は、学校教育法(昭和22年)第22条によって定められています。「保護者(中略)は、子女の満6才に達した日の翌日以後における最初の学年の初めから、満12才に達した日の属する学年の終わりまで、これを小学校(中略)に就学させる義務を負う。(後略)」このことにより、保護者は6歳になると小学校に行かせる義務があるという「義務教育」という考え方が生まれます。そして、学校に就学して教育を受けることが適切とされる年齢のことを学齢といいます。戦後の日本では、義務教育の対象年齢のことを学齢と称するため、日本国籍者についての学齢期と義務教育期は同一のものをさしていることになります。
しかし、この学齢期が小中学校教育を受けるのに最適な年齢であるかどうかは個人によって違います。そこで、多くの外国では、児童の発達に合わせて小学校に入学する時期を猶予して基準年齢を遅らせたり、逆に早めたりすることがあります。日本でも義務教育への就学猶予という制度もあります。その理由としては、病弱、発育不完全その他やむを得ない事由のために就学困難と認められる場合です。しかし、多くの外国では、特にヨーロッパでは学齢に達した児童が学校の授業に適応できる程度まで成長しているという「学齢成熟」に達しているかいないで判断することが多いようです。ドイツ連邦共和国などでは、その時期は、保護者や現場の教員などの意見が反映されます。こうすることで、小学校入学後に落ちこぼれて落第をすることを減らせるというメリットがあるようです。
日本では、あくまでも年齢主義をとっているので、原級留置処置といういわゆる落第もあまり見られません。外から見える形がみんなと同じでないと、可哀そうという考え方が強いようです。しかし、江戸時代の寺子屋ではどうだったのでしょう。
寺子屋でも基本的には入学年齢は決められていましたが、その運用では、現在のヨーロッパをはじめとする諸外国と非常に近いものがありました。それは、実年齢というよりも成熟年齢で判断をしていました。しかし、それも面白いデータがあります。それは、地域差があるということです。江戸と下野との表が「江戸の学び」(河出書房新社)にあります。寺小屋への入学年齢が下野では、1歳1名、2歳3名、3歳7名、4歳2名、5歳11名、6歳6名、7歳4名、8歳4名、9歳3名、11歳1名、12歳1名です。ずいぶんと各年齢に散らばっています。それに比べて江戸では、6歳26名、7歳8名、8歳6名、9歳3名、10歳1名、12歳1名となっています。当時は義務教育ではありませんが、江戸では、6歳になったら寺子屋に通わせるという均一的な考えが強かったようです。また、小さい年齢から預けるのは早期教育ということではなく、先日のブログでも書きましたが、地方では、寺子屋は託児的な意味合いが強かったからでしょう。ただ、成熟してから入学をさせるという意味の就学猶予はどちらの地域でも行っています。
周りの目を気にせずに、本当に子どものことを考えると、そうなるのかもしれません。
投稿者 fujimori : 22:56 | コメント (4)
2009年04月01日 [江戸文化]
寺子屋の生活
寺子屋に子どもを出す時、親はどのような心境だったか、子どもたちはどのような心境だったかが「江戸の学び」の中で市川寛明さんが紹介している川柳で読み取ることができます。
「手習子 腹が痛いと 母に言い」という句を読むと、学校に行きたくないと思った時に、母親に「おなかが痛い!」というのは変わらないようです。しかも、母親というものは、それはわがままで行きたくないと思う反面、本当におなかが痛かったらどうしようと心配します。私は、行きたくないときに、おなかが痛いといわゆるうそを言っているのではなく、行きたくないときには本当におなかが痛くなるのだと思います。多くの病気は、気の持ち方でそのような症状になることがあるのです。ですから、その気持ちを理解してあげなければ、おなかの痛いのは治らないでしょう。
「いきは牛 帰りは馬の 手習子」学校に向かう子どもの様子が目に浮かびます。登校する時には、朝からなんとなくだらだらして、歩くときもぶらぶらしますが、帰ってくるときは一目散に飛んで帰ってきます。これは、会社に行くお父さんにも言えることかもしれません。子供だけを責められませんね。
「手習子 弁当箱を さしに持ち」「昼飯を 外から怒鳴る 手習子」寺子屋では、給食がありません。だからといって、みんなお弁当を持ってきたわけでもなく、それぞれの家庭の状況、考え方でお弁当の子や自宅に帰って食べる子などさまざまであったようです。これは、外国と似ています。だからといって、差別観を持つとか、可哀そうということよりも、個々のあり方を尊重するといった今の時代の先端の考え方です。
「さはがしい 八つ上りまへ 九々のこゑ」寺子屋の授業は、基本的には個別指導です。一斉に教師が声を張り上げて、みんなを前に向かせて講義をするという形はとりません。しかし、寺子屋の終了時間である八つ(おやつというように、今で言うとだいたい午後3時ころ)になると、みんなで集まって「お帰りの会」のようなものをやっていたようです。そこでは、みんなで声をあわっせて九九を暗唱していたようです。
その暗唱が終わると、子どもたちは一斉に、蜂の子を散らしたように部屋から外に飛び出していきます。「手習子 蜂の如くに 路地から出」子どもたちが出たあとの部屋は、嵐お後の静けさのように、突然静かになります。「手習の 跡は野分の 八つ下がり」この句からは、いわゆる授業中でも、そんなシーンと静まり返っているのではなく、かなり子どもたちは自由にしていたようです。それは、帰宅したわが子の顔を見ればわかります。
「八下り 母の吹き出す 黒坊」顔に墨をつけて帰ってきた子を見て、叱るよりは吹き出してしまいます。隣の子とふざけあっていたのでしょうか、また、先生に怒られて顔に墨を塗られたのでしょうか。こんなおおらかな親子関係はほほえましいですね。そして、「急いで顔を洗っておいで!」と言いつつ「手習子 母の頼みで 糠袋」今でいう石鹸の代わりのぬか袋を子どもに渡します。「顔を洗ったら御飯だよ!」という母親は少し前までいたような気がします。「手習子 一皮剥けて 飯を喰い」
このようなおおらかで、自由にのびのびと生活、勉強をしている子どもたちは、当時、世界の中でも非常に高い学力を持っていたようです。このころの寺子屋に、もう一度学ぶべきかもしれません。
投稿者 fujimori : 22:17 | コメント (4)
2009年03月31日 [江戸文化]
新入学
今日で3月が終わり、学校や園などの年度が終わり、明日からは参勤交代が行われた4月、新しい年度がはじまります。この4月入学は、富国強兵政策の影響で、1886年(明治19年)に政府の会計年度が4月-3月になったことから、会計年度に合うよう、小学校で4月入学が奨励されるようになりました。そして、1900年(明治33年)からは、小学校が正式に4月入学となりました。
江戸時代までの寺子屋や私塾や藩校などでは、特に入学の時期を定めず、いつでも入学することができました。しかし、庶民の子ども達の多くが通った寺子屋の入学は、「此日小児手習読書の師匠へ入門せしむる者多し」という言葉があるように、2月最初の「午(うま)の日」である「初午」だったようです。この日は、本来は旧暦二月の最初の午の日でしたが、今では新暦2月の最初の午の日とされています。ですから、初午の入学というと、現在の暦ですと冬の一番寒い時期となってしまいますが、元々は春先の入学でした。 この初午は、全国で稲荷社の本社である京都の伏見稲荷神社の神が降りた日が和銅4年のこの日であったとされ、全国で稲荷社を祀ります。そろそろ春めいてきたころに、四季のうつろいを敏感にとらえ、その中に“もののあわれ”を見出した当時の人々は、“初午”にはこぞって稲荷社に詣でたようです。
入学式を控えた新1年生は、ドキドキしているでしょうね。江戸時代に寺子屋に入学する子たちはどんな気持ちだったのでしょうか。現在、1年生には6歳で入学しますが、寺子屋へは早い者で5歳、普通は男女とも6~7歳で入学したようです。当初、一部の裕福な家柄の子どもが入学していたころは、「寺入り」とか「寺上がり」と呼ばれ、子どもたちは裃(かみしも)を着て正装して通いました。しかし、手習いが一般庶民にも浸透するようになると、礼服を使用しなくなり、同時に江戸の庶民教育が広くいきわるようになっていきました。この時期から、日本における教育が世界の中でも珍しいほど就学率が高くなっていくのです。それは、入学金ともいえる寺入りする際の謝礼が、ボランティアなどが教えるようになり、庶民が通うことができるほど少なくなっていたからではないかと思います。
では、入学当初、子どもや親たちはどんな様子だったのでしょう。江戸古川柳研究家、渡辺信一郎さんの「江戸の寺子屋と子供達」には「初午の日からおっかないものが増え」という川柳が紹介されています。家族や近所の人しか知らずに育った子どもが、初めて寺子屋で厳しい師匠の指導を受けることになる様子がわかります。いつの世でも、就学前までは子どもたちは自由奔放に駆けずり回っていたのが、寺子屋に入って、初めていろいろと注意をされるのでしょう。また、「江戸の学び」の中では市川寛明さんが紹介している川柳があります。「初午の日から夫婦は ちっと息 七つから寺子屋に もり仕てもらう」寺子屋にある時間子どもがいくようになって、夫婦がやっと一息つけるというのは、やはりいくらかわいい子どもでも、ずっといると疲れてくるのは今でも同じですね。この本には、寺子屋は学習の場だけではなく、育児、保育の代替の側面もあったと書かれてあります。「初午は 世帯の鍵の下げ始め 初午は まず錠前を覚えさせ」という句から見ると、子どもが寺子屋に通い始めて、母親が仕事をはじめ、いわゆるカギっ子になるということでしょう。そのほかにも、そのころの心境などを呼んだ句がいくつもあるので、あした、他の物も紹介します。
投稿者 fujimori : 23:41 | コメント (4)
2009年03月30日 [江戸文化]
4月
4月になると、新学期が始まります。新1年生は、新たな生活が始まります。その時期が、外国では9月のところが多いのですが、日本では4月というのは、四季の中で、門出の時期としては桜が咲き乱れ、さまざまな生き物が長い冬を終えて、一斉に息づく季節ということでふさわしいのでしょう。
江戸時代に、やはり4月に新たな生活が始まる習慣がありました。江戸幕府が大名を統制するために寛永12年(1635)に制定された基本法令「武家諸法度」の第2条にこんなことが定められています。
「大名・小名在江戸交替相定ムル所ナリ。毎歳夏四月中、参勤致スベシ。従者ノ員数近来甚ダ多シ、且ハ国郡ノ費、且ハ人民ノ労ナリ。向後ソノ相応ヲ以テコレヲ減少スベシ。但シ上洛ノ節ハ、教令ニ任セ、公役ハ分限ニ随フベキ事。」(大名や一部の旗本は自分の封地(領地)から江戸へと(1年ごとに)毎年4月に参勤すること。最近はお供の数が多く、領地や領民の負担となる。今後はふさわしい人数に減らすこと。ただし上洛の際は定めの通り、役目は身分によること。)
「参勤」とは、江戸に伺候することで、「参勤」を終えると、大名はお暇をいただき、江戸から封地に戻り、自分の領地で支配に就きます。これを「就封」といい、これを総称して「参勤交代」といいます。このような制度の中で、江戸に赴くのを毎年4月にしなさいと定められているのです。しかし、4月交代は外様大名においてで、その後の制定で、関八州の中の譜代大名は2、8月交代か、12、8月交代で、半年ごとに交代することなどが定められています。
それにしても、素晴らしい決まりを作ったものです。素晴らしいというのは、もちろん、徳川政権の長期支配をねらったもので、十分にその機能を達成しました。参勤交代は、諸大名に出費を強いることでその勢力を削ぎ、謀反などを起こすことを抑止するためだったとされています。また、道中は軍事訓練の一環として位置付けられていました。ですから、本陣で夜大名が休むときにも控えの間の家臣たちは一晩中起きていたそうです。
しかし、参勤交代の制度によって、いいこともありました。江戸と封地を往復する大名行列の往来は、5街道をはじめ、瀬戸内航路などの水陸交通網の整備をもたらしました。また、彼らが宿泊や休憩をする場所である本陣や旅籠が発展し、そこに商家を中心とした宿場町や港町ができました。また、大名をはじめとして、その家来たちが江戸と地元を交代することで、お互いの文化が交流します。特に、情報がない時代に、江戸の文化、風俗、考え方、土産品などが地方にもたらされ、江戸の文化を模した「小江戸」が各地にできました。
この「武家諸法度」は、最初は徳川秀忠の名でだされていますが、実際は、徳川家康が以心崇伝らに命じて起草させ、1635年の大改訂の時の起草は林羅山が行っています。その改訂版に参勤交代が明記されたのです。この制度によって大名へのけん制の意味だけでなく、その経済効果は莫大であったようです。高速料金一律1000円の効果と比べてどうでしょうか。しかし、武家諸法度には、このほか、道路交通を停滞させてはならないことや私的な関所設置の禁止も定められており、高速料金一律1000円による渋滞や、料金所のトラブルが多いことなどからすると、よほど配慮しているようですね。
投稿者 fujimori : 23:53 | コメント (4)
2008年02月04日 [江戸文化]
小紋
私の園がある場所は、新宿区下落合ですが、以前のブログでも紹介したように、新宿というと思い浮かべるような超高層も、飲み屋街もなく、周りは、この地域の地場産業である印刷屋さんと染物屋さんが点在しています。
新宿・神田川流域は、東京染小紋、江戸更紗の工房やその染の関連業種、東京手描友禅の職人さんなどが集まり、東京で一番大きな染の主産地となり、一時期、全国の染の産地と披見される場所になったのです。その江戸小紋とか江戸更紗の反物を地域の工房から分けてもらって、園の装飾に使っているのですが、私は、あまりそれらの違いや、小紋の文様などには詳しくありません。それは、最近着物を着なくなってきている日本人みんなに言えることではないでしょうか。江戸の美意識の中で、文様の美も見直すことが必要かもしれません。
もともと小紋というは日本の着物の種類の一つです。そして、江戸小紋のルーツは武士の裃にあります。江戸時代、各藩は、家紋同様、将軍家を筆頭にそれぞれの着物の柄をその家で決めてシンボルとしました。その柄を見ると、どこの藩かすぐにわかるようにです。しかし、その模様付けの豪華さを張り合うようになり、江戸幕府から規制を加えられます。ですから、遠くから見た場合は無地に見えるように模様を細かくするようになり、結果、あの細かい柄の小紋が生まれたようです。しかも、いかにも江戸っこらしいのですが、型紙を使って染める小紋なので、細かい柄ほど型彫りも染めも技術が高度なため、こぞって細かい柄に挑戦し技を競い合ったのです。型屋と染め屋の意地の張り合いによって完成された極々の柄こそ江戸小紋の真髄と言われているのです。
それが、江戸中期になると庶民の間でも着物や羽織に小紋を染めるのが流行り、こちらは生活用品など身近にある物を細かい模様にして洒落を楽しんだり、動植物を抽象化した柄や縁起をかついだり、語呂合わせの遊び心のある柄が数多く生まれました。
どんな柄があるかというと、別格小紋という、型付けに至難の技の要る究極の柄で、江戸小紋の中でも格別の扱いをされているものや、小紋御三家とよばれるような、錐彫りの型紙から得た柄の中で、最高級とされる三品があります。これらは、「超極毛万微塵筋」という文様の名前から見ても、日本で最も細い縞柄や、繊細な縞模様であるように、とても細かい柄です。小紋御三家といわれている文様は、紀州島津家の定柄として最も有名な柄である「極々鮫」と、斜に整然と並ぶ柄の「極々行儀」と、碁盤状の微細な柄である「極々角通し」です。これらは、江戸の美を感じる文様ですね。

「極々鮫」と「極々行儀」
また、縁起を担いだり、しゃれた、やはり江戸っ子の心意気を感じる柄に、「いわれ小紋」というのがあります。例えば、「宝尽くし」という柄は、一面に縁起物を集めた柄で、金運に恵まれるとのいわれていますし、「南天の実」という柄は、難(南)が転(天)じるの語呂合わせから、縁起を担いでいます。「竹に雀」という柄は、竹林に雀は相性が良く、この柄を着ると良縁に恵まれるといわれています。

「宝尽くし」と「南天の実」

「竹に雀」
しかし、地色と柄色との二色で染め上げられる「江戸小紋」の真骨頂は、派手さではなく、極端に派手さを抑えられた職人たちが、色数を抑える一方で柄の細やかさにシノギをけずることでその「粋さ」を表現しようとしたのです。
投稿者 fujimori : 23:01 | コメント (4)
2008年02月02日 [江戸文化]
箸
昨日の読売新聞のコラム研修手帳の書き出しにこんなことが書かれていました。
「以前、京都を旅した折、古今のめずらしい箸を集めた小さな資料館を訪ねたことがある。中国のものという銀製の箸もあった。いわゆる「毒味箸」である。ヒ素などと反応して瞬時に変色することから、古く中国では毒殺を恐れる権力者が銀の箸を用いたとは聞いていたが、実物を初めて見た。食卓という心くつろぐ場所でも警戒心を解くことのできない身分に、同情したおぼえがある。」
箸の文化は、東アジア地域を中心に広くあるようですが、中国や韓国の支配階級に使用されていた銀製の箸にそのような文化があったり、朝鮮半島では戦乱が多かったため、箸に耐久性が求められたので、短く、やや平たい金属製のものを使うことが多いというような文化があるのは悲しいことですね。それに引き換え、日本における箸の文化は、昨日の懐石料理に使われる利休箸のように、ある神事や「美」を表したものが多いようです。それは、使い捨てである割り箸にもこだわりがあるようです。
箸というものは、もともとは単純なもので、二本一対になった棒状のものです。ですから、そのバリエーションは、その材質と、両端の削り方と、装飾の仕方くらいの違いしかありません。箸は、基本的に棒のどちらか一端のみが食べ物に接触し、そこを「先」、持ち手のほうを「天」といいます。用途は、食事用と調理用があり、数え方は、食事用の箸は2本で一膳、調理用は一組、一具と数えます。
利休箸とは、両端を細く削って角(面)を取った箸のことをいい、室町時代に茶の宗匠である千利休が、茶席でもてなす時に愛用したと伝えられているので、そう呼ばれています。
柳箸という、祝いの席や、正月に「祝い箸」として用いられる柳の箸があります。材料として柳を使うのは、柳は新春真っ先に芽吹く「芽出たい」木であるということと、邪気をはらう木とされているからです。また両端とも細くなっている形は、一方は神様、もう一方を人が使う「神人共食」を意味しています。寸法は、末広がりの八寸(約24cm)が基本です。暮れになると、このような箸がおせちの材料と一緒に売られています。
食事用で、自分ひとりだけが使う箸のほかに、取り箸といって、共有する箸もあります。青竹の取り箸といわれるものです。青竹を削って作る箸で、竹ですから、当然、節があるのですが、この節を上手に活用します。その節が真ん中にあるのが「中節」、天の端にあるのが「天節」、両端を細くしたものが「両細」というように三種類あります。
食事といっても、菓子を取るための箸にも、装飾的工夫があります。黒文字の菓子箸といって、黒文字という木の皮を一部残して削った箸です。茶道などで、お菓子を盛った鉢に添えておきます。ここが菓子を食べるときに使う楊枝にも同じような物があります。
割り箸にも、様々に名前のついた箸があります。天削箸は、割り箸の天の部分を鋭角的に削ぎ落とし木目(杉、桧など)の美しさを強調しています。元禄箸は、割り箸の四つの角を削ってなめらかにし、割れ目に溝をつけて割りやすくした中級品ですが、木の分量を減らしたことを、江戸幕府が金の含有量を減らして元禄小判を作ったことに掛けた名前です。
毒味箸と比べて、日本の箸の名前の付け方は、どれも、とても粋な名前の付け方ですね。
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2008年01月31日 [江戸文化]
江戸の美意識
もうずいぶん前のことになりますが、若い人が「超ダサい」というように、何かにつけて「超○○」と言っていたことがありました。これは、「とても」とか、「非常に」という意味でしょうが、なんとなく、それとはちがう驚きの響きが入っているのでしょうね。そのような言葉に、主に関西で使う「ど」があります。「ど根性がえる」の「ど」です。頭に「ど」をつけて、オーバーに大きく表現するときに使います。「ど貧乏」「どえらい」「どでかい」「ど真ん中」などと使い、私が子どものころのけなし言葉に「どすけべ」などもありました。
しかし、どうも、こういうように物事をオーバーに言うのは、江戸では、「粋ではない」と思われていたようです。この「ど」のように頭につけてその言葉のニュアンスを少し変える言葉で、江戸の美意識を表したものに「こ」というのがあります。これは、粋のなかから出てきたことばです。この「こ」をつけてその言葉の響きから来るニュアンスを変えました。
たとえば、「小綺麗」「こざっぱり」「小気味いい」「小粋」「小じんまり」「小ぎれい」とか頭に「こ」がつきます。また、肉体と結びつけて「小耳を傾ける」「小首をかしげる」「小腰をかがめる」「小手をかざす」「小股の切れ上がった」「小膝をたたく」などに使われている「小」は、抑制をあらわす副詞です。「日本の美学」安田武・多田道太郎 編(ぺりかん社)という本には、「古くから持ち続けている日本人古来の美意識は、世界と比べ非常に独特なものである」といっています。その中に、「小(こ)というもの」を考察した部分があります。「この言葉が出てきた背景には、何事も一歩下がって、控えめで目立たないようにしようとすることからきている。「小手をかざす」というのは、ちょっと手をかざすことで、「小膝をたたく」は、大げさにたたかないこと。つまり、そこには研ぎすまされた「抑制」と「慎み」が存在する。人が自身の感動などの喜怒哀楽を大げさに表すことは、なんだかおかしいし、はずかしいことであるといった意識があり、そこには、型の美学、日本人独特の美意識が垣間見えるのではないか」と書かれています。ちょっとした~を表すいい方ですね。
逆に、「ど」ほど大げさではありませんが、やや強めていう場合に「こ」を使うこともあります。たとえば、「小気味がいい」というのは、(手際のよさや鮮やかさに)快い感じを受ける。痛快である。ということで、「気味」をやや強めて言う言葉ですし、「小ぎたない」は、小ぎれいと正反対で強調の「小」です。
また、「小」が付くと言葉の意味が変わってしまうものもあります。「小ざっぱりした服装」とはどのような服装か。という問題がありました。三択で、A:清潔で感じがよい服装 B:もの静かで落ち着いた服装 C:地味で飾り気のない服装 答えは、[A]です。全く意味が違ってしまうのは、「小利口」は、おばかさんのことで、「小役人」は、ずるい人のことをさします。「小姑」も、配偶者の姉妹ですが、意地悪なニュアンスが入ってきますし、「小悪魔」は、可愛い女の子を指しますが、そこには、悪魔的な誘惑が感じられます。
この微妙さは、日本古来の美意識かもしれません。
投稿者 fujimori : 22:48 | コメント (4)
2008年01月30日 [江戸文化]
粋
江戸文化の中に、「通」と「粋」があります。「粋」も「通」も、主に関東で使用される美意識です。ところが「粋」の美学は関西ではありえないそうです。関西では、「粋」よりも「雅」が大切にされているようです。
関西でも「粋」という言葉はありますが、関東では、「粋」を「いき」と読みますが、関西では、「すい」と読むようです。しかし、関西で、粋(すい)な人を「粋人(すいじん)」といいますが、江戸の言葉には粋人(いきじん)という言葉はありません。関西の粋人は、江戸では「通人(つうじん)」と言います。どうも、関西の「粋(すい)」は、関東では「通」に近いようです。「通人」とか「粋人(すいじん)」は、人情とか物の道理をきちんとわきまえている人とか、いろんな知識を持っている人とか、あるいは花町や文化・芸術に対して、とても詳しい人のことを指していいます。人情や世態・色事などに通じる事を意味しています。ですから。「通」とか「粋(すい)」とは、ある分野のことがよくわかっているとか、こういう色をしているとか、行動によってそれをあらわすことができることで、行動の原理だといわれています。
それに比べて、江戸で言う粋(いき)はまったく意味が違うようです。ある行動を表すのではなく、ある生き方とか生き様とかが生む美意識なのです。日本のことを良くわかっている外国人が、「粋(いき)という言葉は、「シック」だとか「スマート」だとか「エレガンス」という言葉では全然かなわない、違った次元の美意識であり、洗練された美である」と言ったそうです。
この「粋」という江戸深川の町人の間に発生した美意識(美的観念)は、身なりや振る舞いが洗練され、格好よいと感じられていました。そうでないことを関西では、「無粋(ぶすい)」といいますが、関東では、「野暮」といい、「野暮ったさ」は格好悪いとされていました。
では、「粋」とは、どんな美意識だったのでしょうか。「張り(意気地)」「媚態」「垢抜け」の三つ条件が必要であると定義されています。例えば、どんな姿として現れているかといえば、女性に対して「湯上り姿」「ほっそり柳腰」「流し目」「薄化粧」という言葉で表されるように、取り澄ましたような気取った色気ではなく、極めて洗練された美しさを伴なう色気が必要だったようです。
男性では、町人ふうの、渋くあっさりさっぱりして、気前が良く嫌味じゃない気質をさしているようです。言い表し方では、「宵越しの銭は持たない」「人情・世情に通じている」「物事の道理をわきまえている」「財力があってもそれを誇示しない」「目立ちたがり屋ではなくどちらかと言うと照れ屋である」「金銭のことをやたらに口に出さず、無頓着で「けち」ではない」「昔のことにいつまでも執着しない」「未練たらしくない」などといわれることが多いようです。
また、粋な人が好んだ模様は縞、特に縦縞です。縞模様というのは人間の精神を引き締める柄だといわれています。色については、藍とか紺とか江戸紫や灰色や茶が好みだったようです。とくに、代表的な色は紺で、江戸の商人の「のれん」は紺です。
私が「紺」を好むのは、ドイツの影響ではなく、江戸育ちの「粋」好みからかもしれません。
投稿者 fujimori : 20:31 | コメント (4)
2008年01月29日 [江戸文化]
蔵
私の住んでいる八王子には、昔ながらの蔵が残っています。その蔵の用途は、時代によって変化をしているようです。蔵の前にこんな説明板がありました。
「この蔵は明治32年10月に建てられました。以来100有余年、この間八王子の大火、大正の大震災、昭和の空襲等々幾多の危機をくぐり抜け今日に至ります。本格的土蔵造りで建設され、当初は、織物の街を象徴する生糸蔵として使用、戦後、防火対策としてモルタル壁に改装、使用目的も生糸蔵から質蔵へと変わりました。構造は、間口3間、奥行4間の大型のもので、内部は3尺毎に頑丈な欅の柱を使用してのそう2階の建築です。床板の一部を除いてすべて当時のままの姿を留めており、扉、錠前等の金具類が損傷少なく揃っているのも特筆に価しましょう。」
八王子に蔵が多いのは、織物の町ということで、生糸蔵が多かったようです。それが、今でも残っているのは、質屋蔵になったからのようです。そういえば、確かに、蔵作りといえば、質屋を思い浮かべるかもしれません。
川越にも、多くの蔵造り商家が残っています。最盛期には100軒以上の蔵造り建物が街中にひしめき、町並みを形成していたそうです。この川越に蔵造りの町並みが形成される契機となったのは、明治26年の大火により、同じ惨事を繰り返さないよう、建物そのものを防火建築にすることから、商人たちは競って蔵造り建築による店舗(店蔵)を建てたのです。この頃、東京では既に耐火建築として、レンガ造りや石積みの近代的な建物が造られていましたが、川越商人たちは伝統的な蔵造り建物を選択したのは、伝統工法に固執するわけでなく、レンガや大谷石、御影石などの新しい建築資材も柔軟に取り入れたためのようです。また、東京日本橋の町並みが蔵造り建物であったこともあり、江戸の商人に対する羨望や憧憬もあったようです。
そのほか、蔵の用途として酒蔵などありますが、今日の会議が行われた台東区蔵前は、私が育った町でもあります。この地名の由来は、当地に、江戸時代に江戸幕府の米蔵(浅草御蔵)があったことに由来しています。
この「浅草御米蔵」には、天領から入る年貢米を収蔵して、旗本や御家人と呼ばれる領地を持たない武士達に、「禄」として蔵米を支給していたのです。その蔵の前にあったから蔵前です。貨幣経済が発達したと言われる江戸時代ですが、幕府の財政を支えたのは、やっぱりお米でした。そこで、全国各地から送られる米を運搬するのに水運、つまり舟が使われたので、その米を貯蔵するのには川沿いのほうが都合よかったのです。蔵前は、隅田川に面しています。
蔵前橋
ここに御米蔵が建てられたのは1615年のことで、江戸時代の初期、二代将軍 秀忠 の時代に、この一帯の大川端(隅田川の川岸)を埋立てて、3万坪にも及ぶ広大な敷地に幕府の米蔵94棟を建てたといわれています。江戸時代の札差と呼ばれる商人達が集まっていた地で、「通」とか「粋」な文化を競っていました。
全国どこにでも蔵があります。最近、蔵を残した街づくりや、蔵を喫茶店やレストランにする店も多くなりました。蔵のしっかりした、方形としてのボリューム感は、存在感があります。残したい建物です。