2010年02月26日 [講演先にて]
手作り郷土
いろいろな街に行くと、その町の顔があります。それは、様々な特徴を持っています。以前のブログで紹介した青森県の八戸港の蕪島は、ウミネコの一大繁殖地で、シーズンには3万羽を超え、「ミャー、ミャー」とまさに子猫そのものの鳴き声が波間に聞こえることから「日本の音風景百選」に選ばれています。また、平等院表参道の商店会約160mには多くのお茶屋が軒を連ね、茶を焙じる香ばしい香りが街角に漂っていることから「かおり風景百選」に選ばれています。また、昨年連れて行ってもらった奥能登の白米の千枚田は、「人と自然が織りなす日本の風景百選」に選ばれています。ここでは、高低差約50mの急斜地に小区画の水田が耕作されていて、平地が極めて少ない自然環境に立ち向かって生きてきた、奥能登の水田開発の歴史的遺産といえます。
これもブログで紹介しましたが、私が以前「NPOフュージョン長池」の副理事長だった時に、この地域での活動が平成13年度都市景観大賞「美しいまちなみ賞」の大賞を受賞し、その受賞式に列席したことがあります。この賞は、空間の美しさに加えて、景観形成のための地元(公、民)の活動や、地域活性化・観光交流面への波及効果など、ハード・ソフト両面から様々な工夫や努力が行われている地区を総合的に評価されたものです。それは、当時、地域の景観の美しさではなく、地域の活動の美しさが評価されたとしてうれしかった思い出があります。
このように、美しさには、音であったり、かおりであったり、活動であったりすることがあります。今週初めに訪れた富山市八尾町は「手づくり郷土賞」を受賞しています。
この賞は、地域の個性、魅力、活力を創出している良質な社会資本や活動を広く募集、発掘し、これらを全国に広く紹介することにより、社会資本整備にあたっての創意・工夫を促し、個性あふれ活力のある地域づくりに資することを目的として、昭和61年度に創設された国土交通大臣表彰制度です。
この八尾町は「越中八尾 おわら風の盆」として毎年たくさんの観光客が訪れるところです。その町並みは、「江戸時代につくられた当時のたたずまいを色濃く残し、どこか城下町の商人町を思わせる」といわれています。そこで行われる「おわら風の盆」は、毎年9月1日から3日にかけて行なわれている祭りで、越中おわら節の哀切感に満ちた旋律にのって、坂が多い町の道筋で無言の踊り手たちが洗練された踊りを披露します。地元の人の話では、艶やかで優雅な女踊り手は、編みがさに顔を隠し、声を出さず、未婚の25歳以下の女性に限ると言っていました。また、その調べが観光客を魅了する哀調のある音色を奏でる胡弓を、以前この地を訪れた時に、目の前で弾いてもらい、私も少し弾かせてもらう体験をしました。
この「おわら風の盆」には、たくさんの観光客が訪れるのに、普段の町には高山に見るような、また、金沢にあるようなしゃれたグッズの店や民芸品の店などがほとんどありません。地元に人に聞くと、それにはあるポリシーがあると言います。「八尾に暮らす人々が大切に守り育んできた民謡行事であり、町民の生命ともいうべき特別な存在です。ですから、全国に名の通った民謡行事としては観光イベント的な要素は少なく、したがってお越しいただいた皆様をもてなすことはあまり上手ではありません。」こんな思いが「手作り郷土賞」なのかもしれません。
投稿者 fujimori : 23:02 | コメント (4)
2010年02月25日 [講演先にて]
融雪
今年は東京ではよく雪が降りました。しかし、ここ2,3日は暖かい日が続いていて、もう春という感じです。しかし、東京では、毎年4月に入っても雪が降ることがありますので、油断はできません。といっても春の雪はすぐに溶けてしまい、あわいことから奈良時代から歌に詠まれました。この「あわい」というのは、最初は「淡い」ということではなく、うたかた(泡沫)のように消える雪ということで、「あわ(泡)ゆき」という表記で用いられました。また、万葉集には、あわゆきを「「沫雪」と書いて、16種も詠まれています。そして、平安時代になると、厳寒期の厚く白く降り積もる雪に較べてうっすらと淡い雪であるということで、「あは(淡)ゆき」と表記されるようになりました。古今集には、17首詠まれています。
そんな春の雪ですが、今週初めに訪れた富山ではつい先週まで大雪が降っていたそうです。今年は雪が多かったそんな富山では、昨年末こんな記事が新聞に掲載されていました。「散水消雪一斉稼働で地下水位急激低下 富山県内市街地」というものです。「県内の住宅団地や商業施設などで消雪設備が普及する中、降雪時に設備が一斉に稼働することによって、市街地では地下水位が急激に低下している。大雪の峠を越えた20日も、富山市の一部で降雪前よりも10メートル以上低下し「安全水位」を下回った。現在のところ、地盤沈下などの被害は報告されていないが、県は設備の作動状況をこまめにチェックし、過剰に散水しないよう呼び掛けている。」
私は、東京生まれで東京育ちですので、このニュースを読んでもピンときません。それは、地面に埋められたパイプから水を出すことで、雪を溶かしている「散水消雪」という設備を知らないからです。雪がない中、水が噴き出ているその実物を見た時には少し興奮しました。急いで写真を撮りましたが、足に水がかかりそうで、気を使いました。
この噴き出ている水は地下水のため、地熱で温められ、県内では年間を通して約11~16度を保っているそうです。富山県では、道路などの消雪用ポンプは平成20年度までに住宅団地など1522カ所に設置されているようです。ずいぶんと狭い道にまで、その設備はされていました。それを見た時は、もう道には雪がなかったためか、そのあとすぐに止まってしまいました。大半の消雪装置は雪を感知すると、自動で作動するそうですが、よくセンサーが誤感知し、雪から雨に変わったり、気温が高く雪が積もる恐れがないのに、散水し続ける場合があるといいます。
このように散水式の融雪道路は, 道路の中央部分に水のパイプを通して, 数メートル間隔で取り付けたノズルから水を噴出させて 雪を溶かす方式で, 雪国では広くこの方式が使われていますが、もうひとつ、「無散水」式もあるようです。それは、舗装の下にパイプを通して 水を循環して熱交換する方式です。この方式は、水を循環利用できるメリットがありますが, 建設コストが高くつく欠点があるそうです。
そのほかにも、雪をカーボンブラックなどで黒く着色することで、太陽熱を吸収させて融雪する方法や、塩化カルシウムを主成分とした融雪剤を散布することによって凝固点降下が起こって融点が低下するため、雪を水へと変化させる方法などがあります。
雪国では、いろいろな工夫をして雪対策をしているのですね。
投稿者 fujimori : 21:38 | コメント (4)
2010年02月24日 [講演先にて]
機内
私は、飛行機に乗る機会が多いのですが、最近の機内持ち込み手荷物の制限は困りました。というのは、今まで持っていたいくつかのスーツケースは、持ち込み可能の大きさよりほんの少し基準より厚さが大きいために、新しくスーツケースを買わなければならなくなったからです。また、私には関係ないのですが、昔は機内でたばこが吸えたのが、今は、トイレの中で吸っただけで飛行機は引き帰ってしまうほど絶対にダメになりました。吸わない私は、それはとてもありがたい話ですが、喫煙者にとっては、長距離の国際線などでは長い間吸わないのはつらいでしょうね。
もうひとつ、乗る前にこんなアナウンスが流れます。「携帯電話は、航空機内では常にお使いいただけません。必ず電源をお切りください!」。また、機内に乗り込むと、「電波を発する機器は、離着陸時には電源を切ってください。」というアナウンスも流れます。2004年1月の改正航空法で機内迷惑行為の制限規定が新設されました。それは、携帯電話など通信機器の出す電波や、電子機器から漏れ出す電磁波が運航計器を誤作動させる恐れがあるためで、実際に「無線にノイズが入り交信不能になった」「機体が急に30度傾いた」「自動操縦の設定高度から400フィート逸脱した」「衝突防止装置が誤警告を発した」など、事故に直結するようなトラブルも起きたことがあるようです。違反すると最大50万円の罰金が科せられるほか、悪質な場合には、航空会社からそれ以降の搭乗を拒否されることもあるそうです。
このような機内での使用制限が、改定されています。常時使用禁止品として、携帯電話(PHS含む)、トランシーバー、電子ゲーム(無線機能使用)、無線式マウス、ICタグ(電池式のみ)、無線機能付き歩数計、心拍測定計、腕時計、無線式自動車キー(作動のみ禁止)があり、離着陸時に使用禁止(安定飛行になったら使用できるもの)のものに、テレビ、ラジオ、ポケットベル、GPS受信機、ビデオカメラ、ビデオプレーヤー、DVDプレーヤー、デジタルカメラ、デジタルオーディオ機器、電池式ヘッドホン、電池式イヤホン、電子ゲーム(無線オフ)、パソコン(同)、電子手帳、電子辞書、プリンター、充電器、音声に反応する電子おもちゃです。しかし、ニンテンドーDSとPSPについては、無線機能を使ったゲーム機の接続が禁止ですが、パソコン同様に無線機能を切れば、離着陸時のみ電源を切り、安定飛行になれば使用できます。そして、電卓、シェーバー、カセットプレーヤーは、リスト外になりました。
というわけで、私は、機内で安定飛行になるのを待って、急いでパソコンを使ってブログを書くことが多く、そのときには、また着陸体勢に入ると急いで電源を切ります。それは、デジタルカメラで写真を撮るときにもそうですが、いつもきわどいのが、安定飛行になるかならないころに真下に富士山が見えるので、便によって撮れる時と撮れない時があります。今週初めに富山に行ったのですが、行きに富士山がよく見えました。
今年は雪が降ることが多かったのですが、富士の高嶺にはもう雪が少なくなっていて、春の訪れを感じました。
また、富山までの道のりは、長野県の上を通っていきますので、山頂に雪が積もっている山々の上を飛んでいきます。今回、諏訪湖はよくわかったのですが、そのほかの山々は何の山かがよくわからず、機内誌の地図で確かめたのですが、やはりわかりませんでした。
また、富山に近づくと、新潟平野の田んぼにはまだだいぶ雪が残っています。そして、いよいよ立山連峰が見えてきました。とてもきれいでしたが、ちょうど着陸態勢に入りましたというアナウンスが流れ、カメラの電源を切らなくてはならず、その姿を目に焼き付けるしかありませんでした。
投稿者 fujimori : 22:01 | コメント (4)
2010年02月23日 [講演先にて]
長崎研修
今日の朝日新聞の天声人語にこんなことが書かれてありました。「〈江戸の敵(かたき)を長崎で討つ〉の例えは、本来は「長崎が討つ」だという説がある。江戸での見せ物興行で大阪の竹細工が大評判を呼び、地元勢は面目をつぶされる。ところが長崎からのガラス細工がさらなる人気を博し、江戸の職人たちも留飲を下げた、との由来である▼外国に開かれた長崎は先取の地でもあった。「長崎で討つ」となるとその意味は消え、意外な場所や筋違いのことで恨みを晴らす例えとなる。」
このたとえは、先日の日曜日に行われた長崎知事選の結果について、使われています。その日曜日に長崎にいました。よく長崎には行くのですが、毎回とても面白い体験をしますし、発見があります。今回、研修会場は日本で初めて国公立大学としては初めてのカタカナを含んだ名称を持った大学でした。今までも私立の大学にはカタカナ名のものがありました。その多くは、キリスト系の大学で、特にイメージもあるのか女子大に多いようです。たとえば、フェリス女学院大学、京都ノートルダム女子大学、ノートルダム清心女子大学、聖マリナンナ医科大学、聖マリア大学などです。今回会場として使用した大学は、長崎県により1999年に設置された「長崎シーボルト大学」です。もちろん、この名称は、鳴滝塾を設立したフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトに因んでおり、長崎県民に募集して決定されたそうです。
しかし、この長崎シーボルト大学は閉学され、2008年、県立長崎シーボルト大学と長崎県立大学が統合され、新設大学として「長崎県立大学」が設置されました。この大学のキャンパスは、旧長崎県立大学のキャンパスを佐世保校、県立長崎シーボルト大学のキャンパスをシーボルト校としました。今回の会場が、そのシーボルト校でした。
その校舎は「世界に向けて文化と情報を発信するバリアフリーの学舎」として、この地に誘致されたものです。そして、その学舎と通りをはさんだ小さな公園には、「古跡 町錬場」と書かれた碑があります。その裏には、「明治維新のころ大村藩が徴兵訓練をしたところといわれる。その後、青年団の運動場となったり、第二次大戦では、畑になったりした。」と書かれてあります。
この大村藩は、今は、長崎県に編入されていますが、明治4年の廃藩置県の時には、大村県となっています。そんな調錬場の前に大学が立てられたのは、因縁があるのかもしれませんね。
そんな場所での研修会のために長崎空港に降りた時に、ちょうどランタン祭りの最中ということもあって航空会社からお菓子をもらいました。そこには、飴と「おたくさ」というパイが入っていました。

このお菓子は、長崎からよくお土産にもらいます。この名前の由来は、文政6年(1823年)長崎に渡来したシーボルトに関係します。シーボルトは、来日早々長崎奉行の計らいで、出島を出て日本人患者を治療することを許されました。その患者の中に美しい女性がいました。シーボルトはこの若い女性に心を奪われたのですが、彼女の名前が「お滝さん」でした。そして、シーボルトと彼女との間に生まれたのが有名なイネで、彼女は日本人初の女医として知られています。そして、シーボルトは、初めて見た美しい花アジサイに、そのお滝さんから「おたくさ」という名前を付けて、ヨーロッパに紹介しました。これにちなんでアジサイの花のように焼きあげられてパイにこの名前を付けたのでしょう。
昼休みに研修会場から出て付近を歩きまわると、いろいろなつながりに出会います。
投稿者 fujimori : 23:30 | コメント (4)
2010年02月19日 [講演先にて]
温泉
よく「国土地理院」という言葉を聞きますが、実際はどんな組織で、何をしているところか一般の人にはよくわからないところがあります。その一番大切な仕事は、「様々な観測に基づき、地球上における我が国の位置(経度・緯度・高さ)の基準を定めています」簡単に言うと、正確な日本の位置を決めているようです。それは、社会経済活動を円滑に行うためだと書かれてあります。
実際は、どのようにして位置を決めているのかというと、星を利用した天文測量によってですが、それは明治25年(1892年)に日本独自の測地系に基づいて設置されているのですが、なんと、この日本独自の日本測地系から決めていたのを、世界共通の世界測地系によって決めるようになったのは、つい最近の平成14年(2002年)4月からだというのです。
では、高さの基準はどのようにして定めているのかというと、東京湾での潮位観測結果をもとに、明治24年(1891年)に決められているそうです。そして、日本水準原点の標高は、当初24.5000mと定めていましたが、関東大震災により地殻変動が生じたため大正12年(1923年)に24.4140mに変更したようです。
このように国土地理院では国土を測り、それを地図で表すことが仕事の中心ですが、今は、その地図もインターネットにより提供するようになっています。地図といえば、何の施設かを表す地図記号というものがあります。今、国土地理院で決められている地図記号は、全部で161種類です。この地図記号は外国にもあるのですが、そのものの形を記号にしたものが多いようですが、時代の変化とともに見直しが行われ、少しずつ形を変えてきているようです。また、時代によって新しく地図記号を追加したり、使われなくなった地図記号は削除されたりしています。また、記号の形は変わらなくても、呼び方が変わっているものも多くあります。風車や老人施設などの記号は、平成18年に生まれていますし、牧場は昭和40年に、塩田は昭和61年になくなっています。
地図記号の中で、皆がよく知っている記号に温泉マークがあります。その由来には、「温泉の記号は、温泉法という法律で決められている温泉や鉱泉をあらわします。記号は、主な温泉のでているところの場所をあらわしますが、温泉のでている場所と浴場が離れている場合には、浴場の場所にも表示することがあります。この記号は、泉源の湯壺と湯けむりを組み合わせて記号にしています。」と書かれてありますが、意外と厳密な決まりがあるのですね。
ところで、先日の日曜日に訪れた群馬県磯部温泉は、1783年の浅間山の大噴火で湯量が増したといわれていますが、時代を経るに従って次第に少なくなっていっているそうです。また、温度も24℃しかないために、沸かして使っていましたが、最近、新しく掘られた新源泉はこれよりも温度が高く、52℃あるそうです。この町の通りの看板に「温泉記号発祥の地」と書かれてありました。

それは、1661年に江戸幕府からだされた地図に2箇所温泉マークらしき記号が存在しているからです。このマークの発祥の説は何種かあるようですが、その記号が地図上に表れた年号を見ると、やはり磯部温泉が早いかもしれません。磯部駅ロータリーには、温泉マーク発祥の地の石碑が建っていました。

投稿者 fujimori : 21:21 | コメント (4)
2010年02月18日 [講演先にて]
硯
論語の第1章の中に書かれてありますが、楽しみなのは、「朋」と語りあうことだと言っていますが、この友とは、同じ門下生という同じ思いを持った人ということです。確かに、同じ思いを持った人と議論したり、意見を交わすことはとても楽しいことですし、学びも大きい気がします。しかし、それが長続きするのはとても難しいことでもあります。
以前、九段を歩いていて、「硯友社跡」という看板を見つけました。
この硯友社というのは、「文筆にかかわる友」という意味で、同じように硯を使う友ということです。この硯友社は、東京大学予備門の学生だった尾崎紅葉、山田美妙、石橋思案や、高等商業に学ぶ丸山九華らがつくった文学結社です。
尾崎紅葉が「硯友社」という名前を付けたのは、私はこんな理由があると思います。尾崎紅葉が「硯友社の沿革」を書いていますが、その中に、山田美妙の書いた小説「竪琴草子」に驚いた場面があります。「其の小説はアルフレッド大王の事蹟を仕組んだもので、文章は馬琴を学んで、実に好く出来て居て、私は舌を巻きました。」
山田が学んだ滝沢馬琴は、27才の時から、58才まで築土神社氏子内の元飯田町中坂下に居住していました。この築土神社は、ブログでも書きましたが、当時牛込にありましたが、今は、硯友社跡地のすぐ近くにあります。現在、中坂下(千代田区九段北1丁目5番地)の滝沢馬琴邸跡には、馬琴ゆかりの井戸が残り、この井戸で馬琴が硯に水を汲み筆を洗っていたことから、「硯の井戸」と呼ばれています。そんなことから、馬琴を学んでいた山田が硯友ということを思いついたのかもしれません。
しかし、永遠に友でいるという意味で硯友社と称した尾崎と山田ですが、山田が社に無断で、他社で主に筆をとるようになったため、硯友社から離脱し、打撃を受けることになるのです。そんな硯友社ですが、離脱する前は、日本初の純文芸雑誌である「我楽多文庫」を創刊し、大きな反響を呼んで、川上眉山、巖谷小波、江見水蔭、挿絵の武内桂舟らが参加しています。その中で、山田や巌谷は言文一致体の小説を載せ、近代文体の確立にも貢献します。
この巌谷小波は、医者への道を歩ませられることを嫌い、周囲の反対の中で文学を志して進学を放棄し、この硯友社に入るのですが、のちに、近代日本児童文学史をひらく画期的作品を書き、その後も児童文学に専心し、種々の児童向けの雑誌や叢書を刊行しています。しかし、最近は、あまり評価されていません。彼の作品の多くは、博文館発行の雑誌「少年世界」に掲載されています。彼は、様々な作品を書きますが、有名な「桃太郎」や「花咲爺」や「舌切雀」などの民話や英雄譚の多くは彼の手によって、おとぎ話としてやさしい文章に再生され、小さな子どもたちにもなじみ深いお話としてと読まれるようになったために、児童文学の開拓者とも言われています。
巌谷小波は地域に伝わる民話を参集するために各地を訪れるのですが、「舌切り雀」の伝説が伝わるという磯部を訪れています。そこで、舌切雀伝説発祥の地とされ、巌谷小波がその時詠んだ句、「竹の春 雀千代ふる お宿かな」の句碑がある磯部温泉を、先週の日曜日に訪れました。

投稿者 fujimori : 23:45 | コメント (4)
2010年02月11日 [講演先にて]
足利
伝統的工芸品で桐生織を紹介しましたが、この織物は桐生だけでなく、足利市にも伝わっています。今日は、足利市にある足利学校に行ってみました。最近、寺子屋についてのブログが多いのですが、寺子屋は江戸時代に庶民の子どもたちに対しての教育にずいぶんと貢献しました。しかし、もともとは、教育を受けることが出来るのは、ある一部の階級でしたが、日本では世界と比べて随分早いうちから下級武士や農民、商人など、あらゆる身分の少年達も教育を受けることができました。それは、室町時代からですが、それ以前は、僧侶に対して教育が行われていました。
その中で、足利学校は、日本で最も古い学校として知られています。足利学校の創建については、奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説などがありますが、室町以前であることは確かです。現在、はっきりしているのは、室町時代の1439年に、関東管領上杉憲実が、足利学校の再興のために書籍を寄進し、鎌倉円覚寺から僧快元を招いて初代の庠主とし、経営にあたらせたことが資料に残っているのです。「庠主」は「しょうしゅ」と読みますが、「庠」とは学校をさしますので、「庠主」とは校長を意味します。以後、この学校は学徒三千といわれるほどに隆盛していったそうです。その様子が、宣教師フランシスコ・ザビエルによって「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介されました。そして、藩校になり、江戸時代の末期には「坂東の大学」と呼ばれるようになりました。しかし、明治5年に廃校になりました。その後眼自36年に遺跡図書館が開設され、書物が継承されています。ここには、今は国宝に指定された上杉憲実が寄進した書物も保存されています。また、現在の建物も大正4年に建てられ、市の重要文化財に指定されています。
代々庠主が受け継がれ、今でもいて、いろいろな活動をしています。その主な活動は、当時から教育の中心であった「論語」を中心にしたものです。そこで、学校内には、孔子廟が造営されています。この廟は、4代目徳川家綱の時に造営され、中国明時代の聖廟を模したものと伝えられています。また、手前の方に孔子像も建てられています。
そのほかにも、いかにも論語を学んだ場所であることをうかがわせるものがあります。私はそれほど詳しくないのでよくわかりませんが、この学校の周りの町名は、「昌平」と書かれてありました。これはお茶の水にある湯島の聖堂に昌平坂学問所があると同じです。これは、孔子が生まれたのは、魯の国昌平郷掫邑(山東省曲阜)だからのような気がします。また、この学校に入るときに最初にくぐる門が「入徳門」と言います。これは、「儒教いう「仁・義・礼・知・信」の五徳を学びに入るという意味でしょうか。
その次の門は、「学校門」というそのままです。面白いのは、この門をはいってすぐ右手にある松の木です。その名前は「字降松」(かなふりまつ)と言います。読めない字や意味のわからない言葉などを紙に書いて、この松の枝に結んでおくと翌日にはふりがなや注釈がついていたことからこのような名前が付けられたといわれています。これは伝説ですが、もし先生があとでそっとふりがなや注釈を付けて結んでおいてあげたとしたら素晴らしい先生ですね。今でも学校にそのような松の木があったらいいのにと思います。
その次にある「杏壇門」と言いますが、この杏壇とは、孔子が弟子たちに教えた所に杏の木が植えられていたことに由来しています。
この足利学校のチラシには、「自学自習の心を今に伝える教育の原点」と書かれてありますが、この心は伝わっているのでしょうか。
投稿者 fujimori : 21:01 | コメント (4)
2010年01月18日 [講演先にて]
霧島市
昨日、鹿屋市から鹿児島空港まで送ってもらう途中でいくつかの市を通ります。その中で、「霧島市」があるのですが、ここは、平成17年11月7日、国分市、溝辺町、横川町、牧園町、霧島町、隼人町、福山町が合併して、新たに誕生した市です。その前のそれぞれの市や町はいろいろと有名です。「花は霧島、煙草は国分・・・」と鹿児島おはら節でも歌われるように、国分の煙草は江戸時代後期頃から「国府たばこ」の名で全国に広く知られていました。
また、霧島は焼酎でも有名です。2005年に雑誌社が企画した焼酎ランキングで鹿児島からベスト10に6銘柄が入っていますが、そのうちの3銘柄は霧島市に蔵元のある焼酎でした。一つの市に9つの蔵元があるのは鹿児島でも珍しいことのようです。(かめ壺焼酎で有名な森伊蔵はとなりの垂水市です)
また、鹿児島で製造されている焼酎のほとんどは、本格焼酎と呼ばれているもので、酒税法上乙類に属し、単式蒸留機で蒸留したアルコール分45度以下のものです。「旧式焼酎」とも呼ばれ、古くから作られている伝統的な焼酎です。主原料となる、芋、米、麦など素材の味を生かした焼酎です。ただ、最近よく出回っている黒霧島など霧島酒造は、宮崎県の都城市にあり、そこの商標です。
もうひとつ、最近、テレビ番組や雑誌でとり上げられ、人気の高いものに、霧島市福山産の「黒酢」があります。ここで作られているのは、壷づくり黒酢(壷で作られるので壷酢ともいう)です。1800年代、江戸時代後期に薩摩藩の福山地方で壺酢づくりが始まり、今日まで同じ製法を守って造られています。重要な商業地であったここ福山町は、良質な米ときれいな湧き水、そして温暖な気候に恵まれており、また、適度な湿度も維持されているので、酢を造る微生物が活動しやすい環境です。また、薩摩藩主島津義弘は、茶道を千利休について学んだ茶人で、焼き物には深い関心を持っていました。そして、豊臣秀吉と共に朝鮮に出陣した際、朝鮮の陶工達を引き連れて帰ってきて、彼らはその後、士族としての待遇を受けながら薩摩焼を焼き始め、その技術を代々受け継いできました。ですから、壺酢づくりにかかせない薩摩焼の壺も手に入りやすい状況にありました。
そんな環境の中で始まった壺酢づくりでしたが、大正から昭和になって、石油から合成してできる合成酢が製造されるようになり、安価な合成酢に押されはじめ、壺酢は衰退を見せ始めました。しかし、昭和40年代になって、有害食品が問題となり、自然食希求のブームが巻き起こりました。それに伴い、石油から造られる合成酢も人々から敬遠されるようになり、壺酢が再び注目され始めました。
薩摩焼きの壷の中で、蒸し米と麹、天然のわき水だけを原料に、一年から三年じっくり発酵・熟成してできあがる酢は、次第にその色は深みのある琥珀色に変わり、さらにまろやかさとコクが加わります。その色から「黒酢」と呼ばれているのですが、この成分には、アミノ酸、有機酸、ビタミン類、ミネラル類が含まれています。その中でも特に豊富に含まれるアミノ酸は健康維持のために大切な成分であることで知られています。
壷に杜氏が米、麹菌、水を仕込んでからは、壷は屋外に置かれ、放置されます。そして、昼間は南国鹿児島の強い太陽光に照らされ、夜は鹿児島錦江湾からの冷たい海風にさらされ、その中で1年以上かけて自然にじっくりと糖化、アルコール発酵、酢酸発酵までが行われるのです。ですから、福山町を通過する道の脇には、いたるところに壺が並べられており、また、広い畑の代わりにたくさんの壺が並んでいる広場もあちこちに見うけられ、ちょっと珍しい光景でした。
投稿者 fujimori : 23:08 | コメント (4)
2010年01月17日 [講演先にて]
鹿屋
日本の大地が見渡せるような「わが大地の歌」の歌詞を書いた、中津川ジャンボリー世代のフォークシンガー笠木透さんが、こんな歌詞を書いて、自ら歌っている曲があります。歌詞の内容は、知覧を飛び立った特攻機が給油のために南の島に降りたちます。そして給油を終え、飛び立っていった特攻機はそのまま帰らない旅に飛び立ったのですが、その飛行機の車輪についていた植物の種がその場に落ち、後に芽をふき、あちこちに可憐な紅い花を咲かせました。その花のことを南の島の人々は誰ともなく「特攻花」と呼んだという歌詞です。2番の歌詞は、「本当の名前は 知らないけれど 小さな時から そう呼んでいた 戦争のことも 知らないけれど 誰言うこともなく 特攻花 風吹けば 風にゆれ 雨降れば 雨にぬれ 小さ愛さ 赤い花だよ 小さ愛さ 赤い花だよ」
太平洋戦争末期、九州の鹿児島県知覧から出撃する特攻機の中継地点がありました。その場所は、九州と沖縄の中間に位置する喜界島です。ですから、この喜界島が、沖縄戦に向かう若い特攻隊員が、最期に飛び立った場所でした。今でも、毎年飛行場跡に島の人たちが「特攻花」と呼んでいる天人菊を平和を願う花として大切にしているそうです。
また、こんな話もあります。太平洋戦争中、特攻基地の置かれた鹿屋市周辺で咲きはじめた花がありました。最初に特攻隊が出撃した昭和20年3月に発芽し、最後の出撃となった同年6月に実を結んだことから、地元では、この花を「特攻花」と呼ばれるようになったということが鹿児島県鹿屋市役所の広報「かのや」に書かれてあります。
この二つの言い伝えにあるように、昨日から訪れている鹿屋市も特攻基地がありました。しかも、ここから特別攻撃のため沖縄へと飛び立ち、再び帰ることはなかった若きパイロットは908名で、特攻基地の規模としては人員・機体数ともに全国的に有名な知覧を上回っています。ここは、戦前から使われている歴史ある航空基地であり、いまでも、その滑走路は海上自衛隊の鹿屋基地として使われており、滑走路脇には零式艦上戦闘機の掩体壕が残されており、司令部庁舎も戦前に建造されたものだそうです。
ここは、また、アメリカ海軍やアメリカ海兵隊にとっては、今話題の普天間飛行場に移動するヘリコプター部隊が、途中給油に立ち寄る重要な航空基地のようです。
この海上自衛隊鹿屋航空基地の敷地内に、海軍航空の歴史資料館があります。今日の講演前に、そこを見学しました。館内には旧日本海軍創設期から第2次大戦までの資料展示があり、「坂の上の雲」の登場人物である秋山真之や東郷平八郎、広瀬中佐などの資料もありました。また、「零式艦上戦闘機52型」が復元展示してあり、「特攻」という人類史上類のない悲惨な作戦で命を落とした多くの若い特攻隊員の写真や遺書・遺品などが展示されています。
また、近くには、その若者の御霊を祀るために建立された慰霊碑があります。
この塔の銘板には特別攻撃隊戦没者908名の階級氏名、出撃年月日、特別攻撃隊名、出撃者数が刻まれてありました。そして、その碑文には、「今日もまた黒潮おどる海洋に飛び立ちゆきし友はかえらず」
阪神・淡路大震災の発生から15年を迎えた今日、犠牲者を追悼するろうそくの炎とダブって、命の大切さを痛感した1日でした。
投稿者 fujimori : 23:44 | コメント (4)
2010年01月16日 [講演先にて]
鹿屋市と儒教
四書五経は、江戸時代における寺子屋や藩校での主な教科書でしたので、当然その影響をいろいろな所に受けています。たとえば、以前、会津に行ったときにブログで書いた「日新館」の名前の由来も、昨日のブログの「大学」における「茍日新,日日新,又日新」からとっています。
今日から鹿児島に来ていますが、鹿児島の藩校であった「造士館」で使われていた教科書は、主なものが「孝経」「四書五経」などで、その他和漢の史書が基本として使用されていました。これらの書物の素読、講義、温習の方法で学習していました。今回、訪れているのは、鹿児島市と錦江湾をはさんだ反対側の大隅半島の中心部に位置する鹿屋市です。この地には、儒教に関係したこんな話があります。
近世日本朱子学の祖といわれる藤原惺窩という人がいます。彼の弟子には、徳川三百年の官学の祖といわれる林羅山がいます。また、彼を師と仰いで交わりを結んだ人に、保津川の土木工事で知られる角倉了意もいます。しかし、彼はもともとは仏教を学びますが、儒教への変わり、江戸儒学(中でも朱子学)の始祖となりますが、そのきっかけがこの鹿屋市に関係があるのです。
藤原惺窩は、藤原定家の一二代の孫であり、冷泉為純の第三子 として生まれました。小さいころから神童と呼ばれ、幼少のころ播州竜野で剃髪して宗舜となります。18歳の時、父為純が三木城主別所長治に滅ぼされたために、姫路の書写山に陣を敷いていた羽柴秀吉に会い、仇討と家名再興を願い出ます。ところが、秀吉に「もう少し時期が来るのを待つように」とさとされ、京都に上り叔父泉和尚のいる相国寺を訪れ、ここで仏教と儒学を学びます。その後、三木城は秀吉の手に落ち、秀吉は天下を平定します。秀吉は、朝鮮から三人の使者がやってきた時に、宗舜に命じて大徳寺で使者との筆話をやらせます。この時から彼は仏道を捨て儒学に道を求めていきます。
藤原惺窩は、儒教を学ぶためにぜひ大陸に渡りたいと思います。そこで、鹿児島の山川港から大陸渡航をしようとします。そこで、まず鹿児島には、大隅半島の鹿屋に来るのです。今は合併で鹿屋市になっている肝付町の波見港に行きます。ここは、大隅半島でも錦江湾に面しているのではなく、志布志湾に面しています。そして、ここは肝属川流域にあり、南九州で最も開けた地域の一つでした。そして、その昔、色々な物産を積んだ、大きな船が行き交う“川の道”になっていきました。明や琉球、フィリピンなどから陶器、織物、銅銭などが輸入されました。それらの多くの品物が波見や柏原の港にいったん集められた後、大阪や京都へと持ち込まれて行ったのです。江戸時代になり、外国との貿易は禁止されますが、多くの借金に苦しむ薩摩藩は、幕府に黙って中国大陸や琉球との貿易を地元の商人達に奨励し、莫大な利益を手に入れようとします。
この波見湾で、惺窩は、明船に出会い、蘇州や泉州人の商人と筆談をしています。その後、吾平(相良)を経て高須(高洲)港から指宿の山川港に渡ります。そして、山川港で大陸渡航のための船待ちをしているとき、正竜寺で新訓の「論語」が学ばれているのを知り、これなら大陸に渡らずとも、四書五経を学び教えることができると悟り、京都に帰って広めることにしたのです。これが江戸儒学(中でも朱子学)の始まりです。
学ぶときに、その地に行くことだけに意味があるのではなく、どこにいても学ぶことはできるのです。
投稿者 fujimori : 22:39 | コメント (4)
2009年12月20日 [講演先にて]
タクシーかバスか
海上空港である長崎空港に行くと、イタリアのベニスを思い出すとブログで書きましたが、こんなことも思い出しました。ベニス本土では、車の乗り入れが禁止されています。というよりも運河が張り巡らされ、そこにかかる橋はほとんどがアーチになっているので、自転車はおろかすべての車は走れないのです。ですから、ベニスでは、すべての乗り物は船です。バスは、水上バス、タクシーは、水上タクシー、消防車も救急車もパトカーもゴミ収集車もすべて船です。水上タスシーでホテルまで行くと、ホテルの玄関が運河側にもあって、そこに横付けされ、そこからホテルマンが荷物を運んでくれます。また、もちろん、観光もゴンドラに乗ってか、歩いて回るだけです。私が以前行った時には、まず、水上バスで島の先端まで行き、駅まで見学しながら歩いて戻りました。
そんな海上タクシーですが、日本で昨日乗りました。それは、諫早市の時津港から長崎空港までです。以前、琴海から漁船に乗って行ったことをブログに書きましたが、長崎空港は多くの町から大村湾を挟んであるために、大村湾を渡る船で行くことができ、長崎空港にはそのような港があるのです。今回訪れていた時津町は長崎市の北部と西彼杵半島の接点に位置し、北側は波静かな大村湾の南端部に接しているために、長崎空港と時津港を結ぶ海の直行便である海上タクシーが運行されているのです。これに乗ると、空港まで所要時間25分で行くことが出来ますし、値段もタクシーの運転手さんによると地上タクシーでは8000円以上するところ、海上タクシーでは一人1800円で済みます。また、船で横断する大村湾には、世界で一番小さなイルカ「スナメリ」が生息しています。しかし、かつては、船内からもよく見つけられたそうですが、現在絶滅が危惧され、地元の人でも見たことがないそうです。

最近、ジャンボタクシーというバスと区別がつかないものもありますが、基本的には、タクシー(taxi)とは、少人数の旅客を輸送する公共交通用途の乗り物です。昨日乗った海上タクシーは定員が90名くらいでしたので、なぜ海上バスと言わないのか不思議ですが。しかも、タクシーとは、通常、旅客が任意の目的地を指定できるのが原則なのですが、どうなのでしょう。
多くの人が知っていることでしょうが、タクシー(taxi)と 税金(tax)とは語源は同じです。「税」を意味する英語のtaxは、「触れる」という意味のラテン語 tangoに由来しています。このtango から「評価する」という意味の taxoというラテン語ができ、そこから tax という英語ができました、かつて、手で触ってものの評価をしたからでしょう。その評価の結果納めるものが税金なのです。一方、taxi はtaximeter cabの略語であり、taximeter とは「料金メーター」のことです。つまり、taxi とは料金を「評価する(taxo)」メーターを備えた車という意味なのです。
また、こういうこともあります。「助手席」という言葉の語源は、もともとはタクシー業界の業界用語でした。大正時代、タクシーが珍しかった時代にタクシーには運転手ともう一人、客の乗り降りを助けた人が乗っていました。それは、当時のタクシーは外車で車高が高く、客は着物姿が多かったために乗り降りには手助けが必要だったからです。そして、彼らは「助手さん」と呼ばれていて、その助手側わっていた席ということで「助手席」という呼称が定着していったと言われています。昨日の海上タクシーには、当然、助手席はありませんでした。
提案ですが、これからは海上バスと呼んだ方がいいかもしれませんね。
投稿者 fujimori : 21:22 | コメント (4)
2009年12月19日 [講演先にて]
長崎と諭吉
今朝の長崎は、雪が降っていました。真っ白にはなりませんでしたが、うっすらと街が白くなっていました。そんな長崎での食べ物と言って思い出すものは、もちろん「ちゃんぽん」「皿うどん」ですが、最近若い人の間でそれを上回る人気のある食べのものが、以前ブログにも書いた「トルコライス」です。このトルコライスは、最近は全国各地で出され、神戸が発祥であると言われるように神戸でも食べられているようです。この人気メニューは、ドライカレー(またはピラフ・チャーハン)、トンカツ(またはチキンカツ等の肉)、スパゲティ(ナポリタンである事が多い)、場合によってはこれにサラダが付くと言うように、嫌いな人はいないだろうと思われる人気メニューを、一つの皿の上に所狭しと乗せたまさに「大人用お子様ランチ」です。長崎のある喫茶店から発祥し、各地に伝わっていったと言われていますがその名前の由来同様、発祥もはっきりしないようです。名前の由来がさまざまある中で、一つの有力な説が、「カレー」「トンカツ」「スパゲティ」という料理がある国の位置から、それらの中間にある「トルコ」が名前の由来であるという説です。
もうひとつの説は、意外ですが福沢諭吉が関係しています。彼が創刊した新聞に「時事新報」というのがありました。その紙面で、「何にしようね」という料理コーナーが連載されていました。この連載は、日本の食卓に諸外国の味付けが広く取り入れられはじめられたころに、諸外国に追い付け追い越せという風潮の中、近代化をめざして急激に世の中が変化していた当時の様子が、食の面からうかがえます。その新聞の明治26年10月21日付に「土耳古(とるこ)めし」のレシピが掲載されています。そこからトルコライスと呼ぶようになった説があるのです。しかし、その内容は、大分違うようです。記事の土耳古めしレシピには、
「先づ鶏か牛肉にてソップを取り置き此ソップにあっさり鹽味(しほあぢ)を附け之を水に代用して飯を焚く可し、飯の焚ける前、別に鍋を掛け置きてバタをぢりぢりと底一面に煎り散らし、焚けると直ぐに飯を其中に入れて充分に掻廻はしバタのまんべんなく廻りたるを見て之を御鉢に移す可しバタ餘り多ければしつこき故其所らが手加減の肝要なる所なり少し鹽味を含む上に其味ひ云ふばかりなければ別におカヅが入らぬ程にて香の物か前號鳥めしに用ひしかけつゆ位にて事足るべし」
これは、鶏肉(または牛肉)のスープで炊きあげたバターライスのことのようです。このメニューは、明治時代の小説「食道楽」(村井弦斎)にも記述があるようで、当時それなりに知られていた食べ物のようです。2001年に、ワニマガジン社からこの「時事新報」の「何にしようね」という料理コーナーが「福沢諭吉の「何にしようか」~100年目の晩ごはんレシピ集~」という、復刻料理として写真付きで紹介した本が発刊されています。
「長崎」と「福沢諭吉」というキーワードで、まさかトルコライスが出てくるとは思いませんでした。
投稿者 fujimori : 21:26 | コメント (4)
2009年12月18日 [講演先にて]
千々石
先週末、長崎の平戸を訪れたのですが、今週末はやはり長崎の諫早に来ています。長崎に来た時に最初に感動したのが長崎空港です。この空港は、大村湾に浮かぶ有人島である箕島にあり、1975年に開業した世界初の海上空港だからです。ですから、空港から市内に行くために長い橋「箕島大橋」(長さ970m、幅員8.5m)を渡っていきます。その景色は、以前イタリアの海上都市であるベニスに列車で行ったときと似た感覚があります。そんな海上空港なので、以前琴海町から船で空港に行ったときに直接横付けできたのです。
この箕島大橋を渡り終えた右手に少年たちの群像が見えます。それは、戦国時代に、日本人で初めてヨーロッパを公式に訪問した4人の少年使節の銅像です。この銅像は、少年達の偉業を顕彰するため、使節ゆかりの大村市、波佐見町、千々石町、西海町(現西海市)の1市3町と関係団体で作った天正遣欧少年使節顕彰会が、昭和57年(1982)に、使節の出発400周年を記念して建立したものです。像は、向かって左から、伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンの順に並んでいます。
この少年使節については、私が子どもの頃の国語の教科書に紹介されていました。しかし、この「天正少年使節」が日本歴史に登場したのは遅く、明治になってからヨーロッパ文献で初めて紹介されました。日本には史料がほとんどありませんでした。それは、この出来事は、日本史上の壮挙にもかかわらず、歴史的に見て社会的な影響に乏しかったからです。しかし、西洋に初めて日本を紹介した点ではとても重要な出来事なのです。使節は日本の王子という触れ込みもあって、行く先々で大歓迎を受け、彼らがまだヨーロッパ滞在中に夥しい書物が発刊されました。現在の調査で1585年に48種類、それから10年の間になんと90種を越えた書物が発刊されているそうです。これらの書物によって、広くヨーロッパに日本をセンセーショナルに紹介しました。
使節に選ばれたのは、当時、有馬のセミナリオ(神学校)で学んでいた少年で、正使として、日向伊東氏出身の伊東マンショ、有馬領千々石出身で、有馬晴信の従弟で大村純忠の甥の千々石ミゲル。副使として、原マルチノ(現 波佐見町出身)中浦ジュリアン(現 西海市出身)の4人でした。
私は、長崎の雲仙を訪れる時に「千々石町」(現在は雲仙町)を通過するたびに「千々石ミゲル」という名を思い出しました。彼は、雲仙の千々石(釜蓋)城主千々石直員の子で、有馬晴信の従兄弟かつ大村純忠の甥であったため、有馬・大村両家の名代として使節団の正使に選ばれています。しかし、少年使節は帰国後、キリスト教禁教が進む中で不遇な後半生をおくったとされています。

中でも、千々石ミゲルは4人の中でただ1人、帰国後にキリスト教を棄て、仏教に改宗し、結婚したとされていますが、史料が少なく没年など人生のほとんどの記録が謎につつまれており、いままで墓所等は不明でした。それが、2004年2月の新聞に「千々石ミゲルの墓多良見で見つかる」と大きく掲載されます。長崎県諌早市多良見町にある安山岩の自然石で建てられた墓石がそうであると言われています。この墓のある場所を、今日偶然見つけ、連れて行ってもらいました。表面には法華宗を意味する「妙法」が、裏面の左下方には「千々石玄蕃允」と刻まれています。それは、4男だった嫡子的立場にあった千々石玄蕃が、父縁の地である伊木力の一角に両親のための墓石を建てたというのです。

思いがけずそんなものに出会えるのも、地方を訪れる楽しみの一つです。
投稿者 fujimori : 22:49 | コメント (4)
2009年12月14日 [講演先にて]
長崎
私は、何年か前から長崎をよく訪れるようになりました。慶応義塾の創立者で知られる福沢諭吉も、幕末、長崎で学んだ若者のひとりでした。長崎と言えば、観光客がよく訪れるところに、中島川にかかる眼鏡橋がありますが、ここから少し上流にさかのぼったところに一覧橋があり、その西詰に光永寺があります。この寺の山門横には、石碑があり「福澤先生留学之址 安政元年」と刻まれています。
ここは、中津藩士の次男だった諭吉が、1854年(安政1)、19才のときに長崎へやって来て、寄宿していたところです。彼は、ここで約半年過ごし、その後、そこから徒歩3分余り行ったところにあった砲術家として知られる高島秋帆門下の山本物次郎の家に半年過ごして蘭学を学んでいます。長崎での滞在はわずか1年あまりでしたが、のちに「福翁自伝」の中で、山本物次郎の家の食客になったことを「私の生来活動の始まり。」と記し、そのほか長崎遊学時のエピソードを多く語っています。たとえば、諭吉がこの井戸端で、水を汲み、担いで一歩を踏み出そうとした瞬間、ガタガタと揺れを感じたという記述が残されていますが、それが、安政の大地震です。その井戸には、「福澤先生使用之井」という石碑が立っています。
諭吉は、その後、長崎から大阪へ行き、ここで緒方洪庵の適塾に入門します。そして、1858年(安政5年)大阪から江戸に出て、築地鉄砲洲にある中津藩の中屋敷の長屋に入ります。彼は、ここで蘭学塾を開き、これが慶応義塾の始まりとされています。このように、諭吉は蘭学を学びますが、当時はだれもが蘭学を学び、そのほかにもオランダが外国の文化を知る窓口でしたが、どうしてオランダなのでしょうか。
私は、先週末、長崎県平戸を訪れていました。

今、平戸では、「平戸オランダ年」として国際交流イベントをはじめとしてたくさんのイベントを行なっています。それは、1600年4月19日、豊後の臼杵湾(現在の大分県臼杵市)という所に1隻のオランダ帆船が漂着しました。じつは、この船の漂着こそ、日本とオランダの関係、すなわち日蘭交流の始まりとなる出来事でした。その後、1609年、徳川家康から朱印状とオランダ商館の設置の許可を得て、ここ平戸で日本初のオランダ貿易が始まりました。そして今年2009年は日蘭通商開始から400周年という記念すべき年に当たるため、「平戸オランダ年」というわけです。

オランダ船錨
現在、復元中の平戸オランダ商館は、1609年に江戸幕府から貿易を許可された東インド会社が、平戸藩主松浦隆信公の導きによって平戸に設置した、東アジアにおける貿易拠点です。オランダ商館長日記などの記述によると、当初は土蔵の付属した住宅1軒を借りて始まり、その後、貿易が拡大するに従い、順次施設の拡大整備が行なわれたものです。その中で、1637年と1639年に建設された倉庫は規模が大きく、充実した貿易の象徴でした。しかし、この倉庫にキリスト生誕にちなむ西暦の年号が示されているとして、当時の禁教令のもと、将軍徳川家光により全ての建物の破壊が命じられました。そして、1641年には、商館は長崎出島へ移転したのです。
今回の平戸訪問は、あわただしい日程の中で見学はほとんどしませんでしたが、その時に考えていることが切り口となって、新しい何かを発見することが出来るのが、各地を訪れる時の楽しみです。
投稿者 fujimori : 23:10 | コメント (4)
2009年11月29日 [講演先にて]
白石
いつからか「歴女」という言葉が聞かれるようになりました。その前には「鉄子」という鉄道好きな女子が話題になりましたが、この歴女とは、「歴史好きの女子」という意味です。この背景には、どうも「三国志」や戦国時代をテーマにしたゲームや漫画が増え、また、パチンコなどの題材に使われて歴史に出てくる人物に興味を持ち、原作本を読み始めて「歴史通」になる女性が増えてきたのではないかと言われています。刷り込みかもしれませんが、歴史や鉄道が好きなのは、男子が多いような気がしていましたので、特に最近のこの傾向が注目されるのでしょう。
今日訪れた宮城県白石市は、新幹線の白石蔵王駅を降りた所から旗がひらめいていました。その旗には、「俺が行かずば誰が行く 伊達の先陣 片倉小十郎」と書かれています。タクシーの運転手さんに聞くと、最近は、仙台の伊達政宗に劣らず歴女に人気のあるのがこの「片倉小十郎」だそうです。彼は、伊達政宗の重臣で智将の誉れ高く、慶長7年(1602)に白石城主となっています。
この白石城の歴史は古く、1091年に藤原秀郷から五代目の藤原経清の次男経元が後三年の役で源義家に従って奥州清原氏を討伐した功績により、苅田と伊具の2郡を与えられ、姓も苅田と改めて居館を築いたのが始まりです。そして、苅田氏五代秀長は源頼朝の奥州征伐に従って白石氏と称したのが白石の始まりです。その後、戦国時代には伊達氏の勢力下でしたが、豊臣秀吉が奥州仕置で伊達氏の支配下であった白石の地を没収して、会津若松城主蒲生氏郷に与えました。蒲生氏郷はこの地に新たな縄張りを行い、三層の櫓を構える本丸や二の丸・三の丸などを築き、重臣の蒲生郷成を城主としたのです。
しかし、1598年に蒲生氏郷の子の秀行が宇都宮へ移封されると、会津若松には越後より上杉景勝が入封します。そこで、景勝は家臣の甘粕清長を白石城主にしたのです。この甘粕清長は、NHK大河ドラマ「天地人」では、パパイヤ鈴木が演じていた役柄で、越後上田衆のひとりです。しかし、慶長5年(1600)関ケ原の合戦前夜、上杉景勝討伐に赴いた徳川家康の命を受け、伊達政宗が白石城を攻略し、留守の隙を突かれてふたたび伊達政宗に白石城を奪われてしまいます。そして、片倉小十郎景綱が白石城主となったのです。
戦いの後、白石城は政宗の側近中の側近、片倉小十郎景綱が城主となります。
彼は、政宗の知恵袋、用心棒、相談相手とまさに伊達政宗の右腕であり、その人物は徳川家康も認めることとなり、元和の一国一城令以後も、仙台伊達藩は特別に仙台城と白石城の2城が許され、片倉氏は伊達氏の陪臣ながら白石城主として11代が世襲して明治維新を迎えます。そして、また、この白石城が歴史の表舞台に登場してきます。戊辰戦争の時です。明治元年、江戸城が無血開城すると、奥州14藩の重臣たちは白石城に集まり、政府に会津若松藩救済を願い出ることにしましたが、官軍はこれを退けてしまいます。そこで、仙台藩士が官軍の参謀であった世良修蔵を暗殺したのを受けて、再び奥州列藩の重臣たちが白石城に集まって同盟条約を結びます。そして、白石に公議所を設けて官軍に対抗しますが、戦端が開かれると二本松城以下が陥落したために白石公議所は解散、そして、会津若松城も開城し、奥州はたちまち平定されてしまいました。
現在、白石城は、三階櫓は伝統の建築様式に基づいて木造で復元され、最上階に上れば、城下町白石の町並みが一望でき、遠く蔵王連峰も望むことができます。
投稿者 fujimori : 23:03 | コメント (4)
2009年11月25日 [講演先にて]
島全体
金印を見た福岡で、もう一か所どこを見たいかということで、「日本海海戦」の舞台の玄界灘を所望しました。数年前に、博多から北九州に向かう途中で食事を海辺の食堂でしたときに、目の前の海を指さして「あそこの沖ノ島沖でバルチック艦隊を確認したのですよ」と言われたときに、まさに司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」の中の、その場面を読んでいた時だったのです。その発見後、日本艦が合流し、戦闘開始を命令したのです。その時の信号簿でZ旗に有名な文言「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」という文言が割り当てられていたのです。
その時の戦いを沖津宮の神官に仕えていた佐藤市五郎が、両艦隊の乗組員以外で同海戦を目撃した数少ない人物の一人です。この沖ノ島の沖津宮は、筑前大島の中津宮、宗像市田島の辺津宮とともに宗像氏が信奉した「宗像三女神」と呼ばれる三人の女神を祀っており、その総称が「宗像大社」です。
興味深いことに、この辺津宮から大島、沖ノ島を延長すると、対馬の北部を経て、韓国の釜山を見通す線上に並びます。

海辺の松林に立つと、沖の島は遠く望めませんでしたが、目の前には大島が浮かび、その向こうに沖の島があると思うと、なぜかわくわくしました。この海の道は、古代から半島と大陸の政治、経済、文化の海上路であり、掌握したのが宗像氏で、三女神を祀る神官と考えられています。
九州全土、特に宗像地方を中心にこの沖ノ島を、エジプト考古学者の吉村作治が提唱し、世界遺産にする運動が行われており、そのポスターが宗像の道の駅に張ってありました。今年の1月5日に「宗像・沖ノ島と関連遺産群」の構成遺産の一つとして、世界遺産暫定リストに追加掲載されているそうです。なんだか、こんな地味な島がどうしてかと思ってしまいます。ポスターによると、この沖ノ島は海の正倉院と称されるほど、発掘調査が行わた結果、23の古代祭祀跡から約8万点の神宝類が出土し、その古代祭祀遺物すべてが2006年に国宝に指定されています。
この島は、基本的には無人島ですが、現在は沖津宮の神官が交代で常時滞在しているそうです。そして、島全体が御神体ですので、現在でも女人禁制の伝統を守っているのだそうで、男性であっても上陸前には禊を行なわなければならないそうです。17世紀前半、黒田藩が沖ノ島に防人をおいたことから発見されたのですが、島についての情報は一切口外が許されなかったようです。島の様子が知られるようになったのは、日本海海戦がおこなわれた日露戦争の時に、陸軍の防衛基地が設置されてからです。
道の駅の壁に張られた国宝は、教科書に載っているものが多く、ここで見つかっていたのだということを初めて知りました。たとえば、中国 魏の時代(1700年前)に造られ渡来した青銅製の鏡。神様と動物の模様が刻まれている「三角縁神獣鏡」、朝鮮 新羅の時代(1400年前)に造られ、渡来した純金製の指輪である「金製指輪」、日本の古墳時代(1400年前)に造られた馬具の一種で祭礼の時 に馬の胸や胴を飾る豪華な装飾品である「金銅製杏葉」など約12万点に及ぶ貴重な古代祭祠神宝が出土しています。また、史跡だけでなく、自然においても島内は、天然記念物である亜熱帯植物が群生しており、一木一草たりとも、島外に持ち出すことは古来よりタブーとされ、現代も、その精神は、脈々と引き継がれています。
不思議な島です。
投稿者 fujimori : 21:04 | コメント (5)
2009年11月24日 [講演先にて]
文化の伝承
子どもたちを文化的環境の中で育てるということは、子どもたちには、次世代に文化を受け継いでいってもらわなければならないからです。
日本の文化というのは、どのような文化でしょうか。日本独特の文化とは、必ずしも日本で生まれた文化ということではありません。どこかで生まれ、何かの形で日本に伝わり、それが長い間に日本の風土に合ったものに変化し、日本独特の文化となっていくのです。もちろん、日本で考えられたものもあるかもしれませんが、それが、やはりほかの文化と融合したり、影響し合って成熟していくのです。ですから、ある意味では、文化とは、人々の生活であり、習慣なのです。文化とは英語圏では「cultivated」といいます。これは自己の内面を耕した状態のことを指し、成熟した状態を意味します。
しかし、文化は普遍的で永遠ではありません。現在、上野の国立西洋美術館では、「古代ローマ帝国の遺産」ということで、「栄光の都ローマと悲劇の街ポンペイ」という展示会が開催されています。古代ローマ帝国は、人類史上、比類ない長さと広さを誇り、繁栄を極めました。しかし、帝国絶頂の西暦79年、その街ポンペイは、ウェスウィウス火山の噴火で埋もれてしまいました。日本でも、あれほど勢力を誇っていた邪馬台国はどこに行ってしまったのでしょうか。歴史は、文化を埋もれさせてしまうこともあります。しかし、文化は、どこかでつながっていきます。それが、どこにどんな形でかわかりませんが、今の時代に何らかの影響を与えているのです。
先週末、福岡に行ったときに、一度行きたいところに連れて行ってもらいました。それは、金印が出たと言われる志賀島です。
長い年月の間に砂の架け橋が掛かり、今では、「海の中道」といわれる「砂嘴」を渡っていくことができますが、もともと志賀島は「島」でした。九州とはつながっていなかった島に、なぜ金印があったのか不思議でした。
発見されたのは、1784年、筑前の国那珂郡志賀島の甚兵衛という農民が、耕していた田畑から金の印章を発見して、黒田藩に届け出たもので、黒田藩ではこれを儒学者達に鑑定させた結果、漢の光武帝から垂仁天皇に送られた印であり、安徳天皇が壇ノ浦に沈んだとき海中に沈んでしまったのが、志賀島へ流れ着いたものであろうというものでした。

それにしても、鉄砲伝来のときにもそうでしたが、金印発見の知らせは,異例の早さで中央に伝わったようです。そこで、京都の国学者藤貞幹という人が、発見から一月あまりで、委奴は倭奴であるとしてこれを伊都國(今の福岡県糸島郡)王が光武帝から授かった金印であるという説を発表しました。それがほぼ定説となっています。
金印を黒田家所有となり、以来、黒田家の家宝として庫裡深く所蔵されていましたが、明治になって国宝に指定され、昭和29年の再指定で改めて第1級の国宝となり、一時東京の国立博物館に保管されていましたが、現在は、黒田家から福岡市に寄贈され、市博物館の開館とともに一般公開されています。

実物は、一辺 2.3cmの四角形で、台部分の厚さ約 9㎜、総高約 22㎜、重さ 108.7gの非常に小さな純金製(22金)ですが、この小さなものから、出土地や発見者、何故志賀島にあったのか?という疑問がいまだの解明されておらず、だからこそ、昔の文化に思いを馳せるロマンがあるのかもしれません。
投稿者 fujimori : 21:00 | コメント (4)
2009年11月01日 [講演先にて]
古典
京都の街を歩いていると、目につくポスターがあります。そこには、俳優の児玉清さんとヴァイオリニストの玉井菜採さんが手に本を持っている写真です。そして、その写真の真ん中に「11月1日 古典の日」と書かれたあり、右端には「古典をいだき」左端には「古典に抱かれて」と書かれてあります。この「古典の日」は、昨年、京都で宣言されたようです。
私は常々、古典とはなんだろうかと思っていました。たとえば、森鴎外や夏目漱石の作品は古典なのだろうかと思っています。中学校学習指導要領の国語には、「古典の指導については,…その教材としては,古典に関心をもたせるように書いた文章,易しい文語文や格言・故事成語,親しみやすい古典の文章などを生徒の発達段階に即して適宜用いるようにすること」のみ書かれてあり、何を使うかは書かれてありません。では、教科書では何を取り上げているかというと、1学年では、どの教科書でも取り上げているのは「竹取物語」で、あと枕草子、伊勢物語、源氏物語、土佐日記、梁塵秘抄、宇治拾遺物語などです。2学年になると徒然草、平家物語が加わります。3学年では、おくのほそ道が多くなります。こうして見ると、森鴎外とか、夏目漱石は古典ではないようです。
では、「古典の日」における「古典」とは何かというと、「風土と歴史に根ざしながら、時と所をこえてひろく享受されるもの。人間の叡智の結晶であり、人間性洞察の力とその表現の美しさによって、私たちの想いを深くし、心を豊かにしてくれるもの。いまも私たちの魂を揺さぶり、“人間とは何か、生きるとは何か”との永遠の問いに立ち返らせてくれるもの。それが古典である。」
これではよくわかりませんが、この日の11月1日はどんな日かみると、古典の代表は「源氏物語」においているようです。古典の日のHPでは、源氏物語のことをこう言っています。「1千年前、山紫水明の平安の都に生まれたこの作品は、文学はもとより美術、工藝、またさまざまな藝能に深い影響を及ぼし、日本人の美意識の絶えることのない源泉となってきた。1930年代に英訳されて以来、近年では、20余の外国語に翻訳されて、世界各地の人々に愛読され、感銘を与えている。」
この源氏物語が、「紫式部日記」の1008年11月1日の記述に、紫式部に対して藤原公任が、「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ」と語りかけたとあり、その「若紫」とは源氏物語の登場人物であるので、源氏物語が歴史上はじめて記録されたということで、その記述からちょうど1000年たった2008年11月1日を古典の日ということで、京都府などを中心に立ち上げられた「源氏物語千年紀委員会」が11月1日を「古典の日」とすることを提案したようです。
同委員会では関西経済連合会などと連携して3年後を目処に「古典の日」を国の制定する記念日とすることを目指して政府や国会議員に働きかけることにしており、将来的には国民の祝日とすることをも視野に入れているようですが、どうでしょうか。
先日、「古典の日」にちなみ、鎌倉時代に書かれた古今和歌集の文面などをあしらったオリジナル切手が発行されました。図柄はいずれも、歌人・藤原定家らを祖とする京都・冷泉家に伝わる国宝などの所蔵品です。今後、「古典の日」をどのくらい国民全体が認知してくるでしょうか。
投稿者 fujimori : 15:03 | コメント (5)
2009年10月31日 [講演先にて]
城と樹木
国宝と世界遺産に登録されている姫路城についてのブログを書きましたが、もうひとつ、国宝に指定されていて、平成6年、世界文化遺産に登録されたのが二条城です。ここには、国宝の二の丸御殿、国の特別名勝の二の丸庭園のほか、数多くの重要文化財の建造物が残っています。明日の講演のために前泊したホテルの近くに、その二条城があり、今「二条城お城まつり」が開催されているので、覗いてみました。
ブログでも様々な城がテーマになりますが、城といっても、敵の攻撃を防ぐために築いた防御施設のことで、必ずしも天守閣を持っているわけではなく、柵を巡らせただけというものもあります。また、平和の時代になって、敵の攻撃から守るというよりも権力を誇示するために建てたものもできてきます。そんな様々な城の中で、私たちが「城」といって思い浮かぶイメージは、大体は、戦国時代末から安土桃山時代をへて、江戸初期に至る半世紀ほどの間に築かれたものです。このころの城は、全国に3000城位もありました。それが、大阪夏の陣直後、徳川幕府による「一国一城令」が出され、その数は一挙に約170城まで減少してしまいます。
なお、悪いことに明治維新になると、明治新政府によって明治6年城郭の廃城令が明示されて、明治7、8年頃には約三分の二の城郭が廃城となってしまいました。そのあとも、戦争によって破壊されたものも多く、大切な文化遺産が消されていったのです。しかし、戦後になると、城の歴史的価値は見直され、またすぐれた観光資源として見直され、焼失した天守閣や櫓・城門などの再建・復興が相次ぎました。
二条城は、ほかの城とちょっと違った用途として建てられました。慶長8年(1603年)、徳川将軍家康が、京都御所の守護と将軍上洛のときの宿泊所として造営し、3代将軍家光により、伏見城の遺構を移すなどして完成したものです。ここでは、豊臣秀吉の残したもの、家康が建てた建築、家光がつくらせた絵画・彫刻などが総合されているだけでなく、徳川の最後である大政奉還の舞台になるなど日本の歴史の移り変わりを見守ってきた城です。
この城内庭園にはいろいろな木が植えられています。それらの木にはそれぞれ利用価値があったようです。以前ブログで紹介した熊本城の別名「銀杏城」とは、加藤清正が篭城戦になった時の食料確保のため、築城時に植えた大銀杏があるからだと言われています。二条城には、非常時のために植えられている木があります。松は、ブログで書きましたが、縁起の良いということもありよく城に植えられますが、もうひとつ、たいまつに利用されていたそうです。また、説と違って、熊本城の銀杏は雄の木で実はならないそうですが、実を食料にするために植えられた木はたくさんあります。二条城には、あらかし、しいのき、うばめがしがあります。先日、私の園でもしいの木の実であるどんぐりのクッキーを子どもたちと作って食べました。ほかに、燃料に利用したものに、くすのき、いちょう、けやき、むくのき、えのきなどがあります。もちろん、木は主に燃料にしたのは当然でしょうね。また、ひのきは建築用、なぎのきの葉は鎧の中に入れて戦えば死なないと言われていました。
あと、なぜだかわかりませんが、3代将軍家光の時代、鍋島藩の鍋島勝重公が、後水尾天皇行幸に先駆け、蘇鉄を1本献上している記録があります。8代将軍徳川吉宗の時代の二の丸庭園の絵図には、二の丸庭園には15本もの蘇鉄が植えられていたことが描かれてあるそうです。
場内にも、大広間と黒書院をつなぐ渡り廊下の壁面及び出入口の杉戸の蘇鉄が描かれていたため、蘇鉄の間と名づけられています。
樹木から城を見るのも面白いかもしれません。
投稿者 fujimori : 20:36 | コメント (5)
2009年10月13日 [講演先にて]
小さな島2
直島における幼保小の新しい試みは、直島中学校の改築で一応の完成を見ます。戦後、中学校として県下初の独立新校舎が当時”つつじが丘”と名づけられていました。その中学校が、昭和54年に”教育と社会”の一体化をめざす文教地区構想の頂点として全面改築されました。それまでも、文部、厚生省の間の厚い壁を打ち破った幼保一元化に続いて、今回は、幼小中一貫教育の実現でした。設計上は、それぞれ非常に強い個性を持ちながら、理念を共有し、各施設が閉鎖的にならないようにで教師と生徒、人と人とのよりよいコミュニケーションの場であることへの配慮が流れています。
これらの実現を、先頭を切って推し進めていた当時の直島町長は、甥が当時岡山県にある福武書店に勤めていた関係から、福武書店(現ベネッセコーポレーション)の創業者である福武哲彦さんと知り合います。そのときに、町長は、直島(香川)の南側一帯を、文化的なエリアにしたいという夢を描いていました。福武さんは、瀬戸内の島のどこかに世界中の子どもたちが集える場を作りたいと構想していました。それが結びついて、「直島アートプロジェクト」が構想されていったのです。それが、今から20年くらい前でした。
その先代の哲彦さんの遺志を継いで、「直島アートプロジェクト」を実行に移したのが、現在の会長である福武總一郎さんです。まず、1989年に安藤忠雄のマスタープランで「直島国際キャンプ場」を作り、92年には現代アートの美術館とホテルが一体化した「ベネッセハウス」をオープンさせました。やがて美術館の外にも作品を展示するようになり、アーティストに直島で作品を作ってもらう「サイトスペシフィック・ワークス」が始まりました。その発展系として、民家を利用した「家プロジェクト」が誕生。2004年には建築物としても注目度の高い「地中美術館」がオープンし、現代アートが直島全体に広がっていきました。
今回、ベネッセハウスの中のレストランで食事をした後、以前のブログで予告したように「地中美術館」を見学しました。
この美術館は、すべて地中に埋まっています。ですから、入口は、コンクリートの壁が建っているだけで、その後ろは建物ではなく、緑で覆われた丘だけです。なんだか古墳の中に入り込んでいくようです。
中に入ると、当然、他の美術館のような室内が続き、それが地中であるということは忘れそうです。しかし、安藤氏の特徴であるコンクリートの圧倒的な存在感が空間を切り取って、そこに注ぐ光が空間の奥行きを際立たせます。その中の展示は、「クロード・モネ」絵画5点、空間と太陽の光の時間的経過を融合させた「ウォルター・マリア」の作品、光そのものを作品とした「ジェームズ・タレル」の作品以外は、コンクリート、鉄、ガラス、木、石を配置し、光との関わりを意図した安藤忠雄氏設計の空間が、すべて作品となっています。ただ、残念ながら事前にロッカーへカメラなどの持ち物はすべてしまわなければなりませんので、写真は撮ることはできませんでした。また、室内は声が響くために、同じグループは10人までと制限されていましたが、それだけ、作品としての空間を大切にしているということでしょう。
自然と人間との関係を考える美術館といわれる「地中美術館」は、保元の乱で敗れた崇徳上皇が讃岐国へ流される際に一旦四国上陸を拒否され、3年間を直島に滞在したときに、島民の純朴さ、素直さを称賛してつけられたとされる「直島」という名前に恥じない、素朴でありながら、自然に純粋に向き合った作品として完成されていました。

投稿者 fujimori : 21:13 | コメント (5)
2009年10月12日 [講演先にて]
小さな島1
高松での研修の一環である直島への訪問は、大学時代からの念願でした。直島は、行政域としては香川県に属していますが、生活圏は岡山のようです。というのは、私たちが訪れる時に利用した高松からのフェリーは、1日に数本で、1時間かかりますが、岡山からはもっと本数が多く、近いようです。
瀬戸内海に浮かぶ小さな島・直島は、現在、様々なアートプロジェクトが実施され、注目を浴びています。島丸ごと現代アートといった感で、世界中から観光客が訪れています。しかし、私が直島を知ったのは、今から30年ほど前に、当時の直島町長であった三宅親連さんが、島に文教地区を作ろうということで幼保小中を整備したことでした。まず、着手したのが、明治18年開校の高田小学校の老朽化と直島町百年を契機に、小学校改築問題でした。そのときに、この改築だけではなく、直島町の将来について熟議された文教地区計画を作成し、その一環として、昭和45年、新しい期待を担って直島小学校が落成しました。その計画とは、町勢の充実・町民融和・文教重視のシンボルとして直島の中央に建設される文教地区構想の中で、直島小学校は、幼~小~中~高~社会教育を結ぶ一環としての小学校という位置づけです。そのために機能発揮に設計上とくに配慮が必要とされ、東京大学吉武泰水教授に依頼し、設計された建物は、学校建築では他に例を見ない「自然を大きくとり入れた、すぐれた環境」という教育目標が設計面でも実現されています。
その後、昭和48年度、直島幼稚園が改修され、ここに、町の幼児教育のあり方を抜本的に改革した新園舎が文教地区に完成しました。その試みの一つは、それまで行政上二次元化されていた幼稚園と保育園を一つの学園とし、幼児の教育と福祉の機会均等をはかり、運営上の一元化をはかるもので、幼・保それぞれの長所を生かしつつ、幼児のしあわせをはかる理想的な幼児教育の場をめざしたのです。その時の設計で目指したものは、幼児の発育と心理をつかんだ幼児教育にふさわしい建築、一斉保育から自由保育への脱皮をめざした設計、そして、文教地区構想の一環として最高度の設計による園舎の建築でした。このころの思いは、無限の可能性を秘めた幼児。その可能性の芽生えを大事に育て、伸ばしたいという願いが込められていたのです。

その後、昭和57年度にその幼稚園のとなりにセミ・オープンスクールとして保育園が建設され、幼児学園との間に中庭をつくり、幼児学園と保育園が個々の建物ではなく、全体として調和がとれるように設計され、一斉保育から自由保育への脱皮をめざしました。ここでは、幼児の無限の可能性の芽を大事に育て、伸ばすために、幼児の教育と福祉の機会均等をはかり、幼・保それぞれの長所を生かして、幼児のすこやかな成長をはかっていかなければならないと願いを込めて建てられました。

そのような試みに、学校建築を研究していた私は、まだ保育の世界には足を踏み入れてはいませんでしたが、新しい時代の幼児教育から、小中学校教育を垣間見る気がしたものでした。その幼児学園を今回見ることができたのです。建物はずいぶんと古くなり、園児は極端に少なくなっていましたが、その設計上の試みは今でも決して薄れることはありませんでした。しかし、環境は変わらずにありますが、そこで展開される幼児教育のソフトにはかなり課題が見えました。というのは、設計の意図は、使う人にとってはなかなか理解しがたく、かえって使いにくい空間として持て余しているかのようで、残念でした。
投稿者 fujimori : 21:35 | コメント (4)
2009年10月11日 [講演先にて]
桃
代表的な日本昔話といって思い出すものは何でしょうか。多分、多くの人が上げるであろう話に「ももたろう」や「かぐやひめ」があります。この話の共通点は、どちらも赤ちゃんは人から生まれていないということです。しかも、子どもが欲しくてたまらない子どもがいない老夫婦が願っていると、桃からや竹から子どもが生まれるのです。これは、高齢出産なのか、30歳代を超えると老夫婦になるのか分かりませんが、昔話の始まりは「むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました」で始まることが多いのも不思議です。
鬼退治で有名な桃太郎の話ができたのは室町時代以前で,一説によると鎌倉時代ではないかとも言われています。主人公のモデルは,古事記にも登場する神話上の人物,吉備津彦命だといわれています。日本全国で桃太郎の話の舞台となっているところがありますが、今週末、この桃太郎伝説がある香川と岡山に行ってきました。もちろん一番有名なのは、岡山説です。
神代の時代、日本を作ったといわれるイザナキノミコトとイザナミノミコトですが、火の神(ヒノカグツチ)を生んだ時,イザナミノミコトは大やけどを負って命を落としてしまいます。しかし、どうしても忘れられないイザナキノミコトは黄泉の国へ連れ戻しに行きます。しかし、戻るまで見ないという約束を守れず、結局は逃げて戻ることになります。このあたりの話は、ギリシャ神話のオルフェウスの伝説に似ていますね。戻る途中、追っ手を追い払うために桃を投げつけます。すると,追っ手はみな黄泉の国へ戻っていきました。そこで、イザナキノミコトは「人々が苦しい目にあって困っている時に助けてやってくれ。」と言って,桃に「オホカムヅミ」という名を授けました。このように、昔から桃には優れた力があると思われていたようです。桃の栄養価は高いので,元気で健やかな子を育てることができますし、中国でも「桃源郷」というように,平和で安心できる世界というイメージが桃にはあります。この「桃」に以前ブログでも書いたのですが、力強く元気という意味を持つ「太郎」が結びついて桃太郎の話が出来上がっていったのでしょう。
桃の名産地でもある岡山に桃から生まれた桃太郎が鬼を退治する物語が伝わっているのは当然かもしれません。また、家来になるいぬ、さる、きじにあげるきび団子も吉備の国の団子につながります。そんなことで、岡山県総社市を中心とした吉備路一帯で今も語り継がれています。ここの伝説は、異国からやってきた温羅という名の王子が吉備国で悪事をはたらき、人々に恐れられていたために、大和朝廷から温羅を退治するように送り込まれたのが武勇に優れた吉備津彦命で、この話が元になり、温羅が鬼、吉備津彦命を桃太郎にしたのです。
もうひとつ、香川県高松市に「鬼無」という地名があります。ここは,桃太郎が鬼を退治して鬼がいなくなったことから「鬼無」という地名になったといわれています。そして、鬼ヶ島は,女木島という島だといわれています。高松から、直島に向かうフェリー航路はその脇を通りました。
そして、その隣には、桃太郎から逃れた鬼が逃げ込んだ男木島があります。山の中に鬼が隠れていた洞窟があったり、桃太郎と家来の墓がある熊野権現桃太郎神社(桃太郎神社)があります。
他にも、桃の産地でもあった奈良県磯城郡田原本町にも桃太郎にまつわる多くの史跡が点在しています。また、愛知県犬山市にも桃太郎の伝説が残っていたり、日本ライン桃太郎伝説もあります。
どうして各地に点在してあるのか、また、同じような逸話が世界にもあるのかはとても興味あるところです。
投稿者 fujimori : 21:08 | コメント (4)
2009年10月05日 [講演先にて]
能登
今回、講演のついでに奥能登を訪ねました。
奥能登は、輪島、珠洲、穴水、能登などですが、この2市2町に伝わる1976年、国の重要無形民俗文化財に指定された珍しい儀礼があります。この儀礼が、先日の10月2日にユネスコ無形文化遺産として認められたことが石川毎日新聞に掲載されていました。その儀礼とは、「奥能登のあえのこと」という素朴な行事で、風雪厳しい自然と向き合い、神に収穫を感謝するというものです。この儀礼は、先祖代々受け継がれてきたとても面白いもので、日本のおもてなしの心をよくあらわしており、今回登録されたことによって、今後、海外からも注目されることになるでしょう。
「あえのこと」は、稲の生育と豊作を約束してくれる田の神をまつる農耕儀礼で、このようなおもてなしをします。まず、収穫が終わった12月、正装した農家の主人が田の神を田んぼに迎えに行き、まるでそこにいるかのように手を差し伸べます。この田の神は目が不自由とされ、主人は気遣いながら「どうぞこちらへ」と家に案内します。
家では、種もみ俵とふたまた大根でしつらえた神座のある奥座敷で、まず、1年間の農作業を報告します。そして、入浴後、小豆飯やブリの刺し身など山海の幸を盛ったお膳でもてなし、収穫を感謝します。神様はその家で年を越し、翌年の耕作前の2月、豊作を祈願して田に送り出すのです。この儀礼は、30年くらい前まではどこの家庭でもやっていたそうですが、最近の農業の衰退と共に減ってしまっているため、伝統の継承に危機感を抱き、「奥能登のあえのこと保存会」が発足しています。そして、20年前から、能登町柳田植物公園内にあるかやぶき民家を移築した「合鹿庵」で毎年、「あえのこと」を一般公開しています。
日本の伝承文化は、その儀礼の形だけではなく、日本古来の文化の影響を見ることができ、そこに今後の日本の在り方を考えるヒントも隠されている気がします。そういう意味では、同じ輪島の朝市もあります。輪島の朝市は、日本三大朝市の一つとして有名ですが、今回、その朝市も見ることができました。
輪島の朝市の歴史は古く、平安時代から1000年以上も行われています。最初は、神社の祭礼日などに生産物を持ち寄って、物々交換しあっていました。それが、室町時代には毎月4と9の付く日に市が開催されるようになり、明治時代には毎日、市が立つようになって今に至っています。
輪島朝市は通称「朝市通り」と呼ばれている約360mの商店街に200以上の露店が立ち並びます。そこには、地元の人、観光客が混じって、とても活気があります。この露店は、誰でも店を出せるわけではないそうです。ここに店を出す営業権利は、朝市組合への加入が必要です。そして、その加入を証明するために、店先に自分のフルネームが書かれている看板を見えるところに付けておきます。この営業権利は先祖代々引き継がれていくそうです。
この輪島の朝市は日本三大朝市の一つといわれていますが、実は、輪島(石川県輪島市)、高山(岐阜県高山市)は、どの資料を見ても入っているのですが、もうひとつについて呼子(佐賀県呼子町)か勝浦(千葉県勝浦市)のどちらか競っているそうですが、日本4代朝市にすればいいと思います。
何にしても、朝市には、その地域の人々を長い間支えてきた生活や文化、そして交流などあらゆるものが詰まっていて、ぶらぶら見て歩くだけでも楽しいものです。
投稿者 fujimori : 23:54 | コメント (4)
2009年10月04日 [講演先にて]
麩
私は食べ物には好き嫌いはありませんが、割と好きなものがいくつかあります。その中に「麩」があります。今日の昼食は、その麩の会席料理をいただきました。

天平時代、中国では僧侶が「ひき割小麦」を水で練り、十分にこねてから水の中で洗い「小麦でんぷん」と「小麦たんぱく」 に分離していました。そして、小麦のことを「麺」と呼び、その小麦の「筋」という意味で「小麦たんぱく」は「麺筋」と呼ばれていました。その名は、宋代に書かれた『夢渓筆談』にも登場しています。現代の中国にはまだ「麺筋」の言葉がそのままで残っています。その「麺筋」という呼び方でグルテン(小麦粉に水と塩を加え、デンプン質を洗い流した後に残った、チューインガムのような硬さをもつ小麦蛋白質のこと)が、室町時代の初期に、明との間で行っていた勘合貿易に伴い日本に伝わってきました。中国では、肉・魚を食べることができない禅僧の貴重なタンパク源として重宝されていましたが、日本でも当時は仏教の厳しい戒律から、禅僧たちは、殺生禁断、肉食を断っていました。そのため、 肉に代わる栄養たんぱく源を「大豆」「小麦」に求め、大豆は「豆腐」や「湯葉」として、小麦は「麸」として珍重されました。
しかし、当時は小麦の作付けは少なく 「挽き割小麦」は高価で、一般には口にする事は出来ず、宮中や僧堂でせいぜい仏教の祭事や「精進料理」などで使われる程度でした。当時の麸は、麺筋を玉にとり、大きな釜でゆで上げて食べられていたのが多く、 他に煎麸、炙麸として用いられていたことが古書籍や古文書に残っています。鎌倉時代になると、日本でも麩が普通に食べられ始めました。そして、桃山時代に入ると「ふのやき」と呼ばれるものが文献にも現れ始めます。この「ふのやき」は麺筋を焼いたもので、当時としては大変珍しいものであり、料理の素材ではなく、お菓子でした。千利休の催した「天正茶会百席」には、お菓子として「ふのやき」が多く供されていることが、当時の「茶会記」に誌されています。これは、「麩」を焼いた茶菓子を出した事から「焼麩(やきふ←あんぺいふもこれ)」ということで、当時は「焼の麩」と呼ばれました。そして、江戸時代中期ころには、麩にもち粉などを練り合わせた「生麩」が生まれ、その頃には麩は、庶民の間でもよく使われる食材となっていきました。
今回昼食でいただいた中に車麩の酢のものと、生麩の揚げ物がありました。
生麩の揚げ物と車麩の和え物と、麩のステーキ
麩は、とても栄養価の高い食品であることはなんとなくわかりますが、実際にはどのような栄養素かと言うと、車麩のエネルギーは387kcal、水分は11.4g、たんぱく質ははやり30.2 gと非常に高く、脂質は3.4g、炭水化物は54.2g、灰分0.8gです。
そのほかにも料理にはいろいろなこだわりがあります。 女将がこんなことを言っています。「当店の麩は国産小麦100%で製造し、添加物を一切使用していません。また、料理は、食べてお腹が満足出来るだけでなく、見て楽しみ、口で味わい、空間を楽しむそんな楽しみ方が出来る場所をみなさんに提供して行きたいと思っています。私はお花が大好きでオブジェ作り、お花の楽しみ方のお話をお客さまとお話して盛り上がる事も多いですね。」
学校給食にも、このような配慮が必要でしょうね。摂取量だけが課題ではないですから。
投稿者 fujimori : 22:13 | コメント (4)
2009年08月23日 [講演先にて]
つばめ
「つばめ」のロゴマークといえば、旧国鉄のシンボルマークです。1930年(昭和5年)10月、東海道本線の東京駅から神戸駅までの間で運転を開始した特急が「燕」でした。その後、1930年(昭和5年)~1943年(昭和18年)と、1950年(昭和25年)~1975年(昭和50年)の間、国鉄には「燕」・「つばめ」の愛称を持つ特急列車が運行されており、戦前・戦後を通じ国鉄を代表する特急列車の愛称とされてきた、伝統ある列車名です。とくに、1964年(昭和39年)の東海道新幹線開業以前は東海道本線の特急であり、長年にわたって国鉄を代表する名門列車とされてきたのです。
現在のプロ野球球団東京ヤクルトスワローズの前身は、国鉄の外郭団体である財団法人鉄道協力会を中核として、財団法人鉄道弘済会、日本通運、日本交通公社などの企業により設立された「国鉄野球株式会社」の運営する「国鉄スワローズ」だったので、当時の国鉄特急である「つばめ」にちなんで、愛称名をスワローズとしました。その後、産経新聞に譲渡されてから鉄腕アトムに因んでチーム名を「アトムズ」と改称したのですが、再度ヤクルト本社へ譲渡されてしばらくして、虫プロダクションが倒産してしまい、アトムのキャラクター使用を取りやめたので、また元の「スワローズ」へ戻して現在に至っています。
このツバメのシンボルマークは、国鉄バスの側面にも描かれており、現在のJRバスグループでもこれを踏襲して、バスの車体にツバメを模したデザインのマークが描かれています。また、この由緒ある「つばめ」という列車名が、2004年(平成16年)3月以降、九州旅客鉄道(JR九州)が九州新幹線で新八代駅・新水俣駅・川内駅 ・ 鹿児島中央駅間を運行している新幹線列車の愛称として使われています。今回、この新幹線を利用して水俣まで行きました。また、シンボルとしてのツバメは、JR九州では、鉄道車両を飾るワンポイントとして、一般用から特急用に至るまで広く使用しています。

今回乗車した新幹線「つばめ」は、いくつか工夫や新しい取り組みが見られます。800系新幹線で、その鉄道車両で2005年度のグッドデザイン賞を受賞しています。商品デザイン部門で公共交通関連機器・設備においてです。
まず、乗って驚いたのが、後ろから目に入るのが座席の背です。その背は高く後ろからだと頭が見えません。しかも、妻面にクスノキが使われています。
座席にすわるとシートは、西陣織のモケットです。頭を後ろに着けると、座高が高い私でも十分と頭を休めることができる高さですし、その弾力をやさしく頭を支えます。また、座席のアームの部分やアームから取り出すテーブルも背と同じクスノキで作られています。
また、前の瀬戸の間は割と広く取られており、パンフレット袋の素材は黒い革です。そして、日よけのブラインドも木製で、それら木材にはすべて不燃処置が施されているそうです。
資料によると、座席の基部も木製なのは、座席の重量を大幅に軽量化することにより3両1ユニット化によって増えた軸重を軽減するという目的もあるそうです。そして、1、5号車の新八代駅寄りには、車椅子スペースとバリアフリー対応トイレが設けられており、出入り台の壁は柿渋色、客用ドアは古代漆色という伝統色が使われていて、手すりや握り棒は熊本産のサクラ材が使用されています。そして、トイレはサクラ材の手すりで温かさを感じますし、洗面室には八代のイグサの縄のれんがさがっています。
全体的に日本の「和」を基本コンセプトとして、伝統の技が随所に光り、独自の意匠が施されています。
いろいろなところで、和の伝統が見直されてきています。
投稿者 fujimori : 23:41 | コメント (4)
2009年08月22日 [講演先にて]
もやい
様々な取り組みには共通点があります。特に、人を対象にするような取り組みにはほかの分野にも通じるような、ほかの分野に参考になるようなことがあります。
水俣病からのイメージを逆転発想し、地域環境を再生して成功した水俣では、とても面白い活動がいくつかあります。そのひとつに「村丸ごと生活博物館」があります。自分たちの暮らしを案内するのは、8名の生活学芸員、山菜とりや野菜作りなどにいそしむ15名の生活職人が、この町のあるもの探しの研修を受けます。自分の家、家まわり、集落のことなど自分たちの暮らしを調べていきます。地域にあるものを探して、確認していくのです。あるものを写真で撮り、「この草木は何と呼んでいるの?」「何に使うの?」というように外の人があるものに驚いて質問することによって、この集落の持っている暮らしの力を引き出していこうというものです。この試みは、元気な街づくりが目的で、外からいろいろな人が訪れるようになり、村人たちは住む誇りを持ち、自信も出てきたそうです。この取り組みが認められ、2005年に「第4回豊かなむらづくり全国表彰」農林水産大臣賞を受賞しています。
水俣再生は「もやい直し」といいます。「もやい」とは、「もやい結び」という紐の結び方を思い浮かべますが、もやいの意味は、もともと船をつなぐことや一緒に何かをするという意味があります。そこで、水俣では、人と人との関係、自然と人との関係が壊れてしまった地域の中で水俣病と正面から向き合い、対話し協働する取り組みを「もやい直し」と名づけました。そのために誰でも気軽に集まり、利用できる施設が水俣・芦北地方に3ヶ所建設されました。今回は、そのひとつの「もやい館」での講演でした。
吉本さんの著書「地元学って何だろう」の中で、吉本さんはこのもやい直しの四つの原則を挙げています。「人それぞれの違いを認め合い」「人と人の距離を近づけ」「話し合い」「対立のエネルギーを、創造するエネルギーに転換する」です。この四つの原則は、私は組織の在り方でもいえることのような気がします。今、質の向上に競争原理を入れることといわれることがありますが、それは教育、福祉分野では逆に質の低下を招いていることは既に証明されています。それよりも「協同」「協力」であるといわれていますが、その協同、協力とはどういうことかというと、上にあげた四つの原則が当てはまると思います。
地元学は、三つの元気を作ることとしています。一つ目は人が元気になることです。そして、人が元気であるためには逆境と笑いが人を育てると言います。逆境は、それにあっても前向きにとらえて行動することで元気になるのです。未来に希望を描き、環境都市づくりに果敢に挑戦していった住民協働の心が、「もやい直し」になったのです。二つ目は地域の自然が元気なことが必要だといいます。海、山、川が元気であれば、生産と生活の場が豊かになり、漁業、林業、農業の基盤が整い、食べ物を得るだけでなく、遊びの場にもなるのです。三つ目は経済が元気になることだと言います。しかし、この経済は必ずしもお金が必要ということではありません。お金は人の縁を切り、季節をなくす側面があると言います。そうでなく、昔からあった「結」とか「もやい」といった助けあいのような共同と自給自足の経済であるのです。
いまこそ、日本は国の在り方、人の生き方、地域の再生を考えないといけない時期に来ているかもしれません。
投稿者 fujimori : 22:22 | コメント (4)
2009年08月09日 [講演先にて]
タンとテール
旅の楽しみは、その地域ならでは風景や自然、歴史や伝統、そしてお祭りなどの行事や文化、そして、そこで暮らす人々との出会いなど様々なものがありますが、その地域における食ももちろん楽しみです。もしかしたら、今、旅をする人の多くはその地域の食を求めての人が多いかもしれません。私はよく地方に行くことが多いので、「いろいろな地域のおいしいものが食べられていいですね」と言われますが、実は意外にそうではないのです。それは、先方で用意してくれる食事の多くは昼食は幕の内弁当のようなもので、確かに中身は豪華なものがたくさん入っているのですが、決まり切った刺身とかてんぷらとか魚の切り身などです。それもありがたい話でぜいたくは言えませんが。また、夜も気を使ってくれるとしたら会席料理がほとんどです。これには少しはその地域の食材が入りますが、どこに行っても京風となるとどうかなと思います。
もうひとつ、その地方に伝わるおいしいものといったら意外とB級グルメのようなもののことが多いので、先方がそんなものを出しては申し訳ないと思うのでしょう。私は意外と焼きそばとかお好み焼きが好きなほうなので、そういうものでいいと思うのですが。あと、あまり品数がいらないと思うこともあります。たとえば、ウニは大好きで、今が旬だからと出してくれても、本当は温かいご飯にウニだけでいいのです。そのほかのものがあるとかえってウニの味を邪魔してしまうので、気を遣わなくていいのにと思ってしまいます。
でも、こんなことを書くと今度地方に行ったときにだれもごちそうしてくれなくなるかもしれませんね。もちろん、基本的には好き嫌いがありませんので、なんでも大丈夫ですし、それよりもいろいろな話をすることが楽しいですので、皆さんとご一緒のときには何でも構いません。
しかし、私だけでどこかで好きなものを食べてくださいと言われるときには、その地方の名物をいただきます。先日の香川ではもちろんさぬきうどんを食べるために探し歩きましたし、仙台ではもちろん「牛タン焼」を食べました。
なぜ、仙台で牛タンなのか不思議ですが、第二次世界大戦後間もない食糧難の時代、仙台に駐留していたGHQが大量に牛肉を消費したあと残ったタンとテールを有効に活用するために、仙台の焼き鳥店「太助」初代店主である佐野啓四郎が、肉牛の舌(牛タン)を、タンシチューから着想して、タンを薄い切り身にして塩焼きするという調理法を考案したのが始まりだと言われています。しかし、これもよくある話で、どこが元祖で、そこが家元か実のところよくわかっていないようです。

牛タン定食のオーソドックスなものとしては、店員が塩味やタレをつけた牛タンを炭火等で焼いて、レモン汁は付けずにそのまま食べます。人気は塩味のようですが、半分ずつというミックスもあります。そしてご飯は、消化に良い麦飯です。吸い物としてはテールスープです。これに漬物として、きゅうりと白菜の朝漬けと「南蛮」という赤唐辛子の味噌漬けがつきます。ちょっと辛いので、夏は汗が出てきます。テールスープは、牛の尻尾のぶつ切りを煮たスープで、栄養たっぷりで、コラーゲンも豊富に含まれ、肌がすべすべになり、滋養強壮にもよいとされています。
投稿者 fujimori : 17:54 | コメント (4)
2009年08月08日 [講演先にて]
仙台
いろいろな所に旅に出ると、いろいろなことに出会います。その出会いから新しいことを知ることがあります。新しい人に出会うかもしれません。新しい場所、新しい歴史の発見、とても刺激的です。しかし、行くだけではそれらと出会うことはあっても、自分の身になることはできません。それは、乳幼児期の発達の条件と同じで、そこに自ら働きかけないことには意味がないのです。そのことに興味や関心を持たないといけないのです。
私は、休暇を取って旅に出ることは今はなかなかできません。しかし、ありがたいことに、全国に講演なり、仕事で行くことが多いので、その時に少しでも時間を見つけてその地域を歩きまわることにしています。よく仕事で行くと、その時間以外はホテルなどの部屋に閉じこもってどこにも出かけない人がいることを聞きますが、そんな勿体ない事はないと思います。また、確かに仕事で疲れてしまうこともありますが、逆に頭を使う仕事の場合が多いので、体を使うことは休息になります。もうひとつ、自分のタイプなのでしょうが、休日などでも家でゴロゴロしているともったいないと思って、どこかに出かけようとしてしまいます。周りから、疲れているのだから少しは休息をしたらと言われますが、どうも駄目なのです。
そのように何気なく出かけたり、仕事で出かけたりした先で思いがけないことに出会うとうれしくなります。今回出かけた先の仙台では、着いた夜は花火大会でした。
ブログでもちょうど花火のことを書きましたが、私は子どものころから隅田川の花火を見ながら育ったせいか、花火の音がすると、音のするほうに足が向いてしまうのです。人出がたくさんで、歩けないくらい混んでいても進んでしまいます。よく、地方の人は人混みが苦手という人がいますが、私は、人混みはそれほど苦痛ではありません。ただ、最近は、痴漢に間違われてしまうような冤罪があるので、気をつけますが。
そして、次の日の6日から7,8日までは仙台七夕祭りです。
今年はちょうど前日に花火を見に商店街を歩いたので、いつもどのように飾っているかをと不思議に思っていましたが、それを見ることができました。前日の4日の日に早朝各商店街が長さ10m以上の巨大な竹を山から切り出し、小枝を払います。そして、横に渡した棒に基本5本1セットの吹き流しをひもで引き上げていくのです。吹き流しは、一番上には丸い花紙で作ったボンボンがつけられ、その下にはおり姫の飾り糸を象徴した長い紙をたらし、機織りや技芸の上達を願ったのです。
たなばた自体は古くから全国的に行われている風習で、元禄のころの江戸では、短冊や吹き流しを付けた飾りが登場しました。仙台では「たなばたさん」といわれ、伊達政宗の時代には盛んに七夕の行事が取り入れられました。政宗が婦女に対する文化向上の目的でたなばたを奨励したためだと言われています。政宗は七夕に関する和歌を8首も詠んでいるそうです。笹飾りの竹は小枝を落として物干しざおに使い、小枝は飾りがついたまま川に流して水を浴び、洗い物をしたと伝えられているそうです。それが、本来の「みそぎ」をして盆の準備をする日ということでした。それが明治に入って一度衰退しますが、昭和になって仙台商人の有志が七夕飾りを復活させ、今に至っているということです。

仙台での講演の帰りに覗いた七夕飾りの根元には、午前中に各商店街ごとに飾り付け審査で選ばれた賞ごとに、金、銀、銅のプレートが付けられていました。その手の込んだ飾りを見ていると、仙台ではこの七夕祭りが終わると夏が終わった気がするのだろうなと思いました。
投稿者 fujimori : 17:04 | コメント (4)
2009年08月02日 [講演先にて]
松
各地でやっと梅雨が明け始めました。暑い日が続きます。東京にいると、ピカチュウ探しに都内のJR駅を走り回っている子どもをよく見かけますが、今でも海へ山へ出かけているのでしょうか。海というと思いだす歌が、以前にこのブログで取り上げたことのある「我は海の子」と「海」という歌があります。「海」は、1913(大正2)年、「尋常小学唱歌(五)」に発表されたもので、昼と夜の海をよく表現しています。「松原遠く 消ゆるところ 白帆のかげは 浮ぶ ほしあみ 浜に高くして かもめは低く 波にとぶ 見よ昼の海 見よ昼の海」この歌からは、遠近だけでなく、高低差も、1,2番では明暗まで立体的に海を表しています。
この歌の歌詞のように、浜辺の樹木というと、「松」が代表的なものです。松は、常緑樹で、針葉樹であるので防砂林には適しているからでしょう。静岡県の「三保の松原」、福井県の「気比の松原」、佐賀県の「虹ノ松原」の3ヶ所は日本三大松原として有名です。
また、松という木は、日本では長寿を表す縁起のよい木とされていて、松、竹、梅のうちの一つで、食べ物などでは、松が一番上等とされています。また、能、狂言の舞台には背景として必ず描かれていますが、この松は演目によって山の松や浜の松、庭の松などに見立てられます。なぜ松が書かれてあるのかというと、色々な説があるようです。もともと能は野外で行われていました。そして舞台が大きな木の下に作られていました。それは、一つには、昔から大木には神が宿ると信じられていて、舞台を守っていただくという考え方もあったこと、また、季節で葉が散ったり、毛虫が落ちてこないように1年中色の変わらない松の木が好んで使われていたといわれています。歌舞伎でも「松羽目物」といって、能舞台をまねて歌舞伎の舞台の正面に老松を描いた舞台装置があり、能、狂言から取材した演目の多くでこれを使っています。
今日訪れた琴平の金丸座(旧金毘羅大芝居)は、天保6年(1835)に建てられた、現存する日本最古の芝居小屋です。この舞台の背景も松が描かれています。

江戸時代になって、徳川家の本姓が「松平」であったこと、松と竹は他の植物を松ヤニや根っこで枯らして自分たちだけが群生するという特性を持っていることなどから封建時代の武士にとってもっとも理想的な姿であったために、松と竹はめでたい木として扱われ、鏡板と切戸の周りに描かれるようになりました。また、その樹形も盆栽によくつかわれるようにそこに歴史を感じるような様々な形をしていることなどから日本の文化を象徴する樹木となっていきます。また常緑樹として冬も緑の葉を茂らせることから、若さ・不老長寿の象徴とされ、日本の城に植えられ、非常時に実や皮が食料になるため重宝されてきました。
また、松は江戸時代の多くの大名屋敷の庭園にも使われました。そして、庭園内には、特別に名前のついた松が存在します。高松にある「栗林公園」にも多くの松が使われていますが、中に鶴亀松(百石松)という110個の石を組み合わせ亀をかたどった岩組の背中に鶴が舞う姿をした黒松を配した美しい松があります。

また、丸亀二代目藩主京極高豊候により、中津の海浜に中津別館として築庭された「中津万象園」は、白砂青松の松原に続いて1500余本の矮松を植え、庭の中心には京極家先祖の地である近江の琵琶湖を形どった八景池があります。また、庭園内には、枝葉の直径15m余り、樹齢600年と云われている「天下の名松」といわれている「大傘松」があります。
投稿者 fujimori : 16:19 | コメント (4)
2009年07月11日 [講演先にて]
少年自治
私の園では、3,4,5歳児は朝、登園してくると出欠席をとるまでの時間、自分たちで遊ぶことができるゾーンを選ぶことができるようになっています。ただし、使うことができるゾーンは、中央にあるボードに○のついたゾーンだけです。それは、先生がいろいろな都合で、開設するゾーンを決めているためです。ある日、子どもたちは×がついているゾーンを使いたいと先生に交渉しました。先生と子どもたちはこんなやり取りを始めました。「その場所は今日使うことになっているからごめんね」「だったら、そのゾーンは他の場所より早く片付けるからいいでしょ?」「じゃあ、9時までね?」「うん、いいよ」ということで、ボードのそのゾーンの横に○と「9時」が書かれました。その日以来、どのゾーンを○にするかということを朝、子どもたちと先生で話し合いをして決めることにしました。先生も含めて数人の子たちが、開設するお知らせボードを真ん中に、丸いテーブルを囲んで話し合いをしている姿が見られるようになりました。
ある日、子どもたちはこんなことを言い出しました。「先生、どれを○にするかはもう自分たちだけで決めるから先生はいなくていいよ。」ということで、今は、子どもたちだけでどのゾーンを開設するかを話し合って決めています。ある朝、その横を通ったときにこんなやり取りが見られました。3歳児の子が「ねえ、ここを○にしてよ」「だめ、みんなここはきちんと片づけないから」と5歳児の子ども。「ちゃんと、片付けるよ」「じゃあ、もし片付けられなかったら、明日は×にするよ」
こんなやり取りは、異年齢集団だから行われるのかもしれません。もし、同年齢児集団で同じようなことが起きるとしたら、力関係で命令してしまうことになってしまうでしょう。異年齢集団では、年長児が指示をしてもそこには思いやりが感じられます。
何度かブログで紹介した薩摩の郷中教育では、少・青年期において居住する町内において子どもたちの異年齢集団を形成し、その中での自治的に学び合いを重視した教育方法です。だいたい7歳くらいから10歳までを「小稚児」、11歳から15歳くらいまでを「長稚児」、それ以上の青年を「二才(にせ)」と呼び、それぞれが町内単位で組織を形成し、そしてそのグループごとに「頭」というリーダーを置いて、自主的に勉学します。若き日の西郷隆盛が下加治屋町郷中の「二才頭(にせがしら)」を勤めていたというように、子ども同士で教えあうときに、学びが大きいのは教える側の方であったようです。
かつて何かを知っていることに価値のあった場合は、教わる側のためであったのが、創造する力とか、コミュニケーション能力とか、問題解決能力が重要になってきた時代では教える側に力が備わってきます。そんな学びが大きい立場を先生が占めるのはもったいない気がします。それを子どもにさせるのが学び合いなのです。
このような薩摩藩における「郷中教育」と同じように、年長者が年下の者を教え・訓戒するという教育方法をとっていたのが、会津の「什」や「辺」という教育制度です。今日は、講演で会津に来ています。私は、毎年妻とNHK大河ドラマの舞台を訪れることにしていますが、今年の「天地人」関係の長岡、直江津、米沢、山形を訪ね、最後に会津を明日は歩こうと思います。そして、「什」教育についても考えてみたいと思います。
投稿者 fujimori : 21:45 | コメント (4)
2009年05月22日 [講演先にて]
ザビエル
私は、最近地方に講演に行くことが多いのですが、その目的以外に何か地方にもたらしているかということを思うことがあります。現代は、テレビやネットなどで情報が世界中に瞬時に伝わりますので、人がその地を訪れて情報や文化を伝えるということは少ないでしょう。しかし、講演などをよく頼まれるというのは、やはり人が人にじかに会って、生の声で伝える効果があるのでしょう。とは言っても、講演内容以外ではなかなか伝えるものが少なく、それよりも地方から学ぶことがたくさんあり、とてもありがたく思います。
情報がなかなか伝わらなかった昔は、いろいろな方法で情報や文化が伝わっていました。大きな役割をもっていたのは、やはり商人でしょう。産物や商品のやり取りと同時に文化も交流していたでしょう。また、ブログでも取り上げた参勤交代も大きな役割をしていたようです。
では、世界との文化交流はどうしていたでしょう。それは、やはり商人が大きな役割をはたしていました。また、冒険家も、たまたま漂着した船からも文化が伝わりました。鉄砲伝来などはそうでした。それと同時期にキリスト教が日本に伝わりますが、布教活動によっても、その宗教を広めるだけでなく、さまざまな文化を伝えることになりました。
その中で、大きな足跡を残した人に「フランシスコ・ザビエル」がいます。彼は、マラッカで日本人ヤジローと出会い,日本に行くことを決意します。仏教にしても、宗教の力はすごいですね。どんなこんながあろうとも、信念を貫こうとする人が多く、そのおかげで、いろいろな文化が生まれています。
ザビエルというと、歴史で習った「以後よく見かけるクリスチャン」と覚えた1549年に鹿児島に到着し,布教活動を許されたのが「日本へのキリスト教伝来」です。この後,平戸・博多を経て京都まで行き、天皇や将軍に会おうとしますが、会見は許されず、やむなく山口を経由して大分に入ります。このルートには、様々なザビエルの足跡が残されています。今回、大分を訪れた際、いただいた「ザビエル」というお菓子の名前からも、大分にも来たことを知ることができます。
ザビエルの大分滞在は短期間だったようですが,これをきっかけに,この地には宣教師がしばしば訪れることになり,キリスト教伝導活動の拠点のひとつとなっただけでなく、さまざまなものがもたらされ、日本発祥の地となったものがたくさん残されています。大分市には府内城跡から南の方に、長く伸びた遊歩公園があり、ここには発祥の地を記念した多数の記念像や記念碑があります。
リスボンで生まれたルイス・デ・アルメイダは,貿易商として巨大な財産を築きました。しかし、航海中にフランシスコ・ザビエルの弟子である修道士のグループと出会い、一緒に日本に上陸した彼は民衆の困窮を目撃し,彼等を救済するためにイエズス会士となります。たまたま外科医師の免許を持っていたアルメイダは、ザビエルが大分に滞在していた6年後の1557年、私財を投じて大分に病院を設立します。病院は,一般疾病患者のためのものとハンセン病患者のためのものを別個に建てて治療にあたり、内科はもとより、日本最初の洋式外科手術が盛んに行われました。この病院には、外来のほか入院の設備もあって、開院5年後には入院患者が百人を超えていたようです。また、病院に来ることのできない患者のためには、巡回診療も行われていたそうです。この病院に日本最初の医学校が併設され、若き日本人学生が西洋医学を学びました。この公園には、まさにアルメイダが、日本人助手とともに外科手術をはじめようとしている像が建っています。
投稿者 fujimori : 23:49 | コメント (4)
2009年05月21日 [講演先にて]
おもと
大分県の宇佐に行ってきました。この地のブログは以前に書きましたが、宇佐神宮で有名なところです。この宇佐神宮の神様が降り立った山として崇められ、現在でも本当の頂上は神域として立ち入り禁止区域になっている「御許山」(おもとやま)が、宇佐神宮の奥の院としてそびえています。たいして高い山ではありませんが、宇佐平野のどこからでも見えます。この「御許山」は、「大元山」と表記されている地図もあるようですが、宇治神宮の神が降り立つというと、たぶん、「御許山」でしょう。
地図を見ていると、この山が、「万年青(おもと)」の発祥の地と書かれてありました。この名前の由来は、万年青の根茎が太く大きいことから「大本・大元(おおもと)」といわれ、それが「おもと」になったという説がありますが、ここ「御許山」で500年位前に自生していた珍しい品種を採取して育てたのが始まりで、この地から良質の万年青が産出されたことから「おもと」になったという説が有力です。そして、寒い冬にも緑の葉の色を変えないところから「万年青」の文字があてられたといわれています。
この「万年青」は、知る人ぞ知る植物で、昔からめでたい植物、縁起の良い植物と言われ、慶長11年に徳川家康公がおもとを床の間に飾って江戸城に入城したことでも有名な「伝統園芸植物」で、春蘭、富貴蘭等同様の人気があります。その魅力は葉姿や色彩、葉芸の変化だと言われ、茶道の「詫び、寂び」の境地にも通じており、その色彩と葉姿の中に自然の織り成す芸は千変万化で貴品があるといわれています。
私が若いころにある地域のお父さんたちと子ども会を作り、その顧問をしていた時のことです。その地域に、「おもとのおじいさん」と呼ばれている万年青をたくさん育てているお年寄りがいました。そのお年寄りに万年青の話をすると、喜んで、得意げに万年青の話をしてくれます。また、「クモの博士」と呼ばれているお年寄りがいました。その家には、玄関先から奥の部屋まで、クモの飼育箱が並んでいて、世界中のクモを飼っていました。そこで、子ども会のお父さんたちと「地域にはいろいろな特技や趣味をもったお年寄りがいるね」「せっかくだから、この人材を子どもたちに使えないだろうか」という話になり、子ども会のリーダーの子どもたちに「地域に、どんな特技を持ったお年寄りがいるか、調べてみない?」と持ちかけました。そこで、「地域お年寄り地図」を作ろうということになりました。子どもたちは、子ども会の日、地域センターに集まり、グループに分かれて、地域のお年寄りを訪ねて、いろいろな話を聞いて回り、そのあとセンターに集まって、地域の地図の中に、どの場所に、どんなお年寄りがいるかを書き込んでいきます。そして、みんなが調べ終わった後で、各グループのリーダーが、調べた結果を発表します。
この活動が評価されて、社会教育の映画化されることになりました。今でも社会教育関連の貸し出し16ミリフィルムの中に、確か「輝け!子どもたち」というタイトルで所蔵されているところがあると思います。
その映画は、1日の活動を追ったものでしたが、実際は二日間かけて撮影されました。子どもたちは、とても自然にふるまってくれましたが、私を含めて大人たちは、なんだか頬がひきつっているようです。万年青から連想した懐かしい思う出です。
投稿者 fujimori : 23:28 | コメント (4)
2009年05月08日 [講演先にて]
中小企業
不況だと言われて久しくなりますが、そんな中でも元気のいい企業があります。中小企業庁では、現在事業活動を行っている中小企業、これから事業を起こそうと思っている人に対する支援を行っていますが、その活動の中で、「2009年元気なモノ作り中小企業300社」を選定しています。私たちはとかく大企業に目を向けがちですが、日本の企業の中で海外から大きな評価を受けているものに高度なモノづくり技術を持っている中小企業があります。また、その中には、規模は小さくても、モノ作りを通じ地域経済に貢献している企業、社会的課題に対応して新規分野を開拓している企業なども存在します。そんな企業を選んだのが「元気なモノ作り中小企業300社」です。
今年選ばれて企業の中に、今年で創業35年になる「中村ブレイス」という会社があります。この会社を講演に来たついでに訪ねてみました。あいにく、内部は見せてもらえませんでしたが、「外観はどうぞ写真を撮ってください」と言われたので、何枚か写真に収めました。
この会社は、石見銀山がある島根県大田市で義肢や人工乳房などを製造し、国内はもとより欧米をはじめ約30カ国に出荷しています。社長の中村俊郎さんは、島根県の教育委員会委員長も務め、地元の石見銀山の世界遺産登録にも尽力し、オンリーワンの技術を磨き、石見銀山のある故郷にこだわり続ける中村さんは「若者が育つ街としてこれからも踏ん張る」と意欲を語っています。
京都や米国で義肢装具作りの修業をした74年末、生家の納屋を作業場として26歳のときに1人で起業します。義肢やコルセットは市場は小さいですが、一定の需要はあります。そんな業界の中で、丁寧な作り込みが評判となり、口コミで徐々に注文が舞い込み始めます。この会社が大きく飛躍したのには、社長の下従業員みんなで「使う人の身になって喜ばれるものを」ということで開発されたシリコーン製医療用靴の中敷きです。この製品は、骨折や扁平足や外反母趾などの治療、矯正に使われ、最近では国内外で年間5万~6万人が利用し、同社の売り上げの約3割を占めているそうです。
また、「求められるものを」との思いは事故や病気で失った耳、手の指、乳房などを製作する技術にも生かされます。そんな製品づくりは、「メディカルアート研究所」の設立をもたらし、医療と美術の両立に力を入れています。
社長の中村さんのモットーがあります。それは、従業員を何よりも大切にすることです。こんなエピソードがあります。創業まもないころに知人に頼まれて初めて雇った20歳前の青年が、朝来て1時間も働くと「疲れた」と言って帰ってしまうということが起きます。そんな青年を周囲からは、退職させることを勧められます。しかし、中村さんは、「最初の青年を生かせなければ、どんな社員も育てられない」と考え、粘り強く青年と向き合い、その結果、「怠けているのではなく、本人は一生懸命なのが分かった」ということで、青年の勤務時間は徐々に伸び、7年半後には通常勤務をできるまでになったということです。
そんな考え方で、経営悪化を理由に従業員を辞めさせたこともないということです。むしろ子育てのために退職した女性に子どもの世話が一段落した時点で、せっかく育てた人材を生かさない手はないということで、積極的に復帰させます。中村さんは「ものづくりの基本は人材」と語ります。
そして、社のモットーである「THINK(考えよ)」と書かれた紙が社内のいたるところに張られています。「何もないところからのスタートで、知恵を絞るしかない。今でも変わらないモットー」とは中村社長の原点です。
投稿者 fujimori : 22:13 | コメント (4)
2009年05月02日 [講演先にて]
五教
長崎からの帰りには、長崎空港を使いますが、この空港は少し不便な所にあります。というのは、長崎市内からは大村湾をはさんでほぼ反対側の大村市にあるからです。先日、帰るときに飛行機に乗るまでに少し時間があったので、いつもは素通る大村市を散策してみました。歩いていると、途中に「五教館御成門」という重文の門がありました。

「五教館」は、大村藩の藩校です。大村藩4代藩主純長公が寛文10年(1670)に大村城郭内に「集義館」を文武の教育のために開設しました。その後、「静寿園」と改められ、寛政2年(1790)9代藩主純鎮は規模を大きくし、学問所を「五教館」、武道場を「治振軒」の2つとしました。この五教館には、藩令により藩士の子弟に限らず,農民や町人の子弟も入学していました。歴代教授の中には著名な学者もいて、同館から多くの人材を輩出しているそうです。その後、現在の場所に移り、現存しているのは、藩主の出入りに使用されていた通称「黒門」と呼ばれている門だけです。
「五教」とは「五倫」の道を教えるという意味です。昨日のブログで書いた「助長」の考え方を示した孟子が唱えた考え方で、「人倫五常」と呼ばれるものです。これは、人との関わりのあり方を示したものです。「五常」とは、「四徳(仁・義・礼・智)」に「信」が足されたもので、「五倫」とは、「親・義・別・序・信」の五つで、大辞林では、孟子の「教似人倫、父子有親、君臣有義、夫婦有別、長幼有序、朋友有信」から、儒教における五つの基本的な人間関係を規律する五つの徳目であると書かれてあります。
まず、「父子有親」は、親子関係を表しています。それを「親」といっていますが、これは、「一つになろうとするしたしみ」であるといわれています。この関係は主に子から親に対しての心構えを言っていますが、最近の子ども虐待のニュースを見聞きするたびに、親子というだけあって、「親」の情を持ってほしいと思います。つぎの「君臣有義」は、君臣間の関係をよく維持するための最も大事な心構えは「義」であると言っています。これは、上杉でも大切にされていたもので、「状況に応じた正しい行動をする」ということです。最近では、なにも君主に対してということではなく、仕事をする上での心構えのような気がします。「夫婦有別」は、夫婦の在り方を言っていますが、この「別」は、当時としてはとても面白い考え方だと思います。それは、「各々の本分・職能を乱さない区別」ということのようで、夫婦は、なにも一心同体ではなく、それぞれの役割を持って、共に生きることであることだと思います。「長幼有序」というのは、よく言われますが、年配者と若者の間の順序をわきまえるということです。それは、なにも年長者が偉いということではなく、年長者は年長者の自覚を持ち、その年輪に対して敬意を払うということでしょう。さいごの「朋友有信」は、友達との関係は、「信」という「偽りのないまことの心」で接するべきであるということです。
この「五倫」は戦国時代に崩れてしまった家族倫理・社会倫理の立て直しを計って孟子がそれ以前の教えに基づいて具体化したものですが、しかし、人との関係性が希薄になってきている今、これをそのまま当時の考えの通りに使うわけにはいきませんが、このような考え方に耳を傾けるべき多くの知恵が含まれています。
投稿者 fujimori : 20:32 | コメント (5)
2009年04月28日 [講演先にて]
茶摘み
もうすぐ「夏も近づく八十八夜」ですね。八十八夜とは雑節の一つで、立春から数えて88日目の日のことを言いますので、今年は、5月2日です。少し前では青森では雪が降ったそうですが、八十八夜は夏に近づく半面、「八十八夜の別れ霜」「八十八夜の泣き霜」などと言われるように、遅霜が発生する時期です。霜のなくなる安定した気候の訪れる時期であると同時に、まだまだ霜も降りることがあるという春から夏へ移る境目の日として重要視されてきました。ですから、雑節として、農家の人にこのころは気をつけなさいというために入れられているのです。また、「八十八」という字を組み合わせると「米」という字になることから、この日は農家の人にとっては特別重要な日とされてきました。東北や山間村落では豊作を願うため、様々な占いを行います。現在でも禁忌が守られているところもあるようです。
八十八夜ころから「あれに見えるは 茶摘みじゃないか」という歌の題名が「茶摘み」というように、新茶の摘み取りが行われます。しかし、まだまだ霜が降りるときがあり、昔は藁をひき、霜を防いだようですが、今は、扇風機で風を送ったり、黒い網で覆ったりしています。また、ちょうど八十八夜の日に摘んだ茶は上等なものとされ、この日にお茶を飲むと長生きするとも言われ、珍重されてきました。そうはいっても、日本列島北から南まで長いわけですから、地域によって、茶摘みの時期は異なります。
たまたま週末に佐賀県「嬉野温泉」に宿泊しましたが、この地は、「嬉野茶」として550年の歴史があります。このお茶は、美容と健康に効果があるといわれ、茶葉が一枚一枚丸いため、玉緑茶(グリ茶)と呼ばれています。江戸時代には、大浦慶という人が嬉野茶を長崎から海外へ出荷し、その利益が坂本龍馬や大隈重信の活動資金になったと言われていています。

この嬉野市は、2006年1月1日、藤津郡塩田町と嬉野町が合併して誕生した、佐賀県で9番目の市です。少し時間があったので、重要伝統的建造物群保存地区の中で「商家町」として指定されている塩田津に行ってみました。ここは、長崎街道の宿場町として発展した塩田宿を後世に残すための保存運動が行われ、2005年に嬉野市塩田町の川港及び周辺の町家群が指定されています。長崎街道は、江戸時代に整備された脇街道の一つで、豊前国小倉の常盤橋を始点として、肥前国長崎に至る路線で、57里(約223.8km)の道程で、途中に25の宿場が置かれていました。そして、江戸時代においては、鎖国政策の下で全国唯一、幕府が外国との交易を行う港である長崎に通じる街道として、非常に重視されました。

この旧長崎街道の塩田宿は、交通の要衝であり、有明海に注ぐ塩田川河口7kmの位置にあり、干満の差を利用した河港(津)として栄えたことから「塩田津」と呼ばれました。そして、水陸両路を利用し、明治以降も有田焼の原料となる熊本の天草陶石を陸揚げし陸送する、陶土の町としても繁栄しました。
今は、訪れたときには道には人っ子一人いず、閑散としていましたが、たまに出会う町の人は親しげに声をかけてくれました。人がいない分、地中に埋められた電線のおかげもあって、町のたたずまい、耐火機能をもつ江戸後期から明治にかけての「居蔵造」の町家、その他の施設が時代をさかのぼった気にさせてくれます。

投稿者 fujimori : 23:03 | コメント (4)
2009年04月18日 [講演先にて]
しなの
今日は、朝から長野県小諸市で講演があったので、昨日の夕方小諸入りをしました。駅に着いて少し時間があったので、すぐ近くの懐古園に桜を見に行ってみました。少し散り始めていましたが、まだちょうど盛りでした。
小諸駅は、JR小海線の駅です。小海線は、山梨県北杜市の小淵沢駅からこの小諸駅までを結ぶ、八ヶ岳東麓の野辺山高原から千曲川の上流に沿って佐久盆地までを走る高原鉄道路線です。途中、清里駅と野辺山駅の間には標高1375mの「JR鉄道最高地点」があり、野辺山駅は標高1345mの「JR線最高駅」です。
しかし、東京から小諸に行くには、小海線経由では時間がかかるので、違うルートで行きます。それは、長野新幹線で軽井沢まで行き、「しなの鉄道」に乗って、小諸駅まで行きます。この「しなの鉄道」は、もともとはJRでしたが、新幹線ができることになって、長野市が75%の出資をして信越本線の軽井沢駅から篠ノ井駅の間を結ぶ鉄道を運営する会社として設立された第三セクターです。
この路線は、当然新幹線ができたために、長距離利用客はみんなそちらを利用してしまい、乗客は減り、開業当初から経営は苦しく、2001年9月の中間決算では累積赤字が24億円以上になり、資本金23億円を上回る債務超過状態に陥りました。その状況は、誰でもわかり、仕方ないと思ってしまうところですが、その後の取り組みが、トップによってこうも変わるかという良い例です。まず、赤字が大きくなった翌年の2002年に、当時の長野県知事であった田中康夫氏は、急成長している旅行会社エイチ・アイ・エス(HIS)社長の澤田秀雄氏に、しなの鉄道の再建を依頼します。彼は、HISに在籍していた杉野氏を社長に推薦します。
彼は、その後2年間に経営改革を行います。たとえば、高齢者の乗降介助を行う「トレインアテンダント」やサポーター制度を新設したり、JRでなくなったために使用されなくなった発券機は、会社の公式ホームページで一般向けに販売したりします。また、不利な契約の解消やコスト削減と増収、「儲ける」事を意識付ける厳しい社員教育を行いました。
そのような経営改革により、しなの鉄道は減価償却費前の利益で黒字計上するようになりました。しかし、大口出資先である長野市の当時の田中康夫知事は、2004年には減損会計導入を進めたいと言い、「上下分離方式」を主張する杉野氏と対立することになります。しかし、大口出資先である長野市にはかなわず、杉野氏は社長を辞任することになります。次の社長として、減損会計に踏み切るために、スカイマークエアラインズ(現スカイマーク)の元社長であった井上雅之を社長に迎えます。彼も、駅構内で宝くじを販売したり、鉄道施設内での映画、テレビドラマ、コマーシャル撮影の誘致をしたり、さまざまな事業を展開します。その結果、2005年度決算において開業以来の初めて最終損益において黒字を計上したのです。
その井上氏は、昨年辞任していますが、さまざまな取り組みは受け継がれ、黒字も続いているようです。人が少ない、そんな環境ではないから仕方ないは言い訳かもしれません。
投稿者 fujimori : 20:51 | コメント (4)
2009年02月02日 [講演先にて]
ランタン
寒い夜に恋しくなる食べ物といえば、何を思い出すでしょうか。職場から帰る時に、寒くて凍えそうな時に、「鍋でも食べたい」と思いました。また、時に「おでん」を食べたくなる時もあります。私は、育ったのが下町でしたから、風呂は銭湯に入りに行きました。どんなに寒い日でも、手ぬぐいを持って出かけました。今考えると、面倒くさかったのによく行ったと思います。寒い日の帰りには、「神田川」の歌詞のように「洗い髪が芯まで冷えて、小さな石鹸 カタカタ鳴った」ものです。そして、銭湯に入り口には、「おでん」を売っている屋台が停まっていました。「覚えてますか、寒い夜。赤ちょうちんに誘われて、おでんを沢山買いました。月に一度のぜいたくだけど、お酒もちょっぴり飲んだわね」私は子どもだったために、お酒は飲まなかったですが、たまには贅沢におでんを食べたり、鍋を持って行って、帰りに夕食のおかずにと、おでんを買ったこともありました。この歌も、やはり「かぐや姫」というグループの「赤ちょうちん」という歌の歌詞です。
赤ちょうちんとは、その字の通り「赤いちょうちん」のことを言いますが、この歌詞のように屋台のおでん屋には赤い提灯が下げられていました。「今でも時々雨の夜。赤ちょうちんも濡れている屋台にあなたがいるような気がします」屋台だけでなく、女性のいない飲み屋や居酒屋にも掛けられていたので、「赤ちょうちん」というと居酒屋の俗称として使われるようになりました。
そのほか、提灯というものを日本ではお祭りに使うことも多いようです。また、提灯行列がかつてあったように、何か祝う時に提灯を下げて練り歩いたりもします。アイルランドの「ジャック・オ・ランタン」という民間伝承が元になっているお祭りがあります。という。これは、怠け者でズル賢い農夫のジャックが、悪魔と地獄に落とさないという約束をしますが、死んでから天国には行けず、だからと言って約束したので地獄には行けず、光がない真っ暗な世界を、悪魔からもらった地獄の石炭のかけらをカブの中に入れて、ランタン(ちょうちん)代わりとして、さまよっているという話です。この提灯にしたカブが、アメリカでカボチャのランタンに置き換えられ、ハロウィンというお祭りになったのです。
先週末訪れた長崎市では、中国色豊かな灯の祭典「長崎ランタンフェスティバル」が行われていました。このお祭りは、長崎在住の華僑の人々が、中国の旧正月(春節)を祝うための行事として始めたもので、もともと「春節祭」として長崎新地中華街を中心に行なわれていましたが、平成6年から規模を拡大し、長崎の冬を彩る一大風物詩となりました。夕方、講演前に歩いた眼鏡橋を中心にした川の両岸には多くの提灯が張りめぐらされていました。
夜の講演が終わり、ホテルまで向かう途中の長崎新地中華街、すでに人通りに少なくなった浜市・観光通りアーケードなどには、約1万5千個にも及ぶランタン(中国提灯)が飾られていました。
その真ん中に位置する湊公園には、干支のメインオブジェが置かれ、そのほかにも大型オブジェが所狭しと飾られていました。今年のメインオブジェは「金牛」でした。中国には「高い目標をに向かって力を出しきって進めば、天と地だってひっくり返すことができる(力爭上游 扭(牛)轉乾坤)」という諺があります。これに由来して、激流を登っていく鯉(登竜門)と状元及第(科挙の最終試験に筆頭合格を成した貴士)が富の牛「金牛」に乗っている様子を表しています。
まさに、今、自分に課せられた課題に対しての心構えを表している気がしました。
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2008年12月03日 [講演先にて]
秋の句と歌
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」
法 隆 寺
先日、奈良での講演のあと、斑鳩の里を歩いて見ようと、法隆寺に行って見ました。五重塔を眺めていたとき、鐘の音が聞こえてきました。そのとき、この句が浮かんできて、門前の茶店を歩いてみると、なんと「柿の葉寿司」の店内で、「吉野柿」を売っていました。その柿をかじりながら、もう一度五重塔を眺めてみました。
正岡子規は、明治28年10月26日から奈良を旅し、大和路をあるき、法隆寺の門前の茶店で休んで柿を食べていると、寺から鐘の音がひびいてきました。たぶん、柿を食べた甘さが口に広がり、逆にその甘さと、鐘の音があたりの静けさを際立たせたのでしょう。ふと、秋ののどかさのなかの寂しさを感じます。
来年秋からNHKで放送するスペシャルドラマ「坂の上の雲」の原作は、秋山兄弟や子規ら明治期の青春群像を通じて近代国家づくりに突き進んだ日本人の姿を描いた司馬遼太郎の作品です。この小説の中の「須磨の灯り」には、「大和路をあるき、法隆寺まできて茶店に憩うたとき、田園の夕にもやがただよっていかにも寂しげであった。柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺 という句は、このとき心にうかぶままを句帳にとどめたものである。」と書かれてあります。
「ちはやぶる神世も聞かず竜田川 からくれなゐに水くくるとは」
竜 田 川
この歌は、古今和歌集にある在原業平の作品で、百人一首にも選ばれています。斑鳩を流れる竜田川は、紅葉の美しさから、歌枕として古来より多くの和歌に詠まれています。伝説では崇神天皇が川に流れていた八葉の楓葉を五穀豊穣を祈願し、生駒の竜田神社に献上されたとされています。この業平の歌は、「遠い神代の昔には、いろいろなことがあったと聞きますが、竜田川が唐の国から輸入した鮮やかな紅色で水をくくり染めにするというようなことは聞いたことがありません。」きれいな紅葉が、竜田川の流れる水に浮かんでいる姿を、川が染めたと見立てています。
「嵐吹く三室の山のもみぢ葉は竜田の川の錦なりけり 」
三 室 山
「強い風が、三室山のもみじの葉を吹き散らしてしまって惜しいことをしたと思ったが、そのもみじの葉が、三室山の下を流れる竜田川に浮かんでいるのを見て、その姿は、美しい錦を織り成すために散ったのだということに納得するほど、とても美しい」
この歌は、後拾遺和歌集に収められた能因法師の作品で、同じく百人一首に収められています。もともとは、後冷泉天皇が開いた内裏歌合せの中で、藤原祐家の「散りまがふ 嵐の山のもみぢ葉は ふもとの里の秋にざりける」という歌と競って勝った歌です。
標高82mの三室山の「みむろ」は「御室」「三室」と書き、神の鎮座する山や森を表します。飛鳥時代、聖徳太子が斑鳩宮造営にあたり、太子の出生地の飛鳥神名備の産土神を竜田に近い山に勧請されました。その山を神名備山とも、三諸山ともいったといいます。太子は宮の裏鬼門に神を祀られたといわれています。
斑鳩の里は、もうすっかり秋です。もみじも、その赤さの盛りを過ぎ、その赤さを残すために、大地や川面にその姿を映します。その上を、山から吹き降ろしてきた冷たい強い風が通り過ぎていきます。
投稿者 fujimori : 22:17 | コメント (4)
2008年11月02日 [講演先にて]
渋み
宇佐の宿で、夕方少し周りを歩いてみました。夕暮れが迫る中、すでに刈り取られた田が広がり、畦の木々は色を変え始めています。そんな秋の深まり感じさせるもう一つが、あちらこちらに鮮やかなオレンジ色の実をつけた柿の木です。
一緒に歩いていた若い男性職員が、ジャンプをしてその柿を一つもぎりとり、かじってみていました。一口かじって、奇妙な顔をしています。私は、「おいしい?」と聞いてみると、首を傾げています。もう一口食べて、なんともいえない顔をしています。どんな味か聞いてみると、「なんだか、口の中が、もわもわするような、なにかがへばりつくような気がする。」といったので、「それって、渋いということじゃないの?」「へえ、柿が渋いというのを、初めて知った。」といって感動していました。私たち子どものころは、よく軒下になっている渋い柿を取って食べたものでした。しかし、今は、柿は売っているものを買います。そのとき、渋いものは売っていません。
食物や飲み物はさまざまな味がします。これらの味覚は化学物質による化学刺激です。人間が感じる味覚は大きく分類すると、甘い、塩辛い、酸っぱい、苦いの4種類に分類することができます。料理などでは、これには、辛いと渋いは入らないといわれています。辛さと渋さは、舌が感じ取る味覚ではなく、触覚と痛覚が絡み合ってはじめてわかるもので、生理学的な味覚だからだそうです、
この中の「渋み・渋味」は、日本の美意識の1つであるといわれ、苦味・渋味の美味さは大人でないとなかなか理解できないものであるといわれています。ですから、「苦み」「渋み」は、「成熟した大人(特に男性)」の形容詞としても使われます。百科事典によると、大人っぽく落ち着いた雰囲気を表現して「渋い」と形容するようで、人として未熟なうちは 「甘いやつ」と言われ、人間が練られてくると「渋みが出てきた」とか「苦みばしったいい男」とか言われます。
ところで、柿には、渋柿と甘柿があります。なぜかというと、こんな理由があります。柿は自分の子孫を増やすため、その実を鳥や動物に食べさせ、その実の中にある種をばら撒いてもらわなければなりません。そのために実を甘くします。しかし、実の中の種が成長しないうちに食べられてしまっては元も子もありません。そこで種が成熟するまで実を渋くし、種が成熟してくるとその種から分泌されてくる成分で甘くなるという方法を考えたのです。
しかし、本当は柿が渋さから甘くなるわけではありません。柿の渋みはタンニンという成分です。そのタンニンは「水溶性タンニン」で食べた時に唾液に溶けるこため渋みを感じます。タンニンは話題のポリフェノールの一種で緑茶などにも含まれているものと同じものです。それが、熟してくるにしたがって、「不溶性タンニン」に変化してきて、唾液に溶けず、食べても渋みを感じなくなるのです。甘い柿を切った時ゴマのような黒い点が不溶性タンニンです。柿のさまざまな効用は、ポリフェノールタンニンに依存することが多いため、甘柿よりも渋柿の方が利用価値は高いとされています。
スイート好きの男性が増えていますが、味覚を発達させる意味でも、苦味や渋みも味わって欲しい気がします。
投稿者 fujimori : 21:41 | コメント (3)
2008年11月01日 [講演先にて]
宇佐の歴史
色々な地を訪ねると、どこかでつながる因縁の地と出会うことがあります。また、その地ではじめて知る歴史を知ることもあります。
昨日のニュースで、太平洋戦争末期の沖縄戦で住民に集団自決を命じたとする虚偽の記述で名誉を傷つけられたとして、元日本軍守備隊長らが「沖縄ノート」の著者大江健三郎さんと岩波書店を相手に、名誉毀損で訴えた裁判で、二審も「軍の深い関与」認める判決が出ました。その記事を読んだときに、少し前に訪れた沖縄を思い出しました。事実は、よくわかりませんが、この判決に対して語った大江健三郎さんのコメントの「沖縄の犠牲の記憶を守り、戦う」ではありませんが、私たちは決して戦争という残酷な歴史を忘れてはいけないでしょう。
今回訪れている宇佐市を車で走っているときに、田んぼの中にポコポコと小山が見えます。

ここは古墳が多く残っている地であるので、古墳のひとつだろうと思っていると、そうではなく、「掩体壕(えんたいごう)」というものだそうです。私は、この存在は知りませんでした。この掩体壕は、航空機を敵の攻撃から守るための格納庫だそうです。この掩体壕は、東京の調布飛行場の周辺にも遺構的に今でも残っているようです。そのほかにも、高知空港近くや千葉県茂原市、松山空港の近く、旧熊本空港の近くなどにも残されているそうです。ここ宇佐市の掩体壕は、当時地元の人々の勤労奉仕で造られたそうで、航空機といっても、軍用機を敵の攻撃から守るための施設です。
ここに、昭和14年に宇佐海軍航空隊が練習航空隊としてつくられました。茨城県の霞ヶ浦などの航空隊で、ひととおりの飛行訓練を終えた兵士たちが、実際に戦争に使う飛行機で 訓練の総仕上げをするところです。そのため、全国各地から 若い兵隊が集まり、ここで訓練された人たちが真珠湾攻撃に参加しました。しかし、太平洋戦争末期になると特別攻撃隊の基地となり、この基地から154名以上の若者が南の空に飛び立っていきました。特攻基地としては、大規模なものとして陸軍特攻基地として鹿児島知覧が有名ですが、そことは違った戦跡が残されているようです。
車である道路を通っているときに、その道の両側に20メートル間隔で「人型」のモニュメントが建ち並んでいるのが目に付きました。それは何かということを説明してもらいました。この田園地帯の中を走る周防灘へ一直線に伸びる道路は、特攻隊が沖縄を目指して飛び立って行った滑走路が、ほぼ当時のまま残されたものだそうです。
特攻隊の歴史を知るたびに悲しい気持ちになります。それは、正式名称を特別攻撃隊と呼ばれる特攻は、日本が戦局の悪化を打開するために航空機に250キロ爆弾を積み米艦に体当たりする必死の攻撃法で、一度飛び立ったら、二度と生きて帰ることはできなかったので、飛行機の燃料も始めから片道分だけで、帰りの分は積んでいかなかったという事情を聞き、どんな思いで飛び立ったのだろう胸が締め付けられます。この特攻で、全国では海軍4142人、陸軍1710人の計5852人が亡くなっています。
私たちの世代は、「戦争の記憶を忘れないで」ではなく、「戦争の記憶をつないでいく」事をしなければならないのです。
投稿者 fujimori : 21:51 | コメント (5)
2008年10月31日 [講演先にて]
双葉山
最近、相撲力士に関しての様々な事件、不祥事が世間を騒がせています。その中で特に衝撃的だったのが、昨年、時津風部屋力士暴行死事件の発生です。この部屋は、昭和17年、当時まだ現役の横綱双葉山定次により双葉山相撲道場として設立されたものです。
今週号のR25に「『国技』をめぐる日本と世界の不思議な事情」という記事が掲載されています。「相撲は日本の国技」だと思っていることが、実は違うという記事です。日本相撲協会によると、「国技館で行われているために、そう思う方々が多いのではないでしょうか。国技館は、日本相撲協会が相撲を行うために建てた施設で、明治42年の6月に開館されたのですが、完成前までは『常設館』という名称の予定でした。しかし、完成した際に「国技館と命名しよう」という提案があり、それが了承されたため、現在の名称になったんです。そのあたりから、相撲は国技といわれてきたのでしょう」ということらしいです。
とはいっても、力士には人格の高さが要求されますし、相撲も品格が求められます。その力士の中でも有名なのが、「双葉山」でしょう。彼は、双葉山 定次といい、第35代横綱です。今日は、彼の出身地である大分県宇佐市に来ています。宿泊先の前には立派な土俵があり、そのそばには彼の銅像が立てられています。
彼が有名なのは、まだ年2場所の時代にもかかわらず、本場所での通算69連勝、優勝12回、全勝8回などの記録を残したことがあります。その数々の大記録は未だに破られていないものも多くあります。彼が活躍した時代は、日中戦争が泥沼化し、緊張の時代の中、国民に熱狂的に迎えられ、国民的英雄でした。「双葉の前に双葉無し、双葉の後に双葉無し」と言われたほど、史上最強の横綱でした。
その彼が立派な成績を残したことだけでなく、他にも国民的英雄といわれた理由があります。彼が5歳の時、友達の吹矢が右目に当り、その負傷が元で右目が半失明状態になってしまいます。また、家業の海運業の手伝いをしているときに錨の巻上げ作業で小指に重傷を負い、その後遺症によって右手の小指が不自由でした。そんなハンデを抱えながら、「木鷄」を目標に相撲道に精進し、昭和屈指の大力士となったのです。
双葉山が目指した「心・気・体」は、この木鷄に現れていますが、その言葉は、69連勝を逃したときに友人に語った「我はまだ木鶏たりえず」という言葉です。この木鶏という言葉は、「荘子」にでてくる「木鶏の教訓」という挿話です。紀省子という闘鶏を育てる名人が、王様がもっていた一羽のすぐれた鶏を鍛え上げた姿を「相手が挑戦してきても、いっこうに平氣でちょっと見ると木鶏のごとく、その徳が完成しています。これからは、どんな敵が現れても戦う前にしっぽをまいて退却することでしょう」と答えたことから来ています。荘子は、この木鶏の寓話で、人間が虚心無我になったときに最も強くなるということを語っています。虚心無我というのは、私心や欲や我執を持たず、わだかまりが無く素直な気持ちでいることであり、そんな気持ちでいるときにこそ力が出るものであるといっています。双葉山は、負けたときに言い訳をせず、まだ自分は虚心無我の境地にはなっていないからであるという自分を戒める言葉を言ったのです。
最近のニュースを見て、相撲だけでなく、多くの人に影響する人たちは、言動に気をつけてもらいたいものだと思わずにはいられません。
投稿者 fujimori : 23:07 | コメント (4)
2008年10月30日 [講演先にて]
とんち
子どもは「とんち話」が大好きです。それは、頭を働かせて、悪いものを懲らしめたり、危機を脱出したり、最後はハッピーエンドで終わることが多く、スカッとするからです。この「とんち」を漢字で書くと「頓知」と書きますが、「機に応じ変に処してはたらく知恵。さそく(早速)のちえ。機智。」と辞書には載っています。この「頓」という字が、「臨機にするさま。にわかなさま。」という意味のようです。
では、昔からとんち者というと誰を思い浮かべるでしょう。まず、「一休さん」が浮かびます。それは、テレビアニメでも放映されていたからです。このテレビのことは以前のブログでも書きました。
次に思い浮かべるのが「彦一とんち話」でしょう。この彦一が誰であるのかは定かではないようですが、肥後国熊本藩八代城の城下町の長屋に暮らしていた下級武士で、定職を持たず、時に農作業、時に傘職人などをして生計を立てていた人物ではないかといわれています。彼にまつわる民話を「彦一ばなし」とよんで、八代では今も語り継がれています。この話しの特徴は、町人や殿様などのほか、狐、河童、天狗などが登場するので、フィクションのものが多いようです。また、この話しは、子どもが好きな要素の、とんちを使って権力者を懲らしめたりするケースは少なく、どちらかというと、有名な「天狗の隠れ蓑」という話のように失敗して恥を掻いたりする話も多く、英雄ではない、等身大の姿が描かれており、それが広く愛されている所以でもあるといわれています。
もう一人、教科書に取り上げられて有名になったとんち者「吉四六さん」がいます。彼は、実在の人物としてその存在が分かっています。現在の大分県臼杵市野津町の生まれで、本名を廣田吉右衛門といい、名字帯刀を許された地方の庄屋でした。吉四六さんは吉右衛門がなまったものです。この吉四六にまつわるとんち話を「吉四六話」といいますが、これは、明治時代に地方から伝承を寄せ集めて編纂したものです。その後、地方紙が読み物としての連載を始めたことで、広く県民が知ることになります。
彼が地元に人気があるのは、彼は出世してからも権力を嫌い、年貢のとりたてに苦しむ庶民の味方になったり、つらく厳しい時代であっても、庶民の相談役となり持ち前のとんち・奇才で人々の難儀を救ったと言われていることにあります。昨日から訪れている大分での懇親会で、参加者の一人がこの「吉四六さん」を大分弁で演じてくれました。その人は、吉四六さんと同じ臼杵市野津町の人です。
彼の代表的な逸話に「柿の見張り番」というのがあります。この話しは、吉四六さんが子どもの頃のエピソードです。
ある日、吉四六の家の柿がたわわに実りました。そこで親は盗まれないように、吉四六に柿の木を見ているように言いました。しかし、自分自身も食べたくてしかたありません。それなのに、村の友人がやってきて、柿を食べようと吉四六をけしかけます。そこで、吉四六は友人と一緒に全部柿を平らげてしまいます。畑仕事から戻ってきた親は吉四六をしかりつけますが、吉四六は頓知を働かせてこう言います。「柿の実は友達がもいで行ってしまったけど、私は、柿の木はずっと見ていた」と。親は呆れて開いた口が塞がらなかったということです。
この内容を教材として、子どもたちに、この吉四六の行動をどう考えるかという授業をします。
投稿者 fujimori : 20:33 | コメント (4)
2008年10月27日 [講演先にて]
人魚
私はまだ見ていないので、その内容についてじっくりと書きたいと思っているのが、映画「崖の上のポニョ」です。この物語は、「アンデルセンの「人魚姫」を今日の日本に舞台を移し、キリスト教色を払拭して、幼い子供達の愛と冒険を描く」と宮崎 駿さんは語っているように、この物語は、海に棲むさかなの子ポニョが、人間の宗介と一緒に生きたいと我儘をつらぬき通す物語です。この物語のように、いわゆる魚の子といわれる人魚が、昔から物語の題材になることは多くあり、その多くは、人間になりたいという願望を持つことによって起こる悲劇を主題にすることが多いようです。
北方の、冷たく暗い海の岩の上で、女の人魚が考えていました。「人間の住む町は、明るくにぎやかで、美しいと聞いている。人間は魚よりけものより、人情があってやさしいと聞いている。一度手に取りあげて育てたなら、決して捨てたりしないと聞いている。さいわい自分達は人間そっくりだから、人間世界で暮らせるはず。せめて自分の子供だけは、人間の世界で育て大きくしたい」と、ある夜のこと、人魚のお母さんが神社の石段に赤ん坊を産みおとしました。
赤ん坊は町の蝋燭(ろうそく)屋の子どもがいなかった老夫婦に拾われ、大切に育てられ、美しい娘になりました。娘は、家の蝋燭に赤い絵の具で絵を描くのが好きになり、その蝋燭がたいへんよく売れ、家業が繁盛します。それは、その蝋燭でお宮にお参りすると、船が沈まないという評判が立ったからでした。ところが、人魚を見世物にしようという悪い香具師が差し出す金に目がくらんだ二人は人魚の娘を売り飛ばしてしまいました。そのとき、娘は泣く泣く最後の蝋燭に絵を描きます。それは、悲しさのあまり真っ赤な絵になりました。
その夜、訪ねてきた髪を乱した青白い女に娘が残した最後の蝋燭を売りました。その女が帰っていくと、まもなく雨が降りだし、たちまち嵐となり、娘の檻を積んだ船は難破してしまいます。そして、赤い蝋燭がその町にすっかりなくなると、その町はすっかり寂れ、ついに滅んでしまったといいます。
これは、東京朝日新聞に連載され、小川未明の最高傑作といわれる童話「赤い蝋燭と人魚」です。しかし、子どもが読む童話としてはせつなすぎますね。
先週末訪れた富山で、飛騨高山と同様、江戸時代に天領となった飛騨古川に連れて行ってもらいました。この伝統ある城下町には、出格子の商家や白壁の土蔵が続き、その脇を意外と早い流れの瀬戸川には、大きな鯉が透き通った水を通して見えます。
この町のチラシには、「やわらかい、あたたかい、なつかしい」と書かれてあります。ここは、2002年にNHK朝の連続ドラマ「さくら」の舞台となりました。高山市の中学で英語指導助手をするハワイ生まれの主人公さくらが、この古川町の和ロウソク店に下宿します。その舞台となった江戸時代から続く手作り和ろうそく店「三嶋和ろうそく店」に入ってみました。
すべて手作りで作るろうそくは、全国でもここだけというだけあって、そこにある座布団には、生憎店主は座っていませんでしたが、職人の心意気が漂っていました。店の奥は、二階から顔を出したテレビのシーンを思い出させるかのような飛騨の家屋のつくりを見ることが出来ました。
投稿者 fujimori : 23:21 | コメント (4)
2008年10月26日 [講演先にて]
「LRT」と「TDM」
映画「ALWAYS 三丁目の夕日」の時代設定と地域設定は、まさに私が育った時代と、私が育った町が再現されています。以前ブログでも取り上げましたが、その中で懐かしく見たもののひとつに「都電」がありました。東京では現在は1路線のみになってしまいましたが、当時は今の地下鉄以上に東京を網の目のように走っていました。また、「トロリーバス」という無軌道電車が走っていました。これは、その名の通り、形は全くバスですが、電気で走るものです。これらは、様々な理由から次々に廃止されました。それに取って代わったのが、ガソリンで走る自動車です。しかし、自動車の急速な普及は、都市に、交通渋滞や交通事故の増加、大気汚染や騒音などの問題をもたらしています。それ以上に、自動車の普及は、人の流れや商店のあり方も変えてしまいました。また、人と人との出会いの機会も奪ってしまいました。
最近、欧米諸都市では、いったんは衰退した中心市街地を、自動車交通中心のまちづくりから公共交通中心のまちづくりへと転換することによって、活性化させる例が現れているようです。その中心市街地活性化の手段のひとつとして注目されているのが、時代遅れの乗り物として姿を消しつつあった路面電車を近代的に再生させた交通システムの導入です。この交通システムが「LRT」(Light Rail Transit)と呼ばれるもので、低床式車両路面電車の使用による「人と環境に優しい乗り物」としても、見直されています。
このLRTが活用されている国のひとつにドイツがあります。私は毎年ドイツに行っていますが、「ドイツは環境の国」というイメージがあるように、乗り物は、自転車か、路面電車が目立ちます。私が訪れるミュンヘンでは、自動車を環状道路の整備により強制ではなく誘導により迂回させ、TDM(Transportation Demand Management)という方法を実現しています。このTDKとは、その言葉の通り交通需要マネジメントのことで、自動車利用者の行動を変えることにより、道路渋滞をはじめとする交通問題を解決する手法です。今ではほとんど交通問題の解決のために、道路整備などを行うような交通の「供給側」からの対応ですが、それが限界に来たために最近では、交通の「需要側」からの対応使用という考え方をするようになってきています。ミュンヘンでは、この考え方を、LRTだけでなくその路線をドイツ的な土地利用の考え方に忠実に従ったものとし、バスとの連携、Sバーンからの連続として配置し、自動車交通の受け皿として積極誘導を行い、現在のLRTの発展の基礎となったとも言われています
そのほか、アメリカ、フランス、イギリスなど他の西側先進国でもこの取り組みが行われています。日本全国の様々な都市でも、導入運動が進んでいるシステムですが、必ずしも適応性がすべての都市で高いとはいえませんし、それぞれの都市では問題も多いようです。
昨日まで訪れていた富山では、旧富山港線を第3セクターが引き継いで路面電車化した富山ライトレールが開業し、富山市の都市計画に組み込まれるなど、日本初の本格的導入として注目されています。2006年度には、グッドデザイン金賞を受賞したり、今月には、第3回「ハイ・サービス日本300選」を受賞するなど、様々な賞を総なめしています。
しかし、このライトレールは、ドイツで取り組まれたような意図が実現されているのでしょうか。地元の人の話からすると、いろいろな問題があるようです。
投稿者 fujimori : 22:18 | コメント (4)
2008年10月11日 [講演先にて]
音風景
アイヌの人たちが「神々の遊ぶ庭」と呼んだ大雪山には、昨日紹介したような貴重な鳥類が生息しています。それは、険しいということで手つかずの自然がまだ残っているということです。その主峰旭岳の山麓には、いくつかの自然探勝路が設定されています。今回はそこを歩くことができませんでしたが、コマクサコース、見晴台コース、クマゲラコース、ナナカマドコースの4つの自然探勝路があります。ここを散策すると、氷河期から生息するナキウサギの声や、コマドリ、ミソサザイ、ルリビタキなど多くの野鳥の声が聞こえるそうです。自然は、見て楽しむだけでなく、音で楽しむことも出来ます。
各地には、様々な景勝地や名所などがありますが、自然と同じように、それらの地では、五感を刺激するものがあります。そのひとつが、音を聞いて楽しむ名所が各地にはあります。大雪山は貴重な生き物の鳴き声を楽しむことができます。また、先週末の最初に訪れた札幌では、時計台の鐘の音を聞くことができました。
この時計台は、明治11年札幌農学校(現北海道大学)演武場として建設され、以来百年以上の間、札幌のシンボルとして時を刻み、鐘の音を響かせています。石原裕次郎の歌ではありませんが「時計台の下で会って、私の恋は始まりました」というようなその外観は、洋風建築で、札幌のポスターなどにもよく取り上げられています。しかし、意外とがっかりする建物だといわれています。それは、その建物のシンボルの時計塔の背景が、真っ青な空ではなく、味わいのないビルだからです。同じように、時計台の音も、昔は、4キロ四方にわたって鳴り響いたといわれていますが、今は、ビルの間で、ほとんど周辺にだけしか聞こえなくなってしまっています。それでも、歴史的文化的音色を奏でています。
そのほかにも音を楽しむ名所旧跡があります。そんな場所が「残したい日本の音風景100選」ということで、環境省環境管理局で平成8年に選定されています。この目的は、「全国各地で人々が地域のシンボルとして大切にし、将来に残しておきたいと願っている音の聞こえる環境(音風景)を広く公募し、音環境を保全する上で特に意義があると認められたものを認定」とあります。大雪山旭岳、札幌時計台も百選に入っています。
週末訪れた八戸にもこれに選ばれた場所があり、講演の合間に訪れてみました。
そこは、「蕪島」です。この蕪島は、島と陸地との間は現在、埋め立てられて陸続きになっており、その西側には東北有数の機能を有する八戸港があり、イカ釣り漁船が所狭しと停泊しています。この島でどんな音がするかというと、この島はウミネコの一大繁殖地で、毎年2月下旬ごろに南方から飛来し始め、島に蕪の花が咲くころは、数万羽が島にやって来て産卵します。そして成長したヒナが巣立つ7月ごろまで島と港の上空は、「ミャー、ミャー」という猫に似た鳴き声と、太平洋から寄せる波音が共鳴し合う漁業の町の音風景なのです。秋に入った今は、ほとんどのウミネコは南へ旅立ってしまい、波が打ち寄せる音しかしませんが、それでも数羽、越冬するウミネコが岩や屋根に羽を休めていました。その泣き声は、騒がしい季節から、さびしい秋を感じる声でした。

音の聞こえる環境は、様々な観点から選ばれています。虫の音、植物の音だけでなく、祭りの音、生活の音、産業の音、交通の音などです。その地方ならではの音を楽しむのも一興かもしれません。
投稿者 fujimori : 19:52 | コメント (4)
2008年10月10日 [講演先にて]
紅葉前線
秋はとても味わい深く、日本の四季の深みを感じます。と同時に「今は、もう秋、誰もいない海」というトワ・エ・ モアの歌ではありませんが、何か郷愁を感じ、夏の賑わいから代わって、少しさびしさを感じます。「秋深き 隣は何を する人ぞ」松尾芭蕉ではありませんが、秋が深まり、野山がどことなくさびしく感じられるようになると、人恋しくなり、隣人のことなどが気になってきます。
テレビでは次第に各地の紅葉情報が流れてくるようになりました。今日のテレビで放映されていたのは、北海道の大雪山の紅葉です。大雪山連峰は日本で最も北に位置する山々で、その中でも最も高い旭岳は、日本でいちばん早い紅葉と初雪を見ることができます。富良野から眺める旭岳は、もう真っ白に雪をかぶっています。
今週の日曜日に講演した場所は旭川の東川町でした。その町は旭岳のふもとにあるので、前日は、旭岳温泉に泊まりました。夜、宿に着いたら玄関周りには最近降ったであろう雪がまだ残っていました。
大雪山はひとつの山の名前ではなく、北海道の最高峰である旭岳(2,291m)をはじめとして、20連峰におよぶ標高2,000m級の山々の総称です。ここ一帯は、1934年(昭和9年)に国立公園に指定されており、わが国最大の山岳を中心とした原始性の豊かな公園です。その大きさも、ちょうど神奈川県の広さにほぼ同じ226,764ヘクタールの面積を持っています。かつてアイヌの人々は大雪山を「カムイミンタラ」と呼んでいましたが、その意味は「神々の遊ぶ庭」で、敬っていました。文人である大町桂月という人はこの山の雄大さを「富士山に登って山岳の高さを語れ、大雪山に登って山岳の大きさを語れ」と表現しています。
大雪山国立公園の山々には、多くの高山植物が咲き誇りましすが、とくに鳥類では国の天然記念物のクマゲラ・シマフクロウが生息し、冬にはオオワシやオジロワシも生息しています。このように希少な動植物が生息しているために大雪山国立公園は、十勝川源流域を含む一帯が特別保護地区であり、国の特別天然記念物にも指定されています。
翌朝、麓の講演先に向かうバスは、ちょうど乗った便が天人峡経由でした。ここにも温泉があり、1894年に忠別川での鉱物探索中に発見され、発見者の名前を付けた松山温泉として開設されました。その後、天人峡温泉と名前を変え、大正時代から昭和初期に有名になり、大きく発展しました。バスは、天人峡で数分間止まり、降りて景色を撮影する時間を取ってくれました。その場所は、クワウンナイ川に沿っては、柱状節理と呼ばれる岩が聳え立ち、そこを這うように紅葉し始めた木々がしげっています。この温泉の発見当時は、この柱状節理にへばりついて露天風呂があり、その当時は小さな橋で川を渡って宿から通っていたそうです。
クワウンナイ川は、「日本一美しい沢」とも呼ばれ、まさに秘境中の秘境といわれ、日本百名山のひとつでもあるトムラウシ山へ登っていくことができます。このクワウンナイ川とは、「杖のところの川」という意味のアイヌ語ですが、とても険しいので杖を使わなければさかのぼれない川という意味ではないかといわれています。
今年は運よく、人より早く紅葉を楽しむことができました。
投稿者 fujimori : 22:57 | コメント (4)
2008年10月04日 [講演先にて]
定山
以前のブログで、日本各地にある温泉の発見者の話をしました。多くの温泉には、猟師などが山奥に踏み入って、動物が傷を癒したりしているのを見つけて温泉を発見したというのがあります。また、有名な僧が、旅をして歩いているときに発見したというのも多くあります。特に、弘法大師や行基が発見したとされる温泉は、多く残っています。しかし、動物はいくらか本当だというところもありますが、高僧が発見というのは伝説めいています。それは、医療がまだ発達していなかった時代に、温泉というのはありがたい庶民の治療のひとつだったということもあったでしょう。ですから、霊験あらたかな意味もあって、発見者もありがたい高僧だという冠が欲しかったのかもしれません。
しかし、彼らが足を踏み入れたことのない地では、彼らを発見者にはできません。例えば、北海道などでは、たぶん発見者は、アイヌ民族のことが多い気がします。特に、アイヌ民族は狩猟民族でしたし、動物をとても大切にしていたので、動物が浸かっているのを見つけ、自分たちがそれを活用していたということは容易に想像できます。
しかし、発見しただけでは温泉場としては機能しません。その場所を温泉場として庶民が訪れることができるようにするには、かなりの苦労が伴います。
今週末訪れている札幌近郊に「定山渓」という温泉場がありますが、この定山というのは人の名前だと知りませんでした。
この地の温泉の存在は古くからアイヌ民族に知られてはいました。そして、江戸時代には、松浦武四郎が旅行中に川の中に湧く温泉に入ったこと報告したことで多くの人に知れ渡ることになりました。彼は、江戸時代、幕末から明治時代にかけて活動した日本の探検家で、早くから諸国をめぐり、特に蝦夷地を探査し、択捉島や樺太にまで行っています。そして、蝦夷地に北海道という名前を考案したほか、アイヌ語の地名をもとに国名・郡名を選定しています。
その後、1866年に小樽でこの温泉のことを知った備前の国出身の修行僧、「美泉定山」は、この温泉を北海道の開拓で病に苦しんでいる人々の湯治の場所にしたいと考えました。そこで、北海道開拓使の岩村通俊判官に、この温泉の開発を熱心に陳情しました。岩村は、この温泉地を訪れ、定山の熱心さからこの事を承諾し、自ら湯守となった定山に米を給与し、ここに休泊所と浴槽を作らせたのです。そのころ、札幌は人口が少なく、温泉経営はほとんど成り立たなく、定山の給与は打ち切られてしまいます。しかし、彼は、寝食を忘れて温泉の開発に努力をし、生涯を温泉開発に尽くしたのです。このことから、この温泉が定山渓と命名されたのです。
ここには、定山神社があります。
明治44年に創立されたものですが、他の神々と一緒に美泉定山命が奉斎されています。ここには、こう書かれてあります。「美泉定山は文化12年1月7日岡山県に生まれる。安政3年渡道し、明治元年土人の案内により此地に来て温泉が湧出するを発見。明治4年開拓使から湯守を命ぜられ此の地を定山渓と命名し、浴客の便を図り定山渓開拓の基礎をつくれる恩人である。」
彼は、その名を地名に残していますが、偉人、恩人とは、必ずしもその名を残しているわけではありません。しかし、後世の人がその恩恵をその名を知らずに受けていることがあります。しかし、大切なのは、その名ではなく、その偉業なのです。
投稿者 fujimori : 19:35 | コメント (5)
2008年09月26日 [講演先にて]
暗号1
沖縄で、旧海軍司令部壕を訪れました。この壕は、1944年12月海軍設営隊によって掘られたもので、ここに海軍の沖縄方面根拠地隊の司令部があった場所です。カマボコ状に掘りぬいた横穴をコンクリートと坑木で固め、全長450メートルあったといわれています。持久戦に備えて、この中に約4000人の兵士が収容されていましたので、兵士らは立ったまま眠らなければならかったそうです。しかし圧倒的な戦力を持つ米軍の進撃が続き、陸軍も南部へ撤退する中、ついに1945年6月13日、大田實司令官以下4000人の将兵はこの壕で自決を遂げます。
戦後しばらく放置されていましたが、数回にわたる遺骨収集の後、1970年司令官室を中心に約300メートルが復元され、一般公開されています。この地下要塞の中には、司令官室、作戦室、幕僚室、通信室、暗号室、発電室などが配置されていました。この中の通信室では様々な戦況を暗号でやり取りをしていたことでしょう。
暗号とは、元々敵味方を識別する合言葉のことで、岩戸を開けるための呪文の「開けゴマ」や赤穂浪士が出会った者が敵か味方を見分けるために言った「山」「川」などが暗号でした。そして、敵味方を判断するためから、敵にわからないように見方に情報を送るときに暗号が使われるようになります。しかし、どちらにしても暗号は戦いのときに使われる事が多くなります。暗号で有名なのは、日露戦争で使われた暗号文で、秘匿したい単語をカナ3文字に対応させたもので、最後の文はそのままでした。「ホンジツテンキセイロウナレドモナミタカシ」
次に有名なのは、真珠湾攻撃で使われた暗号文「トラトラトラ」(我、奇襲に成功せり)とか、「ニイタカヤマノボレ1208」でしょう。しかし、情報を隠すための暗号は、当然それを敵は解読しようとするでしょう。また、スパイはそれを味方に知らせようとするでしょう。そして、作戦に関する暗号の漏れが勝敗に大きく影響しますので、とても神経質になります。
沖縄戦で敵に情報を漏らしたとして、スパイ容疑で住民が日本軍に殺害される事件が発生しました。しかし、実は日本軍の暗号が米軍に解読された結果だったということを保坂広志琉大教授が「世界」という雑誌で「沖縄戦秘史 日本軍の暗号は解読されていた」と題する研究論文を発表しました。米側資料を使い、これまで触れられなかった暗号戦に光を当て「住民スパイ説」を否定したのです。保坂教授は「仮に戦場地でスパイと呼べるものがあるとしたら、それは近代兵器と呼ばれた暗号そのものであった」と結論付けています。
しかし日本軍は、情報が傍受されたにもかかわらず「戦場心理から疑心暗鬼になり、住民にスパイ容疑や敵前逃亡の汚名を着せ、あげく住民多数を虐殺している」とし、それは、「(日本軍の)おごりと慢心が突出している」と厳しく指摘しました。「明治以来、本土の人たちの沖縄に対する差別意識が、住民スパイ説の根底に横たわっていた」と話しています。
沖縄の人たちは、日本のためにたくさんの犠牲を払い、命を投げ出し、苦しみに耐えてきました。しかし、戦争という異常な状況は身内ともいうべき人々まで疑ってしまうのですね。
投稿者 fujimori : 23:34 | コメント (4)
2008年09月24日 [講演先にて]
方言
時代によって、翻弄されたものは色々とあります。そのひとつに各地に伝わる「方言」があります。各地には、その地方独特の言い回しがあったり、発音(訛り・アクセントなど)や文法や表記法など違いが見られることがあります。それぞれの地域にはそれぞれの文化があり、その文化には食や言語があります。それを、ひとつの国として包括したときに、言葉の基準を決め、それを標準語とか、共通語とか言い、そうすることによって当然それと違う言葉は「方言」と言われます。日本では、「東京方言」というものもあるものの、ほぼ東京方言を基として標準語、共通語が作られていますので、その他の地方の言葉は方言といわれ、「訛っている」「田舎の言葉」「おかしい発音」などと言われてしまいます。
標準語こそが正しい日本語であり、方言は矯正されなければならないとされた昭和30年代ごろまでは方言撲滅を目的のひとつとして標準語教育が行われました。そんな政策がその置ようの文化を壊してきた歴史があります。今回訪れた沖縄でもそれを感じました。
沖縄は、琉球王朝というひとつの文化圏をつくり、琉球諸島の言語は、「琉球語」としてひとつの「言語」として話されてきました。それが中央集権の考え方から「琉球方言」として日本語の方言に位置付けられ、それを使うことが禁止された時代があったのです。
それは、皇民化政策といって「辺境の民」を「一人前の日本人」にするために、沖縄に伝わる歌や地名などを改められたのです。そのひとつとして言語統制が行われ、日本語標準語の公用語化や教育現場における方言や、各民族語などが禁止されました。家庭内においても標準語を使用することが奨励され、長いあいだ沖縄の歴史が否定されてきたのです。
日本語を言語学上に大まかに分類すると、本土方言と琉球方言に分けられるほど、沖縄の言葉には独特なものがあり、私は東北便を聞くよりももって外国語を聞いているくらいに難しい言葉と感じます。それは、単に訛っているとか、独特な言い回しがあるというだけでなく、音韻の違いがあるからです。日本語の母音は「あ」「い」「う」「え」「お」の5音ですが、琉球方言の母音は「あ」「い」「う」のみなのです。母音の「え」は「い」に、「お」は「う」に変化するので、「あ」「い」「う」「い」「う」となるのが、琉球方言の音韻の特徴です。たとえば、「雲」は「くも」と発音しないで「くむ」と言い、「沖縄」は「おきなわ」でえはなく、「うちなあ」というようになります。しかし「戸」(と)が「つ」になるわけではなく、母音が変わるだけですので、「とぅ」になりますし、「手(て)」は、「てぃ」になります。また、「わ」は、標準語の「わ」とは違うと言われています。はっきりした「わ」ではなく「ぅわ」という感じで言うようです。ですから、聞いていて丸みを帯びて感じます。
現在は方言に対する評価が変化し、標準語ないし共通語と方言の共存(ダイグロシア)が図られるようになりました。しかし、国家政策ではなく、テレビによる共通語の浸透、都市圏の拡大、全国的な核家族化・少子高齢化の進行、地域コミュニティの衰退による高齢層から若年層への方言伝承の機会の減少などから、伝統的な方言は急速に失われつつあるといわれています。
もう一度意識して、その地域の言語を見直し、大事にしたほうがいいかもしれません。
投稿者 fujimori : 23:38 | コメント (4)
2008年09月08日 [講演先にて]
干拓
私が小中学校の頃習った社会の内容の多くは、人間の知恵が自然をいかに開発をし、利用し、征服してきたかでした。それは、人間の歴史でもありました。動物の狩りをし、植物を採取し、自然を切り開き、農地を作り、自然を人間にとって便利なものに変えていったのです。その征服していった知恵を、進歩とか発展というように習いました。そのひとつに「干拓」がありました。
干拓とは遠浅の海や干潟、水深の浅い湖沼やその浅瀬を干拓堤防(Dike、潮受け堤防、潮受堤防)で仕切り、堤防の随所に水門を設けます。そして、仕切り内の水を動力などによって強制的に排水し、干上がらせます。または海の場合には、潮の干潮時に水門を開き、仕切り内の海水を排水し、満潮時には水門を閉じて中を干上がらせます。そして、中を陸地にして利用します。しかし、宅地にするには地盤が軟弱であるため、好ましくありません。ですから、主に農地として利用するのですが、こうしてできた土地は海面よりも低くなることが多く、塩分を含んだ土地であるため、塩分とともに水を排水する設備を作る必要があります。こうしてできた土地は、干拓地といって、水域に土砂や廃棄物等を投入して土地を造成する埋立地とは異なります。
オランダの歴史は、俗に「世界は神が作ったが、オランダはオランダ人が作った」と言われるように、海岸沿いに広がる湿地や泥炭地や干潟を埋め立てて土地を広げてきたのです。オランダ最古の堤防はローマ帝国時代に遡り、初期の干拓は11世紀から13世紀の間に始まりました。このようなオランダの干拓手法はヨーロッパ、さらに世界各地にも影響を与え、日本の干拓も、明治以降はオランダの強い影響を受けています。
日本での干拓といえば「八郎潟」が有名です。八郎潟は、秋田県にある湖で、かつては日本第二位の面積(220km²)を誇っていたのですが、大部分の水域が干拓によって陸地化されました。その干拓工事は、戦後、食糧増産を目的として行われ、20年の歳月と約852億円の費用を投じて約17,000haの干拓地が造成されました。こうしてできあがった土地に全国から公募された入植者が入植し、大潟村が発足しましたが、最終的には、米の増産を目指していたものが、減反政策によって失敗した計画とする人たちもいるようで、かえって環境の面では、湿地が無くなってしまったとも言われています。
もうひとつ有名なのが、先週末訪れた諫早湾の干拓です。有明海で最も古い干拓は推古天皇の頃(593~629年)に開かれたものといわれています。諫早湾での干拓は江戸時代以前から行われてきたのですが、1989年より行われた「国営諫早湾干拓事業」が問題になっています。それは、そのために1997年、潮受け堤防が閉じられ、それにより、かつては「宝の海」と言われた有明海に海底への泥の沈殿、水質汚染が生じて有明海全体が死の海と化してしまったからです。有明海の干潟には、ほかには同じ九州の八代湾にしかいない貴重な「ムツゴロウ」が生息しています。
この魚は、干潮時になると巣穴から這い出てきて、胸びれで這ったり、全身で飛び跳ねて移動し、逃げる時はカエルのように素早く連続ジャンプします。肉は柔らかくて脂肪が多いので、蒲焼にすると美味しいようで、佐賀県の郷土料理の一つです。
諫早湾の干拓が妥当かどうかの判断は難しいですが、この干拓によって、自然と共生することの難しさ、自然を壊した後にそれを復活させることの難しさを学ぶことができた気がします。
投稿者 fujimori : 22:21 | コメント (4)
2008年09月07日 [講演先にて]
名水
炭酸水のブログでも書きましたが、日本の水は、暑いときなど、ごくごくと飲むときに本当に美味しいと思います。特に美味しい水といわれているものは、「湧き水や井戸水のように地層中を通過した天然の水で、有害な成分を含まない、バランスのとれた適度のミララル成分からなる水」といわれています。特に「適度なミネラル成分」というのがなかなか微妙です。ミネラル成分とは、カルシュウム・マグネシュウム・ナトリウム・カリウムなどで、多すぎても少なすぎても美味しいとは言えず、軟水に馴染む日本人に美味しく飲めるのは100mg/?程度のミネラルが必要だといわれています。このほかに遊離炭酸(炭酸ガス)も適度に溶けていると、新鮮で爽やかな味がします。そして、過マンガン酸カリウム消費量・臭気度・残留塩素・鉄分などは少ないほどよいとされています。また、おいしいとされる水温は、体温より20~25℃低い10~15℃が適温とされています。
こんなにおいしいと思えるための条件が微妙で、しかも、その国によって美味しいと感じる基準が少しずつ異なっているのに、天然水は、それが揃っているのです。水も「地産地消」がいいのですね。その国で湧き出てくる水が、その国民にとっては美味しくかんじつ配合になっているのです。その中で、日本の水は軟水が多く、アメリカやヨーロッパの水は硬水が多いようです。軟水は、カルシュウムとマグネシュウムの合計が100mg/?以下の水で、味は淡白で"こく"のない水のことを言い、炊飯や和風だしをとるなど日本料理全般、そして緑茶をいれたりするのに適しています。一方、硬水は、カルシュウムとマグネシュウムの合計が200mg/?以上の水で、硬くて鈍い"しつこい"味のする水といわれており、スポーツ後のミネラル補給や妊産婦のカルシウム補給、そして便秘解消やダイエットにも役立つといわれています。いかにも、それぞれの国に適している気がします。
以前、ブログで「熊本名水百選」を取り上げましたが、日本全国では、1985年環境庁によって全国各地の湧水や河川の中から100ヵ所が「名水百選」として選ばれました。全国各地には、「名水」として、古くから引き継がれているものが多くあります。そして、それらは、古くから生活形態、水利用等において水質保全のための社会的配慮が払われてきました。その名水を保存していこうというものです。
この百選には東京から選ばれたところもあります。
ブログでも書いた「お鷹の道・真姿の池湧水群」や「御岳渓流」です。先週末、長崎県で選出されている北高来郡高来町「轟渓流」に連れて行ってもらいました。
ここは、有明海に近い宇土半島の付け根に位置し、深く木に囲まれた中に豊富で清涼な湧水が湧出ています。また、境川の上流部にあたり、「轟の滝」をはじめとして大小30の滝があり、遊歩道を歩くと渓流脇の奇岩が目に引きます。
ここは、現在も使われている日本最古のものといわれ、江戸時代に作られた上水道の水源であり、ここから流れ出る水は、かんがい用水路(洗川)となり、そこには洗い場が設けられ、生活用水として利用されています。地区住民、特に婦人会を中心に水質保全活動が行われているそうです。
水量は1日あたり6150立法メートルの流量があり、水質は軟水で水温は1年を通して14℃を保っている水を使った流しそうめんを、轟の滝の音を聞きながら、その水で育てられた虹鱒の塩焼きをかじりながらいただきました。そして、その水のかき氷を食後にいただき、暑い日ざしが涼しく感じられた昼下がりでした。
投稿者 fujimori : 20:27 | コメント (4)
2008年09月01日 [講演先にて]
何が幸い
物事は、先のことはわからず、何がよいのか悪いのかも判断が難しいものです。失敗というときのブログでも書きましたが、そのときは失敗のように思えても、それが、かえって成功への近道であったりします。特に、子どもにとって何がいいのかということも、子どもは将来が長い分だけ、先の短い大人より判断が難しくなります。
先日訪れた熊本県山鹿市に、「八千代座」とう国の重要文化財に指定されている芝居小屋があります。当時全国には何千という芝居小屋があったそうですが、現在残っているのは20余りで、そのうちのひとつです。芝居小屋というのは、人が多く集まる場所に建てられることが多いために、利用されなくなるとすぐに取り壊され、別な建物に建て替えられてしまうことが多いのです。また、当時は特に貴重な建物という意識はなく、かえって古くなると危険な建物となってしまうのでなおさら保存しようとは思いません。それなのに何で山鹿に残っているかというと、八千代座で説明している人が、「町が衰退していったことが、幸いしたのかもしれません」と言っていました。
ここ山鹿市は、昨日のブログでも書きましたが、江戸時代から付近を流れる菊池川を利用した水陸交通の要衝として、関西などとの水運が活発で、商工業の中心的都市として栄え、さらに県内屈指の温泉場を核とする観光地としても有名でした。熊本県内では熊本に市に次ぐ第2の都市だったのです。また、それ以前の江戸時代も、市内の豊前街道は参勤交代のルートとして、宿場町としても栄えていた地域でもありました。そんな場所だからこそ、明治43年、当地の裕福な旦那衆によって「八千代座」が作られたのです。
しかし、昭和30年ころになると、映画の時代となり芝居興行が下火になります。そこで、この八千代座でも映画館としても営業しますが、他の映画館に比べて、この八千代座は経営の行き詰まりから、畳に座る升席の構造を椅子に座るように改修しませんでしたので、それは映画鑑賞においては不評で、客足が遠のいてしまいます。しかし、これが、かえって升席をそのまま残すことになるのです。さらに、テレビの時代になると、映画も下火になり、結局八千代座も昭和40年代には経営不振となり閉鎖されてしまいます。
その後、建物は朽ちはて、人々から「お化け屋敷」と呼ばれるほどひどい状況になっていきました。その頃山鹿市は交通手段が水路から陸路に変わると、ますます便が悪く、土地としての賑わいが一気になくなってしまいます。ですから、八千代座を解体して跡地にショッピングセンターを作ろう、という話も持ち上がりますが実現しませんでした。ますますさびれ、そのままに放置されていきます。時代が変わってくると、そのままに残されていることが幸いし、過去の文化遺産として、その建物は貴重になってきます。その後、昔を知っているお年寄りを中心に保存運動が起き、昭和63年に国の重要文化財にも指定され、改築が施され、平成元年から一般公開されることになったのです。
それにもまして、この芝居小屋が全国から注目を浴びるようになった出来事が起きます。八千代座復興を願う女性カメラマンが、たまたま建物の資料を歌舞伎役者の坂東玉三郎に送ったことがきっかけで、平成2年から「玉三郎舞踏公演」が始まったのです。この公演がきっかけで、使用可能になるように大修理を行い、その後、八千代座は「玉三郎が来る芝居小屋」として全国に名が知られるようになったのです。今年も10月に公演があるそうです。
もちろん、こうなるには様々な人の努力があるのですが、同時に時代や歴史における逆境は、いつそれが福となるかわからないものだということを教えてくれます。
投稿者 fujimori : 22:34 | コメント (4)
2008年08月31日 [講演先にて]
唐傘
ここ数日、日本列島をゲリラ雨が襲っています。東京でも、ものすごい雷の稲妻と音とともに激しい雨が降り、傘を差していても足元はずぶぬれです。また、傘からも水滴が落ちるほど滝のように降り注ぎます。こんな雨ではなく、しとしとと降る雨ですが、そんな雨に傘を差す歌があります。今の人が思い出すのは、「雨降りくまの子」です。なかなか雨がやみそうにないので、くまの子は、傘でもかぶっていようと、頭に葉っぱを乗せるのです。
最近の子どもたちは歌うのか分かりませんが、私たちがよく歌った歌は、大正14年に北原白秋作詞、中山晋平作曲の「あめふり」です。「あめあめ ふれふれ かあさんが じゃのめで おむかい うれしいな ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン」迎えに来てくれた母親が持ってきた傘は、「蛇の目傘」です。同年、野口雨情作詞、中山晋平作曲の「雨降りお月さん」では、「雨降りお月さん 雲の蔭(かげ) お嫁にゆくときゃ 誰とゆく 一人で傘(からかさ) さしてゆく 傘(からかさ)ないときゃ 誰とゆく シャラシャラ シャンシャン 鈴つけた お馬にゆられて ぬれてゆく」一人で、唐傘を差して行きます。この頃は、傘と書いて「からかさ」と読んだように、傘といえば、蛇の目傘とか、唐傘のことを言いました。
この唐傘というのは、その字のとおり、古代に大陸から伝来したためだという説が一般的でしたが、最近の説では、て、日本で開閉式に改良したことで、開け閉めが自由にできるカラクリ細工の傘、唐繰傘(唐繰は絡繰と同義語)の略語だといわれています。東洋では、傘はまず、魔除などの目的で、貴人に差しかける天蓋(開閉できない傘)として古代中国で発明され、その後、飛鳥時代の552年に仏教の儀式用の道具として朝鮮半島(百済王)から貢物として日本に献上され、「きぬがさ」(絹笠、衣笠)と呼ばれました。平安絵巻に見られる傘は貴人に差しかける、開いたままの傘で閉じることが出来ないものです。それを改良して、現在の複雑な構造にしていったので、往時の人々が「からくり」と思ったのでしょう。
この和傘には番傘と蛇の目傘があります。蛇の目傘は、傘の中央部と縁に青い紙、その中間に白い紙を張って、開いた傘を上から見た際に蛇の目模様となるようにした物で、外側の輪を黒く塗ったり、渋を塗るなどします。一方、番傘は江戸時代から広く民衆の間で使われるようになり、昭和に入ってからも終戦前後まで日常生活で使われていました。
蛇の目傘が細身で美しい女性的な和傘であるのに対して、番傘はがっしりと丈夫にできており、素朴で独特の渋さがある男性的な和傘です。余計な装飾を施さず、素材の竹と和紙の良さが光り、質素な中にも粋な雰囲気を感じさせ、骨組みだけでなく、柄にも素材の竹をそのまま使っています。そして、傘布に柿渋、亜麻仁油、桐油等を塗って防水加工した油紙を使用しています。
昨日訪れた熊本県山鹿は、菊池川のほとりにあり、豊前街道沿いで、熊本県では熊本市についで二番目に栄えた町です。ここからは菊池川を使って米や和紙の傘などは運ばれていきました。この町で、番傘と蛇の目傘を園へのお土産として購入しました。
投稿者 fujimori : 23:46 | コメント (4)
2008年08月04日 [講演先にて]
奄美の自然2
保育園児は、夕方親が必ず迎えに来ることを信じて待っています。子どもたちは、親が自分を必ず守ってくれることを信じています。
アマミノクロウサギは、親の巣と別に穴を掘って、そこに子ウサギを産み、ほぼ二日に一度授乳にやってきます。それ以外は入口を土で閉じてしまいます。その生態は、昔から言い伝えられてきました。しかし、それを実証し、カメラに収めたのが、奄美に住むカメラマンの浜田さんでした。母親ウサギは、子どもは1匹しか産まないようです。その子ウサギは、安全のために親と違う巣の中で眠ります。そのなかには、葉っぱを敷きつめてあります。母親は、子ウサギのいる穴の入り口に来ると、慎重にその穴の入り口を掘り、開けます。すると、入り口まで子ウサギが出てきて、母親は子ウサギに授乳をします。その時間、5分足らずで、それが終わると、母親は急いで巣穴を閉じ始めます。前脚で土をかき集め、穴の中に押し込み、30分以上もかけて巣穴の入り口を、何度も何度も土をぺたぺた、とんとん、まるで壁でもぬりかためるようにふさいでいくのだといいます。そして、真っ暗になった穴の中で、子ウサギは、またきっと母親が来てくれることを信じてじっと待っているのです。
浜田さんが撮った観察ビデオをいもとさんが見て、トントンと穴をふさぐ作業は、もしかしたら、穴の中の子どもが眠るまで、よく親が寝付くまでやってあげるトントンではないかをいうことで、絵本の構想は生まれました。それが、講談社発行「とんとんとんのこもりうた」(著:いもとようこ)です。この絵本は、第34回造本装幀コンクールで文部大臣賞を受賞しています。
また、奄美にはほかにも珍しい植物も生息しています。その代表的な物のひとつのガジュマルは、その樹形から幸福をもたらす精霊が宿っている木とも言われています。
ちなみに、「ガジュマル」とは沖縄地方の呼び名です。たしかに、その異様な姿形は、精霊とか妖精のように見えます。それは、幹がいろいろな方向に分かれているからです。また、幹から気根といわれる根が垂れ下がり、自分の幹に絡みつき、また、太くなり幹のように樹皮が発達していきます。そして、その気根は、地面にまで達し、幹と同じようになり、何本も幹があるような樹形になります。そんな姿からか、そこには、奄美ではケンムンとよばれる妖怪が棲んでいると恐れられていました。
もうひとつは、マングローブです。今回は、マングローブ体験のカヌーには乗ることができませんでしたが、展望台からマングローブ原生林を見ることが出来ました。
このマングローブとは、木の名前だったり植物の名前ではありません。熱帯や亜熱帯地域の河口など、満潮になると海水が満ちてくるところに生えている植物をまとめてマングローブと呼んでいます。このマングローブには、様々なカニ、魚、貝、エビなどのほか、森にはサルなど様々な動物も住んでいますし、水鳥たちの餌場であったり、休息の場所です。しかし、世界のマングローブ林は切られてしまったり、エビの養殖池になってしまったりとだんだん減ってきて、このような動物たちの住む場所がなくなってきています。また、日本以外の国では、マングローブの森に住んでいる人たちがたくさんいますが、マングローブ林が減ってきて、このような人たちの家を作る木材や、料理を作る時の燃料としてのまきや炭も少なくなってしまっています。
大切にしなければならないものは、たくさんありますね。
投稿者 fujimori : 21:20 | コメント (4)
2008年08月03日 [講演先にて]
奄美の自然
水俣から移動した奄美大島では、カメラマンの浜田太さんの話を聞く機会がありました。彼は、NHKのBSハイビジョン特集で、それぞれの角度やスタンスで日本の野生に挑んでいる3人を紹介する番組「日本人カメラマン野生に挑むシリーズ」に登場した一人です。浜田さんは奄美大島生まれで、最初、講談社写真部に入社しますが、奄美大島に戻り、写真事務所を設立しました。ここで、奄美の自然と文化をテーマに撮影を始め、特にアマミクロウサギの撮影活動で有名です。
今回は、このハイビジョンで放送されたダイジェストと、奄美大島の魅力と警戒心が強く、撮影が困難とされる特別天然記念物のアマミクロウサギを撮影するまでの苦労話や、自然に対する思いをお聞きしました。
奄美に戻ったとき、自分が育ったふるさとでありながら、「こんな素晴らしいところがたくさんありますよ」と言えなかったことに恥ずかしくなり、以来、テーマ探しは故郷を知ることから始まったそうです。それまでの奄美に対するイメージは、エメラルドブルーと青い空、そして白い砂浜と、南の島を形容する「海」だったのです。それに反して、奄美の森にはケンムン(キジムナー)が棲んでいると言われ、「森には入るな!」という価値観でしか見ていませんでした。そんな夜の山奥の林道へ「アマミノクロウサギに会いたい」ということで車を走らせたのです。そこで、その後何年かのテーマとなる「アマミノクロウサギ」に出会うのです。
奄美大島は今から150万年頃までアジア大陸と繋がっていました。ですから、島の森には、1千万年という太古から受け継いだ生命が脈々と生きています。数年前に奄美を訪れたときに、この浜田さんの案内で、金作原国有林を案内していただいたことがありました。ここは、奄美大島の山々の中でも、天然の亜熱帯広葉樹が多数残っている原生林です。樹齢130年といわれるイタジイ、イジュ、タブの木が主で、これらの老齢の樹林内には、まるで恐竜時代さながらの世界最大の木生シダであるヒカゲヘゴ、妖怪のように木々に着生するオオタニワタリ、ひげ状の気根がやがて根となり巨木となるガジュマル等、奄美固有の植物なども見られ、霧が立ち込めたこの苔むした森の美しさと神秘さは、まさに、ジェラシックパークの映画さながら、今にも恐竜が出てきそうな古代の様相を呈しています。

鹿児島県観光交流局観光課HPより
ここには、とても貴重な国指定天然記念物のルリカケス、アカヒゲ、オオストンオオアカゲラなど固有種の鳥や動物が生息しています。なかでも、アマミノクロウサギは、謎の生き物としてこの島の森に生き続けているのです。それは、毒蛇と恐れられ、しかし「森の守り神」といわれるハブの住処があるために人の出入りがあまりなく、人間に荒らされずに、森の中はエネルギーに満ち溢れ究極の共存関係を結んでいるのです。
浜田さんは、こう言っています。「いつの時代にも新たな文化を携えた人々がやってきてその文化を取り入れ気の遠くなるような時間をかけて積み重ねて来たのではないか。そこには、厳しい風土と様々な歴史に翻弄されながら生きつづけてきた私たち祖先の姿があるような気がした。最近奄美の自然と文化が世界的な評価を受けている。それも全て祖先が守り育んできた私たちのアイデンティティ―なのだと思うと今私たちが何をすべきか問われているような気がする」
投稿者 fujimori : 22:25 | コメント (4)
2008年08月01日 [講演先にて]
寒川
7月29日と30日の二日続けて、朝日新聞の社説は、「水」を取り上げていました。
29日は、「らちの明かない議論を「水掛け論」と言うが、水争いから生まれた言葉ともされる。農家にとって水は命である。かんがい施設の整う以前は、日照りが続くと、水をめぐるいさかいが頻発した」という書き出しから、きびしい「水争い」がいま、アジア各地で起きている事情について書かれています。そして、地球は水の惑星であるが、ほとんどは海水で、淡水は2.5%にすぎず、水を安定的に得るのが困難な人たちは、いま世界で約25億人にのぼっていると書かれています。それが、今世紀半ばには約40億人に増えるそうです。現在の石油高騰による困難さは、将来、食糧輸入の多い日本は、農畜産物を育てるための膨大な水を、実は外国に頼っているということから、わが食卓が世界の水につながっていることを、忘れまいと警告しています。
30日の社説では、水のありがたさから、一転して、神戸市の都賀川での水難自己の恐ろしさを取り上げています。「明治の初めに来日したオランダの治水技師ヨハネス・デレーケは、富山県の常願寺川を見て「これは川ではない。滝だ」と驚いたそうだ。高い山から海へと急ぐ姿に、欧州の平野をゆったり流れる川とは違う厳しさを見たのだろう」そうした河川が、山がちな日本には多いということから、「自然に親しむ機会の多い夏休みである。大いに楽しみながらも、秘めたる「牙」への用心はゆめゆめ忘れぬよう」と警告を発しています。
講演で訪れている水俣で、少しの時間の合間を見つけて、久木野地区寒川集落に連れて行ってもらいました。この集落は、水俣市の東部の山村で、水俣川の源流部に位置する集落です。この集落内においしい水が1日に3000トン湧く「寒川水源」があります。
標高約900メートルの大関山に降った雨が幾層もの地下水で浄化され、標高約310メートルの寒川地区にわき出るもので、水温は、四季を通じて14℃を保ち、夏場も水が冷たいことが地名の由来となりました。「熊本名水百選」にも選ばれ、夏の避暑地として県内外に知られており、そうめん流しの場としても有名です。
ここから下流に3km続く日本でも有数の地元から出た石を積んだ見事な棚田があります。
この久木野地区の棚田は約100ha、その中で寒川の棚田には30haの広さに700枚ほどの田が広がって、これだけの面積の棚田は日本でも有数のものだそうです。ここは、夏の昼間は平地よりわずかに涼しい程度ですが、夜の気温がぐんと下がり、昼夜の寒暖差が大きいため、おいしい米が取れることで評判です。この寒川の棚田は「日本の棚田100選」や「くまもと景観賞」に選ばれていて、今は、稲が青々と育っていますが、田植えの前後は、水面にまわりの景色が映ってきれいに見えるそうです。梅雨時は、菖蒲や紫陽花の花が咲き、お盆のころには、稲に花が咲きます。9月下旬は、稲が黄色くなって、畦には彼岸花が咲き、冬の間は、稲刈りを終えた後の棚田の石垣をじっくり見ることができるそうで、四季折々美しい姿を見せてくれるようです。
しかし、棚田は、降った雨を一時的にためる働き、生き物を育てる働き、周囲の空気を冷やす働きなど「農地の公益的な機能」を持っています。農地が減ってきたということは、自給率の低下というだけでなく、二日にわたる社説の問題にも関係してくるのです。
投稿者 fujimori : 23:36 | コメント (4)
2008年07月20日 [講演先にて]
トンボ
今日は、香川から福井への移動日でした。JRで坂出まで出て、そこからマリンライナーに乗って、瀬戸大橋を渡って岡山行き、そこから新幹線で京都まで行き、京都からサンダーバードに乗って福井まできました。そして、今日の宿泊先は、一昨年ブログで書いた「一筆啓上」で有名になった丸岡です。また、このあたりは、福井県出身の作家・故水上勉氏の小説「越前竹人形」でその名が全国的に知られるようになった越前竹人形が有名です。豪雪地帯の厳しい寒さに耐えうる良質の真竹や孟宗竹が育つ越前では、この竹を利用して籠や笊、花器などの竹工芸品が古くから作られてきました。その竹細工のなかで、特に真竹、孟宗竹など竹の持つ直線と曲線の美しさをそのまま取り入れて創られる竹人形は、今や伝統工芸にもなっていていますが、その繊細で美しい姿は素晴らしいものがあります。
今、夏休みで子どもたちは色々な体験をしていますが、このあたりでは、様々な竹工房があり、様々な竹細工工作教室が開かれています。その初級者対象として「竹とんぼ」があります。この竹とんぼとは、プロペラと軸によって構成される日本の伝統的な飛翔玩具ですが、その名前は当然、素材として竹が用いて、トンボのように飛ぶので、「竹蜻蛉」と書くことが多いようですが、実は、竹飛ぶ棒(竹トブボウ)から竹トンボ、また、竹品棒から竹トンボの名前となったともいわれています。
もうひとつ、竹細工でトンボといえば、以前、園の近所の方からいただいた「ゆらりトンボ」というものがあります。これは、「やじろべえ」の原理で、細い竹の絵での先端に、風の吹くまま気の向くまま、ゆらゆらゆらりとバランスを取って同じく竹で作ったトンボが乗っています。トンボといえば、校庭などでクラブ活動の最後にその土をならすために使う「T字型の整地用具」がありますが、これは、トンボの全身に似ていることからこの名が付けられています。

なんで、こんなに「とんぼ」が話題になるかというと、移動の途中で時間が少しあったので散策した鴨川で、懐かしいトンボを見たからです。そのトンボは、真っ黒な羽根に、コバルトブルーの胴体をしています。「ハグロトンボ」です。
河原や水辺に近い涼しい木陰を好むこの夏のトンボは、ここ数年は絶滅も心配されていたようです。私も、昔はよく見かけましたが、最近は余り見なくなりました。しかし、ここ数年は、各地で目撃されているようです。今日見かけたハグロトンボは、胴体がコバルトブルーをしていましたがこのように、体色が全体的に黒く、緑色の金属光沢がある胴体を持つのは、実は雄だけのようです。雌は黒褐色です。このトンボは、姿が他のトンボと違うだけでなく、その飛び方も他のトンボのように素早く飛翔したりホバリングしたりはしないで、蝶のようにひらひらと舞うように羽ばたきます。そして、止まるときは、羽をたたみます。これは、生きた化石といわれている「ムカシトンボ」のように、原始的な形が今でも残っていると聞いたことがありますが、ちょっと、定かではありません。
また、このハグロトンボのことを私は「おはぐろトンボ」と言っていました。ですから、「羽黒トンボ」という漢字を見たときに、「あれっ?」と思ってしまいました。この名前の由来は、翅が黒いことに由来するのではなく、婦人が歯を黒く染めた「お歯黒」に似た翅の色から「オハグロトンボ」と呼ぼれていたことに由来しています。また、歯を黒くすることを「鉄奬つけ」といったので「カネツケトンボ」と呼ぶこともあり、ゴクラクトンボ、ホトケトンボ、カミサマトンボなどの呼び方もあります。
梅雨が明けたあとの、夏本番になったという実感を持ったひと時でした。
投稿者 fujimori : 21:02 | コメント (5)
2008年06月21日 [講演先にて]
食事と授業1
食事は、朝ごはんだけでなく、とても重要なものです。先週の日曜日に長野県小諸に講演に行ったときに控え室で同席した人がいました。その人は、別の講座で講演をした、上田市の前教育長の大塚貢さんです。上田市は、以前、非行、犯罪が絶えなかったのですが、現在、非行、犯罪ゼロ、いじめもゼロ、そして全国平均より抜きん出て学力が高いそうです。それは、「授業改善、米飯給食、花作り」によって子どもたちの心身を甦らせたからだといいます。ジャーナリストの櫻井よしこさんとある雑誌で対談をしています。
まず、授業改善です。大塚さんが平成4年に中学の校長になったとき、学校はとても荒れていました。強盗、窃盗など非行というより犯罪も多く、学校の廊下をバイクで走ったり、窓ガラスは次から次へ割られ、全校生徒1200名の大規模校でしたが、不登校も常に60~70名はいたそうです。そこで、教室を見て回ったところ、とにかく授業がつまらない。何を教えているかも大塚さんでもちっともわからない。だから机に伏している生徒が多い。大塚さんは、民間会社にいたこともあり、そこではこんなつまらない授業をしていたら首になるだろうというレベルだったそうです。そこで徹底的に研究授業をやり、先生同士がお互いに切磋琢磨しあう。また、それぞれが教材研究や指導方法を研究していく。すると、次第に授業のレベルが上がってきたといいます。授業が面白いかどうかは、子どもの姿勢でわかるといいます。次第に、机に伏している子がほとんどいなくなり、姿勢を正して授業を聴くようになって行きました。「学級崩壊とか子どもが本気で勉強しないといいますが、99%は授業がつまらないのを子どものせいにしているだけだと思います。」と言い切ります。
しかし、それだけでは完全に非行やいじめはなくなりません。そんな時、朝礼でバタバタ倒れたり、遅刻したり、登校しても保健室にいる子たちを見て、まだ、食育など言われなかったころでしたが、もしかしたら食と関係しているのではないかと思ったそうです。そこで、朝早くからコンビニエンスストアで張り込みをして、様子を見たのです。また、食の調査もしてみました。すると、お金だけを持たせてコンビニで好きなものを買わせる母親、朝食を食べてこない子が38%、食べてきた子でも合成保存料や着色料、合成甘味料だらけの食材、夜はハンバーグや焼肉ばかりで、カルシウムやミネラル、亜鉛、マグネシウムといった血液を柔らかくしたり、血をきれいにする栄養素は全く摂取できていないことを知ります。だから子どもたちの血液がドロドロで、自己コントロールが出来ない体になって、普段は無気力でありながら、突如自分の感情が抑えきれなくなってしまう。「これでは、いくら、非行を起こすな、いじめるな、勉強を本気でやれと言ったところで、体がついていかないのです」と大塚さんは言います。
では、母親たちに何とかバランスの良い食事を作ってくださいと呼びかけたところで、今のお母さん方には全く聞き入れてもらえなかったそうです。それが、大塚さんの他の人と違うところです。「全く、今の親は!」とか、「親がそれだから仕方がない」ではなく、「では、学校給食の改善をしよう!」ということで、取り組みを始めたのです。なるべくお腹にたまる米飯に切り替え、野菜や魚を中心にしたバランスの良い献立の給食にしようとします。しかし、それは、はじめは「子どもの好きなものを食べさせろ!」という親からだけでなく、教師からも配膳が大変になるなどと反対を受けます。(つづく)
投稿者 fujimori : 22:33 | コメント (3)
2008年05月29日 [講演先にて]
水争い
先日、東京では大雨が降りました。水が地面に吸い込めず園内にも流れ込んでしまいました。これから梅雨の季節になります。今年の梅雨は、どのくらい雨が降るのでしょうか。大雨になるか、空梅雨になるかで今年の夏の水不足かどうかが関係してきます。水不足になると、生活がかかっている人々がいるので、こんな贅沢なことは言えませんが、園では子どもたちのプールでの水遊びが制限されることもあるので、暑い夏だと気の毒になります。
昨年11月に、アメリカ南東部で、長引く干ばつの影響で深刻な水不足に見舞われたというニュースが流れました。住民たちはペットボトルの水を買いだめしたり、朝のシャワーに使った水を植物にやったりして節約していましたが、フロリダ、アラバマ、ジョージア州3州では、水争いがおき、死者まで出るような事態にまでなりました。
このような水争いは、どこの国でも昔からよくありました。今日、訪れていた岩手県でもあったようです。岩手県中南部に位置する胆江地方は、北上川が中央を流れ、西の奥羽山脈、東の北上高地にはさまれ、胆沢川流域の胆沢扇状地と北上川流域の沖積平野を中心に拓けました。北上川西岸の胆沢地方、東岸の江刺地方の頭文字を音読みして「胆江地方」と呼ばれ、今は合併して奥州市となっていますが、昔から肥沃な大地に支えられ、稲作が盛んでした。
しかし、胆沢平野はよく水不足に悩まされていたので、1570年、平野の北側に北郷茂井羅という人が私財をなげうって「茂井羅堰」を開削しました。一方、1631年に後藤寿庵とその弟子・千田左馬、遠藤大学が「寿庵堰」を完成させました。ともに水不足の住民のために胆沢川から水を引くという先人たちの努力によって生まれた利水事業でしたが、胆沢川の水の量が足りなかったことと、水を流すためにつくられたこの大きな二つの堰の水の取り入れ口が、それぞれ上、下流にあり、その場所が2キロメートルに満たない距離で隣りあっているため、受益農民はこの400年間、血を流すほどの水争いを繰り返してきました。
その争いを解決する方法として採用されたのが、「円筒分水工」です。
この円筒分水工は、施設を人の手で動かすことなく、上流から取り入れた用水を、円の角度の大きさによって、寿安堰・茂井羅堰の水の道(水路)に配分する理想的な分水方法です。この分水工は、国家事業を導入して、昭和34年に完成し、夢にまで見た取入口の一本化が実現したのです。その後、これが使われるようになってからは、用水の配分についての争いは全くなくなりました。
もちろん、人々は大変喜んで、この地を聖地と定めて、当時の総代、役員、職印らが樹木や岩石を献じ労力を奉仕して、後藤寿庵、北郷茂井羅、千田左馬、遠藤大学の碑を並べて合祀したのです。そして、その場所を徳水園という名の公園として、先人の遺徳を永遠にしのぶために、水に関する他の仕掛けも展示されています。
水争いは、もちろん生活がかかっており、命にまで関わってきます。しかし、農民たちは好きこのんで争いをしたのではありません。ただ争うだけでなく、双方がともに益を得るような方法を知恵によって見出した良い例です。
投稿者 fujimori : 22:25 | コメント (4)
2008年05月26日 [講演先にて]
広告2
土曜日に、成田で講演がありました。迎えに来た車を駐車した場所が成田山表参道の一番奥でしたので、そこに行くまでずっと参道を歩いて行きました。その参道に軒を連ねる飲食店のほとんどが「うなぎ」を出しています。そして、うなぎを店頭でさばいている老舗らしい店も何軒かあります。ですから、午後からの講演の前に昼食にうなぎを食べることにしました。こんなに成田にうなぎ屋があるのは、この地が利根川と印旗沼に挟まれていて、最近は取れないようですが、昭和初期の漁業暦には、一年を通して「うなぎ」が獲れたと記してあるように、昔はずいぶんとうなぎが取れたようです。
また、平成20年は、成田山開基1070年の勝縁の年に当たるということで、そののぼりがあちこちに立っていましたが、この成田山新勝寺への参詣客が増えていった元禄年間と、ちょうどうなぎを食べる習慣が広まったのと相まって、成田といえばうなぎということになっていったようです。
うなぎといえば、「土用の丑の日」を思い浮かべますが、その日は、土用の間で日の十二支が丑である日のことをさし、今年は7月24日と8月5日です。この日のことに関して、天野祐吉氏は、広告批評についてこんな例を出しています。
「放っておくと暴力になりかねないような広告が、消費者に役立つ面白いものであってほしい。そういうことを見張るジャーナリズムとして広告批評を創刊したわけです。当時はやはり『広告の批評なんて成り立たないだろう』『金をとってスポンサーがやっている仕事を批評するなんて意味がないんじゃないか』と言われました。でも、表現という部分をとれば、批評は成り立つわけです。例えば、うなぎをもっと売るために、平賀源内さんが『土用丑の日にうなぎを食べると夏バテしない』というアイデアを考えた。それはすごいクリエイティブでしょう。うなぎ屋さんの存在とは関係なく、それ自体がすばらしい表現なのかつまらないのかというのは批評の対象になり得るはず。そういうふうに僕は思っていたし、曲がりなりにも広告の批評が成立するんだなということを分かってもらえたことで、この雑誌の役割がかなり果たせたと思っているんです」
ここに出されている広告の例は、200年以上経った今でも、土用丑の日にうなぎを食べる習慣が継承されているということで、日本の広告史上に残る成功例としてよく取り上げられます。
江戸時代、商売がうまく行かない鰻屋が平賀源内の所に相談に行ったところ、源内は、「丑の日に『う』の字が附く物を食べると夏負けしない」という民間伝承からヒントを得て、「本日丑の日」と書いて店先に貼ることを勧めました。すると、物知りとして有名な源内の言うことなら本当だろうということで、その鰻屋は大変繁盛したので、その後、他の鰻屋もそれを真似るようになり、土用の丑の日に鰻を食べる風習が定着したというものです。このように、平賀源内は「名コピーライター」としても才能を発揮したようです。他にも、歯磨きや餅菓子の宣伝文を書いた「引札」(チラシ広告の原形)が残っているそうです。
バレンタインの日にチョコを送る習慣にしても、丑の日にうなぎを食べる習慣も、広告のおかげというか、広告による大衆操作がうまくいった例かもしれません。それらの広告をきちんと批評できるようになりたいものです。
投稿者 fujimori : 23:18 | コメント (4)
2008年04月29日 [講演先にて]
出羽三山
羽黒山参道には、「奥の細道」には書かれていないいくつかのシンボル的な場所があります。
宿坊が立ち並ぶ道から随神門をくぐると、2446段の石段からなる参道に入ります。
その道の両脇には、樹齢300年から600年の老杉が鬱蒼と繁っています。その杉並木を歩いていくと突き当たるのが、シンボル的存在の「爺杉」です。
推定樹齢は1000年を超え圧倒的迫力があります。周囲11m50cm、樹高は48mを越える羽黒山内一の巨木で、国の天然記念物に指定されています。以前は同様の老杉、婆杉と並んでいたそうですが、今は、台風で失われてしまって、現在は爺杉のみとなっています。
その手前を右に折れて少し行くと、今度は「神橋」を渡ったところに、わずかな流れですが「原賀の滝」が見えてきます。修験場には、身を打たせる滝があることが多いのですが、この滝はどうも打たせるほどの水の流れではありませんが、かつては激しかったのでしょうか。一の坂の上り口である杉並木の中に、とても美しい姿を現したものが、東北地方では最古の塔といわれ、創建は平安中期、平将門の建立と伝えられていますが、定かではないようです。
純和様の伝統的な手法を厳格に守った素木造りの外観が特徴となっていて、古式の技法を伝える中世五重塔の代表的な例です。出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)では、奈良時代後期より月山神を奉じ、平安から鎌倉にかけて盛んとなった神を仏の仮の姿とする本地垂迹思想により神仏習合の修験道(教団)が成立しました。明治の神仏分離令(廃仏毀釈)により多くの堂舎が破壊されましたが、この五重塔は破壊を免れています。現在は出羽三山神社が奉戴し仏塔ではあるのですが、祭神を祀っています。
出羽三山のうち羽黒山のほか月山には、8日に芭蕉は登っています。「木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに道びかれて、雲霧山気の中に氷雪を踏てのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入かとあやしまれ、息絶身こゞえて頂上に至れば、日没て月顕る。」
この登るときに首に巻いていた「木綿注連」を、今週の日曜日にたまたま深川にある芭蕉記念館に展示されているのを見ることが出来ました。
月山は、今でも夏にスキーが出来る山として有名ですが、7月に芭蕉が登った時にも「氷雪を踏んで八里ばかり登れば」とあるように雪があったようです。私もこのあいだ羽黒山に登ったときにも、周りにはずいぶんと雪が残っていました。
そして、次の日、芭蕉は三山のもうひとつの湯殿山の方へ下っています。
「谷の傍に鍛治小屋と云有。此国の鍛治、霊水を撰て爰に潔斎して劔を打、終月山と銘を切て世に賞せらる。彼龍泉に剣を淬とかや。干将・莫耶のむかしをしたふ。道に堪能の執あさからぬ事しられたり。」(谷の傍らに鍛冶小屋というのがある。この国の刀鍛冶である月山という人が、霊験あらたかな水をここに選び、身を清めて剣を打ち、ついに「月山」と銘を刻んで世にもてはやされた。これは、中国のかの龍泉の水で鍛錬したというのに通じるものだろうか。その昔、名剣を作り上げた干将と妻の莫耶の故事を慕うものである。熟達した技を身につけるには、それに深くこだわることが大切と知られたことである。)
良い剣や刀は、良い水が必要なようです。そして、そのこだわりがプロなのでしょう。
投稿者 fujimori : 23:31 | コメント (3)
2008年04月28日 [講演先にて]
羽黒山
庄内地方の背景をかたどる出羽三山とは、「月山」「羽黒山」「湯殿山」の総称です。これらの山は、修験道を中心とした山岳信仰の場として、現在も多くの修験者、参拝者を集めています。そして、それぞれの山頂に神社があり、これらを総称して出羽三山神社といいます。しかし、それぞれに詣でることは大変なので、羽黒山に三社の神を併せて祀る三神合祭殿があります。
松尾芭蕉は、1675年に江戸に下り、神田上水の工事に携わった後、1678年に宗匠となり、職業的な俳諧師となります。そして、1680年に深川に草庵を結びます。そこに芭蕉の木を一株植えたのが大いに茂ったので「芭蕉庵」と名付けられました。

しかし、天和の大火(いわゆる八百屋お七の火事)で庵を焼失してしまいます。その芭蕉が、弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)に江戸を立ち東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文「奥の細道」はとても有名です。
芭蕉が、羽黒を訪れたのは1689年です。その時のことを「奥の細道」にはこう書かれてあります。

「六月三日、羽黒山に登る。図司左吉と云者を尋て、別当代会覚阿闍利に謁す。南谷の別院に舎して憐愍の情こまやかにあるじせらる。」芭蕉一行は、6月3日、出羽三山の門前集落・手向に到着後、図司左吉の案内で、日の落ちた羽黒山参道を登り南谷にたどり着いています。その日は、南谷の別院に宿泊したようですが、主から、思いやりの心で、情が細やかにもてなされたようです。
「四日、本坊にをゐて誹諧興行。」4日には、本坊で俳諧の会を催し、「有難や雪をかほらす南谷」という句を読んでいます。この句は、「旅に疲れた身にとってとても有難いのは、この霊山の谷あいから、雪の香の南風が吹き寄せてくることです。」
5日には、羽黒権現に参詣していますが、このときに羽黒山のいわれを書き記しています。「延喜式に「羽州里山の神社」と有。書写、「黒」の字を「里山」となせるにや。「羽州黒山」を中略して「羽黒山」と云にや。「出羽」といへるは、「鳥の毛羽を此国の貢に献る」と風土記に侍とやらん。」そして、この羽黒山について「当寺武江東叡に属して天台止観の月明らかに、円頓融通の法の灯かゝげそひて、僧坊棟をならべ、修験行法を励し、霊山霊地の験効人貴且恐る。繁栄長にして、めで度御山と謂つべし。」(この寺は、武蔵国江戸の東叡山に属して、天台宗の止観の教えが月の光のように行き渡り、円頓融通の教えも合わせともって、僧坊が棟を連ね、修験者は修行に励んでおり、この霊山霊地のご利益を貴びながらも、そのあらたかさに人々は恐れを抱いている。そして、この繁栄は長く続くと思われ、実に立派なお山と言うことができるだろう)と書いています。
芭蕉は、奥の細道すがら、山形県ではいくつかの有名な句を残しています。
「閑さや岩にしみ入蝉の声」は、山形県立石寺で読んだ句ですし、「五月雨をあつめて早し最上川」は、山形県大石田町での句です。羽黒山の次に登る月山のことは、「雲の峰いくつ崩れて月の山」と詠んでいます。
今回で私が羽黒山を訪れたのは、季節としては、芭蕉よりも3ヶ月ほど早かったのですが、なんだか、芭蕉の世界に浸ることが出来ました。
投稿者 fujimori : 20:50 | コメント (4)
2008年04月25日 [講演先にて]
帆船
今日、長崎から帰る前に、大型帆船が集う「2008長崎帆船まつり」を見に行きました。24日から28日まで長崎市の長崎港で開かれています。この祭りは、2000年から毎年開催されているそうですが、今年は、独立行政法人航海訓練所の練習船で、日本最大の帆船「日本丸」(全長約110メートル、2570トン)と「海王丸」(同約110メートル、2876トン)や、韓国国際海洋都市研究院所属の「コリアナ」(135トン)など計6隻が参加しています。
昨日のテレビでは、長崎市の観光船「飛帆(フェイファン)」を先頭に、女神大橋をくぐって6隻が一列に入港する「入港パレード」が何度も放送されていました。
帆船といえば、私がすぐに思い出すのは、フック船長が乗っていて、その船のマストの上でピーターパンと戦う姿です。
それを思い出したのは、先日テレビで実写版のピーターパンを放送していたからかもしれません。このフック船長の乗っている帆船は、ディズニーのアニメでは、最後のシーンで空を飛んでいく姿が描かれていましたが、ディズニーランドでは、それをモチーフにしたアトラクションに人気があります。2人乗りの空飛ぶ海賊船に乗って、子ども部屋の窓から飛び出し、ロンドンの夜の空を飛び、ネバーランドへ行くのです。
帆船とは「帆」に風を受けて推進力とする船のことで、当然船の歴史の中では古くから乗られています。すでに紀元前3000~4000年ごろには、エジプトのナイル川では、すでに帆をつけた川舟が登場していました。帆に風を受けて走るので、ナイル川周辺では、風はほぼ一年中、川上に向かって吹いているために、川を上るときには帆を張り、川下へ行くときは帆をおろして川の流れにまかせて走ったのでしょう。
日本のお隣の中国でも1000年以上前に平たい船底を持った「ジャンク」と呼ばれる船が開発されました。このジャンク船は、西洋より何世紀も前に舵や当て木のついた帆を持っていました。この竹で補強された帆は平らな形をたもつことができ、強風のときは帆の一部を簡単に折りたたむこともできるものでした。
日本でも3~5世紀には、すでに簡単な帆が使用されていたようですが、本格的に帆が用いられるようになったのは7~9世紀(奈良時代~平安時代)にかけて中国へ渡った「遣唐使船」からのようです。この船は、2本のマストを持つ中国のジャンク船型の帆船でした。当初の遣唐使船は、全長20~25m、おおよそ100tあまりの船でしたので、今回姿を見せている日本丸に比べると、5分の一くらいの長さで、重さはなんと25分の一にしかなりませんので、さぞかし頼りなかったでしょうね。しかも、潮流や風向きを利用して進む帆船でありながら、当時は航海に際して季節風を知らなかったり、航海術も未熟だったために、多くの遭難船を出しました。ですから、はじめのころは、1隻か2隻の帆船で渡海していましたが、どれか1隻でも中国に着くようにということで、8世紀にはいると4隻で行っています。この時代の遣唐使のうち全ての船が往復できたのは、なんとたった一回だけという遭難率だったそうです。また、奈良朝、平安朝の時代に遣唐使船は18回出港していますが、無事任務を果たして帰ってきたのはたったの8回だと言われています。
今回停泊している帆船は、通常は外洋での走帆訓練の時しか帆を広げた姿は見られませんが、日本丸や海王丸ほどの大きさになると、帆の数は36枚にもなり、帆を広げた帆船は迫力満点で、とても美しい姿です。しかし、その美しさの影に、悲しい歴史の経過を含んでいます。
投稿者 fujimori : 23:30 | コメント (4)
2008年04月20日 [講演先にて]
給食発祥の地
最近のニュースで、「小麦や牛乳などの価格上昇は、家計だけでなく、学校給食も直撃している」というのが流れてきます。そのために、各自治体ではコストを抑えようと様々な工夫をこらしているようです。給食費を値上げるところ、デザートを減らしたり、地産地消の考え方を推進したり、素材の内容を見直すところなど様々です。
週末訪れた庄内藩の山形県鶴岡市の大督寺は「学校給食発祥の地」です。
明治22年(1889年)学費が払えないため学校に通えない子ども達のために鶴岡市の各宗寺院住職ら相図り、大督寺境内に「忠愛学校」という学校を立て貧しい子ども達に学問を教えていました。ある日から数日続けて数人分のお弁当が盗まれる事件が発生しました。誰が盗んだか調べてみると犯人は子どもでした。しかも、その子は、昼はおろか朝晩もまともな食事をとることの出来ない家庭の子どもであることがわかりました。そのことを知って心を痛め、「なんとかしてあげたい」と思って知恵を出し合いました。そして、経をとなえ一軒一軒家を托鉢してまわり、お米や浄財を資金に弁当を持ってくることが出ない子どもたちのために昼食を作りました。最初のメニューは、おにぎり・煮びたし・塩引きだったそうです。
鶴岡市では、「学校給食発祥の地」を記念して、小中学校では毎年12月1日にケーキなどがつく特別給食と、12月中旬に、明治時代の献立を再現した「おにぎり給食」が行われているそうです。この給食メニューは具の入っていない塩おにぎり1個と塩引きのマスと大豆とコンニャク煮となめこのみそ汁と牛乳だそうです。
その後、昭和19年、6大都市の小学生児童約200万人に対し、米・みそ等を特別配給して学校給食を実施するに至ります。そして、昭和21年には、戦時中中断されていた学校給食が東京、神奈川、千葉で試験的に再開されます。その翌年、主要都市の約300万人の児童にララ物資を利用した学校給食が開始されるのです。
ところが、団塊の世代にとっては給食といえばあまりよいイメージを持たなくなる原因の「脱脂粉乳」が、昭和24年にユニセフ(国連児童基金)から贈られ、ユニセフ給食がおこなわれはじめるのです。そして、その翌年の昭和25年には、アメリカ合衆国が大量に残っていた小麦粉を日本に安く売り、それをパンにして提供し、都市で完全給食がおこなわれるとともに、給食はパン食が中心となり、国民全体の食生活にも影響を与えるようになっていくのです。
昭和29年、学校給食は教育の一環として学校給食法施行、昭和31年、「学校給食法」が一部改正され、中学校にも適用されるようになります。そして、昭和33年に悪評だった脱脂粉乳が牛乳へ、昭和51年には、今度は日本人の食事の洋食化に伴い、米の生産量の増大と反比例して消費量が減ってきたので、余った古米、古古米を処理するために給食ではパンは週1回程度になり、米飯給食が主食となっていくのです。
最初は、子どもたちの救済のために始まった給食も、時代によって、政策や国際間取引のかけひきに使われてきたのです。まずい脱脂粉乳を我慢して飲み、パン食のほうが体によいと教えられ、残すと居残りさせられたり、怒られた背景にこんな政治的なことがあったと思うと、なんだか切なくなりますね。
投稿者 fujimori : 21:15 | コメント (5)
2008年04月19日 [講演先にて]
庄内藩の教育
「たそがれ清兵衛」などの舞台である海坂藩は、原作者藤沢周平の故郷である庄内藩がモデルだといわれています。今、庄内に来ています。この庄内藩は、戊辰戦争で薩長軍と戦い、連戦連勝しながらも、会津藩の降伏などで勝ったまま降伏した話とか、その後の処置について、庄内講和を担当した西郷の計らいで、同様に降伏した会津藩や仙台藩と比べても、非常に寛大な処分で済んだことも知られています。そのときの西郷の人柄に庄内藩士らは感激して、明治になって「南洲翁遺訓」を編纂・発刊したほどです。
そんな庄内藩における教育も注目すべきことがありました。一昨年、当時の庄内藩であった山形県鶴岡市で、「第6回全国藩校サミット」が行われました。藩校サミットは、江戸時代の藩校が藩政改革や明治維新に大きく寄与したことを再認識し、今日の教育改革の糧にしようとするものです。鹿児島の郷中教育のように今の教育に参考になることが確かにたくさんあります。庄内藩の藩校「致道館」にも今に通じる考え方があります。

「致道館」は、庄内藩の藩校として1805年に設立されていますが、当時の庄内藩は、飢饉のため農村は疲弊し、財政難のうえ武士の風紀も乱れていました。そこで、九代目藩主酒井忠徳が藩風の刷新と人材育成のために開設したのです。致道の名は、「君子は学んで以って其の道を致す」という論語の言葉から取ったものです。
藩校では、孔子を祭る聖廟を建て、学問の神として祭祀を行ってきました。ですから、名前には、このように論語から取った名前が多いようです。致道館のほか、里仁館(酒田市)、学習館(栃木県壬生町)、知新館(恵那市)、弘道館(彦根市)、伝習館(柳川市)、時習館(熊本市)などは、みんな論語から取っています。
致道館の教育の特色は、荻生徂徠の学を取り入れたことです。当時の学界は江戸の昌平坂学問所の影響で朱子学一辺倒だったのを、異学といわれる徂徠学を中心におきました。「学問の目的は世を治め民生を豊にするもの」と説く徂徠学は古文辞学ともいわれ、古典の注釈でなく原典そのものに帰り、孔子の教えを直接研究しようとする学問でした。詰め込み教育ではなく個人の天性と長所を伸ばす教育方針を主眼として自学自習して自得する、という自由で実践的な学風は、「沈潜の風」(副島種臣)といわれる藩風をつくりだしました。
庄内藩の教育について、先日亡くなられた河合隼雄氏はこう書いています。
「その趣意書(被仰出書)を見ると、人間には「天性、得手不得手」がある。そして「天性の大なる者は大成し、小なるものは小成」するので、個々人の天性を見抜いて指導することが大切だと書いてある。これは「個性の尊重」ということです。入学したての少年たちの指導者に対する注意として、「学校の儀は、少年輩の遊び所」だから、「何事も寛大に取り扱い」、子どもたちが退屈しないように「面白く存じ業を教え遊ばせる」ように努力するべきである、というのである。これは個性を伸ばそうとする初等教育の方法として最高のことではないだろうか。上級者はどうなるのだろう。学風は荻生徂徠の教えによっているのだが、その教えに従って、指導者はあくまでも学生の自発性を尊び、自説を押し付けることのないように注意した。」
学ぶべきことは、新しい理論からだけでなく、古い実践からも学ぶべきことは多いですね。
投稿者 fujimori : 22:23 | コメント (4)
2008年02月23日 [講演先にて]
宇和島
各地に「にほんの里100選」にノミネートされている里があります。その中で、愛媛県には一箇所候補に上がっています。その地域は、今年度文化庁の「重要文化財景観」に全国で3番目に選定を受けた「宇和島市遊子水荷浦(ゆすみずがうら)の段畑」です。
江戸時代の宇和海は、鰯の好漁場でした。鰯漁にたずさわる人々が宇和海沿岸部に居住し、自給自足のために段畑を開墾しました。ちょうど里のブログを書いた数日後に、この段畑を訪れることが出来ました。
この地域は、歴史的にも意味があるのですが、これまで段畑を守ってきたのは、地元のおじいさん、おばあさんたちだけでした。そこで、石垣の老朽化や後継者不足もあって、このままでは近い将来、段畑が消えてしまうことになるのではないかということで、地元の方たちが立ち上がり、「段畑を守ろう会」が2001年設立されました。
このあたりでは、江戸末期ころ、斜面を削ってジャガイモを植えていました。しかし、斜面が急なこともあって、大雨が降ったら土が流れてしまいます。そこで、石垣を築いたそうです。当時一面の段畑だったそうです。しかし、しだいに、魚の養殖が盛んになってきました。今でも、真珠や鯛やはまちの養殖がいたるところでされています。すると、畑の仕事をしていた連中は、みんな収入の多い養殖をやるようになり、畑をやる人手が足らなくなり、畑は荒れ放題になります。ですから、今残っている段畑はこの遊子でも日当たりが良くておいしい馬鈴薯のとれる水荷浦だけになってしまっているのです。
段畑での農作業は、経済効率からいうとまったく成り立たない重労働なのだそうです。しかし、地元の方々がこの景観を残そうと努力をして守っています。
この宇和島には築城の名手といわれる藤堂高虎が築城したといわれる「宇和島城」があります。市街の中央、海抜約80メートルの城山に三重三層の天守閣を頂く宇和島城は、その均整のとれた美しさから別名「鶴島城」と呼ばれ、築城以来約400年の歳月を経ており、現存する12ヶ所の天守閣のうちでも江戸時代様式を留める貴重なものとして国の重要文化財に指定されています。
苔むした急な石段を登っていくと、開花し始めたウスベニカンザクラの後ろに、不等辺5角形をしている城の城郭が見えてきます。
この早咲きの寒ザクラはとても香りがあり、蜜光を求めて小鳥達が集まってきていました。空高く、青空の下、ピンヨロー、ピンヨローとたのしげに、輪をかいて飛んでいるとんびが見られます。この城を訪れたとき、ちょうど12時の時報としてこのトンビの歌が流れてきました。空高く飛んでいるトンビや、桜の蜜を求めてくる鳥たちを写真におさめようとしましたが、うまくいきませんでした。
随所に築城の名手と言われた高虎ならではの工夫が見られる宇和島城ですが、高虎が今治に転封となってのち、奥州仙台藩主、伊達政宗の長子秀宗が宇和郡10万石を賜り、元和元年(1615)に入城します。そして、2代宗利の時、天守以下城郭の大修理を行い、寛文11年(1671)に完成し、現在までその姿が残されています。
各地には、人々の生活を支えてきた自然との共生、また、自然と調和するように作られてきた文化遺産、大切にしたいものです。
投稿者 fujimori : 17:24 | コメント (5)
2008年01月10日 [講演先にて]
大谷石
何年か前にいわゆる御三家といわれる難関校の中学入試問題を見たことがあります、そのときの入試問題で印象に残っているものに、「天ぷらそばに使われている原材料をすべて書き、その主な輸入元を書け」というのと、袋の中に石がいくつか入っていて、「この石でわかることをすべて書け」という問題でした。
いま、パワーストーンといわれるものも含めて、石ブームで、色々な石のコレクションがはやっています。私の園でも、「形や色や手触りを感じてみよう」ということで12種類くらいの石が箱に並べてあります。石には、世界中には色々な特性を持った石が多く、それらの石を使って建物を作ったり、石垣にしたり、石畳にしたり、石像を作ったり、人は昔から利用してきました。
今日、講演に行った宇都宮には、1932年に建設されたカトリック松が峰教会という教会があります。この教会は、1982年、日本建築学会「日本近代建築総覧」に選定されたのをはじめとして、1998年には国の「登録有形文化財」に指定されたり、いろいろなものに選定されている綺麗な建物です。そのひとつの特徴が、軽石凝灰岩の一種である大谷石を使っており、2006年には、「大谷石百選」にも選ばれています。
この大谷石は、栃木県宇都宮市北西部の大谷町付近一帯で採掘される石材で、耐火性にすぐれ、石の重量が軽く、石質が柔らかいため、加工が容易であることから、古くから外壁や土蔵(石倉)、防火壁、貼石、石塀、門柱、敷石、石垣、土止め石(擁壁)等、建築素材として使用されてきました。宇都宮駅周辺では、この教会だけではなく、古くから、石蔵をはじめとした建築物の外壁、プラットホーム、石垣や階段、門柱に大谷石が盛んに利用されています。宇都宮駅東口の餃子像も大谷石造でした。1922年、アメリカの建築家、フランク・ロイド・ライトの設計による東京の旧帝国ホテルに大谷石は利用されました。その玄関部は現在、博物館明治村に保存されています。また、室内にも、その耐火性・蓄熱性の高さからパン釜やピザ釜等、石釜の構造材としても用いられています。
この大谷石は、日本列島の大半がまだ海中にあった新生代第三紀の前半、火山が噴火して噴出した火山灰や砂礫が海水中に沈殿して、それが凝固してできたものとされています。その利用は、6、7世紀に切石積横穴式石室を持つ古墳に加工が容易な大谷石等が多く用いられていたり、741年には、現在の栃木、下野国分寺・下野国分尼寺の礎石、地覆石、羽目石に使用されていたり、810年には、大谷寺の本尊(大谷観音)が弘法大師によって大谷石の彫りを完成させたといわれているように歴史的にはかなり古いようです。
現在では、大谷石採掘も手堀りから機械堀りへとなり、昔と大きく変わってきていますが、地下30mには「大谷石地下採掘場跡」があり、その大きさは、野球場が1つ入ってしまう程の巨大な地下空間で、古代ローマ遺跡を思わせる壮観かつ、幻想的な雰囲気となっているようです。ですから、その空間は、コンサートや美術展なども開かれ、イベントスペースとしても注目を集めています。今回はそれを見ることは出来ませんでしたが、タクシーを途中で止めてもらって切り出した後の岸壁を見てきました。
大谷町ならではの大谷石関係の様々な遺跡などを使った町おこしを、もっと積極的にやればいいのにとタクシーの運転手さんと話をして会場に向かいました。
投稿者 fujimori : 23:10 | コメント (3)
2008年01月09日 [講演先にて]
寝台車
今日の新聞に、JR旅客6社の年末年始期間の新幹線、在来線の利用状況が発表されていました。その中に、寝台急行「銀河」の乗客は期間全体で同32%増の3700人、乗車率は前年の64%から82%に伸びたことが取り上げられていました。
私が中学生の頃、この寝台車「銀河」に乗って、父親と関西に行ったことがあります。この寝台急行「銀河」は、東京駅~大阪駅間を西日本旅客鉄道(JR西日本)が東海道本線経由で運行している寝台急行列車です。それが、この3月14日の運行を以って廃止されることが決まっています。
この「銀河」は、現在唯一の寝台専用急行列車で、昭和25年に日本で初めて急行列車に名前が付けられた伝統ある列車です。現在この列車がビジネス客に人気なのは、東海道新幹線に平行している区間の設定ながら、新幹線の最終列車が出たあとに出発し、翌朝には始発列車の到着前に目的地に到着できるように設定されているからです。また、特急でなくて急行なのは、東京-大阪間が556.4kmしかなく、特急らしい速度で運行してしまうと、始発/終着のいずれかが有効時間帯から外れてしまうためのようです。
寝台車そのものの考案は1865年ですが、大衆乗客向けの簡易な構造を採った寝台車は、1910年代に北欧に出現したのが最初のようです。日本の寝台車は山陽鉄道が、1900年に一等寝台車、1903年に二等寝台車を導入したのが最初です。この二等寝台車はB寝台車と改名されています。
私が久しぶりにこのB寝台に乗ったのは、少し前に書いた釧路から札幌までの強行軍のときに釧路から札幌まで乗った「特急まりも」です。季節は冬でしたので、雪原を夜行列車が光の長い帯をひいて走る幻想的な光景を想像していたのですが、実際の乗ってみると、乗っている本人は、窓から見える真っ黒な景色しか見えず、しかも、狭い通路を挟んですぐ前に二つの寝台、上にも寝台で、知らない人に囲まれての夜は、この年齢になるとなかなか寝付けるものではありませんでした。
また、「サンライズ出雲」と「サンライズ瀬戸」という夜行寝台に乗りました。この列車は、東海道本線、山陽本線を走り、岡山で分割・併結して、そのあと「サンライズ出雲」は、伯備線、山陰本線を経て出雲市まで、「サンライズ瀬戸」は、宇野線、本四備讃線、予讃線を経て高松まで運転しています。
車内は住宅メーカーと共同で設計し、木の温もりを生かしたインテリアに統一され、寝台は全て個室で、設備も多様です。高松に行ったときは、先方がシングルデラックスを取ってくれました。優雅にくつろぐための、この部屋だけのサービス設備として、幅の広いベッドや独立したデスクの他、衛星放送が3チャンネル楽しめる液晶TVや洗面台があります。また、列車には、シャワー室が設置されていて、1階利用できます。最初、お湯は6分間しか出ないので、その時間内に洗えるか心配しましたが、止めた時間はカウントされませんので、十分洗うことができました。シャワーの利用が終わったあと、ボタンを押すと、水が出て次の人の為にシャワー室の洗浄が始まります。脱衣室も温風が出て、乾燥されます。本当はそのボタンは出るときに押すのですが、服を着ながら押したので、下から突然熱風が出てきて、びっくりしました。講演先では、色々な体験をさせてもらえます。
投稿者 fujimori : 22:45 | コメント (4)
2007年12月12日 [講演先にて]
旬の魚
先週末、富山に行ったときにこの地方の旬の魚をいただきました。今の時期、なんと言ってもおいしいのは、「寒ブリ」です。冬に入ると、北陸では猛烈な風が吹き荒れ、雷が激しく鳴るようになります。これを富山湾では"鰤起し(ぶりおこし)" と呼んでいるそうです。それは、冬のブリ漁が始まる合図で、12月から翌年の3月まで、脂ののった最高のブリがあがります。ブリの名前の由来は貝原益軒によると「あぶら多き魚という意味で、"あ"の字を略してブリと呼ばれる」ようになったそうです。いただいた寒ブリは、その名の通り12月~2月までの厳寒期が旬です。氷見ブリ、能登ブリ、佐渡ブリなど、北陸が名産地です。そして、関西から北陸にかけては、正月に食べる歳取り魚として重要な縁起物として扱われます。また、ブリは関東地方ではワカシ(20cm前後)>イナダ(40cm前後)>ワラサ(60cm前後)>ブリ(80cm以上)。 関西ではツバス>ハマチ>メバル(メジロ)>ブリと名前が変わります。昔の武将は出世する度に名前を変える習慣があったので、成長につれて名前の変わるこのブリの様な魚は出世魚と言われて縁起物扱いされました。この寒ブリを刺身でいただいたのですが、ブリの旨みは脂肪分が筋肉組織の中に入り込んでいる所にあり、醤油をはじくほど脂の多い寒ブリを刺身で食べても、 脂っこさ感じません。また、刺身でいただいてとてもおいしかった魚は、「カワハギ」でした。この魚は、全国で、また、四季を通じてまずい時期はありませんが、やはり旬は、身も太る秋から冬にかけてであり、肝を乗せて食べる味はなんともおいしいものでした。この淡白な味は、幼児食や病人食としてもよく利用されます。カワハギという名前は、その名の示す通り、皮が非常に堅くザラザラしており、皮を剥でから料理するところからつけられたといわれています。その皮は戦中戦後、サンドペーパーの代用品になっていました。同じようにザラザラの皮を鮫が持っているためにザラザラな肌を鮫肌といいますが、「和漢三才図会」にはカワハギのことを「形状は大変醜く頭は方頭魚(くずな)に似、体はほぼ鮫に似ている」とあり「鮫の属であろうか」と推察しています。また、この時期おいしい魚に、「タチウオ」があります。5歳児が、なんと粘土でこの魚を作っていました。
この作品をタチウオの図と比べるとそっくりなのですが、作った本人はあまりそんなことを思っていないようです。

この魚も、1年中獲れますが、秋から初冬が旬です。その外観が太刀に似ていることから、太刀魚と名づけられたとする説や、立ち泳ぎすることより、立魚(タチウオ)と名付けられた説もあります。尾はヒモのような糸状になっており、歯は鋭くて大きい。上下のあごの先端には、奥に向かって返しのついた犬馬があり、ちょっとふれただけでもカミソリで切ったように血が止まらないそうです。あごの中には予備の歯があり、前列の歯が欠けるとすぐに生え変わることから、「タチウオは歯を大事にする」と漁師たちは褒めます。今の時期にとてもおいしいものに、直接魚ではありませんが、「白子」があります。これは、内湾に産卵にくるのを刺し網でとったタラの雄の精巣です。真鱈やスケソウダラの白子は細かいヒダが菊の花のようなので、菊子と呼ばれています。ネットリとした質感で濃い旨みがあり、ポン酢、モミジオロシとワケギで食べるとほのかな甘味もあって大変おいしかったです。その地域、その季節に旬のものがあり、それを食する楽しみも地方に行く楽しみです。
投稿者 fujimori : 22:07 | コメント (5)
2007年11月20日 [講演先にて]
開湯伝説
たぬきときつねが、温泉に浸かっているのを見て、温泉を見つけたという話があるのであれば、当然他の動物が見つけた話しは全国に多いでしょう。そのように各地の温泉場には、由来すなわち源泉の発見について、古くからいろいろな興味ある伝説が残されています。たとえば、よく行く道後温泉は、白鷺の伝説があります。ですから、白鷺は道後温泉のシンボルの一つともなっており、道後温泉本館の周囲の柵にも白鷺をモチーフとした意匠がみられます。また、鷺谷という地名が残っています。「足に傷を負い苦しんでいた一羽の白鷺が岩間から噴出する温泉を見つけ、毎日飛んできてその中に足を浸していたところ、傷は完全に癒えてしまい、元気に飛び去ったというものです。これを見た人たちは大変不思議に思い、入浴してみると、爽快で疲労を回復することもでき、また、病人もいつのまにか全快したことから、盛んに利用されるようになりました。」という伝説です。このように白鷺と温泉の縁は深く、各地の温泉の発見物語に白鷺が登場します。有名な下呂温泉もそうです。「一羽の傷ついた白鷺が村人の頭上で弧を描きながら河原に舞い降りた。村人が河原の大きな岩からのぞいてみると河原に湯気が立ちのぼっていて、白鷺は温泉の中に入ってじっとしていた。村人は、これは温泉だ、白鷺は傷を治しているのだと思った。白鷺は村人を誘うように山の中腹の松の木の下で休んでいた。村人が行ってみると松の木の根元に光り輝く薬師如来像が鎮座しておられた。この薬師如来像が温泉寺の本尊である。」また、少し前、熊本に行ったときに泊まった1300年という長い歴史を誇る玉名温泉にも、傷ついた白鷺がこの温泉で傷を癒したという伝説が残っています。また、名古屋駅・米原駅発着の北陸本線エル特急には「しらさぎ」という愛称がついていますが、これは、石川県の山中温泉は、傷を負った白鷺が傷を癒しているところから発見し、あらためて掘ってみたところ温泉が湧き出たと言われています。また、同じ鳥でも、コウノトリが傷を癒した伝説があるのは、多くの文人も訪れているという兵庫県の城崎温泉です。他にもコウノトリ伝説のある温泉地がいくつかあるようです。他の鳥で多いのは、やはり「鶴」かもしれません。有名なところでは、佐賀県の嬉野温泉です。神功皇后が西征からの帰途に白鶴を見付けます。しかし、傷を負っていて心配していたところ、河原に舞い降りて湯浴みをすれば、再び元気に去っていくのを見て「あなうれしの」と感想を述べたといわれています。この「あなうれし」ということから嬉野という地名ができたといわれています。鶴といえば、やはり何回か泊まったことのある福岡県の原鶴温泉があります。その名のとおり、川原で鶴が湯浴みしているところを発見したと伝えられています。温泉の由来を調べると歴史の古い温泉ほど、動物が湯につかり傷を治していたのを見つけて発見したというものの他、神話に基づくもの、弘法大師のような高僧や武将が発見したとか、夢の中で神様のお告げがあったなど、温泉の発見についてさまざまな言い伝えがあります。神話によるものとしては、大国主命と少彦名命によるものが多く、僧侶・武将・偉人による発見は行基、一遍、弘法大師による発見などの言い伝えが各地に残っています。特に行基が発見したものは北陸をはじめ、各地に多く、東北地方では、坂上田村麻呂による発見伝説が多く残されています。私は最近、講演のときは、温泉に泊まることが多いのですが、その温泉の開湯伝説を調べてみると、また違った楽しみが生まれるかもしれません。
投稿者 fujimori : 23:28 | コメント (4)
2007年11月19日 [講演先にて]
きつねとたぬき
先日、山口県でソバ屋に入りました。そして、注文するときに面白いことを聞きました。連れの人が「たぬき」を頼んだのですが、出てきたのは、そばの上に油揚げが乗っています。私は、「あれっ?たぬきを頼んだんじゃなかったっけ?」とその人に聞いてみたのです。私は、油揚げが乗っているのは「きつね」で、「たぬき」は天かすが乗っていると思ったからです。じつは、大阪では油揚げを乗せたうどんを「きつね」と言い、「たぬき」とは、油揚げを乗せたそばのことを言うのだそうです。皆さんは、どうでしょうか。大阪では、いわゆる油揚げ=「きつね」ではないため、「きつねうどん」「きつねそば」という表現はもともと無いようです。「きつね」と「たぬき」と呼ぶのは、この二つを対として考える発想と、「きつね」のうどんがそばに化けたのが「たぬき」だという説が有力です。京都ではきざんだ油揚げの上から葛あんをかけたものを「たぬきうどん」「たぬきそば」と呼ぶのだそうです。関東では天かす(天ぷらのかす、「揚げ玉」ともいう)のみを乗せたものを「たぬきうどん」「たぬきそば」と呼びますが、それは、天かすには「タネ」が無い、つまり「タネ抜き」が訛って「たぬき」となったとされています。揚げ玉と油揚げの両方を入れたものを「むじなうどん」「むじなそば」と呼びます。名前の由来は「たぬき」でも「きつね」でもない「おばけ」ということ、そして小泉八雲の『怪談』に登場する「ムジナ」(のっぺらぼうの妖怪が営む蕎麦屋の屋台が登場する)から来ていると考えられます。では、なぜ油揚げが乗っているのがきつねかというと、いなり寿司と同様、もちろん、きつねの好物が油揚げだとされていることに由来しますが、油揚げの色・形が、きつねがうずくまる姿に似ているからだともいう説もあります。1893年創業の大阪・船場のうどん屋、松葉家がいなり寿司から着想を得て考案したと伝えられています。また、名古屋などでは、油揚げの乗っているそば、うどんを、信太の葛の葉狐にちなんでしのだうどん、しのだそばとも呼びます。カップ麺のマルちゃん「緑のたぬき」は、小エビの入ったかき揚げのような天ぷらが入っています。こんなきつねとたぬきですが、やはり山口県に「湯田温泉」があります。この温泉に泊まってみました。その町を歩くと、いたるところに狐の石造があります。湯田温泉駅には大きなきつねの像が置いてあります。それは、こんな逸話があります。
「1504年~1521年のころ、湯田には、唯一「温泉山、竜泉寺」という真言宗の寺がありました。ある日、住職が、月明かりに照らし出された池の畔に目をこらすと、一匹の年老いた狐が片方の足を痛めていて、痛めた足を池の中に浸けてじっとしていました。その狐は、七日間現れ、その後は来なくなりましたが、住職は、老狐が痛めた足を浸けていた池に手を入れてみると、池の水は暖かく、深く掘り進むと、さらに豊かな温水が湧き出てきました。」それが湯田温泉です。そんな伝説があるからか、いたるところに足湯があり、どこででも、たぶん観光客ではない地域の人とか、学生たちが足を浸けていました。
温泉には、様々な動物が見つけたものが多くあります。きつねがあるので、たぬきもあります。たとえば、同じ島根県の温泉津温泉(1月に行く予定です)は、傷ついた狸が暖かい湯に浸かって療養している所を人が見つけたと伝えられていますし、神奈川県の湯河原温泉は、ケガをした狸がこの温泉を発見して傷を治し、その後、人に化けて旅人を温泉に導いたと伝えられています。各地には、同じものでも、その名前や言い伝えや習慣が違いますが、伝言ゲームのように伝わる途中で変わってきたものもあるでしょうね。
投稿者 fujimori : 23:24 | コメント (3)
2007年11月18日 [講演先にて]
サーカス
山口県は、8人の首相を輩出しているなど、維新以後、長州藩としての遺跡が多くある県です。しかし、現在にとって印象の深い、しかし、早世した詩人が生まれた県でもあります。その一人は、「金子みすヾ」で、1903年、山口県大津郡仙崎村(今の長門市)に生まれています。しかし、大正末期、すぐれた作品を発表し、西條八十に『若き童謡詩人の巨星』とまで称賛されながら、1930年、26歳の若さで世を去りました。もう一人、わが国の文学史上に大きな足跡を残した詩人「中原中也」も、1907年に山口市湯田温泉に生まれました。そして、詩に捧げた彼の人生は、30年という短い期間であり、生前は充分な評価を得ることのないまま、志半ばにして異郷の地で没しました。その中原中也記念館を訪れてみました。

この建物は、彼の生誕地に建っており、設計は全国公開設計競技により優秀賞に選ばれた宮崎浩氏の作品です。また、平成10年には公共建築百選にも選ばれています。この記念館では、外の風景や柔らかい光を取り入れたり、吹抜を設けることで限られた空間に拡がりと奥行を与えると共に、回遊性を持った空間構成により繰返し中也と出会うことができるように計画されています。中原の詩の中で特に印象深いのは、いろいろな人に歌われている「サーカス」です。「幾時代かがありまして 茶色い戦争がありました 幾時代かがありまして 冬は疾風吹きました 幾時代かがありまして 今夜此処でのひと盛り 今夜此処でのひと盛り サーカス小屋は高い梁 そこに一つのブランコだ 見えるともないブランコだ 頭倒(さか)さに手を垂れて 汚れた木綿の屋根のもと ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん それの近くの白い灯が 安値(やす)いリボンと息を吐き 観客様はみな鰯 咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)と ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん 屋外(やがい)は真ッ暗 暗(くら)の暗(くら) 夜は劫々(こうこう)と更けまする 落下傘奴(らっかがさめ)のノスタルジアと ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん。」この詩は、「山羊の歌」の「初期詩編」に収められています。私は、サーカスという響きを聞くと、なんだか胸が締め付けられるような、切ないような、もの悲しい気がします。それは、子どものころによく「そんな悪いことをすると、サーカスに売られてしまうよ」と言われてきた怖さと、なんとなくノスタルジックな憧れが交錯するからでしょう。また、幕間を受け持つ「ピエロ」「道化」は、中也の詩の中で、観客を笑わせ嘲ったりする日常生活とは断ち切られた悲しい存在です。そして、実生活で破綻していた中也にとって、観客(読者)とサーカス(詩的別世界)をむすぶ存在であり、中也そのものであったようです。この詩の最後の「ゆあ-ん ゆよ-ん ゆやゆよん」という擬音は、悲しげな旋律を奏で、いろいろな地を転々としながらサーカス興行をして歩く姿は、一瞬の火花のようなものであり、その興行が終わると、再び明日からは暗い生活に戻るという佗しさに満ちています。同じ感情が湧く歌として、私が好きなものに古賀政男作曲、西條八十作詞の「サーカスの唄」があります。サーカス小屋からは聴こえてくるクラリネットの音色、もの哀しい「天然の美」の歌と相まって、サーカス暮らしになぞらえて人生そのものを感じます。「1.旅のつばくろ 淋しかないか おれもさみしい サーカス暮らし とんぼがえりで 今年もくれて 知らぬ他国の 花を見た 2.昨日市場で ちょいと見た娘 色は色白 すんなり腰よ 鞭の振りよで 獅子さえなびくに 可愛いあの娘は うす情 3.あの娘住む町 恋しい町を 遠くはなれて テントで暮らしゃ 月も冴えます 心も冴える 馬の寝息で ねむられぬ 4.朝は朝霧 夕べは夜霧 泣いちゃいけない クラリオネット ながれながれる 浮藻の花は 明日も咲きましょ あの町で」私がよく口ずさむ歌のひとつです。
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2007年11月17日 [講演先にて]
ハプニング
講演に出かけるときには、主催者側に迷惑をかけてしまうことがあるので、できるだけあらゆるハプニングを想定し、それを回避するようなとっさの判断が必要になります。最近は、かなりその訓練をする場が多いために余り予定を変更したことはありません。島根に行くときに、台風が来るという予報があったために、急いで、前日の夜行で行ったところ、やはり予定の飛行機は欠航になってしまい、そのままですとキャンセルしてしまうことになってしまったところでした。そのほかにも台風では、何度かきわどいことがありました。京都乗換えで福井に行ったときは、関が原での大雪で新幹線がかなり遅れて予定の乗り継ぎができず、1時間後の電車になるために、先方での知っている人に、遅れる1時間代わりに話してもらうように頼んだこともありました。一度、こんな大変なことがありました。釧路で講演をしたときです。手配をしたところからの指示で、「講演が終わってから、夜の懇親会に出て、ホテルの部屋で夜11時くらいまで休んで、札幌行きの夜行に乗って、途中の南千歳まで移動してください。朝5時に降りたら千歳空港までタクシーで行き、始発便で羽田まで飛行機で行って、そこで乗り換えて松山空港まで行ってください。着いたら、午後1時から講演です。」ということでした。普段は、そんなハードな予定は組まないのですが、どうしてもということで、たまにはそんな経験も面白いかなと承知したのですが、大変でした。まず、途中の南千歳では寝過ごさないか心配でしたので、車掌さんに起こしてもらうように頼んでおきました。そこで、予定通り、南千歳でタクシーに乗り、千歳空港まで行ったところ、空港がまだ閉まっていて、中にも入れません。仕方ないので、もう一度タクシーで南千歳に戻ってもらい、駅構内のベンチで、仮眠しました。朝になって空港に行って、羽田まで行こうとしたところ、なんと、羽田が大雪で、羽田離発着すべてが欠航だというのです。松山空港まで他の空港経由の便がないか探してもらいましたが、ありません。空港で3時間ほど待っていると、アナウンスがあり、私が乗る予定の便だけが、とりあえず、羽田に向かって飛んでみるというのです。行ってみて、もしダメであれば引き返すということでしたが、少しの可能性に期待して、東京へ行く人がみんな乗り込みました。羽田近くで着陸しようとしばらく旋回していましたが、機内アナウンスがあり、思い切って着陸に挑戦して見ますと言います。乗客はみんな心配しましたが、何とか無事羽田に着きました。今度は、松山行きです。どの飛行機も飛び立とうとしません。私たちは、とりあえず、天候を見ながらチャンスを待つということで、機内で数時間待っていました。また、運よく、この便だけが何とか飛び立ちました。しかし、松山に着いたときは、13時からの講演でしたが、15時を回っていました。これは、もうだめだと思って空港を降りたら、あちこちに貼紙がしてあって、「講演は、都合により15時半から始めます」と書いてあります。松山は、ありがたいことに、空港から市内はとても近いので急いで駆けつけると、「皆さん、待っていますから、すぐ講演をしてください」と言われ、そのまま壇上に立ったのでした。前日の夜行から、そのままの顔で、ひげをそっていないどころか、顔も洗っていず、おきたままという姿で講演をしました。なんとも面白い経験をしたものです。ハプニングも、過ぎてみれば良い思い出です。ハプニングが、人生にメリハリを与えてくれているのかもしれません。
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2007年10月30日 [講演先にて]
岩木山
先週末、弘前に行ったときに、津軽地方に入るときれいな三角の山が見えました。この山が「岩木山」です。
この岩木山は青森県弘前市および西津軽郡鰺ヶ沢町に位置する標高1625mの成層火山(コニーデ型)で、その円錐形の山の形から「津軽富士」と呼ばれています。山頂部は、岩木山・鳥海山・厳鬼山(岩鬼山)の3つの峰で形成され、全国ふるさと富士人気投票で第1位に輝いています。富士山同様、周りには山が見えず、突然、津軽平野に湧出したように聳え立っています。この山の魅力に取り付かれ、登山をする人が多いようですが、この山の登山にも悲しい歴史があります。この経緯が、田沢拓也著の「空と山のあいだ―岩木山遭難・大館鳳鳴高生の五日間」 (角川文庫)という小説に書かれています。昭和39年1月、青森県の岩木山で秋田県大館鳳鳴高校の山岳部員5人が遭難、連日の大がかりな捜索にもかかわらず、5人の行方はわからず、そのうち4人が死亡する事故が起きました。標高わずか1625メートルの単独峰の岩木山で一体、5人に何が起きていたのかということを、ただ一人の生還者の証言をもとに、地元の関係者、捜索隊、警察などの状況を丹念に取材し、猛吹雪のなかをさまよいながらも、最後までお互いをかばい合う5人の生と死の軌跡を悲劇の5日間として描き出している感動のノンフィクション小説です。この作品は、第8回開高健賞受賞しています。
この青森の山岳遭難としては、八甲田山死の彷徨という世界山岳史上最大とも言われる山岳遭難事故があります。それを題材として新田次郎が山岳小説を執筆しています。この小説は映画化もされているので知っている人は多いでしょうが、日露戦争直前の1902年に、ロシアとの戦争に備えた寒冷地における戦闘の予行演習として、また陸奥湾沿いの青森から弘前への補給路をロシアの艦砲射撃によって破壊された場合を想定して、日本陸軍が八甲田山で行った雪中行軍の演習中に、参加部隊が記録的な寒波に由来する吹雪に遭遇し210名中199名が凍死した八甲田雪中行軍遭難事件を題材にした山岳小説です。しかし、ノンフィクション小説として扱われる事も多いのですが、実際には、事実を題材としながらも作者自身の解釈や創作が含まれるフィクションのようです。それに引き換え、「空と山のあいだ」という小説に書かれた岩木山遭難事故は本当にあった話です。当時、昭和31年5月の日本隊のマナスル初登頂の快挙に刺激され、わが国にも空前の大衆登山ブームが訪れました。そのために、38年1月には愛知大学山岳部員13名が北アルプスの薬師岳で遭難したのをはじめとして、昭和30年代後半に、山岳遭難が頻発しています。遭難の原因は高校生たちの経験不足,準備不足、未熟さによるものではあり、メンバーに本格的冬山経験者は誰もおらず、5人のメンバーにアイゼンは3足、ちょっとした集合時の行き違いから半日近い行動の遅れを生じたり、吹雪の中の下山早々、磁石を2つとも吹き飛ばされたり、冬山で焚火をする初歩的な技術さえもありませんでした。また、遭難が明らかになってからの対策本部の対応も非常にお粗末だったようです。冬山に熟知した地元山岳関係者たちの意見に耳を傾けず、二重遭難を恐れる余りのおざなりな捜索活動、所轄警察署間の軋轢があり、学校関係者も責任回避の言動に終始します。これは今もあまり変わりがないかもしれません。事故は起こるものですし、未然に防げないことが多いかもしれません。しかし、たぶんに人災的なことも関係してくるのですね。
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2007年10月17日 [講演先にて]
腰
私が地方に行くとき、その地域の仲間の人たちは、時間が取れるときは、私にいろいろな体験を計画してくれます。それは、私がブログを書いているので、そのネタになるようなことを提供してくれるという意味もあるでしょうが、それよりも、私がいろいろなことに好奇心が強く、いろいろなことを体験したい、見てみたい、行ってみたいという気持ちを感じてくれているからでしょう。本当にありがたいと思います。今年の初めのころ長崎に行ったときには、たけのこ掘りに連れて行ってもらいました。

たけのこは大好きなのに、自分では掘ったことがなかったからです。つい最近は、香川に行ったときに「手打ち体験うどん学校」に入学しました。ここでは、小麦から練り、手打ちから包丁まで伝統技法を学ぶコースです。いくつかのコースがある中、せっかくということで「名人コース」で学びました。

打ち終わったうどんの半分は、その場でゆでて食べるのですが、釜揚げや、生醤油で食べるうどん刺身や、ぶっかけなどゆで方から指南を受けました。2時間余りびっしりと指南を受けた後なので、その味のなんとおいしかったこと。以前のブログでも「うどんは讃岐に限る」内容を書きましたが、その腰のある歯ごたえは答えられません。「技」を極めたあとは、修了証書と修行の証に使った麺棒を授与されました。体験した店は、うどんの館大庄屋でしたが、今年の5月に、ここで製造される半生うどん「幽玄premium(プレミアム)」が、国際的な食品品評会「モンドセレクション」(本部・ベルギー)の最高金賞を受賞しました。讃岐うどんの最高金賞は初めてだそうです。モンドセレクションとはベルギー政府などが1961年に開始し、「世界食品オリンピック」とも評され、品質や味覚を審査し、100点満点中の95点以上で最高金賞が与えられるものです。たけのこ掘りやうどん打ちを体験して、両方に共通することは、共に「腰」を使うことです。よく、腰という字は、「上半身との下半身との間にある要所である」ところからできたといわれていますが、大言海によると、「くびれているところから、体のコシ(層)の義」とあり、日本釈名では、「体の中の強い部分であるところから、コハシ中略」とあり、和訓考によると、「コはカミシモの約、シはシキリの約」とあり、和句解によると、「胎内にコ(子)のある時、帯をシメル部分であるからか、または、大小便が、上から前後へコス(越)みちであるところから」と書かれています。腰といえば、よく若者が「腰パン」という、パンツが見えるほどズボンをずり下げてはくことがはやっています。このファッションは私にはよく分かりませんが、ほとんどパンツか尻が丸見えであり、今にも人前でズボンが落ちてしまわないかハラハラします。このズボンをずり下げてはくファッション、いわゆる「腰パン」を禁止する条例が、先日の9月27日のニュースに流れました。これは全米各地で作られ始めたというニュースです。罰金や禁固刑が科せられる場合もあり、「公衆道徳の問題」「人種差別では」と若者の風俗をめぐって論争を引き起こしているそうです。ズボンを腰からずり下げたら、罰金150ドル(約1万7000円)か、15日の禁固刑というのが、ルイジアナ州のマンスフィールドでは今月、そんな条例が施行されたそうです。腰パンが流行し始めて15年以上たつそうですが、自殺防止でベルトが使えない刑務所が発祥の地だそうです。 面白いファッションがはやるものですね。
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2007年10月14日 [講演先にて]
伊丹
先日、松山市にある「伊丹十三記念館」へ連れて行ってもらいました。私は動物占いで「人気者のゾウ」ですが、「伊丹も同じゾウということで、どうですか?」と、動物占い認定講師の人から言われたのです。この建物は、中村好文氏の設計ですが、外壁に真っ黒に塗った杉板を使い、中庭をぐるりと囲むように真角に作られた箱型建築です。全体としては、同じ松山にある「坂の上の雲ミュージアム」に比べて、こじんまりとしていますが、こんな保育園があったらいいなあと思えるような建物です。

館内の展示は、十三の名にちなんで、13のコーナーにわけて伊丹十三を紹介しています。そこでは、少年時代、音楽愛好家、商業デザイナー、俳優、エッセイスト、イラストレーター、料理好き、乗り物マニア、テレビマン、猫好き、精神分析啓蒙家、CM作家、映画監督など、様々な顔を持つ伊丹十三の業績や人柄を辿るようになっています。京都生まれの伊丹十三記念館が、なぜ松山にあるかというと、高校時代を愛媛県松山市で過ごしているからです。ですから、松山名物の一六タルトのCMにも出演していました。しかし、彼の印象が松山と結びつくのは、彼の父親の映画監督の伊丹万作が松山出身だからかもしれません。伊丹万作は、挿絵画家から片岡千恵蔵プロダクションに助監督兼シナリオライターで入社します。息子に受け継がれている諷刺や諧謔を武器に様々な映画の監督をし、日本映画界随一の知性派といわれました。しかし、病臥し、その後はシナリオに専念します。この作品には、とても一生に残っている作品があります。そのひとつは、何度も映画化されていますが、その最初の作品で阪東妻三郎が主演した「無法松の一生」(43)です。
明治時代の北九州・小倉を舞台に繰り広げられる、人力車夫・富島松五郎の生き様と、陸軍大尉の未亡人とその息子との人間的な触れ合い、そして未亡人への秘められた思慕の情がみずみずしく描かれ、全体主義を映画は無言で批判しました。戦争一色の時代ゆえ、世の中でしたから、小さきものや弱きものへの愛情が、そのまま時代へのレジスタンスとなったこの作品は、何度も検閲によって、カットされています。もうひとつの作品は、この夏に妻と見た「手をつなぐ子等」(48)の脚本です。この映画は、知恵遅れで他の生徒にとけ込めない少年寛太が、ようやく親身に世話を焼いてくれる先生に巡り会うことができ、先生の指導で周囲の子供たちは寛太を優しく見守り、彼の友達として仲良く遊ぶようになりますが、金三という悪たれ坊主が転入してきて、寛太に何かと意地悪をしたりイジメたりするようになり、それらの児童を先生が、どう導いていくかという話です。この映画では先生が子供たちをすべて理解し、一段高いところから優しく厳しい眼差しを向けて熱心な指導をすることで、寛太は見違えるような成長ぶりを見せ、金三の固くいじけた心もほぐれていくというものですが、「子どもは見守っているだけではダメです。」という教育委員会の考えに対して、あくまでも子どもを信じ、見守っていくことで子ども自ら立ち直っていくという話は、出来すぎではなく、そんな姿勢は今でも必要だという思いを強くしました。そんな作品のシナリオを書いた伊丹万作の息子が伊丹十三で、娘は大江健三郎と結婚します。伊丹十三の出演作品も、年配者しか分からないでしょうが、「コメットさん」(九重佑三子主演)がお手伝いさんとして住み込んでいる家の父親役とか、NHK大河ドラマ「峠の群像」での吉良上野介もはまり役でした。彼の突然の投身自殺は、何かの糸が切れたのでしょうね。
投稿者 fujimori : 20:48 | コメント (3)
2007年10月13日 [講演先にて]
新陳代謝
昨日、建築家「黒川紀章」氏が亡くなりました。彼のことは、今年の4月18日のブログで書きました。そのブログで、彼の設計した最近オープンした六本木にある「国立新美術館」と、建て替えが決定した「中銀カプセルタワー」を取り上げました。そのタイトルは「共生と新陳代謝」でしたが、そこで書いた意味は少し違いますが、新ためてこの二つの建物を並べてみると、そのタイトルが実感を持って感じます。黒川氏の死にしても、突然であるだけに、いつかは誰でも、どんな建物でも滅びていくのだということを感じ、新陳代謝ということかもしれないと思うのです。それは、ちょうど都城を訪れたときに連れて行ってもらった菊竹清訓設計の「都城市民会館」も、建て替えが決定した建物だったからです。この建物は、強烈なインパクトと迫力があります。ホテルの窓から遠目に見えていたときも何の建物かと思っていたのですが、間近に行ってみると、圧倒的な存在感を感じさせます。
梁が放射状に突き出した特徴的なデザイン・構造は、建築専門誌において『残したい建築物100選』へ選出されたり、最新の建築物と併記され紹介されるなど、現在もなお注目を浴び続けており、イタリアの美術教科書へも掲載されているそうです。この建物を「都城市の顔であり、また、建築学的にも貴重な建物でもあり、都城市の財産として後世に残すべきものである」ということで現状のまま存続するという意見と、「老朽化も懸念されるが、必要な修繕を加えることでまだ十分活用できるものであり、市町合併後、庁舎や会議室が必要となることが見込まれており、現在ある建物を活用することが環境負荷の軽減にもつながる」という改修して存続しようとする意見と、「年数の経過とともに老朽化が進んでおり、相当な経費を投じて改修する必要がある。また、今後「解体」は避けて通れない問題であり、いずれ先々には「解体する」必要があり、結論の先送りは避けなければならない」ということで、解体するという意見を検討しました。アンケート結果は、存続が26.9%、改修が25.5%、解体が47.6%だったそうです。話し合いを重ねた結果、解体することになっているそうです。解体されていく建物があるかと思えば、作られていく建物もあります。そのひとつが、コメントにも書かれている「坂の上の雲ミュージアム」です。この建物は、愛媛県松山のまち全体をフィールドミュージアムとする構想の一角を担う施設として創設されました。その主要な目的は、松山をより魅力的なまちにする諸活動の中核的な役割をはたすことにあるそうです。より魅力的なまちとは、住み心地がよく、さまざまな発見を楽しめるところを意味します。設計は、最近、話題の建物を設計している建築家・安藤忠雄氏によるものです。松山城周辺の歴史や文化を意識して考えられた建物は、周囲の自然環境に配慮した外観と安藤氏がイメージする『坂の上の雲』を表現した空間となっています。2つの三角形を重ね合わせた建物は、通りから見る城山の緑をさえぎらないような構造になっており、建物西側のガラスカーテンウォールには、城山の緑が映し出されています。
展示内容は、司馬遼太郎の長大な作品『坂の上の雲』を中心に、松山出身の正岡子規と秋山好古、真之兄弟の三人を軸にしながら展開しています。その時代背景である明治初期の展示は、訪れるお年寄りが懐かしがっていました。このミュージアムができるであろうことは昨年1月23日のブログで書いていますし、秋山兄弟については、昨年4月21日のブログで書いていますし、子規については、昨年4月22日のブログで書いているように、2年にわたって定期的に研修に訪れている松山での集大成のミュージアムです。その展示内容を見ても、「新陳代謝」を感じます。
投稿者 fujimori : 20:04 | コメント (3)
2007年10月06日 [講演先にて]
焼酎
先日、職員数名が私の部屋にボトルキープをしていきました。そのお酒は、「黒霧島」です。私は、最近は余りお酒を飲まなくなっていますので、このお酒がどんなものかよく知りませんでした。しかし、ボトルを置いていった次の日に講演で訪れた宮崎県の都城のホテルの窓から外を眺めていて、びっくりしました。そこには大きな看板に「黒霧島」と書かれていたのです。
そして、その地でお世話になった人から、「もしよかったら、黒霧島の工場見学をしませんか?」と誘われたのです。聞いてみると、黒霧島を製造している霧島酒造は、ここ宮崎の都城にあるようです。生憎工場見学は午後1時半のみということで、講演の合間ではいけませんでしたが、いたるところでこの霧島の話を聞きました。本格焼酎「黒霧島」は、南九州産の新鮮なさつまいもと名水「霧島裂罅水」を用い、焼酎麹の原点である黒麹で仕込んでいます。ですから、黒霧島の黒は、黒麹を使用していることに由来しています。しかし、現地のレストランなどでは、黒霧島が 置いてあるのではなく、「赤霧島」が置いてあります。楽天の焼酎ジャンル売れ筋ランキング!(9/26(水)‐10/2(火)集計期間)によると、この「赤霧島」が「赤兎馬」と共に1、2位を争っています。共に芋焼酎です。焼酎には芋焼酎のほかにもいろいろな種類があります。米焼酎、麦焼酎、黒糖焼酎、そば焼酎、梅酒、牛乳焼酎、栗焼酎、しそ焼酎、ゆず焼酎、泡盛などがありますが、何が一番人気かというと、やはり芋が一番人気のようです。芋焼酎は、江戸時代から南九州で広く栽培されているサツマイモを原料とした焼酎で、鹿児島県・宮崎県で広く飲まれています。それは、ほとんど鹿児島県と宮崎県のみで生産されていたからです。今では、日本各地で地元のサツマイモを使用した芋焼酎が生産されるようになってきていますが、鹿児島で生産される薩摩焼酎は、世界貿易機関 (WTO) のTRIPS協定に基づく産地表示の保護指定を受けています。このように表示が限定されているものに「琉球泡盛」があります。この表示は沖縄県産の物のみに認められています。焼酎のほかにもお酒の種類は数多くあります。そのつくり方によって、醸造酒、蒸留酒、混成酒の3つに分けられます。ワイン、清酒、ビールは醸造酒。ウイスキー、ウォッカ、焼酎は蒸留酒。梅酒、みりん、合成清酒は混成酒に入ります。そして、焼酎は、甲類と乙類に分かれます。甲類は、連続式蒸留機でつくられ、ホワイトリカーとも呼ばれ、果実酒や「チューハイ」のベースに使われています。乙類は単式蒸留機でつくられたもので、芋焼酎は、乙類に入り、単式蒸留の方が歴史が古いことから本格焼酎と呼ばれています。ワインといえばフランスやイタリア。ビールといえばドイツ。このそれぞれのお酒には、それぞれの飲み方があり、伝統や習慣がありますが、焼酎は、5:5で、あるいは6:4、7:3で割って、人肌の40度のあたたかさで味わうのが、その「こく」「うまみ」「香り」を楽しむのには、一番と言われています。人気の霧島酒造は、会社としての企業理念などもきちんとしています。「価値の創造」「感動の創造」「信頼の創造」です。また、考動指針なるものを作られています。「考動」と言う考え方は面白いですね。1.Vision:夢がなくては始まらない。2.My Company:会社の主役は「私」です。3.Move:やり過ぎくらいがちょうどいい。4.Originality:マネするだけじゃつまらない。5.Enjoyment:楽しくなくては始まらない。それぞれの英語をこのように訳し、理解するところは面白いですが、これがどう実際の行動に結びついているのかが知りたいところです。たぶん人気商品を生み出した秘訣があるのかもしれません。
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2007年09月03日 [講演先にて]
草枕
先週の土、日曜日に講演で熊本に行きました。熊本は何度か行ったことがあるのですが、少しの合間を見つけて、少なくともどこかを見て帰ろうと思っています。そんなことを訪れる先の人たちも気を使ってくれます。今回、宿泊先が玉名でしたので、市内に戻る途中に天水町を訪れました。
ここには、草枕温泉「てんすい」とか交流館があって、夏目漱石の資料が展示されていました。夏目漱石というと、よく訪れる松山のイメージが強いのですが、交流館の館主の方の説明によると、それは宣伝が上手なだけであって、熊本のほうがよほど漱石に関係するのだと言います。それは、ここに滞在している期間の長さとか、滞在中の出来事、例えば結婚、出産など人生の重要な節目をここで過ごしていることなどを考えると、熊本のほうが、縁があるといっても当然かもしれません。また、漱石の名作「坊ちゃん」が松山を舞台にしているからと取り上げられることが多いのですが、他の名作の「草枕」は、ここ熊本が舞台です。漱石が熊本へ赴任して来た明治29年の暮れ、初めての新年を迎えるために妻「鏡子」が作ったおせち料理を、当時下宿していた書生達に年始客が来る前に食べられてしまい、喧嘩になってしまいます。これに懲りた漱石は、翌年の明治30年の暮れから天水町小天温泉への旅へ出かけます。これを題材にして書かれたのが「草枕」なのです。漱石は年の暮れから、天水町の小天温泉への旅に出ますが、草枕の中で季節は春で、主人公も小説家や俳人ではなく、画家になっています。
その画家が人生について切々と考えながら、坂道を登って行くところから始まります。そして、那古井の里に着いた画家はそこでちょっと変わった女性、那美さんや志保田の髭のご隠居に出会うというのが「草枕」のあらすじです。作中、この「那古井の宿」がこの地にある前田家別邸、「志保田家」は前田家、「老隠居」は案山子、「那美さん」は、前田家の次女卓(つな)をモデルにしています。この小説はよく主人公「余」が世俗を厭い非人情を生きる旅をする絵描きとして描かれているといわれています。この小説の書き出しは、「智に働けば角が立つ。情に棹させば…」と有名です。この内容についてはまた論じる機会があればと思いますが、私は、この書き出しが、なんとなく最近感じていることを言い当てている気がしました。ですから、この資料館を訪れたことは、偶然というより、悩みについての考え方を示しているような気がしました。「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。」生きている中で、いろいろな人と出会います。最近、様々な職種でもいろいろな苦情を言ってくる人が増えてきました。また、なかなか改革が進まないことも多いことにあせることもあります。今の日本のあり方にあきれてしまい、これからの時代が不安になることもあります。しかし、嘆くことをしても、逃れようとしても、結局ここに住んで、ここで生活している人と暮らしていかなければならないのです。ですから、少しでも住みよい世にしていかなければならないのです。
投稿者 fujimori : 21:54 | コメント (5)
2007年06月17日 [講演先にて]
新渡戸家
5000円札で有名な新渡戸稲造については、お札の絵柄になったときにかなりの人がびっくりしたと思います。と言うのも、わたしがびっくりしたからです。彼については、歴史の教科書ではほとんど習ったことがなかったからです。それよりも、彼について調べて、またびっくりしたのは、彼の偉業というよりも、彼の家系における代々の性格の激しさにびっくりしました。この受け継いだ性格が、著書 Bushido: The Soul of Japan(『武士道』)という、流麗な英文で書かれた名著と言われている書籍を書かせたのだろうと頷けるところがあります。今回盛岡に行ったとき、合間を見て彼の生誕の地に行ってみました。
彼の曽祖父「新渡戸維民」は、南部盛岡藩の兵法学者でした。しかし、この盛岡藩の花巻城を縮小するという藩の方針に対して強く反対し、川内(現青森県下北郡)に流されます。そのとき、彼の息子「新渡戸傳(つとう)」は、27歳でした。傳は、花巻に生まれています。彼は、父親が川内に流されたとき、川内で商売をはじめます。44歳で商人をやめるまで、材木商として活躍し、任官後は勘定奉行などをつとめ、特に開拓事業に力を発揮します。花巻近辺で多くの開田に成功した後、62歳の時三本木原開拓を藩に願出て新田御用掛として1855年(安政2)着手します。当時、十和田市を中心とした「三本木原大地」は“三本の木しかないので「三本木」という地名になった“といわれるほどの荒野原でした。この土地の開拓事業に着手したときに、傳はすでに62歳となっており、当時の平均寿命50代をはるかに超えてからの挑戦でした。当時、農民たちは、何度も繰り返される凶作や飢饉に苦しみ、出稼ぎや逃亡が絶えませんでした。そこで傳は、米の生産を安定させ農民たちの生活を救うため、奥入瀬川から水を引き、不毛の三本木原台地に水田を開発する計画をたてました。資金は、藩からの出資金のほか沢山の出資者を募り、傳の私財も充てられました。高度な土木技術の導入・多くの農民の労役により、硬い岩盤を貫くトンネル工事など難工事の末、4年もの歳月をかけて、不毛の荒野原に水を引くことに成功しました。この水路の完成により、1860年の秋、この地にはじめて米の収穫がもたらされたのです。その後も開拓事業は地域の人々に受け継がれ、水路は太平洋岸まで達し、支流も合わせた総延長は60kmとなりました。最晩年には七戸藩設立を策し成功、七戸藩家老、後大参事となり、78歳で三本木において逝去しています。傳は負けん気根性で上記の事業を成功させ、結果として藩主に「私が悪かった」と頭を下げさせる離れ業を成し遂げ、重臣に列挙されていますが、東北人には珍しく熱い感情を表に出す家系だったようです。この事業を受け継いで行ったのが、傳の息子の「新渡戸十次郎」更にその息子で、新渡戸稲造の兄の「新渡戸七郎」の三代です。十次郎は、幼少のころから兵学の才能をみとめられていましたが、22才で中奥小姓、32才の時には盛岡藩主・南部利剛の兵学御相手をつとめています。33才で奥御勘定奉行、43才で側用人などの重職をつとめ、そのあと傳の後継者として三本木での開拓に従事するため三本木新田御用掛となり開拓に尽力しました。しかし、47歳のとき(諸説ありますが)不祥事があったとして切腹を命じられています。その息子の稲造ですから、東大へ入学面接の折「太平洋の架け橋になりたい」という有名な名言をはいたことはわかりますね。
しかし、後年、「橋は決して一人では 架けられない。 何世代にも受け継がれて はじめて架けられる 」と言って、 後代の私たちに 夢を託しています 。彼に対する評価はさまざまありますが、保育に関わっている私は、素直にこの言葉はうなづけますね。
投稿者 fujimori : 21:34 | コメント (4)
2007年06月16日 [講演先にて]
盛岡
今、NHKの朝の連続テレビ小説で「どんど晴れ」を放送しています。このテレビドラマの舞台は盛岡ですが、この言葉は、盛岡地方の民話の最後に使う「どんどはれ」(めでたしめでたしの意味)から取ったことはよく知られています。NHKのタイトルの由来には、こう書かれています。「民話の世界では、人間本来の感情をむき出しにし、ぶつかり合うことで「どんと晴れ」が訪れます。このドラマは、豊かな伝統と雄大な自然を舞台に、民話のエピソードを象徴的に絡めながら、困難とぶつかり合いながらも、周りを明るく照らすような頑張りによって、物語は「どんど晴れ」を迎えるのです!」最後には、「めでたし めでたし」になるというのです。この舞台である盛岡に今日来ました。駅に着く少し手前で、新幹線から岩手山が頭を雲の上に出して迎えてくれました。
今回の訪問は、午後からの講演のためですが、出発するときに職員から、「盛岡に行ったら、冷麺ですか?」と言われました。若い人からすると、盛岡の麺というと冷麺のようですが、有名なのは、「わんこ蕎麦」です。あの小さいおわんに次から次へよそり、それをどんどん食べ、食べ終わったおわんを積み重ねていくというものです。わたしは、それには挑戦しませんでしたが、その店に連れて行ってもらいました。隣の席では、おわんが積み重ねられていました。一人70杯以上食べているようです。
ところで、「どんどはれ」は、昔話の終わりに使う言葉ですが、昔話は、話し始めるときと、話が終わる最後に、決まったせりふを言うことが良くあります。私の出身は東京ですので、普通に「むかしむかし あるところに」で始まり、「めでたしめでたし」で終わりました。最近、園では、お話の最後は、「これで おしまい!」と言っています。これらの言葉は、あるリズムがあり、そのリズムが物語りの導入をより効果的にし、終わってからのリズムは、その物語の結末に対するほっとした気持ちの余韻となります。とてもリズムが大切であるということは、子どもが自分で本を読んで、その字面をなぞるだけでは味わえません。いわゆる、口承といわれるような、寝るときに話して聞かせるときとか、語りべが語るのを聞くときとか、絵本の読み聞かせとか、声を出して話して聞かせる場合に効果的になるものです。ですから、最近は、余り使わなくなりました。今の子どもたちは、たぶん知らないでしょうね。また、この言葉は、地域によってずいぶんと違いがあります。この盛岡の「どんど晴れ」に似たものでも、「どーんとはれ」「どんとっぱれ」「どっとはらい」「とってんぱらりのぷう」「そればっかり」「どっとわれえ」などがあります。青森あたりでは、「とっちばれ」を使うところもあるそうです。そして、始まりは、盛岡では、「むかしっこあったけずー…」を使うことがあります。これが、広島では、「まっか」とか「まっかひとむかし」「まっこと昔」と始まります。高知では、「むかしまっこうさるまっこう」と使う地方があるかと思えば、岡山などでは、ずいぶんたくさんの言い方があるようです。「昔こっぷり」「昔こっぷりどじょうの目」「昔こっぷりどじょうの目くそ」「昔こっぷりどじょうの目玉」「昔こっぷりさんしょの芽」「昔こっぷりとびのくそ」「それ昔こっぷり」「せえで昔こっぷりじゃ」「こりゃまあ、これだき」「これもこれも一昔」こうなると、昔話を語るおばあさんのキャラクターによって使う言葉が違う気がします。英語にもいくつか決まった言い方があるようです。「むかしむかし」は、「once upon a time」とか「long time ago」と言い、「めでたしめでたし」は、「ended happily」とか「and they lived happily ever after」などというようです。
投稿者 fujimori : 20:47 | コメント (4)
盛岡
今、NHKの朝の連続テレビ小説で「どんど晴れ」を放送しています。このテレビドラマの舞台は盛岡ですが、この言葉は、盛岡地方の民話の最後に使う「どんどはれ」(めでたしめでたしの意味)から取ったことはよく知られています。NHKのタイトルの由来には、こう書かれています。「民話の世界では、人間本来の感情をむき出しにし、ぶつかり合うことで「どんと晴れ」が訪れます。このドラマは、豊かな伝統と雄大な自然を舞台に、民話のエピソードを象徴的に絡めながら、困難とぶつかり合いながらも、周りを明るく照らすような頑張りによって、物語は「どんど晴れ」を迎えるのです!」最後には、「めでたし めでたし」になるというのです。この舞台である盛岡に今日来ました。駅に着く少し手前で、新幹線から岩手山が頭を雲の上に出して迎えてくれました。
今回の訪問は、午後からの講演のためですが、出発するときに職員から、「盛岡に行ったら、冷麺ですか?」と言われました。若い人からすると、盛岡の麺というと冷麺のようですが、有名なのは、「わんこ蕎麦」です。あの小さいおわんに次から次へよそり、それをどんどん食べ、食べ終わったおわんを積み重ねていくというものです。わたしは、それには挑戦しませんでしたが、その店に連れて行ってもらいました。隣の席では、おわんが積み重ねられていました。一人70杯以上食べているようです。
ところで、「どんどはれ」は、昔話の終わりに使う言葉ですが、昔話は、話し始めるときと、話が終わる最後に、決まったせりふを言うことが良くあります。私の出身は東京ですので、普通に「むかしむかし あるところに」で始まり、「めでたしめでたし」で終わりました。最近、園では、お話の最後は、「これで おしまい!」と言っています。これらの言葉は、あるリズムがあり、そのリズムが物語りの導入をより効果的にし、終わってからのリズムは、その物語の結末に対するほっとした気持ちの余韻となります。とてもリズムが大切であるということは、子どもが自分で本を読んで、その字面をなぞるだけでは味わえません。いわゆる、口承といわれるような、寝るときに話して聞かせるときとか、語りべが語るのを聞くときとか、絵本の読み聞かせとか、声を出して話して聞かせる場合に効果的になるものです。ですから、最近は、余り使わなくなりました。今の子どもたちは、たぶん知らないでしょうね。また、この言葉は、地域によってずいぶんと違いがあります。この盛岡の「どんど晴れ」に似たものでも、「どーんとはれ」「どんとっぱれ」「どっとはらい」「とってんぱらりのぷう」「そればっかり」「どっとわれえ」などがあります。青森あたりでは、「とっちばれ」を使うところもあるそうです。そして、始まりは、盛岡では、「むかしっこあったけずー…」を使うことがあります。これが、広島では、「まっか」とか「まっかひとむかし」「まっこと昔」と始まります。高知では、「むかしまっこうさるまっこう」と使う地方があるかと思えば、岡山などでは、ずいぶんたくさんの言い方があるようです。「昔こっぷり」「昔こっぷりどじょうの目」「昔こっぷりどじょうの目くそ」「昔こっぷりどじょうの目玉」「昔こっぷりさんしょの芽」「昔こっぷりとびのくそ」「それ昔こっぷり」「せえで昔こっぷりじゃ」「こりゃまあ、これだき」「これもこれも一昔」こうなると、昔話を語るおばあさんのキャラクターによって使う言葉が違う気がします。英語にもいくつか決まった言い方があるようです。「むかしむかし」は、「once upon a time」とか「long time ago」と言い、「めでたしめでたし」は、「ended happily」とか「and they lived happily ever after」などというようです。
投稿者 fujimori : 20:47 | コメント (4)
2007年06月11日 [講演先にて]
飯山線
一昨日は飯山で講演があったために飯山線に乗りました。千曲川沿いを走るこの路線は、なかなか味があります。この飯山線は、長野県長野市の豊野駅から新潟県北魚沼郡川口町の越後川口駅に至る東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線です。列車の発着の長野駅から豊野駅まではJR信越線と同じ線路を走り、豊野で分かれて飯山線が始まります。長野県内では千曲川に沿い、新潟県内に入ると千曲川から名を変えた信濃川に沿って日本有数の豪雪地域を通ります。私は、富山からの移動でしたので、この飯山線には豊野から飯山まで乗り、帰りは飯山から長野駅まで乗りました。路線のほとんどが谷沿いの山間部を通るために、主に夏季は大雨による土砂災害、冬季は大雪による雪崩や除雪作業等によりしばしば運休することがあるそうです。飯山から少し新潟に行ったところには、温泉地やスキー場として有名な野沢温泉があります。飯山の駅のホームには、鐘楼「七福の鐘」があります。寺の町飯山にちなみ、商売繁盛、人望福徳、結婚安産、勤労勤学、延命長寿、勇気援福、愛敬富財の七つの願いを込めたといいます。一度訪れる度に一つの願いが叶うといいます。
文豪・島崎藤村が「小京都」と呼んだ飯山には飯山城址を中心に22の寺があるそうです。その飯山駅からふたつ長野よりの駅は、「替佐駅」といいます。この駅に電車が到着すると、唱歌「ふるさと」のメドレーが流れました。また、駅の駅名版のはじにはその歌の楽譜が掲載されています。
この駅で放送される曲は季節のよって違うということで、「おぼろ月夜」「春の小川」「もみじ」などがあるそうです。どれも、文部省唱歌で、日本の心のふるさとを歌った歌詞として有名で、私が好きな歌が並びます。ですから、これらの歌詞についてのブログを何回か書いた覚えがあります。これらのすべての曲の作詞をしたのが、この替佐駅のある長野県中野市で生まれ、ここに記念館のある文学博士「高野辰之」です。彼は、明治九年(1876年)農家にうまれ、幼少時代を豊かな自然の中で育ちながら学問の道を志し、苦学の中からわが国近代の国文学に大きな功績を残した人物です。そして、小学唱歌の作詞者として著名です。彼の代表作として、そのほかにも「春がきた」「春の小川」などがあります。先日駅で流れた「ふるさと」は、高野辰之作詞・岡野貞一作曲で、大正五年(1914)「尋常小学唱歌(六)」にはじめて登場しました。歌詞はとても有名ですが、耳で聞いているので、意味を思い違いしていることの多い歌のひとつです。「兎追いし かの山 小鮒釣りし かの川 夢は 今も めぐりて 忘れがたき 故郷 如何にいます 父母 恙なしや 友がき 雨に 風に つけても 思い出ずる 故郷 志を はたして いつの日にか 帰らん 山は 青き 故郷 水は 清き 故郷」作詞の高野の幼少時代を過ごした故郷の風景・望郷の思いを描写したと伝えられています。兎を追った山は、大平山・小鮒を釣った川は斑川であるといいます。「うさぎを追う」とは、単に野山でこの小動物と遊ぶことではなく、肉食が禁じられていた中、うさぎを、跳ねることから鳥に見立てて1羽2羽と呼んで食べていましたが、そのうさぎを食べるために狩ることです。2番の「友がき」(友垣)とは、友だちのことで、垣をしっかりと結ぶように、人と人とのまじわりを、かつてはこう例えていました、「いかにいます父母」というフレーズは、スコットランド民謡に大和田建樹が作詞した「故郷の空」を思い浮かべます。「夕空はれて、秋風ふき つきかげ落ちて、鈴虫鳴く 思えば遠し、故郷の空 ああ、わが父母、いかにおわす」父母は遠くにいていつも自分を見守ってくれており、時たま、どうしているだろうかと思い出す存在は、ふるさとに似ているのですね。
投稿者 fujimori : 23:52 | コメント (2)
2007年06月10日 [講演先にて]
牛
今日は講演の帰りに、長野で途中下車して、「善光寺」に行きました。
私はよく訪れるのですが、その圧倒的なボリューム感には圧倒されます。ただ、残念ながら、重要文化財である山門は平成の大修理ということで、その姿をすべて覆ってしまっていて、見ることは出来ませんでした。しかし、本殿はその奥に見えてきます。この善光寺といえば、「牛に引かれて善光寺」という言葉を思い浮かべます。境内に「春風や 牛に引かれて善光寺」という小林一茶の句碑がありました。
この言葉から連想されるのは、犬を散歩するときのように牛に首輪をつけて、そこに綱をつけ、その綱を手で持っていたら引っ張られて、どこに行くのかと思って善光寺に着いてしまったという姿ですがそれは違います。以前、角に布キレをつけ逃走する牛を追いかけている図を見たことがあります。このいわれは、このようです。「むかし、信濃の国に若い後家さんが住んでおりました。その後家さんは、夫を数年前に亡くして失意のあまり、もはや神も仏も信じられなくなっていましたので、寺にお参りすることもありませんでした。ある暑い日、手ぬぐいをあねさんかぶりにして畑仕事をしていると、突然、大きな牛が何処からともなく現れ、突進してきました。後家さんは、大きな叫び声を上げ、脇に飛びのき、何とか牛を避けることはできましたが、しばし茫然としていました。すると、牛の頭に手ぬぐいが引っかかっているではありませんか。牛は畑を二度廻ると、角に手ぬぐいを引っ掛けたまま走り去りました。怒った後家さんは、手ぬぐいを取り戻そうと牛を追い駆けました。やがて見失ってしまいますが、回りを見まわしてみると、そこは善光寺の境内でした。ふと下を見ると、牛のよだれで、「お釈迦さまを信じなさい。地獄行きか極楽行きかは、人がお釈迦さまを信じるかどうかにかかっているのだから」と書かれていました。そして、聞こえてくるお経を聞いていると、お経の内容はほとんどわかりませんでしたが、安堵感を覚えました。そして、じきに涙があふれてきました。「何と罰当たりな日々を過ごしたことでしょう!」ということで、それ以来、仏を信じるようになり、足しげくお寺にお参りし、亡き夫と自分の後生をお祈りしました。」というものです。
そういえば、天満宮にも牛がいます。
それにはいろいろな説があるようです。「道真の出生年は丑年である」「大宰府への左遷時牛が道真を泣いて見送った」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「道真には牛がよくなつき、道真もまた牛を愛育した」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など牛にまつわる伝承や縁起が数多く存在します。これらによって、牛は天満宮において神使(祭神の使者)とされ臥牛の像が決まって置かれているのです。
そういえば、インドのヒンズー教徒は牛は神聖な動物として食べません。牛は最高神の一人シヴァの乗り物とされており、そのため食べることは恐れ多いとされているからです。牛はアジアでは、農耕や運搬にとても役に立ち、昔から人間のよき協力者でした。ですから、大切にされたのでしょう。インドでは、牛を食べないだけでなく、糞も大事に扱われます。神聖な動物が出した糞ということで、これも又神聖なものとなっており、道で牛が糞をすると、すかさず人々はそれを拾い集めるそうです。各国の理由は違っても、同じように「牛」を大切にするというのは面白いですね。
投稿者 fujimori : 22:40 | コメント (3)
2007年06月09日 [講演先にて]
直江津
直江津の駅に何年かぶりに降り立ちました。大学生のころの、佐渡を旅したときにこの直江津から佐渡に渡りました。佐渡へは、やはり大学生であった弟と一緒にテントも持って一周する旅に出かけたのです。そのときの思い出は、テントを張る場所についてです。弟と二人旅でしたので、毎日、交代で張る場所を決めました。そのときに二人の違いを感じました。私が選んだ張る場所は、水があったり、トイレがあったり、自炊が出来る場所を選びます。ですから、わりとキャンプ場のようなところを選びます。それに引き換え、弟の選ぶ場所は、人家の庭先とか、神社の境内とかを選びます。私は自分で余り人の助けを借りずに過ごそうとしますが、弟は、その地の人から水やトイレを借りたり、うちに泊まりに来たら?と声を掛けられたりして、触れ合いを求めます。これは、私が長男で、弟は末っ子ということもあるような気がします。人に甘え、可愛がられることをうらやましく思ったものでした。
そんな思い出の直江津ですが、今、駅前に大きな横断幕がかかっています。
それは、「2009年の大河ドラマは天地人!」というものです。この「天地人」とは、原作は火坂雅志氏の小説です。ドラマの主人公は、直江津がある上越市ゆかりの直江兼続(なおえ・かねつぐ)で、少年時代、上杉謙信から「天下を取ることなどは小事に過ぎず、それよりも“義”を貫いて生きることの方が「大事」と諭され、謙信の死後、越後の命運を握ることになった上杉景勝を支えながら、「義」を貫く生き方を志した人物です。面白そうですね。織田信長が天下統一を進める中、若き兼続は「愛」の兜を掲げ、越後の民を守る戦に挑んでいきます。そして信長の死後、豊臣秀吉からその才気と人間性を惚れ込まれた兼続は、家来に誘われますが「主君は景勝様ただ一人」と秀吉を袖に振り、その結果、上杉家の家老でありながら米沢30万石の領地を与えられます。そんな兼続を伊達政宗はライバル視し、また真田幸村は師と仰ぎ、前田慶次郎は上杉家の家来にしてくれと直談判しにくるなど、「義」を掲げる戦国の猛者たちが続々と兼続のもとに集まってきます。時代になびかずに「義」に生きる兼継を最も恐れたのは徳川家康でした。また、この直江兼続の人生は、年上の妻・お船との夫婦愛により、激しい戦国時代にあって、自らの理想と、大切な人の幸せのために強く生き抜き「日本の品格」を守り通した波乱万丈だったようです。彼は、「義」の意味を自分なりに解釈し、慈愛の「愛」と言う言葉にたどり着きます。そして、兜に大きく「愛」の文字を掲げ、「利」になびかず、主君のため、民のため、そして家族のため、「愛」を貫く生き方を志します。私は、「天地人」を呼んでいないので、なぜ、この小説の題名が「天地人」というかわかりませんが、とても深い意味を感じます。この間、ある人がこんなことを言っていました。「人は壁にぶつかって、その壁を打ち破ってこそ大きくなれる。」これは、漢字の形を見ればわかります。「人」という字が、「―」という壁を破ると「大きい」という字になります。そして、もっと大きな壁を知り、それにたどり着くことで「天」を知ります。これは、「大」という字の上にもうひとつの壁「―」を書くと「天」という字になります。なかなか面白い考え方ですね。
投稿者 fujimori : 22:31 | コメント (2)
2007年05月27日 [講演先にて]
抱月
週末訪れていた島根県金城町で、突然流れてきた曲がありました。それは、「カチューシャの唄」です。以前のブログで、都内JRの駅ごとにちなんだ曲が流れることを書きました。高田馬場駅では、「鉄腕アトム」でしたね。それと同様に、様々な町で、ある時刻になると流れる曲があります。主に、朝とか、夕方に流れます。特に夕方流れる曲は、子どもたちに家に帰る時刻を知らせる役目を持ったりしています。八王子市では、夕方になると、「夕焼け小焼けで 日が暮れて~」という曲が市内全域に流れます。これは、この歌の作詞で有名な、「中村雨紅」は、八王子市上恩方町に生まれたからです。町に流れる曲は、その曲の作詞家か作曲家の生まれ故郷の場合が多いようです。金城町で聞いた「カチューシャの唄」は、島村抱月が1番の歌詞を作詞し、2番以降を早大時代の教え子で詩人の相馬御風(早大校歌『都の西北』の作詞者)に託しました。作曲は御風の進言により、抱月のもとで書生をしていた中山晋平に依頼したものです。中山晋平にとっては、これが作曲家としてのデビュー曲となりました。その「島村 抱月」は、ここ島根県浜田市金城町に生まれています。東京専門学校(現在の早稲田大学)で文学を坪内逍遙に、哲学を大西祝に学びます。卒業後は、イギリス、ドイツに留学、帰国して早稲田大学の講師となり、美学、文芸史の講義を担当します。その後、逍遥との関係から、新劇運動にかかわるようになり、日本でのヨーロッパ近代劇の普及に努めるため、女優、松井須磨子との不倫の恋が原因で早大教授の座から追われた島村抱月は、松井須磨子と共に劇団「芸術座」を立ち上げました。「カチューシャの唄」は、松井須磨子が、トルストイ原作の「復活」(芸術座)の劇中歌として歌い、劇そのものの評判と共に大変な話題を呼んだ歌です。日本の歌謡曲第1号とも言われるほど大ヒットしました。なお、トルストイの「復活」は、友人から聞いた実話が元になっているといわれています。内容は、「貴族ネフリュードフは青年時代、伯母の小間使カチューシャ・マースロワを誘惑して捨てます。そのため、彼女は娼婦にまで身を落とし、やがて法廷の手続ミスのためにシベリアへ流刑となります。皮肉にも、彼女の裁判に陪審員として立ち会うことになったネフリュードフは、深い罪の意識から彼女を救うために努力し、自らもシベリアに赴きます。」しかし、実話では、カチューシャは流刑地で病死してしまいますが、トルストイはそれをネフリュードフと結婚するというハッピーエンディングに変えました。ところが、貴族が娼婦と結婚するという結末は、政府から危険思想とにらまれたため、やむをえず、カチューシャは他の流刑者と結婚するという筋書きに変えました。これが、今も読まれている「復活」の結末です。ずいぶんと激しい恋ですが、カチューシャ役を演じた須磨子も、抱月がスペイン風邪で島村が病死すると、世を悲観して2ヶ月後に、芸術座の道具部屋において自殺(縊死)しています。そういえば、作曲した「中山晋平」は長野県中野市の出身、歌った「松井須磨子」は長野県長野市(松代)の出身で、共に長野県出身です。カチューシャの唄の歌詞を口ずさみながら、長野で入ったりんごを浮かべた温泉を思い出していました。
「1.カチューシャかわいや わかれのつらさ せめて淡雪 とけぬ間と 神に願いを(ララ)かけましょか 2.カチューシャかわいや わかれのつらさ 今宵一夜に 降る雪の 明日は野山の(ララ)路かくせ 3.カチューシャかわいや わかれのつらさ せめて又逢う それまでは おなじ姿で(ララ)いてたもれ」
投稿者 fujimori : 20:05 | コメント (3)
2007年05月03日 [講演先にて]
たけのこ堀り
先週、長崎に行ったときに、先方の好意で経験をしたことのない体験をさせてもらいました。研修の最終日の午後、毎年いろいろと考えてくれます。去年は、ブログで書いた「漁船の運転」をさせてもらい、西海橋の下の渦潮の中を乗り切り、その船で長崎空港に横付けしたのです。今年は、普段の運動不足を考えて、「たけのこ堀り」を計画してくれました。地元の園長宅で、ジャージとTシャツをかりて、それに着替えて竹やぶに出発です。そこまでは、軽トラックの荷台に積まれた、ビールケースを逆さにした台に座り、風を切って走ります。すぐに竹やぶに着いたのですが、そこは「孟宗竹」の竹やぶです。
たけのこは「古事記」に登場していることから、日本では古くから食べられていたようですが、現在一般的に食べられている孟宗竹という種類が日本に入ってきたのは江戸時代のことだそうです。そのほかに、現在食用として食べられているのは、淡竹、真竹などの種類です。孟宗竹の林に入って、掘るたけのこを選びます。形はずんぐりしていて、ずっしりと重いものを選びます。皮にツヤと湿り気があり、頭が黄色く開いていないものが新鮮なたけのこだそうです。頭の部分が緑色になったものは、陽にあたり育ちすぎて、えぐみが強く固くなっています。竹やぶには、にょきにょきとたけのこが生えていますが、そんなに顔を出したものよりは、枯れた笹の葉を除けると頭が出てきたくらいがいいのですが、そのたけのこを掘るのが、とても大変だということをすぐに悟ります。まず、たけのこを傷つけないように周りの土を掘ります。すると、根元に赤い斑点が出てきます。そうしたら、道具で「エイッ」と、根っこを切り落とします。
そのときに、頭がほとんど出ていないものは、掘る量が多くなります。また、根っこを切り落とすのが、太く大変で、なかなか切り落とせません。背が高いのは、すぐに折れるので、簡単に掘れます。ですから、疲れてくるとつい、かなり顔を出している大きなものを掘ってしまいます。それでも、かごいっぱいになりました。汗びっしょりになってしまいましたので、シャワーを借りてさっぱりしてから空港に向かいました。数日後、そのたけのこを湯がいて、たくさん送ってもらいました。とてもやわらかく、おいしくいただきました。みんなにも、「私が掘ったんだ」と自慢して配ったのですが、たぶん、送ってもらったたけのこは、私が掘ったものではないと思います。私が掘ったのは、大きくなりすぎたものばかりで、硬く、おいしくないので、ほかに掘ったものを送ってくれたのでしょう。次の日の筋肉痛を感じながら、その思いやりを感じました。じつは、たけのこは、GWか終わった時に、とても役に立ちます。なんとなくやる気がわかないというような「五月病」には筍ごはんがおすすめです。10年ほど前は、栄養学的は何にもなく、香りや歯触りを楽しむだけの食材という扱いでした。ところが最近たけのこに、やる気を高める成分が含まれていることがわかり注目されています。その成分とは、「チロシン」といい、タンパク質に含まれるアミノ酸の一つです。脳を活性化させ、やる気や集中力をたかめるドーパミンやノルアドレナリンなどの神経伝達物質の原料となるのです。最近では、うつ病を初め認知症、パーキンソン病の予防・治療に効果があるともいわれ、研究が進められています。たけのこをゆでると、節の隙き間に白いモロモロとしたものが入っていますが、それはチロシンが結晶化したものです。たけのこを水煮してもチロシンの量はほとんど変わらないと言われています。またたけのこにはアスパラギン酸という疲労回復に役立つ成分も含まれています。今年も貴重な体験をさせてもらいました。
投稿者 fujimori : 21:59 | コメント (3)
2007年04月03日 [講演先にて]
花ざかりの森
ブログに書いたもうひとつの作品、三島由紀夫の「花ざかりの森」について書いてみようと思います。この作品は、私のブログではとても意味があります。私のブログに登場した「三島由紀夫」は、2005年12月16日です。そのときに取り上げた作品は、「豊饒の海」の中の「春の雪」でした。三島は、昭和16年「花ざかりの森」が「文芸文化」に連載されてから、昭和40年代に「豊饒の海」四部作(昭和40~45年)まで、さまざまな作品を発表しつつ、劇的な人生を送るのです。
昭和16年5月、学習院中等科五年生の平岡公威(16歳)は、国語教師の清水文雄に「花ざかりの森」の原稿を見せます。感銘を受けた清水は、自分も同人であった雑誌『文芸文化』の編集会議にかけ、全員の賛同を得て、「三島由紀夫」のペンネームで、同年9月号から4回にわたって連載しました。私がこの作品とであったのは、昭和46年に講談社から刊行された「三島由紀夫短編全集」です。その中で私が特に読みたかったのは、やはり初期の短編である「煙草」でした。この作品は、三島が、昭和21年、鎌倉に在住している川端康成の元を尋ね、「中世」「煙草」を渡したところ、「鎌倉文庫」の幹部であった川端は、雑誌「人間」に「煙草」の掲載を推薦し、これが文壇への足がかりとなった作品です。もうひとつ、この全集を購入した理由は、豊饒の海のときの動機に似ているところがあります。それは、本の装丁が、非常に「三島」のイメージに合っていたからです。豊饒の海シリーズは、表紙が絹の布でしたが、こちらの本は、銀で覆われています。
そのなかで、「花ざかりの森」はブログにも書いたとおり、特に桜の花には関係がありませんが、私には、満開の桜のイメージがあります。まず、書き出しである「序の巻」の前にはこう書かれています。「かの女は森の花ざかりに死んで行つた かの女は余所にもつと青い森のある事を知っていた シヤルル・クロス散人」三島は、「序の巻」でこういっています。「この土地へきてからといふもの、わたしの気持には隠遁ともなづけたいような、そんな、ふしぎに老いづいた心がほのみえてきた。もともとこの土地はわたし自身とも、またわたしの血すじのうえにも、なんのゆかりもない土地にすぎないのに、いつかはわたし自身、そうしてわたし以後の血すじに、なにか深い連関をもたぬものでもあるまい。」この書き出しは、16歳の高校生が書いたと思われないほど成熟しています。しかし、逆に、花ざかりの年齢ゆえに、追憶に対して盛りを過ぎたものとして捕らえています。「いくたびもわたしは、追憶などはつまらぬものだとおもいかえしていた。それはほんの一、二年まえまでのことである。わたしはある偏見からこんなふうに考へていた。追憶はありし日の生活のぬけがらにすぎぬではないか、よしそれが未来への果実のやくめをする場合があったにせよ、それはもう現在をうしなったおとろえた人のためのものではないか、なぞと。熱病のような若さは、ああした考えに、むやみと肯定をみいだしたりしがちである。」しかし、この花盛りを終え、現在をその中から見出したときに、こう思えてくるのです。「追憶は「現在」のもっとも清純な証なのだ。愛だとかそれから献身だとか、そんな現実におくためにはあまりに清純すぎるような感情は、追憶なしにそれを占ったり、それに正しい意味を索めたりすることはできはしないのだ。」三島の最後が予感されますね。
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2007年03月11日 [講演先にて]
賢母
今日は、4月から開園する園の保護者説明会がありました。どの保護者も、子どものことを思い、一生懸命に説明を聞いていました。しかし、年々、一所懸命に子どものことを思い、心配するあまりに、逆に子どもに対して過剰に保護しようとする保護者が増えてきた気がします。怪我をさせないように、ストレスを感じさせないように、つらい目にあわせないようにと心配するあまりに、それらに対して自ら乗り越えようとする力を奪っていることがあるのです。我が子のために何をしてあげればよいかを考えるのは、よほど広い視野を持っていないと、逆効果になってしまいます。
先日、佐賀に行った時に大隈重信の生家を訪れました。
佐賀大隈記念館前に保存されている生家は、父・信保が買い取り、居宅としていたもので、当時は藁葺きの平屋でしたが、のちに大隈重信の勉強部屋として、2階部分の八畳間などが建て増しされています。この家で大隈は、知行300石、物成(年貢高)120石を受ける佐賀藩の砲術長であった父と、慈愛にあふれた母の愛情をうけて幼年時代を過ごしました。ここで受けた母親の愛情を大熊は忘れることがなかったのでしょう。官僚として、政治家として東京で活躍するようになったからは、大熊は佐賀に帰る回数は多くありませんでしたが、ある時、生家の前で車をとめさせ、もはや人手にわたり貸家となっていた生家を感慨深げに眺めていたといいます。随行していた当時の佐賀市長は、それまで大隈の生誕地を放っておいたことにすっかり恐縮し、その生家を保存すべく「大隈候記念物保存会」を組織しました。大隈の父信保は、佐賀藩主鍋島家に仕えて石火矢頭人(砲台司令長官)を勤めていたため、わが子には早くから砲術の名手になることを望んでいましたが、不幸にして大隈12歳のときに病死してしまいます。その後、彼は母三井子の手で育てられることとなりました。その母は、几帳面で度量が広く、慈愛に満ちあふれた母でした。その母も、夫信保を失ってからは、八太郎らをかかえて家計のやりくりに苦労しましたが、自分は質素を旨としながら、子どもには不自由な思いをさせない良き母でした。大隈はその母を回想して、「わが輩は母一人の手で育てられたが、15、6歳の時分からすこぶる乱暴者で、まるでがき大将のようであったが、友人が盛んに遊びにきましたが、母は大層人を愛し客を好まれたから、友人が訪ねてくるのを非常に喜んで、手料理をこしらえて馳走してくれられた。」(「大隈伯百話」)と言っています。大隈の来客好きは、この母の影響によるものかも知れません。こんな逸話も残っています。大隈は子どもの頃、いたずら者で毎日毎日けんかばかり、生傷の絶える間がありませんでした。母は、非常に仏法の信仰が厚く、慈善を施すことを好みました。そんな息子を心配して、「お前、これから朝起きたら顔を洗ってすぐ手のひらへ「南無阿弥陀仏」と書きなさい。そしてけんかを始めるときには「南無阿弥陀仏」を十ぺん繰り返し唱えて、なおかつ敵愾心が消えないなら、そのとき、はじめてけんかをしなさい。」と教えます。また、大隈の厄年に何とか息子の安全を守りたいという一念から、自分で蓮の糸をつむいで一反の織物をつくり、それを四十八に切って、子安観音の絵を描き、全国の主な寺四十八寺へ納めます。大隈もこれにこたえて、孝養のかぎりをつくしました。こうして三井子は幸福な晩年を送り、90歳の天寿を全うしました。賢母になるのは、難しいですね。
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2007年03月10日 [講演先にて]
吉野ヶ里

この二枚の写真は、とても似ていると思いませんか、私は、あまりに似ていたのでちょっとびっくりしました。1枚は、今年の2月に行ったドイツでの保育室内の写真です。もう1枚は、今日訪れた「吉野ヶ里歴史公園」の中の集落の中のひとつの工房で、布を染めているコーナーです。もう少しいくと、今度は、大工コーナーがありました。これも1枚はドイツの保育室で、もう1枚は吉野ヶ里です。

ドイツの保育室は、今年訪れたばかりのほやほやの部屋ですが、吉野ヶ里遺跡は、その時代の再現ではありますが、日本で稲作の文化が始まり、定住文化が根付いた日本の文化の原点ともいえる時代の紀元前 3 世紀から紀元後 3 世紀までの弥生時代の写真です。もうひとつの写真は、糸を紡いで、それを縒って、布を織る作業をしているのですが、やはりドイツのシュタイナー学校での作業を見ているようでした。
不思議ですね。一人の人間の発達、成長は、人類の進化してきた過程に似ていると言われます。もしかしたら、幼児期は、弥生時代かもしれませんね。この時代は、稲作が伝わったということはよく知られていますが、それによって、弥生時代前期(紀元前3~前2世紀)には、分散的に「ムラ」が誕生しました。集団での営みをするようになったのです。やがてその「ムラ」が、「クニ」へと発展する兆しが見えてきます。弥生時代中期(紀元前2~紀元1世紀)になると、この集落の周りを一周する大きな外環壕が掘られます。そして、首長を葬る「墳丘墓」やたくさんの「甕棺墓地」も見られます。それは、集落の発展とともに、その防御も厳重になってきていることから「争い」が激しくなってきたことがうかがえます。そして、弥生時代後期(紀元1~3世紀)には、国内最大級の環壕集落へと発展し、大規模なV字形の外環壕によって囲まれ、さらに特別な空間である2つの内郭(北内郭・南内郭)をもつようになります。この内郭は、役割分担をするようになったために、役割によって場所が定められたのです。特に北内郭では大型の建物が登場し、ここで、いろいろなことを決めていくのです。今の国会議事堂のようなものだったそうです。
ここ吉野ヶ里遺跡は、我が国最大の遺跡で、弥生時代における「クニ」の中心的な集落の全貌や、弥生時代 600 年間の移り変わりを知ることができます。それは、日本の様子を記した最古の記録である 魏志倭人伝に出てくる「邪馬台国」の時代を彷彿とさせるもので 国の特別史跡にも指定されています。以前から、何度かそのあたりの通過するときに車窓から、背振山を背景に、高く聳え立つ建造物を見るたびに行きたいと思っていたのですが、やっと佐賀での講演があったので、思い切って訪ねて見たのです。着いてみると、やはり思っていたとおり、広大な敷地に、建物が70棟以上も復元されています。しかも、まだ、その何倍かの復元の地が、このあと公開される予定とか。以前に、縄文時代の遺跡である「三内丸山遺跡」に並ぶ感動を得ることができました。この弥生時代の巨大な環壕集落が見つかったのは、この場所に昭和61年、大規模な工業団地の造成が計画され、それに先立って発掘調査が始まったそうです。復元された建物は、祭殿・祀堂・斎堂などの祭祀関係や、物見櫓・高床住居・高床倉庫が掘立柱建物として復元されました。

また、住居や工房を竪穴建物の型式で復元したものもあります。復元建物は数が多いだけでなく、構造形式が多種多彩で、弥生時代を彷彿できるように工夫検討されています。
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2007年03月09日 [講演先にて]
生卵
よく、宿泊した宿で、朝食に「生卵」が出ることがあります。今は、ほかに、目玉焼き、いり卵、卵焼き、温泉卵、ゆで卵など様々な卵料理が出ますが、昔は、たとえば修学旅行の時などは必ず生卵が出ました。今日の旅館では、朝食に生卵が出ました。そんなときには、皆さんは、どのようにしてその卵を食べますか?ほとんどの人は、「卵かけご飯」して食べるようです。これは、生の卵と飯を混ぜ、少量の醤油等で調味して作る飯料理ですが、呼び方は地域によって違うようです。「卵ぶっかけご飯」、「卵ご飯」、「卵かけかけご飯」、「卵かけ」、「たまご飯」などと呼ばれていますが、一般的には、関東では「卵かけご飯」、関西では「卵ご飯」と呼ぶ傾向があるようです。この食べ方は、手が空かないときに発明されたあの「サンドイッチ」に匹敵する日本特有の食文化ではないかと思います。朝食によく食べられるのには理由があります。第一に短時間で食べ終わることができる点です。この理由は、ご飯に生卵を加えることで、炊いた米特有の弱い粘り気が減り、米粒一つ一つが分離して流動化し、流し込むように掻き込んで食べることができるためである。このため、たとえば前日の酒量がたたって、食欲不振で昼食までの間に必要とする量が摂れない気分の時でも、流し込むように食べることができ、多くの量を摂ることができるからです。しかし、鳥類が産む卵を食用とするようになった歴史は比較的新しく、卵かけご飯を食べるようになったのは明治時代だそうです。平安時代以降、卵は神仏に供えるものであり、食べると罰が当たるとされていました。そこで、一般的に鶏卵を食べるようになったのは、江戸時代だといわれています。また、現代の日本では卵は生食できる食品として広く知られていますが、外国の殆どの国では、卵を生食する食習慣はなく、火を通した調理が一般的です。それは、生卵はサルモネラ食中毒などを起こしやすく、衛生や伝染病感染の背景から生卵を安全に食べられる地域は限られているからです。日本では、生で食べることを前提にしているので、鶏卵農家が抗生物質を含んだ飼料を与えたり、衛生管理全般が行き届いていますが、日本でも最近、サルモネラ食中毒が増加しているそうです。私は最近は、普段あまり卵かけご飯は食べません。納豆ご飯もそうですが、ご飯は、白いご飯として味わいたいために、何かを混ぜたり、ご飯に何かをかけたりするということはせずに、別々にして食べます。ちなみに、今日は、コンロで温める味噌汁だったので、その中に卵を割りいれて食べました。ご飯に混ぜると言えば、とても美味しいので、小さいころによく食べたものがあります。それは、まず、茶碗にほかほかのご飯をよそります。そのご飯の上に、バターをひとかけのせ、融けるのを待ちます。その上に、少量の醤油をかけ、ご飯、ベター、しょうゆを絡めるようにかき混ぜます。そのマッチングは、微妙な融合があります。子どものころは、とても美味しくて、よくそうして食べました。最近の子どもは、そのように食べることもあるのでしょうか。もし、食べたことのない人がいたら、ぜひ試してみてください。あまり美味しくないとしたら、こんなものを昔はおいしいと言って食べた時代もあったのだということを思い出してみてください。食文化には、消えていくものが多くありますが、その時代を反映していることが多いので、大切にしていきたいですね。
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2007年03月06日 [講演先にて]
遍路
今日の読売新聞に、「モラルを問う」ということで、「遍路道 ポイ捨て」という記事が掲載されていました。「遍路の旅で人生を見直したい」という遍路が、ごみを路上にポイ捨て、不法投棄が多いそうです。「癒しの道とも言われる遍路道だが、地元ではこのままでは嘆きの道に変わってしまうと心配する声も上がり始めた。」というものです。しばらく、癒しシリーズをこのブログで続けましたが、「癒しの道」というものもあったのですね。
この四国八十八か所の霊場は、弘法大師が開いたものですが、これら霊蹟をめぐる四国遍路は、伊予国温泉郡荏原村の長者、衛門三郎が自分の非を悟り、大師のあとを追って四国を廻ったのがはじまりだと言われています。私は、四国に行くことが多いので、行った先々にある霊場をめぐればよかったと思っています。これら四国霊場は、阿波の国(徳島県)を発心の道場と言い23ケ寺、土佐の国(高知県)は修行の道場で16ケ寺、伊予の国(愛媛県)は菩提の道場で26ケ寺、讃岐の国(香川県)は涅槃の道場で23ケ寺。全て合わせて八十八ケ寺、三百余里(1200~1400km程)の旅です。この霊場は、四国の山野に開かれた心と体の修行の道場で、八十八の煩悩を除き、八十八の功徳をもたらすと言われています。最近、管直人さんが回ったことでも有名になりましたが、四国遍路がはやってきた気がします。それは、団塊の世代が、自分を見つめるためということで回り始めたということと、観光バスや車を利用して回ることもできるようになったことがあるでしょう。遍路(巡礼者)は札所に到着すると、ある程度決められた手順(宗派によって多少異なる)に従い、本堂と大師堂に参り、般若心経など決められた読経を行い、その証として納札を納め、納経所で寺の名前や本尊の名前、本尊をあらわす梵字などを墨書し納経印を押したものを納経帳に受領することができます。この回り方が、スタンプラリーと揶揄されることもあります。八十八か所すべてを廻りきると「結願成就」となり、その後、高野山(奥の院)に詣でてそれを収め、「満願成就」となります。先日、徳島に行ったときに「霊山寺」を訪れました。ここは、第一番札所ということで多くの巡礼者が集まり、巡礼用具である白衣や金剛杖、菅笠さらに納経帳、掛け軸などが売店で売られていました。
弘法大師といえば真言宗の開祖として知られていますが、嵯峨天皇、橘逸勢と共に「三筆」と呼ばれるほどの書の名人としても有名でした。その弘法大師が字を書き損じたという話は「今昔物語」におさめられています。京の都の大内裏に応天門という門があります。弘法大師は勅命を受けてこの門に掲げる額を書くことになりました。ところが書き終えて額を門に掲げてみると、「応」の字の一番上の点を書き忘れていたのです。ということで、「弘法にも筆の誤り」「弘法も筆の誤り」という「かの書の大家、弘法大師ですら書で間違いを起こしたことがある」ということから、「どんな人間でも間違いは起こすもの。」という意味で使われます。しかし、それをどうしたかというと、さすがは弘法大師、筆を投げつけて点を打ったといいます。やはり器が違う、誤りの直し方が違う、ということで、「しかし、弘法大師は書き直し方さえ、常人とは違う」という、誉め言葉としての意味も併せ持つ諺とされています。間違いは誰でもすることがありますが、それをどのように直していくかが大切なのですね。
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2007年03月04日 [講演先にて]
第9
この写真の看板は、何を表していると思いますか?ドイツに行ったことがある人はすぐにわかると思います。そうです。あのドイツのパン「プリッェル」です。この看板は、ドイツのパン屋さんの看板です。この看板に、思いがけず、今日の朝に来た、徳島県鳴門で見ました。どうして徳島にあるのでしょうか。この建物は実は映画のロケ現場です。その映画とは、昨年6月に全国東映系でロードショーされた「バルトの楽園」です。この映画は、言語や習慣、文化の異なる国民が収容所生活という特殊な環境で、ドイツ人捕虜と日本人がどのように交流していったのか?そして現代に何を残したのか?と問いかけながら、捕虜達の技術、職業、知識、経験が生んだ地域住民との友好と産業の興隆、軍人でありながら、生きる自由と平等の信念を貫き通した所長・松江豊寿を始めとした所員達のヒューマニズムを描き、反人権と暴力が衝突し、混迷を極める現代社会に警笛を鳴らし、希望の光を灯してゆくことを目指したものです。
1914年、第一次世界大戦で日本軍は、3万の大軍を送り込み、ドイツの極東根拠地であった中国の青島(チンタオ)を攻略しました。その戦いの結果、ドイツ兵4700人が捕虜として送還され、日本各地にある俘虜収容所に収められる事となりました。ふつう、厳しい待遇が当然な俘虜収容所の中で、約1000人の俘虜たちが収容された奇跡のような収容所が、徳島県鳴門市の板東に存在していました。
それは、ここ板東俘虜収容所の所長を務める会津人の松江豊寿は、陸軍の上層部の意志に背いてまでも、ハーグ条約に則りドイツ人捕虜達の人権を遵守し、ドイツ人俘虜収容所としては例のない寛容な待遇をさせたのです。そこで、ドイツ人の捕虜達は、言語・習慣・文化の異なる地域住民と民族を越えた素朴な人間愛を育みながら収容所での生活を送ることができました。そこで、様々な技術が日本人に伝達されたのです。たとえば、パンの伝承は、徳島県の農業技師が自宅の庭に小屋を建てて俘虜を数人宿泊させ、そこから敷島パンに通勤させてパンの製法を伝授していたそうです。また、鳴門市内にある『ドイツ軒』というパン屋は、俘虜たちが教えた製パン技術を今も守っているそうです。そして、ソーセージは、 日本ハムの創業者である故・大社義規氏が食肉加工技術を俘虜たちから学び、徳島市内に日本ハムの前身となる「徳島ハム」を創業したそうです。さらに、ロースハムの名付け親である俘虜のアウグスト・ローマイヤー氏は、解放後に帝国ホテルでハム・ソーセージ職人として従事し、やがて東京銀座に『ローマイヤー』というレストランを開いたそうです。そして、俘虜のハインリヒ・ヴェーデキント氏は、解放後に月星ゴムに迎えられ、50余年を勤め上げ、日本のゴム産業発展に寄与したそうです。有名なところでは、ドイツ人菓子職人カール・ユーハイム夫妻が神戸に創立し、戦後バター納品業者だった河本春雄前社長が出資、株式会社化したのが、バウムクーヘンが有名な「ユーハイム」です。ただ俘虜を痛めつけ、過酷な処遇を与えていたなら、ずいぶんと日本も損したことでしょうね。人はいがみ合うことからは、恨みを生みこそすれ、得られるものは何も生みだしません。助け、援助するところから、また、共生し、協力するところから後世に残るものが得られるのです。
もうひとつ、重要な遺産があります。これが映画の主題です。それは、ここの収容所内で、ベートーヴェンの「交響曲第九番」がドイツ兵捕虜による全曲演奏がなされたのが、日本における第9の初演とされています。
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2007年03月01日 [講演先にて]
利根川
よく、自然とか、地理 、歴史。建物。組織などを表すとき、その規模、特徴などによって順位を決め、その順位で呼ぶことがあります。よく使われるのは、「ナンバーワン系」といわれる場合です。「世界一○○」「日本一○○」「宇宙一○○」という表し方をします。それとか、「初系」で言う場合は、「日本初の○○」「日本最古の○○」「日本最後の○○」「日本唯一の○○」とずいぶんいろいろな言い方がありますね。このような言い方をすれば、どんな地域でも何かは有りそうな気がしますし、それを観光の売りにするところが多くあります。今日、夕方渡った「利根川」は、「日本一流域面積が広い川」といわれています。この利根川は、群馬県・長野県・栃木県・茨城県・埼玉県・千葉県・東京都にまたがり、全長約16,840kmあります。また、ほかに「三大系」という言い方で表すことがあります。「世界三大○○」「日本三大○○」と呼ばれるもので、「三冠」とも言われることがあります。この中に利根川が入る場合は、「日本三大河川」として、信濃川・利根川・石狩川が挙げられています。また、「三大暴れ川」として、利根川・筑後川・吉野川が選ばれています。ちなみに、川に関係するものとして、「日本一長い川」は、信濃川(367km)「日本一短い川」は、沖縄県の塩川(300m)、「日本三大急流」が、最上川・富士川・球磨川で、「日本三大清流」が、柿田川・長良川・四万十川です。「世界三大河川」は、アマゾン川・ナイル川・{ミシシッピ川・長江}で、世界一流域面積が広い川は、アマゾン川 (705万km²)、世界一長い川は、ナイル川 (6650km ないし 6695km)です。
話はずいぶんとそれましたが、今日渡った利根川は、千葉県と茨城県を分けています。全長は約322kmで、信濃川に次いで日本第二位で、流域面積は約16,840km²に及び日本で最大です。また、日本三大暴れ川の一つに数えられるために、それらの川を人にたとえて利根川を長男と見立てて「坂東太郎」の異名を持ち、「筑紫次郎」は、筑後川(筑紫三郎といわれる場合もある)、「四国三郎」は、吉野川(四国次郎といわれる場合もある)を指します。この利根川がどう流れているかというと、源流は良く分からないのですが、海に流れ込むところは、あの房総半島のとがったところの銚子あたりだということは、日本地図を思い浮かべるといっしょに思い出されますね。しかし、これは、人工的に無理やり流れを変えたことはあまり知られていません。江戸時代初期までは、江戸湾(現在の東京湾)に注ぐ川であったのです。そして、今では利根川の支流となっている渡良瀬川や鬼怒川は独立した河川でした。

1000年頃の関東平野の水脈想定図
ところが、江戸幕府は食糧を賄うために関東平野の新田の開墾、東北地方や北関東から江戸の街への舟運の開発と安定化、水害の軽減、飲料水の確保などを目的として、利根川を渡良瀬川筋に、さらに常陸川筋に、そして鬼怒川水系と繋ぐように、少しずつ東に付け替える大工事を実施しました。最終的には利根川の本流は銚子の方へ流れるようになったのです。(治水上の利根川本流が銚子への流路に確定するのは明治時代です)多くの人の努力によって、江戸の人口密集地帯を避けるように流れを変えていった利根川は、分流後の20kmほどの部分は、人工的に開削されたものであり、現在、利根川の流域面積は日本一となっていますが、その大半は、瀬替えによって生じたものです。これを「利根川東遷(とうせん)事業」といいます。その結果、江戸では水田や交通路の開発を中心とした経済基盤の整備が進み、関東の発展の土台を築いたのです。こんなことも、利根川を渡らないと思い出しません。
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2007年02月27日 [講演先にて]
癒しの音
日常と違う環境におかれることで癒されることがあるということ、その環境を、保育室の中に意図することを、ドイツに行って学びました。そのほかにも考えてみると、様々な癒しの工夫が考えられます。昨日の日曜日、福岡での講演の合間で時間が取れたので、福岡県の中で、まだ行ったことがなく、行きたいと常々思っていたところに行ってみました。そこは、白秋ゆかりの地「柳川」です。着いたのは、夕方近くでしたが、念願だったドンコ舟に乗りました。ほぼ1時間あまり、船頭さんがさお1本で操る舟に乗って、堀割を下ります。今の時期は寒いので、中にコタツが置かれ、そこに足を伸ばして座ります。時間が時間だけに他の客は、子ども連れの家族一組だけでした。

その舟に揺られていると、なんだかゆったりとした気持ちになり、心が癒される感じがしました。それには、癒されるある条件がそろっていたからです。まず、音です。この舟は、船頭さんが、自分の力だけを頼って、力まず、流れにゆだねながら操っていきます。まず、乗って気がついたのが、まったく音がしないことです。この堀川の脇の道もほとんど車が通りません。シーンとしています。この堀川は、一般の人も、許可なしに自分の舟を浮かべることができるそうです。途中で、カヌーを家の脇に縛り付けているのを見かけました。しかし、唯一の条件が、人力だけで動かすものということです。電力を使って動くものは禁止だそうです。人力で動くということは、音だけでなく、動きも人の気持ちに沿う速さです。心臓の鼓動、目の動き、思考の展開、これらの速さは、ひとの力、自然の力にマッチします。ですから、保育室の中で音の出るもの、動きを楽しむものは、人の力や、人の息や、自然の風や、自然の光の動きによって動くものが癒しを与えます。ですから、ドイツでは、装飾は壁に貼るのではなく、天井からつるし、人の動きや、風によってかすかに動くものとなっています。そして、部屋には、たいてい、打楽器が置いてあります。太鼓やタンブリン、そして、鳴らして見せてくれたのは、日本では仏壇においてあるあのチーンと鳴らす鐘でした。
日本人ならみんなよく知っているものであるのに、自慢げに鳴らして説明をしました。しかし、そのときに、「ほら、聞いてみてください。」と言ったのは、鳴らしたときの音ではなく、そのあとにいつまでも鳴り響いている、いわゆる「余韻」といわれる音でした。園庭から部屋に入る合図も、ドラをたたきます。これも、叩いた時の音というよりも、その音の余韻で子どもたちは合図を感じます。確かに、音は、余韻に癒しを感じます。そういえば、いろいろな分野において、海外では日本文化が外国では見直されているそうです。それは、日本文化には、癒し効果が意図されているものが多いからでしょう。たとえば、「食」です。栄養に関してだけでなく、見た目、容器、とても癒されます。そして、「光」。障子紙や、すだれを通過した光は、とても癒されます。そして、この余韻を大切にする「音」。そんなものを大切にする海外に比べ、今の日本では、夜でも真昼間と同じような明るさの電灯、自動販売機、コンビニ、そして、やたらとヘッドホンから聞こえてくる電気音や、街にあふれる車やバイクの騒音。そして、電気で動くゲームやテレビ。もう一度、保育室の中の光や影、音を見直すべきかもしれません。ゆったりと時が流れていくような、そんな日々をたまには過ごす必要があるかもしれません。柳川で、ゆったりと揺れる舟に乗り、船頭さんの時折混じる歌声と、少ししわがれ声でゆっくりする案内を聞きながら、そんなことを思いました。

投稿者 fujimori : 21:54 | コメント (3)
2007年02月07日 [講演先にて]
千里浜
一昨日、とても面白い体験をさせてもらいました。車で砂浜を走りぬけたのです。雰囲気は、四駆に乗って、砂浜に乗り入れた暴走族の気分でした。実は、能登半島にある「千里浜なぎさドライブウェイ」を走ったのです。ここは、海岸線のビーチを普通自動車はもちろんのこと、大型バス、軽自動車、オートバイ、自転車でも走ることができる、世界でも珍しく、日本では唯一、浜辺を走る天然砂浜のドライブウェイなのです。押水町今浜から羽咋市までの全長約8kmも続いています。砂浜を走るというと、暴走族だけでなく、思い出すものに「ダカール・ラリー(正式名称ユーロミルホー・ダカールラリー、通称パリ・ダカ)」と呼ばれるはラリー競技大会があります。このラリーは、「世界一過酷なモータースポーツ競技」といわれています。それは、途中サハラ砂漠を縦断するからということがあります。砂浜を走るのは、人が走ることでもわかるようにかなり体力を要します。足が砂にめり込むからです。当然、タイヤが砂で空回りをしてしまって、四輪駆動車でやっと走ることができます。では、なんでこの「千里浜なぎさドライブウェイ」はどんな車でも走れるかというと、その秘密は砂のきめの細かさにあります。しかも砂の大きさが均一なうえに、粒子の形がデコボコで、硬い材質のものが多いために剪断抵抗力が強く、しかも飽和度(水の含む割合)が91%もあるために舗装道路のように締まっているために、タイヤが砂に取られることなく、どんな車でも走ることができるのです。どうしてそんなにきめ細かくなったかというと、日本海へ吐き出された手取川の土砂が対馬海流によって能登半島を北上し、粒子の大きい土砂は途中で堆積、残った平均0.15~0.18mmの細かい砂が、滝崎から巌門にかけての湾曲地形に衝突してUターンし、千里浜に堆積したそうです。このドライブウェイは、24時間自由に走行可能ですが、潮風を受けながら、能登半島国定公園の雄大な自然の中をゆったりと走る爽快さは、かつて味わったことのない感動を覚えます。しかも、日本海に沈む夕日を見ながらのドライブはいいですね。砂浜には、何人もの人々がその写真を撮ろうと集まっていました。
水平線は少し雲で覆われていましたが、空と海の色が、青から紫、そして雲間からもれてくるオレンジの光は、このあと暗い海が訪れるであろうことを予感させるように最後の変化を見せています。この地名である「千里浜」は、「せんりはま」とは読まずに、「ちりはま」と読みます。「ちりはま」という語源は、「塵と散は同じ意味で、本来作物が出来ず、税のかからない土地を意味した」といわれています。しかし、俗説では、「海流の関係からゴミが流れ着く浜から、塵浜と称した」とか、「加賀の殿様が通られた折に、勤勉な農民を見て「働けよ、塵も積もれば山となる」と激励したことから、散浜村を塵浜村に替えた」との話もあります。しかし、塵浜村をゴミハマと蔑称する者もあって、昭和2年に千里浜村と替えられたことは、地元では有名なようです。日本国内には、他にも車が乗り入れられる海岸はありますが、どれも規模が小さく、これだけの規模のものは、ここしかないそうです。しかし、今年の暖冬のせいで、この砂浜に何匹ものハリセンボンが打ち上げられている姿は、なんだか切ない気持ちでした。美しい自然をどう残していったらいいのでしょうか。
投稿者 fujimori : 22:22 | コメント (3)
2007年02月05日 [講演先にて]
小倉
先日の北九州小倉での講演の時の夕食は、もちろん以前のブログ(2006年2月21日)で書いた小倉発祥「焼きうどん」でした。そして、宿泊するホテルに向かったのですが、途中、機内でもらった小冊子に紹介されている「旦過市場」がありました。
折角なので、そこを歩いてみました。市民の日常の台所として親しまれているほか、北九州ならではの食材(この市場の中には「くじら」というのぼりが立っている店もありました。)や名物を求めて観光客を含めて、多くの人が訪れていました。しかし、なんといっても地域の商店街といったイメージで、夕方は地元のお年寄りが、店の人と会話しながら、安くなった品物をたくさん買い求めていました。入り口にあるスーパー「丸和」は日本初の24時間営業スーパーとして有名ですが、その他の店は、地元のお年寄り相手ということもあって早い時間で閉めていました。そのあとホテルに向かうと、その玄関の前にある石碑が建っていました。そこには、「無法松の碑」と書かれています。これは、小倉の作家岩下俊作が、小説「富島松五郎伝」のなかで創作した男の松五郎(無法松)の碑です。
この原作をもとに数々の映画、演劇で「無法松の一生」という題名で上演されています。若い人はたぶん知らないかもしれませんが、わたしはその何本かを見た記憶があります。この内容は、か弱い吉岡母子の将来を思い、(身分差による己の分を弁えながらも)無私の献身を行う無法松と、幼少時は無法松を慕うも長じて(自身と松五郎の社会的関係を外部の視点で認識するようになったことで)齟齬が生じ無法松と距離を置いてしまう敏雄、それでも無法松を見守り感謝の意を表し続けてきた良子との交流と運命的別離・悲しい大団円などが描かれています。したがって、この無法松という人物像は、北九州人の代表というより、情義に生きた、日本人のあこがれの庶民像として全国的に慕われています。この碑は、無法松を愛する土地の人びとによって、昭和34年、小説で彼が住んでいたと設定されていたこの古船場の地に建てられました。碑銘は岩下俊作の筆により、碑の下には昭和33年ベネチア映画祭でグランプリを受賞した稲垣浩監督の「無法松の一生」のシナリオが埋められています。そして、毎年3月4日には碑前で供養が行われ、小倉祗園太鼓をたたき、無法松の好物とされた酒をそそぐそうです。このベネチア映画祭で受賞したのは、1958年に公開された、三船敏郎主演の映画です。この映画は、実は1943年に阪東妻三郎が主演で、大映で作られ公開されたものを、そのときの監督であった稲垣浩が無念の想いを晴らすため、また、カラー、シネマスコープで松五郎を撮るために東宝でリメイクしたものです。最初の映画は戦争の配色が色濃くなったころに作られたということもあって、内務省による検閲で松五郎が未亡人に想いを打ち明けるシーンが10分カットされたそうです。それは、時局柄軍人の未亡人の恋愛は戦地の将兵の士気を挫くと考えられたからでした。この時、検閲官は「本当はこれをカットするのは惜しい。あと何年かすれば戦争も終わるだろうからそれまで保留という扱いにしたらどうだろう」と言ったようです。しかし、戦後もアメリカ占領軍の検閲によって封建的だとされたシーンが8分カットされました。軍国主義であろうと民主主義の名の下でも、同じようなことが行われるのですね。いまも、本当のことを私たちは知らせされているのでしょうか。情報から真実を見る目を養いたいと思います。
投稿者 fujimori : 23:20 | コメント (2)
2007年02月02日 [講演先にて]
フライヤー
昨日、北九州へ行くのに「スターフライヤー」という会社の飛行機に乗りました。うわさの飛行機にやっと乗ることができました。この会社は、北九州市小倉北区に本拠が置かれていることからわかるように、新北九州空港の開港日に合わせて、2006年3月16日に羽田との間を就航するためにつくられた新規航空会社です。この会社の設立の2002年12月17日はライト兄弟のフライヤー号初飛行からちょうど100年目にあたります。ですから、このフライヤー号にちなんで、「スターフライヤー」という社名です。皆さんの中で乗ったことのある人はいるでしょうが、私としての評価をしてみようと思います。まず、羽田での発着ゲートは、出入口から最も遠い位置にある1番が使われており、離着陸も後回しになることが多いようです。実際に昨日着陸が待たされて15分以上も上空を旋回していました。つぎに機体の外観です。これは、黒を基調とし、下のほうが白くなっていて目を引きます。機体を含めたトータルデザインはデザイナーの松井龍哉によるものだそうです。これは、デザイン的にシックというだけでなく、配色が機内で配られた小冊子によって解りました。たぶん「鯨」をイメージしたものでしょう。北九州はかつて「鯨のまち」だったそうです。あまり知られていませんが、このあたりが、鯨油による害虫(ウンカ)駆除法の発祥の地だそうです。そう思って改めて機体を見てみると、まさに鯨が泳いでいるかのようです。さまざまな職員の制服も、この黒を基調としたデザインになっています。また、客室乗務員の制服に全員パンツルックを採用しているのはアジアでは非常に珍しいそうです。中に入って、まず目に入るのが、全席黒の本革張りのシートです。座席は、標準で170席とるところ144席仕様に減らしているためにゆとりがあり、らくらくと足が組めます。また、片側3列で、よほど混んでいなければ真ん中には座らせないようにしているようで、隣とも余裕があります。前から起こすテーブルのほかに、真ん中の席の背もたれのところを開くとカクテルテーブルが出せるようになっています。そして、足元には、フットレストがあり、足を乗せ、動かすと土踏まずに当たってとても気持ちがいいです。ヘッドレストもスーパーシート並みに高さが変えられ、脇を起こすことができます。そして、前には個人型液晶TV装備されており、ラジオ同様メニューを選ぶことができます。NKHニューだけではなく、CNNなど外国語のニュースや、いくつかチャンネルがあります。イヤホンは座席ポケットに入っておらず、音楽を聞きたい場合は客室乗務員から受け取ります。ちょっとしたことですが、それを聞くイヤホンを差し込む穴が肘掛の前にあり、チャンネルは肘掛の上にあり、隣からは見えにくくなっています。普通は、内側にあるので、座っていると差し込みにくく、腿に当たりますし、チャンネルも変えにくいです。そして、機内誌は製作していませんが、代わりに市が発行している小冊子を希望者に配ります。新聞の配布、雑誌の貸し出しはありません。そして、ノートパソコンとか、携帯電話の充電用電源コンセントが座席についています。機内の飲み物もいいですね。お茶のほか、タリーズコーヒー、アップルジュースは完熟、日田天領水、オニオンスープには、具としてオニオンも入っています。今後、どのくらい採算が合うかわかりませんが、努力している企業はがんばってほしいですね。
投稿者 fujimori : 21:34 | コメント (5)
2007年01月25日 [講演先にて]
ひとやすみ
今日、講演のために降り立った駅は、近鉄新田辺という駅です。その駅は、JRでいうと、京田辺という駅のそばです。その駅に降り立つと、バスロータリーの中心に橋を渡っている小僧の像があり、橋の欄干の片方には、「とんちばし」もう片方には「たなべいっきゅうばし」と書かれています。
それは、ここ京田辺市薪には、室町時代中ごろ、63才から88才で亡くなるまでの約25年間、とんちの一休さんが住んでいて、亡くなった一休寺の酬恩庵があるのです。一休さんのとんち話は、子どもにはとても人気がありますね。偉そうな大人をぎゃふんといわせる痛快さがあるからです。有名な逸話として、「評判の高い一休を困らせようと、自宅に招いた商人が、橋のたもとに「このはしわたるべからず」と書いた立て札をあげ、家に入れないようにした。ところが一休は、そしらぬ顔をして入ってきたので、商人は、札が目に入らなかったのかとなじったところ、一休は、「はい、見ましたから端をわたらず真ん中をわたってきましたよ」と答えたということです。」「和尚は、壷に入った水あめを自分だけ舐めていました。一休は自分たちも欲しいと言ったが、和尚は、これは大人が少し食べるだけなら薬になるが、子どもが食べると死んでしまうおそろしい毒だから、みんなにやるわけにはいかないと言います。しかし、小僧たちは、和尚の留守に、壷を取り出して、ほとんど舐めてしまいます。みんなは、和尚に怒られると青くなりますが、一休はあわてず、和尚が大切にしている硯を割って、泣きまねをさせます。そして和尚が帰ってくると、大事な硯を割ってしまったので死んでおわびをしようと思い、あの毒を舐めたと言います。」「和尚は自分だけ鯉汁を食べ、小僧には味噌汁しかやりません。そこで一休は池から大きな鯉をとらえ、料理しようとしたところ、和尚が「殺生はしてはならぬ!」と咎めます。すると一休は「毎日精進料理ばかりでは、お経にも力が入らないので、この鯉にちゃんと引導を渡しますから、大丈夫だ」と答えます。一休の生意気な言葉に「引導の渡し方など知っているのか」と問う和尚に、一休は「汝、元来生木の如し、水中にある時はよく捕うること難し、それよりは愚僧の腹に入って糞となれ、喝!」池でただの鯉として一生を終えるより、人の養分になって役に立て、という言葉で、形式だけの寺のあり方を皮肉ります。」
一休さんのアニメがありましたね。そのエンディングテーマが「ははうえさま~」と始まるのは、こんな経歴があるからです。一休は、後小松天皇を父として、天皇のそば近く宮仕えをしていた日野中納言の娘照子姫との間に生まれたといわれており、本来は、天皇の嫡子として世継ぎの地位にありました。しかし、照子姫をねたむ人たちの計略で、母親は宮中を出され、一休は洛西の民家で誕生するのです。そして、生母のもとで育てられますが、6歳の頃、母の考えで、臨済宗の安国寺で出家します。ここでの11年間での禅の修行中に、早くも12歳頃から詩文に才能をしめし、大人の僧侶でも理解するのが難しい清叟仁蔵主の維摩経の講義を熱心に受けて、周囲を驚かせたエピソードが残っています。ですから、「とんちの一休さん」としてのエピソードが数多く残っているのでしょう。また、アニメの中で、CMに入る前に、寝転んだ一休が、「ひとやすみ、ひとやすみ!」というせりふは、当時、しゃれかと思っていました。しかし、一休という号は、「有漏地から無漏地へ帰る一休み 雨降らば降れ 風吹かば吹け」という道歌からきています。一休というのは、煩悩の「有」の世界と、煩悩のない「無」の世界のはざまにあって、一休みするという意味です。子どものころの印象とは違って、深い意味がありますね。
投稿者 fujimori : 21:01 | コメント (2)
2006年12月15日 [講演先にて]
狸
最近、ブログで書いたように「狸」に縁があるようです。最近、園の周りでも狸の交通事故が多く、ずいぶんとかわいそうに思います。それよりも、どうも狸というと伝説が多いですね。それは、幻術を操り、幻覚を見せる事によって人を騙すと言われて、日本古来、狸霊として伝わり、悪戯好きが多く、人を化かしてからかうというイメージです。また、伝説として多い理由のもうひとつは、勢力争いをして、同種同士で合戦を行う事もあるために、「○○狸合戦」として人間にダブらせて語ったのでしょう。同じように人を化かす霊として狐がいますが、狸は、人などを操ったりするのではなく、幻術を用いて様々な状況を人に見せたりする些細な悪戯がほとんどなので、実際に退治されるような事は少ないようです。突然、こんな話をするのは、今日も狸に縁のあるところに来ているからです。今年、よく愛媛の松山の話題が多いのですが、それは、隔月松山で勉強会を開いているからです。この松山は、意外にも「日本三大狸伝説」のひとつになっています。以前訪れた「證誠寺・狸ばやし」それから、「群馬県館林市茂林寺・分福茶釜」そして、「愛媛県松山市・八百八狸物語」なのです。「八百八狸物語」というのは、享保年間の大飢饉の際に起こったお家騒動「松山騒動」をモチーフにした物語に、狸や妖怪を登場させて怪談仕立てにした講談です。享保17年(1732)、かつてない大飢饉に襲われ、窮した松山藩は、幕府から多額の救済金を借り受けます。この金に目がくらんだ家老・奥田久兵衛が松山藩横領の大望をも企てたのが、「松山藩お家験動」の始まりです。その悪巧みを阻止しようとしたのが、天智天皇の時代以来、この地に住み着き、松山城主から刑部の位を授かり、家中から深く信仰され、八百八家の眷属を従える狸の総大将として君臨していた古狸の「隠神刑部(いぬがみぎょうぶ)狸」です。そんな刑部狸は、得意の幻術で久兵衛を陥れようとしたが失敗します。そこに至って江戸の忠臣組が国元の異変に気付き、奥平一派を成敗しました。そして、この時にお家騒動を起こしたという理由で、刑部狸は神通力を封じ込められ、久万山の洞窟に閉じこめられます。それ以来、八百八狸の力は衰えましたが、土地の人と仲良く、幸せに暮らしたといわれています。いま、松山市久谷町の山口霊神社前に「松山騒動伊予八百八狸の碑」が建っています。
この松山の八百八狸の一人である本陣狸の男狸と、千葉・木更津の萩乃狸一族からでた上総御前の女狸の二人は証誠寺の大和尚の仲立ちと、札幌市長の媒酌で夫婦となりました。昭和48年夏のことです。昭和51年、この夫婦狸に「鶴の宮藻里豊姫」という娘狸が生まれました。娘は登別 市の新和デパートに嫁ぎ、登別本陣大明神社が誕生します。平成13年、札幌市狸小路商店街と銀天街商店街振興組合連合会は、狸が取り持つ縁で姉妹縁組を結びました。松山市ではそれを記念したモニュメントを制作し、同時に伊予の狸の復権活動を推進して、「八百八狸トッポ話(滑稽話)」を核に大人にも子どもにも親しまれる文学のまちづくりを実現しようとしています。どこからが今の話で、どこからが本当の話かわからないような話は、あまりに現実だけを突きつけられている今日の話題からすると、息が抜くことができますね。また、なんども同じ場所を訪れると、ブログのおかげでいろいろなものが見えてきます。「習う」という漢字は、「自ら羽を何度も動かす」という字からできているといわれています。
投稿者 fujimori : 23:25 | コメント (3)
2006年11月18日 [講演先にて]
鹿
昨日の夜は、六日市町のログキャビンを貸切りにして、園長ほか有志で、懇親会を開いてもらいました。そのログでは、囲炉裏を囲んで、「鹿肉」の焼肉をご馳走になりました。他にも猪の肉や鴨肉を食べたのですが、特に鹿肉はとても肉が柔らかく、美味しい肉でした。そういえば、ここ六日市町は、「島根県鹿足郡(かのあしぐん)」です。「鹿の足」と書くのです。どうしてそんな名前がついたか、地元の人に聞けばよかったのですが、たぶん、鹿が多く住んでいたのでしょう。そういえば、車で走っていると、近くには、「鹿野町」という町もありました。ここは、都濃郡にありますが、やはりこのあたりは鹿が多いのだと思いました。そういえば、鹿児島の名の由来は、野生の鹿の子が多く生息していたからと説があります。しかし、意外なことがわかりました。この鹿足郡は、島根県の西の端に位置し、日原町、津和野町、六日市町、柿木村の3町1村からなる山間地です。鹿足郡というのは聞いたことがなかったのですが、あの有名な、「つわぶきの生い茂る野」をその名のルーツにもつといわれる津和野があるのです。

今日の午前中に案内してもらった津和野には、時期的には終わってしまっていますが、つわぶきの黄色い花がその名残をとどめていました。鯉のいる堀のあるこの町を歩いていると、なんとなくあることを思い出します。戦国時代末期、亀井武蔵守茲矩が鳥取県の鹿野城主となり、戦乱を乗り越えながら築き上げた小さな城下町が、鳥取県鹿野なのです。しかし、その町づくりはすぐに終わってしまいます。それは、2代目である政矩が、この津和野へお国替えとなったのです。なんだか、この島根県にある鹿野町に関連がありそうです。それをさかのぼると、さらに「鹿」つながりが見えてきます。島根県の月山の麓に、尼子氏の重臣の子として「山中鹿之助」という人が生まれます。尼子氏は、そのころ飛ぶ鳥を落とす勢いの毛利軍によって次々に支城を攻略され、ついに、白鹿城(島根県松江市)に落ちますが、ついに落城してしまいます。この城にも「鹿」がついていますね。そのとき何とか生き延びた鹿之助が、尼子氏の再興を三日月祈ったのが、講談などでよく知られている逸話で、「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」というものです。この尼子氏の家臣の娘の子が、鹿野城主であった亀井茲矩なのです。話は少しずれますが、この亀井茲矩の子孫が衆議院議員亀井久興で、兄・吉助の子孫が衆議院議員亀井静香だそうです。というのは、どうでもいいのですが、なんと、島根県生まれの「山中鹿之助」の仕えていた尼子氏が滅びたのが「白鹿城」で、そのあとその家臣の娘の子が鳥取県「鹿野城」城主になり、その子が津和野城に移り、そこが、「鹿足郡」であり、近くに同じ「鹿野町」という名前の町がある、となると、ただ、鹿が多いからとはいえない気がしますね。これらは、まったく関係がないかもしれませんが、鹿の肉を食べたことから、このように次々に妄想を膨らませていくことが歴史の面白さかもしれません。世界史の未履修で問題になっていますが、もし、歴史をこのように次々に関係付けていくというロマンを学ぶことだとすれば、未履修のほうが損をすると思いますが、今の議論は、しかたなく世界史を学んだ学生のほうが損をしたと思われています。学問は、損得だけですることではないと思うのですが。
投稿者 fujimori : 23:53 | コメント (4)
2006年11月12日 [講演先にて]
猪苗代と磐梯山
昨日の講演が遅くなったので、会津に泊まることにしました。しかし、会津若松の宿は、土曜日ということもあって、なかなかいい宿がありませんでした。そこで、猪苗代に泊まることにしました。駅からのタクシーで数分のところでしたが、数メートル先も見えない濃霧の中を走ったので、ずいぶんと山の中まで来たという感じでした。濃霧だけでなく、雷も鳴っていました。タクシーの運転手さんは、「最近、どうも、変な天気ですね。」と、声をかけてきました。着いた宿の部屋はとてもこぎれいで、なんと、部屋の中に囲炉裏がありました。もちろん、今日は使えないのですが、囲炉裏のある部屋に泊まったのははじめてです。そんな部屋で今朝目覚めて、部屋の窓の障子を開けて見ると、空は青空で、目の前に猪苗代湖が広がっています。

写真を撮ろうと思ったのですが、少し雲があったので、もう少し晴れてからにしようと思っていたら、みるみる雲が広がり、薄暗くなってきました。そのうちに雪が降り始め、吹雪のような降りです。宿の人たちが、雪だ雪だと騒いでいるうちに、頭の上が明るくなり、今度は、また霧が広がり始めました。それほど山の中ではないのに、次々に変わる天気に驚いていると、テレビでは、竜巻のニュースをやっています。昨日の食の問題ではありませんが、もう一度、いろいろな生活を見直していく時代かもしれません。いじめにしても、校長が謝ったからといって、文科省が調べさせてみたところで、連鎖的に起きてきています。「裕福」になった代償を払わされ始めているのでしょうね。
猪苗代という名は、その字を見ても面白いですが、そのいわれははっきりしていません。字のとおり、磐椅明神が昔、野猪に苗代を耕作させたのでそう呼ぶようになったという説や、イナワシロはアイヌ語だという説などがあります。しかし、稲作農業と深い関わりがあったことだけは確かなようです。いまから1万年前頃にはすでに湖畔には先住民が住んでいたと想像されています。猪苗代湖での魚介類や山奥の渓流にも魚影が多く、狩猟は広大な山麓を中心にして行われ、谷間に追い落とす巻狩りや湖沼に追い込むなどの方法で動物を捕獲し、食肉や衣服に利用したものと思われます。自然豊かな原始時代にあっても磐梯山周辺は格別に食料獲得が容易だったのでしょう。広い山麓を提供している磐梯山は、天高くそびえ立つ岩(磐)のはしご(橋)にたとえられ「いわはし山」と呼ばれていました。
また、宝の山という別名もあります。この山を歌った民謡の、このフレーズを思い出します。「小原庄助さん なんで身上つぶした 朝寝 朝酒 朝湯が大好きで それで身上つぶした もっともだ もっともだ」この庄助さんは、どんな人かはっきりしませんが、朝湯はともかく、朝寝と朝酒で身上つぶしたのではなく、体を壊した気がします。今の子どもにたとえるならば、土、日、ハッピーマンデーは、「朝寝、朝ファストフード」で、体を壊したということになるでしょう。土、日に、学校が休みになって、ゆとりがなくなっただけでなく、子どもたちの生活が壊れた気がします。理想のように、休みの日に家族で博物館などに出かけるどころか、前日は遅くまで起きていて、休みの日は、遅くまで寝ているような生活リズムが乱れていることが多い気がします。日曜礼拝がある欧米と同様、休みの日に、子どもを受け入れる社会システムが必要でしょうね。
投稿者 fujimori : 18:46 | コメント (4)
2006年11月11日 [講演先にて]
食育
今日は、珍しく「食育」についての講演をしました。食育基本法が、平成16年の第159国会に提出され、平成17年6月10日に成立したので、最近は、その研修が多くなりました。しかし、もともと「食育」とは、消費者に対し、「食」の安全に関する知識、「食」の選び方や組み合わせ方などを教えることです。ですから、園や学校での取り組みだけではなく、国民運動のひとつです。しかし、「食育」という言葉は、我が国では明治時代以降、体育や知育とならぶものとして用いられてきました。また、出版物などでは、1898年に石塚左玄が、「通俗食物養生法」の中で「今日、学童を持つ人は、体育も智育も才育もすべて食育にあると認識すべき」といっています。また、1903年の報知新聞連載の人気小説「食道楽」の中で「小児には徳育よりも、智育よりも、体育よりも、食育が先き。体育、徳育の根元も食育にある。」と、「食育」について記述しています。ということから、食育なしでは健全な心身を育むことができず、他の教育も身につけることはできないという考え方があるので、学校とか園での取り組みが中心になっているのです。もちろん、食べることは重要なのはわかりますが、「食育」となると、ただ食べることが大切というだけではないはずなので、何をすることなのでしょうか。食育基本法では、食育を「知育」「体育」「徳育」という三つの教育の基礎と位置付けています。そのうえで、食に関する知識と、選択する力を身につけ、健全な食生活を実践することができる人間を育てると規定しています。こうした基本理念を踏まえ、(1)国民の心身の健康の増進と豊かな人間性の形成(2)食に関する感謝の念と理解(3)食育推進運動の展開(4)子どもの食育における保護者、教育関係者の役割(5)食に関する体験活動と食育推進活動の実践(6)伝統的な食文化、環境と調和した生産などへの配意および農山漁村の活性化と食料自給率の向上への貢献(7)食品の安全性確保などにおける食育の役割――の七つの観点から、家庭、学校、保育所、地域などの役割を明記しています。はっきりいって、よくわかりません。まず、前提の「食に関する知識」と「選択する力」とどう関係するのでしょう。選択するために知識が必要だというのであればわかるのですが。「力」となるとわからなくなります。結局は、本文の中の第二十五条の「国及び地方公共団体は、すべての世代の国民の適切な食生活の選択に資するよう、」ということのようで、「食に関して根拠のない情報が多過ぎて「何を選択したらいいか分からない」といった悩みや、牛海綿状脳症(BSE)やO―157、鳥インフルエンザの発生などによる食品の安全性に対する不安もあります。」しかし、何を選択したらいいかをわからなくしているのは政府で、私たちにその力を付けろというのは、なんだかへんです。など、どうも屁理屈を言うことが多くなりました。ただ、確かに最近の「食」文化は変になってきています。そのひとつに、五つの「こ食」があります。(1)孤食(一人で食べる)(2)小食(食べる量が少ない)(3)個食(自分が好きなものをおのおのが食べる)(4)粉食(スパゲティやパンなど粉を使った主食を好んで食べる)(5)固食(固定された自分の好きなものしか食べない)です。こ食も、ずいぶんと幅広くなったのですね。また、十代女性の七〇%がダイエット願望をもち、朝食を食べない子どもは二〇%もいます。確かに問題ですが、この問題は、食育の問題というよりは、生活の持ち方であったり、人としての生き方の問題でしょうね。
投稿者 fujimori : 20:18 | コメント (2)
2006年11月05日 [講演先にて]
はやて
1958年(昭和33年)から1959年放映されたテレビ番組で、最高視聴率67.8%(平均40%台)を記録した超人気番組といえば、「月光仮面」です。この番組は、国産初のスーパーヒーローもので、そのころは、ほかにあまり面白いテレビ番組がないということもあって、ものすごい人気でした。しかし、あまりにもすごい人気のために、月光仮面の真似をして、高い所から飛降りて怪我をする子どもが続出し、惜しまれつつも短期で終わりになってしまいました。この人気は、まるで、「疾風」のように駆け抜けていきました。というと、その年代の人は、だれでも思い出すのが、この番組の主題歌です。「どこの誰かは 知らないけれど、誰もがみんな 知っている 月光仮面の おじさんは 正義の味方よ 善い人よ 疾風のように 現われて 疾風のように 去って行く 月光仮面は 誰でしょう 月光仮面は 誰でしょう」という1番の特にさびの部分、「はやてのように あらわれて、はやてのように さっていく~」というところは、思わず口ずさむでしょう。この「疾風」(はやて)という言葉は、普段はあまり使わなくなりました。しかし、思わないところで復活したのが、今日、八戸からの帰りに乗った、新幹線「はやて」です。「はやてのように」というのは、今の子だったら、新幹線の「はやて」のように速い、と思うでしょうね。本当は、はやての「はや」は「早い」の意味で、「て」は風を表しています。ですから、早い風ということで、「急に激しく吹く風」で、寒冷前線に伴って吹くことが多い風です。また、陣風(じんぷう)ともいいます。漢字では「疾風」と書き、「しっぷう」と読みこともあります。そのほか「早手」とも書かれ、「はやち」とも呼ばれます。このように「風」を「ち」と読むことがありますが、たとえば、「東風ふかば」の「東風」を「こち」と読むのと同じです。また、このように早いということから、「かかるとすぐ死ぬ」ということで、疫痢(えきり)のことをさすこともあります。しかし、何で、新幹線の名前に「はやて」が採用されたかというと、いろいろといきさつがあるようです。というのも、この「はやて(疾風)」は、農作物に被害をもたらす風や疫病の異名でもあるために、はじめは、採用されませんでした。公募したときは、「はやて」という名称はトップ10にも入っておらず、「みちのく」・「はつかり」などが上位だったのです。しかし、将来の新青森延伸も視野に入れ、斬新でスピード感を表す名称として、敢えて採用されたのです。この「はやて」が、盛岡で連結されるのが、秋田から来る「こまち」です。この列車名は、公募の結果1位でした。ちなみに、2位は「おばこ」、3位は「たざわ」でした。この「こまち」は、お米の品種の「あきたこまち」を思い出しますが、もともとは、あの美人で有名だった「小野小町」のことです。彼女は、秋田県湯沢市小野出身とされているのです。やはり、昔から、秋田美人ということがあったのですね。しかし、「はやて」と違って、逆におとなしい女性のイメージなので、秋田県内では「新幹線という超高速列車の名前としてふさわしくないのではないか」という意見もあったそうです。同じ路線で、仙台までと、盛岡まで走る新幹線に「やまびこ」があります。この名称は、「はやて」「こまち」と比べて、古い歴史があります。1959年 福島駅から盛岡駅間を運行する準急列車の愛称として使用されていたものが、格上げになったのです。列車の名称にもいろいろな歴史がありますね。
投稿者 fujimori : 21:24 | コメント (3)
2006年11月04日 [講演先にて]
地域グルメ
各地を訪れたときの、その地の楽しみ方はよくこのブログでも書きますが、いろいろとあります。その中のひとつに食事の楽しみがあるのですが、なかなかその地方独特の食べ物、特に、特別なご馳走ではなく、最近はやっているB級グルメはなかなか食べる機会がありません。たとえば、今回の八戸は、以前のブログで書いた「第1回B級グランプリ」が開催されたところです。グランプリを受賞したのは富士宮の焼きそばでしたが、八戸からのエントリーは、「八戸せんべい汁」というもので、南部せんべいを、肉や野菜などで取ったおいしいだし汁に割り入れて煮込んだ、心も身体も温まる素朴な郷土料理です。
これを、今回は食べる機会がありました。初めは、なんだかお鍋の中にせんべいが入っているとは、奇妙な気がしました。しかし、中に入るせんべいは、おつゆ用に作られた南部せんべいで、沸騰したお鍋にせんべいを割って入れると、鶏肉や野菜などのおいしい出汁を吸って、モチモチとした食感になり、秋田の人といっしょに食べたのですが、秋田の「きりたんぽ鍋」に似ているといいます。それはそうです。どちらもお米から作られているからです。
だし汁といえば、昨日の食事のときの最後に出たのが、「いちご煮」という汁でした。これも、苺を汁に入れたものかと思うと違います。新鮮なウニとアワビでお吸物風に仕立てたものなのです。材料がいいので、当然その味は、添えられた青ジソの香りと相まって格別な味となります。いちご煮の名は、お椀に盛り付けた時、乳白色の汁に沈む黄金色のウニの姿が、まるで『朝靄の中に霞む野いちご』のように見えることから名づけられたといわれています。面白い名前をつけたものですね。それにしても贅沢な材料ですが、ここ八戸地方は、太平洋の豊かな海を背景にして、ウニとアワビがよく採れるのです。八戸地方の方言で、ウニのことを「カゼ」、アワビを「アンビ」と呼ぶそうです。このあたりの漁村では、すもぐりで漁をする「かづき」と呼ばれる男たちがいました。彼らは、夏になると、カゼやアンビをふんだんに採り、海水で煮込み、食べていたのが「いちご煮」で、漁師の浜料理だったのです。それが、明治時代に料亭料理として供され、お椀にきれいに盛り付けてお吸い物として飲むようになり、日本料理の代表的な汁になり、青森県を代表する郷土料理の一つとなっているのです。
日本料理といえば、昨夜食べた刺身に、大盛りの「菊の花」がありました。また、菊の花のてんぷらも出てきました。そういえば、酢の物にも、菊の花が入っています。秋ということもあるのでしょうが、実は、ここ八戸は、食用菊の特産地なのです。この地方特産の食用菊は「阿房宮」と呼ばれていて、通常は、干し菊として売られ、酢の物や味噌汁の具として食べます。当地方以外の土地に移植すると、独自の甘味がなくなってしまう特性を持つ不思議な食用菊だそうです。食用菊は苦味がなく歯ざわりがよく、とてもおいしい上に、健康によい成分をたくさん含み、眺めても美しいので、日本料理には合いますね。
このほかに、昨日、昼食として食べたのもここの名物でした。私が食べたのは、八戸らーめん。
煮干しをふんだんに使った、あっさりとした醤油ベースのスープと細めのちぢれ麺が特徴で、70年あまりの歴史を持っているそうで、昔懐かしい味がします。他の人が食べたのは、「イカ飯」です。八戸は、イカの町といわれるように、イカの水揚げでは日本の約3割を占め全国第1位です。今日見学した保育園では、「せんべい汁」と、菊の和え物が出ていました。「いちご煮」もよく出るそうです。園は、伝承文化を子どもに伝えている大切な場かもしれませんね。
投稿者 fujimori : 23:55 | コメント (4)
2006年11月03日 [講演先にて]
数字
今日は、明日から二日間開かれる「見守る保育 研究セミナー東北