2010年08月19日 散歩

中村

 先日、子規庵を訪れた折、その斜め向かいに興味をひく建物がありました。そこは、「書道博物館」です。今、開催されている企画展は、“中村不折コレクション「漢字のはじまり ―古代文字の不思議を探る―」でした。なんで、この場所にそのような博物館があるのかというと、ここは、洋画家であり、書家でもあった中村不折が、その半生40年余りにわたり独力で蒐集した、中国及び日本の書道史研究上重要なコレクションを有しているのですが、彼が亡くなるまでの30年間、この地に住んでいたのです。
 夏目漱石の「吾輩は猫である」は、漱石の不安な日々の中で執筆されたのですが、その第一回は、明治38年(1905)に雑誌「ホトトギス」第8巻第4号に掲載されました。昨日のブログで紹介しましたが、漱石は、この小説をはじめは一回限りのつもりで書いたのですが、大きな反響を呼び第十回まで同誌に断続的に掲載されました。そして、「吾輩ハ猫デアル」上篇が刊行されたのですが、この上篇の挿絵を担当したのは、フランス留学から帰国したばかりの画家・中村不折だったのです。
 彼は、明治維新の前々年に江戸京橋東湊町に生まれるのですが、維新のごたごたで職を逸し、不折が5歳のとき郷里長野県高遠へ帰ることになります。しかし、父親の仕事はうまくいかず、長野県の伊那や松本に職を求めて移り住む生活が続きます。この間に小学校を終えた不折は、上諏訪町の呉服店に勤めることになります。私の祖先は、この上諏訪町で織物関係の店を商っていたので、もしかしたらどこかで関係があったのかもしれません。中村は、その時の縁からか、後に上諏訪の宮坂醸造の清酒「真澄」のロゴを書いています。日本酒と言えば、「日本盛」も彼の書です。
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 そののち小学校代用教員をはじめとしていろいろな仕事をしますが、22歳のとき、絵を勉強するため上京しますが、金銭的に余裕がないため、高橋是清邸の空き部屋、三畳一間を借り自炊生活を始めます。そして、小山正太郎に師事し本格的に絵を学び、36歳の時渡仏します。それまでの10数年間は、風景画を中心に絵画の勉強に打ち込みますが、生活の糧としては新聞社の挿絵や教科書の挿絵描きを行います。その時の日本新聞社の副編集長は正岡子規で、生涯の友となります。また、師事した小山正太郎は、私画塾「不同舎」を開きますが、その門下生には、中村不折のほか、青木繁、鹿子木孟郎、満谷国四郎、小杉未醒、坂本繁二郎、萩原守衛など洋画で活躍する画家を多数育てました。中村は、その中でも特に後輩の荻原守衛(碌山)と時を同じくして渡仏するなど、互いに影響を受けあいます。また碌山からの紹介で中村屋の創業者、相馬愛蔵・黒光夫妻とも知り合います。そこで、現在、中村屋が使用しているロゴは不折の書で、明治の終わり頃に揮毫されたものです。
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彼は、お酒やタバコ、身なりなど全く構わないことでも有名で、稼いだお金を書道に関する資料収集に費やし、その後の書道博物館設立につながっていきます。挿絵も、「吾輩は猫である」のほかにも多数書いており、「若菜集」「野菊の墓」などの挿絵や題字を書いています。
このころのいろいろな文士や画家などの交友がしのばれます。

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2010年08月16日 散歩

夏目から子規

 「元来人間というものは自己の力量に慢じてみんな増長している。少し人間より強いものが出て来ていじめてやらなくてはこの先どこまで増長するか分らない。」人類が、この世の支配者かのように思い増長していますが、実は、自分の力を過信しているに過ぎず、それぞれはそれほど大したことがないのです。ですから、「いくら人間だって、そういつまでも栄える事もあるまい。まあ気を永く猫の時節を待つがよかろう。」と、猫の目から人間を見るとそう思えるようです。いかに猫の方が優れているかというと、「人間は利己主義から割り出した公平という念は猫より優っているかも知れぬが、智慧はかえって猫より劣っているようだ。」と猫はつぶやきます。
 この文章は、イギリス留学で、英文学への疑問が起こり、帰国後、東京帝国大学英文科講師となりますが、それもうまくいかず、神経衰弱を再発させてしまう中で、高浜虚子に小説を書くようにすすめられ、38歳のとき執筆した 「吾輩は猫である」という小説の中の一文です。「自己本位」という考え方から自己の矛盾を見つめた夏目漱石が、猫の目から人間のありかた、社会を風刺した作品です。自己本位という考え方からもう一度読み直してみると、随所にその気持ちが猫の言葉によって語られます。
自己本位とは直接関係ありませんが、こんな一文があります。「行きませう。上野にしますか。芋坂へ行って團子を食いましょうか。先生あすこの團子を食ったことがありますか。奥さん一辺行って食って御覧。柔らかくて安いです。酒も飲ませます。」
その文章に誘われてというわけではありませんが、先日の日曜日に、妻と芋坂に行って団子を食べてきました。
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この芋坂という名前の由来が案内板に書いてありました。「坂を登れば谷中墓地、 下ると羽二重団子の店の横から善性寺に通じていた。鉄道線路でカットされ、これに架かる橋が「芋坂跨線橋」と名付けられて、わずかにその名を残している。坂名は伝承によると、この付近で 自然薯(山芋)が取れたのに因むという。正岡子規や夏目漱石、田山花袋の作品にもこの芋坂の名が書かれている。芋坂も団子も月のゆかりかな 子規」
ここの団子が、なぜ羽二重団子というかは、年末にNHK大河ドラマで放映される「坂の上の雲」に書かれてあります。「“めしがあるかな”と、茶店に入るなり、松山なまりで小女にいったために、返事もしてもらえなかった。この茶店は“藤の木茶屋”とよばれて江戸のころからの老舗なのである。団子を売る茶屋で、めしは売らなかった。その団子のきめのこまかさから羽二重団子とよばれて往還を通るひとびとから親しまれている。
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“団子ならありますよ”と、小女がいった。真之はやむなく団子を一皿注文した。“鶯横丁はすぐそこじゃな”“半丁ほどむこうです”“正岡子規という人の家があるが、知っておいでか”ときいたが、小女は子規の名も知らなかった。真之はだまって団子を食った。」
 芋坂の案内板にも子規の歌が書かれてありますが、この秋山真之の言葉ではありませんが、この店から数本のところに正岡子規の家がありました。
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この家で、子規は壮絶な最期を迎えるのですが、今でもその部屋、子規が病床から眺めた庭、それらが保存され、見学ができます。その部屋で、夏目漱石が座ったであろう場所に座ってみました。

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2010年08月12日 散歩

道草

 昨日、紹介した新宿区立「漱石公園」の計画は公募でした。そこに集まった「区民プランナー」を中心にリニューアルプランを策定し、詳細な設計図を作成し、工事を行ったものです。そして、昨年は、夏目漱石の生誕140年を広く伝えるため、区では関係各所と連携し、区全体として、漱石生誕140年記念事業 を、1年を通して実施していました。
新宿では、公園整備については、住民とともにいろいろな計画を進めるやり方は評価されると思います。私の園の裏にある「おとめ山公園」についても、第一次実行計画として、隣接する公務員宿舎用地(約10,000㎡)とあわせた「区民ふれあいの森」として整備するとしています。一時、公務員宿舎があまりにいい場所にあり、国民から非難が出たことがあり、それを売却することになりました。当然、それを購入するのは、土地開発業者とか、マンション業者であることが多いのですが、新宿区の場合は、その土地を区で買い上げ、しかも、それに隣接する公園を広げる計画を立てたのです。
しかも、その次の計画として、このおとめ山公園に隣接し「区民ふれあいの森」の要に位置する民有地を取得することにしたのです。それによって、この購入する民有地が、既存公園と整備予定の公務員宿舎用地との有機的な連携を持ち、それによって公園の機能を高め、よりよい公園としようとしています。その計画に、区民から「区民ふれあいの森検討区民委員」を募集して話し合いをしています。
いろいろな施設をつくるときに、バブルの時は大きなもの、豪華なもの、そんなことに価値を置いた建物が多くつくられました。しかし、その多くは維持費が多大にかかったり、また、利用しにくかったり、今では持て余している施設も多く見られます。もっと、利用者サイドに立った施設づくりが必要です。また、大きな、さまざまな機能を盛り込んだ建物を一つ作るよりも、住民の生活に密着した、生活圏内に点在する施設整備が必要でしょう。そして、壊すのは簡単ですが、自然なり、文化なりを残すような整備も必要です。
夏目漱石は、明治40年9月、早稲田南町に引っ越し、大正5年、49歳で「明暗」の執筆中に亡くなるまで、この地に住み続けました。この、漱石が晩年を過ごした家と地を、「漱石山房」といっていたところをリニューアル工事をし、公園として保存することにしたのが「漱石公園」です。その中で、どんな施設を残し、新しく何を復元しようかという話し合いの中で、「漱石山房」の家どんなであったろうかという話になったのだと思います。そこは、ベランダ式の回廊のある広い家で、庭には背丈を越す芭蕉がそよぎ、とくさが繁っていて、内部は、もとは医者の家ということもあり、奥の十畳は診察室として使われていたような板敷きの洋間があり、漱石は、この洋間に絨毯を引き、紫檀の机と座布団をしつらえて、書斎としていたようです。書斎の手前の十畳間が応接間となっており、毎週木曜日に午後からここを開放し、訪問者を受け入れたのが、「木曜会」の始まりです。
そんなこともあり、まず、ベランダ式の回廊の一部を復元したのでしょう。そして、公園内「交流施設」の愛称を公募し、その中から「道草庵」に決まりました。
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小説「道草」は、漱石の唯一の自伝的小説であり、大正四年(1915)に漱石山房で執筆されたというところからつけられています。「道草庵」では、漱石の関連資料やパネルを展示しています。 先日の日曜日に、道草して、妻と立ち寄りました。

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2010年05月09日 散歩

旧岩崎邸の花

 毎年、休日になると、妻とNHK大河ドラマつながりの地を訪ねているのですが、今年は、すでに坂本竜馬に関係のある地をずいぶんと訪ねました。しかし、今年の大河ドラマの中では、印象深い人物が何人かいます。その中で一番インパクトがあるのが、その人物を演じている俳優のうまさもあるのでしょうが、「岩崎彌太郎」です。彼のアクの強さ、貧しい環境の中から三菱を創設するエネルギーを見ていてとても魅力的です。今年は、何回か岩崎つながりも訪ねることでしょう。
まず、東京で岩崎に縁があると言えば、「旧岩崎邸」が残されています。
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この旧岩崎邸は、明治29年(1896年)に岩崎家本邸として建てられました。現存するのは洋館・撞球室・和館の3棟です。洋館・撞球室は、英国人ジョサイア・コンドルの設計です。彼は、明治政府から招聘されて工部大学校造家学課程(現・東京大学工学部建築学課)の教授として来日し、多くの建物を設計していますが、そのなかでもこの旧岩崎邸は、現存するコンドルの作品では最古の建物で、邸宅建築の中では傑作と言われています。この建物は木造ですが、外観は石造りのような洋館であり、その構造はしっかりしていて、関東大震災の時にも倒れなかったようです。また、第2次大戦の戦火にも見舞われず、現存しているのですが、それは、必ずしも構造の強さだけでなく、戦後アメリカのGHQが接収、諜報機関「キャノン機関」本部となっているところをみると、アメリカが爆撃を避けたのかもしれません。
また、この旧岩崎邸は、建物だけでなく、庭園も特徴があります。もともとは、越後高田藩江戸屋敷であったものから元舞鶴藩知事・牧野弼成、そして岩崎家本邸へと変遷しました。岩崎家では、この大名庭園の池を埋めて芝を張り、庭石・灯籠・築山が設けられました。建築様式同様に和洋併置式とされ、「芝庭」をもつ近代庭園の初期の形を残し、その後の日本の邸宅建築に大きな影響を与えました。この芝庭の周りには大きな木が植えられているため、現在、とても貴重な生態系を持っています。それは、最近都会ではめったに見ることができなくなってきた「カントウタンポポ」が一面に咲いているのです。
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 最近、セイヨウタンポポが、ものすごい勢いで繁殖をしています。違いは、在来種のカントウタンポポは、総苞外片は立っていて、外来種のセイヨウタンポポは総苞外片が外側に反り返っています。
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左はカントウタンポポ 右はセイヨウタンポポ
カントウタンポポは3月から5月に咲きますが、西洋タンポポは1年中咲いています。また、カントウタンポポのめしべは、開花したときには、まっすぐでたくさんの花粉が付いています。それに引き換え、セイヨウタンポポのめしべは、つぼみが開くとともに、カールしていて、花粉が付いていません。花粉が付かなくても、種子ができるからです。帰化種のほとんどは花粉なしに子供ができる「無融合生殖」で、単独で繁殖可能なために一気に増えていってしまうのです。逆に、カントウタンポポは群落を作っていないと生き残れないために、この旧岩崎邸では、カントウタンポポの保護活動が行われています。
 もうひとつ、この旧岩崎邸で珍しい植物を見ました。「アカンサス」です。
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この葉は古代ギリシア以来、建築物や内装などの装飾のモチーフとされています。あのギリシア建築の柱の頭のほうに装飾されているくるくるした葉の模様は、アカンサスを意匠化したものです。ですから、この花は、ギリシアの国花にもなっていて、絨毯の柄にもしばしば用いられています。この岩崎邸でも壁の模様に用いられています。
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今、まだ花は咲いていませんでしたが、その葉の形はとても立派で、神話になったり、模様になったりとギリシア人を魅了したことは納得がいきました。

投稿者 fujimori : 22:03 | コメント (5)

2010年05月06日 散歩

かきつばた

 街を歩いて発見するものに、大きく二通りあります。ひとつは、昨日のブログに書いたように歴史的な場所を見つけることです。こんな場所で、こんなことが行われたのだという思いに馳せることは歩く楽しみでもあります。もうひとつは、さまざまな自然と出会うことです。こんなところにもこんな花が咲いているのだ、こんな鳥が飛んでいるなどの発見も楽しいものです。都会では、その自然からも歴史が見えてくることも多く、いろいろなところがつながってきます。
 先日、石神井公園の中の三宝寺池で「かきつばた」が咲いているのを見ました。
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この池は、昭和10年12月に、国の天然記念物に指定された沼沢植物群落を有する池ですが、このかきつばたは特に珍しいものではありません。しかし、その美しい紫色に惹かれて写真を撮りました。私のマウスパッドはかきつばたの絵をモチーフにしています。
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「かきつばた」といえば、1701~04年頃、尾形光琳が40代前半頃に手がけたとされる傑作、国宝「燕子花図屏風」の絵を思い浮かべます。この作品は、平安時代に成立した、最も著名な日本の歌物語のひとつ「伊勢物語」の第九段「八橋」の場面を描いた作品だといわれていますが、どうでしょうか。伊勢物語ではこうなっています。三河国(現在の愛知県知立市八橋町近辺)に、水が蜘蛛の手のように分かれて流れているために、八つの橋を渡したことから名付けられたとされている八橋というところがあります。都には自分の居場所がないと思った在原業平は、同じ気持を共有していた友人たちと、京から愛知へ道に迷いつつ下り、この八橋にたどり着きます。そのとき、「その沢に、かきつばたいとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、『かきつばたという五文字を句の上にすえて、旅の心をよめ』と言ひければ、よめる、からころも 着つつなれにしつましあれば はるばる来ぬる旅をしぞ思ふ とよめりければ、みな人、乾飯の上に涙おとして、ほとびにけり。」(川のほとりで食事していると目の前には燕子花が咲き乱れていた。それを見ていた友から「かきつばた”の5文字を上の句にして歌を詠め」と促された業平はこう歌った。唐衣 着つつなれにし 妻しあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ(着慣れた着物のように親しく思う妻が都にいるのに、はるばるこんなところまで来た旅を悲しく思うのだ)これを聞いた友人たちは思わず飯の上に涙を落とした)というものです。各句のはじめをつなぐと「かきつばた」になるのですが、これは「折句」という技法が使われています。この歌のすばらしさは別として、この歌のイメージと、尾形光琳の屏風の絵の力強さとは、あまり結びつかないかも知れません。
 結びつくといえば、この場所の八橋といえば、京都の銘菓である「八ツ橋」を思い出します。そして、このお菓子と、在原業平の歌と、尾形光琳の屏風と結びついてきます。八橋を販売している店の包装紙や容器のデザインに屏風絵が使われていたり、戦前には「騎馬の在原業平像」も包装紙に使用していたりしていたからです。しかし、戦後、「京名物としての八ツ橋」の由来を、高名な歴史学者に委嘱し、詳しく検証して行く過程で、「八橋検校由来説」が最も信憑性が高いことがわかったようです。それは、近世筝曲の開祖と呼ばれる八橋検校の歿後、彼の遺徳を偲んで、墓所のある京都黒谷金戒光明寺に参詣に訪れる人々が後を断ちませんでした。このため門弟たちは、八橋検校に因んで琴を形取った焼菓子を「八ツ橋」と名付けて、参道の黒谷の森の茶店で売り出したのが始まりだというのです。
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「八ツ橋」といえば近頃では、生八ツ橋や、つぶあんを生八ツ橋で包んだ三角形のものしか食べないので、もともとが「琴」の形をしていたことを忘れていました。一見関連性のない歴史や土地が、「かきつばた」という可憐な花から思い起こさせてくれました。

投稿者 fujimori : 20:46 | コメント (5)

2010年05月05日 散歩

目撃

上海万博が始まった5月3日の読売新聞編集手帳に、こんな事件のことが取り上げられていました。「120年余り前、清国の丁汝昌・提督率いる北洋艦隊が、7千トン級の軍艦を旗艦として、長崎港に寄港した。当時の日本海軍には3千トン級が1隻あるだけ。日中海軍力の差は歴然としていた。上陸した水兵たちが粗暴な振る舞いを引き起こしたものの、当時の明治政府は“腰を低くして清国艦隊のご機嫌をとり、清国水兵と衝突しないよう一般市民に指示した”(石光真清著『曠野の花』)という。世に言う“長崎事件”だ。」
この事件から思い出すのは、黒船来航でしょう。国民はさぞかしびっくりしたでしょうね。それを観た人たちは、さまざまな思いをしたでしょう。NHK大河ドラマの中で、坂本竜馬が、目の前を通り過ぎる黒船を観たときの迫力は、テレビを見ている私たちにも伝わってきました。実際にその姿を観たら、そんな国を排除したり、そんな国と戦争したりしたらかなわないと思うのも当然でしょうね。机上の上でだけの理屈で、外国が侵略してくるという危機感から攘夷すべきだという考えを持つのと、実際に外国の文化を見たときとは違います。しかし、それをしばらくたってから検証することも必要です。外国の圧倒される文化に触れての驚きだけで、すぐにそれを真似しようとしたのも少し違う気がします。落ち着いてから日本の文化を検証すると、なかなか外国にも劣らないものを持っていることに気がつくはずです。
どちらにしても、実際に見てみないと始まりません。それは、坂本竜馬など、国を憂えていた若者たちも例外ではありません。龍馬は江戸湾の警備の一員に加えられますが、瞬く間に日本中に広がった「黒船来航」の知らせを聞いて、持ち前の好奇心からいてもたってもいられず、自分の持ち場を離れ、黒船が停泊しているという浦賀に向かいます。その途中の品川沖で、ペリーが江戸幕府の煮えきらぬ態度に業を煮やし、江戸湾に向かわせた黒船と遭遇します。この黒船との衝撃的な出合いが、龍馬の大きな人生の分岐点です。この龍馬に思いを馳せたくて、砲台跡に行ってみました。
品川の少し先の立会川駅周辺はかつて、旧・土佐高知藩 山内家の下屋敷があったことで知られています。
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このあたりから海のほうに行ったところに土佐藩が築いた浜川砲台があったようです。その砲台が、龍馬が藩の命を受けて警備についた場所のようです。ですから、その持ち場を離れて黒船を見に行った場所は、そのあたりの江戸湾沿岸だったようです。そんなことで、高知から龍馬の像を譲ってもらっています。
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砲台跡は、今は住宅になったとのことで、全くその形跡もありませんでしたが、2004年に宅地造成地から50~120cmの石が見つかっているそうです。
かつて約1万6,800坪の大屋敷だった土佐藩下屋敷のあった一帯の中に、小高い土佐山という丘があります。そこからは江戸湾が望まれ、その景色が気に入り、故郷の地よりも当地への埋葬を望んだ土佐藩15代藩主・山内豊信の墓があります。
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山内家の墓から離れて妻と二人きりで並んでいる墓は、幕末のあの騒々しさから比べるとなんだかさびしい気がしました。しかし、彼らが歩んできた人生は、歴史が大きく変わるときにかかわることができてエキサイティングだったでしょう。変化の時は大変ですが、やりがいはあります。

投稿者 fujimori : 21:43 | コメント (5)

2010年05月04日 散歩

1万歩

 今年のゴールデンウイークもあと残り1日となりました。毎日、交通機関の混雑ぶり、各地での迷子の様子、賑わいの様子が流れます。特に、高速道路は料金改定の行方次第では「休日上限1000円」が使える最後の連休になる可能性もあり、車で出かけた人も多かったようです。あまりの渋滞情報で、子ども連れの家族や、お年寄りなどと出かけた人が気の毒になりますが、本人たちはそれほど苦にはしていない人が多いようです。
 私は、普段の運動不足を補うために、この連休は、なるべくいろいろなところを歩くことにしました。万歩計をつけて歩いていたので、連休中の歩数が記録されています。連休の最初の29日は14550歩でした。その後5月2日は19686歩、3日は19277歩、そして今日の4日は18443歩でした。「万歩計」というように、大体、平均1日に1万歩歩けばいいと言われていますので、この連休中は、その1.5倍から2倍近く毎日歩いていることになります。しかも、普段の日は、ほぼ4~6千歩が平均ですので、今回は、ずいぶんと歩きました。ところで、なぜ1日1万歩を目安に歩けばいいかというと、平均的な日本人が1日で「摂取するカロリー」から「消費するカロリー」を引くと約300キロカロリー程度になります。ですから、毎日このあまったカロリーは、体にたまっていきます。そうすることで肥満になります。ですから、毎日300キロカロリーを消費する必要があります。人は、30分歩くとほぼ3000歩歩くことになります。そうすることによって、約100キロカロリーが消費されます。ですから、60分 6000歩 歩くことで200キロカロリー、90分9000歩歩いて300キロカロリーが消費されることになるので、ほぼ1日に1万歩歩けばいいという目安になったのでしょう。
 1965年(昭和40年)に、「1日1万歩」運動を契機に「万歩メーター」1号機を発売したのが、山佐時計計器株式会社(YAMASA)です。このときの万歩計は、消費財としては日本初で、アナログ機械式で1目盛は100歩でした。その価格は、当時大学卒の初任給が2~3万円の時代に、1個2200円しました。少し高かったのですが、当時の運動不足の解消にウォーキングが見直され、「1日1万歩」運動などを推奨する団体が積極的に活動を進めるなど社会全体の流れにのってヒット商品になりました。そこで、山佐では、1984年(昭和59年)に万歩計の登録商標を取得しました。ですから、本当は歩いた歩数を計測できる機器のことを「歩数計」というのですが、「万歩計」という呼び方が一般にも普及し、歩数計自体が万歩計と呼ばれています。
 ウォーキングという言葉は、歩くことを主体とした健康法だということは、皆知っていることで、私のブログにも何回か登場します。その効果として一番取り上げられるのは、体内に酸素を取り入れながら運動する有酸素運動で、脂肪燃焼をするということです。脂肪燃焼は、肥満防止だけでなく、汗をかき、新陳代謝も活発になり若々しい肌を保つことができ、有酸素運動によって血液の循環もよくなり、皮脂が分泌されて肌が潤ってきます。また、内蔵機能の正常化作用もあり、根本的な美肌に効果があります。そのほか、「血圧を安定」「リラックス効果」「脳の活性化」「中高年の認知症予防」「血行の促進」「自律神経への効果」「骨の強化」「内臓の機能向上」など様々な効果が言われています。
ずっと、渋滞の車の中にいるよりは、少しすいている都心を歩いてみるのも、いろいろな発見があって、健康にいいだけでなく、とても楽しめます。

投稿者 fujimori : 23:17 | コメント (5)

2010年04月30日 散歩

歌舞伎座2

 先週末、長崎に行ったときに宿泊先に「ガーデンテラス長崎ホテル&リゾート」をとってもらいました。このホテルは、2009年7月にオープンしましたが、長崎港が一望できる稲佐山のふもとの長崎市秋月町に建っています。夜は、テラスやふろ場から日本3大夜景の一つと言われている長崎の夜景が眺められます。このホテルの設計を担当したのは、建築家の隈研吾氏です。彼の設計コンセプトについて、「これほど木材を使ったホテルは珍しい。周辺の森と長崎の素晴らしい景色に囲まれて優しい気持ちになれる。自分の離れができたという感じで皆さんに使ってもらいたい」と話しています。
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その言葉の通り、外壁は、木の板で覆われています。施設の敷地面積は約6万6千平方メートルで、レストランや結婚式場などから成る地上3階地下2階建てのグランドテラス(本館)ほか、平屋と地上2階地下1階建てのコテージ型ホテルが各1棟あります。総事業費は約35億円だったそうです。室内も木を基調とし、無駄なものを切り取り、非常にシンプルさを感じます。ティッシュボックスも木で造られたもので、また、部屋のオーディオは、持ち込んだiPodがさせるようになっています。
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 彼は、長崎から気に入られているのか、1965年、美術館と博物館の機能を併せ持つ施設として開館した「長崎県美術館」も設計しています。この建物のコンセプトは、「呼吸する美術館」だそうで、グッドデザイン賞やイタリアのマーブルアーキテクチュラルアワードのほか建築業協会賞、日本建築家協会賞、日本建築学会作品選奨など多数受賞しており、国内外からも高い評価を得ています。
 これらの建物を設計した若手で注目されている隈研吾が、新しい歌舞伎を設計する予定です。建て替える理由としては、建物の老朽化や劇場舞台機構の陳腐化、耐震性能や防災性能の確保、バリアフリー化への対応など諸機能の更新が急務、などのようです。また、今回の建替えの主眼は、歌舞伎の殿堂「歌舞伎座」の継承と考え、劇場は従来通りに低層で構え、その独立性を重視した日本様式の外観デザインとし、銀座の街並みに融合するものを目指しているようです。また、新たに魅力溢れる文化施設も整備し、最先端のオフィスの提供や防災支援、緑化整備等さまざまな機能向上も兼ね備えた建物にするために、地下4 階、地上29 階、塔屋2 階に、劇場のほか、事務所、店舗、駐車場などを設けるということです。平成22年5月に着工し、平成25年春竣工の予定で、事業費は約180億円だそうです。
 古いものから新しいものへの変化は、当然おきます。その時に、新しいものとは何かということは時代によって変わってきます。明日、上海国際博覧会が開幕します。今回は、中国が初めて開く万博で、246の国・国際機関などが参加し、過去最大規模のようです。このイベントを見ていると、日本で東京オリンピック、大阪万博を開催することによって、何かを変えようとしていたことを思い出します。今回の万博のテーマは「より良い都市、より良い生活」だそうですが、中国共産党が2008年の北京五輪に続く国家行事で求心力を維持し、政権基盤の強化を狙っている意図が感じられます。
 しかし、最近の日本における変化のテーマは、「伝統文化の見直し」が感じられます。前に進む変化から、深まっていく変化に変わりつつあることは、とてもいいことだと思います。

投稿者 fujimori : 23:37 | コメント (6)

2010年04月29日 散歩

歌舞伎座1

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 昨日、建て替えのため今月いっぱいで閉場する歌舞伎の殿堂、東京・銀座の歌舞伎座で、昨年1月から続いた「さよなら公演」の掉尾を飾る「御名残四月大歌舞伎」が千秋楽を迎えたニュースが流れました。最後の舞台上では、市川団十郎をはじめ、そうそうたる歌舞伎俳優が、歌舞伎十八番をはじめ、人気演目を披露しました。今後の予定は、今日は関係者による「歌舞伎座修祓式」、明日は観客を入れた昼夜2回の「歌舞伎座閉場式」を開催してその役目を終えるようで、歌舞伎座の前にカウントダウンが表示されていました。「閉場式」は、坂東玉三郎らによる「京鹿子娘道成寺」などの舞踊や中村芝翫らの口上、手締め式が行われるようです。最後の演目は、団十郎が江戸の男だての総本陣・助六を演じた「助六由縁江戸桜」だそうですが、団十郎以外に菊五郎、仁左衛門、左団次、玉三郎、勘三郎、三津五郎という超豪華版夢のようなオールスターキャストだそうで、ファンにはたまらないでしょうね。
歌舞伎座は、第1期の建物は、1889(明治22)年11月、当時の木挽町に開場、洋風デザインの劇場建築(木造で、内部は伝統的な和風)でした。建て替えられた第2期の歌舞伎座は、1911(明治44)年11月に帝国劇場に対抗して、純和風建築に改装されました。その後、大正4年には松竹の経営となります。大正10年10月、漏電のため全焼したため、直ちに耐火建築で建て替えることとなり、岡田信一郎に設計の依頼がありました。それは、岡田が学生時代から鑑劇が道楽で、松竹の大谷社長に顔を合わせたときには、歌舞伎や劇場建築について論じ、社長や周りの人を感心させたからだと言われています。
話はそれますが、岡田は、私の母校(高校)を設計しています。その建物の中で私が在学していたときには、講堂が残っていただけでしたが、それも1994年に取壊されています。また、岡田が有名なのは、妻が日本一の美人と言われた、もと赤坂芸妓の萬龍であったということです。彼女は、明治40年、「文芸倶楽部」が実施した全国百美人の読者投稿で九万票を獲得して見事一等になり、「酒は正宗、女は萬龍」と清酒や三越のポスターにもなっています。しかし、その人生は波乱に富んでいます。箱根の大洪水の際、貧血を起こしてしまい逃げ遅れかけたところを東京帝国大学の学生で、谷崎潤一郎と大親友であった恒川陽一郎に助けられます。翌年、再会した2人はやがて恋におち、翌々年学生結婚します。この大学生と芸妓のロマンスは当時、新聞紙上で大きく取り上げられました。ところが結婚4年目、恒川が病死し若くして未亡人になってしまいます。そこで、芸妓に戻るのかどうかが世間の関心を集めますが、翌年、建築家の岡田信一郎と結婚します。再婚後は病弱な夫の看護や設計事務所の手伝いに専念しますが、岡田が逝去し、再び未亡人となった彼女は、遠州流の茶道教授として多くの弟子に慕われる存在になったのです。
そんな岡田の設計した歌舞伎座は、建設中に関東大震災があり、内装用の桧材が焼失するなどで、工事の中断はありましたが、大正13年12月に竣工、翌年1月に華々しく開場式が行われました。それが、3代目の歌舞伎座です。しかし、第二次世界大戦が激しくなると興行もできなくなり、1945(昭和20)年5月の東京大空襲で焼け大屋根が落ちてしまいます。戦後、昭和24年から25年にかけて、大がかりな改修工事を行い、再興され、今度取り壊される歌舞伎座が出来上がったのです。それは、4代目で、設計は岡田の弟子であった吉田五十八で、外観は和風桃山様式で2002(平成14)年には国の登録有形文化財(建築物)に登録されているほか、ユネスコにも世界無形文化遺産として登録されています。
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新しい5代目の歌舞伎座はどんな建物でしょうか。過去から未来につなぐ変化は、いろいろなところで表われています。今、戦後の大きな節目に来ているのかもしれません。

投稿者 fujimori : 19:05 | コメント (5)

2010年04月25日 散歩

勝と龍馬

 昨日から、若い人でにぎわう長崎に来ているので、易はちょっと休憩して、若い人にも人気のある話題に少し変えます。NHK大河ドラマ「龍馬伝」が相変わらず好調で、各地は龍馬を訪ねてにぎわっているようです。この連休も大変でしょうね。私も、その舞台となる地を、毎年の恒例で時間を見ては妻と訪ねることにしていますが、今年は混んでいるので、工夫がいるようです。その中で、4月初めの日曜日に勝海舟の屋敷跡を訪れました。
その場所は、六本木ミッドタウンから赤坂側に降りたところにある氷川神社の裏手にありました。この社殿は、享保15年(1730)に、造営の奉行は老中岡崎城主水野忠之に命じて、8代将軍徳川吉宗により建立されたものです。訪れた氷川神社は、桜がほころび始めたころで、街中でありながらひっそりしていました。
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その裏手にあるという「勝海舟邸跡」は、周りを何度かぐるぐる回りましたが、なかなか見つかりませんでした。やっと見つけた碑は、喫茶店のわきの茂みの中にありました。
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そのそばにある「勝海舟邸跡の記」にはざっとこう書かれてありました。「この地は、幕末から明治にかけて、幕臣として活躍した勝海舟が安政六年(1859)から明治元年(1868)まで住んだ旧跡である。海舟は終生赤坂の地を愛し、三カ所に住んだが、当初居住中の十年間が最も華々しく活躍した時期に当たる。(中略)文久二年(1862)十一月、海舟を刺殺しようとして訪れた旧土佐藩士坂本龍馬らに世界情勢を説いて決意を変えさせ、逆に熱心な門下生に育てて、明治維新への流れに重要な転機を与えることになったのもこの場所である。」
先週の大河ドラマの内容は、「龍馬が、松平春嶽から紹介状をもらいうけ、勝麟太郎の屋敷を訪ねます。龍馬は勝の弟子にしてほしいと頼みますが、勝は拒否します。続いて勝の屋敷を訪れた武市から、龍馬の“幕府も藩もいらぬ”という言葉をきいて興味を覚えた勝は、再び龍馬を呼び出し、弟子にすることを決め、龍馬を品川の咸臨丸に連れて行く。」というものでした。 碑からすると、坂本と勝が出会ったのは、この場所のようです。一説には、脇の氷川坂で出会いがあったともいわれています。今回のテレビの中で、勝役が「龍馬かぶれ」で有名な俳優で歌手の武田鉄矢が演じていますが、金八先生のイメージが強かったり、福岡のイメージだとか、あくが強いキャラクターが強い分、勝役には賛否両論があるようです。しかし、当の本人は、一昨年、「龍馬を育てていただきたい」と勝役のオファーを受け、「思わず目頭が熱くなった」と感激。自宅の部屋に飾ってある龍馬の写真の前に、小さな杯と、龍馬の好物だった混ぜご飯を供えたといいます。
勝と出会った龍馬は、勝の愛弟子になり、龍馬の思想に影響を及ぼします。開国主義も海運国の降盛も、勝の指導によるものともいわれ、薩長同盟が成功したのも、勝が龍馬に西郷を紹介したのが始まりだともいわれています。龍馬のほうも、勝に仕えていたのがとてもうれしかったらしく、故郷の姉にあてて、「おれは今、勝海舟と言う日本第一の人物の弟子となって働いている」との手紙を再三にわたって送っています。また、勝の有名な言葉に、「薩長連合、大政奉還、あれはみんな龍馬ひとりでやったことさ」というのがありますが、龍馬は勝からの評価も高かったようです。
勝は、一度引退の徳川慶喜に従って、静岡市に移りますが、再び上京し、満76歳で亡くなるまで赤坂区氷川町四番地に住み、ここでの話をまとめたのがこの地名をとった「氷川清話」です。この屋敷跡は、区立氷川小学校敷地として使われていましたが、児童の数が減り、廃校になっています。いまは、老人施設などになっていて、石碑だけが残っています。
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投稿者 fujimori : 22:23 | コメント (6)

2009年09月25日 散歩

ケイトウ

 花の名前は、そのいわれを聞くとなるほどと感心するものがあります。昨日のブログの「酔芙蓉」などは、その代表的なもので、「酔うほどに赤くなるかのように時間の経過で次第に赤くなる芙蓉の花」というのは、よくそんな名前をつけたなあと思います。また、その形があるものに似ていることからその名前が付けられることがあります。私が感動したのは、以前のブログで書いたことのある「すみれ」の花です。これは、大工さんが使う「墨入れ(すみいれ)」に形がそっくりです。また、「鷺草(さぎそう)」を見た時にも感動しました。本当に鷺が優雅に飛んでいる姿にそっくりだからです。
 最近、あまり見なくなりましたが、やはり私が子どものころに見て、あまりにその花の名前がその形を言い当てている花に「ケイトウ」があります。漢字で書くと「鶏頭」と書きます。真っ赤な花がニワトリの頭のトサカにそっくりなのです。英語でも「cocks-comb」(鶏のとさか)といいますから、誰が見てもそう見えるのでしょう。しかし、今では羽毛ケイトウの方がよくつくられているようですし、花色も赤のほかに、オレンジ、黄色などがあります。ですから、花が細長くなった品種が出てきて、ケイトウというイメージからはだいぶ違って来て、昔のトサカケイトウを見ることが少なくなってきました。先日、酔芙蓉を見に行ったときに、途中でトサカケイトウが咲いていて、とても懐かしい気がしました。
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夏から秋にかけ、赤・桃色・黄色などの花穂ができますが、原種では赤色です。原産地はアジア、アフリカの熱帯地方と推定され、この地方では花と葉は食用とされているそうです。日本には古く万葉時代にはすでに渡来していました。ですから、万葉集の中に何首か鶏頭を詠んだ歌がありますし、与謝野蕪村なども詠んでいます。
鶏頭というとよく間違える四字熟語があります。それは、「牛のしっぽになるよりも、鶏の頭になる方がいい」ということで、「鶏頭牛尾」という言葉を思い浮かべますが、本当は「寧ろ鶏口と為るとも、牛後と為ること無かれ。」ということで、「鶏口牛後」と言います。この言葉は、宋末期、元初期の曾先之の著した史書である「十八史略」のなかにあります。
秦は諸侯を恐喝し、領土の割譲を求めました。洛陽に蘇秦という者がいました。秦の恵王に遊説しましたが、用いられませんでした。そこで燕の文侯のところへ行って、趙と南北に同盟を説きました。燕は蘇秦に資金を与え、趙に行かせました。粛侯にこう説いた、「諸侯の兵力を合わせれば、それは秦の兵力の十倍に値します。力を合わせて、西方の秦を攻撃すれば、秦は必ず敗れるでしょう。大王の為に考えますと、六ヶ国が南北に同盟し、秦を排斥すればいいでしょう。」そこで、粛侯は蘇秦に資金を与え、諸侯と同盟を結ばせようとしました。そのときに蘇秦が使ったことわざが「寧為鶏口、無為牛後。」(小さな組織のトップになっても、大きな組織に従属してはならない。)こうして、南北六国の同盟が成立したのです。
ここでいう「鶏口」はニワトリの口で、小さい組織のトップをあらわしています。そして、「牛後」は牛の尻尾とも尻ともいわれ、大きい組織の下働きをあらわしています。ですから、秦に従属するより、たとえ小国でも独立を保て、と説いたのです。
でも、どうして鶏頭ではなく、鶏口なのでしょうか。ケイトウの花を見ながら考えてしまいました。

投稿者 fujimori : 22:51 | コメント (4)

2009年09月24日 散歩

日本で最初に劇場公開されたジャッキー主演作品は、「ドランクモンキー 酔拳」という作品です。この作品は、1978年製作の香港の映画作品で、たいへんな興行成績を遂げました。この映画は、酔えば酔うほど強くなる、世にも不思議な酔八拳を修行の末伝授され、その技を駆使して悪者をやっつけるという話です。ジャッキーが酒瓶と杯を持って、酒を飲みながら敵の攻撃をかわす仕草は、酔えば強くなるというのは、体が柔らかくなり、戦っているというよりも演舞しているという感じで、相手の力に抵抗するのではなく、敵の力を吸収し、のらりくらりと動きまわるという酔拳です。
酔えば酔うほどふつうは顔が赤くなります。神奈川県を流れる酒匂川の水に酔ったかのように、朝咲く白い花が時間の経過とともに桃色をおび、夕には紅色へと色を変えていく「酔芙蓉」という花があります。南足柄市千津島地区の農道1kmの間に酔芙蓉が700本と芙蓉100本が植栽され、今きれいに花を咲かせています。
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その花を妻と見に行ってきました。南足柄市といえば、「まさかりかついで 金太郎」と歌われる足柄山の金太郎のふる里で,神奈川県西北に位置し、豊な水と緑に囲まれた地域です。丹沢系や箱根外輪山の美しい山並みに抱かれた足柄平野に、酒匂川が流れ、豊かに実った稲穂がこうべを垂れ、農家ではまさに稲刈りの真っ最中でした。
この稲穂が実った水田を縁取るかのように、土手に真っ赤な、曼珠沙華の花が咲き誇っています。まさに時はお彼岸。別名「彼岸花」と呼ばれる曼珠沙華は、以前ブログで取り上げたのですが、埼玉県日高市にある巾着田では一面に咲いていて有名ですが、畦道に縁取るように咲いているのがお似合いです。
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私は、どうも「芙蓉」と同じころに似たような花をつける、大韓民国の国花でもあり、日本では昔「朝顔」といわれた「ムクゲ」の花との区別がつきにくいのですが、直線的な枝を上方に伸ばすムクゲの樹形に対し、芙蓉は多く枝分かれして横にこんもりと広がること、葉がムクゲより大きいこと、めしべの先端が曲がっていることなどで区別します。酔芙蓉は、この芙蓉の八重咲きの園芸品種です。
小田急線に乗って、新松田駅で降り、そこから大雄山行きのバスに乗り15分余り、「東まました」バス停で降り、15分ほど歩くと両端に酔芙蓉の花が1キロも続いている農道にでます。その中を、写真を撮りながらゆっくりと歩いて行くと、白かった酔芙蓉は次第にうすピンクに染まっていきました。
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一番先まで行って、戻ってくるころには、背景の山々は薄暗くなるにつれ、次第にシルエットに変わり、酔芙蓉の花も大分赤くなってきて、まさに酒に酔ったようです。シルバーウイークには、子供が小さいとどこかにつれて行かなければならないでしょうが、この年齢になると妻と喧騒から逃れて、ゆっくり田園地帯を歩き、美しい花を眺めるのもなかなかいいものです。花の美しさに少々酔ったようです。
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投稿者 fujimori : 23:12 | コメント (4)

2009年09月23日 散歩

大観

向ヶ丘(本郷台地)から忍ヶ丘(上野台地)に向かって歩いて行くと、その境に、当地の伝承によれば、文明年間(1469 〜1486)に室町幕府第九代足利義尚が再建したという神社があります。創建年代は不明だそうですが、ちょうど境になるということで「境稲荷神社」といいます。その社殿の北側には、源義経とその従者が奥州へ向かう途中に弁慶が見つけ、一行ののどをうるおしたと伝えられている「弁慶鏡ヶ井戸」が残されています。
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この井戸の水は、「江戸志」などの江戸時代の史料によると、名水だったそうで、一時埋め戻されたのですが、昭和 15年に再び掘り出し、とくに昭和 20年の東京大空襲などでは多くの被災者を飢渇から救ったと記録されています。この井戸の脇には、掘り出した際の記念碑の石碑があり、造立者の中に画伯横山大観の名も見えます。
彼の名前があるのは、彼がこの地に住んでいたからです。その住居の跡地に「横山大観記念館」が建っています。ここを見学してきました。
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パンフレットによると、「ここは、日本画の巨匠横山大観(1868~1958)が住んでいた上野池之端の住居を、そのまま記念館として公開しています。大観が、ここに住居を構えたのは、明治42都市(1909)のことです。最初は狭かった敷地も、大観が画家として名をなすにしたがって拡張され、大正8年にほぼ現在の規模となりました。昭和20年(1945)3月10日、空襲により旧住居が焼失したため、大観はしばらく熱海伊豆山の別荘に移り住みます。昭和29年(1954)8月、焼失した旧住居の土台をそのまま用いて新居が再建され、大観は再び池之端に暮らしはじめます。以来、昭和33年(1958)2月に90歳で没するまで、ここで数多くの作品を制作しました。昭和51年(1976)3月に静子夫人が亡くなり、遺族から大観の作品や習作、遺品、画稿、スケッチ帳などが寄贈されて横山大観記念館が設立され、同年11月に開館しました。」と書かれてあります。
 ここは、展示品を鑑賞するというよりも、横山大観が過ごした住居から、彼の描いた日本画を彷彿とさせるような建物の設えや、ディテールを感じることができます。彼のお気に入りの一階の「鉦鼓洞」(炉の間)の床の間には、大観の絵や親交の篤かった菱田春草の絵の軸装の作品が季節に合わせてそのまま掛けられています。パンフレットにあるように、ここは、心の安らぎを感じられる美術館をモットーとしており、できるかぎり建物の雰囲気をいかし、靴を脱いで入る日本建築の良さが残されています。
 私のブログのタイトル「臥竜塾」の「臥竜」とは、将来天に上るために今は伏せている龍のことで、学んでいる最中のことをいいます。そのイメージで、私がタイトルに使われている龍の絵を書きました。その絵が、園のセミナールームにかけられています。同じ階の相談室には、大観の龍が飾られています。その龍は、雲の間でしきりに活動している龍です。横山大観は、干支が龍というとこもあり、龍の絵を何枚か描いています。横山大観記念館に、「横山大観還暦祝画帖」という巻物がありますが、ここには、小林古径や速水御舟、前田青邨など有名な日本画家が龍をテーマに絵や字を書いて送っています。こんなものがもらえてうらやましいですね。また、「横山大観喜寿祝色紙」も何枚か展示されています。

投稿者 fujimori : 20:13 | コメント (4)

2009年04月20日 散歩

八重

昨日の日曜日に、妻と高尾にある「多摩森林科学園」に行ってきました。ここは、大正10年2月、宮内省帝室林野管理局林業試験場として発足しました。その後、昭和22年には、林政統一により農林省に移管され、林業試験場浅川支場となり、その名称も昭和32年には、「林業試験場浅川実験林」となりました。現在は、森林・林業・木材産業に関する試験研究機関である独立行政法人森林総合研究所の支所の一つとして、森林環境教育の場における動植物の多様性保全・生態系の役割解明に関する研究を行っています。
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ここ多摩森林科学園のサクラ保存林は、わが国の桜の遺伝子を保存し、後世に伝えるために、昭和41年度から造成されたもので、様々な約250種、約2000本の全国の桜を見ることができます。広さも日比谷公園の約3,5倍の57haもあり、ちょっとしたハイキング気分です。そこを散策しながら、途中の満開の花の下で手作りのお弁当を頬張りました。ただし、アルコール類は禁止ですので、いわゆるお花見客はいず、多くは、私たちのような年配の人であふれています。しかし、私は、昔は非公開で、ある時から、大阪の造幣局のように、桜がきれいだからその季節だけ公開していたように記憶しているのですが、現在は、年間を通して一般公開しています。
ここの桜の種類が多いということは、花の咲く時期や、色、大きさ、形などがそれぞれ違っていて、長い期間楽しむことができます。たとえば、秋から冬にかけて咲くものや、緑色や黄色の桜、匂いのある桜もあります。今の時期に咲く緑の花の「御衣黄」が人気がありますが、新緑の木々の中を歩きながら、時たま美しい桜の林に出ると、それぞれ桜ならではと思われる優雅な名前を読みながら、その由来を考えるのも楽しみです。
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今の時期でも、まだまだ満開の桜が多いのですが、その中でもひときわ目立つものに「八重桜」があります。この桜は、野生の山桜に対して人里の桜ということから里桜とも呼ばれています。一番人気の黄緑の桜「御衣黄」も八重ですし、同じようにうす黄色の桜「鬱金」もあります。この花は、音では「ウコン」といい、色を表しているのですが、なんだか「鬱(うつ)の金」という感じがして、写真を撮りませんでした。他には、「普賢象」「楊貴妃」「一葉」「八重紅虎の尾」などがありますが、何と言っても有名なものは、「関山」という品種です。それは、桜湯に使う塩漬けにした花はこの種類が多いからです。
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園の近くの小学校や幼稚園の入学式に参加すると、控室に通されて、まず「桜湯」が出てきます。桜湯は、お茶の代わりにおめでたい席によく出されますが、見合いや婚礼などの一生を決める祝いの席では、その場だけ取り繕ってごまかす意味の「茶を濁す」ことを忌み嫌うことから、お茶を用いず、代わりの飲み物として桜湯を用います。この桜湯に用いる桜の花の塩漬けは桜漬けとも呼ばれ、がくを除いた花全体を梅酢と塩で漬け込んであります。入れる前は茎の部分が表面に表われた丸まった状態ですが、湯のみ茶碗に入れて湯を差すことで塩漬けの塩が溶けだし、花びらが開いて湯の上面に浮いてくる姿と、同時にほんのりお湯が桜色に染まる様は、まさに日本の伝統美を感じます。
「いにしへの 奈良の都の 八重桜 今日九重に 匂ひぬるかな」(伊勢大輔 詞花集 百人一首)

投稿者 fujimori : 22:22 | コメント (4)

2009年03月16日 散歩

カチカチ

今から100年前の1909(明治42)年6月19日に生まれ、39年目の同じ6月19日の早朝、玉川上水から入水自殺をした遺体が見つかったのは、太宰治です。ということで、ことしは、太宰治の生誕100年で、それに合わせて、さまざまなイベントや企画が行われています。先日紹介した津軽弁で語った「走れメロス」の本もそうですが、今日のニュースで流れたのが、青森県・弘前の菓子製造販売会社「ラグノオささき」が太宰の小説「津軽」を題材にしたクッキーを完成させたというものでした。パッケージは1944年に出版された太宰の小説「津軽」の初版本を模しており、中身は100%青森産のリンゴファイバーを使ったクッキーだそうです。菓子のキャッチコピーは「これは、食べる小説です」というものです。
また、太宰が晩年を過ごした東京・三鷹市と生誕の地の青森県五所川原市で、6月20日に「第1回太宰治検定」が行われるというニュースもありました。テキストは太宰の小説「津軽」を題材に、物語を読み進めながら津軽地方や太宰について学べる仕組みで、検定の問題は「津軽」と公式テキストから出題され、択一式で100問予定されているそうです。例題には、「小泊村(現・青森県中泊町)で、太宰と(子守の)たけは30年ぶりに再会する。再会場所はどこか。(1)たけの自宅(2)国民学校運動場(3)竜神様」というような問題が提示されています。
太宰は、自ら愛人と入水自殺を何度も計ったように、男女の愛については独特の見解を持っているようです。こんな結びを書いています。
「曰く、惚れたが悪いか。古来、世界中の文芸の哀話の主題は、一にここにかかっていると言っても過言ではあるまい。女性にはすべて、この無慈悲な兎が一匹住んでいるし、男性には、あの善良な狸がいつも溺れかかってあがいている。作者の、それこそ三十何年来の、頗る不振の経歴に徴して見ても、それは明々白々であった。おそらくは、また、君に於いても。後略。」
この文は、おとぎ話の「カチカチ山」のパロディー版として書いた太宰の「カチカチ山」の最後の文です。カチカチ山は、誰でも知っている話ですが、その残酷さは、童話の多くが持っている残酷さに比べても群を抜いています。それは、ウサギが狸にひどい仕返しをするというよりも、狸が助けてくれたおばあさんを殺して、それを汁にして、おじいさんに狸汁と言ってだまし、全部食べさせてしまうなどです。
太宰のカチカチ山の書き出しではこう書いてあります。「カチカチ山の物語に於ける兎は少女、そうしてあの惨めな敗北を喫する狸は、その兎の少女を恋している醜男。これはもう疑いを容れぬ儼然たる事実のように私には思われる。これは甲州、富士五湖の一つの河口湖畔、いまの船津の裏山あたりで行われた事件であるという。」
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カチカチ山から見た河口湖
ここに書かれている河口湖畔の「カチカチ山」に日曜日に妻と行ってみました。ロープウェイで登ったカチカチ山である天上山公園は、河口湖の全景や、富士山の裾野まで見渡せる絶景のロケーションでした。
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  カチカチ山から見た富士山
特に、快晴だったこともあって、あの残酷なカチカチ山の話も、美しい富士と、山頂に設置されているかわいらしいウサギとタヌキの置物で、おとぎ話だったのだということを思い起こしました。
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投稿者 fujimori : 23:15 | コメント (5)

2009年01月26日 散歩

昨日の日曜日はとても天気が良く、自宅からもくっきりと富士山を見ることができました。もっと大きく富士山を見ることができないかということで、出かけようと思って、とりあえず、妻と中央線に乗って、山梨の方へ向かいました。どの駅で降りようということでいろいろと考えたのですが、いつも素通ってしまう駅で「猿橋」という大月の一つ東京寄りの駅があるのですが、そこにある「猿橋」を一度見たいと思っていたので、そこで降りることにしました。山梨県大月市猿橋町の桂川にかかる「猿橋」は、山口県の錦帯橋、徳島県のかずら橋と並ぶ、日本三大奇橋の一つです。
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この橋の構造形式は、「肘木けた式」と呼ばれ、橋脚がなく、両岸より張出された四層の桔木を支点とし、上部構造を支えているもので、昭和7年に名勝指定を受けています。猿橋の歴史は古く、初期の建築年代は600年頃百済の国の志羅呼が、猿がつながって対岸に渡る姿を見て、これを造ったという伝説がありますが、よくわかっていません。そのことは、1478年の廻国雑記に、「猿橋とて、川の底千尋に及び侍る上に、三十余丈の橋を渡して侍りけり。此の橋に種々の説あり。昔猿の渡しけるなど里人の申し侍りき。さる事ありけるにや。信用し難し。此の橋の朽損の時は、いづれに国中の猿飼ども集りて、勧進などして渡し侍るとなむ。然あらば其の由緒も侍ることあり。所から奇妙なる境地なり。」と書かれています。
しかし、この橋はとても重要で、戦国時代には、甲斐の国を治めていた武田氏が、抗争において度々猿橋に陣を張ったという記録が残っているように甲州防御の拠点でした。江戸時代になると、徳川幕府により開設された五街道の一つの甲州街道の宿場でもありました。江戸城に万が一の事態に遭ったときには甲府城を幕府の拠点にするための重要な軍用路だったと言われています。
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橋というのは、昔から重要な役目を持っていました。そのために、橋を造る職人は、とても重要視されました。昨年末に鹿児島を訪れた時、「石橋記念公園」に行っていました。ここには、鹿児島市街中央を北西から南東に流れる甲突川の上流から玉江橋、新上橋、西田橋、高麗橋、武之橋という五つの大きなアーチ石橋が架かっています。
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高麗橋
その五つの橋は今から160数年前の江戸時代末期の1940年代に架けられたもので、昔から「甲突川の五石橋」と呼ばれて親しまれていました。これらの石橋は、薩摩藩の財政と「肥後の石工」という絵本に取り上げられた肥後の石工の中でも特に卓越した技術を持っていたと言われた名石工「岩永三五郎」の架橋技術を誇る歴史的所産でした。
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しかし、残念ながら、最近の1993年8月6日の集中豪雨による洪水で、新上橋と武之橋が流失してしまいました。その後、貴重な文化遺産として後世まで確実に残すため、西田橋、高麗橋、玉江橋の三つの橋が河川改修に合わせて移設・保存されることになりました。そして、2000年に移設復元されているところが石橋記念公園なのです。
以前のブログでも「肥後の石工」のことを取り上げましたが、橋という建造物は、その技術がそのまま構造体として見えるために、見ていて感動します。

投稿者 fujimori : 23:55 | コメント (4)

2009年01月14日 散歩

セザンヌ

 今、自分の中にある教養と呼ばれるものは、意外ですが、小中学生時代に身に付いたものが多くあります。美術や音楽への興味も、今となると、小中学生のころの影響が多いような気がします。私のころの都立高校入学試験は、9科目でした。国数理社英の5教科のほか、美術・音楽・体育・技術家庭の4教科がありました。しかも、これらはすべてペーパー試験でしたので、暗記科目でした。
 たとえば、音楽でいえば、学習指導要領に「共通鑑賞教材」というものがあり、各学年で決めたれた鑑賞曲がありました。中学3学年では、ベートーベン作曲、交響曲第6番ヘ長調「田園」がありましたが、その曲の出だしを楽譜で覚えたものでした。それは、最初の小節が出て、「これは、誰の作曲で、どんな曲か?」という問題が出るからです。また、階名を振ったり、移調、転調をするような問題が出るために、当然楽譜は読まなければなりませんでした。
 同じように、美術でも、3原色とか、補色とか、暖色、寒色はどんな色とか、有名な画家の有名な作品と、その作品の特徴と、その作品がどのような影響を与えたかなども覚えました。
 有名な画家の中で印象のある作品は多いのですが、今でも覚えているのは、セザンヌの作品です。彼の作品を鑑賞するうえで、彼の言葉のこんな言葉を教わりました。
「自然を円筒形と球形と円錐形によって扱いなさい」という言葉です。本当は、この言葉に続いて「自然は平面よりも深さにおいて存在します。そのため、赤と黄で示される光の震動の中に空気を感じさせる青系統を入れる必要性があるのです。」という言葉があります。セザンヌ以前の絵画においては、人体、山や木などの自然、リンゴや花などの静物を、いかにも眼前にそれがあるごとく、実物をいかに再現するかということが課題でした。そのために、対象物を正確に模写できるかということに力を注ぎました。
しかし、実際の対象物は3次元にあり、立体的なものです。それを2次元であるカンヴァスの上に模写しても、表わしきれるものではありません。セザンヌは、「人問にとって、その表面にあらわれているものよりずっと奥深い」と考え、それに比べて絵画は「彩色された平面」にすぎないことに気がつきます。ですから、自然を見たままの形態ではなく、円筒、球、円錐などの幾何学的な形態として捉えようとしました。その手法は、ゴーギャン、モディリアーニをはじめ、日本でも安井曾太郎、岸田劉生、森田恒友、佐伯祐三らに影響を与え、後にキュビスムとしてパブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラックらに受け継がれて行きます。
そこで、彼は「「近代絵画の父」と呼ばれ、「セザンヌ主義(セザニスム)」という言葉が生まれました。今、横浜美術館で、画家ポール・セザンヌと、その芸術に影響を受けたヨーロッパと日本の画家の作品を紹介する展覧会「セザンヌ主義-父と呼ばれる画家への礼讃 ピカソ・ゴーギャン・マティス・モディリアーニ」が開催されています。
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その展覧会に、先日の日曜日に行ってきました。最終日でもないのに、ずいぶんと混んでいました。時間が少し足りなく、じっくりと作品を鑑賞できませんでしたが、セザンヌの作品と、彼に影響を受けた画家の作品を見ていて、なんとなく、中学時代に覚えさせられたことを思い出しました。

投稿者 fujimori : 23:23 | コメント (4)

2009年01月04日 散歩

哲学

 2,3日の箱根駅伝は、毎年ながらドラマがありますね。今日の新聞やテレビ番組では、総合優勝を果たした東洋大学の選手たちが取り上げられていました。その中で特に注目を浴びたのが、1,2年生を中心の選手層で、来年以降の活躍も期待できそうなところでしょう。
 昨年暮れ近く妻と中野駅から園まで散歩しました。途中「林芙美子記念館」に寄ることも目的でしたが、もう一つ、途中で「哲学堂」にも寄りました。ここは、今回の駅伝総合優勝を果たした東洋大学の創設者である哲学者井上圓了博士が、明治37年小石川原町(文京区白山)に開設された哲学館大学(現東洋大学)を記念して「四聖堂」を建設して、それが「哲学堂」と呼ばれ、そのまま公園になっているところです。
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 この公園内にある「四聖堂」とは、ソクラテス、カント、孔子、釈迦を祀ったものですが、当初哲学堂とも呼ばれていたために、公園名は「哲学堂公園」となっていますが、そのほかにも到る所に哲学に由来するユニークな名前の坂や橋などが点在し、井上円了の思想を垣間見ることができるようになっています。
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 井上円了は、明治14年、設立間もない東京大学文学部哲学科に入学しますが、そのときはただひとりの1年生でした。しかし、在学中に「洋の東西を問わず、真理は哲学にあり」と確信します。ここでいう「哲学」とは、「万物の原理を探り、その原理を定める学問」ということであり、維新後の日本では鹿鳴館時代に象徴されるような欧米文化至上主義の時代で、そのような表面的なものに踊らされること無く、きちんとした事実と実証に基づいて物を考えるべきだということを訴えているのでしょう。今でも、なんとなく哲学というと観念的演繹的な学問という気がしますが、円了は、「政治、法律はもとより科学や芸術まで、その根底には哲学がなくてはなりません」と述べています。この考えから明治20年「私立哲学館」という哲学専修の専門学校を創設しました。これが現在の東洋大学の前身なのです。
 私が彼に共感する部分として、学問とは机上のものではなく、実践してこそ価値を持つという考えで活動したことです。「余資なく、優暇なき者」のために「社会教育」と「開かれた大学」を目指して活動を開始します。その一つに、学校開設の翌年から「哲学館講義録」を発行して、通学できない者にも勉学に機会を与えました。これが、今の通信教育です。また、30歳代から生涯、全国行脚を続けて講演を行います。統計の残っている明治39年から大正7年までの13年間で、全国60市、2198町村において5291回の講演を行い、社会教育に力を入れたという記録が残っています。
 このようないわれのある哲学堂公園に点在している「哲学堂七十七場」のいくつかを紹介します。
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六賢臺(ろくけんだい)聖徳太子・菅原道真(日本)・荘子・朱子(中国)・龍樹・迦毘羅仙(印度)の六人を東洋的「六賢」として祀ってあります。
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宇宙館(うちゅうかん)哲学が宇宙の真理を研究する学問であるとの観点にもとづき、哲学の講習の講義室として設けられました。
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主観亭(しゅかんてい)客観盧に対する名称で心界の休息所の意味であり、一休みして心界の風光を観察するのに最高の場所です。
 自分を振り返るのにはいい場所です。

投稿者 fujimori : 21:26 | コメント (5)

2008年11月10日 散歩

動物園

 北海道の「旭山動物園」に、今年の10月初めに再度訪れたのですが、相変わらずの人気でした。この動物園の人気の秘密は、様々な工夫で動物を格好良く見せることにあります。「ホッキョクグマのダイビング」「アザラシの円柱水路での泳ぎ」「オランウータンの空中散歩」「ペンギンの水中トンネル」など様々な見せ方をしています。今年は、新たに「オオカミの森」が完成したばかりでした。
 この動物園の試みに影響されて、全国の動物園でも見せ方が変わってきました。私は、子どものころは、その頃住んでいた場所の近くだったこともあって、何度も上野動物園に行きました。遠足でも何度か行きました。しかし、小学生の頃に開園した、同じ都立動物園である「多摩動物園」での動物の見せ方に興奮した覚えがあります。この多摩動物園が、今年「開園50周年」を迎えています。
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 多摩動物公園が開園したのは、1958年(昭和33年)の子どもの日の5月5日です。戦後に娯楽施設として人気を誇った上野動物園の混雑を緩和すること、動物の自然な生態を見せること、動物の繁殖等を目指すことを目的として計画され、建設されました。この多摩動物園では、オリが並んでいて、そこを順に見て行くのではなく、広々とした緑の中を散歩するように見て行きます。動物は、オリではなく、出来るだけその動物が住んでいるような自然を再現した広場に放し飼いされています。
 展示は当初、アジア産の動物が中心でしたが、その後、少しずつ敷地を拡張し、新しい動物の見せ方を工夫しています。その試みは、私が小学生の頃に開園して以来、定期的に訪れているので、自分の成長と共に、色々な思い出と重なっています。
 まず、開園した1958年は、映画でもおなじみの、東京タワーが完成した年です。1964年に、アフリカ園が誕生しました。そして、ここに完成したライオンバスは、世界初の試みで、いまだに子どもだけでなく、大人にも人気です。
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 これは、旭山動物園の「もぐもぐタイム」のように、バスの脇にえさをつけて、それに飛び掛るライオンを間近に見ることが出来るのです。車内で椅子に座っている目の前に、大きなライオンが飛び掛ってくるのはとても迫力があります。また、この年には、京王電鉄多摩動物公園動物公園線が開通しました。
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 アポロ11号月面着陸成功した1969年には、昆虫園本館がオープンしました。1961年以来、チョウやバッタの展示に始まる充実した昆虫展示は、多摩動物公園の注目すべき特徴です。
その後、1978年に完成したチンパンジー放飼場では、長い棒を人工アリ塚に差し込んで、その先についた蜜をなめる姿を見ることも出来ました。そして、上野動物園にパンダが来たときに日本中を沸かせたように、1984年にコアラが初来日したときには、日本全国がそのかわいらしい仕草に魅せられました。2002年にリニューアルオープンした昆虫館本館の室内では、冬でも様々な蝶が色とりどりの花のあいだを舞っている姿を見ることが出来ます。
 昨日の日曜日に、久しぶりに妻と多摩動物園を訪れてみました。今年は、開園50周年ということで「アジアの沼地」がオープンしていました。新しい試みと改革、その裏にある努力は、本当に動物が好きでないとできない気がしますし、逆に、本当に動物を愛すればこそ、現状に満足することなく、新しい試みに挑戦していけるのです。

投稿者 fujimori : 23:18 | コメント (4)

2008年10月21日 散歩

 そろそろ各地で紅葉情報を聞くようになって来ました。先日の黒姫では、最初に紅葉するのは、「つたうるし」などの蔦系だそうです。「つた」は、木などをつたっていくのでその名が着いたといわれますが、まだ周りが緑のうちに、真っ赤に紅葉するので目立ちます。そして、つた同様、赤く紅葉するものに「楓」があります。楓は、モミジとも呼ばれ、秋に紅葉する葉の代表格です。
「秋の夕日に 照る山もみじ こいもうすいも 数ある中に 松をいろどる かえでやつたは 山のふもとの すそもよう」と歌われるように、楓(かえで)や蔦(つた)は、濃いものや薄いものがあるので、着物のすそ模様のようにきれいです。この楓と蔦の二種類の組み合わせは、秋を表すときによく使われ、伊勢物語の第九段に「宇津の山にいたりて、わが入らむとする道は、いと暗う細きに、蔦、楓はしげり、もの心ぼそく」という中にも書かれてあります。この中の蔦や楓は、きれいというよりも、心細さを感じさせているようです。
 紅葉は、もちろん葉の色が赤や黄色に変わる美しさがあるのですが、それだけではなく、それを引き立てる緑が必要です。その緑は、「もみじ」の歌では「松」ですが、そのほかの常緑樹も引き立て役を果たします。尾形光琳や俵屋宗達が同じモチーフで描かれた「槙楓図屏風」では、楓の赤を槙の緑が引き立てています。
 もともとこの絵は宗達が描いたものですが、光琳がその絵を模写しました。その一対の絵が今、国立博物館で、尾形光琳生誕350周年記念「大琳派展-継承と変奏-」というイベントで公開されています。この絵画展では、琳派を代表する本阿弥光悦・俵屋宗達・尾形光琳・尾形乾山・酒井抱一・鈴木其一の六人の作品が展示されています。この間の日曜日に行ってきました。
彼ら琳派の特徴のひとつとして、先達の作品に触発され、同じ主題の作品を描いていることがあります。ここでは、「風神雷神図屏風」など、同じ主題の著名作品を同時に対比展示しています。もうひとつ印象的な作品が「槙楓図屏風」です。今回の展示では、この二作品がかぎの手に展示されているので、見比べながら観ることが出来ます。
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宗達の絵は、重厚な趣を持っており、奥行きを感じさせます。力強さ、金の綺麗さ、槙の重さ、秋の草花は可憐さ、楓の赤を引き立てる槙の木は、葉だけでなく、その2本の幹も印象的です。
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そして光琳の絵のほうは、枝葉を減らし、少し位置をずらして、全体をすっきりさせています。やはり、楓の赤がうまくきわ立つように、槙の緑の濃淡がリズミカルに広がり、奥行きも感じられます。同じものを描いても受ける印象は、ずい分と違ってきます。
 槙は、千葉県の県木に指定されていますが、正確に言うと、「イヌマキ」という木で、その名称を単に「マキ」と改められて、そう呼ばれています。街路、公園、庭木など目によくふれる木です。種子は球形に近く、日本名マキは円木(まるき)の略したものといわれています。この木は、雌雄異株で,果実は赤紫色の花托の上に緑色の果実がつき色のコントラストと形が面白く、甘くて食べられます。
 よく見る景色も、樹木も絵画を通してみるとまた違って見えてきます。

投稿者 fujimori : 22:45 | コメント (4)

2008年03月02日 散歩

早春から迎春

 今日は、本格的な春に向けての兆しと、行く早春を感じるために出かけました。
 まず、小田急線新松田駅から徒歩で松田山に登ります。ここでは、松田山の山肌をピンクに染める早咲き桜と、今日は少し曇っていたために見ることが出来ませんでしたが、雪化粧の富士山を見ることが出来ます。ここの早咲き桜は、河津から移植したカワヅザクラ約260本が濃いピンクの花を咲かせています。その花には、めじろが何羽も枝から枝に飛び回っています。
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山頂のハーブガーデンには、約181種16,500本のハーブが植栽されているそうで、いまは、クリスマスローズが花盛りで、ローズマリーが花をつけ始めていました。その花にうずもれながら、散策路の途中、松田市街が一望できる斜面に腰掛けて、妻の作ったお弁当を妻と二人で食べました。
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 そのあと、JR御殿場線松田駅から下曽我に向かいます。ここの曽我の梅林は、中河原・原・別所の3箇所の梅林があり、約3万5千本の白梅が植えられています。ここからも、田園風景のなかの梅林の背景として、富士山(今日は、残念ながら見えませんでした)、箱根連山、丹沢山塊等の眺めもすばらしく、風に乗って、梅の香もあたり一面に漂っています。
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一方、この地は、曽我十郎、五郎兄弟の育った場所として有名で、数多くの史跡もあります。私の子どものころは、この曽我兄弟の絵本や漫画があり、一度訪れたいと思っていた場所ですが、最近の若い人は知らない人が多いかもしれません。曾我兄弟の仇討ちは、1193年源頼朝が行った富士の裾野の巻狩の際に、曾我十郎祐成と曾我五郎時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件で、赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つといわれています。この事件は後に「曽我物語」としてまとめられ、江戸時代になると能・浄瑠璃・歌舞伎・浮世絵などの題材に取り上げられ、民衆の人気を得ました。
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まず、中河原梅林の中を散策したあと、曹洞宗の瑞雲寺へ行ってみました。ここには、曽我兄弟が父の敵を討つために願文を納めて、「十人力」を授けられたといわれている「力不動尊」があります。
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この境内に「曽我の春」の歌碑がありますが、その3番の歌詞にこのことが歌われています。「真白く清き富士の嶺 望みはるかな志 十郎五郎傘焼く宵も 力不動に願いをかける 梅の故里 梅の故里 曽我の春」この中の傘は、敵討ちに行くときにたいまつ代わりに傘を燃やしたことからきています。
 つぎに城前寺を参詣しました。ここは、十郎、五郎、祐信、母満江御前の供養墓や鬼王兄弟の碑などもある曽我兄弟ゆかりの寺で、曽我兄弟の墓は、本堂の裏手にありました。
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 そこから、原梅林を経て、別所梅林まで白い布を広げたように一面の梅林です。時折、しだれ梅や深紅の梅が目を引きます。今日で梅祭りは最後のようですが、期間中は、郷土芸能の寿獅子舞や、流鏑馬などさまざまなイベントが行われています。
 郷土芸能の由来や歴史的な逸話を知ることは、その地を訪れるときに、見る目を厚くしますね。

投稿者 fujimori : 22:13 | コメント (4)

2008年02月11日 散歩

水仙と菜の花

 立春は過ぎたといえ、春はまだ名ばかりで、風は冷たく、まだまだ寒い日が続きます。谷の鶯は、まだ春になっていないと、まだその季節になっていないと、まだ声を潜めています。というと「早春賦」ですが、今日は昨日の福寿草に誘われて、春の気配を感じに「吾妻山公園」に行ってきました。なぜ、早春賦が浮かんだかというと、その道すがら、目の前に鶯がとまったのです。綺麗な鶯色をした、そのかわいらしい姿を見せてくれましたが、まだ、泣き声は聞こえませんでした。あとで、写真を急いで撮ればよかったと後悔しましたが、そのときには、急いで、一緒にいた妻に教え、その姿に見とれてしまっていました。
 今日登った吾妻山公園は、東海道線二宮駅より階段、山道を登り、標高136.2メートルの山頂までに広がる公園です。何年か前にここに行って、感動したので、妻がもう一度行こうと提案したのです。
何が感動するかというと、山頂は360度の大パノラマが広がり、箱根、丹沢の山々に加えて、富士山が手に取るような近さに感じられ、一方、南には相模湾が広がっています。晴れた日には大島や初島も見ることができるそうです。山頂一面の芝生には、子ども連れの家族がたくさんシートを敷いてのんびりしていました。この公園が子どもにも人気のあるのは、途中にいくつかのアスレチックが設置され、山頂からは長いローラー滑り台が下のほうに続いています。
 その山頂からの魅力に加えて、この公園は、季節の花が咲き乱れることでも有名です。今の季節には、山を登る道の脇や展望台の山側の部分に、かわいらしい水仙の花がたくさん咲いています。水仙は、そう派手ではありませんが、自分の姿に見とれたことがうなづけるような、少しうつむいた姿は、春に先駆けて咲くにはふさわしい気がします。
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 そして、山頂には、箱根、富士山をバックに一面まっ黄色の菜の花畑が広がります。
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 少し横を向くと、やはり菜の花畑越しに相模湾が広がります。青さの増した空の下、遠くに富士山、少し高くなった太陽に照らされた海、手前には一面の菜の花という構図は、再度訪れたくなる景観です。
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 日本武尊が東北戦を終え、帰路相模国から足柄を通り甲斐に出る途中、峠ではるか東方の海をながめ(あヽ吾が妻)と嘆かれたと云うことからついた「吾妻山」。山頂の石碑には、「万葉の昔から、淘綾の里 二宮の美しい海浜と、それを眼下に一望できる吾妻山は人々のふるさとでありました。云々」と書かれています。その脇には、
「相模路の 淘綾の濱の 真砂なす 児らは憂しく 思はるるかも」萬葉集第十四 東歌
と書かれた石碑もあります。淘綾の濱とは、ゆるぎ・こゆるぎの浜ともいい、二宮を中心に国府津から大磯あたりまでの白砂青松の海浜をいいます。石碑には、こう続けてあります。「戦後社会構造の変化にともない、就職の変遷や、豊かな生活になるにつれ、日毎に住民とのかかわりが少なくなり、荒廃が進むのを憂えた町民、云々」とありますが、豊かな生活になるにつれ、このような公園が荒廃していったというのは、本当に豊かな生活になったと言えるのでしょうか。アースという映画を見ても感じることですが、自然を壊すことは決して豊かではなく、とても貧困だと思うのですが。早く、そういうことに気がついて欲しいと思います。

投稿者 fujimori : 23:41 | コメント (5)

2008年01月06日 散歩

アンカー

 今日、渋谷Bunkamuraザ・ミュージアムに、19世紀スイスの自然主義の画家「アルベルト・アンカーの回顧展」に行ってきました。彼の名前は知らなかったのですが、この展示内容に興味を惹かれました。それは、展示されている絵のモチーフと、その展示の区分が、カタログでもそうなっているのですが、「故郷の村」「静物画」「よく遊べ、よく学べ」「教育と学習」「肖像画」「アンカーと風景」「ファイアンス陶器」となっています。
アルベール・アンカー(1831-1910)は、「スイスの中央部のインス村出身の、19世紀のスイスで大変な人気を博した画家です。日本ではあまり知られていませんが、国民的画家としてスイスの人々に親しまれ、その作品は国内の多くの美術館に所蔵されており、没後100年近く経つ現代においても、その人気は衰えることがありません。」と展示のはじめに書かれているように、スイスではとても人気があるようです。今日の展示を見てもそれが納得いくような、テーマにおいてもそうですが、やさしい、暖かな視線を子どもを中心に注いでいます。
描かれている対象は、生まれ育った故郷インス村の情景です。「おじいさんが子どもたちに話をしている情景」「赤ん坊の世話をする少女」「子ども同士で遊んだり関わっているすがた」など、 村の子どもや老人などの日々の生活を題材に様々な世代が幸せに共生している姿を描いています。とくに、無垢な子どもたちの姿には、無条件で人をなごませる何かがあり、疲れた心を癒すパワーがあります。
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   おじいさんと二人の孫
さまざまなジャンルに才能を発揮したアンカーですが、彼が最もよく知られているのは子どもを描いた作品であり、とりわけ「遊んでいる子ども」というモチーフにこだわりました。このモチーフをここまで追求した画家もめずらしいといえます。アンカーは、晩年は「子どもの生まれた日から」というエッセイを執筆し、インスの教育行政にも積極的にかかわっていたことからも、もともと子ども好きであったことはいうまでもありませんが、展示にはこう書かれています。
「19世紀のヨーロッパは、子どもに対する教育に大きな変化が起きた時代でもありました。先駆的であったスイス人ジャン=ジャック・ルソーや、ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッツィの人間主義的思想は、アンカーの芸術にも影響を及ぼしていたと考えることができます。ルソーは、子ども時代というものが独立した人生の一時期として価値あるものとみなし、また、ペスタロッツィは、子どもの玩具は教育的な見地からふさわしいものを与えるべきだと提唱しました。それに呼応するかの如く、アンカーは無心に遊ぶ子どもたちの姿の中に理想郷たる村の情景の中でも最高の至福を見出していたにちがいありません。
 また、アンカーは遊んでいる子どもばかりでなく、学ぶ子どもたちの様子も多く描いています。これもまた、当時のスイスにおける学校教育の変化を反映したもので、かつては採用されていた権威主義的な授業に代わって、なごんだ雰囲気の授業の様子や、楽しそうな遠足の様子などが積極的に取り上げられています。」
 どのように子どもを捉えていたか、その子どもを描いた絵画のモチーフから考えてみたいと思います。(つづく)

投稿者 fujimori : 22:04 | コメント (3)

2007年11月03日 散歩

歴史と地理

 今日は久しぶりに秋空が広がり、風が心地よい日なので、地元八王子の「風林火山」関連の史跡を歩いてみました。NHK大河ドラマも大詰めに差し掛かっています。まず、八王子城を目指しました。高尾駅から、ダラダラとした登り坂を歩いていると、街路樹に桜の花をつけた木を見つけました。
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このあたりは多摩森林科学園があり、その園内にはサクラ保存林があります。ここは、各地の著名なサクラの遺伝子を保存するために昭和41年に設置が決まりました。現在約8haの面積に江戸時代から伝わる栽培品種や国の天然記念物に指定されたサクラのクローンなど、全国各地からのサクラ約1,700本が植えられています。ですから、桜の花をつけた木は、今年の気候がおかしいので、狂い咲きの桜か、二度咲きの桜の冬桜かと思いました。しかし、そこにかけられて札を見ると、「コブクザクラ」と書かれています。コブクザクラとは、「子福桜」と書き、一つの花から実が二つ以上できる子宝に恵まれるサクラだからということで命名されました。ジュウガツザクラとシナミザクラとの雑種だそうで,秋にも咲くDNAを持っているそうです。原木は、熱海市相の原、石井氏の庭にあったもので、調査を共にした熱海市多賀の角田氏が命名し、熱海市の町中のコブクザクラは、12月初旬に満開を迎えるそうです。そのあと、八王子城につきました。この城は、小田原に本拠をおいた後北条氏の三代目、氏康の次男、北条氏照が築いた山城です。当初、氏照は同じ八王子にある滝山城にいました。小田原攻撃に向かう武田信玄軍は、まず滝山城を攻めました。北条方は廿里で迎撃しましたが一蹴され(廿里古戦場)、滝山城三の丸まで攻め込まれ、落城寸前に追い込まれます。しかし、なんとか凌ぎますが、滝山城の防御体制が不十分であり、滝は落ちるという縁起から、八王子城を築城し、移転します。
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その城も、1590年、豊臣秀吉の関東制圧の一環で、前田利家・上杉景勝軍に攻められて落城しました。このとき、以前のブログで取り上げた「赤いくし」という絵本に書かれているように、「御主殿の滝」に落城時に城内の女がここから身を投げ、城山川が三日間、赤く染まったと言われています。
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氏照はこの時、小田原に籠城中で、開城後、兄の氏政とともに城下で切腹しました。この城は、戦国の山城としての状態を良く残していることなどから平成18年4月に日本城郭協会より「日本100名城」に選定されています。そのあと、松姫を開基とした信松院に行ってみました。
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信松院というのは、武田信玄の6女の松姫のことです。松姫は、尾張の織田信長の嫡男(奇妙丸)信忠に嫁ぐことになり、武田家、織田家の間で婚約の結納をします。そして、文通をして恋仲になりますが、遠江三方が原合戦を機に武田信玄は織田信長と断交してしまいます。そして、武田信玄の死去によって、婚約は解消されます。長篠合戦に敗れた武田勝頼が次第に織田信長・徳川家康の連合軍に追いつめられると、勝頼は盛信を南信濃の防衛の為に高遠城主に任じ、松姫も一緒に高遠城に入ります。しかし高遠城は陥落して盛信が自刃し、勝頼が天目山で滅びると、大菩薩峠を越えて武州に入ります。ここには敵方の北条氏照の城下町でしたが、勝頼の妻はこの氏照の妹だったので見逃してくれます。その後、八王子に戻った松姫は心源院の住職の計らいで甲州街道沿いに草庵を結んで、自活の道を探ります。出家した松姫は、この地方に絹織物の技術を広めたりして、多大な貢献をします。歴史は、地理と密接なつながりがあります。そんなつながりの中で「地理」「歴史」「政治経済」を教えてもらっていたらよかったのに、学年で分けて教わったのは残念な気がします。

投稿者 fujimori : 20:04 | コメント (4)

2007年10月08日 散歩

オナモミ

 昨日、塩山をのんびり歩いていると、道端一面に「オナモミ」の実がなっていました。
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 学校で必ず習いますが、植物は子孫を残すために,たくさんの種子を飛び散らすための方法があります。風に乗って遠くに飛んでいくもの,自分ではじけて飛び散るもの,とりに食べられフンといっしょに落としてもらうもの.実に,さまざまな種子があります.その中で、子どものころよく遊びにも使われる種子は,人の服や動物の体にくっついて運んでもらう種子です。草むらを歩いて出てくると、ズボンや服にたくさんの種子がついています。それらの種子は、「ひっつき虫」ともいいますが,その主なものには。「イノコヅチ」という種子があり、「茎のふくらみを,イノシシの膝頭」に見立てて名付けたそうで、「猪の子槌」と書きます。他には、キク科の「アメリカセンダングサ」という北アメリカ原産の帰化植物があります。これも服についたらやっかいで.なかなか取れません。そして、ネバネバした液を出してくっつく「チヂミザサ」があり、実の形が泥棒がぬき足さし足で歩いたときの足跡に似ているので,この名前がついた「ヌスビトハギ」があります。そしてこの「オナモミ」は、自然につくというよりも.投げ合ってよく遊ぶ種子です。しかし、そうやって遊ぶときにはルールがありました。なるべく顔や頭には投げないことです。特に、髪の毛にからむととるのが大変です。昨日,見たのは、メキシコからの帰化植物オオオナモミで、最近はその種類が多くなりました。この名前は、葉っぱをもんでつけると虫さされに効くというので「生揉み(なもみ)」から付いたといわれています。また、雄生揉(おなもみ)と書いて、毒蛇に噛まれたときなどに、生の葉をもんで傷口につけると痛みが和らぐことから由来しているとも言われています。学名は「Xanthium canadense」といいますが、Xanthiumというのは、ギリシャ語の「xanthos(黄)」が語源で、オナモミの実が毛髪を染めるのに使われたことからきているようです。このよくくっつく仕掛けを参考に、カバンやくつなどに使われている.マジックテープが生まれます。それは、1948年のスイスで、愛犬を連れて山奥の狩猟に出かけていたジョルジュ・デ・メストラル氏は、自分の服や犬の毛に沢山の野生ゴボウ(オナモミの仲間)の実がくっついているのに気づきました。不思議に思った彼は、その実を持ち帰り、さっそく顕微鏡で覗いてみました。すると、その実は無数の鉤でできていて、その鉤が衣服や犬の毛にしっかりと絡みついていたのです。これにヒントを得た彼はこの構造を応用して着脱が自由自在の魔法のファスナーを発明しようとしたのです。そして何年かの試行錯誤の末、特殊ナイロン糸を使用して、無数の鉤と輪で構成された面ファスナーをつくりだしたのです。これが面ファスナーの誕生です。日本では1960年、この面ファスナーの2本の布がピタリとくっつくところが着脱が自在な『魔法のテープ』ということで「マジックテープ」という商品名で、クラレが登録商標をし、最初に生産・販売を開始しました。その名が全国に広がったのは、1964年に東海道新幹線の客席のヘッドレストカバーのファスナー(留め具)に採用され、一躍注目を浴びたのがきっかけでした。何気なく遊んだり、犬を散歩に連れていいたりしているときにでも、不思議だなあ、どうしてだろう、どうなっているのだろうと疑問を持ち、それをすぐに解明しようとするとき、新しい発見があります。当然のように過去からのことをただそのまま受け入れていると、何も生まれてきませんね。

投稿者 fujimori : 22:13 | コメント (5)

2007年09月09日 散歩

御岳

 町づくりをする上で、その町の歴史や風土などその地域ごとの特徴を知る必要があります。町づくりをする上では、それを生かすことがとても大切であり、それが、町づくりに成功するかどうかにかかっているからです。同じように人にもそれぞれその人なりの育ちの歴史があり、その人の育ってきた環境があります。その人が生きていくうえで成功するかどうかは、その人の特長を生かすことにあります。町づくりも、人づくりでも、同じことがいえそうです。私が、各地の町づくりの試み、挑戦を見て歩くのは、人づくりの参考になることが多いからかもしれません。そして、休みの日にウォーキングをして歩くのも、運動のためというよりも、各地の町のあり方、その違いの中から、共通の抱えている問題、その確認ができた後は、逆にそれぞれの違いを見、それをどう生かすか、自分ならどうするのかを考えるのがすきだからかもしれません。ですから、以前のブログに書いたように、私がウォーキングをする場所は、山とか川などの自然よりも町なかが多いのです。それにして、各地の町はそれぞれずいぶん違いますし、その地なりのよさがあるものですね。そして、そこに生活する人々、その環境としての自然はそれぞれの良さを持っています。先日の台風で、多摩川はずいぶんと荒れたようです。ニュースで流れていましたが、中州に取り残された人も何人かいたようです。私の自宅のそばを流れる多摩川の支流の浅川や、JRがその上を渡る多摩川も今日は普段と変わりのない流れを見せていました。水かさは平常に戻り、そのにごりも普段同様な透明さを持っていました。しかし、その多摩川の上流に今日行ってみて、水かさの多さと、流れの速さと、水の濁りに台風の名残を感じました。
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 同じ川であっても、その流れは、場所によってずいぶんと見せる姿が違いますね。今日は、久しぶりに日本画家の河合玉堂の作品を見たく「玉堂美術館」に行ってみたのです。そこに展示されている作品の中でインパクトがあるのは、15歳のころの作品です。つくづく、人にはそれぞれの才があり、それを生かす環境を与えることによってそれが開花する反面、持っていないものを無理やりに持たせようと人生の大半を費やす虚しさを感じます。
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 この美術館のパンフには、「1日の労は、1日にて足れり」という人本然の幸せがそこにあるということが、玉堂画の永遠性を示していると書かれています。永遠は、望んで得られるのではなく、1日の積み重ねであり、毎日を大切に生きていくことが重要なのです。この地にある御岳山(標高939m)にケーブルで登ってみました。この山頂には、武蔵御獄神社があり、関東一の霊山として知られています。御岳ケーブルカーを降りて西に5分ほど歩いた所にレンゲショウマという花が咲いていました。
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 知らずに行ったのですが、ここは、全国でも珍しいレンゲショウマの群生地だそうです。花がハス(蓮)の花に、葉がサラシナショウマ(晒菜升麻)に似ているので、レンゲショウマ(蓮華升麻)の名がつけられたといわれています。植物図鑑には「太平洋側の深山に生える多年草」と書いてあるそうですが、細長い花茎を伸ばし、約3~4cmの下向きに恥ずかしそうにつける淡い紫色のかれんな花を見ると、深山に生えると言われる所以がわかります。この花のことは私は知りませんでしたが、初めて知らなかった花を見るときに、とても不思議な気がします。それは、花や葉の形、咲く姿、咲いている場所がその花の存在を必然的なものにするからです。人がそこに生まれ、そこで育つのも必然的なことなのかもしれません。

投稿者 fujimori : 21:07 | コメント (3)

2007年06月03日 散歩

百合

 今日は、少し早かったのですが、西武球場前の「ゆり園」に行ってみました。園は、西武線沿いにあるので、いつも「ゆり園」のポスターを眺めていて、余りのすばらしさに一度見てみたいと思ったのです。
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 ところが、まだほとんど咲いていないので、今日の入場料は無料でした。このすばらしい一面のゆりの写真は、ポスターのものです。百合の姿は、美人の美しい歩く姿にたとえられたことは以前のブログで書きましたが、そのほかにも、吉永小百合さんのように女性の名前に使われたり、歌の歌詞にも登場します。歌詞に登場する百合の姿で、どんなイメージを持っているかがよくわかります。まず、私がすぐに思い浮かべるのは、「北上夜曲」です。この歌詞には百合の匂いがイメージされます。百合は、姿だけでなく、その匂いも好き嫌いがあるようですが、独特なものがあります。「匂い優しい 白百合の 濡れているよな あの瞳 想い出すのは 想い出すのは 北上河原の 月の夜」うたごえ喫茶などで、ずっと作者不明の愛唱歌としてよく歌われていましたが、作曲者の安藤睦夫が原作の名乗りをあげ、レコード化され、映画化もされました。昭和16年に水沢農学校に通う菊池規と八戸中学校の生徒だった安藤睦夫が水沢(現 奥州市)で偶然出会って意気投合し、この歌が誕生しました。私が初めて岩手の水沢に行ったときにカラオケで歌った思い出があります。
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 その次に思い出す歌は、あのザ・フォーク・クルセダーズのメンバーである北山修が作詞し、加藤和彦が作曲した「白い色は恋人の色」です。この曲はさまざまな色をイメージしており、1番の歌詞では、白百合から白い色は恋人の色をイメージしています。「花びらの白い色は 恋人の色 なつかしい白百合は 恋人の色 ふるさとのあの人の あの人の足もとに 咲く白百合の 花びらの白い色は 恋人の色」歌っていたのは、「ベッツィ&クリス」というハワイ出身のベッツィとアイダホ出身のクリスによるフォークソングデュオで、その声もなんとなく白百合のイメージがあって人気がありました。同じように白く咲く花といえば百合をイメージしたものに「圭子の夢は夜ひらく」(石坂まさを作詞)があります。圭子とは、もちろん「宇多田ヒカル」の母親である藤圭子です。「赤く咲くのは けしの花 白く咲くのは 百合の花 どう咲きゃいいのさ この私 夢は夜ひらく」原曲は、練馬少年鑑別所で歌われていたものだそうで、自分がどうすればいいか迷って、少し捨て鉢になっている気持ちが藤圭子の投げ捨てるような歌い方ではやりました。なんと、藤圭子版のこの曲の歌碑が、新宿区の花園神社に建てられているそうです。捨て鉢な自分に比べて、高貴なイメージの百合の花は、こんな歌にも書かれています。「あざみの歌」(横井弘作詞)の2番の歌詞です。「高嶺の百合の それよりも 秘めたる夢を ひとすじに くれない燃ゆる その姿 あざみに深き わが想い」山百合の姿は、「高原列車は行く」(丘灯至夫作詞)に楽しげに描かれています。「みどりの谷間に 山百合揺れて 歌声ひびくよ 観光バスよ 君らの泊りも 温泉の宿か 山越え 谷越え はるばると ララララ ララ ララララララ 高原列車は ラララララ 行くよ」
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 百合というと、白い色を思い浮かべますが、黒百合となると、激しい熱情を感じるようです。映画「君の名は」の第2部主題歌「黒百合の歌」(菊田一夫作詞)では、各番の歌い出しでこんなイメージを持っています。「黒百合は 恋の花」「黒百合は 魔物だよ」「黒百合は 毒の花」ドイツ民謡に吉丸一昌が歌詞をつけた「故郷を離るる歌」では、故郷のイメージとして「園の小百合、撫子、垣根の千草」を思い浮かべるように、なににしても「百合」は代表的な花なのでしょう。
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投稿者 fujimori : 22:52 | コメント (3)

2007年05月21日 散歩

 先日訪れた奈良の石造物ではありませんが、とても不思議なものがあります。また、石舞台のような古墳などには、ボリューム感のある建造物もあります。そして、建物には美しいものも多くあります。そんな建造物の美しさを感じるものに「橋梁」があります。橋(はし、橋梁、きょうりょう)は、人や物が、谷、川、海、窪地や道路、線路などの交通路上の交差物を乗り越えるための構造物です。同じように、道路、窪地、線路などを跨ぐ橋は陸橋と呼ばれます。橋はある空間を越えるものであるということは、その構造に工夫があります。この工夫された構造に美しさを感じます。昨日、遠足が終わって夕方まで少し時間があったので、妻と多摩川を歩いてみました。よく多摩川土手を歩くのですが、土手にはさまざまな草花が咲いたり、川には水鳥が遊んでいたり、空は広く広がっているので気持ちが晴れ晴れとしてきます。土手を歩いていくと、いくつもの橋を見ていくことになります。昨日歩いたのは、浅川が多摩川に合流する付近です。この合流点を少し下流に行ったところに架かっている橋が「府中四ッ谷橋」です。
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この橋は、1994年に架けられたばかりの橋長446mの大きな白い吊り橋で、現在の鎌倉街道で、多摩川の北岸から野猿街道に通じるようになっています。斜張橋の形が美しい橋です。斜張橋とは1本以上の主塔からケーブルによって桁を吊り下げた構造で、広島県しまなみ海道の「新尾道大橋」や大阪市「天保山大橋」、名古屋市「名港中央大橋」、横浜市「横浜ベイブリッジ」、神戸市「東神戸大橋」などが有名です。吊橋の一種ですが、違うところは、「吊橋」は塔の間にまず渡したメインケーブルがあり、そこから垂らしたハンガーロープで桁を吊っていることである。それに比べてつってある「斜張橋」は、塔から斜めに張ったケーブルを橋桁に直接つなぎ支える構造のものです。古くは西洋の中世の城の城門の巻き上げ式の跳ね橋が斜張橋と言えます。しまなみ海道の本四連絡橋のうち「新尾道大橋」のほか「生口橋」「多々羅大橋」は斜張橋、「因島大橋」「大島大橋」「来島海峡大橋」らは吊橋です。その多々羅大橋は当初、吊り橋で計画されましたが、途中で斜張橋に変更され、世界最長の斜張橋となっています。生口橋は世界第10位です。吊り橋では明石海峡大橋が世界最長です。
ほかに、長崎に行ったときの美しい橋を二つ見せてもらいました。ひとつは、鋼アーチ型の橋で、「西海橋」です。
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1955年に完成し、昨年船を運転させてもらった日本三大急流で有名な伊ノ浦(針尾)瀬戸に架かる大きなアーチを描いた橋です。建設当時は東洋一、世界第三位のアーチ橋でした。佐世保市とお隣の西彼杵半島をつないでいます。もうひとつは、それに並んでかけられている「新西海橋」です。
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この橋は、鋼中路ブレースドリブアーチ橋で、2006年に完成したばかりです。西海パールラインの橋として使用されています。アーチの中間を道路が通る中路橋としてユニークな姿をしていて、桁下は、歩道があり、両岸の西海橋公園を結んでいます。歩道部を歩いてみると、隣の西海橋が綺麗に見え、歩道の中間地点に展望室があり、そこの床に覗き窓が4箇所あります。そこからは眼下の渦潮や通る船を覗いて見ることができます。高所恐怖症の人には少し怖いようですが、私はとても興味深く覗き込んでみました。
 人間の知恵は、「機能」を「美」に変えることができるのですね。

投稿者 fujimori : 22:00 | コメント (2)

2007年04月09日 散歩

散った桜

 美術館が、今、東京では開館ラッシュです。六本木では、国立新美術館(2007年1月21日開館)に続いて、サントリー美術館(2007年3月30日開館)の相次ぐオープンにより、一大アートエリアとしてさらなる盛り上がりを見せています。これら2館に六本木ヒルズビルの中にある森美術館を加えた3館は、地図上で三角形を描く「六本木アート・トライアングル」として、新しいアートの拠点になっています。私もその3館に行ってみたいのですが、たぶん今の時期はとても混雑して、ゆっくり見るどころか入場もできるかどうか怪しいくらい混雑しているのではないかという気がします。そこで、昨日の日曜日は、山種美術館に行ってみました。山種美術館は故山﨑種二が蒐集した美術品の寄附により、昭和41(1966)年7月、日本橋兜町に日本画専門の美術館として開館した美術館です。その後、昭和51(1976)年、二代目理事長・館長の山﨑富治が旧安宅コレクションの速水御舟作品104点を一括して購入し、それまで所蔵していた作品と合わせて118点(うち79点は素描類)となり、国内外で最も優れた御舟コレクションと言われています。そして、30数年を経て設備の老朽化に伴い、平成10(1998)年に東京都千代田区三番町へ移転いたしました。この場所は、桜やボートが浮かぶ風光明媚な千鳥ヶ淵に隣接しており、また、この千鳥ヶ淵は、遺骨収集などにより海外などから持ち帰られた戦没者の遺骨のうち、遺族に引き渡すことのできない遺骨を納骨してある「千鳥ケ淵戦没者墓苑」があります。この「山種美術館」で、今開催されているのは、毎年春のお花見の時期に行われている「桜展」です。この開催趣旨には、「四季折々の風趣に恵まれ、自然にゆだねた生活を営んできた日本人にとって、草木花に寄せる想いはことのほか深いものがあり、特に桜は古来より親しまれてまいりました。絢爛と咲き、いさぎよく散る…桜ほど日本人の美意識に適う花はないのではないでしょうか。それゆえに絵画、文学をはじめとする芸術全般において多くの芸術家たちに好題材として選ばれてまいりました。本展覧会では、所蔵品の中から桜をテーマにした作品を中心に選び、お隣の千鳥ヶ淵の桜と共に華やかさを競い合おうという趣向でございます。今年は桜ばかりでなく、春を彩る美しい花々とともに春を満喫していただき、都会の喧騒を離れてお過ごしいただければ幸いに存じます。」ということで、「桜さくらサクラ・2007 ―花ひらく春―」と題して、横山大観の「春の水」、菱田春草の「桜下美人図」、上村松園の「桜可里」、奥村土牛の「吉野」、山口蓬春の「芍薬」、速水御舟の「夜桜」、伊東深水の「吉野太夫」、東山魁夷の「春静」、奥田元宋の「奥入瀬(春)」、石本正の「罌粟」、加山又造の「夜桜」など有名な作家、作品が約45点も並んでいます。必ずしも「桜」を題材にしているわけではありませんが、この描かれている景色、桜以外の花を見ても、その周りに桜が咲いているのを感じます。これらの絵を見て気がついたのですが、以前のブログではありませんが、満開の桜というよりも、夜桜とか、1本の桜とか、桜の華やかさというより、その華やかさの裏にある寂しさを描いたものが多くありました。館の外の桜は、盛りを過ぎ、葉桜に換わりつつあり反面、花びらで覆いつくされた公園、お堀などの表面は鮮やかであると同時に、はかなさを感じます。
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 桜は、咲いているときだけでなく、散っているとき、散り終わって地面を覆っているとき、すべてに日本人が好んだ「美」がある気がしました。
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投稿者 fujimori : 19:55 | コメント (3)

2006年11月29日 散歩

玉川上水

 昨日のブログで、太宰治中期の名作『富嶽百景』のことを書きましたが、その太宰が、愛人、山崎富栄と玉川上水で入水自殺したのは1948年6月13日のことでした。太宰はそれまでに3回心中未遂をしており、これが4回目でした。最近、いじめを受けた青少年の自殺が目立ちます。どうも、自殺は、定期的に伝染していくようです。江戸時代から心中が話題になることがよくありますが、この太宰の自殺も、事件を知らせる16日の朝刊の記事の見出しには「太宰治氏情死行 愛人と玉川上水へ投身か」とあるように心中のように見えます。しかし、その記事の中の「虚無を慕いて…」というところをみると、愛人との自殺はきっかけに過ぎないようです。最近のいじめによる自殺も、確かにいじめられているつらさが原因でしょうが、それを教員への懲罰でやめさせようとするだけでなく、子どもの心に潜み始めている「虚無のこころ」にも目を向ける必要があるでしょう。
 太宰たちをのみこんだ玉川上水は当時、「人恋川」とも呼ばれるほど流れが激しく、溺れると「死体もあがらぬ魔の淵」だったそうです。今は、その流れを覆いつくさんばかりに緑がうっそうと茂り、その脇を川に沿って続く道は散歩にうってつけです。
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 今週の日曜日に、その玉川上水の脇を少し歩きました。夕方でしたので、次第に暮れていく中を、秋の終わりを感じながら歩くのは、季節を感じることができます。この玉川上水は、多摩川を水源とし東京都羽村市から新宿区四谷までを流れる用水路(上水)です。多摩川水系は現在でも東京の水源の1/3ほどを占めていて、かつては、多くが新宿区の淀橋浄水場まで送られ取水されていました。その淀橋浄水場も廃止され、今は都庁を中心とした超高層ビルが立ち並ぶ新宿副都心を構成しています。ですから、今は、大半が羽村第3堰で取水し、鉄管で東村山浄水場に送られています。玉川上水は、このあたりの人にはよく知られていますが、玉川兄弟がその工事を行いました。江戸時代、徳川幕府が永く続き、安定してくると江戸の人口はふえ、水不足が心配になりました。そこで、幕府は玉川兄弟に、多摩川から水道を引くことを命じました。兄弟は、それまでも幕府が行う土木工事などを担当してきましたが、これほどの大きな工事は初めてでした。水道を作るには、川を掘るという土木の知識が必要なことはもちろんですが、水を流すためには、多摩川と江戸の標高がどれほどあるのか、どのくらいの傾斜で川を作ればよいのか、どのような方法で傾斜を測るか、といった測量の知識が必要になります。多摩川の取り入れ口の高さと江戸の高さの差は、わずか100mほどでしたから、100m進んで、25cmほど下がる正確な川を作らなければなりませんでした。玉川兄弟は、このような正確な測量を夜中にちょうちんや火をつけた線香の束をともし、それを見とおして行ったといわれています。そんな難しい工事でしたから、何度も失敗をしています。はじめは、今の国立市の青柳から掘りだしましたが、途中で土地の高いところに掘り進み、水が流れなくなりました。2度目は今の福生市から掘りましたが、JR拝島駅の近くまできたとき、水が地面に吸い込まれ、流れなくなりました。何度もこんなんな目に会いましたが、わずか八か月で玉川上水と、そこから江戸の町々に水を引く水道工事を完成させました。兄弟の墓所は台東区内の聖徳寺にあります。ここも散歩の途中で立ち寄ったことがあります。
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投稿者 fujimori : 23:04 | コメント (2)

2006年10月17日 散歩

星空

 少し前まで放映されていたテレビCMで、こんな場面を覚えているでしょうか。2005年は、ネスカフェゴールドブレンド「違いを楽しむ人・満天のプラネタリウム」篇で、2006年は、ネスカフェゴールドブレンド「星振る大地」篇というもので、美しい星空のもとで、二人でコーヒーを飲んでいる場面です。この二人のうち一人は唐沢寿明ですが、もう一人彼と共演しているのは、大平貴之という人です。彼は、1970年神奈川県川崎市に生まれます。小学校の頃からプラネタリウム作りを始め、学生時代の1991年にアマチュアとしては前代未聞であるレンズ投影式プラネタリウム「アストロライナー」を完成させ話題となります。大手電機メーカーSONYに就職してもその情熱は冷めることがなく、仕事が終わってはプラネタリウム作りを続け、そして1998年に、当時世界最高の170万個の恒星を投影することができ、重量わずか30キログラムの移動式プラネタリウム「メガスター」を個人で完成させたのです。その後SONYを退社しフリーとなり、2003年、星の数を410万個に増やすなど機能を強化した新型プラネタリウム『メガスターII』を完成させ、渋谷東急文化会館の閉館イベントで初公開されるなど話題となりました。2004年4月、メガスターII-1号機『Phoenix(フェニックス)』が川崎市青少年科学館で通年公開開始されることになりました。この映写がテレビでのCMに使われることになったのです。これを見に、日曜日に行ってきました。
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プラネタリウムには、一時はよく行きましたが、今回、久しぶりでした。この科学館は、多摩丘陵のゆるやかな起伏に富んだ生田緑地の中にあります。ほかに、枡形山展望台、噴水広場、かおりの園、岡本太郎美術館、全国の古民家を集めた日本民家園、藍染め体験のできる伝統工芸館等があります。メガスターを作り上げた大平さんが初めて見たプラネタリウムも、この青少年科学館のGM II-16-Tだそうです。メガスターIIは、本当の星空と同じように、目に見えない明るさの星まで映し出します。そこには、本当の空では望遠鏡でなくては見られないような星雲・星団まで映し出す星の数は、410万個に上ります。ここの青少年科学館では本格的な双眼鏡を入り口で貸してくれます。これで覗くと、肉眼ではうすい雲のように見える天の川も、実際は微細な星の集まりであることがわかります。まるで本当に無限の宇宙を見上げているような、星空の奥行きが感じられます。アンドロメダ銀河も、円盤型をしているのがわかります。2004年12月には『メガスターII-Cosmos』が「世界で最も先進的なプラネタリウム」であるとギネスの認定を受けています。
プラネタリウムは、さまざまな時間や場所の、星空や宇宙の光景を再現するシミュレーターです。1923年にドイツ博物館とカール・ツアイス社が、 部屋の中にドーム型のスクリーンをもうけ、そこに投影機で好きな季節や時刻の星空を計算機で投影して再現するタイプのプラネタリウムを発明しました。そこには、動きが複雑な惑星や太陽、月もふくまれていました。いま、プラネタリウムというとこのタイプを指します。最近はコンピュータグラフィックスで全ての星を映し出し、オリオン座の星から見た星空や数百万年後の星空もうつすことができるデジタルプラネタリウムも普及しはじめました。現在プラネタリウムを最も多く保有している国はアメリカで、その次に日本の約300基です。ドーム直径の大きさは世界5位までが全て日本のものです。国の大きさから考えて、日本は、星空に関しては先進国ですね。

投稿者 fujimori : 23:37 | コメント (2)

2006年10月09日 散歩

イルカ

 動物園といえば、さまざまな企画をして入場者数を増やして有名になった「旭山動物園」がありますね。それに刺激を受けて各地の動物園は、いろいろな工夫を凝らした企画を行っています。同様に、各地にある「水族館」もいろいろな工夫をしています。その中で、昨年の4月に開館した「エプソン品川アクアスタジアム」は、広さも、魚の数もたいしたことがないわりには高い入場料というハンデを負いながら、人気があります。それは、都心の真ん中の、品川プリンスホテルとの一体になった室内の水族館ということがあるのですが、そのほかにも、都心ならではの企画があります。ここに、今日行ってみました。水族館の入り口には、「銀河鉄道999(スリーナイン)」をモチーフにした「ギャラクシーエクスプレス999」などのアトラクションや、松任谷由美さん命名のライブホール「ステラ ボール」が併設されています。また、色とりどりの熱帯魚が泳ぐ水槽を眺めながら食事ができるレストランやカフェなどもあります。しかし、なんといっても人気があるのが、「あしかショー」と「イルカショー」でしょう。これは、どこの水族館でも人気があるものですが、ここのショーは、あることから有名になりました。それは、ここで演技するイルカの性格付けをしたことです。この水族館のオフィシャルサイトでは、それぞれのイルカについての紹介がされています。人間にもどこかにいそうなタイプで、自分はどのイルカのタイプだろうと思ってしまいます。アンクは物覚えが良く、得意な種目は、「バックフリップ」です。ネイルは人なつっこい性格で、得意な種目は、「スピンジャンプ」で、ファインはまじめで、「ライド」が得意です。レイニイは飽きっぽく、「スライダー」が得意、スノーウィは無邪気で甘えん坊、得意な種目は「リフト」、ナタリーは気分屋で「テイルウォーク」が得意、ロロの性格は、優等生で「水吹き」が得意、リップは、好奇心旺盛で、「フロントフリップ」が得意です。その中で、「ラッキー」が有名になりました。ラッキーは、ここには、性格は頑固だがガンバリとあります。得意な種目は、他のイルカと違って、さまざまな芸ではなく、「バイバイ」をすることとあります。よく、子どもでも、人見知りが激しく、恥ずかしがりやの子は、すぐ「バイバイ」をしますね。それと同じように、ラッキーの性格は人見知りで怖がりらしいのです。それよりも有名になったのは、「跳べないイルカ」として新聞・雑誌で紹介されたからです。アクアスタジアムのカマイルカの「ラッキー」は唯一のオスのイルカですが、一番の恐がりでしかも極端な運動音痴なのです。ほかのイルカと比べてもパフォーマンスをなかなか覚えられないそうです。何頭かがそろってジャンプをするときでも、ラッキーだけ低い位置でジャンプをします。また、7メートルも高いところにあるボールをほかのイルカたちはタッチしますが、ラッキーだけは3メートルがやっとです。
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 それでもがんばって努力をして、少しずつ少しずつ、あゆみは遅いかも知れないけれど、できるようになっているのです。このがんばる「ラッキー」が、子どもたちに人気があるそうです。そんなラッキーですが、横浜・八景島シーパラダイスからここに越してきたとき、イルカは普通、環境が変わると餌を食べなくなるのですが、他の3頭と違って、ラッキーだけは、食べたそうで、怖がりなのに図太いという評判です。イルカは、とても知恵が高いだけに、人間のようにそれぞれの性格があるのですね。その性格も、どれがいいというわけではなく、それぞれの性格を生かすことが大切なことがわかります。

投稿者 fujimori : 21:03 | コメント (3)

2006年09月25日 散歩

秋の川原

 秋は、散歩をするのには、最適の季節です。風はさわやかで、日差しはさして強くなく、紫外線の量は少なく、空は、澄んでいます。しかし、春に比べて、花は地味なものが多く、これから厳しい冬が来ることを予感させるものがあります。私の自宅のそばには、多摩川の支流である浅川が流れています。ですから、散歩に出かけるときは、どこに行くにしても、まず、浅川の土手を歩きます。その土手は、今は護岸工事で、その前の自然の草花と違う植生になってしまっていますが、一時期のような、コンクリートのテトラブロックで覆いつくすような工事ではなく、コンクリートのブロックを土で埋め、そこに草の種をまき、緑の帯を作ります。ですから、緑に覆われますが、地下は深くないので、根の深い植物は生えにくいでしょうし、土の中では行き来ができないので、地中の生き物はすみにくいでしょうね。それでも、秋は一面の黄色い花で埋め尽くされます。
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 今が盛りなのは、「キクイモ」という花です。この花の名前を初めて聞いたときには、なんだかイメージには合いませんでした。「キク」は分かりますが、「イモ」は、なんだろうと思いました。それは、この植物は、キク科ヒマワリ属の多年草で、地下に小さな芋ができるのでこの名前がついたのです。別名はアメリカいも、ぶたいもというように、原産地は北アメリカ北部から北東部で、日本には江戸時代末期に飼料用作物として伝来しました。栽培されているもの以外に、第二次世界大戦中に加工用や食用として栽培されたものが野生化したものもあり、雑草特有の,強靭な生命力で、土手などに群生している様は壮観です。茎や葉に小さな刺があり,また,粘液が付いているので手で触るとべとべとした感じがします。塊茎を食用や飼料にするほか、果糖の原料とされる。牛乳で煮たり、バター焼き、フライ、スープ、味噌漬けなどにして食べます。だから、「イモ」なのですね。
 また、秋の川原を一面に多いつくす、もうひとつの黄色い花として有名なのが、「セイタカアワダチソウ」(背高泡立草)という植物があります。これも、キク科の多年草ですが、やはり、北アメリカ原産で、帰化植物(外来種)です。川原では、ススキなどの在来種と競合します。種子だけでなく地下茎でも増え、しかも、根から周囲の植物の成長を抑制する化学物質を出します。(この物質はセイタカアワダチソウ自身の成長も抑制します。)このような圧倒的な強さを持って、川原を覆いつくしそうで、ちょっと、悪者のイメージがあります。しかも、一時は喘息など花粉アレルギーの元凶だと思われ、嫌われる植物のひとつになってしまっていますが、この花は、花粉をミツバチなどの昆虫によって媒介させる虫媒花であり、花粉を風に乗せてばらまく風媒花ではなく、また、花粉の飛散量は少なく、今は、花粉症の原因植物としては濡れ衣であったといわれています。また、最近は、あまり派手な繁殖が見られなくなり、それほど背の高くないものが多くなっています。アメリカのケンタッキー州では、州花となっています。もともとは観賞用に導入されたとか、蜜源植物として優秀であるので養蜂業者が積極的に種子を散布したとの話もあります。和名の由来は、同じ属のアキノキリンソウの別名であるアワダチソウよりも草丈が高いことによっています。いくら外来種といっても、今では、身近な植物となり、秋に咲く花として冬への導きを感じさせ、この花が終わると、季節は一気に花の少ない季節、冬へと進んでいきます。

投稿者 fujimori : 17:31 | コメント (3)

2006年09月18日 散歩

生姜

 今日、都内を歩こうと思って電車に乗っていたら、社内にはっぴを着た女性が二人乗っていました。どこかで秋祭りでもやっているのだろうかと携帯電話で調べてみたら、「だらだら祭り」というのをやっているようです。祭りの名前が面白いので行ってみることにしました。その場所は、「芝大神宮」通称「芝神明」といい、9月10日~21日まで例大祭の真っ最中でした。
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浜松町の駅のそばで、港区役所や芝増上寺の近くにあります。この芝大神宮は、伊勢神宮の御祭神、天照大御神(内宮)、豊受大神(外宮)の二柱を主祭神としてお祀りしています。御鎮座は遠く平安時代に創建された由緒あるお社です。普通の祭りは数日間ですが、ここの祭りは10日間にも渡って行われるために、口の悪い江戸っ子は 「だらだら祭り」と呼びます。秋の長雨の頃にかかって、祭りの最中よく雨が降ったので「めくされ祭」とも云われました。このお祭りは、別名を「生姜市」と言います。それは、境内で「御膳生姜(ごぜん生姜)」と呼ばれる縁起物の生姜が売られているからです。
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ここの生姜を食べると、風邪をひかないと言われています。生の生姜のほか、生姜飴、生姜湯なども売られているので、それらを買いました。昔このあたりには生姜畑がたくさんあったそうが、今は、高知生姜が売られています。昔は売れると柏手を打つくらい、そうまるで熊手市のようなにぎわいだったと言われます。生姜といえば、昔、浪人、由比正雪が幕府転覆の謀反を仕掛けたとき、川に毒を流したとの噂が流れました。しかし、上流で老女が生姜を洗っていたため、江戸は無事だったということから、毒消しの生姜は大変な人気になりました。お寿司の「ガリ」にも 殺菌作用があるということでつかわれています。生姜には、主に3つの種類があります。年中出回っている「ひね生姜(根生姜)」と、栽培した年にできた新物の「新生姜」、谷中生姜のような葉をつけたまま出荷する「葉生姜」です。「ひね生姜」は、皮に傷がなく、肉厚でみずみずしい鮮度感のあるものがよいといわれています。保存方法は、水分があるとカビが生えやすいので、湿ったものは少し陽にあてて乾かし、肌が白っぽくなったらラップで包むとよいそうです。冷蔵庫に入れたほうがより風味が保てるようです。また、季節の変わり目は、なにかと風邪を引きやすいものですが、風邪の引きはじめには、生姜汁にお湯を加え、砂糖かハチミツを入れて甘くした「生姜湯」をよく飲みますが、これは日本に限ったことではないそうです。中国ではスープや粥に生姜を入れて食べますし、スエーデンでは、生姜とハチミツ入りのビールを飲み、インドではこしょう入りのハチミツを生姜につけてなめるそうです。それは生姜に含まれている辛味成分と精油成分が、血行を促進させて身体を温める効果があるからです。また生姜の辛味成分には、防腐・抗菌作用と抗酸化作用があるほか消化を助ける働きもあります。日に日に寒くなるこの時期には、身体の芯から温めてくれる「生姜湯」のお風呂がお勧めです。熱めのお湯での足湯でも、十分に身体を温めることができます。風邪でお風呂に入れない時などに試してみてください。まず、市販の生姜をひと握り分(80g)をすりおろします。そして、そのしぼり汁を浴槽に入れてかき混ぜます。さらに、薄くスライスした生姜を布袋に入れ、揉みながら入浴すると芳香効果が増します。早速、今日買ってきた生姜をいただきました。

投稿者 fujimori : 20:30 | コメント (2)

2006年09月10日 散歩

コスモス

 電車の中吊り広告で、こんなものを見ました。「初秋の庭園、花と音めぐり音めぐりコンサート」というもので、9月1日から一月間、浜離宮で「コスモスが咲くお花畑を背景に、懐かしのフォークサウンドや琴の演奏、津軽三味線などの音楽をお楽しみいただけます。」というものでした。懐かしのフォークサウンドというメッセージに引かれて行ってみました。しかし、今日は、花てまりという姉妹で、「琴とフルート」演奏でした。最初の曲は、あの「淡紅の秋桜(コスモス)が秋の日の 何気ない陽溜りに揺れている」と始まる「さだまさし」作詞作曲で、山口百恵さんが歌った「秋桜(コスモス)」です。この歌は、嫁ぐ娘が、母の優しさを感じる歌で、1番の最後のフレーズの「こんな小春日和の穏やかな日は あなたの優しさが浸みて来る」というところが印象に残ります。でも、今日は、小春日和というよりも、残暑厳しい日和でしたが。そして、この歌う姿の後ろには、一面のコスモスが咲き乱れていました。
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 コスモスといっても、イメージするあのピンク色の花ではなく、今咲いているのは、「キバナコスモス」という品種で、大正時代に日本に渡来し、コスモスに比べて暑さに強いためにこの暑いころから咲き始めます。花は黄色やオレンジが中心です。コスモスの原産地はメキシコの高原地帯で、18世紀末にスペインマドリードの植物園に送られ、コスモスと名づけられ、日本には明治20年頃に渡来したと言われています。渡来当時は、「あきざくら」と呼ばれていました。「秋桜」の字は、主に秋に咲き、花弁の形が桜に似ているところからの和名です。また、大春車菊(オオハルシャギク)とも呼ばれます。コスモス(cosmos)の語源は、ギリシャ語の「秩序」「飾り」「美しい」という意味の「Kosmos, Cosmos」の言葉に由来することから、星がきれいにそろう宇宙のことを、cosmosと呼び、また、花びらが整然と並ぶこの花もcosmosと呼ぶようになったのです。
 また、ここ「浜離宮」は、潮入の池と二つの鴨場をもつ江戸時代の代表的な大名庭園です。潮入の池とは、海水を導き潮の満ち干によって池の趣を変えるもので、海辺の庭園で通常用いられていた様式です。この地は、寛永年間(1624~1644年)までは、将軍家の鷹狩場で、一面の芦原でした。ここに初めて屋敷を建てたのは、4代将軍家綱の弟で甲府宰相の松平綱重が、将軍から海を埋め立てて甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てる許しを得ました。その後、綱重の子どもの綱豊(家宣)が6代将軍になったのを契機に、この屋敷は将軍家の別邸となり、名称も浜御殿と改められました。以来、歴代将軍によって幾度かの造園、改修工事が行なわれ、11代将軍家斉のときにほぼ現在の姿の庭園が完成しました。明治維新ののちは皇室の離宮となり、名前も浜離宮となりました。
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 将軍や大名たちは、贅沢で、権力を行使し、こんないい場を自分の別邸にしたり、遊び場(狩場とか鴨場など)にしたりしてと腹も立ちますが、今となっては、都心にこんなに緑を残してもらえるとは、何が幸いするか分かりませんね。東京都武蔵野市と三鷹市にまたがる都立公園である「井の頭恩賜公園」も、三鷹の地名に残るように、この一帯の武蔵野は徳川歴代将軍が鷹狩りを楽しんだ鷹場であり、3代将軍家光が鷹狩りに訪れた際の休息のため、井の頭池を見渡す場所に御殿を造営したことから御殿山の地名が起こったといわれていますし、井の頭池の名も家光によって名づけられたと言われています。これからは、都内の公園めぐりによい季節になります。

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2006年08月21日 散歩

若冲

 昨日の日曜日には、上野の東京国立博物館で開催中の「プライスコレクション 若冲と江戸絵画展」に行ってきました。8月14日には、入場者数が20万人を突破したそうです。ただ、昨日は、私も以前に行った「ルーブル展」が最終日ということもあって、そちらの方が混んでいたようです。
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 この絵画展は、伊藤若冲中心の江戸絵画展ですが、それよりも興味を持ったのは、アメリカ・カリフォルニアの「プライスコレクション」というものです。このコレクションは、魅力に満ちた江戸絵画のコレクションとして世界的に知られています。半世紀前、ジョー・プライス氏は当時美術史家にも見過ごされていた江戸時代の個性的な画家たちの作品に目を奪われ、収集を始めたそうです。彼は、大学を卒業して、彼の父親の友人であり、東洋美術のコレクターでもあった建築家フランク・ロイド・ライト(今明治村に保存されている帝国ホテルを設計した人)の付き添いで立ち寄ったニューヨークの古美術店で、画家の名前も伝記も知らない一幅の葡萄を描いた水墨画に心惹かれました。そこで、彼は、大学の卒業記念として買うはずのスポーツカーの代わりに、名前も知らない画家の1枚の絵を手にしたのです。これは1953年、彼が24歳の時のエピソードです。その水墨画こそが若冲の作だったというわけです。ここから、江戸絵画コレクションは始まり、その後「ただ見て気に入ったものだけを集め」たら、クオリティーの高い江戸絵画のコレクション、中でも超貴重な若冲コレクションが出来上がったというのです。彼自身が、そのときのことを、ブログでこう言っています。「50年前、まだ20歳過ぎの若者だった私は、遊びに行ったN.Y.にて伊藤若冲に出会い、そして衝撃を受けました。それが若冲の描いた絵であることも、さらには日本画であることさえ知らぬまま…。人生におけるターニングポイントとは突然やってくるものです。私にとって若冲との出会いは、大きな大きな分岐点でした。」コレクションの中心は若冲の作品ですが、その他にも、独自の自然観察眼と個性豊かな表現技術であり、今注目を集めている既成の江戸絵画観を変える力強い魅力にあふれた作品がコレクションされています。そんな彼ですから、絵の見方も独特で、こんな提案もしています。「学術的または資産的価値など“難しいこと”にはあまり興味がありません。作家名にすら、こだわらないほどです。大切なのは、作品の前に立ったときに何を感じるかということだけ。何かを感じられる作品が、すなわち“名作”なのですから。ぜひ、みなさんも同じように、素直な感覚で楽しんでいただければと思います。ただし、ファーストインプレッションだけで判断するのではなく、できれば、よーく心に染みこませるように鑑賞してみてくださいね。かつて、同じ日本、同じ江戸を中心に展開されていた文化、その中の人間模様を想像してみると面白いですよ。」そこで、展示法も工夫されています。「江戸時代にガラスケースはなかった」というプライス氏の鑑賞態度により、ガラスケースを用いず、光の効果に工夫を凝らした展示室を1室設けてあります。昔は自然光(日光、月光)や蝋燭の灯りで鑑賞をされており、時間によって、その光の当たり方が変わるということで、光が明るくなったり、暗くなったり変わるのです。そうすると、展示されている作品が、動くように、変化します。いろいろな意味で、とても、興味深い展示でした。

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2006年07月27日 散歩

くちなし

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 今週の日曜日、散歩をしていたら、「くちなしの花」を見つけました。時期的には、少し遅い感じでしたが、それでも、まだきれいに咲いています。とっさに思い浮かべるのは、「水木かおる作詞、遠藤実作曲で、渡哲也が歌った「くちなしの花」です。「いまでは指輪も 回るほど やせてやつれた お前のうわさ くちなしの花の 花のかおりが 旅路のはてまで ついてくる くちなしの白い花 おまえのような 花だった」という一番の歌詞は、くちなしの花のにおいが旅路の果てまでついてくるほど強い、印象深いにおいということがわかります。また、「おまえのような花」というのは、この花は、純白の美しい花で、いかにも清純な感じのする花で、花言葉も「清潔・純潔」となっているところから、そんな彼女なのでしょう。あと、この花言葉に「私は、幸せもの」という意味もありますが、この歌は、彼と別れ、2番の歌詞のように「雨の別れが 今でも心を しめつける」とか、3番の歌詞の「小さな幸せ それさえも 捨ててしまった 自分の手から」という彼女は、どう考えても「私は、幸せもの」という感じはしませんね。という、揚げ足取りは別として、キャサリン・ヘップバーン主演の映画「旅情」では、愛の花ともてはやされ、有名なラストシーンで、くちなしの花が出てきます。また、この花は、「沈丁花」「金木犀」と並ぶよいにおいの花として有名です。しかし、よいにおいというのは、どうも芳香剤のイメージですね。
「くちなし」は、アカネ科クチナシ属ですが、なんと、同じアカネ科に有用植物としてコーヒーノキがあるのは、驚きですね。この「くちなし」という名前の由来には、いろいろな説がありますが、一番有名なのは、くちなしの実は熟しても他の果実の様にはじけないことから、「熟しても口を開かない」くちなしという説です。また、漢名の梔子の“梔”は、口が小さく楕円形をした一種の酒壺のことで、実の形が似ているところから梔子と呼ぶようになりました。この「くちなし」は、亜熱帯系の植物で、わが国では静岡以西、四国、九州に自生します。学名は「ガ-デニア・ジャスミノイデス」といいますが、ジャスミンに似た香りのただよう意味が含まれているそうで、なんとなく頷けますね。蕾のときは帯緑色ですが、開花すると純白になります。クチナシの実は、おせち料理の「きんとん」になくてはならないものですね。それは、その実の色に関係します。「あかね色(茜色)」は、アカネ科の多年草つる草の根からとれる赤い染料の色のことです。源氏物語の色の世界でも、黄系は、「山吹」「梔子」「黄」の3色をいいます。「黄」は、カリヤスの葉を使い、「山吹」は、アカネやベニバナを混ぜて染めました。くちなしの実を乾燥させたものは、食品を黄色に染める着色料として、栗やさつまいものシロップ煮、きんとん、たくあん漬け、麺類、お菓子などに使われます。江戸時代の料理本には、くちなしで色付けしたごはんにだし汁をかける「山梔子飯(くちなしめし)」が登場しています。現在も、ごはんやおこわなどを黄色く色付けした郷土料理も見られるそうです。くちなし酒は、疲労回復、強壮、健胃などのほか、精神安静、安眠、美容などにも効果があるといわれています。また、薬用としては解熱に、打撲撚挫時には痛みをとるほか、淨血にも益ありとされてきました。小粒の果実は山梔子といい、消炎、鎮静、止血にも使用されました。昔から、身近にある花や実を、調理や、薬用に使ったのですね。

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2006年07月26日 散歩

東京の坂

 坂といえば「長崎」を書きましたが、他にも「神戸」「尾道」を思い浮かべます。しかし、意外にも、東京にも坂は多いのです。しかも、名前の付いた坂道が多いのです。500以上は存在しています。坂道に名前を付ける慣わしは、海外にはあまりないらしいのですが、日本国内では各地で名前の付いた坂道が存在しており、これは東京だけに限ったことではありませんが、東京には由緒ある坂道の名称が現在でも数多く残されてきています。坂道といえば、テレビ番組の「笑っていいとも!」のタモリさんは、「日本坂道学会副会長」だそうで、「TOKYO坂道美学入門」という本を講談社から出版しています。そこに書かれているタモリによる「よい坂」の条件は、1. 勾配が急である、2. 湾曲している、3. まわりに江戸の風情がある、4. 名前にいわれがある、とあります。東京で坂道に名前がつけられたのは主に江戸時代以降です。中には、明治・大正期、あるいは戦後になってつけられたものもあります。名の付いた坂道は、地形の関係から、同じ地域にかたまって存在している場合が多いようです。文京区が最も多いようです。ついで、港区、新宿区、千代田区といった都心の区です。それは、都心の方が坂道一般が多いというよりも、歴史的に人が多く集まっていたため、名前も付き易かったのだろうと思われる。また、「山の手の坂、下町の橋」という言い方もあるように、丘陵地帯が多い山の手の地域には名の付いた坂道が多いようです。坂道の名称は、目に付いて気になる人が多いせいか、何故そのような名称がついているのか、由来が坂道の標識に書いてあることが多いです。坂道の標識は、ほとんどの場合は、坂上又は坂下の柱などになっています。この標識は、東京都や各区(教育委員会)が設置しているもので、いろいろなタイプがあります。
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 東京で有名な坂に、「神楽坂」があります。飯田橋駅前の外堀通りから、北西に向かって登る坂道です。東京で駅名(神楽坂、牛込神楽坂)にもなっている唯一の坂道です。神楽坂の地名は、筑土八幡神社で催された神楽がその由来だとする説が有力です。また、幕末から明治末にかけて菊人形の小屋が並び、この坂上には森鴎外、 夏目漱石、高村光太郎が居住していたことで有名な「団子坂」は、坂の近くに団子屋があったからとも、 また、悪路のため転ぶと団子のようになるからとも云われていると標識には書かれています。最も多い坂の名前は、「富士見坂」です。東京に約20あると言われますが、現在、実際に富士山を、この坂から見ることはできないでしょう。「江戸の坂東京の坂」(中公文庫 横関英一著)では、全国4000の坂名で一番多い名前は、「赤坂」で、土の色が赤い坂という意味で、全国で130ヶ所あるそうです。ちなみに、2位は「長坂」3位は、「小坂」4位は、「大坂」5位は、「高坂」(急な坂のこと)だそうです。他にも多いのは、稲荷坂とか、幽霊坂、新坂、胸突坂、暗闇坂、などがあるようです。また、「ドンドン坂」の名前は、東山手・南山手の急な坂の総称だったようです。また、同じところに2箇所の坂からいける場合は、よく、急な坂のほうを「男坂」、ゆるい坂のほうを「女坂」という場合があります。私の高校は、急な坂道を登ったところに校門がありました。私たちの間では、その坂の名前を、「地獄坂」とか、「遅刻坂」と呼んでいました。朝、急いで登るのには、とても大変だった思い出があります。

投稿者 fujimori : 17:52 | コメント (0)

2006年06月25日 散歩

掛川

 また最近、青少年の悲惨な事件が続きます。いったい、何が原因なのでしょう。共通する要因が何かないのでしょうか。詳しいことは分かりませんが、わが子に殺された親は、どうも子どもを常にひどく注意をしているようです。家に放火して母親と弟妹を殺した高校生も、医者である父親から「ICU(集中治療室)」と呼ばれる部屋で、勉強をさせられていたそうです。先日のブログにも書きましたが、「坊ちゃん」が悪くならなかったのは、「清」という、常に期待する人がいるからです。2005年に東大社会科学研究所が「職業の希望に関するアンケート」という調査を実施し、その結果から分析したものが新書版の「希望学」(玄田有史編)に書かれています。その中で、こう書かれています。
「希望に大きな影響を与える背景は、家族の記憶だ。子どもの頃、自分は家族から期待されていたという記憶がある人ほど、希望を持って生きている人が多くなっていた。親や家族からの進学や就職への期待がプレッシャーとなって、将来に思い悩み、希望を失ってしまうといった事例も多いのではないかといわれたりもする。しかし、データが語る事実は、逆だ。むしろ家族から期待されたという過去の記憶を持っていない人は、未来への希望も見出しにくい状況が起こっている。」このように期待、それも過度の期待ではなく、子どもを信じてあげる気持ちが大切だと思います。このようなことは、よくいわれています。今は、賛否両論あり、批判も多いのですが、「ピグマリオン効果」ということが、教師の間でいわれたことがありました。ピグマリオンという名称は、ギリシャ神話を収録した古代ローマのオウィディウス「変身物語」に登場するピュグマリオン王の恋焦がれた女性の彫像が、その願いに応えたビーナス神の力で人間化したと言う伝説に由来しています。その名前を取って、「ピグマリオン効果」というのは、人間は期待された通りに成果を出す傾向があることの現れとされたものです。
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  掛川城と御殿
 いま、NHKテレビの大河ドラマで、司馬遼太郎原作の「功名が辻」を放送しています。これは、山内一豊とその妻千代の話ですが、妻の鏡といわれ、教科書にも取り上げられた「千代」は、徹底して夫の一豊を信じ、期待し、励まし、成功に導いたとされています。今年のこのドラマにちなんで、一豊の居城であった掛川城のある掛川市で、「功名が辻フェスタin掛川」が開催されているので、行ってみました。静岡県西部に位置する掛川市は、約10年間城主として在城した山内一豊創建の天守閣をランドマークとする城下町です。その掛川城天守閣は、江戸後期の安政の大地震で損壊し、そのまま明治2年に廃城となりましたが、平成6年に日本初の本格木造にて復元され、現在にその勇姿を残しています。場内を急な階段を上ると、天井には、太い木の梁が渡されており、コンクリートでの復元と違う味わいがあります。また、その足元には、「掛川城御殿」があります。この御殿は、藩の公式式典の会場、藩主の公邸、藩内の政務をつかさどる役所という3つの機能を合わせもった施設です。この御殿は江戸後期の建物で、数少ない江戸期よりの現存城郭御殿であり国重要指定文化財となっています。
 ある時代におけるエピソードは、後世にある意図を持って使われることがあります。ですから、にわかに史実として信じてよいかは分かりませんが、それを通して人々に伝えたいことをすべて否定する必要はないと思います。

投稿者 fujimori : 20:46 | コメント (0)

2006年06月19日 散歩

もじゃもじゃペーター

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「ひとめ ごらんよ ほら このこだよ  うへえっ! もじゃもじゃペーターだ!  りょうての つめは 1ねんだって  きらせも しないで のびほうだい  かみにも くしを いれさせない  うへえっ! だれもが そう さけぶ  ばっちい もじゃもじゃペーターだ!」こんな話を読んで、どう思いますか?よくわからないと思いますが、次の話を読むと、始めてこの話を知った人は、ちょっとショックになると思います。
「コンラート!」 ママが およびです  「ちょっと おるすばん おねがいね  ちゃんと おとなしく いいこでね  ママが おうちに かえるまで  いいわね コンラート よくおきき!  おやゆび しゃぶっては だめよ  いいつけ まもらない こには  したてやさんが すっとんできて  おやゆび はさみで ちょっきんと  かみみたいに きって しまうわよ」
さあて ママが でかけたとたん  あらら おやゆび おくちへ ぴょん!
ばたん! そのとき ドアがあき  めにもとまらぬ すばやさで  したてや ひらりと とんできた  ゆびしゃぶりこぞうを みつけたぞ  ちょっきん! ちょっきん! いたたたた!  おやゆび はさみで ちょっきんな  おおきな はさみで きっちゃった!  うわーん! コンラートは なきさけぶ
ママが おうちに もどってみたら  コンラート しょんぼり たっていた  りょうての おやゆび なくなって ひとり ぽつんと たっていた
 どうでしょうか。この話は、賛否両論あります。その影響の大きさゆえに、 20世紀になってから激しい論争が起きました。指しゃぶりをして親指を切られてしまうという罰の残酷さや、絵の与える印象の強烈さが、感じやすい子どもに、精神的外傷を残すとかです。
 この『もじゃもじゃペーター』(Der Struwwelpeter)は、1844年にドイツの医師であるハインリヒ・ホフマンがわが子のために作った絵本です。この絵本は、教育的でありながらナンセンスなおかしさを持っています。そこに描かれた「悪い子ども」像に子どもたちの共感が得られ、出版後まもなくヨーロッパ中で読まれ、現在までに100以上の言語に翻訳されています。その生命力溢れる子ども像には、そののちの児童文学に現れる「いたずらっ子」の主人公像の源流を見出すことができます。いま、この展示会が、国立国会図書館国際子ども図書館で、平成18年1月28日(土)から7月2日(日)まで行われています。昨日、それを見に行ってきました。この展示会では、国際子ども図書館が所蔵する資料を中心に、各国の『もじゃもじゃペーター』やそのパロディ、「いたずらっ子」の系譜をひく作品や、ホフマンの同時代の作品をはじめとするドイツ語圏の絵本・児童書等約220タイトルを展示されていました。
 児童文学の「もじゃもじゃ」とは何でしょうか?髪も伸ばし放題、爪も切らない「もじゃもじゃペーター」。 このような「愛すべき」存在は、広く世界の児童文学の中に顔を出し、いまだに不滅であるといえます。このペーターは、ハックルベリー・フィンを思い出しますね。著者あとがきには、「3歳から6歳ぐらいまでの子どもに接する機会が多かったのです。いったい子どもの教育ということはまことにむつかしいものです。」 とあります。本当に、そうですね。

投稿者 fujimori : 19:01 | コメント (0)

2006年05月28日 散歩

絹の道

 今日、駅まで歩いていく途中で、桑が時期をむかえて、実がいっぱいぶらさがっていました。以前のブログで書きましたが、私が今住んでいる八王子は、古くから桑都と呼ばれ、生糸絹織物の生産が盛んでした。養蚕も行われていました。そこで、駅前通りの街路樹は、桑の木なのです。桑の木には、まだ緑の実が付いていますが、アスファルトの上は、濃い紫色で汚れています。それは樹木の実が落ちてそうなっているのです。私は、子どものころ都心で育ったので食べませんでしたが、このあたりの子どもたちはよく桑の実を食べたそうです。桑の実をそのまま食べると、ほのかな、それでいて濃い甘味が口に広がるようですね。最近の子どもたちは食べないでしょうね。また、桑の実でジャムが作れます。先日、園で、2歳の子達が苺ジャムを作りました。
kuwanomi.jpg桑の実と苺ジャム作り
 桑の実は、鍋を弱火にかけて実をつぶすときに、苺よりもずっと固くて少し力がいるそうですが、同じようにつぶしたあと、砂糖、レモン汁を追加して煮詰めればできます。
安政年間に横浜が開港し、その後、鉄道が発達する明治の中ごろまで、八王子近郊はもとより、長野、山梨、群馬などの各方面で生産された生糸は、八王子宿に集められ、横浜に運ばれて行きました。この道が、鑓水道または浜街道と呼ばれ、のちに「絹の道」として知られるようになりました。シルクロードです。今は、ほぼ16号線に沿っています。このうち、特に昔の面影をよく残す未舗装部分は文化庁選定「歴史の道百選」にも選ばれました。峠の一番高いところには、かつて道を行き交う旅人や村内の安全を祈って、道了尊を祀ったお堂がありました。現在は取り壊されて、跡地が大塚山公園として整備されています。しかし、今日は、雨上がりということもあって、足元が悪く、少し歩くのに苦労しましたが、人とあまりすれ違うこともなく、時たま鳥の鳴き声が聞こえ、昔がしのばれます。
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  絹の道
 この道の往来が盛んになるにしたがって、八王子は信州・甲斐方面からの生糸商人たちの拠点となりました。中でも名高いのは南部、鑓水から出た大商人たちで「鑓水商人」と異名を取るほどの天下を築き大活躍しました。商人たちは、蔵や外国商人接待用の異人館を建て、富を競いました。そのなかで、生糸商人として莫大な富を築き上げた八木下要右衛門の屋敷跡地が、現在では「絹の道資料館」となっています。館内には、当時活躍した鑓水商人たちの栄枯盛衰の歴史が、様々な展示品と共に紹介されています。そこの休憩室で少し休みました。
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   小泉家屋敷
 その資料館の近くに、 茅葺き屋根のどっしりとした重量感のある古い民家があります。ここは、東京都指定有形民俗文化財に指定されている小泉家屋敷です。入母屋造り、茅葺き、田の字形四間取りという、この地方に旧来からみられる典型的な民家建築の様式を取っています。内部も見てみたかったのですが、ここには現在でも人が住んでいるので、見学は遠慮してほしいとかかれていたので、覗き込むだけにしました。離れの軒下には、たまねぎがぶら下がっていました。
 文庫本に「呪われたシルクロード」(辺見 じゅん著)がありますが、そこには、わずか300人足らずの貧しい小さな村に、巨額の富を一夜にして築きあげた「鑓水商人」と呼ばれる人々が多数出現するという、異常とも言える事態が発生し、またそれにまつわる悲劇、その後、国の政策に需要を奪われ時代の流れに取り残され、一夜の栄華の夢が儚く消えゆく様相、その界隈で起きた、新聞、マスコミ等を騒がせた殺人事件等が書かれているそうです。一度読んでみたいと思っています。

投稿者 fujimori : 21:45 | コメント (1)

2006年05月25日 散歩

日本橋

 先日の日曜日に、日本橋に行ってみました。最近、日本橋は大きく変わろうとしています。最近、デパートや、歌舞伎座などの建て替えで、高さ制限でも問題が起きています。街の景観を大切にしようというものですが、私から見ると、最も街の景観を壊しているものは、いわゆる「日本橋」という橋の上を、首都高速道路が走っていることでしょう。これは、バブルの頃の、東京オリンピックを象徴として日本中がただ前ばかりを向いていた頃の名残です。今、この道路を移転しようという話が出ていますが、莫大な費用がかかるそうです。そう簡単には、街づくりは元に戻せないのです。日本中で、街の動線が変わろうとしています。しかし、慎重にやらないと、簡単には元には戻せません。ある説によると、「町」は、田んぼの中の道のことをいい、「街」は、交差する道路のことを言い、「まち」という音は、「みち(道)」に通ずるというように、街づくりは、「道作り」でもあるのです。そして、その道は、人の通るところということで、「人づくり」でもあるのです。江戸時代から、そのすべての起点である「日本橋」は一種独特な思いがあります。私は、台東区の鳥越(浅草橋とか、蔵前の近く)というところに住んでいましたが、そこには都電が2路線走っていました。ひとつは、31系統で、私がよく乗っていたころは、東京駅丸の内北口から、以前ブログで書いた合羽橋を通って、三ノ輪駅前までです。もうひとつは、22系統で、起点は南千住、終点は新橋で、浅草-浅草橋-日本橋-京橋-銀座というルートでした。昭和42年には、日本橋までに短縮され、昭和46年3月17日には、営業終了しています。中学1年生の頃は、この都電に乗って、通学していましたし、休みの日には、よく、これに乗って、浅草とか、日本橋、銀座に行ったものです。
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その頃、日本橋というと、デパートを思い浮かべます。まず、「日本橋三越」です。入り口のライオンの像は、子どもの頃に読んだ、確か江戸川乱歩の「怪人二十面相」の中のどれかでしたが、そのライオン像の下に誰かを隠したという話があって、今でもその下に誰かを隠してある気がします。また、よく行ったのは、角の「白木屋」でした。その白木屋は戦後一時、進駐してきた米軍が接収し、米軍のPX(購買部)になりました。その後、昭和40年ごろに接収解除を受け、デパートとして営業しました。この白木屋は、のちに東急百貨店日本橋店になります。もうひとつ日本橋には、「日本橋高島屋」もあります。そして、一時交通が不便で行きませんでしたが、いまは、地下鉄がかなり便利になり、よく行くようになりました。
いまや、日本橋地区は、昨年オープンした「COREDO 日本橋」に続き、「日本橋三井タワー」、「三井記念美術館」など、街が活性化されている注目の地域です。
mitui.jpg三井記念美術館
三井グループで知られる三井家は、三井高利が伊勢松坂から息子達に指示を出し、1673年に江戸本街に「越後屋」を開店したことに始まります。今の三井本館は、昭和初期の日本を代表する重厚な洋風建築として、国の重要文化財に指定されています。その三井本館の中に「歴史的建築物の保存と周辺と調和した開発の両立」として、「三井記念美術館」を作りました。日本橋三井タワーの1階アトリウムが美術館の入口となり、入る前に美術館のある昭和初期の重厚な建築を見て、超高層ビルの入口から展示室に導かれるという趣向です。新しい試みです。

投稿者 fujimori : 19:37 | コメント (1)

2006年05月14日 散歩

前田から鳩山

 日本は、本当に四季折々に花が咲きます。今日は、母の日なので、町中でカーネーションを持った人とよくすれ違います。古代ギリシア時代から栽培されていたというカーネーションは、日本へは、江戸時代にオランダから渡来しました。そして、父の日に贈るというバラの花はそろそろ盛りになります。今日は、都内にある「バラ園」に行ってみようと思いました。まず、駒場にあると聞いて、井の頭線で、「東大駒場前」で降りてみましたが、何も書いてありません。駒場公園かと思って行ってみましたが、数本しか見つからないので、ついでにその園内にある「旧前田侯爵邸洋館」を見学しました。この建物は、旧加賀百万石・前田家の第16代当主・前田利為(まえだとしなり)侯爵の本邸として建てられ、当時「東洋一の邸宅」といわれていました。戦後、連合軍により接収され、極東軍司令官の官舎として使われていましたが、その後、東京都が建物と土地を買収し、東京都近代文学博物館となりましたが、いまは、この文学博物館は閉館しています。以前、ブログ(12月16日)に書いた鎌倉にある「旧前田侯爵家別邸」の本邸です。この建物は大正末から昭和初期に建てられた大邸宅建築を代表する一つで機能性を重視し、当時における最新の技術を駆使しています。建物のデザインは、チューダー様式で、イギリス後期ゴシック様式を簡略化したもので、玄関ポーチの扁平アーチにその特徴をみせています。また、内部は一変して王朝風に装飾が施され、各室はイタリア産大理石によるマントルピースや角柱、壁にはフランス産絹織物や壁紙を貼り、イギリス家具などを配したヨーロッパ調ですが、こうした洋風の室内に江戸情緒をのぞかせる唐草に雛菊をあしらった文様なども見られます。1991年には東京都有形文化財(建造物)として指定されました。鎌倉の別邸は、三島由紀夫の小説「春の雪」の舞台として描かれていますが、映画「春の雪」では、こちらの本邸が撮影に使われたそうです。
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  「旧前田侯爵邸洋館」と「鳩山会館」
 そのあと、「バラ園」がある「鳩山会館」に行ってみました。ここは、小沢が党首になる少し前に民主党で「桜を見る会」をやったことで有名になりました。文京区の音羽の丘にあります。鳩山家は、衆議院議員の和夫、総理大臣となった一郎、外務大臣をつとめた威一郎、さらに衆議院議員の由紀夫、邦夫、と四代にわたり指導的な政治家を生み育てたと入り口の案内板に書いてあります。この洋館を建てたのは一郎で、美しい洋館が姿を現したのは、関東大震災の翌年大正13年です。ここを舞台に、戦後政治の画期となった自由党(現・自由民主党)の創設が計られ、また首相として決断した日ソ国交回復の下準備も行なわています。設計を手掛けたのは一郎の友人である、大正・昭和初期を代表する建築家として知られる岡田信一郎です。彼は、歌舞伎座も設計しています。19世紀末にフランスで実用化された鉄筋コンクリートの技術は、20世紀の始まりとともに世界中に広まり、耐震的な建築構法を模索していた日本でも、その新工法にとびつくことになる。鳩山邸がつくられた頃には、すでに耐震建築理論まで研究されていました。岡田は、この建物の設計において、快適なイギリス風邸宅をつくること、最新の鉄筋コンクリート工法を駆使し、安全で開放的な洋館をつくることを課題としました。いまは、公開されています。そして、イギリス風の外観の前に広がるバラ園では、さまざまな種類、色のバラが咲いていました。
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投稿者 fujimori : 21:48 | コメント (0)

2006年05月08日 散歩

交通博物館

 今、何かと話題の秋葉原ですが、皆さんは、秋葉原というと何を思い浮かべますか?普通は、「電気街」です。しかし、電気街といっても、そこで何を買うのでしょうか。私は、中学生の頃は、電気のパーツを買いに行きました。自分でラジオを作ったり、電流計、電圧計を買ったりしました。最近では、ゲームが発売されるとよく秋葉原の店がテレビに映りますね。また、新しいところでは、「フィギャー」の店や「メイドカフェ」も話題です。もうひとつ、私が小さかった頃と、わたしの子どもが小さかった頃の思い出があります。それは、「交通博物館」です。秋葉原駅から徒歩3分の場所にあります。
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 ここは、中央線のターミナル駅である万世橋駅でした。ところが、ターミナル駅は東京駅となり、万世橋駅は廃止されたので、1936年4月25日にターミナル駅であった旧万世橋駅に併設され開館しました。それが、最近、収蔵・展示品目の増加によって手狭になり、また建物の老朽化が進んでいることもあって、神田にある交通博物館を2006年5月14日限りで閉館し、「鉄道博物館」と改称して2007年10月14日〔鉄道の日〕にさいたま市に移転・再オープンする計画があります。秋葉原にあるのは、あと1週間もありません。そこで、日曜日に妻と二人で行ってみました。もちろん、最後とあってとてもにぎやかでしたが、いろいろと写真を撮ってきました。たまたま帰ってきていた娘がその写真を見て、「二人とも、子どもみたい!」と言われてしまいました。
 ここには、鉄道・船舶・自動車・航空機がフロア別に展示されています。特に、日本の鉄道黎明期に活躍した1号機関車、初代1号御料車、弁慶号機関車、善光号機関車、徳川好敏陸軍大尉が日本初の飛行に使用したアンリ・ファルマン機などを始めとし、各分野の貴重な実物資料が多数収蔵展示されています。しかし、なんといっても子どもが喜ぶのは、おおきな鉄道模型パノラマ運転場があって、時間を決めて、その中を何台もの電車が走り回るのを見ることができることと、いろいろな電車の運転シミュレータができることです。「205系電車(山手線)」「211系電車(2種)」「209系電車」「200系新幹線(東北・上越新幹線)」などが、映像を見ながら、運転席に座って体験できるのです。
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 汽車といえば、外国では、「トーマス」が有名ですが、日本では、阿川弘之さんが書いた「きかん車やえもん」が有名ですが、この話は、子どもたちに1号機関車のことを、子どもにわかりやすく、おもしろく書きかえた話です。「やえもん」は1872年(明治5)、日本で最初の鉄道がはじまったときに、新橋と横浜のあいだでかつやくしましたが、この交通博物館にあります。当時、新橋と横浜のあいだは、歩くと朝出発しても着くのは夕方でした。それが、1号機関車はわずか53分で走り、みんなをビックリさせました。それが、だんだんと時代おくれになって、1887年には大船へうつり、やがて大阪へうつり、そして1911年には九州の島原鉄道へ売られてしまいました。しかし、いちばん古いたいせつな機関車ですから、交通博物館でひきとって、展示することになったようです。
 レトロな展示室は、とても味わいがあってよかったので、展示品だけでなく、その場所がなくなってしまうのは残念です。建物や、万世橋駅の遺構だけでも、今後も保存して欲しいですね。

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2006年05月07日 散歩

きいち

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昨年の2月に「蔦谷喜一さん」という人が91歳で亡くなりました。彼は、「きいちのぬりえ」で有名な「ぬりえ作家」です。私のブログで、美術教育における「ぬりえ」について書きました。(2006年2月10日)それは、創造性がなくなるということで排除されてきましたが、デザイン力をつけるためには、見直されるべきではないかということです。また、「マンダラ塗り絵」についても書きました。(2005年9月21日)ドイツに行って、曼荼羅塗り絵が、子どもの集中力を養うために効果的に使われることを知り、園児に使っています。「マンダラ塗り絵」は、日本でも売っているようになり、最近は、大人の「ぬりえ」が注目を浴び始めています。それは、塗り絵を塗っている間の血流と脳波の動きから、脳が活発化されていることが証明されているからです。脳を活性化するものとしてさまざまなものが提案されていますが、その中で、かなり効果的なものとして注目を浴びているのです。
 「ぬりえ」は、大辞林では、「玩具の一。輪郭だけを描いた図形や模様の中に、色を塗りわけて楽しむもの。」と書いてあります。この「ぬりえ」は、明治時代の翻訳教科書の絵をなぞっていたところから発生しています。子どものころは、ずいぶんと「ぬりえ」がはやっていました。特に女の子は夢中でした。私は、「怪傑ハリマオ」や、「怪傑黒頭巾」などのぬりえをした思い出がありますが、女の子が夢中になったのは、たくさんのぬりえ画家のうちでも、「きいち」ほど人気のあった作家はいませんでした。今日は、そんな「蔦谷喜一」の作品が多く展示されている「ぬりえ美術館」に行ってきました。彼は、日本画家としての素養にくわえ、自分自身が元祖「モボ」を気取ったファッションセンス、なにより大量のモチーフによる作品の多さには感心させられます。最近のレトロブームもあり、資生堂やPARCOなどのポスターや、山手線の電車内の映像の提供である「早稲田予備校」の中吊りポスターなどで「きいちの少女画」が採用されていて、よく目に触れます。
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喜一氏は、物心つくころから「絵の得意な」少年で、特に人物を描くのが好きだったそうです。小さいころは「正チャンの冒険」(椛島勝一のポンチ絵)など、良く描いていたそうです。まだ中学校のころに、高畠華宵の挿絵に魅せられ、明けてもくれても華宵の絵を模擬って描いていたそうです。そのころになるとすでに、将来挿絵画家になると決めていたそうです。最初は、浅草田原町のぬりえ屋さんの内職で描きはじめたころ、漱石の「虞美人草」のヒロイン藤尾からとって「フジヲ」という名前を入れていたそうです。そして、昭和22年からは「きいち」のサインで膨大な量のぬりえを描きつづけ、最盛期には袋絵も含めて1ヶ月に100万枚前後の「きいち」のぬりえが全国にでまわったそうです。戦後の昭和20年代から昭和30年代の高度成長時代に生まれた女の子たちは本当によく「ぬりえ」で遊びました。またこのころからぬりえにはふろくとしてきせかえが登場します。昭和40年代に入ると、子どもはテレビ漬けになるのでぬりえは下火になり、同時に、「ぬりえ」は、美術教育としてふさわしくないというレッテルを貼られ、幼児には与えなくなってしまったのです。子どもたちは、何も全員が画家になるわけではないのに、大人は、なんでも黒白をつけたがるのですね。

投稿者 fujimori : 22:25 | コメント (0)

2006年05月03日 散歩

木場から亀戸

今日は、「憲法記念日」ということで、江戸の名残がある町並みを歩いてみました。(特に、憲法には、関係ありませんが)まず、東西線の「木場」という駅で下車しました。木場は、江戸から昭和にかけて、江戸・東京へ材木を供給し「材木のまち」として栄えてきましたが、今は、木材関連業者が現在の新木場へ移転したのを機に、水と緑の森林公園として整備されています。その中心が、面積24.2haの総合公園である「東京都立木場公園」です。この広い敷地も、元々は木材関連企業の敷地だったようです。また、今日は行きませんでしたが、園内に「東京都現代美術館」もあります。ここは、今花盛りです。hana1.jpghana2.jpg
 今日は、連休ということもあって、団塊の世代向けの「フォークコンサート」や「木場ストック」(ウッドストックというかつてのコンサートをもじって)が、開かれていました。この公園を東西二つに分けているのが、「仙台堀川」です。何でこんなところで仙台かというと、元禄11年(1698)から仙台藩伊達家の蔵屋敷が有ったので、仙台堀と言われたのです。仙台から船で江戸・隅田川の東岸の深川まで米を運んでいました。今、その川に沿って「仙台堀川公園」という細長い都内最大級の親水公園があります。それに沿って歩いていくと、親水河川や魚釣り場、「区民の森」として様様な樹木、多くの鳥や魚も生息しています。ウォーキング協会の推薦の道だけあって、真っ直ぐな道と森の中のうねった道を選んで歩ける所があったり、水辺には飛び石を置いたり葦を植えている所、様々な形の池など、歩くにつれて風景が変化するため、運河沿いをただ歩くというものではなく、公園としての美観についてかなり考えられていて、ジョギングやウォーキングをする人達への配慮がされています。そして、その道が左に大きく曲がった先に、江戸時代に建てられた区内最古の民家建築の「旧大石家住宅」があります。この建物は、関東大震災でも倒壊しなかったそうです 。horikawa.jpg
 その後、「亀戸天神」に寄ってみました。ここは、太宰府天満宮の神官(道真の子孫と伝えられる)大鳥居信祐が、神木で菅原道真像をつくり、亀戸村に祀ったのが始まりといわれています。心字池・太鼓橋など、太宰府天満宮を模して造営されたものもあります。そして、境内の梅・フジの花が名所となり、学問の神様ということもあって、江戸時代以来行楽を兼ねた多くの参詣客を集めてきました。この境内にある池には、亀がたくさんいて、岩の上では甲羅干しをしています。この亀から、この辺を「亀戸」というかと思うと違うようです。この亀戸天神に行く途中に「香取神社」という江東区で最も古い神社があります。ここの社伝によれば665年の創建で、藤原鎌足が亀の島に船を寄せ、香取大神を勧請し旅の安全を願ったのが始まりといわれ、以来亀戸村の総鎮守として信仰を集めているそうです。その亀よりも有名なのが、歌川広重の「名所江戸百景」に描かれ、今まで多くの人たちに親しまれてきている「藤」です。この藤は340年前の神社創建当時から植えられたと伝えられています。ちょうど、偶然に訪れた亀戸天神でしたが、「藤祭り」真っ最中でした。kameidofuji.JPG
 今日は、ずいぶんと、いろいろな花を見ることができました。

投稿者 fujimori : 22:18 | コメント (2)

2006年04月18日 散歩

 少し前の日曜日に、お台場の「未来科学館」に行ってきました。そこで、特別企画展「内なる不思議の世界へ 脳!」が開催されていたからです。最近、脳科学が話題になっています。その観点からいろいろなことを見直すと、いままで、私たちが思っていたことが覆されることに気がつきます。それは、当たり前のことなのですが、あらためて言われるとそうだったと思います。この展示のチラシに書いてあることがその代表です。そこには、「物を見るのは、目で見てるって思うかもしれないけど、実際は、脳が見てるってことがわかるよね。」とあります。私たちは、よく「心を育てる」とか、「心の発達」といいますが、それは、「脳を育てる」とか、「脳の発達」ということになるのです。胸にあるのは心臓であって、心臓でものを感じているわけではないのですよね。また、「あたまがいい」って、どこで決まるのだろうと問いかけています。「脳の大きさ?」「しわの多さ?」しかし、ゾウやクジラの脳は、人間よりもはるかに大きく、しわも多いといわれています。鳥は、体のバランスを保ち、空を飛ぶために「中脳」が大きく発達しています。体の節々に神経節を持ち、すばやく動くのに適するように、大きい脳は持たない「昆虫」。生物は、それぞれの生き方にあった脳を発達させていて、それぞれに「頭がいい」といえるのだといいます。そういう意味で言うと、果たして人間が生き物の中では一番頭がいいのでしょうか。人間は、自分自身の力や脳の働きでは、空を飛ぶことができません。その点では、鳥の方が、頭がいいですね。それは、何も様々な種類の生き物の間だけでいえるものでもありません。同じ人間の中にも言えることでしょう。東大を出た人と、どの魚の生きが良いか見極めることができる魚屋さんと、どちらが頭がいいということもいえないですね。会場には、様々な地球上の生き物の脳の標本が展示されています。それぞれ、大きさ、形、しわの数が違います。しかし、それぞれの生き物が、生きていく環境に合わせて、また行動の仕方によって、それに適した「脳」を持っています。また、脳は、いろいろな部分があって、それぞれが生きていくうえで大切な役目をしています。
 「大脳」は、人間では「前頭葉」「頭頂葉」「側頭葉」「後頭葉」の四つの部分に分かれています。その中で、人間だけが特別に発達している部分が、最近話題になっている前頭葉の大部分を占める「前頭前野」なのです。人間だけが特別に持っているということは、いわゆる「人間らしさ」とか、「人間にしかできないこと」という部分の源なのです。この展示の中には、この部分が受け持っている力は、「みんなが持つ想像する力」「記憶する力」「友達とコミュニケーションする力」などといっています。そして、「どうしたら、大切なみんなの脳、前頭前野をはたらかせ、鍛えることができるのか?」ということを問いかけています。しかし、そこには、あっという間にそれを鍛える方法は書いてありませんし、また、明快な答えもありません。まだまだそれらは、研究途上にあるからです。しかし、どちらにしても、何かひとつの方法、やり方にこだわるのではなく、様々な体験、様々な刺激が脳を発達させていくことは確かなようです。どうも、私たちは、何かがいいと思うと、そればかりする、何の食材がいいかといわれれば、そればかりを摂取するところがあるようです。もっと、気楽に、あれこれやってみたほうがいいですね。

投稿者 fujimori : 22:10 | コメント (1)

2006年04月13日 散歩

菜の花

nanohanatodaiba.JPG菜の花とお台場(フジテレビ)
 時期は少し遅いのですが、先週の日曜日に一面の菜の花畑を見ました。また、もうすでに、東京では風は完全に「春風」の温かさでした。そして、夜の月は、たぶん朧月でしょうね。そんなときに浮かぶのは、作詞「高野辰之」、作曲「岡野貞一」の文部省唱歌「おぼろ月夜」です。いつも思うのですが、メロディーもいいのですが、歌詞が、日本の季節感があっていいですね。もちろん、最近の「桜」に関係する歌でよいものが出ていますが、壮大な自然界を浮かべるのは、昔の歌の気がします。みんな知っているでしょうが、歌詞だけでも、しみじみと読み直してみてください。
1、菜の花ばたけに 入り日うすれ 見わたす山のは かすみ深し 春風そよ吹く空を見れば 夕月かかりて においあわし 2、里わのほ影も 森の色も 田中の小道をたどる人も かわずのなく音も鐘の音も さながらかすめる おぼろ月夜
この「おぼろ月夜」は、歌唱共通教材として、小学校6年生の教科書に掲載されています。歌詞の内容には、菜の花畑ののどかな風景にかすみがかった夕暮れ時の美しさと、そこに吹く春風に漂うかすかな菜の花の香りなど、春の季節感が豊かに描かれています。同時に、ここに描かれた情景は、古くから伝わる日本人の心も表していると言えます。その歌詞が、ゆったりとした3拍子の4つのフレーズに載せられ、この4小節のフレーズ感や旋律の抑揚がさらに歌詞を引き立て、叙情豊かな曲に仕上がっています。この曲を歌うと、自然の美しさや大切さが感じられますが、今は、この写真のように、菜の花畑から見渡せるのは、超高層ビル群であったりします。しかし、意外と、その前に広がる菜の花畑は似合います。「花」という歌のときの隅田川の向こうにも、高いビルがそびえています。東京には、東京の自然の感じ方があるものですね。早春の訪れを告げる菜の花は、花蕾、葉、茎を食用とする野菜としても用いられますが、もともと地中海沿岸地方が原産の植物で、日本には弥生時代に中国から渡来したといわれています。当初はほとんど照明用の菜種油の原料として、種子採取を目的に栽培されており、食用に栽培されるようになったのは、明治時代以降のようです。菜種油というと、二宮尊徳の逸話が有名です。いぜん、尊徳の生家に行ったとき、その像(1月13日のブログ)の横の立て札にこう書いてありました。
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「金次郎が享和3年(1803)16歳の頃、伯父の万兵衛宅に寄食中、1日の仕事を済ましてから、夜遅くまで書物を読んであるのを見て、万兵衛は、「百姓には学問は無用じゃ!」と、行灯の油を無駄に使うなと厳しく叱った。そこで、友人から菜種5勺(一握り)を借りて、腺両側に土手にまき、仙了川の土手に蒔き、それが翌年の春になって7升以上の収穫となり、使いきれない程の油ができた。このことが「積小為大」の貴重な体験になったといわれる。「小を積んで大と為す」の自然界の真理を深く学んだ。」とあります。この「積小為大」というのは、大事を為そうと考えたら、小さな事を怠らず励まなければならないのです。小が積って大となるからです。しかし、小人はいつも、大きな事を望んで、小さい事を怠ります。出来もせぬことにくよくよして、易しい事につとめません。ですから、いつまでたっても大きな事が出来ないのです。大きな改革をしようとするのであれば、まず、身近なところから少しずつ変えていくことが必要なのです。

投稿者 fujimori : 18:35 | コメント (2)

2006年04月09日 散歩

野の花

桜が散っている中、足元には,よく見るとひっそりと、しかし、しっかりといつの間にかさまざまな花が咲いています。園の隣の桜の大木の足元で、いろいろな花を見つけました。それらの花には、その姿には似つかわしくない名前がついていたり、もし花が話せたら文句を言いそうな名前がついていたり、いかにも頷けるような、納得のいくような名前がついていたりします。どれにしても、その名前をつけた時代の人の発想に驚かされることがあります。
sumire.jpg「墨入れ」と「スミレ」
その中で、何年か前にその名前の由来を知ったときに、納得した名前があります。それは、「すみれ」です。その花の形は、建物を建てるときに、材木に線を引くときの道具である「すみいれ(墨入れ)」と形がそっくりです。スミレの仲間は非常にたくさんあって、スミレ属は世界の温帯に400種以上あり、日本には約50種あるそうです。園のそばに咲いているスミレは、「タチツボスミレ」のようですが、この種は,スミレの中でも一番よく見られ、低地や山地でみられるもっとも普通なスミレです。スミレの由来は墨入れからですが、タチツボの和名の由来は、「つぼ」とは道端や庭の意味で、そういう身近な所で見られることからツボスミレといいます。「立」は、花の盛りを過ぎると茎がしだいに立ち上がってくるところからきています。「春の野に すみれ摘みにと 来《こ》し我れぞ 野をなつかしみ 一夜寝にける」(山部赤人 万葉集)「春の野に、すみれの花を摘もうとやってきた私は、野辺の美しさに心引かれて、ここでつい一夜を明かしてしまいました」「古今集」や「源氏物語」にも引用された、有名な歌です。万葉の時代には、スミレは食用や染料としても利用されていたようですが、この歌の「すみれ摘み」は、そのために摘みに来たのではなく、「野遊び」だったようです。
karasutoooinu.jpg「カラスノエンドウ」と「ジシバリ」と「オオイヌノフグリ」
 その隣には、「カラスノエンドウ」という花が咲いています。この花は、マメ科の植物ですが、完全に熟すとさやや種が黒いので、カラスノエンドウであると言う説や、似た種類にスズメノエンドウがあり、これに似ており、それより大きいことから名がついたという説もあります。別名「ヤハズノエンドウ」といいますが、葉が、「矢筈」に似ていますね。実ったさやを割って種を除き、さやの片方をちぎって吹いて、鳴らして遊びます。
 この頃咲く花で、私が気に入っている由来を持っている名前は、「じしばり」です。細い茎が地面を這うように四方にのびて、その節々から根を出して生長します。その姿が、地面を縛っているように見えるので、「地縛り」という名前です。また、この花は、石垣の間や岩場のようなところでもよく育ち、茎や葉を切ると出る白い乳液が苦いところから、「イワニガナ」(岩苦菜)とも呼ばれます。
春の野で、なんといっても有名な名前は、「オオイヌノフグリ」でしょう。これは、もちろん「大犬の陰嚢」です。名前の由来の似ている形は、花の形でなく、晩春につける果実の形からです。ですから、一面に咲くこの花からは、この名前を呼ぶのは申し訳ないほど、とても可憐で、美しいと思います。また、大犬とは大きい犬のことではなく、日本産種の「イヌノフグリ」よりも大きいからで、「大イヌノフグリ」なのです。
 名前の由来をちょっと知っているだけで、同じ花を見ていても楽しくなります。子どもにも、そんな楽しさを伝えたいですね。

投稿者 fujimori : 21:35 | コメント (1)

2006年03月26日 散歩

ご当地B級料理

 各地では、町おこしのためにいろいろな企画をしています。その中で、食べ物に関しての町おこしがあります。そんな全国的な知名度はないものの、地元で愛され続けている「ご当地B級グルメ(料理)」が集まり王座を決める「B―1グランプリ」が2月18日、青森県八戸市で行われました。各地から十品が参戦しました。そして、ここで入場者が使ったはしを、気に入った料理に投票し、グランプリを決めます。このB―1グランプリは、八戸市周辺の郷土料理「せんべい汁」の普及を目指す市民団体が「各地のご当地料理が手を組んで、地域おこしにつなげよう」と発案しました。そして、次回の開催権は、グランプリを獲得した「ご当地」に与えられます。人気投票の結果、グランプリは静岡県富士宮市の「富士宮やきそば」が獲得、来年の第二回グランプリは同市で開催することが決定しました。そのほかの成績は次の通りです。
(2)横手やきそば(秋田・横手市)(3)室蘭焼とり(北海道・室蘭市)(4)八戸せんべい汁(青森・八戸市)(5)小倉発祥焼うどん(福岡・北九州市)(6)青森生姜味噌おでん(青森市)(7)とうふちくわ(鳥取・鳥取市)(8)富良野カレー(北海道・富良野市)(9)久留米やきとり(福岡・久留米市)(10)浜焼き鯖(福井・小浜市)
各地に行くことはあるのですが、どれも食べたことはないですね。ただ、ちょうどブログ(2月21日)で書いた小倉の焼きうどんが5位になりました。その時に、こだわる条件を書きましたが、同じように1位になった「富士宮のやきそば」も、調理方法で、12の特徴があるそうです。1.富士宮流やきそば蒸し麺 2.油は、ラード 3.「肉かす」をくわえる(一般的には、「肉」「天かす」など) 4.イワシの「削り粉(だし粉)」をふりかける 5.キャベツは、富士宮の高原キャベツで「秋キャベツ」 6.辛口ソース 7.紅ショウガをそえる 8.トッピングは、各店で工夫 9.富士山の湧水を用いる 10.厚くて大きい鉄板を用いる 11.焼き方は、店の主人が焼いても、客が焼いても可 12.食べ方は、皿でも熱い鉄板でも好き好き だそうです。ただ、これはあくまでも基本で、各店で工夫をしているそうです。
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これは、焼きそば好きの私としては、ぜひ行って、食べてみたいと思って、富士宮に行ってきました。ラーメンもよく食べ歩きますが、結局は、どれがおいしいといっても、それぞれ味の好みがあるので、一概には言えませんね。富士宮焼きそばは、私のこだわりである「天かすを加える」「鉄板で焼く」が入っているので、美味しかったです。しかし、味の好みは、年齢によって、そのときの体調によって、もっと、微妙なことをいえば、そのときの精神状態によって変わってくるものです。その点で、集団給食の中ではなかなか難しいのですが、本当は、今日はちょっと疲れるような活動をしたので、甘口にしようとか、1日じめじめしているので、気分が晴れるような鮮やかな色彩の盛り付けにしようとか、そんな工夫ができると良いですね。また、昨日の夕食は少し重いものだったので、朝食は、胃に負担のないようなものにしようとか、その都度の食事だけではなく、1日すべての、また数日間のトータルな見通しの中での献立も必要でしょう。したがって、一食の、残菜が多いとか、食べる量が少ないからと一喜一憂する必要なないと思うのですが、やたらと給食だけで栄養を満たそうとか、好き嫌いをなくそうとする先生の使命感は強いですね。結果は、かえって好き嫌いを作っていることに気づいていないのでしょうね。

投稿者 fujimori : 20:22 | コメント (1)

2006年03月23日 散歩

水仙

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道を歩いていると、2月の初め頃から咲き始めている花があります。それは、いろいろな種類の水仙です。水仙といえば、私の年代の団塊の世代が思い浮かべるものがあります。それは、「七つの水仙」です。今考えると、なぜ、七本の水仙でなかったのでしょうね。これは、ブラザース・フォーの名曲です。この頃、意味もよくわからずに、英語の歌詞を丸暗記した思い出があります。「アイメノ ハバマンション アイハブン エニランド」という具合です。本当は、
I may not have mansion, I haven't any land
Not even a paper dollar to crinkle in my hands
But I can show you morning on a thousand hills
And kiss you and give you seven daffodils
です。また意味も当時は余り関心はありませんでした。英語の響きがよかったからです。改めて意味を訳してみると、
「僕には、豪邸も、土地もない。手の中でしわくちゃな紙幣一枚さえ無い。けれど、千もの丘に降りそそぐ朝を、君に見せてあげられるよ。そして、くちづけと、七つの水仙の花をあげよう。」こんな歌だったのですね。
 また、水仙というと、この歌の題名のように英語では「ダフォディル」といいますが、学名はナルキッススで、そのいわれをほとんどの人は、知っているでしょう。「多くの男女の愛を受け入れなかったナルシスが、水を飲んで渇きをいやそうと泉にやってきて、水を飲もうとのぞき込むと、そこに美しい少年がいます。彼はその少年に恋をしてしまいました。ナルシスはもだえ、やつれてこの世を去ったのです。姉妹や仲間たちが彼の埋葬をしようとやってくると、泉のほとりに死体はなく、そこに一輪の水仙が咲いていた。」というものです。しかし、山の「こだま」のエコーがナルシスに失恋した話を知らない人は多いかもしれません。「エコーは森のニンフのひとりです。あるとき女神たちの最高位のヘーラーが、夫ゼウスの浮気の相手の森のニンフを追いかけていましたが、エコーが現れて色々なおしゃべりで引き止めるので、夫とニンフとも逃してしまいました。怒った女神はエコーに「おまえなんか短い言葉しかいえなくしてやる」と言って呪いをかけたので、エコーは他人の最後の言葉を返すことしかできなくなってしまいました。あるとき、エコーは森の中を歩いているナルシスを一目見て恋心にとらえられ、ひそかにあとをつけました。ナルシスは狩りの仲間とはぐれて一人になってしまって、不安になって「おおい、誰かいるかい」というとエコーが「いるよう」と応えた。「出ておいで」というと「出ておいで」と言うだけで姿はありません。そこでナルシスが「一緒になろうよ」というとうれしくなってエコーは「一緒になろうよ」といって木陰から姿を出してナルシスにかけより、両手で首に抱きつこうとしました。驚いたナルシスが「はなしてくれ、誰がおまえなんかの思い通りになるものか」と飛び退きました。恥ずかしくて悲しくなったエコーは山に逃げ帰り食事もとらずに嘆くうちにやつれてひからびて岩の一部になってしまいました。今でも山では、大きな声で叫ぶとエコーがこだまを返しています。」ギリシャ神話で、最後に星座になる話は多いですが、最後に花になったり、岩になるのは珍しいですね。

投稿者 fujimori : 18:07 | コメント (3)

2006年03月21日 散歩

あかね雲

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 身の回りには、草木や鳥のほかに、星や風でも季節をかんじました。そのほか、空や雲でも感じることができます。入道雲では、真夏を感じ、うろこ雲では、秋をかんじます。また、雲は、季節だけではなく、時を感じることもできます。先日、あんずを見つけた日に、家路に向かいながら次第に日が沈み始めました。そのときの空に「あかね雲」が広がっていました。「あかねぐも」(茜雲)とは、朝日や夕日を浴びて茜色に照り映える雲のことです。朝日に限って言うと、東の方が赤くなるので、「東雲」(しののめ)といいますね。「あかね」というと、よく女の子の名前にもつけることがありますが、本来は、アカネ科の蔓性の多年草で、晩夏、多数の淡黄緑色の小花を円錐状につけます。その根は赤い染料に使われたり、薬用に使われたりします。ですから、「あかね」は、赤根からとった言葉です。また、「あかね」というと、また、学校時代を思い出すことがあります。「あかねさす○○○」という歌が多いですね。それは、茜色に鮮やかに照り映える意味から、「日」「昼」「紫」「君」などにかかる枕詞として、また、紫(古代紫)は赤みを帯びていることから、「紫」にかかる枕詞として、また、照り映えて美しいの意味から、「君」にかかる枕詞として使われたからです。この「あかね」を使って、茜色とか、あかね雲とかありますが、どうも、気象用語には、「あかね雲」は無いようです。もともと、雲は、いろいろな形や性質を持っています。そして、その雲の、形や性質に着目して分類し、いろいろな名前がついています。雲の名前の付け方は、時には学術的であったり、また時には地域の暮らしの模様をよくあらわしていたりしていますので、雲の名前を知ることで、その雲と人とのつながりを肌で感じることができます。そのなかで、世界気象機関(WMO)の国際雲図帳に定められた分け方は、とてもわかりやすいものです。この分類でいくと、10種すべてに2文字の略号を持っています。略号は、以下の用語を合成して作られています。10種雲形は、巻雲(Ci)・巻積雲(Cc)・巻層雲(Cs)・高積雲(Ac)・高層雲(As)・積雲(Cu)・層積雲(Sc)・乱層雲(Ns)・積乱雲(Cb)・層雲(St)です。この文字は、次のようなことを表しています。「C」は、circle(円)、circulation(循環)、「A」は、alto(高い)、「C」は、cumulus(積状の)、「S」は、stratus(層状の)、「N」は、nimbus(雨雲)です。ですから、高積雲は、Acとされ、「A」高い「c」積状の雲ということになります。ほかの呼び方として、雲の発生する場所に応じて呼び分ける方法があります。上層雲は、高度6000m以上の雲のことを言います。また、雲の形状では「もくもくタイプ」「べったりタイプ」「すじ雲タイプ」に分かれます。あと、見た目を重視して命名した「種」、雲片の配列や厚さで命名した「変種」、雲の一部に現れる形を重視した「副変種」があります。レンズ雲(レンズ様の形をしているため)などです。そのほか、日本は天候表現が豊かな国で、雲に関する和語が多いようですそれらは、何かにたとえてあることが多く、風流だとして俳諧などで用いられています。これに分類されるのが、すじ雲・うろこ雲・いわし雲・まだら雲・ひつじ雲・さば雲・雨雲・雪雲・くもり雲などがあります。あかね雲もその色から名づけられたのでしょう。もっと、カラフルなものは、彩雲というのもあります。雲は、そのときの気流や、気温などによって形状が分かれるために大体の形に分類されますが、子どもにとって、もっと自由な発想を生み出すものです。親子で、じっくり雲を眺めながら、何に見えるか言い合うのも楽しいですね。

投稿者 fujimori : 18:59 | コメント (0)

2006年03月20日 散歩

あんず

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 昨日の日曜日は、東京はとても風が強かったのですが、夕方、少し外を散歩しました。裏の公園を歩いていたのですが、まだ木々はつぼみが固く、雑木林は冬の様相でした。
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雑木林を抜け、丘の上に上がってみると、花が満開に咲いている木が見えました。見た様子は、梅か、桜の一種の花のようです。なんだろうと思って近づいてみると、ラッキーなことに木に札が下がっていました。それは、「あんずの木」だったのです。あんずの木といえば、「あんずの里」で有名な長野県更埴市が有名ですね。ここにあんずがもたらされたのは、元禄時代といわれています。一説によれば、伊予宇和島藩主伊達宗利候の息女 豊姫が、第3代松代藩主真田幸道候にお輿入れの折、故郷の風情を偲ぶよすがにと、あんずの種子を持参したのが始まりとか言われています。当時は種子の中にある「杏仁」が、医薬品とて珍重され、松代藩が栽培を奨励したため、今日の姿になったそうです。この「杏仁」というのは、杏仁豆腐として有名ですね。この読み方を、どう読みますか?ほとんど、「あんにんどうふ」というと思いますが、本当は、「きょうにん」という呼び名が、いつのまにか「あんにん」にすり替わっていったようです。本来はアンズ類の種(杏仁(きょうにん)の粉から作るからです。しかし、今は、家庭では、牛乳にアーモンドエッセンスもしくはアマレットを加えて作られるようになっています。この杏仁が、医薬品として珍重された異常に、あんずには、さまざまな作用があります。あんずの持つ甘味はブドウ糖や果糖、酸味はリンゴ酸やクエン酸によるものです。こうした有機酸は、胃液の分泌を促進させて消化を助け、食欲を増してくれます。また、ビタミンではA(カロチン)が多く、ミネラルではリンと鉄が多く含まれています。しかし、日もちが悪いので、ジャムや缶詰、干しあんずにされますが、干しあんずには果糖が非常に多くハイカロリーなので、登山、遠足や激しい運動後などに2~3個食べるだけで元気が回復します。また緩下作用に優れていますので、便秘がちの人は、毎日食べるとよいといわれています。また、果肉に含まれているアミノ酸の一種のギャバは、脳の血行を良くする作用が知られていますので、脳動脈硬化症によるボケの予防の効果も十分に期待されます。また、昔からあんずは、冷え症に効くことで有名です。したがって、冷え症で虚弱体質の人は、あんず酒を就寝前に杯一杯飲めば、体が温まり、滋養強壮作用を発揮するといわれています。そんなことから、古く中国では、貧しい患者から治療費を取る代わりに、あんずの木を植えさせました。このことから、医者の事を杏林というようになったわけです。そのことから、「杏林大学」とか、「杏林薬局」とか命名します。「杏林大学」の案内にその名の由来が書いてありました。
「その昔、中国は櫨山というところに董奉(とうほう)という医師がいました。彼は人に尽くすために治療を行ってあえて治療代を受け取らず、その代わりに病気が治った人には、記念として杏の苗を植えてもらいました。そうして、いつしか10万余株の杏の木がうっそうと茂る大きな林ができあがったといわれています。この故事から後世良医のことを杏林と呼ぶようになりました。」
 そんな「あんず」の木が、身近なところにあるなど、思いもよりませんでした。名札があったからよかったものの、危うく見逃すところでした。このブログも、身近なことを見逃さないための「名札」代わりになればいいと思っています。

投稿者 fujimori : 20:59 | コメント (0)

あんず

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 昨日の日曜日は、東京はとても風が強かったのですが、夕方、少し外を散歩しました。裏の公園を歩いていたのですが、まだ木々はつぼみが固く、雑木林は冬の様相でした。
anzu.jpg
雑木林を抜け、丘の上に上がってみると、花が満開に咲いている木が見えました。見た様子は、梅か、桜の一種の花のようです。なんだろうと思って近づいてみると、ラッキーなことに木に札が下がっていました。それは、「あんずの木」だったのです。あんずの木といえば、「あんずの里」で有名な長野県更埴市が有名ですね。ここにあんずがもたらされたのは、元禄時代といわれています。一説によれば、伊予宇和島藩主伊達宗利候の息女 豊姫が、第3代松代藩主真田幸道候にお輿入れの折、故郷の風情を偲ぶよすがにと、あんずの種子を持参したのが始まりとか言われています。当時は種子の中にある「杏仁」が、医薬品とて珍重され、松代藩が栽培を奨励したため、今日の姿になったそうです。この「杏仁」というのは、杏仁豆腐として有名ですね。この読み方を、どう読みますか?ほとんど、「あんにんどうふ」というと思いますが、本当は、「きょうにん」という呼び名が、いつのまにか「あんにん」にすり替わっていったようです。本来はアンズ類の種(杏仁(きょうにん)の粉から作るからです。しかし、今は、家庭では、牛乳にアーモンドエッセンスもしくはアマレットを加えて作られるようになっています。この杏仁が、医薬品として珍重された異常に、あんずには、さまざまな作用があります。あんずの持つ甘味はブドウ糖や果糖、酸味はリンゴ酸やクエン酸によるものです。こうした有機酸は、胃液の分泌を促進させて消化を助け、食欲を増してくれます。また、ビタミンではA(カロチン)が多く、ミネラルではリンと鉄が多く含まれています。しかし、日もちが悪いので、ジャムや缶詰、干しあんずにされますが、干しあんずには果糖が非常に多くハイカロリーなので、登山、遠足や激しい運動後などに2~3個食べるだけで元気が回復します。また緩下作用に優れていますので、便秘がちの人は、毎日食べるとよいといわれています。また、果肉に含まれているアミノ酸の一種のギャバは、脳の血行を良くする作用が知られていますので、脳動脈硬化症によるボケの予防の効果も十分に期待されます。また、昔からあんずは、冷え症に効くことで有名です。したがって、冷え症で虚弱体質の人は、あんず酒を就寝前に杯一杯飲めば、体が温まり、滋養強壮作用を発揮するといわれています。そんなことから、古く中国では、貧しい患者から治療費を取る代わりに、あんずの木を植えさせました。このことから、医者の事を杏林というようになったわけです。そのことから、「杏林大学」とか、「杏林薬局」とか命名します。「杏林大学」の案内にその名の由来が書いてありました。
「その昔、中国は櫨山というところに董奉(とうほう)という医師がいました。彼は人に尽くすために治療を行ってあえて治療代を受け取らず、その代わりに病気が治った人には、記念として杏の苗を植えてもらいました。そうして、いつしか10万余株の杏の木がうっそうと茂る大きな林ができあがったといわれています。この故事から後世良医のことを杏林と呼ぶようになりました。」
 そんな「あんず」の木が、身近なところにあるなど、思いもよりませんでした。名札があったからよかったものの、危うく見逃すところでした。このブログも、身近なことを見逃さないための「名札」代わりになればいいと思っています。

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2006年03月12日 散歩

東風

 今日は、外に散歩に出てみると、大変でした。非常に風が強かったのです。(電車も止まったほどです)「春1番」は、もうすでに吹いていますので、今日の風はそれではありません。風は前から吹いてきて、目に入ります。東に向かって歩いているので、たぶん「ひがしかぜ」です。このように、東の方から吹いてくる風のことを、「東風」と書いて、「こち」といいますね。日本では 春は東北風、夏は東南風、秋は西南風、冬は西北風が吹くといわれます。風は、それが吹く季節によって、様々な吹き方があり、それぞれに名前がついています。やさしく、まろやかに包み込むように吹く風のイメージは、「春風」ですね。「台風」は、恐ろしいイメージですし、「木枯らし」は、なんだか寒々しいです。そして、この東風は単独で使うよりも季節の動植物を伴って使われる場合が多いようです。「雲雀東風」「鰆東風」「梅東風」「桜東風」などです。例えば「雲雀東風」というと、雲雀が天で一日中さえずっているような天候の時に吹く風のことです。鰆(さわら)は、春を代表する魚とイメージが重なります。ずいぶんと、東風は幅の広い意味を持った言葉のようです。ですから、そのほかにも異名がたくさんあり、正東風(まごち)、強東風、朝東風、夕東風などとも言うようです。また、「風吹けば雨」または「風が東から西に吹けば雨」ということわざは福島県その他の地方でいわれているように、この風が吹いた後は、雨が降るようです。今日の天気予報でも、「夕方から雨」でした。それは、雨の降る主な原因は低気圧で、その低気圧は時計の針と反対方向の空気の大きな渦巻であるために、低気圧が南の太平洋上から、または西の方から近づいて来る時には、その前面では東寄りの風が吹くこととなり、東風が吹くような時にはやがて低気圧の温暖前線により雨が降ることとなるのです。「こち」というと、すぐに思い出す歌があります。「東風吹かば 匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな」(拾遺集)です。この歌は、菅原道真が、京より出発したのは、梅の季節でした。庭前の梅も真っ盛りでした。そこで、こんな歌を歌ったのです。もうひとつ、夏目漱石もこんな歌を歌っています。「東風吹くや 山一ぱいの 雲の影」です。春がもうそこまで来ているという感じがしますね。
 私は、もうひとつ、「東風」というと、思い出す歌があります。むかし、夜、ラジオで、放送していた番組の主題歌です。Djが荒木一郎の「空に星があるように」です。受験時代に、よく聞いたものでした。その番組の始まりに流れる曲の歌詞は、受験生の心に響いたものでした。「空に星があるように 浜辺に砂があるように 僕の心に たった一つの 小さな夢がありました。風が東に吹くように 川が流れて行くように 時の流れに たった一つの 小さな夢は消えました。淋しく淋しく星を見つめ 一人で一人で涙にぬれる 何もかも すべては 終わってしまったけれど 何もかも まわりは 消えてしまったけれど 春に小雨が降るように 秋に枯れ葉が散るように それはだれにもあるような ただの季節の 変わり目の頃」この歌詞の中の「風が東に吹くように」というフレーズです。でも、それは、ただ、誰にもあるような、季節の変わり目であるということです。
 今日の強い風も、次に来る暖かいやさしい春への季節の変わり目なのです。そう思うと、風あたりが強い風でも、励まされている感じがしますね。

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2006年03月06日 散歩

デザイン

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 私の園では、2001年度に「グッドデザイン賞」を受賞しています。部門は、「新領域部門」で、「人々の関係性のデザイン」ということで受賞しました。この2次審査は、10分間のプレゼンと、10分間の質問です。まず、審査委員長から、このように尋ねられました。「なぜ、このデザイン賞に応募したのか?」私は、このように答えました。「かつて、デザインというものは、付加価値だった。たとえば、コップにしても、飲めればよい。その上で、デザインが良ければ、より良いコップであるというように。しかし、今は、コップのデザインというものは、コップと飲み手の関係をどのように構築するかではないか。その関係性の良さが、良いデザインではないだろうか。ということは、園の仕事は、いかに、子どもと子どもの関係、子どもと大人の関係、大人と大人の関係、園と地域の関係を作っていくか、それは、どんなデザインをしていくということかだと思う。」「そして、その関係性の提案として、今までの母性の保育(やってあげる)から、父性の保育(見守る)という観点への変化と、それぞれの違いを認め合い、それらがともに生きていく社会「共異体」を作っていくことではないか。」このような内容のプレゼンテーションを10分間した後、質問です。たとえば、「この事業は、永続的なものですか?」と聞かれたときは、「いいえ。それは、次第に成熟していく事業です。」という具合です。そのときに、審査員の質の高さを感じました。というのも、私の伝えたかったことを理解してくれ、プレゼンが終わったときに、みんなで、拍手をしてくれました。(そのあとに、金賞にノミネートされたことを知りました。)このときのキーワードに、昨日の日曜日に出会いました。六本木に「ドイツ・デザイン展」(3月12日まで)と「東京ベルリン・ベルリン東京展」(5月7日まで)を見に行ったときです。その展示の中に「デザインは、ものと人との関係性を作ることである。」というコメントがありました。私は、最近ドイツによく行きますが、今回のドイツ・デザインの展示を見て、昔から私が好きなデザインは、ドイツのものが多いことに気がつきました。「クールなフォルムと合理的な機能性」が好きなようです。関係性という相互作用の中に、徹底して無駄をなくし、一見一方的にも思えるデザインが、使い手にとってもその目的を明確にし、心地よいものにしている気がします。
 会場で、もうひとつの今の私のテーマである言葉に出会いました。「インクルーシブデザイン」です。会場に置いてあったチラシ「人間の可能性を広げるデザインの未来」というフォーラムの案内の中に、「超高齢社会を迎え、多様な個性、多様なニーズを持ったユーザーに使いやすいデザインのあり方が問われています。多様な存在が多様なままに、共にあることを幸福と感じられる社会「インクルーシブ・ソサエティ」を作るために、デザインにはどのような役割があるでしょうか。」と書かれています。まさに、このインクルーシブ・ソサエティとは、私が提案する「共異体」です。ただ、この中で使われている言葉としては、高齢者を対象に、ユニバーサルデザインのことを、イギリスではインクルーシブデザインと言うようです。私は、高齢者に限らず、すべての年齢、人種、障害、貧困、性によって、中でも個性の成長や人格の発達によって、また、あらゆる価値観においてもインクルーシブな社会を作っていく必要があると思います。デザインの世界でも、流れは同じですね。

投稿者 fujimori : 17:46 | コメント (0) | トラックバック

2006年02月26日 散歩

経堂

今日は、小田急線沿いの「経堂」の辺りに行ってみました。地名や駅名は、その地域の人からみるとなじみがあるかもしれませんが、一度も聴いたことのない人にとっては、奇妙に聞こえることがあります。しかも、その地域名を施設の名前にすると、またこれが始めて聞くものにとっては、とても奇妙に感じることがあります。この経堂と同じく世田谷区にある有名な「三軒茶屋」も、聞きなれているからいいものの、初めて聞くと奇妙です。「三軒茶屋」は、江戸時代中期に大山街道沿いに「信楽」「角屋」「田中屋」 の三軒の休み茶屋ができたことによるそうです。当初は、茶屋などというと、たとえば学校の名前も、「茶屋小学校」ということになり、かなり抵抗があったようです。しかし、名前は、よく知らなくても、なんとなくその由来を感じることができます。この「経堂」も、「なにかの経典なりを収めたお堂があったのだろう。」と思います。やはり、その説があるそうです。駅の南口に経堂山「福昌寺」という曹洞宗のお寺があります。福昌寺の開基松原土佐守(弥左衛門)は中国からの帰化人で幕府の医師でした。彼は、室町時代の江戸城の御殿医でした。そして、この辺りを知行し福昌寺のところに住み、医学書を多数所蔵していました。その屋敷に僧を招いて寺としたので、村人は医学書を教本と勘違いして松原屋敷を「経堂」と呼ぶようになり、やがて村名になったという説があります。土佐守というのは土佐国の国守ということです。また、松原土佐守の屋敷内に「一切経」を祠ったお堂があったからとか、経塚を祠ったからという説もあります。あるいは、村が開かれたところに、既に誰かが建てたお堂があり、そのお堂の造りが江戸風ではなく京都風のものであったから「京堂」とよばれいつしか「経堂」となった説があります。また、ある時代に教本を納めた石室を地下に作って埋め、その上に小堂を建てて「経堂」と呼び村名としたという説もあります。土地の人は「きょうとう」と濁らない発音をするそうですが、本当か、聞いてみたいものです。そんなに昔のことではないのに、何で、そんなにはっきりしないのでしょうか。
伝承とは、本当にそうかどうかと思うことがあります。誰が見たのか、聞いたのかわからないで、うわさがいつの間にか本当になってしまうことがあるからです。また、声の大きい人の考えが、真実を帯びてしまうことがあります。まあ、いわれなどは、本当はどうであれ、なんだか、そこから「ロマン」を感じることができればいいのですが、それが、現在に影響を及ぼすものであれば、また、誰かの迷惑になることであれば、きちんと検証しなければなりませんし、不確かであれば、きちんと確実ではないということや、憶測であるということや、自分個人の考えであることを言わないと、迷惑をかけることになりかねません。特に、影響を及ぼす立場の人の発言は、気をつけてもらいたいものです。

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2006年01月29日 散歩

江戸東京博物館と国技館

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 今日は、久しぶりに、都内を散歩しました。もらったチケットがあったので、久しぶりに「江戸東京博物館」に行きました。この江戸東京博物館は、失われつつある江戸東京の歴史遺産を守るとともに、東京の歴史と文化を振り返ることによって未来の東京を考えるために設立された博物館です。しかし、下町の景観を損ねたうえに激しいビル風との批判も受けています。また、バブル期に計画されたため維持費用も膨大で、都の持ち出しも多いので、「こんな物はつぶしてしまえ!」と石原都知事が言いましたが、実際に見学したところ、これは、大切だということで、残ったことで有名です。この建物の設計は、菊竹清訓氏によるものです。彼は、福井県の久留米出身ということで、久留米市役所の設計を手がけ、一度その地に行ったときに案内をしてもらいました。(あの携帯電話のような建物です)この江戸東京博物館は、高床式の倉のイメージで設計されたと言われています。ここで、今、大河ドラマ『功名が辻』特別展『山内一豊とその妻』という企画展をやっているので、それを見に行ったのです。
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 この建物は、その隣り合わせにある、両国国技館との調和を考えて設計されたとも言われています。今は、国技館というと両国を思い浮かべる人が多いのですが、私は、「蔵前国技館」のほうを思い浮かべます。というのは、私の出身幼稚園は、蔵前でしたし、小学校の運動会は、蔵前工業高校のグラウンドで行っていたというように、蔵前の近く、鳥越で育ったからです。大相撲は、まさに「栃若(栃錦と若乃花)時代」でした。そして、若乃花が優勝すると、優勝パレードを住んでいた場所の近くを通ります。蔵前国技館から、中野の相撲部屋に帰るのに、蔵前通りを通るからです。よく見に行きました。もともとは、国技館は、明治42年(1909年)に両国に開館しました。しかし、それまでは、勧進相撲の開催場所として、蔵前八幡・深川八幡・本所回向院・神田明神など決まっておらず、天保年間に本所回向院が定場所となりました。そして、江戸中を巡って興行を行っていた江戸相撲も民衆が集う両国で頻繁に行われるようになったのですが、雨雪などで順延になることも多かったため、日本銀行や東京駅などの設計で有名な辰野金吾氏と葛西万司氏との設計で両国国技館が建てられました。しかし、第2次世界大戦の戦局が悪化してくると両国国技館は軍部に接収されてふ号爆弾(風船爆弾)の工場として使われ、空襲で焼け落ちてしまいます。そして、戦後、進駐軍に両国を追われた後、蔵前に国技館を建設したのです。蔵前の地は古くから相撲との係わりが深く、江戸時代に蔵前神社(蔵前八幡)で勧進相撲が催行されていました。この蔵前では、栃若時代だけでなく、大鵬と柏戸の「柏鵬時代」、輪島と北の湖の「輪湖時代」、千代の富士時代柏鵬時代と数多くのドラマを提供しました。しかし、老朽化のため、昭和59年9月の千秋楽を最後に35年にわたる歴史の幕を閉じたのです。ここでは、相撲だけでなく、プロレス興行も行われ、最後の対戦は、「アントニオ猪木対長州力(長州小力ではありません)」で、アントニオ猪木のフォール勝ちでした。あの伝説のキャンディーズも蔵前国技館でコンサートを開催したことがあります。そして、今の新両国国技館が、両国駅をはさんで旧両国国技館と対称の位置にある旧国鉄の用地に建てられたのです。なんだか、あのあたりは、私にとって、「ALWAYS 三丁目の夕日」です。

投稿者 fujimori : 22:38 | コメント (3) | トラックバック

2006年01月04日 散歩

ロゼット

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「タンポポ」と「よもぎ」のロゼット
 今、街の中をウォーキングしていると、山茶花の花が盛りですが、ほかの季節に比べて、色とりどりの花が少ないので、少しさびしい気がします。しかし、冬は、違う楽しみがあります。それは、次に来る春を待つ姿が、木々や草花に見ることができるからです。華やかに、今を盛りに咲いている姿よりも、もしかしたら、「忍耐」「希望」「未来」そんなものを感じることができるのは、冬の木々や草かもしれません。
 たとえば、道端で花の中でも美しいといわれている「バラ」(ローズ)の小さいのを見ることができます。小さいバラという意味の「ロゼット」(rosette)です。これは、非常に短い茎から葉(根出葉)が重なり合って地面に放射状に広がり、バラの花の形のようになっているものをいいます。多年草・越年草の冬越しの状態で、タンポポ・ヒメジョオン・ナズナなどの葉にみられます。ロゼットは、冬の間しっかりと根を張り、春にはいち早く花を咲かせる、そんな地道で実のある活動を目指しています。
 冬は、一年で一番寒い季節です。それぞれの生き物は、いろいろな方法で冬を乗り越えます。人間など哺乳類や鳥類は、気温や水温など周囲の温度に左右されることなく、自らの体温を一定に保つことができる恒温動物(かつては、定温動物、温血動物とも言われた)です。これらは、体内で熱を作り出し、または体内の熱を外に逃がす機能を持っています。反面、変温動物といわれる動物など、自分で体温を調節できない生き物たちは、活動をやめてじっと春の来るのを待っています。それが、冬眠です。また、卵や幼虫で冬をすごすものもいます。植物も、木々は葉を落とし、冬芽の状態で春を待つものがあります。草花には種子や球根で冬を越すものもあります。そんな中で、冬も枯れずに葉をつけたまま冬を越す道ばたの野草(多年生の植物)があります。その姿が「ロゼット」です。「ロゼット」は植物が寒さに耐えて冬を越すのに都合のよい形なのです。まず、茎を伸ばさず、地面にはりつくことで冷たい風から身を守ります。また、地面に近いところは、暖められた地面からの熱で温かくなっています。さらに葉を広げて太陽の光をたくさんあびることにより、体温も上がり、光合成をさかんにして地下の根に栄養分をためることができます。また、草丈が高くなる植物は刈り取られたり草食獣に食べられる危険性が高いのですが、地面にへばりついている植物は刈り取られても被害は少ないでしょう。そして、冬を種子や球根で越す植物は全部枯れてしまっていて、光をさえぎるものがありません。そして春になると、他の植物よりいち早く長い茎を伸ばして花をつけ種子を散布します。つまり地面を最大に利用している植物と言えます。ロゼットを作る野草には、ナズナやタンポポの他、ゴギョウ・ホトケノザなど春の七草は、ロゼットで冬を越します。
 人間は、自分自身で体温を調節できる生き物のはずです。しかし、どうも最近は、その機能を失いつつある気がします。体温を上げるために、毛を立てる。(身体の回りに空気の層を作り、伝熱を抑える。)身震いをする。(筋肉の摩擦熱による)脂肪の燃焼をする。血管を収縮させる。(重要な臓器に血液を集中し、保温する効果がある。)など体の機能のほかにも、行動として体温を上げるために、日光に当たる、身体を縮める、丸める(表面積を減らし放熱を抑える)、運動するなどがあったはずですが。 最近は、「暖房の部屋にいる」ですね。これで、生き抜いていけるのでしょうか。

投稿者 fujimori : 18:23 | コメント (1)

2005年12月28日 散歩

経済館

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 何かイベントをやるときには、多くの集客を目指します。そのためにいろいろな企画を立てます。私は、このような企画を立てることがとても好きです。それは、来る人が楽しむ企画は、立てる側にとっても楽しいものでなければならないからです。また、来客者が、ただ楽しいだけでなく、楽しんでいるうちに、来客者に知らず知らずのうちに、こちらの伝えたいことが伝わっていかなければなりません。
私が30代の頃から、八王子市で仲間の若手男性園長たちと、毎年12月に、駅ビルで「乳幼児の世界展」というイベントを開催していました。そのイベントを通して、「市民に子どものことを理解してもらおう!」「保育園は、そんなことに取り組んでいるのだ。」ということを訴えようとしたものです。ある年、子どもを理解してもらおうと、こんなことをしました。まず、子どもは、よく、持ったコップを落として親に叱られます。そこで、子どもは、どんなコップを、どんな感覚で持っているのか体験してもらいます。まず、子どもと大人の手のひらの面積を比較して見ると、ほぼ子どもは半分です。また、背筋力を測ってみるとこれもほぼ半分です。また、指を伸ばして届く距離を測っても半分です。そこで、直径が、普通のコップの倍ある入れ物に、コップにいっぱいに水を入れた重さの倍の重さのものを入れて持ち上げてみてもらいます。思わず、落としそうになります。また、大人の雑巾の倍の厚さで、大きさも倍のものをタオル地で作り、これを絞ってもらいます。しっかりと絞れません。また、子どもの視野の広さのめがねをかけてもらい歩いてみると、車が近づくまで、横から来る車に気がつきません。そんなものを部屋いっぱいに並べて、子ども体験をしてもらいました。テーマは、「子ども探検ツアー募集中」です。
25日の日曜日に、東京タワーフットタウンに行ってきました。ここに、11月から「感 どうする経済館」がオープンしています。ここでは、日本経済の今、日本経済の現状を、楽しく体験しながら勉強できるミュージアムになっています。プロデュースは作家の荒俣宏さんです。この部屋のベンチは、1万円を並べた100億円の束と同じ大きさになっています。ショックなのは、「日本経済の足音時間」というもので、「私たちが作り出している金額(GDP)」と「日本の借金」がものすごい速さで増えていきます。しかも、作り出しているスピードよりも、借金のスピードがものすごい勢いで増えていきます。別なコーナー「日本の借金リュック」では、政府債務の金額の重さを実感するアイテムで、世帯当たりの負担金額に換算した重さのリュックサックを背負ってみます。「100の1万円」では、1万円で買えるもの、1万円で行けるところ、1万円分かせぐのに必要な時間。そんなアイテムが100並んでいます。つまらなそうな経済というものを、楽しく理解してもらえるために、とてもいい企画ですね。
 いつか、全国の幼稚園、保育園で、全国いっせいに、各地で子どものことについてのイベントを行うような企画をしてみたいですね。

投稿者 fujimori : 18:05 | コメント (0)

2005年12月27日 散歩

あかり

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光る海 光る大空 光る大地 行こう無限の地平線」で始まるのは、「エイトマン」の主題歌です。コマーシャルに使われて、もう一度思い起こしましたね。これを何の宣伝に使ったかというと、光通信です。いまや、光は、明かりをともすだけでなく、情報のやり取りにも使われることになっています。
 日曜日に六本木にあるAXISビル内のAXIS Gallery Annexへ「あかりメッセージ2005」を見に行きました。ビル内では2つの会場に分かれ、学生展とプロ展が行われていました。テーマは「21世紀のAndon(行灯)を考える」というものです。「あかり」のデザインには、いくつかの要素があります。まず、一番わかりやすいのが、照明器具のデザインです。壁にかけるもの、机に置くもの、床に置くものによって、また、居間に置くもの、食堂に置くもの、オフィスに置くものなど、置く場所によってデザインが変わってきます。次のデザインが、「ひかり」のデザインです。どのくらいの照度のものを、どこに当てるかです。それは、まず、器具自体の問題があります。経済的にはすばらしいのですが、私は、蛍光灯の発明が、ある意味で「ひかり」のデザインを無味乾燥にしたように思っています。それに比べて、ろうそくの光は、なんともいえません。(外国では、ろうそくを保育室の装飾や保育に多用します。)この光は、何かを物語っているような気がするからでしょう。物語にもよく登場します。そして、雪がしんしんと降りしきるのは、物悲しい気がするのですが、雪明りはとても明るいです。昔は、それで勉強したというのもうなずけます。しかし、蛍の光では、勉強はできそうにありませんね。(「蛍雪の功」とは言うものの)それから、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」にも出てきた「裸電球」の光です。この「あかり」は、生活感がでています。今月23日の祝日に行った「建築家吉村順三の作品とその世界」(会場: 東京藝術大学大学美術館)では、吉村順三のこんな言葉が書いてありました。
「建築家として、もっともうれしいときは、建築ができ、そこへ人が入って、そこでいい生活がおこなわれているのを見ることである。日暮れどき、一軒の家の前を通ったとき、家の中に明るい灯がついて、一家の楽しそうな生活が感じられるとしたら、それが建築家にとっては、もっともうれしいときなのではあるまいか」
 たぶん、この家の中の明かりは蛍光灯ではない気がします。
 「あかり」の次のデザインは、「ゆらめき」のデザインです。これは、電気では難しいです。星も、自ら光っていない恒星はゆらめきません。「ゆらめき」は、それ自体の燃えている活動だからです。しかし、最近では、電気でその「ゆらめき」を演出できるようになりました。
最後のデザインの要素で大切なのは、「影」です。光で生じる「影」を、どうデザインするかです。これをよく表しているものが、谷崎 潤一郎の「陰翳礼讃」です。この中に、こんな言葉があります。
ひとはあの冷たくも滑らかなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くはない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う」
 影というよりも、「ひかり」をなくしたときのデザインをかんじる文ですね。

投稿者 fujimori : 17:43 | コメント (0)

2005年12月23日 散歩

田端

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 以前のブログにも書きましたが、鎌倉には、様々な作家をはじめ、文化人が住んでいました。その人たちの資料館「鎌倉文学館」に行きましたが、同様に、北区の田端にも様々な文化人が住んでいたようです。その資料がある、「田端文士村記念館」に行ってきました。田端という駅は、山手線・京浜東北線が乗り入れていて、その両線の分岐する駅ですので、特に朝晩の通勤時間には乗換えをするお客さんの数が多いようです。また、高架には、たまに、新幹線が通るのが見えます。しかし、このあたりは、明治の中頃まで、雑木林や畑の広がる閑静な農村でした。そこに若い芸術家・文士たちが移り住むようになり、“田端文士芸術家村”と呼ばれるコミュニティができあがりました。上野に美術学校(現東京芸術大学)ができると、台地つづきの田端に美術家たち(板谷波山・小杉放庵ら)が住むようになり、美術家どうしの交流が盛んになりました。大正になって、東京帝国大学に通う芥川龍之介が、当時住んでいた新宿では「田舎過ぎる」といって田端に引っ越してきたのです。そして、室生犀星・掘辰雄・菊地寛・野口雨情ら文士やパトロンたちが多く集まり、田端は“文士芸術家村”となりました。今日、行った「田端文士村記念館」には、彼らの作品・遺品の一部、貴重な映像を展示しています。
 その展示のなかで、興味を特に引いたのは、「金の船」(その後、「金の星」と誌名を改称)の編集室が、ここ田端にあったことです。この「金の船」は、斎藤佐次郎が、1918年(大正7年)鈴木三重吉が児童雑誌『赤い鳥』を創刊したのに触発され、出版社キンノツノ社社長横山寿篤と児童雑誌創刊を決意し、島崎藤村、若山牧水、西条八十、有島生馬らの賛同を得、さらに西条八十から野口雨情の紹介を受け、1919年(大正8年)11月、児童雑誌『金の船』を創刊したのです。その後、中山晋平より本居長世の紹介を受け、野口雨情と本居長世による多くの童謡を世に送り出しました。この頃発行されていた「赤い鳥」は北原白秋、「金の船」は野口雨情、「童話」は西條八十が中心的人物となり、それぞれが覇を競いました。(この3人が、3大詩人と呼ばれています。)「金の船」の中心人物の「野口雨情」は、やはりブログでも書いた「証城寺の狸囃子」の作詞で有名ですが、ほかに『七つの子』『赤い靴』『青い目の人形』『しゃぼん玉』『こがね虫』『あの町この町』『雨降りお月さん』などがありますが、いずれも曲がつけられて、広く愛唱されています。
 話は変わりますが、「夕焼け小焼けで 日が暮れて~」の作詞で有名な、「中村雨紅」は、八王子市上恩方町に生まれました。(この「夕焼け小焼け」の詩は、ふるさと恩方の風景を歌ったといわれ、従って、今、八王子市で、夕方になると、市内全域にこの曲が流れます。)この中村雨紅は、詩人・童謡作家ですが、東京府立青山師範学校卒業後、日暮里や厚木で教諭をしながら詩作を続けました。そして、野口雨情に師事し、その名前の「雨」の一字をもらい、雨紅と称したのです。
 どこかで、いつも、何かがつながってきますね。

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2005年11月23日 散歩

小田急線

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今日は、小田急沿線を歩いてみました。まず、京王線の下高井戸駅で降ります。そこから、下高井戸と三軒茶屋を結ぶ「東急世田谷線」に乗って、「山下駅」で下りました。この世田谷線は、2両連結の綺麗ないわゆるチンチン電車です。山下駅は、小田急線の「豪徳寺駅」とつながっています。豪徳寺という寺院は、今回は行きませんでしたが、以前行ったことがあります。豪徳寺は古くから有名で現在でも大規模な寺院といっていいでしょう。ここには、江戸城桜田門外で暗殺された井伊直弼の墓があります。また、そのそばには、桜田殉難八士之碑もあります。また、ここには、このブログの名前と同じような名の「臥竜桜」という桜の木があります。また、豪徳寺には、「招き猫伝説」があります。昔は、かなり貧しい寺であったころ、和尚が自分の食べるものを減らしてまでも大切に飼っていた猫に、「この恩に対して、なにか果報を持ってきて欲しい」と言い聞かせたところ、そのあと、大きな寺院になったことから、和尚は後にこの猫の墓を建て、後世この猫の姿をつくり招福猫児(まねぎねこ)として拝んだとして、招き猫は、吉運、家内安全、営業繁盛、心願成就するとしてみんなに知られることになったそうです。次の駅の「梅ヶ丘」は、「東京都立梅ヶ丘病院」があることで有名です。この病院は、国内で最大規模の児童・思春期精神疾患の専門病院です。治療対象となる疾患は、発達障害圏(精神遅滞、自閉症、学習障害)、神経症圏(神経症性不登校、強迫性障害、不安性障害、解離・転換性障害、適応障害等)、精神病圏(統合失調症、気分障害)、多動性障害(ADHD)、睡眠障害、チック性障害、摂食障害、行為障害などです。そして、これらの疾患に対して、医師、看護師、心理職、精神科ソーシャルワーカー、作業療法士、保育士等から構成されるチーム医療を行っています。これらの診療は、今後ますます必要になってくるでしょう。次の駅の「世田谷代田」は、京王井の頭線新代田駅の間に、戦争中から戦後にかけて、井の頭線に車両を運び込むための連絡線が引かれていたそうです。(今も、その名残が残っています。)次の駅は、有名な「下北沢」です。原宿並みに、様々な店が、小さな路地に至るまで、びっしり並んでいます。原宿よりは、少し、レトロっぽい店が多い気がします。また、この町には、「本多劇場」グループの、映画館や、小劇場がいくつかあります。いつも、若者でにぎやかな町です。次の「東北沢」は、文字通り、下北沢の東にあります。次の駅の「代々木上原」駅と、次の「代々木八幡」の間は、最近、素敵な店が何店かあるということで、雑誌などに取り上げられています。次の「参宮橋」の駅名である参宮橋は、行政上の地名ではありません。 地名は東京都渋谷区代々木で、参宮橋は、明治神宮の西参道にかかっている橋の名称です。橋のたもとには東京乗馬倶楽部があります。次の「南新宿」は、もう新宿です。駅では、代々木駅が近いので、代々木ゼミナールを始め、様々な専門学校が並びます。そして、新宿駅に着きました。

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2005年11月20日 散歩

いちょう祭り

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 私の住んでいる八王子市で行われるさまざまなイベントのなかで、一番好きなものに「いちょう祭り」があります。(そのほかは、どれもあまりぱっとしません。)八王子の町は、八王子城の城下町としてと、甲州街道の宿場町としてと、横浜への絹の道に沿っての織物の町という姿を持っています。町の中心を横切っているのは、横浜、川越街道(国道16号)と、甲州街道(国道20号)です。その甲州街道は、みごとないちよう並木が続き、見事な黄葉、そしてその落ち葉でつくられる黄金の絨毯は、まことに美しい景観を醸し出します。これは、昭和2年、横山村長房の「龍が嶺」南麓一帯に大正天皇の御陵が設けられる事になり、昭和2年から街道の改修工事が始まり、昭和3年に完成しました。この時追分交差点から高尾駅までに並木として、ほぼ4Kmにわたる甲州街道両側に770本の「いちょう」が植えられたのです。今は、この大正天皇陵の奥に、昭和天皇の武蔵野陵もあります。このいちょう並木が植えられてから80余年経過し、この間、八王子市は大きく変貌し、特に 最近30年ほどは21校に及ぶ大学の進出で、大学の町になっています。
「いちょう祭り」は、八王子を象徴するこの壮観を背景に、市民によって作られた祭りです。昭和54年(1979)に第1回の祭典が開催され、今年は26回になります。(昭和55年は学園都市宣言の行事のため、いちょう祭りは開催しなかったようです。)甲州街道は江戸五街道の一つで、途中に小仏関所があった事から、この史跡に至る道を通行手形で通過した江戸時代の史実をまね、「関所オリエンテーリング」を実施しています。毎年通行手形を持って沿道町会による12関所で焼印を押しながら5、6キロの街道(約8000歩)を歩いて、完歩者には、最後の小仏の関所でパーフェクト賞がもらえます。この手形の売上金が、祭りを運営するための資金となるのです。この手形は、今年は、今年の星座を図案化したものでした。
私は、ほぼ、毎年参加していました。ある年は、教え子たちと、子どもができてからは、我が子の成長に伴って、歩く距離を伸ばし、参加してきました。しかし、わが子が大きくなってからは、なかなか行く機会がなくなっていましたが、久しぶりに妻と二人で歩いてみました。(今日は、夕方広島に行かなければならなかったのですが、きちんと、完歩して、パーフェクト賞をもらいました。)子どもと一緒のときはそれなりの楽しさがあり、妻と二人で歩くときもちがった楽しさがあります。道々で見る店、食べるもの、歩くペース、妻とですと、気が楽です。
 毎年30万人余の参加があるこの「いちょう祭り」は、「自然と心のふれあう地域文化を創造しつつ、地域の発展と社会的な広がりを作ることを目指して、市民の活力を生かして、有志市民により企画され、市民手づくりの新しい祭りとして実施運営されています。」と趣旨にあるような試みが、わたしはとても好きです。

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2005年11月05日 散歩

秋の花

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 今日は、市原市で講演です。市原市といえば、少し前まで、サッカーJリーグの「ジェフユナイテッド市原・千葉」のホームタウンでした。(今は、千葉市になっています。)この市原市は、関東で横浜市に次いで2番目に大きいそうですが、まだ多くの自然が残っています。駅でいうと、「五井」という駅です。以前、ここから小湊鉄道に乗って、養老渓谷に行ったことがありました。2冊の本の原稿締め切りが近づいて、どうしても間に合いそうになかったので、温泉宿に閉じこもって書こうとしたときです。(どうしても、原稿は、職場や、自宅では書くことができません。日常から離れて、神経を集中しないとだめなのです。他にも、何軒か温泉宿めぐりをしました。)市原市は、今は、海岸部は工場地帯や市街地となっていますが、東部や中部には、田園や台地の自然が昔のまま残っています。南部には、養老渓谷・奥清澄自然公園や梅ヶ瀬渓谷自然環境保全地域などを中心とする美しい自然が広がっています。ということで、海岸、河川、台地、谷津、森林、渓谷、更には田や畑などの耕作地を含め、様々な自然環境が存在しています。そうした自然のなかで、秋の花々に出会うことがあります。よく、川原などに黄色い花が多くなると、大気汚染が進んでいる証拠であり、帰化植物が多くなったことの証であると何かで読んだことがありました。では、これは、何でしょうか。「紫・白・紫・紫・黄・白・紫」なんだか紫が多いですね。これは、「秋の七草」の花の色です。「秋の七草」は、「ハギ・オバナ・クズ・ナデシコ・オミナエシ・フジバカマ・アサガオ」です。秋の花には、どうも紫色をした花が多いようです。他にもナンバンギセル、ツリガネニンジン、マツムシソウにリンドウ、などが秋の花ですが、やはり紫の色の花ですね。ところで、秋の七草は、古くは万葉集に、「秋の野に咲きたる花を指折りかき数ふれば七草の花。萩の花、尾花、葛花、撫子の花、女郎花また藤袴、朝貌の花」(山上憶良)と詠まれました。(ただし、「尾花」はススキ、「朝貌」はヒルガオ科のアサガオ(平安時代に渡来)ではなく、キキョウであろうとされています。)「ハギ」という植物はなく、50以上の植物に「~ハギ」の名がついています。よく目につくのはミヤギノハギやツクシハギなどのようです。鎌倉には、萩の寺がありますし、都内でも、萩のトンネルがある公園に行ったことがあり、秋を感じます。また、「ススキ」は、十五夜のお月見にはかかせませんね。「クズ」は、最近は、繁殖力が強いためか、いたるところで見ることができます。しかし、古くから「くず粉」(葛粉)といって、根を食料にしたり、「葛根湯」という薬にしたり、衣料、飼料などに利用されてきました。「ナデシコ」は、日本女性の代名詞「ヤマトナデシコ(大和撫子)」として使われますね。「オミナエシ」は、やさしげなその黄色の花の風情から、よく女性になぞらえて歌われました。どうも、このあまり派手でない花の姿が日本では好まれたようで、栽培の歴史も古く、平安時代から庭に好んで植えられていたようです。「フジバカマ」は、河原などに生育し、戦前までは各地でふつうに自生していましたが、いまではあまり見られなくなりました。「キキョウ」は、秋の七草のひとつですが、本当は、6月の終わり頃から咲き始める夏の花です。キキョウも野生では減少しています。秋の七草くらい、自生できる環境を残したいものですね。

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2005年11月03日 散歩

デザイン

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今日は、明治神宮外苑の絵画館前で行われている、「東京デザイナーズウィーク(TDW)2005」に行ってきました。TDWは、インテリアや家電など国内外メーカーやインテリアショップなどが参加するデザインイベントです。主催者である「NPO法人デザインアソシエーション」の理事長である喜多俊之氏は、このイベントの趣旨として、このように言っています。
「今“デザイン”は、暮らしと経済と産業に 大きなキーワードとして浮上しています。
心豊かな生活文化の土壌ともいえるデザインが、世界の多くの国々で、国家プロジェクトとして取り上げられています。
20年前、デザイナーズサタデーとしてスタートした活動はいま、企業にとっての次の創造の場作り、若きデザイナー達が世界に歩みだすための発表の場作りに広がろうとしています。
「デザインがこの国を変えていく」。
このメッセージで始まる2005年デザイナーズウィークは、日本のデザインアソシエイツとして世界に向けて、新しい時代の熱いメッセージを発信してまいります。
デザイナーズウィークの1週間、優れたデザインに数多く出会い、デザインがもたらす新しい生活を体感してください。」
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(上の写真:会場で、私が買ったもの。ペットボトルが、如雨露になる。)
 グッドデザイン賞の授賞式に出席したときにも感じましたが、今、デザインという考え方が変わってきています。わたしが、2001年度に受賞したのも、「人々の関係性」のデザインが良いということで、決して、建物の意匠のデザインでもなく、何かのもののデザインが対象ではありませんでした。今年の大賞を取った「注射針」にしても、どう見てもデザインが良いとは思いません。いまや、デザインとは、かたちではないのです。生き方であったり、暮らし方であったり、ものの考え方であったりするのです。
東大の大学院教授の佐藤学氏は、「これからの教師は、デザイナーになるべきである。」といっています。英語の名刺の肩書きに、園長をどのように書くか、よく迷います。「principal」とか、「head master」とか書きます。ちょっと気が利いて、「director」と書いたりします。しかし、私は、グッドデザイン賞を取ってからは、「designer」(デザイナー)でも、いいかなあと思っています。
「デザインがこの国を変えていく」
ですから。

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2005年10月30日 散歩

相模原公園

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 今日は、神奈川県立相模原公園に行きました。この公園は、平成4年に「第9回全国都市緑化かながわフェア」の会場になって以来、 整備され、市民がかなり多く利用しています。このなかには、花々が噴水を縁取るかのように咲く「虹の花壇」や、「水無月園」(その時期には、約26,000株のハナショウブが咲き競うようです。)などがあり、四季を通じて花が絶えることはありません。また、この公園のシンボルである「かながわグリーンハウス」は、大きな温室で熱帯植物が観賞できる(今は、胡蝶蘭が咲き誇っていました。)ほか、大アクアリウム、 映像ホール、ギャラリーなど、多彩な施設が揃っています。今日もちょうどよい気候だったために「芝生広場」では、たくさんの親子連れが訪れ、池には、カルガモが泳いでいました。ちょうど今の季節は、けやきの並木が、一本一本皆色が違い始めました。早い木ではとても赤くなっている木もあります。紅葉の季節の幕が上がり始めました。このけやきは、相模原市の市の木でもあります。そのほかにも、かなり市や町の木としているところが多いようです。それは、本州・四国・九州の各地に自生するからでしょう。八王子を通過している甲州街道や五日市街道などでも、けやき並木が多く見られます。特に、関東では、屋敷林の重要な樹木です。けやきの材は黄褐色で材は堅いのですが、加工性も良く、木目も美しいうえに、湿気にもよく耐えます。強度もあり、寿命も長いので、大径材も多いため、古くから建築(とくに社寺建築では、柱には欠かせません)、家具、楽器(太鼓)、漆器木地、家具など幅広い用途があり、日本の広葉樹で最上と言われています。ですから、公園樹や、街路樹にも多く使われます。(しかし、街路樹に使われ始めたのは、最近のようです。)今は、漢字で「欅」と書きますが、その由来はよくわかりません。昔は、「槻(つきの木)」と書いたようで、「つきけやき(強い木の意味)」ともいい、木目が美しいところから「異(け)やけき木」と呼ばれ、「けやけし」=他のものより目立っている)、「けやけきき」→「けやけき」→「けやき」と変化していったようです。その歴史は古く、古来から銘木とされ、古事記にも出てきますし、いろいろな名作にも出てきます。京都東山の清水寺の舞台は、数十本のけやきの柱で支えられていることで有名ですね。
 日本では、季節を感じるのに、花が咲くことで感じるほか、木々の紅葉で感じることができます。また、紅葉ほどきれいでなくとも、木々の葉の枯れ具合でも季節を感じます。枯れることでも感じることができるのは、日本くらいかもしれません。「枯山水」というように、「水」を枯れさせることで、実態としての「水」以上の存在を感じる精神は、究極の日本美のような気がします。そんなことを、初冬の公園から感じることができますね。

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2005年10月29日 散歩

人の出会い

 今日は、大学の文化祭に行ってきました。昼から、あのキティーちゃんをデザインした「山口裕子さん」と私の大学生の娘のトークショーがあったからです。そのなかで、山口さんが、仕事に取り組むときに大切にしていることは、「何でも知ろうとする探究心。常にアンテナを張り巡らせていること。」と言っていました。一見、デザインの仕事をしている人なので、「オタク」のようにみえますが、やはり、あれだけの有名なキャラクターをデザインするためには、いろいろな人にあったり、いろいろなことを見たり、聞いたり、また、お客の意見を聞いたりしているようです。
 そのあと、妻の友達からチケットをいただいたので、上野の東京文化会館に「イタリア*音楽紀行」―オペラが乱舞―を聞きに行きました。私は、あまりオペラは普段は聞きませんから、眠くなりそうだと思っていました。しかし、曲がとてもポピュラーだったこともあって、聞き入ってしまいました。「椿姫」では、「あの美しいプロヴァンスのふるさとへ帰ろう。」と歌うのを聞きながら、昨日まで行っていた、あのプロヴァンス風の園舎造りの「高岡ほうりん保育園」を思い出していました。しかし、そんなことより、このオペラを聴きにきて驚いたのは、出演者がメゾソプラノが「玉敷やよい」さんで、バリトンが「蓮井求道」さんでした。蓮井さんは、2週間前に滑り台から落ちて、足を骨折してしまったそうです。それを押して、手術をして、今日出演していました。会場のみんなは、なんで、滑り台から落ちたのだろうと思ったのではないでしょうか。それは、蓮井さんは、現在、現役の保育園の園長先生だからです。福岡県にある「みのり保育園」の園長であり、浄土真宗大谷派興隆寺の住職さんでもあります。確かその園には、お寺なのに、ピッツァを焼く釜があったと思います。また、彼は、皆さんのなかで覚えている人がいると思いますが、私が、はじめて経営強化委員会で分科会を室田さんと二人で担当したときに、その分科会に参加していて、その分科会からの提案で、経営セミナーMLを立ち上げたのです。そのときの参加者が、ギビングツリーのメンバーにもいると思います。不思議な出会いです。
 昨日、帰ってくる新幹線の中の雑誌にこんなことが書いてありました。
「人は、人と会うことで知恵と力を授かり、大きな仕事をなす。シャープ相談役の辻春雄氏は、社外内の人との交わりから新しい発想を見出し、同社を世界に名だたる企業に至らしめた。―略― 使命感と誠意を持って相手の懐に飛び込んでこそ、情報を引き出せる。そんな付き合いを通じて人は成長する。ということで、次のようなことを言っています。「人は刺激しあうことで成長できますから、そういうネットワークを広げることが自分を大きくする。本来、日本社会は個人主義じゃない。協創こそ、日本の得意技のはずです。」―略― 人と会うことが軽んじられる社会になりつつある。たとえあっても、うわべだけの付き合いに終始するきらいがある。人と会うとき、辻のように使命感を持っているか、誠意を持って懐に飛び込もうとしているか。それは確かに骨が折れよう。しかし、そうして付き合った人こそが、自分の器を大きくしてくれるのである。」(WEDGE11 トップランナー)

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2005年10月23日 散歩

レオナルド・ダ・ヴィンチ

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今、巷の話題は、ヒルズ族です。村上、三木谷、堀江等々。今日は、ちょっとヒルズ族の仲間入りをしてみました。といっても、六本木ヒルズに行ってきました。そこで、今、レオナルド・ダ・ヴィンチ展をやっているので、見に行ったのです。
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人類史上最も偉大な天才、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519年)は、私と同じ4月15日生まれです。子どものころそれを知って、うれしくなったものです。今回の展示は、とても貴重なものだそうです。それは、研究の集大成として遺した直筆ノート「レスター手稿」が、日本で初公開されているからです。この「レスター手稿」は、いま、マイクロソフト社のビル・ゲイツ会長が所蔵し、一年に一度、一カ国だけしか公開されない手稿なのです。ですから、世界でも稀少な展覧会です。この趣向は、ローマの画家G・ゲッツィから英国の貴族レスター卿へ、レスター卿から米国石油王アーマンド・ハマーへと大富豪の手を渡り歩いたものが、現在は、あのビル・ゲイツ氏の手に渡り「ビル&メリンダ・ゲイツ氏個人所蔵」となっているのだそうです。それぞれの時代での金持ちがどんな職業かがわかりますね。
レスター手稿は、レオナルド・ダ・ヴィンチ晩年の手稿で、彼が生涯をかけて取り組んださまざまな科学的考察の集大成としてまとめられた極めて貴重な研究ノートです。500年前の最先端メディアである「紙」に、月の満ち欠けや天体の運動などの天文学、渦や波紋などの水の性質とその利用に関する水力学、そして地殻変動や地球の構造についての地球物理学などの考察が、鏡面文字で書き込まれています。鏡面文字で書かれているということにとても興味を持ちました。いわゆる鏡文字で書かれており、字だけでなく、そこに書かれている図もすべて逆に描かれています。ですから、それを読むのには、鏡に映さなければなりません。そのような特徴を持つ奇異な文字で書かれているのはなぜかというと、「暗号」ではないか、「印刷をするため」にそのように書いたとも、「彼が左利きだったため」等、今なお様々な説が論じられています。ダ・ヴィンチは、両利きだったそうで、また、天才であることを考えると、ただ、左利きだったというのは、単純すぎるように思います。レスター手稿は72ページから成りますが、彼は、ここに記されたさまざまなことは多分野にわたり、先見性と独創性に満ちた考察が、次から次へあふれ出てくるのを受け止めるのが大変かのように熱気あふれんばかりに記されています。その中で、月の光の起源、天体における重力の影響など、ガリレオやニュートンの先駆ともいえる探求は、近代の幕開けを告げるものでした。彼は、川の流れを見ていても、月を見ていても、化石を見ていても、そこに物事の真理を見ようとしていたようです。同じものを、同じように見ていても、そこから何を感じることができるかで、天才を作るものなのですね。

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2005年09月18日 散歩

障子を開けると何が?

 「障子を開けると、何が見えるでしょうか。」
「障子をあけてみよ 外は広いぞ」と言ったのは、豊田佐吉です。
私は幼稚園のころ、いつも思っていたことがあります。前の子のスモックの後ろをつまんで、みんなでつながって汽車ごっこをして遊んでいたのですが、そのたびに自分の手を見つめて、「なんで、手はものが握れるのだろう。」と不思議でした。同じように、今、保育園から車で帰るときに、「何で、足をちょっと踏むだけで、こんなに移動距離が瞬間に長くできるのだろう。」とつい、思ってしまうのです。原理はわかっているのですが、なんだか、車の発明に感動してしまうのです。
今日、「豊田佐吉記念館」に行ってきました。
豊田佐吉は、江戸時代の末期、慶応3年(1867)に、遠江国(現在の静岡県)に生まれました。佐吉の両親は、彼を大工にさせようと修行させましたが、発明・工夫の夢がすてられず、24才のときに、布地を織るバッタン式の木製織機(もくせいしょっき)を改良し、特許を得ました(明治24年)。その後、東京に出て会社を作り、自分で改良した機械を販売しようとしましたが、うまくいかず故郷に戻っていきます。しかし、故郷に戻ってからは、取扱いが簡単で能率のよい糸繰返機(かせくりき)を発明したり、木製織機を動力化したり、数々の発明を生み出し成功をおさめます。彼は、昭和5年(1930)、64才で死亡するまで、自動織機の改良を続け、特許を84件、実用新案権は35件も得ています。この豊田佐吉の成功をもとに、息子の喜一朗(きいちろう)がつくった自動車会社が、現在のトヨタ自動車です。
佐吉は、天才だと思います。天才というのは、天から授かった才能を、たとえどんな境遇にあっても、結局はいつか使うようになる天命がある気がしています。しかし、天才とは、黙って何かを生み出す能力ではなく、それに取り組む姿でさえ、天命なのです。当然、夜もろくに寝ないで研究したため、まるで病人のようになりました。周りの人にきちがい扱いされ、相手にされなくなりました。失敗を重ねてお金もどんどんなくなっていきました。佐吉の場合、それを支えたのは、母親だったようです。しかし、その子喜一郎の場合、このような父親を持つことは不幸でもあったようです。喜一郎の少年時代は暗く、孤独そのものでした。父親は発明に熱中するあまり家庭を顧みません。郷里や三河や東京を転々とするありさまで、喜一郎が生まれてまもなく、辛抱しきれなくなった母親までも、喜一郎をおいて離婚するのです。生後数年間、喜一郎は佐吉の両親に育てられました。その後、後妻の浅子のもとで育てられるようになります。しかし、浅子は佐吉の仕事にかかりっきりでした。いまでいう鍵っ子のような淋しい毎日を過ごしました。そんな喜一郎を癒したのは、機械の見取り図でした。部屋の片隅で暇さえあると黙々と図面のようなものを熱心に書いていたそうです。やはり、佐吉の子、喜一郎も天才のようです。
いま、離婚した親の元で育ったり、鍵っ子のように放っておかれたり、そんな状況でもいつか、どこかで、その才能を発揮する機会があるでしょうか。

投稿者 fujimori : 21:41 | コメント (0)

2005年09月11日 散歩

高麗神社とごんぎつね

 今日の散歩は、9.11ということで、都内はテロなどで危ないかもしれないということで、山のほうへ花を見に行くことにしました。八王子から1時間くらいの日高市というところに、「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)公園」があり、一面に彼岸花とも言う曼珠沙華が咲いているという公園があります。昨日から、公開されているということで行ってみました。西武池袋線の「高麗」という駅で降ります。近くにJRの駅で、「高麗川」という駅もありますが、高麗という字は、なかなか読める人はいないと思いますが、「こま」と読みます。この字を見ると、なんとなく朝鮮の高麗(こうらい)とか、高句麗(こうくり)を思い出します。しかし、特に関係ないと思いました。すると、駅を降りると、いたるところの看板に、日本語とハングルが書かれています。この辺は、多いのか、そんな時代になったと位しか思いませんでしたが、初めていろいろなことがわかりました。花はまだ咲いていなかったので、せっかくということで近くを散歩することにし、高麗神社に行ってみました。すると、そこに神社の由来が書いてありました。
紀元前1世紀ころ朱蒙(しゅもう)によって建国された高句麗が、668年に唐と新羅によって滅ぼされてしまったとき、高句麗の人たちが日本に渡ってきました。そこで、日本は、その人たちを受け入れるため、武蔵国に「高麗郡」を置いて、そこに住まわせました。その首長として当地に赴任したのが、高麗王若光(こまのこきしじゃっこう・「王」は他に「こしき」「こにしき」「こにきし」などとも読む)です。各地から移り住んだ高麗人(高句麗人)1799人とともに当地の開拓に当たり、若光が当地で没した後、高麗郡民はその徳を偲び、御霊を「高麗明神」として祀りました。これが当社創建の経緯だそうです。よく聞いている地名でも、その由来は、なかなか面白いものがあります。
 もうひとつ、日高市は、「栗」が有名です。「彼岸花」と「栗」というと、ひとつのお話が思い出されました。新美南吉の名作「ごんぎつね」です。こんな一文がありました。
「墓地には、ひがん花が、赤いきれのようにさきつづいていました。」
「そっと物置の方へまわってその入口に、栗をおいてかえりました。つぎの日も、そのつぎの日もごんは、栗をひろっては、兵十の家へもって来てやりました。」
この話は、私の息子も、娘も、小さいころとても嫌いな話でした。
「楽しい気持ちになりたいから本を読むのに、何で、本を読んで泣かなきゃいけないの!」
小さい子どもにしては、あまりにも悲しい結末が耐えられなかったのでしょう。

投稿者 fujimori : 18:33 | コメント (0)

2005年09月09日 散歩

ネット散歩

 「いろいろな考え方の社会化と、情報収集の満足感と、安心感が得られるという精神安定剤的な意味」のための散歩同様、暇なときにネットの中を散歩することがあります。インターネットブラウザーを使って、たくさんのサイト(ホームページ)を渡り歩くことをサーフィンに例えて、「ネットサーフィン」と言うそうですが、私からすると、「ネット散歩」のほうがいいような気がします。私が散歩するときは、町の中を散歩するときと自然の中を散歩するときがあります。また、目的地を決めてそこに向かって出かけるときと、なんとなく歩き回って、偶然の出会いを楽しむときがあります。ネット散歩でも、まったく同じです。目的地がある場合は、検索でまずキーワードから入ります。そして、リンク(文書内に埋め込まれた、他の文書や画像などの位置情報で、リンクのある場所を,マウスでクリックすると、関連づけられたリンク先にジャンプするようになっています。)しているページを見ることができたり、最近ブログのなかで、トラックバック(ウェブログ(ブログ)の機能の一つで、別のウェブログへリンクを張った際に、リンク先の相手に対してリンクを張ったことを通知する仕組みのこと。)という機能があるので、どんどんと広がって行きます。
 もう一つ、時間があるときに目的がなく歩き回るやり方があります。そのなかで、こんな楽しみ方があります。まず、検索で、自分の名前を入れます。そうすると、自分の名前がでているホームページや、ブログが出てきます。それを見ることによって、思わない発見をすることがあります。まず、そこに掲載されている特殊性はあるものの、今、自分が大体どの分野で活動しているかがわかります。保育関係か、情報関係か、エコ関係か、地域支援かなどです。どの分野の記事に掲載されているかでもわかります。次に私の書いた本が、どの図書館で購入したかがわかります。あまりよく位置も知らない小さな町の図書館のお知らせに購入したと書いてあったり、有名な大学の図書館で購入したなどを見ると、なんだかうれしくなります。でも、中古品としてオークションに出されたのを見ると、なんだか複雑です。そして、たまに、本の感想が書かれているものを見つけると、とても参考になります。それを書き込むような人は、たくさんの本を読んでいますし、私を個人的に知っている人ではないので、言いたい放題書いているからです。また、たまに、講演を聴いて人が、ブログの日記の中で書いてあることもあります。それも、かなり本音で、しかも、保育者でないことが多いので、おもしろいです。私の講演は、「なんと言っても声が、癒し系で良い」という書き込みを見ると、だから聞いている人は、よく眠ってしまうのだと納得したりします。

投稿者 fujimori : 15:56 | コメント (1)

2005年09月04日 散歩

散歩

 いつもの運動不足を補うために、日曜日はいろいろなところを妻と歩き回っています。いわゆる、最近はやっている「ウォーキング」です。しかし、昔から趣味は何かと聞かれたときの答えの定番は、「読書」と「散歩」でした。話はそれますが、犬を散歩させるときの意味についての記述で、おもしろいものがありました。
「運動不足の犬は欲求不満になりがちとよく言われます。そのために毎日長い時間散歩をする方がいますが、人間の普通に歩く速度では犬にとってそれほどの運動とはなりません。では自転車で走ったらどうか?これは確かに運動量としてはかなりのものになりますが、犬の体には余り良いとはいえないそうです。理想的な運動は自由運動です。全力で野山などを走り回ることが真の運動と言えるのかも知れません。では、運動ではないとすると散歩の意味ってなんでしょう?トイレですか?それならすぐに済んでしまいますね。また散歩に出なければトイレが出来ない犬にすると、老後や病気の時に困ります。出来るだけ室内でもトイレが出来るよう育てたいものです。では散歩には意味がないのか?そんなことはありません。いろいろな環境に慣れるという社会化としての意義や、情報収集の満足感と安心感を犬が得られるという精神安定剤的な意味があります。」
 なんだか、私が散歩に行く理由に似ています。運動としてだけであれば、もっと早足で、両手を振って、とウォーキングの歩き方があります。私は、そのように歩いていないで、どうお犬の散歩同様、「いろいろな考え方の社会化と、情報収集の満足感と、安心感が得られるという精神安定剤的な意味」があるのです。また、運動の理想的なものは、「自由運動」であるということも気に入りました。やらされるもの、やってもらうものは、運動にならないのですね。
 きょうは、まず、選挙の期日前投票をしてきました。かつては、不在者投票ということで、何で当日、投票ができないかを聞かれ、できるのに期日前にするのに後ろめたさがありましたが、いまは、好きなときに、近くの場所で、遅い時間まで投票できるので、期日前にすることが多くなりました。そして、今日、投票場で初めての体験をしました。「出口調査」です。いつも、その言葉は聞くのですが、自分で受けたことがないので、やってみました。まず、ためらったのが、突然、「誰に投票しましたか?」とストレートに聞かれたことです。当然というば当然ですが、今まで、何年も投票していましたが、投票者の名前を、人に言ったことがなかったからです。「どの党に投票しましたか?」「何を観点でその党にしましたか?」「いつも支持している党はどこですか?」「小泉さんは支持していますか?」の5問でした。なんだか、自分の心を人に見せるようで、恥ずかしい気がしました。

投稿者 fujimori : 20:00 | コメント (0)