fujimori の紹介

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監督不行き届き

赤ちゃんには間違いなく親や親代わりが必要です。ところが親や親代わりとなる者は、孤児院で育てられた子どもに関してハリスが考察したように、5,6歳以上の子どもにとっては不要なのかもしれないと考えています。年長の子どもたちにとっては、安定した仲間集団のほうがより重要なのかもしれないというのです。里子制度は子どもには家族が必要だという理論に基づいています。しかしハリスは、彼らは家族以上に安定した仲間集団を必要としていると考えています。家族を与えようとした結果、そして場合によってはそれを何度も繰り返した結果、善意の斡旋者たちは彼らから仲間を奪うことになっているというのです。

ハリスは前にも言っていますが、虐待を受-ける子どもたちはさまざまな問題をかかえています。概して彼らは他の子どもたちよりも攻撃的ですが、それは遺伝に原因があるのかもしれないのです。彼らを虐待している親もまた攻撃的です。彼らがかかえる他の問題については、親による虐待ではなく仲間による虐待に、もしくは転居をあまりにも繰り返すことに原因があるのかもしれないのです。それは知る由もないとハリスは言いまう。そのためのふさわしい研究はまだ一度も行なわれていないからだというのです。

ハリスは、ニュースで流れることも多く、そのたびに腹立たしく思うことがあると言います。それは、「子どもが問題を起こせば、親がその責任を問われる」ということです。スミス家の子どもが問題を起こし、判事は彼の親を刑務所に送りこもうとするのです。ジョーンズ家の子どもが強盗を企み、彼の行動への「監督不行き届き」として親が罰金を科せられるのです。ウィリアムズ家の娘が妊娠すれば、彼女の親が彼女の行動を監視していなかったとして非難されるのです。ある両親はティーンエイジの娘に問題を起こさせまいとするあまり、その娘を暖房機に鎖で縛りつけました。その親は児童虐待の罪で逮捕されたのです。

親に責任を問うのは、親の経験のない者にとっては簡単なことだとハリスは言います。暖房機に子どもを鎖で縛りつけることが唯一残された手段となる場合もあるのです。それなりに健全なティーンエイジャーを子どもにもつ親は、子どもの活動を監視できるかどうかは子ども自身が監視されることを快く受け入れるかどうかに大きく左右されることを知らないというのです。監視されることを嫌うティーンエイジャーを監視することはできないというのです。ハリスと彼女の夫は、自らの体験からそう思い知らされたと言います。子どもたちはその気になればいつでも親を騙すことができるのです。外出を禁じ、規則を守らせようとすると、まったく家に帰ってこなくなるのです。お小遣いをあげなくなると、友人にたかったり、盗んだりします。監視できる青少年はそれを快く受けとめる者たちで、彼らはそもそも監視を必要としません。監視が最も必要な青少年を監視するには、親の力は驚くほど貧弱だというのです。

監視を最も必要とするのは、親の気に入らない仲間集団に子どもが属している場合です。親は自分の子どもにはその集団とかかわってほしくないと思います。しかし、親には一体何ができるのでしょうか。彼らは子どもの友人であり、親がどう思おうと子どもは彼らに会うのです。普通のティーンエイジャーなら誰でも親よりは友だちと一緒に過ごしたいものだからです。だからこそ親は門限を決めるのです。門限とは、ティーンエイジャーは家庭よりも別の場所を好むことを親が暗黙のうちに了承している証だというのです。親はこうした立場には許容的で、自分の友人たちとそのことで冗談を言いあいます。もっともそれは子どもの友人たちに文句がない場合の話です。文句があるようだと冗談どころではなくなるのです。

仲間からの虐待

家庭で被害に遭っている子どもたちが立派な人間になることができなかったとしたら、その原因は家庭での経験に求めるべきか、それとも公園での経験に求めるべきかという答えを心理学者は持っていませんし、そう問うこともなく、ただ家庭がより重要であると仮定するだけでした。その仮説に臨んだのがカナダのヨーク大学の社会学者アン=マリー・アンバートだそうです。アンバートはヨーク大学の学生に大学入学以前の自分史を書くように指示しました。彼らを誘導すべく、彼女はいくつかの質問事項を用意しました。その中に「何が最もあなたを不幸にしましたか」というのがありました。彼女は学生たちの返答に驚いたそうです。親の好ましくない扱い方や態度、と答えたのはわずか9%しかいなかったのです。ところが37%の学生が仲間たちから邪慳な扱いを受けた経験を挙げていたのです。その経験のために自分は永遠に不利な影響を被っていると彼らは感じていたのです。アンバートはこれを「仲間からの虐待」と呼び、この重大な問題に対してこれまで適切な配慮がなされてこなかったと結論づけたのです。彼の結論は、こうです。

「これらの自分史には、親からよりも仲間たちからの否定的な扱いを綴ったものがはるかに多い。…この結果については他の研究者たちからも確証を得ている。児童福祉の専門家たちが親にのみ注目することが多く、思春期における精神的苦痛の最も大きな原因となるであろう仲間との確執や仲間からの虐待を軽視してきたことを考えると、この結果は驚くに値する。…これらの自分史の中には、幸せで十分適応していた子どもが、仲間たちに拒絶され、排斥され、陰口を叩かれ、人種差別を受け、笑いものにされ、いじめられ、性的な嫌がらせを受け、嘲られ、追いかけられ、殴られた経験の後で、かなり急激に心理的にまいっていく様子や、時として身体的に病み、学力が低下する様子が描かれているものがある。」

日本では、よく話題に上る「いじめ」です。アメリカには、「いじめ」という概念はないのでしょうか?ハリスは、このような状況を、虐待を受ける子どもたちの不幸な生活にかかわっているであろう最後の点は頻繁な引っ越しであると言っています。あまりに転居が多い場合だというのです。親と一緒に過ごしているときでさえも、これらの子どもたちは幸せな家庭の子よりも転居の回数が多いというのです。ところが多くの場合、彼らは親元から離れます。ある子どもが虐待されていると診断されると、その子は虐待の行なわれている家庭から引き離され、里子に出されます。そしてそれがうまくいかなければ、ふたたび里子に出され、三度里子に出される場合もあるそうです。里子制度が有害な影響をもたらすその理由は親や親代わりになる人物をたびたび失うことにあると考えられていますが、ハリスは、たび重なる転居はまた子どもから安定した仲間集団をも奪うことになることに問題があると考えています。仲の悪い仲間でさえ、ないよりはましだと考えています。なぜなら安定した仲間集団がなければ、子どもの社会化に支障をきたすからだというのです。

赤ちゃんには間違いなく親や親代わりが必要です。遠慮気兼ねのいらない養育者とは、植物にとっての日光や土壌のように、赤ちゃんの脳が正常に発育するのに必要な環境の一部であるとハリスは考えています。ところが親や親代わりとなる者は5,6歳以上の子どもにとっては不要なのかもしれないとも言います。それは、以前、ハリスが孤児院で育てられた子どもに関して述べています。

厄介な存在

なぜ親は子を虐待するのでしょうか。その理由の一つは精神病にあるのかもしれません。精神病には一部遺伝するものがあり、家族の、それも養子縁組による家族の中ではなく、生物学的につながりのある家族の中で、血筋に沿って流れていきます。

おそらく虐待する親のうち、精神的に病んでいる者は少数にすぎないと言います。ところが、それよりも多くの人々が今やすっかり聞き慣れてしまった性格的特徴を備えているようです。攻撃的、衝動的、怒りっぽい、飽きやすい、他人の気持ちに鈍感、自分の身のまわりの管理が苦手などです。そのような親たちは自分の子どもの管理にも手こずる場合が多いようです。運悪くそのような人のもとに子どもとして生まれてきてしまったら二重の災難に見舞われたようなものだとハリスは言います。惨めな家庭生活と、家庭外の世界で成功するチャンスを低減させてしまう遺伝的な授かりものなのですがう。シンデレラは惨めな家庭生活を送りましたが、彼女を虐待した継母からはいかなる遺伝子も受け継ぎませんでした。この昔話には、運よくよい遺伝子さえ受け継ぐことができれば、あなたは立派な人間になれる、逆境に打ち勝つことができるというメッセージが隠されていたのです。『オリヴァー・ツイスト』も同じメッセージを伝えています。小説に登場する悪党は結局、オリヴァーの邪悪な異母兄弟、邪悪な母親の息子だったのです。オリヴァーには別の母親がいたのです。彼女はオリヴァーのようにやさしい人だったのです。このような話はもはや政治的に正しくないとハリスは言います。なぜなら公平さに欠けるように思われるからだと言うのです。実際、公平ではないのです。

公平ではないのは、虐待が行なわれる家庭の中で、一人だけに被害が集中することです。もしこの子どもが虐待家庭から引き離され、里子に出されたとしても、その子がふたたび被害に遭う可能性はあるのです。ある決まった特徴、たとえばかわいくない顔や、難しい性格などは、虐待の被害に遭う危険性を高めてしまうと言うのです。また被害者にはある特定の特徴が欠けていることも考えられると言います。不思議なのはなぜ虐待される子どもがいるのかではなく、なぜ子どもたちのほとんどは虐待されずにすむかということだと言うのです。子どもとはまことに厄介な存在です。腹が立つことも多いのです。それにもかかわらず、ほとんどの親は自分の子どもを傷つけることはありませんし、ほとんどの子どもたちは被害に遭うことはないのです。自身が子ども時代に虐待されていた人間の子どもたちですら例外ではないのです。進化によって子どもたちには私たちに怒りを和らげる特徴や徴候が与えられているのです。それにより私たちは彼らを守ってあげたいという気持ちになり、自分の子どもたちに対しては愛情をいだくのです。中には、彼ら自身に責任はないものの、これらの防衛装置を持たない子どもたちや、持ってはいても正しく機能できないほど弱い状態で保持している子どもたちがいるのです。

さらに公平さに欠けるのは、家庭で被害に遭っている子どもたちは仲間の間でも敬遠されがちであることだとハリスは言います。どこへ行っても被害者になってしまう、そんな子どもたちがいるのです。もし彼らが立派な人間になることができなかったとしたら、その原因は家庭での経験に求めるべきか、それとも公園での経験に求めるべきでしょうか。心理学者はその答えを持っていませんし、そう問うこともありません。彼らはただ家庭がより重要であると仮定するだけだとハリスは言うのです。

家庭での体罰

家庭での体罰は子どもたちの家庭での行動を悪化させるかもしれませんが、あるいはたんに母子関係や母親自身の生活全般が首尾よくいっていないことの徴候に過ぎないのかもしれないのです。子どもは母親が思っているほど悪いことをしているわけではないのかもしれないのです。いずれにしても、残る証拠を見るかぎり、家庭で体罰を受けている場合でも、それによって家庭以外の場所での子どもたちの行動が攻撃的になるとはいえないとハリスは言います。第一の研究を実施した研究者たちの結論、それは、親が子どもを叩くのをやめれば「アメリカ社会の暴力性は低減される」ということは、少々誇張されすぎた感があると言うのです。

もっとも、ハリスの言う体罰とは、正常な範囲で行なわれるもの、時折施される通常の体罰を意味しています。もちろん、「正常な範囲を超えた懲罰すなわち児童虐待でさえ子どもに永続的な影響を与えるものではない、などと言うほど私はバカではない。」と言います。

そこまでバカではありません。第一、激しい虐待は脳への損傷など身体的外傷を引きおこし、長期的もしくは永久的な影響をもたらすこともあります。また長期的影響としてPTSDという外傷後ストレス障害も起こりえます。

しかし、私たちがここで見てゆくのは多種多様な親の行動なのです。先に述べたような結果をもたらすほどは激しくない虐待に関しては、それが子どもたちに外の世界にまで引きずる心理的影響を及ぼすのかどうか、ハリスは確信は持てないと言います。及ぼすのかもしれませんが、それを裏づけるものは何もないのです。

もちろんそれに関する研究は数多いのですが。今まで報告されてきたものによると、虐待を受けた子どもたちは、あらゆる問題をかかえることになると言います。虐待とは無縁の子どもたちと比べて攻撃性が高いだけでなく、彼らはまた友人関係を築くのも、それを維持するのも苦手で、学力も思わしくないということは、根拠のはっきりしている所見だそうです。成人した暁には、自分の子どもを虐待する可能性も高いようです。これを「児童虐待の世代間伝承」と心理学者は呼んでいます。彼らの言う伝承とは、経験と学習を通してのもの、環境的手段による伝承を意味するのであって、遺伝子を論じているのではありません。

心理学者が遣伝子を論じることはまずないそうです。それがなぜだかはわからないとハリスは言います。もし彼らを問いつめれば、心理的な特徴はそのいくらかは遺伝したもの、すなわち親から子へと伝えられたものであることを認めない者はほとんどいないだろうと言います。ところがどういうわけか、彼らは研究中や論文執筆中には、そういう理解を思考体系から締め出してしまうようだ言います。彼らも今日では、子どもの行動は親の子に対する振る舞いを左右すること、子どもが親に及ぼした影響と親が子に及ぼした影響とを識別する方法はないことを進んで認めるようにはなっているそうです。ところが、親の行動と子どもの行動との間に確認されている相関関係のうち、遺伝に原因を求められるものがあるという可能性に言及しているのは行動遺伝学者だけだそうです。他の人々はそれに触れもしない、触れるとすればその影響を度外視するときだけだとハリスは言います。彼らの研究法では、何をしても、一つの可能性として遺伝の影響を排除することはできないにもかかわらず、彼らはいでんを度外視すると言うのです。

懲罰に関する研究

懲罰に関する多くの研究がかかえるもう一つの問題は、この研究法では、因果関係をはったきりさせることができないことだとハリスは言います。いかなる民族集団や社会階級においても、その中には他よりも攻撃的になり、他よりも体罰を受ける頻度が多い子どもたちがいます。もし攻撃的な子どもほど体罰を受ける頻度が高いのであれば、親の体罰が子どもの攻撃性の原因なのでしょうか、それとも子どもの行動がしゃくにさわるから親が何度も体罰を与えるのでしょうか。しかし、どちらであるかわからない場合がほとんどだとハリスは言います。

研究者たちが因果関係の問題に対処する一つの方法は、子どもたちを何年か追跡することです。《小児医療および思春期医療研究》の1997年8月号には、心理学者マレー・ストラウスとその同僚たちが実施したこの種の研究が掲載されているそうです。研究者たちは、子どもたちの反社会的行動の初期値を統制するために、一定期間で子どもたちの行動がどのように変わったのかを観察しました。子どもが6歳の段階で、母親が子どもに体罰を与える回数が平均以上ある場合、8歳になった子どもは、より難しい子になるのでしょうか。その通り、と研究者たちは結論づけました。2年に及ぶ研究期間中、体罰を受ける頻度が高かった子どもは、より難しく、より攻撃的になりました。「反社会的行動をやめさせようと親が体罰を施せば、結局そのもくろみとは正反対の結果を見ることになりかねない」と研究者たちは言い放ちました。

この研究は人々の知るところとなりました。AP通信がそれを取り上げ、全国の新聞、雑誌で報告されました。よく使われた見出しが「体罰が非行をうむ」でした。その抄録は《JAMA》にも掲載されました。ところが、AP通信も《JAMA》も別の研究、心理学者マージョリー・ガンノウとキャリー・マリナーが行ない《小児医療および思春期医療研究》の同月号に掲載されていたものについては触れなかったそうです。主旨は同し、その方法も類似していたが、結果が違っていたのだ。「子どもたちのほとんどに関しては、体罰が子どもに攻撃性を教えているという主張は根拠に欠けると思われる」というのがガンノウとマリナーの結論でした。黒人の子どもたちに関しては年齢に関係なく、そして研究に参加した幼い子どもたちに関しては人種に関係なく、体罰は実際に攻撃的行動の低下に一役買っていることを二人は発見したのです。

まったくもってこの種のことは心理学ではあまりに多いそうです。もろい原因、はかない結果。《小児医療および思期医療研究》はまるごとリサイクル用の収集箱に投げこんで忘れてしまおうとハリスは言います。

しかし、ここでちょっと待っていただきたいと言っています。収集箱からもう一度探し出し、研究者たちの使った方法をもっと詳しく見てみよう。そう確かに違う点があるようです。第一の研究では、研究者たちは子どもの行動をその母親から聞いたものをもとに査定しています。体罰を施しているその張本人です。研究者の質問に対する母親の答えは、子どもたちの家庭での振る舞い方に基づいています。第二の研究では、子どもたち自身から話を聞いています。研究者たちは学校で喧嘩をしたことは何回くらいあるかと尋ねています。家庭でたび重なる体罰を受けてきた子どもたちは、体罰を受けたことのない子どもたちと比べて、必ずしも喧嘩の回数が多いわけではありませんでした。

アドバイザー

長年この話を信じ、よかれと思い、拙著である児童発達の教科書の読者たちにもそれを伝えてきました。だがいっぽうで子どもたちにはしてほしくないし実際にしないような他の多くの行動、たとえば好き勝手に出かけるなどの手本を提供したおぼえもありません。さらに、彼らにはしてほしいが実際にはしないようなこと、たとえばブロッコリを食べる習慣などの多くの行動に関する手本は提供していたはずなのですが。

子育てのスタイルは、育児アドバイザーの世代交代によってめまぐるしく変わることがあります。新興勢力は既成のものとは何か違ったことを発言しないとこの業界では生き残れません。ところが、アドバイザーたちはすべての人種民族から同じように支持されているわけではありません。アメリカのような国は多くのサブカルチャーをかかえ、子育てに対する考え方は部分的には、どのサブカルチャーに属するかに左右されます。アジア系アメリカ人やアフリカ系アメリカ人はヨーロッパ系アメリカ人のアドバイザーの発言にはさほど介意せず、ゆえに子どもに体罰をくわえることへの抵抗感が少ないようです。中流ヨーロッパ系アメリカ人は現在では体罰を慎み、その代わりにタイムアウトを好んで使うそうです。タイムアウトとは、部屋の隅などに子どもを何分か座らせておくお仕置きです。ハリスは、明るい栗毛色の髪をした幼い男の子が地元のスーパーマーケットで棚の間を走りまわっているところに遭遇したことがあるそうです。通路の長さの半分くらい遅れて追いかけていたのがその父親でしたが、「マシュー、タイムアウトが待ってるぞ!」と叫んでいたそうです。

黒人の親たちはこのようなしつけには冷ややかだそうです。彼らは「タイムアウトなんて、白人たちのためにあるようなものよ」とインタビューでは語っていたそうです。

白人はあまりに軽々しく物事を信じてしまうのかもしれないとハリスは言います。懲罰に関する研究、アドバイザーたちが助言の根拠とする研究のほとんどは、離婚した親をもつ子どもたちに関するジュディス・ウォーラースタインの研究同様、役立たずだと言うのです。役に立たない理由の一つは、研究者たちがサブカルチャーによって育児スタイルが違うことを考慮していないからだと言います。

マイノリティーである民族集団や低所得層の多い地域に住む親ほど子どもに体罰を与える回数が多いことは十分すぎるほど実証されているそうです。すべてではありませんが、これらの集団の中には、子どもたちの行動がより攻撃的で問題を起こす回数が多い集団もあるのです。こうしたサブカルチャーの違いは、研究者が求めている「もたらすであろう結果」と勘違いされてしまいがちだと言います。中流階級の白人の子どもたちは体罰を受けることも少なく、攻撃性も低い傾向にあるため、中流階級の白人地域の子どもたちと低所得の黒人地域の子どもたちとをいっしょくたにすると、体罰を受ける頻度と攻撃性との間に相関関係が認められることはほぼ間違いないのです。もっともその期待もあまりに多くのアジア系アメリカ人が被験者として含まれていると打ち砕かれてしまいます。なぜなら、これらの親は体罰を辞しませんが、子どもたちは攻撃的にならないからです。

体罰と児童虐待

家庭生活が破壊されると、家庭での子どもの行動も破壊され、それは家庭にともなう感情にも波及するようです。こうした変化こそが研究者の目に止まるのだとハリスは言います。親の離婚が家庭外での子どもたちの生活にどのような影響を与えるのかを調べるためには、そのデータを家庭とは別の場所で収集する必要があり、さらに正確を期するのであれば、公平な、すなわち子どもたちの家庭状況に関しては無知である人が観察者となるべきだとハリスは考えているのです。こうした条件下では、前述の行動遺伝学的データから判断するかぎり、親の離婚は家庭以外の場所での子どもたちの行動には影響せず、そして性格にも永続的な影響は及ぼさないという結果を見ることができるだろうと言うのです。

最近、体罰と児童虐待についての記事を目にすることが多くなりました。ハリスは、この話題を取り上げようと思っていますが、どうしてもこの話題は戦慄を禁じえないと言います。ハリスは、直接ハリスの考えを知ることによって誤解されるとは思っていませんが、彼女の説明を聞かないで、人づてに聞くだけの人に対して心配しています。それは、言葉は間違って引用されることもあれば、一人歩きすることもあるからです。人は思ったことも、表明したこともないことについて公然と非難されることがあります。同じ非難にさらされるのであれば、実際に思っていることを非難されたいと言います。これは、私の何度かそんな思いをしたことがあります。直接聞いたり、直接意見を交わしての批判であれば受け入れることができるのですが、言葉尻をとらえて批判されることがあります。新しい考え方を提案するときは難しいですね。ハリスは、だからこそ、彼女の意見を明確にしようとしています。

第一に、子どもを殴ったり、怪我や長期にわたる苦痛を負わせたりしていいとは思っていません。第二に、時折子どもを叩くこと、それが適時に、そして体の適切な場所に施されるものであれば、子どもを傷つけるとは思ってもいません。

体罰はかつては世界中の親が用いる手段であり、アメリカの家庭の大半でも用いられていました。それは人類以外の種でも見ることができるようです。親の行動としてはじめから備えつけられているものだとさえ感じるくらいだとも言います。しかし、彼女がそれについて説明しようと思ったのは、育児相談の専門家たちによって押しつけられた罪悪感から親を解放することだそうです。時折カッとなり、子どもを叩いてしまったとしても、あなたが子どもに消えることのない傷を残してしまったことにはならないと言います。その一方で、あなたと子どもとの関係が損なわれてしまった可能性はあります。子どもに対して不当な態度をとったときに、子ども自身がそれを見抜くだけの年齢に達していれば、子どものあなたへの評価は下がります。すべての責任を逃れることはできないのだと言うのです。

育児相談の専門家たちは、子どもたちのあなたへの評価が下がるから子どもに手をあげてはならぬと警告しているわけではありません。子どもを叩くのがなぜ悪いのか、彼らに言わせるとそれは子どもたちをますます攻撃的にするからだと言います。

この論理には説得力があります。子どもに体罰を与えることは、その子どもに攻撃的な行動の手本を見せることになるからです。人を自分の思いどおりに行動させるためには人を傷つけてもかまわない、あなたは自分の子どもにそう教えることになるというのです。

心の中の集団性

ジュディス・ウォーラースタインのような臨床心理学者があれほどまでに確信をもって親の離婚は子どもにとってゆゆしい事態であると考えるのはなぜなのかハリス疑問に思います。それは社会心理学者ディヴッド・G・マイヤーズが指摘するように、実際ゆゆしい事態だからです。ただし、その理由はウォーラースタインが挙げたものでも、彼女が考えるようなものでもありません。

離婚はいくつかの点で子どもにとってゆゆしい事態となります。第一に、重い経済的代償を払うことだとハリスは言います。離婚した親の子どもたちは、普通、生活水準の急降下にさらされることになるからです。経済状態は彼らの住む場所をも左右しますが、どこに住むかは彼らに大きく影響するのです。つまり第二に新たな地域への転居を余儀なくされることです。中には何度も転居を繰り返すことになる子どももいます。第三に肉体的虐待を受ける可能性が高まることです。継父や継母と同居する子どもたちは、実の両親と生活する子どもたちよりも虐待を受ける可能性がはるかに高いそうです。そして第四に、離婚のために子どもが個人間で養った人間関係を断ってしまうことだと言います。

以前ハリスは、集団性と個人間の人間関係の違いについて述べていました。集団性が子どもたちの社会化を可能にするのです。私たちは粗雑な性格をもって生まれてくるのですが、それを暮らす文化によりふさわしいものとして形づくり、錬磨していかなければなりません。この作業は子ども時代にある集団、通常他の子どもたちによって形成される集団へと自分を順応させることの中で行なわれます。性格の長期的な改修作業や、生得的な社会的行動のパターンは、心の中の集団性の分野が司っているとハリスは言うのです。

個人間の人間関係を監督する分野は、性格に長期的な改修を施すことはありませんが、だからといってその分野が重要でないとは限らないのです。私たちが考え、思うとき、個人間の人間関係を司る分野は長期的な改修作業をうながす分野よりも身近で、より意識しやすいものとなります。個人間の人間関係は、その時々の気持ちや振る舞いを左右し、まるで屋根裏にしまいこんだ昔のラブレターの束のように、記憶として名残をとどめるとハリスは比喩しています。

個人間の人間関係は重要です。それは常に私たち人類にとって重要でありつづけてきました。だからこそ私たちは進化によって、個人的な人間関係を構築したい、そしてそれがそれなりにうまくいっていれば、それを持続させたいという欲求をいだくようになったのだとハリスは考えています。愛情や悲しみといった強い感情は力にもなります。スティーヴン・ピンカーは著書『心のはたらき』の中でその作用を説明しているそうです。

離婚とそれに先行する両親の確執は子どもを不幸にします。親子関係が破壊され、家庭生活が乱されるという不幸です。離婚が子どもたちに及ぼす影響を調べるときに臨床心理学者や発達心理学者が見ているのはその不幸なのです。離婚に関する研究では、子どもたちは家庭か、もしくは親と一緒に出かけた場所でインタビューを受けるのが普通だそうです。そしてさらに都合の悪いことに、研究者たちは子どもたちの行動を親の報告に頼っているのです。たとえ最良のとき、親が離婚騒動に巻きこまれていないときでさえ、子どもに関する親の報告は中立的な立場の観察者の報告とあまり一致しないようです。

親の離婚

離婚遺伝子を探しても無駄だとハリスは言います。探すならばあらゆる好ましくない結末を人生にもたらす危険性を高める特性を探した方がいいと言うのです。人との関係を難しくしてしまう特性、たとえば、攻撃性や他人の気持ちへの鈍感さなどや、愚かな決断を下す可能性を高める特性など衝動性や飽きやすさなどです。この特性のリストにどこかで見覚えはないだろうかとハリスは言います。そう、犯罪者に見られがちな特性のリストと似ているのです。子どもたちがファギンの学校の生徒としてふさわしくなるための特性は、同時に幸せな結婚生活を営む可能性を低下させてしまうと言うのです。子ども時代であれば、このような特性の持ち主は精神科医には「行動障害」と診断されてしまいます。その成人版は、「反社会性パーソナリティ障害」と呼ばれ、過去の研究により、それは遺伝することがわかっているそうです。

後に離婚することになる親をもつ子どもたちは、親が実際に別れる数年前から問題のある行動をとるようになります。このことから、子どもの問題行動の原因は離婚そのものではなく、離婚前に見られる家族内の確執だということがわかります。ところが、確執つづきの両親の子どもが問題をかかえやすいその原因は、親子が共有する家庭にあるのではなく、共有する遺伝子にあるのかもしれないとハリスは言います。ジョージア大学の研究者グループが行なった研究では、子どもの行動障害を予期させるのは、親の離婚ではなく、親の性格であることが明らかにされているそうです。反社会性パーソナリティ障害をもつ親の子どもは、行動障害をもつ可能性がさらに高いようです。

離婚、親の性格上の問題、そして子どもの問題行動は、すべてが複雑に入り組んでいるのです。それぞれがあらゆる方面に影響を及ぼすからです。性格的に問題のある人と生活するのは難しく、それゆえに離婚する可能性が高まるのです。その同じ人の子どもは遺伝的な理由から難しい子になりやすいそうです。そこには子どもから親への影響さえあるかもしれないと言うのです。難しい子どもは、婚姻関係にとって大きなひずみになりかねません。以前、ハリスはいかなる家庭もバラバラにしてしまうジョニーに関する笑い話を紹介していましたが、自分の子がジョニーのような子であれば、決して笑い事ではありません。子どもたちの中には、家族全員を逃げ出したい気分にさせてしまう子もいるのです。ジュディス・ウォーラースタインは、離婚する親をもつ子どもは深い罪悪感をいだいていることを指摘しているそうです。子どもたちは親の離婚の原因は自分にあると考えるのです。ウォーラースタインが考慮しないのは、その子どもの思惑の中にも一握りの真実がある場合もあるかもしれないという点だとハリスは指摘します。離婚は娘だけの家庭よりも息子のいる家庭に少ないそうです。息子の存在が親を喜ばせるのかもしれないし、それが父親の家出をためらわせているのかもしれません。しかし、もしその息子が親の満足のいくような子どもではなかったらどうなのでしょうか?もし彼が足手まとい以外の何者でもなければどうなのでしょうか?

もちろん離婚する人々のほとんどが、深刻な性格上の問題をかかえているわけでもなければ、離婚した親をもつ子どものほとんどが行動障害をもっているわけでもありません。離婚した親をもつ子どもも最終的には立派な人間へと成長します。そのことは、イギリの研究がそれを実証しているそうです。離婚した親をもち今や二三歳となった子どもたちが、鬱状態、不安、そして怒りに関する質問で「はい」と答える確率はわずかに高いだけだったそうです。

離婚

ハリスが説明しようとしているわずかな違いを結果として出してくる研究、すなわち発達心理学の学術誌を埋めつくし、時折新聞や雑誌にまで取り上げられるような研究では、この「もたらすであろう結果」は常に発表されています。ところが「もたらすであろう結果」や違いが認められる研究はどれも研究者が遺伝を統制しなかったものばかりなのだとハリスは言うのです。遺伝的な影響を排除してはじめて、家庭環境はまったく作用しないこと、子どもたちに予測しうる一貫した影響は何ももたらさないことが明確になると言います。研究方法で吸い上げることができないのであれば、遺伝的な影響を排除することができなくなり、それが家庭環境の影響を立証するものとして誤って受けとめられてしまうことになってしまうのです。心暖かくて有能な親の子どもは心暖かくて有能であることが多いのですが、研究者のほとんどは、それはこれらの親が子どもたちに与える暖かく規律正しい家庭生活のおかげであると、当然のことのように受けとめています。

結論を誤っている最も顕著な例が離婚そのものだとハリスは言います。バラバラになった家庭で育てられた子どもたちが自分自身の結婚生活にもつまずくケースが多いのは、皆が知るところであり、また事実でもあるのです。親の罪が子に報いるのはなぜでしょうか。両親の不仲にさらされた時代の名残である不安を、子どもたちが大人になるまで引きずるからなのでしょうか。父親が家を出て以来悩まされつづけたやり場のない怒りなのでしょうか。ジュディス・ウォーラースタインなら私たちにそう思わせたことだろうとハリスは言います。

ところが、離婚に関する双子研究では別の解釈が出されているそうです。1500組以上の成人した一卵性双生児および二卵性双生児が自身の婚姻歴や親の婚姻歴に関する質問に答えるという調査において、結婚生活をつづけた親をもつ双子の離婚率は19パーセントだったそうです。親が離婚している場合、自身も離婚する可能性はかなり高まって19パーセントになるそうです。また二卵性双生児の一方が離婚している場合はもう一方の離婚率は同程度の30パーセント、一卵性双生児の一方が離婚している場合の他方の離婚率はさらに高まって45パーセントとなるそうです。研究者のコンピュータからはじき出された分析結果はうんざりするほど他の行動遺伝学的研究とそっくりだったそうです。離婚する危険性のばらつきのおよそ半分は遺伝的な影響、すなわち双子の片方や親と共有する遺伝子に帰することができたと言います。残り半分は環境によるものでした。ところが、どのばらつきも双子が育った家庭にその理由を求めることはできなかったのです。彼らの婚姻歴に見られる類似性はどのようなものでも彼らが共有する遺伝子にその理由を求めることができたそうです。彼らが共有する経験、双子であるがゆえに同年齢で経験した両親の仲不仲、両親が揃っていたか別居していたか、などの影響はまったく認められなかったそうです。

離婚した夫婦の子どもたちが自身の結婚生活につまずきやすい原因は、子ども時代を過ごした家庭での経験にではなく、遺伝子にあったのです。もっとも、染色体の合間を抜き足差し足で探しまわっても、離婚遺伝子は見つかりません。そのようなものはないのです。代わりにあるのは一揃いの性格特性です。その特性は一つずつ遺伝子の集合体により素案が練られ、環境によって形づくられ錬磨されます。それらが積み重なって個人の結婚生活を破綻へと導く可能性を高めてしまうのです。