2009年02月04日 教員の頃

月食

昨日は、節分で、今日は立春です。これらは祝日ではないのでそれほど問題はないのですが、祝祭日が年によって変わるものがあり、どうやって決めるのだろうと思っていました。それが、一昨日にわかりました。読売新聞に「国立天文台が2日付の官報で公表した2010年の暦要項で、同年12月21日に、全国で「皆既月食」が観測できることがわかった。」という記事があったからです。毎年2月の最初の官報で翌年の暦要項が発表されることになっていて、今年は2月2日に「平成22(2010)年暦要項」が発表されました。
暦計算室では、国際的に採用されている基準暦に基づいて、太陽・月・惑星の視位置をはじめ諸暦象事項を計算し、「暦書」として「暦象年表」を発行していて、それから抜粋したものが暦要項です。昭和29年6月1日の官報に次年度の暦要項を掲載したのが最初だそうです。
この暦要項には、国立天文台で計算した翌年の暦(国民の祝日、日曜表、二十四節気および雑節、朔弦望、東京の日出入、日食および月食)が掲載されています。それによると、平成22年には日食が2回、月食が3回ありようです。1月1日は部分月食、全国で見ることができますが、食分は最大0.082と僅かにかけるだけです。1月15日は金環日食、西日本でかけたまま沈んでいく太陽を眺めることができます。6月26日は部分月食、全国で見ることができますが、南西諸島・九州・中国・四国地方の一部および北海道の一部では食が始まってから月の出となります。7月12日は皆既日食ですが、日本では見ることはできません。12月21日は皆既月食、ほぼ全国でかけたまま昇ってくる月を眺めることがでますが、西日本では皆既食が始まってから、石垣島周辺では皆既食が終わってから月の出となります。
 12月21日に、全国で見られる「皆既月食」ですが、2007年8月28日に、全国で皆既月食が見られました。その前が2001年1月でしたから、6年ぶりでした。2007年のときには、地球の影の中に月がすっぽりと入ってしまうこの現象が全国で見られたこと、また、夕刻から夜という多くの人にとって観察しやすい時間帯に起こるために、国立天文台では、「皆既月食どんな色?」というキャンペーンを行いました。月食は、日食と違って肉眼でも十分観察できる天文現象ですから、全部で3138件の観察結果のご報告があったそうです。ちなみに、このようなキャンペーンをよくやるのですが、これまでの10回のうち最も多かったのは、「夏の夜・流れ星を数えよう」というペルセウス座流星群のときのキャンペーンで、11375件もあったそうです。
皆既月食中の月は、一般的に真っ黒にはならず、赤銅色とよく表現される赤黒い色で見られることが多いのですが、この色は、皆既月食ごとに変化することが知られています。来年の話になるのですが、どんな色の月食が見られるのでしょうか。
 私が、小学校の教員をしていたとき、近くの中学生数人が訪ねてきて、「天文研究会の顧問になってくれませんか?」と頼まれ、ほぼ毎月、私の家で、テストをしたり、天体についての話をしたりしていました。その中の活動として、何人かの中学生が私の家に泊まりこんで、月食の観察を夜中にしたのを思い出します。

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2008年07月16日 教員の頃

おたのしみかいだより

 古い書類を整理していたら、こんな通信が出てきました。
それは、私が、学校建築の研究のために小学校に勤務していたときの通信です。1年生を担任していたとき、クラスの子どもたちが発行した「おたのしみかいだより」というもので、全部で4号までありました。
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  1号にはこう書かれています。「こんど1ねん1くみでおたのしみかいをやります。きめたこと(1)かいのなまえ…おたのしみかい (2)はん…バス、のこぎりざめ、あらいぐま、ひこうき、かに (3)せきにんしゃ…かわさき、みやざき (4)かくひと…わたなべ やっているときにふざけない(みやざき)はんでやることをきめておいてください(かわさき)おたのしみにね!」
これは、B5の更紙に印刷されています。この子たちは、今は30歳後半になっているでしょうが、子どもが自らつけた班の名前からも時代が感じられます。この計画に、私はどのくらい関わっているかわかりませんが、子どもたちだけで話し合いをして、自分たちでいろいろなことを決めているようです。第2号(12月10日)には、こんなことが書かれています。
「みんなでいろいろはなしあって、ひにちをつぎのようにきめました。12月23日(金)1,2じかんめ だいたいやることをきめました。ひこうき…かみしばい かに…にんぎょうげき あらいぐま…おりがみ のこぎりざめ…がっそう バス…げき」
こんな頃、ある子から私にこんな手紙がきました。「先生へ おたのしみかいについて 私はげきをやりたいとおもいます。しかし、はんのみんなはれんしゅうをしようとおもってもならいごとがあるからって あつまってくれません。どうしたらいいでしょう。わたしは一人でもやりたいとおもいますけど どうしたらいいの。えりこ」
この手紙に私はどう答えたのでしょうか。そのあと、その班はどうなったのでしょうか。3号(12月16日)には、日程表がカレンダーになっていてそこに予定が書かれてあります。
「よていひょう 17(土)かかりをきめる 19(月)~22(木)れんしゅう 21(水)ぷろぐらむをつくる 22(木)しょうたいじょうをつくる 23(金)おたのしみかい」
 出てきたこの「おたのしみかいだより」は、4号までしかありませんが、発行されたのも4号までなのかわかりませんが、プログラムも出てきたので、たぶん、この号で終わりでしょう。
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「かかり ぷろぐらむ…かに かいじょう…あらいぐま かざり…ひこうき しかい、うけつけ…のこぎりざめ どうぐ、あんない…バス りっこうほしてかざりかいがいいといったぐるーぷが、ひこうきとのこぎりざめです。はんちょうがじぶんのはんは、こうするといって みんなで手をあげて ひこうきにきまりました。」
 係りをきめるのは、どうもそれぞれが自主的に立候補しているようです。そして、競合した場合は、班長がどのようにやるかプレゼンをして、みんなで選んでいるようです。そして、プログラムがあります。「1、はじめのことば(かわさき みやざき)2、先生のことば 3、うた ぜんいん(むしむしむしめがね)4、かみしばい(ひこうき)5、げき(バス)6、にんぎょうげき(あらいぐま)7、がっそう(のこぎりざめ)8、にんぎょうげき(かに)9、がっそう ぜんいん 10、ぽんぽんぴあの 11、さんたのおじさんのことば 12、おきゃくさんのことば 13、おわりのことば(わたなべ)」
 どうも、最初の予定通り、劇をやったようです。このプログラムに、やっと私が登場します。もちろん、すべてを子ども達だけで進めているはずはありませんが、今これを読み返してみると、1年生が生き生きと自分たちで会の準備を進めていっている姿が伝わります。なんだか、もう一度教師をやりたくなりました。

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2008年02月24日 教員の頃

子どもの瞳

 少しの間小学校の教員をしているときのことです。前の先生との引継ぎのため、3月末の数週間だけ5年生を担任しました。数週間の間だけでしたが、担任していた5年生は随分と慕ってくれました。あるとき、子どもたちが「先生のうちに遊びに行きたい!」と言ったのですが、4月からは1年生の担任になることが分かっていたので、5年生とは余り深くならないほうが6年に担任になる先生がやりやすいだろうと思っていたこともあって、住所は教えませんでした。私の家は、その小学校からは4Kmくらい離れていました。あるとき、帰宅をすると、子どもたち数人が私の家にいるではありませんか。どうしてここにいるのか聞いてみると、「どうしてもみんなで先生のうちに来たかったので、他の先生に住所を聞いても町名しかわからないと言われた。だから、クラスみんなで手分けをして、毎日その町内を端から数日かけて探していたのだ。そして、やっと見つけたのだ。」と言うのです。そのときは、とてもうれしかったのですが、怒った振りをして、「ダメじゃないか。勝手に来ちゃ。」と言って、家に連絡をして、一緒にお菓子とかを食べて帰しました。
そのとき、ふと、壺井栄の「二十四の瞳」を思い出しました。何回か映画になっていますが、瀬戸内海に浮かぶ小豆島を舞台に、戦前から戦後にかけての女教師と12人の生徒たちの交流を感動的に描いています。その中の前半で特に感動を呼んだ部分は、
「足を怪我して学校を休んでいる大石先生を見舞うため、子どもたちは歩いて先生の家に向かいます。ところが迷子になってしまい泣きながら歩いている生徒達をたまたまバスで通りかかった大石先生が見つけ、その後、大石先生の家で子どもたちは大いにもてなされ、記念写真を撮り、船で帰っていったのです。」
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この場面を本を読んだ当時は感動しましたが、5年生がやっと私の家にたどり着いた姿を見ていて、教師をしていると、本になるような感動することは普段たくさんあるのだ。子どもたちとの毎日は、本や物語の中の話に比べて、感動の連続だと思ったものでした。保育者とか教師はそんないい仕事だと思うのですが、最近はどうもそうとはいえないようで、悲しいですね。
そんな二十四の瞳の舞台である小豆島に行ってみました。ここには、1987年の映画「二十四の瞳」の舞台として使われた分教場がそっくり残されています。
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その建物は、実際に明治7年に開校し、昭和35年8月田浦尋常小学校として建築され、昭和46年3月24日に廃校されるまで「苗羽小学校田浦分校」として使われていました。その建物は、小豆島町田浦地区よりさらに600m南、瀬戸内海を見渡す海岸沿い約1万平方Mの敷地に作られた大正・昭和初期の小さな村の中に建っています。
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「昭和三年四月四日、農山漁村の名が全部あてはまるような、瀬戸内海べりの一寒村へ、若い女先生が赴任してきた。」との書きだしで始まる小説「二十四の瞳」のなかの大石先生と12人の子どもたちの姿が目の前にそのまま現れたような錯覚に襲われます。薄暗い教室にはオルガンが一台、小さな二人掛けの木の机が六つ、教室の壁には様々な掛け図や、子どもの作品などが飾られています。窓からは、遠くに島影を持つ海が広がっています。この小説は、その後それぞれの子ども達が悲惨な戦争に巻き込まれ、その犠牲になっていく姿が描かれていますが、今の時代は、その頃と比べて、どこが平和になったのか、何が変わったのかと考えてしまいます。

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2007年04月26日 教員の頃

早期教育その2

 早期教育について、私がまだ幼児教育に関わっていないころ、また、将来関わるであろうとも思っていなかったころ、少しの間小学校の教員をしていたころに考えたことがありました。それは、1年生を担任していたからです。入学式が終わって、初めての授業を始めたころに、いろいろと考えることがありました。最初にやったことは、朝、登校したら、ランドセルから教科書などの持ち物を出して机にしまうこと、帰りにそれらをランドセルにしまうことを何度も繰り返し教えます。こんなことは、今保育園をしているとなんだか3歳児でもできる気がします。しかし、そのころは、ずいぶんとできない子が何人もいて、「なにがない!」と泣いたり、ただ突っ込むだけで取り出すときに全部出してしまったりします。それを思い出して、もう一度園児を見てみると、6歳になっても、朝登園をしてきて、いろいろなものをしまうのに保護者が全部代わりにやってしまう家庭や、小さいうちに子どもの目の前でやって見せるというモデルを示さずに、先生にやることを要求したりする家庭が多いことに気がつきます。それから授業が始まるのですが、教科書を見てみると、確かに文字を少しずつ教えていきますが、意外と早いうちから文字がたくさん出てきます。国語の授業では、同時に漢字も出てきますので、新しい単元に入るたびに、その内容をよく読みとったり、考えたりするよりも、まず、新出漢字を覚えさせ、難しい言葉の意味調べをすることに費やしてしまいます。私は、1年生で教える漢字は決まっているので、それをすべて語源を載せた表をつくり、国語の授業の単元に関係なく、朝とか空いている時間にひとつずつ教え、それを葉の形に切り抜いた色画用紙に書き、後ろに大きくつくった木の枝にぶら下げていきました。そして、その葉の色は、その漢字を教えた時期の季節によって色を変え、子どもたちにいつごろ習った漢字かがわかるようにしました。そうすることで、国語の授業は、その単元の意図するところに集中することができます。そのときにまたひとつ幼児教育の疑問がおきました。私は、それまで幼児教育をしていませんでしたし、独身でしたので子どもはいませんでしたので、あまり絵本に触れることがありませんでした。ですから、教科書に出てくる話は、どれも感動してしまいます。「おおきなかぶ」の繰り返しの面白さと度肝を抜くほど大きく育ったこと、その大きくなりすぎたかぶをどう抜くかという知恵、どれもとても感動しました。また、「ふしぎなたけのこ」では、地域の交流のきっかけ、それぞれの地域に、その地域ならではの産物があることを知り、「かわいそうなぞう」や「かたあしダチョウのエルフ」では、読んでいる間に声を詰まらせて読み続けられなくなったこと、「かさこじぞう」では民話のふしぎな魅力、「スイミー」や「スーホの白い馬」では戦争の意味、それぞれ教科書に取り上げられている物語はとても感動します。しかし、ほとんどの子は、そんな話を感動しません。それは、それらの話は、ストーリーをみんな知っているからです。幼児期の絵本で読んでいるのです。しかも、まだその話に感動しない時期に読んでしまっていることが多いので、ただ先を教えようとします。私が感動していると、結末を教えようとします。とても授業がしにくかった思い出があります。確かに、本というのは、その時期、年齢によって感動する部分が違いますし、そのころの環境によっても違うでしょう。ですが、みんなストーリーを知っている話は、感動することを教えるよりも、その文章を分析することをしてしまい、なんだか子どもたちを本嫌いにしている気がしていました。

投稿者 fujimori : 21:51 | コメント (2)

2006年09月09日 教員の頃

アンパン

 今日の新聞広告のページで、こんなタイトルがありました。「子どもの危機を食から見直す!」というものです。サブタイトルには、ショッキングな言葉が並びます。「味噌汁を知らない子どもがいた!」「遠足のお弁当が菓子パンだけ?」「乳幼児までが朝食抜きで登園…」など、太文字で書かれています。こんな例は、現場ではいくらでもあります。本当に困ったものです。しかし、このタイトルを見たときに思い出したことがありました。
 私は、大学は、建築科を卒業しました。そして、卒業制作のテーマに「学校建築」を選びました。そこで、卒業後、どうしても学校に実際に勤めてみたくなり、他大学で小学校の教諭の資格を取り、実際に勤めてみることにしたのです。しかし、教師になろうと思っていたわけではありませんでしたので、いろいろな形式の学校、そして、本とかに紹介されているような学校で教えてみたいと思ったために、育休産休代替職員で勤めました。初めて受けもった1年生に、A君がいました。とても目がキラキラ輝いて、真剣に人の目を見ます。その子が、遠足の参加申し込みをしませんでした。どうしてだろうと思って、その子から理由を聞く前に、その子の環境を調べてみました。すると、近所では、その子は毎日家では夕食を食べさせてもらっていないので、学校の給食だけで生活をしているということでした。ですから、土、日はほとんど何も食べないので、近所では、かわいそうに思い、食事を食べさせてあげたり、お風呂に入れてあげたりしているということです。どうも、遠足の参加費が払えないようです。そこで、まず、子どもに遠足に参加したいのか確かめてみました。子どもは、本当は行きたいといいます。私は、校長のところに行って、何とか、学校で遠足の参加費を負担してもらえないか交渉しました。校長は、何とかしてくれると約束してくれました。次に、母子家庭でしたので、母親を説得するために、その子の自宅を訪ねました。家について、何度、声をかけても返事がありません。家の中には、誰かいるようです。あまり何度も大声で呼びますので、やっと出てきました。私は、遠足の費用は学校で出すので、ぜひ参加させてほしいと頼んでみました。あまり熱心に話すものですから、その母親は、玄関先に立っている私に向かって、「先生、どうぞ座ってください。」と言いながら、ほこりだらけの玄関先をそこにあった広告の紙でさっと拭きました。そして、こんな愚痴を言い始めました。「私は、いま、家で男に体を売って生計を立てているのです。ですから、子どもを家の中に入れるわけには行かないのですよ。そして、私には男の子と女の子がいたのが、別れた旦那は女の子を連れて行ってしまったのです。女の子だったら、早く稼げるのに、私は、男の子なんか引き取ったので、まったく嫌になってしまう。」私にとっては、ずいぶんと刺激的な話でしたが、産休代替ということもあって、あまり深入りは出来ないと思って、とりあえず遠足への参加だけを承知してもらいました。当日、喜んで参加したA君と一緒にお昼を食べました。すると、お弁当は、アンパン2個だったのです。私は、つい、「先生のと交換しようか?」と言ってしまいました。すると、その子は、私の言葉から哀れみを感じてしまったのでしょうか、「僕は、アンパンが好きなんだ。だから、お母さんがアンパンを入れてくれたんだ!」とつき返されてしまいました。その子は、今は、40歳位になっているでしょう。今でも、あの時の誇りを忘れないでいてくれたらと思います。

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2006年08月13日 教員の頃

読み聞かせ

 8月10日の朝日新聞の朝刊に「雄アフリカゾウで国内最高齢 多摩動物公園のタマオ急死」という記事が小さく載っていました。私は、多摩動物園は近いので、よく行きますし、園の遠足でもよく行きます。「賢くて、みんなに慕われた。性格も穏やか。元気だったのにね」と、同園教育普及係長の金子美香子さんは言っていますが、ゾウは賢いですね。というと思い出すことがあります。小学校で2年生を担任していたとき、教科書に「かわいそうなぞう」という話が載っていました。私は、この話を、「文章を読む」のではなく、「内容を理解させよう」「内容を感じさせよう」と思いました。そのために、子どもが自分で読む前に、私が読み聞かせをしたのです。子どもたちには、机に顔を伏せさせ、耳だけを働かせて聞いてもらいます。よく、国語の授業で、教師は「文章を解説する」ことをしようとします。しかし、このような解説教育によっては、「主体的な学習」とか、「思考する学習」とか「理解する学習」は、生まれてきません。まだまだ、文字を読むことに労力を使う2年生です。どうしても、文字を読もうとし、内容の理解は遠ざかると思って、私が読んであげたのです。「かわいそうなぞう」は、土家由岐雄作のノンフィクション童話です。絵本や紙芝居としても出版されています。内容は、「第二次世界大戦が激しくなり、東京・上野動物園では空襲で檻が破壊されて猛獣が街に逃げ出したら大変だということで、猛獣を殺すことを決定します。ライオンや熊が殺され、残すは象のジョン、トンキー、ワンリーだけになります。象に毒の入った餌を与えますが、象たちは餌を吐き出してしまいます。仕方がないので、毒を注射しようにも針が折れて注射が出来ないため、餌や水を与えるのをやめ餓死するのを待つことにします。」私は、この話を読んでいるとき、次の部分になったときに声を詰まらせて、読めなくなってしまいました。聞いていた子どもたちは、びっくりして、みんな顔を上げ、私をじっと見ていたことを思い出します。この話は、よく読んでいたのですが、声を出して読むと、自分でもわかりませんが、こみ上げてくるものがあるのです。「ある日、トンキーとワンリーが、ひょろひょろと体をおこして、ぞうがかりの前にすすみ出てきました。おたがいに、ぐったりとした体をせなかでもたれあって、げいとうをはじめたのです。後ろ足で立ち上がりました。前足を上げておりまげました。はなを高く高く上げて、ばんざいをしました。しなびきった体じゅうの力をふりしぼって、よろけながらいっしょうけんめいです。げいとうをすれば、もとのようにえさがもらえるとおもったのでしょう。」
 同じようなことがもう一度ありました。中学生数人の勉強を見ていたとき、夏休みの宿題で「読書感想文」がありました。あまり成績のよくない子達でしたので、私が読み聞かせをしてあげたのです。その本は、「猫は生きている」(早乙女勝元/作 田島征三/絵)です。このときも、途中で声が詰まって、読むことができなくなってしまいました。これは、「大空襲でほとんどの人間は死に、その中で逞しく生きて行こうとする猫たち」という話です。母親が爪がはがれても地面を掘って、赤ちゃんを守ろうとして死んでしまうところなどは、読み続けられません。もうすぐ終戦記念日です。ハワード・ガードナー教授は、講演の中で、「戦争を知ることでなく、理解をしなければならない」というようなことを言っていました。

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2006年05月24日 教員の頃

ぼくは おうさま

 先日の5月21日に、童話作家の寺村輝夫さん(てらむらてるお)が亡くなりました。寺村さんは、毎日出版文化賞を受賞した「ぼくは王さま」や、「おしゃべりなたまごやき」を始めとする王さまシリーズなどで親しまれています。寺村さんは、早稲田大学在学中に坪田譲治に師事し、「びわの実学校」の同人となります。私が好きな児童文学は、この「びわの実学校」に連載されたものが多いですし、その同人に好みの人が多い気がします。また、寺村さんの作品では、他に「ミリ子は負けない」「寺村輝夫のおばけ話・とんち話」や「こまったさん」シリーズなどの著書が多数あります。このなかの「ミリ子は負けない」は、女の子が主人公ですが、16ミリ映画にもなっていますので、各地の公民館などから貸し出しができます。集団生活の大切さを感じとっていく姿をほほえましく描いています。もう一度、少子社会での集団の大切さを子どもたちに伝えるのにはいいかもしれません。
それらの作品のなかでは、私は「王さまシリーズ」に、特別な思い出があります。それは、私が教員のころ、学芸会で1年生に何をやらせようと相談した結果、私が大好きだった「王さまシリーズ」を脚色して演じさせることにしました。そして、その劇中歌として、場面ごとに歌う曲を作詞作曲しました。歌詞は、こんなのです。
 「王さまの好きなのは、“おひめさま!”それから それから なんですか?“たまごやき!”こころのやさしい 王さまだ。 けれども きらいなものもある。“となりの国とのせんそう”と なかでも きらいなものは“べんきょう!” いつも大臣に “コラッ!”おこられています “べんきょう しなさい!” ほんとに やんなっちゃう ほんとに やんなっちゃう」
 たぶん、王さまシリーズを読んだことがある人は、この歌詞の意味が良く分かると思います。というのは、そのシリーズを私はほとんど読んだからです。学芸会で、その劇をする直前に、教室で子どもたちを待たせていたときです。クラスの子のなかで、普段落ち着きのない、元気なやんちゃな男の子がいました。その子は、待っている間に教室内で走り回り、他の子とぶつかって、目の上を切り、血がたくさん出てしまいました。その子は、劇の中で、重要な役である「大臣」だったので、大騒ぎでした。その子が今、医者になっています。大学に入るときに、私が、その子が医学部に入学すると聞いたときに、急いで、臨床医か、研究医か聞きました。あんな落ち着きのない子が、臨床医にでもなったら、体内にはさみでも忘れないか心配だったのです。でも、今は、臨床医になって活躍しています。でも、なんとなく、私が病気になったときに、手術を頼むのは心配な気がします。教え子は、私の中ではいつまでも、やんちゃな子どもです。もう立派に、子どももいるお父さんになっていても、いつまでもかわいく、また心配なものですね。そして、今の園が開園1年目のときの年長さんの劇が、やはり、「おうさまシリーズ」でした。もちろん、劇中歌を、何とか思い出してその歌を歌いました。
 わが子も、小さいころ、この「おうさまシリーズ」が大好きで、そのなかの何話かを、自分で読んで、それをカセットテープに吹き込んでいました。なぜ吹き込んだのでしょうね。一人で、部屋に閉じこもって吹き込んでいる姿が、今でも思い出されます。

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2006年03月22日 教員の頃

教師として

WBCで日本が勝ってよかったですね。あの、アメリカの審判への不満がなければ、こんなに国民が喜ばなかったでしょう。あの審判は、大きな喜びのための演出だったのかもしれませんね。日本の多くの人が、この試合を見ていたと思います。ちょうど、休みの日の昼頃だったのでよかったですね。もし、夜中とか、明け方であれば、みんな寝不足になったでしょう。また、平日であれば、多くの人は、仕事の合間をぬって見ていた人も多かったに違いありません。また、もしかしたら、学校では、授業中に見ていた先生がいたかもしれません。ラジオで、そんなときに教師は、授業中に見てよいかというトークをやっていました。何日か前のブログへのコメントにも、小学校の頃の担任がタイガースファンで、給食が3時になってしまったことがあったという思い出が書いてありました。昔は、そんなことが許されるようなおおらかさが確かにあったと思います。しかし、私は、それはおかしいと思います。教室は、私にとっては神聖な場所であり、娯楽をする部屋ではありませんでした。教員の頃、私は、かなりのヘビースモーカーでしたが、決して教室ではタバコは吸いませんでした。こんなことは当たり前のような気がしますが、ずいぶん、吸っていた教師がいました。ただ、もう時効なので話しますが、もし今の時代だったら、怒られるようなことを教師の時代にした思い出があります。数日前にブログ(3月18日)で話した5年生を担任したあと、1年生を担任していたときのことです。3学期も終わる頃、そのときは6年生になっていた一人の男子生徒が、家の都合で引越しをしなければならなくなりました。あと1週間くらいで、小学校が終わります。しかし、家から通うには、遠すぎます。親から、どうしたらよいか相談を受けました。最後の小学校生活を送らせたいと言います。そこで、私はその頃は一人で住んでいたので、1週間、その男子生徒と私と二人で生活することにし、朝一緒に家を出て、学校のそばで分かれて知らん顔をして校舎に入って行ったのです。今は、そんなことは許されないでしょうね。
 また、こんなことがありました。その頃、青少対(青少年対策委員会)で、夜のパトロールをしていました。夜、街で中学生がうろつくのを注意するためです。そのとき、パトロールがあるという情報が入ると、「わる」と呼ばれていた中学生たち数人を私のところで、パトロールが終わるまで、かくまっていたのです。(結局、その子達に、その後、夜、勉強を教えることになるのですが)パトロールで注意をして歩いても何の効果もなかったからです。取締りよりも、そんな子を作らないような予防措置を企画しましょうと青少対に提案しました。小学6年生を対象に、「地域ウォークラリー」を企画しました。まず、青少対は、中学校単位を基盤にしていますので、区域内に小学校が3校あります。その3校均等になるようにチームを作ります。そのチームで出発するときに記念写真を撮ります。そして、地図を見ながら3小学校区内のウォークラリーをしていきます。ところどころにあるポイントの問題は、その学区内の小学生なら簡単に解ける問題ですが、ほかの学区内の子どもには難しくできています。そして、ゴール地点は、着いてみないと解らないようになっていますが、行く中学校の校庭です。そこで、先輩たちがクラブごとに待っていて、6年生に指導してくれます。お父さんたちは、お昼の焼きそばを作っています。そして、出発のときに撮った写真を、手作りの額に入れてプレゼントします。その子たちと、中学に行って、また出会うでしょう。日を決めてのパトロールよりも、日常、地域みんなが見守っていることを子どもに感じてもらうほうが有効的でしょう。

投稿者 fujimori : 18:18 | コメント (1)

2006年03月19日 教員の頃

授業

私が、5年生の子どもから評価された授業とは、どのようなものかというと、簡単です。子どもたちからすると勉強という感じではなく、遊びのように感じた内容だったからです。当然ですよね。勉強など好きな子どもがいるわけはありません。というより、本当は、勉強なのですが。子どもたちは、5年生になると、勉強とは、机の前のじっと座り、教科書を説明する先生の声を聞き、その内容を覚えるものであると思っているからです。1年生を担任していた時もそうでしたが、私は、まず、学習指導要領を読んで、その学年で、どんな力をつけたいのかを知ります。その力をつけることが本来の目的で、その目的を達成するために教科書の内容を活用するというだけです。ですから、教科書を覚えても、その内容を理解しても、目的は達成されません。また、教科書の内容よりも、より学習指導要領に書かれている目的を達成するために有効的な教材があれば、それを使えばよい話です。この考え方が、今の保育の考え方を形作ったのかもしれません。たとえば、1学年及び2学年の国語の内容の取り扱いの中で、「読むこと」には、こう書いてあります。「昔話や童話などの読み聞かせを聞くこと,絵や写真などを見て想像を膨らませながら読むこと,自分の読みたい本を探して読むことなど」この内容を子どもたちに指導するときに、何で教科書を使わなければならないのでしょう。たとえば、教科書以外に、たくさんの昔話や童話を読み聞かせれば言いと思います。私が、1年生を担任しているときに、毎週、各都道府県の昔話の読み聞かせをしていました。最初に、全国の白地図を子どもに配り、教室の前には大きな白地図を貼り出し、私が読み聞かせをした都道府県の場所を赤く塗ります。1年生が終わるとき、(それは、同時に私がその学校をやめるとき)最後の北海道に伝わる昔話をして、日本中が真っ赤に塗りつぶされました。その最後の授業に、保護者たちが、みんなで連絡を取り合って、授業参観に来てくれました。そして、最後の話が終わったときに、みんなで拍手をしてくれました。そして、読み聞かせたあとで、1学期間は、絵で、2学期になってからは文字で感想文(感想絵)を書いてもらいました。このような内容を取り扱うのに、何で教科書にある昔話を読んで、まず、その話に出てくる新出漢字を覚えさせ、意味調べを宿題に出すのでしょう。5年生を担任したときもこんな考えでした。たとえば、算数の授業のときは、こんなことを子どもたちに言いました。「さあ、今日はつまらない授業は、やめにしよう。みんなで腕相撲大会をしようよ!」そして、私が生徒を順に呼んで、適当に戦わせました。私も入りました。終わってから、「さあ、誰が1番強かったか?」「先生!」当たり前です。全部、勝ったからです。「では、全員の順位は?」みんなは、考え込んでしまいました。勝った数で比べると、人によって戦った回数が違います。どうしたらよいか考えていると、ある子がこんなことを言いました。「そうだ、野球の打率のように勝率をそれぞれ出したら?」そうだということで、みんなで計算し始めました。私は全部勝ったので10割、一度も勝たなかった人は、0割。その出し方は、みんな打率の出し方を知っているので、打数割る打席です。そうして順位を決めました。終業のベルが鳴ったので、「さあ、今日の授業は終わり!」みんな、「ああ、楽しかった。」とつぶやいています。私は、5年生の算数の中で子どもたちが一番苦手とする「割合」の復習をしたのです。それを、「くらべる量÷もとにする量=割合」などと覚えても、どっちがどっちだったか考えてしまいます。身近に、そんなことはいっぱいあるのです。身近なところから覚えた知識は、身近なところで使えるようになるのです。

投稿者 fujimori : 20:20 | コメント (0)

2006年03月18日 教員の頃

年度末

 私は、本来は、学校建築を研究するために学校に勤めたので、いろいろな学校の体験と、その頃の書籍等に紹介されている建物の学校に行けるようにと、産休代替、育休代替教員で学校に勤めました。そこで、いつの時期からか、何年生を受け持つかわかりません。ある年に、ちょうど今頃3月中旬に5年生を担任することになりました。そろそろ卒業式で、毎日その練習で明け暮れる日々です。そして、授業は、1年間のまとめです。そんなある日、校長から、来年度から育休制度ができたので、1年間やってほしいと言われました。そして、次年度、1年生を担任するように言われたのです。私は、びっくりしました。それは、1年生の担任のイメージは、ベテランの年配の方が多いと思っていたからです。それに比べて、私は、その頃は、独身、20歳代でしたし、経験年数は、その前の学校で産休代替教員として、4ヶ月だけです。しかも、この学校でも代替職員です。想像してみると、体育館で入学式をして、そこで校長から担任紹介があります。そして、「3組の担任は、○○先生。産休のため△△先生。」と私を紹介し、私が出て行きます。私は、校長に「いいのですか?私で。」と聞いたところ、「大丈夫です。前の学校で、1年生が上手だと聞いていますから。」そんなことを言われても、1年生しかしたことがないのですから。という訳で、1年生を4月から3月まで1年間担任することになったのです。その後、他の学校に行っても1年生のベテランということで、1年生を担任しました。(今の職業にとっては、ありがたい経験でした。)しかし、問題が起きました。2週間受け持った5年生が、私を6年になっても受け持たせろとストライキをしたのです。何とか説得しましたが、4月にはいって、毎朝黒板に「先生の裏切り者」とか、「私たちを見捨てた」と書かれたのには参りました。そこで、きちんと説明をして、6年生は、きちんとした担任の下で勉強をし、「卒業式の次の日にみんなでどこかに行こう!」と約束をしました。(みんなで約束どおり、高尾山にいきました。)それにしても、私は、みんなに聞いてみました。「何で、そんなに私がいいのか?」大きく、ふたつの体験があるといいます。ひとつは、給食のときでした。最初の日の給食のとき、前で食べている私の机のそばに、その日に休みの子のデザートが3個置いてありました。それを、新しい先生は、どうするのだろうと思ったそうです。まず、一番古いタイプですと、「給食費は、みんな同じ金額を払っていて、みんなはその分だけ食べている、ここに残っているのは、休んだ子が払った分だから、このまま返しなさい。」ちょっと若くなると、「いいから、これはみんなで分けて食べなさい。」というタイプです。一番若いタイプは、「これを誰が食べるかじゃんけんしよう。」と言って、先生もそのじゃんけんに参加します。子どもたちは、私はどの年齢のタイプかと思っていると、そのどのタイプでもなく、しかも、子どもたちからすると、一番望んでいたタイプだったといいます。私はどうしたかというと、みんなに、「私は一番体が大きいし、一番偉いのだから。」と言って、有無を言わせず、一人で全部食べてしまったのです。もちろん美味しそうだったからです。しかし、子どもたちからすると、変に子どもに媚をうったり、機嫌を取ったりする教師は、かえって信用しません。ちょうど「金八先生」が放映されていた頃だったと思いますが、自分たちと違う、尊敬できる存在を求めていたようです。もうひとつ、私が良かった理由は、授業が面白かったからだといいます。どんな授業をしたかは、明日話します。

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2006年02月27日 教員の頃

一休さん

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 マサチューセッツ大学のメディカルセンター心理学主任でもあるバークレー教授が監修をした「ADHDの子どもの上手な指導法」というビデオがあります。ADHDは多動性・衝動性と不注意を特徴とする行動の障害で、神経生物学的な背景を持っているものです。このビデオの中に、罰の与え方の例として、数日前にブログで書いた「タイムアウト」のやり方が書いてありました。当然、前提としては、よい行動を見つけてほめてあげたりごほうびを与えたりすることが必要です。これに連携し、その反対の行動に罰を与え始めるといっています。最初は、穏やかで直接的な命令や言葉で、子どもがその時に行っていることをすぐに止めるようにはっきりと指摘することが必要です。その対処手段だけでは、うまくいかない場合の手段として、「タイムアウト」を実行することも有効であるとしています。ただ、全般としてみると、否定的な結果は効果的ですが、不適切な使い方によって、有害で副作用的な影響がでることがあります。起こりうる有害な自称を最小限度にとどめるために罰の利用はなるべく控えめにすることが大切ですし、肯定的な結果を取り除くために罰を多用する先生は、子どもの行動をそれほど効果的に管理することはできないといわれています。しかし、何か、現場としては、決め手がほしいですね。
 私が教員だった頃に、子どもを集中させるある方法を用いていました。その頃、テレビで「一休さん」のアニメが、人気がありました。その中で、毎回さまざまな困難にあったときに一休さんは、とんちを働かせて乗り切ります。その時に、その「ひらめき」をもたらすときのスタイルがあります。禅を組み、目をつぶります。そして、両の手の人差し指をぺロリとやって、頭の両脇をさすります。そして、マジナイをした後、木魚のポンポンたたく音がしばらくした後、チ~ン鳴って、ひらめくのです。このスタイルは、子どもたちには人気がありました。私は、1年生の子どもたちに、何で、こうするとすばらしい考えが思いつくのだろうかと問いかけました。ためしに、みんなで、禅を組み、目をつぶってもらいました。クラスの子どもたちが全員で、目をつぶり、シーンとしています。しばらくして、私が小さな声で、こう言いました。「みんな、何がわかるかな?ほら、外の校庭で、声がするよね。たぶんどこかのクラスが体育の授業をやっているんだね。その声は、6年生かな?あれ、今度は、隣のクラスから先生が怒っている声がするよ。何をしたんだろう。あっ、誰かが廊下を走って行くね。慌てているみたいだ。目を開けていたり、騒いでいたら、そんなこと全部、気がつかないよね。そうしたら、いい考えなんか、浮かばないかもしれないね。」そして、そっと目を開けてもらいました。それから、こんなことも言いました。「座禅を組むときには、じっとしなくてはいけないのだけれど、どうしても、ふらふらしたり、眠りそうになったりする弱い心が出てしまうことがあるね。その時に、和尚さんが、棒を持って、肩のところをたたいて注意するのだよ。」まだ、あまり本当の座禅の意味を教えても無理なので、簡単にそう話しました。すると、子どもたちは、面白がって、「ねえ、ねえ、僕たちもやろうよ。先生は、棒を持って、歩き回ってよ。」と言います。そこで、私は、子どもたちが騒いでいるとき、大切な話をしようとしたり、静かにさせたいとき、集中させたいとき、「一休さん!」と声をかけると、みんな、目を閉じて、シーンとなります。この言葉があったおかげで、あまり子どもたちを叱らないですみました。

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2006年01月30日 教員の頃

ピグマリオン

 今日は、近くの医院に行きました。私は、少し血圧が高いために、定期的に計ってもらっています。最近は、肥満気味なので、高いとも言われますが、若い頃から高いので、生まれつきとか、遺伝とか言われています。でも、自分では、意外と精神的かなと思うところがあります。あるとき、血圧が高いと言われました。そうすると、その後、血圧を計るときに、「高いと、どうしよう。」と、どきどきしてしまいます。看護師さんに、「深呼吸して!」とか、「ゆったりとして!」といわれても、余計どきどきしてしまうのです。「がんばれ!」と励まされると、余計に落ち込んでしまうのと似ているのかもしれません。私は、かつて、内蔵を悪くしたことがあって、毎年、胃カメラを飲んでいたことがありました。胃カメラは、私は苦手で、どうしてもゲーゲーしてしまいます。ある年、検査に行って、控え室で喉をうがいしていました。これは、喉を麻酔して、少しでも刺激をなくそうというものです。今日は、ゲーゲーするのをよそうと、一生懸命に、丁寧にうがいをしました。しばらくして、検査室から看護師さんが、名前を呼びました。そのときに、自分で、予期しない、びっくりしてしまったことが起きました。なんと、検査室の戸をあけて、部屋の中に一歩入った瞬間にゲーゲー始めたのです。まだ、何も、検査をしているわけでもなく、喉に何も入れているわけでもないのにです。そのとき、小学校の教員時代のある出来事が思い出されました。給食のときに、ある子が目の前の野菜に手をつけていないので、私が「あれっ、野菜、食べないの?」と聞いたところ、突然、ゲーゲー始めました。私は、「先生は、無理に食べろなんて言わないのだから、わざとらしく、ゲーゲーしないでよ。」と言ったのを、思い出したのです。「あの時は、わざとではなかったのだ。私が声をかけた瞬間、喉が食べたと思って、その反応をしただけなのだ。」とわかったのです。私の検査の日も、部屋に入ったとたん、喉に胃カメラを入れられたと思って、そのときの反応をしたのです。人の体って、本当に不思議ですね。子どもが学校に行きたくないと思うと、本当に熱が出たり、おなかが痛くなることもあります。逆のこともあります。「ピグマリオン効果」といわれているものです。アメリカのローゼンタールという人の実験結果から、期待することによって、相手もその期待にこたえるようになる、という現象をいいます。ピグマリオンという名前はギリシア神話から取っています。ギリシャ神話のキプロスの王、ピグマリオンには女性忌避症があり、俗世の女性を愛することはできないと考えました。それで象牙で理想型を彫刻をつくり、それをこの上なく大切にし、彫刻が人間であってほしいという夢を見るようになりました。そして、美の女神アフロディテに彫刻像の女性を妻として迎えられるようにしてほしいと切実に祈ったところ、女性像が呼吸を始め、この女性と結婚し、娘も生まれ、彼の女性観も変わったという話です。ここから「ピグマリオン効果」という言葉が出ました。このような効果が起こる理由として、ローゼンタールは、人は常に相手の期待に対し最も敏感に反応するから、と説明しています。この実験は後に、その実験内容に不備があるという指摘がなされたため、この実験結果をそのまま信じることはできませんが、私は、子どもに対して期待をもち、その子の長所を伸ばそうという温かい態度で接していれば、子どもも自分にあった望ましい方向に伸びていく可能性はあるように思います。もう少し、子どもを信じて、待っていてあげる必要があるのかもしれません。

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2006年01月09日 教員の頃

自分という存在

 今日は、成人式でした。
 私が、小学校の教員の頃、少しワルだった中学生の面倒をみていたことがありました。その子たちの中の4人が、私の結婚式にテープでメッセージをくれました。そこには、「ぼくたちは、先生から、自分の存在感を学びました。いつも自分はこの世には用はないのではないか、自分は存在する意味がないかと思っていました。しかし、そんなぼくたちでも、世の中では必要なのだということを教えてもらいました。」というような内容でした。こんなことを書くと、いかにも私はすばらしい教師のような気がしますが、そんなではありません。この子たちと付き合い始めた頃の中学校では、忠生中で問題になったような、第1期の校内暴力が盛んな頃でした。この子たちの仲間も、当然のように、「いじめ」「万引き」「恐喝」が行われ、トイレの戸や教室の壁や窓は割れたままでした。そんな彼らでしたから、学校では、いつも邪魔扱いでした。「いないほうがいい。」「お前なんか、用はない。」「じゃまだ。」と言われ続けていました。そんな時、私は、彼らと知り合いました。そのころ、私は、子ども会を作ったばかりで、人手が必要でしたので、彼らを子ども会に誘いました。そして、中学生なので、リーダーをやってもらいました。小学生たちは、とても喜びました。一緒に遊んだり、甘えたりしました。そして、終わって、帰るときに小学生たちは、みんなこう言ったのです。「また、来てね。」初めて、自分が必要であるという体験をしたのです。自分を求めている人がいるのだという経験をしたのです。そして、そのあと、彼らの中の一人が、夜間に通って、男性保育士になったのです。
 昨年、私の園に一人の男性が紹介されてきました。彼は、高校を数日行っただけで、その後不登校になり、家にずっと閉じこもっているのです。彼は、子どもと一緒に過ごしたいので、ボランティアで園に来たいと言います。最初、少し心配でしたが、毎日きちんと通ってきます。そして、黙々と子どもたちと遊んだり、面倒を見たりしてくれました。そこで、9月から少しは張り合いになるのでは、ということで、夕方の保育のアルバイトにして、少し給料をあげることにしました。しかし、金額には限度があるので、勤務を15時から19時にしました。すると、心配そうに、「午前中から来ては、いけないのですか?」と聞きます。そこで、時給の金額を低くせず、15時までは、無償ボランティアで来て、そのあとは、きちんと働いてもらうということにしました。年度が終わる頃、みんなの勧めもあって、もう一度、高校に行ってみたいという申し出がありました。そこで、みんなで応援して、夜間の高校に入ることができました。(どの高校かをみんなで選んであげ、試験の日は、みんなで励ましました。いつ、やめると言い出さないかが心配だったのです。)その彼が、1学期の終わりに成績を持って、見せに来てくれました。そして、先日、2学期の成績を持って見せに来ました。みんなが感心したのは、まず、1,2学期を通して、遅刻、欠席が1日もなかったことです。そして、成績も、10教科のうち、7教科が「5」(もちろん、5段階)で、2教科が「4」、1教科が「3」です。もうひとつびっくりしたのは、彼は1年生なのに、生徒会長に選ばれたそうです。投票で、他の2,3,4年生をしのいで、選ばれたのです。私は、持ってきた通知表をコピーさせてもらいました。彼は、もって来た日、1日中、子どもたちと過ごしました。帰りに、子どもたちに「また、来てね。」と言われていました。

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2005年12月24日 教員の頃

クリスマスといえば

今日は、クリスマスイブです。クリスマスといえば、とても懐かしい、暖かい思い出があります。
 担任している1年生の授業中に、私がみんなに、「明日クリスマスだけど、サンタさんから、みんなは何をもらうのかな?」と聞いたところ、ある子が、「先生は何をもらうの?」と聞いたので、「本当は欲しいけど、先生はもう大人だから、何もくれないと思うよ。」と答えました。次の日の日曜日は、クリスマスでした。私が家にいると、玄関が「ピーン、ポーン」となりました。だれかお客が来たのかと出てみると誰もいません。どうしたのかと思って探してみると、門のところの郵便受けに、担任をしている一人の男の子がしがみついています。「どうしたの?」と聞いてみると、「ぼくが、先生へのクリスマスプレゼントとして来たんだよ。」子どもというものは、発想が豊かで、胸にジーンと来ることを言いますね。
 こんなこともありました。国語の授業で、小沢正の『目をさませトラゴロウ』の「ひとつがふたつ」という教材をやったときのことです。『目をさませトラゴロウ』というのは、「山のたけやぶに、とらがすんでいた。なまえはトラノ・トラゴロウといった。」という書き出しで始まる7つの話が語られます。それぞれの話は、とてもやさしい童話ですが、一貫しているテーマは、やはり、「自己同一性」であり、「子どもの自立性」です。教科書に取り上げられていたのは、その巻頭の「ひとつが ふたつ」でした。この話は、「山の発明家である、きつねが、たるのかたちをした、1つのものを2つにする機械を自慢げに持ち出す。さるは、りんごを、うさぎは、にんじんを2つにふやしてもらうが、トラゴロウには、2つにしてもらうものがない。そこで、自分自身を2つにしてもらおうと、機械のなかに入り込む。そうすれば、1ぴきが竹やぶで昼寝をしているあいだに、もう1ぴきが肉まんじゅうをさがすことができるというわけだ。トラゴロウは、無事2ひきになるけれど、2ひきは、それぞれ、自分がほんとうのトラゴロウだと主張して、たちまち大げんかになる。きつねは、今度は、2つのものを1つにする機械を発明せざるをえなくなるのである。1ぴきだけのトラゴロウにもどったは、はずかしそうにいう。「ほんとうの トラゴロウは ぼくだけだ。(中略)やっぱり ぼくは 一ぴきだけのほうが いいなあ」とつぶやきます。
 この授業のあとで、みんなに「みんななら、何をひとつをふたつにしてもらいたいのかな?その理由も書いて!」ということで、紙に書いてもらいました。それを読んでみると、クラスの大半がふたつにしてもらいたいものが同じものでした。それは、「藤森先生。一人は、職員室で仕事をする先生。もう一人は、ぼくたちと一緒に遊んでくれる先生。」私は、休み時間とか放課後には、いつも職員室で仕事をしていました。忙しそうにしている自分をちょっと反省しました。

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2005年12月08日 教員の頃

さざんか

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 今、園の周りの家々は、夜はクリスマスのイルミネーションがとてもきれいです。遠くから、車で見に来る人もいるようです。その家の周りの垣根には、青や白のライトが点滅します。しかし、昼間に歩いてみると、その飾りはほとんど目立ちません。昼間に目立っているのは、そろそろ咲き始めている「さざんか」の垣根です。さざんかは、椿に似ていますが、椿(つばき)科です。この花の原産地は、日本です。ですから、学名も英名もサザンカ(Sasanqua)といいます。つばきの中国名「山茶花」が、いつの頃からか、このサザンカの名前として間違って定着したのです。読みは「山茶花(さんさか)」→「茶山花(ささんか)」→「さざんか」というぐあいに変化したらしいです。「山の茶の花」という名前よりははるかに豪華な花です。特に、冬にはあまり花は咲いていないので、赤や白の山茶花の花は目立ちます。ところで、さざんかと椿は似ていますけど、どこが違うかということは有名ですね。椿の花は落ちるときにボテッと全部一緒に落ちてしまいます(このことが斬首刑を連想するのか、武士は椿の花を嫌ったそうです)が、さざんかは花びらが一枚いちまいばらばらに散ります。また、「さざんか」というと、「たきび」の歌を思い出します。この歌を、1年生に教えるときに、子どもたちに劇をしてもらいました。
「子どもが二人、垣根沿いに歩いています。そして角を曲がったら、その先で焚き火をしています。「あっ、たきびだ、たきびだ。」「ねえ、あたろうか?」「うん、あたろうよ。」でも、どうしようかと迷っています。だって、北風がぴいぷう吹いているから。歩いている脇の垣根には、さざんかの花が咲き始めています。「早く行こうよ。」「たきびだ、たきびだ。落ち葉をたいているよ。」「早く、あったまりたいね。しもやけの手がかゆくなってきた。」ほら、木枯らしが吹いてきます。「おお、さむい!」この道は、とっても寒い道です。「やっぱり、あたろうか?」「あたろうよ。」相談しながら、子どもたちは歩いていきます。」こんな劇をやった後で、「たき火」の歌の歌詞を読んでもらいます。
1、かきねのかきねのまがりかど たきびだたきびだ落ち葉たき あたろうかあたろうよ 北風ぴいぷうふいている
2、さざんかさざんか咲いた道 たきびだたきびだ落ち葉たき あたろうかあたろうよ しもやけお手々がもうかゆい
3、こがらしこがらし寒い道 たきびだたきびだ落ち葉たき あたろうかあたろうよ 相談しながら歩いてる

そして、歌を歌うときに、「あたろうか?」「あたろうよ。」のところだけ、せりふで言ってもらいます。子どもたちは、とても感情をこめて歌ってくれました。子どもたちに歌を歌ってもらうときに、歌詞を言うことでもなく、曲を歌うことではなく、その気持ちを感じてもらいたいと思って、新しい歌を教えるときに、いつもいろいろな工夫をしたものでした。

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2005年12月01日 教員の頃

星座

 私が小学1年生を担任しているときに、よく、子どもたちに「ギリシア神話」を話してあげました。私は、ギリシア神話が好きでした。なぜなら、その結末が、星座になることが多いからです。すると、私は、教室の天井に金色の色紙で作った星で、話に出てきた星座を、できるだけ、その位置に貼っていきました。また、その大きさも、その星の明るさに合わせました。だんだんと、天井いっぱいが星で埋め尽くされていきました。星座の本を見ると、星の間に線があり、それを結んで形になります。しかし、実際の星には、線がありません。そこで、天井には線がないので、その天井いっぱいの星から、星座のかたちが見えてきます。他のクラスの子は、ただ星がいっぱいのように見えても、私の担任しているクラスの子は、星座が見えるのです。ですから、実際の空を見ても、星座を見つけることができます。話のなかで、子どもたちは、「ペルセウス」の冒険や、「こと座」の「オルフェウス」の悲しい話や、「大熊座」の切ない結末などの話に、固唾を呑んで聞き入ったものでした。
 今日は、今年最後の出張先である松山にいます。宿は、道後温泉です。このホテルは、屋上が露天風呂になっていて、今日は少し曇りでしたが、星空がよく見えます。最初にこの宿に泊まったときには、冬の星座が、とてもよく見えました。一人で露天風呂に入っていたので、思わず、歌を歌っていました。私が、大好きな歌です。「冬の星座」(堀内敬三 訳詞・ヘイス 作曲)です。その歌は、メロディーがとてもきれいで、大好きな歌です。このメロディーはアメリカのポピュラー曲で、ヘイスの作曲です。医学博士でもあったウィリアム・シェイクスピア・ヘイスの作品は、アメリカでも長く親しまれているものが多く、日本ではこの歌の他に、「故郷の廃家」が有名です。また、私は、そのメロディーの美しさにも増してとても気に入っているのは、その歌詞です。この歌は古くは「他郷の月」という名の曲名で、故郷の家族を懐かしむ歌として、日本に紹介されましたが、堀内敬三によって訳し直され、冬の星空の歌として広く歌われるようになりました。この堀内敬三という人、アメリカはマサチューセッツ工科大学院卒業という学歴をもちながら、日本人にはとっつきにくかった外国曲をなじみ深いものにした第一の功績者といっても過言ではないようです。かつては中学校の唱歌に指定されていましたが、言い回しが今の子どもには分かりにくいといった理由で、残念ながら10年ほど前から音楽の教科書から消えてしまっているようです。確かに、私も当時は、ずいぶんと意味をちがえて覚え、今、あまり意味もわからず覚えた歌詞を口ずさみながら、本当の意味や、その思い、宇宙の営み、そんなものを感じるようになってきました。ですから、少し意味がわからなくても、その音の美しさ、日本語の意味の深さを感じればいいと思います。明日のブログで、その歌詞の深さを語りたいと思います。

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2005年11月15日 教員の頃

ユリノキ

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 今、園の周りの街路樹は、紅葉がきれいです。といっても、赤ではなく、黄色く色づいています。この街路樹は、「ユリノキ」といいます。木の名前の由来は、いろいろなところから来ています。昔、その木を見て、何かを連想したり、何かに似ていたりして名前をつけます。この木の花を見た人が、この木の花がユリの花に似ているということで、「ユリノキ」(百合の木)とつけたようですが、実際は、チューリップに近いのです。ですから、学名はtulip tree 、また別名もチューリップの木といいますが、日本に渡来した明治時代には、日本ではチューリップがなかったので、ユリとなったとか聞きました。別のところで、始めてみた人が、花を見ないで、葉を見たところ、葉の形が祭りなどに着るはんてんに似ているので、「ハンテンボク」「半纏木」(はんてんぼく)とよびました。他にも、葉の形から、「奴凧(やっこだこ)の木」、「軍配(ぐんばい)の木」などともいうようです。
 この木には、思い出があります。私が少しの間、勤めた小学校の校歌に「ユリノキは 風に輝き 枝をはり」という歌詞がありました。そのころは、ユリノキを知らなかったので、他の教師に聞いてみましたが、誰も知りません。そこで、調べてみました。その木の別名が「半纏木」ということを知って、校庭にあるその木の葉を見たら、まさに祭りに着る半纏にそっくりだったので、非常に感動してしまいました。そのころ、朝礼で、教師が交代でいろいろな話をしていましたので、私の当番の日に、画用紙に半纏の絵を描いて、実際にハンテンボク(ユリノキ)の葉を見せて、子どもたちにその木の名前の由来を話したのです。いつも歌っている校歌の歌詞なのに、他の教師は、調べようとしなかったです。
 また、朝礼といえば、思い出すことがあります。いつものように私が担任している1年生の後ろで、校長先生の話を聞いていました。すると、担任しているクラスの子達が、ふらふらして、話を聞いていません。そこで私は、「きちんと、校長先生の話を聞きなさい。」と注意しました。すると、隣のクラスのベテランの教師がこう言いました。「それは、校長の話がつまらないからいけないのよ。」私は、「つまらないなら、後で言いにいけばいいじゃないですか。きちんと聞かなければ、文句を言いにいけないでしょ。」私のクラスは、子どもたちに何度か、校長室まで、今日の話はつまらなかったとか、面白かったと言いに行かせていました。すると、隣のクラスの教師があきれたようにこう言いました。「ずいぶん先生って、軍国主義なのね。」びっくりしました。どうも、きちんとさせると軍国主義だと思っているようです。私は、子どもでも、校長のところに、つまらなければつまらないと言いにいけるのが「民主主義」だと思っています。戦後、どうも民主主義とか、自由ということが間違って理解されてきたことがあるようです。

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2005年10月12日 教員の頃

キンモクセイ

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園庭のキンモクセイの花
 つい、この間まで、キンモクセイのいい香りがしていました。園の駐車場に植えてあります。この香りは、とてもいいということで、トイレの芳香剤に使われてしまったせいで、なんとなくトイレのにおいと思われがちで、なんだかかわいそうです。好きな香りが、すぐトイレに使われてしまい、残念です。(最近、ラ・フランスのにおいというものが出ました。)また、名前の由来も面白く、金木犀(きんもくせい)という字の「犀」は、動物のサイですね。淡灰色の幹の紋斑が動物の犀(サイ)の皮に似ているかららしいです。何で、強烈な印象の花のイメージから名前をつけずに、樹皮のイメージからつけたのでしょうね。もう一つ、この花について有名なことに、日本の金木犀が雄木ばかりという話があります。確かに、実を見たことがありません。キンモクセイは、イチョウと同じく、雌雄異株で、渡来したのは7~9世紀の間に、遣唐使が桂林あたりから種をもち帰って植えたと伝えられていますが、雄の木しか日本に渡ってこなかったそうです。そして、中国では、あの強く甘い香りから、「月には木犀の大木が茂っている」という伝説があるそうです。その香りを嗅ぐたびに、そのことを思い浮かべます。
 この香りをかいでいて、思い出したことがありました。私が、小学校で1年生を担任していたときのことです。私は、1学期の間は、子どもたちになるべく、文字を使わせませんでした。たとえば、毎週、各地の民話を話していたのですが、読み終わってからの「感想文」は、絵で描かせていました。「感想絵」です。思ったこと、班新聞もできる限り、絵での表現をさせました。子どもたちは、その不便さから、文字を使いたがりました。そして、2学期、今度は、文字を使うことを解禁したのです。逆に、今度は、いろいろなものを、文字で表現させました。あるとき、教室の真ん中に、花を入れた花瓶を置いて、子どもたちに画板を持たせて、その周りを囲みました。「さあ、みんなで、この花を写生しよう!」といって、画用紙ではなく、原稿用紙を配って、「ただし、絵で写生ではなく、文字で写生をしよう。」と言ったのです。そして、またある朝、登校してきたら、校門のところのキンモクセイがとてもいい香りだったので、子どもたちをそこに連れて行って、「今日は、このにおいを文字で写生しよう!」と言ったのです。
 文字は、使いこなせると、とても便利です。姿も、においも表現することができます。しかし、本当にこちらが伝えたいことが伝わるかというと、逆に、文字はとても怖いものがあります。このブログにして、写真が1枚あるだけで、伝えたいイメージはすぐに伝わることがあります。しかし、一番伝えたい「思い」は、なかなか伝わりません。このブログを続けるのも、ある時の文字だけでなく、ある時の場面だけでなく、その奥にある「思い」を伝えたいためなのです。

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