2009年11月10日 旅先にて

紅葉とトロッコ

 日本には、四季を感じる場所が各地にあります。桜の時期には、日本中桜が咲き乱れ、各地の桜の名所がそれぞれいろいろとイベントを行います。すると、今年はどこに桜を見に行こうか、夜桜をどこで鑑賞しようかと迷います。そして、それがブログに登場します。それは、桜自体を鑑賞するというよりも、桜の背景も影響します。都電と桜、お濠と桜、土手に咲く桜、桜の発祥の地の桜、菜の花と桜など日本では様々な組み合わせを味わうことができます。
 それはほかの季節でもそうですが、特に、秋の紅葉の時期は、桜とはまた違った楽しみがあります。しかも、紅葉は桜と違って、1本の木というよりも、山全体で味わうこともできます。日に映えて山が燃えるような姿は、とても美しいものです。
 今年は、「トロッコ電車と紅葉」を堪能することができました。
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「トロッコ」とは、もともとは、トンネルやダム等の工事現場からの土砂や石の運搬などに使用される貨車のことです。トロッコを見ると、乗り込みたくなります。その線路がどこまで続いているかもわからずに。芥川龍之介の「トロッコ」という作品が思い出されます。8歳の少年は、トロッコに乗りたいと思い、ある日土工と一緒にトロッコを押してあげて、そのあと一緒に乗り込みますが、あまりに遠くまで来たことに不安になり、一人で駆けて家に戻るまでの心細さを描いていました。
もうひとつ、最近、マイケル・ジャクソンが亡くなった時にコメントした彼の娘の本当の父親だと名乗ったマーク・レスターが、子どもの頃主演した映画「小さな恋のメロディー」のエンディングは、主人公の男の子と女の子が二人でトロッコに乗り込み、彼方へ消えていくシーンでした。芥川の作品同様、トロッコは、子どもの頃の将来の夢と不安へ誘うイメージがあるようです。
今回乗ったトロッコは、黒部峡谷の電源開発に伴い、その輸送手段として、電源開発が上流に延びるとともに軌道を延長してきた黒部軌道を走るトロッコです。宇奈月温泉から昭和12年に開通した終点の欅平まで、終わりに近づいた紅葉に染まる山々を背景に黒部峡谷を走っていきました。
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黒部峡谷は、北アルプスのほぼ中央の鷲羽山に源を発し、長さ86km、標高差3000mを流れ下る黒部川の上・中流域に、切り立った深いV字峡を形成する大峡谷です。昭和9年には、中部山岳国立公園に指定されています。峡谷は、黒部川の浸食によって深く刻み込まれ、黒部峡谷流域の平均斜度は36度と非常に勾配が強く、30度~45度の部分が全体の70%にも及びます。また、黒部川の上流にあたるのですが、流域が豪雪地帯に位置するため四季を通じて非常に水量が多く、流れも速いので、見ていて豪快です。また、とても水のきれいな川としても知られており、黒部川扇状地扇端部の湧水地帯の地下水は、「全国名水百選」にも選ばれています。
また、黒部川は、そのところどころに築かれたダムが有名で、「黒部の太陽」のドラマや舞台化で有名です。昭和36年に完成した黒部ダムが有名ですが、実は黒部川における電源開発の歴史は大変古く、今から85年前に始まりました。「くろよん」と言いますが、ダムが四つあり、トロッコで走っていく途中の「黒部川第二発電所」は富山の建築百選にも選ばれている、戦前、日本の建築界ばかりか土木界でも評判となった名建築です。
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2009年10月29日 旅先にて

幕の内駅弁

先日、姫路から帰るときに駅弁を買いました。その駅弁のふたには、「日本初の“幕の内駅弁”販売」と書かれてあります。
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駅弁は、日本独特な食文化です。それは、以前のブログでも紹介したように、電車の中の座席でものを食べるということは外国ではせず、食堂車が整備されたからです。しかし、弁当は、どの国でも、昔からあったでしょう。というのは、食べ物はその場で食べるというよりは、持ち歩くことがあったからです。しかし、記録に残っているものでは、日本では、5世紀頃にはもう、そういう習慣があったとされています。また、そのときにはおにぎりにして持っていくとか、干しものにして持っていくとかしていたでしょうが、いわゆる今弁当と言って思い出すような、白飯と副食という組み合わせになったのはいつかははっきりしないようです。しかし、白飯と副食という組み合わせが次第に手が込んできて、「幕の内弁当」と呼ばれるようになったのは、江戸時代中期のようです。
江戸中期に、料亭のようなところで、弁当を製造し、販売していました。その頃の庶民の娯楽と言えば芝居見物でした。この芝居というのが丸一日がかりというのも珍しくありませんでした。そこで、当然観客はお腹が空きます。その観客を目当てに弁当売りがいて、観客は幕と幕の間(幕のうち)にその弁当を食べました。というわけで、芝居小屋で売られていたスタイルの弁当を幕の内と言うようになりました。芝居の間に食べるものとして、幕の内だけだなく、うな丼とかうな重も手軽に美味しく食べられるようにと生まれたものです。しかし、説はいろいろとあるようで、「幕の内側で役者が食べるから」「相撲取りの小結が幕の内力士であることから"小さなおむすび"の入っている弁当を幕の内弁当と呼ぶようになった」などがあります。また、芝居鑑賞のときだけでなく、相撲観戦のときにも相撲茶屋が弁当を提供していました。そこから幕内力士のように相撲の世界にも幕の内という言葉が持ち込まれたという説もあります。容れ物は、重箱などに入れていたようです。
明治以降になってからは、幕の内弁当は駅弁の様式のひとつとして広まっていきます。このころのことが、先日買った「まねき食品株式会社」の駅弁のふたに書かれてあったのです。1888(明治21)年に山陽鉄道(現JR山陽線)が姫路駅まで開通したときに、明治初年から茶店を開業していた竹田木八が、その翌年に姫路駅で「幕の内駅弁」を売り出しました。この弁当が、全国初の幕の内駅弁とされていると書かれてあります。その弁当は、それまでの竹皮で包んだ駅弁と違い、容器の回収ができないことから、使い捨ての経木の折詰に盛るという方法をとり、その容器がその後一気に広まっていきました。この経木は、殺菌効果のあるという松材を使用しました。
元祖「幕の内駅弁」と言っている当時の弁当は、13種類のおかず(鯛塩焼、伊達巻き、焼蒲鉾、卵焼き、大豆昆布佃煮、牛蒡、蕗、百合根、筍、人参、空豆、きんとん、奈良漬)を上折に、下折には梅干しを入れた白飯を入れ二重の折詰にして、当時お米1升6銭の時代に12銭で販売致しました。
 今、幕の内弁当は、以前人気が高いようですが、売られているのは、芝居小屋から駅弁からコンビニに変わりつつあるようです。

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2009年10月16日 旅先にて

鷺と烏

 岡山の帰りに姫路に寄ったのは、一つは安藤氏設計の姫路文学館見学ですが、もう一つの目的は、世界遺産の姫路城の見学です。それは、今年から姫路城大天守の保存修理工事が行われるからです。これは、昭和39年に完了した解体復元工事から45年が過ぎ、白漆喰壁をはじめ上層部の軒やひさしに傷みや汚れが激しくなってきたため、本格的な修理を行うようです。修理期間中は、大天守を完全に覆うように素屋根を掛けて作業を実施し、21年から丸5年間は、外部の姿を見ることができなくなるようなので、それまでに見ておこうという目的で訪れたのです。しかし、大天守内部の公開は続けられるそうで、今回時間の関係で内部は見ずに、外観をしっかりと見てきました。
姫路城は法隆寺とともに1993年12月11日、世界遺産リストにその名が登録されました。そして2001年には、国宝指定70周年、築城400周年を迎えました。5重6階の大天守と3つの小天守が渡櫓でつながり、幾重にも重なる屋根、千鳥破風や唐破風が、白漆喰総塗籠造の外装と相まって、華やかな構成美をつくっています。その白漆喰総塗籠された姿は、まさに、天を舞う白鷺のように見えるということで別名白鷺城(はくろじょう)ともいわれます。それに対して、その前日に見た岡山城は、櫓35棟、門21棟があり、天守が下見板張りの黒造りであったため烏城(うじょう)といわれています。
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ただ、姫路城にはいくつか説があって、城のある丘が「鷺山」とも呼ばれたからという説や、城が白鷺の飛ぶ姿に見えるためとか、昔からゴイサギが多くすんでいたから、などといわれています。
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姫路城の話になると深入りしそうなので、今回は、それぞれの城の別名について考えてみます。岡山城が、烏城(うじょう)といわれていますが、同じ字を書いて「からすじょう」といわれているのが、やはり国宝になっている長野県松本城です。現在は天守群などの建物が現存し、城跡は国の史跡に指定されています。松本城と呼ばれる以前は深志城といって言いましたが、通称として烏城(からすじょう)と呼ばれています。天守の外壁は各層とも上部は白漆くいですが、下部は黒漆塗りの下見板が覆っていることからこう呼ばれているのです。
 城で国宝に指定されているのが「姫路城」「松本城」のほかに、「犬山城」と「彦根城」があります。その中の犬山城は、木曽川沿いの高さ約88メートルほどの丘に築かれた平山城で、その佇まいを長江流域の丘上にある白帝城を詠った李白の詩「早發白帝城」(早に白帝城を発す)にちなんで「白帝城」と荻生徂徠が命名したと伝えられています。その近くにある温泉に泊まることがありますが、「白帝の湯」と言います。
 また、「彦根城」は、江戸時代に滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に、鎮西を担う井伊氏の拠点として置かれた平山城で、その彦根山は別名「金亀山」とも呼ばれるために城は金亀城(こんきじょう)ともいわれています。
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 このように、城の別名はその姿からつけられたり、その地形から、その地名から言われたりします。その名称は、その由来からして、いかにも民衆が分かりやすいようにそう呼んでいたというようなことは、今でもいろいろなものに、役所がつけた名前よりも普段分かりやすくつけられる愛称で呼ばれるのと同じですね。

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2009年10月14日 旅先にて

紙芝居1

 安藤忠雄氏の世界を直島で十分に堪能した後、ちょうど日、月曜日と連休でしたので、岡山で妻と待ち合わせて姫路に行きました。そこでの見学の一つは、やはり安藤忠雄氏設計の「姫路文学館」の見学です。
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この文学館では、姫路を中心とした播磨ゆかりの文人たちを顕彰し、資料の収集および調査・研究を行う拠点として、1991年4月に市制百周年事業の一環として開館しました。国宝姫路城の北西に位置し、「ユニークなデザインが古い町並みに新しい風景を添えています」とチラシに書かれています。南館と北館2棟それぞれが違った主張で建っており、そのデザインは、他の作品同様、外観だけでなく、存在感たっぷりの厚いコンクリートの壁で区切られた室内と、その長い壁の突き当たりに、外から注ぐ光がまた違った仕切りを作っています。
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 この文学館の特別展「みんなの紙芝居」が開催されていました。園では、紙芝居は子どもにはとても人気のある教材で、昼寝前になると、子どもたちが好きな紙芝居を選びに職員室にやってきます。この紙芝居は、日本独特の児童文化です。私の子どもの頃以前から、いまだに人気のあるというのも珍しいですね。
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 この展示のあいさつ文に、「紙芝居は、自転車と荷台をセットした舞台装置で絵と話芸により展開され、至近距離で接する観客の心を捉えて離さない生身の芸能文化でした。テレビ普及前夜の世間に根を下ろし、特に子どもたちに対しては、生活に密着したメディアとして確固たる地位を保っていました。テレビの普及と反比例するように街頭から急速に姿を消した紙芝居ですが、今、教育現場や全国の図書館で注目されるなど、再び熱い関心が寄せられています。」
 確かに、紙芝居は子どもたちにとって黄金バットに代表されるような、ある意味で大衆芸能でした。その最初の黄金期は、ずいぶんと早い時期、昭和の初めには訪れます。昭和5年には、飴を売りながら子どもたちに語りを入れた「平絵」が登場し、その秋には「黄金バット」が創出されるのです。当時の紙芝居の裏には説明文がなく、貸し元が紙芝居業者に口伝であらすじを伝え、話し手が講談のように面白おかしく、話していたようです。しかし、それが次第にエスカレートして刺激の強いものが盛んにつくられていきます。そのために、「教育上見逃すことが出来ない」と世間から非難を浴びます。
 アメリカの大学で神学を学んだ「今井よね」は、自宅で子どもたちを集めてキリスト教を伝道していました。ある時、その途中、街頭紙芝居の拍子木の音が聞こえた瞬間、子どもたちはみんな外に飛び出して行ってしまいました。彼女がそのあとを追ってみると、身じろぎもせず、食い入るように紙芝居を見つめている子どもの姿を見て、この紙芝居をキリスト教の伝道に使えるのではないかと考え、その内容を考え、紙芝居画家のところに持ち込み、紙芝居を作ります。これが昭和8年、大衆演芸であった紙芝居から教育的目的を持つメディアとしての存在として第一歩だったのです。
 これを、きちんとした幼児教育の目的として位置づけたのが「高橋五山」という全甲社という出版社を立ち上げた人です。彼は、街頭紙芝居の持つ、話し手と子どもたちの人間的な結びつきに着目し、さらに「見る、聞く、楽しさに芸術性を盛るなら、楽しさはさらに増すはず」と考え、昭和10年4月に「幼稚園紙芝居」(全10巻)の出版を開始するのです。
その後、私が子どものころによく見かけた紙芝居は、どうなっていくのでしょうか。

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2009年09月08日 旅先にて

白と黒

 鹿児島黒牛黒豚銘柄販売促進協議会は、1998(平成10)年に9月6日「クロの日」を記念日に定め、「黒の日まつり」としてセールや試食喧伝を行って普及に努めています。
 少し前に職員と鹿児島に行ったときに、鹿児島といえば黒豚だということで、黒豚とんかつでも食べようかということになりました。昨年暮れには妻と鹿児島に行ったときには、昼には鹿児島の駅で黒豚とんかつ、夕食には黒豚しゃぶしゃぶを食べたのですが、若い人にはとんかつがいいかと思って店を探したのですが、天文館辺りにはどこにもありません。何度もぐるぐる歩き回ったのですが、どこにもありません。その代わりに何軒も「白熊くん」という看板があります。最初は何かと思ったのですが、どうも練乳がけのかき氷のようです。なんでこんなにどの店にもあるのかというと、テレビの「県民ショー」で鹿児島名物として取り上げられたからのようです。そこで、とんかつはあきらめて、白熊を食べることにしました。私は、ブログでも取り上げたようにかき氷マニアです。しかも、練乳がけと、ふわっとした氷が好みですから、白熊はとてもおいしかったです。
もともと、白熊は、昭和22年白蜜、赤蜜をかけたみぞれ、蜜かけのようなシンプルなかき氷でした。イチゴにミルクをかけて食べるとおいしかったのにヒントを得て、氷に練乳をかけてみたそうです。しかし、それでは甘すぎるということで、改良を重ね、独特のさっぱりした味に仕立てていったのです。それだけではさびしいということで、洋菓子の感覚で中にさいころ型の果物や、16寸豆を入れ、外側に、アンゼリカ、チェリー、レーズンをトッピングしてみたら、その姿が真っ白い体に目がある白クマに似ていることから、「白熊」というかき氷になったのです。今は、マンゴープリンやマンゴー汁がかかった「黄熊」などがあります。私はオリジナルの白熊を食べたのですが、正直、量が多すぎることと、ちょっと甘すぎるところが少し難点でしたが。
 それにしても、なんで鹿児島が黒豚なのでしょう。実は、戦国時代から薩摩の国では豚肉を、歩く野菜と呼んで食べられていたようです。鹿児島県国分市の国分史記には、1609年島津家が琉球侵攻をした際に、琉球の豚を多数連れて帰ってきて、薩摩の豚と改良をしたと記載されています。そのころから鹿児島の豚のおいしさは、全国的に有名だったようです。幕末、彦根藩主井伊直弼が大老になりますが、この時に直弼は彦根藩が代々牛肉を将軍家に献上していた事を中止し、代わりに薩摩の黒豚が献上されました。また、水戸藩主斎昭公は、「いかにも珍味、滋味あり。コクあり、なによりも精がつく」といったそうですし、徳川慶喜は後に「豚一様」と呼ばれるほどに薩摩の黒豚を気に入ったといわれています。また、西郷隆盛も豚肉をこよなく愛したといわれており、豚骨と呼ばれる郷土料理と、肉入り野菜炒めの黒豚料理を愛していたと、鹿児島の郷土料理で書かれています。
その後、明治以降に、肉質が優れているとされる英国バークシャー種に改良を重ねて鹿児島黒豚が出来上がったようです。英国より導入された強健なバークシャー種と交配することで、黒豚のよいところを引き出しながらそのおいしさに改良を加え、歯切れがよく、柔らかく、水っぽくなく、うまみがあり、しかも、さっぱりしているなどの特色の鹿児島黒豚が出来上がってきました。そして、この黒豚のもう一つの特徴は、カンショを飼料として与えることです。こうすることにより、脂肪の融点が上昇し、不飽和脂肪酸含量が減少します。そして、赤肉脂肪中に抗酸化作用のあるビタミンEが増加することもわかっています。
白熊にしても、黒豚にしても改良を重ねていって、今の味があるのですね。

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2009年08月17日 旅先にて

竜王

 人間力とはという話をした安藤忠雄さんは、今世界中から注目されている建築家です。彼の活動は建築でけでなく、町を創造し、木を植え、発想の転換を自ら実践して見せてくれます。それに駆り立てる原動力は「冒険」であるといいます。それは、彼の経歴が非常に特殊であるということが大いに関係していると思います。今月号のCasaの特集の中で安藤氏は「私の場合は、正規の建築教育を受けずに“この道で生きていこう”と自分で勝手に決めて奔り出した。スタート時点が、すでにレールを外れていましたから……。自ら探して、つくらないと仕事がない。平和な生き方を選び得ない状況があったんです。それを40年間続けてきましたから、さすがにもう疲れてきて“闘いたくない”気持ちもありますが。どっちにしても人生1回です。ならば、最後まで夢を追いかけて、人生を全うしたい。」と言っています。
 なんとなく、私の人生と重なるところがあります。ただ、彼ば天才なので、仕事や取り組みはとてもダイナミックです。その分、冒険は多かったのかもしれません。しかし、それが作品に影響を与え、海外の有名なデザイナーたちがこぞって彼とのコラボレーションをしたがるのは、彼の建築の持つ独特の“強さ”であるといわれています。
 その彼の作品を日本でもいろいろなところで見ることができます。このブログでも紹介したものでは、長野県「小海町高原美術館」とか愛媛県「坂の上の雲ミュージアム」ando.sakanoue.JPGなどがありますが、今回、珍しい建物の設計である「竜王駅」に妻と行ってみました。
この駅は、山梨県甲斐市竜王新町にあり、中央本線の駅で、甲府より松本よりにひと駅行ったところにあります。この竜王駅は、2004年甲斐市が「竜王駅都市拠点整備事業」で、安藤氏に設計を依頼し、2006年に着工、昨年3月に完成したものです。安藤氏の設計というとコンクリート打ち放しのボリュームがあるものが多いのですが、この駅舎は鉄骨2階建ての「鉄とガラス」で作られ、鋭角的なボリュームが結びあわされた形をしています。それは、山梨特産の水晶の原石や鎹がモチーフだそうです。
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また、南北の駅前広場を結ぶ長さ約120メートルの自由通路はガラス張りの外観です。ryuoekihasi.jpg
また、ガラスを通して富士山や南アルプス、八ヶ岳などを眺望できるのが特徴です。
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安藤氏の数々の建築の中で一度訪れてみたいと思っていたのが、香川県の瀬戸内海に浮かぶ直島にある、建物がすべて地下に埋まった「地中美術館」です。今度そこを訪れる計画があるので、とても楽しみにしています。
安藤忠雄さんは、建築というのは、クライアントと建設会社、建築家とが一緒になって挑戦する“冒険”であるべきだと言います。ともに同じ目標に向かって奔ろうと。大事なのは、つくる形の前に動機の部分なんだといっています。そして、最後にこう締めくくっています。「今、建築も投資の対象で、土地を買って、建物を建てて、償却して、あるいは販売して儲けていくというようなことになっています。でも、私は、建築というのは意義のある仕事なんだということを信じているわけです。この夢を感じられなくなった時が、終わりだなと思いながら、この仕事を続けているんです」
 私は、最近保育が投資の対象になり始めているような気がします。しかし、保育はとても意義のある仕事です。その夢をいつまでも感じていたいと思っています。

投稿者 fujimori : 22:52 | コメント (5)

2009年07月16日 旅先にて

荒城

「水を 沢山 くんで来て 水鉄砲で 遊びましょう 一 二 三 四 ちゅっ ちゅっ ちゅっ」という「幼稚園唱歌」の中にある「水遊び」という歌の歌詞です。この「幼稚園唱歌」は、東京女子高等師範学校の教授だった東基吉の依頼により、幼児のための口語の歌詞に作曲された20曲の唱歌から成っています。この曲集の出版は1901年ですから、当時としてはこの歌詞のような口語で書かれた歌は珍しかったようです。作曲を依頼されたのは瀧廉太郎が17曲、鈴木毅一が3曲を担当しています。歌詞の大部分は、東基吉の夫人くめが担当しましたが、瀧自身が作詞したものが4曲あり、この「水遊び」という曲は歌詞も瀧で、22歳でした。
 瀧廉太郎といえば、以前大分を訪れたとき遊歩公園に「滝連太郎終焉の地」という標柱が建っていましたが、病を得た廉太郎は大分の父母の家に身を寄せ、1903年6月29日ここで没したそうです。
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 瀧廉太郎といえば有名に曲が何曲かありますが、特に「荒城の月」は、土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲による歌曲は、哀切をおびたメロディーと歌詞が特徴で、海外の賛美歌にもなっているくらいです。その歌詞は、七五調(今様形式)で、曲は西洋音楽のメロディーが融合した名曲です。この曲は、明治34年(1901年)に中学校(旧制中学校)唱歌の懸賞の応募作品として、瀧廉太郎が作曲したもので、原曲は無伴奏の歌曲でした。歌詞は、東京音楽学校が土井晩翠に懸賞応募用テキストとして依頼したものです。この「荒城」とは、どの城であるか論議されるところですが、土井晩翠は、仙台生まれなので、「青葉城」ではないかという説と、福島県会津若松市を訪れたときにイメージがわいたとして、「鶴ヶ城」をモデルにして書いたとも、また、滝廉太郎が曲を大分県竹田市の岡城址で連想したとかいわれ、それぞれ歌碑が設置されているようです。
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 「春高楼の花の宴 巡る盃 影さして 千代の松が枝 分け出でし 昔の光今いづこ」とあまりに有名な1番の歌詞ですが、長い年月を得た老松の枝を分けてさす光は、非常に美しい情景を思い起こします。「秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて 植うる剣に照り沿ひし 昔の光今いづこ」この2番の出だしである「秋陣営」は、上杉謙信の「霜は軍営に満ちて秋気清し数行の過雁月三更」からとったと言われ、霜が降り、澄み切った秋の空を雁が飛んで行く姿に哀愁を感じるとともに、鶴ヶ城での戊辰戦争の時の悲惨な戦いが思い出されます。「今荒城の夜半の月 変わらぬ光 誰がためぞ 垣に残るはただ葛 松に歌ふはただ嵐」さまざまな戦争やいろいろな出来事があっても変わらないのは月の光です。静けさの中で蔦は壁を伝い、松を揺らし、音を立てているのはそこに当たる風の音だけです。「天上影は変はらねど 栄枯は移る世の姿 映さんとてか今も尚 ああ荒城の夜半の月」栄枯盛衰、諸行無常の世の中で 月の光はいつの世も変わらず照らしています。今宵も城影からさしてくる月の光を浴びながらそんな感傷にふけります。
 本当の歌詞の意味は少し違うかもしれませんが、私は、会津の鶴ヶ城を訪れて、この歌詞が頭の中をよぎりました。大切にしたい歌ですね。

投稿者 fujimori : 21:06 | コメント (5)

2009年07月15日 旅先にて

会津と天地人

私は東京生まれですので、「江戸っ子」ですということがあります。同じように大阪生まれですと「浪速っ子」と言ったり、北海道生まれですと「道産子」と言ったりします。しかし、江戸っ子には、もう少し厳密な意味が含まれます。「江戸で生まれ育った生粋の」ということが条件になります。生まれただけでなく、育っていることも条件になりますし、「生粋」という条件も入ります。生粋ということはどういう意味かというと、もう日等に言い方である「ちゃきちゃきの江戸っ子」という言葉があります。この「ちゃきちゃき」とは、長男(嫡男)の長男(嫡男)を意味する「嫡嫡」がなまった言葉で、3代続きの長男である場合のみ「ちゃきちゃきの江戸っ子」と言うようです。
また、「先祖代々ここの出身です」ということがあります。その時の「先祖代々」とはどのくらいの間のことを言うのでしょうか。たとえば、「先祖代々の墓」というのがありますが、だいたいにして今のような墓が造られたのはそれほど昔ではないので、代々といってもそれほどの長い間ではないはずです。これは「代々この職業です」という場合も同じで、それほどの長い間ではないでしょう。
今、NHK大河ドラマで「天地人」が放映されていますが、このころの戦国時代から江戸時代にかけて、大名たちは頻繁に国替えが行われていたようです。これは「転封」といって、江戸幕府(将軍)が、手柄に対する褒美であったり、罰則であったりで、大名の領土を別の場所に移すことで、「移封」とも「所替」とも「得替」とも言ったようです。私は妻とこの大河ドラマつながりの場所を訪れることにしていますが、この戦国時代から江戸時代にかけてがドラマの舞台の時には、訪れる場所はいろいろと変わっていきます。2006年に放映された山内一豊とその妻千代との話の「功名が辻」では、ずいぶんと転々としました。
尾張国(愛知県)に生まれ、織田信長に仕え、秀吉の与力となった時の功績により、近江国で400石を与えられ、この後、播磨国(兵庫県)を中心に2000石を領します。その後、豊臣秀次の宿老となり若狭国高浜城主、まもなく近江長浜城主となります。そして、遠江国掛川に所領を与えられ、最後には土佐国一国の領主としておえます。一体、どこの国の城主だったかわからないほどです。
今年の大河ドラマ「天地人」も、それほどあちらこちらではありませんが、主人公である直江兼続もいろいろな地で城主になります。大きく言えば、新潟、山形、福島が舞台です。今まで、新潟県の長岡、上越、直江津を訪ね、山形県の米沢、山形を訪ね、今回は福島県会津を訪ねました。この地にある「鶴ヶ城」は、文献史上では「黒川城」とか「会津城」とか「若松城」と呼ばれます。
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この鶴ヶ城は、戊辰戦争の際に、会津勢の立て篭もったことで有名ですが、実は上杉景勝が2年くらい城主になっています。ちょうど先週NHK大河ドラマで伊達政宗が葦名氏と連年戦いを繰り返していることに対して直江兼続が説得に行くところが放映されました。その説得にもかかわらず、政宗は葦名氏を滅ぼし、黒川城を手にします。しかし政宗は、その後秀吉に臣従し、会津を召し上げられ、代わって蒲生氏郷が黒川城に入ります。彼は、近世城郭に改造し、城下町を整備し、名も「鶴ヶ城」に改めます。しかし、氏郷の子である秀行が家中騒動のために下野国宇都宮に移封されたために、越後国春日山より上杉景勝が入封します。しかし、1600年、関ヶ原の戦いで西軍に加担した上杉景勝を徳川家康は石高を下げ、出羽国米沢に移封するのです。
この城の五層の天守閣が昭和40年(1965)に復元され、干飯櫓・南走長屋が平成13年に復元され、一般公開されています。復元にあたって、発掘調査や資料調査に基づいて設計が行われ、工事には往時の工法や技法を用いて本格的に復元されています。

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2009年06月26日 旅先にて

セミの鳴き声

 山寺に登る途中で、「セミの鳴き声」という昔のおもちゃを買いました。このおもちゃは、棒につけられたタコ糸の先にセミをかたどった竹筒がくくられていて、その竹筒を棒を持って振り回すと、セミの鳴き声がするというものです。
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それは、棒の先端に「松やに」がついていて、タコ糸はちょうどこの「松やに」のところにくくられているので、棒を持って回転したときに、「松やに」とタコ糸が摩擦されて音が出て、その音が竹筒の共鳴胴に響く仕組みになっているのです。このようなおもちゃは、日本の伝承おもちゃとして売れていたのですが、実は、同じようなおもちゃがアジアの一部や南米にも見られます。それは、竹筒の両端に油紙を張り、紙の一端の真ん中から丈夫な紐を通して棒に縛りつけて、同じようにぐるぐる回転させることによって、唸り音を出します。そのほかにも、セミの声を出すものとして、歌舞伎などでは、セミに似せた声を出す時に使いますが、竹筒を吹いて「ミンミンセミ」の鳴き声を出すおもちゃがあります。この笛は、細い管の中にリードが入っていて吹き口になり、太い方の管の両端を両掌で押さえて、片方の掌を時どき離しながら吹きます。よく、同じように竹筒の両端を抑えて鳴き声を出すものとして、ウグイス笛もあります。
 買った「セミの鳴き声」をぶんぶん回すと、ここから出てくる音の色はミンミン蝉が少し嗄れたような鳴き声でした。ですから、聞いていた職員は、カエルの鳴き声みたいと言っていました。というのも、このセミと同じ発音方法で蛙の鳴き声を出すおもちゃがあるのです。ただ、蝉よりも形が大きく、紐はプラスチック製で釣り糸を使い、棒の部分には松やには塗りません。たぶん、かえるとセミは、本当は同じような鳴き声かもしれません。それにしても、回して出る音はとてもうるさい音が出ます。実際の鳴き声も、セミにしても、帰るにしてもうるさいくらいの鳴き声です。
 まだ、山寺ではセミは鳴きだしていませんので、森の中はシーンとしています。しかし、夏になるとさぞかしうるさいだろうと思います。しかし、この山寺で、松尾芭蕉は、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」と、うるさいセミと相反する「閑さ」を詠んでいるのです。しかも、「しずか」を「静か」という漢字ではなく、「閑か」という漢字を使っています。
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夏目漱石が始めてこの言葉を用いたとき、彼はそれを、ひらがなで「しん」と表現していました。そこから、「しんしん」という言葉とか、「しーん」という言葉のイメージと重なります。
暑い夏の昼下がり、山寺の山道を歩いていると、どこからか蝉の声が聞こえてきます。そのうるさいセミの声を聞いた芭蕉は、「閑かさや」と感動します。それは、そのうるさい鳴き声は、岩にしみいっていくようで、よりその森の中の静けさを際立たせているようです。
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このように、うるさい声のセミの鳴き声にも趣を感じるのは、日本人だからかもしれません。日本人のセミへの思い入れは深いようで、平安時代から伝わる横笛の名器には、竹の節に枝を少し残したまま切り取って、ちょうど蝉が木に止まっているような形に作った「蝉折」と呼んだ笛もあったそうです。芭蕉の句は、日本人の感性ゆえに詠まれた句かもしれません。
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投稿者 fujimori : 23:50 | コメント (5)

セミの鳴き声

 山寺に登る途中で、「セミの鳴き声」という昔のおもちゃを買いました。このおもちゃは、棒につけられたタコ糸の先にセミをかたどった竹筒がくくられていて、その竹筒を棒を持って振り回すと、セミの鳴き声がするというものです。
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それは、棒の先端に「松やに」がついていて、タコ糸はちょうどこの「松やに」のところにくくられているので、棒を持って回転したときに、「松やに」とタコ糸が摩擦されて音が出て、その音が竹筒の共鳴胴に響く仕組みになっているのです。このようなおもちゃは、日本の伝承おもちゃとして売れていたのですが、実は、同じようなおもちゃがアジアの一部や南米にも見られます。それは、竹筒の両端に油紙を張り、紙の一端の真ん中から丈夫な紐を通して棒に縛りつけて、同じようにぐるぐる回転させることによって、唸り音を出します。そのほかにも、セミの声を出すものとして、歌舞伎などでは、セミに似せた声を出す時に使いますが、竹筒を吹いて「ミンミンセミ」の鳴き声を出すおもちゃがあります。この笛は、細い管の中にリードが入っていて吹き口になり、太い方の管の両端を両掌で押さえて、片方の掌を時どき離しながら吹きます。よく、同じように竹筒の両端を抑えて鳴き声を出すものとして、ウグイス笛もあります。
 買った「セミの鳴き声」をぶんぶん回すと、ここから出てくる音の色はミンミン蝉が少し嗄れたような鳴き声でした。ですから、聞いていた職員は、カエルの鳴き声みたいと言っていました。というのも、このセミと同じ発音方法で蛙の鳴き声を出すおもちゃがあるのです。ただ、蝉よりも形が大きく、紐はプラスチック製で釣り糸を使い、棒の部分には松やには塗りません。たぶん、かえるとセミは、本当は同じような鳴き声かもしれません。それにしても、回して出る音はとてもうるさい音が出ます。実際の鳴き声も、セミにしても、帰るにしてもうるさいくらいの鳴き声です。
 まだ、山寺ではセミは鳴きだしていませんので、森の中はシーンとしています。しかし、夏になるとさぞかしうるさいだろうと思います。しかし、この山寺で、松尾芭蕉は、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」と、うるさいセミと相反する「閑さ」を詠んでいるのです。しかも、「しずか」を「静か」という漢字ではなく、「閑か」という漢字を使っています。
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夏目漱石が始めてこの言葉を用いたとき、彼はそれを、ひらがなで「しん」と表現していました。そこから、「しんしん」という言葉とか、「しーん」という言葉のイメージと重なります。
暑い夏の昼下がり、山寺の山道を歩いていると、どこからか蝉の声が聞こえてきます。そのうるさいセミの声を聞いた芭蕉は、「閑かさや」と感動します。それは、そのうるさい鳴き声は、岩にしみいっていくようで、よりその森の中の静けさを際立たせているようです。
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このように、うるさい声のセミの鳴き声にも趣を感じるのは、日本人だからかもしれません。日本人のセミへの思い入れは深いようで、平安時代から伝わる横笛の名器には、竹の節に枝を少し残したまま切り取って、ちょうど蝉が木に止まっているような形に作った「蝉折」と呼んだ笛もあったそうです。芭蕉の句は、日本人の感性ゆえに詠まれた句かもしれません。
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投稿者 fujimori : 23:50 | コメント (5)

2009年06月25日 旅先にて

仙山

 現在は、当然のように使い、その便利さも意識しないものがたくさんあります。私は地方に行くことが多いのですが、そのときに便利に使うものに交通機関があります。今まで、便利な乗り物と言えばもちろん「車」でした。しかし、車は都内を走る時には、時として、不便を感じることがあります。まず、都内の渋滞です。目的地までのかかる時間が読めません。ですから、講演とか、人と待ち合わせをするときには非常にリスクを伴います。また、都内は、駐車場に困ります。少しの時間でも今は路上に止めることはできません。また、土地が高いということもあって、いろいろな施設に駐車場が少ないです。それでも、他に交通手段がないのであれば仕方ありませんが、都内は、電車や地下鉄が張り巡らされていて、目的地まで行く方法が何通りもあるくらいです。
 また、地方に行く場合は、時間が貴重なときには、飛行機や新幹線があります。これらの路線は限られていますので、特に飛行機の場合は、飛行場が目的地の近くにあればいいのですが、そうでないと利用は難しくなります。その時には、新幹線を使います。東京から行くときは、東海道、山陽道の場合は、岡山か広島あたりが、新幹線か飛行機かの境目であり、東北の場合は、ほとんど新幹線利用で、日本海側へはほとんど飛行機利用です。
 そんなわけで私は、かなり新幹線のお世話になっています。あんなに速くて、快適で、ありがたい乗り物はありません。その開発に関しての苦労には頭が下がります。
先日、講演の途中で「仙山線」に乗りました。その路線は、その名の通り「仙台」と「山形」を結んでいますが、すべての途中駅は、仙台市内と山形市内にあり、途中で他の市町村を通ることなく県庁所在地同士を直接結んでいるという珍しい路線です。このような両都市のみで完結する鉄道路線は日本全国でもこの仙山線のみだそうです。
この路線は、日本の鉄道の歴史に大いなる貢献をしています。途中駅である作並温泉のある「作並」駅のホームに、「交流電化発祥の地」と書かれた碑があります。
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そのそばの説明板には、「我が国の交流電化は、仙山線におけるデータを基礎として北陸本線、東北本線の電化へ、さらには新幹線へと世界に誇る鉄道として飛躍的に発展した。作並は、記念すべき交流電化発祥の地であります」と書かれてあります。日本では、戦後全国的に電化を進める際に、路線の電化費用を抑えられる商用周波数による交流電化についての研究が1953年(昭和28年)頃から開始されました。当初は、世界で初めて交流電化を実用化したフランスからの電気機関車などを輸入する予定でしたが、日本側は重電メーカが政府に国産を働きかけ、1955年に仙山線で試験を実施します。その後、1957年(昭和32年)に試験区間は仙台から作並間に拡大され、同時に交流電化区間における営業運転が開始されたのです。作並から山寺間はすでに直流電化されていたので、作並駅は日本初の交直流接続駅となり、交直流地上切り替えのための設備が設けられ、日本初の交直流両用電車(491系)が試作され、車上切り替えの試験も実施されたのです。ここで得られたデータや技術は、以後の幹線交流電化やそこで運転される車両にも活かされ、さらには新幹線の成功にもつながっていくことになるのです。
 山寺駅から見える立石寺は、蝉の声がしみいる岩がそびえたっています。
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投稿者 fujimori : 23:31 | コメント (4)

2009年06月18日 旅先にて

看板と景観

ドイツのある園を訪れたときに、園庭の中央に,マイバウムが立てられていました。そのポールの色は、バイエルン地方の旗の色と同じ、青と白で交互に塗られています。その青は、空の色で、白はアルプスの雪の色を表しています。マイバウムというのは、英語ではメイポールというように「五月の樹」という意味で、ドイツでは春の訪れを祝い、5月になると町や村の広場に立てられる一本の高い柱です。昔は真っ直ぐで高い松の木を森から切り出して立てていました。冬でも枯れない常緑樹には強い聖霊が宿っていると考えられていたからです。柱のてっぺんには新緑の枝を輪にしたものを飾り、そこから沢山のリボンをたらして、手に手にリボンの端を持ちながら、木の回りで踊ったり、歌ったりして春の到来を祝います。
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園を訪れたのは6月でしたが、園庭には一つの文化を子どもたちに伝えるということで1年中飾られているようです。ドイツ研修のときの待ち合わせの場所であるマリエン広場や、数年前に訪れたノイシュヴァンシュタイン城のあるシュヴァンガウでも、飾り付けされたマイバウムが一年中立てられています。
このマイバウムの習俗はミュンヘンだけではなく、バイエルン地方の各地域、そしてバイエルン以外にも南ドイツ、チロル、スイス、アルザスなど、ライン 河の沿岸一帯に広く見られるようですが、これを町の中心に立てるのはその町のギルドの人たちで、柱にはギルドに加盟している各職業団体を表したシンボルが取り付けられます。それは、この町の中には、このような手工業の店がありますよという一つの看板なのです。
この看板が当てられたのは、その町に入るときにそこには何があるかを知らせる役目と、町の中の看板をなくす意図があったと聞いたことがあります。そういえば、ミュンヘンの町の中には、看板がほとんどありません。それは、何かの景観条例で規制されているからでしょう。日本では高度成長期は、何でもかんでも無秩序に箱ものを作ってきました。日本の伝統や、その地域の街並みや自然との調和を無視して、無秩序にいろいろな色の建物や、高い建物や、構造物が作られました。それは、「美」という人の気持ちをいやす役目よりも「経済」を優先していた時代でもありました。気がつくと、ヨーロッパでは大切に残してきたような長い年月をかけて作られてきた伝統と風格と調和のある街並みが日本からは姿を消していきました。
そんな時代に対して、各地で高層マンションの建設などの反対運動や屋外広告の氾濫のような秩序な開発に対して、見直すべきだという声が上がり始めました。それに対して、国土交通省では「美しい国づくり政策大綱」を策定し、景観法が2004年6月に公布され、翌年から全面施行されています。
しかし、まだまだ海外の町と比べると日本ではあちらこちらに立っている看板が随分と町の景観を壊している気がします。ミュンヘンの町はさっぱりしていますね。
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その写真を見て他に気がつくことは、自動販売機と電線がありません。日本では、この二つも景観を壊しています。特に夜のネオンサインの看板のほか、自動販売機の明るさは夜を壊すだけでなく、昼間の照度を持つためにその前に夜立つ子どもの体に変調をきたすようです。私の園を建てた時も、新宿の景観条例と高さ制限がとてもうるさかったのですが、私から見ると、何よりも景観を壊しているのは電線のような気がします。
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経済優先の社会を人間優先の社会に戻すのは大変ですが、やっていかなければならないでしょう。

投稿者 fujimori : 23:37 | コメント (5)

2009年06月16日 旅先にて

ドール

 私の娘が小さかった頃「シルバニアファミリー」という人形を持っていました。シルバニアファミリーとは、エポック社から1985年に発売開始した人形です。この人形は、森に囲まれたシルバニア村に住む動物たちという設定で、当初、ウサギを中心に、ネズミ、リス、クマ、タヌキ、モグラ、キツネの9家族40体がそろっていました。これらの人形は、家族単位で発売され、この人形が住んでいる家や、家具などの小物もあります。もともと、これらの人形が発売されたのは、日本ではなじみの薄かったドールハウスを紹介するためでした。に、子どもに人気のある動物の一家に置き換えて発売したそうです。
一方、1966年、元々ダッコちゃん等のビニール玩具のメーカーだった旧タカラでは、そのビニール加工のノウハウを生かして着せ替え人形市場への参入を計画していました。それは、アメリカでマテル社のバービー人形が人気があったので企画したものですが、ただの着せ替え人形だけでなく、子どもが持ち運びできるドールハウスとしての機能ももたせようとしました。しかし、この人形の大きさに合わせて家を用意するとなると、家のサイズが相当大きくなることが予想されました。そのために、日本の住宅事情や子どもの持ち運びに適さないとして根本的に企画が見直されました。そして、日本の事情に見合った大きさのドールハウスと、それに合ったサイズの独自の着せ替え人形として企画・開発されたのが「リカちゃん」なのです。
シルバニアファミリーシリーズでも、リカちゃんでも開発するときに意識しているのが「ドールハウス」です。ド-ルハウスを直訳すれば「人形の家」で、弘田三枝子の歌を思い出しますが、もともとは、ドールが主ではなく、ハウスが中心です。ド-ルは「人形」を指すよりも「小さい」ことの比喩に使われているそうです。
小さいと言っても、一応は標準値が決まっています。昔から受け継がれてきた標準値は「12分の1」ですが、それは、1フィ-ト(12インチ)を1インチに縮尺した大きさのことです。ヨ-ロッパでド-ルハウスが生まれた一つの理由には貴族が自分の肖像画を飾る位の気持ちで屋敷のミニチュアを「娘の為に作らせた」との逸話があります。子どもは、ミニチュアが大好きです。私は、子どもの頃、五月人形で、ミニチュアの刀や矢が欲しくてたまりませんでした。また、ひな人形の段のしたほうに並べられる家財道具にもひかれました。この節句の飾りはかなり古い時代からあるようで、人形だけでなく、生活空間にある家具、台所用品のミニチュアがあります。また江戸時代に各地でミニチュアを作る職人が生まれ、家具などに加え街並み・屋台・店屋なども作られたようです。また、Nゲージという線路の幅(軌道の間隔・軌間)が9mmで縮尺1/148~1/160の鉄道模型規格のものがあります。これに魅せられているのは大人の場合もありますが、人は、どうも本物のように精巧に作られているミニチュアに惹かれるようです。
記録に残る最古のド-ルハウスは1558年ハバリア(南ドイツ)の公爵アルブレヒド五世が作らせ、娘にプレゼントしたものだそうで、このハウスはあいにく火事で焼けてしまったのですが、1611年のドイツのド-ルハウスがニュ-ルンベルクの国立博物館で公開されているようです。私は、同じ時期のドールハウスをオーストリアのザルツブルグのおもちゃ博物館で見ました。もうこれは、おもちゃというよりは、工芸品です。
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投稿者 fujimori : 23:53 | コメント (4)

2009年06月11日 旅先にて

移動図書館

 ミュンヘンの大きな本屋に行くと日本と違う風景を見ることがあります。それは、厚い本を何冊も抱えて、階段の踊り場に行く人を見ます。それは、踊り場に会計があるのではなく、ソファーが置いてあります。そこは、立ち読みではなく、座り読みをするところです。そこでは、脇の床の上に何冊も本を積み上げて、ゆったりと何人も座って本を読んでいます。あたかも、図書館にいるようです。
立ち読みは日本の法律でも犯罪ではありませんが、なんだか後ろめたさを感じます。昔は、よく本屋さんに「立ち読み禁止!」という張り紙が貼られていましたし、立ち読みをしていると、その本屋さんの店主がハタキを持ってきて、本の誇りを払うふりをして、読んでいる本もハタキで払う漫画がよくあります。しかし、そこにはなんとなく、頑固おやじの象徴として描かれ、お金がない子どもに対しての思いやりが感じられ、ほほえましくもありました。ですから、そのころの立ち読みは一つの文化でした。
また、立ち読みは、本来、買う本を選ぶときに中身を吟味することです。そう考えると、ミュンヘンで見かける座り読みは本を選んでいるようには見えず、中身すべてを、買わないでその場で読み終わってしまう行為に見えますが、本屋は何も言いませんし、その場所を用意してあげるのです。
最近、日本では、立ち読みができないようにビニールで覆ってしまったりすることもありますが、それよりも本屋さんの頭を痛めているのは、万引きをする人が増えたことのようです。万引きは、立派な犯罪です。また、最近デジタル万引きという行為も増えているそうですが、それは、カメラ付き携帯電話で本のページを写真取りすることです。映画をビデオ撮影することは強く取り締まっていますが、このデジタル万引きは今のところそれを取り締まる法律は整備されていないようです。
最近、同じように万引きで困っているのが図書館です。図書館は、本を万引きするのではなく、返さない人が多いということですが、返さないということは、その本をとってしまうということになります。図書館というものは、自由に好きな本が読めるというとてもありがたい施設です。特に、ほとんどの公共図書館で採用されているような「開架式図書館」では書架が開放されており、来館者が本をその場で読む事ができるように、読書のためのスペースが用意されています。自由に本を取りだして読めるように開放しているということは、来館者の良心を信じているという善意の行為です。その良心がいつまでも続いてほしいと思います。
図書館の中で「移動図書館」という書籍などの資料と職員を載せた自動車や船などを利用して図書館を利用しにくい地域の人のために各地を巡回する図書館のサービスがあります。この移動図書館をザルツブルグを訪れたときに見かけました。
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この移動図書館は、バスを使用していますが、このように移動手段として自動車が用いられることが多いことからbookmobileとかmobile libraryと呼ばれていますが、他にも船や列車、1930年代以前には馬車も用いられていたそうです。ずいぶんと古くからあったのですね。
日本では、1948年7月、高知県立図書館で始められた「自動車文庫」が初めての移動図書館だったようです。この移動図書館は、本を身近なものとし、なかなか本が買えないような地域、図書館まで遠い地域の人に本を提供するのに大きな力になりました。しかし、日本では最近、減少傾向にあり、東京では区部における移動図書館が2005年3月末をもってすべて終了しましたが、世界的には移動図書館を必要とするところはまだまだ多く、特に発展途上国ではニーズが高く、日本で廃車になった移動図書館車が譲渡されているようです。

投稿者 fujimori : 23:49 | コメント (4)

2009年06月10日 旅先にて

トロバス

 ドイツのミュンヘンでは、市内を走る乗り物の主なものは、Uバーンと呼ばれる地下鉄と、路面電車です。Uバーンは6路線で、駅数は96駅あり、日本と同じようにどの路線に乗ればいいのかよく迷うところです。
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路面電車は、一時期、地下鉄への転換がはかられた時期もありましたが、現在では、両方が公共交通の核となっており、23系統が開業されています。
 ミュンヘンから1日シュタイナー幼稚園を見にオーストリアのザルツブルグに行きましたが、そこでの主な乗り物はトロリーバスでした。前を走るトロリーバスを見たときになんだかとても懐かしく感じました。
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それというのも、このトロリーバスは私が子どもの頃に日本ではトロバスブームだったのです。世界では、1882年4月29日に、ドイツのジーメンスがベルリンで試験運行を行ったのが初めとされていますが、日本で最初にトロリーバスが開業したのは、昭和3年(1928年)新花屋敷トロリーバスでした。その後、各地で開業しますが、戦後、東京都でも公営開業し、ブームが到来します。その理由としては、戦後、石油燃料事情が悪く、また、路面電車より建設費が安いからというものでした。
 しかし、昭和40年代になると、自動車の増加による道路の渋滞問題や地下鉄の建設計画などが持ち上がり、昭和47年に横浜市のトロリーバスの廃業を最後にその姿を見ることは出来なくなったのです。現在、日本で唯一運行されているのが、長野県と富山県を結ぶ立山黒部アルペンルートの中の関電トンネルと立山トンネルです。
 そんな事情ですから日本では若い人はトロリーバス(トロバス)という言葉でさえ知らない人が多いかもしれません。このトロリーバスは普通のバスとは違って、ガソリンではなく電気を動力として走ります。いわば、線路のない路面電車のようなものです。ですから、このトロリーバス、実は鉄道の一種として区分されています。「電力で走る」という事は、排出ガスによる公害が全くなく、自然に配慮したエネルギー源を利用していることなのです。しかし、電力を使っている乗り物は、定期的に充電が必要となります。しかし、このトロバスは、架線があればいつでも走れますし、普通の車のようにタイヤで走れるので、線路を引く必要もありませんから、建設費用やメンテナンス費用が削減され、ある程度の障害物も避けることができます。
反面、路面電車のように架線が必要なため沿線の美観を損ねます。ザルツブルグでも、ミュンヘンでも電線はすべて地中化されていますが、このトロバスや路面電車の架線が道の上にはられています。ミュンヘンでは、廃止された路線でもこの架線だけは残っているので、その真ん中に電灯をつけています。そのほかの欠点としては、トロリーポールが届かない場所や架線のない道路へは行くことが出来ず、一般のバスのような自由度はありませんし、3両以上連結しての走行はできないため輸送量にも限界があります。ですから、日本では性能の良いディーゼルエンジンを持った大型バスに変わっていったのです。
しかし、海外では排気ガスや騒音対策に有効とされ、多くの町でトロリーバスが運行されています。そして、欠点を改良し、より発展しています。「架線がないとだめ」という点では、ディーゼル発電機を用いたハイブリッド形や蓄電池併用型の車両を採用することにより、かなりの距離を架線なしで運行できるようになっていますし、無電区間の走行や停電対策のため、エンジンは発電用ではなく、変速機を介し、駆動用としての補助エンジンを持つものもあるそうです。すぐに別のものに変えてしまった日本に比べて、残しておいた海外では、環境の為によかったのかもしれません。

投稿者 fujimori : 23:25 | コメント (4)

2009年06月08日 旅先にて

園庭

 今月の園だよりの巻頭言で、私は「子どもの遊び」について書きました。そこでは、「子どもたちの活動は、遊びであり、物事を学ぶのに最適な方法であることが、脳科学からもわかってきています。聞く、触る、味わう、臭いをかぐという動作をする度に、脳と神経細胞の連結部分シナプスの効果を増す信号が25回、脳に送られます。さまざまな最良の遊びが、より良い効果を促します。そして、活動が繰り返されるごとに、連結箇所が強化されます。これは、子どもたちが新しいものを発見し、興味を抱いたときに、神経への刺激が繰り返されるのです」ということを書きました。
 環境庁から出された環境白書の中でも、「遊びは、運動能力の向上はもとより、自然の科学的理解の基礎を与え、また、協調性や創造性、判断力その他の人格形成や社会生活の訓練等、極めて重要な役割を有する行為であると考えられる。特にこれまでの遊びは、年長、年少を含む遊び集団に各人が属し、その集団が自然の中で活動的に動き回っていたこと等が特徴とされる」と書かれており、しかしその遊びが、近年の環境の変化、とりわけ遊び場としての自然の喪失等に伴って、質的にも、量的にも変化してきたと指摘しています。たとえば、季節を感じる時に連想するものは何かというアンケートでは、植物に関連した回答のうち、挙げられた具体的な花等の名称を見ると、成人世代の方が子ども世代(小学5年生及び中学2年生)よりも非常に多くの花を回答している結果が出ていますが、それは、生活体験の長さ、行動範囲の広さ、自然に対する知識量などを反映しているものであろうと指摘しています。このことは、季節感の豊かさ、例えば、様々な花に季節の訪れを感じるためには、その前提として身近なところで多様な生態系が保全され、また、大人から子どもへと環境や生活の中で季節の変化を感じる経験が伝承されていくことの大切さをうかがわせるとしています。
また、白書では、「児童期における自然とふれあう遊びは、自然への親しみ感や愛情を醸成させ、人間と自然とのかかわりを知覚させるものと考えられる。さらに、自然とのふれあいが遊びという行為を通じてなされることの意味も大きい」としています。
今回、ドイツ研修で参加者の目を引いたものの一つに「自然体験」でした。「モグラの家」や「羊との触れ合い」は、課外での体験ですが、園内における園庭の作り方、子どもたちの園庭での過ごし方を見ると、自然への取り組みがわかります。勿論、園庭は人工的であり、よく整備されている環境ですが、そこでは、子どもたちが自然と触れ合えるような工夫がしてあります。たとえば、地面にしてもすべて芝とか、平らに整備されている場所ではなく、砂場のほか、石ころが敷き詰めてある場所があったり、敷石が敷き詰めてある場所もあります。まさに、街の中を歩く時に子どもたちが経験するであろう地面を体験させているのです。
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また、みんなで群れあって遊ぶだけでなく、一人でじっと空想にふけることのできる空間も用意されています。
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室内での癒し空間にも似ているものです。そして、自然とのふれあい遊びを子どもたちが体験するために、緑だけでなく、大きな石が積まれていたり、自転車などの乗り物を使う日は1週間に1日と決めてある園もありました。
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そして、遊びの特徴は、自発的な行為・活動であるために、先生は特に積極的に子どもとは関わっていませんでした。
園庭の整備の仕方にも、ドイツから学ぶことがありました。

投稿者 fujimori : 21:44 | コメント (5)

2009年06月07日 旅先にて

羊の群れ

平成8年に環境白書が環境庁より公表されました。その年の白書は、前年度の環境基本法、環境基本計画により示された環境政策の基本理念と枠組み、長期的な政策の方向を具体化し、その実現に向けて軌道に乗せていく実質的な初年度でした。そのために、真に実効性の高いものとしていくためには、社会のすべての主体的に、また、公平な役割分担と責任の下に、連携しながら取組を進めていくパートナーシップの構築が不可欠であると提案しています。そして、様々なパートナーシップの事例から学ぶようにと事例を出しています。
諸外国における取組の例として、ドイツのミュンヘン市の実践が紹介されています。それは、ミュンヘン市の教育活動を行っている「遊びの文化協会」の活動です。遊びの文化協会では、都市計画に遊びの要素を取り入れるため「都市における遊びのネットワーク」の計画、実践に向けた活動を行っています。これは、遊びの活性化と遊び空間の設計とを密着させ、遊びを「子どもの文化」と位置付け、社会文化的な観点と教育的な立場に基づき遊びを取り入れようとするものです。ミュンヘン市では、1989年に「遊び空間のある都市」をテーマに、遊びバス、遊びの日、遊び活動家と教育家たちの監修による遊びの家と冒険グラウンド等を設けました。
この白書の中で紹介されている「遊びの文化協会」が主催している「羊とのふれあい体験を通して」という活動を、今回、ドイツミュンヘン市の英国庭園に見に行きました。全長8㎞もあると言われる公園の中を責任者であるグリューネヴァルド市の案内で歩いていると、以前のブログで紹介した野尻湖畔の癒しの森を歩いているような気分になり、市街の中心部からわずかな距離であることを忘れそうになります。次第に足もとに羊のふんが多くなり始めたかと思うと、向こうのほうに毛を刈り取られたばかりの羊の群れが見えてきました。
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その群れの近くでは、子どもたちが先日刈り取った羊毛を水でよく洗い、木の枝に干していました。
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それが終わると、今度はそれをブラシで伸ばし、槌で幾層にも重ねて叩いていて、毛布にしていました。羊毛と言えば、私は、「シュタイナー教育」を思い出します。シュタイナー教育では、多くの手仕事をします。幼稚園では、自然素材の羊毛を洗い、草木染めで色をつけ、木の枝に編みこんで模様を作ったり、フェルト化してボールを作ったり、太毛糸で指編みをしたりします。草木染めされた自然素材の羊毛や綿を手で感じながらの作業は子どもたちに癒しを与えます。また、命のある素材を扱いながら、子どもたちは感覚を磨き、自分自身と向き合いながら世界を体験しているとシュタイナー教育では言われています。また、手仕事は、単調な繰り返しの作業です。しかし、その単調な繰り返し作業に没頭し、その繰り返しの作業から生まれる規則正しいリズムは、人間の生命力を強めます。
今回のドイツ研修でも、一か所、ザルツブルグにあるシュタイナー幼稚園を見学しました。独特の曲線で構成されたドアを入ると、とても落ち着いた色調で、自然物が遊びの素材として用意されている中で、羊毛で作った装飾が飾られていました。
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 白書には、昨日のブログで紹介した冒険遊び場も紹介され、こうした遊び場は、世界的な広がりを見せていますが、その背景としては、優れた環境が本来持つ「遊び」を可能にする機能が、現代社会の中で見直され、人の手によって守り伝えられていく必要性が次第に認識されてきたことがあると考えられると書かれてあります。

投稿者 fujimori : 06:51 | コメント (4)

2009年06月06日 旅先にて

冒険

ドイツミュンヘンといえば思い出すものでその年齢がわかります。私の世代では、「ミュンヘン・札幌・ミルウォーキー」というコマーシャルで流れたビールの産地です。当然、ミュンヘン滞在中は、毎日ビール三昧です。その次の世代になると、ミュンヘンオリンピックです。また、サッカー好きですと、ワールドカップの開会式が行われたミュンヘンスタジアムとか、あのオリバーカーンがいるバイエルンミュンヘンの本拠地ということでしょう。
もうひとつミュンヘンといえば思い出すものに、子どもに人気のあるキッザニアの基となった「ミニ・ミュンヘン」というイベントがあります。これは7歳から15歳までの子どもだけが運営する「小さな都市」です。本来は、その名の通り、ミュンヘンで2年に1回、8月の夏休み期間3週間だけ誕生する仮設都市のことで、20年の歴史があります。それに似たような試みが最近は日本でも各地で行われるようになってきました。ここでは、まず少しだけ仕事と学習をすると市民権が得られます。そのあと、自由に自分の好きな仕事を見つけて働くと、「ミミュ」というお金がもらえます。このお金で映画を見たり、食事ができます。仕事には、コックさん、タクシー運転手、花屋さん、デパートの店員、デザイナー、アナウンサー、新聞記者、教員、そして公務員や議員さん、市長さんなどたくさんの仕事あります。
もう一つ子どもの自由な世界を保障しようという試みに「冒険的な遊び場」があります。日本では「羽根木プレーパーク」が有名ですが、原型は、1943年にデンマークで既に始まっていた「ガラクタ遊び場」です。子どもたちが建築資材や廃品置き場で遊んでいることからヒントを得て、景観デザイナーで、公園設計家のC・Th・ソレンセンが建築遊び場というアイディアが生まれたのです。
冒険遊び場は、冒険的で、多少の危険の伴う体験をしながら自分たちで遊びの内容を構築していく可能性のある遊び場のことをいいます。あくまでもコンセプトは「冒険」です。建設遊び場では、子どもたちは用意された材木や金づち、大量の釘を使って、大工仕事をしながら遊び場を作っていくという楽しみを体験することが出来ます。そして、小屋を作ったり、東屋や橋を作ったり、それを絶えず改装、改築していきます。そこでは、かつての子どもの世界であった秘密基地を作ったり、木に登ったり、地面を掘り返したりします。この冒険広場の流れと、ミニ・ミュンヘンの流れをくんだ試みであるミュンヘン市が主催している「モグラの家」を訪れました。
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ここでは、子どもの自治と、子どもの力に圧倒されました。以前に一度訪れたことがあったのですが、その時は冬でしたので、子どもたちは室内遊びが中心でしたが、今回は、この広場の中を子どもたちは走り回っています。また、あちらこちらから、のこぎりを引く音、釘を打つ音が響いてきます。6歳から13歳までの子が、のこぎりとか釘を借りて、グループで家を作っています。そして、その中で毎年さまざまな賞が与えられるそうです。昨年度の最優秀賞である「ゴールドハンマー賞」の受賞作品を見せてもらいました。
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まだ、増築中だそうですが、地下があったり、ずいぶん趣向を凝らした建物になっています。そして、ここでは、公務員がいて、チェックをしたり、廃材を整理したりします。また、くぎ抜きなどの労働をすると、ここでの通貨「マウリ」をもらうなどミニ・ミュンヘンのとりくみに似ていますが、ミニ・ミュンヘンは大人社会の体験ですが、ここでは子どものアドベンチャー世界であると言っていました。
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投稿者 fujimori : 07:02 | コメント (4)

冒険

ドイツミュンヘンといえば思い出すものでその年齢がわかります。私の世代では、「ミュンヘン・札幌・ミルウォーキー」というコマーシャルで流れたビールの産地です。当然、ミュンヘン滞在中は、毎日ビール三昧です。その次の世代になると、ミュンヘンオリンピックです。また、サッカー好きですと、ワールドカップの開会式が行われたミュンヘンスタジアムとか、あのオリバーカーンがいるバイエルンミュンヘンの本拠地ということでしょう。
もうひとつミュンヘンといえば思い出すものに、子どもに人気のあるキッザニアの基となった「ミニ・ミュンヘン」というイベントがあります。これは7歳から15歳までの子どもだけが運営する「小さな都市」です。本来は、その名の通り、ミュンヘンで2年に1回、8月の夏休み期間3週間だけ誕生する仮設都市のことで、20年の歴史があります。それに似たような試みが最近は日本でも各地で行われるようになってきました。ここでは、まず少しだけ仕事と学習をすると市民権が得られます。そのあと、自由に自分の好きな仕事を見つけて働くと、「ミミュ」というお金がもらえます。このお金で映画を見たり、食事ができます。仕事には、コックさん、タクシー運転手、花屋さん、デパートの店員、デザイナー、アナウンサー、新聞記者、教員、そして公務員や議員さん、市長さんなどたくさんの仕事あります。
もう一つ子どもの自由な世界を保障しようという試みに「冒険的な遊び場」があります。日本では「羽根木プレーパーク」が有名ですが、原型は、1943年にデンマークで既に始まっていた「ガラクタ遊び場」です。子どもたちが建築資材や廃品置き場で遊んでいることからヒントを得て、景観デザイナーで、公園設計家のC・Th・ソレンセンが建築遊び場というアイディアが生まれたのです。
冒険遊び場は、冒険的で、多少の危険の伴う体験をしながら自分たちで遊びの内容を構築していく可能性のある遊び場のことをいいます。あくまでもコンセプトは「冒険」です。建設遊び場では、子どもたちは用意された材木や金づち、大量の釘を使って、大工仕事をしながら遊び場を作っていくという楽しみを体験することが出来ます。そして、小屋を作ったり、東屋や橋を作ったり、それを絶えず改装、改築していきます。そこでは、かつての子どもの世界であった秘密基地を作ったり、木に登ったり、地面を掘り返したりします。この冒険広場の流れと、ミニ・ミュンヘンの流れをくんだ試みであるミュンヘン市が主催している「モグラの家」を訪れました。
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ここでは、子どもの自治と、子どもの力に圧倒されました。以前に一度訪れたことがあったのですが、その時は冬でしたので、子どもたちは室内遊びが中心でしたが、今回は、この広場の中を子どもたちは走り回っています。また、あちらこちらから、のこぎりを引く音、釘を打つ音が響いてきます。6歳から13歳までの子が、のこぎりとか釘を借りて、グループで家を作っています。そして、その中で毎年さまざまな賞が与えられるそうです。昨年度の最優秀賞である「ゴールドハンマー賞」の受賞作品を見せてもらいました。
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まだ、増築中だそうですが、地下があったり、ずいぶん趣向を凝らした建物になっています。そして、ここでは、公務員がいて、チェックをしたり、廃材を整理したりします。また、くぎ抜きなどの労働をすると、ここでの通貨「マウリ」をもらうなどミニ・ミュンヘンのとりくみに似ていますが、ミニ・ミュンヘンは大人社会の体験ですが、ここでは子どものアドベンチャー世界であると言っていました。
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投稿者 fujimori : 07:02 | コメント (4)

2009年06月05日 旅先にて

ゾーン

保育室という空間は、子どもの生活と活動にとって欠かせないものです。 子どもたちは、園に来ると「何をしようか」を考えます。そして「誰としようか」「どのようにしようか」「何を使おうか」ということを考えます。それが、動機であり、意欲です。この心は、子ども自らわき出る気持であり、指示したり、やらせようとした途端に、その意味は違ってきます。しかし、子ども自らやろうとしても、自ら使えるような時間、空間、物などが用意されていなければなりませんし、一緒にやりたいと思える友達がいなければなりません。そのための用意がコーナーと呼ばれるものかもしれません。
外国では、保育室の真ん中に広場的なものを置き、部屋の隅に様々な子どもが自ら選択し、活動する場所を作りました。そこで、そのような場所を「コーナー」と呼びました。また、アメリカなどでは、一斉に何かをやらせるのではなく、子どもが興味関心をもったことが自らやれるような場を用意しました。そこで、そのような場を「インタレストセンター」と呼んだりしました。しかし、「コーナー(かど)」も「センター(中心)」も子ども主体と言っても、結局はある閉じられた空間を用意し、そこでの活動を固定してしまうような気がします。もっと、子どもによって流動的に空間が構成されたり、他の空間と融合したり、小集団から広がりのある人間関係が作れるような空間を用意する必要がある気がします。それは、コーナーの作り方であり、そこでの子どもの過ごし方ではあるのですが、コーナーという言葉を使うと人によってとり方が異なってしまうこともあるので、私はそれを、ゾーンと呼ぶことにしました。そして、そのゾーンは子どもによってゾーニングされていきます。
今回、ドイツを訪れて、そのコーナーの使い方に微妙な変化が見られました。以前のように細かく家具などで仕切らず、大まかに分かれているだけのところが多くなっている気がします。ままごとコーナーとか癒しの空間などは仕切られていることが多いのですが、他はそれほどわかれていません。どうも、私がゾーンと位置付けたような使い方をし始めているようです。
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今回のドイツでも、何年か前に見た「学びの部屋」の部屋を作るために改装している園を見学しました。そこは、科学の目を養うこと、そして「数」「文字」などを遊びの中から体験していけるような空間です。人格形成を重視するドイツでは、物事を論理的に見つめ、それを論理的に人に伝え、説明能力を養いことであり、心豊かにするといった抽象的なことではないのです。
そのほかに今回のドイツ研修で面白いコーナーを見つけました。その場所はやはり明確には区切られておらず、イスと机が置いてあるだけの場所ですが。そこでも、論理的に人につてることを学ぶ場所です。それは、「喧嘩コーナー」という場所です。
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他の子どもといさかいが起きた時、その場所に行って、話し合いをする場所です。その横の壁には、反しあいの手順が子どもの絵と言葉で書かれています。人の話に耳を傾けることということで、大きな耳をもった顔が書かれていたりします。このような場所の用意は面白いかもしれませんね。私の園でも作ってみることを提案しようとおみます。今でも、私の園の園児は、喧嘩が起きると、先生は椅子を用意して、2人で話し合いをするように座らせて、その場を去ってしまいます。最初は、2人でふてくされたように見合っていますが、そのうちに自分を主張しあい、次第に相手の言い分に納得するようになっています。
ドイツの喧嘩コーナーを用意しているこの園では、だいたい1日に1回は利用されていると言っていました。

投稿者 fujimori : 05:04 | コメント (5)

2009年06月04日 旅先にて

科学の目

 子どもたちに「物の手触り」を感じさせるのは、五感を養うということでしょうが、それは、本来は自然界の中でいろいろなものに触ったり、においを感じたりする中から感じることが必要なことでしょう。ですから、ドイツでは、自然との触れ合いも意図し、大切にしています。今日の午前中に訪れたキンダーでも、園の保育目標の一番目のものが「自然観察を通して科学する目を育てる」というものでした。その目標に従って、園庭には、ビオトープがあったり、コンポストもあります。この園の取り組みは、新聞や専門雑誌、各種団体から注目されていて、見学も多いそうです。
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 世界の教育取り組みに大きな影響を与えている原因にOECDが行ったPISAの学力調査があります。日本でも、今回の学習指導要領の改定では、その学力低下のために、ゆとり教育、総合的学習の交代が行われました。ここドイツでも、その成績が悪かったために教育の見直しが行われました。しかし、この結果行った教育改革には日本と過ごし違った方向になっています。まず、徹底してその結果について分析し、研究を重ねたそうです。その結果、まず、幼児教育での「陶冶」の重視ということで、人格形成を中心に就学前教育を行うことにしたのです。この方向は、同じOECDが提案しているECECにおいて取り上げられ、就学前教育について他の国へも推奨しています。
 特に、ここバイエルン州ミュンヘンでは、ドイツ国内の中ではPISAの学力は高かったそうで、その取り組みは国内でも参考にしているそうですが、もしかしたら、あの有名な物理学者は、ここのギムナジウムを卒業していることに関係があるかもしれません。また、あの偉大な学者を受け入れることができなかった、それまでの学習のやり方の見直しに影響しているのかもしれません。
アインシュタインは南ドイツのウルムにユダヤ系ドイツ人として生まれましたが、彼の父が経営していた工場が倒産してしまいます。そこで、一家はイタリアのミラノに移りますが、アインシュタインだけはギムナジウムに在学中であったため寄宿舎に残りここで教育を受けます。彼の通ったギムナジウムが、今回宿泊しているホテルのすぐそばにあるので、朝の散歩で行ってみました。
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もともと彼は、とても静かな子だったようですが、5才の時に、家庭教師に椅子を投げつけたこともあり、かなり自分を主張する子であったようです。その彼が、大学に入学するために行くことが目的であった日本でいう中高に当たるギムナジウムは、なじめなかったようです。ギムナジウムのギリシャ語,ラテン語などの詰め込み主義教育にもなじめなかった。こんな話が残っています。ギムナジウムで、ある教師から「もし、きみがクラスにいなかったらもっと幸福だろうに」と言われたアインシュタインは「私は何も悪いことをしていません」と答えました。すると先生は「それはそのとおりだ。しかしきみはうしろの列のそこに坐って、にやにやしているが、それは私が、クラス全体から得る必要がある尊敬の念をおかしているのだ」と言われたそうです。話によると、そんな彼は物理の成績は抜群でしたが、数学はそれほどでもなかったようですが、それ以上に統一後間もないドイツ帝国の軍国主義教育は、自由にして闊達なアインシュタインの気質には合わなかったようです。彼は、こう言っています。「私はミュンヘンの学校が、いやでたまりませんでした。厳格な規律と権威主義。教師は軍人のように、むちを振るって、隊列を組ませます。私は逃げ出す方法を探し求め、やっと見つけだしました。つまり、私と懇意だった医者のところに言って、一通の診断書をもらってきたのです。私は、神経衰弱に苦しみ、すぐにも学校を離れる必要があるという内容でした。」というわけで、アインシュタインは、ミュンヘンのギムナジウムを中退し、親のいるミラノに突然行ってしまうのです。そして、「心配しないでくれ、浮浪者になるつもりはないから。ぼくには、ちゃんと計画があるんだ」

投稿者 fujimori : 05:35 | コメント (4)

2009年06月03日 旅先にて

手触り

今、園ではあるデザインの会社の人とワークショップそしています。そのおもな意図は、子どもたちが触覚をどのように認識するかということです。たとえば、フロッタージュという擦りだしでは、さまざまな素材に上を当てて、それをクレヨンで擦りだしをします。以前、私の園で、遠足のときに保護者と子どもでチームを作ってもらい、各チームごとに模造紙を配り、周りにある大きな木を選んでもらい、その幹の樹皮の擦りだしをしてもらいました。そして、その紙をちぎって、大きな木を作ってもらったのです。そして、その枝に落ち葉を貼り付けて、どの木が立派かを競うものでした。
 物には手触りの違いがあり、それは触ってみて感じることですが、擦りだしは、擦ったものの表面のでこぼこを目で感じることができます。そのほかにも、でこぼこを感じる方法がいくつかあります。次に試みようとしているワークショップは、紙粘土をいろいろなものの表面に押しつけて、その型から感じようとするものです。それは、でこぼこを立体的に写し取ることができます。それをもっと実感して見てもらおうと、その紙粘土に筆で色をつけてもらいます。当然、へこんだところなどには色をつけにくいです。
 保育所保育指針には、表現領域に「生活の中で様々な音、色、形、手触り、動き、味、香りなどに気付いたり、感じたりして楽しむ」というのがあります。これは、いわゆる五感を養うというものですが、それがなぜ必要かは、新たの物の創造に結び付いていくからです。
 ドイツの乳幼児施設では、これら五感を養うものとしての教材が意識して用意されています。日本では、まだまだ何かをやらせよう、覚えさせようとすることが多いのですが、ドイツらしいと思うのが、それらを環境として用意し、科学に結び付けるのです。それは、別にドイツというわけではなく、ブログで何回かに分けて書いたECECでの取り組みなのでしょう。私は、これら五感を養うためには、子どもたちを自然の中に連れていけばいいのではないかということを考えます。自然は、五感を研ぎ澄まさなければ、感じることができないからです。しかし、ここにはいくつか問題があるかもしれません。それは、自然界にあるものだけでは、偏ってしまうかもしれません。また、どちらが先かわかりませんが、普段から五感を使うことをしていないと、自然の中に行っても、結局は大人が教えることになってしまうかもしれません。
 最近、ドイツに行って感じることは、この五感の中で、手触りを感じるようなものが多く見られることです。また、外国の保育教材カタログを見ても、そのような教具がたくさんあります。また、手作りで作ったであろうものもたくさんあります。
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手触りを感じることは、なにも創造に結び付くだけではありません。たとえば、胡桃を握っていると脳の老化が防げると言われています。ずいぶん昔のことですが、アメリカに行ったときに部屋の中に砂の代わりにコメを入れた砂場ならぬ米場で子どもが遊ぶ姿を見ました。それは、コメを握ることで、掌を刺激し、それによって脳が活性化すると言っていました。
 最近は、泥も、汚いと言って触らない子が増えてきました。それどころか、潔癖症からいろいろなものに触りたがらない子も、触らないように要求する保護者もいるようになりました。もう少し、物に触り、その手触りを感じることを積極的に、意識的に行う必要があるかもしれません。

投稿者 fujimori : 06:03 | コメント (5)

2009年05月04日 旅先にて

長岡

 江戸時代の教育を担っていたものに寺子屋がありますが、これは、主に庶民のためのものであったのに対して、長崎の大村でも訪れた藩校は、諸藩が藩士の子弟を教育するために設立した学校です。また、寺小屋への入学はかなり自主的でしたが、藩校へは藩士の子弟はほぼ強制的に入学させられていたようです。このような藩校は、徳川の世になり、平和になったために各地に設立されていきました。日本初の藩校は、1669年(寛文9年)に岡山藩主池田光政が設立した岡山学校が最初です。しかし、そのころはまだ珍しく、全行的に広がったのは、1700年半ばですが、それは、多くの藩が藩政改革のための有能な人材を育成しなければならなくなったからです。藩を立て直そうとするためには、まずは「教育」なのです。そして、そのためにまずは、各地では優秀な学者の招聘も盛んに行われたのです。そして、思惑通り、この藩校で育っていった人材が地方文化の振興を図り、各地域から時代をリードする政治家や学者の輩出していったのです。
 地域の風土に根ざした個性的な教育で数多くの人材が輩出された藩校教育を見直すことをねらいとして、毎年、藩校のあった地域で「藩校サミット」が行われています。毎回、藩校を設けた大名家の末裔と全国の教育関係者が集うそうです。先月末の「産経新聞」に、この藩校サミットのことが掲載されていました。「江戸時代に300諸侯と称された大名家の1割に相当する殿様の末裔、約30人が集う第8回全国藩校サミットin長岡が6月20日、新潟県長岡市で開かれる。実行委員会によると、これだけ多くの殿様の末裔が参加するのは初めてという。」この記事にあるように、今年の第8回は、新潟県長岡で開かれます。
この長岡は、NHK大河ドラマで、ちょうど今放送されている時代に、直江家を相続した兼続が、新たな城「与板城」を築城しました。また与板の村も整備させ、鍛冶産業にも力を注いで大いに発展させました。
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そんな長岡でのサミットですが、ここには、「藩校教育と米百俵の精神」といわれているものがあります。それは、城下町であったこの地は、武士の世から続いた義の精神と教育によって、多様な文化や産業、経済を営んできました。それらの精神は、長岡藩の藩校「崇徳館」で力強く育まれました。そんなことをテーマに、今準備に大変のようです。地元紙には、こんな取り組みが紹介されていました。「同市の小中学生が論語の素読を披露しようと練習に励んでいる。全国の藩校で重要な教材だった論語。同サミット実行委は昨年11月、長岡藩の「祟徳館」で素読を学んだのとほぼ同じ7歳から14歳の子どもを集め「論語素読の会」を結成した。実行委は「かつて外国人が驚くほどの勤勉さを誇った日本人を形作った論語は、学ぶところが多い」と音読の意義を語る。」
この長岡の「崇徳館」からは、河井継之助、小林虎三郎、三島億二郎など、現在の長岡を語るうえで欠かせない人物が教育を受けています。一時、ブログに何度も登場し、私が熱中した司馬遼太郎の「峠」の主人公である河井継之助の居宅跡と博物館があります。
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それにしても、彼の生涯を知るにつけ、歴史は「あの時こうだったら」という積み重ねであるという実感を持ちます。また、この崇徳館は、その後、「米百俵」の故事で有名な「国漢学校」へと引き継がれ、多くの人物を輩出しています。教育の力を感じます。
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投稿者 fujimori : 22:17 | コメント (4)

2009年05月03日 旅先にて

魚沼

 日本の主食はもちろん未だに「米」で、その中で、コシヒカリは南は九州から北は本州秋田県・宮城県までで生産され、日本全国の1/3以上がコシヒカリだそうです。しかし、このコシヒカリの誕生は新しく、1944年に新潟県農事試験場の農林22号と農林1合の交配が起源であると伝えられています。その後、福井県にある福井農事改良実験所で研究が行われ、1956年に福井県で品種登録が行われ、農林100号という番号がつきました。これがコシヒカリです。その後、新潟県南魚沼郡塩沢町中子(現南魚沼市中子)で、本格的に栽培されるようになり、味の良さや高価な取引値から、全国的に生産されるようになったのです。「あきたこまち」や「ひとめぼれ」など他の人気のある品種も、このコシヒカリがたくさんの品種と掛け合わされて誕生したものです。
 北陸地方の勢力圏のことを、越国と呼びます。それが、7世紀末には、今でもよく知られている越前・越中・越後に分割されるのですが。この農林100号は、福井県・石川県・富山県・新潟県・山形県の一部など「越国」でおもに生産されますので、「木枯らしが吹けば色なき越の国 せめて光れや稲 越光」と開発担当者が「越光」と命名します。今はカタカナが商品名称になっていますが、昔は漢字「越光」でした。
なぜ、こんなに人気があるかというと、お米のアミロース・アミノペクチン・たんぱく質という美味しさのバランスが日本人の味覚にぴったりだったからでしょう。また、コシヒカリは高温の時でも、概観品質が低下せず、浸水などの対抗性なども強く、これらも一番生産されている理由になっています。
このこしひかりの生産地の中でも特においしいと言われているものが、世界屈指とも言われる豪雪地で、山々から流れ込むミネラル豊富な雪解け水がおいしいお米を育んでいると言われているのが、福島、群馬、長野の3県と県境を接し、信濃川、魚野川とその支流の流域である新潟県魚沼地方の「魚沼産コシヒカリ」です。この「魚沼産」は、食味・色・ツヤ・ねばり(お米の美味しさの4大要素)のすべてを、バランスよく高いレベルで持合わせ、食べると非常に美味しい米です。魚沼は、まだ水をはってはいませんでしたが、とても美しい田園風景です。
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コシヒカリの名産地として有名な南魚沼は、戦国時代には「越後上田荘」とよばれていました。この地が、今年の大河ドラマ「天地人」の主人公である「直江兼続」「上杉景勝」の生誕地です。
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この地から、大河ドラマは始まりました。映画やテレビドラマの舞台として取り上げられる地は、訪れる人が多くなります。特に、NHK大河ドラマや、NHK朝ドラといわれる「連続テレビ小説」は影響が大きいようで、地元からの誘致運動も盛んのようです。今年の主人公の直江兼続を取り上げてほしいという誘致運動でも昭和19年から始まったという年表が張り出してありました。ずいぶんと古くからそれらしき動きがあるのですね。
「天地人」のテレビの最初のほうのテーマは、上杉景勝や直江兼続がまだ喜平次や与六と呼ばれていた少年時代の魚沼での逸話です。その中で特に印象に残っているのは、「雲洞庵」という曹洞宗の古刹で、景勝と兼続が北高全祝や通天存達から学問を学び、高潔な精神を養ったとされる日々です。この庵の北高全祝禅師は、越後の国主上杉謙信や甲斐の国主武田信玄の禅の師として、民百姓の迷惑を思われ両雄に川中島で戦うように図ったり、謙信公に塩を甲斐に送らせるよう指導したといわれています。
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投稿者 fujimori : 21:13 | コメント (5)

2009年01月06日 旅先にて

大河

 昨年好評だったNHK大河ドラマ「篤姫」に続いて、今年も4日にスタートした「天地人」の初回視聴率は24・7%(関東地区、ビデオリサーチ調べ)で、初回では昨年の「篤姫」の20・3%を上回り、04年の「新選組!」(26・3%)以来の高い数字となったそうです。年間を通して、どうでしょうか。
私は、妻とどこかに出かけるときに何かテーマを持ったほうがいいのではないかということでこの大河ドラマつながりをめぐることにしています。しかし、昨年の「篤姫」の舞台は、ほとんどが江戸ですので、東京近辺を歩き、何回かブログに書きました。しかし、一度は、彼女の出身地である鹿児島に行かなければと思いながら年の暮れになってしまいました。そこで、思い切って、暮れに、ちょうどブログで書いた「郷中教育」について調べることと、一度は行きたくて、まだ行ったことのない「知覧」に行くことを目的として鹿児島に行ってきました。郷中教育についてはブログで何回かに分けて書いたのですが、今度いつか「知覧」についても書きたいと思っています。
 とりあえず、今年の大河ドラマが始まってしまいましたので、篤姫関係を報告します。
篤姫が生まれたのは、現在の鹿児島市で、JR鹿児島駅の裏手、南洲公園の入口あたりです。小さかった頃から大変利発で活発な子だったと言われています。ここで、約19年間を過ごします。テレビでもよく出てきますが、鹿児島市からは錦江湾を挟んで桜島がよく見えます。この桜島は、死者58名をだした1914年(大正3年)の噴火により、それまで海峡で隔てられていた大隅半島と陸続きになるまでその名の通り島でした。この桜島は、鹿児島から思った以上に大きく見ることができます。
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鹿児島市で生まれた篤姫ですが、指宿今和泉には、今和泉島津家の別館があります。この別邸には篤姫も度々訪れたと言われています。今は、建物は残っていませんが、小学校の海岸側に当時の石垣の一部が残っています。目の前に海が広がり、ここからでも遠くに桜島が望めます。
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そのほかにもこのあたりの集落内には今和泉島津家ゆかりの史跡が数多く点在してあり、忠郷をはじめ、実父の忠剛や兄の忠冬が眠る今和泉島津家墓地や、豊玉媛神社などがあります。
 もう一つ、このドラマで興味を持ったのが、篤姫を心の中で慕い、再開シーンでは泣かせた小松帯刀という人物の存在です。彼は実在の人物ですが、実は、宮尾登美子さんの原作には登場していません。脚本の田渕久美子さんが、薩摩藩の若き家老であり、西郷や大久保が活躍した背景にあり、幻の宰相と呼ばれ、薩長同盟や大政奉還の際でも深くかかわっているなど重要な活躍をしたにもかかわらず、あまり歴史にとりあげられることが少なったヒーローにスポットを当ててみたいという思いがあって、ドラマに登場させたそうです。
小松帯刀は、「一外交官の見た明治維新」という文庫の中で、英国外交官として活躍したアーネスト・サトウによって、こう評されています。「小松は私の知っている日本人の中で一番魅力のある人物で、家老の家柄だが、そういう階級の人間に似合わず、政治的な才能があり、態度にすぐれ、それに友情が厚く、そんな点で人々に傑出していた。顔の色も普通よりきれいだったが、口の大きいのが美貌をそこなっていた」
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有名な西郷像に程近いところに建てられた帯刀像は、今回の大河ドラマで改めて脚光を浴びたそうです。その思惑に乗せられた感はありますが、大河ドラマは、改めてよく知らなかった人物にも興味を持ったり、今まで気がつかなかった場所を知ったりと、私にとってはよいきっかけとなります。

投稿者 fujimori : 21:19 | コメント (4)

2008年12月24日 旅先にて

異年齢の集団

最近、少子化が進み、子どもたちの異年齢交流の減少や地域との結びつきの低下が叫ばれるなかで、異年齢集団活動による青少年育成の試みが全国各地で行われています。しかし、異年齢集団を構成する意図が違う場合があり、それらを混同すると、個人を軽視して、集団を優先してしまうようなことも起きかねません。
昔は、地域の中で子どもたちは遊ぶとき、遊ぶ相手を選ぶときに、それぞれの年齢は余り意識しませんでした。一緒に色々な遊びをしました。しかし、当然、子ども個々に能力が違います。また、その中からリーダーらしき存在も現れます。「みんな一緒」で遊んではいたのですが、「みんな同じ」ではなかったのです。それどころか、その子の年齢によって、ルールややり方は変えてあげていました。このやり方にはポイントがあります。まず、正確に言うと、その子の年齢によって変えてあげるのではなく、その子の能力によって、変えてあげているのです。ですから、この集団は、異年齢児集団ではなく、さまざまな能力や特技などの個人差を尊重し、それをお互いに補正しながら一緒に同じ遊びをするのです。もう一つのポイントは、そのルール改正には、大人の手配は介入しません。あくまでも、子ども同士の取り決めの中で行われます。ですから、大人の考える「能力別」や「習熟度別」ではないのです。そして、その子によってやり方を変えるのは、「差別」ではなく、個人差があっても、それに配慮してあげて一緒に遊ぼうという「思いやり」の心から出たものです。
異年齢児集団を構成する意図がもう一つあります。これも、正確に言うと年齢の違いに配慮するのではなく、その子の能力の違いを活用するという考え方です。ですから、同じ年齢に同士のあいだでも行われます。この場合は、大人が意図する場合も含みますので、学校教育の場面とか、設定保育といわれるような大人が意図的に計画するような保育の仲でも行われることがあります。それは、先生から子どもに知識や知恵を伝えるのではなく、子どもから子どもへ伝えるというやり方です。最近、学校教育の中で、「学びあい」という教育方法を取り入れる学校が増えてきたようです。また、習熟度別にクラス分けをするのではなく、同じクラスの中で、わかった子がわからない子に教えるというやり方で、「教わる」よりも「教えること」のほうが学びが大きいという考え方です。
 鹿児島の甲突川東岸ぞいの今の加治屋町あたりは、40~80戸ほどの比較的小さな面積で区切られた方限(ほうぎり)の一つで、下級武士が多く住んでいました。しかし、このせまい方限から、西郷隆盛をはじめとして、大久保利通、吉井友実、伊地知正治、篠原国実、村田新八、西郷従道、大山巌、東郷平八郎、山本権兵衛、などたくさんの偉人が出ています。
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  西郷隆盛と大久保利通の生誕の地
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  大山巌と東郷平八郎の生誕の地
なぜでしょうか。その地域には立派な教師がいたからでしょうか。そうではありません。そこでは、以前のブログで何回か紹介した薩摩藩の伝統的な縦割り教育の一つであった「郷中教育」が行われていたのです。
 郷中教育とは、青少年を「稚児(ちご)」と「二才(にせ)」に分けて、勉学・武芸・山坂達者(今でいう体育・スポーツ)を通じて、先輩が後輩を指導することによって強い武士をつくろうとする組織でした。いわゆる、異年齢による「学びあい」を行っていたのです。
 今回、NHK大河ドラマつながりで訪れた鹿児島では、この郷中教育を少し調べてみました。

投稿者 fujimori : 20:48 | コメント (4)

2008年10月16日 旅先にて

野菜

  またまた食品への農薬混入が問題になっています。食は、人間にとって欠かせないものなので、困りますね。その食について、最近代わってきたことがあります。それは、これまで野菜は、多くの場合、肉や魚の脇役でしたが、最近は、野菜を主役に据えるレストランが、和洋中、様々なジャンルで増えているということです。
 例えば、原宿にある落合圭子さんが経営する絵本店「クレヨンハウス」の地下には、洋食レストラン「HOME」と、和食レストラン「広場」という2つの自然食レストランがあります。この店のコピーは、「料理人も驚く、オーガニック野菜の味」というもので、レストランの前には、目に鮮やかな伊予柑やネーブル、泥がついたままの大根、ジャガ芋やニンジンなどが所狭しと並んだ八百屋「野菜市場」があり、売っている野菜のほとんどが有機野菜です。豆腐や調味料などの加工品も有機農産物を原料とするこだわりの商品で、2つのレストランの食材は全てこの八百屋から調達しています。事業部長の岩間建亜さんは「オーガニック食材のよい点は、まず美味しいこと、季節があること、体のリズムに合っていることです」また、「まず料理人たちが、その美味しさ、味わい深さに感動します。食材そのものが美味しいので、味付けの必要がないほどです」と言い、味に敏感な子どもは、家だと野菜嫌いなのに、なぜかここのレストランにくると野菜を食べるようになるといいます。
 また、グリーンツーリズム(農山漁村での余暇)や地産地消などの概念が普及するのに伴い、農家自身が経営や調理にあたる「農家レストラン」が増えています。現在全国にはこの種のレストランが1000軒以上あるそうです。例えばその地域が蕎麦の産地であった場合、自家製あるいは地元産の蕎麦を用いたメニューを提供します。メニューは地域の伝統料理であることが多いようです。
 先日の野尻湖で、最近注目を浴びているシェフ渡邉明の料理をいただきました。彼は、9月7日のテレビ東京「ソロモン流」を始め、テレビ番組「料理の鉄人」にも出演したり、よく取り上げられます。食事のあとに彼が挨拶に来たのですが、やはりオーラが出ていました。彼は、電気関係の専門学校を卒業後に大手音響メーカーに入社、その間に数々の飲食店でアルバイトを経験しています。そんな渡邉さんは小学生の頃から料理人になるのが夢だったそうです。その彼が得意にしている料理のひとつが、野菜を使ったヘルシーレシピや食材にこだわる食育です。
 今回いただいた食事のメニューの中で特に美味しかったのは、名物の「農園バーニャカウダ」という料理です。
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  これは、料理といったよいかというほど、ただ、みずみずしい野菜が惜しげもなく迫力いっぱいに盛られた、そして、野菜の美しさを引き立てるかのように並べられた一皿です。地元で取れた新鮮な野菜を、バーニャカウダソースにつけて食べるのは、どんな贅沢な料理を食べるよりも美味しく、贅沢な気がします。バーニャカウダソースとは、にんにくとアンチョビをオリーブオイルに溶かしたものです。それを、ろうそくの火で暖めながら、野菜につけて食べます。このソースがまた抜群の美味しさです。
 本当に美味しい料理は、新鮮な、よい素材そのものを味わうことですね。

投稿者 fujimori : 23:53 | コメント (4)

2008年10月15日 旅先にて

森の効果

 癒しの森を散策していて「人として太古からのDNA」という立て札に出会います。そこには、「人類が誕生してから今までの間の99.9%を森の中で暮らしてきた人類はDNAレベルで森に同調します。もともと自然環境の中で生活してきた人類が、現代の人工的な環境での生活は、本来の人間の生活とは違い、大変なストレスを与えます。森林セラピーはこのような環境からのストレスを改善するという点からも大きな効果を持っており、人々の心を癒すといわれています。
 立て札は道を案内するかのように立っています。大きく「深呼吸」をしてみましょう。インストラクターの水野さんから、「おへその下あたりに空気を入れるように、ゆっくりと4秒くらいかけて、鼻で息を吸って、口をすぼめてゆっくりとはいてください」という言葉がけで、参加者はみんな静かに、大きく深呼吸です。きれいな空気をゆっくりと吸うことで、細胞に酸素を取り込み、免疫力をアップさせます。木漏れ日は、「緑のカーテン」です。空を仰ぐと、青い空が広がっているだけでなく、覆いかぶさるように木々の葉が緑から黄色、赤に色を変え始めています。そこからは、身体をリラックスさせ、脳にα波を増やす効果を発揮するといわれている「マイナスイオン」が満ちています。耳を澄ませば、せせらぎの音や木の葉をゆらす風が持つゆらぎは、気分を和らげてくれる力を持つといわれる「1/fゆらぎ」です。
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 このツアーで、参加者が最も感心したのは、樹木草類が発散する化学物質、菌などを抑制する作用を持つと言われている「フィトンチッド」です。
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 森林浴効果をもたらすといわれる森林の香りの正体は、「フィトンチッド」と呼ばれる、主に樹木が自分で作りだして発散する揮発性物質で、その主な成分はテルペン類などの有機化合物です。この揮散している状態のテルペン類を人間が浴びることを森林浴と言っても過言ではありません。樹木は、生きていくために光合成と同時に、二次的にフィトンチッドなどの成分を作りだすのです。それは、樹木にとってどんな効果があるのかというと、他の植物への成長阻害作用、昆虫や動物に葉や幹を食べられないための摂食阻害作用、昆虫や微生物を忌避、誘因したり、病害菌に感染しないように殺虫、殺菌を行ったりと実に多彩です。土に根ざして生きる樹木は移動することができません。そのため外敵からの攻撃や刺激を受けても避難できませんから、フィトンチッドを作りだし、それを発散することで自らの身を護るわけです。
1930年頃、旧ソ連のB.P.トーキン博士は、この植物の不思議な力を発見し、フィトン(植物が)チッド(殺す)と名づけました。また、フィトンチッドには、自己防衛のためだけではなく、攻撃手段でもあります。およそ生き物は自らのテリトリーを広げようとします。そのために他の植物に対して強力な成長阻害作用を持つ物質、すなわちフィトンチッドを分泌して、自らの勢力を拡大した結果なのです。しかし、このフィトンチッドは他の生物に対して攻撃的に作用しますが、人体に対しては有益です。自律神経の安定に効果的と言われ、肝機能を改善したり快適な睡眠をもたらし、空気を浄化したり、悪臭を消す働きがあります。また、食品への防腐、殺菌を始め、部屋や浴室のカビ、家ダニなどへの防虫にも効果的です。
 森林リフレッシュのあとの昼食は、野尻湖半で、野尻原人さながら火おこしをし、石のナイフでゾウの肉ではありませんが、熊の肉を切り、それをバーベキュー、そして、笹の葉に乗せた古代米のおにぎりをいただきました。
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投稿者 fujimori : 23:44 | コメント (4)

2008年10月14日 旅先にて

森セラピー

 今回の黒姫へは、「森を感じる休日@信州信濃」というイベントに参加することが目的でした。このイベントは、10月11日から13日まで行われました。私は、11日は八戸でしたので参加できませんでしたが、12日は朝から参加しました。12日はブログで書いた「アファンの森探訪」です。
13日に参加したのは、午前中は「野尻湖畔トレッキング」ということで、癒しの森(ゾウの小径)を歩きました。これは、普段ここ信濃町が取り組んでいる、「森の風景や香り、木々の音や感触には心身を癒す効能がある」というそんなパワーを健康回復・増進に役立てようという「森セラピー」という「癒しの森」事業です。
 昔から「森林浴」といって、森の中に入ると体や気もちによいといわれてきました。「森林セラピー」は、それをもう一歩進めて、この効果を科学的に解明し、こころと身体の健康に活かそうという試みです。森林浴で気持ちがリラックスすることはもちろん、森を歩く前と、終わってからとでは、実際に身体の免疫力が上がり、血圧が低下するなどの科学的な効果が見られるようです。
町内には距離や高低差が異なる10の「癒しの森コース」がありますが、今回は、その中で、難易度はBで運動としてはちょっと軽めの、距離2・5キロの、もちろんナウマンゾウが歩いたであろう「象の小径(こみち)コース」を歩くことにしました。案内役は、町独自の講座を受けて認定された「森林メディカルトレーナー」です。
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 道を歩きながら、今回のトレーナーの水野さんは、木々について説明しながら「立て札」のところで立ち止まり、その内容を説明してくれます。
 「森がカウンセリング」。森の中で過ごすことで心が穏やかになるのは、森がカウンセリングしてくれるからです。同時に、「ストレッチングとウォーキング」。ウォーキングにストレッチを加えることで、全身の血行が促進し、心身共にリフレッシュする効果が高まります。紅葉が始まった森は、踏みしめる落葉がカサコソと音を立てます。その葉の種類も、周りの景色の変化に合わせて変わっていきます。時折木立の合間からは、湖面を覗き込むことができます。そんなときには「何もしない」。この立て札には、「好きな場所を見つけ、しばらく座ってください」と書かれています。「何もしない時間」はとても意味があるようです。
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途中立ち止まって、小枝を切って「この木、なんだか分かりますか」と聞きながらその枝を渡してくれます。とてもいい香りがします。クロモジという昔からようじに使われている木だそうです。そのように森は、音や匂いなどを感じることができます。「五感を使おう」。森の中では何もしなくともそれだけで心癒されますが、さらに効果的に森林パワーを感じるためには、人間に備わっている「五感」を使って個人の価値観に応じた森林セラピーを楽しむことによって、森の力をより明確に実感できます。森の中や周辺で耳や目、鼻、手足、味覚等の五感のアンテナを研ぎ澄ませて、木々の息吹や風のざわめきを感じて、その中でいちばん自分に合ったリラックス法を探してみることによって、自然の中で本来あるべき場所にいるという快適感を全身で感じ、楽しむことができるのです。
 まだまだ、小道は続いていきます。

投稿者 fujimori : 23:14 | コメント (4)

2008年10月13日 旅先にて

日本のゾウ

 私が子ども会の顧問をしていたことがありました。そのときの役員は全員父親だけという珍しい会でしたので、企画がとても面白いものが多かったような気がします。ある年にテーマを「縄文時代体験」としたことがありました。その年の行事は、例えば、ある月に地域を流れる川に行って、その川床にある粘土を取りに行き、それを砕いて粉にして水に溶かし、その次の月に、それを粘土のようによく練って土器を作り、その周りには縄を押し付け、模様をつけました、それをよく乾かしたあと、次の月に野焼きで焼いて、縄文土器を作りました。また、どんぐりを粉にしてそれを焼いて食べ、縄文時代の食を体験しました。
 東京の奥多摩のほうに「縄文爺さん」という人がいて、父親たちと訪ねました。彼から、縄文時代の生活を聞くためです。彼は、どんぐりを食べ、蓑虫の蓑をつなぎ合わせた服を着ていました。また、私が当時教員をしていたのですが、担任していた1年生のクラスで、縄文時代の住居を再現しました。(以前にブログで書きました)どうも、古代に興味を持っていたのかもしれません。そんな頃に、2冊のまんがの本と出合います。1983年、野尻湖発掘調査団によって発行された「掘って掘って また掘って」というまんが野尻湖発掘ものがたりでした。もう1冊の本は、「よみがえったナウマンゾウ」という、まんが恐竜博士シリーズの1冊です。ともに、野尻湖の「ナウマンゾウ」の発掘について書かれた本です。
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 以後、私は、一度は野尻湖に行ってみたいと思うようになりました。発掘調査は、毎回新しいものが発見されており、とてもロマンを感じていたからです。しかし、その後忙しくなって、野尻湖とナウマンゾウのことは忘れていました。昨日から休日を過ごしに来ている黒姫は、まさに、その野尻湖の湖畔にあり、今日、念願の「野尻湖ナウマンゾウ博物館」を訪れることができました。
 お願いをして開館以来学芸員を務める近藤洋一さんからレクチャーを受けました。昨日の松木さん同様、熱っぽく語るその内容は、思わず引き込まれるようでした。ナウマンゾウは日本を代表する化石です。そのナウマンゾウの発掘を40年も続けている野尻湖は、ナウマンゾウのいる湖として名を知られています。2年に1回の「大衆発掘」には、毎回多くの参加者があるそうです。全国にある「野尻湖友の会」という団体に入会すれば誰でも発掘に参加でき、ナウマンゾウ博物館に展示してある化石や石器などは、この友の会の会員が発掘したものも多く、ラベルには発見者の名前が書いてあり、これは、世界的にも珍しい発掘方法です。
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 ナウマンゾウは、陸続きであった中国から日本に渡ってきて、もっとも繁栄した最盛期は今からおよそ12万年前から7万年前のことで、日本列島が暖かい時代でした。ですから、日本中、北海道まで分布を伸ばしていたことがわかっています。寒い時代を迎えてもその分布範囲は縮小することなく、日本特有の種になっていったのです。しかし、野尻湖の時代を迎えて突然、絶滅します。近藤さんは、人類がナウマンゾウを滅ぼしたのではないか、という仮説を打ち出し、研究しているそうです。
 それを裏付ける人間による槍やナイフは発見されているものの、肝心の人骨の発掘は、まだのようです。まだまだ永遠のロマンは衰えてはいないようです。

投稿者 fujimori : 21:36 | コメント (4)

2008年10月12日 旅先にて

森の見学

 今日の休日は、妻と黒姫に来ています。そのひとつの目的は、「アンファンの森」の見学会に参加するためです。この見学会は、普段は会員に行われているものですが、今日は、一般公開でした。
 この森は、英国の南ウェールズ生まれのクライブ・ウィリアム・ニコル氏が、地元の放置林を買い取り「アンファンの森」と名付けたところです。現在は、この森を永遠の森にするためにC.W.ニコル氏は、この土地を寄附し、この森で起きることが、日本中の森がよみがえるための一歩となることを願って、「財団法人 C.W.ニコル・アファンの森財団」の森にしました。今日の見学会の最初に、財団の人から森の中で、みんなでサークルになって木のベンチに腰掛け、C.W.ニコル氏がなぜこの森を「アンファンの森」と名づけたのか、また、どうして森を守る活動を日本でしようと思ったか、そして、それがどんな成果を遂げているかなどを紙芝居形式で説明を受けました。そのいきさつはこう説明されています。
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「北には流氷、南にはサンゴ礁、世界でもっとも生物の多様性に富んだ風土を持つ国、日本。そこに住む人々は、自然を愛する繊細な文化を持っていましたが、残念なことに、高度経済成長期以降、経済の発展のためにその自然の素晴らしさに背を向けるようになります。樹齢400年以上のナラ、ブナ、トチなどの大木が一瞬にして切り倒され、スギやカラマツの植林地になってしまいました。
ところが、残念なことに、日本人は経済の発展のためにその自然の素晴らしさに背を向けるようになります。樹齢400年以上のナラ、ブナ、トチなどの大木が一瞬にして切り倒され、スギやカラマツの植林地になってしまいました。
人間の都合に合わせた自然につくりかえられてしまった森は、野生動物を棲まわせたり、水をきれいにしたり土をつくったりする豊かな力を失っていきました。しかもその植林された森が、またもや経済的な理由で放置され、今や荒れ果てています。食べ物を失った野生動物たちは、里に下りて農作物を荒らさざるを得なくなり、絶滅の危機に危ぶまれるツキノワグマさえ、里におりてくれば害獣として打ち殺されてしまうのです。」
昨日のブログではありませんが、日本には四季があり、素晴らしい自然があります。それはニコルさんではありませんが、世界でもまれに見る多様な自然です。地方に行くと、まだまだ多くの森が残っています。まだまだ自然が残っています。しかし、それが思い違いであることを説明でわかりました。日本の国土に占める森林率は67%ですが、このうち、41%がスギなどの人工林ですし、その中で本当に原生林と呼ばれる森はわずかですし、もう一度人間の手を入れて本来の森を取り戻さなければならない森がほとんどです。
今日の見学会で、先頭にたっていろいろな話をしてくれたのが、松木さんという人でした。ニコルさんがこの森を取り戻そうとしたときに、地元でかつて炭焼きをしていた松木さんの森についての知識の豊富さに惚れて、森の管理を何度もお願いしたそうです。彼による途中の説明は、松木節といわれるような軽妙な語り口で、その森を心から愛している思いが伝わってくるようでした。見学会の終わりには、その森の入り口に立っている松木小屋の薪ストーブで作られたきのこ汁をご馳走になりました。

投稿者 fujimori : 23:00 | コメント (4)

2008年05月06日 旅先にて

紀州藩

 昨日の晩は、窓から見える景色は、「夏の思い出」の歌詞にも書いた「しゃくなげ色にたそがれる」がまさに再現したかのような夕焼けでした。このしゃくなげも熊野那智大社への参道で撮ったものです。
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 今、NHK大河ドラマで「篤姫」を放送しています。毎年、そのドラマにゆかりのある地を妻と訪れているのですが、まず、先日のブログで紹介した篤姫の墓所である上野寛永寺に行ってきました。今回訪れたのは、直接関係ないのですが、少し関係のある和歌山県です。篤姫が正妻として嫁いだのが、徳川13代将軍徳川家定ですが、その結婚に、実は次期将軍に一橋慶喜を押すようにという使命を斉彬から受けてきたのです。しかし、結局は、家茂に決まります。この家茂は、紀州藩主だったのを担ぎ出されたのです。
 和歌山県の旧国名は、紀伊半島の由来ともなった紀伊国(一部は三重県となっている)です。江戸時代は徳川御三家紀州徳川氏の領地(紀州藩)でした。御三家とは、徳川一門衆の中でも家康の九男・義直に始まる尾張家、十男・頼宣に始まる紀伊家、十一男・頼房に始まる水戸家の徳川三家のことを指し、江戸幕藩体制の下で特別な地位を与えられていました。しかし、その場所が私から見るとどうしてその地が選ばれたか不思議に思います。また、家康も、はじめからこの御三家を想定していたのでしょうか。どうも、家康はそうは思っていないで、五代・綱吉の時代まで紆余曲折の末に御三家の家格が成立したといわれています。
 では、どうして、紀州藩が御三家のひとつになったのでしょうか。
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紀伊国は関ヶ原の戦いの後、浅野幸長に与えられ浅野家の治める紀州藩(外様)が成立しました。1619年にその浅野氏が福島正則改易に伴い安芸国(広島藩)に移されると、これまで駿府藩主であった徳川家康の10男徳川頼宣が55万5千石で入封して紀州徳川家の治める紀州藩(親藩)が成立したのです。この頼宣については、ずいぶんと面白い憶測がされています。それは、かれは浪人を多く召抱えていたために将軍家に対する対抗心があるからではないかとか、由井正雪と関係があるのではないかと疑われましたが、その真意はよくわかりません。しかし、この紀州藩が一躍脚光を浴びるようになったのは、頼宣の孫である紀州藩5代藩主の吉宗が8代将軍に就任することになったからです。
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吉宗は、紀州藩2代藩主・徳川光貞の四男として生まれていますので、藩主となることも普通ではありえません。しかも、母親は紀州徳川家の召し使いでしたし、実家は、百姓の娘であったとも言われています。そこで、吉宗は、幼年は家老の元で育てられ、やがて城中へ引き取られます。しかし、長兄が死去、同年、父、やがて次兄の頼職までが半年のうちに病死したため、22歳で紀州藩第5代藩主に就任するのです。藩主就任後、藩政改革を行いますが、一方、第7代将軍・徳川家継がわずか8歳で亡くなり、徳川将軍家の血筋が途絶えた後を受け、御三家の中から家康に一番血統が近いという理由で、第8代将軍に就任します。その後、13代藩主慶福が11代将軍徳川家斉の孫でもあったため、14代将軍家茂となって、紀州藩主から出た2人目の将軍となるまで、将軍は全て紀州藩の系列になっています。
この吉宗にしても家茂にしても将軍になったいきさつをみると、人の人生というものはつくづくとわからないものなのだなあと思うと同時に、人生はそのように送るべくして送るのだという実感を持ちます。

投稿者 fujimori : 19:33 | コメント (4)

2008年05月05日 旅先にて

樟と楠

熊野三山のひとつである熊野那智大社の境内の一角に、天然記念物 那智の樟(くす)の大木が茂っています。樹齢約800年、樹高27m、幹廻り8.3m、枝張り約25メートルの巨木で、熊野三山造営の勅使として参った平重盛お手植えによるものと伝えられています。根元に人がくぐれる程の空洞があり、無病息災を願って胎内くぐりをすることができます。
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 クスノキは、暖地に野生し、しばしば公園や、社寺林に栽培される常緑高木で、大きく生長するために神社などで神木として崇められている巨樹も多くあり、「那智の樟」もそのうちのひとつです。クスノキという音は、全体に特異な芳香を持ち「臭し(くすし)」からきています。漢字に当てる場合は、「楠」という字を書くことがありますが、それは、「南から来た木」という意味で、「樟」と書く場合は、「薬(樟脳)の木」からきています。クスノキは、古くから葉や煙は防虫剤、鎮痛剤として用いられ、作業の際にクスノキを携帯していたという記録もあります。また、その防虫効能から家具や仏像などにも広く使われ、古代の丸木船の材料にも使われました。また、材や根を水蒸気蒸留して取り出したものが、よくタンスや引き出しに虫除けとして入れる樟脳です。
 この「楠」という字を神社から名前につけてもらった人に「南方熊楠」(みなかたくまぐす)という人がいます。彼は、私と同じ誕生日だということと、出身が和歌山県で、熊野古道のひとつの登り口である田辺に晩年住んでいたこともあり、白浜に「南方熊楠記念館」があるので、訪ねてみました。
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 彼は反骨の世界的博物学者として、生涯、博物学や民俗学などを中心として研究に没頭し、英国の科学雑誌「ネイチャ-」などに数多くの論文を投稿し、また、国内では神社合祀反対運動や自然保護運動などにも論理と精力的な実践活動で尽力しました。
 彼を評して、記念館には、前進座創作劇場「およどん盛衰記」より転記された次の一文が掲載されていました。「一切のアカデミズムに背をむけての独創的な学問と天衣無縫で豪放轟落な言動は奇人呼ばわりされたが実はやさしい含羞の人であり、自然保護運動に命をかけて闘いぬいた巨人であった。」
 彼が、「日本最初のエコロジスト」と呼ばれるのは、当時は誰も「生態系」という概念すら持っていない時代に、こんな運動を展開したからです。第一次西園寺内閣は神社合祀を全国に励行しました。各集落にある神社を1村1社にまとめ、日本書紀など古文書に記載された神だけを残そうというものです。そのひとつの理由に、ビジネスの側面がありました。神社の森は樹齢千年という巨木もあり、これが高値で売れたからです。廃却された境内の森は容赦なく伐採され、ことごとく金に換えられました。これに対して、熊楠は激怒します。それは、何も宗教上の理由だけでなく、樹齢を重ねた古木の森にはまだ未解明の苔・粘菌が多く棲み、伐採されると絶滅する恐れがあったからです。「植物の全滅というのは、ちょっとした範囲の変更から、たちまち一斉に起こり、その時いかに慌てるも、容易に回復し得ぬを小生は目の当たりに見て証拠に申すなり」と言っています。熊楠は“エコロジー(生態学)”という言葉を日本で初めて使い、生物は互いに繋がっており、目に見えない部分で全生命が結ばれていると訴え、生態系を守るという立場から、政府のやり方に反対したのです。
そんなわけで、彼は国内の環境保護活動の祖となったのですが、いつの時代でも同じようなことを繰り返し、なかなか過去から学ぶことをしませんね。

投稿者 fujimori : 21:25 | コメント (4)

2008年05月04日 旅先にて

荘厳

「日本の○○100選」というものがよく決められています。その中で、「日本の秘境100選」が、1989年にJTBが雑誌「旅」9月号が創刊750号を迎えるのを記念して開いたシンポジウムにおいて、決められています。先日ブログで何回か取り上げた「出羽三山」も選ばれています。その百選の中のひとつである和歌山県「熊野古道」に妻と訪れました。この熊野古道は、「高野山」「吉野・大峯」とともに、「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産登録されています。少し前に、やはり逆転で世界遺産に登録された「石見銀山」にも行ってきたのですが、銀山として世界でも珍しいのですが、ここは、道として選ばれています。高野、熊野、吉野・大峯の各霊場に至る参詣道として、霊場への信仰が拡大するともに整備され、今日においても周辺の景観とともに良好な形で維持されていることが貴重な文化遺産として評価されたのです。
熊野古道は、紀伊半島南部にあたる熊野の地と大阪や伊勢、高野及び吉野とを結ぶ古い街道の総称で、「熊野街道」とも呼ばれています。熊野古道の中心は、大阪から和歌山を経て、田辺から熊野本宮に向かう中辺路(なかへち)。そのほか、田辺から海岸線沿いに那智へ向かう大辺路(おおへち)、高野山から熊野本宮へ向かう小辺路(こへち)、吉野から熊野本宮へ向かう大峯奥駈道、伊勢と熊野速玉大社を結ぶ伊勢路など、いくつかのルートがあります。
私たちは、今回はずっと歩く時間を取ることができなかったので、とりあえず、那智勝浦からまず、大門坂あたりの古道を少し歩いて見ました。鬱蒼と繁る大杉が両脇にそびえている中を苔むした石段が続いています。その中を熊野詣が盛んだった頃の平安の衣装を着た女性が登って来ました。このあたりでは、この平安衣装体験ができるようになっているのです。
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熊野周辺は、日本書紀にも登場する自然崇拝の地でした。そして、出羽三山のように熊野三山ということがありますが、ここの場合は、三つの山ではなく、「熊野本宮大社」、「熊野速玉大社」、「熊野那智大社」の三つの神社の総称です。ここへは、907年の宇多法皇の熊野行幸が最初と言われていますが、参詣が頻繁に行われるようになったきっかけは、1090年の白河上皇の熊野行幸からと言われています。江戸時代に入ると、伊勢詣と並び、熊野詣は、広く庶民が行うようになり、一時は、熊野付近の旅籠に1日で800人の宿泊が記録されたこともあったそうです。しかし、明治維新後、神仏分離令により熊野古道周辺の神社の数は激減し、熊野詣の風習も殆どなくなってしまいましたので、この古道は、周囲の生活道路として使用されていただけでしたので、当時の面影を残していることにもなったのかもしれません。
そのあと、「日本の滝100選」のひとつであり、「日本の音風景100選」にも選定されている「那智大滝」に行きました。ここは、落差133mの日本一の直瀑です。この滝は、その落差だけでなく、滝の背後や周囲の山々が濃淡のみどりで縁取られ、そこには、「那智原始林」と呼ばれる原生林も広がっていて、滝をより荘厳にし、神と崇められていたことが頷けます。
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日本人は、荘厳さから神を感じていたようです。決して、強い力が神ではなかったこと、荘厳ということはどういうことかを考えさせられた熊野古道でした。
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投稿者 fujimori : 20:53 | コメント (4)

2008年01月23日 旅先にて

一途な思い

 島根では、石を効果的に配して、米国の庭園専門誌「ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」(JOJG)で「2007年日本庭園ランキング」において5年連続で「庭園日本一」に選ばれた庭園を見てきました。ちなみに、5位 無鄰菴(京都府)、4位 栗林公園(香川県)、3位 山本亭(東京都)、2位 桂離宮(京都府)、そして、今回見学した1位 足立美術館(島根県)です。
この美術館は、横山大観の所蔵でも知られていますが、それ以上に庭園は、収蔵品の観賞を深めるために造られ、その広さは1万3千坪にも及んでいます。窓から見える景色は、窓枠を額縁、衝立、掛け軸に見立てられています。玄関から歩を進めて行くと、正面には、これから訪れるであろう主庭の枯山水へと続く長い白砂が目に入ります。
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そして、次に見えてくる庭は、桂離宮にある「松琴亭」に因んで建てられ、裏千家の十五代家元、千宗室氏によって命名された茶室「寿立庵」へと続いている茶庭です。
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次に見える「苔庭」は、京都の庭師、故小島佐一翁によるもので、杉苔と赤松を中心に組み合わせてつくられた京風の雅な庭園です。苔庭の赤松はすべてが斜めに植裁されています。これは山の斜面に生まれ、成長してきたものを平坦な場所に垂直に植えることは、樹木にとってかなりの苦痛になる、という考えによるものです。また、苔庭の苔が樹木の葉から落ちる雨水により傷つかないように枝振りにあわせて、園内で焼かれた炭を埋めてあります。
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いよいよ、この美術館の主庭の枯山水庭です。この庭は、京都の「退蔵院」の枯山水庭、大阪府堺市の「大仙公園」の日本庭園の作庭で知られる、故中根金作氏によるものだそうです。画面中央に配置されている三つの立石は、峻厳なる山をあらわし、そこから注ぎ込まれた水が渓流となり、大河となって流れ行く様を、枯山水という伝統的な手法をもちいて表現しています。遠くに見える山は勝山という名で、16世紀半ば、毛利と尼子の合戦で、毛利氏が本陣を張った山です。
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 窓から遠景に滝が見え、水の流れと池を中央にして、白砂の丘陵には、左に赤松、右に黒松が植えられています。この庭の石は、鳥取の佐治石や、四国の青石が使われていて、一番当初の造園であるためか、今では貴重な名石ぞろいだそうです。石組みは、桃山時代の武将の庭に見られるような力強く、豪快で華麗なものになっています。
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次に、鯉が群れ遊ぶ「池庭」は、和風の庭と周囲の洋風的な建物との調和を考えた、和洋折衷の新しい感覚で作られています。
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 そして、「白砂青松の庭」です。白砂海岸に大小の青松がリズミカルに配置されています。この庭園は、横山大観の名作、白沙青松の持つ清澄なイメージを表現したものです。
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71歳の時、郷土への恩返しと島根県の文化発展の一助になればという思いで、財団法人足立美術館を創設した足立全康は、小学校卒業後すぐに、生家の農業を手伝い、14歳の時、大八車で木炭を運搬する仕事につき、その後紆余曲折、様々の事業を興し、戦後は大阪で繊維問屋、不動産関係などの事業を起こします。そして、幼少の頃より興味をもっていた日本画を収集して、この美術館を創設するのです。
 日本の美を、一途な思いで伝えています。

投稿者 fujimori : 23:00 | コメント (5)

2008年01月22日 旅先にて

八雲の庭

八雲は明治37年、東京で死ぬまでの14年間を日本ですごし、その間、松江・熊本・神戸・東京と4つの都市に住み、10軒もの家で生活を営みました。その中で、松江の根岸家から借りた家とその庭は、特別に気に入ったようでした。規模こそ小さいものの、この庭は枯山水の鑑賞式庭園としては水準を抜くものとして高い評価を受けています。今、役もが愛した居宅だったところは、東大時代の友人上田敏、小山内薫、柳田国男らの勧めもあり、一部改築されていた家を元通りに復原し、記念館になっています。特にここの庭は、著作「知られざる日本の面影」の第16章「日本の庭園」の舞台となっています。この庭と、作品の中の文章を読むと、西洋人である小泉八雲が日本の庭をどのように見たのかということがよくわかります。
元々は松江藩士の武家屋敷で、その周りには三方に庭があり、八雲は中央の部屋から三つの庭を眺めるのが好きだったと云われています。彼の文章から、日本の美をもう一度見直してみたいと思いました。(要約)
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「この庭の全体からは、どこかきれいだけれどもとても寂しい、そしてそのままそこで眠りこんでしまいそうな、そんな場所を音もなく流れてゆく静かな流れの岸辺、というような印象を受ける。その庭には、厚く苔むした大きな岩がある。そしてまた水をたたえた、風変わりな石の水盤もいくつか据えてある。歳月を経て緑色になった石灯篭や、城の天守閣に見られるような鯱もある、老木の茂っている小山もある。緑の草の長い斜面もあって、花をつけた潅木が影を落としており、川岸の土手のようである。緑に覆われた築山は小島を思わせる。(新編日本の面影より)」
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「北側の第二の庭は自分の好きな庭である。大きな草木は何一つない。青い小石が敷いてあって、小池が一つ―珍奇な植物がその縁にあり、小さな島が一つその中にあって、その島には小さな山がいくつかあり、高さは殆んど一尺にも足らぬ桃と松と躑躅がある小型の湖水が一つ、その中心を占めている。ではあるがこの作品は、そう見せようと計画されていたようにして見ると、目に少しも小型なものとは見えぬ。それを見渡す客間の或る一角から見ると、石を投げれば届くほどの遠さに、向うに真の島のある、真の湖岸の姿である。この池の縁の其処此処に、そして殆んど水と水平に、その上に立つことも坐ることも出来、その湖沼住者を窺うことも、その水中植物を世話することもできる平たい大きな石が置いてある。」
三番目の庭は、生垣の向こうなので、見ることは出来ませんでした。「この庭は、大変大きいもので、垣に囲まれた蓮の池の庭から、この武家地の一角の北北東の境界にあたる木の茂った丘のふもとまでつづいている。北西の角には、なかなかいい井戸があって、器用に竹のパイプでこしらえた水路を通って、ここから家の中までひんやりと冷たい水が運ばれてくる。そして北西のはずれには、丈の高い雑草に隠れるようにして、ひどく小さなイナリの社がたっている。そしてその前には、その社にふさわしいちいさな石の狐が二匹、すわっている。庭の背後の丘の森は、まさに野鳥の生活に満ち満ちている。」
いろいろなところで、石が効果的な役目をしていますね。

投稿者 fujimori : 23:11 | コメント (3)

2008年01月20日 旅先にて

勾玉

 今週末は、島根県の玉造温泉に泊まりました。この玉造温泉は、奈良時代開湯といわれる古湯で、少彦名命が発見したと伝えられていて、江戸時代には松江藩藩主の静養の地となっていました。この玉造という名の由来は、この地にある花仙山で良質の青瑪瑙が採掘できたために、この地の人々が玉造を生業としていたことに由来していると考えられています。瑪瑙(メノウ)という名前は、石の外観が馬の脳に似ているということで付けられています。
この「メノウ」は、「ヒスイ」と並んで大変硬い石のために、よく古代の勾玉の材料に使われていました。三種の神器といわれる「八尺瓊勾玉」も櫛明玉命によって玉造で造られたと言われています。日本神話では、岩戸隠れの際に後に玉造連の祖神となる玉祖命が作り、八咫鏡とともに天布刀玉命が捧げ持つ榊の木に掛けられ、後に天孫降臨に際して瓊瓊杵尊に授けられたとされています。
 勾玉とは、古代の人々が石で作り、首にかけていた装身具です。もとは、狩猟した熊や猪や狼などの獣の歯牙に穴をあけ、その人の強さを表していたり、お守りや魔除けの意味合いから首にかけたものといわれています。ヒスイを原石にしたものは、糸魚川周辺(新潟県)とメノウを原石としたものは、出雲地方(島根県)が代表的な産地と言われています。
 勾玉は、曲玉とも呼ばれるように、Cの字形またはコの字形に湾曲し、玉から尾が出たような形をしています。この形は、元が動物の牙であったとする説や、太極図を表すとする説、母親の胎内にいる初期の胎児の形を表すとする説などがあり、丸く膨らんだ一端に穴をあけて紐を通し、首飾りとしていました。
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 この勾玉は、日本、韓国、北朝鮮に存在していますが、日本の縄文時代の遺跡から発見されるものが最も古いとされていますが、その後、朝鮮半島へも伝播していきます。武寧王陵など韓国内の王墓からも発掘されていますが、これらは日本から伝来したものという説が有力です。縄文時代早期末から前期初頭に滑石や蝋石のものが出現し、縄文中期にはC字形の勾玉が見られ、後期から晩期には複雑化し、材質も多様化してきています。弥生時代中期に入ると、前期までの獣形勾玉、緒締形勾玉から洗練された定形勾玉と呼ばれる勾玉が作られ始め、古墳時代(3世紀)から権力の象徴や、護符として使われてきました。しかし、日本に仏教が伝わり浸透していくにつれて次第に使われなくなっていきました。
 江戸時代には、一般庶民の間ではあまり知られていなかったようですが、知識人のあいだでは、愛用され身につけられてきたようです。オランダ人医師シーボルトも興味を持ち、勾玉を研究し、著書「日本」に「教養ある日本人が好んで思いをはせるもの」と書き出しに記しています。
最近、パワーストーンといって、石の持つ不思議なパワーを身につけることがはやっています。現在でも、勾玉を身につける事により太陽のエネルギーと、月のエネルギーを日夜受ける事ができるといわれています。古代から行われてきたことが、科学が進んだ現在に、もう一度よみがえってきていることに不思議なものを感じます。

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2008年01月19日 旅先にて

宇都宮を訪れて、大谷石について考え、その後、近江にて穴太衆積み石について知り、石について色々と考えてみました。各地を訪れると、その地のどこにでも転がっているような様々な石により、石の文化が生まれますが、おなじようにどこにでもあるのが土です。その地の土によって、やはり様々な文化が生まれます。その特徴的なものに焼き物があり、そのひとつに瓦があります。かつて、日本各地には多くの瓦製造所が存在しました。それは、中世末から近世以降に、主に地元で産する粘土を材料に地元の需要に答えるために、地元の工房で生産される瓦で、製造工房の経営者や工人は必ずしももともと在地の者とは限ってはいませんが、瓦職人はその地に定住し、工房を在地で営んできました。
近江八幡を先週訪れたとき、「かわらミュージアム」に行ってみました。
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ここでは、近江八幡の景観の重要な要素を形成する瓦屋根に関して、その歴史や製作技法・その芸術性などを紹介し、「はちまんかわら」の魅力と、瓦の種類・瓦の作り方・日本各地の瓦・世界の瓦等々も展示されていました。
瓦は本来、粘土瓦のことを言いますが、歴史的にも石瓦や銅瓦等もありますが、現在でも、セメントや金属などの材料も使われ、通常の粘土瓦が使用できない寒さの厳しい地域や個人の好み等によって粘土瓦の代わりに葺かれることがあります。また、瓦を屋根に施工することを「瓦を葺く」といいます。
島根の物産館に「百年瓦、石州」というチラシが置いてあり、そこに瓦の歴史が書かれていました。「日本書紀曰く「嵯峨天皇元年(588)、百済国より仏舎利、寺工、及び瓦工を献ず」瓦屋根が日本に初めて登場したのが飛鳥寺(596年建立)。
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以来、瓦は様々な建築物の屋根に飾られてきました。奈良時代の国分寺建設ラッシュのとき、大和朝廷中央集権化の切り札として、大伽藍の屋根を飾り、戦国末期には、権力の象徴たる天守閣の屋根に。江戸時代初期には、日本最初の都市計画たる「城下町」の建設に。中期には、都市の防火機能確立のために。あるいは「蔵」という貯蔵システム構築のために。そして近代の急務となった町屋(住宅)の普及のために。瓦は、あるときは権力の象徴として、ある時は町造りの構成要素として、ある時は都市の防火機能として、その時代が求める役割を担ってきました。ドイツ建築界の鬼才ブルーノ・タウトは、日本を代表する建築「桂離宮」を評してこう言っています。「すべての優れた機能を持つものは、おのずからその造形も優れている。」屋根は建築物の機能と目的、そして外観意匠を決定する重要な要素です。」
確かに、瓦は土という自然の素材に、水と火というやはり人の歴史と共に使われてきたものを加えてできるものです。しかし、その瓦は、長い間、住宅の屋根には使われませんでした。それは、瓦が貴重であったと同時に、権力や権威の象徴であったのです。それが、その防火効果から住宅にも使用されてきますが、物は、時代が要請するものとして使用されていくのですね。ただ、自然物から作ったものは、自然に帰っていきますが、科学的に作ったものは、作るときには簡単で、使うときには便利かもしれませんが、使い終わったときにはとても厄介です。そのものを利用する場合は、これからの時代は、使うときではなく、使い終わったときも考えて使わなければならないでしょう。それが、重要な要素です。
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2008年01月16日 旅先にて

城取り

学校で歴史を教わったり、テレビで歴史ドラマを見たりしている中で、印象に残る時代はなんといっても戦国時代です。それは、戦国時代の戦いは、城取り合戦だったからでしょう。城を守り、城を攻める、また、その城が誰の居城となるか、そこにはさまざまな戦略が渦巻き、また、築城には、そのときの権力や、守るときの様々な知恵が懲らされているからです。そして、戦国時代から、全国統一に向けての戦いにおける舞台である城や、その後「安土・桃山時代」と呼ばれ始めた頃の舞台は、なかなか訪れることがありません。
この時代は、織田信長の居城であった安土城、豊臣秀吉の居城であった伏見城(後世桃山と呼ばれた丘陵地にあった)に因んで、安土桃山時代と呼ばれていますが、その二つの城はともに現存しません。しかし、伏見城はとても立派であったために、天守をはじめ一部の建物は二条城や常寂光寺などに移築されています。石垣は、大阪城を始めいくつかの城の修築に使用されていますし、西本願寺の唐門は、城門を移築したものですし、福山城や江戸城には、伏見櫓という櫓があります。しかし、織田信長が、安土山に五層七階の天守閣を中心とした本の丸、二の丸、三の丸などの諸郭を持った安土城の全容は、今は安土の駅前の資料館にその模型だけが残っています。
 滋賀県には、その時代の舞台となった城がいくつかありました。そのひとつが、戦国を飾る哀愁の城郭であり、中世五大山城の一つとしても有名な小谷城です。
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浅井長政とお市が過ごし、信長によって攻められ、長政は本丸の袖曲輪にある赤尾屋敷で自刃し、ここに浅井氏は滅亡します。浅井氏滅亡後、江北12万石を与えられた羽柴秀吉は、琵琶湖から離れた小谷城を嫌い、琵琶湖に面しており港もある今浜に新たに築城して居城とします。そのときに、建物等は長浜城へと移築され、今の彦根城の西の丸三層櫓は、このときに長浜城へ移築された小谷城の天守と云われています。そのため小谷城は廃城となり、現代に至っています。
 この長浜城は、清洲会議の後、柴田勝豊、山内一豊が城主となっています。一昨年のNHK大河ドラマの「功名が辻」が放映されたときに訪れたかったのですが、不便さもあって行けなかったのが、先週末の連休に妻と訪れることができました。今は、城は残っていないで、城跡には、3層の模擬天守が建てられ、中は資料館となっています。いかにも模造ということで少しがっかりしましたが、残っている築城当時の石垣を見ると、なんとなく当時を偲ぶことができます。
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 同じように今はなき安土城も、学生の頃から聞きなじんだ響きの場所だけに、駅名の看板で「安土」という字を見つけるだけで、その城の短命さとあわせて、信長の駆け抜けた一生を思い浮かべてしまいます。信長が本能寺で明智光秀の謀反のために自刃したあと、山崎の合戦で明智光秀が敗れると、安土城に入っていた明智秀満は、坂本城へ引き上げ、このあと織田信雄が安土城に入りますが、明智残党の掃討のため城下に火を放たれた火は、城にまで燃え広がり、天守閣も焼け落ちてしまいました。この立派な城の完成後わずか3年のことだったのです。
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 戦いで奪ったものは、結局戦いによって失われていくのですね。

投稿者 fujimori : 15:28 | コメント (4)

2008年01月12日 旅先にて

石積み

 大谷石についてブログを書いたのですが、石にはいろいろな種類があります。そして、その石はいろいろなところに使われますが、そのときにどのように使うかは、その石の特性と、使う場所によって様々な工夫がされてきました。
大谷石のように建物に使う場合のほか、庭石(にわいし・ていせき)という庭園における天然石の日本独特の利用法があります。日本庭園では必ず使用される庭園技法の肝ですが、海外では天然石を加工せずにそのままの姿で利用することは極めて稀であり、大抵、石を使う場合はなんらか加工します。それに対して、日本では、まず、天然の岩石のなかで庭の材料として用いるものとしてよいものを選び出し、加工せず庭の要所に配置します。その石はもちろん1個(1石)でも庭の景観を作るポイントになり、十分に鑑賞できるものとなります。しかし、複数組み合わせて設置する場合もあり、それを石組といいます。この庭石の材質・配置で庭園の表情が決まると言うほどで、日本ではさまざまな技法が生まれました。立石、伏石、平石、構石として使用し、大体、同系同色の石を使うのが基本です。そのほかにも、庭に石を使う場所に、飛石があり、平らな石を園路に配置して、そこを踏面とします。また、この飛石と建物の出入り口を結ぶ石として沓脱石(くつぬぎいし)があります。
 そのほかに護岸や法面などの防水・土砂流出防止を目的に石を積むことがあります。日本では有名なところでは城の石垣がありますが、この石積みのある風景は、日本だけでなく、石が採れる所ならばおそらくどこでも見られる風景でしょう。しかし、その石の積み方は、採取される石の種類や周りの環境によって異なってきます。たとえば、イギリスの石は平たく、日本の石は塊として使います。
今日訪れている近江の坂本の里は、延暦寺や日吉大社の門前町として栄えたところで、湖東、湖北から坂本港に運ばれる物資の集積地でもあり、特に北陸から京都への交通の要所でもありました。その坂本では、里坊や神社や古い民家の石塀などに、穴太衆積み(あのうしゅうづみ)と呼ばれる特異な石積みがみられる場所です。その特色は加工しない自然のままの石面を巧みに用いて石積みの面を構成し自然の美しさを保っていることです。
穴太衆とは、全国的にも有名な石工集団で、石垣のある城郭はすべて穴太衆によるものだといわれています。穴太衆は、横穴式古墳の石室作りに習熟していた渡来人の子孫であり、長い間石積みの技法を温存していました。
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彼らの技法の祖形を、比叡山系と琵琶湖に挟まれたあたりに点在する古墳時代後期の群集墳に見ることが出来ます。その穴太衆は、比叡山麓の坂本大字「穴太」の一帯に古来から住み、その技法を持って、やはり大陸からの渡来人系である伝教大師最澄によって開創された天台宗総本山の比叡山延暦寺の坊舎の石垣や墓石、五輪塔も作りました。
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そして、比叡山焼き討ちで、信長は穴太衆石積みの存在を知り、安土城の築城に動員したのです。その後、家康の江戸城大修築にも活躍しています。
「石積みのある門前町」としての歴史の町坂本を歩けば、石積みの石塀は苔むし、道の脇を流れる堀の水はあくまでも透き通り、焼き討ちにあった比叡山の荒々しさを忘れるほど静かな佇まいを感じました。
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投稿者 fujimori : 22:04 | コメント (4)

2007年12月16日 旅先にて

風林火山最終回

 HNK大河ドラマ「風林火山」も今日最終回を迎えました。原作は、井上靖の長編小説で、「甲陽軍鑑」に拠る甲斐国武田信玄に仕えた軍師・山本勘助が、武田家に仕え、武田信玄と上杉謙信との幾度と行われた戦の中で最大の川中島の決戦で勘助が死ぬまでを描いています。あと、この物語の中心人物として、諏訪頼茂の娘であり、武田四郎勝頼の母となる人物である由布姫を描いています。ところで、今年は、信玄、山本勘助ゆかりの地域を訪ねましたが、その中で信玄と勘助の墓を訪ねて気が着いたことがありました。信玄は、その人物像を描いた小説によって、随分と印象が違います。また、彼の地元である山梨では、名君として受け止められています。確かに、彼の詠歌といわれている「人は城、人は石垣、人は堀、なさけは味方、あだは敵なり」という名文句から見ると、人を信じ、人に情けをかけることで、領地が安堵されると思っていることがわかります。その信頼をもとに、常に他国へと進出していた信玄の本拠地の甲府駅前には、信玄像が威風堂々と座っています。
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この像のある甲府盆地を守り、戦国時代を生きた信玄は、志あと一歩というところでこの世を去っています。しかし、その墓は各地にあります。戦場で戦死したわけではありませんので、その遺体ははっきりしているはずですが、墓がいくつもあるのはある理由があります。信玄の亡くなったのは、駿河制圧後、大軍を率いて西上の途につく途中、尾張・織田・三河・徳川連合軍を三方ガ原に撃破しますが、途中病に倒れ、引き返した信州伊那駒場で53歳にしてこの世を去ります。その時の信玄の遺言によって、喪を3年間秘めていたことや万一の外敵を恐れて、埋葬地を秘密にしていた結果と思われています。いくつかある中で、私が訪れたのはそのうちの二箇所です。そのうちのひとつは、山梨県塩山市の恵林寺の奥まったところにある信玄公墓所です。
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そこはかなり広く立派で、武田家家臣の墓約七十基も墓所後陣に並んでいます。もうひとつは、武田氏館があったつつじが崎館の跡に創建された武田神社から少し歩いたところにあります。信玄の墓はこのほか、山梨県内では大泉寺、長野県の諏訪湖、長岳寺と竜雲寺、和歌山県高野山、愛知県福田寺、京都の妙心寺など全国にあるようです。それに比べて、山本勘助の墓を訪れたときは、ちょっとその場所にショックを受けました。勘助の存在は1969年に「市川文書」の発見で確認されていますが、それまでは伝説的人物として存在が疑問視されており、風林火山の原作者の井上靖自身も史実性を疑っていたようです。面白いことに大言海や辞海という辞書には、当て推量なことを「山勘」「ヤマカン」と言うのは、山本勘助を略したという説であると書かれています。ちなみに、三省堂国語辞典には、「山師の勘」と書かれています。それは別として、勘助の最後は壮絶を極めます。謙信はて妻女山に入り、信玄は、海津城に入ります。両軍は数日に及び対峙し動こうとしなかったために、勘助は、啄木鳥が嘴で木を叩き、驚いた虫が飛び出てきたところ喰らうことなぞらえた「啄木鳥戦法」を取りますが、軍略の天才である謙信はこの策を見抜きます。謙信は信玄を討ち取るべく車懸りの陣で武田勢に猛攻をかけ、信玄はこれに抗すべく鶴翼の陣をしきます。
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武田勢が劣勢の中で、勘助は己の献策の失敗によって全軍崩壊の危機にある責に死を決意して、敵中に突入して獅子奮迅の働きをするが、家来たちは次々に討ち死にし、それでも勘助は満身創痍になりながらも大太刀を振るって戦い続けるが、上杉家の猛将柿崎景家の手勢に取り囲まれ、四方八方から槍を撃ち込まれ落馬したところを坂木磯八に首を取られます。享年69です。彼の墓は、その川中島の河原にぽつんと一基だけが祀られていました。
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投稿者 fujimori : 12:02 | コメント (4)

2007年09月06日 旅先にて

環境効果3

 「さあ、こんな場所を整えました。」「こんなものを置きました。」ということで、もちろん環境が整ったわけではありません。その環境を生かす「人」がいなければなりませんし、その環境を生かすソフトが必要です。少し前に、とても貴重な体験をしました。上田電鉄別所線に乗ったときのことです。上田電鉄別所線は歴史と文化の里、信州上田と信州の鎌倉と称される塩田平を走り抜け別所温泉を結ぶ全長11.6Kmの鉄道です。ここには、かつて、窓からの景色がまるで絵画のように見える、その名の由来ともなった丸い窓を持つユニークな車両丸窓を備えた、いわゆるモハ5250(丸窓電車)という電車が走っていました。このような丸窓を持った電車は他の地域にもあったそうですが、この別所線では、昭和2年に製造され、昭和61年まで通勤・通学、観光客の足として大いに活躍しました。その車両が廃止されたあとも、とても人気が高かったことから、幸いにも3両とも解体されずに、別所温泉駅に保存されています。
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 そして、この地を走る車両としてもう一度丸窓電車を復活しようということになり、「別所線まるまど号」を2004年制作に着手し、翌年、土日祝日に限定し運行を開始しました。そして、その愛称を一般公募により、2005年から「まるまどリーむ号」と変更されました。その電車に乗ることができたのです。まさに、丸窓から見える塩田平の景色は、歴史を感じさせ、とても素晴らしいもので、丸窓の効果を十分と感じさせるものでした。
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 しかし、私と妻が乗ったこの電車は、それ以上に効果的にしたものがありました。それは、上田駅から乗り込んだ駅長さんです。観光客のような乗客一人ひとりに声をかけ、どこから来たのかとか、このあたりはどんな地域などか説明をして歩きました。そして、紙切れを出して、みんなに渡し始めたのです。その紙を見ると、いろいろな歌の歌詞が書いてあります。どうするのだろうと思っていると、なんと、「さあ、みんなで歌いましょう!」というのです。「えっ?」と思っていると、懐からハーモニカを出して吹き始めます。はじめはみんな照れくさそうでしたが、そのうちに丸窓から見える景色に誘われてか、歌いだし、車中、終点の別所温泉駅まで別所線を堪能しました。そのときに、丸窓の車両を復元して走らせただけではなく、人の歓迎する気持ちとか、もてなす気持ちがその環境をより効果的にしたことを感じました。
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 先日の新聞にこんな記事が掲載されていました。「旭山式 マネだけでは…」という記事です。北海道の旭山動物園の人気にまねをしてその手法を導入した各地の動物園が、導入のやり方によって明暗が分かれているというのです。旭山をそのまま模倣した施設、旭山からヒントを得て発展させた施設、独自の展示を生み出した施設など結果がそれぞれ異なっているそうです。うまくいかなかった園に対して、旭山動物園の園長は「情報化社会だから、旭山と同じことをやっても『なにマネをしているんだ』となる。地域性を生かした独自の発想をしていかないといけない」と指摘しています。一方、旭山に感化されて食事風景の公開などを取り入れたいしかわ動物園では、入園数を増やしました。その園長は、「飼育係が心をこめた取り組みこそが大事だとわかった。ソフトがある上で、ハードが整うのが一番です」と話しています。一昨日のブログの最後に書いた「ソフトと環境を交互に演出することが必要だ」ということであり、その環境の中で、「人」という大切な要素を忘れてはいけないことを再認識する経験でした。

投稿者 fujimori : 23:00 | コメント (4)

2007年09月01日 旅先にて

桂の木

 数日前のブログで、怪談について書いていたときに、今の若い人たちは「四谷怪談」とか「番町皿屋敷」など三大怪談といわれている物語を知っているだろうかという疑問を持ちました。私の歳でも、それらの話はいわゆるライブで知っているわけではありません。また、テレビや映画などで再放送するとか、リメイクされた映画も見たとかで知っているわけではありません。知ったのは、親からの話などで伝承されてきたというイメージがあります。他にさしたる娯楽がなかったこともありますが、親の話に聞き入ったものでした。今の若い人が知らないということは、私たちの世代が伝承を途絶えさせたということになります。しかし、だからといって若い人がそれに興味を持つとは限りませんし、伝承する意味もないのかもしれません。伝承が途切れそうな同じような話に、いわゆる昔のメロドラマといわれているものがあります。たとえば、「君の名は」などです。この話は、リメイクされているので、知っている人もいるかもしれません。同じように、最近、ちょっと設定を変えて、松本清張の推理ものの「黒皮の手帳」とか「けものみち」などがリメイクされてはやりました。古いところで、菊池寛の小説の「真珠夫人」なども話題を呼びました。ストーリーが、現代にも通じるものがあるとか、逆にノスタルジー的なものがあったりするからでしょうが、もうひとつ、それらの話を知っていると、いろいろなところに出かけるときに、「ああ、これがそうか!」とか納得することがあります。また、持っている知識が、思わぬところで結びついたり、そこで知ったことを深めることがあります。日本最古の温泉地である別所温泉に行った時に、北向き観音に行ってみました。
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 通常、寺院は南に向いているのですが、この寺院は北に向いていることから北向観音と呼ばれています。どうして北を向いているのかというと、善光寺と向き合っているからとされ、「裏善光寺」と呼ばれることもあります。善光寺が来世の利益、北向観音が現世の利益をもたらすということで善光寺のみの参拝では「片参り」になってしまうと言われています。愛染堂の近くに当地方では稀にみる大きなカツラの木があります。この木は、樹高22m、目通り5.5m、枝張り14mで、見上げてみていると圧倒されそうです。
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 この木は、北向厄除観音の霊木とされていますが、そこの立て札には、こう書かれています。「樹齢1200年の老木で、境内にある愛染堂とこのカツラの木にちなんで川口松太郎が名作「愛染かつら」を書かれたことはあまりにも有名です。若い人たちからは、縁結びの霊木として親しまれている」こう書かれていても「愛染かつら」とは何かを知っている人は少なくなっているでしょうね。ただ、松竹映画「愛染かつら」の主題歌である「旅の夜風」は知っているでしょう。作詞・西條八十、作曲・万城目正、霧島昇とミス・コロムビアが歌い、嵐のような勢いで当時ヒットしました。1番の歌詞は、「花も嵐も 踏み越えて 行くが男の 生きる途 泣いてくれるな ほろほろ鳥よ 月の比叡を 独り行く」というものです。原作は川口松太郎が「婦人倶楽部」に連載した小説です。当時のお決まりである「すれ違い」で、読者ははらはらしたものですが、今は、携帯電話で連絡を取りあえばすむので、イライラするでしょうね。1番の歌詞は、主人公の津村浩三が愛人の看護婦高石かつ枝と別れて京都へ行ったときの心境を花も嵐も踏み越えて雄々しく生きる男の人生にたとえてはみたものの、寂しい心情は隠し切れない思いを西條八十は、哀しい声を鳥の声にしようと「ほろほろ鳥」を出したのですが、京都には「ほろほろ鳥」がいないという物議をかもしたものです。

投稿者 fujimori : 21:20 | コメント (2)

2007年08月20日 旅先にて

風林火山

 先日の新宿区報に、新宿区長さんが、8月4日の伊那市の夏を彩る最大のイベント「伊那まつり」に参加したことが掲載されていました。この祭りのオープニングで、「武田軍来撃伊那九将参陣」の仮装をしてパレードをしたのですが、区長さんは、諏訪の「由布姫」の仮装をして歩きました。今、NHK大河ドラマの「風林火山」の中の由布姫が中心人物の一人として描かれています。どうして、区長さんが由布姫に扮したかというと、以前のブログで書きましたが、内藤新宿の縁で友好提携都市として交流を重ねてきた高遠町が、昨年3月伊那市と合併したことにより、新たに新伊那市と広がりを持った交流をすすめているのです。私も、毎年、妻と出かけるときのテーマのひとつにNHKの大河ドラマにゆかりの地を訪ねるということをしています。昨年は、山内一豊つながりでしたが、今年は、山本勘助つながりの地を訪ねています。昨年、高遠を訪れたときはそれを意識したわけではありませんでしたが、この地は、新宿とのつながりだけではなく、それ以前に山本勘助としてのつながりも強い地です。もともと高遠は諏訪一族の高遠氏が治めていましたが、高遠氏は諏訪家当主の座をねらい、信玄と結んで諏訪氏を滅ぼします。しかし、諏訪の領有をめぐり、今度は高遠と武田が対立し、信玄は杖突峠を越えて高遠に攻め入り、高遠氏は自ら城を出て行き、高遠は信玄の領地となります。高遠城を奪った後、武田信玄は高遠城を伊那地方への進出の拠点とするため、山本勘助、秋山信友に命じて大規模な改築を行い、秋山信友らを城主とします。1562年には諏訪勝頼が城主となりますが、信玄は勝頼を自分の後継者として躑躅ヶ崎館に置き、実弟の武田信廉を城主とします。
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この、よくテレビでも登場しますが、その跡には、武田神社が建てられています。
ここも訪れてみました。帰りには、信玄の墓所にも寄って、墓参りをしました。
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しかし、NHK大河ドラマの撮影に使われている躑躅ヶ崎館は、山梨北部の北杜市にある「風林火山館」で、ここにも行ってみました。
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そこには主殿や大手門、櫓や厩などがつくられていますが、やはり迫力には欠けます。話はそれましたが、信玄の死後9年、高遠城は織田信長の大軍に攻め落とされ、武田家が滅びます。ところで由布姫は、諏訪頼重の娘で、武田信玄の側室、のちに武田氏の継承者となる四男・武田勝頼の母親ですが、史実の中では実名は不明とされ、「諏訪御料人」と呼ばれていました。それを、大河ドラマ「風林火山」の原作でもある井上靖の小説では「由布姫(ゆうひめ)」、また、大河ドラマ「武田信玄」の原作でもある新田次郎の小説では「湖衣姫(こいひめ)」と呼ばれています。「由布姫」と命名したのは、井上靖が「風林火山」を大分の由布院で執筆していたからといわれていますし、「湖衣姫」は諏訪湖をイメージしているといわれています。諏訪湖にその像が建っています。
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亡くなったのは早く、弘治元年とも、天文23年(1554年)とも言われています。墓所は長野県伊那市高遠町の高遠城の側にある建福寺にあり、由布姫のものと伝わる位牌が安置されています。長野県岡谷市の小坂観音院にある墓は、井上靖の『風林火山』で由布姫が過ごしそこで死去したという設定により、現代になってから建てられた物だそうです。歴史小説は、史実として読むよりも、ひとつのロマンとして感じるものです。そして、その歴史上の人物の生き方から、さまざまな人生を感じ、自分としての生き方を見直すきっかけともなりますね。

投稿者 fujimori : 23:30 | コメント (3)

2007年08月10日 旅先にて

榛名山

 夏は、普段では出来ないいろいろな体験が出来ます。私の子どもたちは、もう就職をしていて、自立していますので、夏だからといって特別にどこかにいくとか、何か特別なことをするとかはありません。しかし、いろいろなことを夏になると思い出します。今日、訪れた保育園の見学のあと、車で「榛名山」に連れて行ってもらいました。私は、両親の出身地は長野県の諏訪や岡谷ですので、夏になって訪れる場所はどうしても中央線沿線が多くなります。ですから、榛名山は初めてでした。榛名山は、ある、特徴のある山で、標高はどのくらいあるのだろうと思っていたのですが、訪れてはじめて知ったのですが、榛名山とは、ひとつの山の名前ではなく、榛名冨士、掃部(かもん)ヶ岳、烏帽子(えぼし)ヶ岳、天目山等から構成される山々の総称です。それら榛名山は標高1,449mで、赤城山、妙義山と共に、上毛三山の一つに数えられる、古来山岳信仰を受けてきた名山です。その美しい山並みに囲まれて標高1,100m付近にカルデラ湖である榛名湖があります。そして、中央火口丘の榛名富士(標高1390.3m)は、6世紀前半に約30年の間隔を空けて大きな噴火をしたと見られています。この榛名湖と榛名冨士の構図はとても美しく、思わず写真を撮りたくなります。
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 榛名山の山並みの形からいろいろな民話が生まれています。そして、山の民話は、富士山との関係が多いようです。山梨の八ヶ岳には、こんな民話があります。「富士山は女の神様で、たいそう威張ることが好きでした。いつも、自分が日本一高い山だと自慢をしていましたが、八ヶ岳の男の神様が、いや、自分が日本一高い山だと言い張って一歩も引きません。ですから、阿弥陀如来様が、神様同士が争いをするのは困ったものだということで、お互いの山頂に長いトイをかけて水を流し、高いほうを決めようとしました。結果、水は富士山の方に流れていき、富士山が低いことがはっきりしました。負けず嫌いの女の神様である富士山は怒って、いきなりありったけの力で八ヶ岳山をけとばしました。そのために、八ヶ岳は八つに裂けて、富士山より低くなりました。」というものです。また、山とか沼などは、日本の各地で伝承される伝説の巨人であるダイダラボッチに関する伝説が存在します。「富士山を作るため、甲州の土をとって土盛りした。そのため甲州は盆地になった。」とか、「上州の赤城山に腰掛けて踏ん張ったときに窪んで出来た足跡が水たまりになった。木部の赤沼がそれである。」とかありますが、この榛名山には、こんな民話があります。「上州の榛名富士を土盛りして作った。掘った後は榛名湖となった。榛名富士が富士山より低いのは、もう少し土を運ぼうとしたが夜が明け、途中でやめたためである。」とか「榛名山に腰掛けて、利根川で脛を洗った(ふんどしを洗ったという説もある)。」とか、「富士山、浅間山、榛名山を競争で作り、あと一息というところで富士山のダイダラボッチが勝った。」というものです。今日訪れた榛名山のふもとの「ユウスゲの道」には、ニッコウキスゲの仲間である「ユウスゲ」(ユリ科)が咲いていました。
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 この花は、ユリに似た淡黄色の筒状花が横向きに咲き、夕方開き翌朝しぼむことから「ユウスゲ」といいます。また、その道の両脇には、「ソバナ」とか、「ホタルブクロ」とか、「マツムシソウ」「オオバギボウシ」などが咲いていて、暑い東京を一時離れて、涼しい風の中、高原の空気を味わうことが出来ました。
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投稿者 fujimori : 20:39 | コメント (4)

2007年07月23日 旅先にて

上諏訪

 今、「リーダーシップとは何か」という原稿を書いていますが、リーダーとして必要な要素はたくさんあるので、どのように書けばよいか、なにを重点とすればよいか迷うことが多く、締切日がだいぶ過ぎているのに、なかなかペンが進みません。そのリーダーとしての資質として、こんなことを書きました。「外部に目を向けることによって、機会を見出すことが必要になってきます。このために、広い視野を持ち、常に新しい情報を得、それに対応する柔軟性と活力を持たなければなりません。そして、この変化する社会に対して、それに翻弄されないような確固たる理念と、守らなければならない使命を持たなければならないのです。この広い視野と、確固たる理念を持っていることで、職員の意見、提案を聞く力がリーダーに備わってきます。その聞く力が、職員のいろいろな発想、提案がしやすくなる環境が備わってきます。そして、そのなかから真理を見出し、その真理から実行すべき具体的な行動を見つけることが必要になってきます。そして、よいと思ったことを実行するための行動力が必要になってきます。」このことが感じられることに、こんな実践があります。中央本線の上諏訪駅の1番線ホームの一角には、岩の塊がごろごろしています。そしてそこには、暖簾や看板があり、湯煙が立っています。そこには、『足湯』と書かれています。
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 かつては、ここに露天風呂がありました。駅の敷地内に温泉が湧き出ているわけではないのですが、国鉄時代の昭和61年8月に、長野鉄道管理局の「一駅一名物」キャンペーンの一環で、お湯をホームまで引いてきて露天風呂を作ったのでした。この露天風呂、日本で唯一駅のホームにある露天風呂として有名となり、鉄道ファンのみならず観光客も大勢訪れ、一躍観光名所となりました。入り口は、売店の脇から入るようになっており、女性用と男性用と別れていました。窓口で石鹸を買うと、そこには、キップの型が押されていました。この露天風呂見るたびに思うことがありました。それは、作るようになったいきさつです。たぶん、「一駅一名物」のキャンペーンで、上諏訪駅になにを作ろうという会議をしたときに、「上諏訪は温泉が有名なので、ホームに露天風呂なんかどうだろうか」という意見が出たことにまず感心します。どう考えても、この意見を出したときには冗談半分だったような気がします。風呂ならわかるのですが、ホームに露天風呂ですから。しかし、こんな意見はもしかしたら出るかもしれないとは思います。しかし、すごいなあと思えるのは、それをやろうと決断した上司のような気がします。普通であれば、一笑に付されてしまいそうです。その露天風呂が2002年7月に改修され、足湯として生まれ変わっているのです。
もうひとつ、この上諏訪には有名な温泉として、「片倉館」があります。
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 これは、諏訪を拠点する世界最大の製糸家、片倉財閥の二代目片倉兼太郎が、住民や工員の福利厚生のために建てたクアハウスです。片倉は大正11年から12年にかけて世界一周旅行を行った際、欧米諸国での地域住民に対する文化福祉施設の充実ぶりに感嘆し、このような施設をぜひ諏訪にもと財団法人片倉館を設立し、昭和3年に建てられました。この中の千人風呂は大理石の広い深い風呂で.子どもなら立って入れます。また、湯槽の底の玉砂利が敷き詰めてあり、足裏のつぼを刺激します。リーダーとは、地域住民、職員に感謝し、大切にする心も必要です。

投稿者 fujimori : 23:15 | コメント (3)

2007年05月10日 旅先にて

石造物

 私にとって歴史の中でもっともミステリアスなものは「邪馬台国」です。そして、つぎに興味をそそるものが奈良における奇妙な石造物です。このGWに妻と二人で行った飛鳥訪問の目的のひとつに、この石造物めぐりがありました。のどかな景観が広がる飛鳥は、飛鳥川沿いにレンゲ畑のピンクに染まっていました。このあたりは、600年少し前に推古天皇が即位して以来、さまざまな政権争いが起き、激動の舞台となった地です。今は、そんな気配も残っていず、一面に広がる田園風景ですが、そこに点在する石造物は、想像力を掻き立てます。まず、橿原神宮前駅から、直接バスで、目的地へ直行しました。教科書で見てから、その圧倒的なボリューム感に感動し、一度見たいと思いつつ、なぜかその機会がなかったのが、今回長年の思いが実現しました。近づくにつれて徐々にその姿を現してきました。
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 巨石を積み上げたその姿は、「石舞台古墳」です。蘇我馬子の墓というのが定説になっています。最大級の石は77tもの重さがあると言われ、それらの巨石で囲まれた玄室は、長さ7.5m、幅3.4m、高さ7.7mもあります。今は、小高い丘の上に石が積み上げられたという様相ですが、実は、一辺50mの方墳で、その石の上部の封土が失われて石室が露出したものです。ブログで書いた「土舞台」のように舞台と着いているのは、狐が女に化けてこの上で舞を見せたからとか、旅芸人が芸を見せたという説があります。
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 そこから駅に向かって歩き始めました。歩いていく横を、レンタサイクルに乗った家族が通過していきます。自転車を借りるか迷ったのですが、結局歩くことにしました。まず訪れたのが、「酒船石」です。
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 これも、以前から一度見たいと思っていたものです。これは、教科書ではなく、新聞に連載された松本清張「火の路」がテレビドラマ化されたものを見て、興味を持ったのです。この小説は、古代史上最大の謎のひとつである飛鳥の石造物の解明に挑んでいます。数ある石造物は、女帝、斉明天皇の治世に突然現れ、そして消えていったことまでは大方判明していますが、毎年のように考古学的な大発見のある飛鳥でも、石造物の性格はいまだに結論を見ていません。清張氏の分身たる、主人公の大学助手の女性は、ペルシャのゾロアスター教(拝火教)のニオイを感じ取り、海を越えてイランにまで飛びますが、結局、明確にゾロアスター教へつながる証拠は見つかりませんが、飛鳥とペルシャを結びつけた国際的な大局観は大きなスケールを感じます。酒船石の発見からの30年の間に、丘陵の中腹から石垣が見つかり、ふもとには7年前の発掘で亀形石造物と小判形石造物亀の形をした石造物が出土しましたが、その新発見によってかえって謎は深まるばかりです。
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 酒造りに使われたとか、祭祀施設であるとか、庭園の流水設備などの諸説があります。そこから20分くらい歩くと「二面石」があります。それは、聖徳太子生誕の地「橘寺」の太子堂横にあり、左右に顔が刻まれていて、善悪の二つの顔を表していると言われます。その他境内には日月星の光を放った「三光石」も在ります。
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 この寺を出て少し行くと「亀石」と言う亀が笑っているように見える巨石があります。この石は今は南西を向いていますが、西を向くと奈良盆地は大洪水に見舞われるという伝説があります。そのほかにも平べったい形の「鬼の俎(まないた)」とか、真ん中が空洞になった「鬼の雪隠」があるのですが、わたしたちは、今日修復のために移動された「高松塚古墳」に急いだのでした。本物は密閉されているのですが、その鉄の壁の向こうにあると思うだけでワクワクしました。
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投稿者 fujimori : 22:49 | コメント (2)

2007年05月09日 旅先にて

豊聡耳

 最近の小学生の傾向を、ベテランの1年生の担任に聞いたことがあります。お帰りの会のときに、「明日の持ち物は何々です。」といった後、さよならをすると、昔の子どもたちは急いでわれ先にと教室から飛び出していった。ところが最近、何人かの子どもたちは急いで教卓のところに走りよってきて、「ねえ、ねえ先生、明日何を持って来るの?」と聞くといいます。どうもみんなに言ってもダメなようで、自分だけに言って欲しがるそうです。少子社会では、家庭で親はわが子一人を相手にいつも指示しているからのようです。同じように子どもが話すときも、それぞれ一人ひとりが教師と話したがります。人と話をしていても、「聞いて!聞いて!」とせがみます。これでは、いくつ耳があっても足りません。教師は、「豊聡耳」を持っていないといけないのかもしれません。この耳は、こんな耳です。厩戸皇子がある時、人々の請願を聞く機会がありました。我先にと口を開いた請願者の数は10人にも上りましたが、皇子は全ての人が発した言葉を漏らさず理解し、的確な答えを返したと言います。この皇子の聡明さを讃えて、これ以降、皇子は豊聡耳(とよとみみ)とも呼ばれるようになりました。一度に何人もの人から発せられた言葉を理解するようなゲームがあったり、何人も同時に発せられた言葉を理解しようとすると脳のトレーニングになると言われていますが、この豊聡耳はそうではなく、10人が太子に順番に相談し、10人全ての話を聞いた後それぞれに的確な助言を残した、つまり記憶力が優れていた、という説が有力なようです。厩戸皇子とは、もちろん「聖徳太子」のことです。
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桜井 平等寺 聖徳太子立像
「聖徳太子」は太子の死後に贈られた諡号で,生前は廐戸皇子あるいは上宮太子とよばれていました。この聖徳太子にまつわる伝説はさまざまあります。特に出生の伝説は、宗教的な意図も加わって興味深いものが多いですね。厩戸皇子という名前にしても「厩の前で生まれた」という説もありますし、「母の間人皇女は救世観音が胎内に入り、皇子を身籠もった」などは、どこかで聞いたような話ですね。「記紀編纂当時既に中国に伝来していた景教(キリスト教のネストリウス派)の福音書の内容などが日本に伝わり、その中からイエス・キリスト誕生の逸話が貴種出生譚として聖徳太子伝説に借用された」との可能性を唱える研究者もいるくらいです。もっと空想をたくましくして言われているのは、古代イスラエル民族と直接に関連するという日ユ同祖論を唱える極端な仮説も存在しています。しかし一般的には、当時の国際色豊かな中国の思想・文化が流入した影響と見なす説が主流です。ちなみに出生の西暦574年の干支は甲午(きのえうま)でいわゆる午年であるし、また古代中国にも観音や神仙により受胎するというモチーフが成立し得たと考えられています(イエスよりさらに昔の釈迦出生の際の逸話にも似ています)。太子生誕の地であるとされる橘寺に行ってみました。
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生まれたときに、片手に小豆ほどの仏舎利(ブッタの遺骨)が握られていたとか、2歳のときに東に向かって「南無仏」と唱えた(興福寺のその2歳児のころの立像があります)と言うのも、なんだかどこかで聞いたような逸話ですね。聖徳太子は実は実在しなかったと言うような極端な説まであります。これらの逸話が生まれたのには、それだけ聖徳太子の影響力が大きかったからでしょう。飛鳥を歩いていると、歴史とは、覚えるものではなく、ミステリアスなドキドキするものだということを再認識します。

投稿者 fujimori : 23:54 | コメント (3)

2007年05月07日 旅先にて

はじめて物語2

 歴史は真実とはだいぶ異なります。「誰が見たのか?」ではありませんが、誰も見たことがないものを、残っている資料や遺跡から推測するしかないのです。ですから、考古学はよく天文学に似ていると言われることがあります。それは、どちらも「ロマン」だからです。ですから、ただ年号だけを覚えることは余り意味がないのです。その歴史の中で、原始時代は、さまざま遺跡から推測しますが、古代時代と呼ばれる時代は、主に日本書記や古事記から推測します。その後の時代も、残されているさまざまな書物や絵巻から知ることができます。しかし、これらは、多分に伝説的なこと、信仰的な要素が含まれるので、見方が偏りますし、ある意図を強く持ったものが多いので真実から遠ざかることがあります。しかし、逆に、その説話や言い伝えを知ることによって、その時代が伝えたかったこと、人間の心理に近づいた事柄などを知ることができます。このGWの間に訪れた飛鳥地方は、そういう意味で、とても面白く見学できました。昨日のブログで書きましたが、日本に初めて仏教が伝来したのは、奈良県桜井市であることを知ったのですが、この桜井市には、ほかにも「日本に初めて」の足跡が数多く残されています。JR・近鉄桜井駅から南へ、約700~800mほどにある桜井小学校の西側にある小高い丘は「土舞台」と呼ばれています。
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 そこが、日本最初の国立劇場があった場所として、日本芸能発祥の地になっています。「土舞台」については「日本書紀」に書かれています。当時、推古天皇のもとで摂政として政治の中枢にいた聖徳太子に、百済人味摩之が我が国に帰化して、「呉に学びて、伎楽の舞を得ました」と申し上げました。聖徳太子は、仏教の厚い信奉者としても有名ですが、彼はその仏教を国内に広めるためには音楽が必要であると考えます。そこで太子はこの伎楽を仏寺の祭楽にしようと考え、ここ大和の桜井というところで、少年たちにこの音楽を習わせました。この少年たちは、日本で初めて音楽を職業とした人たちだと言われています。
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 聖徳太子の奨励などによって伎楽は寺院楽としてその地位を高めていきます。伎楽の教習者には課税免除の措置がとられるなど、官の保護もありました。『延喜式』によると法隆寺をはじめ、大安寺、東大寺、西大寺などに伎楽を上演する一団がおかれていたようです。伎楽とはインド、チベットの仮面劇のことで、面をつけた踊りとともに野外で演じられる舞踊の音楽のことです。伎楽は、呉楽(クレノウタマイ)とも呼ばれ、西域をへて中国に伝わり、「散楽」と言われました。それまで日本には「神楽」がありましたがこの時以来、宮廷に伎楽が加わって日本の芸能はバラエティ豊かなものになりました。主に仏教行事に演じられましたが、外国の使節におもてなしをするときにも演じられていました。伎楽で使われた面や衣装などは今でも正倉院に保存されています。その後、衰えながらも江戸時代までは残っていたようです。呉に学んで伎楽を舞ったということで「呉楽」と言われてきましたが、これが「娯楽」の語源です。これを舞うこと、見ることが、当時の「楽しみ」だったのでしょう。聖徳太子が住んでいた上之宮から「土舞台」へ、伎楽の伝習を見るために通った石橋をうたった旋頭歌が『万葉集』に出ています。「はしだての椋橋川の石の橋はも栄えたる君が渡しし石の橋はも」聖徳太子は、免税措置までして、少年たちに習わせ、心配で見に行っていたというのは、ずいぶんと力の入れようが強いことがわかります。

投稿者 fujimori : 23:57 | コメント (3)

2007年05月06日 旅先にて

はじめて物語1

 よく私が講演に使う「ネタ」ですが、「鎌倉幕府が成立したのは、何年ですか?」という問いに対して、年配者はほとんど即座にこう答えます。「“いい国つくろう鎌倉幕府”ということで、1192年です。」このように年号を、ひとつの文章に読み込んで覚えたものです。それらのいくつかは今でも覚えていますが、その中に、「ほっとけ、ほっとけ ごみやさん」ということで、仏教伝来が、538年であるというのがあります。しかし、この覚え方の怖いのは、年号は覚えていますが、それは誰がどうした時かとかいうような肝心なことは覚えていません。まあ、仏教伝来はどうやって行われたかということも、知らなくてもどうということもありませんが。ただ、いろいろなところに旅をして、それを知ったとき、教科書で覚えたのとは違って、昔をしのび、考え深いものがあります。今年のGWには、そんな地を訪ねてみました。中学校の教科書で習った「仏教伝来」の地に実際に立ってみると、感動を覚えます。奈良県桜井市金屋の河川敷を少し歩いてみました。このあたりは、昔、大陸からの船が大阪(難波津)から大和川をさかのぼって到着する船着場があった場所で、諸国や外国から多くの遣いや物資が上陸したと伝えられています。欽明天皇の時代に、百済からの使節も川をさかのぼり、この地に上陸し、仏教を伝えたと言われています。現在、その場所には金屋河川敷公園が整備され、「佛教伝来之地」の碑が建てられています。
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それまで日本人は八万神を信仰していました。しかし、仏教の教えが、百済の聖明王の使いで訪れた使者が欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典,仏具などを献上したときに一緒に伝えられました。外国から来た神として、その信仰はまず貴族など上流階級の人々の間に広まっていきました。『日本書紀』によると、欽明天皇は、「いままでにこのような教えは聞いたことがない。」と喜んで大臣たちに仏教を受け入れるかどうかを尋ねました。このとき大臣のひとりの蘇我稲目は「大陸の優れた文化であり,西方の国々が礼拝している仏教を受け入れるべきである。」と答えたといいます。それに対して、物部尾輿、中臣鎌子は、「外国の神を受け入れれば,日本古来の「神(国つ神)」が怒る。」と仏教に反対し,徹底的に排除するべきと主張しました。そこで天皇は、仏像を蘇我稲目に授けて、ためしに礼拝することを許しましたが、仏教をめぐって蘇我氏と物部氏は対立することになります。この争いが、当時の政界を二分する主導権争いは、587年に蘇我馬子らによって物部守屋が殺され、物部氏が滅ぼされて決着がつきます。権力闘争に勝利した蘇我馬子や聖徳太子は,「仏法興隆」をめざし,その後本格的な寺院建設を行っていきます。今回訪れてみた法興寺は我が国最初の本格的な伽藍配置の寺院として蘇我氏によって建立されました。法興寺の「興」は法をおこすの意味をもち、現在は飛鳥寺として明日香村にあります。
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飛鳥寺は日本で最初の瓦葺き寺院でもありました。掘っ立て柱の板葺き建物しか見ていない人々にとっては外国の文化を直接感じるものであったようです。瓦の使用の他にも寺院建築には多くの渡来人の技術が使われています。掘っ立て柱式の建築から石の上に柱を立てる礎石を用いた技法もその一つで,それまでの建築方法が一変しました。
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中学生のころに行った京都・奈良は、そのころ特に興味も何もなかったのですが、しかし、一度は行ったことがあるという経験は、意外と後々よみがえり、深く見ることができるようになるのかもしれません。

投稿者 fujimori : 22:19 | コメント (4)

2007年05月05日 旅先にて

葉の効用

 今日は、「こどもの日」です。先日、園で「子どもの日祭り」を行ったとき、なぜ柏餅を食べるようになったかという紙芝居を子どもたちに見せていました。その話が本当かどうかわかりませんが、内容は、3人きょうだいの末の子が、病気になったのを助けようと兄と姉が山に行って、動物が病のときに用いるといわれているふしぎな植物を探しに出かけます。そして、山で柏の葉を見つけ家に持って帰りますが、人間には硬くて食べられそうもないので、母親は餡を入れた餅を作り、それを柏の葉に包んで食べさせたところ、弟の病気が治ったというものです。この話は、どうもほかでは聞いたことがありませんので、この出展はどうでしょうか。では、どうしてこどもの日に食べるようになったかというと、柏の葉は、新芽が出ないと古い葉が落ちないという特徴があるので、これを「子どもが産まれるまで親は死なない」=「家系が途絶えない」という縁起に結びつけ、「柏の葉」=「子孫繁栄」との意味からのようです。ただ、柏餅の「餡」にはポリフェノールがいっぱいで、葉っぱは 抗菌作用があります。
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 それから、柏餅を食べるときに、とてもよいにおいがします。緑にあふれた森林に入って行くと爽やかな空気が広がり、かすかな香りがします。この香りの正体は、フイトンチッドです。これは主に樹木が作り出して発散する揮発性物質で、主な成分はテルペン類です。このテルペン類を人間が浴びることを森林浴と言います。「病を得たら森へ行け」と言う言葉があるように、フィトンチッドは、人体に対しては有益で私たちの生活に「生活の知恵」として広く有用されています。柏餅や柿の葉寿司はフィトンチッドの抗菌作用や防腐効果を利用したものです。また、同様に、五月の節句の菖蒲湯はフィトンチッドの疲労回復と精神を安らかにする効果を生かしたものです。ということで、今日は、柏餅と、柿の葉寿司を食べました。
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 もうひとつ、今日食べたものがあります。同じように殺菌作用があるものの「笹の葉」で包んだ寿司も食べました。柿の葉寿司は、江戸時代中頃には奈良吉野地方の各家庭の夏祭りのご馳走として作られていたようです。柿の葉は、身の回りに多くあり、香りに癖もなく、丁度包み込み易い大きさ、強さということで使われたそうですが、現代の化学分析では、柿の葉にはタンニンという高血圧を抑える成分が含まれていること、それが食品の保存に有効であること、ビタミン類が豊富に含まれていること等が認められています。笹の葉で包んだ食べ物といえば、新潟名物「笹団子」を思い出しますが、これは柏の葉の変わりに同じ効用のある笹の葉を使ったものといえます。戦国の昔、越後の上杉謙信公が出陣の折、携行保存食として作られたものが、今に伝えられているといわれています。しかし、今日いただいた笹の葉を利用した食べ物は、明日香名物?の「天笹寿司」です。
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 これは、あまごの甘露煮風のものを上に乗せた押し寿司で、柿の葉寿司のようにひとつずつ笹の葉で包んだものです。笹団子ほど笹の香りはしませんでしたが、笹の葉の殺菌作用を利用しての保存にはいいのでしょうね。これらのように、植物の葉を容器代わり、包装紙代わりにしたものはほかにもたくさんあります。それは、まさに体によいだけではなく、環境にやさしいでしょう。昨日のブログではありませんが、もっと昔からの知恵から学ぶべきことも多い気がします。

投稿者 fujimori : 22:31 | コメント (3)

2007年05月04日 旅先にて

座れば牡丹

『立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花』、この言葉はよく耳にしますが、その牡丹の花が、今盛りを迎えています。盛りを少し過ぎた感がありましたが、今日、「長谷寺」の「ぼたんまつり」に行ってきました。期間が4月21日から5月13日ということですので、やはり時期的には少し遅いような気がしましたが、大輪の華やかさの魅力を、まだ放っていました。
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牡丹の花言葉は「気品・風格・恥じらい」です。あの大柄な花から「気品・風格」というイメージは沸くのですが、「恥じらい」は、余り感じない気がします。「立てば芍薬、座れば牡丹」と昔から美人の慣用句として用いられてきた「芍薬」は、真っ直ぐに立ち上がった茎に咲く花が、美人の立ち姿に似ているためです。「歩く姿は百合の花」とは、たぶん、そよ風に揺れる百合の花が歩く美人にたとえられたのでしょう。yuri.JPG
それに対して、「牡丹」は、葉の上にぽってりと座っているように咲くためです。その堂々とした美しさから「風格」という花言葉があるのでしょう。
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この牡丹と芍薬と百合は、どれも、もともとは薬草として珍重されてきました。いずれも婦人病のくすりでした。シャクヤク(生薬名・芍薬=しゃくやく)は冷え性や月経不順・産後の疲労回復、ボタン(牡丹皮=ぼたんぴ)は月経困難や便秘、そしてユリ(百合=びゃくごう)は乳腺炎などのできもののくすりとして利用されてきました。紫式部をはじめ平安時代の女性たちが熱心に参詣した奈良の長谷寺や、一夜にして巨大な曼陀羅図を織り上げた中将姫伝説で知られた当麻寺のように、昔から女性の信仰厚い寺のなかには、さまざまな薬草を植え、女性用のくすりとして使っていたところも少なくありません。現在では、今日訪れた「長谷寺」にしても、当麻寺にしても「ぼたんの寺」として観光名所ともなっています。そうした薬草でもある花の名を上手に織りこみ、「立てば芍薬、座れば牡丹…」と健康な美人のイメージ・コピーをつくった昔の人のセンスには、なかなか卓抜したものがありますが、実際にくすりとして利用されたのは、花よりも、根や茎、葉などの部分でした。その芍薬と、牡丹は、なんとなく似ていますね。しかし、芍薬は、草なので冬になると根を残して枯れてしまい、春になるとまた新芽が出るのに対し、牡丹は、木なのでそのまま越年し、茎から芽が出ます。また、芍薬の葉にはほとんど切れ込みが見られませんが、牡丹の葉先には切れ込みが見られます。白楽天は、牡丹のことを「花咲き 花落つる 二十日なり 」と詠んでいます。このため、廿日草とも呼ばれています。この牡丹は、寺院の天井画や屏風や襖絵などにも好んで描かれています。昨日のブログのたけのこにも、効用はありましたが、その美しさから鑑賞されている植物にも、体にもよい効用を持っているものが多いのですね。いろいろなものを、バランスよく食することは、栄養価だけでなく、視覚的にも、たぶん、嗅覚的にも、人間にとって、意味があることだったのでしょう。それは、誰が発見したということではなく、長い間の経験から来ているものだったのでしょう。もう少し、人間本来が持っているさまざまな感覚を、刺激し、活用することを見直すべきだと思います。先日参加したイタリアのレッジオ市の幼児教育セミナーでも、そんなことを感じました。

投稿者 fujimori : 21:39 | コメント (2)

2007年04月06日 旅先にて

迷路のトイレ

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 コメントにあった、ドイツの迷路になったトイレ
「迷路を抜けてやっとたどり着いたら、人が入っていた!」というときは、間に合いませんね。

投稿者 fujimori : 22:57 | コメント (2)

2006年08月02日 旅先にて

円空

 昨日、「大賀ハス」を見るために新幹線を「岐阜羽島」駅で降りて、タクシーでハス園に向かう途中、道の両脇に広がる一面の水田の中に突然、「円空」の彫刻らしきものが立っていました。円空の彫刻は、荒々しく、野外の田んぼのわきに立っていてもよく似合います。何でそんなところにたっているのか不思議に思い、帰りに駅の反対側に回ってみたところ、駅のロータリーにある看板がたたっていました。そこには、「円空、誕生の地」と書かれています。
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そうなんです。江戸初期の遊行造像僧である「円空」は、美濃国(岐阜県羽島市上中町)の生れだそうです。(一説には、郡上郡美並村ともいわれています)そして、若くして出家し、尾張国(愛知県)師勝村の高田寺で金剛・胎蔵両部の密法を受け、諸国遊行の旅にでます。美濃地方から蝦夷(えぞ)地に渡り、志摩半島、日光、山間僻地にも多くの仏像をのこしています。また、最後にはふたたび美濃・飛騨地方にもどって、晩年の円熟した彫像を刻んでいます。生涯、東日本を遊行し、造像活動をつづけたのです。最後は、関市弥勒寺近くの長良川河畔で入寂します。言い伝えでは、円空は長良川の岸辺に穴を掘らせ、節を抜いた竹を通風筒として立てると穴の中に入り、鉦をたたきながら念仏を唱え、断食して即身成仏をとげたといわれています。円空入定の地には山藤の蔓がからみついた巨木が鬱蒼と立ち、この蔓を切ると血が出ると伝えられています。この円空はなんと、生涯で12万体の造像を発願して,多くの木彫仏を特異な彫法で刻みました。現存作だけでも5000体を数えるそうです。この円空仏は、今でも人々の心を打つ魅力にあふれています。彼の彫刻の顔は、いかめしい不動明王や仁王でさえも、口元に微笑がこめられ、慈愛に満ちています。また、彫り方は、丸木の原材をいくつかに割り,割った面を巧みに生かして、そこに岩肌のような面の構成を生み、造形の簡略化をしています。それは、単に荒削りということではなく、逆に木目や節や割れ目といった、木という素材の魅力をダイナミックに引き出しています。普通の仏像は時間を掛け彫るために仏閣に奉るため、一部のあるところにしか置かれませんでした。ところが、円空仏の簡略化は仏像の量産を可能にし、多くの人々が身近に拝観できる仏像も提供しました。道端に転がっていそうな木の破片を削った、いわゆる「木っ端仏」も円空は多く製作していますが、それらが飢えや疫病や災害に苦しんでいた当時の民衆に安らぎを与えたことでしょう。木の破片から生まれた荒削りな仏像にもかかわらず、その多くは捨てられることなく現在まで大切に受け継がれています。ですから、田んぼの脇に立っていても似合うのですね。
 円空が生きていた時代は、徳川体制が強固になってきた時代です。幕府は、キリシタン禁圧を目的に宗門人別帳という戸口調査をして、各人がどの宗門に属しているかを厳密に記帳しました。さらに僧侶の市井での法談を禁じる命令を出して、行動を大きく制限したのです。こうした状況下で諸国を遊行できたのは、円空が「聖」と呼ばれる下級宗教者だったためです。「聖」は、寺ももたず学識もなく、一所不在の放浪をしながら庶民の要求にこたえる宗教者でした。民衆にとっては、わかりやすい因縁話で生きる道を教えてくれる「聖」こそが高僧でした。円空は仏像を彫ることで、一宿一飯の恵みを受けながら諸国を巡りました。円空は生涯を通じて旅をし、民衆とともに生きたのです。

投稿者 fujimori : 16:17 | コメント (0)

円空

 昨日、「大賀ハス」を見るために新幹線を「岐阜羽島」駅で降りて、タクシーでハス園に向かう途中、道の両脇に広がる一面の水田の中に突然、「円空」の彫刻らしきものが立っていました。円空の彫刻は、荒々しく、野外の田んぼのわきに立っていてもよく似合います。何でそんなところにたっているのか不思議に思い、帰りに駅の反対側に回ってみたところ、駅のロータリーにある看板がたたっていました。そこには、「円空、誕生の地」と書かれています。
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そうなんです。江戸初期の遊行造像僧である「円空」は、美濃国(岐阜県羽島市上中町)の生れだそうです。(一説には、郡上郡美並村ともいわれています)そして、若くして出家し、尾張国(愛知県)師勝村の高田寺で金剛・胎蔵両部の密法を受け、諸国遊行の旅にでます。美濃地方から蝦夷(えぞ)地に渡り、志摩半島、日光、山間僻地にも多くの仏像をのこしています。また、最後にはふたたび美濃・飛騨地方にもどって、晩年の円熟した彫像を刻んでいます。生涯、東日本を遊行し、造像活動をつづけたのです。最後は、関市弥勒寺近くの長良川河畔で入寂します。言い伝えでは、円空は長良川の岸辺に穴を掘らせ、節を抜いた竹を通風筒として立てると穴の中に入り、鉦をたたきながら念仏を唱え、断食して即身成仏をとげたといわれています。円空入定の地には山藤の蔓がからみついた巨木が鬱蒼と立ち、この蔓を切ると血が出ると伝えられています。この円空はなんと、生涯で12万体の造像を発願して,多くの木彫仏を特異な彫法で刻みました。現存作だけでも5000体を数えるそうです。この円空仏は、今でも人々の心を打つ魅力にあふれています。彼の彫刻の顔は、いかめしい不動明王や仁王でさえも、口元に微笑がこめられ、慈愛に満ちています。また、彫り方は、丸木の原材をいくつかに割り,割った面を巧みに生かして、そこに岩肌のような面の構成を生み、造形の簡略化をしています。それは、単に荒削りということではなく、逆に木目や節や割れ目といった、木という素材の魅力をダイナミックに引き出しています。普通の仏像は時間を掛け彫るために仏閣に奉るため、一部のあるところにしか置かれませんでした。ところが、円空仏の簡略化は仏像の量産を可能にし、多くの人々が身近に拝観できる仏像も提供しました。道端に転がっていそうな木の破片を削った、いわゆる「木っ端仏」も円空は多く製作していますが、それらが飢えや疫病や災害に苦しんでいた当時の民衆に安らぎを与えたことでしょう。木の破片から生まれた荒削りな仏像にもかかわらず、その多くは捨てられることなく現在まで大切に受け継がれています。ですから、田んぼの脇に立っていても似合うのですね。
 円空が生きていた時代は、徳川体制が強固になってきた時代です。幕府は、キリシタン禁圧を目的に宗門人別帳という戸口調査をして、各人がどの宗門に属しているかを厳密に記帳しました。さらに僧侶の市井での法談を禁じる命令を出して、行動を大きく制限したのです。こうした状況下で諸国を遊行できたのは、円空が「聖」と呼ばれる下級宗教者だったためです。「聖」は、寺ももたず学識もなく、一所不在の放浪をしながら庶民の要求にこたえる宗教者でした。民衆にとっては、わかりやすい因縁話で生きる道を教えてくれる「聖」こそが高僧でした。円空は仏像を彫ることで、一宿一飯の恵みを受けながら諸国を巡りました。円空は生涯を通じて旅をし、民衆とともに生きたのです。

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2006年08月01日 旅先にて

大賀ハス

 今朝、園に行って私の部屋に入ると、窓からのぞいているものがあります。なにかと思ってみると、りっぱな「ハス」の花です。花が首を長くして、中を覗いているかのようです。
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今年も見事に咲きました。「蓮」はスイレン目ハス科です。以前はスイレン科とされていましたが、現在はハス科として独立しています。モネの絵で有名なスイレン(睡蓮)はスイレン目スイレン科で、和名をヒツジグサ(羊草)といいます。ハスの葉は、水面に浮く「浮き葉」と水面より高く上がる「立ち葉」があり、花は水面より高くそびえて咲きます。園児たちは、そのハスの葉の上に乗っている水の玉にとても興味を示していました。水をはじいて、表面張力で、きれいな球体になっているので、何度もそれをつかもうとするのです。それに対して、スイレンの葉は水をはじきません。また、葉には切れ込みがあります。スイレンの葉が水をはじかなかったり、切れ込みがあるのは、増水時に水に沈みやすくして茎や根に負担をかけない為です。
ハスといえば、「大賀ハス」というのが有名です。1951年(昭和26)、植物学者の大賀一郎博士は、地元の花園中学校の生徒たちと共に遺跡の発掘調査しました。そのとき、中学校女子生徒が、千葉市検見川、地下約6メートルの泥炭層からハスの実1個を発掘しました。1週間後、2個のハスの実を発掘し、発見したハスの実は、合計3粒になりました。それを、大賀博士は、シカゴ大学へ送って年代分析、鑑定を依頼した結果、それらが弥生時代(約2000年前)のものであることが判明したのです。そこで、大賀博士は発見した3粒の発芽を試み、2粒は失敗に終わりましたが、1粒が発芽に成功しました。ピンク色の見事な花(古代ハス)が咲いたのです。これが、千葉県天然記念物に指定され(千葉市の花にもなっています)、「大賀ハス」と呼ばれ「世界最古の花」として、海外でも大きい反響を得たのです。その古代ハスは千葉公園から日本各地をはじめ、世界各国へ根分けされ、友好親善を深めています。
ハスの根を「蓮根(れんこん)」といいますね。(以前のブログで書きました)岐阜県羽島市は蓮根の伝統的生産地です。ですから、昭和54年市制施行25周年と東海道新幹線岐阜羽島駅の開設15周年の記念事業として、千葉市より「大賀ハス」を譲り受けて増殖しました。それが、「大賀ハス園」で、7月のひと月間、ハス祭りが行われていました。
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明日、大阪での講演のための移動の途中で、昨日で祭りは終わってしまったのですが、寄ってみました。夕方ということで、花が閉じてしまったものが多かったのですが、いくつか見ることができました。今年は、ちょっと涼しい夏ですが、少しずつ薄暗くなっていく空の下、弥生人も観ていたかもしれない薄紅色のハスの花の間を歩いていると、なんだか古代の夢とロマンを感じます。今朝、ちょうど園のハスの花を見てきたばかりです。美しさは、ちょうど花盛りということもあって、園のほうがきれいかもしれません。しかし、そのもののなかにある美しさは、見るのではなく、感じるものであり、また、思いをめぐらすものかもしれません。

投稿者 fujimori : 19:31 | コメント (1)

2006年07月28日 旅先にて

キリンとアサヒ

 私は、以前のブログにも書きましたが、あまりビールには詳しくないので、レストランなどでビールを注文するときに「アサヒにしますか?それともキリンにしますか?」と聞かれると困ります。どちらがどんな味なのかよくわからないので、はっきりした好みがないからです。世の中の人は、わかっているのでしょうね。2001年に48年間続いたシェア第1位の座がキリンからアサヒに代わったことにびっくりしました。ずっと、キリンでしたから。アサヒに代わったのは、「スーパードライ」の発売です。ひとつのヒット商品が、長い間の常識をも覆すほど、時代を変えてしまうものだと感心したものでした。しかし、こうしたヒット商品は、逆にその後のさまざまな弊害になることがあります。その成功のために、新たな挑戦をする勇気がなくなってしまうからです。安定の中から、失うものがあるのが怖いのです。少しずつそれが減ってきても、また、時代が新しくなっても、その栄光にしがみついてしまうのです。ビール界も今、大きな変化をしています。発泡酒、第3のビールと、新ジャンルが産まれているのです。アサヒは、スーパードライという大ヒット商品があるせいで、この新しいジャンルへの開発が遅れたようです。今年の上半期で、5年ぶりにビール系飲料のシェアで、キリンがまた首位になりました。このことに、新本部長は、「アサヒの企業体質を変えろというメッセージだと感じた」と言っています。同様に、キリンがアサヒに1位の座を奪われたときに、商品開発、生産、販売、組織のあらゆる面からの顧客本位の製品を開発する体制作りに取り組みました。さらに少子高齢化、若年層のビール離れをいち早く察知し、「ローアルコール・ビバレッジ市場」の開拓に成功しています。どんなことに関しても、時代が動き、その時代の求めるものが変わってきます。それをいち早く察知し、改革をしていかなければ、気がついたときには、誰も見向きもしなくなってしまっています。
 キリンビールといえば、最近行った長崎で知ったことがあります。麒麟(きりん)とは中国の伝説上の動物で、鳥類の長である鳳凰と並んで、獣類の長とされています。オスの麒麟を麒(き)、メスの麒麟を麟(りん)と呼びます。日本が幕末維新の激動期を抜け、安定した成長期に入った1888(明治21)年、一つのビールが市場に登場しました。ドイツ風ラガービールで、ラベルにはこの麒麟が描かれていました。この霊獣の名を冠し、「キリンビール」と銘打たれたこの商品は、各地で大変な好評を博したのです。この「キリンビール」発売に深く関わった外国人が、今回も訪れた、長崎の観光名所「グラバー邸」にその名を残すT.B.グラバーです。グラバーというと、幕末に坂本龍馬や西郷隆盛らと幕府転覆に奔走した商人としても知られています。しかし維新後にも、炭坑の開発や三菱の事業拡大など、日本産業界の発展に大きな足跡を残しました。そして、長年にわたる日本滞在の中で、日本人がビールを好むことも、日本の風土や生活文化にはきっとビールが普及する素地があると信じ、ビール産業界に参入を試みます。そして、ラベルの「麒麟」は、グラバーの提案により採用され、現在の「キリンラガービール」のラベルの原型となるデザインが完成しています。
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「この彫刻(こま犬)は今のキリンビール社のラベルのもとになったものであり、また、ラベルの「麒麟」に太い口ひげが描かれているのは、キリンビール社の前身であるジャパン・ブルワリー・カンパニーの社長を勤めたグラバーの口ひげをもとにしたといわれている。」(グラバー亭のなかにある案内板から)

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2006年07月21日 旅先にて

長崎の坂

 長崎といえば、坂の町のイメージがあります。吉田松陰が21才のとき、平戸藩の葉山鎧軒に儒学を、山鹿高紹から山鹿兵学を学ぶため、50余日間平戸に遊学しました。その際に、半坂峠(佐世保~佐々)を越えていきました。そのときのことをこう記しています。「この日の艱難(かんなん)実に遺忘すべからず。一には八里の間、皆山坂険阻(けんそ)の地なり・・・三は独行クク、呼びて応うるものなし、唱えて和するものなし。四は新泥滑々、行歩遅渋す。五は・・・」(西遊日記)。坂や峠は艱難のごほうびに、時にはすばらしい景色や、心の中にさわやかな風を運んでくれます。このように、長崎は間違いなく日本一の坂の町です。それは、データでもわかります。斜度5度を越える斜面面積比率が、長崎市は80%に達しているのです。ちなみに同じように坂の多い町として知られる神戸市は30%弱です。10度以上の急傾斜地が46.9%、14度以上が19.6%もあります。印象だけでなく、確かに多いですね。長崎の宿泊先の近くに「オランダ坂」があります。
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 先日行った長崎で、友人の案内による「長崎さるく」の始めは、この坂を登ることから始まりました。オランダ坂とは、一般的に梅ヶ崎の「切り通し」~活水大学前~大浦石橋とのあいだの坂道を呼んでいます。日曜ごとに沢山の外国人がこの道を通り教会に行ったので、この坂道がオランダ坂と呼ばれるようになったといいます。この坂と同じ石畳の東山手洋館群前の坂は、とても急です。ですから、自転車通行禁止だそうです。坂の多い長崎では、自転車はほとんど見かけません。長崎では、自転車通勤や通学風景がありませんし、長崎市内の学校で「自転車置き場」のある学校はありません。週刊ダイヤモンド(97/6/7号)によると、全国平均の一世帯当たり年間自転車購入金額は3591円であるのにたいして、長崎市ではわずか932円で、全国47都道府県庁所在市中、圧倒的に最下位だそうです。借家などの不動産物件の案内でも、「車庫付き」という表示のほかに、「車横付け」(車が行けるという意味です)とか「車不可」などの表現が使われます。たとえば、愛宕山手自治会(愛宕一丁目の一部)の98所帯中、横付け出来るのは、2所帯だそうです。ここを歩いていると、この場所で家を建てるときに資材を運ぶのは、大変だろうと思います。昔は、すべて人夫さんがかついで運んでいたそうです。その後、馬も手伝います。馬はまだまだ現役で活躍しているそうです。最近は、キャタピラ車もつかうそうです。坂は、大変そうに思えますが、意外と長崎は「住みやすい町」だとよく言われます。しかもその理由に「階段の多い坂道、狭い路地、斜面の地形に密集した家屋にある。」といわれます。建築家の黒川紀章氏は、「気分のいい人たちと一緒に住める街、ほどほどに助け合ってつき合える街、歩いて気分のよい雰囲気のある街」という快適で安全に住める条件を備えているといいます。また、「坂の上」に住む主婦は、「平地」に住む主婦に比べて、心臓や肺の機能が優れているという結果も出ているそうですし、疲れやすいとか肩がこるなどの自覚症状は、圧倒的に少ないことが分かっています。毎日の生活の中で、知らず知らずのうちに坂や階段を上ったりすることは、特別にお金と時間をかけないで、スポーツと同じ効果が得られるからでしょう。
 私からするとハンデと思うような「坂」も、生活の知恵として活用し、そこならではの文化を創っていくというのはすばらしいことです。郊外型大型店舗は、便利と引き換えにコミュニティーを壊しているのかもしれませんね。

投稿者 fujimori : 19:39 | コメント (8)

2006年07月20日 旅先にて

単身赴任

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 「長崎さるく博」のひとつに、「出島タイムスリップ」というのがあります。江戸時代の鎖国政策の中で、西洋に開かれた唯一の窓口として日本の近代化に大きな役割を果たした「出島」の復元整備事業が進んでいます。そこを、ボランティアの人の解説によって歩いてみました。その復元されている建物の中心となるのは、オランダ商館長の住まいだった「カピタン部屋」です。ここの展示品として、カピタン部屋の十五畳の部屋に、1820年代のオランダ商館長を務めたブロムホフとその妻が使用したといわれる青色の長いすが置いてあります。これは、スタッフがオランダを訪れ、現地の出島研究者の協力で当時の物と大きさ、作り、色などが同じ長いすを購入してきたものだそうです。このブロムホフと妻にこんな話があります。
「幕府は、外国人女性の日本渡航を禁止しました。したがって、日本に来航する外国男性は、たとえ既婚でも単身赴任を余儀なくされ、それは、安政3年(1856)の日蘭条約書追加で妻子同伴が認められるまで続きます。このような制度のもとでは、たとえ家族連れで来日しても、強制的に別れさせられることになります。文化14年(1817)に長崎にやって来た新任の商館長コック・ブロムホフは、妻子と乳母、それに召使を同伴していました。しかし、幕府は、断固認めません。その妻が病弱であったため、コック・ブロムホフと旧商館長ドゥフが懸命に嘆願しましたが、幕府は妻子の出島滞在を認めず、そのままバタヴィアに帰ることを命じたのです。なぜ、そんなにしてまでも夫婦同伴を認めなかったのでしょうか。どうも、昔から日本では、単身赴任をさせるようです。参勤交代のころは、たぶん、妻子は人質だったからでしょう。しかし、外国では、あまり単身赴任は見られないようです。
 その出島に外国への窓口を移される前は、平戸が窓口でした。そこから、遣唐使も出発したのですが、その遣唐使として唐に行ったなかに、山上憶良がいました。彼は、こんな歌を読んでいます。
「瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ 何処より 来たりしものぞ 眼交(まなかひ)に もとな懸かりて 安眠し寝さぬ」 反歌「銀も 金も玉も 何せむに 勝れる宝 子にしかめやも」
(瓜を食べれば、子どもにも食べさせてやりたいと、子どものことを思い出す。栗を食べればますます子どものことが気にかかってくる。いったい子どもというものは、どこからやってきたのだろう。しきりと目の前に子どもがちらついて、私は、夜もおちおち眠れない。)反歌(銀だとか金だとか真珠だとか、そういったものは自分にとっては何の魅力もない。大切な宝といったら、子どもに勝るものは、ありはしない。)
この歌は、今で言う単身赴任で家族と離れているときの歌ですが、何か美味しいものを一人で口にするとき、こんなものを自分の愛しているものに食べさせてやりたいと思う心は、今もかわることのないものです。「何処より~」というあたりは、床についてからの思いでしょうが、憶良は、四六時中、子どものことを忘れることができなかったのです。彼はかなり貧しかったようで、金銀に対する憧れは人一倍あったはずですが、それでもなお、子どもへの愛情の前には、それらへの執着を蹴散らしているのです。

投稿者 fujimori : 16:53 | コメント (1)

2006年07月18日 旅先にて

飴屋

江戸時代、京都で仏像の彫刻を習っていた男が、そのとき知り合った京都の女性と恋人どうしになりました。しかし、国元から“早く帰って来るように!”という催促に、かならず迎えに来るからと、固く約束して長崎に戻ったのですが、親の決めた婚約者と、結婚してしまいます。京都の恋人は男の言葉を信じて待っていましたが、疑惑の思いは消せず、長崎まで訪ねていきます。苦難を乗り越え、長崎に着いたときに待っていたのは、恋人が自分を裏切ったという事実でした。絶望の淵をさまよい続け、ついに精魂つきはてて、日ならずしてはかなくなってしまったのでした。男は、泣きながら光源寺に葬り、手厚く供養しました。その夜、真っ青な顔をした、若い女が長崎の麹屋[こうじや]町という所にある飴屋の戸を、叩きました。そして、飴を売って欲しいとか細い声で言って、一文銭を差しだしました。それが毎晩続いた7晩めの夜は、おかねを持っていません。飴屋は、毎日やってくる女をあわれに思い、気持ちよく分けてあげました。そして、そっと後を付けてゆくと、大きな寺が八つも並んでいる寺町筋を抜けて八つめの光源寺の前までやってくると、本堂横の暗がりに消えました。そこで翌日、お寺に出かけて和尚さんと一緒に墓にやって来たところ、新しく土盛のしている墓の中から、元気な赤ん坊の泣き声が聞こえました。すると、その墓のなかで、男の子が母親の遺骸の側で飴をしゃぶりながら泣いています。女は棺に入れて貰った、冥土への6文銭を一文ずつ使って、毎日のように赤ん坊に飴を買って与えていたのです。女を捨てた男は、自分は何というむごい仕打ちをしたことかと思い、亡き恋人の絵姿を一心に彫りました。その像が光源寺の寺宝となっている「幽霊さま」の女人像です。また、女が飴屋にお礼と掘る場所を教えたのが、「幽霊井戸」という井戸です。こんな場所を歩くのが、今長崎で行われている「さるく博」です。きのう、その寺町を「さるく」しました。「さるく博」のことは別の日に報告しますが、この話を聞いて、我が家に水飴があるのを思い出しました。それは、掛川に行ったときに買ってきたものです。こちらには、こんないわれがあります。
「その昔、お石という身重の女が小夜の中山に住んでいました。ある日お石がふもとの菊川の里で仕事をして帰る途中、中山の丸石の松の根元で陣痛に見舞われ苦しんでいたのを、通りがかった轟業右衛門という男がしばらく介抱していましたが、お石が金を持っていることを知ると斬り殺して金を奪い逃げ去ってしまいました。その時、お石の傷口から子どもが生まれましたが、お石の魂魄がそばにあった丸石にのりうつり、夜毎に泣きました。里人はおそれ、誰と言うことはなく、その石を『夜泣き石』と言いました。傷口から生まれた子どもは音八と名付けられ、久延寺の和尚に飴で育てられ立派な若者となり大和の国の刃研師の弟子となりました。久延寺の隣にある扇屋は、江戸時代から、夜泣き石にちなんだ『子育て飴』が売られています。ある日、音八は客の持ってきた刀を見て「いい刀だが、刃こぼれしているのが実に残念だ」というと、客は「去る十数年前、小夜の中山の丸石の附近で妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と言ったため、音八はこの客が母の仇と知り、名乗りをあげて恨みをはらしたということです。」曲亭馬琴の『石言遺響』にあります。
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   夜泣き石と飴屋
 母というものは、自分が死んでも子どもを育てようとするものですね。子どもを殺して、自分が生きようとする事件が起きると、悲しくなります。

投稿者 fujimori : 23:22 | コメント (1)

2006年07月17日 旅先にて

初めて物語

 昨日、プライベートで長崎県の「平戸」を歩きました。友人が平戸にいるので、案内してもらいましたが、平戸に行くと言った時、「平戸には何もないのに」と言っていました。もちろんこれは謙遜ですが、もうひとつこういうことが言えます。
「いつも果てのない蒼い大海原の景色を眺めている者はその大きさを知らず。いつも原野の限りないところに住んでいる者はその広さをしらず。それは長い間の事で慣れてしまっているからでる。これは唯、海野のみのことであろうか。」これは、山鹿素行の「中朝事実」の自序(序文)の現代訳の一部です。素行の教えは武士社会に大きな影響をあたえました。忠臣蔵の大石内蔵助ら赤穂藩士へも影響を与えています。また、幕末の吉田松陰も幼い頃より山鹿流兵学を学び、21歳の時、西国遊学で54日間平戸へ滞在し山鹿高紹に入門しています。この書籍は、なんとなく「国家の品格」に似たところがあり、もう一度日本のよさを見直そうというものですが、そうであっても、そこにいると、そこのよさがなかなか解らなくなるということでは、頷くことができます。素行は平戸藩主29代松浦鎮信と同年生まれで、江戸で生涯極めて親交深かったようです。弟、山鹿義行そして後に孫、高道が平戸藩家老に仕官しています。平戸藩は山鹿流兵学を藩学とし平戸城縄張りもそれによるものでした。
ここ平戸は昔より中国大陸や朝鮮との交流の要地でした。遣隋使や遣唐使もここから出発しています。倭寇といって恐れられていた水軍で名高い松浦党は、平安時代末期に誕生し、鎌倉時代以後には平戸を根拠地として私貿易や海賊行為などを行いました。天文19年(1550)には黄金の国ジパングをめざしていたポルトガル船が平戸に入港し、ポルトガルとの貿易が始まり、外国との貿易で栄えた平戸は「西の京」と呼ばれるようになりました。この当時にフランシスコ・ザビエルも鹿児島から平戸にきてキリスト教を布教しています。今、平戸には日本初の南蛮貿易の舞台となった当時の面影を残す遺跡が市内に多く残っています。
 そんな平戸ですから、「日本で初めて」というものがたくさんあります。平戸城に登る途中には、こんな碑があります。
tabako.JPGタバコの伝来
「日本最初 たばこ種子渡来の地」それは、日本に初めてタバコの種をもたらしたのは、1601年平戸に入稿したスペイン人宣教師といわれています。甘藷(さつまいも)は、1615年、ウィリアム・アダムズが貿易のため東南アジアに渡航した時、船の故障で寄港した琉球で甘藷を見つけ、当時の平戸イギリス商館長に贈ったと言われています。そして、彼は現在の千里ヶ浜で日本で初めて甘藷の栽培を行っています。1613年、英国船「グローブ号」が平戸に来航しましたが、長旅の疲れを癒すために積まれていたビールが、その時、船員たちとともに上陸したのが、日本へのビール初伝来と言われています。珍しいところでは、ペンキは、1609年、オランダ商館が平戸に建てられた時、その外観を彩ったのが、日本で最初に使われたペンキでした。当時は、建物に彩色を施す事自体が日本人の目には珍しかったでしょう。また、西洋医学は、長い航海を続ける船員たちの健康管理術として日本にもたらされました。その医学を学んだ嵐山甫庵は、平戸判田家の出身で、西洋医学(蘭学)の先駆者として知られています。また、臨済宗の祖・栄西は、渡宋の帰途、平戸に数カ月滞在し、「冨春庵(ふしゅんあん)」と呼ばれるお堂を拠点に禅宗を広めました。また、中国で入手したお茶の種子を冨春庵の裏山にまき、製茶や喫茶の方法を日本の人々に伝えています。
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    冨春庵

投稿者 fujimori : 22:32 | コメント (3)

2006年07月04日 旅先にて

ハナショウブ

 先日、掛川に行ったときに、掛川城のほかに行くところを探しているときに、とてもきれいなポスターが目に付きました。それは、「加茂花菖蒲園」というところでした。
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 そういえば、梅雨の今のころ、アジサイとショウブがきれいだろうなと思いました。しかし、考えてみると、少しおかしいことに気が付きました。というのは、「ショウブ」といえば、「菖蒲湯」です。5月5日の子どもの日を「端午の節句」といいますが、「菖蒲(ショウブ)の節句」とも呼ばれています。それは、この時期に花を咲かせる菖蒲の長い葉は、強い香気があるので、この香りの強さが不浄を払い、邪気を遠ざけてくれるといわれているので、また「菖蒲(ショウブ)」は、「勝負」や「尚武」に通じることから、江戸時代から男の子の出生を祝って、端午の節句に菖蒲湯に入ることが習慣になったといわれています。ということで、「ショウブ」が今頃咲くというのは、変です。実は、「加茂花菖蒲園」という場所のきるところが違っているのです。この場所は、「加茂花 菖蒲園」ではなく、「加茂 花菖蒲園」なのです。ということは、今の時期に咲いているのは、「ハナショウブ」であって、「ショウブ」とはまったく違う品種です。霊験ありとされる節句のときのショウブは、サトイモ科です。ハナショウブは、アヤメ科です。私たち日本人は、二千年を超える昔から、桜を見て野に下り、耕して籾を播き、ハナショウブの開花で田植えの時期を知って農作に励むといった、鋭い季節感を養ってきました。
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 そういえば、同じアヤメ科といえば、アヤメ、ハナショウブ、カキツバタが有名で、6月の梅雨時の花としてはなくてはならないもので、古く万葉の頃から親しまれてきました。しかし、「いずれがあやめかきつばた」と言われるように、見分けは難しいですね。見分け方は、一番簡単なのは花を見ます。花弁の基部を見ると、アヤメは網目になっています。山野に生えたり、水とは関係ないところ(畑など)にも植えられます。和名は文目といいます。アヤメという名前は、外花被の基部に稜になった目があること,または葉が並列し綾をなすからともいわれています。カキツバタの花は白に黄班が入り、水湿地に群生します。和名は「書き付け花」から「カキツバタ」になったといわれています。ハナショウブは初夏に、水辺など湿った場所に群生します。単にショウブという場合は,たいていハナショウブ(花菖蒲)のことです。花は大きく,色は紫(青紫,赤紫)や白が多いようです。日本各地の「アヤメ園」とか「菖蒲園」というのは殆ど「ハナショウブ園」だと考えられます。
 ここ「加茂花菖蒲園」は、江戸時代中期に建てられた庄屋屋敷「加茂荘」の門前に広がる園です。原野谷川流域の山すそに、残る庄屋の長屋門や土蔵と、花ショウブの映りは絶妙です。紫、藍、白、黄、紅などカラフルな色彩に加え、絞り、ぼかし、筋入りなど多彩でした。園の規模はおよそ1ヘクタールあり、1500品種、100万株が保存栽培されています。ここは、とても手入れも良く、花がきれいに咲き誇っているだけでなく、この大きな花菖蒲園の背景には、歴史ある庄屋屋敷が立っており、その後ろにはどっしりとした杉の森が控え、昔懐かしい山里の雰囲気が、純日本的な別天地を演出しています。少し雨が降っていましたが、それがまた、日本的な情緒をかもし出しています。つくづく、日本って、美しいなあと思う瞬間でした。

投稿者 fujimori : 23:44 | コメント (0)

2006年05月04日 旅先にて

イルフ

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 今日は、長野県岡谷市にある「イルフ童画館(日本童画美術館)」に行ってきました。この岡谷は、童画家である武井武雄の出身地なので、童画のほか、武井武雄の幅広い世界をじっくり堪能することができます。(ちなみに「イルフ」とは、「新しい(フルイの反対)」という意味の武井の造語で、イルフトイスと名付けた玩具の制作も行っていました)。武井は、私たち幼児教育にかかわるものにとっては、とても馴染み深い人です。それは、武井の作品を、単行本として知っているより、「コドモノクニ」や「キンダーブック」、そして展示されていた原画が「チャイルドブックゴールド」に掲載されていたもので、挿絵画家として有名です。武井は、「子どもの心にふれる絵」の創造を目指して、童話の添え物として軽視されていた子ども向けの絵を「童画」と命名し、芸術の域にまで高めたのです。武井の童画は、大胆な構図や幾何学的な描線によって、モダンかつナンセンスな味わいを感じさせ、残された作品はいまもって古びていません。そんな彼は、子どもの時から絵を描くことが好きで、5歳の頃に「エ兆金」と題した豆本の絵本を制作したのです。また、小学校では綴り方に「わたしは絵描きになります」と書いていたほどです。早くから自分の進むべき道が見え、その道に実際に進むことができるのは幸せなことですが、この道に進むと決めたとき、両親はどう反応したでしょうか。また、学校の先生は、どう助言をしたのでしょうか。子ども自身がどう思うかというよりも、それを正しい方向、本当に本人のためになる助言がそのときにできるかが問題なのでしょう。しかし、こんなに才能が現れていれば、誰でも認めざるを得ないかもしれませんね。武井武雄は病弱であった幼少時に、「ミト」という妖精といつも一緒に遊んでいたといいます。「ミトはいつでも思い出しさえすれば、もうそこへ来ていた。しまいには金平糖の芯の処へ来ていて、なめているうちに芥子といっしょにポイと出てきたりなんかした」というのです。このミトこそが、のちに武井が描く空想世界の源となる童話の主人公なのでした。その後、東京美術学校(現東京芸大)に進学し、西洋画科を卒業しました。そして、生活を支えるためのアルバイトのつもりで、「子供之友」や「日本幼年」などの子ども向けの雑誌に絵を描き始めます。そして、しばらくするうちに、子どものために絵を描くということは腰掛けでできるようなことではなく、「男子一生の仕事にしても決して恥ずかしくない立派な仕事」であると思うようになるのでした。
 今日は、企画展として、「武井武雄の科学絵本- 自然のしくみ 地球のふしぎ -」が開催されていましたが、単なる理科の初歩的内容を図解するのではなく、「やがて科学の世界に興味と情熱を持つ素地を養うような絵本」を作ろうと、この分野にも積極的に取組み先駆者的な役割を果たした科学絵本が展示されていました。
 同時企画展が、「かこさとし絵本の世界 ─だるまちゃんがやってくる─」でした。「かこさとし」も東京大学工学部を出て、工学博士ですが、学生時代からセツルメント活動や地域の子ども会の指導などを通して、間近に子どもたちと向き合い、その反応を一つ一つ確かめながら、絵本などの制作にあたってきた人です。専門知識を生かして制作された絵本は、動物や植物といった自然界の仕組みや成り立ちに小さな疑問を抱かせ、子どもたち自身の持つ「考える力」を引き出してくれます。

投稿者 fujimori : 16:30 | コメント (0)

2006年03月27日 旅先にて

桜祭り

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 最近、各地から桜便りが届きますね。私も、少し早いのですが、枝垂桜を見に行ってきました。桜祭りというと、日本だけではなく、アメリカでも各地で行われます。一番有名なのは、首都ワシントンのポトマック河畔に咲き乱れる数千本の桜です。当時東京市長を務めていた尾崎行雄がアメリカに日本の桜を送ろうと活動したので有名ですね。この時のお礼として、アメリカから贈られたのがハナミズキでした。ほかにも、桜祭りのフェスティバルは、シアトルやホノルルでも行われます。シアトル桜祭に、かつて、私の園と園児の写真が展示され、当時のシアトル市長から感謝状をいただいたことがありました。そのいきさつは、面白いきっかけからです。カナダからの帰りの飛行機の中のことでした。当時、私はタバコを吸っていました。その頃は、飛行機の座席は、禁煙席と、喫煙席に分かれていて、機内でタバコを吸うことができました。私がタバコを吸っていると、突然、前の座席の人が振り返って、英語で怒鳴り始めました。私は、何を言っているのか、何を怒っているのかわかりませんでした。途方にくれていると、私の席の隣の人(アメリカの人)が、英語で、その人に向かって話し始めました。すると、突然おとなしくなって、席に座りました。何を言ったのか不思議でしたが、やさしい英語で、説明をしてくれました。私たちの席と、前列の間がちょうど喫煙席と禁煙席の境目だったのです。それが、きっかけでその人と話し始めました。私は、片言の英語でしたが、話題は、日本人の「美意識」についてでした。今考えると、ずいぶん難しい話をしたものです。しかし、なかなか英語が通じません。すると、遠くのほうに座っていた人が近寄ってきました。そして、私の隣の人に日本語で話しかけました。「先生、これから、どちらに行かれるのですか?」はなしかけた人は、アメリカ人です。「えっ、この隣の人は日本語がわかるのだ!」話しかけた人がいなくなってから、何で、あの人は日本語で話しかけたか聞いてみました。すると、あの人は、わざと自分が、日本語をこんなに話せるようになったと自慢したくて、日本語で話しかけたのだと言います。実は、自分も日本語は話せるが、いかにも自慢げなので、英語で話をしたと言いました。ということで、それから先は、日本語での会話です。話は、川端康成が自殺をした話になり、私は、三島由紀夫の自殺から、美意識の象徴が、三島の「憂国」という小説の中にあるような、真っ白い着物のすそのほうから、真っ赤な血がにじみあがってくる美を三島は言いたかったのではないか。そして、私の見解として、同様に日本の美を表現しようとした川端は、最後に日本の切腹に通じる自殺を図ったのではないかということで議論になりました。そして、私は、この美意識は、日本人でなければわからないかもしれないという失礼なことを言いました。しかし、相手の最後の一言で、これはかなわないと脱帽しました。なんと、先方は最後にこういいました。「じつは、私は、川端の自殺の前日に、本人に会って話をしているのです。」これは、かないませんね。そして、今回の日本への行く目的は、能の野村万象に会いに行くのだと言います。そして、私は、園長をしているということになり、園と園児の写真を見せると、「私は、日本では、田園調布のセブンアップアジア総代理店社長の家に滞在しているので、一度、遊びに来ませんか?」ということで訪ね、その写真を、シアトルチェリーブロッサムフェスティバルで展示をすることになったのです。私が、タバコを吸っていて、唯一よかったことでしょうか。

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2006年01月16日 旅先にて

先導花

 今年は、各地で大雪が降り、雪の被害が多いですね。自分で、年を取ったと思う瞬間はいろいろなときにありますが、その一つに、雪が降ることが楽しかったり、うれしかったり思うことから、うんざりし始めたときに年齢を感じました。特に、あまり雪が降らない東京では、雪がふるのは楽しみでした。でも、今回のニュースを見ると、雪の多い地域では、雪は生活に密着していて、一つの自然として存在している観を強くします。ですから、「春を待ち焦がれるという」気持ちが強く沸くのでしょうね。そして、雪の多い自然の中で、春の兆候に敏感になるのでしょう。また、「春の兆し」をさまざまな動植物から感じ、その名前をつけます。有名なところで「春告げ鳥」がありますね。同じように、「春告草」と呼ばれているものがあります。それは、「梅の花」です。そのほかにもこの花は、「好文木」(こうぶんぼく)、「木の花」(このはな)、「風待草」(かぜまちぐさ)などとも呼ばれます。私の園では、毎年「年間のテーマ」があり、子どもたちにそのテーマに沿ってそれに親しんでもらったり、そのことに触れてもらおうというものです。今年のテーマは、「森の木陰でひとやすみ」ということで、「木」がテーマです。そして、年齢ごとにテーマの「木」を持っています。3歳児が「梅」4歳児が「竹」5歳児が「松」で、「松竹梅」になっています。だからと言って、もちろんお酒ではありません。松竹梅は、年の初め、正月のめでたい植物で、冬でも緑を保ち寿命も長いということで平安と長寿を表す「松」、冬でも緑を保ち雪にも折れること無いということで無事を表す「竹」、雪の中でも花をつけるということで生気と華やかさを表す「梅」という意味があります。『広辞苑』によると、「松と竹と梅。三つとも寒に堪えるので、中国では「歳寒の三友」と呼んで画の題材とされた。日本では、めでたいものとして慶事に用いる。」とあります。
先日の休みの日に、日本一の早咲きで知られる熱海梅園に行ってきました。ここに梅園が作られたのには、面白い話があります。熱海は、温泉で有名で、体の養生で訪れる人が多くいます。しかし、内務省の初代衛生局長であった長与専斎が、熱海に赴任した年に、次のように提唱しました。
「温泉がよく病気に効くのは、ただその中に含まれている塩気や鉄精にばかり頼らず、適当な運動をするからである。もし、一日中室にいて、温泉に浸かっていたら倦きもし、疲れもして、養生にならない・・・・・」(「熱海風土記」―梅園記より)
それで、運動のために作られたといいます。私も運動のために妻と訪れたのですが、ちょうど「梅祭り」は始まっていましたが、今年はどうも寒いらしく、「梅1輪」も咲いていませんでした。しかし、帰りに、その代わりにいい花を見つけました。
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それは、「蝋梅」という花です。「蝋細工」のような花から「蝋梅」と呼ばれていますが、蝋月(陰暦の12月)に梅に似た花を咲かせるところからともいわれています。とてもよい香りがする黄色の花を咲かせ、南京梅あるいは唐梅とも呼ばれるようですが、梅の仲間ではありません。この花は、「春告げ」というほど春に近い時期に咲きませんが、他の花に先立って年の初めに咲くので、「先導・先見」という花言葉をもらっています。いい花と出会いました。行動を起こすと、目的は達することができなくても、思わない収穫があるものですね。

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2006年01月13日 旅先にて

儒商

先日、テレビで、「論語とそろばん ~徳川家当主が見た中国経済と儒教~」という番組をやっていました。これは、最近、世界中の資金と資源を集めて膨張するアジアの虎―中国で、いま、その成長の影で、社会の歪も表面化しています。拡がる個人間・地域間の格差。急速な経済成長がもたらす負の側面が、看過できない社会不安として浮かび上がってきているのです。こうしたある種の閉塞感の中で、中国は伝統回帰のひとつとして、文革で否定され、その後の近代化において顧みられることのなかった「儒教」に再び光が当たり始めているのです。企業活動では、儒教を経営方針の柱にすえ、単なる利潤追求ではなく社会的貢献を目指す「儒商」と呼ばれる存在が注目を浴びています。「儒商」とは、「誠実信用」「品質による社会還元」「徳を重視する人材観」などを企業理念に掲げ、独自の企業文化を育もうとする企業のことです。これは、「論語とそろばん」で知られる澁澤栄一から綿々と続く日本の起業精神なのです。栄一は『道徳経済合一説』「仁義道徳と生産殖利とは、元来ともに進むべきものであります・・」、ということで、企業を発展させ、国全体を豊かにするために、幼い頃に親しんだ『論語』を拠り所に、道徳と経済の一致をいつも心がけていました。道徳と経済は、一見釣り合わないように見えますが、実は両立するものであり、利益を求める経済の中にも道徳が必要であると考えたのです。また、商工業者がその考えに基づき、自分たちの利益のために経済活動を行うことが、国や公の利益にも繋がるとして、みずから実践をしました。
同じような考え方が、二宮尊徳の教えにもあります。彼の10年に及んだ桜町復興の成果報告を、二宮尊徳から受けた小田原藩主大久保忠真は、「そちの方法は論語にある、『徳を以って徳に報いる(以徳報徳)』というやり方だな」と評しましたことに、わが意を得た尊徳は、その後自分の仕法を「報徳」と呼ぶようになるのです。尊徳の偉業については、別の機会に譲るとして、利潤追求ではなく社会的貢献を目指す「儒商」と同じような考え方のところをみてみます。報徳思想は、二宮尊徳が説き広めた思想であり、経済学説のひとつです。経済と道徳の融和を訴え、私利私欲に走るのではなく社会に貢献すれば、いずれ自らに還元されると説いています。特にその中で、「推譲」ということが柱の一つにありますが、これは、余った時間や財産は地域や社会のために使うことです。節約によって余った分は家族や子孫のために蓄えたり(自譲)、他人や会社のために譲ったり(他譲)することにより、人間らしい幸福な社会ができると尊徳は考えたのです。
儒商の考え方の似ていますね。
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 先日の休みの日に、二宮尊徳の生家と、資料館に行ってきました。彼も、実践を重んじる陽明学を基本とし、学者はあまり好きではなかったようです。民衆のことを第1に思い、具体的な改革をしていったのに、子どもの頃の銅像が学校に置かれ、国の政策に使われたことから、ずいぶんと不本意な扱いをされています。もう一度、私たちが学ぶべきことを見直す必要があると思います。

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2006年01月10日 旅先にて

大楠

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 今年は、まだ行っていませんが、毎年、初詣に高尾山に行っていました。高尾山は、東京に住む子ども達なら一度は訪れる場所です。遠足でも必ず行くところです。ここは、高い山ではありませんが、立派な木が多くあります。その中で、薬王院周辺には沢山の杉の巨木がありますが、最も大きいものは、「飯森杉」と呼ばれている木です。樹形が円錐形であったことから「飯盛り」の名が付けられています。その次に大きいものは、「蛸杉」と呼ばれ、根の形が蛸のようであることから名が付いています。このように、巨木には、何か霊があり、その樹齢の長いものは、大切にされたようです。ということで、休みの日に、いろいろなところをウォーキングしていると、巨木に出会うことがあります。昨年、熱田神宮に行ったときに大楠に出会いました。熱田神宮には、沢山のクスノキがあるが、巨樹に該当するものでも7本を数えます。そして、一番有名なのは御神木の大楠です。これを見たときに、ボランティアガイドに面白いことを聞きました。この大楠の根元に、卵が数個空いてあります。これは、何かというと、この木のほこらに大きな蛇がすんでいて、その蛇が食べるためにおいているそうです。聞いてみないとわかりませんね。
 そして、成人の日には、来宮神社の大楠(静岡県熱海市 国指定の天然記念物)を見に行きました。大楠の横にある由緒書きには、このように書いてありました。
「今から百二十年前の嘉永年間に熱海村に大網事件という全村挙げての漁業権をめぐる事件が勃発し、その訴訟費等捻出のため、境内に聳え立っておりました七本の楠のうち五本は伐られてしまいました。古記によると、残されているこの大樟をも伐ろうとして樵夫が大鋸を幹に当てようとしたところ怱然として白髪の老人が現れ、両手を広げてこれを遮る様な姿になると大鋸は手元から真っ二つに折れ、同時に白髪の老人の姿は消えてしまったそうです。これは神のお告げであるとして村人等は大樟を伐ることを中止致しました。この木が即ち現在ある御神木であります。」
 また、この大楠は、非常にいまだに活力があり生命力に溢れることから、「不老長生」、「無病息災」の象徴とされ、この巨樹の周りを一周すると寿命が一年延び、また、願い事のある人は必ずそれが叶う、と言われているということなので、一周してきました。神社のデータによると、幹周囲は、20mで、樹齢は、約2000年だそうです。これだけの年月を経ても、落雷、暴風雨など、世の天変地異にも耐え、一年を通じ、恒に青々とした楠の葉を繁らせ、現在でも成長し続けていることから、超越した生命力を有する木と信じられているのもうなずけます。年を取って、よぼよぼになっているという感じではなく、世の中のあらゆる物を知り尽くしている太古老という感じです。しかも、内に益るる生気は益々旺にして、枝は毎日西に東に伸びゆき、未来永却に生き抜こうとする生命力に敬虔な気持ちになり、思わず、その幹をさすりたくなります。このように、年を取るということは、衰えていくというのではなく、より厳然として、物にも動せず、ひたすらに正しく生きる道に徹し、それを他に伝え、多くの人を見守れるようになることだというようになりたいものです。

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2005年12月19日 旅先にて

志賀直哉

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 昨日、訪れた尾道には、大正元(1912)年に「志賀直哉」が移り住んだ棟割長家が現在でも見られるようになっています。代表作「暗夜航路」も、ここ尾道のこの部屋で執筆されました。彼は、生涯20数回転居しているので、各地に居宅跡があります。鎌倉にも、結婚した翌年の大正4年に、現在では雪ノ下となっている千度小路に居住しました。大正14年には、京都の山科から奈良に移り住み、4年後、奈良市の高畑に新居を建て、東京に戻るまでの9年間をここで暮らしました。この建物は、彼自身が設計をしており、数寄屋造りの名人が作っていて、現在公開されています。そして、ここで、尾道で書き始めた「暗夜行路」を完成させています。
 転居を繰り返している理由の一つに、父親との不和があるようです。中等科に進む直前、母の死にあい、その年のうちに父は再婚します。これも影響していると思いますが、直接的な原因としては、この頃、足尾鉱毒事件がおこり、その見解について、父親と衝突します。これが、以後の決定的な不和のきっかけとなります。そのあと、女中に夢中になり、結婚を約束したため、父との関係が険悪になります。その頃に、有名な小説「清兵衛と瓢箪」を発表します。これは、なかなか興味深い気がします。
 この作品は、教科書にも取り上げられて有名ですが、一応、あらすじは、
「小学生の清兵衛は、瓢箪が好きでたまらない。ある日、教室にまで持ち込んで手入れをしていたところを先生に見つかり、激しく叱られ、瓢箪を取り上げられてしまう。家でも父にさんざん叱られ、せっかく集めた瓢箪はすべて割られてしまい、清兵衛は、「大人のくせに何もわかっていない」と思う。取り上げられた瓢箪は六百円もの大金で売れた。」というものです。
 子どもの一途な執念を、彼の父を含め、先生はじめ、周りの大人には理解されず、ただ、その行為に対して、彼の父は、こんな態度をします。
『その話を聞くと、急に側にいた清兵衛を捕えて、散々に殴りつけた。清兵衛は、ここでも、「将来とても見込みのないやつだ。」といわれた。「もう、貴様のような奴は出て行け」といわれた。』
 このような無理解な父親が、見込みのある奴を、ない奴にしてしまうことが多いのではないでしょうか。子どもの興味はあらゆるところにあり、それが将来役に立つか、立たないかは、誰にもわかりません。わかっているのは、子どもを理解することが大切だということです。そして、子どもを、子どものやることを大切にするということです。
 この小説に結びには、こう書いてあります。
「・・・・・清兵衛は今、絵を描く事に熱中している。これが出来た時に彼にはもう教員を怨む心も、十あまりの愛瓢を玄能で破って了った父を怨む心もなくなって居た。然し彼の父はもうそろそろ彼の絵を描く事にも叱言を言い出して来た。」

 その後、実生活では、志賀直哉は、父親と和解し、すぐに「和解」という小説を書いています。

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2005年12月18日 旅先にて

一言

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 人の話は、文章とちがって、素通っていきます。聞き手にとって、その場で、その内容を把握しながら聞くのですが、言葉の解釈は、聞き手によってなされます。いわゆる我田引水といわれるもので、結局は、自分の都合のよいように聞くことが多くなります。私の部屋に飾ってあった、毎月のカレンダーの一言にこんなことが書いてありました。「物事の善悪を判断するときに、好き嫌いで判断してしまうことがある。物事の真理を見極める必要がある。」逆に話し手になるとき、できるだけこちらの真意を誤解されずに伝える努力が必要です。勝手に、自分の都合のよいように判断されてしまっては困ります。しかも、それを他人に伝えられていくと、いわゆる「伝言ゲーム」のように、仕舞いには、まったく言った内容と異なったものになってしまうことがあるからです。また、逆のことがいえることがあります。本人は、そんなに深い意味で言ったつもりはなくとも、聞き手が深く考えてくれることがあります。また、さりげない一言から、考え方や、人柄がわかることもあります。
もうひとつ、言葉のすばらしさがあります。それは、言葉によって、ちがうものに見えてくることがあるのです。たとえば、今日、尾道を歩きました。尾道は、坂と階段が多く、歩くのはとても疲れます。途中でいやになってしまいます。そんなときに、こんな看板を見ました。「健康への道 出発点から1Km エネルギー消費量(体重60K)41Kcal」これを読むと、もう少し歩こうという気になります。同じような言葉が、昨日の広島でのリースさん(フランクフルト保育行政官)の講演の中にありました。最近フランクフルトでは、0歳児保育が進められてきています。その理由を、こう言いました。「政策的には、3歳以下(0歳から3歳)に対する陶冶と保護の提供を拡張すべきだとしていて、それを実施に移すための措置が実行されています。その背後にあるのは、子どもたちには、生まれた最初の瞬間から学習の機会が与えられなければならないという要求である、というふうに言うことができます。」日本では、たぶんこう言います。「最近、少子化になってきたので、仕事と育児の両立をするために、乳児からの保育を充実します。」と。暗に、子どもにはよくないが、親のために仕方なくするニュアンスが感じられます。それに反して、フランクフルトでは、あくまでも、子どものために0歳児からの保育をすると言い切ります。日本同様、少子化がかなり進んでいても、絶対にその言葉は口に出しません。また、多国籍の子を受け入れてきたり、子どもたちの多様化を進めるために、私は、こういう言い方をします。「それぞれの異なりを認め合い、そのものたちが、みんなで生きる社会を作りましょう。」ということで、「共異体」ということを提案していますが、どうして、これが必要かは、なんだか、そのような世の中になってきたからというような、子どもにとって、それがどういうことかはありません。それを、リースさんは、こう言いました。「子どもと大人の双方にとって、多様性と差異が豊かさとして体験できる場所として理解されていて、文化的価値や伝統、習慣を日常生活に取り入れることは本来的な課題として理解されています。」
 言葉ひとつで、ずいぶん違うものですね。

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2005年12月11日 旅先にて

鎌倉

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開成中 海難事故の碑
 歌の歌詞からは、いろいろなことを学びます。「冬の星座」では、宇宙の広がりと、冬の空で演じられる星の営みを感じます。また、「たきび」では、冬の道を歩いている子どもたちの心の動きが感じ取れます。また、ある出来事に対しての心の動きを歌ったものもあります。たとえば、鎮魂歌「七里ヶ浜の哀歌」があります。この歌は、のちに、「真白き富士の嶺」として歌い継がれています。明治43年鎌倉七里ケ浜で、逗子開成中学のボートが沈み、乗っていた生徒12名全員が死亡しました。そのなかで、5年生の徳田勝治と、逗子小学校高等科2年生の徳田武三の遺体が発見されます。兄の勝治は武三を抱きかかえ、弟の武三は勝治に抱きついたままの状態でした。おそらく兄は溺れかけた弟を助けようとしたものの、ついに力つきたものと思われます。(七里ガ浜公園には、この2人の少年が抱きあっているブロンズ像「真白き富士の嶺」が建てられています。)その事故に心を痛めた、当時鎌倉女学校の教師三角錫子がガードン作曲の「夢の外」に歌詞をつけたものが、この「真白き富士の嶺」という歌です。1.真白き富士の嶺 緑の江ノ島 仰ぎ見るも 今は涙 帰らぬ十二の 雄雄しき御霊に 捧げまつる 胸と心2.ボートは沈みぬ 千尋の海原 風も波も 小さき腕に 力も尽き果て 呼ぶ名は父母 恨みは深し 七里ヶ浜(本当は、6番まであるのですが)そのように歌詞から心を感じ取れるほか、いろいろなものが学べます。たとえば、「桃太郎」とか「浦島太郎」などは、昔話を歌詞によって語ります。歌うことによって、ストーリーがわかるようになっています。そのほかには、歌によって、観光案内をするものがあります。そのひとつが、鎌倉を題材にして、1910年に発表された文部省唱歌の『鎌倉』という歌です。作詞者は芳賀矢一ですが、作曲者は不明です。全8番におよぶこの歌には、鎌倉の名所や歴史上重要な土地、各地に伝わる史実や伝説などが旅の形式をとりながらコンパクトに紹介されています。きょうは、その歌詞に登場する「七里ガ浜」「稲村ガ崎」「極楽寺坂」「長谷観音」「由比ガ浜」「雪ノ下」「八幡宮」「若宮堂」「鎌倉宮」の場所を訪ねてみました。

1、七里ヶ浜のいそ伝い/稲村ヶ崎 名将の/剣投ぜし古戦場
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七里ガ浜と稲村ガ崎

2、極楽寺坂越え行けば/長谷観音の堂近く/露座の大仏おわします
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極楽寺坂と長谷観音

3、由比の浜べを右に見て/雪の下村過行けば/八幡宮の御社
4、上がるや石のきざはしの/左に高き大銀杏/問わばや 遠き世々の跡

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鶴岡八幡宮と大銀杏

5、若宮堂の舞の袖/しずのおだまきくりかえし/かえせし人をしのびつつ
6、鎌倉宮にもうでては/尽きぬ親王のみうらみに/悲嘆の涙わきぬべし
7、歴史は長き七百年/興亡すべてゆめに似て/英雄墓はこけ蒸しぬ

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八幡宮と頼朝の墓

8、建長円覚古寺の/山門高き松風に/昔の音やこもるらん
 
 今日は、NHKの「義経」の最終回でした。鎌倉幕府の創設と、滅亡の地を見て、今を生きる意味を考えなければという思いを強くしました。

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2005年11月07日 旅先にて

証城寺

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「証 証 証城寺 証城寺の庭は ツ ツ 月夜だ みんな出て 来い来い来い おい等(ら)の友達ァ ぽんぽこ ぽんの ぽん 
負けるな 負けるな 和尚(おしょう)さんに 負けるな 来い 来い来い 来い来い来い みんな出て 来い来い来い」

この結果、狸は、どうなったと思いますか?はじめは、おなかをたたいて、楽しく歌ったり、踊ったりしていました。そこへ和尚さんが出てきて、一緒に楽しみ始めました。そのうちに、狸は、和尚さんに負けまいとたたき始めました。競争し始めたのです。その結果、その狸は、死んでしまったのです。これは、江戸時代の初期(17世紀中ごろ)に誕生した、千葉の木更津にある、證誠寺に伝わるお話です。そこに、昨日、行ってみました。
ある秋の晩、寝ていた住職がふと眼を醒ますと、何やら表がざわざわ騒々しい。気になって戸の節穴からそーっと庭の方を覗いてみると、何とそこには大小100匹程の狸が行列を作って「證誠院のぺんぺこぺん、俺らの友達ゃどんどこどん」と唱いながら踊っている。おなかをどんどこ叩いたり、中には葉っぱや葭の茎で作った笛で調子をとっているものもいる。住職は最初びっくりしたがそのうちその調子があまり面白いので、自分でも足で床を踏み鳴らしたり手を叩いたりしはじめた。そのうちついにその狸の中に引き込まれて一緒に踊り出してしまう。狸は驚きもせず、むしろ前よりもっと激しく唱い踊り出し本堂の周りを、行列を作って廻り始めた。住職も負けじと一緒になって時間が経つのも忘れて踊った。狸と住職の競争になった。そのうち夜が明けてきて狸達は森に戻っていった。またその次の晩、次の次の晩も住職が夜待っていると同じように狸達の唄と踊りが始まった。ところが4日目の晩、住職は待っているのに全く音がしなくなって、狸たちが現れない。住職は長い事待っていたけれども結局その晩狸は現れなかった。翌朝住職は本堂の周りを調べていると、そこにはお囃子のリーダーとしてぼんぼこお腹を叩いていた一番の大狸が腹の皮が破けて死んでいた。住職は哀れに思いその大狸を葬った、、、」という話です。
これを題材として、昭和4年に野口雨情・中山晋平両氏によって作られた童謡が「證誠寺の狸ばやし」です。
 今、保育園や幼稚園では、発表会シーズンです。その練習を見るたびにこの話を思い出します。楽器演奏でも、歌でも、踊りでも、とても楽しいものです。しかし、楽しいものでも、競争となると違ってきます。確かに、競争することで、がんばる気持ちとか、よいものにする意欲が湧くことがあります。しかし、競争は、結果的に、周りが見えなくなってしまいます。この狸のように、体の調子が悪くなっていたり、心が壊れ始めていたりしていることに気づきにくくなります。それを楽しんだり、向上する楽しさから、ただ勝つことに心を奪われてしまうからです。私たちは、発表会を通して、何を子どもたちに伝えたいのか、どんな心を伝えたいのか、それを後回しにして、勝つこと、すなわち、まわりからの見た目を優先してしまうと、大切なものを失ってしまいます。

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2005年11月06日 旅先にて

木更津

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 今日は、市原市の近くの木更津を歩いてみました。木更津というと、今は、東京湾アクアラインの一方の出口で有名ですが、この地には、さまざまな遺跡や、伝説、歴史があります。太田山公園にある、木更津市立金鈴塚遺物保存館に行ってみました。そこには、東を代表する前方後円墳・金鈴塚古墳出土品が展示されています。特に、古墳名称の由来となった金の鈴は、今でも光り輝いていました。また、そこで、ちょうど「野焼き」をしていました。土器などを、釜で焼かないで、平地で、焼くやり方です。縄文土器などは、そのように焼く方法もあったようです。私が、子ども会(以前のブログで、地域を知る運動会をした子ども会を書きました。)の活動のなかで、テーマを「作る」とした年、地域を流れる川に行って、滑床という土を取ってきて、砕いて、粘土にしました。次の活動日に、それを使って、みんなで縄文式土器を作ったのです。(本当は、半分以上瀬戸の土を混ぜました。)そして、次の活動のときに、公園で、「野焼き」をしたのです。(実際は、全部割れてしまいましたが。)これらの活動を通して、この地域の人が、昔、どのように土器を作ったかを体験したのです。
話を元に戻して、この太田山公園には、千葉県立上総(かずさ)博物館と、のほか、「きみさらずタワー」という展望台が建っています。この展望台の塔の上には、ヤマトタケルノミコト(日本武尊)と、オトタチバナヒメ(弟橘姫)のブロンズ像が建っています。
遥か昔の古墳時代、ヤマトタケルノミコトがヤマトの国(日本)の統一を考えて、東の国に住む異民族と戦うために、大勢の家来と奥さんのオトタチバナヒメを連れて、三浦半島から房総半島へ舟で渡ろうとしました。穏やかな東京湾でしたが、しばらくしてもの凄い嵐がやってきて海は大しけとなりまた。ミコトたちを乗せた舟はまるで一枚の葉っぱの様に大波に弄ばれました。この頃の言い伝えでは、舟に女性が乗り込むと何か航海に良くない事が起こる、と言われていました。責任を感じたヒメは、その海の荒れを抑えるために、自分を犠牲にしようと考え、海に飛び込びました。しばらくすると荒れていた天候が嘘のようにおさまり、舟は何事もなかったかの様に対岸の房総半島に到着しました。さてこれから「いくさ」へ、という時でしたがミコトは、自分が愛していた優しいヒメの事が忘れられず、「君去らず 袖しが浦にたつ波の その面影を 見るぞ悲しき」という歌を詠み,しばらくショックでこの土地を離れる事が出来ませんでした。昔は地位のある偉い人の事を「君(キミ)」と呼び、「君不去(キミサラヅ)」という言葉が訛って「木更津(キサラヅ)」となった、と言われています。今からおよそ1700年ぐらい前、日本各地で大きな古墳が造られていた頃の話です。
 また、それから7日の後にオトタチバナヒメの櫛(くし)が海辺に流れ着いたので、その櫛を取って墓を作り、おさめたのが、富津市吉野の吾妻(あづま)神社であり、流れ着いたオトタチバナヒメの袖(そで)を納めて建立(こんりゅう)したのが、木更津市にあるあずま(吾妻)神社です。また、ヒメの着物の袖(そで)が流れ着いたので、周辺の海辺を、袖ケ浦(そでがうら)と呼んでいます。そして、オトタチバナヒメが海上に布を流して身を投じたので、その付近は「布流津(ふるつ)」といわれ、「ふるつ」がつまって「ふっつ」になったそうです。富津の地名の由来です。このあたりの地名が、ぐっと身近に感じられます。

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