2010年01月31日 地域を知る

桶町

 NHK大河ドラマ「龍馬伝」では、坂本竜馬が千葉道場に入門し、そこから去るところが描かれています。私が、千葉道場というと、「チョコザイな小僧め、名を、名のれ!」「赤胴鈴之助だあ!」という元気のいい声と同時に、竹刀の音がして歌が始まります。「剣をとっては 日本一に 夢は大きな 少年剣士 親はいないが 元気な笑顔 弱い人には 味方する おう! がんばれ 頼むぞ ぼくらの仲間 赤胴鈴之助」この歌は、同世代では、みんな一緒に歌い出すでしょう。最近、テレビ視聴者が高年齢化していると書きましたが、ラジオも、聴いている人の率、時間量ともにあまり変化はありませんが、10年の変化を年層別にみると、聴取層の高齢化が進んでいるという結果があります。しかし、私の子どもの頃は、ラジオにかじりついていました。その代表的な番組が、この「赤胴鈴之助」です。
 ラジオ放送は、1957年01月07日にラジオ東京(現TBS)で開始されました。そして、翌1958年10月にはテレビでも放映を開始されます。「少年画報」連載漫画(作・福井英一・2回から武内つなよし)が原作です。金野鈴之助は、江戸に出て父の友人である千葉周作に弟子入りし、修行を積んで心と技を磨きます。この千葉周作が、北辰一刀流の創始者で、千葉道場の総師範なのです。当然、鈴之助も北辰一刀流です。2番の歌詞の「父の形見の 赤胴つけて かける気合も 真空斬りよ」とあるように、赤胴をつけていたので、「赤胴鈴之助」と呼ばれます。そして、殺技は、千葉周作の紹介で飛鳥流に弟子入りして伝授された「真空斬り」です。子どもの頃は、「ウー ヤー タァーッ!」と言いながら、その形をよく真似をしたものでした。
赤胴鈴之助のラジオドラマでデビューしたのが吉永小百合で、千葉周作の娘の千葉さゆり役でした。その後のテレビ化の時にも吉永小百合が初出演をしています。渋谷区立代々木中学生でした。また、歌詞にある「なんの負けるか 稲妻斬りに 散らす火花の 一騎打ち」の稲妻斬り切りの使い手である竜巻雷之進は宝田明でした。
神道無念流の錬兵館、鏡新明智流の士学館とともに、江戸三大道場といわれた千葉道場である北辰一刀流の道場玄武館は、お玉が池の辺りで、千桜小学校の跡地に石碑が立っています。坂本竜馬も千葉道場門下でしたから、北辰一刀流でしたが、通っていたのはこの千葉周作の道場ではなく、周作の弟である千葉貞吉の桶町小千葉道場でした。この桶町は、桶屋が多かったからのようですが、その場所はよくわかっていないようです。たまたま妻が持っている江戸の古地図に桶町の地名があり、それに相当する現在の地図がありました。
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その地図の3番のところに「剣聖千葉周作の弟定吉の道場があったところ。周作の「玄武館」が「大千葉」と呼ばれたのに対し定吉の道場は「小千葉」と呼ばれた。坂本竜馬が修行・寄宿した所として有名。」と書かれてあるので、その場所に行ってみました。しかし、何にも碑も印もなく、どこか確証は持てませんでしたが、その地図にある場所から写真を撮ってみました。向こうの方に見えるのが、東京駅に止まっている新幹線です。
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こんな、東京駅前に道場があったのですね。ことしの大河ドラマつながりの場所探しは、坂本竜馬の評価が今までそれほどされていなかったということもあり、マイナーなところも見つける楽しさがありそうです。

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2009年11月26日 地域を知る

ご当地おでん

 文化は、長い時代を経てつくられ、つながってきたものが多いのですが、新しく作られていくものもあります。また、文化とは有形、無形を問わず、また、科学・芸術分野だけではなく、様々な分野にあります。たとえば、食文化です。
先日の新聞記事に、こんな記事がありました。「地元産の具材にとろろ昆布を乗せた「富山おでん」を県の新たな名産品にしようと、東京・有楽町にある県のアンテナショップ「いきいき富山館」などが売り込んでいる。ご当地おでんはブームになりつつあり、県内での知名度も上げようと富山駅や富山空港など観光客が集まる場所で販売が始まった。」
私は、このアンテナショップに行ったことがありますが、そのときは、店頭で「ホタルイカ」の販売をしていました。そこで、今、「おでん」を売り出そうとしているようです。ここに書かれてあるように、今、ご当地「おでん」がブームのようです。その特徴は、ひとつには「だし」にあり、もうひとつは「具」にあります。「富山おでん」と呼ばれる条件は、味付けは自由ですが、県産の具材を1品以上使うことだそうです。たとえば、普通のおでんにとろろ昆布を乗せたものであったり、大根や卵などの定番に、甘エビやシロエビのつみれ、こんにゃく田楽「あんばやし」が入ったものなどです。
 その中で、とろろ昆布を乗せたものは、県内では、しばしば見られる富山流のおでんの食べ方であり、熱々のご飯に乗せて食べれば、汁を捨てなくて済むということもあるようです。それが、記事によると、今年初めに酒席で盛り上がった勢いで、ご当地おでんに名乗りを上げることになり、発起人会ができたということです。今年の4月に全国のご当地おでんが集まる「小田原おでんサミット」(神奈川県)で、2日間で1700食が完売したこともあり、「酒との相性もぴったり」と売り込みはじめたようです。
 ご当地おでんとして有名になったのは、黒はんぺんで知られる「静岡おでん」です。このおでんは、私は食べたことはないのですが、もうひとつ有名な兵庫県の「姫路おでん」を、少し前に姫路に行ったときに食べてみました。姫路おでんの定義は、これからはっきりと決めるようですが、今のところは、「生姜醤油で食べるおでん」だそうです。
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どうして、おでんに生姜醤油をかけるかというと、起源についてはいろいろな説があるようです。最初は、戦中戦後の食糧難の時代に煮込み過ぎて味が抜けてしまったおでんの味を補うために、生姜醤油をかけるようになったという説(闇市発祥説)がこれまで一番有力でしたが、現在は、昭和初期に姫路の浜手地域で、甘辛い関東煮に生姜醤油をかけて味を調整して食べたのが始まりではないかと言われています。また、姫路は西の龍野市(現:たつの市)にかけて古くから現在も醤油の産地です。そして、白浜が昭和の初め頃生姜の産地だったとされており、それぞれの地場産業が生活の知恵として、ブレンドするとおいしくなると発見し、食習慣になったのではないかとも考えられています。
「おでん」という名前は、もともとは、室町時代に出現した味噌田楽からきています。その田楽は、具を串刺しにして焼いた「焼き田楽」と、具を茹でた「煮込み田楽」がありました。のち、煮込み田楽が女房言葉で田楽の「でん」に接頭語「お」を付けた「おでん」と呼ばれるようになり、焼き田楽は単に田楽をさすようになったのです。
文化をもう一度引っ張り出して、今によみがえらせ、新しい文化にしていくのは、また人間に知恵かもしれません。

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2009年11月22日 地域を知る

文士村

文化は、山の手の「目白文化村」のようなインテリが住む町からだけでつくられるものではなく、それに隣接しているトタン屋根の貸家一帯からも生まれてきます。それは、一般的に、作家や、詩人などの文化人は、貧しいことが多いからで、彼らは、貸家に住み始めます。それは、川沿いの低地で、近くに工場なども多く、居住環境としてはよくなかったのですが、かえって家賃が安かったことと、時代の先端を行く街であった新宿に近かったことなどから移り住んできたと思われます。
その代表が、「放浪記」「浮雲」などの代表作で知られる作家・林芙美子です。彼女は、後に文化村の近くに立派な家を建て、その建物が現在は、林芙美子記念館として残されています。個性的な和風建築として東京都歴史的建造物になっていますが、新居建設当時、建坪の制限があったため、芙美子名義の生活棟と、画家であった夫・緑敏名義のアトリエ棟をそれぞれ建て、その後すぐにつなぎ合わせたといわれています。
1920年代から30年代にかけて落合町に住んだ作家や詩人、歌人は実に70名以上を数えたそうです。そこの住人には林芙美子・宮本百合子・中野重治・江口渙・蔵原惟人・藤森成吉・村山知義などのいわゆる「プロレタリア作家」が多く、彼らを中心として左翼文化運動がおこり、1928年(昭和3年)には、左翼文化団体の集まりである「全日本無産者芸術連盟」を立ち上げ、その事務所も上落合につくられています。村山知義は、童画家としても有名で、彼がここに住んでいたとは驚きでした。
もうひとつ、面白いことがあります。それは、山の手である目白文化村に対して、低地の貸家には、多くの芸術家が住み、目白文士村を形成したのですが、その反対側の北側に接する長崎村には、1930年代半ば以降、貧乏な画家が多く住むアトリエ付き貸家が立ち並び、「長崎アトリエ村」が誕生しています。ここは、豊島区ですが、豊島区のホームページに紹介されています。この地域も、明治になっても東京市外の近郊農村といった性格が強く、落合地区と同じような街づくりが行われていきます。そのきっかけとなったのは、第1次世界大戦ごろからで、産業の発達とそれに伴う都市への人口集中により、市外であったこの地域も都市化がすすんでいきます。そして、この地域での目白文化村のような高級住宅街として開発されたのは、駒込の大和村でした。一方、スラムが東京市内から追い出されるようにして、豊島区地域にも形成されました。ちょうど、関東大震災を境に)年の関東大震災後にいっそう激しくすすみます。その頃のモダニズムや洋風文化の流れは、豊島区の西部にあたる旧長崎町を中心として、美術家向けの借家群であるアトリエ村を生むことになるのです。これも、モダニズムと東京近郊の都市化の流れのなかで起きたことです。
最初にアトリエ村がつくられたのは、要町で、1931(昭和6)年のことです。これにならって長崎の各所につぎつぎとアトリエ村がつくられました。はじめアトリエ村には絵や彫刻を学ぶ学生が集団で住んでいました。その中で最も大規模なものは、さくらが丘パルテノンです。このアトリエ村には、合計で約60軒もあったそうです。
この流れが、ずっと後になるのでしょうが、この場所に手塚治虫を中心とした様々な漫画家が生活していた「トキワ荘」に受け継がれていきます。
文化は、様々な環境の中で、様々な形を持って生まれてくるものですね。

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2009年11月21日 地域を知る

文化的生活

 私の住まいは東京郊外の八王子市にあります。八王子は、戦国時代は八王子城の城下町で、江戸時代は甲州街道の宿場町として発展してきました。そして、明治になると織物の町になっていき、その関係の工場がたくさんありました。それが次第に縮小し、その工場を取り壊し、その跡地がかなり広いので、小分けにして分譲住宅にするか、大きなマンション建設が行われるようになりました。そのチラシを見ていると、その分譲の売り方のモデルを、大正から昭和にかけて開発された「目白文化村」に見ることができます。
山の手といわれる新宿下落合地区は、明治になって、有爵の大きな屋敷が立ち並んでいました。それを開発したのが、西武コンツェルンを築いた人として有名な堤康次郎の(株)箱根土地でした。まず、広い敷地の奥まで路地を引き、それをロの字に循環させ、下水道を完備し、建物は洋式の日本館で建て、土地とともに売る方針をたてました。しかし、建物は個々の個性があった方がいいと考え、基本的には更地分譲でした。そして、街路の擁壁には大谷石を使用し、都市的な景観を持たせるようにしました。その広告には、土地の来歴と、施設計画、交通手段などが同一形式で掲載したのです。この土地は、もとなんとか公爵の敷地ですと謳うことで高級住宅地としてもブランドを作り、洋式の建物はモダンを感じさせました。最近、園の近くのマンションのチラシにも、もとだれだれの敷地であることが謳われていました。
では、文化村での生活は、どのようなものを目指したのでしょうか。昨日のブログで書いたようにそのモデルは田園都市ですが、文化村での当時の田園生活の理想的な生活について、こう書かれてあります。「先ず、労働者の家族をして、清新和楽の家庭を組織せしむるに在り。されば其住む所をして、殊に空気の流通と光線の透写とを十分にならしめ且付するに数畝歩の庭園を以てし、…労務の余暇には農芸を習はしめ、一には之に依りて各自の健康を保持せしめ、一には其収益を挙げて生計の幾分を補助せしめんと図りぬ」
これは、理想かもしれませんが、当時このような生活を勧めたのですね。「清新和楽」の家庭というのは、もう一度考えたいものです。というより、今こそ成熟し、経済優先の時代からの脱却をしようとしている今こそ必要な考え方です。また、ここでは、余暇を使って農芸を挙げています。いわゆるガーデニングではなく、家庭菜園なのでしょうが、その収穫が収入の足しになるくらいというのもすごいですね。しかも、健康になるというのですからいいですね。もし、そのまま東京が各家庭で行なっていたら、自給率が上がったでしょうが。
また、続きにはこんなことを言っています。「山野樹林の勝景に富める…四周の光景を風土として、総べて彼等の健康と衛生とに適せしめんと勉め、更に公会堂、倶楽部、美術館等をも設けて、…品位ある娯楽の趣味を進めしめんと期せり」この文章もなかなかいいですね。「四周の光景を風土とし」というのは、その地その地で見える範囲のものがその地の風土なのです。また、「品位のある娯楽」というのが気にいりました。どうも最近は、品位のない娯楽に興じる人が多いような気がします。そして、健康と娯楽の勧め、自然の中に生活することの幸福を提案したのです。
しかし、現実は、少し前のブログの写真のように、神田川に沿った上落合などの低地あるいは窪地には「トタン屋根」の貸家が並び、乱雑で無統制な郊外住宅だったようです。しかし、昭和になって、この貸家では、文化的に面白いことが起きます。

投稿者 fujimori : 22:35 | コメント (4)

2009年11月20日 地域を知る

田園

 よく、東京で山の手族といわれるような住宅街に住む人たちの暮らしぶりを指す言葉があります。それに対して、東京にも下町といわれる町があります。これは、地形の高低を指す言葉でもあったようです。その山の手には、江戸時代には武士が住んでいたのですが、明治になると、武士階級は消滅してしまいます。同時に、山の手の武家地は荒れていったようです。そして、そこには桑や茶が植えられ、田園化していきます。しかし、しばらくすると、維新の元勲、旧藩主、新興の実業家、新政府の省庁官員などが、山の手に庭付き独立家屋を建て始め、専用住宅街となっていきます。
 そんな時、日露戦争が起き、それに伴って日本の経済活動は急速に盛んになっていきます。それに伴い、著しい数のサラリーマンが目立つようになります。このころのサラリーマンは、次代の寵児になっていきます。彼らは、江戸時代の士農工商の身分制度の中の商人や職人とは違い、また、公爵や侯爵、伯爵、子爵、男爵などの「爵」を持っている人たちのような階層とも違い、中産階級とか市民階級とか、中間階級とか呼ばれるような「中流意識」をもって、社会的にも文化的にも政治勢力的にも新しい世界を作ることになるのです。この時の階級が、今の時代でも主流を占め、そうなることが出世のようになっていったのでしょう。そして、その階級の人たちは、住み方も変えていきます。彼らは、旧江戸市街はいっぱいになっていたので、山の手線の外側の農村地帯に居住を求めていくことになります。それは、都落ちという意識ではない、ある理論づけが行われます。「田園都市」というイメージです。ちょうど明治中期にイギリスで誕生したもので、過密化で環境が劣悪化した旧都市部から逃れ、田園地帯に新都市を建設することを提案したものです。この提案は、多摩ニュータウンを作るときにも参考にされました。私が、ニュータウン学会の理事を務めていたときに、その考え方を学びましたが、明治時代の山の手の形成のもとになっていたとは知りませんでした。
 この田園都市の考え方はとても面白いものです。それは、現在でも都市計画の分野では重要な計画哲学の一つに数えられているからです。この考え方は、イギリスのハワードという人が提案したもので、自然との共生ということで、都市と農村との融合を図るものです。そして、職住近接を訴え、役所や工場だけでなく、レクリエーション施設や文化施設をも含む街づくりです。しかし、実際は、この理想とは程遠い開発が行われていくのです。そのひとつが、園の近くの下落合付近につくられていった「目白文化村」(俗に落合文化村)なのです。
堤康次郎が開発した「目白文化村」と同時期に、もうひとつ分譲を開始した地区がありました。それは、渋沢栄一の田園都市株式会社がおこなった洗足地区で、その翌年には「田園調布」が売り出されます。郊外の生活は「田園都市」というスローガンのもとの「田園でも文化的生活」という言葉の中の「文化」をとった堤と、「田園」と採った渋沢が、今日の西武グループと東急グループとしてライバル関係になっていくのです。そして、田園調布がパリの街造りを模したのに対し、堤康次郎は目白文化村でロサンゼルス(ビバリーヒルズ)の街並みをめざしたと言われています。

投稿者 fujimori : 22:30 | コメント (4)

2009年11月19日 地域を知る

住宅街

 私の園がある下落合は、JR山手線の高田馬場駅の近くですが、この駅にはもうひとつの路線、西武線が走っています。その沿線には、西武球場があるのですが、西武と言えば、堤一族が浮かびます。堤康次郎は、滋賀県出身で、大正9年(1920)箱根土地(国土開発の前身)を設立する一方、鉄道事業にも乗り出し、土地開発・観光・ホテル・流通・レジャーなどの都市型第三次産業を展開する西武コンツェルンを築いた人として有名です。
 彼は、早稲田大学に在学中に、下落合に下宿していました。卒業後も、下落合の女性と結婚し、引き続き下落合に住んでいました。そして、下落合の住宅化に伴う土地の上昇に目をつけます。そして、資産運用のために土地の買収に乗り出したのです。そして、この地の大地主であった宇田川家から土地を買い上げ、「目白文化村」の分譲を始めるのです。それが、1922年(大正11年)でした。彼は、最初に箱根の強羅、仙石原と買収していったので、「箱根土地」という会社を立ち上げたのですが、その後軽井沢と買収していきます。そして、この設立と同時に、機関銀行として目白駅前の高田農相銀行を乗っ取りました。そして、本社を落合村上落合に持ちますが、目白文化村を開発する過程で文化村内の下落合(今は、中落合)に移転しています。
 話は突然変わりますが、ブログでもよく取り上げる「地産地消」という言葉を最近よく見かけます。その地域でとれた産物はその地域で消費しようという考え方です。それは、その地でとれた特に農産物は、その地方の気候、風土の中で育っているので、その地方の生活に適した効用を与えるのです。南方で育った果物は、熱くなった体を冷やす役目があるように、夏にとれる胡瓜も体を冷やす役目があります。同じように、私は「地産地活」ということを提案しています。その地域で育った人材は、その地域で活躍してもらおうという考え方です。やはり、その地域の風土が人を育てるために、その地域で生かされてくるのだと思います。それが、いつの間にか、都会に出て活躍するのが出世のように思い、しかも、そこでサラリーマンになるのがいいかのような教育をしすぎている気がします。いつか都会に出てきて、そこで職を得、そこに土地を求め、家を建て、家族を持つのが夢のように思わされてきました。人は、それぞれの違いを認め、それぞれの場で活躍することによって、社会を形成するものです。それがどうしてこのような社会になっていったのかを考えるためには、江戸から明治、大正、昭和とどのような土地に対する考え方か、どのように開発されていったのかを知るために、その特徴的な園の周りの下落合という場所から考えてみようとしたのです。
 まず、「目白文化村」を見ていく前に、江戸の町について考えてみました。ある人から、私と同じ名字の藤森照信氏の「落合における高級住宅街の成立」という切り抜きと、中島明子さんから、彼女と野田正穂氏との共著である「目白文化村」(日本経済評論社)という書籍をいただきました。それらによると、江戸時代の住宅地は、どのような封建都市も武士と町人(商人と職人)の居住地を分ける身分地域制を住政策の大本にしていました。その分け方は、ふつうは人為的に線を引く形であったのが、江戸だけは立地の特徴から、山の手台地には武家地が置かれ、下町低地には町民地が配されています。つまり、山の手方面には、江戸のサラリーマン階級とも言うべき武士のために、庭付きの住居併用住宅が発達し、下町方面には、商人と職人のために、棟の接した店舗併用住宅が発達します。土地の高低により住む人の職種が違い、また、住宅の様子も違っていたのが江戸の特徴だと言います。
 このイメージが、東京ではまだ残っているようです。

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2009年11月18日 地域を知る

近衛

 新宿下落合にある私の園の周辺は、山手線の目白駅と高田馬場駅の中間にあり、山手線の外側です。もともと山手線は、市街化地域を避けて、郡部の東寄りにつくられたために、窓から見える景色は、武蔵野の畑や雑木林や小川が眺められ、蒸気を吐きながら走るSL列車でした。ですから、当然、下落合は、都市近郊農村でした。
 そんな地域が、華族や資産家の別荘地になっていきます。その代表が、近衛邸です。江戸時代は、このあたりは酒井下総守の抱屋敷でした。明治になって、近江鉄道の取締役とか、大阪築港の主任であった西村氏などの所有になっていました。明治33年、近江篤麿が邸宅用の土地を探します。いろいろと探した結果、当時院長を務めていた学習院の移転先にも近く、神田川を南に望む高台の落合村の土地を購入することにしたのです。そして、家屋が完成し、翌年引っ越すのですが、3年後には亡くなってしまいます。その後、第34,38,39代内閣総理大臣を務めた長男の近衛文麿が相続し、住居として使用していました。
 しかし、第1次大戦後、住宅難が深刻化し、その原因と責任は少数の家族や符号が広大な土地を占有してしまっているという世論を受けて、1922年(大正11)に、下落合の広大な近衛邸敷地が、一般に売りに出されます。園から少し行ったところに、今も「近衛町」分譲当時の道路が残っています。
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以前紹介した御留山は、近衛邸敷地の一部でしたが、相馬子爵邸用の敷地としてすでに売却していましたので、そのほかの敷地ほか、近衛家が所蔵していた刀剣をはじめとする文化財もオークションにかけられます。それは、時代の変化というだけでなく、父篤麿が残した借財が200万(現在の価格でいうと約18億)あったからですが、書画骨董だけで143万にはなったものの、土地も手放さなければならなかったのです。
 このとき、売却にあたったのは、東京土地住宅(株)でした。その常務取締役・三宅勘一は、箱根土地(株)の堤康次郎とはライバル関係にありました。彼は、この土地を坪54円50銭で譲り受け、道路や下水などを整備して坪68円50銭(現在の価格で約15万)で売却します。ずいぶん安く売却したものですが、当然、瞬く間に完売したそうです。それは、彼は、この地を「近衛町と命名して一つの文化郷を建設すべく」という思いがあったようです。しかし、東京土地住宅による近衛町の造成・販売宣言から、わずか3年後の1925年(大正14)、同社は経営に行きづまり近衛町の分譲事業のほとんどを、ライバルの箱根土地へ譲渡してしまうことになるのですが。
このような経緯の中で、もうひとつ、当時をしのぶ建物が残っています。それは、大正末期まで近衛公爵邸のあった地に、宮内省が学習院旧制高等科に通う男子生徒のための寄宿舎として1928年(昭和3年)に建設したもので、当時は「昭和寮」と呼ばれていた建物です。その後、昭和28年(1953)に日立製作所の所有となり、日立目白クラブとなっています。この建物は、宮内省の設計ですが、白い壁と赤いスペイン瓦、縦長のアーチ窓や建物の外観は段々状に変化をもたせ、その先に高く伸びた煙突があり、とてもしゃれた建物です。
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 近くの歴史が、日本の動きに連動し、また、よく調べると、いつもコメントを書いてくださる島根や香川にも関係することが出てきて、びっくりします。その面白さは、学生のころは気がつきませんね。

投稿者 fujimori : 21:22 | コメント (5)

2009年11月17日 地域を知る

目黒と目白

 私の園は、山手線で言うと、高田馬場駅と目白駅の間にあります。また、私の出身中学校は神田駅にありました。ずいぶんと、山手線を利用しました。その山手線は、今年10月で「山手線」という名称が誕生して100周年を迎えました。そこで、JR東日本では「山手線命名100周年」を記念した各種企画を計画していますが、その一環として9月7日から12月4日まで“復刻調ラッピング電車”を運行しています。1編成しかないので、私はまだ乗っていませんが、この車両は、昭和30年代に運転されていた旧型国電を模した「ぶどう色2号」のカラーをE231系500番代1編成にラッピングしたものだそうです。
日本初の官営鉄道が新橋から横浜まで開業したのは、よく知られている通り、明治5年(1872年)10月15日でした。その後私鉄の日本鉄道によって、自社の東北線を連絡する路線として、上野から高崎までの間を開業した翌年の明治18年(1885年)3月1日に、日本鉄道品川線として、品川から赤羽までを開業させたのが、現在の山手線の始まりです。当時日本鉄道は、上野を起点として青森に至る路線(現在の東北本線)を建設中でしたから、その建設のための資材は、品川で陸揚げしていたため、どうしても鉄道で運ぶ必要があったのです。そのため、当初の開業区間は品川から赤羽でした。
その後、明治36年(1903年)に池袋から同社の東北線の田端に接続する支線が、開業して、分岐点駅として池袋駅が出来ました。そして、この池袋から田端間の路線は、日本鉄道品川線豊島支線と呼ばれました。そして、明治39年(1906年)に日本鉄道は買収され国有化となり、明治42年(1909年)それまでの品川線と豊島線をまとめて山手線と改称されました。そして、当初設けられた駅は、板橋、新宿、渋谷の3駅だけであり、いずれも、中山道、青梅街道、甲州街道、大山街道と当時の主要な街道との交叉点に設けられました。そして、駅名には、所在地名で宿場町として知られた板橋などの地名が付けられたのです。
開通後すぐに、清戸道(現在の目白通り)との交叉点には目白駅、二子街道との交叉点には目黒駅が増設されました。目黒駅は、そのあたりの地名が江戸時代の落語の題材である「目黒のさんま」でも有名ですが、その地名を駅名にしています。
それに対して園がある目白は、もともとはそんな地名はなかったようです。山手線が開設当時は、「密林に蔽はれた丘陵と田畑とで、窪地には小川が流れ…冬の夜には狐が啼き、追剥が現はれて通行人の所持品を奪ふた事も度々」と豊島区史にあるようにいくら清戸街道沿いとはいえ、寂しいところだったようです。そこで、駅を作るにあたって、その知名度を高めようと、もともとその地の地名であった高田とか落合を使わずに、江戸時代から名所のひとつと数えられ、庶民の信仰を集めていた目白不動堂の最寄りの駅であること、また、もうひとつこの時に一緒に増設された駅名が目黒であったことから目白の名前が選ばれたそうです。目黒駅の近くにも目黒不動尊があり、五色不動に由来する駅名が二つ一緒に誕生したのです。
この山手線が旅客線として急成長をするようになったのは、この線とほかの路線との接続でした。そのため、山手線の利用者は年々増加して行きました。そして、大正8年に、当時の開業路線の中央線、東海道線、東北線の線路をつなぎ、中野~新宿~東京~品川~池袋~田端~上野に至る「の」の字運転が開始されました。最初は、環状運転ではなく、今の大江戸線のようだったのですね。それが、6年後の大正14年に上野~神田の高架線が完成し、現在の環状運転が開始されたのです。
そして、この地にも聖母病院のような建物が建てられていくのです。

投稿者 fujimori : 22:51 | コメント (5)

2009年11月16日 地域を知る

ヒンデルと聖母

 何気なく日常見ている建物にも、歴史的に素晴らしい建築があるものです。私の園がある落合は、歴史が古く、昭和初期の貴重な建物が残っています。また、その後改築されていますが、一時期歴史を刻んだ建物もあります。
 園の近くに、園児がたまに行く総合病院に社会福祉法人聖母会が運営する聖母病院があります。
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この病院は、特に産科に定評があり、年間の分娩件数は約1700~1800件と全国でも有数だそうです。また、その系列に、看護系大学の聖母大学があります。また、この病院は、帝銀事件の被害者が収容された病院です。帝銀事件とは、最近の若い人は知らない人が多いと思いますが、戦後間もないころの1948年(昭和23年)1月26日に東京都豊島区の帝国銀行(後の三井銀行。現在の三井住友銀行)椎名町支店で発生した毒物殺人事件で、未だに多くの謎が解明されておらず、解決していない事件として有名です。この事件が起きた豊島区椎名町は、聖母病院の近くであることから患者が運ばれたのでしょう。
 この病院は、まず1929(昭和4)年に、聖母会の前身である「マリア奉仕会」が病院建設に着手します。その設計をヒンデルに頼み、本館が建築され、1931(昭和6)年「国際聖母病院」として開院します。その後、1943(昭和18)年に「聖母病院」へ改称します。ヒンデルは1887年、スイス・チュ-リッヒに生まれました。幼いころから建築家を目指し、下級ギムナジウム修了後、ヨーロッパ各地の設計事務所で修行したようです。その後独立し、チューリッヒに設計事務所を開設しました。 1924年、日本の北海道帝国大学予科でドイツ語教師をしていた義弟を頼って来日し、北海道の永住を決意し、札幌に夫人とともに移り住みます。北海道では、3年間在住。教会関係の作品を中心に16余りを設計し北海道の近代建築の開拓者といわれました。義弟の死をきっかけに 1927年、横浜市本牧に転居し、東京・宇都宮・名古屋など各地に作品を残します。 1940年にドイツに帰り、1963年、バイエルン地方レーゲンで亡くなりました。
日本で16年を過ごす間に、およそ30件の作品を手掛け、今なお親しまれている建物が数多くあります。北海道で残した作品は、聖フランシスコ修道院、大野邸、北星女学校教師館、北大手稲山パラダイスヒュッテ、北大ヘルヴェチアヒュッテなどのほか、あの有名な函館の天使の聖母トラピスチヌ修道院などの作品は今も現存しています。
横浜に移ってからは、現存している作品として、前述の園の近くの聖母病院を初めてして、札幌に旧秩父宮殿下ヒュッテのほか、上智大学旧館や南山中学などの作品などを残しています。
 昨日の日曜日、あるところで、昭和30年の時の聖母病院の写真を見ました。
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ヒンデル設計の建物を見ることができますが、その建物の素晴らしさに対して、その前の方の家々の建物にびっくりしました。今、園が建っている周辺の風景は、そのような建物が並んでいたのですね。それにしても、その姿の変わりようはすごいですね。立派な建物は逆にあまり変わりはありませんが、庶民の住宅はずいぶんと変わったものです。このころの日本の貧困率が高いと言われても納得したと思いますが。
 その後、聖母病院は、昭和38年、増築工事の完成とともに総合病院となり、昭和60年、エレナ棟の増築および外来棟改築工事を行い、平成16年4月には新館が完成しています。変化に富んだ屋根の形が楽しい建物です。

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2009年10月17日 地域を知る

安兵衛

地名を聞いて、何を連想するかということで、年代がわかります。私の園がある「高田馬場」と聞いて何を連想するでしょうか。現在のJR高田馬場駅の発車メロディーは、鉄腕アトムの旧シリーズのテーマ曲ですが、それは手塚治虫が社長を務めた手塚プロダクションが高田馬場にある事と、お茶の水博士が長官を務める『科学省』が高田馬場にあったという設定から選定されています。また、学生の人からは、早稲田大学の町という印象があります。駅を出たところの通りは「早稲田通り」といい、早稲田大学に通じています。その道沿いには、古本屋やあの漫画のフクちゃんもかぶっている「早稲田帽」といわれる角帽を売っている店もあります。しかし、今はほとんど学生相手の飲食店が多いのですが。
しかし、駅名は、赤穂浪士四十七士の一人堀部安兵衛の伝説となっている決闘があった事で知られている高田馬場から取っています。しかし、この決闘は講談などでよく語られていたために、今での若い人はほとんど知らないようです。また、私の年代でも、堀部安兵衛が駆けつけた場所というくらいの認識しかありません。しかし、先日岡山から姫路に向かう途中、赤穂に寄った時に改めて堀部安兵衛のことを思い出しました。
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私がうろ覚えしている講談での名文句「ひた走る堀部安兵衛」の下りの高田馬場の決闘は、元禄7年(1694)2月11日といわれています。
だいたいの話は、中山安兵衛が、叔父・甥の契りを結んだ菅野という人の決闘に駆けつけて助太刀に入り、相手を十六人斬りしたというものです。なぜ、駆けつけなければならなかったのかというと、決闘相手が菅野を慌てさせる為に直前に決闘状を投げ入れたところ、菅野は、決闘に遅れては武士の恥とすぐに行こうとしますが、その前に叔父甥の契りを結んだ安兵衛のところに別れを告げに行くと、安兵衛は前の晩から飲んでいて、別の場所で酔いつぶれて眠っていて留守でした。そこで仕方なく菅野はその場で文を書いて残していきます。昼近くなってから目が覚めた安兵衛が、菅野の文を読むや「すわ一大事」と慌てて走って、走って、走って、高田馬場までひた走るのです。
それがなぜ赤穂浪士の一員になったのかというと、この決闘を見ていた赤穂家の家臣であった堀部弥兵衛という人が、安兵衛をぜひ自分の養子になって欲しいと熱心に頼みます。その熱意にほだされて、安兵衛は堀部の家に養子に入り、堀部安兵衛となります。その7年後の(1701年)元禄14年に赤穂藩主浅野内匠頭長矩の刃傷事件が起きるのです。そして、その翌年、赤穂浪士による吉良邸討ち入り事件が起きます。
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この決闘の場であった高田馬場には、旗本達の馬術の練習場であった馬場がありました。享保年間には、この馬場の北側に松並木が造られ、農民たちが多く訪れたため8軒の茶屋が有ったといわれています。この馬場の一角の茶屋町通りに面したところが安兵衛が叔父の菅野六郎左衛門の決闘の助太刀をしたとされるところです。
そんな高田馬場ですが、先日の新聞にこんなことが掲載されていました。私の園は、高田馬場から目白に向かったところにあるのですが、JR山手線の高田馬場駅から目白駅の間には、車窓から富士山を眺めることができた唯一のスポットがありました。大気が澄んだ冬の早朝などに車窓から南西の方角を見ていると、ビルの間にほんの1秒足らずでしたが、頂上周辺が垣間見え、希少な眺望だということで人気を集めていました。それが、今年の夏以降、商業ビルが建設され、見えなくなっていることが分かったというニュースがながれたのです。
 高田馬場も変わっていきます。

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2009年09月22日 地域を知る

弥生

 昨日のブログで取り上げた弥生美術館は、文京区弥生町にあります。しかし、この辺は江戸時代には水戸藩の中屋敷で、町名は付けられていませんでした。明治になってこの地が政府に収用された時にもなかったのですが、明治5年、町家ができはじめて町名が必要になりました。さあ、なんという町名にしようかと迷ったときに、たまたま旧水戸藩の廃園に、水戸斉昭の歌碑が建てられており、そこにはこのような歌が刻まれていました。「ことし文政十余り一とせといふ年のやよひ十日さきみだるるさくらがもとに」という文章があったことから、そのなかの弥生をとり。向ヶ岡弥生町になったのです。上野の森は、かつて「忍ヶ岡」と呼ばれていました。そのこちら側が、忍ヶ岡の向こうということで「向ヶ岡」です。
弥生とは、もちろん3月のことですが、「弥」とは、「いや」ということで弥栄(いやさかえ)と使うように、ますますということで、生は「生ひ」のことで、生育のことです。ですから、「弥生」とは、草木がますます生ふるということになり、絵縁起の良い言葉です。しかし、水戸斉昭は歌の中でさくらの美しい向ヶ岡の地に「向岡記」碑が3月に建て建てられたと詠んだだけですので、特に弥生には意味がなかったのですが、この町名はのちに日本中に知られることになります。
それは、明治17年、東京大学の有坂鉊蔵、坪井正五郎、白井光太郎の3人が、根津谷に面した貝塚から赤焼きのつぼを発見、これが「通常の貝塚発見土器(縄文土器)とは異なる土器」と認められ、新しい様式の土器の発見となったのです。この土器の名前を、発見地の地名を取って「弥生(式)土器」と名付けられたのです。
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そして、この名前は、稲作文化を象徴する「弥生時代」という「縄文時代」に対応する時代区分になったのです。そして、日本中の人が学校で習うことになり、弥生という名前が知れ渡ったのです。
司馬遼太郎氏は「街道を行く」の中で、根津駅から弥生坂をのぼった向ヶ岡近辺について次のように記述しています。「弥生というような稲作文化の象徴のようなことばをもつ町名から、稲作初期の土器が出て、弥生式土器となづけられた。まことにめでたいといわねばならない。」これは、弥生という言葉が3月頃に草木がますます生えてくるということから、稲作が盛んに行われてきた弥生時代と重ねて感慨深かったのでしょう。
 この向ヶ岡の向こうには、先に書いたように、かつて忍ヶ丘と呼ばれていた上野台地と本郷台地の間にあった地名がありました。この忍ヶ岡に対して忍の池となり、それが次第に不忍池となったという説が有力ですが、そのほかにも、10くらい説があるらしいのですが、おもなものに、忍ヶ岡の下にある池という理由で「不忍」の池と呼んでいたとか、「新編武蔵風土記稿」には、周囲に笹が多く茂っていたことから篠輪津(しのわず)が転じて不忍になったという説が書かれてあり、「望梅毎談」には、ここで男女が忍んで逢っていたからという説が書かれてあります。
この池は、中央の弁天島を中心に大きく3分割されています。蓮池、ボート池、鵜の池にと遊歩用の土手で仕切られています。昨日訪れた時、ボート池では多くの手漕ぎボートに混じって、足漕ぎボートのスワン型ボートも家族を乗せて所狭しと泳ぎ回っていました。
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2009年09月19日 地域を知る

沖縄の菓子2

 このブログは、毎日書くことでネタを探すのは大変です。何を取り上げるかだけではいろいろと見つかるのですが、それを書くことで、最後どのような結論に持っていくかという見通しがなければ書き出せません。そのために、身の回りのいろいろなことに注意深くなります。普通でしたら見逃してしまうことも、注意深く見ます。最近の癖で、何かを見るたびに、これをブログで書いたらどういう展開になるだろうと考えながら見ていることが多くあります。
 また、ブログを書くことで、普段何気なく思っていることを確認するということがあります。これは特に子どもや保育に関することです。電車の中や園でいろいろと保育を考えることが多いのですが、それを文にあらわすことで忘れないように残すという役割があります。また、原稿を頼まれた時、改めて原稿を書く時間がないことが多いので、ブログにそのテーマで何回か書いておくと、それをつなぎ合わせるだけでいいので楽になります。突然、専門的な話題になるときブログのときは、たいていそういうときです。
 もうひとつ、普段は聞き流していることを、ブログを開くことではっきりと定義しようということができます。たとえば、昨日の「ちんすこう」というテーマも、改めてその意味とか、作り方を一度きちんと整理しておこうという趣旨があります。そんなことで、今日ももう一つの沖縄の菓子の「サーターアンダギー」を考察します。
 先日、沖縄に行ったときに「琉球村」に連れて行ってもらいました。ここは、「沖縄を見て感じる」というテーマで沖縄の文化・芸能・自然を見て体感できるテーマパークです。ですから、小学生たちが多分、総合的学習としてだと思いますが、メモ帳を首から下げて大勢来ていました。この村では、「工芸品を作る」「おばあと語る」「沖縄の文化を学ぶ」ということで、様々な体験ができます。そのひとつに「本格!サーターアンダギー手作り体験」というものがあり、文化財にも指定されている、園内の古民家「旧玉那覇家」の中で本格的な作り方を習って一緒に作ります。私たちは、時間がなかったので体験はしなかったのですが、ここでおばぁが大きな釜で揚げてくれたとっても大きく、握り拳くらいはあるサーターアンダギーを買って食べながら村内を歩き、お土産にもいただきました。
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サーターアンダギーとは、遠く中国から伝わったボール状の揚げ菓子で、低温の油でゆっくり揚げる際に、まず球状に表面が固くなり、そのあと内部の膨張に従って球状の表面が割れ、花が開いたように見えることから、結納や結婚などの祝いの席に出され縁起のよい菓子とされています。また、その形がまるで笑っているかの様で開口笑、開口球とも言われています。首里方言で「サーター」は砂糖、「アンダギー」は「アンダ(油)」+「アギー(揚げ)」で「油揚げ」、揚げ物を意味します。最初、地元の人が「砂糖天ぷら」と言っていて何のことかわからなかったのですが、その名の通り砂糖を多めに使用した球状の揚げドーナツだからのようです。
小麦粉に鶏卵、砂糖を混ぜ、適量を丸めて低温の油で数分間あげるだけでできるのですが、砂糖には沖縄名産の黒砂糖を使うことが多いようです。この黒砂糖は、昔は水牛が機械をまわして原料のサトウキビを搾っていました。ここ琉球村ではその作業を見ることができました。
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2009年09月18日 地域を知る

沖縄の菓子1

 先日、沖縄を訪れたときに、手作りのお土産をいただきました。沖縄は、独特の文化があり、食材にしても、料理にしても、ずいぶんと珍しいものがあります。今では、行き来をする人が多くなりましたが、以前は、なかなか口にする機会のないものが多くありました。
 お菓子の中で沖縄を代表するものに「ちんすこう」と「サーターアンダギー」があります。空港などのおみやげ物屋には、いろいろな種類が並んでいますが、どちらもそれぞれの家庭で作られ、それぞれの家庭の味があるようです。今回は、手作りの「ちんすこう」をお土産に頂きました。
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ちんすこうは、サクサクとした食感と、かるい甘さで、お茶、コーヒー、紅茶となんにでもあうおいしいお菓子ですが、誰かが沖縄に行くと必ず買ってくるお菓子なので、またかという思いがしてきている人もいるようで、最近は、ポピュラーなプレーンを始め、沖縄を代表とする食材を使ったパイン、紅芋、黒糖などもあり、人気のあるものとして「塩ちんすこう」も多く並んでいます。
 しかし、改めて「ちんすこう」という名前を考えてみると、奇妙な名前ですね。その名前の由来ははっきりしていないようで、おもなものに2つの説があるそうです。「すこう」は沖縄の方言で「お菓子」という意味ですが、「ちん」は「珍」から来ているということで、「とても珍しい貴重なお菓子」 という意味であるという説と、「ちん」は「金」ということで、「とても高価なお菓子」という意味であるという説があります。どちらにしても、ちんすこうは、琉球王朝の王侯貴族だけしか食べることができない宮廷菓子で、 一般人は食べることができないお菓子だったようです。
見慣れているちんすこうの形は、クッキーを一口サイズの細長い形ですが、今回いただいた手作りのものは、マコロンのようなきれいな丸い形をしていて、とてもおいしく、私の園の職員はみんな自分たちもつくれるかと話題になっています。作り方は比較的簡単で、およそ20個分として「 ラードを常温に戻し、ボウルに入れて薄力粉(200g強)をふるってクリーム状になるまでよく混ぜ合わせる」「これに砂糖100gを入れ、さっくりと混ぜ合わせる」「整形してオーブン(170℃で15~17分)で焼く」とシンプルですが、おいしく作るには、熟練がいると思います。
ちんすこうは琉球王朝時代に中国から伝わってきたお菓子と言われていて、もともとは「蒸しカステラ風」のお菓子で、今のようなスタイルになったのが、100年位前で、それまで蒸していたちんすこうを試しにレンガ釜で焼いてみたのが始まりだと言われています。もう一つの説は、ポルトガルの焼き菓子として知られるボーロがシルクロードや海路を通じて伝わったというものがあります。また、スペインに古くから伝わる祝い菓子のひとつポルボロンは、材料や食感の面でちんすこうとの共通点が多いようです。
長崎が、オランダやスペインかいろいろと学んできたように、沖縄でもオランダやスペインの影響をずいぶんと受けている感じがします。しかし、元が同じでもその地域の風土や気候にそって工夫、改良され、その地にあうものになっています。
日本人は、もともとはこのような改良、工夫をする力に優れている国民だったのです。

投稿者 fujimori : 23:57 | コメント (4)

2009年08月10日 地域を知る

山車

 昨日の新聞多摩版にこんな記事が掲載されていました。
「関東有数の山車まつりと称される「八王子まつり」が、八王子市内で開かれている。最終日の9日には市内各地で山車の辻合わせが行われ、クライマックスを迎える。戦災で山車が焼けたが、70年代に地域住民が再建し、活気を取り戻した。市の有形文化財の11台を含む計19台の山車が登場する。9日は甲州街道(国道20号)で重さ約4トンの大みこしが披露され、おはやしの競演なども行われる。」
 この八王子祭りは私が住んでいる八王子のお祭りです。ほかの地域のお祭りだけでなく、地元のお祭にも行ってみようということで、昨日の日曜日に妻と二人で山車を見に行きました。この祭りはかなり歴史があります。八幡八雲神社祭礼を「下の祭り」、多賀神社祭礼を「上の祭り」として江戸時代中期から明治中期にかけて人形山車の祭りとして行われていて、300年以上の歴史があります。そして、明治中後期以降は、彫刻を全面に施した彫刻山車の祭りとして、関東一円に名声を博していました。しかし、昭和20年の戦禍に会い、8台の山車が消失してしまいました。今は、焼失した山車も再建され、昭和41年に上と下の祭りが統合され八王子まつりとなったのです。また、近年では伝統の「下の祭り」「上の祭り」の復活が呼びかけられ、神事はそれぞれの日程で巡行を分けて行われています。
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今、NHKの朝ドラで「つばさ」という川越を舞台にしたドラマが放送されていますが、そこでも川越祭りが放送されます。川越が江戸の北の守りであれば、幕府領であった八王子は幕府の西の砦でした。ですから、江戸時代に八王子と川越を中心として山車祭りの文化圏が築かれていったのです。八王子の山車には外観が三通りあります。一本柱建て人形山車、二・三層鉾山車、入母屋造り堂宮形式です。山車は、様々な彫刻を施し、山車のよっては屋根の上には様々な人形が飾られています。その人物は、「神武天皇」「織田信長」「浦島太郎」「雄略天皇」「応神天皇」「素戔嗚尊(スサノウノミコト)」などです。
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山車のもうひとつの特徴は、山車の後ろで山車ごとの特徴のある祭囃子が行われていて見る人を楽しませてくれます。もともと民俗芸能である神楽とそれに付随する音楽である囃子は昔から各地域にあるそれぞれの祭に密着して発展してきています。その神楽の起源は、出雲に始まり埼玉の鷺宮を経て江戸に入り、江戸中期に現代の江戸里神楽の形になりました。神楽の内容は神話や神社の縁起などを仕組んだものが数多かったのですが、江戸に入ってからは茶番風の滑稽なものが盛んに演じられるようになり、庶民のたのしみとなりました。それら神楽の演目の中で、特に下町では庶民的な親しみを見せる「おかめ」「ひょっとこ」「狐」の出しものなどが喜ばれています。山車の後ろでは江戸祭囃子の笛、太鼓による祭囃子は祭りの雰囲気を盛り上げます。また、この奏者や演じ手たちは、他の邦楽と違って、祭りを主催する神社や寺社の氏子や檀家である一般人の場合が多いのは、氏子や檀家が祭りのために練習をし、祭りのときのみ演奏されてきたものが多いためであり、地域に根付いて伝承されてきた音楽であるという特徴のためである。また、奏者に少年少女が多く見られます。
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 上手に、一生懸命に踊っている少年少女を見ていると、伝承文化は継承されていっていることを実感します。

投稿者 fujimori : 23:07 | コメント (4)

2009年07月22日 地域を知る

馬車道

 海の日に「開港博」に行くときにみなとみらい線で「馬車道」という駅で降りました。この町はとても由緒のある街です。昨日のブログで書いた日米和親条約の締結後、日本初の総領事として赴任したハリスの強硬な要求により「日米通商修好条約」を結びます。これによって貿易のため横浜港が開かれたのが横浜開港記念日なのですが、そのとき同時に関内に外国人居留地が置かれました。その関内地域と横浜港を結ぶ道路のうちの1つとして開通したのがこの馬車道なのです。その頃、外国人はこの道を馬車で往来していましたので、「異人馬車」と呼んでいました。それから「馬車道」と呼ばれるようになったそうです。その名残として今でも馬車道十番館の入り口あたりに、馬の水飲み場が残されています。
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また、この道は日本の外国文化への玄関口でもありましたですから、横浜には様々な「日本初」というものが多く見られます。開港博の中で「横浜ものがたり」というブースで、横浜から全国に伝わったさまざまな「はじめて」が紹介されています。その多くは、この馬車道から生まれており、その碑がたくさんあります。
まず有名なのが、「ガス灯」で、日本初のガス灯が、明治3年フランス人技師の手で設計されました。そして、「アイスクリーム」の発祥は、町田房造の氷水店で、明治2年の夏に初めて「あいすくりん」の名前で売り出されたものです。一人前の値段は2分(現在の価値で約8000円)と大変高価であり、当初は外国人にしか売れなかったそうです。今では、5月9日がアイスクリームの日で、馬車道では無料で街に来た人に「馬車道あいすくりん」を配っています。また、慶応3年、馬車道の各商店街が競って、柳や松を植えたのが「近代街路樹」の始まりといわれています。また、この道は個人の馬車だけでなく、「乗合馬車」も走っていました。明治2年、日本初の乗合馬車が、吉田橋から東京まで2頭だて6人乗りで走りましたが、東京まで約4時間かかったといわれています。
そのほかにも、明治元年、日本人として最初の写真家下岡蓮杖によって写真館「相影楼」が開かれたり、明治3年12月8日、日本で初めての日刊新聞「横浜毎日新聞」が創刊されています。
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そんな街を大切にしようということで、馬車道商店街(周辺)では「馬車道協定書」という、景観を守り、地域をより良くするため、街造りの協定が結ばれています。その理念として第1条には、「馬車道は、“日本の異国文化発祥の地”として、開港横浜の歴史・文化を大切にするとともに、新しい文化を提案する」と書かれてあります。協定書にはハードとソフト両面から提案されています。ハードでは、歴史資産を保存・修復などや歩行者空間の提案をしています。景観として、カラーリング提案もされていて、ベーシックカラー「緑・茶・黒・白」と、サブカラー「アクセントカラー」が定められています。
ソフト面として、「街で楽しむソフト」として、人と人、文化と文化、国と国が出会う“人間交流”の街として、“街での時間消費を楽しむ”ためのソフト機能の充実と、「家に持ち帰るソフト」として、異国文化・西洋文化の発祥地として、“馬車道が提案する生活文化を、人々の生活の中に持ち帰り楽しんでもらう”ための生活提案ソフト機能の充実が提案されています。
この協定書は、園作りにも参考になりそうです。

投稿者 fujimori : 22:09 | コメント (4)

2009年07月12日 地域を知る

よく外国がいいとか、昔がよかったという人がいます。逆に日本が素晴らしいとか、今の時代が素晴らしいという人もいます。しかし、今を生きる私たちは、今をよくする必要があり、そのために外国のことや昔のことから学ぶ必要があるのです。外国にはその国の歴史や風土の中ではぐくまれた文化があり、昔にはその時代に必要な文化が形成されているのです。
薩摩の郷中教育や会津の什教育における子ども同士のかかわりから学ぶシステムは、意味の時代でも学ぶべきところがありますが、そこで教えていた内容は必ずしも今の時代にそのまま通用するものではありません。そのことを踏まえ、薩摩と会津での教えを見てみたいと思います。
薩摩の郷中教育の訓えには、「九ヶ条之掟」というものがあります。「忠孝を旨とし 文武の鍛練を励め」「礼儀をわきまえ郷中の団結を心がけよ」「山坂達者(山を走って足腰を鍛える)を励め」「何事にも詮議を尽し方針が定まった後は異論を立てず言い訳をするな」「嘘をつくな。弱音を吐くな」「卑怯な振る舞いはするな。短気を起こすな」「弱い者をいじめるな。目上を重んじ親に反抗するな」「無刀で門外へ出てはならない」「脇差一本を身に付けて町の辻角をまわるな」「いかなる時でも刀を抜いてはならない。抜けばただでは鞘に納めるな」の九つです。この中で、今でも子ども集団を形成するうえで必要な事柄がいくつかあります。「礼儀…」と「何事…」「嘘…」「卑怯…」「弱い者…」などでしょう。
一方、会津では6歳から9歳までの幼年者は、地域ごとの組に振り分けられました。これらの組は「お話の什」または「遊びの什」と呼ばれ、子ども同士の「遊び」のなかから、年長者への礼儀やさまざまな知識を身につけさせようというのが狙いでした。そのために子どもたちは、「什」の誓ひ(掟)」というのを大声で復唱します。「年長者の言ふことに背いてはなりませぬ」「年長者には御辞儀をしなければなりませぬ」「虚言を言ふことはなりませぬ」「卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ」「弱いものをいぢめてはなりませぬ」「戸外で物を食べてはなりませぬ」「戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ」これら7カ条に加えて「ならぬことはならぬものです」というのがあります。
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会津といえば、10歳になると入学が義務付けられていた「日新館」という藩校が有名ですが、そこに入る前の6歳から4年間、「什」で過ごし、藩士としての心得が繰り返し教え込まれました。その教育の方法が薩摩の郷中教育と同じような子ども同士の学び合いがあったのです。町内の区域を「辺」という単位に分け、辺を細分して「什」という藩士の子弟のグループに分けました。什とは「十人」を一単位とする組織のことですが、別に必ずしも十人というわけではなく、人数はまちまちだったようです。この什には藩士の子弟といっても身分差別は全くなかったようです。什では「什長」というリーダーが選ばれ、什長は毎日、什の構成員の家の座敷を輪番で借りて、什の構成員を集めて「什の掟」を大声で復唱します。
このように、薩摩と会津の教育制度は、非常に似通っており、両藩ともに少・青年期において、居住する町内においてお互いの学び合いを行っているのです。そして、その学びには、子どもたちの自活的な活動があったのです。

投稿者 fujimori : 22:51 | コメント (4)

2009年06月30日 地域を知る

楽器

昨日の朝日新聞のコラム「天声人語」に、東京紙面の声欄で掲載された「母の音色した53年前の木琴」について触れています。声の蘭への投稿内容は、「投稿者の男性(60)が小学2年の時、母親が木琴を買って教室に届けてくれた。過日の物置整理でそれに再会した」というもので、その男性は再会した木琴を雑巾でふき、「どれみふぁそらしど」の文字が現れた鍵盤で「荒城の月」の冒頭を奏でたという記事です。その記事に連想して、天声人語では、約3万5千年前の楽器がドイツの洞窟で見つかったという記事についても触れています。その笛は、ハゲワシの骨に五つの指穴を開けた、22センチほどの笛です。この笛から、このようにコラムは続けています。「かすかに曲がった細い管を抜ける音には、誰のどんな記憶が宿るのか、興味は尽きない。破片をつないだ笛はあいにく、息を吹き込むにはもろすぎよう。最古の楽器は意外に広い音階を持つらしいと、想像するしかない。洞窟の住人は、肉を食べ骨をしゃぶりながら、音を操る技をわがものにしたようだ。どんな音色にせよ、節をつけて鳴らすことにある種の快感が伴ったと思われる。旧石器時代、生活の傍らにすでに音楽があったことになる。同じ場所では先に、マンモスの牙でこしらえた最古の裸婦像が出た。骨笛もまた、芸術の起源か、信仰や呪術の道具だったのだろう。戯れから娯楽が生まれ、やがて美意識や祈りに昇華する。そんな「音の出世」は確かにあるけれど、記憶の入れ物、運び手としての役割も心にとめておきたい。ほこりまみれの木琴に、大切な人を過去から招く力が潜むのだから」
 このコラムを読んで、私は、以前講演先で連れて行ってもらった先で見た石の木琴(石琴)を思い出しました。そこは、香川県五色台です。そこから見える瀬戸内海は、点々と島影が見えます。
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しかし、今から1万年以上前、日本列島は大陸と陸続きで、現在の瀬戸内海も所々に沼や湖などのある平原だったと考えられているそうです。当時の人々は主に狩猟による生活を営んでおり、そのための道具として石を打ち欠いてつくった石器(打製石器)を使っていました。当然、よく使う石は、そのあたりで取れる石を使うことが多かったでしょう。しかし、黒曜石のように特殊な形に割れる石は、各地に伝わることもあったようですが。ここ五色台や坂出市の金山などで産出する石は、うまくたたくと薄く割れ、その割れ口が刃物のように鋭くなるので、石器の材料としてたいへん優れていました。ですから、ここで産出される石を使った石器は県内だけでなく、西日本の各地で出土しています。
 そんな石を当時の人は石器に使っているときにあることに気が付きます。叩いてみると、いい音がするのです。特に、固いもので叩くと高く澄んだ音がします。そして、音の違う石を並べると音階ができます。sekikin.JPG
この香川県だけに産出する自然石を、1891年ドイツの地質学者ヴァインシェンクが「讃岐〔さぬき〕の岩」の意をこめ「サヌカイト」と命名しましました。木槌で叩くと神秘的で澄んだ美しい音を奏でるところから、地元では「カンカン石」と呼ばれています。そして、2007年、日本の地質百選に選定されました。
 今でも、その澄んだ音の為に玄関のベルの代わりに使われたりしていますし、楽器としての演奏者も存在し、コンサートも開かれていたり、香川県の公共施設のBGMで流れているそうです。また、サヌカイトの風鈴なども作られていて、癒しグッズの一つとして販売されています。
 天声人語ではありませんが、「戯れから娯楽が生まれ、やがて美意識や祈りに昇華する」一つの例でしょう。

投稿者 fujimori : 23:40 | コメント (4)

2009年05月23日 地域を知る

西洋文化

 大分にザビエルがもたらした文化の中で、いくつか子どもに関することがあります。昨日のブログで紹介した日本での「西洋外科手術発祥」である病院を開院したアルメイダは、そのほかにも素晴らしい事業を残しています。それは、遊歩公園の途中にある「育児院と牛乳の記念碑」に書かれてあります。その記念碑の横には、こんな趣旨の説明が書かれてありました。
「日本最初の洋式病院を建てたポルトガルの青年医師アルメイダが、ここ府内(大分市)に来た当時の日本は戦乱が続き、国民の中には貧窮の余り嬰児を殺す風習があった。これを知ったアルメイダは自費で育児院を建て、これらの嬰児を収容し乳母と牝牛を置いて牛乳で育てた。これは、近世における福祉事業の先駆である」
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 ルイス・デ・アルメイダは、当時の日本で貧しさゆえに広く行われていた赤子殺しや間引きの現実にショックを受けます。そこで、まず、豊後府内で一軒の家を入手します。そして、乳母を雇い、牛を飼い、牛乳で赤ん坊を育てようとしたと伝えられています。ですから、そこにある碑には、「牛乳の記念碑」とも書かれてあるのですが、「牛乳の碑」は、静岡県の下田にもあります。江戸末期、アメリカ領事のハリスが、日本で「牛乳を飲みたい!」と言ったところ、それまで日本では牛の乳を飲むなどという「奇習」は無かったので断ったら、どうしてもというので、奉行所は止む無く和牛の乳を搾って提供したという記録が残っているそうです。もし、そうであれば、大分での乳児院で牛乳を飲ませたほうが随分と古いことになるのでしょう。その後、アルメイダは、天草の河内浦で没しますが、商人から無償奉仕の医師へと転身し、病人と乳児に尽くした波乱の生涯で、天草にも碑があるそうです。今でも、大分市医師会の事業の1つとして昭和44年4月1日に大分市内に「アルメイダ病院」という名の病院が建てられています。
 また、こんな碑もあります。「西洋音楽発祥の地像」というものです。ザビエルがキリスト教の布教をしたとなると、当然賛美歌は歌うはずです。それが、西洋音楽に初めて触れることになったということは容易に想像できます。しかも、聖歌隊も結成されたようです。その碑には、こんな説明が書かれてあります。「1557年(弘治3年)の聖週間には二つの聖歌隊ができ、オルガンの伴奏で賛美歌が合唱されたと当時の文献は報じている。また、外人神父からビオラを学んだ少年達は1562年(永禄5年)7月、領主大友宗麟の前でこれを演奏し大いに賞賛を博した」そうです。この碑の横にある像は、子どもたちが一生懸命に大きな口をあけて、牧師が弾くビオラに合わせて歌を歌っている姿で、とてもほほえましいものです。
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 音楽だけでなく、当然教会に関係する西洋の演劇や美術も伝えられたでしょう。そんなことで「西洋劇発祥記念碑」が建てられています。碑によると、クリスマスに、府内のキリスト教会では信者の手によって、「アダムの堕落と贖罪の希望」「ソロモンの裁判を願った二人の婦人」等々の西洋劇が演じられたのが日本における洋劇の最初だそうです。以来、府内教会ではクリスマスや復活祭に、聖書に基づく数々の宗教劇が演じられるならわしになったということです。
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 このような生活に密着した西洋の文化が広まっていったきっかけを作ったザビエルは日本人を、「今まで出会った異教徒の中でもっとも優れた国民」であると賞し。特に名誉心、貧困を恥としないことをほめています。
 江戸時代までに日本を訪れた外国人の日本への評価は、かなり高いものがありますね。

投稿者 fujimori : 22:44 | コメント (4)

2009年05月11日 地域を知る

未明と三重吉

 日本各地にはいろいろな碑がたっています。それがどうしてその場所に建っているかの由来はさまざまです。趣味で建てるとか、人よせのためとかの場合もありますが、何かゆかりがある場合が多いようです。
 連休に、妻と直江津に行ったときに鵜の浜温泉に宿泊しました。温泉の由来は、よくブログで取り上げますが、動物が浸かっているのを見つけたとか、有名な僧が開湯したとか、先日は小野小町が開湯した温泉でしたが、そのようにその温泉の発見にはロマンがあります。しかし、鵜の浜温泉は、そんなロマンはありません。ここは、昭和31年に、帝国石油株式会社が石油天然ガス採取のために採掘した井戸から良質な温泉が湧出したために温泉地になったのです。
ここは、開湯にはロマンがありませんが、昔からこの地に言い伝えられてきた伝説があります。それは「人魚伝説」です。「天明の中期(江戸時代半ば)、毎晩のように雁子の常夜灯を目当てに佐渡島から通う不思議な女がいました。雁子の若者はふとしたことからこの女と知り合い、毎晩、常夜灯を仲立ちにして、逢う瀬を楽しんでいました。しかしある晩、母親に引き止められた若者は常夜灯の明りを休んでしまいました。その翌朝、佐渡の女の死体が上がり、それを聞いた若者は悔やみ佐渡の女を追って、海に身を投げたのです。」この話を読むと、ブログで取り上げた小川未明の童話「赤いろうそくと人魚」を思い出します。実は、本当にこの伝説からこの童話が生まれたそうです。というのは、作者の小川未明は、新潟県高田(現上越市)に生まれています。
その高田には、復元された高田城が美しい姿を見せています。
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その城も見に行ってみました。というのは、この城の城主であった家康の6男松平忠暉は、そのあと諏訪に流され、そこで亡くなるのですが、その墓が諏訪にある私の家の菩提寺にあるので、なんとなく縁を感じたからです。高田の駅やアーケードもとても美しく整備され、城内にある日本画家小林古径の旧邸や美術館も非常に日本の美を表現して美しいものでした。
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未明の父親の澄晴は、かつて修験者でした。そして、上杉謙信の熱烈な崇拝あり、春日山のふもとに上杉神社を創建するため奔走しました。先日、上杉神社を訪れた時、その宝物館の隣に「小川未明文学館」があるのに驚き、どうしてだろうと訝ったものでした。こんな理由があったのですね。
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広島の原爆ドームの前には、日本の童話や童謡、昔話などを「文学」にまで高めた先覚者、鈴木三重吉の文学碑が立っていました。
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左側には、三重吉の胸像が置かれ、台座には雑誌「赤い鳥」の表紙の字型をそのまま取って刻まれています。そして、その右側の碑の台座には三重吉自筆の一文が刻まれています。「私は永久に夢を持つ ただ年少時のごとく ために悩むこと浅きのみ 三重吉」というものです。
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なぜ、ここにこのような碑が建てられているかというと、彼は、広島市猿楽町(現・広島市中区大手町)で生まれています。そこで、碑だけでなく、毎年、広島県内を中心に全国の子どもたちから集まった数千の作文と詩から「鈴木三重吉賞」が選ばれ、また、鈴木三重吉の研究・資料発表を目的とする「鈴木三重吉赤い鳥の会」も広島市を基盤に活動を続けているそうです。
各地にある碑から、どうしてその地にそれが建っているのかを知ることは興味深いものがあります。

投稿者 fujimori : 17:59 | コメント (4)

2009年05月10日 地域を知る

群言

 いろいろな地域を訪れると、メイン通りはシャッター通りと化し、人通りもまばらな地域と、地方なりの特色を生かした産業を興し、活気があるとか、その地域を活性かるような人がいたり、小さな村でも東京だけでなく、世界にも名が知られるような実績を残している企業があったりと、単純に地方だからとか、過疎だからとか、なにも資源がないからだということがが単に言い訳に過ぎないことを実感することがあります。昨日のブログで紹介した「元気なモノ作り中小企業300社」に選ばれた「中村ブレイス」もそうでしょう。
 国土交通省では、従来型の個性のない観光地が低迷する中、各観光地の魅力を高めるためには、観光振興を成功に導いた人々の中から「観光カリスマ百選」として選定して、選ばれた方々の経歴や事績などについて紹介しています。それは、彼らのたぐいまれな努力に学ぶことが極めて効果が高いと考えられるからとしています。
「中村ブレイス」と同じ世界遺産に指定されたる島根県の石見銀山を本拠地に全国展開している衣料・雑貨の会社があります。この会社は、小田急デパート、そごう、三越恵比寿店などで素材にこだわった衣料・雑貨を販売している「群言堂」です。この会社は、TV東京「ガイアの夜明け」でも特集もされていました。「復古創新」がコンセプトで、田舎暮らしで産まれてくるものを都会で売ることで、廃れそうになっていた技術を残そうとしています。この本社は、年商10億円の利益を茅葺きの古民家の移築、石見銀山の町並み再生につぎ込み、カフェやギャラリーを併設し、二回からは、その中に輪を望むようにして休憩室の広間があります。
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その店の代表である松場登美さんと大吉さんご夫妻が「観光カリスマ百選」に選ばれました。その名称も「わらしべカリスマ」。自然体の発想で、銀山町のにぎわい再興を仕掛けたということが評価されました。その発想は、「それぞれの夢を大切にし、個人が光り、その結果、町も光る」で、ユニークな企画を次々と繰り出し、町が活性化するとともに、地域住民のふるさと意識を高め、自らデザイン・販売する生活雑貨は、石見銀山の生活文化を発信し、観光客の増加に貢献したとされています。
松場さんは、「一口に言えば、石見銀山大森町にこだわりながら、この町にあるごくふつうのものをデザインし、情報発信したい。そしてそれに共感してくれる人たちが町を訪れてくれたら。」 ということで「石見地域デザイン計画研究会」を立ち上げました。さまざまな地域活性のための、活動をしていったのですが、当時を振り返り松場さんは「はじめから地域をなんとかしよう、という発想はなかった。会員それぞれの夢を大切にし、個人が光り、その結果、町も光るという発想を貫いてきた。」と言います。
さらに、交流の場として、文明を排除した家「群言堂」を作ります。中国の友人が命名したそうですが、「一言堂」という一人の権力者の発言で率いられる世界とは反対に、群となった人たちがそれぞれに発言しつつも一つの良い流れを作ってゆく世界ということで「群言堂」と名付けます。
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松葉さんが感じている美意識とは、よそにない自然や歴史を背景にした素材で勝負することのようです。「自然というのは柿の葉っぱを見ても、一つとして同じものがない。私はその違いが好き。だから、布を企画するとき、織り方や糸、染めについて微妙に違うムラがある感じを出したいと思う。朽ちた土壁から、わらが見える様子もすごくきれいに感じる。そういうことも素材に生かしたいのです。」
地域を生かし、地域を信じることから、地域の美が生まれてくるのです。

投稿者 fujimori : 23:27 | コメント (5)

2009年04月19日 地域を知る

横川

 新幹線は、地方に行くときにはとても便利な鉄道ですが、その新設によって、それまでの路線が廃止されたり、区間によっては、第三セクターに運営が移管されたりしています。長野新幹線の開業は、高崎駅から長野駅を経て新潟駅までの路線であった「信越本線」を変えてしまいました。今は、信越本線は二つの区間に分割されています。一つは、群馬県高崎市の高崎駅から群馬県安中市の横川駅までと、もう一つは、長野県長野市の篠ノ井駅から新潟県上越市の直江津駅を経由して新潟県新潟市中央区の新潟駅までです。
もともとの信越本線の区間のうち、軽井沢駅と篠ノ井駅の間は、昨日のブログで取り上げた第三セクターしなの鉄道に経営が移管されて存続されているので、廃止された区間は、横川駅と軽井沢駅の間です。今後、2014年度に北陸新幹線ができた時には、長野駅と直江津駅の間も第三セクター鉄道として経営分離される予定ですので、もしそうなったら、信越本線は、3区間に分かれることになります。
廃止された横川駅と軽井沢駅の間は、現在はバス輸送になっていますが、一部の区間は、遊歩道として整備されています。それは、この間には、昔から坂東と信濃国をつなぐ道として重要な要所で、難所としても有名な「碓氷峠」がありました。この道は、江戸時代には中仙道が五街道のひとつとして整備され、旧碓氷峠ルートが本道とされました。その碓氷峠は、関東と信濃国や北陸とを結ぶ重要な場所と位置づけられ、峠の江戸側に坂本関という関所が置かれました。そして、峠の前後にはそこを越える前に宿泊する坂本宿と、反対側には軽井沢宿が置かれました。
鉄道でも、この碓氷峠を越えることは早くから重要視されていましたが、当時の技術では越えることはなかなか難しかったようです。ですから、とりあえず上野駅から横川駅までの間が1885年に、さらに軽井沢駅から直江津駅までの間が1888年に開通しましたが、横川駅と軽井沢駅の間は輸送のネックとなり、なかなか東京・新潟間が全線開通できませんでした。しかし、延長11.2kmの間に18の橋梁と26のトンネルが建設され、やっと1892年に工事が完了し、横川・軽井沢間が開通したのです。
こんな越すに越されぬ「碓氷峠」には、峠の茶屋があり、団子があるのが定番ですが、横川駅では、上野から横川駅まで開通した年の1885年に、横川駅前で「おぎのや」が創業します。その後、横川駅と軽井沢駅の間にある難所「碓氷峠」を越えるために、全ての列車がここで機関車の付け替えまたは補助機関車の連結を行いました。そのため横川駅での停車時間は長いために「おぎのや」では、駅弁を販売し始めます。最初は、それほど業績は好調ではありませんでしたが、1957年に当時おぎのやの社員であった田中トモミ(のちに副社長)が発案した、「峠の釜めし」がヒットを飛ばし、全国に知られるようになりました。この「峠の釜めし」は長野県各所のドライブインでも売るようになり、昔は、私のルーツの地である諏訪に行くときに、いつも買って食べていました。
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この駅弁は、直径15cmほどの栃木県産の益子焼の釜に入った醤油味の炊き込みご飯です。この容器は、持って帰って灰皿などにしたものですが、本当は、単に釜の形をしているだけではなく、実際に1合の御飯を炊くことができます。
ちょっとしたアイデア一つで、会社が変わるのですね。

投稿者 fujimori : 19:34 | コメント (4)

2009年02月19日 地域を知る

グスク

たびたびブログで「○○100選」というのが登場します。各地を訪れる時、どうしてもいわゆる有名なところを訪れたり、案内してもらうとなると、何かしらの100選に選ばれていることが多くあるのです。それは、自然であることが多いのですが、文化財のこともあります。その中で「日本100名城」というものがありますが、これは、財団法人日本城郭協会が2007年に設立40周年の記念事業の一環として、日本国内の名城と呼ばれる城郭を公募したもので、歴史や建築の専門家などにより、観光地としての知名度や文化財や歴史上の重要性、復元の正確性などを基準に審査の上、2006年に選定されたものです。
この100選には、先日のブログで取り上げた「八王子城」や「小田原城」は選ばれていますし、今年は、是非とも訪れたいと思っている「天地人」の舞台である上越市の「春日山城」も選ばれています。
この100選の中で、沖縄県の城が三つ選ばれています。そのうちの二つ「今帰仁城」と「首里城」には、昨年、妻と訪れましたが、もう一つの「中城城」には、今回の沖縄での講演会の帰りに寄ることができました。どれも、「日本100名城」というだけでなく、国指定史跡や世界遺産にも選ばれています。沖縄では、城のことを「グスク」と呼びますが、これら琉球王国のグスク及び関連遺産群は、2000年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されています。
 首里城は、2千円札でも有名な守礼の門があります。門には、この名称で呼ばれている由来の扁額の「守禮之邦」という額が掛かっています。
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この首里城は、沖縄の琉球王国の歴史・文化を象徴する城です。沖縄の城壁は戦国大名の多くお城と大きく違うのは、曲線を描いている点です。いわゆる、角の石がないのです。また、万里の長城のように、長くある幅を持った石垣の壁で囲まれているいくつもの広場を持ち、また信仰上の聖地も存在しています。
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これらの特徴は、ここ首里城に限られたものではなく、グスクと呼ばれる沖縄の城に共通する特徴です。
首里城は国王とその家族が居住する「王宮」であると同時に、王国統治の行政機関「首里王府」の本部でした。しかし、明治になって、首里城から国王が追放され「沖縄県」となった後は、日本軍の駐屯地、各種の学校等に使われ、1930年代に大規模な修理が行われた。ところが残念なことに、1945年にアメリカ軍の攻撃により全焼してしまいます。戦後、跡地は琉球大学のキャンパスとなりますが、大学移転後に復元事業が推進され、今の姿を見せています。
今帰仁城は、「なきじんぐすく」と読みます。この城は、14世紀に琉球王国三山時代の三山の一つで、北山王の居城でした。
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 中城城(なかぐすくじょう)は、15世紀の琉球王国・尚泰久王代、護佐丸のグスクとして知られています。
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中城城は連郭式の山城で六つの郭で構成されています。
 これら沖縄のグスクの城壁は、主に琉球石灰岩の切石で積まれてします。1853年に来島したペリー提督も「要塞の資材は、石灰石であり、その石造建築は、賞賛すべきものであった。石は…非常に注意深く刻まれてつなぎ合わされているので、漆喰もセメントも何も用いていないが、その工事の耐久性を損なうようにも思わなかった」(日本遠征記)と記し、その石垣のすばらしさを讃えています。
 沖縄には、琉球文化が色濃く残っています。

投稿者 fujimori : 22:57 | コメント (4)

2008年08月17日 地域を知る

江戸の舞台

 連日熱戦が行われているオリンピック会場は、開会式が行われた別名「鳥の巣」とも呼ばれている鉄骨構造で出来た北京国家体育場は、とても印象に残る建物ですが、他の会場は余り特別な印象はありません。その点、1964年に日本の東京で開かれた第18回夏季オリンピックの会場は、どれも当時話題を呼びました。昨日、テレビで建築家丹下健三のことを放送していましたが、彼が東京オリンピックのために設計した建物が、「代々木国立屋内総合競技場」です。第一体育館(当時は本館)が水泳競技、第二体育館(当時は別館)ではバスケットボール競技が行われました。
この建物は、オリンピックの組織委員長のブランテージ会長も「あの競技場は本当に素晴らしい。スポーツをやる人を非常に鼓舞しました。また美を愛する人びとの記憶の中にはっきりと刻み込まれるでしょう」と言ったそうですが、また、この建物で都市という概念に目を向けたこの時代を表現しました。当時の丹下はこの周辺が拡張されたときにもこの道が延びることによって、さらに増やすことができるようにと設計したのです。そして、この道が「開かれた空間」と言われているのですが、考え方が、やはり都市的なものであったのです。その時代の精神を象徴することで建築は人間性を得ることができ、象徴という問題は構造主義をさらに発展させ、人間性というものを一層深めることになるのです。
 一方、チャスラフスカなどの演技が話題になった体操競技のために造られたのが千駄ヶ谷にある「東京体育館」です。この建物は、1981年に老朽化のため一時閉鎖されていましたが、1990年に、幕張メッセの設計で知られる槇文彦の設計でリニューアルオープンされています。
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この建物は、蝶が羽を広げているような屋根の形をしていますが、今は、ロボット系のアニメの主人公のようなイメージを持っています。この建物は、2016年夏季オリンピックを東京都に招致する構想の中で、新体操と卓球の会場予定になっています。
 この建物に意外な顔があります。今、高視聴率をあげているNHKの大河ドラマ「篤姫」ですが、篤姫が大奥にいた頃は、今の皇居のある江戸城の中にいました。大奥のあった場所は、現在、無料公開されている皇居東御苑のなかの天守台跡付近にありました。
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 大奥の女性たちは、この天守台跡の後ろのほうで、大手門の反対側にある平川門から出入りしていました。
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幕末、江戸城が薩摩藩に攻め込まれたとき、彼女が、勝海舟と西郷隆盛の無血開城の話し合いに一役買ったといわれています。その江戸城明け渡し後、篤姫(天璋院)は本寿院(家定の母)とともにまず御三卿である一橋家に転居します。徳川家最後の将軍である一橋慶喜の一橋徳川家は、現在竹橋の辺りの一橋という地名の、丸紅の社屋から気象庁のある場所までの広大な敷地のなかに屋敷がありました。
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慶喜の正室の省子はもともと大奥には居住していなかったために天璋院と同居するのですが、亀之助が宗家家督を継ぎ、徳川家達となり、徳川宗家の駿府(静岡)転封が決まると、新政府から徳川宗家に対して、千駄ヶ谷に屋敷地が与えられ、天璋院は千駄ヶ谷の屋敷に転居することになり、ここで一生を終えるのです。その場所が、今の東京体育館一帯といわれています。この東京体育館から鳩森神社あたりまですべて徳川屋敷だったようです。
毎年、NHK大河ドラマの舞台を訪れるのですが、今年はほとんど江戸が舞台なので、東京のあちらこちらにその名残があり、今後東京を歩くときの楽しみが増えそうです。

投稿者 fujimori : 22:36 | コメント (4)

2008年06月07日 地域を知る

水の益と害

 今日は、園の遠足でした。遠足のテーマ「地域を知ろう!」ということで、昨年は園の北東周辺を、親子で、ウォークラリー形式で歩いてもらいました。今年は、園の南西周辺のウォークラリーです。
 何度もブログで書きましたが、今回の遠足のひとつのポイントになっているのは、ちょうどそこで妙正寺川と神田川が落ち合っており、落合地域(中落合・上落合・西落合・中井)全体の地名の由来になったところです。神田川は、歌でも有名になったので、日本中の人、特に団塊の世代にはよく知られている川ですが、もうひとつの妙正寺川は、杉並区の妙正寺公園内妙正寺池に源を発し、途中中野区松が丘二丁目で江古田川を、新宿区の西武新宿線下落合駅付近で落合水再生センターからの放水路とそれぞれ合わせ、新目白通りの下を流れ、新宿区のこのあたりの高田橋付近で神田川に合流しています。
 この落合水再生センターも、今回の遠足のポイントであり、昼食を食べる「せせらぎの里公苑」は、この水処理施設の上部空間です。
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この水再生センターは、新宿副都心に極めて近く、住宅地に囲まれた水再生センターとして環境に配慮した管理を徹底しています。処理区域は、中野区の大部分と新宿・世田谷・渋谷・杉並、豊島、練馬区の一部で、面積は3,506haだそうです。
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 この施設のHPには、都心ならではの記載があります。私たちは、下水処理水というと、汚泥が発生する汚い水を思い浮かべますが、ここでは、下水処理水のことをこう書いています。「下水処理水は水量が豊富で、また水質も安定しており」ということで、ほとんど処理した水は神田川に放流していますが、ここで高度処理した再生水を西新宿の新宿副都心水リサイクルセンターに送水して、西新宿や中野坂上地区のビルのトイレ用水として活用され、都市の水循環に貢献しているそうです。また、一部は西新宿や中野坂上地区のビルのトイレ用水や城南三河川の清流復活事業にも活用しているそうです。下水は、都会では、とても有効な水源なのですね。
 もうひとつ、都会ならではのことがあります。それは、これから梅雨に入ると大雨が降ることがあり、そのときの水害についてです。水害というと、川が氾濫して起きるものですが、「都会型水害」という、川がなくても水害が起きることがあります。それは、雨の量が多いと、下水道が処理しきれずに、マンホールから雨水があふれて床上浸水をしたり、道路が冠水したりすることがあるのです。平成17年8月15日には、1時間当たり最大124mm、総雨量126.5mmの雨で中野区だけで浸水被害が280件あり、同年9月4日には、1時間当たり104mm、総雨量227.5mmの雨により中野区で浸水被害1530件も出しています。
 この総雨量とは、「雨水が別の場所に流れず、蒸発せず、地面などに染み込まない状態でどのくらいの深さになるか」という水深を示しています。底の平らな入れ物に10分間雨をためてその水の深さを測り、それを6倍したものが1時間の雨量です。普通は、1時間当たりの雨量が30~50mmだと激しい雨になり、50~801mmで滝のように降る激しい雨になります。
都会では、川がないから、崖がないからといって安心はできません。災害は、どこからやってくるかわかりません。

投稿者 fujimori : 21:19 | コメント (4)

2008年05月18日 地域を知る

那古野(なごや)

 私の園は、新宿という新しい宿場の中で、川が落ち合う場所の川下のほうにあるという落合という所にあります。その場所の地名というのは、自然であったり、その地形であったり、人々の生活であったり、そんなものからつけられていることがあります。
 それよりも意外と多いのは、その地方を治めていた豪族なり、大名なりの姓からとった場合があります。都内は、様々な藩主の江戸屋敷があったことから、その藩の名前や大名の名前を付けました。紀尾井町は、千代田区の西部に位置し、港区(赤坂・元赤坂)・新宿区(四谷)との区境にあたる町名ですが、昔も三つの境にありました。ここにはかつて、紀州徳川家上屋敷、尾張徳川家中屋敷、彦根井伊家中屋敷があり、それぞれの家の文字を1文字ずつとって町名としています。
新潮社編「江戸東京物語」には東京の地名の由来が書かれています。大名から取ったものとして、例えば、「神田錦町」は、一色家のお屋敷が2つあったから、「有楽町」は、そこに織田信長の弟で、高名な茶人の織田有楽斎の屋敷があったからで、「一石橋」は、橋の両岸にそれぞれ後藤家があったからです。
また、「水道橋」は、神田上水の掛け樋を渡す橋がかかっていたからであり、「お茶の水」は、高林寺の境内の井戸から湧き出る水が、将軍のお茶の用水とされたからです。「八重洲」は、日本に漂着したオランダ船員ヤン・ヨーステンの屋敷があったのが、かつてのヤヨス(八重洲)河岸でした。「数奇屋橋」は、江戸城で茶礼、茶器をつかさどり、数奇屋坊主を総括する数奇屋役人の公宅があったからです。
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昨日から保育学会参加のために来ている名古屋も、もともとは駿河の今川氏が一時尾張守護を兼ねていた時期に庶流の那古野氏が領有していたので「那古野」といわれていました。斯波氏が尾張を領有した後、今川氏親が拠点としたあと、織田信秀は今川氏豊を滅ぼして城を奪い、拠点を置いたのが「那古野城」といわれた城名です。しかし、信秀の後を継いでいた織田信長は、一族の織田信友を滅ぼして清須城に移ったため、那古野城は廃城となっていったのです。
その50年後、徳川家康がこの城の故地に目をつけ、名古屋城を築城するのです。この築城にあたっては、加藤清正を総指揮官とし、20名の諸大名が動員され、諸国から職人や土工たちが結集して作られていきます。
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このときは、城下は空前の人出で埋め尽くされ、清洲城下の武士、町人たちも一挙に移住し、神社・仏閣までもが移築されます。これが世に有名な「清洲越し」です。
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 それに比べて、北海道の地名には面白いいわれがあります。今年の3月に発売された新書「アイヌ語地名で旅する北海道」北道邦彦著には、なかなか興味深いことが書かれています。北海道の地名の約8割がアイヌ語に由来するというので。それは、彼らの自然と調和した暮らしの知恵を学び、「環境とともに生きる」というエコライフを先取りした知恵がその地名から見えてくるといいます。たとえば、町名などにある留辺蘂(るべしべ)。「る」は道で、「べし」(ぺシ)は「~に沿って下のほうへ下る」、べ(ぺ)は「もの=川」という意味で、アイヌの交通路を示しているのだそうです。ほかにも、アイヌ語で、「魚のいっぱいいる川」とか、「底つるつるすべる川」とか、そういった生活に密着した地名がいまも生きているのです。
以前にも書きましたが、簡単に町名変更をしないでもらいたいものです。

投稿者 fujimori : 22:58 | コメント (4)

2008年04月27日 地域を知る

日本の風景

  いろいろなところを訪れてみて、日本はとても美しい国だとつくづくと思います。それは、四季を巡る自然であったり、変化に富んだ海や山などの自然の景色であったり、人と自然が共生している里山であったり、人々の暮らしであったりします。
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 それらの美しさは、実際に展開されるだけでなく、小説や映画の世界でも展開されます。先週訪れていた庄内平野にある鶴岡市は、まさに春の盛り、藤沢周平が描いた世界と、その原作を基に黒土三男監督が映画化した世界とが微妙に重なり合って、美しい世界を表現しています。
  映画「蝉しぐれ」のオープンセットが残されています。
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  ここは、当然架空の藩を舞台にした原作を基にして、架空の主人公の世界を残しているのですが、日本のある美を実際に見せてくれます。この「蝉しぐれ」は、藤沢周平作の長篇時代小説で、藤沢作品のなかでも代表的な小説のひとつであり、1986年から山形新聞」夕刊で連載され、その後文藝春秋社 から単行本として刊行されました。
  この小説のストーリーは、幕末時代の山形県庄内地方に設定された架空の藩、海坂藩を舞台に、政変に巻きこまれて父を失い、家禄を没収された少年牧文四郎の成長を描いています。木立と清流に囲まれた組屋敷は、長屋の構造をしていて、庭は隣と繋がっています。
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  隣に住んでいるのは、お福という年下の女の子です。この組屋敷という長屋の構造が、主人公たちの人の付き合いを表しており、進んでいくストーリーの環境として物語に情感を与えています。小説の中で生き生きとした文体で表現される日本の自然は、映画の中でも再現されています。それは、この舞台であるひろく広がる庄内平野に整然と区画された水田、その周りにはみどりに茂る林と、長屋の周りにわずかにある木立、屋根の上に草が生えている家、その背景しての出羽三山、オープンセットを訪れると、まさに小説の世界がそこにありました。
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  「蝉しぐれ」の原作者藤沢周平は、その小説の中での自然描写が多く、まさに東北の小藩「海坂藩」がそこにあるように、地形、気候、生活が描かれています。ですから、読んでいてもそれがイメージでき、映画化された風景を見ても違和感がないのでしょう。それは、この文庫版の目次を見ても、如何に自然とかみ合った話であるかということがわかります。小タイトルの中で自然が入っているのをあげてみると、「朝の蛇」「夜祭り」「嵐」「雲の下」「黒風白雨」「蟻のごとく」「落葉の音」「梅雨ぐもり」「暑い夜」「秘剣村雨」「春浅くして」「行く水」そして、最後の章の「蝉しぐれ」と続きます。ここには、「朝」「夜」「しぐれ」など1日の流れ、そして「雲」「風」「雨」「嵐」「梅雨」などの天候に関するもの、「蛇」「蟻」「蝉」などの生き物、そのほか「黒」「白」、「落葉」「暑い」「浅い」「くもり」など、たったこれだけの中にずいぶんとたくさんありますね。
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  これらの言葉には、あるニュアンスが含まれています。それぞれの情景が思い浮かびます。この微妙さが、日本独特なものかもしれません。言わなければわからない時代に、次第にこの微妙さを感じなくなってくるかもしれません。

投稿者 fujimori : 21:33 | コメント (4)

2008年04月15日 地域を知る

上野2

 上野といえば、私は子どものころからとてもなじみのある場所です。私の出身幼稚園と小学校は上野と同じ台東区にあったので、幼稚園の遠足は上野動物園でしたし、小学校絵画展などは東京都美術館でやりましたし、中学校のときには、みんなで本物のミイラを怖いもの見たさで上野国立博物館に行きましたし、成人式は、招待されて東京文化会館で行いました。昨年度の園のお別れ遠足は、やはり上野の国立科学博物館でした。
 それぞれの場所には、それぞれのインパクトのある思い出が重なっています。
 上野動物園には、第二次世界大戦前の1935年にタイから寄贈された象の「花子」がいました。この花子は、戦争中の1943年、逃走したら危険と云う理由で餓死させられ、「かわいそうなぞう」という絵本にもなっています。その後、上野動物園には、象がいなくなってしまいましたが、戦後(1949年)、地元である台東区の子供たち(「台東区子供議会」)の象が見たいと云う願いが、連合軍占領下の日本における大人たちを動かして、インドのネール首相から贈られたメスの象が「インディラ」です。その骨格標本は国立科学博物館に展示されています。また、この動物園は、パンダが来て大騒ぎになったことでも有名ですね。
 また、東京国立博物館は、国宝87件、重要文化財610件を含む収蔵品の総数は11万件を超えています。ここは、1872年に創設された、日本最古の博物館です。ここでは、現在「国宝 薬師寺展」を開催しているように、所蔵も国宝が多いということもあり、なんだか日本の昔の美術品が多いようなイメージですが、この場所が有名になったのは、1974年に開催された「モナ・リザ展」でしょう。入場者数は、2ヶ月間で150万人以上にもなりました。昨年は、この作者ダ・ヴィンチのもうひとつの有名な絵画の「受胎告知」が、特別展「レオナルド・ダ・ヴィンチ — 天才の実像」ということで公開されています。
 美術展覧会といえば、もうひとつ有名なところが国立西洋美術館です。
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 ここの館外の庭には、オーギュスト・ロダンの「考える人」「地獄門」「カレーの市民」やエミール=アントワーヌ・ブールデル「弓をひくヘラクレス」などの彫刻が並べられ、いつでも見ることができます。また、この美術館の本館の設計は、近代建築の四大巨匠の一人であるル・コルビュジエの設計で、彼の作品は、日本国内ではこの建物しかなく、今年の1月に、世界遺産候補としてユネスコに推薦することが正式に決定されています。ここでは、所蔵だけでも有名な作品が多いのですが、展覧会でも有名なものがあります。特に記憶に残っているものは、1964年の「ミロのビーナス特別公開」です。ほぼ一月間でしたが、 この1点だけを見に来た人は、80万人以上でした。
 本館の実施設や監理に協力し、新館を設計したコルビュジエの弟子である前川國男は、この国立西洋美術館のまん前に立つ東京文化会館も設計しました。
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  この建物は、前川國男の代表作で、開館した1961年には日本建築学会賞作品賞を受賞しています。最近はほかにもっと音響のよいコンサートホールがたくさんありますが、本格的なクラシック音楽のホールとしては日本最初のものといえます。現在でも、東京都交響楽団が本拠地としているホールでもあります。
 繁華街とは、都市中心部でデパートや専門店、飲食店が立ち並ぶエリアのことを言いますが、上野は、美術館、博物館が並んでいるエリアとも言えそうです。

投稿者 fujimori : 23:40 | コメント (4)

2008年03月01日 地域を知る

空間博物館

 せっかく各地に講演に行くのであれば、もし時間があり、先方に「どこか行きたいところありますか?」と聞かれたときに、ブログで紹介した「にほんの里100選」にノミネートされている里を訪ねることが出来たらいいなあと思います。
 ちょうど今日は富山県の氷見で講演があったので調べてみると、氷見全域が「ひみ田園漁村空間博物館」ということでノミネートされています。この試みは、面白いですね。「氷見全体を博物館に」ということで、先日2月5日に各地区の活動発表が行われたそうです。
 例えば、一刎地区では、ミズバショウの増株や脇之谷内地区の遊歩道の設置など市内16の地区を整備しました。このミズバショウの植え込みイベントには市内外からボランティアで参加したそうです。また、脇之谷内地区の三千坊山や宮田地区の乱橋池についての報告もあったようです。
 氷見市は、富山県の西北、能登半島の東側付け根部分に位置し、地形的には海と山がコンパクトにまとまっており、農山漁村の持つ豊かな自然環境を有しています。日本海側有数の氷見漁港には、四季を通じて156種類もの魚が水揚げされ、広辞苑にも掲載されている「氷見いわし」や、初夏の「マグロ」、冬の「寒ブリ」などは特に有名で、昨日の夜も「ブリしゃぶ」をいただきました。
氷見市は、堂故市長が初当選した1998年当時、少子高齢化が県内9市で最も進んでいた地域で、地域活力の低下が懸念されていました。市長には、「これからの時代に子供を持つことへの思いや都市中心型の社会構造の変革は、ちょっとした少子化対策で対応できるものでは、もうない」という思いがあり、定住に寄与してきた魅力を思い切って世界に発信することで、外からの高い評価を得、それによって市民の「愛郷心」と「誇り」を醸成し、定住に跳ね返らせるという、定住と交流が表裏一体の良い関係を持ち、市の活力を維持していこうということに挑戦したのです。
まず、「伝統漁業の定置網を今に生かすまちづくり」を行いました。市長は、この定置網漁法を、「消極的で時代遅れの漁法」ではなく、「21世紀の資源管理型漁法」として、さらには「人にやさしい漁法」として世界へ発信しようとしたのです。そのために、「成功から出発する」ということから、さまざまな機会を通じて全国の市長などから貴重な失敗例を聞いて回ったのです。成功例ではなく「どうしたら失敗するか?」を聞いたのです。
もうひとつが、県内初の「棚田オーナー」事業で、不利な自然条件を「地域の良さ」に変えるという発想です。長坂という所をモデル地域として進められていますが、粘土質の土壌が生むおいしいお米と、棚田から眺める海越しの立山連峰の美しいパノラマ、そして、地元の人々のホスピタリティに、回数を重ねるごとにファンが増えてきているようです。
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それに引き続いて、「里山林のオーナー事業」「竹林オーナー事業」をスタートさせています。これらの事業が、中山間地活性化の認識を市民に浸透させ、積極的な地域活動が展開されるきっかけになっているようです。
この「ひみ田園漁村空間博物館」は、単に施設をつくるということではなく、有形・無形の地域資源を展示物ととらえ、内外の交流を活発にすることで地域活性化を図ろうという地域づくり活動です。そろそろ、大きな建物や道路などの施設を作ることから、住民が活性化する事業への転換を図るべきでしょうね。

投稿者 fujimori : 21:09 | コメント (5)

2008年02月25日 地域を知る

オリーブ

先週末訪れた二十四の瞳の舞台である小豆島は、 瀬戸内海・播磨灘にある島で、小豆島町、土庄町の2町があります。古くは、小豆島(しょうどしま)を「あづきしま」と読んだそうです。小豆島の名産といえば、すぐに思い出すものは、「手延べそうめん」です。
そうめんは、奈良時代に弘法大師によって、唐のお菓子「索餅]の製法が伝えられ、この索餅がそうめんの原形といわれています。索餅は現在のそうめんの形とは違い縄状によじった太く短いものだったようです。索餅は製法の改良で長くて細い形状に変わり索麺といわれるようになり、その製法が鎌倉時代に伝えられました。これを日本では「さくめん」と言っていましたが、中国語でソービンと発音されていました。そして、その発音に即して「素麺」と書かれるようになったのが素麺の名の由来だといわれています。日本の手延べそうめんの製法は今から約450年前、中国から現在の奈良県桜井市三輪に伝えられたのが初めてとされています。それが、「三輪素麺」です。恥ずかしながら、以前奈良桜井に行ったときに三輪山を見て、初めて三輪そうめんが奈良であることを知ったのです。そのほかの産地としては、西日本に多く、小豆島も、気象条件がそうめんの製造に適しているところから、産地になっています。
実際に訪れた目立った生産品は、醤油と佃煮でした。小豆島は良質の塩の産地であり、しかも地中海地方によく似た温暖な気候風土だったために醤油づくりに適し、約四百年もの昔、文禄年間に始まったともいわれています。また、古くから海上交通の要衝として海運業が盛んだったなどの諸条件がうまく重なり合い、醤油づくりの島へと発展していったのです。当然、醤油と海産物を使う佃煮も盛んになっていったのでしょう。
しかし、なんといってもオリーブの生産で有名です。小豆島のオリーブ栽培が始まったのは、1908年4月22日のことで、今「オリーブ百年祭」が開催されています。香川、三重、鹿児島の3県に植えられたオリーブのうち小豆島に植えられたオリーブだけが根づき、以来、小豆島は「日本のオリーブ栽培発祥の地」として知られるようになりました。
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この時に小豆島に入ってきたオリーブは、残念ながら現在1本も残っていないそうですが、最初に入ってきた木から1915年ころに挿し木したものが、原木の碑の周辺に約10本植わっています。ですから、オリーブは香川県の県の木、県の花に指定されています。
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今回、オリーブオイルをいただきましたが、ほかの植物油はすべて種子を搾るのに対し、オリーブオイルは果肉を搾るのでスクワレン、ビタミンA、E葉緑素など天然の有効成分がたっぷりと含まれているそうです。また、1価不飽和脂肪酸のオレイン酸が多く含まれており、動脈硬化を促進させる悪玉コレステノールの血中レベルを低下させ、動脈硬化を予防する効果が期待できるそうで、この歳になると良さそうですね。
日本に始めてオリーブオイルが持ち込まれたのは、約400年前の安土・桃山時代だったようです。当時、キリスト教伝道のため来日したフランシスコ派のポルトガル人神父が携えてきたものだったので、当時はポルトガルの油、訛ってホルトの油を呼んでいたようです。その後、江戸時代の鎖国政策で、オランダの医師およびオランダの医学を学んだ一部の蘭方医が医薬として使用されていた程度でした。しかし、今また輸入自由化により安価な外国産のオリーブオイル、テーブルオリーブスが大量に輸入されるようになり、国内の栽培は急速に減少し、現在では小豆島を中心とした一部に地方の特産物として見られるにすぎなくなってしまいました。
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自然とおなじように、国産をもっと大切にしてもらいたいですね。

投稿者 fujimori : 19:52 | コメント (4)

2008年01月15日 地域を知る

古くて新しい2

 「古くて新しい」(OLDNEW)といえば、こんなキャッチコピーを彦根で見かけます。
「城下町の伝統を継承した格子窓、袖壁、白壁、軒庇が続く町並み……古くて新しいOLDNEW TOWNが「夢京橋キャッスルロード」です。」
このまちづくりの特徴は住民主導で行われ、歴史と伝統を今に活かし、建物の形態と色彩を新しい時代にマッチした城下町づくりをしたところです。この夢京橋キャッスルロードがある彦根市本町は、慶長8年(1603年)彦根城築城とともに城下町の町割りがこの本町から始められたという歴史ある町でした。しかし、歴史は単に過去のものとして郷愁だけで終わることが多く、世の中の近代化と効率化に取り残され、実際には住みにくく、人が訪れない町並みに変わっていきました。そこで、商店街は、天井部を覆うアーケードを備えたショッピングモールへと発展し、近代的なアーケード商店街が作られていったのです。これらは日光や天候から守られ、また多くの人々の徒歩での通行を惹きつけました。
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しかし、このアーケード街は、地元の生活用品を買うためであればとても便利なのですが、専門店が多いために、必要なものを買い揃えることはできず、車では行きにくいなど、次第にショッピングモールは大型化、郊外化していきました。それでも、地域の人には便利ですが、観光客を呼び込むことはできません。そこで、もう一度見直されたのが、道路幅6メートル、当時の風情を残している城下町ならではの道路でした。この通りの風情を壊すことなく伝統的な町並みを再生することにより、活性化を図ることになりました。
 歴史と伝統を活かした町づくりは住民主導で行われ、歴史的景観を大切にした古くて新しいまちづくりは、1999年にすべての整備を終えました。彦根城の堀端から京橋へ、石垣に遮られたどんつきを抜けると、まっすぐに通りが広がります。通りの愛称は「夢京橋キャッスルロード」と名づけられました。白壁と紅殻に煤を混ぜた黒格子、いぶし瓦、切妻屋根の傾斜を揃え、景観を大切に、暮らしの見え隠れする古くて新しい町が、OLDNEW TOWNです。ここには、様々な個性を持った商店が並び、買うためではなく、見て歩く楽しさを持った通りに変身しました。「商店街づくりは人づくりから」といわれるように、「自分たちの地域は自らの力で創り、次世代へ引き継ぐ」という住民主導での街づくりへの理解を得るには多くの時間を要したそうです。
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これに触発されたかのように、彦根の台所といわれていた市場商店街も生まれ変わりました。ここは、美味しい匂いの漂う商店街で、かつては生鮮食料品や惣菜の街として県下で最も賑わった時代もありましたが、勢いは昭和40年代をピークに衰え、空洞化が進んでいきました。
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その賑わいを取り戻そうと、大正ロマン漂うまち『四番町スクエア』として生まれ変わりました。まず、城下町彦根らしい名称だった「四番町」という旧町名を復活し、市場街のアーケードは撤去され、新しく大正時代の意匠を凝らした建物がポケットパークを中心として、いこいのある楽しい街をイメージしています。生鮮食料品や惣菜を商う、古き良き市場の気質を残しながら、今まで市場には無かった新しい業種の専門店もオープンしています。
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 何でも新しければよいという時代は終わり、昔をどう生かして進化させていくかということが、町づくりだけでなく、すべてに共通の課題となっていくことでしょう。

投稿者 fujimori : 23:56 | コメント (4)

2008年01月14日 地域を知る

古くて新しい1

 昨年、経済効果が著しくあった場所は、宮崎県でしょうね。知事が代わってどうなるかと思ったのですが、今のところ町おこしとしてはよい効果が出ているようです。そのほか、意外と経済効果が大きかった取り組みが、今年の1月に発表されていましたが、彦根市で昨年開かれた「国宝・彦根城築城400年祭」です。まだ、中間報告しか出ていませんが、約8カ月の期間中に同市を訪れた「入り込み客数」は2,432,000人で、市内で使われた「観光消費額」を170億円と推計しています。地方都市でも、企画のよっては随分と人が訪れるようです。このなかで、土産購入額に占める割合が、宿泊客の平均47.1%、日帰り客の35.1%と高い人気があったのが、あの話題のイメージキャラクター「ひこにゃん」のグッズだそうです。この「ひこにゃん」に会ってきました。
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「ひこにゃん」は、井伊家由来の赤備えの兜をかぶった猫をモデルとしています。この「ひこにゃん」は、キャラクターを使用する際に通常必要な著作権使用料を無料の許可制にすることで個人・企業を問わず広く参加でき、築城400年祭を盛り上げる効果を狙った新しい試みです。著作権使用料を無料にすることで小規模企業を含めた様々な企業が参加し、イベントを通じて街の活性化をはかる試みとして経済界からも注目されました。今年の年賀状が「ひこにゃん」が住民登録している彦根城あてに100通以上寄せられたそうです。差出人の9割が県外だったということは、町おこしとしての成功を思わせます。
なぜ猫かというと、意外なことがわかります。東京の小田急線の駅に豪徳寺という駅があります。ここは、1633年に彦根藩2代目藩主の井伊直孝が井伊氏の菩提寺として伽藍を創建し整備したてらです。ですから、江戸城桜田門外で暗殺された井伊直弼は当寺に葬られていますし、その墓のそばには、桜田殉難八士之碑や、墓守として一生を当寺で終えた遠城謙道の墓塔もあります。以前ここを訪れたときに初めて知ったのは、その墓の創建が井伊家であるということと、「招き猫」の発祥の地として、大きな招き猫があったことです。それは、どうしてかというと、井伊直孝がにわか雨にあって大木の下で雨宿りをしていた際に、手招きをする白猫を見て近寄ったところ、その大木に落雷があって、危ういところで雷から逃れたということで、直孝はこの猫に感謝し、福を呼ぶ寺として豪徳寺を井伊氏の菩提寺としたのです。この白猫の伝説から、井伊家の居城であった彦根城のキャラクターとして猫が選ばれたのです。
 この彦根城が、人気があるのは、決して「ねこにゃん」だけのおかげではありません。この彦根城の歴史にも関係があります。築城は、将軍徳川家康公の命により佐和山城を一掃するために着工され、天守は大津城から、天秤櫓は長浜城から移築され、天守閣は2年足らずで完成しましたが、結局、20年の歳月をかけて築城されています。近世の城で天守閣が残っているのは、弘前、松本、犬山、丸岡、彦根、姫路、備中松山、松江、丸亀、松山、宇和島、高知の12城。このうち、松本、犬山、彦根、姫路の4城の天守は国宝で、とても美しい姿を残しています。
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 しかし、この彦根が、400年祭が終わったあとでも人気があるのは、他におおきな取り組みがあるからです。この取り組みが、古いものを進化させ、新しいものを生み出したひとつの例です。(つづく)

投稿者 fujimori : 22:46 | コメント (4)

2008年01月13日 地域を知る

商人

 近江八幡という地はとても不思議な町です。ここには、主に鎌倉時代から江戸時代、明治時代、大正時代、戦前にかけて活動した近江国・滋賀県出身の商人である「近江商人」の系譜を引くものが、今日の大企業の中に多いのです。
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たとえば、商社では、伊藤忠商事、丸紅、トーメンなどがあり、百貨店では、高島屋、大丸、西武であり、紡績では、日清紡、東洋紡、その他では、日本生命、ヤンマーディーゼル、西武グループなどが近江商人の流れを汲んでいるといわれています。
 なぜ、この地からそんなに輩出しているのでしょうか。ここ近江八幡は、1585年(安土桃山時代)、豊臣秀次によって琵琶湖の東岸に位置する八幡山の麓に建設された城下町でした。その後江戸時代になると、東海道と中山道と北国街道が交差する交通の要衝となり、その地の利を生かして商業地として発展、繁栄しました。
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秀次が整備した碁盤目状の旧市街のほぼ中央を南北に走る新町通り周辺と、北の八幡堀の畔には、商家・町家・土蔵といった近世建築の連続性が高い町並みが現存しており、1991年には、種別「商家町」で国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
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また、この近江商人は、その商才を江戸っ子から妬まれ、伊勢商人とともに「近江泥棒伊勢乞食」と蔑まれましたが、それだけではなく、有名な家訓として「買い手良し、世間良し、売り手良し」の「三方良し」だけでなく、他にもいろいろな商業の考え方も作っています。その考え方は、他の分野でも参考になることが多くあります。
主に能登方面に蚊帳や畳表を行商していた西川甚五郎は、江戸日本橋に出店し、2代目甚五郎が萌黄蚊帳を考案して富を得、「ふとんの西川」の基をつくりました。
飯田新七は、京都の呉服屋に奉公中、その勤勉ぶりから高島出身の米屋飯田家の養子になります。そして、家業を呉服商にかえ、高島屋の屋号で他店よりも早朝から店を開け、「おかげにてやすうり」を合言葉に確実な商品を安価で販売して、多くの信用を得て、今日の百貨店高島屋の基礎を築きました。
伊藤忠兵衛は、近江麻布の行商をはじめますが、九州・中国各地に地盤を広げ、明治維新の混乱期に社会の動きをよく観察し、大阪に呉服太物店紅忠を開きのち丸紅になります。そして、その後外国貿易会社伊藤外海組を設立し、後の伊藤忠商事・丸紅の基礎を築きました。
下村彦右衛門正啓が開業した呉服店 大文字屋が後の大丸になりますが、大塩平八郎の乱が起きたときに「大丸は義商なり」といわれ、焼き打ちを免れています。これは往時の豪商が施餓鬼として毎年貧しい人に食料や衣服等を、今日の援助物資やボランティア的な活動を行って利益の再分配をしていたことへの庶民感情を汲みした表れであるようです。ちなみに、この大丸の心斎橋店、京都店は著名な建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズの作品で、ことに心斎橋店は日本の百貨店建築の最高傑作といわれています。近江八幡にあるヴォーリズ記念館は、彼によって清友園幼稚園の教師寄宿舎として設計されましたが、竣工時からヴォーリズの自邸として使用された建物です。
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今、大企業と呼ばれている企業は、もう一度創設の頃の近江商人の理念を思い出してもらいたいものです。

投稿者 fujimori : 21:37 | コメント (5)

2007年09月19日 地域を知る

アンテナショップ

 よく、東京の人は東京タワーには登ったことがないといいます。それぞれの地域には、それぞれの観光名所がありますが、意外とその地域の人はそこを訪れる事が少ないようです。私がある地域を訪れるときに、時間があったら行きたい場所を調べていくことがあり、「どこか、行きたい所がありますか?」と聞かれて答えると、その地域の人が知らないことがあります。また、食べるものでも、その地域の名産品は、その地域の人でも知らないことがあります。私も、東京名物「東京ばなな」は食べたことはありませんでした。そこで、地方から見えた方にリクエストをして、一度買ってきてもらったことがありました。逆に、自分の出身地でよく食べていたものを無性に食べたくなることがあります。ドイツに行っていると、意外とラーメンとか、焼きソバが食べたくなります。寿司とかは最近どこでもあるのですが、おいしいラーメンは日本しかない気がします。夏にドイツから高校生が来ていたときに、いろいろなところに食べに連れて行ったのですが、余り食欲がありませんでした。ふと気がついて、最後の晩にドイツ料理に連れて行ったところ、喜んでたくさん食べていました。日本に来たからといって、気を使って日本独特ものや、日本らしい食べ物のところばかり連れて行かれていたようです。そんなことで、それぞれの地域の特産品を紹介したり、また、ふるさとの味を楽しんだりするために各地に、各地のアンテナショップがあります。特に、東京には、全国のアンテナショップが人が多く集まるいい場所に作られています。今週の「メトロガイド」では、その特集が組まれていました。そこに掲載されている特産品を、その地域の人は知っているでしょうか。たとえば、「いわて銀河プラザ」(銀座)では、「田老かりんとう」「盛岡冷麺」「金のヨーグルト」「じゃじゃ麺肉味噌付き」が紹介されています。「かごしま遊楽館」(有楽町)では、「いも焼酎」「もろみ酢紫いも」「さつまいも天」が紹介され、併設のレストランでは、「黒豚しゃぶコース」が食べられます。「いきいき富山館」(有楽町)では、「ます寿司」「ビアンコ・マンジャーレ」です。「銀座わしたショップ」(銀座)では、「仕次ぎの酒」「あぐーの餃子」、「滋賀県東京観光物産情報センター」(有楽町)では、「ひこにゃんぬいぐるみ」「鮎のやわらか煮」、「表参道・新潟館ネオパス」(神宮前)では、「栃尾の油揚げ」「魚沼かぐら辛っ子」「梅エキス」「純米吟醸八海山」「笹団子」で、レストランで、新潟産コシヒカリや、栃尾の油揚げ2種が食べられます。「サテライトショップふくしま」(上野)では、「桃ジュース」「会津磐梯ハスカップ」、「越前・若狭の特産館ふくい南青山291」では、「地酒」、「日本橋島根館」(日本橋)では、「セミドライ干いちじくたきのささやき」「松江地ビールビアへるん」「出西生姜」「頑固親父のこだわりキムチ」「葉楽koto特選Green Tea」で、レストランでは、「桶盛り海鮮がいな丼」が食べられます。「広島ゆめてらす」(新宿)では、「ふるさとレモン」「尾道佃煮特上しそ昆布」「かき炭火焼」で、レストランでは、「ピリ辛つけめん」が食べられます。「新宿みやざき館KONNE」(新宿)では、「東国原」(いも焼酎)「日向夏ドレッシング」「赤どりプレミアム」「ひや汁」で、「チキン南蛮」が食べられます。「香川・愛媛せとうち旬菜館」では、「まめや高瀬緑茶ケーキ」「御栗タルト」で、「おいでませ山口館では、「ふくの白雪づくり」「うに伝説」です。まだまだあるのですが、逆輸入ではありませんが、私も「東京愛らんど」にある「赤イカ塩辛」「ラム酒」や多摩酪農家発の「東京牛乳」などは一度も食したことはありません。

投稿者 fujimori : 21:39 | コメント (5)

2007年08月30日 地域を知る

小布施4

 たまたまネットで、セーラ・マリ・カミングスさんの講演原稿を見る機会がありました。その話の内容は、今、保育教育界にも求められていることがたくさんちりばめられています。その中の言葉を紹介します。
「やると決めたら何事も最後まで投げてはいけない。大胆なことであればあるほど、皆は良いとは言わず、安全で無難な道を選ぼうとするが、今の時代は無難な道ほど危険な道はない。守ろうとすると結局守れないことになる。中途半端に頑張るくらいなら、やめたほうがいい。何でもやる以上は「命をかけて待ったなし、これ以上のところはできないというところまでやるぞ!」という覚悟が必要だ。」
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 「国際競争の激しい津波の中で溺れてほしくないと願い、今元気があるうちに先に動こう、何とかしようと、危機感を持って私たちは取り組んだ。歴史的に見ても、こうした悪い時代こそ、踏ん張って頑張るべき。良い時は誰でもそこそこできるが、ダウンの時こそ、それをチャンスに変えられる。単に残すとか守るというだけでなく、今の時代に見合った新しい可能性を見出すことによって、新たな広がりができると思う。我々の世代が、次の世代に何を伝えていくか考えることが必要だと思っている。」
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 「良い点、悪い点をリストアップするとともに、どういう点を変えたら良いのかを挙げるなど、見えないものをできるだけ見える形に変えてみることから始め、理想的な形はどうすればできるのかを考えた。またできない理由が100あっても、できる道が1つでもあれば良いので、No!をGo!に変えるため、まずはできない理由を洗い出した。できる道はその裏返しになるからである。」
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 「真実を突かれると、人は怒るもの。本当のことを言える会社であることが大事で、皆がイエスマンになってしまったり、レジスタンスになるのもまた動けなくなるから駄目である。」
「昔の方が斬新だったかもしれない。今頑固になっているのも、守りに入っている証拠かもしれない。それならば、もう一度その壁を取っ払って、楽しくしよう。」
「何事も、マイナスをプラスとして考えるなら楽しくなる。将来に価値を加える、あるいはプラスになるように努力することが大事。日本人はもっと社会貢献活動的な気持ちを持つべきだ。そうすれば、ますます日本はおもしろくなると思う。」
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 こんな人材の中で街づくりに取り組んでいる小布施の町を、駅から栗の散歩道を歩いていると、道端のいたるところにパネルによって絵本のように民話が紹介されていたり、この地域に関係する一茶句碑が町内に二十数基も建立されていますし、北斎漫画の碑が立っています。小布施で一茶は、将軍に献上するまで拾うことさえ許されなかった「お留め栗」を詠んだ「拾はれぬ栗の見事よ大きさよ」や北斎が天井画を描いたといわれる岩松院の池のかえるを詠んだ「痩せ蛙まけるな一茶是にあり」などがあります。
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 そして、北斎館からその北斎を小布施へ招いた人物であり、佐久間象山など有名な思想家や文人たちと交流した豪商高井鴻山の記念館から岩松院までのんびり歩いていくと、途中は果物王国とも言われるだけあってさまざまな果物畑が広がっています。こんな小布施へ、ぜひいろいろな人にも訪れてほしいと思いますし、町づくりの発想、がんばりを学びたいと思います。

投稿者 fujimori : 21:32 | コメント (4)

2007年08月29日 地域を知る

小布施3

 小布施の街づくりには地元にある企業がどれだけ地域のことを考え、地域に貢献しようとするかにかかっています。そして、それをサポートする行政がなければなりません。各地の街づくりが成功したポイントは、それらのよい人材がそろったときです。一人ではできませんし、ひとつの企業だけでは出来ません。ここ小布施では、舞台としての小布施町の歴史がありますが、そこでその活動を進める人材がそろっていることが成功の秘訣でもあるようです。中心になったのは、「小布施堂」と「竹風堂」という2店の菓子店です。
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 市村家では、屋号が「桝一」という江戸時代宝暦年間より営んできた造り酒屋です。明治30年代に、桝一市村酒造場が缶詰技術と工場制の生産方式を導入して栗菓子の製造を始めたのが、小布施堂の前身です。小布施堂の栗菓子は、よくデパートなどで見かけます。大正時代から東京のデパートは、重要な販路のひとつでした。「栗落雁」・「栗羊羹」につづいて「きんとん」の缶詰である「栗鹿ノ子」が創製されました。栗だけで作った栗あんに大粒の栗の実がまざりあったいろどりは、若鹿の斑紋のように見えることから栗鹿ノ子という名前がつけられたと伝えられています。また、「桝一市村酒造場」は、セーラ・マリ・カミングスさんという取締役を迎えて、新しい展開を見せます。アメリカ人である彼女は、日本に留学した後、アメリカの大学を卒業し、再来日して小布施堂に入社します。そこで経営情報室を立ち上げ、利酒師認定を取り、桝一市村酒造場の再構築に取り組みます。1998年には、小布施堂、桝一市村酒造場の取締役就任し、2001年日経ウーマン誌が選ぶ「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2002」大賞を受賞しています。私が昼食を食べた「蔵部」という酒蔵の一部を改装して作った和食レストランをプロデュースしています。レストランの中心部には、ご飯が炊かれているかまどが備えられています。彼女は、「とりあえず」や「仕方ない」という言葉を聞くと、「昔から日本人は曖昧な仕事はしない。今の日本人は逃げ道を作って仕事をする。仕方ある仕事を」と話しています。一方、「竹風堂」は、昭和47年に小布施で初めて「栗おこわ」を売り出した店としても知られています。「竹風堂」の栗おこわは、栗と餅米だけという構成ですが、ほのかな甘みの栗とほくほくのおこわが良くマッチしているそうです。また、「竹風堂」では、栗で作ったあんを使用した「栗あんしるこ」や「栗あんみつ」、名物の「栗ようかん」などの甘味類も味わうことができますが、私は暑い日でしたので、もちろん、栗かき氷をいただきました。kurigoori.JPG
 そして、地域全体での取り組みには、リーダー的存在が不可欠です。内閣府や国土交通省は各地の観光のリーダーとして大きな役割を果たした「観光カリスマ」に選定しました。この第1陣として選ばれた全国の11人の中に小布施から2名選ばれています。一人は、4期町長を勤めた唐沢彦三さんで、受賞理由は「観光資源の乏しい人口1万人の小布施を、北斎館を中心とした文化と歴史があふれ、年間120万人が訪れる町へと変えた。また、景観整備や花のあるまちづくりなど、住民が主役となって進めるまちづくり運動を成功させた。」とあり、もう一人の市村良三さんは、大学卒業後ソニーに入社し、その後小布施堂に入社し副社長で、2005年から町長をしています。実績として「民間のまちづくり会社「ア・ラ・小布施」を立ち上げ、住民の町おこし運動の中心人物として、栗どっこ市や国際音楽祭など、さまざまな企画イベントや事業を成功させるなど、小布施の名を全国的に高めた。」とあります。

投稿者 fujimori : 23:05 | コメント (2)

2007年08月28日 地域を知る

小布施2

 私は昔から「小布施」といえば「栗」というように、長野からのお土産に小布施の「栗羊羹」とか「栗かのこ」とか「栗落雁」をよくもらいました。どうしてここに栗の木が植えられているかというと、諸説があるようです。一説には、「高井郡小布施村次第」に書かれていることによると「申伝事」として、弘法大使が諸国を巡っての途次、小布施へこられて三個の栗を蒔いたのがそもそもの始まりと伝えています。また、小布施の栗以外に栗というと丹波栗も思い出しますが、萩野常倫という人が、父祖の領地丹波国から栗を取り寄せて、松川の治水のために植えたさせたのが発祥とも伝えています。どのようないきさつかは定かではないようですが、この小布施の町おこしをするときに、この「栗」をテーマにしようと思うのは当然でしょう。
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昭和61年に、この「栗」と「歴史的建造物」と「地域の特性」を活かしたまちづくりを進めていったのです。そのために重要な歴史的建造物の保存、新築建物の周辺との調和、土地は売買せず賃貸か交換することとされ、町・事業者・個人など関係者5者により協定を結び整備を行った「ユウ然楼周辺町並修景事業」は、画一的な都市再開発の手法とは異なり「小布施方式」とまで言われ全国的に高い評価を受けました。その方法は、それぞれの整備に要した経費はそれぞれの負担で行うなど、住民と町がお互いに責任を分担しあうような対等な立場で進めるやり方です。とかく、誰かに依存したり、誰かがやってくれるのを待っていたり、要求したりすることが多い中、とても参考になります。ここで決められた「小布施町うるおいのある美しいまちづくり条例」は、規制を目的としたものではなく、官・民が共に協力しあって良いまちづくりを進めることを基本理念としています。その基本理念 「外はみんなのもの、内は自分達のもの。」ということで、個人の敷地内であっても、通り沿いや通りから見える部分については公共的な空間として、周囲の景観に配慮した整備を行うこととしています。そのひとつの試みが、建造物の間の道に敷き詰められた栗の木煉瓦の散歩道「栗の小径」です。路地にいたるまで、様々にデザインされた栗の道は、歩いていても心地よく、歴史的な建造物によくマッチしています。
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もうひとつの試みが、平成12年からスタートした「オープンガーデン」です。これは、「点」から「線」へ、「線」から「面」への取り組みでもあります。個人の庭園を一般に公開し、来訪者との交流を楽しむもので、今、参加家庭は、60軒以上にもなっているそうです。
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町を歩いているときに、観光客がその参加プレートを見つけると、その庭に勝手に入っていき、もし、そこに住人がいればお茶を飲んだり話をしたりしていいそうです。私が訪れた家は誰もいませんでしたが、庭はきれいに整備されていました。この試みの後、周囲の景観との調和と美しい町並づくりのための指針「環境デザイン協力基準」を定めるとともに、「住まいづくりマニュアル」などを作成するなかで、「外はみんなのもの、内は自分たちのもの」という意識が住民の間に芽生え、住宅の配置、外観への配慮、さらには通りを行き交う人に安らぎを与える花壇や生け垣づくりなどに発展していきました。この取り組みが、昨年の土木学会のデザイン大賞を受賞しています。
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私が以前ブログに書いた高知の「牧野富太郎記念館」も同年大賞を受賞しています。保育園、幼稚園を含めて「オープンガーデン」のような「オープンキンダーガーデン」が取り組めたら面白いですね。

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2007年08月27日 地域を知る

小布施1

 私はよくいろいろな地方を訪れることが多いのですが、地方分権といわれながら、地方において過疎化も急激に進んでいます。駅前商店街はシャッター街に変わり、それでいながら、突然と畑の真ん中に大きなショッピングモールが出来ていることがあります。住民一人ひとりはそれで便利になるのかもしれません。しかし、その町の将来を長い眼で見たときに、それまで築いて来た住民のつながり、伝えてきた歴史、これから次世代の子どもたちに残していかなければならない文化、そんなことをもう一度見つめ直して街づくりをしていって欲しいと思います。こんな試みに取り組んでいる地域がいろいろなところに生まれ始めています。そんな町を応援したいですね。このような取り組みのひとつに、平成17年に創設された「東京理科大学・小布施町まちづくり研究所」があります。この取り組みに対しての紹介に中で、今までの街づくりをこう分析しています。「明治の維新と文明開化以降、日本各地のまちは、近世までに形成された良好で個性豊かな仕組みや景観を壊し、欧米の建築と都市の姿を模して「モダンに、モダンに」という掛け声とともに、雑然とした家並みをつくってきました。 欧米や国内の大都市の繁華街から「最新の店舗デザイン」を取り入れて家並みをつくる動きは、第二次世界大戦後も、高度経済成長・バブル経済の大波とともに何度も、日本各地を襲います。日本中のまちが、ラスベガス風、パリ風、あるいは東京の銀座風などのスタイルを取り入れた建て替えを進め、結果として、どこも同じような商店街をつくり上げました。」私が今までいた園が立っている多摩ニュータウンは、商店街だけでなく、住むところもみんな同じような建物、同じような公園、同じような生活スタイルを構成してきますた。同時に、子どもたちへの教育も、みんな同じようになることを目指し、親も同じようにすることを望み、要求するようになって来ました。その結果、「自立して生活環境をつくっていく意欲を失い、住民もまた、まちづくりは行政や専門家にまかせるものと思い込む。」つくづくと、街づくりと人づくりは似ている思いがしてきます。ですから、町の再生は、人の再生にもつながるのです。何度もブログで私が「町おこし」を紹介するのも、そんな思いがあるからです。そして、その手法はとても人づくりにも参考になることが多くあります。今回講演のついでに、日曜日に訪れた小布施の歩んだ道は、他の地域が歩んできた道とはちょっと違うようで、その取り組みに対する評価が、今高まり、その理念は注目されています。
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 その歩みをさらに力強いものにするために、多くの住民が参加意識を持ち、広い視野で考え知恵を出し合って合意形成しながら、慎重に、着実に行動を起こすことが必要となってきます。そのひとつと試みとして、教育と研究の新しい場の形成のため、学校法人東京理科大学と町と協働していくための研究所を作ったようです。が設立されました。まず、第一に行ったことは、歴史的建築に限らず路地や水路なども含めて、町内全域に残されている様々な歴史的遺構を実測して現状を正確に把握することです。その次に行ったのは、住民や行政の人たちへのインタビュー・アンケート調査です。過去の記憶、現状に対する考え、そして未来への希望などを調べ、まちづくりの基礎データを作ります。そのデータを分類し、統計をとり、分布図などを作成します。この分類・統計・分布図は、その町の景観・印象がどのような「要素」によって構成されているかを浮かび上がらせます。このような具体的なデータがあることによって、「○○らしさ」を議論することが可能になるわけです。また、「要素」は今後のまちづくりの素材でもあって、「どの素材を使って、どこから始めるか」など、まちづくりの手順を具体的に決めていくことができるようになるのです。

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2007年08月25日 地域を知る

見附

 私は、高校に通学するのに「赤坂見附」の駅で降りていました。なんとなく、当然のようにその駅を利用していたのですが、たまたま以前この近くを散歩していたところ、「赤坂見附跡」という指標を見つけました。
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当然ですが、ここに赤坂見附があったのです。見附は、江戸時代、枡形をもつ城門の外側の門で、見張りの者が置かれ通行人を監視した所です。枡形とは、直角に設けられた二つの城門と城壁とで囲まれた四角い空き地のことを言い、敵の直進をさまたげ、勢いを鈍らせる効果があるといわれています。江戸城には、内郭・外郭の城門を含めて俗に36見附と呼ばれていました。しかし、実際は50とも90とも言われるこの見附は数が多いということで通称36見附といわれたようです。よく言われるものに、赤坂見附のほか、喰違見附・四ツ谷見附・市ヶ谷見附・牛込見附・日比谷見附そして、浅草見附等々があります。紀尾井坂を登ると左にホテルニューオータニの正面玄関があり、それを過ぎると正面に石垣があり道はT字路になっています。この左に下るところが喰違見附跡です。喰違門跡を通り抜け、外堀方向へ行くと左眼下に弁慶濠が見え、そこには弁慶橋が架かっています。
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この弁慶濠は、ボートが浮かんでいます。高校1年生のとき美術の時間に私のそこを写生した絵が、しばらく校長室に飾られていました。私の出身高校はとても自由で、美術の時間は、200分間、自分の好きなことを好きな場所でやってよいということで、私は写生をしたのですが、模型を作っていた人もいたり、室内でデッサンをしたりしていた人がいました。ここから少し行くと、赤坂見附交差点が見えます。赤坂見附は寛永13年(1636)に筑前福岡藩主黒田忠之により、枡形石垣が作られ、同16年(1639)には御門普請奉行の加藤正直、小川安則によって門が完成しました。堀からの石垣は高く、当時の技術の高さが分かります。江戸時代の赤坂御門は、現在の神奈川県の大山に参拝する大山道の重要な地点でもありました。明治時代に門は撤去され、石垣も大部分が撤廃されましが、現在は一部が復元され、保存されています。また、JR四ツ谷駅の市ヶ谷方向口を出たところに四ツ谷見附跡があります。そして、JR総武線が走っている上を「四谷見附橋」が架かっています。この橋が広げられるときに橋梁が貴重ということで保存しようという運動の末、移築保存されているのが何度もブログに登場した多摩ニュータウンの「長池見附橋」です。
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 この橋のほとりにある園にこの3月まで勤務していたからです。四ツ谷見附跡から、JRに沿って土手を市ヶ谷のほうに歩いていくと、市ヶ谷駅に出ます。そして、靖国通りの横断歩道を渡ると見附交番があり、その裏側の公園の入り口に市ヶ谷見附跡があります。 更に土手を歩いていくと、右手に法政大学が見えてきます。そして、もう少し行った飯田橋駅の市ヶ谷寄り駅前交差点のはす向かいに、牛込見附の説明パネルがあります。江戸時代の牛込見附は田安門を起点とする「上州道」の出口といった交通の拠点であり、また周辺には楓が植えられ秋の紅葉時にはとても見事であったといわれています。その後、明治35年に石垣の大部分が撤去されましたが、現在でも道路を挟んだ両側の石垣や橋台の石垣が残されています。この見附は、江戸城外堀跡の見附の中でも、最も良く当時の面影を残しています。四谷から飯田橋にかけて大学から、怪談、そして見附など歴史を偲ぶいろいろなものが碑として残されています。テーマを決めて歩くのもいいですね。

投稿者 fujimori : 20:34 | コメント (2)

2007年08月22日 地域を知る

大学発祥

 私の住んでいる八王子市は、その周辺部も含め、23の大学・短期大学・高専があり、11万人を超える学生が学んでいる全国でも有数の学園都市です。ですから、いろいろな地域の人から、学生時代に八王子市に住んでいたことがあるとか、息子さん、娘さんが今八王子市に住んでいるとか言われます。そんな町を学園都市と今は言うのですが、私の学生のころは、「学生街」と呼んでいました。その中心は、神田駿河台地区あたりで、ここは日本国内で最も大学が集中している地区でもありました。明治時代に千代田区神田駿河台へ学問所が集積した名残から「神田駿河台学生街」と呼んでいたのです。昌平坂学問所などもありましたね。この地区には「日本のカルチェラタン」という別名もあります。カルチェラタン Quartier latinとはパリ大学(ソルボンヌ)あたりのことを指します。「ラテン語がよく喋られる町の一角」という意味ですが、なぜそう呼ばれたかというと、かつての西欧では学問はラテン語で行われるのが基本だったからです。神田駿河台あたりには、今は八王子市に移転しましたが、かつては中央大学もあり、一方で、大学の医学部や付属病院、および一般の市中病院が多く立地しており、医療地区でもあります。このような山の手の医療集中地区を、英語ではPill Hillというそうです。それよりもっと以前は、どうも飯田橋あたりが発祥の地のようです。このあたりには、「○○大学発祥の地」という碑が何本か立っています。その碑には、そのいきさつが書かれています。
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 東京女子医科大学:吉岡彌生は明治33年(1900)12月5日、この地にあった至誠医院のなかに東京女医学校を創立しました。翌34年4月、同校は牛込区市ケ谷仲之町に移転。のちに市ケ谷河田町へ移転して現在の東京女子医科大学に続きます。吉岡彌生の至誠医院は明治41年(1908)に旧飯田町四丁目31番地に移り、関東大震災までありました。
 日本大学:明治22年(1889)、ここ皇典講究所内に維新の志士、吉田松陰門下、時の司法大臣である山田顕義により日本法律学校が創立されました。これは、日本大学の前身にあたります。明治28年(1895)に三崎町に移りました。
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 東京農業大学:明治24年(1891)、この地、旧東京市麹町区飯田町河岸十番地に東京農業大学の前身育英黌農業科が徳川育英会により設立されました。初代黌主は榎本武揚でした。明治25年(1892)、現在の中央線である甲武鉄道の新設工事、また農場用地取得のため大塚窪町に移転しました。
 東京都府立第四中学校:明治34年(1901)、東京府立第四中学校が、この地にありました。同所は明治15年(1882)に国学を研究する目的で設けられたもので、明治21年(1888)に同じ地内に開設された補充中学校が、共立中学校、東京府城北尋常中学校と名を変えて府立第四中学校となったものです。その後、府立四中は明治37年(1904)に市ケ谷加賀町に移転し、戦後は新宿区戸山町に移り東京都立戸山高等学校となっています。
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 國學院大學:明治15年(1882)、この地、旧飯田町5丁目に国学を研究する皇典講究所が設けられました。明治23年(1890)、皇典講究所を母体として、所長山田顕義によって國學院が開校しました。現在の國學院大學です。大正12年(1923)、渋谷に移りました。
それぞれの大学の発祥は歴史的にも面白いものがありそうで、今度調べてみたいと思います。

投稿者 fujimori : 21:43 | コメント (2)

2007年08月21日 地域を知る

徽章業

 私の出身高校では、体育祭・合唱祭・文化祭の三つを合わせて「三大行事」とされています。体育祭、文化祭はどこでも行われますが、合唱祭もとても力の入った行事です。私が在籍していたのはかなり昔なので、最近はよく知りませんが、どうもますます盛んのようです。この合唱祭は、課題曲は設定せず、クラスごとに選曲し、全クラス参加の混声合唱コンクール形式による行事です。審査は、特別審査員6名とクラスから選出された審査員24名により行われ、その合計得点により順位がつけられます。最近の特別審査員には、本校を卒業した旗照夫さんもいるようです。また、「城ヶ島の雨」(作詞北原白秋)、「どんぐりころころ」等を作曲した本校の元音楽科教諭である梁田貞氏を讃えて制定された「梁田賞」というのもあります。この合唱祭の時期が近づくと、教室内とか、廊下などで練習をしている姿や歌声が聞こえてきました。私のころは、クラスは自分たちで決めるために、そのクラスの特徴が出ます。ですから、合唱が好きなクラスでは、合唱祭に関係なく、常に歌声がクラスから聞こえてきました。そして、この合唱祭は、5月の体育大会が終了後から合唱祭委員会の企画で準備が進められます。私が高校1年生のとき、学園紛争と呼ばれていた活動が盛んになり、生徒会が解散し、2、3年生がみんな降りてしまいました。そこで、1年生でしたが、私のクラスから行政委員長が選出され、彼から私は文化委員長にならないかという依頼を受けました。そして、何もわからないまま文化委員長を務めることになったのです。そのころ、この文化委員は「合唱祭」を企画、運営をしていました。私の高校は、当時とても自由で、すべて生徒に任せ、自立を謳っていましたので、この学校行事である「合唱祭」であっても、何も教師は手伝ってくれません。そのころの会場は、校内の講堂でしたが、そこを使うのでも学校に「使用許可願い」を届けなければならないのです。ですから、合唱祭当日だけでなく練習日なども計画して、その予定表を学校側に提出し使用しました。また、審査員も、当時誰に委員長を頼んだか忘れてしまいましたが、それぞれに頼みに行った気がします。また、入賞したクラスに渡す賞状だけでなく、トロフィーも買いに行った記憶があります。このトロフィーを売っている店が並んでいる地域があります。それは、飯田橋あたりです。ここに、「徽章業発祥の地」という碑が建てられています。
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 明治18年(1885)、鈴木梅吉さんという人が、洋行帰りのある人物から、小学校の卒業生にメダルを贈ることを相談され、メダルの原型彫刻に関心を持つ彫刻家と組んで、工場どころか機械もまったくない環境で、手打ち式原型で片面ずつ打って貼り合わせたメダルを苦心惨憺作り上げます。すでに大阪の造幣局にはプレス機が導入されていたそうですが、民間ではまだまだ原型打ちといってもすべて手作業という時代でした。これを機に、日本帝国徽章商会という民間の徽章業を創業し、明治末期、大正の初期においては日本で唯一の徽章の製作工場として栄えました。現在も、このあたりには徽章業に従事する人が沢山います。
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 これらの技術は、安土桃山時代の飾り金具・貴金属加工職人から受け継がれ、勲章の分野に貢献し、メダル、バッチなどの製作、昭和に入って貴金属装身具の紳士用ネクタイピン・カフスボタン、婦人用ブローチ・ネックレスなどを製作しています。戦争中は、非鉄金属の使用を禁じられ、一部の製品を除いて軍需品関係の製造工場として転換を余儀なくされましたが、終戦後、バッチ、メダル、トロフィーなどの徽章業として復活しています。徽章業にも歴史があるのですね。

投稿者 fujimori : 22:20 | コメント (2)

2007年06月20日 地域を知る

めだかと睡蓮

 それぞれの地域には、それぞれの特性があります。それは、風土と呼ばれるものであったり、伝統と呼ばれるものだったりします。その地域性を生かした保育が必要です。特に自然環境は、地域によって大きく違います。八王子の園は、ニュータウンということで、人工的ですが、自然が整備され、保全型の自然公園が作られています。園の園庭も広く、園庭の端には、ビートープがつくられ、川が流れ、水辺の植物が繁茂し、水の中の生き物が泳いでいます。それを覗き込む子どもの姿がよく見られました。それが、最近は水が流れなくなり、ただの草むらに覆われています。そこで、今、そのビオトープを水辺の植物の畑にしようと計画をしています。それに引き換え、新宿の園には園庭がほとんどなく、木を植えたり、ビオトープなど作ったら子どもの遊ぶ空間などなくなってしまいます。そんな中で、子どもたちのどのように自然と触れ合わせようか、身の回りに自然を自然に感じさせようかと思案中です。そこで、ある試みをしようとしています。それは、園の裏に「おとめ山公園」があり、そこには湧き水が出ています。その湧き水は、園の壁からも吹き出ています。その水の処理を考える上で、処理と言うより、活用という道を考えることにしました。とりあえず、地下に大きな水槽を作りいったんは湧き出てくる水をそこにためることにしました。そして、その水をタンクで上まで上げます。よく考えるのは、その水をトイレに使うとか、再利用を考えますが、その水を再利用しても利用料はただとしても、下水に流すのであればかなりの水道料を払わなければなりません。そこで、上にポンプアップした水を下に流す間に蒸発させてしまえば、下水管は使いません。蒸発する方法は、草木にその水をあげて、草木に吸い上げてもらうとか、土に保水させ、徐々に蒸発させるのです。その草木の一部を、園の壁に段差をつけて、そこに植えました。道行く人も楽しめるようにです。そして、その一番下の、子どもたちが覗き込める段には水をはって、水草を入れ、めだかを放しました。
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そのめだかが、たくさんの赤ちゃんを産みました。小さなめだかが群れをなしています。しかし、最近は梅雨に入ったと言うのに、暑い日が照り付けています。直射日光の下で、水は温かくなり、水草では日陰がありません。そこで、今日はそこに「睡蓮」を買ってきて植えました。睡蓮の学名は水の妖精といわれるほど人を魅了します。画家のモネも睡蓮に魅了され、多くの絵画を残しています。そして、睡蓮は、ハスと違って、葉が水面に浮いた状態になっており、花は水面近くで咲きます。ですから、めだかには日陰を提供します。その花は、開いて閉じてを3回繰り返します。これを人間のサイクルに例えて 日中(開く=目覚める)夜(閉じる=眠る)というところから、「睡眠する蓮」→「睡蓮」と名づけられたそうです。その下を行き来するめだかは、日本で一番小さな淡水魚ですが、かつては、北海道を除く、主として稲作地帯に広く分布して、どこででも見ることができました。ところが、最近身近なところでは見かけなくなってしまいました。そして、1999年には旧環境庁から「絶滅危惧種」に指定されました。
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毎朝、この脇を通る子どもたちはここを覗き込んでいます。たまに小学生が手を突っ込んでいますが、本当はこの風景は昔見た姿かもしれません。また、地域の人からは、「この水辺はとても心が癒されていいねえ。」とか、「めだかが赤ちゃんをいっぱい産んだよ。」と教えてくれたりします。ほんの小さなことでも、大きなかかわりがうまれます。

投稿者 fujimori : 23:06 | コメント (4)

2007年05月01日 地域を知る

神田明神

 この連休が終わると、下町では次々と祭りが始まります。その案内が、地下鉄やJRの駅のホームに貼り出されています。つい、その日程を確認してしまいます。なんとなく、下町育ちとしては、血が騒ぐのです。そのはじめを飾るのが、5月10日から始まる「神田明神」の大祭です。神田明神は、東京都千代田区外神田二丁目にある神社で、正式名称「神田神社」といいます。神田・日本橋・秋葉原・大手町・丸の内・旧神田市場・築地魚市場など108か町会の総氏神です。一昨年かその前の年に、その祭りの中で最も醍醐味のある「神輿宮入」を見に行きました。今年は、13日に行われます。この神輿宮入とは、神田明神宮入参拝を目指し、約八十基の神輿は各連合及び町会の出発地に集合。式典後に宮入巡行神輿渡御となり、徐々に熱気と興奮が高まります。この宮入を見たのです。私の地元であった鳥越神社は、千貫神輿といわれる大きな神輿一騎を、各町内が担ぎ次いで、最後の「宮元」という、神社のある町会が宮入をしました。(私は、高校卒業まで、その宮元の町内に住んでいました)しかし、この神田明神は、各町会の持っている神輿が次々に宮入をし、宮入参拝を済ませた二十基以上の神輿が、秋葉原中央通りお祭り広場で繰り広げる神輿降りは、熱気溢れるものです。この神田明神は、先日ブログで取り上げた「築土神社」と関係があります。承平5年(935年)に敗死した平将門の首が京から持ち去られて当社の近くに葬られ、将門の首塚は東国の平氏武将の崇敬を受けました。嘉元年間に疫病が流行したとき、これが将門の祟りであるとして供養が行われ、延慶2年(1309年)に当社の相殿神とされました。その将門の首を納めたという桶が社宝として伝わっていたのが、「築土神社」なのです。もうひとつ、神田明神といえば、当神田明神下の長屋に住居を構えていたというのが、野村胡堂の代表作「銭形平次捕物控」の主人公・銭形平次です。「へいじ」という名前が、私の名前と同じこともあって、小さいころから私は、「銭形平次」とか、「へいじ、へいじ」とか、「親分」とか呼ばれていました。もちろん、銭形平次は架空の人物ですが、神田明神の敷地内に碑があります。
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銭形平次は、テレビ時代劇や映画、舞台などによく取り上げられますので、「平次は神田明神下に住む十手を預かる岡っ引で、長屋に女房のお静と二人暮し。ひとたび事件が起こると、八五郎(通称:ガラッ八)との捜査で、卓越した推理力と寛永通宝を使った「投げ銭」を得意とする鮮やかな捕縛をみせる。」ということは有名です。また、ルパン三世シリーズに登場する銭形警部は、銭形平次の子孫とされていることもしられています。しかし、銭高組の看板と社章から「銭形」の名前を思いついたということや、『水滸伝』の登場人物のひとりである没羽箭張清が投石を得意にしていたというエピソードから、投げ銭のヒントを得たということはあまり知られていないかもしれません。また、何で投げ銭かというと、人を殺傷する刀や弓などの武具と異なり、当たったからといって命を落とすことはありません。銭形平次の不殺生主義にはうってつけの武器だったのです。また、どんな人柄であったかは、関沢新一作詞、安藤実規作曲で、舟木一夫が歌う歌の3番の歌詞を見ればわかります。「道はときには 曲りもするが 曲げちゃならない 人の道 どこへゆくのか どこへゆくのか 銭形平次 なんだ神田の 明神下で 胸に思案の 胸に思案の 月を見る」

投稿者 fujimori : 23:44 | コメント (2)

2007年04月22日 地域を知る

地域に溶け込む

 国立新美術館の設計は、六本木という町の中の建物という感じがします。そのように、建物は、その地域の町、自然、気候にマッチしたものでなければなりません。また、そこで暮らす人々の生活にマッチしたものでなければなりません。また、新しい時代、生き方を提案するものでなければなりません。各地には、それぞれ県立美術館をはじめとして、さまざまな美術館があります。県立美術館は、どの地域も、その存在を誇示するかのように立派なものが多くあります。それに比べて、ある作家の作品を集めたり、個人の所蔵作品を展示したりする美術館は、とても個性的なものが多くあります。また、海や山の囲まれた美術館には、自然を取り入れたものも多くあります。私が昨年訪れた美術館にもそんな建物がありました。その中で、印象に残っている美術館を紹介します。
 瀬戸大橋の懐にある「東山魁夷せとうち美術館」(香川県)この喫茶ルームからは、前面のガラスごしに瀬戸内海が広がり、そこには、大きく瀬戸大橋がかかっています。瀬戸内海の青と、東山の青を基調とした絵画がとてもマッチしています。
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 館内から見える風景「絵本の森美術館」(軽井沢)軽井沢は、個人美術館のメッカ。それぞれにいろいろな工夫が見えます。その建物は、外観だけでなく、室内も、窓から見える景色も、美術館にいるという気持ちよりも、軽井沢らしく、別荘にいる気分にさせます。
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 津和野の町並みに合った漆喰の白壁に瓦を葺いた酒蔵のような外観の「安野光雅美術館」津和野は、町全体がひとつのコンセプトで統一されています。その町並みに違和感なく建っている美術館です。
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 原生林の残る大自然の中にある「ウッドワン美術館」(広島県)ここを訪れたときは、秋真っ盛りで山は燃えるような赤に染まり、それを強調するかのように夕日の赤で山が照り映えています。
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 こんな地域の溶け込んだ美術館を思い出したのは、昨日、散歩していて、地域に溶け込んだ建物を見つけたからです。この建物は、私からすると意表をついたのです。それは、武道館近くにある「築土神社」です。
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 入口の鳥居とビルのマッチング感と、ビルの上にそびえる剣の意味深さ、そして参道とビル下のコンクリートの一体感、その先に鎮座する社殿と隣接するビル壁、上を覗けば意外と開けている空間。ビルとマッチした社務所を含むビル全体の外観は壮麗で、非常に神威的な空間が巧みに織り込まれたこの神社は、1995年に千代田区の都市景観賞を受賞しています。このビルは、地上8階地下1階で、ビル名は、「アイレックスビル」といいます。アイレックスとは「モチの木」を意味し、かつての鎮座地であった田安のモチの木坂に因むといいます。参道入口の鳥居の左脇には、当社の神木としてモチの木を植栽されています。築土神社は、まさに神社信仰に都心部環境を同居化させた神社で、これほどの地域に溶け込み、近代的なバランス感は、不思議な癒しを与えます。
 それにしても、小中学校は、全国どこにいっても多くは同じ形なのでしょうね。もしかしたら、学校建築は、最も遅れている建築かもしれません。また、将来を担う子どもたちが過ごす場所であるのに、その入れ物は軽視されている気がします。

投稿者 fujimori : 19:49 | コメント (3)

2007年04月07日 地域を知る

地域性

 昨日、園の近くの落合第4小学校の入学式に参加してびっくりしたことがいくつかありました。ひとつは、来賓がたくさんいたのですが、その中で来賓席のトップが、PTA会長です。その次に区議会議員です。園の開園落成式のときに、保護者代表と区議を呼んだのは、この地域では大正解でした。来賓席の3番目が中学校長ですが、その次が、また、中学PTS会長代理です。その次が私でしたが、その後に続いたのは、第何十何代PTA会長、第何十何代PTA会長、同窓会会長、同窓会副会長と並びます。地域に住むOB,OGだらけでした。そういえば、朝、来賓控え室に行く前に校長室に立ち寄ったら、PTA会長だけがその部屋にいて、校長先生より先に出てきました。そして、自己紹介をすると、私を控え室に連れて行って、来賓が座っているテーブルごとに私を紹介して歩いてくれました。でも、それが、校長でも副校長でもなく、PTA会長というところがなんともいえません。もうひとつびっくりしたことは、最初にPTA会長と会ったときに「いつも、うちの子がお世話になっています。」と言われたので、「お子さんがうちの園児でしたっけ?」と聞いたら、「いえ、うちの子は幼稚園です。」と言われました。「あれ?」と思っていると、そのあと、地域の人に紹介されたときも、どの人も「うちの子がお世話になっています。」と挨拶します。PTA、同窓生、地域の人にとって、地域の子どもはみんな「うちの子」なんですね。その来賓室でも、ほかにもびっくりしたことがありました。式が終わって部屋に戻ってきて、私はそそくさと帰ろうとしたら、なんと、机の上には、それぞれの席の前に、立派なケーキが並んでいて、席に着こうとすると、「コーヒーにしますか?紅茶にしますか?」と、飛行機内のように聞かれます。多くの来賓分、どうやって会計をやりくりするのでしょうか。お付き合いで立派なケーキを食べたのですが、私は、ケーキは好きなほうですが、さすがに午前中からの立派なケーキには参りました。そのケーキを食べながら、周りの人との会話も、今までのニュータウンの小学校では決して出ない話題でした。それは、「私は、この小学校を卒業したのよ。」「あの人もそうよ。」私の席の中で一人だけ、「私はここに嫁に来たので違うわ。」と言った人がいただけでした。ニュータウンの小学校では、誰一人その学校の卒業生はいませんでした。当然ですよね。平成9年開校ですから。その地元出身の年配の女性たちは、着物を着て、品はあるのですが、話し方は、「ちゃきちゃきの江戸っ子」です。キップが良くて、小気味良いリズムで、はっきりとものを言います。私も下町育ちなので、なんだかその話しぶりは、懐かしいものがありました。新宿も、下町風情が残っているのですね。それはさておき、入学式ですが、開式の言葉の後が、「敬礼」です。1年生は、きょとんとしていました。入学式は、地域によってさまざまな形があるようですね。テレビで放映していましたが、1年生のほとんどが、羽織袴で参加しているところがありました。教室が、七五三の参拝のようですこういう映像や、それぞれの入学式に参加してその違いを知るにつけて、それぞれに地域性があると思うと同時に、その地域性というのは、たぶん、誰かが、いつのころにか作ったものではないかと考えます。どう見ても、大昔から、伝えられてきたものとは思えませんから。それを、さも、その地域の伝承されてきた文化のように受け継いでいくのは、変な気がします。

投稿者 fujimori : 20:21 | コメント (2)

2007年03月31日 地域を知る

日赤と佐野

 JR飯田橋駅を降りて目白通りを九段の方角へ歩いていくと、歴史のプロムナードと名づけられたこの道の所々に「歴史の標柱」が何本もあります。それを見ながら歩くと、かなりブログネタが集まります。その中のひとつを紹介します。それは、「日本赤十字社跡」という標柱です。
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この標柱は、最近のブログに関係がありますが、1894年に芝に移るまで、この地に日本赤十字社があったことを示すものです。1877年の西南戦争のとき、佐野常民が博愛社を結成して、敵味方の別なく傷兵の手当をしたのが、我が国における日本赤十字活動の始まりといわれています。その後、1886年、博愛社という病院が現在の飯田橋駅附近に建てられ、国際赤十字条約に加盟したのを機に日本赤十字社と名称を改めたのです。このとき、博愛社を結成した「佐野常民」は、日本赤十字社の初代社長になりますが、佐賀の弘道館出身なのです。佐賀に行った時に、時間がなくて見ることはできませんでしたが、見ようと思った施設に「佐野常民記念館」があったのです。佐野常民は文政5年(1822年)、肥前国佐賀郡早津江村(現・川副町)に生まれます。医学を修め、成績優秀だったため、佐賀藩主鍋島直正の信頼を得て、日本で第一級の蘭学者、化学者、医者について各一年ずつ学んでいます。その間に大村益次郎など維新に活躍した多くの人と知り合います。多分、その影響もあったのでしょう、常民は単なる医者にとどまることができず、勤皇運動に傾倒していきますが、それが藩の知るところとなり、急遽、長崎に転学を命じられます。そこで、幕府の海軍伝習所に入り、航海・造艦・射砲術などを学びます。ここで得た知識をもとに、佐賀藩に帰ると汽車、蒸気船の模型などを完成させ、各国で開催された万国博覧会に佐賀藩から参加します。そして、ウィーンの万国博覧会に参加した際、敵味方の区別なく戦場で負傷した将兵を看護する赤十字社があることを知り、元老議員に呼びかけ、岩倉右大臣に嘆願書を提出します。しかし、博愛社の規則第4条にある「敵人ノ傷者ト雖モ救ヒ得ヘキ者ハ之ヲ収ムへシ」とする規定、つまり「敵の傷者も差別なく救う」という博愛社設立の趣旨は、当時の政府には受け入れられませんでした。常民はひるまず、京都の天皇仮御所にも行きますが、要領を得られず、九州で征討軍総監有栖川宮熾仁親王に趣意書を出し、その日即決でやっと許されます。この日、5月1日が博愛社、のちの日本赤十字社創立記念日です。そして、1886年に日本政府がジュネーブ条約に加入したことに伴って、翌1887年に名称を日本赤十字社と改称し、現在の形となり、初代の社長に就任しました。最初、この博愛社の活動は、当時、敵の負傷者まで助けるという考えが理解できなかった人々を驚かせ、人道・博愛という精神文化の基礎をわが国に植え付けたのです。
 佐野は、9歳のときに佐賀藩の「弘道館」に通います。資料によると、ここでの生活で、難しいことに挑戦する喜びと、知らなかったことをこつこつ覚える楽しみを知り、勉強の面白さを感じています。もちろん、もともと頭がよく、勉強はできるほうだったのかもしれませんが、このように勉強と相対しているなら、未履修問題は、違う問題になっていたに違いありません。「学んで損をした」という感想は、なんとも情けない話です。「学ばなくて損をした」「知らなくて損をした」という感想は、学ぶ楽しさや、知る喜びがあってこそ出てくる感想でしょう。

投稿者 fujimori : 21:19 | コメント (2)

2006年08月20日 地域を知る

銀座

 一昨日訪れた石見銀山を見て、日本が如何に銀の生産国として世界で有名だったかを知りました。銀山で採れた銀は、鋳造所に運んで貨幣にします。慶長3年(1598)、徳川家康は、伏見に銀貨鋳造所を設けます。これが、銀座の起源です。ここでは銀の品位を決め通貨を製造しましたが、同13年には京都に移されます。時を同じくして大坂にも銀座がおかれましたが、通貨の製造はしませんでした。主に生野・石見銀山の産銀や、粗銅から抽出した銀を京都に回送する役割を担ったようです。また、駿府(今の静岡市)にあった銀座を、1612年(慶長17年)に江戸に移しました。銀座の「座」とは、貨幣や、度量衡に従う特別な免許品を製造した場のことです。銀座の他に、金座、枡座、秤座、朱座、などがありました。金貨を鋳造した金座は、同じ江戸の常磐橋門外、今の日本銀行がある場所でした。寛政の改革の時、江戸、京都、大阪、長崎にあった4銀座を廃止し、のちに、江戸銀座のみ日本橋蠣殼(かきがら)町に移し、再興されたのです。銀座というのは、始めは地名ではなく、役所の名称にすぎませんでした。そして、銀座は、日本橋の金座があったあたりを両替町と呼んだことに合わせて、新両替町と呼ばれました。しかし、新両替丁と書かれたわきに、銀座という文字が書かれています。通称として銀座という呼びかたがされ、親しまれていたようです。銀座という町名になったのは、1869年(明治2年)のことです。
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江戸に幕府が置かれた初めの頃、銀座のあたりは浜と海でした。家康から家光にかけて、幕初の将軍たちは江戸の町づくりに、力をいれなければなりませんでした。そこで、海を埋め立てて、土地を造る工事に、譜代大名の力をあてたのです。この「天下普請」によって生まれた土地には、工事にあたった大名の領地名が付けられたのです。
銀座4丁目交差点の四つ角に「三愛ドリームセンター」が建っています。
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これは、三愛社長が、奈良法隆寺の五重塔からヒントを得て、真中の一本の支柱によって支えられた総ガラス張りの円筒の塔を、銀座の街の真ん中に作ることを考えたのです。オープニングは、昭和38(1963)年1月13日深夜0時でした。このオープン記念で、私は中学生の代表として三愛のビルから見た銀座の絵を、出来立てのビルのガラス越しに見て描いた覚えがあります。この「三愛ドリームセンター」は、「日本のモダン・ムーブメントの建築100選」に選ばれています。
また、銀座というと、若い人は知らないでしょうが、私たちの年齢では、柳を思い浮かべます。しかし、柳といえば川岸の木で、なんだか幽霊が出るというイメージで、街路樹というイメージはありませんね。ということで、最初に植樹されたのは日本の代表的樹木、桜と松、楓でした。しかし、銀座は、埋立地のため土地に水分が多過ぎ、植樹された木々が次々に根腐れをおこしました。そこで登場したのが、元来水辺の樹である柳でした。仕方なく植えた柳が、銀座のシンボルとなり、歌や詩歌にも登場するほどになりました。今は、銀座通りからは姿を消していますが、他の通りでは、復活しつつあります。
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 歌といえば、昭和4年、西條八十作詞、中山晋平作曲の「東京行進曲」の1番ですが、当時、モガ・モボ全盛の、アメリカナイズされた東京の尖端的都市という感じがあります。「昔恋しい 銀座の柳 仇(あだ)な年増(としま)を 誰が知ろ ジャズで踊って リキュルで更けて あけりゃダンサーの 涙雨」

投稿者 fujimori : 20:50 | コメント (3)

2006年07月24日 地域を知る

祭り

 先週の土曜日は、園の「夕涼み会」でした。園の行事は、四つの主な目的に整理しています。1、子どもの発達を保護者に伝える。これは、年長さんが、はっぴを着て、山車を曳いたり、神輿を担いだり、夜店の店番をします。今年は、山車を曳きました。2、普段の保育を厚くする。今年は、ゲーム、製作、クイズ、体験コーナーを通して、今年のテーマである「楽器」を親しませようというものです。3、親子のふれあいを提案する。親子で各夜店を歩き、楽しみながら、親子で過ごします。もうひとつ4番目は、地域の文化を伝承するというものです。園のある場所は、ニュータウンとして新しく開発された地域のため、伝承されている文化がありません。そこで、園では、昨年は、市内に伝わる盆踊りを民謡協会の役員さんに来てもらって、職員全員が正確な踊りを習いました。私が住んでいる町は、旧市街化地域なので、祭りの近くなると、近くの神社から、盆踊りの曲が流れてきます。毎晩、有志が踊っているのです。その音を聞くと、「ああ、そろそろお祭りだなあ。」と感じたものでした。そこで、園での夕涼み会が近づくと、毎夕、園庭で盆踊りの曲が流れ、子どもたちが練習します。「ああ、そろそろ夕涼み会だなあ。」と感じてもらえたらと思っています。また、食事は、郷土食を調べて、それを食べてもらい、ランチョンマットにはそのレシピを書きました。今年は、地域の子どもたちが行っているように太鼓を積んだ「山車」を曳きました。
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 私が育った場所は、東京下町の鳥越神社のすぐそばです。この鳥越神社の夏祭りの呼び物は、夜祭りと東京一の重さが有ると言われている千貫神輿による町内巡幸です。巡幸は鳥越一帯を氏子たちにより、30回もの受け渡しを行います。それぞれの町内のはっぴを着ていないと担げませんでした。そして、最後の神社内に入れるのが「宮元」というはっぴを着た人です。神社に入れる頃には暗くなってきます。闇夜に、ゆらゆらと揺れる提灯の明かりをつけた神輿が、少しずつ神社へと近付き、そして、宮入をします。この光景の感動は言い表わし様がありません。
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本社神輿と宮入
私が住んでいたのは、その「宮元」だったので、子どもの頃、よく、ほかの地域の人がはっぴを借りにきていました。また、町内ごとにも神輿があり、子ども神輿もありました。ですから、土曜日は、学校に行って、出席だけとって、急いで家に帰り、神輿を担いだものです。そして、所々の住民からおひねり(といっても、現金ではなくお菓子や、スイカなど)をもらいます。終わると銭湯の入湯券をもらいます。銭湯では、肩の赤く腫れ上がったのを自慢しあいます。また、本社みこしを眺めるのに、すごい人ごみでよく見えないので二階から見ると、神様を上から見るなと怒鳴られたものです。鳥越の里は蔵前通りと国道6号線(旧街道江戸通り)の概ね交わる辺りに所在し、昔より交通の便の良いところでした。第二次世界対戦以前は職人さんが軒を並べて居住した、東京下町の一角として栄え、戦後は各種製造・卸問屋・商店が並ぶ町なみに変化を遂げました。又、この近隣の食を預かる商店街は、おかず横丁として人々にしたしまれ、戦後の下町の食文化・風俗を支えています。
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 そんな中で育ったためか、お祭りになると血が騒ぎ、神輿を担ぐ祭りを見たくなります。今は、あらゆる地方から神輿マニアが集まり、本来の地域文化ではなくなりなじめています。そのために、争いやいさかいも多いようです。もと地元民としては、地域の文化を大切にして欲しいと思います。

投稿者 fujimori : 22:12 | コメント (0)

2006年05月10日 地域を知る

地名

 地名というものは、そこに住み始めた人々が、あるいはその周辺に住む人々が、その土地をほかの土地と区別して呼ぶために付けた名前です。その名前を決めるときに、その土地の特徴や、そこに伝わる伝説や、そこの産業などからつけることが多いようです。たとえば、2月に行ったオーストリアの「ザルツブルグ」という地名も、その地方では岩塩が取れたので、塩(ソルト)を意味する「ザルツ」が取れる地方ということでつけられています。日本でも、必ずしも「塩」に関係するとは限りませんが、「塩」が付いた地名が日本各地に多くあります。たとえば、山梨県に「塩山市」という市がありました。先日、それがなくなっていることにびっくりしました。最近、大事な地名が消えていっています。それは町村合併や開発などで由緒ある地名がどんどん消えていっているからです。これは、単に地図から地名が消えていくのではなく、史的遺産が亡くなっていくのだということなのです。先日行った長崎の「琴海町」もなくなってしまいました。(何とか、琴海は残っていますが)そして、新しい名前は、どこにでもあるような名前(富士見台、旭が丘、○○銀座、すみれが丘、平和台など)になることが多いようです。また、いくら考えた名前にしても、歴史的には、愛着がありません。その名前を聞けば、その言葉の意味を理解できる人であれば誰でも、すぐに「あの土地だな」と直感できるような意味をもつものでなければ、人々の間での意志の疎通が行われないのです。意味のないただの音、単なる符号では、それをあらかじめ約束した人々の間では合い言葉として通用しても、それ以外の人には場所を特定する「地名」として理解できないのです。 また、合併での綱引きの結果、それぞれの立場を重んじるあまりに、たとえば、「三菱東京UFJ」というような奇妙な名前になってしまうのです。
 地名には、それを命名し、使ってきた祖先の思いが滲みこんでいます。地名には、何千年という歴史がその中に刻まれているのです。文献に残されていない事実が地名を解読することによって判明することもあるのです。日本の地名で文献に記載されたもっとも古いものは、「魏志倭人伝」にでてくる「対馬」、「壱岐」、「末廬」などですが、文献に残っていなくても、たぶん、何らかの地名を、人間の生活、定住とともに付け始めたと思います。そのときは、何かの意味があったでしょう。しかし、今の統廃合と同じように、昔も意味なく名前を変えさせられたことがあります。「風土記」の編纂命令の中に含まれていた「郡郷の名に好字を著けよ」といういわゆる「地名二字好字令」が日本の地名を混乱させました。これは、「漢字に好字を用いる」「表記を二字で行なう」というもので、旧来の地名が全く消し去られたケースもありますし、消されないまでも、音だけ残して、意味のない漢字に当てはめられてしまった場合もあります。myoko1.jpg
 たとえば、4月に行った宿から眺められた「妙高山」という山名は、古くは「越の中山」と呼ばれていたものが、好字二字令により「名香山」と当て字され、それが「みょうこうざん」と読まれるようになり、「妙高山」の字が宛てられたものだそうです。ほかにも、昔は「泉」、「木(き)」、「島」と表記されていましたが、「すべての地名を漢字二文字にせよ」ということで、和泉、紀伊、志摩となりました。「火」の国は「肥前」と「肥後」に分かれました。もっと、地名を大切にしてもらいたいですね。

投稿者 fujimori : 18:23 | コメント (2)

2006年04月24日 地域を知る

合羽橋

 園で、子どもクッキングをすることがあります。手打ちうどんとか、パン作りとかです。また、定期的にするものとして、「お米とぎ」もやります。家庭で炊く大きさの炊飯器分ですが、当番の子がといで、炊飯器にかけ、昼食のときに調理室で炊いたご飯と混ぜて食べます。また、誕生会の日のおやつを、その月に誕生日がある3,4,5歳児で作ります。その前の日に、その材料をその子たちで買いものに行きます。「のびちゃん、おつかいに行ってきてちょうだい!」とアニメ「ドラえもん」の中で、お母さんはすぐ買い物かごを、のび太にわたします。同じように、ジャイアンの家庭でも、サザエさんの家庭でもかつおくんにお使いを頼みます。昔は、買い物は子どもの役目でした。買うものを覚えていくこと、お店でその素材のよしあしを見分けること、買うものを注文すること、時には値段の交渉をすること、お金のやりとりをすること、などその中には様々なことが含まれていました。今は、残念ながらなかなかそんな環境はありませんが、できるだけそんな体験をするようにしています。
 同様に、大人も買い物は楽しいですね。毎年、調理の人と一緒に、合羽橋まで、買い物に行きます。私も楽しみですが、調理の3人もとても楽しみのようです。また、私が運転して車でいくのですが、道中の車の中も、話がゆっくりでき、お菓子などを食べたり、さながらピクニック気分です。毎年行くのは4月だったので、途中、靖国神社脇など通るときは、花見気分です。今年は、今日行ってきました。桜は終わっていましたが、神宮外苑や東宮御所あたりの新緑は、とてもきれいでした。
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 このあたりは、もともとは入谷たんぼ(低地で水たまりや沼が多く、農家は殆どレンコンを作っていた)の水を集めての川が、新堀川で、合羽橋、菊屋橋を経て蔵前の所で鳥越川(三味線堀から隅田川に注ぐ)に合流し隅田川につながっていました。どうして、合羽橋というかというと説が二つあるようです。1つめは、その辺りにその昔伊予新谷の城主の下屋敷があり、小身の侍や足軽が内職で作った雨合羽を、天気の良い日に近くの橋にズラリと干していたという、「雨合羽」説です。もう1つは、今から約180年前、合羽川太郎(本名合羽屋喜八)は、この辺りの水はけが悪く少しの雨ですぐ洪水になってしまうのを見かね、私財を投げ出して掘割工事を始めました。なかなか捗らない工事の様子を見ていた隅田川の河童達は、川太郎の善行に感動して夜な夜な工事を手伝ったそうです。そして、なぜか河童を見た人は運が開け、商売も繁盛したといいます。近くに通称「かっぱ寺」(曹源寺)があります。大正の頃から現在のような道具専門店街の形を取り始めて合羽橋と名付けられました。合羽橋道具街は、例えば、レストランを開店するコックさんやすし屋を始める板前さんが、食器から厨房器具、看板からユニフォームまですべて揃えることが出来、この業種としては日本一の問屋街です。包丁、鍋、冷凍、冷蔵庫、サンプル品、ショーウィンドウ、ケース、看板、いす、テーブル等々があります。そして、レトロ調、中華調さまざまです。今日も、すれ違う人たちは、専門のお店の人というより、外国人が、カメラを片手に歩いている姿の方が多く見えました。蝋細工の料理サンプル品が外国人に人気だそうです。

投稿者 fujimori : 19:39 | コメント (0)

2006年03月07日 地域を知る

里山

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 今日は、園の裏の方に広がる里山を子どもたちと一緒に歩きました。里山は、自然と人間が、共に生かされてきた所です。そんな里山に似合うのは、人の気配を感じる立ちのぼる煙と、あぜ道を駆け抜ける子どもたちの姿です。このあたりには、まだ、人間に一方的に開発された街作りの隙間に、そんな里山が残っています。そんな里山をのんびりと歩いていると、突然いい香りがしてきます。紅梅が満開です。
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 道端を見ると、枯れているかに見える草はらも、春の準備が整っています。風はまだまだ冷たく、春はまだだいぶ遠いと滅入る気持ちを、吹き飛ばしてくれます。これから一面に咲くであろう青い花は、「オオイヌノフグリ」です。
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 日本の春の花には欠かせませんが、もともとは、地中海原産の帰化植物なのです。日本在来種は、「イヌノフグリ」と言いますが、今ではすっかり稀な野草になってしまいました。セイヨウタンポポが年々増えているのと似ていますね。タンポポの見分け方は、有名で、在来種はすべて総苞外片は反りませんが、外来種は総苞外片が反り返るので識別できます。イヌノフグリの在来種は、淡紅紫色で花がひとまわり小さいようです。また、オオイヌノフグリは、名前が有名ですね。子どもがその意味を知ると大喜びをします。しかし、その花の可憐さにしては、へんな名前なので、この花ほど改名が論議された花も珍しくありません。また、その横を見ると、紫の小さな花が見えます。この花も、道端や田んぼの畦道などで普通に見かける花です。葉の形が仏さまの蓮華座に似ていることから、「ホトケノザ」と呼ばれます。花を数段つけることから別名サンガイグサ(三階草)とも呼ばれているようです。しかし、春の七草でいうホトケノザでは、ありません。この花を料理して食べてみた学者があり、全く食用にならない事から、春の七草のホトケノザは通称タビラコの事であるというのが一般的になっているようで、今日ではホトケノザと言えばこの花を指します。春早く土手や野原を赤紫色に染め、群生すると、レンゲ畑のように見えます。似たような花に、オドリコソウやヒメオドリコソウがあります。ホトケノザも、やはり、古い時代にヨーロッパから渡来した帰化植物です。
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 帰り道に、これは野草ではありませんが、「馬酔木」を見つけました。アセビ、アセボ、アシビと読みます。伊藤左千夫を中心に創刊されたアララギ派の短歌雑誌 「馬酔木」(あしび)が良く知られていますね。この枝葉には有毒成分を含んでいて、馬が食べると酔って足がなえることから「足癈(あしじひ)」と呼ばれ、しだいに変化して「あしび」そして「あせび」となったそうです。漢字の「馬酔木」もその由来によります。また、このことから、葉を煎じたものは殺虫剤としても使われています。日本原産のツツジ科の常緑低木でスズランの形をした花が古くから愛でられ、万葉集に10首詠まれています。
 これからの季節、気候がよくなると同時にさまざまな花が咲き始めます。のんびりとあぜ道を歩きながら、春を感じたいと思っています。

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2005年12月12日 地域を知る

鎌倉の歴史

 加齢してくるにしたがって、様々な変化が現れます。できなくなったこと、できるようになったことがあります。また、見えにくくなったこと、見えるようになったことなどもあります。ですから、あるときは、年を取ったことを嘆くときがあったり、ありがたく思ったりすることがあります。つくづく、人間というものは、勝手なものだと思います。逆に、よくできているなあと思うこともあります。そんなことで、以前と同じものを見ても、そのときとまったくちがう見方をすることがあります。ですから、いつも新鮮に感じます。日曜日に行った鎌倉も、あらためて、「鎌倉」の歌を味わうことができました。
 1番にまつわる話です。(七里ヶ浜のいそ伝い/稲村ヶ崎 名将の/剣投ぜし古戦場
鎌倉幕府の専制政治は頂点に達していたころのことです。そこに、天皇の新政復活を目指す後醍醐天皇の動きが活発化し、討幕の兵を募りました。その声に応じた一人が上野国(群馬県)の新田義貞だったのです。そして、鎌倉に向かう途中で、いろいろなところで戦っていきます。その戦場として有名なひとつに、「分倍が原」の合戦があります。新宿から八王子に京王線で行く途中にある駅です。多摩川を背にして後がない幕府軍は、決死の勢いで戦い、新田軍は入間川まで後退したのですが、新田軍に味方する武士が増え、幕府軍を圧倒し、再び南下した分倍が原で激しい戦闘となり双方で数千人の死傷者が出たほどでした。さらに関戸河原にまで南進し、勝ち進みます。そして、いよいよ鎌倉に近づいていきます。鎌倉は南が海で、東西は山に囲まれた天然の要害です。極楽寺坂の切り通しは鎌倉七切通しの一つで、新田義貞の鎌倉攻めの激戦地の舞台の一つです。極楽寺一帯は北条軍が強固な陣を構え、海上には大船を浮かべ、一部の隙もありません。幾度となく両軍が攻防を繰り返し、多数の死者がでました。新田義貞は、極楽寺坂の突破をあきらめ、稲村ガ崎の海岸沿いからの攻略に切り替えざるを得なかったのです。しかし、水が深く、渡ることができませんでした。『太平記』によれば、このとき義貞が黄金造りの太刀を海に投じて竜神に祈ったところ、水が引き、干潟となったので、新田軍は鎌倉に突入することができた、とあります。そして、源頼朝以来150年続いた鎌倉幕府は滅亡したのです。
4番(上がるや石のきざはしの/左に高き大銀杏/問わばや 遠き世々の跡)は、有名ですね。鶴岡八幡宮での右大臣就任拝賀の儀を終えて石段を下ってきた3代将軍実朝は、大銀杏の陰から飛び出した甥で前将軍頼家の遺児公暁によって暗殺されたという話です。
5番(若宮堂の舞の袖/しずのおだまきくりかえし/かえせし人をしのびつつ)は、最近のNHKの「義経」で印象が深い、源義経の愛妾・静御前を歌ったものです。義経が兄頼朝と不仲になって京都から脱出したとき、静もこれに同行しました。しかし、翌年吉野山で義経と別れたのち捕らえられ、鎌倉に送られました。そして、都第一と歌われた白拍子の舞を見たいという頼朝・政子夫妻の求めにより、鎌倉鶴岡八幡宮社前の若宮堂で踊りました。そのとき、義経を恋い慕う歌を歌ったので、頼朝はこれを怒り、「殺してしまえ」と命じますが、政子がそれを諌め、髪を下ろすことで許されました。その後、静は義経の子を出産しますが、男児であったため、即日由比ヶ浜に沈められてしまいました。そののち静は許され、京に帰されましたが、以後の消息は不明だが、故郷の磯村で小さな庵を結び、義経と殺された子の菩提を弔い続けたと伝えられています。

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2005年11月21日 地域を知る

西条

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 私は、ウォーキングが好きです。休みの日は、できるだけ、あちらこちらを歩き回ります。これは、運動のためということもありますが、歩き回ることが好きなのです。どこを歩き回るかというと、人によって、大きく二通りあると思います。ひとつは、山など、自然の中を歩くことです。私は、それも好きですが、もっと興味を持つのは、町の中を歩き回ることです。日曜日などは、人があまり町の中を歩いていない住宅街や、店がみんな閉まって閑散とした町の中を歩くのが好きなのです。それは、町並みが好きだからです。そこに人はいなくても、そこに住んでいる人の顔がみえます。その通りを通る人の姿が浮かびます。そこの生活が見えます。そこに実態としての人がいない分だけ、想像の中の人はたくさん生活しているのです。そして、思いがけない発見をすることがあります。小さい路地を発見したときの喜びは言いようがありません。私が高校生のころ、地域の地図を買って、そこに書かれている道をすべて歩いてみようと思ったことがありました。その道を歩いたら、赤い線を引きます。すべての道を赤くしていったのです。私にとっての道は、どこか目的地に行くための通路ではなく、生活の場なのです。たぶん、これは私が下町で育ったからでしょう。以前、路地について書いたように、子どものころから、道が遊び場であったからです。今でも、どこかに行くときでさえ、道が二つに分かれているとつい知らないほうの道を歩いてみようとします。私の子どもが小さかったころ、よく子どもに怒られました。「知っているほうの道を、通ってよ!」子ども心に知らない道は不安が多かったのでしょう。
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 もうひとつ好きな町並みがあります。それは、地方に講演に行ったときに、その町の町並みを歩くことです。そこには、いつも歩く道と同じような興味のほかに、その道から歴史を感じるからです。普段の人の顔だけでなく、昔の人の顔が見えるからです。ですから、地方に行っても、自然のなかを歩くよりも、町の中を歩き回ってしまいます。どうということもない町でさえ興味があるのですから、今日歩いたような町並みは、とても感動します。朝のうちのほんのいっときしか時間がありませんでしたが、その町並みには、明確な顔がありました。主張があるのです。今日の町は、広島の山陽道「西条」という町です。この西条の町の屋根瓦は殆ど赤褐色です。町並みはゆるくカーブしていて、ほぼ中央に桝形が設けられ、道は鍵の手状に折れ曲がっています。旧山陽道の本町通りから少し北に御茶屋(本陣)跡があり、当時の御門が復元されていました。明治以降、酒造の町 西条という呼び名で呼ばれています。あんなに、醸造所が並んでいる町はあまり見たことがありません。煙突が何本も並び、白壁の家が連なり、道端には、地域のお年寄りが水を汲みに来ている井戸があります。いい町並みです。

投稿者 fujimori : 22:50 | コメント (0)