2009年03月19日 [由来]
ミヤマヨメナ
東京では、ここに2,3日急に暖かくなりました。そういう季節になると、さまざまな花が咲き始めます。園の裏の入り口には、昨年植えた草が残っていましたが、春になって花をつけ始めました。一つは、パンジーといわれている三色スミレです。大きな花の品種や、小さい花の品種とも花をつけています。

もう一つは、これはパンジーのように決して派手ではありませんが、この花からとても日本的な美しさを感じます。また、その名前もとても日本らしさを感じます。
この花は、もともと日本の多くの場所に自生する多年草のキク科の草です。道端でよく見かける野菊の一つで、秋にうす紫か白い菊の花をつけます。一般的にそれらをまとめて「ヨメナ(嫁菜)」と呼ばれます。この種類は、若芽を摘んで食べることがあり、古くは万葉集の時代から使われていたようで、オハギ、あるいはウハギと呼ばれています。それを入れて炊き込んだ「ヨメナご飯」なども有名です。そのヨメナの中で、山地の日陰に生える多年草で、多くの野菊が夏から秋にかけて咲きますが、3,4,5月の春から夏にかけて開花する種類があり、その名を和名で、は深山に生えるヨメナの意味で、「ミヤマヨメナ(深山嫁菜)」と呼ぶ品種があります。春に開花するので「野春蘭」「野春菊」「東菊」と呼ばれ、古くから栽培されていました。
こうしてミヤマヨメナは、栽培品種として改良されてきました。特に江戸時代から、茶花、庭の下草として利用されるようになり、それ故に改良が行われ、様々な園芸品種が存在しています。切り花に向く草丈の高くなる品種と鉢植えに向く背の低い品種の2タイプに分けることができます。花色は主に紫、白、ピンクなどと多くあります。
時は鎌倉乱世の時代。源実朝が急死して源氏直系の将軍が居なくなったために北条政子は京の皇族の鎌倉への下向を、後鳥羽上皇に要請しました。その結果、源頼朝の血筋で左大臣・九条道家の子・三寅が決まりましたが、まだ幼いため、政子が代理として政務を見る事になりました。そして、三寅は8歳で元服して藤原頼経と名のり、征夷大将軍になったのですが、この将軍後継者問題で、幕府の横暴に屈した後鳥羽上皇は、その子・土御門上皇、順徳天皇らと密かに倒幕の計画を練り、ついに後鳥羽上皇は諸国の兵を募って挙兵します。武士が政権を握って以来、初の朝廷と武士との対決であった「承久の変」です。そして、上皇軍は敗北し、首謀者の後鳥羽上皇は隠岐島へ、土御門上皇は土佐へ、順徳天皇は佐渡へ流されます。その後、順徳上皇は、20年余年後に亡くなるまで佐渡島で暮らします。都での雅やかな生活が忘れられない日々の続くある日、庭に咲く清楚な野菊に目がとまり、気に入ってこの花がそばにあればしばし、みやこのことも忘れられると漏らします。そして、こんな和歌を詠みます。「いかにして契りおきけん白菊を都忘れと名づくるも憂し」それ以来、島民の間ではミヤコワスレと呼ぶようになったといいます。
それが、ミヤマヨメナの別名として栽培されるようになったのです。今の時期、花屋に行くと色とりどりの花の中にあって、清楚で可憐な草姿をし、日本的風情が感じられる「ミヤコワスレ」は、その名からも哀愁を感じ、ずっと親しまれてきました。これらの由来にはいろいろな説があるようですが、その花を眺めながら、そんな時代と、その時の思いに気持ちを馳せることも、花を眺めるときの趣向かもしれません。
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2008年06月02日 [由来]
鷹
昨日は、少し風邪気味でしたので、あまり遠くには行かず国分寺にある「お鷹の道」をのんびりと歩きました。
江戸時代寛延元年より国分寺市内の村々は、尾張徳川家の鷹場に指定されていました。それにちなんで地元では、崖線下の湧水が集まり、野川にそそぐ清流沿いの小径を「お鷹の道」と名づけ、現在約350mを遊歩道として整備されています。四季折々の散策路として人気がありますが、今は、沿道のいたるところに「カラー」の花が群生していて、白い色がきれいでした。
園の裏手にある「おとめ山公園」も、江戸時代に将軍家の狩猟地で、一般の人の立ち入りを禁止したので御留山といわれたように、ずいぶんと将軍家は狩りが好きだったようです。
三鷹という地名も、かつて徳川将軍家及び御三家が鷹狩を行なった鷹場の村々が集まっていたことと、世田谷領・府中領・野方領にまたがっていて「三領の鷹場」だったことに由来すると言われています。徳川家康や三代将軍・家光などもたびたび鷹狩りに訪れているようです。江戸城を中心に五里(20km) 以内の村々は幕府の鷹場、それより遠い外側の村々は尾張・紀伊・水戸の徳川家などの鷹場で、三鷹の地はその境界だったようです。
日本では支配者の狩猟活動は権威の象徴的な意味を持ち、古墳時代の埴輪にはすでに手に鷹を乗せたものも存在しています。日本書紀には仁徳天皇の時代には鷹狩が行われ、タカを調教する鷹甘部が置かれたという記録があります。そして、そのころから鷹場が禁野として一般の出入りが制限されていました。中期以降になって、貴族層による鷹狩が主流となり、坂上田村麻呂、在原行平、在原業平は鷹狩の名手としても知られています。
江戸時代には代々の徳川将軍は鷹狩を好んで、徳川家康や三代将軍家光は特に好み、将軍在位中に数百回も鷹狩を行ったようです。その後、五代将軍綱吉は動物愛護の法令である「生類憐れみの令」によって鷹狩を段階的に廃止しましたが、八代将軍吉宗の時代に復活しました。
目黒区に「鷹番」と言う地名があります。このあたりにも、江戸時代、代々の徳川将軍がしばしば鷹狩りに来ていました。鷹狩りは放鷹といい、飼い慣らした鷹を拳にすえ、山野に放って野鳥を落としたり捕らえさせたりする行事で、将軍が放鷹を行う場所を鷹場、御拳場、御留場などといいました。この放鷹は本来、武の鍛錬と娯楽を兼ねた行事でしたが、鷹狩りに託して領内の民情などをさぐろうとした傾向もありました。
三鷹を境とした5里の範囲内に6筋が設けられました。目黒筋の御鷹場もその一つで、鷹場組合、鳥見役所が設置され、鷹匠や鳥見の役などがおかれて鷹の飼養、訓練や鷹場の管理にあたりました。また、鷹場の各所に鷹番を置いて鷹場への立ち入りを禁じた高札をたてて村の連帯責任で見晴らせたりしました。目黒筋の鷹番が居住していた所が、鷹番と言う地名になったのです。
イギリスでも、貴族や名士のスポーツとして300年の歴史を持つとされるキツネ狩りを禁止する法案が可決されていますが、禁止反対の声は保守党支持の傾向が強い富裕層にとどまらず、「農村の伝統軽視」と反発する狩猟愛好者や農家にも広がっているといいます。一部の人の贅沢が、歴史と緑を都会に残しているとは、難しいですね。
投稿者 fujimori : 21:00 | コメント (4)
2008年02月03日 [由来]
八幡宮
今日は、東京では大雪です。最近、どの地域でも雪が余り積もらなくなっているようです。東京でも降っても、積もらなくなりました。しかし、東京で雪が降ると困ることがあります。それは、気圧の配置で、春が近づくと、太平洋側に雪が降り始めます。ですから、今日の大雪ではありませんが、1月、2月に大雪になります。すると、困るのは入学試験に行く子どもたちです。大学センター試験の日には、不思議と、よく雪が降ります。今年はその日に降らないでよかったと思っていたら、今日の中学入試の日に大雪です。入試を受ける家庭は、朝から大変でしょうね。
また、今日雪が降って大変なのは、2月3日節分ですから、芸能人など有名人を呼んで豆まきをする神社は大変でしょうね。私の地域で有名な場所は、高尾山です。毎年テレビ中継がありますが、力士たちが大勢来て豆まきをします。しかし、今日は、ただでさえ山の上で大変なのに、今日の山頂は大雪でしょうね。
他のさまざまな場所で豆まきを行いますが、今年の初詣に行った門前仲町の富岡八幡宮でも、「節分豆撒き式」が催されます。その富岡八幡宮は寛永4年(1627年)、当時永代島と呼ばれていた現在地に御神託により創建され、世に「深川の八幡様」と親しまれてきました。ですから、この場所は、さまざまな舞台として歴史を刻み、それにまつわる石碑や石造が境内に建てられています。
ここには、横綱力士碑、大関力士碑、強豪関脇力士碑、釈迦ヶ嶽等身碑、巨人力士碑、巨人手形碑、超五十連勝力士碑、出羽海一門友愛之碑など相撲にまつわる数々の石碑があります。
それは、この宮が江戸勧進相撲発祥の地として有名だからです。先日、大相撲の千秋楽を迎え、その最後の取り組みの瞬間視聴率は、かなり高かったようです。しかし、相撲界には、色々なトラブルや問題は多いのですが、昔からあったようです。相撲興行は、江戸時代に京・大阪からはじまりますが、トラブルが多くしばしば禁令が出ていました。その後禁令が緩み、1684年、幕府より春と秋の2場所の勧進相撲が、この宮の境内で行うことが許されます。今、新横綱誕生時には相撲協会立会いのもと刻名式がおこなわれ、新横綱の土俵入りが奉納されます。
境内大鳥居横に建立されているのは、江戸時代後期の測量家・伊能忠敬の銅像です。
以前のブログ九十九里浜の項目で書いたのですが、それは生まれが九十九里町ということでしたが、ここに銅像が建てられているのは、忠敬は近くの黒江町(現在は門前仲町1丁目)に隠宅を構えていて、約200年前の寛政12年4月19日の早朝に富岡八幡宮に参拝して、暇夷地(北海道)測量の旅に出かけたのです。忠敬は、このときを含めて全部で10回の測量旅行を企画しましたが、遠国に出かけた第8回までは、出発の都度必ず、内弟子と従者を率いて富岡八幡宮に参詣して、無事成功を祈念したのです。
彼の偉業について学校で習うのですが、いま自分が年を取って改めて彼を見て元気付けられるのは、その偉業ではなく、49才で家督を譲り、かねて趣味としていた天文を更に探求すべく江戸に赴き、勉強し、その結果55才から73才に至る18年間かけて、日本全土の測量、地図製作という大事業を楽しみながら成し遂げたということです。
歴史は、今の時代で納得がいったり、自らを見直したり、様々なことを伝えてくれます。
投稿者 fujimori : 20:08 | コメント (4)
2008年01月04日 [由来]
矢
今日は、仕事始めでした。正月ということもあって、同じ町内にある「氷川神社」に職員と破魔矢を買いに行きました。破魔矢は、わざわいや悪霊を払いのける破魔弓の矢のことです。これは、は武家の風習で、戦場に赴く前に武運長久を祈願して神社に甲冑・刀・槍・弓矢などを奉納した際、参拝した神社から守護神のご加護の証として模擬の弓矢をいただき、これを戦場での御守護として奉ったことが発祥の由来と言われています。それが、江戸時代の後期には一般庶民の間にも広がり、男児の成長を祈願して神社に参拝した際に、破魔矢と破魔弓をセットしたものを授かったとされています。また、明治以降は、魔を射り破るという意味合いから魔除けの弓矢と言われ、現在では主に初詣に神社へ参拝した際に、「開運厄除・家運隆昌」を祈願して祀ります。
しかし、小型の弓にお守りなどをつけた神社の縁起物の「破魔矢」という言葉は、もともとは破魔矢奉製所という会社の商標登録でした。それが、一般的になったため、数年前に商標登録の更新をしませんでした。ですから今では普通に使われることが多くなりました。しかし、明治神宮の矢は守護矢と言いますし、鏑矢(かぶらや)ともいいます。「鳴りかぶら」ともいい、射ると先端の鏑が鳴り、戦場で戦いの合図として最初に射る矢のことで、今でも物事のはじまりを「嚆矢」(こうし・鏑矢の意)といい、また昔から祓の意味でも射られていました。
また、富岡八幡宮の場合は、破魔矢のことを「開運白羽の矢」といいます。ここへは、今年家族で初詣に行きました。この八幡宮は、永代橋の近くの門前仲町にあり、下町情緒が残っていて、下町育ちの私としては、とても懐かしいにおいがしました。
富岡八幡宮の社殿によると、寛永4年(1627年)、菅原道真の末裔にあたる長盛法印が、弘法大師作の八幡大菩薩像を常に信仰していたところ、ある夜、「武蔵野国の永代島の白羽の矢が立っている場所に私をまつりなさい。」とのお告げを受けました。お告げどおりに永代島にやってきた長盛は夢の託宣の通り白羽の矢が一本納められているのを見つけ、創祀したのが富岡八幡宮といわれています。毎年正月に授与される「白羽の矢」は上記の故事に由来し、「開運吉事の当り矢」と呼ばれ、開運、除災招福、家内安全に大きなご利益があるといわれています。最近では受験生の合格祈願のお守りとしても人気です。
しかし、もともと白羽とは「真っ白な矢羽」のことで、こんな逸話から来ています。「賀茂川の川上から白い羽の付いた矢が流れて来た。少女が神に捧げる水を汲んでいたところ、矢が水桶のところでぴたっと止まった。不思議に思った娘は矢を持ち帰って軒にさしておいた。すると、たちまち彼女は懐胎して男児を出産した。白羽の矢は、神がその子供を生ませる少女を求めて流したものだった。」ということで、人身御供を求める神が、望みの少女の家の屋根に人知れず白羽の矢を立てた、という俗説に基づく言葉で、犠牲者として選び出されることを指しました。しかし、この話の神意で大役を押しつけられるさまから、今では、多くの人の中からこれぞと思う人が選ばれる事、大切な任務に抜擢されたような場合に使います。
伝承されていくものと、進化していくものと、変化していくものがあるのですね。
投稿者 fujimori : 22:23 | コメント (3)
2007年11月23日 [由来]
酉の市
少し前のブログで、八王子城の落城の話を書きましたが、そのときに、甲州街道の中の八王子にあった宿場の八王子三宿の横山・八日市・八幡は現在の場所に移ったのです。それが今の横山町であり、八日町、八幡町です。もちろん、八日市宿ではその名のとおり8の日に市が開かれたのですが、横山宿では毎月4日に市が開かれ、賑わったそうです。そして、この市の平穏無事と人々の幸せを願って市守神社が建てられました。そして、この神社が、江戸時代中期になって,授福開運の神を合祀したのが 大鳥神社です。ですから、この神社では二つの例祭が行われます。市守神社の例祭は,初牛祭で2月の初牛の日に行われます。もうひとつ大鳥神社の例祭は、11月の酉の日行われる大鳥祭です。俗に「お酉様」とか「酉の市」と呼ばれ, 縁起物の熊手や八頭が売られます。今日、駅に向かう途中、このあたりがとても賑わっていて、屋台店が立ち並んでいました。今日が、今年二度目の酉の市だったのです。
酉の市は、各地の鷲神社(おおとりじんじゃ)の祭礼で、古くは酉の祭と呼ばれ、大酉祭、お酉様とも呼ばれます。酉の市で縁起物を買う風習は、関東地方特有の年中行事です。八王子にある大鳥神社は、「鷲神社」とは書かないのがどうしてか分かりませんが、本来の鷲神社は、日本武尊を祀り、東征からの帰還の際、同地で戦勝を祝したとされているので、武運長久、開運、商売繁盛の神として信仰されている神社ですが、関西に本社がある大鳥大社との関係は明らかではないようです。「おおとり」という呼び方を「鷲」と書くのは、江戸時代に、大鷲神社の本尊(本地)は鷲の背に乗った釈迦とされているからです。神社の本尊が釈迦とは面白いですね。この酉の市の由来も神道と仏教と違っているようです。神道では、大酉祭の日に立った市を、酉の市の起源としています大鳥神社(鷲神社)の祭神である日本武尊が亡くなった日とされる11月の酉の日に大酉祭が行われます。また、浅草・鷲神社の社伝では、日本武尊が鷲神社に戦勝のお礼参りをしたのが11月の酉の日であり、その際、社前の松に武具の熊手を立て掛けたことから、大酉祭を行い、熊手を縁起物とするとしています。仏教のほうの由来では、鷲妙見大菩薩の開帳日に立った市を酉の市の起源としています。1265年11月の酉の日、日蓮上人が、上総国鷲巣(現・千葉県茂原市)の小早川家(現・大本山鷲山寺)に滞在の折、国家平穏を祈ったところ、金星が明るく輝きだし、鷲妙見大菩薩が現れ出ました。これにちなみ、浅草の長国寺では、創建以来、11月の酉の日に鷲山寺から鷲妙見大菩薩の出開帳が行われています。しかし、どうも実際は、花又の鷲大明神の近在農民による収穫祭が江戸酉の市の発端といわれているようです。「酉の市」の立つ日には、おかめや招福の縁起物を飾った「縁起熊手」を売る露店が立ち並びます。また、市を開催する寺社からは小さな竹熊手に稲穂や札をつけた「熊手守り」が授与されます。この熊手は、鷲が獲物をわしづかみすることになぞらえ、その爪を模したともいわれ、福徳をかき集める、鷲づかむという意味が込められています。この酉の市が開かれる「酉の日」は、毎日に十干十二支を当てて定める日付け法で、「酉」に当たる日のことで、12日おきに巡ってきます。ですから、日の巡り合わせにより、11月の酉の日は2回の年と3回の年があります。初酉を「一の酉」、次を「二の酉」、3番目を「三の酉」と言い、「三の酉」まである年は火事が多いとの俗説がありますが、今年は二の酉までしかありません。しかし、火事には気をつけたほうがいいでしょうね。
投稿者 fujimori : 20:24 | コメント (4)
2006年08月30日 [由来]
ラジオ体操
最近は、早まっているところもあるようですが、東京では、8月31日で夏休みが終わります。今日、明日は夏休みの宿題の追い上げで大変でした。最近は、あまり宿題が多くなくなりましたが、かつては、夏休み帳を始め、絵日記、昆虫採集、植物採集、朝顔の観察、天気調べ、写生、ずいぶんといろいろあったものです。しかも、さかのぼれないものもあって、あせったものでした。夏休み帳は後でまとめてやってもいいのですが、各ページに日付と、天気、気温を書く欄があって、気象庁に問い合わせたりしました。
もうひとつ、夏休みといえば、「ラジオ体操」がありました。私が小学生のときは、近くの鳥越神社の境内で行われていました。スタンプを押してもらう紙を首からぶら下げて、毎朝通ったものでした。今は、近くの小学校では、夏休みの最後の1週間だけしかしませんが、昔は、夏休み中、ずっと行っていました。全部押してもらいたくて、夏にどこにも出かけたくなかったほどです。どうしても、田舎に出かけなければならないときは、留守の間、判を押してもらうのを人に頼んで出かけました。ずいぶんとまじめだった気がしますが、ほかにあまり楽しみがなかったからかもしれません。
私が、隣の市で子ども会を父親たちと立ち上げたとき、父親たちで交代して、毎日ラジオ体操をしていました。しかし、近くの公園でやっていたら、朝早くから音がうるさいと苦情が来たので、ラジオを真ん中に囲んで、小さい音で丸くなってしたものでした。しかし、参加者が、子どもたちだけでなくお年寄りも含めて次第に増えていったので、もっと大きい公園でやることにしました。そして、その輪が広がり、そこに参加していたお年寄りからの提案で、夏の間だけでなく、1年中、毎日やりたいということになり、毎日になり、あの、巡回してくるラジオ体操の収録をしたこともありました。その地では、今はどうしているのでしょうか。簡易保険加入者協会で平成16年に行った調査では、全国の小学校におけるラジオ体操実施率は76.4パーセントで、現在でもかなり多くの小学校でラジオ体操が実施されているようです。また、児童が小学校以外でもラジオ体操を行う機会がある、と回答した小学校は83.3パーセントにも達しているようで、小学校の内外どちらにもラジオ体操をする機会がない児童は3.4パーセントに過ぎないようです。ですから、何かというとラジオ体操をしてもほとんど知っているのですね。
昭和3年11月に、逓信省簡易保険局が昭和天皇ご即位の大礼を記念し、「国民保健体操」という名称で旧ラジオ体操第一が制定され、NHKの電波にのって放送開始されました。昭和5年に万世橋警察署の巡査が地域の住民を集め、全国に先がけて近くの公園で早起きラジオ体操会を始めました。この公園は、JR秋葉原駅から近い東京都千代田区神田佐久間町にある「佐久間公園」で、ここにはこれを記念して「ラジオ体操発祥の地」と刻まれた石碑と、体操の各動作をあらわしたレリーフ、その由来が記されています。江戸時代、この佐久間町界隈には町人地と武家の屋敷地とが混在していました。「佐久間町」の名前の由来は、佐久間平八という材木商が住んでいたことに由来するそうです。また、万世橋は、東京最古の石橋が架けられた時に、時の大久保東京府知事が「万世不朽の橋」と称え万世橋(よろずばし)と命名したのが、いつのころか人々がこの橋を「まんせいばし」呼ぶようになったそうです。
万世橋
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2006年07月29日 [由来]
花火
今日は、隅田川の花火大会がある日です。(私は、残念ながら、今日から熊本に来ています)隅田川の花火といえば、懐かしい思い出があります。何回かブログで書いていますが、私は、鳥越神社の近くに住んでいました。(近くを3回引っ越しましたが、高校卒業までその辺に住んでいました。)小学生のころ、家から、いつも隅田川の花火を見ていました。花火大会の日は、朝から音の花火が打ち上げられます。パンパンという音が鳴り始めると、「ああ、今日は花火の日だ!」と思って、そわそわ落ち着きません。母親は、台所で、枝豆とかとうもろこしを茹でています。父親は、干し物台にござを敷いたりと、見る場所の準備をしています。そのころの干し物台は、どの家でも、屋根の上に乗っていました。家は、それぞれ密集していましたから、相撲の升席で相撲観戦しているようで、隣の家の干し物台とは、とても近い距離にありました。その日は、早めに夕食を済ませます。そして、干し物台に枝豆やとうもろこしなど、食べ物を運び上げます。そのころになると、空は、薄暗くなってきます。親戚の人や、知り合いが集まることもありました。花火が打ち上げられる前から、それぞれの家々の干し物台では、宴会が始まります。もちろん、今のようなご馳走ではありませんでしたが、子ども心にうきうきしました。そのうちに、花火が打ち上げられ始めます。それは、夜空に開く、おおきな花のようであり、まさに「花火」です。今考えると、たぶん、いろいろな工夫は少なく、大きさもあまり大きくなかったかもしれません。そして、一発ずつ、間をあけてあげられたとおもいますが、今、どこの立派な花火を見ても、そのころの美しさのほうが美しい気がします。その花火が1発上がるたびに、どの家からも、大きな声が聞こえてきます。「たまやー」「かぎやー」と。どうしてそんな掛け声をかけるのかも分からなかったのですが、私たち子どもたちも大声で、大人のまねをして、隣の家に負けないように大声を出しました。この日だけは、子どもたちも、花火が終わるまで起きていてよかったのです。(といっても、8時とか8時半だったと思いますが)花火大会の日は、今の時代では、ホンの些細なイベントかもしれませんが、当時としては、家族みんなで楽しむ、近所とも一体感を感じるイベントのひとつだったのです。この両国川開きの花火は、明治維新や第二次世界大戦などにより数度中断しています。私が小学校6年生のなると、交通事情の悪化のために中断されます。それが、また、1978年(昭和53年)に現在の名称として復活し、以後毎年続けられています。今は、大変な混雑で、昔の粋な衆がしていたように、屋形船に乗って船から花火を見ることできます。
日本で最も古い花火業者は、江戸の宗家花火鍵屋で、1659年に初代弥兵衛がおもちゃ花火を売り出します。彼は、「鍵屋」を屋号として代々世襲するようになりました。1733年、関西を中心に飢饉に見舞われ、江戸ではコレラが猛威を振るい打数の死者を出した暗い世相の中、将軍吉宗が死者の慰霊と悪霊退散を祈り両国大川(隅田川のこと)の水神祭りを催し、それに合わせて大花火を披露し、これが隅田川川開きの花火の起源になったと言われています。一方、鍵屋と並んで江戸の花火を代表したのが玉屋である。玉屋は鍵屋から暖簾分けをして店を構えたのが始まりです。そして、両国橋を挟んで上流を玉屋、下流を鍵屋が受け持つようになって、双方が腕を競いあいました。そして、交互に花火を揚げたため、観客は双方の花火が上がったところで、よいと感じた業者の名を呼びました。これが、「たまやー」「かぎやー」の掛け声の由来です。
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2006年05月01日 [由来]
ハナミズキ

今、街を歩くと、盛りに咲いている花があります。「ハナミズキ」という花です。花が咲くと、こんなにもこの木が多く植えてあったのだと再認識することがあります。桜の花が咲いたときもそう思いますが、このハナミズキもあっという間に町の街路樹に増えました。多く見られる「アメリカハナミズキ」は、明治45年(1912年)に、尾崎東京市長がアメリカのワシントン市へ桜(ソメイヨシノ)を贈った際、その返礼として大正4年(1915年)にアメリカから贈られたという話(ブログ3月27日)は有名ですが、本当は、日本には明治中期に渡来したそうです。ハナミズキ(花水木)は北アメリカ原産で、和名「アメリカヤマボウシ」といいます。「ハナミズキ」には白のほか、ピンクのかわいい花を付けるものがあり「ベニバナハナミズキ」と呼ばれます。ハナミズキの花も美しいですが、秋の紅葉も素晴らしく、秋につける実は赤く、これもきれいです。ハナミズキの花弁と思われているものは総苞片で、本当の花は中央に固まっています。よく見ると一つ一つにちゃんと4枚の花弁と雄しべがあります。普通は、花弁は受精するとすぐにその役割りを終え、普通は落ちてしまいます。それは、受粉のために昆虫の目印となる役割だからです。しかし、ハナミズキのような総苞やアジサイなどの萼は、かなりの期間そのままで残り、花の形を保っています。それは、ハナミズキやヤマボウシは、一つ一つの花の開花の時期をずらして、どれかの花は確実に種子を残す戦略であり、その時期がずれる長い間、開花し続けなければならないので、総苞が花弁としての役割りを受け持っているのです。自然の仕組みというのは、すごいですね。この花の英名はdogwoodといいますが、これはハナミズキの皮の煮汁で犬のノミ退治を行ったことによるそうです。また、樹皮や根皮は、整腸や強壮に効果があるそうです。和名の「アメリカヤマボウシ(山法師)」とつけたのは、アメリカから渡来したときに、日本の山法師(花水木とよく似ていますが、咲く時期が花水木より1ヶ月ほど遅いのと、花の先端がとがっている(花水木は丸い)ことから区別できます。)に似ているので、とりあえずこの名前がつけられた経緯があるそうです。以前に、この木の枝を切っておいて一晩経ってみたら、切った枝の下の土が湿っていました。それは、枝の切り口から樹液が出たからです。ですから、樹液が多いことから「水木」と呼ばれ、花を愛でる水木なので「ハナミズキ(花水木)」といいます。ほかにミズキという木がありますが、この木も、春先にこの木を伐ったり、樹皮に傷をつけたり、枝を折ったりすると樹液がたくさん出てきます。かなり前ですが、自然観察会に出たときに、そのような説明を受けて、感心した覚えがあります。また、そのときに、ミズキに聴診器を当てて聞いてみると、幹から水の流れる音がすると聞きました。聴診器を買って聴いてみたのですが、私は上手に聴くことができませんでした。(やはり、聴く練習をしないと、脈の音ですら聴くことができませんでした)また、お正月に繭玉を飾る家庭が多くあります。繭玉は本来、餅や団子などを小枝に刺し、五穀豊穣を析るためのものです。その繭玉に使われる木のほとんどはミズキです。今の時期、ミズキやハナミズキの枝を切って、そこから水が出てくるのを見せ、木も水を飲んでいるということを子どもに知ってもらうのもいいかもしれません。園児の当番さんが、植木への水遣りを真剣にやってくれるかも。
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2006年03月10日 [由来]
ツバキ
園の玄関には、1枚の手ぬぐいが飾られています。季節ごとに、私が浅草の手ぬぐい店で買ってきます。そこに書かれている絵は、日本手ぬぐいに書かれているために、色調はやさしく、構図は大胆で、とても日本的で、季節感がよく表れており、私は、見ていて心が和みます。今、飾られている柄は、ツバキです。先日、氷見に伺ったときに、先方の方が、私にぜひ見てもらいたいということで、山の奥まで連れて行ってもらったのが、コメントにも書いていただいた「老谷の大椿」です。富山県の文化財に指定されている天然記念物のツバキです。樹齢は500年以上と推定される日本でも屈指の巨樹で、3月中旬から4月中旬にかけて真紅の花を枝いっぱいにつけるそうで、年によっては、2月下旬でも咲くことがあるらしいのですが、今年は、雪が多くて、そばに近づくこともできませんでした。花いっぱいのところか、落ちた花で周囲が敷き詰めたようになる様子も格別だそうです。である。富山県には、もう一つ「長坂不動の大ツバキ」という天然記念物のツバキがあるそうです。こちらも、樹齢は約400年の巨樹だそうです。本州に野生するツバキには、ヤブツバキ、ユキバタツバキ、ユキツバキ等がありますが、この二箇所のツバキは、どちらもヤブツバキで、暖地性常緑広葉樹、花は赤色の五弁花です。
椿は縄文時代から人々の生活に使われた、大変馴染み深い木です。椿の木は堅く、しなやかなため、その特徴を利用して石斧の柄や櫛に使われました。また、「続日本記」に、渤海の使者に日本特産の椿油一缶を贈ったという記録があります。当時ツバキ油は食用、灯用、化粧用以外に不老長寿の薬とされていたようで、寒く椿が育たない渤海国にとっては、大変貴重な油であったようです。万葉集が詠まれる以前より、紫は最も高貴な色とされていました。その紫色を染めるのに欠かせなかったのが椿の灰でした。平安時代は、椿は宮廷や貴族の間で高貴な花、聖なる花木として扱われ、献上花、宮中行事、衣装、調度にも多く椿が使われ始めました。また、椿は昔から邪悪をよせつけぬ呪木として、厄除けなどに使われていましたが、葉もまた同じような力を持ったものとして扱われました。現在、おめでたい植物としては中国風に松竹梅が定着していますが、江戸前期までは松竹椿を使うことのが多かったようです。室町時代から流行した茶道により、茶庭、茶花の世界が膨らみ、椿が観賞用植物として脚光を浴び始めます。どうして、こんな歴史を言うかというと、なんと、昔の人にはなじみのある「大島椿」の製造元が、八王子市にあるのです。ツバキ油はヤブツバキの種子から採れる植物油ですが、ヘアケア用、スキンケア用、また食用としても大変優れた特徴をもった油です。
また、椿といって思い出すのが、「椿姫」です。これは、アレクサンドル・デュマと娼婦マリ・デュプレッシとの恋愛をもとにして書いた長編小説です。パリの高級娼婦マルグリットは、椿の花しか持たないため、椿姫と呼ばれます。これを基に書いたオペラが、ヴェルディ作曲の「椿姫」です。しかし、イタリア語の題名「ラ・トラヴィアータ」は、「道を踏み外した女」という意味で、原作の『椿の夫人』という名前を用いていません。また、ヒロインの名前も「スミレ」を意味するヴィオレッタに変えています。
「椿」の字は、日本で作られた字ですが、「春に花咲く」という雰囲気が出ていますね。
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2006年02月06日 [由来]
梅
今、各地で「梅まつり」が行われています。その中のイベントをみると、とても面白いものがあります。まず、梅というとこんなイメージだと納得するものと、何で、これを梅まつりでやるのかというものがあります。八王子市にある梅まつりで有名なものは、「高尾梅郷」というのがあります。ここの梅まつりは、なかなかいいと思います。なぜかというと、「西浅川町と裏高尾町の小仏川、旧甲州街道沿いで、関所梅林、天神梅林、湯ノ花梅林、遊歩道梅林を中心に約10,000本の梅が開花する。この4つの梅林をめぐるスタンプハイク」というのが、イベント内容です。やはり、歌を覚えたばかりの鶯の声を聞きながら、梅の香をかぎながら、林の中を歩くのは、春の近さを感じます。私の園の卒園児による「お別れ遠足」は、ここを歩き、最後に園で作ったトン汁を現地で温めて食べるというものでした。ただ、「まつり」という感じではないですね。「まつり」を象徴しているのが、やはり、園の近くにある「百草園」という庭園で行われる「梅まつり」です。イベント内容は、「お茶会」「探梅短歌会」「お香を楽しむ会」まではわかるのですが、「津軽三味線」「大正琴の演奏」「琴&フルートの演奏」「草笛の演奏」になると、まあ、ゆるせるかという範囲ですが、「猿まわし」「マジックショー」となると、なんで梅まつりなのと思ってしまいますね。都内で有名な「湯島天神の梅まつり」になると、もっと、わからないものがあります。「パフォーマンスショー」「カラオケコンクール」「似顔絵コーナー」となると、ただのお祭り騒ぎですね。せいぜい、水戸の偕楽園の「野外琴の会」「観梅民謡まつり」「野点茶会」「水戸のひな流し」「野点茶会」「観梅俳句大会」「尺八演奏会」くらいにしてほしいですね。でも、何で、梅というと、こんなイメージなのでしょうか。
梅のことを、他に、「好文木」(こうぶんぼく)、「木の花」(このはな)、「春告草」(はるつげぐさ)、「風待草」(かぜまちぐさ)とも呼びます。中国が原産で、奈良時代の遣隋使か 遣唐使が中国から持ち帰ったようです。そのころは桜より愛でられましたが、平安時代からは桜のほうに関心が移っていったようです。「万葉集」の頃は白梅が、平安時代になると紅梅がもてはやされ、万葉集では百首以上が詠まれており、植物では萩に次いで多いそうです。ですから、なんとなく、万葉の感じがするのでしょうね。
また、梅といえば、松竹梅とまとめて言われます。これらは、年の初め、正月のめでたい植物で、冬でも緑を保ち寿命も長いということで平安と長寿を表す「松」、冬でも緑を保ち雪にも折れること無いということで無事を表す「竹」、雪の中でも花をつけるということで生気と華やかさを表す「梅」という意味があります。元々は中国で三つとも寒に堪えるので、「歳寒の三友」と呼ばれ、画題とされたものが、日本に入ってきて吉祥の象徴となったものです。日本では松は、長寿を象徴する神聖な木とされているため、松が松竹梅の筆頭になったものと思われます。門松や松飾りなど、正月に松をかざる風習がいろいろ残されていますね。竹は常緑ということで梅に先行したものでしょう。
また、梅干は、江戸時代、武士は、食料袋に「梅干丸」(梅干の果肉と米の粉、氷砂糖の粉末を練ったもの)を常に携帯し、激しい戦闘や長い行軍での息切れを調えたり、生水を飲んだ時の殺菌用にとおおいに役立ったようです。また、梅干のスッパさを思い、口にたまるツバで喉の渇きを癒したそうです。なんだか、つばが湧いてきました。
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2006年01月17日 [由来]
赤ちゃん
千歳に行って思いましたが、前回の支笏湖にしても、ウトナイ湖にしても、アイヌ語から来ている地名が多いですね。北海道では、言葉だけでなく、アイヌ文化のすばらしいことに出会うことが多くあります。たとえば、赤ちゃんのことをこんな風に書いてある絵本があります。「ヘカッタラ シノッ」という絵本で、ちむらまさる氏の作です。この絵本は、子どもたちが日々の暮らしのなかで、親の愛に見守られ、友だちと遊び、自然の中でいろいろな体験をすることで成長していく姿を紹介しています。いつの時代にもその本質は変わらないことを本書は表現しています。本書の題名の「ヘカッタラ シノッ」は、アイヌ語でヘカッタラは「子どもたち」、シノッは「遊び」という意味です。
「アイヌのひとたちは むかし あかちゃんを べちゃべちゃウンチ なんて よんだんだ。 かわいくて きれいなものが だいすきな びょうきの かみさまが あかちゃんに ちかづかないようにね。」
乳幼児の死亡率が高かった時代、赤ちゃんの健やかな成長を願ってわざと汚い言い方で呼びました。赤ちゃんを守るために、かわいくてきれいなものに近づこうとする神さまは、臭くて汚いものが大嫌いだという世界観があり、「言葉の力」で病気を寄せつけまいとした愛情の表れだといわれています。そして、なまえも、5、6歳になったころにその子の個性にちなんでつけていましたが、体の弱い子の場合わざわざ汚い名前をつけたといわれています。
世界では、乳児に対していろいろな呼び方をしています。姿を現したり、様子を表したり、願いを表したりして呼びます。たとえば、「赤ちゃん」の語源は、新生児の皮膚の色が赤く見えることによるといわれ、「赤ん坊」や「赤子・赤児」も、皮膚の色に由来するといわれています。しかし、それほど赤くはないですね。ですから、赤ちゃんと言う理由としては、「赤」は、夜が「明ける」から来ていて、朝になって昇ってくる太陽からくる「純粋で穢れの無い」「生まれたて」「始まり」というイメージと、太陽=「赤」という印象が結びついたものだという説があります。また、「赤の他人」や「真っ赤な嘘」などの「赤」も語源は同じと考える説もあり、これは、「赤」には、「何も無い、全く無い」という意味がある、というものです。ほかにも、仏前に供える浄水を意味する梵語(サンスクリット語)の「アルガ」にある、ともいわれています。この「アルガ」は漢字をあてると「閼伽(あか)」、英語に転じて「aqua-アクア」となっていますが、どうやら「空」という意味も持っていたようです。どれが本当かわかりませんが、こんな面白い呼び方もあります。飛騨の民芸品に「さるぼぼ」という人形がありますが、これは、飛騨の言葉で「ぼぼ」は赤ちゃんという意味で、サルの赤ちゃんに似ていることからこう呼ばれています。災いが(さる)、家庭(えん)満などの願いがこめられています。色であらわすと、みどりご(緑児)と呼ぶこともあります。これは、「新芽のような子」という意味で、生まれたばかりの子をさしました。ちなみに、英語のインファント[infant](フランス語ではアンファン)は、「話せないもの」(unable to speak)という意味から出ているらしいです。どちらにしても、何もできないとか、話せないとかという言葉に比べて、アイヌの言葉のように守ろうという意味がある言葉はいいですね。
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2006年01月06日 [由来]
登竜門

12月30日(金)から2006年1月16日(月)まで、東京・銀座の百貨店「松屋銀座」で、「古九谷浪漫 華麗なる吉田屋展」が開かれています。この展覧会に行ってきました。大胆な図柄と華麗な色使いで世界的に高い評価を得ている“古九谷”は、17世紀中ごろから制作が始まりましたが、わずか数十年で途絶えたそうです。それから約120年後に、72歳にして私財を投じて古九谷再興にロマンをはせた男が、加賀市の豪商4代豊田伝右衛門です。店の屋号を「吉田屋」といったことから、再興九谷窯は「吉田屋窯」と呼ばれ、作品の九谷焼は「吉田屋」と呼ばれています。吉田屋窯は、緑、黄、紫、紺青の四彩を用いた古九谷風の優れた作品を生み出しましたが、古九谷の模倣ではありません。江戸後期の豊かな町人層の食文化を反映して、平鉢や皿、徳利(とくり)などの食器類のほか、茶道具など様々な器形と、吉田屋風ともいうべき卓越したデザイン性を誇り、色絵磁器の最高峰に位置づけられます。しかし、その吉田屋窯も7年で廃窯になりましたが、再興九谷焼の色絵と優れた技は、数多くの作家を輩出し、加賀の地で受け継がれています。
このなかで、「登竜門」がテーマの絵皿がありました。このテーマは、皿だけでなく、様々なものに描かれてきました。また、もうすぐ受験ですが、そのときにも使われることが多いですね。
登竜門の「竜門」とは、黄河上流にある竜門山を切り開いてできた急流のことです。その急流の滝を登り切った鯉には霊力が宿り、龍になると言われていました。ある時一匹の鯉が激しく落ちる滝水に逆らいながらも、懸命に滝を登り切ったまさにその時!鯉の体はまぶしい光を放ち輝きながら龍へと変身し、悠々と天に昇っていったというお話です。この竜門の言い伝えから、人の立身出世の関門を「登竜門」と言うようになった由来は、中国『後漢書 李膺伝(りようでん)』の故事によります。その故事とは、李膺という実力者がおり、彼に才能を認められれば出世が約束されたものと同じで、その認められた人は、竜門に登った鯉に喩えられたというものです。これから、この鯉のようにたくましく立ち向かい、やがて成功することを願って「鯉のぼり」が生まれたと言われています。それが、今、こどもの日に立てられています。また、「鯉が険しい滝を登り、竜になった」という故事から、立身出世のための厳しい関門とか、厳しい選抜試験のたとえとしてよく使われています。
このブログの名称が「臥竜塾」というように、竜という文字や言葉を聴くと、反応してしまいます。竜(旧字は龍)は中国の伝説上の生物です。古来から神秘的な存在として位置づけられ、中国では皇帝のシンボルとしてあつかわれていました。そして、竜は神獣・霊獣であり、通常は水中か地中に棲むといわれています。その啼き声によって雷雲や嵐を呼び、また竜巻となって天空に昇り自在に飛翔すると言われています。だから、「竜巻」なのですね。このブログも、臥せてばかりはいられなくなりそうです。
投稿者 fujimori : 17:51 | コメント (0)
2005年12月22日 [由来]
鳥山
今日は、園の「今年の納めの会」で、みんなで、鳥山に行きました。八王子には、「鳥山」という食べるところが何件かあります。「うかい鳥山」「ひな鳥山」「鎌田鳥山」などです。この鳥山という呼び方は、全国にあるかわかりませんが、もともとは、野鳥を食べさせるところでした。市内には、丘陵があり、そこで、「カスミ網」を使って、野鳥を捕っていました。秋から冬にかけて、シロハラやツグミなどが日本に渡ってきます。それを一網打尽にしてしまうのが「カスミ網」です。この罠は、細い糸(近年ではテグス等)で作られた網を空中に渡し、そこに飛んできた野鳥を捕らえる物です。現在、カスミ網はそれを所持することも販売することも禁止されていますが、今でも観賞用(メジロなど)や食用(ツグミ・スズメなど)といった野鳥の需要は高く、かすみ網を用いた密猟は後を絶たないようです。特にツグミという鳥が食用にされたのは、名前は、女の子の名前のようでかわいい感じがするのですが、体型はやや丸型です。特に、日本に渡ってきた直後と、春の渡りの直前は、脂肪をたっぷりと蓄えていて、おいしかったそうなので、狙われたようです。
もちろん、鳥山で食べさせてくれるのは、今は野鳥ではなく、ほとんどが鶏肉です。鶏は太古から我々にとって身近な存在だったようです。古墳の副葬物として鶏を形取った埴輪が出土されていることや「万葉集」に東の枕詞として「鶏が鳴く」があることからも、鶏が当時の人々に親しまれていたことが解ります。古事記での天照大神を呼び戻すために「常世の長鳴鳥」として鶏が登場しているように、刻を告げる役割が中心だったようですが、食用にもされていたようです。しかし、天武天皇のときに、牛・馬・犬・猿・鶏の食用禁止令が出され、家畜は食べてはならないということになりました。その頃から、近世に至るまで食用の鳥と言えば、キジや水鳥などの野鳥に限られていました。しかし、信長・秀吉の頃となるとヨーロッパの宣教師や商人の影響により、鶏肉が日本人の食卓に並ぶようになり、肉の禁止令は出ていましたが、江戸時代になると幕府や諸藩によって奨励され、鶏の飼育が広まりました。幕末になると肉食はポピュラーとなり、坂本龍馬がシャモ鍋を好んで食べていたことは有名な話です。明治以降は、肉食の禁令が解かれましたが、今と違って、「番頭さんは牛肉料理で旦那さんは鶏料理」といわれるほど鳥料理は、昭和中期、食肉用ブロイラーが台頭するまで高級食材だったようです。主な食べ方は、国によって違うようです。例えばドイツやスイスの北ヨーロッパ、中近東、中南米などは丸焼きや半割、または四つ割の骨付きのあぶり焼きにして食べる習慣があり、一方イギリスや南ヨーロッパでは骨付きの煮込み料理が多く、アメリカはケンタッキーフライドチキンに代表される様にフライドチキンが主な調理法であるようです。日本は、手羽先や手羽元は別にしても、正肉(骨なし肉)で売っているのがあたり前で、丸鶏を売っているのはあまり見かけません。鶏肉を細かく切って骨なしで食べるというのは古来日本独特の食べ方だったそうで、これは、正肉というのは、料理のバリエーションを豊富にし、器用な日本人らしい特徴のようです。
投稿者 fujimori : 23:25 | コメント (0)
2005年12月17日 [由来]
南天
先日、鎌倉に行ったときに「瑞泉寺」を訪ねました。紅葉がきれいということだったのですが、庭の真ん中に「南天」の真っ赤な実がたわわになっていました。この実は、鳥の大好物なので、食べられなければ、冬まで残っています。「南天」というと、真っ赤な真ん丸い実であるので、雪ウサギの目によく使います。また、赤飯に入れたり、赤飯の掛け紙には南天が描かれています。これには、こんな意味があるようです。古来より、「難を転じて福を招く」(「難転」あるいは「成天」に通じる)と言われ、縁起良い植物として、祝い事や除災の祈念に用いられてきました。その昔は武士の出陣に臨んで一枝を鎧の内に挿し武運長久を祈りました。また、元服の式に挿花したり、安産のお守りにしました。南天の葉は諸毒を消すと言われ、赤飯に添えます。ちなみに、赤飯に小豆を用いるのは、小豆に薬効があるからともいわれ、身体によいものと評価されているからです。また赤い色は邪気をはらい厄除けの力をもつと信じられ、祝い事や特別の行事に使われています。慶事に赤飯を用いるようになったのは江戸後期からといわれています。また、南天は不浄を清めるということで,お手洗いの外に植えてあったりします。また,南天の箸というのも食あたりを防ぎ,長寿を祈願するということで好まれるようです。また、防火・厄除けとして庭先や鬼門にも植えられます。京都の金閣寺の床柱は、南天の材を使っていることで知られています。福寿草の花と南天の実とセットで縁起物の飾り付けとして、正月用の生け花にされることがあります。実を乾燥させたものには「せき」止めの効き目があります。「南天のど飴」というのがありますね。また、葉には「ナンジニン」という成分を含み、殺菌効果があります。また葉の煎液が目薬としても使われています。このように、南天は昔から、生活と深いつながりがあります。
南天と同じような赤い実のなるもので、お正月の飾りによく使われるものに、「千両」(仙蓼)、「万両」という縁起の良い植物があります。区別としては、「南天」の実は上方に飛び出していますが、「万両」は葉の下側に実があります。そして、「千両」は、葉の上に実があります。
「千両」は、切り花のほうがよく出回ります。花屋は毎年市場で、千両市というので買い求めます。赤い実が大変きれいで、おめでたいのでお正月しかでてきません。「万両」は、小低木なので1m位までしか伸びません。真っ赤な実がとても冬にはきれいなのは同じで、鉢植えでもでまわります。そのほかにも、「十両」「一両」もあるそうです。
科学が進んで、様々な研究がされると、新しい知恵が生まれるというより、昔からの知恵が、科学的にも証明されるということが多い気がします。これは、生活の知恵のなかに多くあります。また、子どもの伝承遊びのなかにも、そんな昔からの知恵が多い気がします。生活や子どもの遊びは、知識でするものでないからでしょう。しかし、最近は、生活の知恵や、子どもの遊びを、知識として押し付けようとしたり、知識として覚えようとすることが多い気がします。もう一度、知恵としての伝承をしていかなければならないと思います。
投稿者 fujimori : 21:09 | コメント (0)
2005年12月07日 [由来]
おとめ山公園

昨日は、19年開園予定の新宿の保育園の現地調査がありました。いま、根切り工事が始まっています。基礎や地下構造物を造るために、地盤面下の土砂、岩盤を掘削することを「根切り工事」といいます。床掘りともいうこともあります。土を掘ると、張り巡らされている木の根を切ることになるので、「根切り」というのでしょうか? 今は、都内の工事では、土を掘ると昔の杭や基礎が出てきて、それを抜いたり、壊したりすることが多いですね。そして、その掘った土を運び出さなければなりません。しかし、今回の工事現場は、前の通りが狭い上に、急斜面なので、大きなトラックでは難しいこともあり、大変です。この道は、工事の時には急斜面で大変ですが、歴史的には、とても由緒があります。東京には、様々な名前のついた坂がたくさんあります。この坂は、「相馬坂」といいます。新目白通りを下落合4丁目付近で北に入り、落合第4小学校・おとめ山公園の間を通るのが、相馬坂で、北に向かってやや急な上り坂です。この小学校と、相馬坂を挟んで、新しい保育園が建つ予定です。江戸時代、この坂に隣接するおとめ山公園一帯は、将軍家のお鷹狩の場所で、一般の人々は立ち入ることができず、御禁止山(おとめ山)と言われていました。(はじめて聞いたときは、乙女山と思っていました。)御留山というのは江戸時代(藩制時代)に、役人の許可がないと入れない山を意味していました。有益な資源が有るので、役人の管理下に置いて管理させていた山なので、伐木禁止、採掘禁止させる意味で、立入を禁止の地域なのです。しかし、このおとめ山には財産があるわけではなく、将軍が鷹狩りという遊び(スポーツ?)をするために、保護したようです。どこかに、川にも御留川もあるそうです。このあたりを、明治になって相馬家が買い取り屋敷を建てたことから、相馬坂と言われています。おとめ山公園は、自然の雰囲気を残した樹木の多い公園です。山手線「高田馬場駅」と「目白駅」から徒歩10分ほどの場所にひっそりとある区立公園ですが、真夏の一時期には数千人もの人々が集まります。庭内には、落合が妙正寺川を中心に昔から蛍の棲息地であったところから、区ではこの公園内で蛍の人工養殖をはじめ、成功しており、毎年7月下旬に蛍観賞の夕べが開催されているからです。養殖に利用されているのはもちろん自然の湧水です。(名水巡礼東京八十八ヵ所に選ばれています。)明治以降は、山を南北に分けて、北側を近衛家、南側を相馬家が所有していました。庭園は「林泉園」と称し、池泉回遊式のもので、大正3年に長岡半平が築造したものだそうです。現在残っているのはこの部分で、戦後は荒廃し、長らく“落合秘境”などと呼ばれてきましたが、地元の文化人が陳情して、昭和44年に区立公園となりました。スギ、ナラ、シイ、クヌギなどの豊かな木々が生い茂り、池には、鯉と、亀が住んでいますし、カルガモも子育てをします。こんな公園を、大切にしたいですね。
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2005年12月04日 [由来]
「冬の星座」2番

「冬の星座」の歌の歌詞を味わっていると、日本語の美しさに心打たれます。音からの意味、音の美しさ、また、漢字の形の意味深さ、漢字の書き方による複数の意味、様々な情景を表わす言葉、どれもとても美しく、その言葉が、あたかもその場の言葉で言い表せないと思える情景までも、言い表すことができます。逆に、怖いこともあります。その言葉を発した意図とはちがった内容が、聞き手に伝わってしまうことがあるからです。また、聞き手が、自分の都合のよい解釈をしてしまうことがあるからです。日本語とは、とても難しいものですね。
「冬の星座」の2番の歌詞です。
『ほのぼの明かりて 流るる銀河 オリオン舞い立ち スバルはさざめく 無窮(むきゅう)をゆびさす 北斗の針と きらめき揺れつつ 星座はめぐる』「ほのぼの」とは、「ほのかに明るいさま」をいいますが、明るさの強さというよりも、その明るさの暖かさを示している気がします。「ほのぼの」とは、たとえば、「ほのぼのとした家庭」というように使うことがあり、そのときの意味は、「心がほのかにあたたまるようなさま。ほんのり」となります。ということで、その光は、ほんのりとあたたかみの感じられるさまをいいます。ここに歌われる「銀河」は、天の川のことですが、その川の流れるさまは、なんとなく安らぎを与えてくれ、まさに「ほのぼの」ですね。どうも、この天の川は、どの国でも多くは、川に見えるようです。エジプトでは、「天のナイル川」バビロニアでは「天のユーフラテス川」インドでは「天のガンジス川」と呼んでいたそうです。そして、中国で、銀色の川ということで「銀河」といいます。英語では、「ミルキー・ウェイ」といいますが、ヨーロッパでは、あの光のやわらかさから、川というよりも母乳の跡とみえたようです。この由来は、ギリシャ神話の中にあります。怪力のヘラクレスが赤ん坊の頃、女神ヘラの母乳を飲もうとした時に、かなり強く吸ったため、その乳がほとばしって空にかかったとされ、ミルクの道、ミルキー・ウェイと呼んでいるのです。その天の川が、「流れる」ではなく、「る」を二つ重ねて、星の瞬きを表わしているような響きがあります。そのほのぼのさに反して、「オリオン座」の姿は、まさに空を覆い、舞い降りてくるという感じで、圧倒されます。そして、スバルの瞬きは、「さざめいて」いるのです。「さざめく」とは、「大勢の人が、にぎやかに音や声を立てて騒ぐ。」という意味のように、スバルはプレアデス星団とも言いますが、ギリシャ神話でオリオンに追われて星となったプレアデスの7人の姉妹とされています。姉妹が7人も集まると、さぞかしさざめくことでしょうね。次のフレーズが、最も好きな部分です。「無窮を指差す北斗の針と」は、壮大な、無限に広がる宇宙の姿がみえます。「無窮」とは、「果てしない、永遠無限という意味」であり、四字熟語「天壌無窮」は天地とともに極まりなく続くことをいいます。「北斗の針」とは、言わずと知れた「北斗七星」のことです。天の北の方に位置し、W字型のカシオペアとともに北極星を探す指標になっているので、「針」といっていますが、ここでは、北を示すというよりも、無限に広がる宇宙を指差しているなんて、すばらしい表現ですね。
投稿者 fujimori : 21:42 | コメント (1)
2005年12月03日 [由来]
「冬の星座」1番
さて、今までの、冬の星座についての基礎知識の上で、歌の「冬の星座」について、その歌詞を味わってみたいと思います。(どうも、想いが強いので、1番だけで今日は、終わりそうです)
『木枯らしとだえて さゆる空より 地上に降りしく 奇(くす)しき光よ ものみな憩える しじまの中に きらめき揺れつつ 星座はめぐる』
いいですね。本当に、この歌詞は大好きです。というより、心の中に無限の夜空が浮かんできます。
「木枯らし」は、晩秋から冬にかけて吹く冷たい北寄りの季節風をいいます。いかにも、その風が木を吹き枯らす感じがします。漢字一字で書くと「凩」ですが、風の中で、木が一本じっと冷たい風に耐えながら立っている感じがよく出ています。その風が、やみます。「途絶えて」は、とぎれることですが、ただ、風が止むとか、止まるという言葉に「絶える」が続くと、冬の風らしい寒々さを感じます。風がやんだ分だけ、寒さが身にしみます。さゆる(冴える)というのは、「寒さが厳しくなる。しんしんと冷え込む。」という意味と「くっきりと澄む。はっきりと見える。」ということで、「冬の夜空に星が冴える」とも使います。冴ゆる空とは、その両方の意味を持って、心身と冷え込んだ澄み渡る夜空のことです。そんな空から、光が地上に降りしきます。「降りしく」は、「降り敷く」と書くと、「一面に降って敷きつめる」というように、光が地上一面に敷きつめるかのように降り注ぐということであり、「降り頻く」と書くと、「絶え間なく降る、しきりに降る」という意味になります。どちらでも、意味は通じるだけでなく、両方の意味があるように思います。そのように降り注ぐ星からの光は、「奇しき光」です。奇し(くすし)は、薬の語源として言われていますが、奇は、「あや」とも読むことがあり、「不思議なるものに心惹かれて歎ずる声」でもあり、奇(くす)しきものとは、「不思議なる力を発揮するもの」として、「薬」となったといわれています。「くすしき」は、音からだけでは、わかりませんね。つぎの「ものみないこえる」も、歌っているときには、どこで区切るのかわからなかった部分です。「もの」は、すべての物事や現象の内容に通用する名詞です。ですから、地上、天上すべてのものが、「憩う」のです。すべてのものが息を休め、休息し、「静まりかえって、物音一つしない静寂のなかで」ということが「しじまのなかに」です。そんな静寂の中で、星の光が煌く(きらめく)のです。ただ光るのではなく、「きらきらと光り輝く」ことが、きらめくことなのです。そして、その光がちらちらと揺れています。この「きらきら」「ゆらゆら」は、惑星と恒星の違いなのです。火星や、金星などの惑星は、きらきらしません。その星たちが、ゆっくりと、北極星を中心に夜が更けるにしたがって、回っていきます。「星座は巡る」のです。しかし、ただ「回る」のではなく、巡り会う・巡り合わせなどには運命的意味合いが含まれるように、「星座が巡って」いくのは、時の流れというだけでなく、人の力の及びもしない悠久さを感じますね。
投稿者 fujimori : 22:00 | コメント (2)
2005年12月02日 [由来]
冬の星座いろいろ
星座のなかでも、冬の星座は、とても派手です。そのわりには、あまりギリシア神話には取り上げられていません。真ん中に目立つオリオン座でさえ、ペルセウスに比べて、かなり色あせてみえます。しかし、星座としては、なんといっても、冬が一番美しいと言われています。シベリア気団から吹く冷たいこがらしが吹きやんだ夜、空はよく晴れて澄みわたります。冬の空が澄みきっているのも日本の天気の特徴です。冬の東空から南空には、大きく「オリオン座」が見えます。この形を見つけることが、まずは星への興味を引きます。他の星は、なかなか星座の形が見えることが少なくなったからです。お牛に立ち向かっていくオリオンという名の猟師の姿を描いたものです。四つの明るい星とオリオンのベルトにあたる三つ星、オリオン座の大星雲が有名です。四つの星のひとつ「ベテルギウス」は大きさが太陽の1000倍近くもある赤い巨大な星で、もし太陽の位置に持って来ると、地球だけでなく火星の軌道までを飲みこんでしまうほどの大きさです。また、この星が、冬の大六角形の中心になります。それと対象にあるのが、逆に若い星「リゲル」は青白く光っています。オリオン座大星雲は、双眼鏡で見るとガスが広がって雲のように見えるので、散光星雲と呼ばれています。ガスの中心にある星の強い紫外線のために水素(すいそ)ガスの集まりが輝いているのです。このペテルギウスと冬の第三角形を構成するひとつが、夜空の恒星(こうせい)の中でもっとも明るく見える星(マイナス1.5等星)「シリウス」です。この星は、おおいぬ座の鼻のあたりにあります。三角形のもうひとつは、こいぬ座のα星プロキオンという星で、全天で8番目の明るさを持つ星です。意味は「犬の前」「犬の先がけ」で、おおいぬ座のシリウスより先に東の空から昇ってくるからだそうです。この星座のいわれも、とても悲しい話です。
他に目立つ星として、おうし座のなかの「アルデバラン」という赤い光を放つ星があります。この星を含んで、牛の角のV字が目立っていますが、この星座の有名なのは、牛の心臓部にある「プレアデス星団」です。これは、いくつもの星が、ホタルの群れのように浮かんでいます。この星団は、「すばる」とも呼ばれ、若い星たちの集まりですが、肉眼でも数個(すうこ)の星の集まりが確認(かくにん)できます。昔は、このなかの星のいくつ見えるかで視力検査をしたとも言われます。今、大体6個見えるといい目ですね。さらに北の方に目をやると,ぎょしゃ座の「カペラ」が明るく輝き,その下にはふたご座の「カストル」と「ポルックス」がなかよく並んでまたたいています。これらの星の中で、カペラ,アルデバラン,リゲル,シリウス,プロキオン,カストル6つの1等星を結んでできるダイヤモンドの形が、「冬の大六角形」であり、冬の星座を知るための良き目印となってくれます。こんなことを話していると、「冬の星座」の歌までたどり着きませんね。
投稿者 fujimori : 22:19 | コメント (1)
2005年11月18日 [由来]
風邪
今年は、どうも新型インフルエンザが流行しそうです。新型インフルエンザは、鳥などのインフルエンザA型ウイルスが変異し、人から人への感染力を獲得して出現するようです。1918~20年のスペインかぜは世界で約4000万人、68~69年の香港かぜ(A香港型)は100万人以上が死亡したとされています。なんだか怖いですね。しかも、治療薬「オセルタミビル(商品名タミフル)」の備蓄はなくなる可能性があるとか、その副作用があるとか、言われています。しかし、政府では、新型が出現しても、むやみに恐れる必要はないといっています。インフルエンザが流行するのは、軽症者の多くが外出して感染を広げるためなので、大流行時に、会社の出勤停止や集会の自粛など、異例の勧告が出されました。個人ができる予防は、マスクの着用、手洗いの励行など、通常のインフルエンザ対策と同じようです。
風の語源は、「か」が「気(か)」で大気の動きを意味し、「ぜ」は「風(じ)」で「気風(かじ)」の転とされていますが、風邪の語源も「風」と同じだといわれています。また、インフルエンザの語源は、「星の影響」を意味するイタリア語です。ずいぶんロマンチックのようですが、昔のイタリアでは、この病気の原因が解らず、占星術師などにより惑星の並びによるものと考えられていたことによります。英語では、インフルエンスは、「影響」という意味です。面白いことに、感冒は、オランダ語のカンバウ(カゼ)からきているそうです。
ウイルスが多いところは、1番が、カラオケマイクで4000個、次が、公衆電話の受話器3000個、電車の吊り輪1000個のようです。あとは、居酒屋、タクシーなので、気をつけましょう。
予防の「うがい」の語源は面白いです。うがいは、岐阜県長良川の鮎漁で有名な「鵜飼」が語源なのです。鵜飼は、かがり火を焚いて鮎などを近寄らせ、鵜に魚を水中で飲み込ませた後、引き上げて吐かせることから、「うがい」と呼ばれるようになったのです。また、お屠蘇(おとそ)は、唐時代の医者が、流行風邪予防のために作ったのが、おいしいと流行になったのが最初で、この医者が住んでいた家の名前が「屠蘇庵」といったそうです。そして、屠蘇とは、「鬼気を屠絶し人魂を蘇生させる」ということで、ここから、1年中の邪気を払い、延命長寿を願うために飲む酒となって、お正月の飲みものになったそうです。ちなみに屠蘇は、薬局などで売っている屠蘇散(肉桂、大黄、百じゅつ、山椒、桔梗、乾姜などの薬草を合せたもの)を、5~6時間水にひたしてから取り出し、清酒(みりんを加えることもある)を加えて作っているので、当然、風邪薬ですね。
風邪を引いたら、鵜のような「うがい」をして、おとそを飲んで寝ましょう。
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2005年11月01日 [由来]
金印

今日は、福岡県古賀市に来ています。古賀市は、位置的には、あの金印が出土した志賀島の近くにあります。私が、初めて博多に来たとき、講演の時間までに、昼食を食べる時間があったのを、昼食を抜きにして、どうしても見たかった「金印」を、福岡市博物館まで急いで見に行き、汗びっしょりで会場に着いた途端に、講演をした思い出があります。
金印は、どの教科書にも出てきます。学校で習う「金印」は、「江戸時代に2人の農民が、志賀島の田んぼで偶然に金印を発見しました。」ということになっています。そして、この金印は地主に渡され、福岡の画商に持ち込まれ、画商は儒学者に鑑定してもらったところ、これがたいへん貴重なものであることがわかったということです。うらには、「漢委奴国王」と彫られていますが、委奴国を倭の奴国と読むか、伊都国と読むか論争が起こりました。また、そんなに貴重な金印が、なぜ志賀島のような辺鄙な場所に埋められていたのかということも不思議です。この金印は中国の後漢書に、弥生時代に漢の皇帝「光武帝」が奴国(なこく)の使者に金印を渡したことが書いてあり、その金印だと言われています。歴史的にも貴重な品で国宝になっています。しかし、歴史ほど当てにならないものはありません。最近、何度も裏切られているからです。たとえば、子どものころには、「縄文時代という原始的な社会に、稲作が伝わり、より高度な弥生文化が始まった。」と習いましたが、今は、それはちがっているということになっています。縄文時代もかなり高度な文化であり、弥生時代と縄文時代は、並行して存在していたというのです。鎌倉幕府の成立も、「いい国作る鎌倉幕府」ということで、1192年と覚えましたが、いまは、それより以前に鎌倉幕府は成立したことになっています。ということで、歴史を覚えること、特に年号を覚えることに大切な青春を費やしたことの責任をとってもらいたいと思っています。ということはさておいて、そもそも日本(倭国)のことが記述として残っている事柄は、この後漢書の記述が最古です。その記述にある金印が発見されたということは、後漢書の信憑性も高くなったということであり、中国の歴史の上でも重要な品のようです。卑弥呼も魏の国より「親魏倭王」の金印を授かっていますが、これは西暦238年頃の話ですから、これより約200年も古いのです。紀元3世紀の頃に、「魏志倭人伝」に書かれた「卑弥呼女王の邪馬台国」という日本の原始小国家があったことは有名ですが、それが何処にあったかという問題は昔から大きな謎として多くの研究者により論じられ、現在でも埋蔵物が発見されるたびに、卑弥呼の墓ではないかとよく騒がれています。大別すると、邪馬台国は大和説と九州説にわかれています。その場所をめぐる論争は、倭人伝に書かれている記述から、論じられています。伊都国から先の近郊国を、「東南、奴(na)国に至る、百里。東行、不弥(fumi)国に至る、百里。」と記載されていますが、多くの説は、奴国を福岡平野(那河川流域)と解釈していますが、昔、話題になった宮崎康平氏の「まぼろしの邪馬台国」(私も読みました。)では、不弥国を「香椎から古賀の間」と解釈しています。古代史は、天文学同様、結局は、「ロマン」の問題です。何が本当かというよりも、いろいろと想像することがとても楽しいことなのです。
投稿者 fujimori : 23:51 | コメント (1)
2005年10月01日 [由来]
きっかけ
今日、千歳から羽田までの飛行機に乗りました。到着したゲートは19番。そこで、小松空港行きに乗り継ぐために、出発ゲートを見ると、なんと19番。そうです。千歳から羽田に乗ってきた同じ飛行機で、今度は金沢へ。席もふたつずれているだけです。そのまま乗っていたい気分です。とりあえず一度外に出て、準備ができたので乗り込んだら、なんと、添乗員も同じです。添乗員も気がついて、「さっきも乗っていましたよね。」と言われました。添乗員は、どんなローテーションをしているのでしょうね。最近、保育園のローテーションが複雑になって困っていますが、もっと複雑なのでしょうか。よく、私が、千歳から金沢というと、「タフですね。」といわれますが、添乗員は、もっとタフですね。しかも、私は座っているだけですが、添乗員は、常に歩き回っているのですから。私は、それを見るたびに、申し訳ないのですが、「こんなにハードで、生産性の何もない職業が、何でこんなに人気があるのだろう。こんなきれいで、優しい人が、こんな大変な仕事について、飲み物をただ配っているだけでは、もったいないのに。」と思ってしまいます。それに比べて、なんと、保育者という仕事は、明るい将来に向けて、人材を作るという、生産性ある、最も重要な仕事であると思わざるを得ません。しかし、感じ方や、その職業を選ぶ観点が一人ずつ違うので、世の中、よくできているなあと思います。
同様に、各地に行くと、そこに住んでいる人は、何でこの地を選んだのだろうと思ってしまいます。かつて、保育園の駐車場のライトの上に、ツバメが巣を作ろうとしたことがありました。途中まで作りかけたのに、夜になると電気がついて、その場所が熱くなるのであきらめたのですが、一生懸命、つがいで巣を作っている姿を見て、どうして、ここに作ろうと決めたのだろうか。夫婦で、ここがいいと話し合いをしたのだろうか、オスかメスが提案をして、もう片方が合意をしたのだろうか、夫婦どちらの意見が強いのだろうか、それとも、何も考えないで、昨年もここに作ったから今年もここと思ったのだろうかなどと考えてしまったことがありました。
今日、宿泊しているホテルは、加賀百万石の繁華街の中心の,香林坊にあります。中心部になったのは、位置として、兼六園、金沢城址、武家屋敷、寺町寺院群の間の中心にあたり、昔から人が集まりやすいところであったからなのでしょう。香林坊という地名は、元、朝倉氏の家臣であった香林坊という人が、朝倉氏滅亡の後、比叡山延暦寺の僧になっていたのですが、同じく朝倉氏の元家臣で金沢城の近くで薬屋を営んでいた向田家に養子に入るために還俗して、目薬屋を始めたところから由来するようです。
何がきっかけで、そこにすむようになり、何がきっかけでその職業をすることになったかというのは、ほんの偶然かもしれませんし、与えられた「天命」であるのかもしれません。
投稿者 fujimori : 23:52 | コメント (0)
2005年09月30日 [由来]
千歳
明日は、朝早く金沢に移動するために、今日は千歳空港のそばのホテルで宿泊です。
この地のメッセージに「千歳一隅の出会い」というのがありました。これは、千年に1度の出会いということでしょう。しかし、これは、しゃれでしょうが、本当は、「千載一遇」といいます。この千歳(せんさい)と、千載(せんさい)とは、数で大きな違いがあります。というのは、「載」は数の単位で、1載は、10の48乗の数で、0が1の後に48個も並びます。私は、小学校のころクラブ活動で、「算数クラブ」に所属していました。なんだか、まじめそうな、難しそうなクラブですが、実は、毎回とても楽しみでした。数の不思議さ、数の楽しさを教えてくれたからです。その時間の中で、数の単位を教えてもらいました。普通は、「兆」くらいまでしか使いません。よく知っている人で次の単位の「京」くらいまでです。この後、ずいぶんと続きます。これは、覚えても意味がありませんが、数への興味を持つには役に立ちます。ためしに、並べてみます。
一(いち)・十(じゅう)・百(ひゃく)・千(せん)・万(まん)・億(おく)・兆(ちょう)・京(けい)・垓(がい)・ (し)・穰(じょう)・溝(こう)・澗(かん)・正(せい)・載(さい)・極(きょく)・恒河沙(こうがしゃ)・阿僧祇(あそうぎ)・那由他(なゆた)・不可思議(ふかしぎ)・無量大数(むりょうだいすう)です。万までは、0がひとつずつ増えていきますが、そのあとは、4つずつ増えていきます。ですから、最後の「1無量大数」は、0が68個つきます。(10の68乗)したがって、千載一遇でいう「千載」は「10の47乗分の1」と言う確立の事です。そのほかに、これら単位で面白く持ったのは、恒河沙、阿僧祇、那由他、不可思議、無量大数は仏教に由来します。10の52乗の「恒河沙」です。「恒河」とは、ガンジス河のことです。沙は、砂のことで、恒河沙とは、ガンジス河の砂の数ほど、と言う意味です。なるほどと思います。また、「阿僧祇」とは、梵語でアサンキヤの漢語で、インドの数量単位で極めて巨大で数えきれないという意味です。「無数」ということです。仏教用語で52段だかある悟りの極意を極めるために必要な時間だそうです。「那由他」は、訳梵語でナユタの漢語訳で、那だけでも大きいことを表し、やはり、きわめて大きい数の意味です。「不可思議」は、字の通り、梵語でアチンティアの漢語訳で「思い計る事ができない」という意味です。「無量大数」の無量とは、空間的に限られていない無限のことです。無量大数は時代によって、無量を10の68乗、大数を10の72乗と二つに分かれる場合があります。
たった、「千歳」というひとつの言葉から、思考というものは、無限に広がっていくのですね。
投稿者 fujimori : 23:32 | コメント (2)
2005年09月29日 [由来]
苫小牧と八王子
今、支笏湖温泉にいます。支笏というのは、奇妙な名前ですね。もとは、アイヌ語で「シ・コッ(大きな窪地)」と呼び、つまり最初は支笏湖を指す名前ではなかったということなのです。松前藩によると、もっと広範囲が「シコツ」のエリアとされていて、千歳だけでなく、苫小牧や鵡川方面までもがその範囲でした。そのときの漢字表記は「志古津」(シコツ)。 しかし、江戸時代の1805年のこと、「シコツ」だと「死骨」を連想し、縁起が悪いので改名することになり、「鶴は千年」にちなむ逆に縁起の良い「千歳(ちとせ)」と名づけて今日に至っているそうです。河川名も「千歳川」になりましたが、支笏湖にはそのまま名前が残っています。
という訳で、支笏湖は、苫小牧の近くでもあります。苫小牧というと、「パルプ」を思い出しますが、なんと、私の住む八王子市と姉妹都市なのです。それには、こんな経緯があります。
徳川幕府は甲府との境にあった八王子を、関東入国に際して、甲斐・武蔵の国境警備の重要拠点、敵の侵入を阻止する重要な砦と考えました。この警備に武田家の遺臣250人を落城後間もない八王子城下に配したのでした。(この落城物語が絵本になっています)そして、徳川家康が江戸城を築城するにあたり、甲州との国境にあり、重要な逃走路となる八王子周辺の多摩地域に、在郷の武士団を配置して平時より警備にあたらせていました。その武士団を、「千人同心」といいます。身分は武士なのですが、通常は高持ちの百姓として、耕作にあたっていました。千人同心は当初の甲州境の警備だけでなく、のちには日光の東照宮の警備(火の番)や、江戸城や大阪城の修理などの活動も行いました。そして、「寛政12年(1800)に武州八王子から北辺の警備と北海道開拓のために未開の勇払原野に移住し鍬を振るいました。このことが本市開拓の第一歩となりましたが、厳しい気候条件などで不毛の原野の開拓は思うようにまかせず、多くの犠牲者を出し、入植4年目に開墾地を離れました。しかし先人たちのこのような筆舌に尽くし難い苦労が、200年を経た今日の苫小牧の礎となっています。」と、苫小牧市のホームページに記されています。現在ではこの縁で,日光市(栃木県)・苫小牧市(北海道)とは姉妹都市になっているのです。また幕末には長州出兵や横浜警備なども行っています。江戸幕府が安定すると,八王子千人同心の中から医師,文人,思想家などの多くの学識者を輩出し地域に文化的な影響を与えました。幕末、テレビの「新撰組」で有名になった新撰組6番隊隊長井上源三郎は、千人同心でした。今、千人同心の住んでいた屋敷跡には碑が建ち,その一帯は「千人町」という地名がついています。
各地を歩いたとき、その土地の由来を知り、それが身近かな関係であることを知ることは、ひとつの楽しみですね。
投稿者 fujimori : 12:55 | コメント (3)
2005年09月28日 [由来]
運動会

今日は、保育園で、運動会の第1回予行練習でした。私の園では、「子どもの運動能力の発達を保護者に伝える」という目的と、「親子のふれあいを提案する」という目的と、「普段の保育をより深める」という目的に位置づけられています。したがって、毎日練習するとか、その年齢ではできないようなことを披露するということはしませんので、予行練習日が、初めてやる日のようなところもあります。日本での運動会の歴史は1874年、海軍兵学校で、イギリス人ストレンジという東京大学予備門の英語教師が、教官指導のもと行った「競闘遊戯会(きょうとうゆうぎかい)」が、初めて人に見せる運動会の最初といわれています。そんな運動会も、時を経て、様々な形にその姿を変えていきました。今、小学校の学習指導要領では、 学校行事については,「全校又は学年を単位として,学校生活に秩序と変化を与え,集団への所属感を深め,学校生活の充実と発展に資する体験的な活動を行うこと。」と定められており、その中で、運動会は、「(3) 健康安全・体育的行事:心身の健全な発達や健康の保持増進などについての関心を高め,安全な行動や規律ある集団行動の体得,運動に親しむ態度の育成,責任感や連帯感の涵養,体力の向上などに資するような活動を行うこと。」と位置づけられています。ということで、現在では全ての学校で運動会が行われています。日本の多くの学校で行われている運動会は、当日までに何度も練習があり、全体で予行練習を行い、万全の状態で本番をむかえ、当日は白線が何本も引かれ、明確に区画された会場で大勢の観客に見守られる中、生徒全員による入場行進、整列の後は開会式が行われます。引き続き全校生徒による準備体操がある。その後には、徒競走、ダンスやマスゲーム、団体競技、組体操、リレーなどの種目が続きます。これは、この学習指導要領によっています。また、競技内容も運動会の起源のひとつとして海軍兵学寮によるもの、その発展によって戦前は戦意高揚に利用されてきたことが影響しています。騎馬戦、棒倒しなどは、その名残と思います。では、幼児期では運動会は、どのように位置づけられているのでしょうか。保育指針には、「保育の計画作成に当たっての留意事項」として、「各種の行事については、子どもが楽しく参加でき、生活経験が豊かなものになるように、日常の保育との調和のとれた計画を作成して実施すること。」と書かれていますし、幼稚園教育要領には、もっと具体的に、「特に留意する事項」として、「行事の指導に当たっては,幼稚園生活の自然の流れの中で生活に変化や潤いを与え,幼児が主体的に楽しく活動できるようにすること。なお,それぞれの行事についてはその教育的価値を十分検討し,適切なものを精選し,幼児の負担にならないようにすること。」となっています。もう一度、この視点に帰って、ただ、やめるとかやるではなく、行事の目的、練習方法、プログラムなど見直してみたほうが良いかもしれません。
投稿者 fujimori : 11:59 | コメント (0)
2005年09月22日 [由来]
省我のいわれ(真相)
「省我」のいわれを、難しく語りました。しかし、本当のいわれは、もっと簡単な話ですということを話します。
じつは、諏訪市に、曹洞宗愛宕山地蔵寺という名刹があります。この寺の庭は、庭園史上江戸初期様式の代表作に推奨され、日本百名庭園にも数えられ幽邃な美しさで知られています。また、池泉は放生池で、祈願や供養に諏訪湖産の名鯉が放たれ「鯉の寺」の愛称もあります。その寺の境内に、歌が刻まれた石碑があります。その作者名に「省我」と刻まれています。この歌詠みは、私の何代か前の先祖で、連歌などを趣味にしていたようです。(奥の細道で、芭蕉に随行したことのある河合曾良と親交があったようです)そして、いくつか雅号を持っていました。そのうちの一つに「荷風省我」というものがあり、それを高校時代に知って、私は、意味もよくわからないで、当時ラジオなどに投稿するときのペンネームに使っていました。なんか、格好がよかったからです。そして、54年、八王子市に保育園を開園することになり、その名前をどうしようかと話し合った結果、私が、「省我」はどうかということで、まあ、先祖の名前だし、いいだろうということになったのです。
しかし、その後、その名前の由来を知って、重さを感じます。もう一方の「荷風」のほうも、意味があります。荷風といえば、永井荷風を思い浮かべますが、本当は、ハスの花の上に吹く風のことのようです。(今になると、それをどこで聞いたか忘れましたが)ということは、「荷風省我」というのは、「ハスの花の上に座って、そこに吹いてくる風に当たりながら、じっとわが身を省みている」というイメージです。最近は、その心境は、とてもいいなあと思うようになりました。今、園庭に花托が咲いています。「ハス」というのは、この植物の果実の入った花托が、昆虫の蜂の巣に似ているところから付けられた名前といわれています。ハチス(蜂巣)の「チ」が抜け、略されてハスになったというのが定説のようです。花托は9~11月ころに見られます。ハスというのは、原産地はインドであるといわれ,日本には中国を通じて伝わったものです。仏像の台座に「蓮華座(れんげざ)」というのがありますが,蓮華とはハス(蓮)の花そのものです。「ひ~らいた ひいらいた なんの はなが ひ~らいた れんげの は~なが ひいらいた」というのは,あのレンゲ草の花のことではなく、蓮の花の蓮華のことです。また、中華料理などに用いられる「れんげ」も、ハスの花びらの形に似ているところからついていますね。そして、蓮の根はレンコンですが,その通りの字を書いて、「蓮根」です。なんか、漠然と言っていること、知っていることが、つながってくると、納得がいくことが多いですね。