2010年03月08日 [新聞記事より]
新聞
今日の朝日新聞に「GLOBE」という新聞が入ってきました。この「GLOBE」は月2回、月曜日の朝日新聞朝刊の真ん中に挟みこまれた新紙面です。2008年10月から月2回、月曜日の朝刊の真ん中に織り込まれてきます。この紙面では、今までの新聞と違う内容で、読者を引き付けようとしています。この紙面での特集記事は、「地球的(グローバル)規模で繰り広げられるパワーゲームやビジネスの最前線で起きている出来事の深層・底流を徹底取材し、ルポを中心にした特集で掘り下げます」と謳っています。また、サイトでは紙面に掲載した特集記事などを紹介するとともに、関連するプラスアルファ情報が掲載されます。今日の特集は、「公務員の使い方/仕え方」です。今までのただ情報を流すだけであった新聞が変わり始めています。
新聞が変わり始めているのは、その記事の内容だけでなく、発信の仕方も変化が起きています。日本経済新聞社では、今月の23 日に、インターネット上に「日本経済新聞 電子版」(Web刊)を創刊する予定です。この電子版は、「今年で135年目の歴史を迎える日本経済新聞社がデジタル技術を基盤にお届けする新しい媒体です」という触れ込みです。その内容は、もちろん日本経済新聞の朝刊と夕刊の最終版の記事全文が読めるのは当たり前ですが、電子版の特徴がいくつかあります。
そのひとつは、日経編集局が24時間体制で取材・編集して随時更新する国内外の最新ニュース、日経BP社など日経グループ各社が集めた専門分野の情報・データやコラム・映像、英フィナンシャル・タイムズなど有力な海外コンテンツパートナーの翻訳記事を厳選して、朝刊と夕刊の間でも最新情報を刻々と編集して届けてくれます。世界中のあらゆる場所に、どこよりも早く朝刊が届き、「今」まさにおきているニュースを24時間リアルタイムで届きます。また、「My日経」で自動収集した記事もパソコンや携帯電話にメールで配信してくれます。
アマゾンで本を購入すると、過去に購入した本や、検索した本を分析して、何に興味があるか、どんな考えの人に興味があるかで、それにあった本を紹介してくれます。同じように、一人ひとりの読者の興味や関心を分析して適切な記事を選んで届ける「おすすめ」機能、登録したキーワードを含む記事が配信されると自動表示する「自動記事収集」をはじめとした、デジタル技術を活用した新しい記事の読み方も提案しています。「いちいち情報を探すのが面倒」「映像でニュースをもっと知りたい」「何を読めばいいのか教えて欲しい」「私に役立つ情報は何?」など、今までは、紙面をめくって必要な情報を探したり、興味のある情報を探していたのが、自動で配信されてくるようです。
そして、パソコンと携帯電話機の両方で読めるようになっており、今後、電子書籍端末やデジタルテレビでの提供も検討しているそうです。そうなることにより、タクシーや電車、空港やホテルのロビーなどいつでもどこでも簡単操作で効率よく必要な情報を見ることができるようになります。
また、このWEB日経は、拡大機能付きなので、小さな画面でも表や写真、グラフがきちんと読めるようですし、表示の仕方も、今まで新聞紙面を見慣れている人にとっては、ネットで配信されてくるニュースはなんだか見にくいのですが、この紙面は新聞のように読めるようです。
時代によって、内容、配信の仕方など新聞は変わろうとしていますが、このような動きに対して、教育の動きは、ずいぶんと遅いですね。
投稿者 fujimori : 23:16 | コメント (3)
2010年01月27日 [新聞記事より]
時間帯
NHK放送文化研究所では、2005年に人々の1日の生活行動を調査しています。特に、テレビやラジオをどのように視聴しているかという内容が多いのですが、それによると、1日の中でテレビは国民全体の9割が見ており、国民1人あたりの視聴時間は3時間39分(1週間をならした値)だったそうです。ずいぶん長く見ていますが、この時間数は、2000年と比べて、土曜日は休みの人が増えた分若干増えているのですが、平日や日曜日ではさほど増えていません。最近は、若い人はあまりテレビを見なくなったからです。この結果でも、テレビは高齢になるほどよく見られ、20代以下の男性や10代女性では2時間30分に満たないのですが、70歳以上の男女では5時間を超えています。また男20代では、テレビを見る人の率が初めてどの曜日も8割を切ったようです。
テレビは、当然働いている間は見ることができません。この調査でも、平日は、どの職業でも8割を超える人が働いています。しかも、平日は朝8時から仕事をする人が増えはじめ、昼を除いて朝9時から夕方5時まではおよそ70%の人が仕事をしています。一方、夕方5時からは仕事をする人が減り始め、夜9時~9時30分で10%となります。この傾向は、その5年前に比べて、仕事をする時間帯が早朝、夜間両方に広がる傾向にあり、逆に昼を除いた午前11時30分から午後3時までの時間帯では減っています。出勤のピーク時間は午前7時45分~午前8時にあるのは、変わっていませんが、午前7時半~午前8時半に出勤する人は減少し、午前6時半~午前7時15分は増えています。
また、家事をしている成人女性の率は、平日、土曜、日曜いずれも90%以上と高率であり、成人男性でも、平日と日曜で家事をする人の率が増加し、日曜では半数を超えた人が家事をしていまあす。家事をしている成人女性の率を時刻別にみると、朝6時30分から9時30分までと夕方4時30分から7時までで、30%を超えています。ピークは、午前7時~午前7時半で、午前8時台はひと息つける時間です。
そんな中、何時ころにテレビを見ているかというと、朝・昼・夜の3つのピークがあり、平日朝の視聴のピークは午前7時~8時30分で、特に7時台前半は男女年層を問わずピークで、8時を過ぎると、男40代以下や女10代でのテレビ視聴は1割を下回り、成人女性や男60代以上では引き続きよく見ています。
ということで、昨日、NHKは今春から、平日朝のテレビ番組の編成を大幅に見直すニュースが流れました。そのひとつが総合テレビの「朝の連続テレビ小説」(朝ドラ)です。時間帯が変わるのは、次の朝ドラからで、放送開始を現在の午前8時15分から午前8時にするようです。これに伴い、報道番組「おはよう日本」は午前8時で切り上げ、朝ドラの後の生活情報番組「生活ほっとモーニング」は、「あさイチ」にあらためるようです。この見直しの背景には、午前8時以降は在宅女性を中心とした視聴者層を狙いたいとの考えがあり、記者会見で、「(一般的な家庭の用事は)午前8時くらいには一段落している。その後の時間にテレビを見る余裕はある」と理由を説明しています。
その生活リズムと、(1)視聴者を放送開始時に奪われない(2)朝ドラの時間帯はNHKを見ない層に見てもらう(3)朝ドラ終了時にはNHKから流れてくる視聴者を取り込む、という3点を意識して決定したようです。 担当者は、「朝ドラを見る層は中高年の女性が多く、若い層を狙った自局の番組とは違っている。朝ドラは15分で終わるので、終了時の取り込みに力を入れることが現実的対応かもしれない」と話しています。
どの時間帯に何を放送するかは、いろいろな分析をした結果決定するようです。
投稿者 fujimori : 21:06 | コメント (4)
2010年01月04日 [新聞記事より]
子どものため
論語の中の「吾十有五而志于學」ではありませんが、15歳という年齢は志を持つ頃なのでしょうが、昨年暮れにこんなニュースがありました。
「12月18日から行方不明になっていたオランダのヨット少女、ラウラ・デッカーさん(14)が20日、カリブ海のオランダ領アンティル、サンマルタン島で見つかり、無事保護された。」という記事です。
ラウラさんは、昨年夏にヨットでの単独世界一周をしたいと父親に打ち明けます。彼女は、両親がヨットで航海中に生まれ、生後4年間も海上で暮らした筋金入りのヨット少女で、6歳でヨットの操縦をマスターしたそうです。この彼女からの申し出に、航海経験豊富な父親は同意をして、学校に長期欠席の申し出を入れます。そして、全長8メートルのヨットで2年間の世界一周に9月1日から出航しようとします。ところが、オランダの児童保護当局が、13歳の単独航海は危険すぎることや、2年間も学校を休学するのは好ましくないなどとして中止を要求します。
ラウラさんの両親も娘の単独航海を支持しますが、裁判所は、航海実現には児童保護当局の同意が必要と決定しました。この判決後、ラウラさんは「航海はうまくできる。恐れていない」と述べ、世界一周の準備を進める決意を表明。各地に寄港することから、実際に海上で3週間以上一人きりになることはなく、学校の勉強も続けることを今後、当局に説明したいと話しますが、この依頼を拒否します。そして、オランダの裁判所は、未成年のラウラが単独で航海することに対して、計画の一時中止を命じ、10月末の航海の禁止という結論を出しました。理由は、「成長期にあるラウラにとって、精神的にも肉体的にも極限の状況に一人で立ち向かわなくてはならない可能性のある単独航海は、将来、取り返しのつかない危害をもたらす可能性がある」というものでした。その結果、ラウラの行動は、ユトレヒトの青少年保護組織の管理下に置かれ、今後2カ月間にわたり少女の精神面に与える影響を調査するよう決定しました。
現在、児童保護当局が、ラウラさんが航海に精神的に耐えられるかなど調べていますが、母親は、ラウラさんから反対しないよう頼まれていたのですが、娘の身を案じて反対に踏み切ります。その結果、両親は離婚、ラウラさんは世界一周を後押しする父親と暮らしているそうです。そんな状況の中で、最初のニュースにあるように、夢を打ち砕かれ、ショックになったラウラさんが家出をしたというのです。この家出によって、担当機関であるユトレヒトの青少年保護ビューローは、来年の7月まで、ラウラさんを、現在同居している父親から引き離し、しかるべき保護機関のもとで監督する、という結論をだしました。
このニュースが、オランダで議論になっているようです。それは、子どもの教育(成長)の第1義的責任は親権者にあるが、その親権者が、子どもの健全な発育を保護しない、あるいはできない状況にある場合には、公的機関が子どもの発達の権利を守らなくてはならないという原則と、親の判断をどこまで認めるか、それに対して、公的機関が、いつ踏み込むべきかという議論です。今回の場合、父親は、ラウラさんの航海技術を育て、見守り、そして、本人の夢を果たしてやろうと支援したことが、子どもの成長の障害になるという判断をつけたことにどう考えるかということです。そして、果たして、学校が子どもの成長に最善の場であるのか、と考える親もいることに対してどう思うかです。
親、学校、行政、それぞれの立場からの「子どものため」の考えかたが分かれるところです。
投稿者 fujimori : 22:17 | コメント (4)
2009年11月14日 [新聞記事より]
指標
先週末、新聞の記事で考えさせられたのは「ひとり親家庭の貧困率54%、OECD「最下位」の水準」というものです。私たちは、長い間「貧困」という言葉は日本からほど遠い世界のことだと思っていたからです。しかし、この記事でクローズアップされている「ひとり親家庭」の貧困率だけでなく、厚労省は1998年の貧困率が63・1%、01年は58・2%、04年は58・7%だったことも発表しています。その前の10月20日には、厚生労働省は「相対的貧困率」(2007年調査)を発表しました。相対的貧困率とは、全国民における低所得者(働いている、いないを問わず)の割合のことで、全国民の所得の中央値(07年は1人あたり年間228万円)の半分(114万円=貧困線)より低い人がどれだけいるかをあらわした数値です。これによると、日本の貧困率は15.7%で、国民の7人に1人が貧困状態にあるということです。また、18歳未満の子どもが低所得家庭で育てられている割合を示す「子どもの相対的貧困率」は14.2%だったのです。この結果は、メキシコ(18.4%)、トルコ(17.5%)、米国(17.1%)に次ぐ4番目の高さです。この調査は、OECD(経済協力開発機構)に委ねられていたので、その結果について私たちは初めて目にしたという感じです。
今年の8月6日号の「ニュートン」という雑誌に「少子化傾向に歯止め?」という記事が計されていました。その内容は、「社会が継続的に発展すると,あるときから出生率が増加傾向に転じるようだ」というものです。一般的に社会や経済の発展とともに出生率は低下していきます。現在では、全人類の半分以上が、合計特殊出生率2.1以下の地域に住んでいます。しかも、多くの先進国では、出生率が低下すると,もう高くはならないと考えられてきました。ところが,アメリカ,ペンシルバニア大学のミルスキラ博士らは,21世紀に入って先進国の少子化傾向に変化があることを見いだしました。博士らは,人々の生活の質や発展度合いを示す指数「HDI」とTFRとの関係を調べた結果、1975年のデータでは、HDIが高い国ほど出生率は低かったのです。しかし,2005年では,HDIが一定の値をこえるほど高度に発展した国では、日本や韓国などの例外もあるものの、HDIが高いほど出生率が高くなっていることがわかったというのです。社会や経済が継続して発展することで出生率低下を食い止めることができるのではないかと博士らは期待しているそうです。
ここで、また初めて「HID」という言葉を聞きましたが、これは、人間開発指数(HDI:Human Development Index)というもので、その国の、人々の生活の質や発展度合いを示す指標です。生活の質を計るので、値の高い国が先進国と重なる場合も多く、先進国を判定するための新たな基準としての役割が期待されています。開発の基本的な目標は、人々の選択肢を拡大することとしています。そのためには、人々が、長寿で、健康かつ創造的な人生を享受するための環境を創造し、その環境の中で各自の可能性を十全に開花させ、それぞれの必要と関心に応じて生産的かつ創造的な人生を開拓できるようになることです。それを考えると、経済成長は、開発にとって重要ではあるものの、人々の選択肢を拡大するための一つの手段にしかすぎなくなるのです。その基礎となるのが、人的能力で、長寿で健康な人生を送ること、知識を獲得すること、適正な生活水準を保つために必要な資源を入手すること、そして地域社会における活動に参加することです。これらの能力を獲得できなければ、そのほかの選択肢にも手が届かず、人生における多くの機会を逸してしまうとされています。
この指数は、日本はかなり高く、1990年代初めはトップクラスでしたが、次第に順位が下がり、最近は10位前後です。人が人らしく、子どもが子どもらしく生きていくことができる世の中をいろいろな指標から見ることができます。
投稿者 fujimori : 17:13 | コメント (3)
2009年11月06日 [新聞記事より]
店内かご
今日の中日新聞に「スーパーの店内かご、客の持ち去り急増」という記事が掲載されていました。内容は、「環境保護の一環でレジ袋の有料化が進む中、県内のスーパーで商品と一緒に店内用の買い物かごを持ち去る客が増えている。レジ袋を買ったり、マイバッグを持参したりするのが面倒な客の悪質な行為で、厳密には窃盗罪にあたる。店側は買い足しのコスト増にも頭を悩ませている。県内にチェーン展開する中堅スーパーは、伊勢市の店舗でレジ袋を有料化した2007年9月以降、買い物かごの持ち去りが急増した。かごに商品を入れたまま店を出る客を注意しても「少し借りるだけ」と開き直られるケースが目立つ。このスーパーのかごの仕入れ値は一個当たり約三百円。担当者は「レジ袋有料化前はかごの買い足しは繁忙期の夏と冬の2回だけだったが、今は回数が増えた。コスト増はばかにならない」と頭を抱える。」
このような行いは、少し前から各地で報告されています。この記事にあるように、「買い物かごの持ち去りは、レジ袋の有料化前にもあった」と指摘されています。しかし、若者の万引き同様、あまり罪の意識がないようですが、このような行為は、窃盗行為に当たります。どのような世代が持ち帰っているのかわかりませんが、「つい」とか「ちょっとだけ」「面倒くさいから」とかいう理由が多く、特にそのものが欲しいからとか、ぜひ自分のものにしたいから、袋が貧しくて買えないからなどという理由ではないところが、なんだか、万引きにも似ていますね。
昨年のニュースで、スーパーマーケットのレジ袋をいち早く有料化している富山県で、そのスーパーの「買い物カゴ」が数カ月で200個なくなった店、毎月10個前後が持ち去られたところもあるというものがありました。 富山県では昨年4月からスーパーマーケット、クリーニング店などでレジ袋を有料化していて、このニュースは、9月のものです。富山県では、日本一住みやすい県ということで、全国で初めて県や業界団体らが一丸となって、有料化運動を盛り上げていました。ところがこんな状態になってしまったのです。
全日本スーパー協会によると、買い物カゴは1個あたり平均400~600円で、取っ手部分が金属製のタイプはもっと高いそうです。また、店名がプリントされていたり、複数の色を使っていれば、もっとします。200個なくなるということは、被害額は十数万円に上るのです。しかし、店長は、金額の問題ではないと言います。「お客様との信頼関係に関わることなので、窃盗罪で訴えるなんて考えていませんよ」信頼関係で成り立っているのです。また、有料化は、何もお金が欲しいからではなく、資源の問題ですので、その意識が薄いのでしょうか。
私の子どものころは、買い物かごをさげて歩く女性の姿をよく見かけました。漫画サザエさんでも、「カツオ!買い物に行ってきて!」と買い物かごを渡すシーンがありました。八百屋さんなどは、欲しい分だけ適当に新聞紙にくるんで渡してくれるだけですので、買い物籠は必需品でした。それが、いつの間にかレジ袋に入れてくれるようになりました。これは、どうもコンビニの登場に関係があるようです。一度、便利を味わってしまうと、なかなか、元に戻すのは大変ですね。便利さは、信頼関係をも、失わせてしまうのですね。
投稿者 fujimori : 22:30 | コメント (5)
2009年10月28日 [新聞記事より]
小学○年生
テレビコマーシャルで一世を風靡したものに、小学館の「ピッカピカの1年生」シリーズがあります。いろいろな地方の独特の方言や、男の子や女の子たちが照れながらピカピカのランドセルを背負ったもうすぐ1年生の姿に、1年生になる喜びがあふれていました。そして、増刊扱いの「入学準備 小学一年生」を買うことによって、小学生になるのだという自覚を持つようになるというCMです。そんな、小学生になじみのある「小学○年生」という雑誌について、「小学五年生」「六年生」休刊へというニュースが流れました。
10月26日の産経新聞によると、「小学館は26日、学習雑誌『小学五年生』『小学六年生』を平成21年度いっぱいで休刊すると発表した。両誌は大正11年に創刊。最大発行部数は、五年生は63万5千部、六年生は46万部をともに昭和48年4月号で記録したが、最近は高学年児童の関心の多様化などから需要が減少し、部数は5万部から6万部で推移していた。」ということのようです。ということで、五年生は来年2月3日発行の3月号、六年生は今年12月28日発行の2・3月合併号が最終号となるようです。この事情について、小学館広報室は「近年の社会状況や学習環境の変化はたいへん大きく急激であり、子供たちの趣味や嗜好の多様化が進み、情報も細分化されている。(2誌が)大きな時代の変化と読者のニーズに必ずしも合致しなくなった」とコメントしています。いかにも時代だと思いますが、その休刊の2誌に代わりには、22年春から学習マンガ誌『GAKUMANPLUS(仮題)』を創刊予定だそうです。ただ、「小学一年生」から「四年生」は来年度以降も発行を続けるようです。どうも、子どもたちの趣味や嗜好が大きく変わってきたのは、小学校高学年のようです。
これらの雑誌の歴史はずいぶんと古いので、お世話になった人の年齢層は相当広いでしょうね。「小学五年生」と「小学六年生」は、大正11年(1922年)に送還されていますが、大正13年には、「小学四年生」が創刊され、大正14年に、「セウガク一年生」「セウガク二年生」「セウガク三年生」が創刊され、全学年がそろいました。しかし、いろいろな歴史をたどると、必ず戦争が影を落としていきます。昭和16年に、小学校が国民学校と改称したために、誌名も「国民○年生」に変更されています。次の年の昭和17年には、戦時統制により、「良い子の友」と「少国民の友」に統合されてしまいます。
戦後まもなくの昭和21年、「小学一年生」から「小学六年生」が復刊します。そして、昭和55年から平成6年までの間、「ピッカピカの一年生」(電通の杉山恒太郎の発案)がテレビから流れるのです。そして、次第に幼児教育が重視され、昭和57年には、「学習幼稚園」が創刊されています。
これらの雑誌は、私の子どもの頃は、学習誌でしたが、次第に娯楽性を増していきます。そして、掲載されている主なものが、4年生くらいまでは、連載漫画やアニメのキャラクター、5,6年では、アイドル歌手や人気女優の写真を使うようになっていきました。そんな紙面からは、様々なヒーローが生まれています。鉄腕アトムアニメ第1作は、1963年の「一年生」から「三年生」に登場します。また、オバケのQ太郎、 ロボタンシリーズ、快獣ブースカ、パーマン、悟空の大冒険、冒険ガボテン島、おらぁグズラだど、ウメ星デンカ、いなかっぺ大将なども登場します。この中には少年サンデーなどから参加したものもありますが、朝日新聞から参加したものに「サザエさん」があります。
これらどの名前を見ても懐かしいですね。その生みの親であった雑誌が休刊になるのも時代かもしれません。
投稿者 fujimori : 20:55 | コメント (4)
2009年10月27日 [新聞記事より]
漢字
最近の新聞紙上は、漢字が話題になっています。そのひとつは、ブログでも書いたように、今日から読書週間が始まり、その初日である今日は、「文字・活字文化の日」だからです。ですから、今日の読売新聞の社説は、活字文化について書かれています。そこには、電子書籍の利用者について、「利用したことがある」が8%、「電子書籍の普及が読書人口の拡大につながると思う」は44%に上っていることを取り上げ、グーグル社が現在、世界中の書籍をデータベース化し、電子書籍として販売する計画を進めていることを紹介しています。私も何冊か書籍を出版しているのですが、出版社からその承諾についての手紙が来ました。
そして、社説では、来年が「国民読書年」とする国会決議も昨年採択され、その運動の大きな柱として、子供の言語力向上を掲げているそうです。読書活動は、子供たちの考える力や読解力を育んでいく上でも欠かせず、多感な時期に出会った書物は、その後の生き方や考え方に大きな影響を与えるだろうと言っています。
もうひとつの話題は、今月23日に「新常用漢字表(仮称)」に関する試案を審議している文化審議会国語分科会の漢字小委員会が、試案の修正案を承認したというニュースです。この承認された追加字種候補は、196字です。また新漢字表の名称は常用漢字表を踏襲することになりました。たとえば、新たな追加字種候補には、哺乳の「哺」、楷書の「楷」、親睦の「睦」、「釜」、禁錮の「錮」、賄賂の「賂」、勾配の「勾」、毀損の「毀」などです。逆に外されるのは、忌憚の「憚」、哨戒の「哨」、諜報の「諜」などです。これによって、常用漢字表は、2136字になります。
もうひとつの話題は、民主党が掲げる「子ども手当」についてです。これは、その手当がどうということではなく、「子ども」か「子供」かという議論です。10月12日の 産経新聞でそれを取り上げています。この筆者は、「「子供」と「子ども」とは別の概念だ。小児または小児らを指すのが「子供」で、「子ども」は「子+複数を表す接尾語ども」を表す書き方だ。なるほど「子ども」と書いても、この「ども」に複数を表すという意識はもうほとんど薄れている。だからといって、この接尾語「ども」が完全に滅んだかといえばそうではない。野郎ども、アホども、子供どもといえば複数概念がちゃんと生きていることが分かろう。この「ども」には、相手を見下すニュアンスがある。だから、「子供」よりもよほど子供を侮った書き方なのである。」
どうしてこんな議論が起きるのかというと、一部の人に、「供」はお供の供で、子供を供え物のように扱う人権無視の書き方だという人がいるからです。
また、24日付読売新聞編集手帳でもこの話題を取り上げています。読売新聞のこの欄では、国民の祝日〈こどもの日〉を除き、もっぱら「子供」と表記してきたそうです。英文学者、柳瀬尚紀さんの著書の一節を紹介しています。「〈(差別だとは)…お笑いです。「子ども」では「ガキども」「野郎ども」「男ども」「女ども」を連想して、かえって子供に申し訳ない。ぼくはずっと「子供」で通しています。(新潮社「日本語は天才である」」
民主党が打ち出した「子ども手当」は、思わないところで議論を呼んでいます。
投稿者 fujimori : 22:58 | コメント (4)
2009年08月27日 [新聞記事より]
サミット
今月の26日のニュースで、フランスのサルコジ大統領が、各国に派遣した大使を大統領府に集めた恒例の外交演説で、フランスが主要国(G8)首脳会議の議長国となる2011年から同会議をG14に拡大する意向を示したことが流れました。G8サミットとは、日、米、英、仏、独、伊、加、露8か国の首脳及びEUの委員長が参加して毎年開催される首脳会議です。この8か国を14か国にしたいという提案です。新たに加わる国はどこかということには言及していませんが、プラス中国、インド、ブラジル、エジプト、メキシコ、南アフリカなどが候補とみられます。サルコジ大統領はこれまでも、サミット参加国の拡大を唱えてきていますが、具体的な日程を示したのは初めてです。大統領は演説で、中国など新興国を正式メンバーとしないサミットは「不十分だ」とした上で、来年カナダで開かれるサミットで拡大の道筋を詰め「11年、フランスが議長国を務める際にG8からG14への完全移行を達成したい」と言明しました。
昨年夏、日本の洞爺湖で行われたサミットの記念写真を見て、アジアから唯一のサミット参加国ということをきっと誇りに思っているだろうということがうかがわれます。ですから、このサルコジ大統領の提案に日本は難色を示すであろうと思っていましたら、やはりそのようです。
この会議では、経済・社会問題を中心に国際社会が直面する様々な課題について、非公式かつ自由闊達な意見交換を通じて物事を決定し、その成果が宣言としてまとめられます。また、サミットには他の国際的なフォーラムと異なり事務局がありませんが、それぞれの国で総合的・横断的に様々な分野を総覧する立場にある首脳がトップダウンで物事を決めるため、適切な決断と措置を迅速に行うことが可能になります。この会議への参加国も時代によって変わってきたようです。
第1回首脳会議はジスカール・デスタン仏大統領(当時)の提案により、1975年11月、パリ郊外のランブイエ城において、日、米、英、仏、独、伊の6か国によって開催されました。その後、76年のプエルトリコ会議からはカナダが参加し、77年のロンドン会議からは欧州共同体(EC)(現在は欧州連合(EU))の欧州委員会委員長が参加するようになりG7となりました。そして、2003年のエビアン・サミット以降は、ロシアを「世界経済」に関するセッションを含め、完全に全ての経済協議に参加させる、「完全G8化」で合意しました。
このようなサミットを見習って、様々なサミットが行われています。今月24日には、東北6県の知事が論議する「東北サミット」が、今年のテーマ「東北の文化戦略」ということで行われました。また、G8サミットで議論される政治や経済の問題は世界中の子どもたちにも大きな影響を与えるということで、2005年からG8で取り上げられる国際問題を子どもたちの視点で話し合う「Junior8(ジュニア・エイト)サミット」がスタートしました。世界を代表する首脳陣に対し、子どもたち自身が貧困や教育などの子どもに関わる問題を解決するための提言を行うのですが、参加者は、ユニセフが主催するコンテストを通じて選ばれます。
今日と明日は、新宿で「GTサミット」が行われています。

日本中の園長たちが70名ほど集まって、これからの新しい保育を考えようというテーマのもと熱心に話し合われました。園で総合的・横断的に様々な分野を総覧する立場にある園長がトップダウンで物事を決めるため、適切な決断と措置を迅速に行うことが可能になることを信じます。
投稿者 fujimori : 23:47 | コメント (5)
2009年07月31日 [新聞記事より]
オバマと孟子
昨日の孟子の言葉ではありませんが、四字熟語として日常的に使う言葉はあるのですが、そのほかの部分は論語にしても孟子にしても学校で習うほかはあまり触れることがありません。ですから、どのくらいの人が孔子や孟子の言った言葉を覚えているのでしょうか。数日前のニュースで、このような内容が流れました。「“山道は人が歩けば道になるが、歩かなければ雑草でふさがれる”。ワシントンで27日始まった「米中戦略・経済対話」の開会式で、オバマ大統領は演説の中で中国の儒学者、孟子の言葉を引用し、未来を切り開く道を米中両国がともに歩んでいこうと呼びかけた。「相互不信によって道を雑草でふさぐことはあってはならない」と強調し、対立ではなく持続的協力の必要性を訴えた。」
なんと、オバマ大統領が孟子の言葉を引用したのです。しかも、この開会式では、クリントン国務長官は「人々の心が一つになれば、泰山を移すことができる」という孔子の言葉を使って、世界の課題に米中が立ち向かう決意を披露したそうです。また、ガイトナー財務長官も、中国語の熟語「風雨同舟」を持ち出し、経済危機への米中の取り組みを評価したのです。逆に中国の戴秉国国務委員(副首相級)は、「イエス・ウィ・キャン」で演説を締めくくり場内を沸かせたといいますから、しゃれていますね。これらの演説は、事前に用意されていたものでしょうが、米中戦略会議の内容は、気候変動対策などで隔たりはあるものの、この挨拶で双方は気配りを感じさせたということで話題になっています。
オバマ大統領が逸話として例に出した孟子の言葉は、「孟子謂高子曰。山径之蹊間、介然用之而成路、為間不用、則茅塞之矣。今茅塞子之心矣。」(尽心篇・下篇)からです。
高子は斉地方出身の門人で、孟子の弟子だったのですが、他派に走って孟子のもとから途中で離れてしまった人です。その元弟子に向かって孟子は、「山中の道というのは、常に人が歩いていれば道となるものだ。しかし、少しの間でも歩く人がいなければたちまち茅(ちがや)がこれを塞いでしまうものなのだ。今お前の心は、茅で塞がれている。」ということで、最後は、離れていった弟子に対しての嘆きとも非難ともとれる言葉を言っています。
泉谷しげるの歌を思い出しました。「久しぶりです」という歌ですが、久しぶりにこの歌を思い出したので少しうろ覚えですが。
「ほんのとなりの街まで 足をのばせばいいことなのに 久しぶりが気はずかしく ついつい御無礼しています。あれほど必要だった人なのに まるで明日にまかせるように 思いで話にしようとしています」先日、ある会社で、懐かしい人たち何人かと会って、夜は数人と食事をしました。とても懐かしく、話が楽しく、なんだか少し前なのに青春時代を思い出したかのような気持ちでした。しかし、その人たちは、たった30分くらいかければ会いに行ける距離にいます。しかし、何となく会うのが気恥ずかしかったのかもしれません。そして、会っての最初は、この歌の二番の歌詞のようでした。「久しぶりの感激も月日のちがいがそうさせるのか おたがいの変化をまるでたしかめあっているようです あれほど必要だった人なのに まるで明日にまかせるように 思い出話にしようとしています」そして、こんな会話をします。3番の歌詞です。「あまり変わってないようだね でも少し腹が出てきたぞ 今なにをしてるの へェそう ちっともしらなかったよ あれほど必要だった人なのに まるで明日にまかせるように 思い出話にしようとしています」
まさに「山径之蹊間、介然用之而成路、為間不用、則茅塞之矣」ですね。
投稿者 fujimori : 21:44 | コメント (3)
2009年07月18日 [新聞記事より]
梅雨明け
東京では今日は少し雨が降りましたが、関東甲信越地方は7月14日に梅雨明けしています。梅雨明けは、地方ごとに気象台が気象庁と打ち合わせ、1週間先までの予報資料で降雨の有無などを判断して決めていますが、梅雨は、太平洋高気圧が南から張り出して日本列島を覆い、梅雨前線を北に押し上げることで明けるのです。東京では、平年が7月20日ですから、少し早いようです。梅雨入りは平年より2日くらい遅かったようですが。それよりも、今年の特徴として、東海や北陸、近畿、中国地方などの梅雨明けより関東甲信越のほうが早かったという点です。名古屋地方気象台によると、関東甲信地方が東海地方より先に梅雨明けしたのは2001年以来で、統計を取り始めた1951年以降、過去に8度あるだけだということです。
また、九州北部がなかなか梅雨明けしないようです。この地方も関東甲信地方より遅かったのは、7年ぶりだそうです。競争ではないので、なにも早いほうがいいわけでもないのですが、それが何か気象に影響しないかどうかということが心配です。今日の新聞によると、今年は大陸からの寒気に押されて、太平洋高気圧の張り出しが弱く、梅雨前線が九州北部付近の上空に停滞しているために、九州地方では、来週いっぱいは梅雨明けしないとみており、しばらくぐずついた天気が続くそうです。
それよりも、今年は気をつけたほうがいい現象が起きています。気象庁によると、ペルー沖の海面水温が上がり、日本上空の高気圧の発達を抑えることで、冷夏や大雨の原因となるエルニーニョ現象が発生しており、冬まで続く可能性が高いといっています。エルニーニョの年には、57年の諫早豪雨や82年の長崎豪雨、97年に鹿児島県出水市で21人が死亡する大雨などが起きていますので、九州地方の方は気をつけて準備をしておいたほうがいいかもしれません。
「エルニーニョ」という言葉は、は、スペイン語で「男の子-神の子-」という意味だそうです。もともとは、ペルー北部の漁民が毎年クリスマスのころに現れる沿岸の小規模な暖流のことを「エルニーニョ」と呼んでいました。この暖流は、その時期になるとあらわれるものですが、数年に一度、ペルー沿岸だけでなく、もっと広範囲の中部太平洋赤道域から南米沿岸まで海域で海面水温が平年に比べて高くなり、塩分が少ない海水が現れる状態が6カ月から1年程度続くことがあり、その現象を「エルニーニョ」と区別するため「エルニーニョ現象」と呼んでいます。これとは逆に、中・東部太平洋赤道域の海面水温が平年に比べて低くなる現象をスペイン語で「女の子」を意味する「ラニーニャ現象」と呼んでいます。
エルニーニョ現象が起こると世界各地で気温や降水量の変化が顕著に現れやすくなり、日本では、長梅雨、冷夏、暖冬、日本付近では台風の発生数が減少する傾向があるそうです。世界では各地に高温、低温、多雨、少雨などが発生するようです。また、海水温の変化による影響として、ある地域では漁業不振で大打撃を受け、ある地域では殆ど水揚げされないはずの魚介類が大漁となることがあるそうです。日本では暖冬で冬物が販売不振に陥るため、経済にも影響が波及します。エルニーニョ現象の原因はまだよくわかっていないそうですが、熱帯の太平洋全体におよぶ気象の変化、さらには地球全体の気象の変化と関係しているといわれているように、これらの現象も結局は人間が引き起こしているのかもしれませんね。
気象異常は、災害だけでなく経済にまで影響しますので、気をつけたいものです。
投稿者 fujimori : 19:06 | コメント (4)
2009年07月10日 [新聞記事より]
レンタル
先日の7月4日の読売新聞にこんな記事が掲載されていました。
「DVDレンタル最大手「TSUTAYA」を展開するカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)は洋画の名作DVD100本を1本100円(原則として7泊8日)でレンタルするキャンペーンを始めた。出版各社が文庫で展開している「夏の100冊」をヒントに「フォレスト・ガンプ 一期一会」「ローマの休日」など名作100本を「心が泣いた」「恋に落ちて」など12テーマに分けて紹介、全国1376店で8月末まで実施する。」というものです。
私はあまりTSUTAYAは利用しませんが、ここのカード会員は20~30歳代を中心に3231万人(4月末現在)もいるそうですからすごいですね。しかし、この100冊のラインアップを見ると、ずいぶんと懐かしい名作が並びます。ちなみに、今年上半期のランキングは以下のとおりです。1、きみに読む物語 2、エターナル・サンシャイン 3、スター・ウォーズエピソード4新たなる希望 4、クラッシュ 5、ミリオンダラー・ベイビー 6、ライフ・イズ・ビューティフル 7、死ぬまでにしたい10のこと 8、ラブ・アクチュアリー 9、ショーシャンクの空に 10、アメリですが、この中では私は3作品しか見ていませんが、どういう人が借りているのでしょうか。実際のレンタル利用が多いのは50~60歳代だそうです。そして、最近の不況による「巣ごもり消費」の拡大をにらみ、名作DVDの格安レンタルで中高年の会員増を狙うようです。
また、新しいところで、TSUTAYAグループの株式会社ツタヤオンラインは、今年の1月末にTSUTAYA online総会員数が1,500万人を突破したというニュースも流れました。これは、パソコン向け・携帯電話向け双方総合エンターテインメント情報サイトで、店舗と同じクオリティのショッピングを可能とする通販サービスで、携帯電話での買い物というライフスタイルを構築いたしました。
この新しい企画を次々に発信しているTSUTAYAは、カルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社(通称CCC)が運営しています。CCC創業当時からのメッセージは、「不可能に見えたことも、可能にしてくれたのは夢。今、新しい世界を見るために、新しい夢を見る」「ONLY DREAM,COME TRUE 」だそうです。
1982年に増田宗昭が、大阪府枚方市の枚方駅前ビル5Fに喫茶店兼貸レコード店「LOFT」を開店したのが始まりです。そして、翌年、大阪府枚方市にTSUTAYA 1号店「蔦屋書店 枚方駅前店」をオープンします。蔦屋とは、増田宗昭社長の祖父が置屋を経営していて、その屋号が「蔦屋」だったからですが、1号店の開店当日、友人から江戸時代の地本問屋「蔦屋」の主人で、写楽、喜多川歌磨、十返舎一九、滝沢馬琴ら狂歌師・戯作者などを送り出した蔦屋重三郎の話を聞かされ、彼にあやかりたい、という2つの理由で「TSUTAYA」と名付けられたとホームページには書かれています。
創業者の増田氏は、「何より痛感したのは、『とにかくやってみる』ことの大切さ。これが人間が成長するための最良で最大の方法と学んだ。」と言っています。とにかくやってみるということは新しいことに挑戦する人の共通の心構えです。また、この新しいものに取り組むためには、何でも無鉄砲にやるのではなく、情報収集が必要です。その情報について増田氏は、「情報は、集めるよりも「集まる」ものが大切。人から好かれない人間に情報は集まらない」と言っています。おおきく伸びた企業からの学びは大きいですね。
投稿者 fujimori : 22:31 | コメント (5)
2009年07月05日 [新聞記事より]
コラム2
アメリカの子どもと日本の子どもは、その国民性による違いよりも個人差の問題であることが多いのですが、おおむねその国の国民性と言われる共通した特性があることはあります。それは、風土や伝統や歴史などから形作られてきたということがあるでしょうが、現在、ボーダレス化された世界で、子どもたちはどの国で仕事をするか、どの国の人と仕事するかわからない時代がくるときに、必要な力は国が変わっても同じである必要があります。
この子どもに共通な必要な力はドイツに行っても感じます。しかし、ある企業が私のところに来て、これから外国の子ども向けに商品開発をするときのポイントは何かと聞かれた時に、私はこう答えました。「一言でいうと、日本で商品を売る時には“この商品は、清潔で安全です”ということが受けますが、外国では“この商品を使うことで子どもたちは自立をします”というキャッチフレーズが受けるのではないでしょうか」と助言しました。どうも、日本は子どもへの対応で重視しているものが少し違うようです。
昨日の朝日新聞のコラムに、江崎玲於奈先生のアメリカと日本の教育の違いについての話を聞いたときに考えたことが紹介されていました。
「世の中に出たらこの子も荒波にもまれて苦労するだろう、という認識はアメリカも日本も同じです。その前提を踏まえて、アメリカは、世の荒波に対抗できるよう今のうちに厳しく強く育てておこうと考え、日本は、厳しい未来が待っているのだから今くらい楽にさせてやろうと考えているように私には見えます」とおっしゃっておられた。サバイバル能力をいかに身につけさせるか、それには、自立できる生活能力を身につけさせるのはとても大事なことと理解した。
この話はずいぶん前のことでしょうが、この傾向はますます顕著になってきている気がします。それどころか、厳しい未来のことを考えての対応の違いではなく、逆に日本では、短期的に見ての対応のような気がします。新聞のコラムではこのような問題提起をしています。
「自立させるために一人一部屋の子供室を与える」という話はよく聞くが、果たしてそれだけで子供は自立した人間に育っていくだろうか。子供室の掃除、子供たちの衣服の洗濯、調理・後片付けなど全ての家事に子供を参加させないでどうやって子供を自立した人間にするのだろうと、アメリカからやってきた青年と話していて思った。 対面式キッチンが普及して、夫や子供たちとのコミュニケーションがよくなった、彼等がキッチンに入ってくる回数も増えたと喜ぶ声を主婦からよく聞くが、まだまだ家事を分担しあう、助け合う、それぞれに育っていく、というところまでは行っていないようだ。
住居の在り方でLDKというキッチンをダイニングやリビングに隣接させ、主婦を奥まった場所からみんなが集う場所に引っ張り出す形式を考えだしました。このコラムのように、今度は、子どもたちをみんなが集う場所に引っ張り出し、客としてではなく、家族の一員としての役割を持たせることが必要でしょう。同じ屋根の下で暮らしていても、それだけでは家族ではないことは確かです。家族の一員であるという意識が、子どもを自立させていくのかもしれません。
投稿者 fujimori : 22:45 | コメント (4)
2009年07月04日 [新聞記事より]
今日のコラム
今日の朝日新聞のコラムに「日米子育て観の違い」ということで、鈴鹿規子さんがアメリカから日本に留学してきている20代の男性との話について書いています。
その話の中でそのアメリカ人の彼が日本でホームステイをした時に「日本人の家庭で家族の一員として暮らさせてもらう」と思っていたら彼を「お客さま」として迎えたことが一番驚いたということです。「朝ごはんから夜寝るまで至れり尽くせりで、親切心はわかるがかえって居心地が悪かったという」ようです。日本人は、確かに外国人に対して、特にアメリカ人にはなかなか家族のようには接することはしないような気がします。家族のように扱うということは、どういうことでしょうか。
先日、私の園の男性職員がちょっとミスをしました。その報告を受けた私は「あっ、そう。今後気をつけて!」と返答したら、後で私のところに来て、「園長先生はいつも職員を家族のように思っていると言っていたのに、そういう怒り方をしてくれなかった。もっと、家族のように怒ってほしい」と言われました。確かに、私は、報告を受けたときに真剣に聞かず、聞き流しました。それは、そのことに気づくかと思っての対応でしたが、それを、きちんと気づいてくれたのです。私は、人は誰でもミスをするものだと思っていますので、「もう二度としません」などという言葉はあまり信じません。しかし、それを少なくするような今後の工夫なり、そのことによって誰かに迷惑をかけているということだけは忘れないように、また、悪いことをしてしまったという気持ちをいつまでも持ち、ミスにマヒしたいでほしいと思っています。その気持ちが伝わった気がしました。
留学したアメリカ人が家族のように思わなかった理由を文化の違いだと思ったようです。「アメリカでは、子供も家の中で役目を持っていて、“これはあなたの仕事よ。いくら勉強が忙しくても家族の一員なら自分の役目は果たしなさい”と言われるという。」それに対して日本では、「その家の子どもさえもお客さま扱いされている。これでお互いに思いやり、助け合うという気持ちが育つのだろうかと、アメリカの家庭教育との違いに驚いたという。 」そこに生活習慣の内容の違いより、「文化が違うのだなあ」と感じたのはそのことだったと言っています。「アメリカでは、18歳になったら家を出て自立するのだから、その時に何でも自分で出来るように家の仕事を覚えておきなさいと幼いときから言われていたそうだ。」と書かれています。
しかし、これは本当かなと思いました。というのは、私の家でもアメリカの男子高校生を、ひと月くらいホームステイを受けていた時、彼は毎日はいているズボンや下着を私の妻に突出して「お母さん、洗濯しておいて!」とテレビを見ながら振り向きもせず言ったものでした。勿論与えられていた部屋も掃除もしませんでした。私の子どもたちでさえ、遠慮して頼んだり、家事を手伝うのにと思ったものでした。プライバシーの重視にしても当時中学生だった娘の部屋にノックもせずに入り、娘は、「お兄ちゃんでさえノックするのに!」と怒っていました。彼は、アメリカではかなり上流家庭の子で、優秀な学生でした。しかし、彼が我が家にホームステイをしてくれたおかげで、わが子たちは「日本人とは」とか、「アメリカ人とは」の前に、個人差ということを感じることができた気がします。
投稿者 fujimori : 21:27 | コメント (4)
2009年06月17日 [新聞記事より]
テーブルサッカー
先週の土曜日の毎日新聞地方版に「みちのくアスリート:仙台のテーブルサッカー女子選手・佐藤好枝さんという記事が掲載されていました。彼女は、日本女性選手の中で唯一の技を持っていると言われています。その技とは、「回転棒の横に手首をあてて、人形を一回転させる「ロール・オーバー」と呼ばれるシュート」です。この記事を読んで、「テーブルサッカー」とはどんなものなのかと思う人がいるかもしれません。75cm×140cm程度のテーブルに人形の付いた8本の回転棒があり、互いに4本の回転棒をくるくる回して「選手」を操るテーブルゲームです。対戦方法は、「シングル」「ダブルス」があり、電気は使いません。相手との心理的な駆け引きも必要なスポーツといわれていて、日本ではあまり見ませんが、外国ではメジャーです。私の園には学童クラブが併設されているのですが、開所以来どうしても欲しかったものが「テーブルサッカー」でした。それは、ドイツの学童クラブを訪ねると、どこにも必ず「テーブルサッカー」が置いてあるからです。

今年、その念願かなって買うことができました。
このゲームの起源はあまり確かではないようですが、おそらく1880年代から1890年代にイギリスで考案され、ドイツ人が商品化し、ベルギー人がリーグ化して面白くしたと言われています。また、フランスのシトロエンの技師がそのメカニカルな部分の開発に関わったともいわれています。このような子どもが遊ぶようなゲームに大人が夢中になるというのは、その開発にはこんな意図があるからです。サッカーのオフシーズンに、選手たちの動体視力や反射神経を鍛え、勝負感を衰えさせないために、手を使い頭脳と身体の連係をよりスムーズに保つハンドアイコーディネーション(手と目の連携動作)が活性化され、リラックスできるものを考えて生まれたのがテーブルサッカーなのです。ところがあまりにもこの機器のゲーム性や戦略性が面白いことから、一般的なゲームにもなりヨーロッパ中心に広がりました。そして、世界中のサッカーファンが、より面白く、より楽しめ、リハビリに役立つゲームにと英知を注いできたようです。
園で購入したマシンは、テーブルサッカー協会公認なので、協会の人が指導に定期的に来てくれています。その人から、まだ日本では競技人口が少ないので、小さいうちから親しんでいると、もしかしたら日本チャンピョンになれると言われています。06年には、ドイツW杯に合わせて、テーブルサッカーのW杯も20か国のプレーヤーが集まってハンブルクで開催されています。
テーブルサッカーゲームは、ドイツ語では「フスボール(Fuss)」と呼ばれ、現在、最もテーブルサッカーゲームが盛んな国アメリカでは、その発音から 「フーズボール(Foose)」となりました。現在では、ヨーロッパとアメリカを中心に全世界で楽しまれていて、世界大会は数百万円単位の優勝賞金のある大会が行われています。そして、このゲームは、手と目、頭脳と身体をフルに使うために、気力の充実、身体の各部分のスムーズなコーディネーションに役立ち、ストレスから解放してくれるということで、病院関連施設などでも実際にリハビリ機器として導入されたり、アメリカの大手コンピュータ会社でもレクリエーションとして採用されており、IT関連企業だけのトーナメントもあるそうです。
園でも、子どもが帰ったあとに職員が熱心にやる姿が見られます。
投稿者 fujimori : 21:40 | コメント (4)
2009年06月12日 [新聞記事より]
電子マネー
最近のニュースで、「コンビニチェーン“セブン‐イレブン”の全国1万2323の全店舗において、プリペイド型電子マネー「Edy」による支払いが、2009年10月から可能になることを発表した。レジでのEdyのチャージにも対応する」というのが流れました。私は、プリペイドカードでは主にこのEdyを使っていますが、多くのコンビニでは使えるのに、セブン‐イレブンでは「nanaco」を中心に、「QUICPay」に対応しているだけでEdyは使えませんでしたから、今度は便利になります。
私がEdy(エディ)を活用する理由が二つあります。一つは、ソニーが開発した非接触ICチップFeliCaを搭載したおサイフケータイという携帯電話で利用する事ができるからです。もう一つの理由は、ANAマイレージクラブとの提携によるポイントが付与されるからです。また、一時期、ANAを利用するとEdyのポイントがもらえたことがありました。このEdyという名称は、ユーロ(Euro)の「E」とドル(Dollar)の「d」と円(Yen)の「y」の頭文字からとられており、この通貨に次ぐ第四の基軸通貨になってほしいとの願いからつけられたそうです。また、これを運営管理するビットワレット株式会社は、2001年1月18日、ソニーグループ、エヌ・ティ・ティ・ドコモ、さくら銀行(現三井住友銀行)、トヨタ自動車、デンソー、ディーディーアイ(現KDDI)、三和銀行(現三菱東京UFJ銀行)、東京三菱銀行(現三菱東京UFJ銀行)など家電、通信、金融、自動車等の幅広い業界で日本を代表する11社の出資により設立された会社です。会社名は、bit(電子的)とwallet(財布)をあわせた造語です。
この電子マネーと言われるものはいわゆるプリペイド型で、事前に代金を支払って購入するもので、商品券と異なり、残額がゼロになるまで繰り返し利用できます。利用者は、小銭を持ち歩く必要がなく、軽くて持ち歩きやすく、カードによってはプレミアムがついていることもありますが、使える場所が限られていると、何枚も持たなければならず、その店でも使える紙幣の方がかえって便利になってしまうので、どのくらいのところで使えるかが課題です。そんなわけで、私にとっては、今回のニュースはありがたい話です。
しかし、プリペイド業界もなかなか厳しいようです。このEdyにしても設立以来ずっと赤字のようですし、ずいぶんと廃止されて消えていったものも多くあります。
日本でのプリペイドカードは、1982年、旧電電公社がテレホンカードを作ったのがはじまりです。このカードは、通話したい時の硬貨の用意や釣り銭の出ない不満や、長時間通話の場合に多量の硬貨を追加しなければならないことや、通話切れの心配を解消してくれます。ですから、これはずいぶん普及しました。必ず、数枚は持っていました。また、設置者にとっても、金庫満溢による停止を避けられる他、硬貨集金の巡回経費を節減できるメリットがありました。その後いろいろと作られました。しかし、しかし、このカ-ドは磁気で記録するカードであるため、記録するデータ量がさほど多くなく、また市販のカードリーダ・ライタで偽造が行ないやすいため、偽造カードの流通が大きな社会問題となり、相次いでオレンジカードやテレホンカードやハイウェイカードなどの高額カードが発売停止になりました。また、携帯電話のように違うものが使われるようになったことで、プリペイドカードシステムそのものも廃止されているものが増えています。
私は、携帯電話の機能が増えるに従って、ポケットに入れるものが少なくなっています。
投稿者 fujimori : 21:32 | コメント (4)
2009年04月23日 [新聞記事より]
主体性と環境
私は講演の中でよく旭山動物園のオランウータンの話をします。旭山動物園では、他に先駆けてオランウータンの空中散歩を観客に見せました。大勢の観客のはるか上のロープを伝わって、隣にあるえさ場まで移動するのです。それを見ている観客は、落ちやしないかとヒヤヒヤして見ています。その時に、飼育員がこう言います。「皆さんは、オランウータンが落ちてはしないかと心配して見ていることでしょう。ご安心してください。決して、落ちません。もし落ちてしまうようでしたら、この世には、オランウータンは存在していません。そんなことでは、遺伝子は残してこれるはずはないからです。」
すべての遺伝子は、自分たちの種を存続させるように受け継がれています。それを、人為的に、意図して何かをしてしまったら、もともと持っている力を失わせてしまっていることが多いのです。ところが、18日のニュースで、「能美市のいしかわ動物園で、オランウータン1頭が空中展示施設から落下、園内を逃走した。」というニュースが流れました。空中展示施設とは、旭山動物園にあるような「空の散歩道」といって、高さ10~13メートルの鉄製支柱4本にワイヤを張り、来園者は頭上を行き来するオランウータンを観察できる仕組みです。このニュースを聞いて、私はどうして落ちたのだろうと思いました。人間に飼われていることによって、本来持っている力を失わせてしまったのだろうかと思いました。
すると、そういうわけではなく、逃げないように、乗る台の下には電流(約9000ボルト)を流しており、このオランウータンは、その電線に誤って触れ、驚いた勢いで落下したとみられています。やはり、人為的環境が、本来持っている力を上回ってしまったのです。しかし、さすがオランウータンだと思ったのは、ふだん、その部分に触れないようにするのは、「触れないよう学習させており」と言っていて、「したがって、これまで問題はなかった」と言っていることです。人為的環境には、本能ではなく、学習が必要なのですね。
最近、動物園の動物たちは子育てをしなくなったということをよく聞くようになりました。もともとは動物は、出産、育児ということは、自分たちの遺伝子を残すためには自然のことでしょう。しかも、その育児にしても人間のように育児書を読むことも育児相談することもしません。それなのに子育てができるのは、「身体にもともと備わった感覚に身をゆだねてそれに導かれることが大きな理由である。それが身体の規定力というものである。」と、早稲田大学教授で、人間と動物の親子関係を考察している根ヶ山光一氏は書いています。さらに氏は、この身体の規定力という力は大人が持っているよりもはるかに子どもに備わっている能力のほうが強い主張性を持っていると言っています。ですから、子育ては、大人からの規定力よりも、子どもの身体からの訴えにしたがって自然と適切な子育てに導かれていることが多いといいます。
ですから、子どもの主体性を再認識する必要があるのです。子どもを大切にするからと言って、ただ子ども中心にしようという「子ども主体」という情緒的なことではなく、遺伝子を残していくという営みでは子ども主体というのはとても重要なことなのです。そんなことから最後に根ヶ山氏はこんなことを提起しています。
「そういった主体性・能動性がのびのびと発揮できるような環境作りと、それをふまえたおとなと子どもの望ましい共生の創生を模索していく必要があるだろう。」
投稿者 fujimori : 21:39 | コメント (4)
2009年03月17日 [新聞記事より]
防災無線
八王子市では、夕方「夕焼けこやけ」の曲がどこからともなく流れてきます。それは、夕方になる場合は、小学生にそろそろ帰る時刻になったという知らせでもあります。私が子どものころは、住んでいたのが下町でしたので、夕方になると夕食のみそ汁の具のために豆腐売りがラッパを鳴らしながらやってきます。そのラッパの音がするのを合図に家路についたものでした。
それぞれの自治体では、さまざまな曲が流れます。今日の新聞によると、岩手県宮古市では、シューベルトの子守唄が午後9時に流れていたそうですが、今月いっぱいで中止になるそうです。そこで、見出しには、こんなタイトルが付けられています。“「眠れー眠れー」眠れない子守歌中止へ”というものです。なんだかシャレになりませんが、「眠れー、眠れー」と流れる曲が、大音量のために、若い夫婦は「せっかく寝かしつけた子どもが起きて困る」、早朝の漁に備える漁師らは「寝たのに目が覚めてしまう」など「うるさい」と苦情が増えたためだそうです。とりわけ網戸にする夏場には苦情が殺到するそうです。確かに毎日午後9時に流れるというのは騒音かもしれません。市の担当課は「多くの市民のやすらかな眠りのためには、しかたありません」といっているそうです。
しかし、この曲はなにも住民を寝かしつけるためではないのです。市町村が防災行政のために設置・運用する防災無線である「市町村防災行政無線」の点検のためです。防災無線とは、人命に関わる通信を確保するために整備された専用の無線通信システムで、公衆通信網の途絶・商用電源の停電の場合にも使用可能なように整備されています。その中で、市町村防災行政無線は、市町村が整備するもので、3系統あります。一つは「移動系」と呼ばれるもので、防災情報を収集するため自動車へ搭載し、持ち運び可能な移動局と役場などの基地局とで通信するものです。「同報系」と呼ばれるものは、屋外スピーカーや戸別受信機で、住民に対して防災情報を周知するものです。今回の苦情から取りやめたのは、この系統に対してです。そして、「テレメーター系」というのは、観測点と指令所を結び、降水量・河川の水位測定などのデータを収集するために使用するものです。
どんな災害の時に住民に知らせるのかというと、「大規模災害発生時の避難勧告、避難命令などの告知」「緊急地震速報や武力攻撃等の緊急事態における国民への情報伝達」「火災発生の知らせ、消防団員の招集、鎮火報告」「戦争犠牲者追悼のための鐘・サイレン(8月15日、8月6日、8月9日)」などがあり、東京では、「光化学スモッグ注意報等の告知」に使われたり、地方では、「運動会の延期連絡」に使われることもあります。
また、各地でよく聞く音楽は、「朝・昼・夕(07:00・17:00が多い)の時刻を知らせる音楽・鐘・サイレン、児童の帰宅を促す放送」で、この設備が故障していないことを確認するための試験のために毎日放送されているものです。曲としてどんな曲が使われているかというと自治体によって違いますが、多くは「夕焼小焼」とか「ふるさと」です。あと、「家路」「赤とんぼ」「蛍の光」「エーデルワイス」などのようです。朝夕曲を分けるところもあり、朝は「メヌエット」というところもありました。また、夏は「やしの実」、秋は「この道」、冬は「浜地鳥」というように季節によって変えるところもありました。モダンなところでは、「イマジン」が流れるところもありました。
まあ、どんなに良い曲であっても、点検のためであれば仕方ありませんが、なにも午後9時に流すとか、朝晩流さなくてもいい気がしますが。
投稿者 fujimori : 23:07 | コメント (5)
2009年02月20日 [新聞記事より]
料理
よく、保育園などでは「家庭的な環境」とか「家庭的な雰囲気」という言葉を使うことがありますが、この「家庭的」という概念は、人によって、時代によって随分変わってきていると思います。いわゆる「一家だんらん」というイメージも変わってきました。テレビでかつて見た「寺内貫太郎一家」のようにお手伝いさんや使用人も含めた家族全員で一つのちゃぶ台を取り囲んで(なぜか手前にはだれも座らないが)食事をするとか、時たま主人がそのちゃぶ台をひっくり返すなど、テレビや映画の世界だけになってきました。
少し「家庭」とは違うかもしれませんが、最近の2005年の国勢調査によると、1世帯の平均人数は2・55人に落ち込み、今後も減少が予想されているそうです。しかも、そのうち一人世帯が、全世帯の過半数を超えたそうで、残りの半数のうちで半数は二人世帯だそうです。
そんなこともあって、昨日の新聞には、NHKテレビ番組の「きょうの料理」で、3月30日放送分から、紹介する料理の材料の目安を4人分から2人分に減らすようです。この番組では、1957年11月にスタートした当初は、5人分が「目安」でした。ところが、核家族化の進行に伴い、1965年4月から4人分に減らしたのですが、世帯数の変化と、番組テキストの読者アンケートでも2人分を望む声が多かったことや「食べ物の廃棄が問題となる中、食べ物を大切にする姿勢も示す」としていることから、44年ぶりの変更に踏み切ったということのようです。ただ、一度に多めに作った方がおいしい料理や大人数向けの料理は、今後も4人分やもっと多い分量で紹介することもあるそうです。まあ、私は、二人であれば、紹介された分量の半分にすればいいと思うのですが。
「きょうの料理」という番組は、最も長い料理番組の1つで、2006年10月より、「現行の番組で一番の長寿番組」のひとつともなっているようです。そして、その番組のもう一つの印象は、冨田勲作曲の軽快で、包丁で物を刻む音をイメージした「クッキング」という題名のテーマ音楽が流れて番組が始まることです。1回目は、料理された完成品を見せるだけでしたが、3回目から番組内で調理するようになったそうです。その料理は、「かきのカレーライス」だということを、先日のテレビで放送していました。NHKが2006年に公開した「ジャンル別番組制作費」によると、この番組の制作費は1本170万円掛かるとのことでしたが、ずいぶんかかるのですね。
同様に料理の長寿番組で、1996年に「世界一長い期間放送されている料理番組」としてギネスブックに認定されているのが「キユーピー3分クッキング」です。これは民放番組で、番組自体は10分の放送です。この番組のテーマ曲は、イェッセル作曲「おもちゃの兵隊の観兵式」ですが、以前は、「恋とはどんなものか(モーツァルト作曲の歌劇”フィガロの結婚”より)」のオルガン演奏バージョンでした。
他にも、印象深い料理番組では、プロの料理人や料理の得意な人が極上の料理を作り、審査員が点数や優劣をつける「料理の鉄人」や、グラハムとその妻が、世界各地の料理について現地で取材し、それの体験談を基に実際に同じものをスタジオで調理していく「世界の料理ショー」があります。グラハムがワイングラス片手に、ユーモラスなトークと、スタジオ観覧者が笑うというスタイルは新鮮でした。
投稿者 fujimori : 22:00 | コメント (4)
2009年01月16日 [新聞記事より]
老いと豊かさ
高齢者の言葉は、長い時間の経過の中で実際に体験してきたことから出てくるので、とても説得力があり、それは、科学的にも正しいことが多くあり、とても参考になります。また、寿命というのは、もしかしたら人によって定めれらた運命的なところもあるかもしれません。しかし、その与えられた人生をどう生きるかということは、自分で開拓していくものです。それは、実際の行動で示すこともありますが、考え方でその人生が熱くなることがあります。それは、決して高齢者に限らず、若い人であっても同じことが言えます。年をとっていくということなどを含めて、今、自分に与えられた様々な課題は、自分の人生を厚くするためのものであると理解することは、その後の人生を有意義に生きることにつながります。
読売新聞の連載の中で昆虫画家の熊田千佳慕さんは、80歳の時、昆虫の微細な起伏や模様に気がつきます。その時に「先がないから『もっと見ろ』と神様に言われたのかもしれない。」と思うのです。その後、天命によって絵を描き続けます。描き続けているうちに、90歳になるころ、心身の老いと疲れを感じ始めます。そこで、「二分の力を残して」作業を終えるようにします。全力を注がないようにしたのです。すると、仕事は中途半端になるかと思いきや、逆に、作品に「豊かさ」という新たな評価が加わったといいます。熊田さんは、「僕には『老後』はない。」と言い、70歳からの「成長する老い」を生きているといいます。老いて力を抜くことは、豊かさを増すことであると考えるのです。そうなると、老いることは、衰えることではなく、成長するということになるのです。
そのことを、理化学研究所センター長の渡辺さんは、このように説明します。「老化とは、疲労などで脳などの組織が傷つき、生命の根源である回復力が失われる現象である。」ですから、心身をリラックスさせるなど、力加減を知ることが長寿の手がかり。柔軟な回復力は疲労による脳の損傷も治すのだそうです。柔軟さが、老化を妨げるのです。歳をとるに従って、かたくなに自分を変えようとしない人をよく見ますが、それは、信念が強くなったのではなく、老化を加速させることなのです。
一方、慶応大準教授の高山さんは、発達心理学から老いを説明しています。「知能は生涯を通じて発達する。おいて経験を得ることでこそ磨かれ、豊かになる知恵という力もある。」老いることで、知識は減少するかもしれませんが、柔軟性は、知恵を豊かなものにしていきます。それは、生物学を学ぶ意味は、知識を得ることだけではなく、生物の示す真実を私たち一人一人の人生に生かすことです。」と、どのような真実を私たちに示してくれているのでしょうか。それは、「生物をよく観察すると、無心に生きながら、足りないものを補い、欠けたものを再生し、その生き様はまさしく柔軟です。」と、京大名誉教授の岡田さんは言います。
柔軟さに目を向ければ、「自然の仕組みの素晴らしさに感動すれば、それぞれの年代の肌、容姿があり、それをありがたく受け入れる姿勢になります。マニュアルや知識ではない。本当の長寿を支えているものは、こうした心のありようだと深く感じるのです。」と言います。「生物には人間のような知性はありませんが、健康に生を全うするための優れた五感を備えています。豊かに生きるためには、私たちも都市生活などで失ったこの五感を研ぎ澄まさなければなりません。常に軌道修正しながら、止むことのないしなやかな生き方、大事なものは本質です。」
いろいろなところに通じる言葉です。
投稿者 fujimori : 22:34 | コメント (4)
2009年01月15日 [新聞記事より]
老いの形
「老いの形」が急速に変わっている。長い老後をどう生きるか。どんな知恵や仕組みが必要か。直面する課題をシリーズで探る「長寿革命」という連載が、読売新聞で13日から連載が始まりました。その記事から、今の生き方を考える上でのヒントをたくさん得ることができ、とても面白く読んでいます。
いまや日本は、世界一長寿国です。それは、公衆衛生の向上や医療の発展、感染症対策、健康意識の高まりなどと相まって、日本人の寿命を大きく伸ばしました。しかし、日本人が特に長寿国になった理由に、違うことをあげています。
欧米諸国に比べ、日本には「高齢になっても、元気なうちは働きたい」という人がはるかに多いという特徴があるそうです。生きがいとして働き、社会のどこかに帰属したいという意識が強いのだそうです。それは、「農業社会では、高齢者にも相応な役割があり、本人も社会もそれを自覚していました。その伝統が今も引き継がれています。この文化的風土と、社会参加の意欲が、日本の特色です。」と書かれてあります。
以前ブログでも紹介しましたが、私の園の取り組みに「ゲストからスタッフへ」というものがあります。園に来る人は、ゲストとしてこないで、スタッフとして来てほしいという呼びかけです。かつて、園の近くに三宅島から避難してきた人たちがいました。その中の子どもたちにはいろいろな団体からの支援がありました。しかし、お年寄りたちは家に閉じこもってなかなか地域に溶け込みませんでした。そこで、園から、「ぜひ、園に遊びに来てください。」と呼びかけましたが、誰も来ません。そこで、園の片隅に小さいのですが、畑を作って、「そこで何かを作りたいのですが、どうしたらよいかわからないので、助けてください。」と呼びかけたところ、あるお年寄りが来てくれたのです。その時に、人は、誰かから必要とされることで、参加をするのだということで、「ゲストからスタッフへ」というコピーを作ったのです。
この呼びかけは、人は人生を終える時まで、ゲストではなく、スタッフとして生きようというメッセージが込められているのです。
この新聞の連載でも、これからの高齢者は、誰もが「長寿」としての役割を与えられるわけにはいかず、従来の老人観を乗り越える必要があることを訴えています。「退職後の世代が大学で学び直す西欧のように、学ぶことを通じて社会参加し、活動を広げることも一つの方法でしょう。高齢者をとりまく社会のあり方を、各世代が真剣に検討し、歩みだすことも大切です。」
私は、スタッフとして生きるということは、何かに「貢献」することだと思っています。それは、必ずしも肉体的な活動だけではなく、精神的な支えや、その存在自体で生きる姿勢を示すこともあると思います。そして、これはその年齢に関係はありません。たとえば、生まれたばかりの乳児でも、その母親に自らの存在で生きる喜びを与えているのです。また、同時に、生きる意欲も与えています。
自分を必要とする人や、必要とする場があることは、人を老いから遠ざけますし、いつまでも若くいられるための重要な要素かもしれません。
投稿者 fujimori : 23:50 | コメント (4)
2008年12月18日 [新聞記事より]
理数
昨日の新聞に、「小中学校の算数・数学と理科で来春から授業時間と内容が大幅に増えることに対応するため、文部科学省と財務省は16日、授業支援の非常勤講師を学校現場に配備できるよう、約1万人分の予算をつける方向で調整に入った」という記事が載っていました。この記事によると、算数・数学と理科は国際的な学力調査でも思うような結果が出ず、教育の重点項目の一つになっているからだということです。この非常勤講師には、退職した教員中心に活用し、経験を踏まえてわかりやすい授業を展開したり、正規の教員と組んで少人数の授業やチームティーチングを進めたりすることが期待されているようです。退職した教員が、今の子どもに対して、興味・関心を引くような授業が展開できるか少し心配です。
また、授業時間数も、算数・数学と理科については来春から前倒しで、小学校では各学年で週1コマ増え、中学でも1年数学や3年理科で週1コマ程度増えるようです。
今の子どもたちは、昔と違って娯楽が満ち溢れ、テレビなどでお笑いに浸り、テンポの速いリズムの中で生活、活動をしているので、淡々と、ただ黒板に書いているような授業ではついてこないで、でんじろうさんのような、面白、おかしく、手品のような理数を進める必要があるでしょう。最近の子どもたちの理数離れは、授業数が少なかったり、先生の数が少ないからではなく、授業の進め方にあるのですから。
文部科学省は、「蜂の巣応援団」という「基礎知識の定着。向学心の喚起!」というプロジェクトを進めています。蜂の巣のように、必要不可欠な施策を組み確実に実施していくことにより、理数が好き・得意な子どもをしっかり育てようとするものです。1は、「魅了する」で、「興味・関心・学習意欲の喚起」、2「導く」は、「教員の指導力向上」、3「満たす」は、「地域における学習機会の充実」が柱になっています。そして、「19年度重点拡充」として、理数学生応援プロジェクトを進めています。
理数といえば、2006年にグランドオープンした東京都江東区有明にある「パナソニックセンター東京内」の「リスーピア」は、「理科と数学(算数)」をテーマにした体感型デジタルネットワークミュージアムで、とても面白く理数が体験できるようになっています。コンセプトは、「子供たちが理科や数学(算数)の持つ魅力に触れ、興味を抱くきっかけづくりの場を提供することにより、企業市民として技術立国日本のための技術者育成に貢献することを狙いとする。」とあります。
ディスカバリーフィールドを見学後に手渡されるお土産用のIDカードを使い、WebサイトのメンバーページからID・PWを入力の上ログインすると、館内で育てたエージェントが現れキャンプ同様に体験履歴をナビゲートしてくれます。
メンバーページではディスカバリースコープの復習は勿論、体験した展示テーマについてWebサイト独自のコンテンツによるより深い学習が可能になり、次回来館時にIDカードを持参すると、前回の続きから体験することができるなど、とても新しい科学にも触れることができるようになっています。
授業も、ただ教えるだけでなく、新しい工夫をしていかないと、子どもたちは理数に対して興味・関心が薄れ、自ら取り組もうという姿勢は見られなくなってしまいます。
投稿者 fujimori : 23:32 | コメント (4)
2008年12月02日 [新聞記事より]
ドイツ環境省
一昨日のニュースで目を引いたものがありました。それは、ドイツの環境省が発表したものですが、07年の温室効果ガスの排出量が90年比で22.4%減となり、京都議定書で掲げられた21%減という目標値に達したというものです。それは、工業、交通などの分野で削減が進んだからのようです。
今年日本中を大騒ぎさせた北海道洞爺湖サミットでは、主要8カ国は、温室効果ガスの世界全体の排出量を「2050年までに半減する」との長期目標そのものには合意しませんでした。首脳宣言案では、「共有を目指す」との文言にとどめただけでした。それは、新興国が参加しない目標設定に慎重な米国に配慮したためです。
しかし、ドイツのハイリゲンダムサミットでは、世界全体の長期目標について、日本や欧州連合(EU)、カナダが提案した「50年半減」は、「真剣に検討する」ことで一致されていたはずでした。ですから、それに引き続いて行われた洞爺湖サミットでは、「検討」から「合意」したかったのですが、そこまで行かず、「目指す」という表現にとどまったことが、まだ記憶に新しいですね。
ただ、中国やインドなど新興国の参加を求める米国の意向を「この地球規模の課題は、世界全体が取り組むことで初めて実現する。特に、すべての主要経済国による貢献が必要だ」と明記することで反映しました。
京都議定書第 4 条(共同達成)に基づき、EU15 ヵ国1 の温室効果ガス削減目標は2008~2012 年の第1 約束期間において基準年(1990)対比でマイナス8%となっています。その基準に沿って、EU 域内では各国で削減目標を設定していますが、8%の目標を上回って削減する国は、ドイツやデンマーク等だけで、フランスやフィンランドでは、現状維持で、上限は設定されているが排出量を1990 年よりも増加させることが認められている国は、スウェーデン、スペイン、ポルトガル等です。
一方、現行の政策でこのままで行くと将来達成できると見られているのは、ドイツ、スウェーデン、英国の3 ヵ国であり、フランスとイタリアは追加措置が必要で、スペインの場合は、目標達成はほぼ絶望的であるといわれています。
では、提案国である日本ではどうでしょうか。1997年に採択された京都議定書において、日本は 6 %の温室効果ガス削減を約束しました。しかし、2005年の温室効果ガス排出量は、京都議定書の基準年(1990年)よりも8.1%増加しており、このままでは目標達成は困難であることが示されています。
日本は世界第5位のCO2排出国であり、また人口一人当たりの排出量も途上国の数倍あります。しかも、日本は高い技術力を持った先進国として、温暖化対策の中で大きな役割を果たすことが期待されています。温暖化の防止は、必ずしも経済成長の犠牲を伴なうものではありません。ヨーロッパではすでに二酸化炭素の排出を削減しながら、プラスの経済成長を続けている国もあります。「制度を整え、国全体が積極的な姿勢に転じれば、日本も温暖化の防止と経済成長の両立を、実現することが、必ずできるでしょう」と提案されています。
1国の問題ではなく、世界的視野の中での社会のあり方が、いろいろな分野から問われています。
投稿者 fujimori : 23:25 | コメント (4)
2008年11月28日 [新聞記事より]
残業
厚労省は、28日に開いた労働政策審議会(厚労相の諮問機関)の分科会に「子育てで残業免除」を正式に提示したというニュースが新聞に掲載されていました。3歳未満の子どもを持つ労働者が子育てしやすいよう短時間勤務制の導入を企業に義務付けることや残業の免除を労働者の権利とすることなどが柱です。これは、仕事と子育ての両立を狙うもので、年末までに細かい制度内容を詰める予定のようです。
また、全国の労働局で22日に実施した無料電話相談の結果では、相談件数は計879件で前年比7.5%増加しており、内容はサービス残業に関するものが400件で最も多く、次いで長時間労働が320件だったようです。
そういえば、今年の5月に、「名ばかり管理職」ということが問題になりました。それは、管理職という定義は、会社の中で、従業員を監督したり、経営者と一緒になって会社全体の方針を決めたりする立場にある人のことをいいます。会社でいうと、課長や部長、取締役といった人たちが管理職とされることが多いようです。ですから従業員に比べて、どちらかというと、経営者側になります。従業員は、働く時間や休日、給料などの労働条件は労働基準法という法律で定められています。そして、経営者は、この時間を超えて従業員を働かせる場合には、会社は残業代を支払わなければなりません。しかし、管理職には、この法律は適用されません。当然、残業代はもらえません。その代わり、給料が高く、自分の判断で仕事の計画などを決めることが認められています。
このときに問題になったのは、給料も権限も、ほとんど一般の従業員と変わらないのに管理職扱いされて、残業代をもらえなかったり、逆に不利益を被っていると訴える人たちが増えているということでした。残業という仕事形態はいろいろなところで問題が起きます。外国ではどうなのでしょうか。また、逆に残業代を収入の一部に生活を組み立てている人も多く、簡単に少なくすればよいということでもなさそうです。
しかし、今回の厚労省の提示のように、少なくとも、子育て中の人には、残業をさせないで欲しいと思います。それが3歳まででよいのかなど議論の余地はありますが、中小企業では大変かもしれませんし、従業員にしても申請しにくい雰囲気があるような気がしますので、義務にしないと無理かもしれません。
どんな従業員に残業が多いかという調査を何年か前に、Tech総研(株式会社リクルートが提供する、エンジニア向けのポータルサイト)が行っていました。その結果を総括してみると、こんな結果が出ています。
残業時間の最も少ないエンジニアは、技術職の同僚はもちろん部署内の女性社員とも仲がよい人でした。また、社内の部下とは良好な関係を築き、社外の部下とはビジネスライクなつき合いのできる人です。そして、上司と非常に仲がよく、もしくは非常に仲が悪く、スキルの低い人だという結果でした。この結果の分析はわかりませんが、実際の数字ではこのように出たそうです。
急に残業をさせるなというのは無理があるかもしれませんが、子育て中の従業員(男女とも)には残業をさせないような作業計画を最初から立てるべきでしょう。それが、当然な考え方になる社会が、成熟した社会なのでしょう。
投稿者 fujimori : 22:21 | コメント (4)
2008年11月14日 [新聞記事より]
秋田杉
先日、こんなニュースが流れました。「秋田杉を外装に使い、曲げわっぱの技術も駆使した木製自動車を、秋田県北秋田市綴子の県立鷹巣技術専門校の生徒たちが製作した。」
秋田杉といえば、日本三大美林の一つといわれています。しかし、秋田杉といっても、天然杉のことをいいます。人の手をかけないで自然に育った杉を「天然秋田杉」、人の手をかけて育てた人工の杉を「秋田杉」と呼んで区別しています。杉の語源ははっきりしていないようですが、アイヌ語のシンクニー(真っすぐな木の意味)から転じたものといわれています。和名では「スギ」と呼ばれ「マキ、イヌスギ、ホンスギ、ベニアカ、ヤマトスギ、ヤブトウシ、エゾスギ」などの品種を含む名称が四十種もあります。
杉のイメージは、真っすぐのびるというイメージと、早く大きく育つということと、様々な用途があるということで、植林されました。このイメージで、作られた歌が、作詞が吉田テフ子(補作詞:サトウ ハチロー)、作曲が佐々木すぐるの歌「お山の杉の子」があります。この歌は、第二次世界大戦も末期の昭和19年、小国民文化協会が行った少国民歌の懸賞募集の第1位入賞歌でしたが、終戦とともに放送やレコードの販売が禁止になり、この歌をもう一度復活させようと、サトウハチローが改作したものです。
なぜ、販売禁止になったかというと、その歌詞を見ると分かります。2番には、杉を何に使うかが歌われています。「大きな杉は 何になる お舟の帆柱 梯子段 とんとん大工さん たてる家 たてる家 本箱 お机 下駄 足駄 おいしいお弁当 食べる箸 鉛筆 筆入 そのほかに たのしや まだまだ 役に立つ 役に立つ」という歌詞が歌われていますが、作られた当時は、「大きな杉は 何になる 兵隊さんを 運ぶ船 傷痍の勇士の 寝るお家 寝るお家」そのあとは、同じです。このように、杉に託して、子どもが将来立派な兵隊になることを目指しているからです。
しかし、杉は様々なものに使われますが、特に天然秋田杉は、その柾目と香りが冴え、木目まっすぐで弾力に富んでいます。軽さと、明るく優美な木目が生かされた製品には、シンプルな味わいと気品があります。ですから、ニュースで流れたように自動車も作れるのでしょう。この自動車のモデルは、そうは言っても昭和40年代に生産され、箱形のがっちりしたボディーから「ハコスカ」の愛称で人気を集めた日産スカイラインGT―Rだそうですが、それでも曲線部分は多くあります。例えば、バンパーなどの曲がった部分では曲げわっぱの技術を使い、滑らかな曲線を浮かび上がらせたそうです。
大館曲げわっぱは、秋田民謡の『秋田音頭』にも謡われています。「コラ、秋田名物八森ハタハタ、男鹿で男鹿ブリコ(アーソレソレ)能代春慶、桧山納豆、大館曲げわっぱ 」
この曲げわっぱの製品を秋田の友人からいただきました。その手触りや軽さにびっくりするとともに、木目の美しさには目を奪われます。天然秋田杉を手割り、または製材により薄く剥いで、熱湯につけ、板が柔らかくなったところで巻き込んでいきます。とじ穴は、桜皮で縫いとめます。

藩政時代に大館城主佐竹西家が、当時杣夫が杉の柾目板を割って、曲げ物の器を作りそれを弁当として利用していたのを見て、領内の豊富な森林資源を利用して、窮乏を救うため下級武士達に命じ副業として、曲げわっぱの製作を奨励したといわれています。
いくらプラスチックが出廻っても、その本物の味わいは残していかなければいけないですね。
投稿者 fujimori : 21:46 | コメント (4)
2008年11月04日 [新聞記事より]
推理
先日のニュースで、江戸川乱歩の「人間豹」を松本幸四郎、市川染五郎の親子が来月、東京・三宅坂の国立劇場で歌舞伎化するそうです。「新しい歌舞伎を構想するうち、明治期以降のとらえどころのない感覚にひかれていった。インテリでモダンな演劇など、いろんなものが日本に入ってきた時代。その象徴のひとつが『乱歩だ』と思った」と語っています。演じられる「人間豹」は、34~35年に「講談倶楽部」に連載された長編ミステリーで、猛獣をかたどった影が女性の命を脅かすというストーリーで、言わずと知れた明智小五郎とのバトルを軸に展開するそうです。乱歩の作品の舞台化は「黒蜥蜴」や「陰獣」などが有名ですが、この作品は初めてのようです。
江戸川乱歩というと、怪人二十面相とか少年探偵団などが活躍する少年文学を思い出しますが、私も小学生の頃学校の図書室からの借り出しがクラスのトップでしたが、この江戸川乱歩物とシャーロック・ホームズシリーズとアルセーヌ・ルパンシリーズが大半を占めていました。そして、高校時代にまたマイブームが来ます。それは、文庫で出版され、その表紙が切り絵でとても妖艶なシリーズになっていたからです。そのときに、江戸川乱歩は、私が知っているような大衆小説を本当は書く気が無く、何度も悩んでいることを知ります。デビューも、大正12年「新青年」に掲載された「二銭銅貨」でした。この小説をはじめとして、初期の頃の作品は、欧米の探偵小説に強い影響を受けた本格探偵小説でした。
その頃、私は、谷崎潤一郎にも傾倒していきます。全集を買って、片っ端から読みました。谷崎といえば、私の高校の先輩という事もあるのですが、夢中になったきっかけは江戸川乱歩でした。なぜかというと、江戸川乱歩が「探偵小説に一つの時代を画するもの」、「これが日本の探偵小説だといって外国人に誇り得るもの」 (「日本の誇り得る探偵小説」) と絶賛した作品が、谷崎の「途上」だったのです。谷崎の作品といえば、日本的情緒に溢れた純文学的作品を数多く残し、どちらかというと少し異常性愛的なものも含まれているというイメージが強くします。しかし彼は、多くのミステリー物を書いているのです。しかも、それらの作品が、横溝正史など多くの作家に影響を及ぼしているのです。
乱歩と谷崎は、お互いに影響しあっていきます。くだけあって、多くの作品の雰囲気は同じような物があります。また、江戸川乱歩は、「探偵小説四十年」の中で谷崎についても論じており、私はこの著作から知りました。この中で、乱歩と谷崎の出会いがこう書かれています。温泉から温泉への放浪の途中で、乱歩は運命的な、一編の小説に出会います。「伊豆の伊東温泉であったと思うが、宿のつれづれに、ふと手にした小説が谷崎潤一郎の「金色の死」であった。」そのとき、乱歩は、これがエドガー・アラン・ポーの「アルンハイムの地所」「ランドアの屋敷」の着想に酷似していることに気づき、「ああ、日本にもこんな作家がいたのか」 と狂喜した。と語っています。それ以来、乱歩は谷崎文学のとりこになり、谷崎の小説を一つも残さず読むようになったそうです。
私が谷崎を知ったのは、江戸川乱歩からだったのです。何がきっかけになるかわかりませんね。
投稿者 fujimori : 21:52 | コメント (4)
2008年10月28日 [新聞記事より]
甘い誘惑
昨日、職員の会話の中で「まったく、男のくせに泣くんだから!」という言葉を聞いて、私は、「男だから泣くんじゃないの?」と言いました。よく講演で話をしますが、私の息子が小さかった頃、公園で転んで泣いているのを妻と二人で慰めていると、後ろを通っていった6年生ぐらいの女子二人に「しょうがないよ。男の子だもん!」と言われました。私たちの世代では、男は泣くもんじゃないと教えられてきたのが、当時その頃から、泣くのは男の子というイメージが子どものあいだで広がっているのを聞いて、妙に納得したものです。もちろん、本当は個人差のものでしょうが、幼児を見ていると、確かによく泣くのは男の子のほうの気がします。
そのほかにも、「男のくせに」「女のくせに」という言葉を使うことがあります。男女の違いがあることは確かですが、その多くは、刷り込みによる思い込みのことも多いような気がします。10月21日の読売新聞にこんな記事が特集されていました。
「男がとろける 甘い誘惑」というタイトルを見て、男性が女性の誘惑に心がとろける」というイメージを持った人は、男性に対して、かなり刷り込みを持っている人です。男がとろけるのは、何も女性に対してだけではないのです。実は、スイーツ好きの男性が増えているという特集なのです。甘いものを求めて、男性が人気店の行列に並ぶ姿も珍しくなくなっているようです。しかし、やはり「こっそり楽しむ隠れファンも多い」ということは、まだ男性がスイーツを楽しむのは隠れなければいけないことのようです。しかし、もはや、「男性は甘いものが苦手」という定説はなくなったのかと記者は取材をしています。
この特集の最初のほうでは、最近増えてきているスイーツの店舗を紹介しています。東京・銀座にあるバーでは、ブランデーやラム酒など100種類以上の酒のボトルが並んでいますが、これらの酒をすべて、アイスクリームにかけて味わう店だそうです。その店の客の7割は男性で、しかも、40~50歳代が目立つといいます。どうも、甘い物好きの若者が増えたのではなく、最近は、年配にも甘い物好きがいるようです。
記事では、こっそり楽しむ男性が多いのは、コンビニエンスストアでもうかがえると書いてあります。あるコンビにでは、自社開発のスイーツ購買層の6割が男性で、昨年6月からは、舌の肥えた男性向けの「男のスイーツ」をシリーズ化し、毎月、新商品が登場しているそうです。どうして、最近は男性も甘いものが好きになったのかというと、どうもそうではないようです。
「スイーツ番長」という愛称でブログを開設している清水好夫さんは、「元々、甘いもの好きの男性は多い」と語っています。彼によると、スイーツ番長の元祖は「織田信長」ではないかと言っていますが、信長は、南蛮菓子が大好物だったそうです。また、産まれたばかりの赤ちゃんの口に甘いものを含ませると、笑顔を見せ、逆に苦いものを口に含ませると顔をそむけ機嫌が悪くなります。なにも、女の子や男の子の差はありません。
また、月刊男性誌「UOMO」(集英社)の編集長は、「手みやげなど、ビジネスでスイーツが活躍する場面が増えている。その過程で好きになる男性も多いようだ」と分析しているように、次第に好きになる環境もあるようです。
この記事の最後に「そろそろ、男性も胸を張って甘いものをほおばっていい時代なのだろう。」と結んでいますが、男女というだけでなく、さまざまな刷り込みをなくして、自分はどうなのかをきちんと表現できるようのなかになってほしいですね。
投稿者 fujimori : 23:27 | コメント (5)
2008年10月17日 [新聞記事より]
幸福
9月28日の 読売新聞に、「幸福感」についての世論調査結果が特集されていました。この調査は、面接方式で、1979年以降継続的に30年間行っています。その結果を見ると、今の自分を「幸福だ」と感じている人は88%もいて、「不幸だ」という人は10%しかいなかったそうです。79年以降の調査を見ると、「幸福だ」と感じている人は89年の92%が最高で、最低でも99年の87%で、ほぼ30年の間、ずっと9割前後を推移し、日本人は、現状を肯定的に受け止めることがわかったそうです。
では、何を幸せと考えるかを具体的に聞いてみると、「何か良いことが起こること」と考える人は29%にとどまり、「何も悪いことが起こらないこと」の69%が大きく上回っています。では、今の日本人は、「自分が幸せかどうかを他人と比べて判断する人が多いと思う」と答えた人は76%いますが、「そうは思わない」は21%でした。「自分だけが幸せならばよいと考える人が多い」との指摘にも、「そう思う」と答えた人は72%もいました。
幸福とは何かを二つまで選んでもらったら、「健康なこと」が69%で最も多く、「しあわせな家庭生活」41%、「良い友人をもったり、人々と仲よく暮らしたりすること」27%と続いています。このベスト3は、30年間変わっていません。ただ、今回と79年を比べると、「健康」は3ポイント減、「家庭生活」は4ポイント減となり、「良い友人」は5ポイント増えています。
この結果をどう考えればよいのでしょうか。新聞には、コラムとして僧侶作家の玄侑宗久氏のコメントを載せています。
「私は、幸せとは自分が変わったと感じられることだと思っている。「『幸福』とは何か」という質問の答で、「ひとつの目的に向かって我を忘れて取り組むこと」という選択肢がある。これを挙げた人はほぼ30年前の1979年でもわずか7%、今回も3%に過ぎない。しかしこれこそが幸せの本質ではないか。夢中になって何かをやり、いつの間にか自分の枠を超えていたことに気づくということだ。」
確かに結果を見ると、幸福を求める姿が見えてきません。なにもしないでじっとしていると、確かに自分の身には、何も悪いことは起きないでしょう。それが幸せなのでしょうか。
論語の述而篇15にこうあります。「子曰、飯疏食飲水、曲肘而枕之、楽亦其在中矣、不義而富且貴、於我如浮雲」(子曰はく、疏食(そし)を飯(くら)ひ水を飲み、肘を曲げてこれを枕とす。楽しみ亦た其の中に在り。不義にして富み且つ貴きは、我に於いては浮雲の如し。)
孔子は、こう言っています。「高粱(コウリャン)のような粗末な飯を食べ、水を飲み、腕を曲げて、枕代わりとするような、質素な暮らしをしていても、道に志す本当の楽しみは、おのずからその中に在るものである。不正な手段や人に不義して得た富や地位などは、自分にとっては、浮雲のようなはかないものである」
人間としての真の楽しみは、学問と道徳の実践の中にこそあると考えています。私は、その実践から真理が少し垣間見えたときに幸せを感じます。
投稿者 fujimori : 23:53 | コメント (4)
2008年09月30日 [新聞記事より]
与える喜び
このブログを始める前にある特定のメンバーのためにメールマガジンを書いていたことがありました。それは、一部の閉じられたメンバーだけで購読できるものでしたので、今読み返してみて、それ以後考えたことを付け加えると面白い内容のものがいくつかあるので紹介します。
2003年7月5日の「新しい仲間」という内容です。
「私のセミナーでの仲間や、ドイツツアーの仲間は、みんなとてもいい仲間です。この中から、今までの、地域の園長会や、保育団体とは違った、新たな団体のありようが見えてきます。この仲間は、あくまでも、子どもを大切にしよう、子どもを中心に据えようという、共通の意識があります。もちろん、どの保育者も、他の団体も、子どもを大切にしようとすることには異論がないでしょうが、なんだか少し違う気がします。しかし、この仲間の発言は、みんな頷くことばかりです。同じように考える人がほかにもいるかもしれません。幼稚園にも、学校にも、もしかしたら認可外施設にも、NPOの中にもいるはずです。結局は、「善い園」と「悪い園」と分けるべきかもしれません。そんな観点から、一つの団体を作りました。「ギビングツリー(GT)」がそれです。」
この会の名前の由来はもちろん主に「The Giving Tree(おおきな木)」(作・絵:シェル・シルヴァスタイン)という絵本から採ったものです。
この絵本の日本語の翻訳作品には、あらすじがこう書かれてあります。「昔、りんごの木があって、かわいいちびっこと仲良しでした。ちびっこは木と遊び、木が大好きで、だから木もとてもうれしかったのです。時は流れ、ちびっこだったぼうやは成長して大人になっていき、木に会いに来なくなります。ある日、大きくなったぼうやが木のところへやってきます。木は昔のように遊んでおいきと言いますが、ぼうやは言います。「かいものが してみたい。だから おかねが ほしいんだ。 おこづかいを くれるかい。」木は困りましたが、りんごの実をすべて与えます。大人になったぼうやは家を欲しがり、木はその枝を与えます。年老いたぼうやは船を欲しがり、木はついにその幹を与え、切り株になってしまいます・・・」
この絵本の最後は、人生に疲れ果てた老人になった少年は、ひざの高さほどの切り株に腰をおろして、少し安堵します。しかし、木はそれで満足します。
この絵本について、9月12日朝日新聞(夕刊)に「絵本の記憶」という連載に作家の鈴木光司さんが「与えること喜び」というタイトルでこの絵本を取り上げていました。
「ひたすら与えることに喜びを得るというのは、愛のレベルとして、最高度のものだ。まったく見返りを期待しないで、人に尽くせるかどうか、自分の心に問うてみれば、その難しさがわかる。親の、子に対する愛だけ、かな。」
GIVE は、「与える」という意味ですが、その中には「与える一方」という意味もあるようです。しかも、それに進行形の「ing」がついているわけですから「与え続ける木」という意味になります。そして、その木は原文の最初の文で「Once there was a tree and she loved a little boy」といっているように女性名詞で書かれています。
やはり、最高度の愛は、子どもに与え続ける母親の愛かもしれません。
投稿者 fujimori : 23:36 | コメント (5)
2008年08月13日 [新聞記事より]
指標生物
北京からは、連日オリンピックのニュースが流れてきますが、今日の新聞には、同じ北京からこんなニュースが流れてきました。
「メダカを使って水質を監視する「生物センサー」を福岡市の企業が開発し、この夏、中国・北京市のダムに設置された」というのです。なぜ、今監視するのかというと、現在開催されているオリンピック開催のために集まっている、世界中のアスリートたちが飲む北京の水の安全を守るためです。
福岡市の配電盤メーカー、正興電機製作所が開発した「フィッシュトキシメーター」という全体は冷蔵庫ほどの大きさの機器で、中に小さな水槽が二つあり、1匹ずつ入れたメダカの様子がモニターに映し出されるようになっています。有害物質に反応して激しく動き回るなど、メダカが特定の動きを見せた場合に警報を出す仕組みで、ダムの取水口や浄水場などに取り付けられ、水質の監視に使われています。
一時期、サリン監視のためにカナリアをかごに入れて入り口にぶら下げていたことがありましたね。 それと同じ考え方でしょうが、テロから防ぐ手段というのは悲しいですね。しかし、この機器は、広島県の浄水場をはじめ福岡市や長崎県諫早市、秋田市、沖縄県東村などですでに使われているのですが、本来は、工場排水や環境汚染のチェックのためです。
一般に自然環境の状態やあるいは環境汚染の程度などを調べる際には、その場における様々な条件、たとえば、温度や湿度、化学成分やその組成、特定成分の濃度、酸素濃度、あるいは明るさなどから必要と思われるものを取り上げ、数値として記録します。このように測定機器による数値的な調査が正確かもしれませんが、そこに生息する生物のうち、ある条件に敏感な生物を用いて調べることがありますが、この生物を「指標生物」といいます。それは、厳密さを欠いたり、季節によって影響を受けたりという欠点はありますが、どうして環境を調べる必要があるかというと、多くは生物や人間への影響を考えるためですので、直接に生物にどんな影響が出たのかを見ることが行われます。
ずいぶん前のブログでも書きましたが、大まかに判断する方法もあります。
まず、河川や湖沼で生息するものが「赤くなったら気をつけろ!」です。その水が汚染によって栄養過多になると、水中での微生物の分解を引き起こし、結果的には酸素が不足してきます。これに対して、動物の適応として、赤い血を持って体内に酸素を抱え込むことが広くみられます。たとえばユスリカ類では、流水の種は半透明であるのに対して、不栄養の条件で生息する種はアカムシと呼ばれるように赤く、同様の条件では、イトミミズやヒルなど、海ではゴカイやアカガイ等、やはり赤い動物が生息するようになります。
河川の汚濁は、見た目が「白い鳥と黄色い花には気をつけろ!」です。シラサギとカモメなどの鳥や、セイタカアワダチソウとセイヨウカラシナなどの花が河川に増えたら環境汚染が始まっているといわれます。そのほか、大気汚染の指標として、感受性の高い地衣類の有無や種子植物の葉の変化(斑紋の有無、白化等)が用いられ、土壌汚染の判定には、シダ植物の仲間が用いられるほか、農業上の利用として土地の肥沃度の判定などに用いられるようです。
人間は、指標生物になるのでしょうか。汚染されても生きていられる生き物なのでしょうか。
投稿者 fujimori : 23:41 | コメント (3)
2008年08月06日 [新聞記事より]
羽生
将棋界を20年近く引っ張ってきた羽生善治さんが、ついに名人通算5期で得られる「永世名人」の有資格者となったというニュースが今年の6月に流れました。江戸時代以来、将棋の名人は世襲制でしたが、日本将棋連盟が1935年に「300年続いた一世名人を廃する」と発表しました。今この資格は、通算5期名人位を獲得しなければなれないのですが、印象としてはずいぶん遅いという感じがします。彼が初の名人獲得から14年もかかっているからです。私は素人なので、将棋界のさまざまなタイトルがどのような意味を持っているのはよくわかりませんが、羽生が何度もいろいろなタイトルを取っているというイメージがあります。
今年の7月、NHKテレビのプロフェッショナルという番組で、「将棋界で最も伝統のあるタイトル・名人戦。今年の対局は、4期連続で名人の座を守る森内俊之と挑戦者・羽生善治。二人は、「宿命のライバル」、同期で同い年、小学4年生以来、27年に渡ってしのぎを削ってきた」という内容で放送されていました。この森内の方は、1年前、羽生に先立って「永世名人」の資格を獲得していますので、羽生はさぞかし悔しかっただろうと思います。しかし、羽生は、「ここ10年は今までの将棋の歴史のなかで一番変化が大きい時代。そのなかで、謙遜ではなく、自分自身は決してトップランナーではなかった。いかにして追いつき、新しい感覚を身につけるかに忙しかった」
同じプロフェッショナルという番組で、羽生個人が2月に取り上げられたことがありました。その中で「才能とは、一瞬のひらめきやきらめきではなく、情熱や努力を継続できる力だ」。また、「守りに入り、リスクを取らなければ、そこからは何も生まれない」と、リスクがあっても、常に新しいものに挑戦することで成長があると言っています。このように、若い頃から天才といわれながらも、戦うたびに、悩んだり、苦しんだりしながら学究的な志や、相手に勝ちたい闘争心や名誉欲、金銭欲などを超えて、ただ「将棋の鉱脈の深さには本当に驚きました」と楽しそうに話しています。本当に将棋が好きなんだなあという感じがします。
彼は、私の住んでいる東京西部、JR八王子駅近くにある八王子将棋クラブに小学生時代通っていました。その頃の話を母親のハツさんが新聞紙上(先週土曜日の朝日新聞夕刊)で語っています。
「将棋はいい加減にして、もっと勉強をしなさいとは言わなかったのですか?」「そんなことは言いませんでした。それほど、不思議なことでしょうか。善治が楽しそうに将棋をしている姿を見るのが、私はとても好きでした」と答えています。
「小学校の高学年のころでしょうか、善治の友達のお母さんに言われたことがあるんです。そんなに頭がいいんだったら、勉強をさせて東大に行かせなさいよって。でもね、善治が好きだったのは、勉強ではなく、将棋だったんですよ」
羽生の母親も父親も将棋のルールさえ知らなかったそうです。ですから、将棋の世界にプロがあり、将棋を指して生活していけるとは思ってもいなかったようです。八王子の将棋道場に通わせていたのも、親が買い物をするとき、託児所的に利用したということもあるそうです。そんな母親の子どもに対する態度を、記者はこう結んでいます。
「ただただ、子どもを見守っている」ということも、覚悟のいる「教育」だったに違いない。
投稿者 fujimori : 23:40 | コメント (4)
2008年07月31日 [新聞記事より]
どこに寄付?
先日のブログで、「寄付」について日本人と外国人との考え方の違いについて書きましたが、どこに寄付をするかについて、最近、新幹線に乗っているときにテロップに流れてびっくりしたことがありました。
それは、米マイクロソフト社の共同創業者で慈善家であるビル・ゲイツ氏と、大富豪でニューヨーク市長のマイケル・ブルームバーグ氏が、米国時間7月23日、発展途上国における禁煙推進のために5億ドル(約536億円)を寄付することを発表したというニュースです。なお、ゲイツ氏は、中国やインド、アフリカなどの国々におけるたばこに関連する問題に取り組むプロジェクトに対し、今後5年間で1億2500万ドルを寄付する予定であるということも表明しています。
総資産160億ドル(1.7兆円)を所有するブルームバーグ市長は、ゲイツ氏との共同記者会見で「たばこの無い世界では皆が長生きし、幸福に暮らすことができる」と語りました。ゲイツ氏は、妻メリンダ・ゲイツさんと創設した世界最大の慈善基金団体「ビル&メリンダ・ゲイツ財団」が掲げる主要分野は、Global Health(世界の健康)であり、その名で1億2500万ドル(約134億円)を寄付します。ブルームバーグ氏は既に寄付している1億2500万ドル(約134億円)に加え、さらに2億5000万ドル(約266億円)を寄付するといいます。そして、両氏が提供する寄付金は世界保健機関(WHO)・疾病予防管理センター(CDC)などでたばこの消費を減らす運動に使われる予定です。
今、世界のたばこの売上げは2012年までに4640億ドル(約49兆円)に達すると予想されています。そして、米国のたばこ企業は、国内で嫌煙運動が広がりたばこの売上げ・消費量が減少する中、発展途上国など国外市場開発に目を向け始めていることに危機感を持ち、ゲイツ氏は「特に人口の多いインドと中国で禁煙運動を広める必要がある」と語っているのです。そのために、貧しい人々がたばこを簡単に購入できないようにたばこ税を引き上げること、たばこに関する広告を禁止すること、未成年者への影響を考慮して映画の主役がたばこを吸うシーンをなくことの3点を主張しました。一方、ブルームバーグ氏は「中国には国営のたばこ企業があるため、禁煙運動を広めるのはインドよりも難しいだろう」と語り、「現代の(映画の)ヒーローにはたばこを吸って欲しくない」とアピールしました。
こんなニュースを聞くと、発展途上国が先進国の儲けのために、真実を知らされずに犠牲になっているので、それを救おうということは、先進国の国民がタバコを吸うことは考えられないようです。
英国在住の山田直氏が、イギリスの寄付事情を調査研究しています。2005・06年度調査によると、英国の成人一人当たりの平均寄付金額は、183ポンド(約46,000円*3)で、全寄付金額は89億ポンド(2兆2,250億円)と推定されるそうです。これは、英国の成人の約58%(女性は61%、男性は53%)にあたる約2,800万人が、最低月1回の寄付をしていることになるそうです。そして、その寄付の目的に関しては、医学研究が昨年に続き最も高い比率を占めており、昨年の34%から40%に躍進しています。また、全寄付金額に対する医学研究向け寄付金額の比率も昨年の13%から19%に増加しています。宗教関連団体が二番目に高い寄付金額を受けており、昨年比3%増の16%です。高額寄付者は他の寄付者に比べて、宗教関係には3倍近く、又海外向けには2倍近い寄付を行っています。
どこの寄付をするのか、何に使うために寄付をするのかを見ると、国民性が分かりますね。
投稿者 fujimori : 21:25 | コメント (4)
2008年07月30日 [新聞記事より]
父親
家ではテレビを見るか、寝るか、ご飯を食べるか、パソコンするしかない。共働きだから親とは話さない。いつも何話してるんだろ。うーん……。話すのでなく、言われる。「宿題したか」「風呂入ったか」「テレビ近すぎ」「パソコンいじるな」。(小6女子)
自分のことを思ってくれるが、重い。思ってくれるのはわかるけど、勉強とか学校のこととか、いちいち言われるのがうれしくない。(中1男子)
親はいなくてもいい。いや、どうしてもいなきゃいけないかな。なぜなら、僕が生活するため。お金を稼いでくれるから。(中1男子)
厳しい。意味わかんないとき怒られる。(小5男子)
29日の朝日新聞に掲載されていた「親ってなんだろう」という特集記事です。
今週号のAERAに「父原病が子を壊す」という特集が組まれています。
父親を刺殺した少女は、「お父さんむかつく、うざい」が口癖で、「両親から勉強しろと言われて、うっとうしかった」。バスジャック事件を起こした少年の父親は、子ども部屋に「成績が落ちたら違う人生を考える」という張り紙をさせ、携帯電話を取り上げて勉強させていた。自宅に放火して母、弟、妹を殺害した少年の父親は、勉強部屋を「ICU(集中治療室)」と呼んで、つきっきりで勉強を教えていた。
このように、過干渉の父親が増殖しているといます。また、こんな例もあります。
子どもが小さい頃、仕事が忙しく、家に帰らず2~3日徹夜することもあり、子どもがどう成長してきたか分からない父親。その埋め合わせに、数年前から土、日のたびに、博物館、キャッチボール、手料理と自分では距離を縮めているつもりの父親。しかし、子どもからすると、「父親のいやなところ―休みになると強引に外に連れて行こうとするところ」これを振り返って、父親は、「一番大事な幼少期に関わっていないと、急に無理をしてもダメだったのでしょうか」このように、一方的にフレンドリーになろうとする父親も子どもにとっては負担のようです。
私が、何年か前に書いた本「やってあげる育児から見守る育児へ」(学研)の中で、親の心得「見守ること」について、14か条を書いたことがあります。その心得とは全く逆な態度をする親が多くなり、その親の子が最近事件を起こす傾向が多いような気がします。14か条のなかからいくつかを紹介します。
「子どもが何か問題を抱えているときに、それを除いてあげようとするのではなく、自分でそれを解決できるように援助してあげます」「子どもが何を考えているかを、いつも先回りして考えるのではなく、子どもの考えを聞いてあげます」「子どもは、何かものを与えれば喜ぶのではなく、気持ちをわかってもらうことを望んでいます」「子どもは、自分のために親が犠牲になることを望むのではなく、子どもから望んだときに、自分が優先順位の高いことを望みます」「子どもが自分でできることや、自分でやろうとすることを手伝うことは、子どもにとっては迷惑です」「子どもを甘やかすことと、子どもの甘えを受容することは違います」「子どもが次第に自立していき、親が必要でなくなってくることは、うれしいことであり、さびしいことではありません」
投稿者 fujimori : 22:24 | コメント (4)
2008年07月28日 [新聞記事より]
先生
朝日のアンケートの中で、教師について、「学校の先生は信頼できる」(「とても」「やや」の計)と感じる保護者は56.8%で9ポイント上がり、「先生たちの教育熱心さ」に満足しているのは64.0%と3ポイント増という結果が出ています。その反面、教員免許制度更新制についての評価は高くなっています。
また、「教科の学習指導」への満足度も72.6%と3ポイント増え、「学校は一人ひとりに応じた教育を行っていない」という答えは54.4%と8ポイント減っています。「先生の教える力が低下している」と感じる人も49.4%と4ポイント低くなっています。ずいぶんと、学校の先生は努力しているようです。
昨年、日経新聞のコラムで、教育行政学専攻で元大阪教育大学長の武庫川女子大「中谷彪」氏が、インタビューにこんなコメントを言っています。
「小学校や中学校で若手教師が退職するケースが増えているとききましたが」という質問に対して、「ある自治体では夏までに新任教員の一割が辞めた。校長らはその穴埋めに走り回ることになる。教員採用数が増え、企業への就職率も改善しているので、昔のように『待機者』が少ない。教委にも『ストック』はほとんどない。そんな中で集める急場しのぎの講師には、訓練を受けていない人が含まれている。指導力低下など現職教員の問題が指摘されている上に、実際には多様な人々が現場に入っている」
今回改定された保育所保育指針にも「保育士の質の向上」が新たに章立てされました。教員の質については、長い間の課題です。ひとつには、なにが質の高さかです。その前に、教員の質とは何かです。教える技術とか、子どもをコントロールする技なのか、それは時代によって、望ましい子ども像によってずいぶんと違ってきます。
中谷さんは、こう言っています。
「教員の年齢構成は、近年は都市部で50代と2―3年までの若手だけが多い『ワイングラス型』。だが、細いところ(採用倍率が高かったころ)の教員が目立って優秀かというとそうでもない。受験エリートたちは、子供がなぜ分からないのかが分からなかったり、人間関係が苦手だったりする。この層は大量採用のベテランを見下し、ベテランは『学歴ばかりが立派でも』と対抗する。どの層でもあつれきが生じている」
かつて優秀だと評価され、高学歴な人材と、現代において優秀な人材といわれる力とは違ってきているので厄介です。また、本人が優秀なのと、優秀な人材を育てる能力は別ということもあります。
そして、教員の質は、教員採用に時期と、社会的状況が密接に関係あるといわれています。それは、教員採用試験の倍率に左右されます。しかし、教員採用試験の倍率低下が、教師の「質」の低下につながるのかということに対して中谷さんはこう言っています。「今の40代後半―50代は大量採用世代で、かつて『でもしか先生』と言われた。実際に十年ほど前、その層で学級崩壊が問題化。学校不信、塾への逃避など学校を巡る社会の流れをみても、背景に彼らの力量の問題があったといわざるをえない。この層の退職時に大量採用が繰り返されることは予測できたはずだ。私の試算ではそれは18年周期。長期的に考えた採用形態を考えるべきなのに、採用側は予算上、定員分を採ることになる」
教育再生は時間がかかることです。一度道を間違えると、その修正にはかなりの時間を要します。慎重に行うとともに、長期見通しをきちんと立てなければならないでしょう。
投稿者 fujimori : 23:33 | コメント (4)
2008年07月27日 [新聞記事より]
公立校
昨日の朝日新聞の1面の記事には少しびっくりしました。
「公立の小中学校に満足している保護者は8割近くに達し、先生への評価も上昇――。」という結果が、朝日新聞社とベネッセ教育研究開発センターが共同実施した5千人を超える保護者への意識調査でこのような結果が出たという記事です。しかも、4年前の前回、満足度の低かった都市部や高学歴の親で伸びが目立ち、公立学校への信頼回復の兆しがうかがえるということには申し訳ありませんが、「ほんとう?」と思いました。
まあ、この結果についてうそとも思いませんし、確かに教員たちは一生懸命に努力をしているでしょうし、制度的にも色々と改革しようとしています。しかし、現場から見ると、どうしてそのような結果になったのかが実感として湧きませんし、逆に「それでいいの?」と思ってしまいます。この調査は、「5千人を超える規模で、学歴や経済的なゆとりにまで踏み込んで尋ね、学校や教育政策への意見の変化を継続的に調査・分析したものはない」と自負していますが、どうでしょうか。
今回、子どもの通う学校に、「満足している」(「とても」「まあ」の計)と答えたのは77.2%。前回から継続して参加した計31校の小中学校で変化を見ると、満足度は72.8%から76.4%に上がったということで、特に、前回満足していなかった層で上昇が目立っているそうです。それは、前回、最も満足度の低かった「東京23区と県庁所在地」が75.2%で、12ポイントアップ。学校別では中学生の子をもつ家庭で9ポイント高まり、70.1%になったそうです。この結果についての分析で、「不満層の子どもの一部が私立や国立の中学に進学して調査対象から抜けた」というのは、特に都区内で満足度が増したということに対しては納得できるかもしれません。
もし、そうであれば、この結果についてはとても危険をはらんでいます。教育についての格差が広がっているということだからです。この格差については、以前から指摘されていることですが、今後、社会に対しての不安や、ますます青少年による犯罪が増えることになる可能性が高いからです。10年位前に、アメリカの高校生が我が家に一ヶ月くらいホームステイをしたときに、その頃のわが子二人が、公立の小、中学校に通学していたことにびっくりしていました。それは、必ずしも進学だけのためではなく、その高校生からすると、環境として公立小、中学校は下層階級の人たちが通うところだと思っていたようです。
次のような結果も、それを裏付けるようで、なんだか心配です。保護者の学歴についても、「父母とも非大卒」が2ポイント増えたといいます。また、母親の就労別だと、最も低かった「専業主婦」が77.0%に増え、「パートやフリー」「常勤」と並んだという結果が出ています。全体の社会的傾向からすると、なんだか逆行しているようです。この結果も、公立校に通学している子の保護者対象の調査だとすれば、社会全体の家庭から、そのような家庭の子が公立校に通学するような状況になってきたという、「公」という考え方が、「パブリック」ではなくなってきたということになりかねません。
アンケート結果で喜んでいる場合ではなさそうです。
投稿者 fujimori : 21:02 | コメント (4)
2008年07月08日 [新聞記事より]
職場体験
先日の新聞に、小中学生や高校生などの職場体験を受け入れた企業のうち、「今後も続けたい」と考えている企業は約6割にとどまることが、東京商工会議所の調査でわかったということが取り上げられていました。その理由として、学校との調整が難しいことや、企業側の負担が大きいことが背景にあるようです。
小さい頃に将来何になりたいかという夢を持つことは、大人になってその職業に必ずしもなることはできなくても、何らかの職業に就こうとする意欲につながっているように、この職場体験は、不登校の子が登校しようという意欲や、将来の就業意欲につながっているといわれています。しかし、この職場体験には、受け入れの職場が必要であり、企業の教育支援の意識が必要になります。そんな支援を毎年行ってきた企業へのアンケートでは、そのような支援を今後も継続する意向の企業は、小学生の受け入れで58・1%、中学生は66・5%となり、企業側は、どうもためらっているという結果が出たようです。
このような職場体験が注目されたのは、兵庫県と富山県の試みです。
兵庫県は、1995年の阪神・淡路大震災、1997年の神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇事件)をきっかけに、子どもたちを地域で見ていこうということで、学校、家庭、地域の3者が協力して、1998年から実施されている県内の中学2年生を対象とした五日間の職場体験です。略称は、「トライやる」といいます。また、教員にも生徒よりも期間が短い「先生のトライやる」と称する職場研修が課せられています。
平成17年11月に文部科学省から、その成果が報告され、職場体験の必要性が出されています。その中で、この職場体験が求められる背景として、次のような最近の子どもの様子を示しています。
「最近の子どもたちは、これまでの子どもたちには見られなかった柔軟な感性や遊び心、ボランティア活動等への高い参加意欲を持っているなどの積極性は見られるものの、社会性の不足、規範意識の低下、人間関係や連帯感の希薄化、集団や社会の一員としての自覚や責任感の低下などが指摘されている。そして、変化の激しい先行き不透明な社会を背景として、若者の世界に漠然とした閉塞感や無力感、あるいは、職業について考えたり、職業の選択・決定を先送りにするモラトリアム傾向やフリーター志向の広がり、高水準で推移する若年者の失業率やいわゆる「753」といわれる就職後の早期離職、また最近ではニート(NEET:Not in Education,Employment,or Training)の問題が指摘される中で、生徒の進路意識や目的意識の低下が懸念されている。」
このフリーターやニートの増加は、若者をめぐる不安定雇用が背景にあるのですが、「フリーター比率」とよばれる新卒者のうち進学も就職もしない者の比率にとても興味深いものが見られます。この比率が31.5%の沖縄をトップに全国平均15.3%に対し、富山県は5%と最も低いのです。このフリーター比率の低さと直結しているかどうかは別にして、確かに富山県では若者の職業意識を育てるために様々な試みが行われているのです。その1つが「14歳の挑戦」といって、富山県が国公立中学を対象に義務づけているもので、中学2年の生徒たちが5日間学校を離れ、地元の企業で実際に働きながら、仕事とは何かを学ぶ体験学習です。2005年度は10,028人の中学生が参加し、受け入れ事業所は3272ヶ所に達しているようです。
この事業に限らず、子どもの育児、保育、教育は、社会全体の問題として取り組まなければいけないのではないかと思います。
投稿者 fujimori : 23:33 | コメント (3)
2008年07月03日 [新聞記事より]
マイ箸
今年の園の夕涼み会の企画に、保護者も参加してもらおうと呼びかけました。数人の参加があり、園の趣旨と考え方の説明のあと、今年のテーマが「自然」であることで、色々なアイデアを出してもらいました。その中で、食事のときに、「マイ箸」を持ってきた子には、シールなどでポイントをあげるのはどうかという案が出されました。昨年も、食事に焼きそばを出したのですが、容器として使い捨ての神皿を使うのをやめて、洗えるお皿を用意しました。また、箸についても、できるだけマイ箸の使用を呼びかけました。それを、今年はもう一歩進めて、子どもたちのゲーム感覚を取り入れ、ポイント制にしたらどうかという案です。
毎月、誕生児を祝う誕生会で、各年齢ごとのプレゼントとして、ある年齢の子たちに「マイ箸入れ」を職員が布で作ってあげています。先日の新聞に、ファミリーレストラン最大手のすかいらーくは7月末までに、傘下のガストやバーミヤンなど約2600店で使っている割りばしの使用をやめるというニュースが掲載されていました。使い捨ての割り箸から、洗って何度でも使える樹脂製のはしに切り替えることによって、年間650トンのゴミ削減につなげる計画です。すかいらーくグループは、年に5億本(2億5千万膳(ぜん))近く割りばしを使ってきました。しかし、環境への意識の高まりをうけて、すかいらーくでは「ジョナサン」が06年中に切り替えたのを皮切りに、07年中に「すかいらーく」、08年5月までに「ガスト」で切り替えが完了しています。そして、「夢庵」は同年6月までに、「バーミヤン」でも同年7月までをめどに進めています。
日本では年間250億膳の割り箸が使われているといいます。しかし、外食店では、他にも居酒屋チェーンのワタミや牛丼チェーンの松屋フーズなども、割りばしの使用をやめています。
和食チェーン「松屋」を展開する松屋フーズ では、08年1月から5月までに全国721店舗で樹脂製の箸に切り替えました。1日あたり35万人が来店する同店では、使い捨てられていた割り箸が年間558トンにもなっていました。しかし、口に入れる箸を使いまわすことで、穢いとか、気持ち悪いとか言う意見が寄せられることがあります。そこで、「松屋」では箸や食器を洗う際に、大きく3ステップを実施しています。まず、従業員が手洗いし、次に食器洗い器で洗い、その後除菌をします。しかし、一方では、水道代や電気代が以前よりかさむのではないかという質問がありますが、それはさほど負担になっていないようですが、従業員の仕事量は増えたそうです。
そんなに穢いと思うのであれば、マイ箸を持参すればいいのにと思います。最近では、エコに取り組む人の間で自分の箸「マイ箸」を持ち歩くのがブームになっています。お気に入りの箸をケースに入れて持ち運ぶのですが、なかには1万円以上の高級なものもあり、ずいぶんこだわりを持つ人がいますね。私もかばんの中には、そんなに高い箸ではありませんが、いつもマイ箸が入っています。
ネットでも、マイ箸の愛好家が情報交換をするサイト「マイ箸クラブ」があるくらいで、1578人が会員になっていると新聞で報道されていました。
マイ箸や割り箸廃止の動機は様々かもしれません。そんなに高尚な理念の下ではなく、経費削減かもしれません。しかし、どんな理由からにしても、よい動きですね。
投稿者 fujimori : 22:15 | コメント (5)
2008年07月02日 [新聞記事より]
仰天ニュース
今日のテレビで、世界仰天ニュースという番組が放送されていましたが、本当に世界ではびっくりするようなニュースがありますね。そのひとつには、国、地方によって文化や価値観が違うので、びっくりするようなことが起きます。ドイツへ出発する日の22日の日曜日のニュースだけでもいくつかありました。
よくある話しが、犯罪についての考え方です。日本ではたいしたことがないような犯罪でも、その国にとっては重罪であることが多いようです。中国のニュースなどを見ると、その基準の違いにびっくりすることが多くあります。
パキスタン東部シアルコットの地裁は、イスラム教の聖典コーランを焼き、預言者ムハンマドを侮辱する言葉を使ったとして、20台前半のイスラム教徒の男性に死刑を言い渡したというニュースがありました。確かに、この国ではイスラム教を大切に思っているようですが、侮辱した罪での死刑判決は同国でもまれで、今まで執行された例はないといいます。よほど、頭にきたのでしょうが、それぞれの人が大切に思っていることを尊重してあげなければ、死刑にもなってしまいという例かもしれません。
日本でも、びっくりする話しがあります。いつもニュースで私が驚くのは「振り込め詐欺」です。その被害金額の多さと、詐欺が報道されているにもかかわらず、相変わらず被害が続出していることです。しかも、このようなニュースでは更にびっくりしました。振り込め詐欺被害者の約3割が、金融機関の現金自動出入機(ATM)コーナーや窓口で行員らから事実確認を促されたのに被害に遭っていたことが警視庁の調査でわかったということです。昨年1年間に300万円以上をだまし取られた30歳代~90歳代の429人(男性114人、女性315人)に被害に遭った状況などを尋ねた結果、全員が「振り込め詐欺を知っていた」と回答し、8割以上が「自分が被害に遭うとは思わなかった」と答えています。また約3割が「行員から注意喚起された」というのです。なんで?と思います。今年4月の被害額は約33億円にのぼり、今年1~4月の被害総額は前年同期の1.7倍の約111億円にもなっているそうです。
アダルト作品の自主審査機関「日本ビデオ倫理協会」が、審査部門責任者が警視庁に逮捕された事件を受け、今月限りで作品の審査をやめるようです。倫理を扱う機関がどうして?と思ってしまいます。
そんな人間の情けない話に比べて、こちらはどうでしょうか。
札幌市円山動物園のオランウータンの弟路郎が、オリから抜け出し、屋根(高さ3メートル)に上ってあわや脱走する騒ぎとなりました。ロープにぶら下がった後、反動を利用して一気に屋根に乗り移ったようです。来園者が気付いて大騒ぎとなり、同園は出入り口を閉鎖して捕獲の準備を整えましたが、担当の飼育員が近付くと、弟路郎はおとなしく屋根から下り、放飼場に戻ったそうです。ロープが大のお気に入りで、2か月の間に習得した「技」を使い、好奇心からオリの外に出ようとした可能性もあるといいます。しかし、オランウータンは人間の4、5歳児程度の知能があるといわれ、自らオリに戻ったといいます。好奇心から部屋から出て行ってしまう子どもたちも、そのまま見守っていれば、自分から戻ってくるでしょうか。戻ってくるような子どもたちにしなければいけないでしょうね。
投稿者 fujimori : 23:17 | コメント (5)
2008年05月20日 [新聞記事より]
数値
物事を決めたり、判断するときにはきちんとしたデータや資料が必要です。印象や刷り込みで判断すべきではありません。しかし、その数字や資料がどのような意味を持つか、その読み取り方が大切です。
今日の新聞に、「文部科学省は19日、財務省が12日に発表した、国の教育支出の大幅増額は必要ないとする「反論」に対する「再反論」の文書をまとめた。」という記事が掲載されています。これは、文科省が、今年度から5年間の教育政策の財政目標を定める「教育振興基本計画」を提出した中に「教育投資の数値目標を対国内総生産(GDP)比で「5%」と明記するように」ということを求めています。その根拠として、現在の教育投資のGDP比が、経済協力開発機構(OECD)諸国の中で2番目に低いというデータからの提案です。
しかし、それに対して財務省は、生徒1人あたりなら、米英独仏の平均とほぼ同水準であるというデータを示し、数値目標の明記についても、「教育投資や教職員定数の『投入量』でなく、どのような子供に育って欲しいかという『成果』で設定すべきだ」と否定的な見解を示したのです。それに対して、また文科省から「成果の実現には一定の条件整備が必要で、そのための投入量目標も重要だ」と反論が出されたのです。
どちらのデータも正しいものでしょう。このようなデータの提出に際し、平成17年に文部科学省生涯学習政策局からこんなことが付け加えられています。「社会事象を数量的にとらえ,客観的なデータにより科学的に分析する指標を提供する統計調査は,教育面においても益々重要になっております」
このデータの中でこんな結果が分析されています。学校教育費の対GDP比を公的負担と私的負担の内訳で表したものの結果です。(ただし、塾、家庭教師などの学校教育以外の費用は含まれていない)
「韓国は私的負担の高さが2.8%と目立っており、これが合計の学校教育費での第3位に結びついている。韓国の場合、学校教育費の他に、塾や家庭教師の私的負担もこれに加えて大きいといわれる。米国は第2位であるが、韓国と同様、私的負担の割合が高い。米国、韓国と並んで、アイスランド、デンマーク、ノルウェー、スウェーデンといった北欧諸国の学校教育費比率の高さが目立っている。これらの諸国の場合は公的負担がほとんどである。日本は第25位(調査対象国29カ国)と学校教育費の対GDP比の水準は低い。ただし、私的負担の比率は対GDP比で1.2%となっており、低くはない。逆に公的負担の比率は3.5%と低く、ギリシャを除いてOECD最下位となっている。最近では格差社会論などとの関連で、教育費の社会保障的な側面、すなわち貧乏人でも良い学校へ行けるという機会の平等が日本では失われてしまっている証左として、こうした学校教育費の公的負担割合の小ささがあげられることが多い」
このデータを見ると、確かに日本は先進国といいながら教育貧困と思わざるを得ません。また、先週号の週刊東洋経済の「子ども格差」の特集ではありませんが、公的負担の大きさは、教育格差を生んでいるように思いますし、それが社会に様々な問題を引き起こしている気がします。
もっと、違うデータで見てみようと思います。(つづく)
投稿者 fujimori : 21:41 | コメント (4)
2008年05月03日 [新聞記事より]
2030年の家庭
今年の朝日新聞東京本社発行1月1日付朝刊に2030年のある家庭の会話が掲載されていました。
「55歳おめでとう。あと定年まで10年だね」。朝食のテーブルで誠(55)は妻の陽子(56)と、長男の翔(しょう)(23)に祝福された。誠と陽子は団塊世代を親に持つ団塊ジュニアだ。「とにかく健康が一番ですよ」。誠の母で、入居中の有料老人ホームから遊びに来た幸子(83)も声をかける。生活習慣病予防の健診を受け、律義に医師の指導を守ってきたかいがあり、大きな病気はしていない。「病院の窓口負担は、あなたたちと同じ3割になった。これで病気になったら、ただでさえ色々と天引きされて少ない年金がなくなってしまうからね」と元気そのものだ。
誠の勤める製薬会社は、60歳だった定年を65歳に引き上げた。その後も嘱託やパートで働ける。地価も下がり、夢だった都内で3階建ての庭付き住宅も買えた。「35年の住宅ローンの返済もそれほど負担ではないな」と誠は感じている。「野菜サラダどう?レタスとトマトが新鮮でしょ」。陽子がほほえむ。農業に携わる人が高齢化し、耕作が放棄された農地が増えた。野菜は空洞化が進んだ都心のオフィスでも作られている。照明は発光ダイオード(LED)、室温や肥料もハイテク管理で、水耕栽培で育てる。
看護師の陽子が「うちの病院ではフィリピンの看護師が増えたわ」と話を切り出した。「そういえば、翔のベビーシッターもフィリピン人に頼んだこともあったね」と誠。「私の住んでいるホームでも、たくさん働いているわ」と幸子が相づちを打った。
朝食後、掃除ロボットで部屋を片づけ、留守番ロボットをセットして2人は職場に向かった。介護施設の見守りロボット、企業の受付や店舗で案内ロボット……人手不足を補うため、サービスロボットが大活躍だ。誠のオフィスは都心にある。新入社員時代は通勤ラッシュに悩まされたが、最近は電車の混雑もそれほどでもなく、座って新聞を読める日もある。翔は大学院へ向かった。電車の窓から、昔、通った幼稚園と保育園が一体化した総合施設が見える。「おふくろが迎えに来るのは、延長保育が終わる夜8時15分ぎりぎりだったな」。街の景色を見ながら、思い出が頭をよぎる。
小学校は自宅から5キロも離れていた。子供の数が減り、統廃合が進んだためだ。当時、30代前半でフリーターだった叔父が毎日、車で送り迎えしてくれた。「おれが大学生の頃は不景気で、就職できなかった。でも、組織に縛られない自由な生活もいいもんだぞ」と何度も聞かされた。
何年か前に鉄腕アトムのいる未来が予測されました。その時代が現実的に訪れ、その通りになったことと、そうではないことがあります。この記事の中で、何が本当になるでしょうか。今日の朝日新聞に、以前ブログでも書いた私の園で実験している水耕栽培の記事が掲載されました。いくら土があっても、その土を耕す人がいなくなったり、その土に生息する菌に人が弱くなり、農薬を大量に使うようになったりといろいろな問題が起きてきます。また、保育園、幼稚園も変わりつつあります。しかし、子どもに関する変化を、ただ、合理的とか、経済的とかいうことだけで行ってはいけないでしょう。
投稿者 fujimori : 22:21 | コメント (4)
2008年04月26日 [新聞記事より]
猫と獅子
先日、園のベランダに置いてあるマットを持ち上げてみたら、その隙間に子猫が5匹眠っていました。どこかの猫が子猫を産んだようです。どうしようかと職員で話し合ってりのを遠くから母親猫が心配そうに見つめていました。その子猫の処分をどうするかをみんなで話し合おうということにして、とりあえずそっとしておきました。その次の日、どうしているか覗いてみると、一晩のうちに母親猫がすべての子猫を一匹ずつくわえて、どこか誰もわからないところに移してしまっていました。
読売新聞に、猫に関する言葉が掲載されていました。一つ目が「茨城県では10億円もの巨額の猫ばばが露見した」という4月24日付の「よみうり寸評」です。
「〈猫ばば〉――悪事を隠して素知らぬ顔をすること。拾い物、預かった物などを自分の物にして知らん顔をすること。着服、横領だ。この意味は広く知られているが、〈ばば〉の語源には糞(ばば〉説とともに婆(ばば)説もある。前者はネコが後足で砂をかけて隠すところから。後者は江戸の本所に住んでいたネコ好きの老婆が欲張りだったからという説だ。)しかし、猫が自分の糞に砂をかけて隠すのは、何を悪事を隠すためではないのに、えらい迷惑ですね。また、もうひとつの説でも欲張りなのも、猫ではなく、猫好きの老婆ですので、これも猫が欲張りなわけでもありません。しかし、猫ばばというと、猫がズルいように聞こえます。
もうひとつの記事は、横領ではなく万引きについてネコ科の獅子についての4月25日付け「編集手帳」です。万引きを取り押さえられた者のなかには小学生もいて、引き取りに来てわが子を叱らず、「金を払えばいいんだろう」と開き直り、「なぜ取りやすい場所に置く」と店員を責める親に対して、「太平記」巻16の一節の「獅子、子を産んで三日を経る時、数千丈の石壁より是をなぐ」という子の成長を祈る親の厳しい愛情を例に挙げています。
この一節は、楠正成が長男である当時11歳の少年であった楠正行に櫻井宿でさとす場面として有名です。「ライオンは出産の3日後、わが子を高さ数千丈の断崖から投げ捨てると言われている。もし、その子に百獣の王に育つべき素質があるならば、誰に教えられるともなく、空中から跳ね返って、墜落死しない。」と言って親子が東西に分かれていくのです。これは もとは古い中国の故事で、獅子とは清涼山という山に棲む架空の聖獣で、アフリカのライオンの事ではないのですが。
太平記といえば、遊和軒朴翁の語った古代インドの逸話の中に親子の情を描いた場面でこんなのがあります。
妻とわが子を取られた獅子の化身である獅子王が、乱暴の限りを尽くし、その首に賞金をかけられます。そんなときにわが子と再会します。そして、わが子に手柄を立てさせるために、自分を討つように涙ながらに言います。
「生きているものすべからく、わが命を惜しむは、わがいとし子の為を思っての事。そなたが一国の主となり、その栄華がわが子々孫々に及ぶとならば、この期に及んでわが命、なんで惜しむはずがあろうか。太子よ、速やかにその弓を引き、矢を放ってわしを射殺せ。そして、恩賞に預かるがよい。」
わが子を思う親の気もちは世の常ですが、何をすることがわが子にとって良いことなのか難しいことですね。
投稿者 fujimori : 22:53 | コメント (4)
2008年04月03日 [新聞記事より]
ファンタ
保育をする上で必要な力のひとつに「柔軟性」があるという話をしましたが、その柔軟性は企業にも必要ですね。この柔軟性からの発想の商品が発売されることが、先日の日経新聞に掲載されていました。その記事は、「コカ・コーラシステム、振らなきゃ飲めない炭酸飲料「ファンタ ふるふるシェイカー オレンジ」を発売」という記事です。
コカ・コーラをはじめとする炭酸飲料は、缶やペットボトルを開けるときに気をつけなければなりません。それは、その前に振ってしまうと、勢いよく中身が飛び出してしまうか、泡があふれ出てしまうからです。ですから、できるだけ振らないようにします。それを逆手にとって、振らなければ飲めない炭酸飲料を開発したのです。それが、「ファンタ ふるふるシェイカー オレンジ」で、2008年4月21日(月)より全国で新発売の予定です。
この商品は、中高生を中心としたティーンを、ポップに楽しく応援するブランドとして、ティーンの生活に常に新しい楽しさを提供しようと企画されました。どうして振らないと飲めないかというと、中身は炭酸入りのゼリーで、缶を振ることでゼリーが崩れ、ゼリーのプルンとした食感とはじける炭酸のシュワッとした爽やかな口当たりが楽しめるようになっています。
このファンタ(Fanta)はコカ・コーラ社の炭酸飲料で、最近はほとんど飲みませんが、若い頃はずいぶんと飲んでいました。当時、コカ・コーラを飲んでいて、それよりも少し甘く、新鮮な味に思われました。また、このファンタのテレビコマーシャルは大変流行りました。実は、このファンタは、1940年に第二次世界大戦でコカ・コーラの原液を輸入できなくなったドイツで、リンゴジャムとチーズの製造工程中に生じる副産物より開発・製造されたものです。ドイツの飲み物といえば、ビールが有名ですが、アルコールがだめな人は、よくシュペツィという飲み物をのみます。これは、コーラとオレンジジュースを店によってブレンドしたものです。これは、ドイツでファンタオレンジが開発されたときの名残の味です。1958年に日本で初めて販売され、1960年にコカ・コーラ社によって商標が買い取られています。ファンタという名前の語源は、英語のFantasy(空想)やFantastic(すばらしい)に由来していて、「現実から解き放ってくれる」ような、楽しく親しみやすいというイメージのブランドとして発売されています。
ファンタを発売している「ザ コカ・コーラ カンパニー」は、「コカ・コーラ」をはじめ、そのほかの炭酸飲料、コーヒー、茶系飲料、果汁飲料、水、スポーツ・エネルギー飲料など400ブランド以上の清涼飲料を世界200以上の国や地域で製造・販売しています。発売していますが、の人々にお届けしています。世界の清涼飲料ブランドトップ5は、「コカ・コーラ」「ダイエット コカ・コーラ」「スプライト」「ファンタ」「ペプシ・コーラ」ですが、そのうちの4つを有する世界最大の清涼飲料メーカーです。
BusinessWeek誌とブランド測定企業のInterbrandが年次調査「Best Global Brands 2007」によると、世界ブランドのトップはコカ・コーラとマイクロソフトの2社となったそうです。この順位は、この7年、変動はありません。
私からすると懐かしいファンタも時代で変化しているようです。
投稿者 fujimori : 22:05 | コメント (4)
2008年02月26日 [新聞記事より]
生活の質
先週の日曜日、強風の中、渦の道を歩いてきました。ここは、徳島県鳴門市の鳴門海峡に位置する観光地で、大鳴門橋の橋桁に設置された遊歩道から、渦潮を見下ろすことができます。渦潮とは、潮の干満の差の激しい狭い海峡で発生する海水が渦を巻きながら激しく流れる現象です。
直接関係はありませんが、連想として、小説家・林芙美子が発表した小説「うず潮」を思い出しました。この小説や林の人生を題材にした映画作品やNHKの連続テレビ小説「うず潮」がありましたね。このドラマは、初めての無名新人の林美智子を主役にしたことで有名です。1964年に放送されたNHKの連続テレビ小説の第4作で、少女期の貧しい生活にもへこたれず、明るく生きていくヒロインの生涯を描いていました。
この原作者林芙美子のほかの作品に、「放浪記」があります。先日、新聞記事に「日本を代表する女優の森光子(87)が金字塔を打ち立てた。」ということで、東京・日比谷のシアタークリエで上演中の代表作「放浪記」が先日23日に、上演1900回を達成したというものです。1961年の初演以来47年、よくがんばったものです。長い間というだけでなく、現在87歳になっても、あのハードな演技を続けているのですからたいしたものです。今回の東京公演から、あの有名なシーンである「でんぐり返し」は、やらないらしいですが、花粉症に悩まされる中で、3月末までの3カ月公演を続けています。
「風邪をひかないこと、転ばないことを心掛けています。年齢にケンカできるものではありませんから」と高齢であることを冷静に自覚した言葉も話しています。
高齢でがんばっているといえば、1911年(明治44年)生まれの聖路加国際病院名誉院長・同理事長で医師である日野原 重明がいます。
この日野原さんが主宰している「新老人の会」の会員である松原さんが、新聞に「若々しい老い」について、投稿をしていました。この会の登録者から得た調査票では、老人のQOL(生活の質)の高さには、「気力」が「体力」にもまして影響力が大きいこと、「体力」には睡眠、運動、食事のとり方、病気の有無などが影響していることが明らかになっています。そのほか、趣味、けいこやボランティア活動など日常生活のあり方が「気力」に大きな影響を与えているという結果も出ています。
森さんと日野原さんの二人を見ていると、まさに、老人のQOL(生活の質)は、気力にあるという気がします。QOLとは、「Quality of Life」のことです。健康に問題ない方は、体のどこにも異常はなく、普通の生活をしている。これをQOLが良いと言います。しかし、体の調子が悪く、病気になると、頭や体が痛んで、仕事や勉強、運動などをする気になれず、寝込んでしまうことが多く、このように日常の生活を送れない状態をQOLが悪いと言います。昔はこういう苦痛があるときには、草を煎じて飲んで楽になろうとしました。これが「薬」です。しかし、最近は、この生活の質は薬でよくなるのではなく、食欲の改善、体重の維持、睡眠、適度な運動、そして、何よりも生きる意欲、気力が大事だということがわかってきたのです。
日本の子どもの意欲がなくなってきていることが心配です。
投稿者 fujimori : 23:05 | コメント (3)
2008年02月20日 [新聞記事より]
里
身近な自然環境を見つけようということで、森林文化協会と朝日新聞社が、「くらしが育んだ里を未来へ」ということで、人々の暮らしによって育まれてきた、すこやかで美しい里を100カ所選ぶ「にほんの里100選」選定事業を行っています。このイベントは、「里」の大切さを見つめなおし、地域の自信や活力につなげるとともに、生物多様性の確保や地球温暖化防止、自然の持続的利用に寄与する試みでもあるようです。その候補地を募集していますが、どんなところが選ばれるのでしょう。
この対象となる「里」は集落と、その周辺の田畑や野原や草地、海辺や水辺、里山などの自然からなる地域のことです。選定基準としては、景観、生物多様性、人の営みの3要素です。「景観」とは、「暮らしが生み出した特色ある景観が、まとまりをもって見られる。あるいは、里の景観が全体として調和していて美しい。」ということで、「生物多様性」とは、「かつては里でよく見かけた動植物が今もすこやかに生きている。あるいは、そうした生き物や生育・生息環境を再生する試みなどがある。」ということで、「人の営み」とは、「景観や生き物を支え、里のめぐみを生かす暮らしや営みがある。あるいは、そうした暮らしを築き持続させようとする人々がいる。」ということです。この条件は、選定基準としてだけでなく、私たちが身の回りの環境を守るためにも大切な要因ですね。まさに、「共生」とはどういうことかを表しています。
選定委員長である映画監督、山田洋次さんは、48作続いた「寅さん」シリーズなどで、旅情や郷愁をかきたて、ぬくもりのあるロケ地を探して各地を回り、里の景観にも詳しいそうですが、この寅さんシリーズの映画は、エコに関しても海外でとても評価が高いと聞いたことがあります。買い物には買い物籠をもって行き、風呂敷に包み、豆腐を買いに行くときになべを持っていき、醤油などはびんにつめてもらうというような庶民の生活が描かれています。この委員長を務めるにあたって、山田さんは、「寅さんの撮影は、地方の美しい景色が消えていく後を追うことに似ていた。絶望は簡単だ。だが、まだ早い。まだ美しい里はある。大事なことは、暮らし方や生き方だ。写真には写らない取り組みを取り上げたい」と話しています。
ほかの委員では、カナダ生まれで、農山漁村に魅了され、日本の海岸線の8割を踏破しているエッセイストで宮城大准教授(環境歴史学)の、あん・まくどなるどさんは、「南北に長い日本は土地ごとの表情がある。四季を感じさせる100選になればと思う。漁村にも注目したい」と言っています。京大大学院教授(緑地学、景観生態保全論)の森本幸裕さんは、「里は全体としてまとまりのある美しさを示しており、含蓄のある言葉だ。里の中身を問い、深化させていきたい」といい、ヒトこそが、持続可能な生態系の再生に知恵を絞るべきだと訴える東大大学院教授(植物生態学、保全生態学)の鷲谷いづみさんは、「里でふつう見られた生物で、みかけなくなったものも多い。生き物へのまなざしを取り戻すきっかけにしたい」といい、 朝日新聞編集担当の粕谷卓志さんは、「食への視点もあっていい。美しさ、おいしさ、そして健康といった多様なものが人々の心に残る里100選にしたい」と抱負を述べています。
それぞれの人の言葉の中には、環境を述べる上で参考になる考え方が入っています。
投稿者 fujimori : 23:20 | コメント (4)
2008年02月12日 [新聞記事より]
もったいないから捨てる
携帯電話が普及し、次々に新しい機種が発表され、若者は次から次に新機種に買い替えて行きます。私は、そんなに買い換えませんが、携帯電話はかなり使いこなしています。朝の目覚ましから始まって、メールチェック、電車の乗降、買い物、検索、色々と使っていることを考えると、新しい機種に買い換えても決して無駄ではないと思えるほど、1日の中で、一番使っているものかもしれません。
買い換えるときに、困るのは古い携帯の処分の仕方です。私は、前々回、買い換えたときには、ショップで処分してもらいました。そのときには、目の前で、携帯電話の中心にバリバリと穴を開けて見せてくれました。それは、もう決して情報は使えませんよというアピールでした。それを目の前で見たときは、なんとなくショックでした。
前回買い換えたときは、古い携帯は2年になりますがそのまま、まだ持っています。私は、それを予備として、持っていますが、実際は一度も使ったことがありません。昨年暮れの雑誌AERAの記事に「古いケイタイが捨てられなくて」というのがありました。「アルバム代わりかタイムマシンか 携帯電話を買い換えたとき、古い電話機はどうしてますか。目覚まし代わり?子どものおもちゃ?本来回収すべきものを持ち帰る人々が増えているのは、実は思い出のためでもあるらしく……。デジタルなのにアナログなお話。」
この記事では、いろいろな人が、どうして古い携帯電話をまだ持っているかを取材しています。電気通信事業者協会が携帯とPHSを買い換えた人に行ったアンケートによると、古い電話を引き取ってもらった人は62%で、前年度の71%から9%減ったそうです。台数でいうと、回収実績は00年度の1362万台から06年度は662万台に半減しています。目覚まし時計や電話帳代わりに使う人も多いようですが、一番多かった理由は、「コレクション・思い出として残す」が35%と最多でした。
しかし、実は携帯電話は100%リサイクルすることができるのです。しかも、携帯電話には金や銀などの貴金属が数種類も含まれており(ちなみに携帯電話1台に含まれる金の量は0.028g)、携帯電話をリサイクルすることで金、銀のほか貴重な金属資源であるパラジウム、コバルトなどの希少金属(レアメタル)を再び回収することができます。
このような「都市鉱山」に眠る資源確保のためにリサイクルを進めようと、東京都がメーカーなどと協力態勢を組むことになったという記事が、2月8日朝日新聞に掲載されていました。販売店に加え、区市町村役場にも回収箱を置くなどの策を打ち出しますが、同時に「思い出」を残す仕組みも検討するといいます。具体的には、都や区市町村、メーカー、携帯電話会社は近く協議会をつくり、対策を話し合い、新たに回収場所となる役所では、利用者の思いに配慮し、携帯の内蔵データをCD―ROMで残すサービスや、逆にデータ消去のための専用シュレッダー設置を検討していくそうです。自治体広報誌でPRするほか、利用者が役所に持ってきたらストラップなどを渡す景品キャンペーンも考えるといっています。
「もったいない」は、捨てないことだけでなく、捨てることも意味あることのこともあります。何度でも使う、もう一度使うもエコです。
投稿者 fujimori : 23:07 | コメント (4)
2007年12月15日 [新聞記事より]
ロボット
今年の10月23日から1月27日まで、国立科学博物館(東京・上野公園)でロボットをテーマとした企画展「大ロボット博 ~からくりからアニメ、最新ロボットまで~」が開催されています。会場には実際に活躍している工業用ロボットから、フィクションの世界の人気ロボットまで様々なロボットが集合し、私はまだ訪れていませんが、連日多くの来館者で賑わっているようです。私の世代から多くの人がロボットと触れ合うのは、まず、「鉄人28号」「鉄腕アトム」から「マジンガーZ」、「機動戦士ガンダム」まで、マンガやアニメに登場したさまざまなキャラクターでしょう。そして、懐かしいブリキや「超合金」のおもちゃです。これらのおもちゃは、もうすぐ訪れるクリスマスプレゼントとしてサンタからもらうことが多いでしょうね。そのロボットから、子どもたちは夢を描き、未来を夢見ました。しかし、実際のロボットのほとんどは工業用に使われています。大ロボット博の案内には、こう書かれています。「現在、日本では、世界で最も多くのロボットが使用されています。また、その開発も盛んで、世界でもトップレベルのロボット技術を誇る日本は、世界有数の「ロボット王国」であると言えるでしょう。この展覧会では、日本の伝統的な「からくり」をはじめ、二足歩行ロボットや産業用ロボットなどの世界最高水準にある日本のロボットたち、そして漫画やアニメに描かれる未来のロボットたちを展示し、日本経済の未来を牽引するロボット技術を科学史的な視点から紹介するものです。最先端の制御装置による「自動演奏ピアノ」など実際に体感できる展示や、ロボットやからくりによるステージイベントも数多く予定しています。ロボットテクノロジーの歴史をたどりながら、モノづくりの楽しさ、魅力を体感し、日本の科学技術が描く夢の未来を体験してみよう!」こんな時代ですから、おもちゃのロボットもどんどん進化しています。今日のニュースで、こんなのがありました。「最新ペットロボ人気、育て方で性格や行動が変化」というものです。アイボをはじめ、ロボットをペットにすることが少し前からはやっています。子どもでは責任はあるし、いうことは聞かないし、自分の都合に合わせてくれないので、その代わりにペットを飼う人が増えていますが、それでもペットは世話をしなければなりませんし、死に直面しなければなりません。そこで、死なないロボットをペットにする人が今後増えるのでしょうか。今月中旬から販売される予定の愛玩用のロボットは、米国生まれのペットロボット「PLEO(プレオ)」というもので、育て方で行動や性格まで変化するそうです。このプレオを開発したのは、「ファービー」という1998年に登場した言語学習機能つき電子ペットを開発したところで、日本でも人気を博しました。今回のプレオは恐竜の赤ちゃんのような姿で、大きさは約50センチ、重さ約1.6キロ。38のセンサーと14個のモーターを感情豊かな動きをするようです。なんだか、見たところ恐竜ですので、私としてはバーチャルな世界での飼育という感じがして、まだ、安心します。逆に余りにも人間に近く、赤ちゃんに近いと、それを育てることと人間を育てることと比較されると困ると思います。しかし、なでると体を丸くしたり、作り物の葉っぱを口に入れると、エサを食べるしぐさをしたりする。世話の仕方や接し方などで性格が次第に変わるというように、次第に本物に近づいていますね。 しかし、今後も形は実在しないものにして欲しいと思います。
投稿者 fujimori : 18:12 | コメント (3)
2007年12月07日 [新聞記事より]
教育優先
先日の新聞記事に、「家計支出に占める子育て費の割合「エンゼル係数」が2007年に26・2%にとどまったことが、野村証券の調査で分かった。」という記事が掲載されていました。エンゼル係数とは、エンゲル係数にひっかけた語句で、一家のひと月の家計の中で子どもに費やした、学校や塾の授業料、子供の衣食住、病院、レジャーの費用、子どもに与える小遣い、将来のための学費貯金、子ども保険など、子どもに関係する費用全てが総支出に占める割合を指す言葉です。この数字は、1991年に現在の形で調査を始めて以来の最低水準で、1993年の33・4%をピークに下落が続いています。同証券は「少子化に加え、年収の二極化で低所得者層が子育て費を引き締めたため」と分析しています。しかし、景気低迷が原因であることもあるでしょうが、子どもに使う費用の優先順位が、生活の中で下がってきているということもいえるような気がします。子どもにかける費用は、将来への投資です。しかし、次第に、投資に対する見返りの見込みが少なくなってきたということと、今現在にお金を使うということも優先して、先を見る力の欠如に関係するような気もします。しかし、これが嘆かわしいと思うよりも、もっと嘆かわしいデータが、やはり先日の11月6日の新聞に掲載されていました。それは、経済協力開発機構(OECD)は先頃、2007(平成19)年版の『図表で見る教育』を発表した結果についてです。この中で日本が教育にお金をかける「公的支出」の割合は、国内総生産(GDP)比で見ても非常に低いことがわかったのです。これは、以前から言われていることですので、また、今回の調査でもそうだったかという印象です。OECDといえば、ここのところ、昨年に57カ国の15歳を対象に実施した「生徒の学習到達度調査」(PISA)で、日本の高校1年生が前回に比べて、読解力が14位から15位、数学的リテラシー(活用力)が6位から10位、科学的活用力が2位から6位になり、実施3分野すべてで順位が低下したことが話題になっています。それよりも驚くのは、教育にお金をかける「公的支出」の割合です。OECDの加盟国30カ国のなかで、2004(平成16)年度のGDPに占める公的な教育支出の割合は、日本が3.5%で、ギリシャに次いで下から2番目なのです。保護者が払う授業など「私的負担」を加えても4.8%で、下から5番目です。随分と低いですね。学力がトップのフィンランドは、 現在、6.1%です。GDP に占める高等教育への財政支出は、もっとひどいものです。アメリカが1.2%、イギリス0.8%、ドイツ1.0%に対して、日本は、なんと0.4%で、欧米の半分に満ちません。ちなみに、大学にかかるお金(2005年)は、日本では817,800円(国立大学の初年度納付金)かかるのにたいして、ドイツでは、18,100円(社会保険・福祉会計費など。授業料・入学金はなし)ですみます。しかし、政府は、単純に増やすことには危惧しています。6月に財政制度等審議会(財政審)が出した来年度予算に対する建議では、「教育予算の対GDP比のみを以て、その多寡を議論するのは適当ではない」と指摘しています。その根拠は、1989(平成元)年以降、小・中学生1人当たりの公教育支出は1.5倍以上に増えているのにもかかわらず、「学力低下」に代表されるように、教育の問題はむしろ深刻化しているではないか、というものです。確かに金額ではない気がします。しかし、最近の政府の無駄遣いのニュースを見るたびに、もっと、教育を優先的に考えてほしいと思ってしまいます。
投稿者 fujimori : 23:33 | コメント (4)
2007年11月29日 [新聞記事より]
ちから
よくブログに書きますが、携帯電話はどこまで進化するかわからないほど日々進化しています。私は講演でよく話していることがあります。それは、最近の英語熱に関して、「これからの時代は、グローバルな時代になるので英語教育は確かに必要です。しかし、何が英語教育かというと、今熱心に行われていることが、将来本当に役に立つでしょうか。たとえば、りんごをアップルと言えても、それは今パソコンの翻訳ソフトですぐに出てきますし、携帯電話の辞書機能に「りんご」と書いたら「apple」と出てきますし、その逆も可能です。それが、今後、それが、もしニーズがあったとしたら、携帯電話に日本語で話しかけたら、英語に訳してくれるだろう。」という内容の講演です。先日の11月27日の新聞に、「ケータイに話せば英語へ翻訳 ドコモが新サービス開始」という記事が出ていました。携帯電話に向かって日本語を話すと、翻訳された英語が数秒後にディスプレー画面に表れるサービスが始まったという内容です。逆に、英語で話せば日本語にも翻訳してくれます。この携帯電話による音声自動翻訳サービスは世界で初めてだそうです。今までなかなか実現しなかったのは、周囲のノイズを多く拾う携帯電話は、音声による自動翻訳ができるほど正確に声だけを認識することが難しかったからです。しかし、携帯電話本体にノイズを取り除く仕組みをつくり、音声の特徴を抽出し、音声がもつ情報量を30分の1ほどに圧縮してからサーバーに送信します。そのサーバーで、音声のデータを翻訳して携帯電話に送り返し、ディスプレー画面には、元の文と翻訳の文が表示されます。旅行英会話でよく使われる約7万5000の単語を登録し、約100万の文例をもとに翻訳ソフトをつくり、英検準1級程度の能力があるといいます。しかも、その利用料が、月157円です。近く日中翻訳のサービスも始めるそうですが、こんなに早く実現するとは思いませんでした。
また、今日に日経新聞に「ソニーなど5社、「フェリカ」技術用途開拓へ新会社」という記事が掲載されていました。フェリカは、ソニーが開発した非接触ICカード技術のことです。非接触ICカードとは、読み取り端末に接触させなくても処理が可能なICカードで、振動やほこりが多い環境での運用に適しているだけでなく、カードを抜き差しする手間がないため、高速な処理が必要な鉄道・バスの決済処理には非接触式カードが使われています。たとえば、JR東日本のプリペイドICカード「Suica」や、ビットワレットの電子マネー「Edy」などで採用されています。そのフェリカ機能を携帯電話に内蔵し、切符や財布の代わりとして使えるようになっています。それが、電子マネーや交通乗車券だけでなく、小売り・飲食店などの会員証、ポイントカード、クーポン券など八つの機能を1枚に盛り込める次世代機能の普及を促し、効果的な広告・誘客手段として売り込むために、来年1月に新会社「フェリカポケットマーケティング」を設立するというニュースです。現在のフェリカ搭載カードでは、決済や会員証など複数の機能を併せ持つことができていないのが、可能になるのです。このように科学が進み、いろいろな物が開発されていく世の中で、これから身に付けなければならない「ちから」が何なのかわかってくると思います。それは、人間にしかできないことです。何が、人間しかできないことなのか、人間だからこそできることなのかをしっかり見つめて、それを子どもたちに伝えていく必要があります。
投稿者 fujimori : 23:06 | コメント (4)
2007年11月22日 [新聞記事より]
積み木
そろそろ、クリスマスプレゼントで、何にするかを考える頃になりました。11月20日の 読売新聞に子どものおもちゃの中で昔から人気のある「積み木」の魅力について書かれていました。NPO法人日本グッド・トイ委員会のおもちゃコンサルタント、石井今日子さんは、「飾りのないシンプルな形だからこそ、逆に様々な遊びに使えるのです」と指摘しています。また、東京・北青山にある「クレヨンハウス」のおもちゃ売り場担当、小島ちふみさんは、「木の手触りや香りも積み木の魅力です。手のひらにのせると、しっかりとした重さを感じます。木の魅力を味わいながら遊んでほしいです。」と話しています。私の園でも、積み木は子どもたちには人気のあるおもちゃです。
いつまでも飽きずに遊んでいることもあります。保護者は、よく、子どもが同じ遊びしかしない場合、いつまでも同じおもちゃで遊んでいるときに「大丈夫かしら。たまには違う遊びもしたらいいのに。」「子どもには、いろいろなことを経験させたいので、先生から、違う遊びにもさそってください。」と心配したり、要望したりします。しかし、積み木は、遊び方は決まっていませんし、積み木で作れるものは無限にあります。しかも、簡単な物から、大人でもやっと作れる難しいものまで様々な物が作れます。子どもが遊びに飽きるときの大きな理由は、そのおもちゃで遊ぶときに、それが簡単すぎるときや、難しすぎるときです。当然、子どもはそのおもちゃで遊んでいると、次第に慣れてきて、簡単になってきます。そのときにそのおもちゃに飽きるのです。しかし、子どもが簡単にできるようになると、そのおもちゃが、もっと難しいものも作れるようなものであれば、子どもは飽きません。すなわち、子どもの習熟にあわせて、そのおもちゃもそれに対応できるようであれば、長くそのおもちゃで遊ぶことができるのです。その代表的な物が「積み木」の気がします。それは、一人の子の習熟に合わせるだけでなく、子どもの成長によっても対応できます。読売新聞には、こう書かれています。「赤ちゃんは、まず握ったりしゃぶったりして遊び始めます。落としたり、ポンと投げたりするのも楽しい遊びです。1歳近くになると、両手に握ってカチカチとぶつけて遊ぶこともあります。音が出るのが面白いようです。積んでは崩すことも赤ちゃんは大好きです。さらに3歳ごろになると、想像を膨らませて、四角い積み木を車、丸い積み木を動物と見立てて遊ぶこともできるようになります。」ですから、ヨーロッパでは、親子2代にわたって積み木を受け継ぐ家庭も珍しくないそうです。積み木だけでなく、おもちゃには様々な役割があります。それは、一人で遊ぶときの有効性だけでなく、人とかかわる力もつけていきます。同じ読売新聞の11月13日には、「おもちゃ遊びを通じて、赤ちゃんは友達との関係やルールなど、様々なことを少しずつ学んでいきます。」という記事が書かれていました。1~2歳のころは、面白そうなおもちゃを見つけると、周りにお構いなしに突進し自分のものにしてしまうことがよくあります。そんなときに、こどもの城(東京)小児保健部部長で臨床心理士の井口由子さんは「1~2歳の子供は、その場ですぐに理解できないかもしれませんが、『それは友達のなんだよ』と言い聞かせていくことも大切です。取られた子供に対しても『びっくりしたね』『いやだったね』などと気持ちに寄り添うように言葉かけしましょう」と話しています。どの年齢の子でも楽しめ、いつまでも飽きず、一人でも複数でも楽しめるような、子ども主体的に遊べるおもちゃが「いいおもちゃ」と言えるのかもしれません。
投稿者 fujimori : 23:39 | コメント (4)
2007年11月09日 [新聞記事より]
新しいコミュニティ
先日、若い職員からミクシィを見せてもらいました。若い人が電車内で携帯電話を見ている姿をよく見かけます。何を見ているのだろうと思っていたのですが、その何人かはミクシィを見ているようです。私は、他の人よりは携帯電話を活用しているほうですが、ミクシィは名前だけは聞いたことがありますが、参加はしていません。ミクシィmixiとは、2004年2月に開始した日本初のソーシャル・ネットワーキング サービス(SNS)です。運営しているのは株式会社ミクシィで、9月末の交流サイトの会員数は1190万人で、数十万のコミュニティ、1日2億ページビュー以上のアクセスがあるそうです。このmixiには参加者からの招待がないと加入できないサービスで、加入自体は無料です。ブラウザだけで利用できる日記機能や、参加者間でメールが送受信できるメッセージ機能、自分の聞いている曲をリアルタイムにリスト化して公開できる「mixiミュージック」、主要なメディアから配信されるニュースを一覧でき、関連した日記を書くことができる「mixiニュース」、携帯電話からmixiが利用できる「mixiモバイル」、テーマに沿って参加者が集まるコミュニティ機能などがあります。また、親しい友人・知人を登録する「マイミクシィ」(マイミク)と呼ばれる機能があり、ここに登録するとお互いのプロフィール画面に相手がマイミクであることが表示されるほか、相手を紹介する文章を相手のページに掲載することができ、相手の日記の新着書き込みなどが自分のページに表示されるようになります。この「mixi」という名称の由来は、公式見解によると「mix」(混ぜる、交流する)と「i」(人)の造語のようです。株式会社ミクシィは、もともと株式会社イー・マーキュリーという社名だったそうですが、mixiが事業の柱に育ち、同社サービスの中でも群を抜いて知名度が高くなったことから、2006年2月にミクシィに改名しています。今日のニュースに、「ミクシィ、単独営業利益2.1倍・9月中間、広告収入伸びる」というものがありました。今月発表の単独決算は、営業利益が前年同期比2.1倍の18億1300万円だったそうです。携帯電話向けを中心にサイト閲覧数が増え、広告収入を大きく伸ばし、税引き利益は2.2倍の9億8200万円でした。利用も8―9月には携帯からのサイト閲覧件数がパソコンからを上回ったそうです。もうひとつ、今日のニュースで「ミクシィから生まれたカップめん・エースコックが12月発売 」というのがありました。エースコックが、ミクシィの公認コミュニティ「カップめん開発オーディション」で、新商品アイデアを募集し、商品化したものです。コミュニティには、735件ものアイデアが寄せられ、その中から、ユーザーとの活発な意見交流によって商品内容を決定したようです。その結果、ひとつは、「カレーラクサ春雨」です。マレーシアの麺料理「ラクサ」をヒントにしたカレー風味のカップ春雨で、価格は150円です。もう一品は、230円の価格設定をした「黒石・つゆ焼きそば」です。これは、B級グルメとして注目されている青森県黒石市のご当地メニューをカップめんで再現したものです。乾燥麺の入ったカップに熱湯を注いで切った後にソースを加えて、ソース焼きそばを作るというものです。今回の消費者参加型の商品開発方法について「従来型の話題作りや広告の一媒体にとどまらない、真のWeb 2.0型プロジェクト」と語っています。この世界では、新しいコミュニティの形が次々と生まれています。まだ、人生をリタイアしない気持ちがある人は、よくわからないと言うのではなく、積極的に知ろうとする意識が大切かもしれません。
投稿者 fujimori : 21:23 | コメント (4)
2007年11月04日 [新聞記事より]
光
11月3日文化の日の読売新聞のコラム「編集手帳」に教育・保育に参考になるいい話が書かれていました。「仲代達矢さん(74)は黒沢明監督「七人の侍」に通行人役で5秒間ほど登場する。映画に仲代さんの名前はない。20歳、俳優座養成所に通う無名のころである◆監督に絞られた逸話は知られている。歩いては叱(しか)られ、歩いては叱られ、昼食抜きの歩行練習をひとり命じられた。朝9時のテスト開始から午後3時の本番まで歩き続けたという◆仲代さんの足跡をたどった高橋豊さんの評伝、「幻を追って」(毎日新聞社刊)に後日談がある。7年後、映画「用心棒」で今度は準主役に起用されたとき、「監督、ぼくを覚えていますか」と尋ねた。黒沢監督は答えた。「覚えているから使うんじゃないか」◆黒沢氏は仲代青年のなかに素質の原石を見て、少々手荒く磨いてくれたものらしい。光を放つのが何年先であれ、磨く労を惜しまない。」私たちが保育している幼児の姿は、何度も何度も歩いている姿です。その歩き方は、ヨチヨチであり、未だしっかりと腕も振られていないかもしれません。しかし、それはそのあと、自分の足で歩き始めるときのための練習でもあるのです。また、その未熟の歩き方からも、その子の将来の見通しを立てていかなければなりません。ただ、この編集手帳に書かれているような手荒いやり方は子どもには向いていないと思いますが、それでも歩いていれば転ぶこともありますし、何かにぶつかることもあります。転ばないように石をどけてしまうとか、転んではいけないと思ってすぐに抱き上げてしまっては、歩くことを学んでいることにはなりません。転んでも手をつくことができるようになったり、障害物を乗り越えて歩くことができるようになることが、何年か先に自分だけで歩くなったときに必要な知恵なのです。「光を放つのが何年先であれ、磨く労を惜しまない。」という考え方は、教育者は学ぶべきことです。特に、幼児教育者は、子どもという石が、何年か先に光を放つようになるために磨くのです。また、今、光っていないからダメだとか、今、光らせるためにニスを塗って表面だけ光らせると、表面がはがれ、その光は次第に鈍くなり、何年か先には光らなくなってしまいます。自らその光を放つようにならないといけないのです。先日、子どもたちが作った「泥団子」を見せてもらいました。きれいに丸くなったぴかぴかに光った泥団子を作るためにまず必要なのは、泥だんごの芯を作ることです。ここをいい加減にしてしまうと、出来上がりはちがってきます。そのコツは、粒子の大きい土(砂でもよい)と粒子の小さい土と水を混ぜることです。そして、手で握り締め 水を出しながら、泥だんごの芯(出来るだけ丸く)を作ります。この芯をしっかりつくるためには、大きい粒子と小さい粒子が水の膜を仲介として、強く絡め合い、手で握り締めることで水が無くなり崩れなくなります。そのあと、乾いた色々な大きさの粒子を含んだ土をたっぷり振りかけ、表面に載った土を払い落としながら、表面を球形になぜていきます。芯を作るときにも、表面をなぜるときにも、様々な大きさの粒子が必要です。それぞれの大きさの粒子は、それぞれの役目を持っているのです。子どもにも、様々な年齢の子との関わり、様々な特性を持った子たちのかかわりでしっかりした芯を作ることができるのです。編集手帳は、こう締めています。「厳しい手に磨かれた原石は宝石となったのち、みずからが手となって若い原石を磨く。映画に限らず文化とは、恩を受けては返す長い鎖をいうのかも知れない。」私たちも、保育という仕事を通して、人の生き方をつないで行かなければなりません。
投稿者 fujimori : 20:00 | コメント (4)
2007年11月02日 [新聞記事より]
脳弁
今日の新聞の各紙に「疲れた脳を弁当で活性化 高松でコンテスト」というようなニュースが流れました。この企画は、高松国際ホテルなどを運営する穴吹エンタープライズ(高松市)が企画したもので、ホテルの会議利用が多いことを受け、脳を活性化して活発な議論をしてもらおうと、全社員から企画を募ったのです。同社は、経営理念として、1、お客様に対しては、「お客様が期待する以上のサービスを提供することで「安心」と「満足」と「感動」を追求します。」2、社員に対しては、「主体性や創造性が発揮できる自由な風土を創り、社員1人1人の能力を最大限に発揮します。」とあります。その理念のもと、新商品である脳を活性化する会議弁当(通称:脳弁/のうべん)の企画開発にあたり、全社員からアイデアを募りコンテストを開催したのです。最優秀賞を受賞したのは、集中力向上が期待できるドコサヘキサエン酸、脳を活性化するというレシチンなどの成分を含む42の食材を使用しています。まず、「視覚的要素」です。弁当を目にしたときに飛び込んでくるのが斬新な「パッケージデザイン」 そして、弁当箱の上蓋を開けると、弁当のメニューが目に続けて飛び込んできます。次に「触覚的要素」です。弁当箱は、手触りもよく、脳にリラックス効果をあたえる木製のものを採用しています。次は、「味覚と嗅覚」です。料理に使用している食材は、脳に良いとされる「子羊肉」「抹茶」「大豆」をふんだんに盛り込んでいます。「食後」にも気を使います。その後の会議のために、リフレッシュした脳を再起動させるために、脳を鍛える「脳トレ」流行の脳を活性化させる問題が印刷されたカードが、食後にできるように付いています。このように、脳に良いとされる食材をふんだんに使用してだけでなく、弁当を食べるというシーンのひとつずつにストーリーを持たせています。以前から、緑黄色野菜(β-カロテン)と一緒に魚料理(DHA)を食べると、記憶力アップにより効果的だといわれています。魚のDHA(不飽和脂肪酸)は、記憶力を高める効果がありますが、酸素の影響を受けると酸化されて本来の作用を失ってしまいます。 そこで緑黄色野菜を一緒に食べることで、緑黄色野菜に含まれるβ-カロテンの酸化を防いでしまうのです。 アジやいわし、さばなどのDHAを多く含んだ魚料理と一緒には、かぼちゃの煮物や、にんじんのグラッセ、ほうれん草のバター炒め、などを食べるのがよいと言われています。また、野菜、特に緑色の葉野菜を1日3皿食べると、脳が5歳若くなるとも言われています。また、野菜を食べることは、高齢者における知的な能力の低下を遅くするのに役立つことがわかっています。これは、米国のラッシュ大学メディカルセンター助教授のマーサ・クレア・モリス氏らが、Neurology 誌に発表したものです。緑黄色野菜に対する厚生労働省の定義では「新鮮な野菜100g中にベータカロチンを600マイクログラム(μg) 以上含んでいるもの)とされています。またベータカロチンの含有量が600μg以下であっても、一般的に広く食べられている、トマトやピーマン等は緑黄色野菜に含められています。具体的には、にんじん、ほうれん草、パセリ、しゅんぎく、こまつな、にら、かぼちゃ、ブロッコリー、さやえんどう、しその葉、アスパラガス、ピーマン、トマトなどのことをいいます。また、ベータカロチンの量が600μg(マイクログラム) 以下の野菜は”淡色野菜”と呼ばれています。淡色野菜の仲間は、なす、きゅうり、オクラ、レタス等です。弁当を脳と結びつけたアイデアは気が利いていますね。いろいろなものと脳との関係が今後わかってくるでしょう。
投稿者 fujimori : 23:26 | コメント (4)
2007年10月23日 [新聞記事より]
言葉
今日の読売新聞に「広辞苑」という国語辞書が10年ぶりに改訂されたというニュースが掲載されていました。今回で第6版だそうです。私が小学校に入学したころに第1版が発行され、家庭の必需品でした。茶の間に置かれ、テレビを見たり、家族で会話をしたりしたりする中で、解らない言葉があるとすぐにこの広辞苑で調べたものでした。そこに掲載されている言葉は、前回の版より1万項目増えて24万項目あるそうです。改訂するごとに顕著に増えてきているのがカタカナ語です。確かに、巷ではカタカナ語が多く使われるようになりましたし、外国でないとうまくニュアンスが伝わらない言葉も多くなりました。今回の改訂では,カタカナ語が新収項目の38%を占めるそうです。しかし、本来の外国語ではなく、いわゆる和製英語のように外国語を日本でアレンジしてできた言葉が増えたのも今回の特徴の一つです。ですから、気をつけないと、その言葉を外国に行って使っても通じません。たとえば、外国語の単語を日本で組み合わせて作った単語である「スケールメリット」「タッチキー」「チャイルドシート」「マイナスイメージ」などがあります。また、一見,本来の英語のように見えるものとして「バブリー」「プルサーマル」「プレゼンテーター」などがありますが、まったく日本人による新語です。もうひとつ、増えた単語の特徴がインターネットの急激な普及で使われるようになった言葉です。「インターネット」「ホームページ」「HTML」などは、前回の改訂で入りましたが、今回の改訂では、「検索エンジン」「SNS」「HTTP」「SSL」「ドメイン」などが収録されています。困る使われ方の言葉として、「なりすまし」「迷惑メール」「フィッシング」などもあります。携帯電話関係では、「着メロ」「顔文字」「ワンセグ」などが新たに収録されています。世相を反映したものとして、「メタボリック症候群」「うざい」などや、私がここで書いている「ブログ」も今回入りました。そのほかに主なものとして「癒(いや)し系」「クレーマー」「ニート」「敵対的企業買収」「京都議定書」このように、改訂されるたびに収録されてきた言葉を見ると、時代がよくわかります。それは、言葉の意味や使い方は不変ではないからです。しかし、その変化を言葉の乱れと感じるか、時代の変化とするかは難しいところです。この嘆きは、「近ごろの言葉遣いは聞き苦しい」と『枕草子』にも『徒然草』にも見られます。また、同様に生活様式や価値観が変わることで、その意味が変わっていくものにことわざがあります。たとえば、「犬も歩けば棒に当たる」ということわざも、広辞苑では二通りの解釈が書かれています。ひとつは、「自分のよく知っている世界から外に出ないことが生きていく上での知恵である」という解釈と、最近の解釈である「新しいことを試みる積極性に価値を認める」という内容です。この広辞苑の第1版は、1955年5月25日に刊行されました。その基になるものとして新村出氏が「普遍的にしてかつ軽便な中型国語辞書」として編纂され、1935年(昭和10)に博文館から刊行された「辞苑」があります。これを全面的に改訂・増補して作られた「広辞苑」は、当初、百科事典を兼ねた20万語収載の国語辞典として、装丁を洋画家安井曾太郎氏の手により発刊されたのです。この初版以来の累計部数は,1100万部になり、積み上げると880キロメートル、成層圏を遥かに超えて大気の極端に薄くなった場所に届き、東海道線・山陽線の線路に並べていくと,東京から広島までの距離になるそうです。この広辞苑は、解らない言葉を調べるだけでなく、百科事典のように暇なときに開いて読んだりもしますが、もし、毎日1ページずつ読もうとすると,8年以上かかることになります。人は、そんな言葉を一部にしても自由に使いこなしているのですね。
投稿者 fujimori : 23:34 | コメント (4)
2007年10月20日 [新聞記事より]
色
こんな内容が、オンラインの科学誌に発表されました「アフリカゾウが、体臭や衣類の色で危害を加えられる可能性のあるマサイ族を識別していることが分かった。」というもので、これは、英セントアンドルーズ大学の研究チームが、アフリカ大陸東部のケニアで調査した結果です。マサイ族のようなゾウをヤリで突く風習がある種族と、農耕主体でゾウに危害を加えることはまずないカンバ族で比較したところ、アフリカゾウは、マサイ族が着た服のにおいをかいだときの方がはるかに早く、遠くに逃げることがわかり、落ち着きを取り戻すまでの時間も、長くかかったそうです。同様に、アフリカゾウは色に対しても反応し、マサイ族の伝統的衣装の色である赤い衣類を見せると威嚇的な態度を示したといいます。白い衣類には反応はしませんでした。象は、においはもちろん、色も認識し、覚えているのですね。では、人間の赤ちゃんはどうなのでしょう。大人から、赤ちゃんというイメージは、なんとなくやわらかく、癒し系の感じがするので、思い浮かぶのは、白やピンク、ブルーなどの淡い色とか、パステルカラーです。ですから、ベビー用品や洋服には淡色系が多いようです。ですから、保育室の色や、装飾には淡い色を使うことが多いようです。生まれたばかりの赤ちゃんが、色を認識できるようになるのは、生後3カ月頃からだといわれています。そのころの絵本なども、色だけでなく、輪郭もはっきりしない、淡く優しい感じの絵が多いのですが、実は、視力がまだ弱いため、モノの輪郭や質感はあいまいです。しかし、昔は、生まれたての赤ちゃんはほとんど見えていないと言われていましたが、最近ではコントラストの強い色である白・黒・赤などの色には反応を示すようになり、その色で描かれたものはちゃんと見えていることが分かっています。もちろん個人差もありますが、小さな赤ちゃんほど、カラフルでハッキリした配色のものに興味を示して、目で追うことが多いのです。ですから、私の園の0,1歳児の基調の色彩は、赤い色です。ただ、あまり激しくではなく、一部のいすの色であったり、部屋の隅の床の色に使ったりしています。また、この頃に多くの色を赤ちゃんの周りに置くことは、視覚の発達を助ける役目を担い、また大切な色彩経験にもなります。どうしても日本人は、派手な色をどぎつい色として嫌う傾向になります。柔らかなパステルカラーとか、わび、さびの世界の少し古びた、苔むしたような色を好みます。しかし、赤ちゃんは視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚、いわゆる5感から得る刺激によって脳が発達し、言語や運動能力、社会性も発達していきます。そうして、自我の発達とともに「好き・嫌い」という感情も認識できるようになり、2歳すぎからは、言語機能の発達と共に色名を言えるようになります。個人差はありますが3歳半から4歳半頃には「りんご=赤」など、特定のイメージと色を関連づけて認識するようになります。この頃には視力も大人並に成長しています。このように、周囲からの刺激や環境により、5感は発達していきます。それに伴って、色の好みも出てきます。小さい頃は、全般に赤・青・黄など、鮮やかな色を好む傾向にあるようですが、年齢が上がるにつれ、好みが、落ち着いて目の前のことに集中できるような寒色系か、緑などの中間色がいいようです。大人の好きな色が、必ずしも子どもの好きな色とは限りませんので、自分の好みを押し付けたり、思い込んだりしないほうがいいようですね。
投稿者 fujimori : 20:34 | コメント (4)
2007年10月02日 [新聞記事より]
勤勉とアルツハイマー
何年か前から、「少子高齢社会」というように、「少子化」と「高齢化」をともに使うようになりました。平成7年には、「我が国の人口構造の高齢化は極めて急速に進んでおり、遠からず世界に例を見ない水準の高齢社会が到来するものと見込まれているが、高齢化の進展の速度に比べて国民の意識や社会のシステムの対応は遅れている。早急に対応すべき課題は多岐にわたるが、残されている時間は極めて少ない。」として、「高齢社会対策基本法」が制定されました。しかし、同時に「我が国における急速な少子化の進展は、平均寿命の伸長による高齢者の増加とあいまって、我が国の人口構造にひずみを生じさせ、二十一世紀の国民生活に、深刻かつ多大な影響をもたらす。我らは、紛れもなく、有史以来の未曾有の事態に直面している。」ということで、「少子化社会対策基本法」が急いで制定されたのです。確かに、高齢化が進むことや、子どもが少ないことは社会にさまざまなひずみを生むことは確かです。しかし、ただ子どもを産めばよい、子どもが多ければよいというのではなく、その子がどのような人材として、地球に貢献していくのか、また、子ども一人ひとりが自分の人生をどう生きるかということもあわせて取り組んでいかなければなりません。また、高齢化にしても、お年寄りをどう長生きさせればよいということではなく、人生を最後までどう生きていくかが問題なのです。ですから、高齢か伴うさまざまな病気や症状にはきちんと向き合っていかなければなりません。9月21日は「世界アルツハイマーデー」でした。1994年のこの日、国際アルツハイマー病協会が、世界保健機関(WHO)の後援を受けて宣言しました。毎年この日、世界60以上の国と地域で、アルツハイマー病に関する理解を求め患者さんや介護の方々を支援するための様々な活動が展開されています。呆け老人をかかえる家族の会は、この日に使う今年の標語を「『ぼけ』はみんなの問題、私の問題、あなたの問題」としました。この標語は、5候補作品の中から選ばれたものですが、ほかの作品は、「呆けても安心-世界をつなぐ思いやりとやさしさの輪で」「世界は一つ、ぼけに理解と愛情を」「受け入れよう、痴呆の心と行動を」「ぼけても安心して暮らせる地域を。世界を」です。21世紀は科学技術がますます発展していき、いろいろなことが発見、発明されていくことでしょう。そして、ヒトの全遺伝子も解明されていくに違いありません。しかし、社会の少子、高齢化はますます進み、その対策にも直面しなければなりません。中でも脳の老化に伴う痴呆についてはなお未解明な部分が多く、その克服は21世紀の人類が当面するもっとも重要な課題になるといわれています。AP通信が今日伝えたところによると、「勤勉、実直な性格や生活様式がアルツハイマー病の発症を抑える可能性がある」という研究結果を、米ラッシュ大医療センターの研究チームが、米精神医学専門誌に発表したそうです。性格とアルツハイマー発症との関係を分析した結果、「目標達成に熱心に取り組む」「やることすべてに優秀さを追求する」「時間に間に合うよう、ペース配分をする」といった「勤勉、実直」を示す項目で高得点を挙げたグループは、得点が低いグループに比べ、89%も発症リスクが低く、さらに勤勉な人では、死後に脳を調べるとアルツハイマー病の特徴を示す病巣があったのに、生前に認知症が現れなかったケースもあったそうです。チームは「勤勉な生活様式によって脳神経が保護されるのかもしれない。発症を遅らせる方法の開発につながる可能性がある」としています。もっと、こういうことが科学的に証明されてくるといいですね。
投稿者 fujimori : 21:11 | コメント (3)
2007年09月18日 [新聞記事より]
猿と幼児
今日の朝日新聞に、とても興味深い記事が掲載されていました。そのタイトルは、「問題解決法のまね、2歳児が猿に圧勝 独・研究所が調査」というものです。この調査を行ったのは、独マックス・プランク研究所というところです。マックス・プランク研究所とはマックス・プランク協会が維持・運営するドイツを代表する学術研究機関の冠名称です。戦前のカイザー・ヴィルヘルム協会の後継機関ですが、このころは、米国亡命する前のアインシュタインがベルリン・カイザー・ヴィルヘルム化学・物理学研究所の所長を務めていたことでも有名です。最近、ドイツの幼児教育者がよく子どもの発達を言うときに脳にとってどうなのかをいうことがありますが、どうも、この研究所の研究からの報告のようです。今回の調査も、「人と類人猿の知能の差はどこにあるのか――。」ということで、これまでになく大規模で多様な知能テストを実施して、幼児と類人猿を比べたようです。その結果、ほとんど差がない分野も多かったのですが、人のまねをして問題を解決するといった社会的な学習能力では、幼児が類人猿を圧倒したということです。その調査結果の論文が、米科学誌サイエンスに掲載されました。どんな結果かというと、「2歳半の幼児105人、3~21歳のチンパンジー106頭とオランウータン32頭を対象に、多数の課題で知能テストをしたところ、三つのコップのうち二つに食べ物を入れてコップを選ばせるなどして調べた空間記憶や、数量や因果関係に関する認知能力では、幼児とチンパンジーの成績はほぼ同じでした。また、オランウータンも空間記憶と因果関係の認知能力では劣ったのですが、数量に関する認知能力では幼児と差がありませんでした。ところが、プラスチックチューブの中身を出すところを見せると、幼児は上手にまねするが、類人猿はチューブをかんで壊そうとした。問題解決法のまね、他者の意図の理解など、社会的な学習能力は幼児の方が圧倒的に高かったのです。」今までも、少数を比べて「チンパンジーは幼児並みの知能」などとする研究はこれまでもありましたが、これだけ大規模な比較は初めてだそうです。「人の脳は能力全般が高くなったのではなく、社会的な学習能力が突出して進化し、文化的適応が可能になったとする説を支持する結果だ。」この結果では、私は、記憶や因果関係などの認知的な作用は、脳の後頭葉が主につかさどっており、その後頭葉は、チンパンジーなどの動物でも持っていますが、社会的な学習、他者を理解する力などの人とかかわる力をつかさどっている前頭葉は、人間しか持っていません。ですから、たとえ2歳児であろうが、類人猿とその能力に差が出るのは当然だといえます。この研究所は、2004年にも動物と人間の能力の比較をしています。それは、「犬は基礎的な言語能力を備えている」というものです。犬が「お座り」や「お手」、その他いくつかの言葉を理解することは私たちも経験的に分かります。いったいどれくらいの言語能力を持っているのかをこの研究所で調べた結果、何と、ものにはすべて名前があることを理解したうえで、200種類もの名前を記憶したそうです。3歳の幼児と同じ程度とのこと。そのときに、松井智子・国際基督教大学準教授(言語学)は「幼児の方が語彙が圧倒的に多いなど、人との差は大きいが、犬にも高い言語能力があると示した点で面白い」と話していますが、やはり、物を覚える後頭葉は、犬も持っています。これからは、人間らしさを発揮するためには、物を覚えるというよりも、問題解決、他者の意図の理解など、社会的な学習能力が必要になってきます。
投稿者 fujimori : 21:10 | コメント (3)
2007年09月11日 [新聞記事より]
武道
先日の新聞に「中学で武道必修化へ 中教審体育部会 「伝統文化」重視で」という記事が掲載されていました。これは、中学校の体育で選択制の武道を必修化する方針を決めたというようです。それは、礼儀や公正な態度など、日本の伝統文化に触れる機会を広げるのが狙いです。武道というのは、柔道と剣道、相撲の3種目が指導要領に明記されています。次の日の産経新聞の「主張」には、そのことについて「青少年の間に武道が根付いて、しっかりと根を張るならば、礼節を重んじる日本の国柄の再生に寄与するところは決して小さくないはずだ。」と書かれています。この記事について、考えてしまうのが、今日「山下氏、国際柔連理事選で大敗 執行部から日本人消える」という記事です。これは、国際柔道連盟(IJF)の総会で、教育コーチング理事選挙で再選を目指した現職の山下泰裕・全日本柔道連盟理事が落選し、IJF理事11人の中に日本人が一人もいなくなったということのようです。しかも、理事の座を競ったアルジェリアのモハメド・メリジャ候補に61―123の大差で敗れたのです。そうなると、今後、カラー柔道着や「ゴールデンスコア方式」導入など、欧州主導のルール改正などの傾向が加速しそうだと憂えています。しかし、会長のビゼール氏は「『一本』など、日本語の競技用語を変えるつもりはない」としつつ「観客に分かりやすいようにルールを変える」と明言し、「日本の考えは世界の考えと平行線だ」とも強調しました。私は、このニュースを聞いてまず思い出すのが、東京オリンピックの柔道無差別級決勝戦で、アントン・ヘーシンクに袈裟固めで神永昭夫が破れた瞬間です。私は、中学生でしたが、柔道は日本の競技であり、日本人が勝って当たり前だという認識がありました。他の階級では、思っていたように日本人が金メダルを取ってきたのですが、最後の試合で日本が敗れたのです。これが、日本柔道、日本武道の一大転機だったのです。そのとき「柔道」が「JUDO」になったともいわれています。それなのに、いまだに柔道は、日本の武道だと思っているようです。今回理事を落選した山下氏にしても、文藝春秋の2006年5月特別号で、こんなことを言っています。「このところ私は、国際柔道連盟の仕事などで、年間100日ぐらいは日本を離れて世界を歩いている。外国人との交流も多いが、彼らと話せば話すほど、「日本は世界の人に正しく理解されていないのではないか」という気持ちを抱いてしまう。日本のことをもっと知ってほしい。そのために私は、柔道を通して国際交流を進めてきた。柔道では 「レイ(礼)」、「ハジメ(始め)」、「ヒキワケ(引き分け)」など、試合はすべて日本語で進められる。外国人は最初、まったく意味が理解できないだろうが、柔道を続けていくうちに、次第に言葉の意味に興味が出てくる。そこから更に日本語そのものや日本文化に興味を抱く人も少なくないという。」日本人は、よく日本文化について、「外国人には理解されない」とか「日本人こそ礼を重んじる」とかいいます。今回の武道中学校必修にしても、「礼節を重んじる日本の国柄の再生」というように、礼節は日本人だけの特質かのように思っています。しかし、そんなことを思っているうちに、外国での評価は、日本が大切にしてきてものが、かえって日本人のものではなくなってきているようです。もっと世界に目を向け、世界での動向をきちんと見ていかないと、気がつくと、世界から日本が取り残されてしまっているということになってしまいかねません。
投稿者 fujimori : 21:32 | コメント (3)
2007年09月08日 [新聞記事より]
東京湾
朝日新聞がビートルズ世代に贈る、こだわりエンターテインメントサイトと称して「どらく」というページがあります。その中で今特集で「東京湾」という記事が掲載されています。私の子どものころの東京湾のイメージは、父につれて行ってもらった「ハゼ釣り」です。私はあまり釣りが好きではありませんので、一緒に行くことはほとんどありませんでしたが、つってきたハゼをてんぷらにして食べた記憶はあります。あとは、江戸前という言葉です。これは、上方に対して、江戸の流儀、やり方のことをいい、たとえば、「江戸前寿司」は「大阪寿司」などと同様に江戸の流儀の寿司ということです。もうひとつ、江戸前には、その言葉通り「江戸の前」ということで、東京湾で取れた魚介類のことを言うこともあります。しかし、「江戸前」の定義もあいまいで、古くは羽田沖~深川沖を指したようですが、水産庁は2005年、東京湾全体で取れた魚介類とする提言を打ち出しています。今でも首都圏の胃袋を満たしているといわれるように、カタクチイワシ、サバ、トビウオ、アジ、コノシロなど多様な水産物を水揚げしているようです。サイトにある東京湾と魚に関する問題です。「次のうち、東京湾でとれない食材はどれでしょう?ニシン 、オコゼ、フグ」答えは、「ニシンは北太平洋に生息する回遊魚で、春に北海道沿岸でよく捕獲されます。江戸時代にも身欠きニシンはありましたが、東京湾でとれたものではありません。オコゼもフグも東京湾でよく見られる魚です。」では、「江戸時代は、何と何を一緒に食べてはいけないという、いわゆる「食い合わせ」の禁忌がありました。次のうち一緒に食べてはいけないとされていたものは、いったい何でしょう?鶏の玉子と魚、イノシシとニラ、ショウガとカラシ」 こたえは、「こういった「知恵」は江戸時代の料理書にも書かれていますが、今の時代から見ると根拠不明のものが多くみられます。」しかし、根拠はないそうです。この東京湾は、高度成長期に工場・家庭排水などで水質が悪化した湾というイメージがありますが、近年は環境改善が進んでいるといわれ、流入する河川の環境基準達成率は、1995年の49%から2004年は84%に向上しています。しかし、漁業者の減少もあり、漁獲量はかなり減少しているそうです。そこで、保田漁協などは、「安心・安全で身近な千葉の水産物を、もっとPRしなければ」ということで、さまざまな試みをしながら町おこしをしているようです。新鮮な魚介類を一般のお客さんに食べてもらおうと直営の飲食・物販店をオープン。現在では温泉(人工泉)も併設し、休日には団体客を乗せたバスが止まり、年間40万人が訪れる「観光名所」になっているそうです。定置網の見学や漁業体験など、イベントのアイデアも盛りだくさんで、この夏には「千葉の海・満喫キャンペーン」として、漁協の直販所と観光名所を組み合わせたマップを都内で配布したようです。いずれも東京からの近さを武器に、漁業と観光を結びつける試みです。それぞれの地域環境をもう一度見つめ、その環境を生かした町づくりは、小布施同様少しずつ成功しているようです。このサイトの「どらく」の編集部だよりにこう書いてあります。「『やらなくては』と思っていたこと、『やりたい』と思っていたこと。この1年間で、いくつやってみましたか?それは環境のためだったり、地域のためだったり、自分のためだったりと人それぞれ。新たな一歩を踏み出すことで何かが変わる。」
投稿者 fujimori : 22:14 | コメント (3)
2007年09月05日 [新聞記事より]
環境効果2
昨日のブログの「環境効果」について、二つの事例が新聞に掲載されていました。ひとつは、「住宅地の道路 こども優先の設計・規制を」で、千葉大大学院園芸学研究科教授でもあり、こども環境学会評議員でもある「木下勇」氏の投稿です。彼は、埼玉市で起きた集団登校中の小学生が、進入禁止のスクールゾーンに侵入した車にはねられてしまった事件から考えています。このような事件が起きると、監視を強化したりしますが、もっと根本的な対策が必要だと主張しています。その対策とは、「道路構造を速度が出ないように変え、住宅地内の道路で子どもが遊べるような生活道路を位置づける道路法および道路交通法の改正である。」といっています。英国をはじめ欧州では「ゾーン30」という住宅地内の道路を30キロ以下にする区域指定が広がっているそうです。埼玉川口で保育園児の列にライトバンが突っ込んだ事件では、保育園児が歩く住宅地内の道路でも、一般道の速度規制である時速60キロだったということが問題になりました。海外の統計では、死亡率が高くなるのは車の速度が時速30キロ以上であり、30キロ以下では死亡率が下がるということを同じこども環境学会員の小児科医の今井氏が紹介したそうです。発達心理では、「こどもは歩き出してから家の周りで遊び、行動領域を拡大していく。付き合いと探索活動という動物の縄張りの拡大にも似た行動を示す。それゆえに住宅周りの道路はこどもにとって重要な生活空間となる。そしてこどもは視界も狭く、車のスピードに対する感覚も異なる。また衝動的に動くのも特徴である。」このように、ただ、注意を促すとか、監視するとかではなく、きちんと発達心理学的に行動を分析し、その対策として環境を整えるべきなのです。そのひとつの方法が北欧で行われているという報告があります。「北欧ではこのようなこどもの心理的特性から、いくら安全教育を行っても限界があるとして、道路の構造を変えて車の速度を落とすように政策を変えた。」そうです。これは、「ボンエルフ」という取り組みです。人と車の共存を目的にした道路整備形態のひとつです。1970年代にオランダのデルフトという街で初めて導入された方式で、人間が対応できる速度(約15km)以上に、車がスピードを出せないような構造になっています。例えば、車の通路を一車線(一方通行)にし、乗り越えなければならないハンプ(出っ張り)を設けたり、車が直進してスピードを出せないように、カーブを設けたり、さらに、路上駐車スペースも設けることも、車の減速を促す方法として取り入れられています。この道路は、さまざまな形で車のスピードが出ないような工夫がなされているため、ドライバーにとっては「走りにくい」という印象もあるようですが、ボンエルフが施されている街は、人と車の「共存」が大前提となっているため、ドライバーには、その街に生活する歩行者への思いやりをもってゆっくり走ることが求められています。ちなみに、ボンエルフはフランス語で「生活の庭」という意味だそうです。また、デンマークやドイツの遊び場道路や車抑制策などで決められた道路ではこどもの遊びが優先されるよう道路交通法を改正しているそうです。それが、ゾーン30です。どうしても、「こどもを守ろう!」というような心に訴えかけるような呼びかけになりがちですが、心理的な、科学的に裏づけされた、具体的なこどもやお年寄りのための環境、子ども優先の環境を作ることが必要なのです。
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2007年08月19日 [新聞記事より]
本能寺
今年の8月7日の 読売新聞に、こんな記事が掲載されていました。「焼けた?瓦出土、本能寺の変「史実を裏付ける貴重な発見」戦国武将、織田信長が明智光秀に討たれた「本能寺の変」(1582年)で焼けたとみられる大量の瓦や、寺の堀跡、石垣などが京都市中京区の旧本能寺跡で見つかった。本能寺の変を巡る遺物、遺構が発見されたのは初めてで、発掘した民間調査機関「関西文化財調査会」は「史実を裏付ける貴重な発見」としている。」本能寺の変で焼けた瓦が出てきたということですが、実は、この本能寺は、なんども消失しているのです。もともと本能寺は、「本応寺」という寺号で、室町時代の1415年、京都油小路高辻と五条坊門の間に、日隆によって創建されたものですが、日隆は、妙本寺の月明と本迹勝劣をめぐって対立したため、月明の宗徒によって本応寺は破却され、日隆は河内三井・尼崎へ移りました。そして、1429年、帰洛して大檀那の小袖屋宗句の援助により、千本極楽付近の内野に本応寺を再建し、さらに1433年、如意王丸から六角大宮の西、四条坊門に土地の寄進を受け再建し、寺号を「本能寺」と改めたのです。しかし、1536年、比叡山との教義論争に端を発した天文法華の乱により堂宇はことごとく焼失し、一時堺の顕本寺に避難しました。その後、1582年6月21日、ここで信長が明智光秀率いる軍勢に包囲され自刃する事件が起き堂宇を焼失したのが、本能寺の変です。まだまだ災難にあいます。1788年の天明の大火によって、1864年の禁門の変(蛤御門の変)によって堂宇を焼失しています。現在の本能寺は区画整理によって京都市役所に近い、寺町通り商店街のすぐ横にひっそりと建っています。
しかし、写真のとおり、本能寺の「能」の字は右側の2つの「ヒ」が「去」のような字に替えられているのは、本能寺が度重なって焼き討ちに遭っているため、「『ヒ』(火)が『去』る」という意味で字形を変えているといわれているのです。
ところで、本能寺の変のとき、信長は幸若舞の「敦盛」を愛誦し、死に臨んでもくちずさんだといわれています。幸若舞「敦盛」は、源氏の武将熊谷次郎直実が平家の若武者平敦盛の首を討つという物語で、幸若舞太夫が物語を語りながら舞うものが幸若舞です。「思えば此の世は常の住みかにあらず、草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし。金谷に花を詠じ、栄花は先立って無常の風に誘わるる。南桜の月をもてあそぶ輩も、月に先立って有為の雲に隠れり。人間五十年、化天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を受け滅せぬ者の有るべきか。是を菩提の種と思い定めざらんは、口惜しかりし次第ぞと定め、・・・」これが、織田信長が舞った越前の幸若舞「敦盛」の曲の一部分です。「人間五十年、下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり。一度生をうけ、滅せぬもののあるべきか」人間の一生など世の他のものに比べればはかないものだ。これは人の寿命がたった五十年という意味でなく、下天(天界の最下層)では一日が人間世界で五十年に相当するという意味で、「一度生をうけ、滅せぬもののあるべきか。命あるものは全てかならず滅びる運命にあるものだ」ということで、「人の世界など天界感覚から一日程度のことなんだ」とは、ずいぶんポジティブな考えかたです。これに比べて明智光秀は「順逆二門無し… 五十五年の夢 覚め来て一元に帰す」(人の道は反逆も従順もない。55年の生涯も夢が覚めるように終わり本来に帰るだけだ)という辞世をのこしました。
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2007年08月02日 [新聞記事より]
インド式数学
昨日の朝日新聞に「インド式」の計算という記事が掲載されていました。その記事は、2ケタのかけ算をあっという間に解いてしまう、「インド式」の計算ドリルの話題です。今年の初めの産経新聞にも、インドの数学について掲載されていましたが、少し前から話題になっています。それは、今、日本では理数離れが進み、分数ができない大学生が続出してしており、掛け算九九でさえ言えない大学生がいるようです。反面、インドは、IT技術立国に躍進しました。その理由のひとつとして、インド人は2桁のかけ算が暗唱できるからとも言われているように、インドでの算数、数学の教え方に学力向上策のヒントが隠されているといわれています。そんなことで、日本にも昨年7月に、国内2番目のインド系学校が開校しています。その学校のニヤンタ・デシュパンデ代表は、「計算は高度な数学を習得するための基礎。計算ができることで数学への自信がつき、理解を深めていく」と話しています。しかし、「本国では最近は19×19までの暗記にとどめ、後は応用させている。暗記だけではだめ」と付け加えています。確かに、インドの数学教育は、九九を暗記させるからよいのではなく、「論証を重視し粘り強く考えさせている。大学入試もほとんど証明問題で、マークシートが主流の日本とは違う」と芳沢光雄東京理科大教授は指摘しています。暗唱ではなく論証重視だというのです。また「四則計算の場合、掛け算・割り算を先行させる法則を無視した計算式を多数示し、理解させた上で計算規則の必要性を説いている」と、法則の成り立ちを考えさせる指導法を行っているのです。いまだに、公式を暗記させたり、数式を解くことが重視されたり、解き方を工夫するより解き方を暗記させることに重点を置いた日本の数学は、遅れている気がします。インドの学習指導要領に「わが国が科学技術で重要な国になるつもりなら、この段階の数学教育を重視し、創造的にすべきだ」などと「国」を意識した記述があることなどを見ると、以前のブログで書いたドイツでの幼児教育からの数指導と同じ方向であることがわかります。芳沢教授は、「日本の指導要領は何のために勉強するか分からない。インドは志を育てるから強い」と分析しています。ドイツでの数学は、人格形成の一環であるとするのに対して、インドの数学は、「論証と志」重視ということになるのでしょう。昨日の記事でも、日本のインド系学校のニヤンタ・デシュパンデさんが、二桁の掛け算を説明しています。例えば75×75。1の位の数同士を足すと10になり、10の位の数が同じ場合にあてはまる法則を使う。1の位の数同士をかけて5×5=25、10の位の数字とそれに1を足した数字をかけて7×(7+1)=56。この二つをそれぞれ1と10の位、100と1000の位に並べ、5625と答えがすぐに出るというやりかたです。また、10台同士のかけ算のルールもあります。13×19なら、13に19の1の位の数9を足して10倍すると、(13+9)×10=220。これに1の位の数同士をかけた3×9=27を足す。220+27=247と、暗算でも出せるのです。こんな話は、頭が痛くなる人が多いでしょうが、たぶん、それは、日本の数学教育のあり方による弊害でしょうね。一時期、ネットで話題になったこんな話しはどうでしょう。一行で書けるごく簡単な、年齢を求める計算です。今日の日付と生年月日をそれぞれ8桁の西暦で指定して(今日の日付-誕生日)÷10000の小数点以下切捨てとすれば年齢が分かるというものです。やってみてください。
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2007年07月06日 [新聞記事より]
風力
先日はドイツから幼児教育者をお招きして研修会を開催したので、しばらくは、新聞などで「ドイツ」という文字を見つけると思わず読んでしまいます。今日の毎日新聞には、こんな記事が掲載されていました。「ドイツ:風力や太陽光、30年には電力消費量の45%に」というものです。ドイツは、環境の国ということで有名です。ある人にも聞かれました。「ドイツは、環境についての教育などは盛んですか?」私が答えたのは、もちろん環境についての取り組みにはとても熱心ですが、訪問してみて気がつくのは、「どこが環境に熱心なのだろうか。」と思うほど、すでに自然になっているように見えます。もちろん、幼稚園などの建物の屋根は緑化されているところも多いですし、園庭にはビオトープがあるところもあります。また、山の上には風力発電もよく見かけます。今日の新聞記事もこの風力発電についてです。「ドイツ環境省は5日、風力や太陽光など再生可能なエネルギーを利用した電力消費量の割合を、2030年に全消費量の少なくとも45%とする新目標を発表した。再生可能エネルギーの利用が予想以上に進んでいるためで、「2020年に20%」としていたこれまでの目標を上方修正した。」とあります。日本が、京都議定書の提案国であるのに対して、ドイツは今年3月、欧州連合(EU)議長国として、温室効果ガス削減に向けた意欲的な目標設定に加盟国首脳の同意を取り付けた国として、率先して再生可能エネルギーの消費割合向上についての目標達成に貢献するために打ち出したものです。45%とはすごいと思ったのですが、すでに昨年、全消費量の12%に達しているそうです。この数字は、10年の目標だそうですが、早くも年内には達成されるので、10年には15%に、20年に27%、30年に45%と設定したのです。日本の風力発電は、2004年3月までに、735基以上の設備ができ、発電量は、2003年度には約67万キロ・ワットにまで増えました。
しかし、世界1位のドイツは約1461万キロ・ワット、2位のアメリカは約635万キロ・ワット(いずれも03年末の数字)です。確かにドイツはダントツに多いですね。この風力発電ではありませんが、風の力を利用することは昔からありました。昔ながらの風車は、特に18~19世紀のころまで活躍していました。粉をひいたり、水をくみ上げたりするため、水車とともに利用されていました。しかし、蒸気機関が発明され、工場の機械や乗り物に利用されるようになると、風車はへっていきます。同様に日本でも、大正時代から昭和の初めにかけて、農業に使う水をくみ上げるのに風車が使われ、風力発電も試みられましたが、広まりませんでした。その代わりに、大量に使われるようになったのが、石炭や石油などの化石燃料です。確かに、風力発電には、短所もあります。風力発電でたくさんの電気を作るためには、多くの設備と広い土地が必要で、費用がかかります。また、風が弱くなると、安定した電力を作ることが難しくなります。さらに、風車を建てる山や海岸の自然に影響を与え、騒音を出すという問題もあります。また、ブレードに鳥が巻き込まれて死傷する場合があるという報告もあります。しかし、世界全体では電力需要量の約5倍に相当する電力が風力によって発電可能とされています。日本でも軽視できない量が開発可能であると推定されています。それは同時に、2010年には京都議定書で定められた温室効果ガス排出削減量の三分の一を風力発電だけで達成できると言われています。なにをするにも、日本は2周遅れですね。
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2007年06月29日 [新聞記事より]
プロジェクトX
地方に行くと、地方で過疎化が進んでいるのを実感します。これから地方分権が進むと、地域間格差がますます広がるのではないかと懸念します。その地その地での文化、特色、よさがたくさんあります。そのれを引き継いでいかなければならないでしょう。しかし、逆に、私が多摩ニュータウンで園を開園したころは、周りにはなにもありませんでした。園の前も空き地です。ニュータウンという街づくりは、街を再開発していったわけではなく、里山であった野山を切り開き、整地し、そこに街を作っていくというやり方です。ですから、そこには特に伝承されたものはなく、その地に以前から住んでいた人もいず、まったく新しく移り住んできた人々で構成されます。しかし、計画された街であるだけに、景観は美しく、大きな緑の公園はあちらこちらに点在し、人と車の動線は交わらない工夫がされています。しかし、いくら景観や設備、施設は計画できますが、人の心は計画できません。開園した当初は、なんとなく、無機質な、人の気配が感じられない、生活感のない街でした。最初のころは高層マンションだけでしたので、犬を連れて散歩する人もいず、猫も歩かず、みんな車での移動だけでした。そんな中で、街づくりを一生懸命にしようとした人たちが何人か現れました。富永さんもそのうちの一人でした。今は、街づくりとそこに住む人の暮らしを応援するNPOを立ち上げ、指定管理者としてネイチャーセンターの館長をしています。彼とは、縁があって、一緒に街づくりを手伝うことになりました。そのいきさつが、以前、新聞に掲載されました。「緑豊かな真新しい街で休日を楽しもう」というタイトルです。この記事を改めて読むと、なんとなく懐かしくなります。ちょっと、記事の書き方が、以前、NHKで放送されていたプロジェクトXのようです。「富永一夫が、多摩ニュータウン(八王子市の長池地区)の団地に引っ越して来たのは94年だ。外資系の飲料容器メーカーの営業マンで、職場は都心。富永はニュータウンでのゆとりある暮らしを思い描いていた。だが、しばらくすると不満が募った。近所の住民同士、目が合ってもあいさつをしない。人間関係に不安さえ感じた。「定年後に一杯やれる仲間をつくりたい」 団地の管理組合で役員になった富永は、子供と父親が一緒に集えるような企画を練った。 95年夏、アニメ映画「平成狸(たぬき)合戦ぽんぽこ」の上映会を開いた。夏休み最後の日曜日は大いににぎわった。人間関係の希薄さに不安を感じていた人がほかにもいた。 「せいがの森保育園」の園長・藤森平司(55)だ。97年春、藤森は長池地区に保育園を開いた。街に住民が集まれる場所がないことに驚き、園内に誰でも使えるコミュニティールームを設けた。藤森は子供の頃、神社の境内や路地が遊び場だった。「地域社会で子は育つ」が持論だ。大学を卒業して小学校教師をしていた当時、父親たちを集めて懇談するなど、地域ぐるみの子育て活動に取り組んだこともある。「長池地区にも顔の見えるコミュニティーが出来ないだろうか」。藤森はずっと考えていた。「長池公園で夏祭りを開くのですが、保育園のトイレを貸してもらえませんか」。藤森の保育園を、富永が訪ねたのはその年の夏だった。藤森は快諾した。2人は地域活動の話で盛り上がった。「運命的な出会いだった」。藤森は、その日の日記に記した。」なんだかこの書き振りには、照れてしまいますね。みんなに、日記を書いているのですか?と聞かれるたびに、「心の日記に記したのです。」と答えたものでした。今は、ブログを書いているので、そこに書いたかもしれません。
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2007年06月07日 [新聞記事より]
坂上田村麻呂
平安初期の武人で上級貴族だった坂上田村麻呂の墓を、京都大大学院文学研究科の吉川真司・准教授(日本古代史)が文献調査で特定したというニュースが先日報道されていました。1919(大正8)年に京都市山科区で発掘された「西野山古墓(こぼ)」の可能性が極めて高いといいます。田村麻呂が創建したという京都の清水寺に残る平安後期編纂の「清水寺縁起」に墓の位置が記されていたようです。新聞によると、行政の最高機関が土地を管理する民部省に送った文書で、田村麻呂の墓地に「山城国宇治郡七条咋田西里栗栖村の水田、畑、山を与える」という文言があったので、平安時代の図を基にした「山城国宇治郡山科地方図」と照合すると、今の山科区西野山岩ケ谷町にあたり、西野山古墓の場所と一致するといいます。この西野山古墓の内部から、武人の墓にふさわしい純金の装飾を施した大刀や金銀の鏡、鉄の鏃(やじり)などの副葬品が出土しています。こうした研究から時代と位置と身分が一致し、田村麻呂の墓と特定したものです。田村麻呂は、伝説が多いのですが、正三位・大納言・参議となった高官だったので、日本後紀は散逸した部分が多いものの、幸いにして田村麻呂の薨伝(こうでん)が残っています。薨伝とは、三位以上の貴族が亡くなった時に、国家が編纂した正史にその人の業績と人柄を偲んで記録された追悼文です。ここには、業績と人柄を偲んで書いているので、良く書いたり、大げさに書いたり、半ば軍神として神格化したように書いたりはしているものの、大方、その人を知ることが出来ます。そこに書かれてある風貌は、「赤ら顔で黄色の鬚のある容貌で、人には負けない力を持ち、将帥の量があった。」とあります。そのかわり「往還の間、従う者が限りなくあり、人馬を支給し難くなったことがあり、往還の路費は莫大なものであった。」というほど人望があったのでしょうか。群書類従にも、田邑麻呂伝記が収録されています。そこには、風貌がもう少し詳しく書かれています。「身の丈五尺八寸、胸の厚さ一尺二寸の堂々とした姿である。目は鷹の蒼い眸に似て、鬢は黄金の糸を繋いだように光っている。体は重い時には二百一斤、軽い時には六十四斤、その軽重は意のままであり、行動は機に応じて機敏であった。怒って眼をめぐらせれば猛獣も忽ち死ぬほどだが、笑って眉を緩めれば稚児もすぐ懐に入るようであった。」体が、重くなったり軽くなったりするのは変だと思いましたが、ここのところの原文は、「動静合機。軽重任意。」ということで、動静とは「立ち居振る舞い」のことで、それが、機(道理)に合っているということであり、軽重とは、「物事の価値判断」のことであり、その基準を意(心の中)に任(にな=とどめる)うということのようです。そして、笑うと稚児も懐に入るということは、「懐く(なつく)」ということです。それは、「丹款顕面」ということで、丹款(まごころ)は面(おもて)に顕(あら)われるということです。子どもは、それがすぐにわかるようです。しかもそれは、生まれながらのもののようです。「桃花不春而常紅。勁節持性。松色送冬而獨翠。」とあるのは、「桃の花は春ならずして常に紅いし、松の色は冬を送りて獨(ただ)翠(みどり)のように、勁節(つよい意志)は性(うまれながら)にして持っているもののようです。比較するのもおこがましいのですが、私もよく顔が怖いとか、近寄りがたいとか言われますが、子どもはすぐに寄ってきて懐いてくれます。子どもは表面よりも心の中を見て信頼してくれます。
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2007年05月19日 [新聞記事より]
聴診器
5月17日の 読売新聞に、「体の音知りたい“聴診器ブック”ブーム」という特集が組まれていました。この「聴診器ブック」とは、医療現場で使われている聴診器と、一般向けの説明書をセットにしたもので、書店で販売しています。この聴診器で何の音を聞くかというと、購入した人によって様々なようですが、多くは、健康志向の高まりに加え、「お医者さんは普段、どんな音で判断しているのだろう」といった好奇心も背景にあるとかかれています。また、「飼い犬の心臓の音も聴けて面白いって聞いたので。知り合いにも頼まれ、3冊買いに来ました」とか、「夫が太ってきてメタボリック症候群が心配なので」「子どもが病気がちで、心臓や呼吸の音がどうなっているのか聴けないかなと思って」などあるようです。このセットは、3月中旬に大型書店で販売を始めたのですが、予想以上の売れ行きで、すでに1万冊を売ったそうです。実は、数年前に私は聴診器を買い求め、机の引き出しに入っています。私は、何の音を聞こうと思って買ったのかというと、気に幹の中を流れる水の音を聞きたかったからです。木の幹に聴診器を当てて聞いてみると、木が水を吸い上げる音が聞こえると何かで読んだからです。聴診器を幹に当てて聴こえる音は、木が根から水分を吸い上げる「揚水音」という音です。幹だけでなく、雑木林に出て、木や土に聴診器をあててみるといろいろな音が聞こえてきます。木から聞こえてくる音も、木によって違いますし、土の音、水の音、これらの音からは、大地の息吹を感じます。それを、「観聴」というそうです。聴診器では、他にもいろいろな音が聞けるようです。医者が使い意外で聴診器を使っている場面をテレビで見ることがあります。それは、金庫破りが聴診器を当てながら金庫のダイヤルを回している姿です。こんな聴診器ですが、このように音を聞き分けることに関して、遊びを工夫する天才である子どものほうがその原理を知っていたようです。かつて患者を診察するのに、以前は直接皮膚に耳を当て、音を聴いていました。1816年のあるとき、患者が太っていて胸部に耳を押し当てても音がよく聞き取れません。フランスの医師ルネ・ラエネクはどうしたものかと思案しつつ公園にたたずんでいました。すると、子どもたちのひとりが木の棒を釘でこすり、ひとりが耳を当てて音を聞いています。それにヒントを得て、ラエネクは病室に戻ると紙を巻いて筒をつくり、患者の胸に当ててみました。それが、聴診器の発明です。
そのほか、聴診器ではありませんが、音を聞いて異常に気がつくのは、体だけではありません。「機械の異音の発生箇所を探す」「配管の音を聴く」「卵の孵化までの情報採取」なども音から知ります。やはり今年の1月12日の 読売新聞で紹介されていた仕事は、「機関車のお医者さん」です。患者に聴診器を当てるように、小型ハンマーで機関車の節々をたたきます。わずかな音の変化を聞き分け、不具合を“診察”するのです。私が子どもころは、よく機関車のあちらこちらをたたいている人を見ました。なんでたたいているのだろうと不思議でした。その姿は、たたいて何かを聞き分けているようには見えず、ただ歩きながらなんとなくたたいているかのように無頓着に見えたのです。しかし、その音の微妙な違いで故障箇所を見つけていたのです。もっと人間の能力をあてにしていたら、あの、先日起きたジェットコースターの事故は起こらなかったかもしれません。機械は、人間の能力を衰えさせますね。
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2007年05月16日 [新聞記事より]
倫理1
最近、読売新聞の連載「日本」の第3部「漂流する倫理」を読んでいると、なんだか暗い気持ちになります。連載その1では、1997年に電通総研主任研究員の山崎聖子さんが米ニューヨークで行った講演が紹介されています。テーマは、「日本は無宗教なのに、なぜ人々のモラルが高いのか」です。国民の価値観や生活様式が均質化し、持ちつ持たれつの意識が強い社会の中で、「つばを吐いても、石を投げても、最後は自分にはね返る」という自律的な観念が発達したという内容に、出席者は熱心にメモを取っていたそうです。それから10年経った今、世界の価値観調査で、「周囲と助け合うことが大切」と答えた日本人の割合は18か国中17位だったそうです。「日本人は、どうなってしまうのか」と山崎さんはため息をついたそうです。また、こんな事例も紹介されています。公共広告機構のCMの内容は「車内マナーを守ろう」「ごみのポイ捨てはやめて」「いじめをなくそう」などの訴えはあまり変わっていませんが、それを受け止める側の考え方はずいぶんと変わってきているようです。たとえば、混雑する車内で男性がハンバーガーをほおばる場面に「電車はあなたの部屋ではありません」というメッセージに対して、「忙しいから食事は電車でしかできないんだ」「駅弁も食べるなと言うのか」などの苦情が殺到したそうです。「周囲に迷惑をかけないでと言いたかっただけなのだが」と困惑しています。このような捉え方をして、このような苦情の言い方は、最近の園の保護者を見ているとわかるような気がします。ただ、これが道徳教育の問題点だというのは違う気もするのですが。また、連載その2では、次のような事例を出しています。上野公園で、ホームレスの人たちに炊き出しのご飯を配っている人に対して、つばを吐きかけ、「邪魔だ。あっちへ行け」と怒鳴る人がいるそうです。はじめのうちは、「大変ですね」と声をかけたり、千円ほどのお金を置いていった人もいたそうですが、6~7年前からほとんどいなくなり、「そいつらは死んでもいいんだ」とまで言う人がいるようです。「弱い人たちへの思いやりを日本の人はなくしてしまったのでしょうか」と嘆いています。作家のマークス寿子さんは、こんな経験を話しています。足が悪かったマークスさんに席を譲ろうと、前に座っていた男児が腰を浮かしたとたん、「お前も疲れているんだから余計なことはしなくていい」と隣に座っていた父親がぴしゃりといったそうです。「相互扶助がなければ生きていけなかった貧しい時代には、弱い立場の人を助ける利他の精神が、当然の規範として人々の心に根付いていた。急激な経済成長を遂げた後も、ある時期までは、親から子へその精神が引き継がれていた」とマークスさんは、70年代以前の日本を思い返しています。連載その3では、「他人の目」お構いなしの若者が紹介されています。日本のある私大には、ここ数年英国に留学しているホームステイ先からこんな苦情が相次いでいるそうです。「自分の好きな時間に寝起きし、食事も一人で済ませる。会話どころか、朝の挨拶さえろくにしない。一緒に暮らす私たちのことが、目に入っていないかのようです」というものです。それに対して、「滞在費用を出しているのに、なぜ相手に合わせないといけないのか」と言い放つ学生もいるそうです。神戸女学院大教授の内田さんは、70~80年代の消費礼賛の時代以降、日本人の消費主体化が進んだ結果「事故の欲求の充足を図る消費は、きわめて個人的な行為。消費主体化がきわまれば、集団の一員としての自分を意識することもなくなる」と指摘しています。
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2007年04月23日 [新聞記事より]
マラソン
今年、2月18日に、冷たい雨と強風が吹く中、東京マラソンが開催されました。このイベントについては賛否両論ありますが、おおむね好評で、その成功が、石原さんが都知事に再選された一因ではないかとも言われています。その東京マラソンには、「車椅子の部」があるのですが、一般的なメディアでは、あまり話題になりませんでした。そのレースで優勝したのは、副島正純さんでした。彼は、家事手伝い中の事故により脊髄を損傷して車いす生活となりますが、翌年から車いすマラソンを始めています。その彼は、さまざまな大会で優秀な成績を上げていますが、今月16日に、快挙を成し遂げました。それは、米マサチューセッツ州ボストンで行われた、111回目を迎えた伝統のボストン・マラソンにおいて、車いすの部で優勝したのです。今年は、激しい風雨に見舞われた伝統のマラソンでしたが、副島さんは「こういうレースのほうが僕にはチャンスがある」と、優勝した東京マラソンと同じ悪天候を味方に付けたのです。体重差が下りのスピードに影響するため、欧米人との体重差を補うために坂道でも休まずこぎ続け、スピード練習を積み、時速にして4キロ増のペースで30分間走り続けるようになったそうです。また、この優勝が日本の人々を驚かせたのは、車いすの部では男女とも日本勢が制覇したからです。女子の土田さんは、アテネ・パラリンピックの陸上五千メートル金メダリストでしたが、出産のため昨年は競技から遠ざかっており、今回が復帰戦でした。彼女は、子育てに忙しい中、周囲のサポートを受けて石垣島で1か月半のキャンプを張り、トレーニングを積んだそうです。
ボストン・マラソンではありませんが、昨日の読売新聞の日曜版の「人」の欄に「ゆっくりでいいじゃないか」ということで、エコマラソンの西一(にしはじめ)さんが紹介されていました。エコマラソンというのは、「競い合うのではなく、集い触れ合うことを楽しみ、自然を征服するのではなく、自然との調和を大切にし、独占するのではなく、分かち合いつつ、物質にとらわれず、質素を旨とする生き方」です。その目指すものは、「だれもが平等な機会と尊厳を持ち、十分な食物を得られ、心の安らぎと自然への感謝の念を持って暮らし、互いにビザもいらず国境もない、かけがえのない地球に全ての生命体が共生可能な平和調和社会の実現」です。彼が環境に配慮したマラソンを、エコロジーとの造語で「エコマラソン」と名づけ、エコマラソン・インターナショナルを創立したのは、奥さんの死がきっかけだったようです。30代で始めたビデオの輸入販売で大成功を収めます。そして日米を往復し、休日なしで連日18時間働き、貯金は億になっていきました。そんなころ、3人の幼い子どもを残して、奥さんは亡くなります。その寂しさから、空虚な日々を送る中、ホノルルマラソンで走り、充実感を味わい、立ち直ります。そして、「ただ生きるのではなく、自然と調和した生き方を心がけ、速さにこだわるのではなく、その生き方を始めること」が重要なのだと訴え続けることになるのです。人生は、マラソンです。子どもたちは、まだ、その長い道のりを前にスタートを切ったばかりです。それなのに、少しでも速く走ること、もうすでにそのマラソンに優勝することが期待されます。途中の道端で、花を見る余裕も、遠くの山を眺める余裕もなく、ひたすら前を向いて走らされる子どもたちが多い気がします。
投稿者 fujimori : 20:40 | コメント (4)
2007年04月21日 [新聞記事より]
花咲かじいさん
19日の新聞にこんな記事が掲載されていました。「植物に花を咲かせる「開花ホルモン」を、日本、ドイツの研究グループがイネとシロイヌナズナでそれぞれ特定することに成功した。開花ホルモンは、いわば“花咲かじいさんの灰”にあたる物質で、70年にわたって多くの研究者が探し求めてきた。ともに19日付の米科学誌サイエンス電子版に発表される。」というものです。花が咲く時期としては、日照時間が短くなると花をつけるものと、日照時間が長くなると花をつけるものがあります。これらの花を咲かせるたんぱく質は、見つかっているそうです。しかし、今までは、日光を受ける葉から、花芽ができる茎の先に実際にどんな物質が伝わっているのかわかっていませんでした。この開花ホルモンの特定は、開花を自由に調節できる夢の薬剤の開発につながるのではないかということで、「花咲かじいさんの灰」といわれているのです。「枯れ木に花を咲かせましょう」というわけです。この「花咲かじいさん」は、“五大昔話”(桃太郎・さるかに合戦・カチカチ山・舌きりすずめ・花さかじいさん)と言われている、昔話作品のひとつです。日本昔話の多くは、怨恨的要素が強く、暗いというイメージがありますが、この「花咲かじいさん」は、唯一、怨恨的な要素はなく、とても素直に人物が表現されています。この昔話は、日本民俗学者の柳田国男によると、舌きり雀、文福茶釜、こぶ取り爺さんなどと同じ「動物の援助」に分類されます。この話も、1901年(明治34年)につくられた唱歌(童謡)「花咲爺」は歌の歌詞を見ると、「うらのはたけで、ポチがなく」で始まりますが、ポプラ社の絵本(文/吉沢和夫)によると、その前があります。「昔ある所に、子どものいないじいさまとばあさまがおった。ある時、町へ子どもを貰いに行くことになった。町へ行く手前の松原の松の木の根元に白くて可愛い小さな犬がいて、二人に「何処へ行くのか」と話し掛けた。「二人の子どもにして欲しい」と言う子犬に「町に良い子どもがいなければ子どもにしてやろう」と約束する。結局町で子どもが見つけられず、帰りに同じ場所でいた その白い子犬を子どもにすることにした。子犬は、茶碗一杯で一杯だけ、二杯食べると二杯だけ、どんどん大きくなった。ある日のこと、犬はじいさまに 自分の背中に鞍をつけさせ、かますやくわもつけさせて無理矢理じいさまを背中に乗せて山道を登って行った。」ということで、そのあと「ここほれ!ワンワン!」となるわけです。この出だしは、福井県坂井郡の民話から取ったとの事で、作者は犬を『神の申し子』として登場させたいと考えたようです。日本の民話において白い動物は何らかの神の使いとみなされることが多く、夫婦の白犬は夫婦の心ただしい生活を祝福した神からの贈り物であったと思われています。この話に対して、「みんな違って みんないい」の作者として有名な童謡詩人の「金子みすゞ」が、こんな詩「灰」を書いています。「花さかじいさん、はいおくれ、ざるにのこったはいおくれ、わたしはいいことするんだよ。さくら、もくれん、なし、すもも、そんなものへはまきゃしない、どうせ春にはさくんだよ。一度もあかい花さかぬ、つまらなそうな、森の木に、はいのありたけまくんだよ。もしもみごとにさいたなら、どんなにその木はうれしかろ、どんなにわたしもうれしかろ。」今回、見つかった「開花ホルモン」が、こんな「花咲かじいさんの灰」であったらいいのですが。
投稿者 fujimori : 22:26 | コメント (4)
2007年04月17日 [新聞記事より]
新聞記事
毎日の新聞には、さまざまな情報が満ち溢れています。時には、その情報が偏った見方をしていたり、一部しか伝えていないこともあるので気をつけなければなりませんが、それが正しいのかどうかですら確かめようがありません。事実を伝えてはいても、当然それを取材する記者の目を通して伝わりますので、その解釈はさまざまになることがあります。昨日、宮崎県の東国原英夫知事は定例記者会見で、「定例会見って必要ですかね。特筆すべき発表がない時は、会見を開かなくてもいいのではないか」と述べ、記者会見の定例実施に疑問を呈しました。他の都道府県知事は全員、定例記者会見を開いていますので、その発言に対し、記者側が「発表がなくても、知事の今の考えを確認する場は必要だ」と指摘したところ、知事は「統一地方選や米軍再編についても、ずっとしゃべっている。今さら何を聞きたいのかな」と反論。「内容を2ページぐらい割いて(新聞に)載せてくれますか」などとまくし立てました。まあ、情報公開ということもあり、当然、公務内容は、何を伝えるべきかどうかは自分が決めるだけでなく、公的行動と認識するべきだとは思いますが、発言内容を、言った本意と違うように伝えられるのに対しての危険も感じているのでしょう。そんな報道の中で、事実を伝えるというだけでなく、さまざまな人の意見や考えが掲載されることもあります。それが、違う分野の人や、違う論点でもずいぶんと参考になることが多くあります。3,4月の新聞から、印象に残った記事を見直してみてください。その部分を抜き出してみると、意外に参考になります。「結婚は他人と共生する高い能力を必要とします。でもピュアな自分らしさや自己実現を追いかけ、自分のペースで生きたい人は他者を生活圏に受け入れにくい。そう、子どもと同じですね。」(神戸女学院大教授 内田 樹氏)彼は、都会的な消費生活の中で他者と共生する能力を失っていったと指摘しています。それが原因で、結婚できない人が増えているのではないかといっています。そして、結婚とは「横にいつもいて、相手の話をうなずいて聞く。そして相手が自分を発見していくプロセスをリアルタイムで見守る証人になる。そういう共同作業なんです。」と語っています。この他者を受け入れるという、他と共生するという能力は、結婚という形態をとるときだけでなく、園の保護者を見ると、欠けている人が増えている気がします。自分の価値観だけから物事を見ようとする人が多い気がします。違う記事で、東京大学助教授の本田由紀さんはこう言っています。「教師や親たちは、自分たちの古い経験に基づく、「こうしておけば大丈夫なはずだ」という考えに、あなたを合わせようとするでしょう。」あなたのためだからと思わされて、疑問を持つことも許されず、言うとおりにしてきた結果、「いざ学校を離れる段階になったとき、突然「お前は何がやりたいのだ」という問いが、ぎりぎりと投げかけられるでしょう。それまでの「言うことに従え」というメッセージが、一転して「自分で決めろ」に変わるのです。そしてあなたが戸惑ってしまったら、「お前には人間力が欠けている」という非難が浴びせられます。失敗は、あなたの「意欲」や「コミュニケーション能力」が足りなかったせいにされるのです。」小さいうちから、自分の考えを言うことを制止され、伝える前に叶い、すべて与えられて育てられた結果、そういう力が育っていないのは、決して若者のせいではなく、育てられ方の結果です。快と不快のブログを思い起こさせる記事ですね。
投稿者 fujimori : 23:12 | コメント (5)
2007年04月06日 [新聞記事より]
ポスト
1960年代後半から1970年代にかけて、「ポストの数ほど保育園を!」の合言葉のもと日本の保育園数を倍増しました。それはちょうど第二次ベビーブーム,核家族化の進行などにより保育ニーズが増大した時期にあたります。それまでは保育園が福祉施設であることから,子どもにはかわいそうだけれど仕方ないとか、利用するのが恥ずべきことという考え方が根強く,需要量自体が少なかったのですが、積極的に女性の社会進出や、保育所を利用することが前向きに生きる象徴のような考え方が出てきたために、保育所の需要が増大したのです。そして、この時期の整備により,とりあえず保育園定員の数的不足は全国的には、ほぼ解消されたと思われました。それが、少子社会の進行から、子育て支援の観点だけでなく、子どもの育ちにとって必要な施設として、都市部では、入園したくても入れない状態が起きています。そんな状態を見ると、「ポストの数」ほどというスローガンは、どういう意味だったのか考えてしまいます。何で、ポストの数と同じことが目標なのでしょうね。今、ポストの数はほぼ18万あると思います。保育所は2万ちょっとですから、まったく比較にならないくらいですね。それよりも今は、小学校の数とほぼ同じです。あのころ、「小学校の数ほど保育園を」のほうがよかったのにと思います。しかし、今はそれでも足りないので、どんなものほど作ればいいのでしょうか。本当は、「必要な子どもすべてのために」でなければならないはずです。
こんなことを思ったのは、昨日の新聞で、「ポスト」という言葉と「乳児」という言葉に出会ったからです。それは。「赤ちゃんポスト誕生へ」というもので、「親が育てられない新生児を匿名でも受け入れる「赤ちゃんポスト」の設置を熊本市の慈恵病院が計画している問題で、厚生労働省は22日、熊本市に対し、「直ちに違法とは言い切れない」との見解を示した。」という記事が掲載されていました。これを受けて、病院から施設の構造変更許可を求められていた市は、近く変更を許可するとみられ、全国初の赤ちゃんポストが誕生する見込みだそうです。最初に。「赤ちゃんポスト」が提案されたときに、「育児放棄を助長する」「命を救うためやむを得ない」など賛否両論があり、さまざまな論議を呼びました。しかし、そんな議論をよそに、この病院には県外の複数の病院から照会があるといい、今後、同様のポスト設置が全国に拡大する可能性がありそうです。この「赤ちゃんポスト」は、ドイツのキリスト教系社団法人がえい児の遺棄事件が多発したハンブルクで2000年に設置し、現在80カ所以上に広がっています。もちろん、「法解釈以前に、親が子供を捨てることが起きないためにどうしたらいいのか考えることが大事だ」ということは簡単ですし、「安易に育児放棄する若者を増やすだけ」、「赤ちゃんをもののように扱うべきではない」など、捨て子を助長するだけとの厳しい批判もわかります。また、それを実施し、この施設の数が増えているドイツ国内での新生児遺棄や殺害などの事件がなくなっているわけではありません。これが良いか悪いかだけでは、どうも解決できる話ではなさそうです。また、「そんな時代になったとは情けない話だ。」とか「今の若者はわが子がかわいく思わないのだろうか。」と嘆く人がいますが、私は、「育児は、昔も今も基本的に変わっていないな。」という感想を持ちます。ディケンズの「オリバー・ツウィスト」にしても、映画「汚れなきいたずら」の「マルセリーノ」にしても修道院の前に捨てられていましたし、山内一豊の長男にしても、門前に捨てられていました。きっと、今より昔のほうが多かった気がします。
投稿者 fujimori : 23:03 | コメント (3)
2007年03月08日 [新聞記事より]
連載
今日の東京新聞の1面にこんな記事が掲載されています。“「ほのぼの君」さようなら”というものです。かつて、夕刊だった東京新聞が朝刊発行に伴い、新聞漫画を通算44年間描いてきた佃 公彦さんが、今日をもって降板するといいます。1956年、「ほのぼの君」の連載を開始します。途中7年間の休載を挟み、本日付まで合計15451回(うち「ちびっこ紳士」5000回)にわたって描き続けてきたそうです。これは、日本の新聞漫画の最長記録だそうです。世界でも、1950年間から50年間描いたアメリカのチャールズ・シュルツ氏がいるそうです。彼は、あの有名なスヌーピーの作者です。日本での記録の2位以下は、毎日新聞の夕刊に連載されていた「まっぴら君」(加藤芳郎 13615回)、そして、読売新聞夕刊に連載されていた「「サンワリ君」(鈴木義司 11240回)、4位は、今、毎日新聞の朝刊に連載中の「アサッテ君」(東海林さだお 11135回)、5位は、朝日新聞で最初は夕刊に連載されていて途中から朝刊に代わった「フジ三太郎」(サトウサンペイ 8166回)、その連載の前に、やはり最初は朝日新聞の夕刊に連載されていて、途中から朝刊に連載されることになった「サザエさん」(長谷川町子 6477回)は6位で、1949年12月1日からの連載です。そして、7位は、毎日新聞の朝刊に連載されていた「フクちゃん」(横山隆一 5534回)です。どの作品も、その新聞をとっていなくても知っていますね。それは、これらのキャラクターは、世代を代表し、生きた時代を表現してきたからでしょう。ですから、新聞を飛び出して、広告、テレビ、商品キャラクターなどにも使われています。
それにしても、佃さんの連載回数はすごいですね。記録更新中の東海林さだおさんでさえ、今のペースで描き続けても、佃さんの今日の連載15451回に到達するのは、あと12年かかかるそうです。佃公彦さんは、先日訪れた徳島県で少年時代を過ごしました。1955年、文春漫画読本に掲載された「ほのぼの君日記」で漫画家としてデビューし、翌年、26歳のときから東京新聞に「ほのぼの君」の連載を開始します。彼の作品の特徴は、登場人物が子どもと動物だけというのと、自然、環境問題をテーマにした作品が多いことでしょう。ここ数年は、直腸がんや腹部大動脈瘤の手術で休載することも有りましたが、そのたびに復帰します。しかし、昨年暮れにはパーキンソン病を発症し、薬の副作用で手がしびれ、絵筆が持てなくなるなどから降板を決意、今日の掲載分をもって「ほのぼの君」の連載が終了したのです。もう今は、喜寿だそうですが、毎日の連載していたここ50年間、長い旅行にも行ったことはないそうです。
最終回の主人公は、題名の「ほのぼの君」ではなく、途中からメインキャラクターになっている「りきまる」というやんちゃな男の子です。最後のせりふは、「月にむら雲、花に風、さよならだけが人生さ…(ナーン チャッテ…)」という三コマ漫画です。最後のこまは、チャップリンを思わせるような、一人後姿を見せながら道を歩いていく「りきまる」の姿が描かれています。しかし、その道のかなたには、山並みが見え、太陽がさんさんと輝いています。作者のコメントで、「毎朝楽しみにしてくださって本当に感謝しています。こういう機会がなければ、僕なんかの漫画でも人に希望や幸せを与えられるんだってことは多分一生分からなかった。連載で元気をもらったのは僕の方です。」と言っています。私のブログは、そんなに続きませんが、今のところ毎日書いて元気をもらっているのは、私のほうです。
投稿者 fujimori : 23:11 | コメント (4)
2007年03月05日 [新聞記事より]
企業評価
日経新聞社が日経リサーチと共同開発した多角的企業評価システム「PRISM(プリズム)」による優良企業ランキングベスト300が、今日の日経新聞に掲載されていました。この評価システムのプリズムとは、四つの因子で企業を評価します。もちろん、大きく影響する因子として「収益・成長力」です。その次に重視されるのは、「柔軟性・社会性」です。これは、社会貢献、リスク管理、環境経営、法令順守、顧客対応、海外IRなど22も指標があるそうです。三つ目の因子が、「若さ」です。具体的には、部長最年少昇格年齢、非正社員の制度、中途採用者比率などです。最後の因子が、「開発・研究」で、売上高研究開発費比率、研究開発従業員比率、特許出願状況などです。今回のランキングで浮き彫りになったのはグローバルな競争力を高めようとしている企業ほど高い評価を得ている事実だそうです。そして、グローバルで勝てるような競争力をつけるには、事業再編戦略が必要です。よく、保育、教育界で聞かれることは、「変えない」ことに価値があるように言われることがあります。民営化などするときに、「変えないこと」が条件になることがあります。それは、子どもの情緒が安定しないからだと言うことがありますが、日々成長している子どもにとって、変えない事、一所にじっとしているほど苦痛なことはないはずです。今回1位になったのは「コマツ」ですが、この会社は、私の園が2001年度にグッドデザイン賞を受賞したときに、いっしょに大賞候補に選ばれていました。「新領域部門」での大賞候補は5社で、最後に受賞したのは、「ナイキ」でしたが、最後まで、私の園もナイキとか、小松製作所と競ったのです。同様に、私がもうひとつグッドデザイン賞を受賞した2005年度に、グランプリを受賞した注射針を開発した「テルモ」も今回順位を46位から20位に上げています。これら上位の会社は、なるほどと思いますね。ちなみに2位は「キャノン」、3位は「トヨタ」でした。これら上位を占める企業は、グローバル感覚を磨く環境に自らを置いています。今回の評価だけではなく、今回2位のキャノン、3位のトヨタは、米誌フォーチュンが、昨年、世界の大企業幹部の意識調査をもとに選んだ「世界でもっとも尊敬される企業」の上位50社にも入っているそうです。日経によると、「企業の評価基準は変わっていく。今年1月、世界経済フォーラムの年次総会で、あるランキングが発表された。“世界で最も持続力のある企業100社”。重視するのは地球温暖化への対応をはじめ、収益性などの伝統的な物差しとは一線を画す社会的な指標。プリズム上位10社中、選ばれたのはトヨタだけだ。温暖化防止を目指す規制に見られるとおり、環境問題への対応の遅れは経営リスクでもある。ルールが変わればプレーヤーも変わる。新たなルールが得意な企業は浮き、適用できない企業は沈む運命にある。」
保育の新たなルールとは、何でしょうか。もちろん「保育の質」です。いままでのルールであった「制度」に守られていた時代は終わろうとしています。それは、何も企業的になるということではありません。企業的競争原理の中で質を高めていくことでもありません。評価の高い企業は、ただ競争に勝とうとしたわけでもなく、やはり最後は、「世界で尊敬される企業」でなければならないのです。私たちも、保育の質を高め、よりグローバルな観点から再編を考え、「尊敬される園」になっていかなければならないのです。
投稿者 fujimori : 20:30 | コメント (3)
2007年02月06日 [新聞記事より]
美術館
日経新聞に「年に何回ぐらい美術館に行く?」という特集が組まれていました。私は、よく美術館に行くのですが、人気のある企画展は、日曜日はとても込んでいて、つい入り口であきらめてしまうことが多くなります。先週の日曜日も、見たいと思っていた美術館に着いてみると長蛇の列で、なかなか進んでいないようだったので見ないであきらめました。こんな体験のたびに、ずいぶんと絵に感心のある人が多く、美術館を訪れる人が多いのだと感心します。そして、今年はわくわくするほど新しい美術館がいくつも開館します。楽しみですね。しかし、それはどうも年齢的、職業的にも偏っているようです。日経新聞の調査対象は、全国の20歳以上の男女会社員1032人が回答していますが、美術館に足を運ぶのは年に1~5回が5割、行っていないが45%も占めています。主な理由は「忙しくて時間がない」です。しかし、「アートNPO推進ネットワーク」を立ち上げた山下氏は、「実は、忙しいときこそ美術館に価値が出てくる。心の疲れを癒してくれる場なのだから。それでも人が行かないのは、魅力ある運営がされていないからだろう」と言っています。何を改善すればいいのかというアンケートでは、「入場料を下げる」が66%でトップです。確かに高いですね。何回も行くことをためらいます。しかし、映画にしても邦画がずいぶん健闘しています。人はブランド品を持ち、高い食事をすることが多いのを見ると、高いということではなく、優先順位が低いのではないかと思います。確かに、2005年度から無料化に踏み切った宮崎県立美術館は、予想以上の効果で入場者数が約2倍に増えたそうなので、値段もあるかもしれません。また、改善する項目として2位は、「カフェ、レストランを充実する」(38%)が挙げられています。本当かなと思ってしまいます。確かに、美術館に併設されているカフェやレストランは、モダンな店が多いですので、そこでゆっくりと飲み物でもと思うかもしれませんが、行った美術館では、必ずしもカフェが混んでいるとは限りませんし、近くにそのような店があれば充分なはずです。改善点3位は、「閉館を遅くする」(35%)です。日経によると、米国では夜間も開館する美術館が多いそうです。そのために必要なコストは地元の企業が援助するというメセナ活動が根付いているようです。確かに、平日の昼間は、仕事とかあって行きにくいですね。だから、日曜日に混んでしまいます。では、私が夜に行くかというと、行かない気がします。このアンケートの結果にはありませんが、美術館に行って気がつくのは、混んでいる場合は、企画が興味を引くものです。この間の日曜日に行こうとして混んでいてあきらめた企画は、「初公開 ギメ東洋美術館所蔵 浮世絵名品展」というもので、太田美術館で開催されています。この企画がとても魅力的なのは、ある新聞に掲載されたのを見たからです。世界でも指折りの質を誇る東洋美術コレクションを有しているフランスのパリにあるフランス国立ギメ東洋美術館は、浮世絵コレクションでも有名です。(ちなみに今回の展示の中には、高額な切手として有名な歌川広重の「月に雁」が展示されています)今回の展示の目玉は、このギメ東洋美術館に近年寄贈された葛飾北斎の「龍図」が、今回開催されている太田記念美術館所蔵の「虎図」と対幅であることがわかり、美術史上でもまれに見る大発見となった絵が展示されているのです。

それをどうしても見たかったのです。値段が高い低いは、絶対的な判断基準でなく、内容に対しての対価として妥当かによるのだと思います。やはり企画力がものをいいますね。
投稿者 fujimori : 22:35 | コメント (3)
2007年01月19日 [新聞記事より]
富太郎と栄一
昨日18日は、私のブログによく登場する植物分類学者である「牧野富太郎」の没後50年の忌日でした。そのことに関して、 読売新聞の編集手帳にこんな記事が書かれていました。
「植物学者の牧野富太郎は小学校を中退したあと、学校と名のつく所では学んでない。49歳で東京帝大の講師となり、77歳で退職するまで肩書は講師だった。学識の世評は高くとも学歴のない老講師に、ひと恥かかせる魂胆だろう。野外観察の折、ひとりの学生が枯れ草の根を取り出し、牧野の前に黙って差し出した。名前を当てられるものなら当ててごらん。学生たちが好奇の目で見つめるなか、牧野は草の根をそっと口に含むと、関東地方では見られない南方種のヒルガオの名を静かに告げた。特徴として、その根にはサツマイモに似た甘味のあることを言い添えた。渋谷章著「牧野富太郎」に記された挿話である。生涯に50万点の標本を採集し、1000種の新種を発見した植物分類学の巨人が94歳で死去したのは1957年(昭和32年)の1月18日、きょうは没後50年の忌日にあたる。「学者には学問があれば何も要らない」。冷遇と貧窮の時代にも、そう語っていたという。学者の誇りを捨てた「論文捏造(ねつぞう)教授」や、欲に良心を売り渡した「研究費流用教授」が世を騒がす昨今、折に触れて思い出される人である。たわむれに詠んだ都々逸が残っている。「草を褥(しとね)に木の根を枕 花を恋して五十年」。教育というのも煎(せん)じ詰めれば、ひと筋に恋する人をつくることかも知れない。」
彼については、時に触れこのブログに登場すると思いますので、特に今日はあまり触れませんが、同じようにあくまでも在野にこだわり、考古学を研究し続けた人がいます。以前にやはりブログで紹介をしたことがある「藤森栄一」です。「藤森栄一を読む 人間探究の考古学者」という昨年3月に発行された本の書評が 読売新聞に掲載されていました。「部数はともかく、著作が最も読まれた考古学者は、江上波夫でも佐原真でもなく、間違いなく藤森栄一(1911~73)であろう。本書を読めば、その理由がよくわかる。1978~86年にかけて学生社が刊行した『全集』(全15巻)に掲載された解説と、亡くなる5か月前に行われたインタビューを収録した1冊。戸沢充則・明治大名誉教授(編集代表)ら教え子を中心に11人が、師の学問や生き方を深い敬愛の念をこめてつづっている。松本清張の短編「断碑」で知られる夭折の考古学者、森本六爾を師と仰ぎ、信州・諏訪で在野を貫いた藤森には、縄文農耕や諏訪大社の研究など、今なお色あせることのない数多くの優れた業績がある。そして、激しい情念から生まれた「かもしかみち」「旧石器の狩人」「古道」など珠玉の作品たち。そこに共通するのは、古代に生きた人間の「心」をひたむきに追い求める、歴史探求のあるべき姿であると教えられる。一刻も早くじかに藤森に触れたくなって、放り投げてしまいそうになる皮肉な本である。」
彼が小中学生向けに書いた「心の灯」という本のあとがきで本人がこういっています。「自叙伝を読んでいただくほど、私は豪傑でも、偉人でもありません。それどころか、学校はできない、学歴もない、財産も地位もない、それでいて執念ばかり強く、妄執は人一倍というぐあいで、本来なら、まるで他人につまはじきされて終わるべき、まったくの雑草でしかなかったのですが、ここまで来てみますと、すくなくともわたしひとりは、ああよかった、おれという人間は幸福だったと、すこしは誇らしく思っています。」他人の評価よりも、自分の人生が誇れるようになりたいものです。
投稿者 fujimori : 21:52 | コメント (2)
2006年12月04日 [新聞記事より]
1人1人にふさわしい
最近、教育の見直しの中で、さまざまな議論をしています。そして、参考に各国の教育が紹介されています。基本的には、それはその国の風土や歴史、文化などから作られてきたものなので、そのまま日本に取り入れることは冒険でしょう。しかし、その良いところ、また、参考になるべきところをきちんと見ていくことは必要だと思います。毎日新聞に、今年の6月28日「1人1人の子供にふさわしい学習を イギリス」という記事が掲載されていました。その記事の内容は、IT教育先進国のイギリスで、生徒1人1人の能力、進度に応じ学習を進行させる取り組みが始まり、テストの結果や自習の記録などの学習履歴をネットワーク上で一元的に管理、その子の学習の進み具合や学習スタイルに合った教材を提供して、成績の向上を目指すというものです。そのやり方が、東京都内で開かれた日本教育工学振興会(JAPET)とイギリスの文化交流機関「ブリティッシュ・カウンシル」の海外教育情報化セミナーで紹介されました。
イギリス教育技能省のケビン技術局戦略遂行本部長は、「成績下位の学校には、予算を投じ、教員を入れ替えたり、学校を閉鎖したり、大胆な対策を実行してきた結果、成績は向上した」と一定の成果が上がったことを説明しました。しかし「義務教育以降の進学率が低い」「所得の低い家庭の子供の進学率が低い」「保護者が学校の教育に参加した方が子供の成績が伸びるが、協力が得られないことが多い」など課題が残っていることを挙げ、「さらに学力を向上させるためには、教育を学習者中心に考え、生徒1人1人に適した学習を提供する必要がある。それはITで実現できる」と語りました。それは、ITを活用して、個々の学習進度を把握して、生徒1人1人に適した学習を提供しようというものです。まず、学習履歴を管理したり、教材を提供する「個別学習スペース」を2008年までに整備し、個人成績、学習システムを使った自習などの履歴を各個人ごとに提示し、生徒本人や教員、保護者がそのページにアクセスできるようにします。そして、1人1人の学習進度や能力に応じた教材提示をしていきたいようです。さらに、「学力向上には、教員が生徒1人1人に適した学習方針を設計できること、保護者が自分の子供の進度や課題、学校のカリキュラムを理解していることが重要だ」と述べています。ITを活用している学校の方が、成績が良い傾向にあることを紹介し、成果を挙げている学校とそうでない学校の差異は「学習管理システムを活用することで、学習進度を把握する」「教員が教育に集中できるように、技術的なサポートを受けられる」「家庭とのコミュニケーションが円滑で、保護者がカリキュラム、ITの活用について理解している」などにあると説明しています。このような取り組みに関しての問題は、日本と同じようです。「普及には(校長を対象にした)リーダーシップ研修が必要。教員研修を先にすべきと考えていたが、まずリーダーシップ研修をすべきだ」であり、「先進的な取り組みをしている人が孤立することが多い」「模範的な例が共有されない」「家庭と学校のコミュニケーショが、すべての人にとって重要なものになっていない」などの課題もあり、すべての学校、教員に普及するためには「校長がITの効果を理解していることと保護者のプレッシャーが有効だ。イギリスでは、ITを活用しているかどうかが学校選択の理由のひとつになっている」といっています。教育、保育の課題も、ただ情緒的に憂えるのではなく、これからは、具体的なツールが必要かもしれませんね。
投稿者 fujimori : 18:57 | コメント (2)
2006年11月26日 [新聞記事より]
塔とタワー
先日、テレビで、リリー・フランキーの小説を原作にしたテレビドラマ「東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~ 」が放映されました。また、まもなくテレビ放送される映画に「ALWAYS 三丁目の夕日」があります。これは、建設中の東京タワーが劇中に登場します。私は、この映画を見ましたが(ブログに書きました)徐々に高くなっていく様子が正確に描かれています。今、ちょっとした東京タワーブームです。この東京タワーは、よく映画に登場します。そして、何度でも破壊されます。モスラの幼虫は、成虫になるためにここに繭を作り、怪獣ギャオスは巣を作りました。大怪獣ガメラやゴジラに破壊され、キングコングとメカニコングの決戦場となります。京都では、24日に市域全域で建築物の高さやデザインを規制する「新たな景観政策」案を発表しました。そこでは、建造物の高さ規制が強化されます。古い建造物が残っている京都では、ぜひ制限して欲しいと思っていますが、実は、人間というものは、昔から高いものにあこがれてきました。それは、バベルの塔に代表されるように、より天に近くなるからでしょうか。日本でも、この高さ制限をより強化しようとしている京都でも、五重塔に代表されるように、高い塔を作ってきました。そして、現代になると、天に近くなるというよりは、町を見渡す場所として、あるいはそれ自体がランドマークとして、その町の個性を浮かび上がらせるための建築になりました。東京、名古屋、大阪のそれぞれの都市には、その町のシンボルとして、東京タワー、名古屋テレビ塔、通天閣というそれぞれに個性豊かなタワーが立っています。しかし、高いものを立てるとなると、その構造が問題になります。高いと、倒れやすいからです。この三つの塔は今から約50年前に、一人の人物によって設計されました。NHKのプロジェクトXでも取り上げられたことがありましたが、設計者の名は内藤多仲というひとです。地震の多い日本の耐震構造理論を躍進させた人物で、建築の中でも構造が主役となる鉄塔を数多く設計した「塔博士」です。その中で、東京タワーは、正式名称は日本電波塔といいます。設計は、この内藤多仲と日建設計株式会社が共同でしました。およそ4000トンの鋼材と鳶職人の手作業により、1957年に起工し、わずか15か月で完成したのです。この途中が映画の中で描かれているのです。24日に、東武鉄道は、東京都墨田区の本社隣接地に2011年度の開業を予定している「新東京タワー」のデザインを発表しました。

建築家の安藤忠雄・東京大学名誉教授と彫刻家の澄川喜一・元東京芸術大学学長がデザインを監修、日建設計が設計を担当したのですが、五重塔の中心部を貫く「心柱(しんばしら)」を鉄筋コンクリートで再現し、編みかご状の鉄骨が曲線状に周囲を取り巻く構造になっています。五重塔の構造を取り入れて耐震性・耐風性を高めるとともに、緩やかな曲線の外観で日本の伝統建築をイメージしたそうです。聖徳宗の総本山である法隆寺は、金堂や五重塔をはじめ現存する木造建築では世界最古といわれる建造物がいらかを並べています。その中で、五重塔は、木造塔として日本最古のもので、1300年以上もの間 幾多に及ぶ風雪、震災に耐え抜いて今もなお厳然と建つその姿は、工匠達の知恵と技術そして日本仏教の信念と情熱の結晶です。心柱は塔の構造とは独立していて、相輪を支えるためにのみ存在しています。結局は、昔の人の知恵に戻るのかもしれません。
投稿者 fujimori : 18:43 | コメント (4)
2006年11月10日 [新聞記事より]
GS
昨日11月9日の 読売新聞の夕刊にこんな記事が掲載されていました。
「企業戦士のころは楽器演奏どころではなかったが、定年が見えてきたころ、再び音楽への熱い思いをよみがえらせる――。」という見出しです。最近、団塊の世代を対象にしたさまざまな記事が目に付きます。私は、団塊の世代ですので、どうしてもそんな記事に目が言ってしまいます。しかし、団塊の世代を正確に言うと昭和22,23,24年生まれの、たった3年間のことですので、記事の中には、これは団塊の世代より少しあとだとか、少し時代がずれていると思うことがあります。しかし、どうも、団塊の世代というと、思い出すものに、あるイメージがあります。やはり、今年の6月23日の読売新聞に、ユーキャンが「団塊」の世代にあたる56~59歳の男性300人を対象に今年2月実施したアンケートの結果が出ていました。それによると、「“団塊”を言い換えると何の世代か」という質問(複数回答可)に対して、「ビートルズ」と答えた人が135と最多で、2位の「全共闘」(91)を圧倒しました。そして、3位は「グループサウンズ(GS)」(85)で、「ニューファミリー」(58)、「アイビー」(47)と続いています。ですから、「オレたちは永遠のビートルズ世代だ」というイメージです。ですから、グループサウンズは、少しあとの世代のイメージです。そうは言っても、グループサウンズは懐かしいですね。最近、ブームですね。昨日の夕刊の記事は、「加瀬邦彦&ザ・ワイルドワンズ公演-結成40周年を迎えた平均年齢60歳の“永遠の青年”たちが、シニア層の後押しもあって、初めての日本武道館公演を実現させた。」というものです。その記事の中に出てくる歌は、みんな口ずさめるものばかりです。あの時代の歌は、そんな特徴がありました。たぶん、団塊の世代前後の人たちは、思い当たるでしょうね。歌った曲は、ママス&パパスの名曲「夢のカリフォルニア」に始まり、続いて「風」「バラが咲いた」といった日本のフォークソング、さらに、ザ・タイガースのジュリーこと沢田研二を迎えて、「サイモン・セッズ」「サティスファクション」と、洋楽ヒット曲。会場が最大の盛り上がりを見せたのは、沢田が熱唱した「君だけに愛を」と「TOKIO」。終盤は「夕陽と共に」「青空のある限り」で、最後はもちろん「想い出の渚」です。これらを並べてみると、涙が出るほど懐かしいですね。つい先だっての9月の「つま恋」でも、懐かしい思いをしたばかりです。9月23日に静岡県掛川市のつま恋で「吉田拓郎&かぐや姫Concert inつま恋2006」を開いた南こうせつさんが、31年ぶりに思い出の地でコンサートを開いた理由をこう話しています。「それまで日本で5万人もの観客を一堂に集め、オールナイトでコンサートを開いた前例がありませんでしたから、31年前の「つま恋コンサート」は、当時としては非常にインパクトのある出来事でした。」このように、グループサウンズは、とてもあの時代にインパクトがありましたので、それを復活させて町おこしをした町があります。それは、この春から伊豆市修善寺温泉街で始めた「湯の街コンサート」です。団塊の世代を対象に、グループサウンズ(GS)やフォーク歌手らを招き、にぎわいを取り戻そうとする草の根の取り組みです。あの一世を風靡した「グループサウンズ」は、圧倒的に人数の多い、定年を迎え始めた団塊の世代をひきつけたり、よみがえらせたりするのに格好の材料かもしれません。
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2006年10月11日 [新聞記事より]
オセロ
新聞の記事を読んでいると、「へえ、そうだったんだ」と思う事がよくあります。先日の10月7日の 読売新聞の夕刊にこんな記事が出ていました。「オセロゲーム発祥地の水戸市で6日、第30回世界選手権大会が開幕した。」という記事です。「へえ、オセロの発祥の地は、水戸なんだ!」と思いました。この記事には、「終戦の1945年、旧制水戸中(現県立水戸一高)1年だった長谷川五郎・日本オセロ連盟会長が、碁石で相手の石を挟む遊びを考えたのが原型。黒人の将軍と白人の妻が登場するシェークスピアの「オセロ」から名前を取った。」と書かれています。日本で考えられたゲームが、いまや世界選手権が行われ、今年で、30回大会だそうです。最初に発売されたオセロの石のサイズは牛乳瓶の紙蓋とほぼ同じ大きさでした。これは第二次世界大戦が終わって間もない頃、当時中学生だった長谷川五郎が初めてオセロを製作した際、牛乳瓶の蓋を使っていたので、現在も公式試合ではこのサイズを用いているそうです。名称を「オセロ」からとったのは、このストーリーが黒人と白人の関係がめまぐるしく変わる様からだといいます。
園児の中でも「オセロ」は人気のある遊びです。朝の自由遊びの時間では、オセロをしている子どもがいることがあります。その3歳児から6歳児までいっしょに遊んでいる様子を見ていると、とても面白いことに気が付きます。一人でオセロを出してきて遊ぼうとするときは、色と黒を並べて、模様を作ることをしています。また、ルールに沿って対戦をしようとするときは、たいていは同年齢児と対戦しています。しかし、子どもたちは、同じ年齢の子を対戦相手に選んでいるのではなく、同じ強さの子を対戦相手に選んでいるのです。というのも、とても強い3歳児は、5歳児を相手にしています。子どもたちは、ゲームが一番面白い相手を選んでいるのです。そこでは、お互いの生年月日など関係ありません。また、5歳児が、まったくルールを知らない3歳児と遊ぶときは、オセロのルールで遊ばないで、順番にただ並べていって、盤を白黒でいっぱいにしていきます。そのほかにも、5歳児は、3歳児でも楽しめるようなルールを作っていきます。この朝の場面では、子どもたちは、なにで遊ぶかを自発的に始めるだけでなく、その遊びが最も面白いであろう相手を誘います。また、その相手をしてもらえない場合は、相手によって、さまざまな遊び方の工夫や、ルールを改定しながら楽しんでいます。オセロを考案した長谷川さんも、こんな状況の中に置かれていたのでしょう。また、昔は、こんな状況が家庭でも、地域の中でも満ち溢れていたのでしょうね。今の時代は、工夫をしなくても、楽しく遊ぶことができますし、一人でも楽しく遊べますし、調査によると、幼児での家での遊び相手が、8割は母親だという結果が出ています。そんな中で、自己表現力が次第に乏しくなってきています。「その背景に、気の合う友人としかコミュニケーションしない生活環境があると見る。仲間内なら「あれ、むかつくよねー」と言うだけで話が通じてしまうからだ。助けが必要な時、どんな風に、なぜ困っているか説明できないと、仲間以外からの支援は得られない。論理的に伝える能力は、学力調査で他国に勝つ以前に、一人ひとりが幸せに生きるために必要なのです。」と国立情報学研究所の新井紀子助教授(数理論理学)は強調しています。
投稿者 fujimori : 23:10 | コメント (2)
2006年10月10日 [新聞記事より]
ラッキー
昨日ブログで書いたイルカについて、今年7月に毎日新聞で連載されていました。それらのイルカについてのコメントを、記事の中から抜き出してみます。子育てにずいぶんと参考になる部分が多くあります。「ラッキーはゆっくりで、タイミングもずれているけれど、最後まで何度でも繰り返す。時間の流れがほかのイルカと違うけど、一番粘り強いんです。ラッキーを教えることで、待つことや、相手の生き方に合わせることを学んだ気がします。」と言っています。リーダー格のロロは、ラッキーのショーの相棒で、ジャンプも空中技も一番きれいで、高く、つり下げられたボールに口先でタッチする「ハイジャンプ」は、7メートルをこなします。何を教えてもすぐできるロロですが、そんなロロの欠点は、頭が良すぎることだそうです。口先を上げ下げする「水吹き」の芸は、自分で加減してしまうので迫力に欠け、プライドが高いのか、ジャンプでたまに失敗すると、なかなか飼育員のもとに戻ってこないそうです。手抜きができず、自分を追い詰めがちなロロなので、飼育員がラッキーの水準に合わせて練習させると、やる気をなくすこともあるといいます。序列2位のナタリーは、衆目一致する「普通の子」で、技も普通に出来ますが、時々サインを間違うおっちょこちょいな面や、怖がって隣のプールに行かない小心なところがあります。「おてんばさん」はリップです。好奇心旺盛で、新しい遊具にはすぐ飛びつき、観客席にも自分から近寄っていきます。時々、ロロの位置に割り込もうとして、飼育員に怒られます。ちなみにリップは、ラッキーが大嫌いで、ラッキーが近づくと、首を振ったり、おなかを口先で押したりします。あんまり嫌われるので、ラッキーも遠慮がちになっているそうです。ラッキーのトレーナー土屋祐さんは、ラッキーとの交流について、ブログにこう書いています。「僕たちトレーナーはイルカを人間として扱ってはいけないと常々教えられてきています。しかし、人間でもイルカでも、付き合っていく上で同じように一つだけ大事な事があります。それは、信頼です。イルカとのふれあいでいうと、まずは触れること。これが大事な部分を担ってきます。まず怖いものには触れない、これはどんな動物でも同じですが、特に怖がりなラッキーは怖いもの、見たことないものなどには特別警戒を強めます。エプソン品川アクアスタジアムに着たばかりの頃なんかは、水槽のアクリル板を怖がり、アクリル板の近くまで来なかったほどでした。そんなラッキーが以前お伝えしたとおり、最近はアクリル板を怖がらなくなっているのです。というより今では、僕がアクリル板越しにイルカ達を見ていると僕の方に近づいてこようとします。だから僕は喜んでさわってやります。また、僕がショー中水にはいって、サーフィンのように乗るバンドウイルカ達には、ショーが終わってから水の中で抱きしめてあげたりもするんですよ。でも、そんな事をしていると時々「それも訓練の一つですか?」なんて聞かれたりするんですけどね。ただ単に好きでやってます。(笑)でもこういう風に抱きしめる事が出来たり、触ってあげられるって事はそのイルカに信頼してもらっているってことなんです。そして、笑顔でもっと触ってあげることによって、より信頼も深まります。最近ニュースなどでは抱きしめてあげることさえ出来ない親御さんが増加している、と聞きますが、何に対して接するにも一番大切なのはこういうノンバーバルコミュニケーションなのではないかなと私は思うのです。」まずは、抱きしめることです。
投稿者 fujimori : 22:25 | コメント (2)
2006年09月28日 [新聞記事より]
名画盗難
美術館めぐりも、世界となるとスケールが違います。行ったことがある中で印象に残っている美術館というと、なんといっても、ダビンチ・コードでもまたまた有名になった「ルーヴル美術館」。アメリカでは、「メトロポリタン美術館」。思ったより作品数が少なかったのは、イタリアの「フィレンツェ、ウフィッツィ美術館」。それぞれの時代の作品を所蔵している美術館が並んでいるドイツミュンヘンの「アルテ・ピナコテーク」「ノイエ・ピナコテーク」「モダン・ピナコテーク」です。個人の美術館としては、アムステルダム、国立ゴッホ美術館が、やはりよかったですね。有名な「ひまわり」は、世界中に何点かあります。

日本でも、損保ジャパン東郷青児美術館にあり、安田火災海上が五十三億円の購入した絵として有名ですが、本物かどうか言われていますが、他にミュンヘンのノイエ・ピナコテークとか、ゴッホ美術館の「ひまわり」は、確かでしょうね。また、この美術館の特別展会場としての新館は、日本人建築家、黒川紀章の設計によります。もうひとつ印象に残っている美術館は、ノルウェーのオスロにあるムンク美術館です。

ムンクといえば、「叫び」が有名ですが、この絵が、2004年8月に武装し覆面をした男らが美術館に押し入り強奪されました。しかし、警察当局が8月31日に無事回収されました。盗まれたムンクの代表2作品「叫び」と「マドンナ」が先日の26日、発見後初めて同美術館で報道陣に公開されたという記事が載っていました。「叫び」は絵の一角が損傷、「マドンナ」はキャンバスの2カ所に約2.5センチの裂け目があるなど、両作品とも強奪の傷跡があるそうですが、美術館によると、修復可能だそうです。よかったですね。ムンクの代名詞ともなっている「叫び」という作品は、その遠近法を強調した構図、血のような空の色、フィヨルドの不気味な形、極度にデフォルメされた人物など、独創的で秀逸な作品であり、中学の頃、教科書で初めてこの絵を見たときの衝撃は、いまだ忘れることは出来ません。ただ、そのときは、なんだか不気味だという印象でしたが。ムンクは、ある日、フィヨルドの近くを歩いている時に「自然をつらぬく、けたたましい、終わりのない叫びを聞いた」と言っており、その経験を絵画化したものだそうです。 自己の個人的体験に基づく「愛」「死」「不安」を芸術表現に昇華し、世紀末の人々の孤独や不安を表現したということで、評価されています。「ひまわり」同様、「叫び」も4点制作され、ムンク美術館に2点所蔵されています。絵画の盗難といえば、「モナリザ盗難」が有名です。1911年8月22日、観覧に来た人が気付いて美術館の係員に通報しますが、最初は「スタジオにでも行ってるんでしょう」などという対応。本当に無くなっていることが分かって大騒ぎになるまでかなりの時間がかかりました。国宝級の盗難とあって、大規模な捜査線が引かれました。「モナリザ」が発見されたのはフィレンツェで、犯人はイタリア出身の木工大工で、ルーヴル美術館の絵画の保護ガラスをはめる工事をしていた男でした。彼は「フランスに奪われたイタリアの宝をイタリアに連れ戻したのだ」と供述しました。日本でも、1970年、倉敷市の大原美術館で、ルオーなどの名画5点(約一億八千万円相当)が盗まれ、72年に犯行グループ5人が逮捕されました。どれも、小説になっていますが、名画盗難というと、なんだか、探偵もののにおいがしますが、大切な宝ですので、あって欲しくはありませんね。
投稿者 fujimori : 18:57 | コメント (3)
2006年09月24日 [新聞記事より]
呼び方
毎日新聞で、とても面白い連載をやっています。あるものの呼び方で、出身地を推測できるというものです。たとえば、ばんそうこうは、各地で「バンドエイド」「カットバン」「サビオ」など商標名で呼ばれていることが多く、どう呼ぶかで出身地が推測できるというのです。東京女子大の篠崎晃一教授(社会言語学)は、呼び方の地域的なバリエーションを「方言」ととらえ、約10年前に全国調査した結果、どの地域でも一般名称である「ばんそうこう」のほかに、複数の呼び方が存在していることがわかりました。広く浸透しているのは、現在43%の市場シェアを誇るジョンソン・エンド・ジョンソンの「バンドエイド」だそうです。「リバテープ」は、熊本県の老舗メーカーで、熊本での認知度はほぼ100%、九州の人なら一度は聞いたことがあるはずといいます。私は、聞いたことがないので、本当か、熊本の人に聞いてみたいものです。また、九州では、ほかに「カットバン」の知名度も高く、命名の由来は「ばんそうこうをカットしたもの」だからで、佐賀県に本社のある会社の商品だそうですが、何で、九州の会社が多いのでしょうか。また、北海道での呼び名の「サビオ」は、もともとスウェーデンの有名メーカーの商品で、20年ほど前は、北海道でシェア1位でした。そのほか、篠崎教授は「現代になって新しくできたものの場合、ホチキス、サランラップ、宅急便などのように、特定のブランド名が一般名称のように定着する例はある。ばんそうこうは、複数の商標名が定着しているうえ、地域的な特徴も大きい」と言っています。大きく分けて、関東と関西、東日本と西日本で呼び方が違います。例えば「赤ちゃんの夜泣き薬」を、東では「宇津救命丸」、西では「樋屋奇応丸(ひやきおうがん)」というような商標名であれば、そのシェアが認知度に影響するのはわかりますが、同じ商品なのに呼び方が違うのは、どうしてでしょうか。画びょうと押しピン、お漬物とお新香、お汁粉とぜんざい、今川焼と回転焼(ほかに大判焼、二重焼などの呼び名もあり)などがあります。私も、初めて関西に行った時に、いろいろなところに「マムシ」を食べさせる店が多くてびっくりしました。あの毒のある蛇を関西では食べるのかと思ったら、「うなぎ」のことでした。あと、町のいたるところに「プール」があるので、よほど泳ぎの好きな人が多いのかと思ったら、関東の「パーキング」が、関西では、「モータープール」と呼んでいます。どうして、違うのでしょうね。また、どこから違うのでしょうか。また、省略の仕方が東西で違う例も多いようです。たとえば、有名なところでは、ファストフードの「マクドナルド」を、関東は「マック」、関西は「マクド」と呼びます。本場のアメリカでは、「マクド」らしいですね。また、私の高校生の時の英語の恩師の著書で、約1500万部のロングセラーである「試験に出る英単語」を、東日本では「でる単」、西日本では「しけ単」と呼ぶのが主流だそうです。また、「局地的」に特殊な呼び方をする物もあるそうです。例えば、中部・近畿ではコーヒーに入れるミルクを「フレッシュ」と呼び、関西では一部年配男性がアイスコーヒーを「レーコー」と言います。鶏肉を「かしわ」と言うのは近畿、九州などで、鹿児島では黒板消しを「ラーフル」と言うそうです。方言だけでなく、最近のものにも違う呼び方をするのは、初めて呼んだ誰かの影響なのでしょうね。こんな狭い国土の中で、情報を共有している日本なのに、不思議ですね。
投稿者 fujimori : 16:14 | コメント (4)
2006年09月19日 [新聞記事より]
情報
先日のブログのほかにも、よく新聞紙上には、さまざまな調査結果や、アンケート集計が掲載されます。私たちは、その結果を見て、今の時代を知り、今の時代を嘆き、とるべき行動を決めることがあります。しかし、それは危険をはらんでいます。だからといって、一人の力では、傾向を探ることには限界があります。身の回りだけの情報では、偏る可能性が大きいからです。かつて、テレビで放送されていましたが、渋谷で未成年の女の子に喫煙を注意したところ、「タバコなんて、私の知っている子は全員吸ってるよ!」と答えていました。確かに、その子の周りの友達は全員吸っているかもしれませんが、逆に、違う仲間は、全員吸っていないこともあります。そのために調査は必要なのです。そして、その結果から、真実を見る目を持たないといけないのです。次の結果から、皆さんはなにを考えるでしょうか。
調査は7月、全国の高校1~3年の6168人(うち女子3311人)を対象に実施した、高校生向けの月刊紙「高校生新聞」が行ったモラルや人生観に関するアンケート調査です。その結果、高校生の5割は友人との飲酒や、電車内での携帯電話使用を容認していることが分かったそうです。同紙編集部は「教師や親など身近な大人の行動の影響が大きいと推測される。手本となるしっかりした大人が減っている表れでは」と分析しています。
また、調査は昨年11月に第一生命経済研究所が、「情報機器がシニアの生活に与える影響」について、50~79歳(シニア世代)の男女780人にアンケートを郵送し、731人の回答を得た結果です。携帯電話は58%、パソコンは51%が使っていました。携帯電話でメールを使う人に「メールの相手」を複数回答で聞いたところ、一番多かったのは「別居している子ども」(83%)で、「同居している子ども」(77%)、「配偶者」(60%)と続いています。「メールで親密になったと思う相手」もトップは「別居している子ども」(50%)。「同居している子ども」(34%)、「趣味・サークルなどの友人・知人」(32%)と続き、「配偶者」(21%)は7番目で、同居家族や配偶者は、メールの頻度に比べて親密になった割合は低かったそうです。調査した副主任研究員は「別居家族や友人などとのメールは、親密度を高めるのに大きな役割を果たしているが、同居家族とのメールは実用的な連絡手段という意味あいが濃いことがうかがわれる」と分析しています。
米誌ニューズウィークは先月、「世界の大学100校」を選定しました。こうしたランキングはどんな基準で選ばれ、どんな影響力を持つのでしょうか。1位は、ハーバード大、以下、2位スタンフォード大、3位エール大、4位カリフォルニア工科大。5位カリフォルニア大バークレー校、そして6位にやっと英国のケンブリッジ大(英)、7位マサチューセッツ工科大(米)、8位オックスフォード大(英)と続きます。100位までに入った日本の大学では、16位東京大、29位京都大、57位大阪大、68位東北大、94位名古屋大だけです。この結果に対して、数年前、USニューズの元編集担当者が「データには問題がある」と告白し、信頼性に疑問も出ていますが、各大学とも毎年、この順位変動に一喜一憂するほど影響力は大きく、連邦政府の予算配分の結果と序列がほぼ一致していたという報告もあるほどだそうです。そこで、「最も有力な調査で、より上位になるよう戦略を考えることが重要だ」との声も出ています。そこで、評価のからくりをよく知って、正当な評価が得られるよう努力することが求められているとむすんでいます。
投稿者 fujimori : 23:36 | コメント (2)
2006年09月16日 [新聞記事より]
調査結果
新聞などに、よく「調査結果によると」ということが発表されることがあります。しかし、その結果を見ると、「本当かな?」と思ってしまうこともよくあります。また、結果については改ざんできませんが、その分析では、どうにでも取れるものがありますし、自分の都合のよいように解釈して、やはり、「そんなことかな?」と思うことがあります。しかし、少なくともそんな傾向であることは間違いないでしょうが、この調査結果から、逆に違う問題点も見えてきます。
9月13日発表で、「公立小学生の校内暴力、過去最多に 対教師30%超増」という記事が掲載されていました。「05年度に公立の小学校内で児童が起こした暴力行為の件数は、前年度より6.8%増の2018件で、統計を取り始めた97年度以降、過去最多となったことが13日、文部科学省の調査でわかった。特に教師への暴力は38.1%増の464件と、3年連続で30%を超え、歯止めがかかっていない。公立の小中高生全体の校内暴力も0.9%増の3万283件となり、2年ぶりに増加に転じた。」というものです。この調査は、全国すべての公立小中高校が対象で、各教委を通じて実施したそうです。その中で、教師に対して、いすを投げつけたり故意にけがをさせたりといった、一定水準以上の暴力について、学校から上がった報告を集計したといいます。しかし、この数字で?と思うことがあります。この件数の各都道府県別を見ると驚きます。東京近郊の今年の件数の数字では、埼玉は113件、千葉は54件、東京は65件、神奈川は501件となっています。地域のよって差があるのは当然でしょうが、神奈川県に比べて、東京都が余りに少ない気がします。そんなに東京の子は、いい子なのでしょうか。これは、調査方法をもう一度見ると、「学校からあがった報告を」ということは、実際に起きた件数ではなく、学校の認識の違いかもしれません。しかし、「一定水準」を定めているので、認識にそんなに違いは出るはずはありません。では、どうしてでしょう。ラジオで尾木教授がこう言っていました。「東京は、今学校選択性を行っている地区が多いため、自分の学校が暴力が多いと、選択されなくなり、校長としての力量が問われることになる。また、教師も人事考課を行っているので、自分のクラスに起きているとなると、給料や昇進などに影響する恐れがあるので、報告しない場合がある。」こんなことでは、本当に子どものための教育を考えることができないでしょう。単純に、企業の競争原理を教育、福祉に持ち込むと、このようなことが起きる可能性は大いにある気がします。また、分析にしても、文科省によると、昨年より増えた原因のひとつに「なかには子どもの暴力行為がわかっても、保護者が注意しないといった事例も報告されている。」からと言っています。私は、この状況をすぐに保護者のせいにすることがありますが、もう少し、真摯に教育方法、教師のあり方を見直すべきだと思います。また、文科省は「はっきりとした原因は分からないが、けんかの仲裁に入った教師に逆上し、矛先を向けるケースが多いようだ。子どもの暴力について小学校側の危機意識は、もともと希薄。学級担任制で、担任一人に任せきりになるため、問題が放置されやすい状況がある」と分析しています。大人の目が届かないからという分析も、おかしい気がします。子どもがどうしてそのような行動をとるのかの検証がもっと必要でしょう。
投稿者 fujimori : 16:45 | コメント (3)
2006年09月15日 [新聞記事より]
選択
私の園では、食事のときには、自分で食べる量とか、食べたくないものの選択ができるようになっています。また、自分で、自分の体をコントロールできるようになると、お昼寝をするかしないかを自分で決められるようになります。そのほかの活動においても、基本的には、少なくとも二つ以上の選択肢が常にあるようにしています。たとえば、どの活動の時間帯でも、図書コーナーだけにはいってよいことになっています。それは、必ずしも自分勝手に好きなことをしてよいということでなく、提示した活動を子どもがしようとしないときに、その気持ちを考えることで、子どもの心が見えてくることがあるからです。その気持ちに沿い、共感することで、自ら提示した活動に取り組みようになるからです。また、別の意味では、活動を自ら選択することで、その選択肢が少なく、大人から見ると究極の選択であるかのように見えても、子どもからすると、自発的な活動をしている気になるのです。子どもたちに、絵を描かせたいと思ったときに、「描きたくない!」という子が、何人かいます。そのときに、「遠足の絵と、運動会の絵とどちらが描きたい?」と聞くと、思わず、どちらかの絵を言うことが多く見られます。そんなことに近い話が、9月15日の 読売新聞に掲載されていました。「『選択理論心理学』教育に成果、広がる実践」というタイトルです。「教師が強制するのではなく、子供に自分で行動を選ばせ、責任を持たせる教育手法が注目されている。選択理論心理学に基づくもので、アメリカでは多くの学校で取り入れられ、成果を上げている。国内でも、日本選択理論心理学会がサマースクールや教員への講習を通じ、実践を試みている。」というリードがあります。内容は、「自分で選び行動に責任」ということで、実践が紹介されていました。この選択理論心理学は、自ら行動を選択する心の動きを研究し、カウンセリングなど様々な分野に応用するものだそうで、1970年代、米国で教育分野に取り入れる試みが始まり、カナダやオーストラリアなどにも広がっているようです。「自分自身で選ぶことにより、子供は行動に責任を持つようになる」という考えに基づき、暴力を振るったり、騒いだりする子供についても、しからずに自分の行為を振り返らせ、間違いに気づかせます。米国ではこうした教育が約200校で採用され、暴力行為やいじめなどが減り、学力も向上したといいます。日本では80年代後半から研究が始まり、2002年には日本選択理論心理学会が発足。現在、教員や主婦、会社員ら約600人の会員がいる。同会の実施する講習を受けた教師たちが、学校での指導に同理論を生かしているケースもあるといいます。「学年の枠を超え、共同作業をさせることで、競争意識ではなく、協調する気持ちを育てる」と、指導の特徴を説明しています。これは、小学生以上を対象としていますが、私は、幼児の世界こそ、その考え方を持つべきだと思います。その理由のひとつには、幼児期こそ、発達の個人差が大きいことがあります。また、認知的なものよりも、体験からの発達を促すことに課題があるからです。しかし、きちんと、幼児においての選択能力の領域の把握が必要です。その能力の範囲内での選択肢を用意するべきです。これは、必ずしも幼児に限らないかもしれません。大人でも、自分で選択する能力がなければ、決めてあげるとか、強制せざるを得ませんね。最近の飲酒運転のニュースを聞くたびに、そんな気がします。
投稿者 fujimori : 21:15 | コメント (2)
2006年09月06日 [新聞記事より]
文章題
私が小学校で1年生を教えていたときに、算数の問題でこんな経験をしました。文集題の出し方で、子どもたちは解けなくなるのです。「鳩が電線に3羽いました。地面に2羽いました。あわせて何羽いるでしょうか?」子どもたちはほとんど全員、「3+2=5 5羽」と答えます。ところが、「鳩が電線に3羽いました。そこへ2羽飛んできました。何羽になったでしょう?」すると、半分くらいの子どもたちは、「先生!これって、足すの?引くの?」と聞いてきます。この二つの問題は、どう違うのでしょうか。子どもは、どう考えるのでしょうか。
9月2日 の 読売新聞にこんな記事がありました。「小中学生 計算「文章題」は苦手」というものです。これは、いまさらという気がします。というのも、昔から、算数が苦手な子は、文章題は苦手であることが多いからです。記事の内容は、「計算は出来ても、文章題から計算式を導き出す力は低い――。」これは、文部科学省が所管する総合初等教育研究所が1日、発表した「『計算の力』の習得に関する調査の結果です。計算問題については、例えば、「0.3÷0.4」という、小数同士のわり算の正答率が、小5で82.5%に達するなど、好結果が出ました。一方、文章題から計算式を導き出す問題では、小中とも正答率が低かったようです。たとえば、「0.6メートルの青いテープと、1.5メートルの赤いテープがあります。青いテープの長さは、赤いテープの長さの何倍でしょう」という問題の正答率は、小学5年で47.1%。計算式を作ることができたのも51.2%にすぎませんでした。「6リットルは、何リットルの1.2倍か」という問題では、「6×1.2」「1.2×6」「6÷1.2」「1.2÷6」の四つの選択肢から解答を選ぶのにもかかわらず、正答の「6÷1.2」を選んだのは、小5で50.3%。中学生でも65.4%にとどまったようです。この結果に対して、毎日新聞では、結果を分析した清水静海・筑波大大学院助教授(算数・数学教育学)のコメントが掲載されていました。「計算技能が身についているわりに、計算の意味を理解したり、活用する能力が劣る。読解力を磨き、見積もりや確認の習慣を育てることを学校現場でもっと意識してほしい」
今後、教師の指導法を改善する冊子などを開発していく方針だそうですが、私の経験では、ちょっと違う気がします。鳩を数える問題のとき、文章の最後の「あわせて」ということは、子どもたちは、「足す」と思います。「3羽いました。2羽いました。あわせて何羽?」子どもたちは、この文を、そのまま数式に当てはめます。「3と2を、たす。」と考えます。ところが、「何羽になったでしょう?」という設問は、足す場合も、引く場合もありえます。「なった」という文を「足す」か「引く」のどちらに当てはめればいいかわからなくなるのです。文章題では、文を数式に当てはめようとするのではなく、頭の中で、その場面を描くことが必要です。3羽いて、2羽飛んできたことを頭に描くと当然加わると思い、足せばいいとわかります。ということで、文章題が苦手な子は、文を実体験と結びつけないで、数式に当てはめようとする子どもに多いのです。それが、「算数が苦手」ということです。しかし、最近は、苦手な子だけでなく、子どもたちはいろいろな体験が少なくなってきていて、「文章題が苦手」な子が増えている気がします。もっと、幼児期に、さまざまな体験をすることが必要だと思います。
投稿者 fujimori : 23:43 | コメント (2)
2006年09月02日 [新聞記事より]
今年のG賞
何回かブログに登場した「グッドデザイン賞」の今年の選考に際し、「グッドデザイン・プレゼンテーション2006」が、東京ビッグサイトにて、8月23日から延べ4日間開催されました。今年の選考について、夕刊フジは8月25日発行の紙面で「グッドデザイン賞 アダルトグッズ No!」という記事を掲載しました。その内容は、約1年間で100万個を売り上げた男性用自慰用品「TENGA」がグッドデザイン賞の1次(書類審査)をパスしたものの、2次審査直前に不明瞭な理由でノミネートを取り消された、というものです。「多忙な審査員は審査前に初めて現物を見る。女性など一部審査員から批判があり、(2次審査)直前になって対象外となった」という事務局の説明に、販売元の社長は怒り心頭なようです.この判断は、なかなか難しいですね。「TENGA」のブースを一方的に撤去された「株式会社TENGA」の松本光一社長さんはこう憤っています。「アダルトグッズも日本の技術力に見合う、お客さんに喜ばれる物を」という思いから、自己資金1000万円と3年の歳月をかけ開発したTENGAは、精密な内部構造に加え、「部屋に置いても恥ずかしくなく、女性からもプレゼントできるように」と手に取りやすいデザインを採用。昨年7月の発売以来、100万個を売り上げた。 そこで、「TENGAに携わるすべての人に誇りを持ってもらいたい」と賞に応募したそうです。「ビッグサイトに展示されると知り、生産工場で働く職人さんやパートのお姉さんたちも『自分らの仕事が認められた』とすごい喜んでくれた。見に行くのを楽しみにしてくれていたのに」 確かに、ものづくりをしている人たちは、それが、どんなものでもその商品に対しては誇りを持っていると思います。普段は、なかなかスポットライトが浴びない中小企業の職人に勇気を与えるかもしれません。しかし、本来は、デザインとしてどうだったかという基準、観点から判断すべきでしょう。もし、その観点から外れているのであれば、この社長さんの言うとおりに、「応募の際、『男性用マスターベーション補助具』と明記し、性欲制御や性感染症、性犯罪防止など商品の意義を説いた。ダメなら1次審査で落とせばいい。」という言い分ももっともだと思います。もう一度、私が受賞したときのことを振り返って見ました。2001年度受賞したときは、1次審査のときに、さまざまな質問項目がありました。応募対象サブタイトル「人々の関係性のデザイン」応募対象区分「地域づくりのデザイン」応募対象の概要「地域コミュニティーの欠如によって、さまざまな犯罪や、子ども環境においての問題がおきている。保育園という場の提供の中で、空間や情報をデザインすることによって、異年齢の子ども同士、大人と子ども、地域と子ども、大人と大人、大人と地域などの関係性を再構築し、地域コミュニティーの結節点としての役割をもつ。」デザインのポイント「単に、集まる施設としての機能だけでなく、地域の自立を助ける機能への転換」デザイナーの思い・主張「子ども達は、人との関係を学ぶ機会は母親からだけになってきている。その観点から、最近、青少年が起こす事件を見てみると、人とのかかわる力がないことに起因することが多いような気がする。また、事件とまでいかずとも、最近、問題にされている学校での現象の「引きこもり」「不登校」「いじめ」「学級崩壊」等々、すべて人とかかわる力が薄れてきた結果の気がする。」今考えると、ずいぶんと理屈をつけたものです。
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2006年08月25日 [新聞記事より]
理科
8月23日の 読売新聞に“「物理」嫌い減らせ”という記事が掲載されていました。
高校・大学の物理で、生徒が自分で考えて理解することを重視する米国生まれの授業法「アクティブ・ラーニング」が、「物理教育国際会議」で紹介されたそうです。この「アクティブ・ラーニング」とは、核物理の専門家だったメリーランド大のエドワード・レディッシュ教授らが、大学など教育現場での広範囲な実態調査を基に開発を続けている手法で、従来の物理学の専門家主導で作られた物理教育の手法は、一般的な学生の多くが理解できず、物理嫌いを作り出したとの反省から、教わる生徒の立場を重視するのが特徴です。ハーバード大でも取り入れられているそうです。この授業法は「学生の頭の中はまっさらではなく、頭の中には誤った予備知識や先入観が詰まっている」ことを前提とする。高い所から同じ大きさのボールと金属球を落とした場合、「重い金属の方が先に落ちるのが『常識』」と答える生徒が多くいる現実を踏まえて授業を考えます。そして授業では、それが誤りであることを生徒自身に気付いてもらうことを目指すのです。教師が概念や公式を丁寧に説明しても、理解は深まりません。そこで、生徒に意見を発表させたり、生徒同士で討議する時間を多く取って、自発的に考えを変えたり、深めるように導きます。
私が教員の頃、いくつかの子どもたちの思い込みを打ち破ることをしました。まず、本で知ったり、人から聞いたりすることは本当かを疑ったほうがいい、「教科書を信じるな!」から始まった1年生の授業は、今考えると乱暴な気がします。しかし、それは、まず自分の目で見、確かめ、そのなかから工夫をしていく必要性を説いたのです。たとえば、磁石は、同じ極は反発し合うということを知識で知っている子どもがいました。しかし、反発する様子を見て、「ああ、知ってる。同じ極だからだよ。」と片付けてしまうよりも、「ふしぎだな」「どうしてだろう?」「何かに使えないかな?」ということで、リニアモーターカーを考え出したんだよと話しました。誰かが言った「空気は、重さがあるだろうか。」という疑問にも、簡単に「あるよ。」と答えてしまう子がいたので、みんなで、しぼんだ風船と、空気を入れた風船とどちらが重いかを考え、実際にはかってみたこともありました。浮力という考えもないので、真理にはたどり着きませんでしたが、みんなどうしてだろう、実際にやってみようと考えるようになった思い出があります。
これは、私が中学生の頃に読んだ、アメリカの理科の教科書の影響があるかもしれません。そこに、こう書いてあったような気がします。「ある男の子が、森の中で道に迷い、夜を過ごすことになりました。寒いので焚き火をしようと思い、燃えるものを集めに森に入りました。子どもは、何が燃えるものかわからないので、手当たり次第に拾ってきて、燃やしてみました。拾ってきたものには、燃えるものと燃えないものがあります。そこで、次の日は、燃えるものだけをもってこようと思い、どんなものが燃えるかを分けてみたら、どうも、細長いものが燃えそうだということで、細長いものだけを拾ってきました。やはり、燃えるものと燃えないものがあります。また、それを分けていき、次第に燃えるものだけを集めてくることが出来るようになった。」という話が、イラスト入りで、最初のページに書いてあったのです。日本と外国の思考「帰納」と「演繹」の違いのようです。夏の宿題の定番である「アサガオの観察」も、日本では、日々克明に観察ノートを書かせますが、外国では、「南半球では、つるは、どっち蒔きになるでしょう。」と考えさせると聞いたことがあります。答えよりも、考える過程を大切にするようです。これからの時代は、この考えることが必要になってくる気がします。
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2006年08月23日 [新聞記事より]
心の病
朝日新聞の2006年8月21日の記事に「心の病、30代社員に急増」ということで、企業6割で「最多の世代」が書かれていました。「30代の会社員にうつ病や神経症など「心の病」が急増していることが、社会経済生産性本部メンタル・ヘルス研究所の実施したアンケートでわかった。30代に最も多いとした企業は、04年でほぼ半数だったのが、今年には61.0%に増えた。また、6割以上の上場企業が、「心の病」を抱える社員が増えたと回答した。専門家は「急速に進む成果主義や管理職の低年齢化が一因ではないか」と分析している。 」ということですが、各年齢による比較では、「心の病はどの年齢層で最も多いか」を聞いたところ、「30代」と答えた企業が最も多く、全体の61.0%をしめた。40代は19.3%、50代以上は1.8%だった。心の病で1カ月以上休んでいる社員のいる企業の割合は7割を超え、これも増え続けているそうです。そして、「職場でのコミュニケーションの機会が減ったか」との質問に対して、「そう思う」「ややそう思う」と答えたのは約6割。「職場での助け合いが少なくなった」と思っている企業も、ほぼ半数でした。さらに、コミュニケーションが少なくなった企業で、「心の病が増加傾向」と答えたのは7割超だったのに対し、減少していない企業では半数以下にとどまり、職場環境の違いが反映した結果となったようです。同研究所では「心の病の増加を抑えていくためには、職場内の横のつながりをいかに回復していくかが課題だ」としています。
『選択理論』心理学の大家ウイリアム・グラッサー博士によると、
1.ひとが不幸な理由の大半は、満足できる人間関係を持っていないからである。
2.ひとが満足できる人間関係を持っていないのは、どちらかあるいは両方が、関係を改善しようとして、外的コントロール心理学を用いているからである。
3.そのような関係からは苦痛がもたらされるので、どちらかあるいは両方が、相手が用いている外的コントロールから逃れようとしている。
この外的コントロールというのは、教育学では、「外発的動機付け」ということもありますが、外からの力で行おうとする場合です。よく言われるのは、1. 批判する、2.責める、3.文句を言う、4.ガミガミ言う、5.脅す、6.罰する、7.ほうびで釣る。などです。この方法は、確かに効果はありますし、即効力はあります。しかし、それによってコントロールされた力は、持続しませんし、自らの力にはなりませんし、それどころか、ストレスになります。そして、さらに、コミュニケーション能力が欠けてきます。どうも、最近、少子社会においては、親は子どもに対して、外的コントロールをしようとしすぎている気がします。では、どうすれば外的コントロールを使わなくて済むかというと、質問型のコミュニケーションを使い、相手に取るべき行動を自ら選択してもらえばいいのです。これが、最近注目を浴びている「コーチング」という手法のようです。(私は、あまり詳しく知らないので、少し違うかもしれませんが)園では、毎日の3歳児から6歳児の給食で、こんな場面があります。当番「どのくらいの量?」子ども「少し」、ある場面では、当番「何個ほしいの?」子ども「うん、3個かな」他の場面では、「どれがいい?」子ども「大きいの!」当番「どのくらい大きいの?」子ども「さっきの子のより大きいの!」毎日行われるこの場面では、コミュニケーション力をつけるための「コーチング」が行われているのかもしれませんね。
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2006年08月07日 [新聞記事より]
風呂
今日の毎日新聞に、夏の風呂の入り方が書いてありました。最近、暑い夜が続きますので、つい、湯船に入らず、簡単にシャワーで済ませたくなります。なんだか、汗が洗い流せて、すっきりするからです。しかし、専門家は「シャワーと入浴では、体への効果が大きく違う。夏も面倒がらずに入浴してほしい」と話ています。エアコンによる冷えや日ごろの疲れの解消に、夏のお風呂を上手に活用して欲しいというのです。どうしてかという記事によると、「シャワーは体の表面を流すだけ。一方、湯船につかれば、血液循環が促進されし、毛穴が開いて汚れが落ちやすくなるなどの効果が期待できる。そして、体が温まると、体内の不要物質を取り除くフィルター役の腎臓や肝臓が活発に働き始める。エアコンの冷えなどで働きが悪くなった新陳代謝も回復し、疲労や肩こりの原因となる血液中の乳酸などの老廃物が排泄されやすくなる。また、じっくり温まれば汗が出て、毛穴の汚れが押し出される。しばらく汗が出ると、新しい皮脂が分泌され、皮膚の潤い保持に役立つ」といっています。しかし、注意事項として、「肩までドボンとつかる全身浴は心臓や肺への負担が大きく、高血圧や心臓に病気のある人、高齢者は注意が必要だ。また、熱い湯に入ると血液粘度増し、脳卒中の危険もあるそうなので、39度前後のぬるめのお湯に入ると、副交感神経の活動が優位になり、高ぶった精神状態を静めたり、筋肉の緊張を解く効果がある」そうです。
年を取ると、どうしても昔のことを思い出して、その話題が多いのですが、私は、高校卒業するまで銭湯に行っていました。下町は、ほとんどの家には風呂がありませんでした。この銭湯のような湯槽式入浴は、江戸時代から始まったものですが、当時は内風呂を持てるのは大身の武家屋敷に限られ、火事の多かった江戸の防災の点から内風呂は基本的に禁止されていたのです。当時の銭湯の建築様式は、全国的に神社仏閣や城郭の天守を想起させる切り妻の屋根飾りがありました。そして、正面の入り口には大判ののれんがかけられています。まず、最近の居酒屋などで見られるような下駄箱があり、木の札の鍵をかけます。そして、男湯と女湯にわかれ中に入ると、番台が、男湯と女湯の脱衣所を共に見渡せる位置にあります。そこでお金を払って、積んである脱衣かごをとって、なんだか儀式的にそれを逆さにして床に「トン!」とします。たぶん、ほこりとか、何か入っているのを払ったのでしょう。番台の先には、男湯と女湯が行き来できる戸があって、店の人や、小さい子どもは自由にそこを行き来します。そこを行き来しなくなると少し大人になった気分です。そして、どういうわけか、片隅に小さな日本風の植栽などしてある坪庭があります。その廊下をいくとトイレがあります。浴槽は、大小あり、片方は深くなっています。そして、その境の壁は、下のほうがあいています。もぐって、そこを行き来するのが冒険でした。しかし、たいていの場合は、湯はとても熱くてそんなことをするどころか、水の蛇口近くにそっと入ります。水で薄めると怒られたものでした。ですから、大人になった証拠として、その熱さを我慢して、肩まで入るのです。ちょっとでも動くと熱く、おならの泡が背中を伝っただけでもやけどをしたくらいでした。そして、浴室正面の壁面には、富士山と松林のある浜辺のペンキ絵が広がっています。(どうも、女湯の浴室のペンキ絵は、富士山でなく、子どもが喜ぶ汽車や自動車が描かれることが多かったようです)定期的に、その絵は、書き換えられていました。他に、タイル絵もありました。図柄は主に「宝船」や「鯉の瀧昇り」、「七福神」などでした。こんな銭湯も、今は歴史館にあるだけになりつつあります。
投稿者 fujimori : 18:31 | コメント (4)
2006年07月23日 [新聞記事より]
まちづくり2
今、子どもの事件が多発し、また、地域コミュニティーが形成されにくくなっている中で、もういちど、まちのあり方を考える必要があるのではないでしょうか。しかも、その考え方の中には、本来、日本が持っていたまちづくりの再評価もあるような気がします。もともと、農耕民族である日本民族は、人との関係の中で生きてきました。世界が、その関係性を、子どもの世界、教育のあり方においてもその必要性と、有効性を考え始めています。昨日に引き続いて、講座の中から引用して、考えてみました。2人の提案を考えてきましたが、今日は、3人目からです。
3、ジェーン・ジェイコブス(1916~2006):彼は、多様性を備えた人間的な都市の必要性を訴え、コルビュジェのような近代的な都市計画、都市開発を徹底的に批判します。「人間的に魅力ある都市のための4大原則をあげています。①街路の幅はできるだけ狭く、曲がっていて、1ブロックの長さは短い②再開発に際して古い建物をできるだけ多く残す③都市の各地区は必ずふたつ以上の機能を持つ④人口密度が十分に高い―というものです。職住をはじめとする機能を混在させた地域のほうが、時間帯によってまちが空っぽになるようなこともなく、住みやすく、また、小規模な区画や、路地であれば、人の目が届きやすく、人間的で子どもにとっても安全であるという考え方です。この考え方が、最近の日本におけるまちづくりに欠けている視点のような気がします。また、私が訪れた長崎とか、私が子どものころに育った「下町」とか、かつての「城下町」と呼ばれた地域では、このような視点を持っていると思います。下町には路地が多くあり、その横丁付近には、まだ玄関先に植木鉢を沢山ならべ、朝顔や盆栽を楽しみに緑を大切に育てる家々も見られます。また、鳥越のあたりは、第二次世界対戦以前は職人さんが軒を並べて居住し、戦後は各種製造・卸問屋・商店が並ぶ町なみに変化を遂げました。職住一致です。また、城下町でも同様に、作った意図としては攻められにくいということからですが、道の幅は狭く、曲がっていて、人口密度が高いです。そして、町の中には、さまざまな職業の人が住んでいました。鍛冶町には、刀鍛冶が住んでいたのでしょう。
4、ケビン・リンチ(1918~1984):彼は、都市、まちのよしあしの評価は数値データではかるよりも、「いい感じがする」「よくない感じ」などといった人の心理のほうが大事なのではないかと提案します、そして、多くの人が都市を「よい」と考えるための手がかりとして、わかりやすさが大事だといっています。そのわかりやすさの三つの要素として、①アイデンティティー(その場所らしさ)②ストラクチャー(はっきりした構造)③ミーニング(意味を持った)空間ということをあげています。具体的な空間要素としては、五つのものに注目しました。①パス(道路)②エッジ(縁)③ディストリクト(地域)④ノード(接合点・集中点)⑤ランドマーク(目印)です。これら五つがはっきりイメージできるまちはいいまち、できないまちは、あまり住み良くないということを実証しています。
以前のブログにも書きましたが、今後の学校のあり方は、もしかして、寺子屋や藩校にヒントがあるように、これからのまちのありかたも、日本から提案していけるかもしれません。昨年、ミュンヘンで行われた世界保育大会のテーマである「インクルージョン」の次の課題は、「コーヒージョン」という、関係性の構築にあるといわれていました。今こそ、まちづくりを通して、少子社会での、かかわる力や、コミュニケーション能力を育てる子どもたちの環境を考えていかなければならないでしょう。
投稿者 fujimori : 17:56 | コメント (0)
2006年07月22日 [新聞記事より]
まちづくり
7月15日に、読売新聞との共催で一橋大学が、第4回の市民講座が開かれました。今回のテーマは、「まちづくり」と「ひと」の関係を再考した「まちづくり―参加と協働の人間環境」です。その詳報が新聞に掲載されていました。その講座の中で「まちの見方」「造り方」「使い方」について、4人の思想家、理論家、実践家の考え方を紹介していました。
1、エベネザー・ハワード(1850~1928):彼はロンドンに生まれますが、田園都市というコンセプトを最初に出した人です。この考え方は、今、私の園がある多摩ニュータウンの基本的な考え方の基盤となっているものです。郊外型の都市計画には、今でもかなり影響を与えています。彼の時代のロンドンは、大変生活環境が悪く、煤煙が立ち込めていました。田園は、自然環境は良くても、農民の労働・経済環境は苛酷でした。そこで、双方の長所だけを取った「田園と都市の結婚」というアイデアを提唱します。同時に、「市民がつくって維持するまち」を提案しました。まず、株式会社をつくって資金を集め、土地を買い、造成して貸します。しかし決して、分譲、売却はしません。分序すると資金が回収できて楽になるのですが、住人それぞれの私有財産をめぐる利害対立が発生して、理想のまちが維持できなくなるからです。この考え方は、今や世界で普及しています。しかし、日本では、なかなか今の現実ではできず、デベロッパーは、資金の回収するためにどんどん無計画に造成し、分譲マンションなどは、住民の利害関係から、コミュニティーが壊されていくことにもなっているのです。また、国際日本文化研究センターの川勝教授は、こう言っています。「幕末明治期に来日したイギリス人たちが日本の農村風景の美しさに感嘆したと書いている。初代公使オールコットは、世話の行き届いた農村を、英国自慢の庭づくりと引き比べて、激賞し、近代観光業の創始者トマス・クックは日本の美しさに呆然として、日本を理想郷として宣伝した。」このように、そもそも田園都市という言葉の由来は日本にあるとも言っています。幕末明治期に日本を訪れたイギリス人は、「家に縁側があって庭に面し、長屋の狭い路地にも朝顔や植木鉢を置いて緑を大切にした百万都市江戸の生活風景を外国人はgarden cityと形容した。(中略)それが外国に伝わり、ハワードによって都市づくりのモデルとなり、一世を風靡した。庭園(田園)都市の究極の原型をたどっていくと日本に行き着く」とも川勝教授は、「文明の海洋観」の中で言っています。
2、ル・コルビュジェ(1887~1965):彼は、スイスで生まれ、フランスで活躍します。モダンを代表する、近代都市計画の父とも言われています。しかし、反面、この近代的ということは、非人間的になりやすいのです。私が、初めて園のある町を見たときに、とても近代的で、すばらしいのですが、人間のにおいがしませんでした。すばらしい「せせらぎ」の脇を数百メートル歩いても、誰ともすれ違いません。マンション群ということもあって、犬を散歩させている人を見かけません。道に猫が寝そべっていません。ダンボールピープルと呼ばれているような路上生活者は、この町に住もうとはしません。そこで、園が開園をしたときから、町の人とともに、地域を作ることから始めたのです。今は、ダンボールピープルはいませんが、町を住民が歩く、犬を散歩させ、少し声を掛け合うようになりました。しかし、この町は、もともと人との関係がわずらわしい人が引っ越してくるので難しいところはありますが。(続く)
投稿者 fujimori : 22:25 | コメント (0)
2006年07月10日 [新聞記事より]
八王子保育研究会
今日、読売新聞から取材を受けました。そのときに、私がかつて活動していた「八王子保育研修会」の記事を見せました。その活動は、何度かこのブログで紹介したのですが、改めてこの記事を読むと、考えることがあります。
「保育にかける男たち ― ユニークな試み着々」と題された記事は、1988年の10月20日読売新聞全国版のページです。
「とかく保母さんやママたち中心の世界で、男性ばかりで構成される保育研究グループが気を吐いている。地域の保育園経営者でいずれも30代。現場の経験を生かした手作りおもちゃや保育用語辞典の作成などを引っ提げて、近く「全国保育研究会」へも黒一点、研究発表参加の予定だ。保育にかける「青年」メンバー、ただ今、11人。このグループは「八王子保育研究会」。東京の西部、ベッドタウンとして人口増加の続く八王子市には54もの私立保育園があるが、メンバーはいずれも園長や副園長という立場。多くが2代目で、なかには3代目もいる。発足は3年前。「女性、あるいは50代以上の男性の中で、横のつながりがない。いっそ同年代の男だけでも、と旗揚げしました。当初は9人でした。」リーダー格の藤森さんはいう。集まってみると、女性中心の職場で気を使うこと、母親たちが過剰な育児情報のなかで混乱していること、など共通の話題や悩みが多く、たちまち意気投合。加えて何よりも「みんな教員免許を持っていたり実際に教壇に立った経験があったりで、子育てについて、そりゃあ熱心。話はすぐ、自分たちでできることは何かっていう方向に向かいましたね。」(藤森さん)テーマは、一貫して「保育を地域全体のものに」。現在保育園が行っている保育ノウハウを公開し、一般の子育てのヒントにしてもらうと同時に、さらに突っ込んで社会にとって保育とは何かを考えてもらおう、というねらいだ。「今、栄養士がついてきちんと現場で用意している給食とか、時間延長の際も保母さんのケアを確立している状態とか、保育園はなかなか頑張ってる、と思いますよ」という自信あっての提案でもある。具体的には一昨年から3回にわたり、市民ホールの催事場を借りて「乳幼児の世界」展を開催。「子どもの目の高さから生活を見たら」と、低位置から撮影した日常生活のビデオを放映したり、保育園で子どもたちに簡単な絵を見せた際の言葉の反応を採取して紹介、言葉の発達段階を解説したり。父母を対象に子どもを含む家族の食事のとり方のアンケートなども実施してきた。―中略― 今回の目玉は、今までずっと続けてきた0歳児から2歳児のための手作りおもちゃの紹介の集大成。現場の保母さんがタオルやラーメンの空き容器、軍手などを使って作っているものを各園から集め、検討、改良して製作しなおした。そして、もう一つは日常、園の内外で使われる保育に関する言葉の解説ミニ辞典の作成だ。「お母さんすわり」「犬食い」「ゴールデン・ゲージ」「周期性嘔吐症」など、昔と違い、育児に関する情報ワードを、両親や周囲の人にも理解してもらおうというもので、これも保母さんらの協力を得て鋭意収集中。平常は月1回、行事前になると週2回集まり、前日は半徹夜というエネルギッシュな活動だが、ママばかりでなくパパも育児に参加を、と呼びかけているだけあって、「自分たちの家族や子どももおろそかにはしない」という原則も忘れない。「子どもが好き。でもまあ、僕たち自身が仲良し少年倶楽部みたいなものでしょうね。」と、若き園長さんたちはさわやかだ。」
このころに打破しようとした50歳代の園長たちの立場に私たちは今なりました。女性ばかりの社会のなかで、男性の立場をと発足したつもりが、そのころのメンバーは、今は保育団体の役員をやっていますが、ほとんど男性ばかりで占めています。あのころの熱い思いは、今どのような形で生かされているでしょうか。年を重ねるということは、どういうことなのでしょうか。あのころのメンバーの顔を思い浮かべながら、そんなことを考えてしまいます。
投稿者 fujimori : 22:22 | コメント (0)
2006年06月21日 [新聞記事より]
ディシプリン
今日の朝日新聞のコラム「天声人語」にこんなことが書いてありました。
「一般にはなじみが薄いが、たまに目にする言葉に「ディシプリン」がある。英語では「discipline」で、規律、鍛錬、しつけ、懲罰などの意味がある。サッカーでは、チーム全体の「共通理解」や「約束事」といった戦術面での徹底を指す意味で使われることが多いという。」そして、「経済の世界では、こんなふうに使われていた。「新しい自由な社会においては、みんながある道徳律というか、ディシプリンを持つようにならないといけないと思うんです」。10年前、当時副総裁だった福井俊彦日銀総裁が述べた(岡本行夫対談集『ニッポン再生最前線』)。福井氏は「今の日本人は規制に慣れすぎて自らのディシプリンを持っているのか」とも述べた。規制緩和が進んだ21世紀の社会を展望し、それぞれが己を律するものをきちんと持つべきだという趣旨にはうなずける。しかし、それを徹底するのは容易ではないようだ。」
このディシプリンというのは、discipleには弟子(特に宗教的な門弟という意味から)という意味があるので、弟子に対しての教育が原義ですから、なんだか、自らのディシプリンを持つというのは変な気がします。どうもautonomyという単語の方がいい気がします。それは、人がなにによって動機付けられるべきであるかというと、その行動が、自律的(autonomous)か、それとも他者によって統制されているかということが問題なのです。この自律ということばには、他に「自治」も意味しています。自律的であるということは、自由に自発的に行動することです。本当にしたいことをしているのか、興味を持って、物事に集中しているのか、それは、自分(authentic)から出なければならないのです。自律をしつけに持っていこうとするときは、self-disciplineが必要かもしれません。しかし、本当の自律は、決して、ディシプリンの意味にもある鍛錬や懲罰では養われないと思っています。ある論文では、報酬によっても養われないとあります。あくまでも、自分自身から出た気持ちでないとならないのです。ですから、出生数をあげるのも、他からの報酬(お金など)では、限界がある気がします。
また、私は、最近の子どもたちに欠けているもののひとつに、この「自律心」がある気がします。そこで、今、大学の卒論を書くために私のところに来ている学生の一人に、「子どもたちの自律心はどのように育っていくのか」ということをテーマにしてもらい、研究してもらっています。ちょっと難しいテーマですが、7月まで事例を収集しています。特に3~5歳児を中心に観察し、ブランコの順番や、遊びから昼食準備時などの場面における、「他律」から「自律」への事例を中心に集めているようです。また、その学生は、私の園で、子ども同士で時間を伝えるなど律し合っていると見られる場面にも注目しています。どうも、子どもを観察していると、自律は、人への思いやりから育つことも見られます。また、人への思いやりは、自分を認めてもらうことから育っていくように見えます。やはり、最後は、自分に戻っていくのですね。
自律心は、どうも子どもに限らず、大人の社会でも疑わしくなってきて、子どもは何をモデルにして良いかわからなくなるような社会を提供している大人として責任を感じます。
投稿者 fujimori : 20:05 | コメント (0)
2006年06月06日 [新聞記事より]
経済効果
こんな話題はいやな人がいるので、できるだけ手短かにします。先日のブログで書きましたが、アメリカでは、州政府が医療保険への補助金として支出したお金のうち、喫煙によってかかる病気の治療に使った分を、和解金として判決で出した金額が、総額2460億ドル(約25兆円)でした。煙草を日本で製造・販売する最大の利点は、また、吸っている人の言い訳のひとつとして、「税収増」があります。そのほか、煙草常用勤労者(サラリーマン等)が、10~20年程度、命を縮めることの副次的反射効果として、厚生年金等の支払軽減(年金収支の多少改善)が考えられます。しかし、逆に、1999年度の喫煙による超過医療費は13,086億円でした。また、喫煙による労働力損失は58,454億円です。これらを合わせると、喫煙者が一消費者として負担しきれずに、喫煙者が属している共同体に負担させているコストは、71,540億円となるのです。したがって、喫煙による超過医療費の合計額が、国民医療費に占める割合は4.2%となっています。
先日(2006年6月1日)の朝日新聞に、こんな記事が載っていました。
「1歩の健康効果、何円?」1000人に歩数計をつけて1年間ウオーキングをして、医療費がいくら減ったかを試算しようとするものです。この調査は、厚生労働省の研究班が生活習慣病の予防を目的に行うものです。面白い発想は、この調査で、1歩の価値を試算し、将来、航空会社のマイレージサービスのように歩数に応じてポイントをため、余暇活動や社会貢献などに活用する事業につなげることを目指しています。厚労省は、「国民の1日平均歩数が千歩増えれば、糖尿病の発症を10年間で約3%減らせそう。」「15年度までに生活習慣病患者とその予備軍を25%減らすことで、25年度の医療費を約2兆円減らせるはず。」といった試算を示しています。研究班では、企業の健保組合を対象に、1歩の値打ちをポイント化して蓄積できる「ウオーキングマイレージ」という事業を提案しています。運動による経済的効果は、直接には健保の財政改善につながりやすいのです。ポイントは、スポーツクラブや旅行チケットなどに使うことを考えているようです。以前、キャッチコピーに「禁煙は、家族への愛です」というものがありましたが、「健康は、国への愛です」かもしれません。健康であることは、自分自身だけのためでなく、国にとってもとても助かることのようです。
国は、仕方ないかもしれませんが、具体的にお金に換算して、どれだけの効果があるという試算を出さないと動かないものです。これからは、このような保育をすると、どれだけの経済効果があるとか、子どもを十分と抱っこしないと、脳の前頭前野が未発達になり、新しいものへの開発が少なくなり、また、キレる子が増えてこれだけのものを破壊するようになるので、いくらの国家的損失になるというような試算を出さないといけないかもしれません。早寝や早起きや朝ごはんをきちんと食べることがどれだけ経済的効果があるかを試算したのでしょう。
私は、時間があればできるだけ歩くことにしていますが、なかなか時間がありません。というのは、言い訳ですね。煙草をすっていたときの言い訳に似ています。本当に歩こうとすれば歩けるときはあるはずです。その弱い心を打ち消すだけの試算があればいいのかもしれません。
投稿者 fujimori : 18:04 | コメント (0)
2006年06月01日 [新聞記事より]
訴訟
今日の新聞にこんな記事が載っています。「おしゃぶりで歯に障害」―6歳児と母が販売元を提訴―というものです。記事の内容は、
「おしゃぶりを長時間使っていたら、かみ合わせが悪くなった」として、横浜市に住む6歳の女児と母親(40)が31日、おしゃぶりの販売元の会社を相手に、製造物責任法などに基づき約1000万円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こしたというものです。 「訴状によると、女児は生後2カ月ごろからおしゃぶりを使用。当初は就寝時を含め1日平均約15時間、1歳以降も約12~14時間使っていた。使用していない時も、唇がへの字になり、口が開いた状態になったため、4歳になる直前に歯科医を受診。使用中止を指示された。現在も上下の歯のかみ合わせが反対になっており、発音が舌足らずになっている、とされる。原告側は「販売元は長時間、長期の使用を控えるよう商品に表示すべきだったのにしなかった」などとしている。現在出荷されている同じ製品には「24カ月をこえたご使用はおやめください」「短時間であっても歯並びに影響を与える場合があります」――との表示があるという。」
どう判断されるかは別として、実感として、ずいぶんアメリカ的になったなあと思います。アメリカでは、同じような内容での裁判で、有名になったものがいくつかあります。最初に話題になったのが、「マクドナルドのコーヒー訴訟」です。アメリカのドライブスルーでマクドナルドのコーヒーを購入した(当時)79歳の老婆が、マクドナルドのコーヒーを膝にこぼして火傷を負ってしまい、それを「コーヒーが熱すぎたから」と訴えたのが始まりです。老婆の過失に過ぎないと思われたこの事件で、判決はファーストフードが2億9000万円の賠償金を支払うように命じられたのです。ずいぶんと多額ですね。理由は、飲みごろのコーヒーの温度は65度、しかし、お店の出したコーヒーは80度で、客の安全に対する配慮が欠けていたというのです。事故の責任の80%は、高い温度のコーヒーを出したファーストフードに、残り20%は、カップを倒した本人の過失と考えられたからです。後、印象にあるのは、2002年にハンバーガーとフレンチフライの食べ過ぎで肥満になったのは企業側の説明不足だとして、米マクドナルドの親会社を訴える集団代表訴訟を起こしたものです。これに対しては、ハンバーガーなどを長期間にわたって食べ過ぎたら太ることは「世界中で知られている」常識だとした上で、「ある日目覚めたら、突然、太っているわけではない」と消費者側の非常識を問題視し、審理前の却下を求めました。あと、1998年に和解した「たばこ訴訟」です。この裁判は、アメリカの46の州政府が、アメリカ国内の大手たばこメーカー5社を相手に、州政府が医療保険への補助金として支出したお金のうち、喫煙によってかかる病気の治療に使った分を、たばこ業界に支払うよう求めた裁判です。和解金は、やはり私たちから見ると法外な総額2460億ドル(約25兆円)で、アメリカの裁判の和解金としては、史上最高額だったのです。
もしかしたら、園で菌対策のために子どもの手をアルコール消毒していることが、将来、菌に対しての抵抗力が弱くなり、世界で生活できなくなったと訴えられるかもしれませんし、危険な箇所をすべて取り除くことで、自らの危険回避能力を失わせたと訴えられるかもしれませんね。
投稿者 fujimori : 18:26 | コメント (1)
2006年05月29日 [新聞記事より]
景観
ドイツに行って、バスに乗ったときにガイドさんがこう質問しました。「ドイツの町並みを見てください。町並みを見て日本にはよく見られるもので、ドイツではほとんど見ないものが二つあります。なんでしょうか。」「それは、自動販売機と看板です。」確かにその二つがありません。日本で、今、景観を壊すものとして挙げられているものに、「電線や電柱が数多く走る街並、無秩序な看板やネオンサインの乱立、駅前の放置自転車、公共地域での乱雑なごみ放置、歴史的建造物に重なる大型建築物、海岸を埋め尽くす波消しブロック」といわれています。ドイツでは、もちろん電線や電柱もありません。それは、地下に埋まっているからです。あると思うと、市電の電線です。
先日の朝日新聞に「悪い景観100景」選定 「風格なし」「看板洪水」という記事が出ていました。これは、都市計画、建築、土木などの専門家グループが、日本の「悪い景観100景」の選定を進めているものです。巨大看板、電線電柱、不況の街のシャッター商店街などが挙げられていますが、私がブログで景観を壊すものとしてあげた、小泉首相が「空の復活」を提唱した日本橋も含められています。70カ所をすでに選んで、写真にコメントをつけてホームページで公表していますが、そのほとんどは、看板です。ビルに巨大な看板がある銀座の一角は「世界の銀座にふさわしい風格が見られない」、新宿の夜景は「無差別な広告看板の洪水」などのコメントがつけられています。
ドイツの町並みを通るときに「マイバーム」というポールを見かけます。英語で言うなら「メイツリー」、日本語で「5月の木」です。
長く寒い冬が終わった5月にこの木を村の広場に立て、その回りで踊って喜ぶのだそうです。日本でも、最近、札幌などにも立てられるそうです。大きな木の先端の枝だけを残して他の枝を落とし、幹は皮を削って飾り彫りにします。先端からはリボンを垂らしたりします。この先端を掴んで木の回りを男女が踊るのです。木の途中には看板を付けたりします。町によっては木ではなくポールに白と青(バイエルン州の旗の色)の螺旋の色を付けたものも目に付きます。これは、ただその周りで踊るだけでなく、かつて村の案内板の役割もしていました。この村にはこういった職人がいるよということを旅人に判るようにし、旅人はそれを見てその職人の元を訪れ修行したりするのです。ですから、共同の看板なのです。そして、それぞれの家には看板は立てないのです。それがあるというわけではありませんが、都会の繁華街でも、看板はもとより、宣伝用ののぼり、コンビニエンスストア、自動販売機、ガードレールなどは見られません。
何が景観としてよいのかというと、個人差があります。建物の形状や色などは、個人的な好みもあります。たとえば、少し前に、ビルの上にジェットコースターをつけようとして反対にあい、取りやめました。今回の「悪い景観」に選ばれてしまったなかにJR鹿児島中央駅駅ビルの観覧車があります。私もこの間それを見て奇妙に思ったのは事実ですが、作った鹿児島ターミナルビル側では、「地元では好評いただいているので意外です」と、当惑しているそうです。観光ポスターに写真が使われ、新しい名所にもなった。「住んでいる人と、中央の専門家の見方に差があるということなんでしょうか」と首をかしげているそうです。難しいですね。
投稿者 fujimori : 18:04 | コメント (1)
2006年05月27日 [新聞記事より]
脳トレ
今日の読売新聞の夕刊のトップ記事が「老いも若きも 脳トレ」でした。最近、中高年に人気なのものに、携帯ゲームがあります。それは、東北大学未来科学技術共同研究センターの川島隆太教授が監修している「脳を鍛える 大人のDSトレーニング」というものです。川島氏の考えでは、「脳の機能は青年期を過ぎると加齢とともに低下するのは、体力や筋力が年々低下するのと同じなので、体力や筋力が毎日の運動習慣で低下を防ぐことができるように、積極的に脳を使う習慣をつけることによって、脳の機能の低下を防ぐことができる」というものです。
もうひとつ、脳で最近注目されているのが、以前のブログ(4月18日)でも書きましたが、「前頭前野」です。この部分の働きは、「蓄えられた知識をうまく活用する」「現実をうまく処理したりする」「創造・記憶・コミュニケーション・自制力などの源泉」といわれ、「本当の頭のよさ」とは「前頭前野」をうまく使えるかどうかであることは、みんな分かってきています。そして、川島教授は、「音読」や「計算」が脳に効果的なトレーニングであることを、機能性MRIで脳の血流を測定し、それを勧めています。すなわち「脳を鍛えるには簡単な計算を速く解くこと、声を出して文章を読むことが有効である」ということです。
この川島教授のさまざまな提案は、なんだかいまさらどうしてと思うことがあります。確かに、今までのことを科学的に証明したことは分かるのですが、古くは日本でも、声を出して論語などを読むのが一般的な勉強方法だったのです。建物の間取りのオープンスペーススクールや、ティームティーチングも、習熟度別も、異年齢での学習も、みんな日本の藩校や寺子屋で行われていたことです。教育内容までもとっくに日本で行われていたことですね。また、百マス計算とか、簡単な計算から脳を育てるということも、昔から教育は、「読み」「書き」「計算」といわれていたことです。私は、それを実践したわけではありませんが、1年生を担任していたとき、「スピードテスト」というものをしていました。足し算を教えたとき、一桁+一桁の計算のパターンは限りがあり、それだけはその後縦書き計算を習っても暗算でやらなければならないと思いました。その全種類は覚えてもらったほうがいいと思い、わら半紙1枚に20題の足し算の問題を印刷し、それを何通りも作っておきました。そして、ある時間内に何題できたかで、下のほうに道路が描いてあって、そこに解けた目盛りの分だけ車が進めるようにしました。子どもたちは、喜んでそれをやっていました。朝、私が教室に行くまで自分たちでそれを出して、やったり、時間が空くとその問題をやりたがりました。まったく、百ます計算のようなことをやっていたのです。今となればそのおかげかもしれませんが、私のクラスだけ、ほかのクラスより知能テストが高く、他のクラスの先生からうらやましがられたものです。しかし、私は、そんなことのおかげとは思いません。子どもたちといっしょにものを考え、ふれあい、いろいろなことを経験させたからだと思っています。そして、いくら計算が脳にいいからといって、携帯ゲームでやるのはどうかと思います。音読にしても、子どもに読み聞かせをすればよいことで、画面を読む必要はないと思うのですが。やはり、人間を相手にすることが一番いいと思います。
投稿者 fujimori : 20:36 | コメント (0)
2006年05月17日 [新聞記事より]
大きくなって
いま、サッカーのワールドカップ参加メンバーが公表されて、巷では大騒ぎです。楽しみな人も多いことでしょうね。しかし、どのくらいの順位くらいになるでしょうか。ベストエイト位で上出来だと思っている人が多いようですが。
先日の日経新聞に面白いことが書いてありました。ジェフ千葉CMの祖母井さんの記事です。
「U-12 (12歳以下)のW杯はないが、昔、日本でこの年代の世界選手権を行ったことがある。いつも優勝するのは東アジアの日本、韓国、中国で、サッカー大国のブラジルやドイツは大差で負けていた。しかし、大人のW杯になれば立場は逆転する。どうして日本のU-12は強いのか。理由は簡単で、練習量の差。一般的に日本では、全国大会に出場するには週6回の練習が最低条件だそうだ。その量は年々エスカレートしているという。ドイツでは、日本のように毎日練習する少年チームはない。ほとんどのチームは週2回の練習+週1回のゲーム。大人の人たちが勝利至上主義に走らないように、日本のような全国大会は開催されてもいない。ジェフ千葉に入部してくる小・中学生の中には、既にスポーツ障害を抱えている子がいる。その障害が原因で大好きなサッカーができなくなるケースもある。過度のスポーツ活動による、目に見えない心の障害が生じているケースもある。全国のお父さんコーチや、お母さんマネージャーの皆さん、(自分の)子どものために、というのは分かるけど、大人の熱狂がエスカレートして奪ってしまう子どもの世界についても、しっかり目を向けてほしい…」
私も、同様なことを心配します。今、学校から帰ってきてからの時間のすごし方、学校が休みの日のすごし方として、どうも子どもをスポーツチームに入れてしまうこともあるように思います。確かに、体とこころを鍛えることは大切でしょう。しかし、ただ、それをスポーツクラブに任せればよいというのとは違います。記事の中で、とても気になるのは、子どもの世界選手権でいつも優勝していたのが、東アジアの国々だということです。教育学者の佐藤学さんが「世界の中で一斉授業をしている国は、いまや、世界の中で東アジアの一角の7カ国のみである。」と10年位前に言っていたのを思い出します。また、あの学力世界調査のOECDのPASAの結果と、IEA(国際教育到達度評価学会)のTIMSSの結果に対して、OECD東京センター主催の講演会の中で、中島氏がこういっています。「IEAが行ってきた理科と数学のテストで日本と韓国の場合は突出していたということは事実です。そのことが問題になりました、何らかの犠牲において、というのは人格的ということですよ。人格形成において欠けるんじゃないか、両国とも塾教育ですよ。詰め込み教育、無理をして叩き込む。むしろ、批判的な能力とか忍耐とか思いやりということが本当の意味において学力というものを形成するんじゃないだろうか。」
両方に共通する部分が多い気がします。親たちは、いつの時点で活躍する子を作りたいのでしょうか。小さいうちに、「すごいね」といわれることを欲するあまりに、自分自身の力で生きていかなければならない時期になってから壊れてしまうような子どもにしてしまっては、決して、「子どものため」にならないのです。きちんと、将来の見通しが必要ですね。
投稿者 fujimori : 18:36 | コメント (0)
2006年05月09日 [新聞記事より]
儒教復権
先日の朝日新聞の記事によると、最近、中国で儒教が復権しているそうです。(朝日 06/05/05)リードには、こう書かれてあります。「中国で「封建主義の道徳」と批判された儒教が復権、市民生活に定着しつつある。孔子の「論語」を音読する子ども向けの塾は花盛り。ビジネスマンの儒教教室も人気だ。急速な国際化や経済成長が中国人としての自己意識を求めさせる。とはいえ、格差の拡大や拝金主義の横行には不満が強い。国民をまとめる思想を探る当局の思惑もかいま見える。」
この傾向は、どうも、日本で「国家の品格」が大いに売れているのと似ている気がします。それは、記事のなかの文章でわかります。「市場経済の競争の中で道徳観が低下していると危機感を抱く。『市場経済の道徳として儒教思想は必要だ。教室は学者としての責任感から始めた。政治思想として教えるわけではない』とボランティアで教える戴伝江さんが言う。また、そこに通わせている5歳のこの母親は、『競争の世の中でも、物事の道理はわかる大人になって欲しい』と言う。」
同様に、この現象に対して、このブームの火付け役の一人である中国人民大学農業農村発展学院の教授「康暁光」さんは、こう分析しています。「計画経済から市場経済へ、集団制から私有制へと急速に変わる中で価値観が混乱、みんなが迷っている。そこで、伝統的な倫理観を求め始めた。」と復権の背景を語っています。この言葉は、そのまま「なぜ、国家の品格があんなに読まれているのですか?」と聞かれたときの答えに使えそうです。そのとき、同じようにこんなコメントも言いそうです。北京師範大学哲学社会学学院の教授「李景林」さんが、儒教ブームは歴史の必然だとした上で、こう言っています。「儒教は文化理念であり、今は政治思想でも指導理念でもない。復興はあくまで民間主導でなされるべきだ。現代社会にあった新しい儒教の創造が必要だ。」これは、儒教復権の中で、政府が曲阜の「孔子祭り」を主催して、市長が祭文を読んだことに対していった言葉です。確かに、今一度「国家の品格」が問われ、たとえば、「武士道」を見直す必要があるかもしれませんが、ブームとか、過去への回帰とか、道徳観の押し付けに結びついてくると、なんだか心配になってきますね。

孔子廟(こうしびょう)は、孔子を祀っている霊廟です。現在の山東省曲阜(きょくふ)に、孔子の死後1年目に魯の哀公が孔子の旧宅を廟にしたとされ、そこに孔子廟がつくられたのがそもそもの初めです。その廟は、現在孔廟と呼ばれ、儒教の総本山として厚く信奉されていて、その廟には、孔子やその弟子たちの像が安置され、「論語」がおさめられています。日本にも、各地に孔子廟があります。一番有名なものが、東京の湯島聖堂です。もともと朱子学の林羅山が上野忍が岡に先聖殿を築いたものを、徳川幕府が日本における儒教の学校として、湯島(御茶ノ水)に移築し、開き、林家の学問所としても発展したのです。ここの構内には、世界最大の孔子像が飾られています。
むかし日本テレビで放送されたドラマ「西遊記」や、今年のフジテレビの「西遊記」のロケ地としても使用されています。
そこに、交通博物館に行ったついでに、久しぶりに寄ってみました。
投稿者 fujimori : 18:18 | コメント (0)
2006年04月15日 [新聞記事より]
運転免許
人は、自分に関係すること、自分の身の回りのことに対する情報を得ようとしています。今は、情報時代といわれ、多くの情報が、さまざまなメディアを通して流れてきます。しかし、その情報量が多いだけに、知らず知らずのうちに、自分の都合で選択しています。一緒にテレビの同じ番組を見ていても、後で話してみると、まったく違うところを見ていることが多くあります。4月13日の新聞に、こんなニュースが流れました。「運転免許:聴覚障害者もOKに 08年度制限撤廃へ」本当に申し訳ないのですが、今まで、聴力障害者には、運転免許に制限があったとは知りませんでした。現在は、聴覚障害者の自動車運転免許に一定以上(10メートルの距離で乗用車のクラクション音程度(90デシベル)が聞き取れることが合格条件)の聴力が必要とされているそうです。緊急車両のサイレンやクラクションを聞き取れないと安全運転に支障があるという判断だからだそうです。しかし、先進国の多くではこうした制限はありません。というのも、クラクションやサイレンが聞こえない聴力障害者が乗用車で車線変更をしたり、前進、後退する際に安全が確保されるかなどについて試験運転を重ねた結果、運転席から隣接車線も目視できる広角バックミラーを活用し、慎重に運転を行えば、安全に運転できることを確認したからです。しかも、事故原因として、聴力と関係のない目視確認の不十分さやあせり、スピードの出し過ぎなどが多かったそうです。
多くの障害者や病者は、健常者以上に、自分で運転できることを必要としています。そして、「その人がどのようにしたら問題なく運転できるか」について適切な支援を受けられるかどうかは、障害者の社会参加にとって大きな要素なのです。しかも、就職するとき、運転免許所持を前提にしているものが多く、免許証を持っていないと、難しくなります。たとえば、自動車運転免許は、フォークリフトなどの免許講習受講資格になっており、建設機械など各種車輛の運転免許ともリンクしているため、技能を新たに獲得する上で必須のものです。しかし、今回認められることになった聴力障害者だけでなく、私は、運転免許試験の問題が、文章として理解しにくいことは、知的障害やLDなど文字についての理解が困難のある人等にとっては特に大きな壁になっています。あの短い時間内に、引っ掛け問題を数多く解かなければならないからです。そこで、記述の改善、実施方法として口頭によるテストの導入、聴覚障害者ならば試験時の字幕表示や手話通訳など、情報のバリアをなくす一環としても更に取り組む必要があります。なお、口頭によるテストは外国に例があり、国によっては、その国の標準言語が得意でない人にも配慮しています。「新・障害者の十年推進会議」が2000年に行った海外調査(回答国は、アメリカ、イギリス、オーストラリア、オランダ、カナダ、スウェーデン、ドイツ)によれば、個人の自家用車運転について、障害や病気を理由にした障壁はない、という回答が大部分です。逆に、もし不合理な扱いをすれば差別として裁かれる国が、多くを占めています。文字の読み書きが苦手な人に対して、アメリカでは、試験時間を増やしてくれたり、イギリスでは、ヒアリングでやってくれたりするそうです。事故は、障害や病気の有無にかかわらず絶対に起きないとはいえません。もしも事故を起こしてしまったときは、客観的な事実関係の解明の上で、ドライバーとして責任をとるのはいうまでもないことです。ただ、聴力障害者が免許を取れるようになったということだけではなく、どのような試験をするかも考えてもらいたいものです。
投稿者 fujimori : 21:15 | コメント (0)
2006年03月09日 [新聞記事より]
可能性
2006年3月5日 読売新聞にこんな記事が掲載されていました。読んだ方には、申し訳ありませんが、ぜひ、紹介したいので、読んでみてください。
「小学生時代。気が弱く、体も小さかった宮本さんは、格好のいじめの標的だった。筆箱や上履きが隠されるのは日常茶飯事。休み時間に後ろからけられることや、足に画びょうを刺されることも少なくなかった。中学に進み、最初にもらったオール1の通知表に、「やっぱり、おれはバカなんだ」と自分を見放した。義務教育を終えた時の通知表も、「2」が二つで、残りはすべて「1」だった。九九を全部言うことができなかった。中学卒業後は大工の道に進んだが、親方の指導は厳しく、すぐに手が飛んできた。理解者だった母親を16歳の時に病気で亡くし、17歳で大工をやめた。その翌年には父親も病死した。だが、20歳を迎えたころから人生の風向きが変わり始める。地元の建設会社に就職。後に結婚することになる純子さんと出会ったのも、このころだ。純子さんから、一本のビデオを手渡されたのは23歳の時。家に帰って再生すると、「光は波か、粒か」をテーマに、アインシュタインの理論を解説したテレビ番組が録画されていた。画面に吸い込まれ、我に返った時には90分の番組が終わっていた。「もっと知りたい」。味わったことのない気持ちでいっぱいになった。「物理学を勉強するには、大学に入らなくては」。直感的にこう思い、その一歩として定時制高校を受けようと決意した。夢への道は、九九のマスターから始まった。小学3年用のドリルを購入。中学3年までの数学と英語を独りで学んだ。「難しい知恵の輪を簡単に解くのを見て、やればできる人なのではと思ったんです」と、純子さんは振り返る。自宅に近い豊川高校の定時制に入学したのは24歳の春。物理学科のある名古屋大に志望を定めた。毎朝5時に起床し、出勤時間まで勉強。帰宅後も午前0時まで机に向かった。高校3年の3学期。大学入試センター試験で8割近い点を取り、名古屋大の理学部を受験した。合格を知った時のことは忘れられない。自宅の郵便受けに入っていたレタックスを恐る恐る開き、その中に自分の受験番号を見つけた。「不合格者の番号が掲載されてるのでは」と何度も確認した。27歳で名古屋大に入学した。学部と大学院で過ごした9年間。宇宙物理学を専攻し、素粒子などの研究に没頭した。在学中に結婚、長男も生まれた。初めは研究者になるつもりだったが、満ち足りた日々の中で別の思いが芽生えた。
「自分の経験が一番役立つ仕事は教師ではないか。落ちこぼれだったから、生徒がどこでつまずくかがわかるし、いじめられた時の悔しさもよくわかる」母校に電話をかけ、教壇に立ちたいと願い出た。理科と数学の教員免許を持つ宮本さんは、週14時間の授業を担当している。つまずく生徒もいないわけではない。しかし、九九もできなかった自分に比べれば、間違いなく、全員がより大きな可能性を持っている。「子どもたちが目標を見つける手助けをしてやりたい」。23歳で初めて人生の目標をつかんだ新米教師の、それが新たな目標だ。」
人間というものは、すごいものですね。子ども一人ひとりには、どれだけの可能性が秘められているかわかりません。そんな可能性を、一つずつ消していっているのは、実は、大人かもしれませんし、教師かもしれません。もう一度、目の前の子どもを見つめなおしてみようと思います。
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2006年03月01日 [新聞記事より]
広告
この写真の説明にこう書いてあります。
「自分より愛せるものがある。」人生の時を重ねながら、人は自分にとって 本当にかけがえのないものの存在を知る。家族への深い愛と感謝を、○○に込めて。
このコマーシャルコピーは何の会社のものだと思いますか?
とてもよい写真ですね。本当に、自分より愛せるものを感じます。しかし、なんと○○に入る言葉は、「ティファニー」です。この1面広告の写真を見たときに、安らぎを覚えました。しかし、上手ですね。私は、あまりブランドが好きではないので、もし、写真を見ないで、このコピー「自分より愛せるものがある。」を読んでいたら、なんだか、この会社の商品を買う人は、自分より愛するものは、指輪なのかと思ってしまいます。そのギャップが、手なのでしょうね。昨日は、新聞のコラムの中に、人生の参考になる言葉を見つけることができるとかきましたが、同様、コマーシャルの中にも、とてもよいものがあります。

十月十日、待っていた。はじめてしゃべるのを、待っていた。「パパ」と呼ばれるのを、待っていた。入学する日を、待っていた。夢が育つのを、待っていた。君が大きくなるにつれ、君とぼくは、少しずつ離れていった。あんなに待っていた君なのに。もう一度、話をしよう。
ぼくたちは、親子なんだから。子供が待っています。
この写真は、社団法人・公共広告機構の広告です。この法人は、広告のもつ強力な伝達力や説得機能を生かし、社会と公共の福祉に貢献することを目的として、1971年(昭和46年)に設立されました。現在、会員は1300あまり。広告に関連する多くの企業・団体が参加し、有力な企業人によってバックアップされています。全国ほとんどすべての新聞社や、放送会社、雑誌社、鉄道会社が会員になっていて、各社が収入源である広告スペースやCMタイム、ポススター枠の一部を無料で提供しています。その広告料の総額は正規料金換算で、毎年巨額なものとなっており、平成12年度は、307,2億円に達するそうです。これは一広告主の広告量としてはトップクラスに入るものだそうです。広告のテーマは、毎年テーマアンケートを実施し、全国合同会議で決定します。毎年、広告会社から毎回約500点を超える企画が集まるそうです。その中で、この作品は、「父の想い」という韓国制作のものです。同じ内容のものを、新聞、テレビ、ラジオで流しました。上に書いたコピーは、ラジオ用です。このテーマは、「父親はいるが、お父さんはいない時代と言われている。私たちは、父親からお父さんに戻れと訴える。父親になると、なぜ話をしなくなるのだろうか。最初からそうだったわけではない。この世に生まれておいでと、10か月間心の中で子供に話しかけながら待ったのがお父さんだ。子供の最初の一言を待った。最初の一歩を待った。そのお父さんが、いつからか話をしなくなった。子供には、無口な父親より対話をしてくれるお父さんが必要だ。私たちは言う。子供があなたの言葉を待っていると。あなたの一言を。」というものです。いつも、多くの中から選べれる作品だけあって、いいものが多く、賞を取っているものも多くあります。もう一度、じっくり読んでもらいたいですね。また、園での保護者へのメッセージにも使えそうですね。
投稿者 fujimori : 19:44 | コメント (0) | トラックバック
2006年02月28日 [新聞記事より]
コラム
新聞の記事の中には、ニュースや情報を伝えるだけでなく、コラムのなかに、ほっと一息つく言葉や、さまざまな示唆を含んだ言葉を見つけることがあります。
「今年に入ってから、妻はテレビドラマの収録、そして僕は歌舞伎の稽古と、珍しく二人とも家にいないことが重なった。そういう場合は、動物たちの世話はペットシッターさんにお願いしている。仕事から帰宅すると、リビングのテーブルの上に伝言ノートが置いてある。とび(飼い犬)が散歩でどこまで行ったか、猫たちはちゃんとウンチをしていたか、えさは残さず食べたか、事細かく記されている。先日、そのノートに「ホイちゃん(3年前に拾ってきた捨て猫)の元気がありません」とあった。―略― そのホイが、ペットシッターさんのノートによればまったく夕食をとらなかったというのだ。そう言えばあれだけおしゃべりだったホイが、この数日は無口になっている。具合でも悪いのか。―略― 妻と相談し、翌朝も元気がなければ、出かける前に僕が病院に連れて行こうということになった。その夜、ホイを抱いて寝た。―略― その日の朝は、ホイは残さずご飯を食べた。元気も戻ったようで、いつもの意味不明のつぶやきも復活。「淋しかったんだね。」と妻。―略― そんなホイだから、この数日、僕がかまってやれなかったので、精神的にまいってしまったのだろう。のほほんと生きているようで、彼らは意外とナーバスなのである。」(三谷幸喜)
猫以上に、人間の子どもはナーバスのはずですよね。シッターのように、遊び相手や、散歩に連れて行ったり、記録を書いたりしても、それでは満たされない何かがあるのですね。
「何を嬉しいと感じるかということには個人差がある。毎朝、コーヒーを飲みながら、「今日もあの未解決問題についてたっぷり十時間も考えることができるのか!」と胸を弾ませる数学者がいる。体の弱った人を介護し、その笑顔に接することを何よりの生き甲斐にする人もいる。たとえベストセラーにならずとも、自ら魂を込めた一編の小説を世に送り出すことに至上の喜びを見出す作家もいる。私たちの脳の中で、ドーパミンの上流に位置する「快楽のアマゾン河」は広大であり、人それぞれである。欲望のあり方が単純に割り切れないことを認め、その多様性を育むことが何よりも「合脳的」な倫理規則ではないか。」(茂木健一郎)
最近、格差社会ということが言われていますが、この問題は、収入や地位の格差が広がっているのではなく、価値観が単一化されてきていることが問題だと思います。収入や地位が高いからといって、幸せとは限りませんから。
「友人と電車に乗るときに、「飴、食べる?」ポケットから飴を出すと、「ありがとう」友人はにっこり笑って受け取ってくれた。小学生の頃にいじめられていた私には、給食当番のときに「お前の触ったパンは食べられない」と受け取ってもらえなかった経験がある。だから、人が食べ物を受け取ってくれただけで、胸が熱くなる。大人は「ありがとう」と言ってくれる。大人になれてよかったと、感じ入る。」(山崎ナオコーラ)
早く大人になりたい人や、いつまでも子どもでいたい人は、その時期に満足いく体験をしていないのでしょうね。
投稿者 fujimori : 23:20 | コメント (0) | トラックバック
2005年11月28日 [新聞記事より]
変える努力
人は、いろいろなものに対して、刷り込みを持っています。対象物の本質を見ようとしないで、刷り込まれた色めがねを通してみることが多くあります。その刷り込みのひとつに、年齢のよる刷り込みがあります。これは、日本では、特に強い気がします。物事の習熟は、加齢によって深まっていくと思われています。そのために、年功序列という独特の社会構造が形成されます。年齢が高くなると、物事に、熟練してくると思うからです。確かにそういう部分もあります。保育者が、年齢が高くなるほど保育に熟練してくるということは、いえると思います。というのは、私は、経験量が増すために、子どもを見る目が深くなると思うからです。それなのに、どうも、経験量が増すと、保育技術が増してくるとか、手馴れてくるとか、扱いが上手になることが、保育に熟練してくると思われていることがあります。そうなると、困ることがあります。その熟練してくる価値を失いたくないために、変化、改革をすることに抵抗します。また、その職業が長くなるにつれて、本来は、視野が広くなっていくのですが、実際は、その職業を通して物事を見ることが多くなるので、視野が狭くなってくることのほうが多い気がします。私は、年齢が増すにつれて、子どもを見る目が深くなり、子どもの変化、子どもの姿を見る目が本質を捉えるようになって欲しいと思います。そうであれば、今の子どもの置かれている環境の変化、子どもの様子の変化を見、そのなかで子どもを守るためにどうすればよいか考え、改革をしていかなければならない必要性を感じるはずです。
先日の朝日新聞の「私の視点」にマレーシアの元首相であるマハティール・モハマド氏が、「イスラム社会 逆行が苦境をもたらした」というタイトルで投稿していました。そこには、今、対立が激しくなっているイスラム社会に対しての考えが書かれていました。
「かつてイスラム教徒たちは見識をつんだがゆえに力があった。―略― 偉大なギリシャの科学者や数学者、哲学者たちの著書を読んだ。ペルシャ人やインド人、中国人たちの著書からも学んだのである。―略― ところが、イスラムの有識者たちは15世紀ごろから、科学的な研究を抑制し始めた。―略― そうした視野の狭さが、今日のイスラム教徒を苦境に導いたのである。コーランは、「私たちが変える努力をしなければ、アラーは私たちの不幸な状況を変えない。」と諭す。―略― 私たちイスラム教徒は自己を省みて、自ら変わらなければならない。アラーは、悔い改めるものを救うのだ。」
変化を見、改革をしていこうとすることをせず、改革を阻止しようとする年配の保育者は、加齢していくことは、その職種への習熟がマイナスになっていっているのではないだろうかと思うことがあります。ぜひ、率先して、子どものための行動をして欲しいと思います。
投稿者 fujimori : 22:04 | コメント (1)
2005年11月24日 [新聞記事より]
生活体験
昨年の産経新聞に、小中学生の自然体験、生活経験の乏しさについてのデータが掲載されていたことがありました。
「都市部、郡部あわせて三千人を超える子ども達の結果のいくつかは、次の通りです。
・日の出、日の入りを見たことがない 約50%
・自分の身長より高い木に登ったことがない 約41%
・わき水を飲んだことがない 約52%
・生まれたばかりの赤ちゃんを見たことがない 約50%
・自分の服を洗濯したり干したことがない 約44%
・包丁やナイフで果実の皮をむいたことがない 約22%
この結果から、家の中にこもり体を動かさない子どもの姿が見えてきます。自然の雄大さにも、ちょろちょろ出ている湧き水にも、そしてまた、しわしわの洗濯物が叩くことできれいになっていくことにも幼児は感動します。体験や経験から学ぶことはとても多いです。そして、体験したことを親子で話すというのが、シングルエイジ教育の基本のように思います。」
このコメントと、結果を見て、心配なことは、「えっ、こんなことは必要なの?」「そんなことを言ったって、逆に昔の人にパソコンを触ったことがないか?ときいてみると、ほとんどの人は、ないと答えるでしょう。それは、時代ではないでしょうか。」という人が多いことです。私が、小学校1年生を担任していたとき、子どもたちに「雑巾の絞り方」を指導したことがありました。すると、保護者の何人かから、「いまどき、雑巾を絞ることは必要ないのではないですか?家には、廊下はありませんし、机など拭くときは、乾いたモップで払うだけか、不織布で出来ている布を使って拭くだけで、雑巾など使うことがありません。」といわれました。そのとき、私は、「剣道で、竹刀を握るとき、野球でバットを握るとき、みんな同じ握り方をします。この手の動きは、決して雑巾を絞るときだけに必要なのではなく、力学的に意味があるのです。」という説明したことを思い出します。子どものさまざまな体験は、決して、それ自体だけに意味があるのではなく、さまざまな生きる知恵に関係してきます。ただ、乳幼児期では、子どもにその体験をさせるというより、まず、大人がモデルを示す必要があると思っています。掃除などを、子どもが見ている前でしたほうがいいと思います。その点で、私は保育園に通園している子どもたちが心配です。保育園では、子どもたちがいないところで掃除をします。大人の仕事は、子どもが帰ってからします。確かに邪魔かもしれません。子どもがいる間は、充分に子どもと関わる必要があるように言われてきました。しかし、目の前で大人が掃除をしている姿を見せないと、部屋は自然にきれいになるものだとか、誰かに頼んできれいにしてもらっているとか思ってしまい、学校に行って、自分たちで教室を掃除するようにならないでしょう。今の時代は、子どもと関わるということは、いっしょに遊ぶことだけでなく、大人のモデルを示すことも含まれると思います。
投稿者 fujimori : 17:05 | コメント (0)
2005年11月09日 [新聞記事より]
算額

今日の読売新聞に、「数学の海へ」という連載記事で、「和算を現代に生かす」というものがありました。ここには、中高校生を対象とした「算額をつくろうコンクール」(和算研究所主催)のことが載っていました。(算額とは,神社や仏閣に奉納した数学の絵馬のことです。江戸時代中期,寛文年間の頃から始まった風習といわれ,現在全国に約820面の算額が現存しているようです。算額は,数学の問題が解けたことを神仏に感謝し,益々勉学に励むことを祈願して奉納されたと思われます.人の集まる神社仏閣を発表の場とし,難問や問題だけを書いて解答を付けないで奉納するものも現われ,その問題を見て解答を算額にしてまた奉納するといったことが行われました.算額奉納の習慣は世界に例を見ず,日本独自の文化であり,明治になり洋算の導入を容易にしたのも算額を奉納する風習が貢献しました.)このコンクールは、現代版の算額を作ってもらい、問題の独自性や、美しさなどを競わせるものです。最近は、大学の入試問題に算額が登場し始めているようです。最近は、400人が応募するほど人気が高まっています。この作品を見ると、必ずしも数学の成績と一致しないそうです。この研究会の顧問である小川氏はこういっています。「コンクールは、遊びと数学を結びつける絶好の機会。数学の面白さは理系、文系を問わない。平面幾何が必要になったこともあり、こんご、算額は授業でも活用できるようになるだろう。」といっています。しかし、もうすでに活用されているようです。やはり以前の新聞記事で、このような記事がありました。
「学習内容の理解度に応じて指導する「習熟度別授業」に取り組む学校が増えている。文部科学省のまとめでは、2004年度、小学校81・6%、中学校72・3%の実施率で、00年(小学校38・8%、中学校31・0%)から4年間で倍増の勢いだ。習熟度別授業は「個に応じた指導」の一例として、03年に小学校の指導要領に明記され、同省が今春まで全国約1600校で展開した「学力向上フロンティア事業」で実践研究も進んだ。」とあり、実践例のひとつにこんな授業が紹介されていました。
「名古屋市熱田区の市立白鳥小は2年前から、同市の「学力向上パイロット事業」の指定を受け、算数での習熟度別授業を実施している。3年生以上で、3学級を4コースに分け、5人の先生で指導。子どもたちが、習った内容を応用する「問題づくり学習」にも取り組んでいる。同校は熱田神宮のすぐ前に校門がある。今年の正月には、学年ごとに1問ずつ、算数の問題を作り、校門に張り出し、参拝者に見てもらったり、解いてもらったりした。江戸時代、独学で学んだ算数の問題を、神社に奉納し、参拝客らに解いてもらう「算額」という文化があったことを知り、現代版「算額」に挑戦した。立ち止まる参拝者も多く、「正解を教えて」と、学校に電話してくる人もあった。 同小では、さらに地域の人たちに問題を解いてもらったり、反対に地域の人たちの作った問題を子どもたちが解いたりと、「問題づくり学習」を深めることを考えている。」
私の息子が中学生のころ、数学の教師は、「数学とは、自分独自の考え方で解くものでなく、一字一句教科書と同じ解き方、言葉を使うものである。」という授業をし、きれいに書いたノートを、展覧会に展示していました。(自分独自の解き方は、本当は、塾で習ったものだという思い込みがあったようです。)
今日から訪れている岩手県でも、一ノ関を中心に、和算が盛んだったようで、神社には、算額が多く、一ノ関博物館には多く所蔵があるようですし、また、「算法新書」を著した千葉胤秀が、陸中磐井郡生れのために、今の花泉市には銅像や記念碑があるようです。