2009年11月15日 [記念日]
15日
もうすぐに天頂に冬の大六角形が輝きます。オリオン座も、誰でも見つかるような形と輝きで冬を飾っています。それら星座にまつわるギリシャ神話をこのブログではよく取り上げますが、本当は、星座は、 織り姫、ひこ星に代表されるように東洋にもあります。もちろん、江戸時代までの星座は、この東洋のものを言っていましたが、明治維新以後、ッ西洋文明が取り入れられ、すっかり東洋のものとなってしまったようです。
東洋では、太腸が天球上を運行する黄道上にそって一周するその円周を28等分にし、それぞれブロックごとの位置の近くにある星座が割り当てられました。その各々のブロックを星が泊まる宿という意味で、「宿」といい、それに星座名をつけたのです。ですから、全部で二十八宿になります。月はある恒星に対して、27日7時間43分2.5秒で天を一周しますので、天を27、または28で区分するのが便利だと考えたのでしょう。というわけで、月は1日にこの二十八宿の一宿ずつ通過していくと考えられました。
この二十八宿は中国からインドヘ渡り、インド占星術として発達し、唐時代に中国に戻り、それが空海によって806年に日本へもたらされたと考えれていました。しかし、奈良県明日香村で発掘されたキトラ古墳の天井壁画に星座が描かれていたので、今は、空海以前にすでに日本へ入ってきたと考えられています。
この28宿の中の23宿は距星名を「鬼」と言われ、和名「たまおのぼし」でギリシャ神話のかに座θを指します。この鬼宿にあった日にお釈迦様が生まれたと言い伝えられるところから、鬼宿日が「万事に大吉。二十八宿のなかで一番ラッキー宿」ということになったのです。
今日、町を歩いていると、かわい着物を着た女の子に出会いました。今日15日は、七五三です。ところで、七五三は、一般に3歳、5歳、7歳の子どもの成長を祝い、宮参りをする習俗です。もともとは、幼児期の通過儀礼としては公家や武家の社会で行われていたもので、3歳の女児が、そっていた髪をのばす髪置(かみおき)、5歳の男児が、はじめて袴をつける着袴(ちゃっこ)、7歳の女児が、着物の付け紐をやめて帯をむすぶ帯解(おびとき)として、江戸中期以降の見られるものでした。それ以前は、特に男女別や年齢は確定していなかったようです。
また、各地には、幼児期の成長に節目をもうけて氏神へまいる習俗がありました。ところが、多くの行事同様、七五三がひろまったのは、江戸をはじめとする大都市で、商業的理由によるところが大きいようです。縁者や近所にくばる千歳飴も、江戸中期には登場しています。では、どうして11月15日になったのでしょうか。旧暦の15日は、かつて鬼が出歩かない日である二十八宿の鬼宿日に当っているのです。また、旧暦の11月は収穫を終えてその実りを神に感謝する月であり、その11月の鬼宿日である15日に、氏神への収穫の感謝を兼ねて子どもの成長を感謝し、加護を祈るようになりました。明治になって、暦が新暦になってからは11月15日に行われるようになりました。現在では11月15日にこだわらずに、11月中のいずれかの土日・祝日に行なうことも多くなっていますが、本当は15日でないと鬼が出歩いてしまうようです。
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2009年10月22日 [記念日]
灯火
少し前のブログで、皆さんは何の秋を思い浮かべるかという話題を書きましたが、やはり、「読書の秋」というのが老舗の気がします。確かに、すでに1918年(大正7年)9月21日の『読売新聞』には「読書の秋」という表現が使われているそうです。どうして、秋と読書が結びついたかというと、古代中国の韓愈が詠んだ「時秋積雨霽、新涼入郊墟。燈火稍可親、簡編可卷舒。」(降り続く長雨がやんで、空がすっきりと晴れ渡り、郊外の丘の上では、秋を感じさせる涼しさが感じられる。そんな秋の夜長は、明かりをつけて、そのもとで読書をするのに適している季節です。)という中の「灯火親しむべし」からだと言われています。出典は、中国の文人で唐宋八大家のうちの一人である韓愈の「符読書城南」(『全唐詩』341巻)です。彼が、息子に対して勉強を勧めたことばだとされています。
この中の「新涼」という言葉は、とてもさわやかさを感じます。「全訳漢辞海 第二版」によると、「初秋のころの涼やかさ」とあり、「秋はじめて催す涼しさをいう。夏の暑さの中の一時的な涼しさと違って、よみがえるような新鮮な感触がある。秋涼し。秋涼。」との説明がされています。また、「灯火」という言葉も、「明かりの下で」ということで、「灯下」と書きそうな気がするのですが。
終戦まもない昭和22年、まだ戦火の傷痕が至るところに残っているなかで「読書の力によって、平和な文化国家を作ろう」という決意のもと、出版社・取次会社・書店と公共図書館、そして新聞・放送のマスコミ機関も加わって、11月17日から、第1回「読書週間」が開催されました。そして、翌年の第2回から来週火曜日の10月27日~11月9日の文化の日を中心にした2週間が「読書週間」と決められ、日本の国民的行事として定着し、日本は世界有数の「本を読む国民の国」になりました。
しかし、この「読書週間」も戦争によって翻弄されます。実は、関東大震災の翌年の大正13年、11月17日から23日までの1週間を日本図書館協会が「読書週間」として開始しました。それが、昭和8年に「図書館週間」と改称され、出版界ではそれと密接な連携を保ちながら「図書祭」を計画し、当時の東京商科大学一橋講堂で、祭典が行われましたが、そのとき祝辞を述べたのが、鳩山一郎文部大臣でした。しかし、日中戦争の影響で昭和13年、読書運動は、11月10日の国民精神復興に関する詔書煥発記念日に改められ、政府の「国民精神復興週間」に変わって行きます。「図書館週間」も、昭和14年に文部省が発令した「一般週間運動廃止令」によって禁ぜられましたが、何とか、「読書普及運動」と名称を変えて、11月8日から12日までの5日間の開催で継続を計ります。しかし、ますます悪くなる時局の緊迫化から、読書週間、図書館週間ともこの年で終止符を打つことになってしまったのです。
それが、敗戦後の昭和22年に復活するのです。その後、この年、毎日新聞社により「毎日出版文化賞」が創始され、昭和28年には、学校図書館協議会の提唱に共催して「青少年読書感想文全国コンクール」がスタートします。
こんなに大切にされてきた「読書」ですが、次第に本を読まない若者が増えてきました。若者だけでなく、時間がないからといって本を読まない人も増えているようです。夜長の秋ではなく、夜短の秋のような生活をする人が増えていることは、心に余裕がなくなり、イライラする人が増えてきたことと関係があるかもしれません。
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2009年10月21日 [記念日]
夕べ
また、最近宇宙が話題になっています。まず、一昨日から明日にかけての未明、2006年以降、出現数が急増しているオリオン座流星群がピークを迎えます。流星群は、定期的に話題になりますが、見える時の季節や時刻や月の状況に左右されますが、今年は月明かりがないため条件が良いそうです。この流星群は、普段でも見ることができるのですが、最近見える数が急増していて、通常は1時間に20個程度の流星しか見ることができないのですが、2006年以降1時間当たり50個以上を見ることができるようになっています。見える場所は、オリオン座流星群というように、オリオン座の近くの場所から放射に飛ぶようです。冬の星座であるオリオン座は、今の時期は未明の東の夜空に浮かびます。この流星群は、約3000年前にハレー彗星から放出された「ちり」だそうで、見える数が増えたのは、この時期に、地球の軌道に接近するためで、次に急増するのは70年後で、しかも、来年は月明かりもあるので、今年がに肉眼で観察できる最後のチャンスだそうです。
もうひとつ、明日の10月22日から24日の3日間、世界天文年の企画のひとつ「ガリレオの夕べ」(Galilean Nights)が世界各地で一斉に開催されます。現在、夜、南の空を見ると、どんなに曇っていても一つの明るい星が見えます。瞬きはしないのですが、とても大きく明るく光っています。これは木星です。この期間に、月や木星などの観望会を開いて、およそ400年前、1609年から1610年にかけてガリレオが望遠鏡で月や木星を見たときの驚きと感動を、世界中の人々に体験してもらいたいという思いから、「ガリレオの夕べ」が開催されるのです。
とくに今観察しやすい木星とその衛星を詳しく観測しようという企画が、世界天文年2009日本委員会が「君もガリレオ」というプロジェクトを行うようですし、世界の主要企画として、「小望遠鏡をみんなの手に(The Galileoscope)」グループによって、「木星観測キャンペーン」が展開されます。ほかにも、世界各地でイベントが行われますが、日本で行われるものは、世界天文年の日本のウェブサイトで、世界各地で行われるものは、Galilean Nights のウェブサイト (国際版) で地図上に表示されています。
22日から24日の間の夕方には南西の空の低いところに半分に満たない月 (上弦前の月) が見えていて、南の空に木星が一番目立っています。また、これは小望遠鏡以上でなければ見えにくいのですが、その周りに四大衛星と小さな衛星たちが見えます。木星には2009年1月現在で63個もの衛星が発見されています。その中でイオ、エウロパ、ガニメデ、カリストと呼ばれる4つの衛星は特に大きく、1610年にガリレオ・ガリレイによって発見されたことから「ガリレオ衛星」と呼ばれています。これらの惑星を時間をおいて観察すると、木星の周囲を公転している様子を見ることができます。
そして空高く見上げれば夏の大三角がそろそろ夏の終わりを迎えて役目が終えるかのように暗くなって早いうちに消えていこうとしています。そのほかの夏から秋の星座への引き渡しが広い夜空で行われています。また、ふだんよりも流れ星を目撃できる確率が高い時期でもあるのですが、ちょうどオリオン座流星群の活動期間とも重なっていて、天文少年にはたまらない時期かもしれません。
投稿者 fujimori : 23:11 | コメント (4)
2009年10月20日 [記念日]
広告
先週の15日、日本新聞協会から2009年度「新聞広告クリエーティブコンテスト」の結果発表があったことが報道されていました。今日、10月20日は「新聞広告の日」です。由来は新聞週間(15から21日)の中で覚えやすい20日を記念日にしようと、「日本新聞協会」が1974年に制定したものです。最近は、インターネットをはじめとするデジタルメディアが普及しつつありますが、まだまだ新聞などの紙媒体の影響力は大きいです。そこで、今日の新聞広告の日にあわせ、2002年から「新聞広告を広告する」ということで、新聞広告コンテスト」と題して実施していました。たとえば、2004年度の優秀賞は、「新聞広告だってモノを言おうぜ」ということで、人の顔の前面に「世界を前より平和にしたぜ」と書いた紙が張り付けたような絵柄でした。また、その翌年の2005年度には、「三行あれば何でも言える」というコピーが紙面の中心に書かれてあるものでした。
それが、2006年度からは新聞広告のクリエーティブ強化を目的に、若いクリエーターの方々に、新聞広告の可能性を広げるような独創的で斬新な作品を作ってほしいとの趣旨で年度ごとにテーマを設定して募集することになりました。新聞に結果発表が掲載された今年度のテーマは、「きずな」です。ここに、1465作品の応募があったようで、関心の深さが分かります。
最優秀賞に選ばれたのは、「さみしくなったら‥」ということで、自分のへそを見ている人物がシングル線で描かれてあります。そこに、「さみしくなったら、おヘソを見よう。」とあり、下隅に“あなたがひとりじゃなかったこと。思い出したら、きっと大丈夫。「実感しよう、絆」”と書かれてあります。なかなかいいですね。しかし、私は優秀賞を受賞した作品も好きです。ここには、「人生、何年生になっても“絆”を大切に。だいじょうぶ。友達100人なんていらないんだよ。たった一人の親友がいるだけで、“ひとりぼっち”から卒業できるはず。友情って。広さじゃなくて、きっと深さなんですね。」というものです。絆、友達というとみんなと仲良くなるとか、多くの人とつながらないといけないと思いがちですが、人の多さではないことは、子どもたちの保護者の人たちにも知ってもらいたいことです。このほかの今年の入賞作品は、優秀賞・学生賞「『一人暮らし』なんてウソでした。」、コピー賞「お隣さん」、「演歌な人生にも、ポップな人生にも、ロックな人生にも。」、「新聞受け」です。
これらの賞で、過去のものにもなかなかいいものがあります。「環境」をテーマにした2006年度の最優秀作品「エコ買い」は、今年でも十分と通じる内容です。大きく書かれた牛乳パックの面に「賢い主婦はスーパーで手前に並んでいる古い牛乳を買う」と書かれてあります。それはどういうことかが次の文章で分かります。「自宅の冷蔵庫に新しい牛乳と古い牛乳があれば、どちらから先に飲みますか?古い牛乳からですよね。賞味期限が過ぎて、棄ててしまうのがもったいないですから。しかし、スーパーでは新しい牛乳を選んで買っていませんか?新しい牛乳から売れていくと、そのぶん古い牛乳は売れ残ってしまいます。日本では、毎日約2000万人分の食料が、賞味期限切れなどの理由で棄てられています。できるだけ、売り場の手前にある古い牛乳を買いましょう。飽食や贅沢を見直すことで、食料輸送や焼却処分時の環境負担を減らすことができます。無駄を減らして、CO2排出量を減らしましょう。」
広告から、自分を振り返ること、自分を見つめ直すことができます。
投稿者 fujimori : 19:21 | コメント (4)
2009年10月01日 [記念日]
コーヒー
今日は、私の園では、コーヒーの話題で盛り上がっています。それは、今日が「コーヒーの日」だからではなく、先日いただいたコーヒー焙煎器で、コーヒーを焙煎し、数人で飲んだからです。
国際協定によって、コーヒーの新年度が始まるのが10月1日と決められています。それは、ブラジルのコーヒー豆の収穫が9月にだいたい終了するからです。また、日本でのコーヒーの消費量が秋冬季に増えることから、それに先立つ日10月1日を1983年に「コーヒーの日」と全日本コーヒー協会が制定しました。
コーヒーのことが文献にあらわれるのは、9世紀にペルシャの医師ラーゼスが、コーヒーの医学的効用を自著の中で述べているのが最初です。それより前、人類がコーヒーを知ったきっかけについては、いろいろな伝説があります。キリスト教徒の間に伝わる伝説ではヤギが、そしてイスラム教徒に伝わる伝説では小鳥が、それぞれ人にコーヒーを教えてくれたと言い伝えられています。
面白いですね。宗教によって伝えた動物が違うのですから。キリスト教説では、「エチオピアのヤギ飼いの少年カルディはある日、放し飼いにしているヤギの中のあるグループが夜になっても元気に動き回っているのを不思議に思いました。どうしたのかと見張っていると、そのヤギたちはみな赤い木の実を食べていることが分かりました。カルディも試しにその実を口にしてみると全身に活力がみなぎってきます。カルディからその話を聞いたキリスト僧の修行僧たちが夜通し続ける長い祈りの時にこの実を使って眠気を払うことを考えました。そして、この実は睡魔に勝つ秘薬として、修行僧の間で広まったのです。」
また、イスラム教説では、「アラビアのイスラム僧シェーク・オマールは領主の誤解のために追われる身となって、山中をさまよっていました。その時、一羽の小鳥が赤い木の実をついばみ陽気にさえずるのを見ました。試しにオマールがその実をなめてみた所、不思議と空腹感が癒やされ、疲れが取れて気分壮快になるのを感じました。一方オマールを追放した領主の町では病気が流行して多くの人が苦しんでいました。そこでオマールが町に戻って、人々にその赤い実を煎じた汁を飲ませたところ、みな良くなり、領主もオマールの罪を解きました。」
これらの起源がコーヒーの産地になっています。キリスト教説のアラビアまたはエチオピアを起源とするコーヒー豆がアラビカ種で現在、全世界のコーヒーの70~80%を占めています。また、イスラム教説に出てくるオマールが戻った町が、コーヒー豆の集荷地として有名なモカの町です。
その後、1683年、トルコの軍隊に占領されそうになったウィーンの街を救ったコルシツキーは、活躍のご褒美に1軒の家と、トルコ軍の残していった緑色の豆を貰い受けます。見たこともなかったこの豆を、ウィーンの人々は“らくだの餌”だと思っていたようですが、実はこれはコーヒー豆。これを元手に「青い瓶」という喫茶店の開いたコルシツキーは、近代喫茶店の祖と言われ、今でもウィーンのコルシツキー通りには、彼の銅像が建っています。
先日ある人からいただいたコーヒー豆は緑色をしていて、その豆を焙煎器を使って自分で焙煎すると、あのコーヒー色の豆になるのです。いれたてのコーヒーではなく、焙りたてのコーヒーを飲むのは、また違った味わいです。
投稿者 fujimori : 22:36 | コメント (4)
2009年09月21日 [記念日]
未来
昨日のブログで「飛行機」を取り上げましたが、実は昨日は「航空日」でした。この記念日は、ずいぶん前の1940(昭和15)年に制定されていましたが、国民にとってより親しみやすいネーミングということで、運輸省航空局(国土交通省)が1922(平成4)年に民間航空再開40周年を記念して「空の日」と改めました。そして、9月30日まで「空の旬間」が設けられています。
どうしてこの日に決められたかというと、1911(明治44)年のこの日に、和歌山県出身の山田猪三郎が開発した山田式飛行船が滞空時間1時間で東京上空を20㎞ほど飛行したことを記念しているそうです。しかし、どうもそれが本当にその日かは怪しいそうですが。その日が実際はいつかであるかは別としても、ライト兄弟が世界初の飛行機を発明したのが1903年ですから、当時、空を飛ぶのが夢の時代に東京の空を1時間も飛んでいるというのは感動したことでしょうね。ただ、航空といっても飛行機ではなく、飛行船のようです。そして、この記念日は、第2次世界大戦終戦に伴い、連合軍による航空活動の禁止命令のため一時休止されましたが、昭和28年(1953年)には、復活されています。
それから何年もたっていないのに、月に何度もいけるようになりました。昔の人は、それをどのくらい予想していたのでしょう。1895年にハーバート・ジョージ・ウェルズ(H・G・ウェルズ)が、「タイムマシン」という小説を発表して評判になっています。この小説は、日本では1913年(大正2年)に黒岩涙香が「八十万年後の社会」という題名で「萬朝報」に連載し、大好評を博しています。それにしても80万年後先とはずいぶんと先ですね。多分、タイムマシンは未来になってもできることは不可能だと思っていたのかもしれませんね。
H・G・ウェルズは、イギリスの小説家・SF作家で、「SFの父」と呼ばれています。その彼の誕生部が今日9月21日で、今日のグーグルのロゴに表わされています。彼の小説には、その後のSF作家に影響したものが多く、また、今を予言したものも多くあります。タイムマシンだけでなく、蛸型の火星人、透明人間などを初めて登場させたり、「盗まれた細菌」では、細菌をテロの道具として使うことがテーマですし、「神々の糧」では合成食品を扱っています。
今、「弥生美術館」で「S20~40'ぼくたちの未来予想図」と称して、「昭和少年SF大図鑑展」が開かれています。今日、妻と見に行ってきました。ここでは、戦後の復興期から高度経済成長期にかけて発行された沢山の少年少女雑誌の中で、子どもたちを魅了した近未来を予見したような未来予想図が展示されています。それは、誰もが自由に宇宙に行ける未来、自在に空を飛ぶ乗物や流線型の高速車が走り、超高層ビルが立ち並ぶ未来都市、何でも言うことを聞いてくれるロボット、宇宙からの侵略者や怪獣と化学兵器を駆使して戦うスーパーヒーローなどです。

ちょうど私が小、中学生の頃で、いつか実現されるだろうということを信じて、様々な未来を空想し、夢を描いていました。
それらの夢のいくつかが実現し、昔では考えられない進歩を遂げています。しかし、そんな時代の今、子どもたちは未来に夢を持っているでしょうか。それとも、すべての夢はかなえられてしまっているのでしょうか。
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2009年08月29日 [記念日]
選挙
今日から、このブログも5年目に入ります。
今から56年前の昨日の28日午前11時20分に民間放送初のテレビ本放送が開始されました。「JOAX-TV、こちらは日本テレビでございます」の第一声とともに始まった日本テレビでは、その2年後の55年、第27回衆議院総選挙で開票速報の放送を開始しました。取材レポートや政局討論会などが組み込まれ、リアルタイムの政治情報が茶の間に送られるようになったのです。
この時の選挙は、とても興味深いものがあります。それまでの内閣は1953年に、吉田茂首相が衆議院予算委員会において放った失言をきっかけに、衆議院において内閣不信任案が上程され、直ちに衆議院を解散(バカヤロー解散)したのちに誕生した第5次吉田内閣です。しかし、総選挙で過半数を獲得できなかった自由党は、改進党と保守連立を模索したが合意に達せず、少数与党でスタートしました。しかし、この吉田内閣は、造船疑獄の発覚と保守内紛で弱体化し、1954年に総辞職し、長期の「吉田政治」に終止符が打たれたのです。
そして、行われたのが第27回衆議院総選挙で、初めて日本テレビで開票速報が放送されたのです。その結果、日本民主党の鳩山一郎を首班とする第1次鳩山内閣が成立しました。この時の投票率は、男79.95%、女72.06%、計75.84%でした。この選挙だけが特別高かったわけではありませんが、今と比べるとずいぶんと選挙に対しての国民の意識が高かったことがうかがわれます。しかし、この選挙で、日本民主党だけでは衆議院で過半数に足りなかったため、首班指名選挙では左右両社会党の支持をもって首班指名を受けた。その際の見返りとして、鳩山は左右社会党に対して早期解散の約束をしたのです。
解散のときには、今のようになんとなく尻つぼみで消えていくのではなく、いろいろなドラマがありました。吉田内閣時代には、「馴れ合い解散」「抜き打ち解散」「バカヤロー解散」といわれるようにとてもワンマン的な解散の仕方が多かったのです。それに対して、当時の第1次鳩山内閣では、私からすると「約束解散」だと思うのですが、解散が行われた瞬間によって、違うイメージを国民に植え付けました。1955年1月24日、衆議院本会議場では政府三演説に対する代表質問が行われていた最中に突然、「ただいま内閣総理大臣から詔書が発せられた旨伝えられましたから、これを朗読いたします」と告げ、突然解散となったのです。約束され、いつ解散するのか待ちわびていた与党民主党と左右両社会党の議員たちは興奮の渦に巻き込まれたのです。
その時のことを後で新聞記者に鳩山が「なぜこの日に」と聞かれたことに対して、淡々と「天の声を聞いたからです」と答えた態度が、今までの吉田内閣の解散と違って、確実に新風を吹き込んでいるというイメージを与えたのです。ですから、そののち、「鳩山ブーム」が沸き起こるのです。しかも、鳩山の陽性の人柄と、政権掌握間近にGHQによって公職追放となったことや、病魔に倒れた悲運に対する同情が集まり、次の選挙では、民主党の候補者に票が集まったのです。
今日という日に、こんなことを振り返るとは、なんだか、不思議な気がします。
投稿者 fujimori : 22:34 | コメント (5)
2009年08月06日 [記念日]
ゲン
今日は、広島の「原爆の日」です。今年で原爆投下から64年になります。
ブログでも書きましたが、先日広島に行って、久しぶりに原爆ドームを見てきたこともあって、原爆が投下された午前8時15分には講演先のホテルにいたのですが、テレビで放映されていた「原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」に合わせて、起立して1分間の黙とうを捧げ、約5万人の犠牲者を悼み、また世界の平和を祈りました。先日の第1次世界大戦開戦記念日のときのブログではありませんが、戦争は、いつの世でも、どんな大義名分があろうとも人類だけでなく、すべての生き物にとって悲惨なものです。それは誰でもわかっていることですが、なかなか戦争はなくなりませんね。命の価値にはその数には関係がありませんし、誰の命とかにも関係ありませんが、それでも多くの一般的な人々を一度に殺傷してしまい、しかもその後遺症に何代にもわたって襲われる原子爆弾の使用は、二度と繰り返さない決意と合意が特に必要です。
こんな気持ちになるのも、ただ毎年繰り返される式典をニュースで見てもその決意は少しずつ薄らいでいきますが、実際に広島に行って原爆ドームを見てみるとか、原爆資料館を訪れるとまた平和を願う気持ちが新たになります。ですから、いま、オバマに広島に来てもらおうとしているのです。
もうひとつ、私が直接のその悲惨さを知った一つのきっかけになったのが漫画「はだしのゲン」があります。私はその漫画を読みましたし、そのシリーズの実写映画の3本ともビデオに録画して持っています。この「はだしのゲン」は、広島での被爆体験を基に漫画家、中沢啓治さんが描いたベストセラー漫画ですが、今日のニュースによると、「はだしのゲン」全10巻の英訳版が完成し、ほかにも十数カ国語に翻訳され、世界各国で幅広く読まれ始めているそうです。
この漫画をアメリカで読んだ人は、「学校では被爆の苦しみを教わらなかった」「ゲンは核兵器の恐ろしさを伝える生き証人だ」などの感想を持ち、初めて知る被爆者の苦難に衝撃を受けた様子です。その結果、「われわれ米国人は、恐るべき核の破壊力を教えられていない。ヒロシマ、ナガサキの惨劇がまた繰り返されるかも、と思うと恐ろしい」という感想を述べた人もいるそうです。また、最近は「はだしのゲン」を教材に取り入れる高校や大学が出てきているようです。教材で取り上げた教師の一人は、「ゲンは被爆体験を世代や文化を超えて伝える力を持っている。学生はゲンに触発され、さまざまな社会や政治の問題を深く考えるようになった」と言っていますし、また、この教材で勉強した人には、「原爆の熱線で溶けた人の顔を漫画で初めて見て、あまりのショックで口を閉じるのも忘れてしまった。敗戦国の人たちが負った心の傷を、これまで考えもしなかった」と語っているそうです。そんな反響の中で、作者の中沢さんは「まずは米国でしっかり読まれてほしい。オバマ大統領にも娘さんたちと一緒にぜひ読んでもらいたい」と話しています。
まだまだアメリカでは原子爆弾の使用を正当化する風潮がありますが、戦争の悲惨さをドキュメントで伝えることも事実をきちんと伝えるという意味では重要なことですが、物語映画などの映像で伝えることも大切です。また、この「はだしのゲン」のような漫画にも世界に伝える力があるのかもしれません。
投稿者 fujimori : 23:12 | コメント (4)
2009年07月29日 [記念日]
28日という日
昨日の28日は、オートスリアがセルビアに宣戦布告し、第一次世界大戦が始まった日です。1914(大正3)年のことでした。この戦争は、長期にわたり、世界中を巻き込んだのですが、幸いにも日本は戦場とならず、直接の被害にはあいませんでしたので、あまり話題になりません。最後は、ドイツが18年11月に降伏し、翌年ヴェルサイユ条約によって講和成立して終わりました。
この戦争で日本が関わったエピソードとして伝えられていることを、以前徳島県板東を訪れたときにブログに取り上げたことがありました。青島で捕獲して徳島県板東など12か所の収容所に送られたドイツ軍捕虜約4,700名を、特に板東捕虜収容所で丁寧に扱い、地元住民との交流から、ドイツ料理やビールをはじめ、数多くのドイツ文化が日本にもたらされたという話です。ベートーベンの「交響曲第9番」も、このときにドイツ人捕虜によって演奏され、はじめて日本に伝えられたのです。この顛末が「バルトの楽園」という映画になっています。
そのほかにも、海外ではこの戦争を題材にして多くの小説や映画がつくられています。有名なものに「西部戦線異状なし」があります。この映画の原作は、第一次世界大戦の敗戦国ドイツ出身のエーリッヒ・マリア・レマルクが1929年に発表し、世界的な大ベストセラーになった反戦的な小説ですが、映画はアメリカ映画です。しかし、原作同様、戦争の過酷さをドイツ側から描いています。印象に残っている場面は、最後の場面です。長雨の後の晴れた日、静かな戦場からハーモニカの音が聞こえてきます。そこへ一羽の蝶が飛んできたので、塹壕の中にいる常々戦争の悲惨さを訴えているドイツの志願兵であるポール(原作ではパウル)がそっと手を出します。その瞬間、銃声一発しました。それは、敵の弾丸がポールの若い命を吹き消した瞬間でした。しかし、司令部報告では、「西部戦線異状なし、報告すべき件なし」というものでした。
また、映画化もされましたが、アーネスト・ヘミングウェイの長編小説「武器よさらば」があります。この小説は、ヘミングウェイ自身の、イタリア北部戦線の従軍記者時の体験をもとにして書かれており、第一次世界大戦のイタリアを舞台に、アメリカ人のイタリア兵フレデリックとイギリス人看護婦キャサリンとの恋が描かれています。やはり最後が印象的で、キャサリンの妊娠が分かり、二人はスイスへと逃亡しますが、難産の末、子と共にキャサリンは死んでしまい、最後は雨の中をフレデリックは一人立ち去ってゆくところで終わります。
ほかに、私が好きな映画「アラビアのロレンス」も第1次世界大戦の中、オスマントルコからのアラブ独立闘争を描いた歴史映画です。1962年のイギリス映画で、第一次大戦下、イギリス人でありながら、アラブ独立の為にアラブ人を指揮して戦ったT・E・ロレンスの半生を描いた大作史劇映画です。アカデミー賞の10部門にてノミネートされ、7部門で受賞しています。延々と続く広大な白い砂漠と地平線を背景に手を上にあげて兵士を鼓舞するかのようにロレンスが跨ったラクダが駆ける場面が印象に残っています。

「ジョニーは戦場へ行った」もいろいろと賞をとっています。第一次世界大戦に出兵したジョニーは、戦場で爆撃を受けて負傷し、病院に搬送されます。無事だったのは延髄と性器のみで、目も耳も口も鼻も失い、手足は切断されてしまい、ジョニーは過去を回想しつつ、現実に絶望し、自らの死を望むのですが。
戦争は、どんな場合でも悲惨です。
投稿者 fujimori : 23:27 | コメント (4)
2009年07月21日 [記念日]
開く
今、日本中で話題をさらっているのは明日の「日食」でしょう。私も「遮光板」を買って、観察に備えています。その遮光板にはこう書かれてあります。「2009.7.22 皆既日食 日本で観察できるのは…46年ぶり!!ガリレオ望遠鏡発明から、400年」このコメントではありませんが、今年はまさに「世界天文年」です。
また、国際宇宙ステーションで日本人初の長期滞在を経験した若田光一宇宙飛行士の手で、一昨日、日本人初の有人宇宙施設「きぼう」が完成しました。これは、4半世紀にわたる悲願達成です。この「きぼう」は、宇宙空間という特殊環境を利用した実験施設です。船外実験施設では地球大気や天体を観測したり、過酷な環境に耐えうる新材料のテストを実施するそうです。そのほか、微小重力を利用して、高品質なたんぱく質結晶を作り、医薬品開発に活用したり、放射線や微小重力が生物に与える影響を調べる実験などが計画されているようです。
このような宇宙への扉を開いたのは、「司令船から切り離された月着陸船イーグルに搭乗するアームストロングは、7月20日午後4時17分(東部夏時間)に船を月面へ着陸させた。」というニュースではないでしょうか。ちょうど今日という日が、その記念日です。その記念日であることで、グーグルの検索画面では月の上に降り立ったアポロ宇宙船と、その後ろに美しく輝く地球が描かれています。また、グーグルは今日、40年前の1969年にアメリカのアポロ11号が人類初となる月面着陸に成功したこの日を記念し、グーグルアースで「ガイド付きの月ツアー」が提供されています。この画面を見てみました。そこでは、アポロ11号で月面に降り立ったバズ・アルドリン元宇宙飛行士と、アポロ17号で月面を歩いた最初の科学者となった地質学者のジャック・シュミット氏のガイドによる月ツアーが始まります。また、月面着陸している宇宙線の3Dモデルを見ることもできますし、360度回転する写真にズームインして宇宙飛行士の足跡を見ることもできます。
今日という日は宇宙への扉を開いた日であり、今年は天体への扉をガリレオが開いて400年という記念年です。また、今年は、1859年(安政6年)の開国・開港から150周年を迎える年に当たります。1854(安政元)年、2度目に来日したペリーと幕府役人との間で、横浜村において日米和親条約が結ばれ、日本は永く続いた鎖国を解いて開国しました。5年後の1859(安政6) 年、安政の五カ国条約にもとづいて横浜は開港場となりました。その年から横浜は生糸を中心とする貿易都市として、ついで重化学工業都市として急速に発展し、ついには首都東京に次ぐ大都市に成長しました。そして、開港百年を記念して編さんされた『横浜市史』の収集資料を基礎に、1981(昭和56)年、和親条約締結した場所に「横浜開港資料館」が開館されています。

そして、今年は開港150周年ということで、横浜は未来への「出航」をテーマに、「開国博Y150」が開催されています。昨日の休みの日に行ってみました。みなとみらい地区を中心としたメイン会場「ベイサイドエリア」の目玉は、フランスの巨大スペクタクルアート劇団「ラ・マシン」による「巨大なクモ」です。「クモ」は「糸」で巣をつくる動物であり、きわめて創造的な生命体です。ですから、今回のY150のさまざまな会場をつなぎ 「横浜のゆめ」 をつむいでいくと同時に、「Web = クモの巣」 型ネットワーク社会のシンボルとして「クモ」が選ばれているそうです。
投稿者 fujimori : 23:39 | コメント (4)
2009年07月17日 [記念日]
明日という日
昨日、園の携帯電話にこんなメールが入ってきました。「東京都光化学スモッグ情報(2009/07/16) 東京都の光化学スモッグの発令・解除状況をお知らせします。 発令地域 区西部 学校情報:14時20分提供 予報:発令なし 注意報:発令なし 警報:発令なし」
今の時期は、ほとんど毎日こんな情報が流れてきます。特に、この中の「学校情報」というのは、子どもに影響する程度ですが注意を要します。
自治体では、大気汚染防止法に基づき、常に大気汚染の監視を行っています。また、全国の大気汚染測定局では、24時間自動で1時間ごとの大気汚染の状況を測定しています。環境省はそのデータを収集し、「そらまめ君」(環境省大気汚染物質広域監視システム)によって情報提供をしています。このネーミングは、シャレで「空をマメに監視している」ということからつけられています。そして、環境省では,光化学スモッグによる被害防止のために,2002年6月27日より,携帯電話で光化学スモッグの注意報・警報の発令状況と1時間ごとの大気中濃度を見ることができるサイトを開設しました。外に出るようなときとか、外で長時間仕事をしたり、外でイベントをやるときとかには、その情報を見るように言われています。同時に、地方自治体では大気汚染物質を排出している工場・事業場に排出量の削減を実施するように要請したり、幹線道路などでは電光掲示板などで自動車の使用の自粛を促すことになっています。また、自治体によっては、「光化学オキシダント注意報」が発令された場合、教育委員会、有線放送、広報車等を通じて住民に知らされます。新宿区でも、携帯電話とパソコンメールのその情報が自動的に入るようになっています。
この「光化学スモッグ」は、1945年にアメリカのロサンゼルスで初めて観測され、そのため「ロサンゼルス型スモッグ」とも呼ばれています。日本では1970年7月18日に、東京都杉並区の高校でグランドで体育の授業中に、女子生徒が突然目の痛みや頭痛、のどの痛みなどを訴えて倒れ、43人が病院へ運ばれました。そして、東京都公害研究所の調査によって光化学スモッグによるものということが判明して以来、注目されるようになりました。そこで、明日の7月18日は「光化学スモッグの日」と決められています。
どうして「光化学オキシダント」という物質が発生するかというと、塗料や接着剤などに溶剤として含まれている揮発性有機化合物と、自動車や工場からの排気ガスに含まれる窒素酸化物が太陽からの紫外線を受けて化学反応を起こすと生まれるといわれています。特に気温が高く、風が弱く、日差しの強い日は大気中の光化学オキシダントの濃度が高くなり、大気中に白くモヤがかかったようになります。この現象を「光化学スモッグ」というのです。
平成19年の「光化学オキシダント注意報」の発令状況は、発令都道府県数が28都府県で、発令延べ日数が全国で220日(18年は177日)だったそうです。また、光化学大気汚染によると思われる全国での被害届人数は、14県で合計1,910人(18年は8都県289人)だったそうです。
この夏、窓も開けられず、子どもたちが外で思い切り遊んだり、時としてプールにも入れない状況が起きるのは、結局は人間が自ら招いた結果なのです。
投稿者 fujimori : 21:12 | コメント (4)
2009年06月19日 [記念日]
シラー
ドイツの詩人と言えば「ゲーテ」を思い出します。ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは詩人だけでなく、劇作家、小説家、哲学者、自然科学者、政治家、法律家でもあるのです。また、私の園でも参考にした「色彩論」も表わしています。このゲーテと並ぶドイツ古典主義の代表者でもあり、ゲートと同時代に活躍したヨーハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・シラーも詩人であるだけでなく、歴史学者、劇作家、思想家でした。彼は独自の哲学と美学に裏打ちされた理想主義、英雄主義、そして自由を求める不屈の精神が、彼の作品の根底に流れるテーマです。そんなテーマから「ウイリアム・テル」の作者でもありますが、彼は、ギリシャの古伝説である「Damon(ダーモン)」と「Pythias(フィジアス)」の話をもとに、「Die Burgschaft」(=「人質」又は「担保」と訳される)という7行20節の詩を残しています。
彼の名前は、日本では、古くは「シルレル」あるいは「シルラー」とも表記されました。最後に、「古伝説とシルレルの詩から」という一文が記されている日本の有名な小説があります。この一文は、「DamonとPythias」というギリシャの古伝説をもとにしてシラーが書いた「Die Burgschaft」という詩から話を作ったということになります。それは、太宰治が、彼なりの発想を加えて書いた「走れメロス」です。ちなみに「Damon and Pythias」は今でも「無二の親友」という意味で使われているようです。
今日の毎日新聞にこんな記事が掲載されていました。「19日は生誕100年を迎えた作家・太宰治の命日「桜桃忌」。太宰が眠る東京都三鷹市の禅林寺には朝早くからファンが訪れ、墓前に花や酒、桜桃忌にちなんだサクランボが供えられた。太宰は三鷹で「走れメロス」「斜陽」「人間失格」など代表作を生み出した。玉川上水に入水自殺し、遺体が発見された1948年6月19日は太宰の39歳の誕生日でもあった。また、太宰が生まれ育った青森県五所川原市の生家「斜陽館」にも多くの観光客が訪れ「太宰文学はすべてここから始まったのか」と感嘆していた。」
太宰 治は、明治42年(1909年)6月19日に生まれていますので、ちょうど今日で100年目になります。また、自殺で亡くなったのは昭和23年(1948年)6月13日でしたが、遺体が見つかったのは後日、ちょうど誕生日であった6月19日でした。彼の命日を「桜桃忌」と名付けたのは、太宰と同郷の津軽の作家で、三鷹に住んでいた今官一がつけたものです。「桜桃」は死の直前の名作の題名であり、6月のこの時季に北国に実る鮮紅色の宝石のような果実が、鮮烈な太宰の生涯と珠玉の短編作家というイメージに最もふさわしいとして、友人たちの圧倒的支持を得たものです。
「走れメロス」は、教科書にも載っている小説ですので、ほとんどの人は知っていると思いますが、メロスという主人公が、自分の身代わりとなっている友セリヌンティウスの命を助け自らが処刑される為に暴君ディオニスの元へひたすら走るという物語です。この作品は、なんだか彼のイメージとずいぶんと違う気がしますが、もとが、シラーの哲学と美学に裏打ちされた理想主義、英雄主義ですから、頷けます。「走れメロス」の最後は、出典が書かれてありますが、冒頭の部分は、「メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。」という文で始まっています。
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2009年05月19日 [記念日]
缶とタライ
今の若い人は、吉本新喜劇の島木譲二のカンカンヘッドで行われような、お笑いなどでよく見かける空の「一斗缶」もしくは、その蓋を頭にぶつける場面がありますが、この一斗缶を知っている人は少ないでしょうね。また、ザ・ドリフターズのコントで使用され、その後よく頭の上に落とすものとしてよく使われるようになった「金ダライ」も、本来の使い方を知っている人は少なくなっているでしょう。
私の子どものころは、この一斗缶は家庭でもよく使われていただけでなく、使い終わった容器も主にコンロなどいろいろなものに使われていました。一斗缶とは、尺貫法の単位で定められた一斗の容量を持つ缶のことです。よく、ご飯を食べる時に「10合炊く」といいますが、これが1升です。そして、その10倍である10升が1斗という量です。ご飯を一人1号食べるとしたら、1斗は、100人分です。そして、この10倍の量が戦国時代の大名の石高に使われる1石となります。ちなみに、お米の量でよく使われる1俵とは、4斗です。
日本では、明治時代になって、1升が1.8039リットルと定められたので、その10倍である1斗は、18.039リットルとなりました。この約1斗の容積を持つ直方体形のブリキ缶が、「一斗缶」です。そして、1959年(昭和34年)のメ-トル法の実施にともない、日本工業規格(JIS)が改訂され、缶の名称が「18リットル缶」と決まりました。
現在、家庭などでは、灯油などを入れるプラスチック製の容器である通称ポリタンクと呼ばれるものに変わっていきますが、業界では、このスチールの18リットル缶がさまざまな物を入れる包装容器としての優秀性が認められ、消防法、船舶安全法、毒物及び劇物取締法などの規制に適合した容器として認定されています。また、この一時期、5ガロン缶(1ガロン = 3.7854118リットル)とも呼ばれていたこともありました。そこで、5ガロンと18リットルを掛け合わせて、昨日の5月18日が18リットル缶の日となっています。
ブリキ缶の日本における歴史は意外と古く、江戸時代末期の文化年間(1861~1863年)に「京都の竜門堂安之助という人が、当時輸入した品物の容器であった、ブリキ函を再利用して茶筒などを制作した」と言われています。それが、18リットル缶としての容器は、明治維新により欧米文化が文明開化と同時にイギリスのサミエル商会が18リットル缶に詰めた灯火石油の販売を始めたのが始まりだと言われています。
一方、天井から突然落ちてきて出演者の頭部を直撃する「金ダライ」も、一般家庭で洗い桶として使われていました。たらいとしては、最初は、木製のものを使っていました。よく浮世絵にあるように、洗濯だけでなく、行水や、すいかを冷やすのに使ったり、出産時の産湯に使われていました。また、テレビなどの時代劇では、旅籠で客人が足を洗うのにも使っていたように、昔は水道の水を出しっぱなしで使わずにためて使っていたので、ためるために容器として使われていました。それが、第二次世界大戦後、アルミニウムやメッキ鋼板で作られるようになり、その後、トタンを用いた金だらい(かなだらい)中心となり、そして、プラスチック製のものへ変わっていきます。使い方も、洗濯用途もなくなり、行水は風呂場でシャワーを浴びるようになり、小さい洗面器になりました。この「金ダライ」の面白い使い方を最近見かけました。有名な建築家が設計した幼稚園の園庭にある流しです。その流しの水を受けるのに、この金ダライを使っていたのです。面白い発想ですね。
投稿者 fujimori : 23:08 | コメント (4)
2009年05月05日 [記念日]
幼少体験
今日は、子どもの日ですが、いつの時代でも子育ては難しいものです。それは、子育て中には、結果が見えないからです。こうすれば、こうなるということもありませんし、また、人生にいつにおいてが結果なのかもわかりません。また、どうなることが幸せなのかもわかりませんので、親は子どもをその時としてできるだけ良いことをしようと考えますが、それは必ずしも子ども自身が望むものかどうかはわかりません。
しかし、子どもを将来のために教育します。「何の為に勉強するの?」という問いに対して、いつの時代も明確に答えられる大人はいないと言われてきました。しかし、結果的には、教育は子どもに影響しますし、将来の人格形成におおきく作用することは確かです。
上杉謙信は、幼名を長尾虎千代といいましたが、7歳から14歳までの7年間を、新潟上越市にある春日山城下の林泉寺に預けられ、7代目名僧・天室光育に出会い、厳しく「仏の教え」、「神の道」を教わります。
それは、こんな背景がありました。謙信の父である長尾為景は内乱に悩まされていました。長尾為景の勢力は、春日山城のある上越周辺、栖吉城・栃尾城などの虎御前実家の周辺、三条城の中越などでしたが、反長尾為景勢力は、上田坂戸城(南魚沼市)城主・長尾房長、政景を中心とした上田衆でした。この上田衆を率いていた政景が、のちの謙信の養子となり跡を継ぐことになる景勝の父親です。その長尾為景は隠居し、嫡男である晴景に家督を譲ります。しかし、その数年後、病没した為に、7歳になった晴景の弟の長尾虎千代(長尾景虎、後の上杉謙信)は、林泉寺に預けられることになるのです。
幼い頃は利かん気で腕白、弓矢、刀であそぶのが何よりも好きだったと資料に書いてありました。また、よく城の模型を作り城攻めをして遊んでいたといわれていました。しかし、寺僧に武芸は禁物でしたがが、天室光育和尚は見て見ぬふりをして、大胆にもそれを黙って見守っていたといわれています。次第に、その悪童ぶりは影を潜め、神童ぶりを表します。その後、上杉謙信は「毘沙門天」に心を惹かれるようになっていくのです。このころの教えに影響を受けたのか、もともとそのような気質を持っていたのかはわかりませんが、謙信は、武士と言う人間に生まれたからには、そのような意気込みがなければ武士道を全うできないと考えていました。そして、こんなことを言っていますが、この考え方も、幼いころ受けた林泉寺の住職天室光育の教えが大きいかもしれません。
「武士の子は、14、5歳の頃までは、わがままであっても勇気を育て、臆する気持ちを持たせぬようにせよ。勇気ある父を持つ子は臆する心を持たぬ。父は常々、この道を説き諭すことが大事である。少年時代の教育が一番大事である」
今は、武士の世ではありませんが、子どものころのわんぱくやいたずらや、何かに熱中することは、将来のために様々な経験をしていることには変わりがありません。その子どもとしての生きる力を、次第に人に貢献する力、「義」に変えていくことは今にも参考になることです。
その後、大人になってからも、謙信は、今度は8代目 益翁宗謙大和尚より、厳しくも慈愛に満ちた禅の奥義を学びます。そして、益翁宗謙大の謙の一字をもらって、「謙信」と名乗ることになるのです。
投稿者 fujimori : 21:57 | コメント (4)
2009年03月20日 [記念日]
今日のデザイン
今日、Googleで検索しようと検索ページを開いたら、そのロゴが「はらぺこあおむし」になっています。園で、子どもたちに人気があり、保育者にも人気のある絵本ですので、たいへん見慣れたその絵を見た瞬間、なんだかインターネットの世界との違和感を感じました。しかし、3月20日は、「はらぺこあおむし」が1969年、アメリカで出版されて今年で40周年を迎え、その出版記念日のようです。ですから、3月16日から20日は「はらぺこあおむし」の公式イベント週間となっているそうです。ですから今日のロゴは、作者エリック・カールのデザインになっているのです。
出版されてからずいぶん経ちますが、それでも40周年です。この絵本が出版された頃に親しんだ人たちは今、アラフォー世代ですね。ところが、ブッシュ米元大統領が、子どもの頃に読んで印象に残った本として、「はらぺこあおむし」を挙げたそうですが、出版された時には、もうブッシュは大学生ですから、どの国の首相や大統領は本を読まないようですね。
わが子もご多分にもれず、エリック・カールの絵本が大好きでした。息子が寝る時に何度も「よんで!」とせがんだのは、「パパ、お月さまとって!」でした。娘に月をとってとせがまれて、パパは本当に月を連れてきます。エリック・カールの本の特徴である仕掛けが、上下左右に広がり、空の高さや月の満ち欠けなどを表現しているとてもわくわくする絵本です。
日本で「はらぺこあおむし」が出版されたのは1976年で、エリック・カール氏が住むアメリカ、そして出身国であるドイツに次いで世界で3番目の出版となりました。それでかわかりませんが、エリック・カールはとても親日家で、何度も来日しています。いつの来日かわかりませんが、息子と会いに行ったことを覚えています。その時に買った「はらぺこあおむし」の絵が入ったシャツを買いました。今は、園に飾ってあります。私も、その時に買ったのではありませんが、エリック・カールのデザインのグッズを持っています。
エリック・カールは、「1,2,3どうぶつえんへ」で鮮烈なデビューをはたし、「はらぺこあおむし」は、エリック・カールの3冊めの絵本です。今では世界の33の言葉で出版され、絵本の傑作として多くの国のたくさんの子どもたちから愛されています。
なぜ、こんなに愛されているかというと、子どもが興味を持ち、親にも買わせるポイントをいくつか持ち合わせています。「変化に富んだ物語に、ハラハラドキドキ」「希望と期待」「困難を克服」「いろいろなたべもののなまえもおぼえ」「自然に数をおぼえ」「色彩が、心をイキイキさせ」「1週間の曜日や1日の日のめぐりなど、社会のしくみを知ることができ」「しかけは、まだ話をよく理解できないごく幼い子どもたちでも楽しめます」などがあるといわれています。
投稿者 fujimori : 23:37 | コメント (5)
2009年01月19日 [記念日]
4月15日
よく「今日は何の日?」というのがありますが、今日という日はどういう日かということよりも、自分の誕生日はどんな日か気になるところです。また、その日にはだれが生まれたか、だれが死んだかということも気になったことがありました。私が中学生のころかに、そのような本が出版され、伝記のようにそれを読んだものでした。
私が生まれたのは、4月15日です。その日は、イタリアのルネサンス期を代表する芸術家で、万能の天才という異名で知られ、「万能人(uomo universale)」とも呼ばれている「レオナルド・ダ・ヴィンチ」が生まれた日です。彼は、膨大な手稿を残しており、その中には飛行機についてのアイデアも含まれていて、私の机の上のデスクトップパソコンのスクリーンセーバーは、ダ・ヴィンチが考えたヘリコプターになっています。このヘリコプターによって、4月15日は「ヘリコプターの日」と制定されています。
では、この日に亡くなったのは誰かというと、最近ニュースでよく出てくる名前の第16代アメリカ合衆国大統領「エイブラハム・リンカーン」です。昨日、ワシントンのリンカーン記念堂で、「私たちは一つ」と名付けられた無料の祝賀コンサートが開かれました。そこには、スティービー・ワンダー、ブルース・スプリングスティーン、ビヨンセらの超有名アーティストたちが次々に舞台で熱唱し、U2のボノは、46年前にこの場所で公民権運動の指導者キング牧師が「私には夢がある」と演説したことに触れ、「火曜日にその夢がかなう」と語りました。
火曜日というのは、オバマ米次期大統領の就任式が行われる予定の日です。昨日の祝賀コンサートで オバマ氏が敬愛するリンカーン元大統領の像の前で「変化を求める無数の声を妨げることのできる障害など何もない」と宣言しました。オバマ米次期大統領は就任式で、19世紀にリンカーン大統領が宣誓に用いた聖書を使い、宣誓する予定です。この聖書は1861年、リンカーンが就任宣誓の際に使ったもので、連邦議会図書館から特別に借りるそうです。オバマ氏がリンカーンを尊敬するのは、アメリカ国民に最も愛された大統領ということだけでなく、リンカーンが、オバマ氏の地元イリノイ州から第16代大統領になったということと、奴隷解放宣言によって黒人奴隷を解放したことで賞賛されているからです。この奴隷解放を宣言したときに使われたのが、今回オバマ氏が使う聖書だそうで、これを使うことで、人種や党派などの分断を乗り越え、米国の統合をめざす姿勢を示すようです。
リンカーンの生い立ちと非業の最期は、とても劇的で伝記によく取り上げられます。生い立ちについては、ずいぶんとオバマ氏のかぶるところが多いですね。リンカーンの生い立ちは、アメリカの企業「ユナイテッド・テクノロジー社」の広告に使われました。この会社のモットーは、こんな企業広告で使われたこんな言葉で代表されます。「Don't worry about failure. Worry about the chances you miss when you don't even try.」(失敗を恐れる必要はない。恐れる必要があるのは、やりもしないで逃がしてしまうチャンスのほうである。)
明日は、リンカーンの生い立ちが使われたほかの広告を紹介します。
投稿者 fujimori : 20:54 | コメント (4)
2009年01月12日 [記念日]
塩
このブログの「地名」というタイトルの時に、オーストリアのザルツブルグは、もともとザルツというソルトという塩から来ているということから、日本にも塩に縁のある地名が多いことを書きました。その時に、長野に塩のつく地名が多いことと、「敵に塩を送る」という逸話に少しふれました。
この逸話は、ちょうど今、NHK大河ドラマで放送されている「天地人」に出てくる謙信と信玄の話です。
信玄が三国(甲斐・相模・駿河)同盟を破って駿河へ侵攻すると、今川氏真は相模の北条氏康とはかり、その報復措置として信玄領国へ塩を送ることを前面的に禁止しました。これは、今でいう経済封鎖政策です。体にとって塩がないというのはとても困ります。このことを知った謙信は、「塩を絶つとは卑劣で武士の恥であり、相手の国の力を弱めようとする行為自体が、相手に対し恐れをもっている証拠だ」と言い、敵国である武田家に塩を以前同様に通常の価格で売るように家来に命じたそうです。もしも高い値段で塩を売りつける者がいるのなら連絡せよとも言ったとか。このため武田の領民は、蘇生の思いをなし、深く謙信の高義を感じ、その厚志を徳としたといいます。謙信が義を重んじた態度に感謝した信玄は、そのお礼に太刀一振りを贈ったといわれています。その太刀のことを「塩留めの太刀」といい、現在、東京国立博物館に所蔵されているそうです。
これを、江戸時代の陽明学者・頼山陽が讃えて「所争在弓箭不在米塩」(争うところは、弓箭(いくさのこと)にある。米や塩ではない)と言い、「敵が苦しんでいる時に、かえってその苦境を救う」ことを「敵に塩を送る」と言うようになったのです。
このとき、塩が当時の武田領の松本市に到着した日が1569年1月11日で、甲府には1月14日に到着しました。ですから、昨日の1月11日は「塩の日」と決められています。そして、松本市に到着した辻で、1月11日に、ここのえびす様を祭っていた宮村天神(深志神社)の神主が塩を売るのが恒例となり「塩市」が始まったとされています。しかし、江戸時代前期に、飴を売る露天が本町に軒を連ねたため、今は「飴市」と呼ばれています。また、松本には、本庁の街角に「牛つなぎ石」という石がありますが、これは、その昔、上杉謙信が牛の背に塩を乗せて松本の地まで運んできたおりに、牛をつないでおいた石だとされています。
塩は、高血圧の敵のように言われていますが、実は体にとってはとても重要な役目があります。まず、塩のナトリウム分には神経・筋肉の働きを調節するという役割があり、ナトリウムが不足すると筋肉の収縮、弛緩がうまく行かなくなります。ですから、塩は筋肉運動に重要な役割を果たしているのです。また、 体温が上がりすぎると発熱体である塩分を体外に出し体温を下げようとします。これがいわゆる汗で、舐めるとしょっぱいのはそのせいです。脱水症状というのはこの活動が過ぎた時に起きる、塩分不足状態です。このように、塩は体温をコントロールしているのです。また、塩は導電物質で、人間の体内では塩分濃度が不足すると電流がよく流れなくなるため、情報伝達がうまくいかず、体調不良をきたします。また、塩のナトリウムイオンが不足すると新陳代謝は衰えてしまいます。他にも、ナトリウムイオンは腎臓の働きも助けています。そして、血液が酸性になるのを防いだり、消化の働きにも塩化ナトリウムが必要なのです。
塩を絶たれると困るわけですね。
投稿者 fujimori : 20:47 | コメント (4)
2008年11月03日 [記念日]
文化
今日は「文化の日」ですが、文化とはなんでしょうか。日本国憲法が施行された日を記念して「憲法記念日」がありますが、今日は日本国憲法が公布された日を記念とし「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを趣旨としています。
文化という英語は、カルチャー(culture)といいますが、これはラテン語 colere(耕す)から派生しています。これは全く私の勝手な考え方ですが、「文に化ける」ということで、それまで原始的であったり、自然そのものであった心を耕していくことだと思っています。
先週から全国公開されている映画に「まぼろしの邪馬台国」があります。吉永小百合さんと竹中直人さん主演で1967年に発表された宮崎康平の『まぼろしの邪馬台国』(講談社)という書籍を基にしています。この本は、同年、夫婦揃って第一回吉川英治文化賞を受賞しました。以前のブログでも書きましたが、この本に私は夢中になったことがあり、先日書庫を探してみたらこの年に出された本がありました。
今年8月に講談社より新装版が発売されたそうですが、1980年、その後の更なる研究内容が加筆された決定版が出版されたものの、書籍はいずれも絶版でした。
私はこの本の著者の宮崎さんは、自分の文化を築いているのだと思います。彼は、「邪馬台国はどこにあったか」という、いわゆる邪馬台国論争は専門の学者らの間でしか語られていなかったのを、個人的執念から邪馬台国がどこにあるのかを探求した人で、彼がきっかけで日本人一般にまで波及し、「邪馬台国ブーム」がおき、その論争に火が点いたのです。
邪馬台国の場所は、畿内説と九州説の二大仮説があり、彼は少数派の九州説を推しています。彼は最初は東宝映画に脚本家として勤めますが、兄の死去にあたり、家業の宮崎組と、島原鉄道の取締役に就任します。しかし、長崎市への原子爆弾投下によって、宮崎組は倒産してしまいます。
いっぽう、島原鉄道は昭和天皇の島原来訪のために、昼夜を徹した突貫工事が行われ、彼はそのときの過労により失明してしまいまいます。そして、妻から離縁の申し出があり離婚します。よく知られている「島原の子守唄」は、離婚後に彼が一人で子どもを育てた際に歌って聞かせた子守唄です。そんな彼をTV局で取材した司会者が後に妻になる和子さんです。そんな彼が、地元島原の集中豪雨で事故現場に向かって危機に晒されます。そこでふとしたことから土器に命を救われ、邪馬台国の位置を研究することに情熱を燃やし、妻となった和子とともに九州を行脚する旅に出るのです。
今は、邪馬台国は畿内説が有力ですが、様々な場所が今でも取りざたされています。その一つに、先週末訪れた大分県の宇佐があります。ここにある宇佐神宮は全国の八幡宮の総本社です。この原始八幡神の成立過程をみたり、その後続々とこの地を訪れる渡来人の多さ、そして、宇佐に点在する古墳の多さ等々が、邪馬台国を宇佐あるいはその周辺にあてた理由のようです。実際に、宇佐神宮の社殿のある地そのものが大きな古墳で、地中には石棺が埋まっています。
いくつかの川に挟まれた広大な平野を持つ宇佐の国指定の川部・高森古墳群のある史跡公園「宇佐風土記の丘」に立つと、この地方に日本の創世期から人々が住みつき、しかも、高い文化を持ち生活していた姿が浮かんできます。
投稿者 fujimori : 21:43 | コメント (4)
2008年08月20日 [記念日]
信号
今日の8月20日は、交通信号の日だそうです。1931(昭和6)年のこの日、銀座の尾張町交差点(銀座4丁目交差点)や京橋交差点などをはじめ、34カ所の市電交差点に、日本初の三色灯の自動信号機が設置されました。
世界初のガス灯火式信号機は、1868年(明治元年)に、道路交通を整備するため,イギリスのロンドンに設置されました。この装置は,緑色・赤色の2色の灯器を手動で表示し,光源としてはガスを使用していました。当時は、車などなかったので、この信号は馬車の交通整理のために置かれたのですが、起動後まもなく爆発事故を起こしています。
そして、世界初の電気を利用した電気式信号機は、1918年(大正7年)にアメリカのニューヨーク市5番街に設置されました。この時,黄色は「進め」,赤が「止まれ」,緑が「右左折可」だったそうです。
その信号が、日本の銀座に付けられたときは、今と同じ、向かって右から赤・黄・青です。赤色が止まれという意味を表すように感じるのは生物学的見地から以下のような理由があるようです。光の原色の中でも赤は光の波長が長く、粒子的にも周囲の影響を受けづらい色です。逆に、波長が短いのは紫(青系)で影響を受けてすぐに散らばる性質があり、空が青いのは、波長が短い青色が大気で散らばる為です。そして、夕焼けが赤いのは、傾いた太陽から出る光が大気を通る距離が長くなる事で、直進性が高く影響を受けづらい赤色の光だけが届くからです。ですから、赤色の光は物質的にも神経伝達系にも強く届く色なのです。また、雨天・吹雪・スモッグの中でも青よりも赤がより遠くまで届く色なので、止まれには見えづらい青よりも赤が使われているようです。
当時、青信号は、法令的には緑色信号と呼んでいました。しかし,一般の人々の間では,色の三原色(赤・青・黄)のひとつである青色が誰にでも理解されやすく,また,日本語で表す青の範囲はたいへん広く(たとえば,植物の緑のものを青葉,青物などと呼ぶ場合)、漢字でも「緑」と「青」を厳密に区別しないため、かつての日本人は「緑色」のものを「青色」と表現することがあるという点などから,しだいに緑色の信号も青信号と呼ばれていきました。それが定着してきたので、昭和22年には法令でも青信号と呼ぶようになりました。呼び方だけではなく、私の子どものころは、青信号と呼ぶのをためらうほど緑色をしていましたが、今では、信号の色も改良が進められ,昭和48年以降に作られた信号の灯器は呼び名のとおり青に改められています。
現在では、道路上において交通整理を行う色は世界共通で、対面する信号機の青は「進むことができる」(注意通行)であり、よく「青は進め」といいますが、「進め」ではなく、「進んでいい」ということです。別に進まなくてもいいのです。黄色も、「注意」ではなく、「停止位置で止まれ、ただし停止位置で停止できない時はそのまま進むことができる」(停止)ということです。しかし、赤は「止まってもいい」ではなく、「止まれ」(停止保持)です。また、信号機には歩行者用と車用の2種類があり、車用は青・黄・赤で、歩行者用は青と赤です。この場合は、黄信号は、青の点滅で表します。にこれらは、国際的な取り決めですが、行政上の運用取り決めは国によって少し違うようです。
「青は進め、黄は注意、赤は止まれ」ではないのです。世界共通なのに、ずいぶんいい加減に、アバウトに伝えられていますね。
投稿者 fujimori : 23:24 | コメント (5)
2008年07月12日 [記念日]
ラジオ1
先日、テレビ放送の開始について、何回かブログで取り上げましたが、そのときのコメントにもありましたように、私たちの世代は、テレビといえば、同時にラジオの時代でもあったのです。私が小さかった頃のラジオの思い出には、テレビの思い出同様、強い思いがあります。
ラジオとともに生活をする印象は、子どものころの思い出だけではなく、受験時代での深夜放送、巨人全盛の頃の野球放送、ジェットストリームに代表される音楽放送など様々な年代に、様々な放送番組を楽しみました。
そんなラジオの本放送は、1925(大正14)年7月12日、東京放送局(現在のNHK)が愛宕山でラジオの本放送を開始したのがはじまりでした。ですから、今日(7月12日)は、「ラジオ本放送の日」です。しかし、その前に仮放送をしていました。その仮放送が始まったのはその年の3月22日、東京芝浦の東京放送局仮放送所からで、アナウンサーは、その第一声、JOAKを「ジェーイ、オーウ、エーイ、ケーイ」と遠くに呼びかけるように読み上げたと伝わっています。このあと、初代の総裁である東京市長や逓信大臣・満州鉄道総裁などとしても知られる後藤新平初代総裁の後藤新平が、ラジオの機能について強調した挨拶をしました。その機能とは、「文化の機会均等」(文化の機会均等。放送は地域・年齢性別に関係なく聞くことができる)、「家庭生活の革新」(ラジオを取り囲んでの家庭内での団欒。外に行かなくても家で寄席などが聞ける)、「教育の社会化」(社会人でも放送を通して教育を受けることができる)、「経済活動の活性化」(経済機能の敏活化に寄与する)です。この仮放送した3月22日が「放送記念日 」となっています。
初めて放送を開始した今のNHKの東京放送局は、もともとは電機メーカーや新聞社などが共同で設立した社団法人で、その開局に続いて、大阪・名古屋でも独立にあり、JOAK=東京放送局、JOBK=大阪放送局、JOCK=名古屋放送局、とコールサインは決められていました。
開局が大正14年といえば思い出すのが、その2年前の12年には関東大震災が東京を襲っています。そのときに流言飛語してひどい目にあったのが、この震災は、外国の攻撃らしいなどといった全くのデマが飛び交い、朝鮮系の人たちが襲撃されて命を落とす事件が多数起きました。このように正しい情報が伝わらない悲劇を、当時の東京市長であった後藤新平は、ラジオ局開局に力を入れていたのでしょう。
仮放送が開始された時点では、ラジオの受信契約者は5455人で、テレビの黎明期に、店頭に人だかりがしたように、ラジオの置かれた商店などの前には、毎日のように人だかりしていたそうです。それが、その年のうちにすでに聴取者は東京で13万人、大阪で5万人、名古屋で1.5万人にまで増えていきます。このときに、ある会社の転機が訪れます。それは、現在は液晶テレビなどでシェアを占めているシャープという会社です。シャープというと、もともとは、「シャープペンシル」のシャープなのです。そのシャープが、ラジオブームに乗って、開局した年の4月に鉱石ラジオを発売し、これが飛ぶように売れて今のシャープのような会社に変わっていくのです。
明日は、このラジオでの番組の思い出と、ラジオの将来について書いてみようと思います。
投稿者 fujimori : 21:20 | コメント (4)
2008年06月09日 [記念日]
1秒という「時」
明日の「時の記念日」に向けて、読売新聞にこんな記事が掲載されていました。
「23年前、美しい詩に彩られた時計会社のCMが、テレビで一度だけ放送された。評判が口コミで広がり、詩は今年、教科書にも載った。その“幻のCM”が時の記念日の10日、ハイビジョンのリメーク版で復活。民放系BS5局で、それぞれ一回だけ放送される。詩の作者は、本紙夕刊で「ドッポたち」を連載している漫画家の小泉吉宏さんだ。」
リメークされたのは、セイコーウオッチの「一秒の言葉」(60秒)です。
「はじめまして」 この一秒ほどの短い言葉に 一生のときめきを感じることがある
「ありがとう」 この一秒ほどの短い言葉に 人の優しさを知ることがある
「がんばって」 この一秒ほどの短い言葉で 勇気がよみがえってくることがある
「おめでとう」 この一秒ほどの短い言葉で しあわせにあふれることがある
「ごめんなさい」 この一秒ほどの短い言葉に 人の弱さを見ることがある
「さようなら」 この一秒ほどの短い言葉が 一生の別れになる時がある
一秒に喜び 一秒に泣く 一生懸命 一秒 一生懸命 コミュニケーション
この詩は、1984年にラジオCMとして制作され、翌85年にテレビCM化、同年暮れの民放「ゆく年くる年」で放送されたものです。校舎を背景に、詩が流れるイメージCMでした。短い言葉で人生を切り取り、一生懸命生きる姿勢に声援を送る内容の詩と、美しい映像が、公開と同時に大きな話題を集めました。セイコーホールディングス株式会社は、6月10日「時の記念日」にちなんで、この「一秒の言葉」をラジオCMおよびテレビCMのリメイク版(オリジナルと同じ詩に、全く新しい映像、音楽、ナレーションをのせたもの)を製作したのです。
当時の日本人に欧米人なみに時間を尊重する意識を持ってもらうことを目的とし、生活改善同盟会が「日本書紀」の天智天皇の条、水時計創設の記によって6月10日を1920(大正9)年に時の記念日として制定されました。
この「一秒の言葉」を書いたのは、今は、漫画家であり絵本作家である小泉 吉宏さんです。彼は、1993年「ブッタとシッタカブッタ」(メディアファクトリー)でデビューし、その3巻目「なぁんでもないよ」で第45回文藝春秋漫画賞受賞しています。このシリーズは、ブタが主人公の4コママンガが中心の本で、「心の運転もまた同じこと 運転の仕方を知らないと、心は迷い、悩み、どこかへ行ってしまうだろう。」ということで、サブタイトルに「心の運転マニュアル本」とつけられています。本の解説には、「ギターの弦は張りすぎると切れ、ゆるめすぎると変な音になる。心も無理やり運転しようとしても苦しいし、ほったらかしでもろくな事にはならない…。自分を運転するあなたに贈る、心の運転マニュアル本。」
賞を取った3巻目は、四苦八苦の説明に始まり、主に「ものの見方」の誤りからくる苦しみをテーマにしています。
『誰かからもらった価値観で生きているから 退屈を感じる 誰かからの評価にとらわれているから 苦しみを感じる』小泉吉宏「ブッタとシッタカブッタ3なあんでもないよ」(メディアファクトリー)より
投稿者 fujimori : 22:26 | コメント (4)
2008年05月15日 [記念日]
旅
5月病ではありませんが、この時期に「メランコリー」になりそうなときに、喜多条忠作詞、吉田拓郎作曲で、梓みちよさんが歌った歌「メランコリー」にあるように「男はどこかへ 旅立てば それでなんとか 絵になるけれど」という歌詞があります。この時期には、旅に出たくなるのでしょうか。明日の5月16日は「旅の日」です。これは1988年に日本旅のペンクラブが制定したもので、松尾芭蕉の「奥の細道」への旅立ちを記念するものです。
出羽三山のブログで何回か松尾芭蕉を取り上げましたが、彼が「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」と言って江戸を出発したのは元禄2年(1689)の3月27日でした。この日を新暦に換算すると、この年は閏1月があったために2ヶ月もずれこんで5月16日になります。ですから、明日5月16日が出発した日になるのです。
奥の細道の出だしは有名ですが、出発のあたりの文章は知られていません。彼は、どんな気持ちで旅立って行ったのでしょうか。旅立った朝、こんなことを書いています。
「弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の嶺幽にみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。行春や鳥啼魚の目は泪 是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見送なるべし。」
まだ空がほんのりと明るくなった朝早く、まだ空にある月がうっすらと富士を照らしているようです。まだ、この頃は江戸から富士が見えたようですが、同じように深川から見渡せる上野や谷中の桜は、もう二度と見ることはできないだろうかと心細くなっているようです。前の日から自分のことを思ってくれている弟子たちが集まり、一緒に千住までの船に乗り込んでくれたようですが、そこで船を下りた瞬間からどうも胸がいっぱいになったようです。そのときに気持ちを「幻のちまたに離別の泪をそゝぐ」と言っていますが、どうも夢心地でありながら、涙が止め処もなく流れ落ちてくるようです。
そして、どうも5月病と同じように、華やかに花が咲き誇り、暖かく希望に満ちた春が去っていくような気がするこの季節に、自分の気持ちを映すかのように、鳥までもわびしさで泣いているように聞こえ、魚も目に涙を光らせているように思われるもののようです。「行春や鳥啼魚の目は泪」と言う句を旅の初めとして足を踏み出したようですが、名残が尽きず、どうもなかなか踏ん切りがつかないようです。その頃の旅に出るというのは、終の別れをするようなものだったのでしょう。自分が旅立つのを、道に立ち並んで見送ってくれるだろうか、姿が見えなくなるまで見送ってくれるだろうかと心配をしています。ずいぶんと正直な人ですね。
江東区芭蕉記念館で9日、松尾芭蕉の生涯を描いた伝記紙芝居を、高木孝さんが上演したことが新聞に掲載されていました。高木さんは、芭蕉が病に苦しみながらも、俳諧の道を究めようと旅を続ける姿に感動して、「死を覚悟してまで俳句の道に身をささげた芭蕉のすごさを、若い世代に伝えたい」と子どもたちに上演を続けているようです。そして、その生き方から、「芭蕉は2400キロにも及ぶ道中を地道に歩いて大作を完成させた。子供たちにも、行動力や努力の大切さを学んでほしい」と言っています。
そんな芭蕉でも、奥の細道の旅立ちのあたりを読んでみると、かなり不安や名残惜しさがあったようで、その人間味になんだかホッとします。
投稿者 fujimori : 23:22 | コメント (4)
2008年04月22日 [記念日]
地球
今日のグーグルのロゴは、岩が文字をかたどり、滝が落ちる脇には木が生えています。きょうは、「地球の日」だからです。地球の日は「アースデイ」といわれ、地球に感謝し、美しい地球を守る意識を共有する日です。1960年代の終わり頃、環境問題や、その保護のために力を注ぐ政治家はまだ少なく、そのうちの一人だったネルソン氏は、学生運動・市民運動がさかんなこの時代に、アースデイを通して、環境のかかえる問題に対して人びとに関心をもってもらおうと考えました。その概念は、当時スタンフォード大学の全米学生自治会長をしていたデニス・ヘイズ氏に伝えられました。 ヘイズ氏は、全米中にアースデイを呼びかけました。1970年に行われたアースデイは、アメリカ全土で2000万人を集め「環境保護に地球市民として取り組む」集会を行い、地球への関心を表現するアメリカ史上最大のイベントとなりました。このアースデイをきっかけに、環境問題に対して人びとの関心が払われるようになり、環境保護庁設置や大気浄化法、水質浄化法などさまざまな環境法が整備されたほか、環境問題について消極的な態度をとりつづけてきた議員が選挙に落選し、軍は東南アジアにおける枯れ葉剤の使用を禁止されるなど、アースデイの影響はあらゆるところに及びました。日本に歩行者天国ができたのも、このアースデイがきっかけです。
地球は太陽から3番目の惑星で5番目に大きな惑星です。そして、太陽からの距離は、149,600,000 kmです。そして、その直径は12,756.3 kmあります。太陽系のほかの惑星は、その英語名はギリシャ神話やローマ神話をもとにしています。水星はマーキュリー、金星はビーナス、火星はマーズ、木星はジュピター、土星はサターンといいます。しかし、地球の英語名のEarth(アース)は、ギリシャ神話やローマ神話をもとにしていません。この名前は古い英語とゲルマン語から来ているのです。
今では小学生でも知っていますが、地球があるひとつの惑星に過ぎないということがわかったのは、コペルニクスの時代(16世紀)になってです。しかも、この惑星全体の地図は20世紀になって初めてできたのです。現在、よく気象情報や台風情報などで地球の宇宙空間から撮影された写真を見ることがありますが、とても綺麗ですね。この写真を見るだけでも大切にしなければと思います。

以前のブログで、笠木透さん作詞作曲の「私の子ども達」という私の大好きな歌を紹介しましたが、やはり笠木さん作詞の歌に「少年よ」という歌があります。今日の「地球の日」に、この歌を思わず口ずさみました。
「この小さな星を 見てごらん この水色の星を 見てごらん 国境線など どこにもないだろう 海と大地とが 広がっているだけ この小さな星を 見てごらん この水色の星を 見てごらん 山は雪を抱き 森林は緑 山と海とを 川がむすんでいる 無限に広がる 宇宙の中で 君の生きてゆける たった一つの星 永遠に流れる 時間の中で 君の抱いている たった一つの生命 この小さな星を 見てごらん この水色の星を 見てごらん 島から島へ 風は渡って行く 海から海へ 魚は泳ぎまわる この小さな星を 見てごらん この水色の星を 見てごらん 雨は土に降り 草原に花は咲く 鳥やけものたち 大地を走り回る 無限に広がる 宇宙の中で 君の生きてゆける たった一つの星 永遠に流れる 時間の中で 君の抱いている たった一つの生命」
投稿者 fujimori : 23:53 | コメント (5)
2008年02月27日 [記念日]
歌舞伎
今月20日は、「歌舞伎」の日でした。1607年のこの日に、出雲の阿国が江戸城で将軍徳川家康や諸国の大名の前で初めて歌舞伎踊りを披露したのです。その4年前の1603年、京都四条河原で出雲の阿国が歌舞伎踊りを始めたのが歌舞伎の発祥とされています。四条河原では、それ以後女歌舞伎が評判となりました。この阿国は出雲大社の巫女であったとも河原者でもあったと言われていますが、はっきりはわかってはいないようです。しかし、彼女の墓は出雲にあり、この間出雲に行ったときにその墓を訪れました。
今、歌舞伎というと「女形」と言われる役柄があるように、すべて男性が演じますが、発祥は女性であるということが不思議でした。どこから、男性が演じるようになったのでしょう。評判になった阿国の踊りは、その時代の流行歌に合わせて披露し、また、男装して当時のカブキ者のふるまいを取り入れて、当時最先端の演芸を生み出したのです。
阿国の踊りが評判になると真似をするものがたくさん現れます。まず、この評判に刺激を受けたのが四条河原町付近にある多数の遊郭です。遊郭が競って遊女達に男装させて阿国の一座に類似した踊りを踊らせ、これを遊郭の客引きに使用しました。これを「女歌舞伎」といいます。これは、風紀を乱すとの理由から1629年に禁止されます。すると今度は、女がだめなら男ならいいだろうと、元服前の前髪を剃り落としていない美少年俳優たちが演じる「若衆歌舞伎」が演じられますが、これもやはり同様に客引きをかねて実施されましたので、1652年に禁止されます。しかし、そんな風紀上悪いものではなく、このような芸能をどうしても見たいというニーズがあり、普通に男性の役者だけを使って演じる「野郎歌舞伎」が演じられます。これが現在の歌舞伎のルーツです。
歌舞伎の語源はカブく(「傾く」が原義)の連用形からとされています。異様な振る舞いや装いをカブキといい、それをする人物をカブキ者と言いました。カブキ者というのは、傾奇者と書きますが、男伊達を競い、派手な身なりや、行動を取る者たちのことをさします。織田信長もそう呼ばれることがありました。歌舞伎の醍醐味が「外連(けれん)味のある演出」といわれるように、はったりやごまかしがある演出ということをいわれるようになったのです。
漢字で歌舞伎と書くのは当て字ですが、その三文字は、「歌い」「舞い」「伎(技芸、芸人)」を意味しています。しかし当初はその発生史から伎ではなく妓の字が使われ、江戸時代には混用していたようです。
江戸時代が終わり、明治になると鹿鳴館に代表されるように、西洋式が良くて日本式は価値がないようにいわれていた時代、歌舞伎も古いものとして見放されそうになりました。しかし、新聞社の経営者であった福地源一郎が、この伝統演芸を再生しようと新思想にもとづく演芸を上演するための新しい劇場を建設しようと考えました。彼はその劇場を建てる場所として歌舞伎にゆかりの深い木挽町を選び、名前も「歌舞伎座」にしたのです。もうひとつ、11月21日も歌舞伎の日とされていますが、これは明治22年の11月21日に歌舞伎座がオープンしたことを記念するものです。
歌舞伎は、日本独特の演劇で、伝統芸能の一つで、重要無形文化財です。今、無形文化遺産保護条約に基づく「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に掲載されており、2009年9月に予定される初の登録での世界無形遺産への登録が事実上確定しています。
歌舞伎界もしっかりして欲しいものです。
投稿者 fujimori : 21:41 | コメント (4)
2007年11月30日 [記念日]
鏡の日
今日11月30日は「いい(11)ミラー(30)」の語呂合せで「鏡の日」です。鏡を大切にすることで、健康で美しい生活を目指す日だそうです。ナルシスと鏡の関係についてはブログで書いたので、今日は少し違う観点で考えてみたいと思います。それは、レッジオ エミリオ教育はじめ、保育に鏡が重要な意味を持つことが多いのですが、どうしてかを考えてみました。それについての文献等を私は読んだことがないので、あまり的を得ていないかもしれませんが。よく、動物の知能を測るために鏡が用いられることが多いのは、鏡に映った自分を自分と認識できる能力である「鏡映認知」を持っているかということのようです。それは、鏡に映る姿が自己であることを知るのは、自己認識の第一歩であるとされているからです。人をはじめ、様々な動物は、生きるためには自分を襲う他の動物を認識する必要があります。それは、ほとんどは自分とは違う種であることが多いでしょうが、同じ種でもメスを取り合ったりするときなどは自分を襲う敵になります。しかし、どちらにしても、自分の姿を認知したり、認識する必要はない気がします。では、自分の姿を見て、なんの役に立つのでしょうか。チンパンジーなどにおいては、鏡に映る姿を自分自身として認識し、毛繕いのときに役立てるというように、ひとつのモデリングとして自分を見ることはある気がしますが、鏡によって客観的に映し出される、自分自身の姿は、どのように映ったのでしょうか。昔の人は、鏡に映像が「映る」という現象は、とても神秘的なものとしてとらえられたでしょうね。ですから、鏡は、自分の姿を見るというよりも、三種の神器にあるように、祭祀の道具としての性格を帯びていたのです。そして、鏡の面が、単に光線を反射する平面ではなく、世界の「こちら側」と「あちら側」を分けるレンズのようなものと捉えられ、鏡の向こうにもう一つの世界がある、という観念は通文化的に存在し、その見方は、世界各地で見られます。古代の哲学などにおいては、鏡像はおぼろげなイメージに過ぎないとされました。また、鏡は鑑とも書き、人間としての模範・規範を意味します。「あの人は、日本人としての鑑である。」というような使い方をします。また、手本とじっくり照らし合わせることを鑑みる(かんがみる)というのも、ここから来ています。古墳時代、邪馬台国の女王卑弥呼が魏の王より銅鏡(この時代を研究する考古学者にとっては、「鏡」という語はすなわち銅鏡(神獣鏡、三角縁神獣鏡)を意味する)を贈られた故事はあまりに有名ですが、これは彼女がシャーマン的な支配者であったことと関係があり、その小道具として鏡が重要な役目を持っていたと考えられています。このように、鏡は宗教と関係が深かったようです。神道や天皇制では、三種の神器のひとつが八咫鏡ですし、キリスト教を禁止した江戸時代に隠れ切支丹鏡という魔鏡が作られています。また、霊力を特別に持った鏡は、事物の真の姿を映し出すともされた。地獄の支配者閻魔大王の隣には浄玻璃の鏡という鏡があり、それは、大王の前に引き出された人間の罪業を暴き出したといわれます。また、鏡が割れると不吉としたり、鏡台にカバーをかけた習慣は、鏡の霊力に対する観念が広く生活習慣の中にも根を下ろしていたことを表していると言われています。鏡の語源はカゲミ(影見)、あるいはカカメ(カカとは蛇の古語。つまり蛇の目)であると言われているように、鏡に自分の姿を映し、それを眺めるという機能と、鏡の持つ神秘性を感じたようです。その神秘性ゆえに、子どもにとって、環境として意味のあるものとして利用されているのでしょうね。
投稿者 fujimori : 23:34 | コメント (4)
2007年10月21日 [記念日]
あかりの日
私の園の2歳児の保育室のロフトの下のスペースが、ままごとゾーンになっています。子ども達がそこにもぐりこんでままごとを楽しんでいますが、少し薄暗いので、そのスペースを照らす電球を買い、天井に取り付けました。裸電球ではありませんが、とても家庭的な雰囲気が出ました。あした、きっと子ども達が喜ぶでしょう。また、昨日、0歳児のベッドの上の蛍光灯に薄い布の覆いを取り付けました。ベッドで眠る赤ちゃんは上を向いて寝るために、蛍光灯の明るさが直接目に入ってくるのでさぞ眩しかろうということで、蛍光灯を薄い布で覆ったのです。保育室をはじめとして、各家庭でもドイツでは、電灯が露出していることはなく、間接照明であったり、布などで覆ってしまっています。
すべての電灯が覆ってしまっているのをみると、その布が燃えないのだろうかと心配になってしまいます。
今日10月21日は、「あかりの日」です。日本電気協会・日本電球工業会等が1981(昭和56)年に制定したものですが、1879(明治12)年、エジソンが日本・京都産の竹を使って白熱電球を完成させた日です。あかりのありがたみを認識する日として制定されましたが、本当は、電球の日にしたほうがいいのでしょうが、「あかり」は何もエジソンが作ったわけではないからです。人間は、松明、灯心、ロウソクなど、さまざま手段であかりを求め、人間の歴史はあかりと共に歴史を歩んできたといっても言い過ぎではないくらいにかかわりがあります。そして、光を出すには必ず火を燃やさなければならなかったのを、それを分離した革命家がエジソンであったということなのです。そのエジソンの生涯やエピソードは、様々な伝記物語に書かれているので、子どものほうがよく知っているくらいです。そのひとつが、小学校に入学したときに、教師と馬が合わず中退したことです。現在では、その背景に、彼がLD、ADHD、アスペルガー症候群を併せ持っていた事が考えられています。しかし、その彼を、小学校の教師であった母親は叱咤激励し、怒りつけるのではなく、母親は、家の地下室に様々な化学薬品を揃え、勉強を教えるのです。彼のダメなところを何とかしようとするのではなく、得意なところを伸ばそうとしたのです。そのおかげで、人類にとってとても貴重な発明を次々とすることになるのです。そんなエジソンですから、その真偽のほどは定かではありませんが、様々な伝説や逸話、名言が残っています。一番有名なのは、「天才とは、1%のひらめきと99%の努力である。」という言葉です。この言葉は、いくら天才でも、ひらめきなどはほんのきっかけで、ほとんどは努力が大切だということに使われていることが多いような気がします。しかし、本人が言うところによると、どうもちがうようです。実際は「1%のひらめきがなければ99%の努力は無駄である」と言ったようです。逆に言えば、「1%のひらめきさえあれば、99%の努力も苦にはならない」ということで、ひらめきに確信があれば、どんなに失敗しても挫折せずに努力し続けることができるということです。ですから、エジソンは、ペンと紙を常時携帯し、思い浮かんだ瞬間には面倒くさがらずに書き留めていたようです。ちなみにアインシュタインもメモ魔として有名でした。他にも「ほとんど全ての人間は、もうこれ以上アイディアを考えるのは不可能だというところまで行きつき、そこでやる気をなくしてしまう。いよいよこれからだというのに」とか、「もし自分のできることをすべて実行すれば、その結果に文字通りびっくり仰天することだろう。」などの言葉を残しています。
投稿者 fujimori : 22:22 | コメント (4)
2007年10月01日 [記念日]
都民とカッパ
今日は都民の日です。先週、電話で「都民の日は、園がお休みですか?」という問い合わせが何件かありました。それは、この日には、東京都立および都内各市区町村立の学校は休校となるからです。 また、都内に所在する一部の私立学校も休校となります。私たちは、都民の日は祝祭日という認識があります。しかし、気の毒なのは、多くの子どもと親たちです。なぜかというと、先週、今週、来週と3週続けて学校が土、日、月と休みになるからです。これがうれしいと思うのは昔のこと、今は、うんざりしている子どもたち、親たちが多いようです。私が子どものころは、この都民の日がとてもうれしかった思いがあります。というのは、この日を記念に「カッパバッチ」が学校で販売され、それを購入することのうれしさと、当日それをつけていくと黄門様の印籠のようにいろいろなところにフリーパスでは入れる特権が与えられることがありました。確か、都電にもただで乗ることができました。

実は、この都民の日は、1889年、東京府下に東京市が設置されたときには、東京府知事が東京市長を兼務する形態となっており、自治権を持たなかったのですが、その後1898年にこの制限が撤廃され、10月1日に自治権を持つ形での東京市制が施行されたのを記念して、1952年9月に東京都が「都民の日条例」を制定したのです。その後、1956年に東京開都500年(1457年に江戸城が築城された年を基準として500年目に相当)を記念して、都民の日に「大東京祭」が催され、以降、東京都は都民の日を記念したバッジを毎年発売したのです。デザインは、朝倉文夫、清水崑、小島功に引き継がれていったのです。しかし、無料公開される施設が減少するなどバッジの目的が薄れたため、1997年の都民の日を最後にバッジの販売は行われなくなりましたが、今でも、当日、東京都の管理する博物館・美術館・庭園等は、同日に限り入場料を無料としているところも多く、またその他の公共施設では、この日に一般公開や見学会、特別行事などを行うことがありますし、東京都内の民間施設においても、都民の日への協賛として同日(もしくは前後1週間ほどの期間)に無料開放や割引などを行うことがあるようです。カッパが採用された理由としては、昔の隅田川には、たくさんの河童の家があったからだそうです。人間が、いくら川に橋をかけても、雨がふるたびに流されてしまうのでカッパたちは、ふだん住まわせてもらっているお礼に、自分たちの手で橋をかけようと相談し、一晩のうちに見事完成させました。それが合羽橋だという説があり、あわせてカッパは水難よけのお守りになりました。これは伝説だけでなく、実際に江戸は大湿地帯で治水が最も大切な事業でした。ですから、カッパと庶民が力を合わせて治水工事を行ったという伝説があるのです。いわば、カッパは江戸東京を作ったなかまです。江戸言葉の「そんなの簡単さ、大丈夫」という意味の「へのカッパ!」は、この工事中に溺れかけたカッパが「屁」の力で見事に浮かびあがり、「たいしたことないよ」と言ったのが始まりという説もあるくらいです。せっかく都民の日を休日にするのであれば、このカッパバッチのような子どもたちがその日を有意義に過ごすことができるような仕掛けが必要かもしれません。ただ、お休みを増やすことばかりが先行し、この日をどう過ごすかを具体的に提供していかないと、ただ、こんな行事を、催しをしていますといっても、誰がそこに連れて行くのでしょうか。
投稿者 fujimori : 21:24 | コメント (3)
2007年09月16日 [記念日]
縦横比
ブログでも何回か書いたかもしれませんが、「今日は何の日」というのがあり、その理由が記念日であることはわかるのですが、語呂合わせで決められているのは、余り意味はないようですが、その日を覚えているにはいいかもしれません。そんなことで、今日の9月16日が「ハイビジョンの日」というのは、どうしてだと思いますか?この日は、通商産業省(現在の経済産業省)が制定したものですが、ハイビジョンの画面の縦横の比率が9:16であることから決められています。この画面の縦横比(アスペクト比)は、人間の視野に合わせて決められています。ちなみに従来の標準は、3:4です。アナログ放送の画像は、横に走る多数の線により構成されています。それを[走査線]といいますが、この走査線をブラウン管のビーム銃は、横向きに左から右へと首振りしながら再現し、右端まで行ったら次の走査線の左端に戻ります(水平帰線)。そして一番下の右端まで行くと一番上の左端に戻ります(垂直帰線)。その走査線の数が、従来のアナログ放送では、525本でしたので1125本にすると約倍の解像度が得られ、美しい画面を見ることができるということで、ハイビジョンの規格で走査線の数を1125本に決めました。ということで、11月25日が郵政省(現在の総務省)とNHKが制定した「ハイビジョンの日」となっています。しかし、この1125本アナログのハイビジョンは全く普及しないまま2007年で終了し、現在は、それに代わってデジタルハイビジョンの実験放送が始まっています。これはパソコンの画面と同様に画像を線ではなくドットで表現する方式であり、1080iという方式と720Pという方式がありますが、1080iの方が標準となっています。1080iというのはインターレース方式で、1920×1080ドット、720Pはプログレッシブ方式で、1280×720ドット、となっています。
縦横比といってもっと身近に思い出すものに紙の大きさがあります。紙には、大きさを表すものにA4とかB5というように、AとBがありますが、ともに縦横比は、1:ルート2です。そして、記号の次の数字が1つ増えるごとに、長い方の辺を二つ折りにしたものです。例えばB4版の紙を二つ折りにすると、B5版になります。逆にA5版の紙をふたつ並べるとA4版のサイズになります。そして短辺と長辺のこの比率は、何回二つ折にしても縦横の比率が変わらないように考案されたものです。また、A原版(A0版)は、面積が1平方メートルになるように設定されたものです。そしてこれが国際的な標準規格になっています。それに対してB原版(B0版)は、面積が1.5平方メートルになるように設定されたものです。これは日本特有の規格で、美濃半紙に由来しています。ですから、以前はB版を使うことが多く、ノートやファイルなどこれに対応していましたが、このよく見るB5サイズの大学ノートやレポート用紙など、海外では見かけません。最近は、A版が多くなりました。B版の基になった美濃判は、江戸時代に徳川御三家のみが使用を許されていた由緒正しい規格で、明治になってから一般に普及したものです。洋紙が使われるようになると、日本の印刷方式に合った用紙として、美濃判の約8倍の大きさの「大八ツ判」という紙が出回りました。このサイズの全紙を32面取りして裁ったものが四六判で(つまり美濃判の4分の1の大きさ)、寸法が昔の単位で言うところの四寸二分×六寸二分になるところから「四六判」と呼ばれました。 随分と比率は、ややこしい決め方をしたものですね。
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2007年08月15日 [記念日]
お盆
今日は、盆中日の8月15日です。日本では明治6年(1873年)1月1日のグレゴリオ暦(新暦)採用以降、以下のいずれかにお盆を行うことが多くなりました。旧暦7月15日にあたる日、新暦7月15日、月遅れの新暦8月15日(旧盆とも)、その他(8月1日など)です。私は東京ですので、お盆は新暦7月15日に行います。その日に寺からお坊さんに来てもらい、経をあげてもらいます。しかし、現在の報道メディアでは、新暦8月15日を「お盆」といい、月遅れのお盆(旧盆)を指すことが全国的になりつつあります。この日が日本では過去に国民の祝日になったことがありませんが、新暦8月15日(前後)は平日であってもかなりの人が休日になることが多く、また、学校の児童・生徒の大部分は夏休みの中間です。ですから、この日は祖先の霊を祭る宗教行事としてではなく、国民的な休暇、民族移動の時期としての側面があり、会社や商店などは、単なる夏休みになっているところも多く見られます。そして、この時期は、ゴールデンウイークや年末年始とともに、帰省や行楽に出かける人が多く、高速道路での渋滞情報や各交通機関での乗車率がニュースで流れます。しかし、この日は大型連休や年末年始と違って、カレンダー上は平日であることが多いので、官公庁や金融機関は通常通りの業務を行っており、一般企業でも平日という建前から、業務を行っているところも多く見られます。ですから、保育園は休みではなく、登園してくる子も多くいます。私も、朝だいぶ普段と違ってすいている電車に乗っていると、こんな日に出勤するなんてと腹立たしくなるよりも、「お盆にも勤務している人がいて、大変だなあ。」と思います。確かにこんな日でも休むわけにいかない業種もあるでしょうし、逆に、こんな日だからこそ忙しい業種もあるでしょう。保育園もそのひとつです。だからといって、保護者には、「夏こそ、できるだけ子どもと一緒に、いろいろな体験をするようにしてください。」と言っていながら、職員が自分の子どもを預けて働いているのは少しおかしい気がします。ですから、私の園では、できるだけ、この期間は独身の職員に勤務してもらいます。子どものいる職員は、なるべく子どもが休みの日とか、家族、地域がみんな集まる日とか、さまざまなイベントをやっている日とかに合わせて休んでもらいます。若い、子どものいない職員は、逆に、8月末から9月の期間中に夏休みを取り、混雑や料金が最ピークの旧盆時期を避けて旅行などをするほうがよいことが多いようです。私も、今は私の子どもたちが大きくなったので、何も夏休み中に休みを取る必要がなく、また、どうせ休み中にすることといっても仕事がらみが多いので、特には休みません。しかし、子どもが小さかったころ、特に小学生のころは、普段は休まない代わりに、子どもが休みの夏休みとか、冬休みにはできるだけ休みをもらって子どもをあちらこちらに連れて行きました。この体験が、今は仕事にも役に立っています。昼間と夜の仕事にしてもそうです。確かに夜遅くしなければならない仕事もあります。しかし、子どもがいる親には、できるだけ夜は子どもと過ごさせるような働き方をしてもらった方がいいような気がします。外国では、夏の間、夜の間は、仕事をすべてやめてしまうか、もしどうしてもあけなければならない職種では、学生がしていることが多かったようです。大学生にまでなって、親が仕送りをしている国は珍しいようです。ワークシェアリングは、夫婦間だけでなく、いろいろとシェアの仕方を考えていくことが必要ですね。
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2007年07月27日 [記念日]
72侯
東京では、梅雨明け間近で、なんとなく、じめじめムシムシの毎日です。今日のこの気候は、まさに「土潤って蒸し暑し」ですね。明日の7月28日(旧暦6月23日)は、七十二候の一つ(35候)である「土潤溽暑」です。二十四節気は1年を24等分して季節の名称を与えたもので、さらに3つに分けた七十二候は季節のうつろいを気象や動植物に託してあらわしたものです。約5日毎の気候を表しています。それぞれの名称は、気象の動きや動植物の変化を知らせる短文になっています。 そして、二十四節気は古代中国のものがそのまま使われています。太陰暦では、暦の日付が太陽の位置とは無関係なため、暦と春夏秋冬の周期にずれが生じ、農耕には不便でした。その為、古代中国では、冬至を気候の推移を表す基準点として、1年を24等分した二十四節気を考えたのです。それを分割した七十二候の名称は何度か変更されていて、日本でも、江戸時代に入って渋川春海ら暦学者によって日本の気候風土に合うように改訂され、「本朝七十二候」が作成されました。そして、1874年(明治7年)の「略本暦」には、それまでと大幅に異なる七十二候が掲載されています。しかし、この一候は、5日程度と短いために、地域差や年毎の気候の違いがありますので、その短文に当てはまらないことも多いのですが、今日という侯は、まさに今日という日をあらわしていますね。そのほかに、7月、8月の侯を見てみました。まず、「小暑」といわれる7月8日頃の31候は、「温風至」(温風至る)ということで、暑くなり始めるころということです。温風というのは、熱風のことです。今年のそのころもまだ梅雨に入らないとかで暑い日が続きました。その次の32候は、「蓮始開」(蓮始めて開く)です。私の園では、今年は睡蓮の花が咲きましたが、昨年のブログでは、はすの花が開いたことを書きました。このころは、朝、夏の風物詩である蓮の花が開きます。そして33候は、「鷹乃学習」(鷹技を習う)ということで、今年生まれた鷹の幼鳥が、巣立ちの練習を始めるころということです。この侯は、鳥の姿で表していて、珍しいですね。そして、「大暑」tおいわれる7月23日頃です。まず、34候は、「桐始結化」(桐始めて花を結ぶ)ということで、桐の実がなり始めるころです。この桐は、たんすなどに使われる木ですが、中国思想による空想の瑞鳥といわれる鳳凰は、桐樹に住み、桐の実を食べて生きるといわれています。この実がなるのがこのころです。そして、明日28日が、35候「土潤溽暑」(土潤って蒸し暑し)で、土が湿って暑くなるころという日です。そろそろ梅雨明けが近いようです。しかし、梅雨が明けたから雨が降らないというわけではなく、夏の盛りは、急に入道雲が湧き出て、あたりが暗くなったかと思うと激しい雨の夕立がやってきます。次の36候は、「大雨時行」(大雨時々降る)ということで、夕立が突然やってくるころとなります。そして8月8日ころ「立秋」になります。37候は、「涼風至」(涼風至る)ということで、暑い日差しの中に、ふと、涼しい風が身をよぎります。まだまだ夏の盛りですが、気配はそろそろ秋が近づいていることを予感させます。38候は、「寒蝉鳴」(寒蜩鳴く)ということで、夕刻に淋しげに鳴くヒグラシ蝉は涼を感じさせます。39候は、「蒙霧升降」(濃霧昇降す)ということで、明け方には、深い霧が降りるようになります。8月24日ころ「処暑」になると、40候「綿柎開」(綿の花しべ開く)ということで、綿が開花し始め、41候「天地始粛」(天地始めて寒し)のころになると、ようやく暑さが和らいできます。そして、42候になると、「禾乃登」(禾実る)ということで、稲が実りはじめ、本格的な秋になっていくのです。
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2007年06月13日 [記念日]
もうすぐ
もうすぐ「父の日」です。私は園便りの中で、父親のことを書くことがよくあります。その中で、かつて書いたものを一部拾ってみました。
子どもとの時間(2001):ゴーン氏は、日産自動車を立て直すために、社長として招かれた人です。とても重い任務を背負い、社員の整理を含め、会社を立て直すことに成功している人であるので、世間では、彼はバリバリの企業マンであるという印象をもっています。しかし、意外なことがあります。「日産リバイブルプランの作成に着手した当初、解決策を見つけなければならない問題が山積し、一日中会議や議論に追われる日々が続いた。しかし、どんなに多忙を極めていても、家族と過ごす時間だけは必ず確保するように努めた。…中略…父親にとって子どもたちと一緒に過ごし、彼らに愛情と関心を注ぐことは大切なことだ。子どもたちに、安定した、落ち着いた家庭環境を与えるために、リタと私は育児に多くの時間を割いてきた。子育てには子どもたちの判断力を養う基礎を作るという仕事も含まれている。…中略…旅立つときに、子どもたちが優れた判断力を発揮できるかどうかは、ある意味で育て方の問題である。」彼には、四人の子どもがいます。彼はいったん帰宅すれば、決して仕事を家に持ち込まないそうです。「リタも子どもたちも、私が玄関を開けたとたんに家族の時間が始まることが分かっている。」とも言っています。仕事ができる人は、家庭もきちんとできるのですね。そろそろ、生き方を考え直す時代かもしれません。
父親の役割(2002);最近、世界的に、少年が起こす犯罪が多くなってきています。特に男の子の起こすトラブルに対して、対応に苦慮している母親が多くいるようです。そうした状況の中で、「男の子ってどうしてこうなの?」(スティーブ・ビダルフ著)という本が、世界でベストセラーになっています。『6歳以下の子どもにとっては、性別は大きな問題にならないし、問題にすべきでもない。この時期、一般的には母親が主要な役割を演じるが、父親が母親代わりをすることもできる。重要なのは、一人ないし二人の鍵になる人物が、子どもを愛し、最初の数年間、子どもを中心に据えるということである。そのようにすれば、子どもは自分の中に安心感をつちかい、子どもの脳は親密なコミュニケーションの技術を獲得し、学ぶことの楽しさを覚えるようになる。これらの年月はすぐに過ぎ去ってしまう。小さな子どもとの生活を楽しめるうちに楽しんでおこう!』このなかで、乳幼児が最も必要にしているのは、母親と特別な絆を結ぶことであるとしていながら、父親も、授乳を除けば、赤ん坊のすべての欲求に答えることができるとしています。だがやり方は異なっているそうです。『さまざまな研究があきらかにしているところによれば、父親は子どもたちと遊ぶときに、母親より活発である。父親が子どもたちを興奮させるのを好むのに対して、母親は、子どもを落ち着かせようとする傾向がある。』
父親することの意味(2003):90年代以降、父親論が盛んに行われるようになりました。最近、アメリカでは、子どもの教育が未来社会のための最も重要な投資であるという認識のなかで、子どもの社会化環境に対する危機感の強さから父親政策に力を入れています。ある書物(It takes a Village)では、父親をすることの意味は?との問いに対する答えとして、以下の5つがあげられています。母親だけでなく、父親もかかわることで、子どもの発達によい影響をもたらす。父親がかかわることで、母親の子育てにゆとりをもたらす。(母親にとって)父親の生活に幅と厚みをもたらす。(父親にとって)以上の点は、よく言われることですが、以下の二つは、これからの時代にとても大切なことです。そして、それが、保育園で行われる「父親保育」の目的なのです。父親をするというのは、家庭を閉ざしてわが子の父親をのみするのではなく、家庭を社会に開き、地域の親たちとかかわり、地域の子どもたちの父親になるということが重要なのです。親たちが地域のネットワークの中にしっかりと足場を持っていることは、子どもたちに安心感をもたらすのです。父親をすることで、夫婦の、あるいは男女の新しい関係の構築につなげるのです。育児について、母親、父親どちらか一方が主役ではなく、柔軟な男女の関係が子どもに伝わることが必要なのです。
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2007年06月08日 [記念日]
バイキング
6月8日は、「バイキングの日」だそうです。なんだかこじつけのような日ですが、793年のこの日、バイキングの活動が初めて記録に現われたからだそうです。この日くらいから300年以上に渡って西ヨーロッパ沿海部を侵略したスカンディナヴィアの武装船団(海賊)を指す言葉でした。しかし、これはキリスト教徒からの一方的な見方であり、後の研究の進展により「その時代にスカンディナヴィア半島に住んでいた人々全体」を指す言葉に変容し、中世ヨーロッパの歴史に大きな影響を残しています。バイキングは海賊、交易、植民を生業としていたのではなく、故地においては農民であり、漁民であった。特に手工業に秀でており、職人としての技量は同時代においては世界最高のレベルであったということです。この「バイキング」という言葉は、日本では、食べ放題の飲食サービスを指す和製英語として使われています。昭和32年(1957年)、帝国ホテル内にオープンする新レストランをどのようなコンセプトとするかを考え続けていた当時の支配人は、新しく開設されたスカンジナビア航空の東京-コペンハーゲン航路でコペンハーゲンにわたり、宿泊地で“スモーガスボード”というスカンジナビアの伝統料理に出会いました。それはもともと友人知人が有り合わせの食べ物を持ち寄って、大勢で賞味したことから発展したもので、魚介料理や肉料理、薫製、酢漬けなどを豊富に用意し、好みの料理を自由に食べるご馳走でした。魚介類を始め日本人にもマッチする味覚、豪華なボリューム、好みのものを自由に食べるスタイルのユニークさに、日本でもこのスタイルが取り入れられないかということで、総料理長にこのスモーガスボードの研究を指示しました。そして翌年帰国して、帝国ホテル第2新館地下1階に、わが国初のスモーガスボード専門レストランが誕生させたのです。そして、北欧の海賊の名にちなんだ「インペリアル・バイキング」と名付けられたスタイルは、連日満員の人気を博しました。このときのネーミングである「バイキング」が、やがてわが国の“食べ放題”スタイルの代名詞となりました。しかし、あくまでも和製英語なので、外国ではこの言葉は通じません。早く、日本でも本来の「ビュッフェスタイル」という言い方に変えたほうがいいと思います。しかし、日本では、ビュッフェというとカウンター式の軽食堂のことをさすことが多いようです。また、外国では、ビュッフェとは、「立食:正式に食卓につかず,客がセルフサービスで食べる食事」のことを言い、食べ放題という意味はあまり強くないようです。私は、好き嫌いがまったくなく、返っていろいろな珍しいものを食べたく、量は余り食べないほうなので、このバイキング形式は余り好きではありません。先日も、宿泊先で、山菜のてんぷら盛り合わせが食卓に並びましたが、こういうほうがいいですね。しかも、黙って自分のお皿に乗せて、席に戻って黙って食べるというのも好きではありません。わたしは、このバイキングスタイルとスーパーでの買い物スタイルが人々のコミュニケーション能力を奪ってしまっている気がします。我慢をしたり、人に合わせたりすることを避け、また、他人と会話をすることを避けることを望むようになった為に、よりこのようなスタイルが好まれるようになってきたのかもしれません。わずらわしいかもしれませんが、人との会話は脳の訓練にはいいかもしれません。先日の山菜のてんぷらも、傍らで、一つ一つ何の山菜かを説明してくれました。
コシアブラ・山うど・こごみ・ぜんまいなど
投稿者 fujimori : 20:21 | コメント (3)
2007年03月24日 [記念日]
式
今日は、4月から新宿で開園する園の落成披露宴でした。よく人から言われますが、私はあまり形式的なセレモニーが好きではありません。何も、はっきりした主義主張があるわけではありませんが、いわゆる、決まったような挨拶がニガテなのです。園長という職種は、職員が若く、女性が多いので、結婚式に呼ばれることが多く、しかも主賓になるので、初めのほうで必ず挨拶をしなければなりません。私は、よく何百人を前に講演することが多いのですが、挨拶となるとあがってしまい、ドキドキしてしまいます。人は、平気で講演をするので大丈夫だろうと思うようですが、どうもニガテです。しかし、あがらない方法を見つけてからは、結婚式の挨拶が平気になりました。その方法は、挨拶をするのをやめてしまったのです。挨拶ではなく、ミニ講演をすることにしたのです。ありがたいことに、主賓であるために早い段階に、上司からということなので、講演でもおかしくないのです。最近の女性の生き方、社会の支援、少子化問題など、話題はたくさんあります。それが、最近はさらにありがたいことに、結婚式をやらない職員が増えてきました。職員が、「実は、…」と言い出すと、「今度、結婚します。」ということが多かったのですが、最近は、「結婚しました。」と言われます。式は挙げずに籍だけ入れたというのです。私はホッとします。堅苦しいことが本当にニガテです。
しかし、けじめということもあって、今日は、落成式をしました。でも、式ではなく、「始まりを祝う会」です。招待客も、区役所の人、地元町会の人、地元区議くらいでした。その中に、これから給食の無農薬、不耕起栽培の食材を納品してくれる農家の人、今までの園の保護者の代表者がいます。来賓の区長さんは、その人たちにわざわざ挨拶をしてくれました。私がこだわった招待客だったからです。式次第も、あまり形式張らず、まず、来園した招待客に飲み物を飲みながら、園の中を見学してもらいます。保育室は、家具などを片付けず、どんな形で保育するのかを見てもらいます。よく、式典をするための広いスペースを空けるために、みんな片付けるところが多いのですが、それでは、どんな保育をするかが良く分かりません。そして見学が一段落したところで集まってもらって、簡単な経過説明と来賓二人から挨拶をもらいます。そのあと、会食ですが、会食というよりも試食をしてもらいます。不耕起栽培の古代米、赤米のおにぎり、雑穀のコロッケ、そのほか安全にこだわった素材で作った様々料理を試食してもらいます。場所も園児が給食を食べるコーナーで、園児と同じように食べてもらいます。もちろん、乾杯はありませんし、アルコールもありませんが、おにぎりのお米はとても美味しく、評判がいいので、農家のご夫婦はとてもうれしそうでした。私は、セレモニーはあまり好きではありませんが、けじめとしては、きちんとやるべきだと思いますし、興味関心のある方にもきちんと内部を公開する必要があると思っています。しかし、招待する方々、その式の見せ方などの企画は、ある意味でプレゼンテーションであるべきだと思っています。挨拶から、ミニ講演に変えたように、式から、情報公開であったり、提案であったり、表現であるべきでしょう。そうなると、式も楽しみになります。主義主張を人に伝えるよい機会になるからです。今日の式は、形式張らず、本当の姿を見てもらい、いっしょに考える会に少しはできたかと思います。出席していただいた方々、父親の会の方、今日は、ありがとうございました。
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2007年03月21日 [記念日]
太陽の動き
今日は、春分の日です。もともと、春分日とか秋分日などは太陽の動きに関係しますので、天文学的な言葉です。簡単に言うと、太陽が真東から昇り真西に沈むため夜と昼の長さが同じ日とされ、春分の日は、二十四節気のひとつで、太陽黄経が0度(春分点)の日のことをいいますが、これを「春分の日・秋分の日」と呼んで、日本では、祝日として決められています。なんで、昼と夜が同じ時間の日が祝日なのでしょうか。よく考えると、不思議な気がします。なにを祝う日なのでしょうか。また、祝日と決められているのに、いつかがはっきりしません。というのは、祝日としての春分の日や秋分の日は、本当に昼夜が同じ日ではなく、国立天文台が作成する暦象年表という小冊子に基づき、閣議で決定され、これが官報によって公報されることによって正式に決まるのです。官報に載る時期は2月の最初で、ここに翌年の春分の日・秋分の日が記載されます。ということは、祝日である春分の日は、前年でないとわからないのです。そして、その日は、「自然をたたえ、生物をいつくしむ」国民の祝日とされています。しかし、この日は、昔から生活に密着した行事と関係しています。この春分の日にしても、前後三日間、計七日間のことを「彼岸」と呼び、初日を「彼岸の入り」、中の日を「彼岸の中日」、最終日を「彼岸明け」と呼びます。お彼岸は、正しくは「彼岸会」といい、先祖の供養をし、お墓参りをする行事です。それは、春分・秋分の日は昼夜の長さが同じになるから、仏教の説く「中道」の教えにかなうとか、太陽が真西に沈む時期なので、西方極楽浄土におられる阿弥陀仏を礼拝するのに ふさわしいとかいわれています。また、「暑さ寒さも彼岸まで」というように、季節の変わり目にあたり昔から農耕の区切りとして祭りが行われていた時期であり、 それが仏教と結びついて現在の年中行事として定着したのであろうともいわれています。明治初期には、春分の日が「春季皇霊祭」という国家の祭日になりました。それが、第二次大戦後に今の国民の祝日となったのです。また、この日は世界でも特別な日とされることが多いようです。たとえば、イースターとも呼ばれる復活祭はキリスト教の典礼暦における最も重要な祝い日で、十字架にかけられて死んだイエス・キリストが三日目によみがえったことを記念する日ですが、基本的に「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」に祝われるため、春分の日と同様に、年によって日付が変わる移動祝日なのです。
このほかにも、太陽に関する日は意味があるとして考えられてきました。先日訪れた吉野ヶ里の環壕集落の構造は、夏至の日の出の位置と冬至の日の入りの位置とを結んだ線が軸になっている、という説があります。祠祭儀礼の場とされる「北内郭」は上空から眺めると、左右対称のホームベース型をしているのですが、この左右対称軸を北東に延長すると夏至の日の出の位置に一致するのです。古代遺跡の中には、このように太陽や天体の運行と関係するものが少なくありません。例えば、南イングランドのソールズベリー平原にあるストーンヘンジは、夏至の日の出を観測できるよう、巨石の一部が配置されていると言われています。また、アイ ルランドのボイン渓谷にあるニューグレンジ古墳の場合は、1年に一度、冬至の日にだけ、奥の墓室に太陽の光が差し込むように作られています。ちなみに、どちらも世界遺産に登録されている遺跡です。太陽、星、月など天体の動きは神秘的であると同時に、生活に、ある基準として取り入れられてきたのでしょう。
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2007年03月14日 [記念日]
色の日
今日は、いわずと知れた「ホワイトデー」です。この日は、バレンタインデーにチョコレートなどをもらった男性が、そのお返しとしてキャンデー・マシュマロなどのプレゼントを女性へ贈る日とされていますが、何でホワイトデーというかというと、バレンタインデー同様に企業の作戦があるようです。この日に、キャンデーを贈るということを販売促進に結びつけ、全国飴菓子工業協同組合関東地区部会が、飴の材料である砂糖が白色だったため「白=ホワイト」から「ホワイトデー」として催事化したものです。もうひとつの説では、福岡市の老舗菓子屋「石村萬盛堂」が、バレンタインチョコのお返しとして、白いマシュマロを売り出したことから命名したとも言われています。どちらもまったく日本での発想なので、欧米ではみられません。ただ、韓国や台湾などでは行われているようです。外国の記念日は、人の名前をとったものが多いようですが、このほかに、色のつく記念日があるでしょうか。日本では、グリーンデーがあります。いわゆる「みどりの日」です。1989年から2006年までは4月29日でした。最初は、「天皇誕生日」とされていたのが、天皇誕生日は12月23日と改められると同時に、自然に親しむとともに、その恩恵に感謝し、豊かな心を育むことを願う日として、新緑の季節として緑豊かな自然に親しむ上で最も相応しい時期であり、ゴールデンウイークの始まりの休日として国民の間に定着している4月29日をみどりの日としました。そして今年からは、その日は「昭和の日」になり、5月4日が「みどりの日」になったのです。そのほか記念日にはありませんが、語呂合せで、色のつく日があります。「白の日」は、「し(4)ろ(6)」の語呂合せで、4月6日です。また、9月6日は、「黒の日」、11月16日は、「いいいろの日」「いいいろ塗装の日」です。語呂合わせは、ほかにもいろいろありますが、ホワイトデーに関連して、ほかにも各月14日ごとに色をつけた記念日を考えたのが韓国です。たとえば、ブラックデーは、4月14日で、バレンタインデーやホワイトデーで贈り物を受け取れずそのまま恋人ができなかった者同士が黒い服を着て集まり、チャジャン麺(黒いあんかけをかけた韓国の麺料理)やコーヒーを飲食する日、とされています。なんだか、わびしいですね。この4月14日は、日本ではオレンジデーです。欧米では、オレンジは多産のシンボルとされ、新婚のカップルなどに贈られることに目をつけ、愛媛県の柑橘類生産農家が、2人の愛を確かなものにする日として、オレンジまたはオレンジ色のプレゼントを持って相手を訪問する日というキャンペーンを行っています。韓国では、このブラックデーに付加して、次々に面白い記念日を作っています。5月14日は、イエローデーといって、ブラックデーが過ぎても恋人ができなかった男性は、この日に黄色い服を着てカレーライスを食べないと恋人ができないとされています。7月14日は、シルバーデーといい、銀を意味するシルバーと、年長者を意味するシルバーがあり、先輩達がデート費を出してくれる日でもあり、まわりの人たちに自分の恋人を紹介します。8月14日は、グリーンデーといい、蒸し暑い夏に涼しい山に行き、森林浴をする日である一方で、まだ恋人がいない人たちが「グリーン」という名前の焼酎を飲みながらお互いに慰めあう日でもあります。そして、11月14日が、オレンジデー&ムービーデーといい、恋人と共に感動的な映画を見て、ほんのりと甘いオレンジジュースを一緒に飲む日とされています。なんだかこじつけですが、面白いですね。
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2007年03月03日 [記念日]
園のビジョン
建物を新築するときに、何を設計者の方に伝えようとするでしょうか。よく、保育園、幼稚園を新築するときに、きちんと使う人、現場も設計者と話をして、考えを伝えるべきだということで、現場の職員と何度も話し合いを重ねているということを聞いたことがありますし、参考にしようと私の園に見学に来る方がいます。そんなときに、「いったい、この人はどんな園を作りたいと思っているのだろうか?」と不思議に思ってしまうことがあります。というのは、私の園に着くなり、メジャーを取り出して、机の高さ、椅子の高さ、窓枠の高さなどを測り始めます。確かに、建物にはあるスケールが必要です。机や椅子の高さも必要かもしれません。しかし、スケールを考える前に、その机や椅子をどのような場面で、誰が使い、それを使うことによって何をしようとするのかを考える必要があるのです。たとえば、私の園でこんなことがありました。3歳児から6歳児がいっしょに活動をするときに、3歳児と6歳児では体がずいぶんと違うので、同じ大きさの家具を使うのは無理ではないかと考えました。座る椅子にしても、子どもの体の大きさで変えたほうがいいのではと思いました。そこで、小さい椅子から大きい椅子まで何種類かそろえ、大きい子には大きい椅子を、体が小さい子は小さい椅子を使うようにしたのです。すると、そのことに間違いがあることに気がつきました。確かに、その椅子に座って、人の話を聞く場合はそれでいいのですが、その椅子に座って机で食事をするとき、机の高さは変わりませんので、体の小さい子には大きい椅子、逆に体の大きい子には小さい椅子に座ったほうが食べやすいのです。このように、同じ椅子でも用途によって、何を優先するかということで違ってきます。ですから、椅子の高さをただ片っ端から測っても意味がないのです。また、どのような建物を作るかといって要望を出させると、「なるべく収納を多くしてほしい」とか、「木をふんだんに使ってほしい」とかという要望が出ますが、それよりもまずは、そこでどんな保育を展開しようとするのかということをきちんと伝えないといけないのです。後で、その建物を見ただけでも、ここでどんな保育が展開されるのかがわかるような空間作り、部屋の配置、家具の配置でなければならないのです。
2003年にNHKの「トップランナー」という番組にデザイナーの佐藤可士和氏が出ました。彼は、現在日本を代表するアートディレクターの一人で、SMAPのアートワークやキリンビールの「極生」などの商品開発・広告キャンペーンなどを手がけたことで知られています。そんなデザイナーのトップランナーである彼が番組の中で、「たとえば幼稚園とかをやってみたい。教育とか医療とか、アートディレクションの力が、ほとんど利用されていないところでなにかをやってみたい。ぼくはデザインの力をとても信じているから」というような話をしました。また、「教育のカリキュラムをいじるより、アートディレクションのアプローチで解決できることだってたくさんあるかもしれないですから。」と言っています。その佐藤氏が、あるきっかけで幼稚園建築のディレクションをすることになったのです。その舞台となったのは、東京都立川市にある「ふじようちえん」(定員:保育児含め600人)です。
「具体的な園舎のデザインではなく、新しい幼稚園の在り方やその状況をデザインし、園のビジョンを提示する」その園の落成披露式に今日行ってきました。
投稿者 fujimori : 23:10 | コメント (3)
2007年02月26日 [記念日]
ひいな
日本人形協会編の「ひな祭の歴史」によると、ひな祭の歴史は古く、元々は奈良時代に人形(ひとがた)を作って、人形で身体をなでてケガレを拭い、その人形を川や海へ流して身を清めるという神道の行事でした。そこで、「災いを託す」ということで、「おひなさま」というように「さま」をつけて呼ぶ人形が生まれたのです。平安時代になると、平安貴族の女子の間では「ひいな遊び」というものが行われていました。ひいなとは人形のことで、これは男女一対の小さな紙人形をつくり、調度品も揃えて遊ぶという、今のままごと遊びのようなものです。この「ひいな」には「小さくてかわいいもの」という意味があって、いつかしら「ひいな」から「ひな」へ、そして平安貴族の人形遊びとしてのおひなさまが生まれたというわけです。この事は紫式部の『源氏物語』や、清少納言の『枕草紙』にも見られます。鎌倉・室町時代に入ってからは、武家の女児にも受け入れられ、ままごとは急速に広まっていきました。一方、室町後期になると、雛人形は川へ流すという神事は、流さないで家に祭られて女子の祈願・愛玩・鑑賞するものになっていきました。そして、武士の世界では、人形が上司への贈答の品となって立派なものが作られるようになり、人形はしだいに本来の意味が希薄になり、家の中で飾られるようになっていったのです。そして、女子の理想の結婚像を示すものとなり、江戸時代になるとこの風習は庶民層にも広がり、かつては質素な作りであった雛人形がだんだん立派なものに変わっていきました。こうしてみると、当初の雛人形は、人形という「ひとがた」で遊び、様々な道具を取り揃えて、それを使って遊ぶ「ままごと遊び」につながっていることは容易に判断できます。
しかし、あの豪華な人形、精密な道具を見ると、次第に子どものものから、大人の観賞用に移ってきただろうこともわかりますね。昨日のブログの「箱庭療法」という精神療法として人形、おもちゃなどのアイテムを自由に配置させることで小世界を体験し、癒しを与えていたということをみると、もしかしたら、この人形遊びとか、ままごと遊びは、女子が、家事の所作を学んでいるといわれていますが、他にも、子どもにとって、癒し的効果のある遊びだったのかもしれませんね。だから、いつの時代でも、ままごとは子どもに人気のある遊びのひとつですし、最近は、男子も喜んで遊んでいます。きっと、癒されるのでしょうね。
もうすぐ、3月3日のひな祭りです。これは、五節句のひとつですが、これらは、必ず季節の草や木に関連していますが、季節に応じた植物を食することで邪気を払うのが目的でした。たとえば、1、人日の節句 お正月の七草(七草粥)、2、桃の節句 3月の上巳の桃・よもぎ(桃花酒→江戸時代以降は白酒)、3、端午の節句 5月の端午の菖蒲(ちまき→江戸時代以降は柏餅)、4、七夕の節句 7月の七夕の竹・瓜(さくげ→江戸時代以降はそうめん)、5、重陽の節句 9月の重陽の菊(菊酒)です。3月の節句が桃の節供と呼ばれるのは、その季節のものというのも理由のひとつでしょうが、桃には邪気を払うという魔除けの信仰があったからだそうです。この節句には、今は、各地で様々な特徴があるようです。昨日歩いた柳川では、「さげもん」といって、江戸中後期から場内の奥女中が着物の残り布で子どものおもちゃとして作ったものを、雛人形の周りにぶら下げていました。
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2007年01月07日 [記念日]
旧暦
今日1月7日は七草の日で、我が家でも七草粥を食べました。これは、よく知られていることですが、お正月の間のご馳走で胃袋を始めとする臓器も疲れてくるので、さまざまな効用がある若菜を入れた粥を食べるのがよいとされています。この若菜とは、春の七草のことを指し、それを摘む姿が、百人一首に読まれ、とても有名ですね。「君がため春の野に出て若菜(七草)摘む わが衣手にゆきはふりつつ」(光孝天皇)という歌ですが、雪がちらちら舞うというのはわかるのですが、今日のような日は、まだ野には若菜など顔を出していません。この歌の情景として浮かぶのは、暖かくなってきた七草の日に、やっと寒い冬を越えて顔を出した若菜を摘もうと出かけてきて、お互いにおしゃべりをしながら摘んでいると、雪がちらついてきたというイメージですね。ですから、この歌が読まれた季節は、もちろん、旧暦の1月7日です。ということで、七草粥を食べるのは、本当は、旧暦の1月7日で、今の暦で言うと、2月中旬のころになります。しかし、正月も旧暦ですので、食べる意図は変わりません。日本の四季や年中行事の季節感は、当然旧暦で感じたり、行われていたものがほとんどですので、今の暦に当てはめると1カ月ほど早まってしまいますから、おかしくなるものが多いですね。梅雨のころで雨が多い6月のことを「水無月」と呼ぶのも変ですね。年賀状にも、「賀春」とか「迎春」と書くのも本当は、旧暦の話です。旧暦では1~3月が春、4~6月が夏、7~9月が秋、10~12月が冬と決められているので、1月1日は「春」なのですが、今は、その日付をそのまま新暦に持ってきただけなので、実際の季節感とは、ほど遠くなってしまっています。
それにしても、眺めを楽しむ「秋の七草」にくらべて、「春の七草」には、ずいぶんと、薬効がありますね。例えば「せり」には便秘や風邪の予防、利尿作用、消化を助け黄疸をなくす効用があり、「なずな」には、肝臓病や高血圧の予防、視力、五臓に効果があるといわれ、「はこべ」は腫れや痛み止めに効き、母乳分泌促進作用があると云われ、歯ぐき、排尿に良いともいわれています。「ごぎょう」は、吐き気、痰、解熱に効果があるといわれ、「ほとけのざ」は、歯痛に効くといわれています。カブラの異名である「すずな」には、消化促進、しもやけ、そばかすに効用があり、大根の異名である「すずしろ」には、胃健、咳き止め、神経痛に聞くといわれています。そして、全体的に緑黄色野菜には、生体内でビタミンAとして働くカロチン、ビタミンB1・B2・C,ニコチン酸、カルシウム、鉄などが含まれ、これらビタミン、ミネラルが糖質、タンパク質、脂肪の代謝をスムーズにするため。食べ過ぎで疲れた臓器を癒し、不足したミネラルを補ってくれるのです。こうした自然の野草のはたらきを昔の人は科学的に分析しなくても、ちゃんと体で知っていたのでしょう。自然と共生をしていた生活の知恵が感じられますね。今、旧暦カレンダーが、ちょっとしたブームとなっていて、カレンダー売り場には数種類の旧暦カレンダーが並んでいます。以前から潮汐と関係深い漁業関係者は旧暦を活用しているといいますし、このカレンダーがあると、各種の行事、たとえば旧正月、旧七夕、中秋の名月(旧8月15日)の日付の決定など「旧暦」で見たほうが実際と合うことが多いからです。昔からの知恵が旧暦と結びついているとしたら、そこを埋める何かよい工夫がないものですかね。
投稿者 fujimori : 22:42 | コメント (3)
2007年01月01日 [記念日]
1月1日
あけまして おめでとうございます。今日1月1日は「鉄腕アトムの日」です。突然、ずいぶんと突拍子もないことですが、わたしにとっての今年と関係があります。というのも、今年開園する園がある場所は新宿区ですが、駅でいうと「高田馬場駅」です。この駅では、2003年3月1日から、発車メロディーが鉄腕アトムの旧シリーズのテーマ曲となっています。それは、その作者である手塚治虫が社長を務めた手塚プロダクションが高田馬場にあることと、お茶の水博士が長官を務める『科学省』が高田馬場にあったという設定から選定されました。お茶の水博士といえば、あの巨大な鼻という特徴から、殆どの日本人が知っているキャラクターです。因みにこの鼻は、作者である手塚治虫の団子っ鼻に由来しています。しかし、この博士がアトムの生みの親ではなく、「育ての親」です。御茶の水と言う名前の由来はもちろんJR御茶ノ水駅です。アトムの生みの親は、天馬午太郎で、幼くして事故死した息子、飛雄への思いからアトムを製作します。しかし、アトムをロボットの王にし、ロボットだけの世界を作る事が夢であるため、アトムの心については不信感を抱き、お茶の水博士とはよく衝突します。その鉄腕アトムの日が今日1月1日であるのは、1963年、フジテレビで日本初の国産テレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』の放映がスタートした日を記念日にしたのであって、誕生日は、2003年4月7日で、高田馬場の「科学省」で生まれたという設定になっています。作品が発表されたのは、1951年から1年間連載された「アトム大使」の一登場人物(ロボット)であったアトムを主人公として、1952年から1968年にかけて、「少年」(光文社)に連載されたものです。それが、テレビ紙芝居や特撮ドラマ化やテレビアニメ化され、このアニメ第1作は平均視聴率30%を超える人気を博し、その後、世界各地でも放映されました。ですから、当時、アトムの誕生は未来の夢だったのです。その夢の時代であった日を迎えることになり、その日を記念して、新宿区は、アトムを「新宿未来特使」に任命しました。漫画やテレビなどで永遠のヒーローであるアトムは、人間と同じ温かい心を持ち、正義感が強く、環境問題等の解決にも多大な貢献をしてきということで、新宿区民の夢先案内人として、子どもたちとともに大きく育ってくれることを願って任命されています。また、新宿区の区長室に行った時に見たのですが、入り口に、未来都市をバックにアトムが飛び立つ様子が活き活きと描かれている大きな油彩がかかっていました。この鉄腕アトムを通して、手塚治虫は、何を伝えようとしたのでしょうか。こんな言葉を残しています。「大宇宙の果てしない闇の深さにくらべ、この水の惑星の何という美しさでしょう。それはもう、神秘そのものかもしれません。ひとたび、そんな地球を宇宙から見ることができたら、とてもそのわずかな大切な空気や緑、そして青い海を汚す気にはなれないはずです。もしも、ぼくが、わたしが、宇宙からの眼差しを持ったなら、創造の力は光速を超えて、何万何千光年のはるかな星々にまで瞬時に到達できるでしょう。その創造の力こそ、人類ゆえの最高に輝かしいエネルギーなのです。」人間として持てる最高の力である創造力を持って、かけがえのない美しい地球を大切にしていかないといけないと思います。人間の知恵、創造する力が、結果的に地球を汚し、破壊するようであれば、それを教えてきたことは、教育ではありません。子どもたちに伝えていかなければならない真の教育を考えていきたいと思います。
投稿者 fujimori : 21:09 | コメント (2)
1月1日
あけまして おめでとうございます。今日1月1日は「鉄腕アトムの日」です。突然、ずいぶんと突拍子もないことですが、わたしにとっての今年と関係があります。というのも、今年開園する園がある場所は新宿区ですが、駅でいうと「高田馬場駅」です。この駅では、2003年3月1日から、発車メロディーが鉄腕アトムの旧シリーズのテーマ曲となっています。それは、その作者である手塚治虫が社長を務めた手塚プロダクションが高田馬場にあることと、お茶の水博士が長官を務める『科学省』が高田馬場にあったという設定から選定されました。お茶の水博士といえば、あの巨大な鼻という特徴から、殆どの日本人が知っているキャラクターです。因みにこの鼻は、作者である手塚治虫の団子っ鼻に由来しています。しかし、この博士がアトムの生みの親ではなく、「育ての親」です。御茶の水と言う名前の由来はもちろんJR御茶ノ水駅です。アトムの生みの親は、天馬午太郎で、幼くして事故死した息子、飛雄への思いからアトムを製作します。しかし、アトムをロボットの王にし、ロボットだけの世界を作る事が夢であるため、アトムの心については不信感を抱き、お茶の水博士とはよく衝突します。その鉄腕アトムの日が今日1月1日であるのは、1963年、フジテレビで日本初の国産テレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』の放映がスタートした日を記念日にしたのであって、誕生日は、2003年4月7日で、高田馬場の「科学省」で生まれたという設定になっています。作品が発表されたのは、1951年から1年間連載された「アトム大使」の一登場人物(ロボット)であったアトムを主人公として、1952年から1968年にかけて、「少年」(光文社)に連載されたものです。それが、テレビ紙芝居や特撮ドラマ化やテレビアニメ化され、このアニメ第1作は平均視聴率30%を超える人気を博し、その後、世界各地でも放映されました。ですから、当時、アトムの誕生は未来の夢だったのです。その夢の時代であった日を迎えることになり、その日を記念して、新宿区は、アトムを「新宿未来特使」に任命しました。漫画やテレビなどで永遠のヒーローであるアトムは、人間と同じ温かい心を持ち、正義感が強く、環境問題等の解決にも多大な貢献をしてきということで、新宿区民の夢先案内人として、子どもたちとともに大きく育ってくれることを願って任命されています。また、新宿区の区長室に行った時に見たのですが、入り口に、未来都市をバックにアトムが飛び立つ様子が活き活きと描かれている大きな油彩がかかっていました。この鉄腕アトムを通して、手塚治虫は、何を伝えようとしたのでしょうか。こんな言葉を残しています。「大宇宙の果てしない闇の深さにくらべ、この水の惑星の何という美しさでしょう。それはもう、神秘そのものかもしれません。ひとたび、そんな地球を宇宙から見ることができたら、とてもそのわずかな大切な空気や緑、そして青い海を汚す気にはなれないはずです。もしも、ぼくが、わたしが、宇宙からの眼差しを持ったなら、創造の力は光速を超えて、何万何千光年のはるかな星々にまで瞬時に到達できるでしょう。その創造の力こそ、人類ゆえの最高に輝かしいエネルギーなのです。」人間として持てる最高の力である創造力を持って、かけがえのない美しい地球を大切にしていかないといけないと思います。人間の知恵、創造する力が、結果的に地球を汚し、破壊するようであれば、それを教えてきたことは、教育ではありません。子どもたちに伝えていかなければならない真の教育を考えていきたいと思います。
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2006年12月13日 [記念日]
すすはらい
今日12月13日は、「正月事始めの日」「正月迎え」といいます。正月などずいぶん早い気がしますが、「こと」とは祭り、つまり正月を意味し、12月13日は正月を迎える準備をはじめる日というわけです。では、どんな準備からするのでしょうか。それは、「煤払い(すすはらい)」といって、13日に家の中の大掃除をするのです。この恒例は、単に大掃除というより、神聖な御紋の行事でした。年神さま(歳徳神としとくじんともいわれ、新しい年の五穀の豊作を約束してくれる神さま)をまつる準備のための、宗教的な行事でした。その年神さまを迎えるために、屋内外の煤ほこりを払い清めるのです。すすはらいを煤掃きともいいますが、その日を「煤取節句」「煤掃節句」とよぶ地方があることからも神祭りのはじまりであったことがわかります。すすはらいの日には、仕事を休み、家じゅうが総出で大掃除をし、それがすむと、神様に「煤取り団子」を供えたり、「煤掃き餅」や「煤掃き粥」「煤雑炊」といって、一家で餅や雑炊、粥などを食べる習慣がありました。また、すすはらいのあとで入る風呂を「煤湯」といいますが、身も心も、住まいも、できる限り清潔にして年の神を迎えようとしたのです。この習慣は、この日江戸城の御煤納めが行われたこともあって、江戸時代には一般家庭にも定着し、大正時代までつづきましたが、13日のように早い時期に大掃除をすると、また汚れてしまうので、しだいに年末近くに繰り下げて行ったようです。今では、すすはらいは寺院が年末の行事として行うくらいで、一般家庭は昔ほど大々的な掃除はやらなくなりました。昔は、かまどで薪を焚いたので、煤がたまりやすく、掃除には新しく切り出した笹竹のほうきが使われました。そのすすはらいに使われた竹を正月の終わりの1月14日に,門松や古いお札などと一緒に持ち寄って焼く日が、「どんど焼き」です。(ちなみに、私の育った近くの鳥越神社では、どんど焼きは、1月8日に行われていました。)神さまはこのけむりにのって天へ帰られます。子どもたちの「書きぞめ」もこのとき燃やし,それが高くまい上がるのを見てよろこんでいました。
ところで、掃除といって思い出すのが、学校で掃除をしたことです。子どもに掃除をさせ、掃除に教育的意味を持つのは儒教の国だけであると聞いたことがありますが、私の園では、必ずしも教育的効果だけでなく、運動能力をつけるために子どもたちが、雑巾がけをしています。また、自分で製作をした後の紙くずは、次にやりやすいように自分で掃除をします。ダスキンが平成13年にしたアンケートによると、学校での掃除用具といえば、ぞうきん(96.4%)が最も多く、ジザイボーキ(78.2%)、座敷ぼうき(74.6%)の3種です。私が子どものころにあった「はたき」は、今はなさそうです。次に外用ほうき(65.5%)、デッキブラシ(53.0%)と外まわりの道具が続きます。そして4~50%台というのが掃除機、スポンジ、ブラシです。また、掃除さぼりに関しては、小学校では48.4%、中学校では24.3%で約半分となっています。また、「一部の人で、さぼるのは男子に多い」というのが、小学校(18.5%)と中学校(17.1%)と大差ありませんが、「男女を問わず、一部がさぼる」は小学校(31.8%)に比べて、中学校(47.0%)でかなり開きが出ます。女子生徒のさぼりの度合いが年齢に左右されているようです。これからは、次第に子どもに掃除をさせることは少なくなるような気がします。やる意味は、ないのでしょうか。
投稿者 fujimori : 19:28 | コメント (2)
2006年12月09日 [記念日]
障害者の日
今日12月9日は、「障害者の日」です。そして、「障害者の日」までの一週間の12月3日~9日が「障害者週間」で、「障害者の日」からの一週間の12月9日~12月15日が「身体障害者福祉週間」です。そして、「障害者の日」をはさんでの一週間の12月5日~12月11日が「社会福祉週間」です。障害者の日は、1975年12月9日国際連合の第30回総会において障害者の権利に関する決議「障害者の権利宣言」が採択された日にちなんで、1980年11月28日に厚生省国際障害者年推進本部が国際障害者年を記念して、障害者問題に対する理解と認識を深めるために定められました。障害者週間が始まる12月3日は、障害者基本法の公布日です。障害者基本法とは、障害者施策に関する基本的理念を定め、国・地方公共団体等の責務、施策の基本的事項を定めること等によって、障害者の自立とあらゆる分野の活動への参加を促進することを目的に、平成5年に策定されました。この法律では、障害者を身体障害者、知的障害者、精神障害者と定義しています。また、基本的理念として、「すべて障害者は、個人の尊厳が重んぜられ、その尊厳にふさわしい処遇を保障される権利を有する。」としています。そして、「すべて障害者は、社会を構成する一員として社会、経済、文化その他あらゆる分野の活動に参加する機会を与えられる」ことを宣言するとともに、「何人も、障害者に対して、障害を理由として、差別することその他の権利利益を侵害する行為をしてはならない」ことを明らかにしています。
最近、よく「ノーマライゼーション」とか、「バリアフリー」ということが言われますが、その言葉のもとを知らない人がまだ多い気がします。ノーマライゼーションとは、「障害をもつ人も、もたない人も、社会の一員として、お互いに尊重し支え合いながら、地域の中でともに生活する社会こそがあたりまえの社会である」という考え方ですが、ノーマライゼーションの父と呼ばれるデンマークのミケルセンは、次のように説明しています。「ノーマライズ」というのは、障害がある人を「ノーマルにすること」ではありません。彼らの生活の条件をノーマルにすることです。ノーマルな生活条件とは、その国の人々が生活している通常の生活条件ということです。」しかし、障害者が障害のない人と同じように日常生活や社会生活を営むには、社会には、まだいろいろな障壁(バリア)があります。こうしたバリアを取り除き、障害者が自由に社会参加できるような、平等で、障壁のない社会、すなわち「バリアフリー社会」の実現を目指していく必要があるのです。また、バリアフリーから一歩進んで、高齢者、障害者、子ども、妊産婦、病弱者等、だれもが使いやすいようにはじめから考えて、製品、建物、環境等をつくりだしていくことが提唱されていますが、それを「ユニバーサルデザイン」といいます。たとえば、シャンプー容器本体のギザギザマークにより、手触りでリンスとの区別ができます。ポンプタイプには、ポンプボタンの頭部分にもギザギザがついています。また、利用目的によってテレホンカード、乗り物カード、買い物サービスカードの3種類に分類し、切り欠き形態を変えて、手で触れただけで識別ができるようにしています。このように、何も障害者だけでなく、誰にとっても使いやすいようにした商品を「共用品」といいます。我が国が目指すべき社会として、国民誰もが相互に人格と個性を尊重し支え合う「共生社会」です。人それぞれの価値を認め合うような社会を作ることが必要なのです。
投稿者 fujimori : 22:44 | コメント (4)
2006年10月05日 [記念日]
中秋
ちょうど昨年の10月20日のブログに、父親だけが役員の「子ども会」について立ち上げの経緯を書きました。役員が父親だけとあって、計画は、とてもわくわくするものが多かった反面、ハラハラするものも多くありました。ずいぶんと、母親たちから心配されました。そのひとつが、この時期に行われた「お月見ナイトハイク」です。子どもたちは、暗くなってから地元の高尾山に登り始め、夕飯を山頂で食べる計画です。夜の山は、とても暗く、しかも高尾山は野生動物が多く、熊とかはいませんが、夜行性動物であるムササビとか、仏法僧は有名です。ブッポウソウといっても、本当は「コノハズク」というきわめて小さなミミズクのことです。夕暮れから活動を始め、「ブッポウソウ」と鳴くので、古くからブッポウソウ(仏法僧)の鳴き声と思われていました。この声が、登っている最中に聞こえてきます。また、林でガサコソ音がするので、懐中電灯を当ててみると、木の幹をムササビが登っていくところで、木の上まで行くと、空中飛行をします。こんなわくわくする体験が出来るのですが、やはり、真っ暗な道を懐中電灯で照らしながら登るのは、母親たちはきがきでなかったかも知れません。それにしても山頂で頭上に輝く月を見るのは、なんとも言えず気持ちが澄む気がします。しかし、この決行する日にちが、ちょうど中秋の名月というわけには行きません。それは、年によって変わるのと、それがナイトハイクをする土曜日とは限らないからです。
今年の中秋の名月は、明日の10月6日です。同じ日に、同じように満ち欠みかけした形の月を見ようと思えば、ちょうど19年後のことになります。例えば自分の生まれた日に出ていた月と同じ形のつきを誕生日に見るためには、成人式を控えた前の年まで待たねばなりません。これは月の満ち欠けの周期(29.5306 日)の235 回分、と1年の周期(365.2422 日)の19年分がほぼ一致するからです。この周期のことを「メトン周期」または「章」と呼んでいます。「今月今夜のこの月」は19年後でないと見られないということのようです。今の暦は太陽暦ですので、天球上での太陽の一年間の動きをもとにして1年の長さを365日と決めています。しかし旧暦では月の動き、それも月の満ち欠けの周期を一ヶ月としていました。ですから、新月の日を一日として、月が半月から満月になり、また新月にもどってくるまでの29.53日が一ヶ月なのです。月の満ち欠けの様子を日づけにできるだけ正しくあわせるため、ひと月は30日と29日を交互にくりかえしていました。だから月の満ち欠けの形を見ればその日が何日かがわかりました。満月の日はほぼ15日(十五夜の月)になります。そして涼しくなった秋のすみきった、秋のまん中の8月の夜の月を、中秋の名月と呼んだのです。したがって、中秋の名月が満月とは限りません。実際に、今年の満月は、次の日の7日です。しかし、満月でなくとも、この時期の月は、空気が乾燥して鮮やかに見え、かつ、秋は湿度も低く夜でもそれほど寒くないため、とてもきれいで、昔から鑑賞したのでしょうね。名月とよく言ったものです。しかし、秋の虫の声が日本ではとても心地よく聞こえるのに、外国の人には雑音にしか聞こえないという話をよく聞きますが、満月も、ヨーロッパでは人の心をかき乱し、狂わせるものであったり、月の女神が死を暗示したり、狼男が月を見て狼に変身して凶暴になったりするのは、感じ方の違いで、面白いですね。
投稿者 fujimori : 17:48 | コメント (4)
2006年08月28日 [記念日]
誕生日
今日は、このブログ「臥竜塾」の誕生日です。昨年、8月28日から始めたからです。このブログを1年間書いてきたことで、いろいろなことを知りました。いろいろなことに目を向けるようになりました。新聞記事を丹念に目を通し、園庭をはじめ、道端にも目を配り、日曜日にどこに出かけるかを考え、講演先では、さまざまな地域を訪ね、飛行機に乗ると、機内誌に目を通し、新幹線に乗ると車内誌に目を通すようになりました。
「心を常に曇らさずに保っておくと、物事がよく見える。学問とは何か。心を澄ませ感応力を鋭敏にする道である。」 この文章は、ブログの初日に書いたものです。ブログをはじめるときの心がけを書いたものです。1年を経過して、果たして、この初志を貫けたか、と思います。
また、このブログのコメントを通して、さまざまな人と出会い、会話をしました。いろいろな人の顔を思い浮かべるとき、以前のブログで書いた「論語の学而篇」を思い出します。
「吾(われ)、わが身を日に三省す」ということです。それは、曾子のことばです。曾子は、「反省」の重要性を説いています。自己の内面を見つめること、これは儒家思想の基本の一つです。ただ曾子はそれを「日に三たび」と説くのです。この「三」は三つのことであるという理解もありますが、漢文では通常「たびたび」「何度も」というイメージを伝えることばです。では、どのようなことを「省み」(かえりみ)たのでしょうか。
「人の為に謀(はか)りて忠ならざるか。」(人のために世話をしながら、真心が足りなくはなかっただろうか)
「朋友と交わりて信ならざるか。」(友達との付き合いに、信義が欠けたことはなかっただろうか)
「習わざるを伝うるか」(人から教わったことで、まだ自分のものとなりきっていないものを、口先だけで人に受け売りしてはいなかっただろうか)
この「わが身を日に三省す」から、「省我」という言葉が生まれていることもブログで書きました。この言葉を、今日は、1年経過して振り返ってみました。
「学問はその知識や解釈を披露したりするものではなく、行動すべきものである。その人間の行動をもってその人間の学問を見る以外に見てもらう方法がない。」
そして、よく知ることは知るだけでとどめず実行を伴わないといけないと初日のブログで書きました。1年を振り返ってみて、このブログを書くことを通して、学んでいるだけでも、知識を蓄えるだけでも、憂えているだけでも、人に伝えるだけでもなく、何かの行動に移したでしょうか。
初日のブログを読み返すだけで、ずいぶんと振り返りが多くなります。誕生日とは、祝うことではなく、1年を振り返る日かもしれません。
投稿者 fujimori : 23:50 | コメント (4)
2006年06月18日 [記念日]
父親
今日は、「父の日」です。昨日の新聞に、「口が臭いお父さんには、娘の一言がやっぱりきく」という記事がありました。「父の日」を前に、ライオンが口臭に関するアンケートをしたところ、日頃は口臭を放置しがちなお父さんも、娘から「お父さん、口くさい」と言われた途端、歯磨きに熱心になったり、歯科医院に通ったりする傾向が浮かび上がったそうです。「自分の口臭が気になる」と答えた父親は6割でしたが、対応は、その場しのぎがおおく、「歯科医院で虫歯や歯周病の治療をした」はわずか1.5%だったようです。しかし、娘から直接「くさい」と言われると態度はコロッと変わり、「よく歯を磨くようになった」(37%)が最多となり、「歯科医院に行った」も22.2%と大幅に増えます。それは、娘が父親にとって怖い存在だからでしょうか。たぶん、そうではなくて、娘がとてもかわいいと思うからなのでしょうね。一時、父親の下着を一緒に洗濯をするのを嫌がる娘が話題になりました。また、まったく、父親の存在を無視する娘も話題になりました。でも、どんな扱いをされようと、親にとって子どもはかわいいものです。特に、小さいうちはより、そう思います。
父親の多くは、仕事が忙しく、また、夜帰りも遅くなかなか子どもとは会えません。また、単身赴任で、子どもたちとは慣れて暮らしている父親も少なくないでしょう。しかし、なかなか子どもとはつき合えないと嘆いている父親も、母親との協力のもとで、子どもとしっかり結び合うことができる方法があるはずです。親子の結びつきの強さは、決して、一緒にいる時間の長さだけの問題ではないのです。1869年の若草物語(オルコット)に、こんな文章があります。
「娘たちの心は、従軍牧師として戦地に行っている、父のことでいっぱいでした。その御父様から、手紙が来ました。『私のかわいい娘たちよ。御父様は、昼は、おまえたちのことを思い、夜はおまえたちのために祈り、おまえたちの夢を見ることで毎晩慰められる。』
4姉妹の子どもたちの心の中は、父親のことでいっぱいです。父と子らは、離れていても、しっかりと結びついています。また、父親の姿を描いたこんな話もあります。
「若いお父さんが、自転車に子供を二人乗せて、うん、うんー、ペダルを踏んでいる姿は、はためには大変なことのようにうつりました。でも、「たいへんですね。」なんて、安っぽい同情をしようもんなら、ド-ブルさんは、むっとした顔で、返事もしません。人には、どう思われようと、ド-ブルさん自身は、楽しくて楽しくてたまらなかったのです。」(デブの国ノッポの国(モ-ロフ)1930年)
そんなお父さん(ノーブルさん)と、ノッポとデブの仲良し兄弟が、一緒にピクニックに出かけて、不思議な事件に出会います。何だか、今のお父さんを見ているようですね。義務感からでなく、一緒に楽しんで出かける親子には、すてきな冒険が待っているはずです。決して、一人ではできない、子どもと一緒だからできる冒険は、子育てをしている人の特権かもしれません。
また、最近、育児に協力する父親が増えてきました。園でも、お迎えに父親の姿を見ることも多くなりました。しかし、園の送り迎えをお父さんたちがやり始めたころ、家事をお父さんがやり始めたころ、買い物をお父さんたちがやり始めたころ、きっとこんな気持ちになったこともあったのではないでしょうか。巣の中の、コウノトリの四羽の小さなひな鳥たちとおかあさんのそばで、コウノトリのおとうさんが、じっと見張りに立っています。そうしながらこんなことをつぶやきます。
「巣のそばに、見張りを立たせておくんだから、家内のやつは、ずいぶんえらそうに見えるだろうな。」と、コウノトリのおとうさんは考えました。「このおれが、あれのご主人だなどとは、だれも知るまいよ。きっと、ここに立っているように、言いつけられているんだと、思うだろうさ。それにしても、ずいぶんだいたんだろうが!」(アンデルセン童話 コウノトリより)
投稿者 fujimori : 21:02 | コメント (0)
2006年06月17日 [記念日]
父親保育の日
園では、今日「父親保育の日」でした。園での保育を父親だけで朝から晩まで行うというものです。まず、園長代理の父親が、各クラスの担任を決め、その勤務時間を、子どもの時間による出席数を見ながら、ローテンションを組みます。自分の子どもと遊ぶのではなく、園での保育を理解してもらうことと、父親同士のふれあいを意図しての行事ですので、自分の子どもがいるクラスは担任しません。そして、各クラスの日案を出してもらいます。今年の園長代理の父親は、自らブログを書いています。いろいろなブログを読まれている人は分かると思いますが、ブログは、その人の性格が現れます。私のブログは、ちょっと硬いかなという気が自分ではしています。保護者の父親のブログは、性格のよさが現れていて、それを読むたびに「いい人だなあ」と感動することがしばしばです。(このブログをその保護者は、たぶん読んでいると思いますので、照れている顔が目に浮かびます)その園長代理の父親の「父親保育の日」を前にしたブログの書き込みを紹介します。
「いよいよ。6月に保育園主催の「父親保育」という行事があります。「父親保育」という行事は、「父親の会」が発足されたきっかけの行事であり、私自信、今、こうして、ホームページを運営しているのも、この行事に参加したのが始まりです(^^ゞ もし・・。。父親保育に一度も参加されたことがなかったり、父親保育に参加しようかどうか迷われているのであれば・・ぜひ、ぜひ参加をおすすめします。。。。(^^) 私自身、父親保育に参加しての経験上のお話ですが、大人になってしまうと、他の職業の経験など、なかなか出来ないものですし、お子さんが、普段、一日の大半を生活している場所って、どんなところなんだろうか?などの、全体的な発見だったり、普段、朝、お子さんをお預けすると思いますが、預かる方からみた風景は、また、違っていて新鮮だったり。。といった、小さな発見だったり。。父親保育に参加することで、いろんな発見があったりしますよ。。(^^) どんな小さな発見であっても、それが、参加された方々にとって、何か今後に生かせるものであったなら、保育園の本当の狙いは、そこにあるのかもしれません。。(^^)
次のブログは、途中で、日案の話し合いに園長代理として顔を出したときの感想です。
「私は、昨日は、2歳児クラス打ち合わせ、今日は、3~5歳児のクラスの打ち合わせに少しの時間(様子見程度)でしたが、顔を出させていただきました。(上の子供の運動会が両日とも中止だったため、出席できました(^^) ともに、設定保育は、おもしろそうですね。。。(^^) 0,1歳児クラスの担当のお父さんメンバーは、父親の会でもよく知っているメンバーが多いので雰囲気等は、知っているのですが、2~5歳児クラスのお父さん方の雰囲気もまた、とってもよくって、すばらしいお父さん方の中、園長代理をさせていただくことに、幸せを感じ、一人でうれしくなってしまいました。(^^ゞ
以前ブログに書いた「わが大地の歌」は、作詞が笠木透でしたが、作詞、作曲ともした歌に「私の子どもたちへ」というのがあります。私の大好きな歌です。
1.生きている鳥たちが 生きて飛びまわる空を あなたに残しておいて やれるだろうか 父さんは 目をとじてごらんなさい 山が見えるでしょう 近づいてごらんなさい コブシの花があるでしょう
2.生きている魚たちが 生きて泳ぎ回る川を あなたに残しておいて やれるだろうか 父さんは 目をとじてごらんなさい 野原が見えるでしょう 近づいてごらんなさい リンドウの花があるでしょう
3.生きている君たちが 生きて走り回る土を あなたに残しておいて やれるだろうか 父さんは 目をとじてごらんなさい 山が見えるでしょう 近づいてごらんなさい コブシの花があるでしょう
投稿者 fujimori : 22:41 | コメント (3)
2006年05月13日 [記念日]
母と父
明日は、5月の第2日曜日なので、「母の日」です。というのに、今日は、園に大勢の父親が集まって、会議をしました。それは、6月の第3日曜日の6月18日が父の日だからです。というのは、父の日にちなんで、園を1日中、園長から始まって、各クラスの担任もすべて父親だけで保育する日の、第1回打ち合わせをしたのです。
日本で初めての母の日を祝う行事が行われたのは明治の末期頃で、教会で祝われ始め、徐々に一般に広まっていったと伝えられています。昭和に入ると、当時の皇后の誕生日であった3月6日を母の日としていました。一般に広く知れ渡ったのは1937年に森永製菓が告知を始めたことをきっかけだとも言われます。日本で、世界的発想の記念日は、大体、企業が広めるのですね。日本で最初にバレンタインデーの広告を出したのは戦前にモロゾフでからでした。それは、あまり定着しませんでしたが、戦後、メリーチョコレートが、東京・新宿の伊勢丹デパートで「バレンタインには女性から男性へチョコレートを贈りましょう」というキャンペーンを行なって、その後、日本チョコレート・ココア協会が、2月14日を「チョコレートの日」と制定し、デパートなどの流通業界も加わって大々的にチョコレート商戦を繰り広げたため、1970年代後半から定着し始めたといわれています。まんまと成功しましたね。日本の「父の日」は、1950年頃から広まり始め、一般的な行事となったのは1980年代です。母の日のシンボルフラワーとしてカーネーションがあるように、父の日のシンボルフラワーは、バラの花です。アメリカでは、「母の日」「父の日」とも祝日です。父親が育児をすることの意味を、私は、何回か園の巻頭言で書きました。そのうちのひとつを紹介します。
「90年代以降、父親論が盛んに行われるようになりました。最近、アメリカでは、子どもの教育が未来社会のための最も重要な投資であるという認識のなかで、子どもの社会化環境に対する危機感の強さから父親政策に力を入れています。ある書物(It takes a Village)では、父親をすることの意味は?との問いに対する答えとして、以下の5つがあげられています。
1、母親だけでなく、父親もかかわることで、子どもの発達によい影響をもたらす。
2、父親がかかわることで、母親の子育てにゆとりをもたらす。(母親にとって)
3、父親の生活に幅と厚みをもたらす。(父親にとって)
以上の点は、よく言われることですが、以下の二つは、これからの時代にとても大切なことです。そして、それが、保育園で行われる「父親保育」の目的なのです。
4、父親をするというのは、家庭を閉ざしてわが子の父親をのみするのではなく、家庭を社会に開き、地域の親たちとかかわり、地域の子どもたちの父親になるということが重要なのです。親たちが地域のネットワークの中にしっかりと足場を持っていることは、子どもたちに安心感をもたらすのです。
5、父親をすることで、夫婦の、あるいは男女の新しい関係の構築につなげるのです。育児について、母親、父親どちらか一方が主役ではなく、柔軟な男女の関係が子どもに伝わることが必要なのです。」
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2006年05月06日 [記念日]
立夏
暦というのは天体の動きに合わせて作られていますので、とてもややこしく、わかりにくいところもありますが、簡単に言うと、1年を春夏秋冬の4つの季節に分け、それぞれをさらに6つに分けた24の期間を表すものとして使われるのが一般的です。これを、二十四節気(にじゅうしせっき)といいます。そして、さらに約5日ずつの3つに分けた、七十二候という分類があり、各気各候に応じた自然の特徴が記述されました。計算が苦手な人は、ややこしくていやになりますが、日本では暦注など生活暦において使われていることが多いので、なじみのものがあります。たとえば、天象と暦学上の季節区分として、「春分」「夏至」「秋分」「冬至」の4つに分けます。そして、その半分のところが、暦学上の季節区分として、「立春」「立夏」「立秋」「立冬」となります。今日の5月6日が、今年の「立夏」です。「夏の気配が感じられるころ」といわれ、暦便覧には「夏の立つがゆへなり」と記されています。この日から立秋の前日までが夏となり、「蛙が鳴き始めるころ」とも言われています。(そういえば、昨日、散歩の途中で、かえるの声を聞きました)そして、立春から立夏までが春、立夏から立秋までが夏、立秋から立冬までが秋、立冬から立春までが冬というように定められています。日本では、旧暦5月を皐月(さつき)と呼び、現在では新暦5月の別名としても用いられています。他の月よりも、5月のことを旧暦の呼び名の「さつき」と呼ぶのは、より生活に密着している「さつき○○」(実際は、6月のことをさすことが多い)といわれるものが多くあり、なんだか、今の頃の方が「さつき」という感じがします。「さつき」は、本来は、この月は田植をする月であることから「早苗月(さなへつき)」と言っていたのが短かくなったものです。また、「サ」という言葉自体に田植の意味があるので、「さつき」だけで「田植の月」になるとする説もあるそうです。つまり、梅雨時の田植えの季節に由来しているのです。日本書紀などでは「五月」と書いて「さつき」と読ませており、皐月と書くようになったのは後のことであるようです。また、ツツジ科の皐月(さつき)も、旧暦の皐月(5月)に咲くことから命名されました。「皐月躑躅(さつきつつじ)」を省略したものでつつじの一種です。杜鵑花(ほととぎす)が鳴く頃に咲くため、「杜鵑花」とも書きます。江戸時代から庶民より武家世界にまで人気があり、さつきとつつじは見分け方が難しいのですが、さつきはつつじより遅れて咲き,やや花が小型であり,ろう細工のような光沢を持つこと,花びらの色が混じっていることが挙げられます。また「皐月」は花の名前となっていて、今盛りですね。また、もうすぐ咲く「あやめ」から、「菖蒲月(あやめづき)」の別名もあります。しかし、本来、さつきというのは今の6月のことですので、「五月雨を 集めてはやし 最上川」(芭蕉)という句の五月雨(さみだれ)とは梅雨の別名ですし、五月晴れ(さつきばれ)とは本来は梅雨の晴れ間のことです。しかし現在では、5月と6月の両方で「サツキバレ」が使われているのが現状で、「広辞苑」でも「さつきばれ(五月晴れ)」は、①さみだれの晴れ間、梅雨の晴れ間。②5月の空の晴れ渡ること。と両方を認めています。また、5月の蠅はうるさいことから戯れた当て字として、「煩い、うるさ・い」という字を「五月蠅い」と書きますね。そのほか、梅雨の頃の暗さのことを、「五月闇(さつきやみ)」などともいいますね。このように日本には古くから培われた文化があり、それが、旧暦、新暦となんとなく渾然として使われているにもかかわらず、現在も廃れることなく、いつのまにか我々の生活に影響しているのです。ちなみに、欧米での呼び名であるMayはローマ神話で豊穣を司る女神マイア(Maia)の名に由来するといわれています。
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2006年04月23日 [記念日]
本の日

今日4月23日は、「世界 本の日」です。この日は、もともとは「サン・ジョルディの日」として親しまれており、愛と知性の文化運動として行われてきたものです。「サン・ジョルディの日」の由来は、スペイン・カタルーニャ地方のサン・ジョルディ伝説をもとにしており、悪獣のいけにえに差し出された王女を救った伝説の騎士、サン・ジョルディを愛の守護聖人としてたたえています。4月23日は彼が殉教した日で、いつしかこの日に本と花を贈りあって、愛する気持ちを伝え合うようになりました。また、この日は文豪として名高いセルバンテスとシェークスピアの命日でもあり、本との結びつきを強めております。日本でも4月23日に男性から女性に花を、女性から男性に本を贈るという知的でロマンチックな習慣は、現在、静かなブームになっています。そして、ユネスコ総会は、本は歴史的に知識の普及に最も有力なファクターであるとともに、その保存に最も正確な手段であることを考慮し、本にアクセスするすべての人々を啓蒙するだけでなく、世界中の文化的伝統をより豊かに共有する認識を広め、また理解、寛容、対話にもとづく人々の行いを鼓舞することに鑑み、4月23日を「世界・本と著作権の日」としたのです。日本でもこれに伴い、4月23日を「子ども読書の日」とすることが法律で定められています。そして、4月23日から5月12日が、毎年「こどもの読書週間」です。第48回の今年の標語は「魔法の国へのパスポート」です。
本といえば、私は、小学生のころ本を読むのが好きでした。探偵ものとか、冒険物が特に好きでした。何年生のころか忘れましたが、「十五少年漂流記」が面白くて、時間があると読んでいました。母親から、「そんなに本ばかり読んでいないで、すこしは外に遊びに行きなさい!」と注意されたので、押入れに隠れて読んだり、寝るときにも布団の中にもぐって読んでいました。とうとう母親は腹を立てて、2階の窓からその本を隣の家の屋根に投げてしまいました。今だったら、本を読んでいたらほめられるのに、そのころは、テレビばかり見ていると同じ感覚だったのでしょうね。これは、誰でも読んだことがあるでしょうが、無人島に漂流した少年達が力を合わせて生活していく物語を描いていますね。原題は「二年間の休暇」といいます。この「十五少年漂流記」を、架空の未来に移して、エキセントクリックな状況の中で、少年たちの根源悪が噴出する小説「蝿の王」を大人になって読んだときに、やはり取り付かれた思い出があります。この作品は、ノーベル文学賞を受賞しています。題名の「蝿の王」とは、悪魔「ベルゼブブ」のことを指し、作品中では蝿が群がる豚の生首を「蝿の王」と形容しています。アメリカの陸軍幼年学校の生徒たちを乗せた飛行機が墜落した。とりあえず一命を取り留めた24人の少年たちは、近くの無人島へ漂着します。しかし彼らは、世間から隔絶されたこの島で、己の内に秘めた野性に目覚め、やがて理性と秩序を失ってゆく……。性・秩序・生命力を暗示する“ほら貝”を持つ文明支持派と、悪・死・無を象徴とする“蠅の王”を掲げる野性派に分裂してしまった少年たち。その間に目覚める、猜疑心、恐怖心、憎悪、闘争、そして殺戮--まるで人類が犯した過ちの歴史を忠実になぞるかのような彼らの姿を、鮮烈な映像で描き、人間性の奥に潜む“善と悪”に深く切り込んだ傑作といわれています。ただ、情緒的に美化されがちな子どもの世界を、冷静に見つめることができます。
投稿者 fujimori : 20:52 | コメント (2)
2006年04月10日 [記念日]
駅弁
今日4月10日は、「駅弁の日」だそうです。それは、「4」と「十」の字を組み合わせると「弁」の字に見え、「10」は「とう」とも読めることから、この日を「駅弁の日」としたそうです。日本の駅弁第1号は、明治18年に宇都宮駅で発売されたもの。黒ゴマをまぶしたにぎり飯2つとたくわんを、竹の皮に包んだ質素なものだったようです。今は、様々な駅弁が発売され、デパートなどで開催される「駅弁祭り」は人気があるようです。私の園で、かつて、その年のテーマが「乗り物」の時の夕涼み会で、食事を駅弁みたいにして出したことがありました。入れ物のパックにかぶせてある掛け紙をデザインして、駅弁のように包みました。そして、飲み物を、あの駅弁に付き物のお茶に入れて添えました。
この日本と同じような駅弁は、日本と台湾の他には存在しないようです。それと似たものとして、韓国や中国の車内販売弁当や、駅で売られるランチボックスなどはヨーロッパでみることはあるのですが、「駅売り弁当」という、鉄道の駅や車内で売っている弁当としてはないようです。しかし、その分、列車の食堂車や駅の食堂の充実度は日本の比ではないそうです。乗っている時間が長い列車が多いからかもしれませんが。もうひとつ、駅弁が普及する壁があります。それは、座席で食べることを許容する文化や乗客や列車管理者の理解あることが必要で、意外にもこれが他国にはあまり存在しないようです。不思議ですね。日本でも、電車の中で物を食べたり、飲み物を飲んだりすることはマナーができていないと思う人が多いのに、駅弁だと許せるのですね。もちろん、狭い車内で、においが充満しないとか、テーブルつきの座席であるとか、ルールはあります。しかし、やはり、日本では、弁当やおにぎりのようにコンパクトになるとか、食べるときは、きちんと食堂に行くという外国に比べて、過ごす場所と食べる場所が一緒であってもかまわない日本人らしい生活観が出ていますね。
列車の中で許せるものには、国によって違いがあります。デンマークに行ったときに驚いたことがありました。一人で列車に乗ったときのことです。日本では、乗り込むときに、まず気をつけるのが禁煙車であるかということです。そこで、禁煙車を探して、その車両に乗り込みました。4人がけのボックスに一人で座っていると、なんと、私の隣と前の席に乗り込んできたのは、大きな犬でした。北欧の人は背が高い人が多いのですが、犬も、とても大きく、りっぱです。その犬が、堂々と、隣と前に座ったときには、びっくりしました。通路にも犬が寝そべりました。その車両の中を通りすがる人は、申し訳なさそうに犬をよけて通っていきます。なんと、その車両は、「犬可」という車両だったのです。降りるときに、ほかの車両を見ると、「自転車可」という車両もあり、そこは座席がなく、みんな自転車に乗ったままホームまで降り、そのまま列車に乗り込みます。もちろん、これらは、犬を連れていようが、自転車に乗っていようが、それらを「ハンデ」にしないという国民性があるからでしょう。もちろん、障害者であろうが、バギーや乳母車を押していようが、同じ考え方です。どの店に入っても、すべての店には段差がないか、段差の脇には、レールが必ず着いていました。もう10年以上前の話です。列車の中で許されるものに国民性が出ていますね。
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2006年04月07日 [記念日]
城の日
昨日は、4月6日です。「しがつろくにち」から、「しろ」ということで、「城の日」でした。今年、財団法人日本城郭協会で、全国各地の名城探訪の手がかりとして「日本100名城」が選ばれ、2月に発表されました。選定されたのは、世界遺産の姫路城、国宝の彦根城・松本城など天守がそびえる近世の著名な城郭から、城郭の始まりとされる環濠集落吉野ヶ里(佐賀県)や古代の鬼ノ城(岡山県)、さらに中世の足利氏館(栃木県)・一乗谷城(福井県)、琉球王国の首里城(沖縄県)、信長の安土城(滋賀県)、西洋式の五稜郭(北海道)まで、時代と地域を代表する多彩な名城です。その中で、東京都から選ばれたのは、2城で、「江戸城」と「八王子城」です。
八王子城主は、「北条氏照」ですが、小田原に本拠をおいた北条早雲から三代目の氏康の次男で5代氏政の弟にあたる人物です。滝山城にいた大石定久の養子となり、成人して大石源三氏照と名乗ります。大石氏(後の大石氏は、赤穂浪士などで知られています)は、滝山城(この城跡も八王子市にあり、私の家の近くです)を本拠としていましたが、難攻不落の城(武田信玄が何回か攻めています)ではあったのですが、「滝は落ちる」ということで、縁起を担ぎ、氏照は、この滝山城から八王子城に移ることを計画します。私は、よくこの八王子城跡に行きました。それは、典型的な山城で、そこに登るのは一苦労ですが、山頂はとても景色がよく、教師をしていた頃、担任していたクラスみんなで行ったり、中学生を写生に連れて行ったものです。また、山頂近くには、法華経にある仏教伝説で、「釈迦の前で多くの人が悟りを開き出家した際に最後に出家した王の八人の王子がその後仏門に入った」という話に由来して、この八王子信仰が各地に伝わり、八王子社がこの山の頂上に建てられ、それが八王子の地名の由来だといわれています。
ここに築城された八王子城を、豊臣軍が、前田利家を総大将に上州方面から北条氏の各出城を攻め落としながら進行してくる途中、攻め落とします。そのとき、城主の北条氏照は小田原城に籠城し、八王子城は重臣を中心とした守備隊に任せます。そして、1590年6月23日(旧暦)の早朝から攻められ城方も奮戦しましたが1日で落城しました。このときの戦いが、秀吉の小田原攻めのなかで、唯一の殺戮戦であったために、そのときの様子が、特に語られています。攻められ、逃げ場を失った女性達は御主殿の滝に身を投じて、川は数日血に染まったといいます。このときの話が、「赤いくし」(古世古和子作、箕田源一郎絵 童心社)という絵本になっています。
城を守っていたのが、留守を守っていた地侍、商人、職人、修験、僧侶、農民などわずかに3000人ほどであったといわれています。それが、10倍近い豊臣勢の猛攻を受けたのですから、ずいぶんと悲惨だったでしょう。
たまたま、以前ブログ(1月13日)に書きました小田原の二宮尊徳のお墓に行ったときに、その菩提寺には、この北条氏照の母親である氏康夫人の墓もありました。彼女は、あの今川義元の実姉です。家庭教育に力を注いだということで有名です。特に、総領の氏政、武勇の氏照・氏邦、外交の氏規と見事に分を弁えているといわれています。昔から、家庭教育の大切さが言われていたのでしょう。
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2006年03月29日 [記念日]
日食

今日、皆既日食がありました。日食、月食というと、いくつか思い出があります。ひとつは、私が中学生の頃です。中学で地学という授業があります。その中で、その教科担任から「皆既日食を、地球と月の直径から見える大きさを割り出して、徐々にかけていく太陽を書きなさい」という宿題を出されました。しかし、中学生の頃は、見た目の太陽と月の直径比(本当は、日食が起きるのは、太陽と月の見かけの大きさ(視直径)がほとんど同じだからです)がわかりませんでしたし、自転、公転から欠けていく速度が割り出されます。どうすればよいか困った結果、専門家に聞きに行くことにしました。私の中学が神田にあったので、その駅には、銀座線が走っており、その終点は渋谷です。そこには、今はなくなってしまいましたが、五島プラネタリウムがありました。そこに聞きに行ったのです。何日か通ううちに、顔パスで入れてもらえるようになりました。そして、それが、天体が好きになったきっかけかもしれません。
そんなわけで、天体のことにも興味を持ち、以前のブログ(12月1日)で書きましたが、小学校の教員の頃に、子どもたちにギリシャ神話を話して聞かせ、その結末の星座を天井に貼っていったのです。そんなわけで、地域のボーイスカウトや、子ども会で、星の話をするように頼まれました。そんなある日、私の家(当時、一人で住んでいました)に、ある中学生が尋ねてきました。そして、こう言ったのです。「ぼくたちは、中学校で、自主的に天文研究会を作りました。先生に、ぜひ、その会の顧問をやってもらいたいのですが。」クラブではない、自主的な集まりなので、私に話を持ってきたのです。そこで、その会の顧問をやることにしました。会の活動としては、例会として、私の家で、会員に天体についてのテストをします。そして、答え合わせをしながら解説をしていきます。もう一つの活動は、日食と、月食の観察です。日食は昼間なので、学校なりで観察すればいいのですが、月食は夜中のことが多いです。ちょうど、そのころ月食があったので、私の家にみんな集まって、夜中に欠けていく月を天体望遠鏡を見ながら、時間を決めて写生をしました。こんなことも、いまだったら、学校から怒られてしまうかもしれませんね。しかし、今でも、そのときの会長を勤めていた中学生から、年賀状が届きます。
今日のの皆既日食は、皆既継続時間が4分以上ありますが、それが見られるのは、アフリカから中央アジアにかけて見られました。ですから、見るためには、そこに泊りがけで行かないとなりませんね。しかし、今は、ありがたいことに、その姿をリアルタイムで「観察」する手段があるのです。その手段とは、インターネットによる中継です。「非営利団体ライブ!ユニバース」によるプロジェクト「LIVE! ECLIPSE 2006」ではリビア、エジプト、トルコの3ヶ所から中継をしました。リビアからは、ぐるっと、周りを見渡せるようになっています。また、実際と違うところは、あたりが暗くなることでかんじるのではなく、純粋に刻々と黒くなっていく太陽自体を眺めることができることです。この3箇所からのライブを見ていて、映像は、あまり安定はしなかったので、あちらこちらを見ていたところ、トルコからの映像で、しっかりとコロナも見ることができました。とても感動しました。すごい時代になったものです。
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2006年02月02日 [記念日]
文化の伝承

明日は、節分です。園でも、節分の行事を行います。行事の一つの目的に、「地域の文化を伝承する」というものがあります。では、地域の文化というものは、何でしょうか。また、何で、伝承しなければならないのでしょうか。1989 年に行われた第25 回ユネスコ総会で「伝統的文化及び民間伝承の保護に関する勧告」というものが採択されました。そこでは、民間伝承は「人類の普遍的遺産の一部を形成するものであり、また、それは異なる民族及び社会集団を結び付け、かつ、その文化的独自性を主張するための有力な手段である」といっています。そして、これを維持するために、しばしばマス・メディアによりもたらされる産業文化の影響によりむしばまれるという事を危惧しています。また、農山漁村の文化のみならず、様々な社会団体、職業及び機関等により都市部で創り出された文化についても考慮に入れて、そうすることで、文化的多様性及び異なる世界観についてのよりよい理解を促すことができるとあります。学校及び学校外での教育活動にそれらを導入することも謳われています。このように、文化を伝承していくことは、多様性の世界観の中で、さまざまな社会集団を結びつけ、よりよい新しい時代を作っていくために、過去の知恵から学んでいくというものである気がします。私の園は、ニュータウンの中にあります。新しくできた街で、かつて、そこには、特に村や、部落があったわけではなく、狸が主な住人だったところです。(ジブリの映画「平成狸合戦ぽんぽこ」の舞台になっているところです)しかし、その狸と共生をしながら、里山がありました。そして、この地の文化を、マス・メディアではなく、人間の開発という力で破壊をしてきた場所です。私が育ったところは、近くに鳥越神社があり、「節分」の行事は、とても盛大なものでした。近くの相撲部屋から力士が来たり、さまざまな芸能人や地域の名士、年男たちが、その日のために造られた舞台の上から豆をまきます。それを、子どものころ必死に拾いに行きました。なぜなら、撒くものは、豆だけでなく、あまり覚えていませんが、いろいろなおもちゃやお菓子、何かの引換券などがあった気がします。そんな地域でしたから、各家庭でも、夜、「鬼は外、福は内」という声が聞こえてきたものでした。(最近聞かれなくなりました)たまたま、昨年、偶然にも節分の日にその神社のあたりを通ったので、覗いてみました。とても懐かしかったです。新しい町ニュータウンにある園としては、子どもたちに日本の文化を伝承していくことが必要です。そこで、まず、鰯の頭を焼いて、ヒイラギの枝に刺し、家の入り口に差します。これは鰯の頭の悪臭で、邪気が家に入るのを防ぐという意味があります。季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられており、それを追い払うためです。「邪気」も悪臭は苦手と見えます。そして、炒った大豆を撒くのですが、それは、鬼に豆をぶつけることにより、邪気を追い払い、一年の無病息災を願うという意味合いがあるからです。その際の掛け声は、通常「鬼は外、福は内」ですが、地域や神社によっては、鬼を祭神または神の使いとしている神社、また方避けの寺社では「鬼は外」ではなく「内」としているそうです。また、家庭での豆まきでは、「鬼」の付く姓(鬼塚、鬼頭など)の家では「鬼は内」の掛け声が多いといいますが、私の知り合いにもこの苗字の人がいるので、本当か、聞いてみたいものです。そのあと、自分の歳の数だけ豆を食べます。(園では、揚げ大豆の甘辛煮として出します)最近、はやっている、どこかを向いて巻物を食べるなどは、したことがありませんでした。伝承も、ある意図が感じられることがありますね。
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2006年01月27日 [記念日]
ザルツブルグ
今日は、ヴォルフガング アマデウス モーツアルトの250歳の誕生日です。というより、生誕、250年です。彼は、1756年1月27日、ザルツブルグに生まれ、1791年12月5日、ウィーンでなくなりました。ザルツブルグに生家と、幼少期に過ごした家が残っています。その家が今は、記念館になっています。私は、4年前にそこを訪ねたことがあり、また、来月行く予定です。といっても、目的地は、そこではなく、有名な建築設計士であるイエンス・ペータース氏の設計によるシュタイナー学校を見るためです。
彼は、建築デザインと工業デザインの融合を提案しています。シュタイナー学校の建築設計、及び車両デザイン(ICE、IRなど)のヨーロッパにおける第一人者です。子どもの成長こそ、学校建築における機能の内実であるという確信から、シュタイナー学校が建築されたこと、車両デザインに有機体の思想の欠如しているという意識に基づいて、インターレギオ車両やICE1で試みられたことなどで、それがわかります。前回行ったときに残念だったことは、雪まじりの曇天だったため、その建物の背景にある山々が見えず、山から流れ落ちる川をイメージした屋根の設計と、それぞれの教室の窓から見える背景となる景色が見えませんでした。今回は、どうでしょうか。ただ、訪問する2月は、基本的には、毎日暗い、雪まじりの天気が多いので、期待はできませんが。滞在は、ミュンヘンですが、今は、EU諸国は、まったく国内という感じなので、ドイツからオーストリアに行くのも簡単ですし、通貨もいっしょですし、ちょっと足を伸ばすという感覚です。ミュンヘンのキンダーガーデンでも、給食は、半分くらいの園では、このオーストリアの業者から運んでもらっています。国内でまかなえる食材は限られるからと言っていました。ですから、国内産と同じ感覚ですね。ここは、大司教区として栄え、岩塩の生産地でもあります。その美しい街並みや風景は、サウンドオブミュージックのロケ地としてあちことが使われました。また、ザルツブルク音楽祭でも有名で、多数の教会もあります。
今日、誕生日を迎えるモーツアルトは、私は、好きな作曲家です。特に、オーボエ協奏曲と、ピアノ協奏曲が好きで、その全集をもっています。K288などは、楽譜を買ってきて、第2楽章のさびの部分を必死に弾いた記憶があります。映画にもよく使われますね。また、息子が幼稚園の頃、音楽祭で、アイネクライネ・ナハトムジークという曲を、メロディオンの鍵盤を目いっぱい使って弾きました。また、この曲を、訪れたシュタイナー学校のオイリュトミーの授業で使っていたのをみたとき、神秘的なオイリュトミーが、ずいぶん身近に感じました。また、こんなことを聞いたことがあります。今の若い人は、ロックやラップなどを聞くと心が落ち着きますが、胎児は、親に関係なく、クラッシックを聞いているほうが落ち着くようです。特に、モーツアルトの曲が落ち着くといわれています。アルフレッド・トマティス博士というフランスの医師が、子どもの学習と音環境の関係についてリサーチを行って、赤ん坊は生まれる前から音を聞いているということ、そしてこの出生以前の聴覚経験が、幼児の成長の重要な要素であるということを発見しました。彼は「モーツァルトは素晴らしい母親だ」と表現していたそうです。大人の好み、価値観と違ったところで、子どもは、育つことがあるのですね。
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2006年01月08日 [記念日]
今の若者
毎年、成人式の日になると、必ず各地からその模様が放映されます。しかし、その模様は、テレビなどが、ある意図を持って撮影した部分を切り取って見せるので、必ずしも全体像を表わしているとは限りません。整然と座っている若者だけを映せば、なんと最近の若者はきちんとしているのだろうと思い、騒いでいる若者を映せば、困ったものだと思うでしょう。これは、若者に限らず、社会の姿も同様なことがいえます。しかし、どちらにしても、実際のそのような姿、若者がいることは確かです。私が書いた「やってあげる育児から 見守る育児へ」(学研)という本の中で、そこを取り上げてみました。
「成人式などで暴れる子
最近、各地の成人式が見直されています。それは、式の間、騒いだり、壇上の来賓に罵声を浴びせたり、壇上に登って大騒ぎをしたりする成人が何人かいるからです。これがニュースとして流れると、まったく最近の若者はどうしようもないと思う人が多いのですが、騒ぐ成人はほんの一握りで、ほとんどの人はきちんと参加しています。ですから、最近の若者と言う言い方でひとまとめにしないほうがいいのですが、それにしても、騒ぐ青年はどうしてでしょう。まず、ほとんど式の前に酒を飲んでいる場合が多いので、この場合は、大の大人でも酒を飲んで暴れる人がいるのですから、若者のことだけを言えません。
問題は他にいくつかあります。よく騒いだ青少年を後で注意してみると、それほど悪いことだと思っていない子がいます。場を盛り上げるためにしたのだと言うのです。よく、会場で携帯電話を鳴らす子たちも、それほど悪いことだと思っていない場合があります。この子たちは、そんなことを教わってこなかったのでしょうか。きっと教わってきたのでしょうが、小さいころに自分を認めてもらう前に、ただ言葉で何度も言われてきたので、ただ反発心だけを植えつけられてきているか、小さいころから騒ぐことが、元気があっていい子であると親から思われてきたのでしょう。子どものころにただ騒ぐのは決して子どもらしいのではなく、何をしていいかわからず、自分を持て余している子の訴えであることに、周りの大人が、気がつかないのです。
もうひとつの原因に、青年が自分の存在に自信が持てない場合があります。よく、自己肯定感がないと言われることです。自分の存在をどのように示したらいいかわからないのです。小さいころに、親に声をかけてもらったり、保育者、先生に注目されるときは、何か悪いことや、目立つことをしたときです。きちんとしているだけでは、あまり注目してくれません。さびしいときでも、気がついてくれません。そんなときに困った状況を引き起こしてきたのです。子どもが自分のほうに目を向けてほしい、と思ったときに親がそれに気がついてきちんと対応してきていたら、騒ぐことで自分をアピールする必要はないのです。成人式で騒ぐ若者を見ていると、なんだかかわいそうになってきます。」
ただ、現象としての姿だけを嘆くのでなく、その奥にある真の姿を見てあげなければ、ただ、成人式をやめればいいというだけでは、解決しません。明日の成人式は、どうでしょうか。
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2005年12月20日 [記念日]
餅つき
若い人と話すときに、私たちの世代は、次の世代にいろいろなことを伝承しているだろうかと思うことが多くあります。戦後、新しい文化が入ってきて、一見夢のような、すばらしい世界かのように欧米文化が見えました。その文化に浸り、その文化を取り入れることが、時代の先端を行くかのように思っていました。昔からの文化は、「ダサイ」「おじん、おばんくさい」と言われ、なるべく昔からのことは言わないにようにしてきて、今の人の考え方についていくようにしました。特に、私たち団塊の世代では、大学を始め、古い体質を変えよう、壊そうと先頭に立っていたこともあり、残すことよりも、壊すこと、変えることに価値を持っていた気がします。もちろん、悪い、古くからの慣習は、変える必要があります。新しい時代を作っていかなければなりません。しかし、その前に、過去からの文化を検証し、その意味を考えなければいけないのでしょう。
今日は、園で、餅つきがありました。私の園では、行事の目的をきちんと意味づけています。今日の「餅つき」という行事は、行事4つの目的の一つである、「地域の文化を伝承する。」です。
私は、下町で育ちましたが、祖父母が八王子にいたので、長い休みになると八王子に来ていました。私が小さかった頃、年末になると、朝から、地域の人たちがみんな私の家に集まって、餅つきを始めます。私の家では、工場をやっていたので、住み込みの人も何人かいましたので、朝から大騒ぎでした。正月いっぱいの、また地域の人の分までもちをつくので、次から次へとたくさんついていきます。つきおわると、それを、鏡餅と、伸し餅と、青のりや豆を入れて、なまこ餅にしていきます。それを、新聞紙を下に敷いて、おおきな板の間に並べていくのです。餅をついているのを覗き見している私に向かって、大人たちは、「ほら、ついてみな!」といって、杵を渡されます。八王子の杵は、重さでつくので、非常に重く、持ち上げるだけで一苦労です。しかも、餅が杵につくと、もっと重くなります。ひいひい言って持ち上げる私を見て、大人たちは、からかいます。「そんなんじゃ、大人になれないぞ。」と。でも、そう言いつつも、つき方のこつを教えてくれます。「こねるだけで、餅はほぼ出来上がる。力でこねるのではなく、体重でこねるのだ。」「手で、ついてはダメだ。腰でつくものだ。」「手返しは、つく横からでないと、頭を打ってしまう。」「手返しは、もちを返すのではなく、リズムを取ってあげることだ。」などなど。しかし、そんないっぱいの量をついても、つきたてのやわらかい餅は食べたことがありませんでした。餅は、冬の間の大切な、保存用の食べ物です。ほかの地域ではわかりませんが、つきたての餅を食べたという記憶は、大人になってからしかありません。また、正月の食べ物なので、年を明けてから餅をつくということもあることも知りませんでした。ただ、それらは、地域での伝承なので、本来のものとは、違ってきているのかもしれません。どうも、年末の12月29日は二九を音韻からフク(福)と読み、その日に餅をついていた気がします。(逆に、「苦を搗く」音韻から九日餅(くんちもち)と呼び、年の暮れの数日間のうちその日だけは餅を搗いたり購入を避ける風習がある地域もあるようですが。)
みんなで集まって、わいわいがやがやと餅をつく姿を見ながら、年末を感じたものです。
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2005年10月25日 [記念日]
授賞式

今日は、グッドデザイン賞の授賞式でした。会場に向かうタクシーの中で、ふと前を見ると、目の前にボックスがぶら下がっており、そこには、ハンカチを片手に持って、手を振っている絵といっしょにこんなコピーが書いてありました。
「さらば、ダメ園長。」あせって、そのボックスに入っている小冊子を手にとってみると、その表紙に書いてあるのは、「犯人は、園長です。」その下に小さい文字で、「脳がくるくる働かない園長の思考停止こそ、保育が停止する原因。成長を妨害する犯人は、園長です。」とあります。1ページ目を開けると、「その1、最悪のさぼり屋は、園長の脳ミソかも。」あせりました。目をこすってみると、園長ではなく、社長と書いてありました。「その2、社長は、目をつぶって経営しています。」市場にも、自社を取り巻く戦況にも暗い。よく見えていない。「考える時間が足りない社長ほど、汗と努力が足りない!と社員のせいにします。理系の発想がない経営は、つぶれます。と続く小冊子は、会場に着くまでの間、読み応えがありました。
そのうちに会場に到着しました。前回もそうですが、賞をもらった人たちは、ただ受付で、賞状を受け取るだけです。何も、感激はありません。ただ、私がいつも感激するのは、そこに展示されている大賞候補作品です。今の時代のデザインをリードするものが、並んでいます。今年は、15点ありました。その中で、一つ、大賞をその会場で選ぶのです。賞を取った人も、1票を投じることができます。ベスト15には、もうすでに有名なものもあります。たとえば、アップルコンピューターのiPod shuffle という、デジタルオーディオプレーヤーです。ほかに、単1でも、単2でも、単3の電池でも、引き出しにあるどの電池でも使える懐中電灯とか、有名なデザイナーである深澤直人氏の加湿器などは、もうすでに発売されていて、昨年買おうと思った商品です。これらは、商品部門での受賞です。また、先日、職員旅行でみんなで行った「金沢21世紀美術館」は、建築環境デザイン部門から選ばれています。今度、私が受賞した「新領域デザイン部門」での金賞は、あの愛知博でも話題になった、トヨタグループ館出展の未来モビリティ社会デザインプロジェクトです。あの、奇妙な乗り物です。
そして、それらのなかで、大賞を取ったものに対して、私は、少し感動しました。今年の大賞は、なんと、「注射針」でした。あのダイヤモンドなど宝石を入れるようなふたのついたケースに入っているのは、1本の注射針なのです。これが、今年1番のデザインなのかと疑いました。しかし、当然、ただの注射針ではありません。この賞品の説明には、こう書いてあります。
「糖尿病治療で使用するインスリン注射用針。世界一細い0.2mm。従来のものより20%細い。注射は誰もが嫌なこと。それを一日に数回もならなおさらである。現在糖尿病でインスリン自己注射を行っている患者さんは、国内でも60万人。インスリン注射を止めることはできなくても、その痛みを少しでも和らげることに貢献したいとの思いで世界一細い針に挑戦し製品化に成功した。」
これに、大賞をあげることに、納得しますね。
投稿者 fujimori : 19:42 | コメント (3)
2005年10月17日 [記念日]
地鎮祭
今日は、新宿の保育園の「地鎮祭」でした。保育園、幼稚園の経営母体が、神社や寺院の場合は、園長が、神主であったり、住職であったりするので、これらについて、えらそうなことは言えませんので、専門的なことはその人に任せます。逆に、素直に、知らないためにおこる疑問を考えてみました。なぜかと言うと、もうひとつ、今日はそれを考える出来事があったからです。それは、今日、インドネシア出身のノール・ヨハンナさんという人が、ホームステイをしているからです。
今日の地鎮祭は、神式で行いました。神式は、神道です。家庭で行う「初詣」「初午」「七五三」「除夜」などは、なんとなく神社で行うので、神道だと思いますが、園の行事のなかにも神道に関係する行事がいくつかあります。代表的なものに、1月7日の七草、2月3日の節分(豆まき)、3月3日のひな祭り(桃の節句)、5月5日のこどもの日(端午の節句)、7月7日の七夕などです。これらは、あまり神道に関係しているとは思わなくなっているものが多くあります。それだけ、宗教的行事という意識がなくなっています。それは、神道が宗教のひとつとして考えにくいからです。他の宗教である、仏教、イスラム教、ヒンドゥー教などは、後ろに「教」がつきます。しかし、「神道」といって、「神教」とは言いません。「茶道」や「弓道」「柔道」というように、「○○道」というのは、「そのものの道」ということで、人の行うべき道のことであり、宇宙や、世界の原理という意味合いが含まれています。また、他の宗教のように、預言者やそれを説いた個人や、経典や聖典などもありません。ですから、他の宗教と相容れることができるのです。時代によって、かなり両立させたこともありました。しかし、他の宗教は、なかなか相容れようとはしません。その表れが、今日、ホームステイしているヨハンナさんの出身地である「バリ島」のテロ事件です。インドネシアは、95%がイスラム教徒だそうです。残りの5%が、キリスト教や、仏教や、ヒンドゥー教などだそうです。(ヨハンナさんは、クリスチャンです。)各国では、宗教紛争が起きています。それは、アジアや中東だけでなく、ヨーロッパでも起きています。もちろん日本にも、クリスチャンもいますし、仏教徒もいます。しかし、あまり宗教観がないとか、節操がないとかいう言い方をすることもありますが、逆の言い方をすると、お互いに共存しています。宗教紛争は、宗教観だけでなく、民族の対立が絡んでいるので、なかなか解決しません。そんなときに、私は、「日本っていいなあ。」と思います。そんなことを思う私は、いい加減なのかもしれません。信心がないので、撥が当たるかもしれませんね。でも、どんな理由でも、人を傷つけることだけはしたくありませんから。
投稿者 fujimori : 23:16 | コメント (0)
2005年10月10日 [記念日]
特異日
今日は、体育の日です。どうして、この日が体育の日かは、ほとんどの人が知っているでしょう。昭和39年に日本で初めて開かれた五輪大会、東京オリンピックの開会式がおこなわれた日を記念してのことです。そして、それを記念して、昭和41年(1966年)、10月10日が、体育の日に制定されたのです。体育の日は、国民の祝日のひとつで、国民の祝日に関する法律(祝日法)では「スポーツにしたしみ、健康な心身をつちかう」ことを趣旨としています。それが、2000年(平成12年)からは「ハッピーマンデー制度」の適用により、10月の第2月曜日となっています。それが、今年は、ちょうど、制定された趣旨の10日でした。それでは、なぜオリンピックの開会式が10月10日になったのかも、知っている人は多いと思います。日本の観測史上いちばん晴れる確立が高かったのが、この日付けだったのです。このような日のことを、特異日といいます。特異日とは、気象学的な理由は不明だそうですが、統計的に毎年その日には特定のある天候が訪れることの多い日のことをいいます。すると、たとえば、雨が一番多い日とかもあるのでしょうか。実は、あるのです。しかも、それだけでなく、他にも何日かあります。1年の中で、特異日は、4月6日が、寒の戻りの特異日です。寒の戻りとは、3~4月、再び寒くなることです。一時的に冬型の気圧配置となり、あらわれます。そして、体育の日と逆に、雨の特異日が、 6月28日です。東京では53%の確率で雨が降るそうです。そして、昔からよく言われている 二百十日(9月1日頃)・二百二十日(9月10日頃)・八朔(旧暦8月1日) が、台風の特異日です。しかし、これは、統計上ではなく、雑節の一つで、二百十日は、立春から数えて210日目のことで、歴注のひとつです。そのころに台風が多いと経験上目安にしたのでしょう。しかも、農家では、早稲、中稲はこの頃開花期を迎えています。ですから、台風襲来の季節にあたり農家では農作物被害の警戒を要したのです。同様に、雑節の一つで, 立春から数えて220日目の日のことが、二百二十日です。白露の数日後で, 太陽暦では9月10日頃となります。台風は現在の暦で9月の後半に集中するので, この日以降に多発することになるのです。八朔は旧暦の八月一日(朔日)のことです。この三日は、昔から、台風の特異日とされていたので、農家の三大厄日とされています。 実際に、統計上の台風襲来の特異日は、9月17日だそうです。8月18日が猛暑の特異日。10月10日 が、かつては、晴れの特異日といわれていましたが、今は、11月3日が晴れの特異日です。
気象学上だけでなく、いろいろな特異日があるかもしれません。日にちが特定されることに、特に科学的な根拠がはっきりしないだけに、逆に興味を持ちます。たとえば、私の園への見学者を調べてみて、ここ9年間での、見学者の特異日を調べてみたい気がします。また、子どもの怪我をする特異日とか、講演の特異日とか、知りたい気がします。科学では、解明できない何かを感じることができそうな気がするからです。
投稿者 fujimori : 21:34 | コメント (1)
2005年09月20日 [記念日]
愛 地球博
「ねえ、大阪の万博のとき、何年生だった?」少し前だったら、「東京オリンピックのときは、何歳だった?」と聞きました。年配の人は、「終戦のとき、何歳だった?」
よく、年齢をあらわすのに、共通体験を確認することがあります。これは、ほとんどすべての人がその経験をしていること、そのときの年齢がすぐに思い当たるほど、その経験が生活に密着していることが必要です。したがって、同じオリンピックでも、「メキシコオリンピックのときは?」と聞かれても、とっさに思い出せません。「札幌オリンピックのときは?」と聞かれると、微妙です。
出来事だけでなく、「ビートルズの曲がはやっていたのは?」「ピンクレディーがはやっていたのは、何年生のころ?」「スターウォーズの第1作目が上映されたのは?」というように、当時はやっていた歌や映画の場合もあります。しかし、これになると、少し人によって、思い出せる人が違うことがありますが、それでも、大体話しがつながります。話だけでなく、歌の場合は、一緒に歌ったりします。最近のスマップのCMで、昔のTVアニメのエイトマンの主題歌を歌っていますが、私の職場で、その歌を知っているかということが話題になり、それによって年齢を判断しました。知っている人は、その後の部分を歌ったりしました。
先日のTVの中での卒業式の場面で、子どもたちが自主的に「仰げば尊し」を歌った場面がありました。この歌を聴いて、私は懐かしく思いました。たぶん、私より上の人たちは、みんな懐かしく思ったでしょうし、みんなで歌おうと思えば歌えます。しかし、私の子どもたちは、もう卒業式では、その歌は歌っていません。この歌の是非は別として、最近は、この歌は歌わずに、その学校で選んだ卒業式の歌を歌います。したがって、年齢が違えば、また、学校が違えば共通な歌はありません。
このように、最近は、多様化と、個人化で、ますますその世代の共通体験がだんだんなくなってきています。そんな時代の中で、久しぶりに共通の話題が今年ありました。「愛 地球博」です。もうすぐ閉幕ですが、今年何歳か覚えておくと、後で「ねえ、愛知博のとき、何歳だった?」と聞かれたときに、すぐに答えることができるでしょう。
投稿者 fujimori : 21:32 | コメント (0)
2005年09月10日 [記念日]
敬老の日
もうすぐ、「敬老の日」です。そこで、母親を食事に誘いました。日本には、「こどもの日」「母の日」「父の日」など家族の記念日があります。しかし、祖父母がいて、両親がいて、子どもがいて、というような家族形態が必ずしもノーマルでなくなった今は、記念日の取り扱いについて、保育園などは、難しいものがあります。
今までは9月15日が敬老の日でしたが、1昨年より9月の第三月曜日に変更し、今年は9月19日が敬老の日です。敬老の日は、もともと「としよりの日」という名前で昭和29年に制定されましたが、もっといい呼び方にしようということで、昭和39年に「敬老の日」と改められました。そして昭和41年に「国民の祝日法」が改正され、“老人を敬愛し長寿を祝う”として、国民の祝日となっています。では、その由来はなんでしょう。有力な説に2つあるようです。まずひとつは、聖徳太子の説です。聖徳太子が大阪に四天王寺を建てた時、ここに四天王の名前に合わせて、敬田院・ 悲田院・施薬院・療病院の四箇院を設置したといわれています。その内の悲田院というのが、今でいうところの老人ホームで、この悲田院が誕生したのが9月15日であったため、この日が選ばれたということです。ふたつ目は、元正天皇の説です。元正天皇が717年に「万病を癒す薬の滝」といわれていた岐阜県の養老の滝へ行幸し、「醴泉は、美泉なり。以て老を養うべし。蓋し水の精なればなり。天下に大赦して、霊亀三年を改め、養老元年と為すべし」と告げて、年号を「養老」に改元した故事にちなむというものです。養老の滝には伝説があります。ある父親思いの息子が、老いた父に酒を飲ませたいと願ったところ霊泉から酒がわいたという故事です。これらにもとづき、全国的に9月中旬頃に地域のお年寄りを招待して敬老会を開くということが慣わしになり、そこで9月15日を敬老の日に定めたといわれています。
ところで、一寸法師にしても、桃太郎にしても、かぐや姫にしても、子どもがほしくて、やっとできたという昔話は、始まりが、「むかし むかし あるところに おじいさんとおばあさんがすんでいました。」ですが、このおじいさんとおばあさんは、お父さんとお母さんのはずですよね。そのような、昔話に見る親子関係を調べてまとめたことがあります。そのときの資料を見つけて、見つかったら、今度、このブログに書いてみます。