2008年08月29日 あいさつ

満三歳

どうも、私は強くシンクロニティーを感じるタイプのようです。日本語で言うと「共時性」です。(心に思い浮かぶ事象と現実の出来事が一致すること。ユングの用語)このブログを始めるにあたって、「私は何がしたいのだろうか。」という問いを自分にしてみました。するとそのときに読んでいた本(司馬遼太郎著「峠」)の中の文が答えを代わりに言ってくれている気がしました。
「心を常に曇らさずに保っておくと、物事がよく見える。学問とは何か。心を澄ませ感応力を鋭敏にする道である。」
心を澄ませ、感応力を鋭敏にするための「ブログ」かもしれません。
心は万人共同であり、万人一つである。しかし、人間には、心のほかに気質というものがある。その気質によって、賢愚がある。気質には、不正なる気質と正しき気質とがある。気質が正しからざれば物事にとらわれ、たとえば俗欲、物欲にとらわれ、心が曇り、心の感応力が弱まり、物事がよく見えなくなる。つまり愚者の心になる。学問の道はその気質の陶治にあり、知識の収集にあるのではない。気質がつねにみがかれておけば心はつねに明鏡のごとく曇らず、物事がありありとみえる。その明鏡の状態が良知ということである。」
そして、よく知ることは知るだけでとどめず実行がともなわないといけないと思っています。今、子どもの身に起きている危機は、学んでいるだけでも、知識を蓄えるだけでも、憂いているだけでも、人に伝えるだけでもなく、何かの行動に移さないといけないという思いの一つが「ブログ」かもしれません。
「学問はその知識や解釈を披露したりするものではなく、行動すべきものである。その人間の行動をもってその人間の学問のを見る以外に見てもらう方法がない。」
「人の世は、自分を表現する場なのだ。」
「人の人生はみじかいのだ。己を好まざることを我慢して下手に地を這いずりまわるよりも、おのれの好むところを磨き、のばす、そのことのほうがはるかに大事だ。」
ということで、この「ブログ」を始めることにしました。

これは、2005年8月29日の第1回のブログです。自分では気がつかなかったのですが、職員に言われてみれば、ちょうど今日がブログ3歳の誕生日です。今日から4年目に入ります。ちょっと初めのころは字数が少ないですが、基本的には内容や書きぶりは変わっていません。また、写真だけを掲載して時があり、そのときは1日に2回アップしたので日数とは合わないのですが、昨日で1111回書いています。今は、1日にだいたい1400字から1500字書いていますので、今までに400字詰め原稿用紙に4000枚くらい書いたことになります。それよりも自分で感心するのは、丸3年間1日も休まなかったことです。それは、まず、常に健康であること。次に、毎日書く時間を確保したこと、また、その日過ごすであろう地域のネット環境を事前に予想し、対応を考えておくことなどです。特に、私はかなり色々な地方に行くことが多いので、ヒヤヒヤもんです。ただ、気持ち的には、毎日必ず書こうとは思っていません。そんなに頑張っていないつもりです。しかし、こうなると、書かない日があると、何人かは、私の健康を心配するでしょうね。
ありがたい話しです。

投稿者 fujimori : 23:27 | コメント (7)

2006年01月01日 あいさつ

1秒

 あけまして おめでとうございます。
 皆さんは、どこでカウントダウンをしたでしょうか。今年は、いつもの年より1秒得をします。もしかしたら、1秒損をしています。どちらでしょうか。皆さんが知っているように、時間は地球の公転と自転から決められています。そこで1年を決めて、1日を決めて、時刻を決めています。しかし、1年のずれが起きるので、「うるう年」が決められていて、4年に1日多くします。それが、最近になると、もっと正確になっています。というのも、時刻を決めるために、現在では、原子の振動を利用した原子時計をもとに決められるようになり、非常に高精度なものとなっています。このため、逆に天文時に基づく時刻との間でずれが生じるようになりました。そこで、原子時計に基づく時刻を天文時と0.9秒以上ずれないように調整を行った時刻を世界の標準時として使うことにしています。そこで、今年は、地球の公転・自転に基づく時刻とのずれが0.9秒に近づいたために、「うるう秒」として調整が行われました。なお、最近では7年前(平成11年(1999年)1月1日)にうるう秒の挿入を行いました。調整の仕方としては、日本では、平成18年(2006年)1月1日(日)午前8時59分59秒と午前9時00分00秒の間に「8時59分60秒」を挿入する方法を取るようです。電話の時刻の案内では、10秒前から0.1秒ずつ延ばしていくそうです。
 この1秒という時間は、どんな時間でしょうか。先日行った経済館では、1秒ごとに日本の借金が増えていきますので、1秒長くなるということは、借金が、何億と増えることなのでしょう。同じように1秒で何ができ、世界で何が起きているかを考えると、得なのか、損なのかわかりません。そんな本があります。「1秒の世界」山本 良一責任編集です。(出版 : ダイヤモンド社)こんなリードが書いてあります。「1秒間に人は93mlの空気を呼吸し、世界に420万tの雨が降っている…。世界の変化を1秒で見ると「地球の今」がリアルに実感できる。宇宙と生命の真実を認識し、有限な地球で豊かなエコライフを実現するためのテキスト。」1秒は確かに大切ですし、1秒の間にいろいろなことが動いていきますが、なんだか私はあまりそんな世界は好きではありません。ゆったりと時が流れる感じが好きです。もし、1秒を大切にしようとするのであれば、次のような詩が好きです。
詩「1秒」 永田 光男
『はじめまして』この1秒ほどの短い言葉に 一生の時めきを感じる事がある。
『ありがとう』この1秒ほどの短い言葉に 人の優しさを知る事がある。
『がんばって』この1秒ほどの短い言葉で 勇気が蘇ってくる事がある。
『おめでとう』この1秒ほどの短い言葉で 幸せに溢れる事がある。
『ごめんなさい』この1秒ほどの短い言葉で 人の弱さを見る事がある。
『さようなら』この1秒ほどの短い言葉が 一生の別れになる時がある。
1秒に喜び 1秒に泣く 一生懸命  1秒...
 
そんな意味で1秒を大切にしたいですね。
もし、早口で言ったらこんな言葉も1秒でいえます。「あけまして おめでとう」

投稿者 fujimori : 09:47 | コメント (1)

2005年12月31日 あいさつ

学ぶの半ばなり

 今日で今年が終わりです。このブログを振り返って、「自分ながらよく続いたな。」と思います。しかも、内容はつまらないだろうし、長くて読みづらいし、読む人は、大変だろうと思います。私は、日記も続いたことはありません。ほかのことでも、続いたためしがありません。そのなかで、ひとつだけひと月ですが、毎日続いたものがありました。それは、教員を辞めるときの最後のひと月の間、クラス便りを日刊で出していました。その頃は、コピーもなく、印刷も手回しでした。家に帰ると、鉄筆で原紙に書いたものです。間違えたときは、あの独特のにおい(マニュキアのにおいと同じ)の修正液を使います。そして、朝早く学校に行って、印刷をします。紙も、わら半紙というものです。こんな毎日のなかで、ふと思ったことがありました。「こんなに毎日書いているのに、何の反応もないは、何でだろうか。読んでいないのではないだろうか。」と保護者を疑ったのです。そして、ある日のクラス便りに、その不安を書きました。すると、その次の日に、大勢の保護者がお便り帳をよこしました。そこには、みんな楽しみに読んでいると書かれていましたが、ある保護者のお便り帳に書かれている内容に頭を殴られた気がしました。そこには、「先生は、クラス便りを毎日出しているのは、ほめられたくて書いていたのですか?反応が欲しくて、書いていたのですか?先生のことをいいと思っている保護者を疑っているのですか?」私も、まだ人間ができていない気がし、とても反省しました。その時を含めて、いろいろなところで、ずいぶんと保護者に育てられた気がします。
 そのときに書いていたのは、確かに書きたいことが山ほどあったからです。子どものことを伝えたくて仕方なかったのです。決して、ほめられたくてではなかったはずです。だから、毎日続いたのでしょう。
このブログが続いていることについても同じことが言えそうです。毎日続けて大変でしょうと人はいいますが、今のところ、私は、毎日ふたつくらい書きたいことがあります。ですから、毎日、「何だ、一つしか書けないや。」と思うことにしています。また、長さも、最初に書いていくと、倍か3倍の長さになってしまいます。書きたいことがたくさんあるからです。それを、できるだけ1600字を限界にして縮めています。毎日が、いっぱいいっぱいだったら、たぶん続かないでしょう。
 読む人は、自分にとって、興味のあるところ、退屈しているとき、自分ながらの読み方をしてください。つまらないかもしれませんが、これが、私にとって、自然なことだからです。書くことで、自分も勉強になっているからです。
 私が、見学者の対応する時でも、講演に地方に行くときでも、それが自分にとって、自然な気がすることと、自分にとっても勉強になるから、できるだけ受けてしまいます。
「教うるは学ぶの半ばなり」(書経)です。
来年もよろしくお願いします。

投稿者 fujimori : 18:29 | コメント (2)

2005年08月29日 あいさつ

始めるにあたって

どうも、私は強くシンクロニティーを感じるタイプのようです。日本語で言うと「共時性」です。(心に思い浮かぶ事象と現実の出来事が一致すること。ユングの用語)このブログを始めるにあたって、「私は何がしたいのだろうか。」という問いを自分にしてみました。するとそのときに読んでいた本(司馬遼太郎著「峠」)の中の分が答えを代わりに言ってくれている気がしました。
「心を常に曇らさずに保っておくと、物事がよく見える。学問とは何か。心を澄ませ感応力を鋭敏にする道である。」
心を澄ませ、感応力を鋭敏にするための「ブログ」かもしれません。
心は万人共同であり、万人一つである。しかし、人間には、心のほかに気質というものがある。その気質によって、賢愚がある。気質には、不正なる気質と正しき気質とがある。気質が正しからざれば物事にとらわれ、たとえば俗欲、物欲にとらわれ、心が曇り、心の感応力が弱まり、物事がよく見えなくなる。つまり愚者の心になる。学問の道はその気質の陶治にあり、知識の収集にあるのではない。気質がつねにみがかれておけば心はつねに明鏡のごとく曇らず、物事がありありとみえる。その明鏡の状態が良知ということである。」
そして、よく知ることは知るだけでとどめず実行がともなわないといけないと思っています。今、子どもの身に起きている危機は、学んでいるだけでも、知識を蓄えるだけでも、憂いているだけでも、人に伝えるだけでもなく、何かの行動に移さないといけないという思いの一つが「ブログ」かもしれません。
「学問はその知識や解釈を披露したりするものではなく、行動すべきものである。その人間の行動をもってその人間の学問のを見る以外に見てもらう方法がない。」
「人の世は、自分を表現する場なのだ。」
「人の人生はみじかいのだ。己を好まざることを我慢して下手に地を這いずりまわるよりも、おのれの好むところを磨き、のばす、そのことのほうがはるかに大事だ。」
ということで、この「ブログ」を始めることにしました。

投稿者 fujimori : 21:31 | コメント (0)