fujimori の紹介

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背の高さ

これらの結果を証拠として、ハリスは思春期の仲間集団における地位の高いもしくは低いは性格に長期的な影響を及ぼすと考えていると言います。背の高い人ほど高給取りになるのは、背が高いからではなく、このような人はおおむね人の上にたつような自信に満ちた性格の持ち主だからだというのです。

また別の証拠もあると言います。以前ハリスが述ベているように、年齢のわりに背の低い男子は心理学的な問題を抱える可能性が高いようです。とはいえ、これを検証する長期的な研究や性格への影響を扱った研究にはハリスはお目にかかったことはないと言います。この種の研究は多くの被験者を集める必要があり、同時にかなり辛抱強く、研究を続ける心要があります。なぜなら背の低い男子のほとんどは低い大人になるからです。幼少期および思春期に背が低かったことの長期的影響に関する仮説を検証するには、大人になってからの身長を一定にする必要があり、そのためには、相当数のデータが必要なのです。

女性に関してその長期的影響を調べるのはさらに困難を要するそうです。なぜなら女子にとって身長が高いからといって集団内で地位が高くなるとは限らないからです。美しさは高い人気度につながります。美しい女性がより積極的になることは証拠に裏付けられているそうですが、この積極性が現在の美貌によるものなのか、思春期当時の容姿の影響なのかははっきりしていません。美しさの統制は身長を統制するように単純ではないのです。

背の高さが地位を上昇させることは男子にだけ通用するようですが、成熟度は男女を問わず、子ども時代でも思春期でも、より高い人気度につながるはずです。もしそうであれば入学時の年齢に応して性格に違いが現れるのではないでしょうか。小中高で同級生の中でも年長だった人と年少だった人との間には性格上の違いがみられるはずだと言うのです。多くの州では幼稚園人園の際に生年月日が区切られますが、それにより一番の年長児と年少児の間では一年近い差ができます。早くまたは遅く入学した者、飛び級もしくは留年した者、年度区切りが異なる州に転校した者を除外したとしても研究の対象になる児童はまだ相当数残っていると言います。研究者たちはこの対象者を二つのグループ、年齢順に上位半数と下位半数に分けます。もしくは四等分し、年齢の上位四分の一と下位四分の一を比較します。測定されるのは大人になってからの性格テストです。この方法論の利点は遺伝子による影響が統制済みであること、早熱者と晩熟者、身長の高い人と低い人の間には遺伝的な違いがあることはわかっているそうです。この違いが性格にも直接的、および間接的に影響している可能性は否定できないそうです。しかし第一子が第二子以降と遺伝的に異なるとする根拠がないように、9月生まれが3月生まれと遺伝的に異なると考えるだけの根拠はないと言うのです。

すでに気づいているでしょうが、遺伝子の影響を除外する方法として ハリスが好んで行なうのが言語と訛りに着目することです。子どもたちは遺伝子によって習得すべき言語や訛りが決められているわけではありません。どの言語や訛りを身につけるかはもっぱら社会的環境によって決まると言います。厳密にいうと仲間と共有する環境だと言うのです。以前ハリスが紹介した証拠は移民の子どもたち、聾者を親に持つ子ども達、そして健常者の親から生まれた聾の子どもたちに関する所見です。いずれのケースも、子どもの成長後の第一言語は児童期と思春期における仲間たちとのコミュニケーションに使った言語です。

仲間集団内での分化

学童期の女子はもともと一人二人で遊ぶことを好みますが、日常的に集団で一緒に行動することがなくてもある社会的カテゴリーの一員として自覚することができます。友達はそれぞれの行動に相互に影響しあいますが、その効果は長続きしないと言うのです。集団社会化説によると、友情は他の人間関係同様、長期的な影響を及ぼすものではないというのです。

ハリスは、おそらく自分が犯した過ちは、二つの説が実際には二つに分かれているところを、あたかも一つの説のような印象を与えてしまったことだと言います。一つ目の説は社会化を取り上げ、それは集団への帰属と同化によって果たされるという説のことです。二つ目の説は性格の形成についてです。それは集団内での分化によるところが大きいという説です。一つ目の説については、証拠も十分揃っていると言います。キンダーマンの研究、ロバーズ・ケイヴの実験、ビーバーその他による同級生の行動が及ぼす影響についての研究などです。しかし、この説についてはまだまだ裏付けが足りないと言います。

幼少期から思春期にかけて仲聞うちで地位が高かった子どもは、大人になると程度の差こそあれ、自身に満ちた性格になるとハリスは考えているようです。仲間集団内での地位は、仲間からの受容とは異なると考えています。それは同時に同級生から好かれるか嫌われるかとも違うと言います。発達心理学者たちはこれまで子どもたちの「人気」「不人気」について、相当な量のデータを集めてきているそうです。しかしそのほとんどはハリスの学説を検証するためには使えないと言います。なぜならその多くで使用された質間項目では「人気」のもつ様々な意味を区別することができないからだと言うのです。攻撃的な子どもは嫌われるかもしれませんが、地位が高い子どももいます。大学生を対象とした研究では集団からの受容と集団内の地位には大きな違いがあることがわかっているそうです。

仲間集団内での分化による長期的な影響を裏付けるもっとも有力な証拠は、以前ハリスが紹介したメアリー・コーバー・ジョーンズが実施したかなり古くて小規模な研究だと言います。ジョーンズは思春期の男の子について、年齢のわりには身長の低い子と高い子を比較し、その結果、両者に性格的なちがいを見いだしたのです。その性格の相違点はその後15年が経過し、成長の遅かった子どもたちも身長では追いついた後でも、まだ残っていたそうです。思春期に身長が低かった子どもたちは相変わらず自信なさげで、ゆとりが感じられなかったそうです。思春期に身長が高かった子どもたちはキャリアを構築するにあたり、官公庁などでかなりの要職に就く可能性が高いそうです。背が高く、大人っぽいティーンエイジの男子は仲間内では地位が高いのです。

1957年に発表されたジョーンズの研究はまだまだ繰り返し検証される必要がありますが、最近実施された研究を行なったのは心理学者ではなく経済学者だったそうですが、その研究では間接的にですがジョーンズの結果を支持しているそうです。経済学者が調べようとしていたのは、なぜ身長の高い男性は低い男性よりも高給取りなのか、という点です。大人になっても身長が高い人はおおむね思春期から背が高いのですが、思春期と成長後の身長の相関は完全ではありません。経済学者たちは統計学上、思春期での身長の高さによる効果と大人としても身長が高いことによる効果を区別することに成功したのです。その結果、大人として得る給料を大きく左右するのは大人になってからの身長ではなく、思春期当時の背の高さだったのです。

同化と分化

発達心理学者の中から、仲間集団はメンバー同士がもともと似ていることを理由にハリスの学説が間違っていると指摘されたこともあったそうです。その根拠はこうだったそうです。子どもたちは仲間集団の一員であることを自覚することで社会化を果たし、その集団にふさわしい行動と態度を身に着けることになり、その結果、子どもたちは仲間とより似るようになるというのがハリスの学説です。ところがもし子どもたちがもともと似ているのであれば、ハリスの学説の根拠がなりたたない、というものでした。

ハリスは、それはその通りであると言います。だからこそ、ハリスはありがちな集団内類似性の研究に根拠を求めないのです。因果関係を切り離すには、たとえばキンダーマンの研究のような巧妙な方法論が必要だと言うのです。キンダーマンは子どもたちがある集団から別の集団に変わるたびにその子どもの態度の変化を図表化しました。彼の研究結果によると、たしかに同じ仲間集団の子どもたちは最初から似ていますが、集団への同化を経て類似性はいっそう高まると言うのです。もう一つのよい例としてロバーズ・ケイヴでの研究を挙げています。同質になるよう選抜された男の子の集団をランダムに二つの集団に分けることで、ロバーズ・ケイヴ実験の研究者たちは本来持ち合わせている類似性の統制を図ったのです。

もっとも集団のメンバーはすべての側面で似ているわけではありません。彼らが似ているのはお互いを引き寄せている特徴、たとえばキンダーマンの研究では勉強への前向き、もしくは後ろ向きな態度だったり、非行グループであれば危険な行為への傾倒だったりするのです。集団への同化を経て、これらの共通項は一層類似性を高めますが、それ以外の側面においては集団内のメンバー間で類似性が高まることはなかったのです。分化により集団内の違いは広がります。社会化は主に同化によって果たされますが、性格の違いはそのほとんどが分化によるものなのだというのです。

同化・分化についてハリスが初版本で述べていた説明が少々曖昧たったため、性格の違い、たとえばきょうだい間の違いは、異なる仲間集団に属していることに由来すると彼女が考えていると読者の多くを勘違いさせてしまったため、同じ仲間集団に属しているきょうだいは別の集団に属しているきょうだいよりも性格が似ているかどうかを調べることで彼女の学説を検証できると思わせてしまったと振り返っています。たしかに類似度は高いかもしれないのですが、似ているから同じ集団に属しているのであって、類似性はその結果ではないのかもしれないと考えているのです。ハリスの学説では同じ仲間集団にいることで、双子やきょうだいの性格の類似性が高まるとは予測できないのです。しかし勉強への態度など、いくつかの側面では類似性が高く出現することはあるでしょう。

ハリスの説明で、もう一つ誤解を招いたのが、集団への加人と友情の違いが明確でなかったことだそうです。たしかに人は所属している集団の中から友人を選びます。しかしその後、彼女が述べているように、子どもは自分をある集団の一員として見なすようになり、その集団により社会化を果たすのですが、その集団のメンバーが好きかどうか、メンバーに好かれているかどうかは関係ないと言います。社会化を果たす集団が実在するか否か、すなわち実際に一緒に行動する仲間がいるかどうかも関係ないと言います。社会化に必要な「集団」は一つの社会的カテゴリーだと言うのです。

反社会的ライフスタイル

「子どもたちの自制心の養成に親はどれだけ重要か」という研究で、子どもの自制心を育てるのに、親は重要ではないということははっきりしましたが、では、何が重要なのかという検証で、まずは遺伝子が挙げられました。ではほかには何があるのでしょうか。ここまでの検証を読み進めていく中で、どのような見解が出されるのか私は少し心配しました。と言うのは、私は、自制心の養成には、他の子どもの存在が影響をしているのではないかと主張してきたからです。人類は、協同育児をされてくる中で、子ども集団において、他の子どもの存在を知り、その他者の意図を理解することによって、自制心の一部が培われてくるのだと思っています。この研究では、どのような結果がだされるのでしょうか?

ビーバーの研究グループの対象は、赤ちゃんではなく、もう少し年齢の上の子に対する研究ですが、出した結論は、子どもの行動を予測するものとして他を圧倒したのが、教室内の他の子どもたちの行動だったのです。皆が知っていることだとことわっていますが、問題のある家庭のティーンエイジャーはビーバー及びライトが言うところの「反社会的ライフスタイル」に陥りやすいのです。研究グループは三つ目の研究でこの関連性を検証したそうです。最初に結論から言うと、家族がいかに機能しているのか、すなわちティーンエイジャーのつきあい関係をきちんと把握しているのか、家庭に父親は健在か、両親(両親が揃っていればの話ですが)のしつけに関する考え方は一致しているのか、家の中がきちんと片付けられているか、それともごみ屋敷のようなのかは、ティーンエイジャーが反社会的ライフスタイルに関わるようになるのか否かには「ほとんど影響しない」という結果が出たそうです。「ところが」と研究者たちは続けています。「思春期の子どもたちが反社会的ライフスタイルに傾倒すると、家族の機能に悪影響を及ぼす」のです。すなわち、反社会的なティーンエイジャーと機能不全家族との間の相関関係は子どもから親への影響なのです。

最後の研究ではティーンエイジャーの反社会的仲間集団への帰属意識を検証したそうです。反社会的な仲間は子どもに悪影響を与えます。これを疑う人はいません。しかし犯罪学者および発達心理学者の多くは正しい子育てをすれば悪い仲間に引きずり込まれずに済むと信じていると言うのです。ライト、ビーバーそして同僚たちが最後の研究で検証したのがこの考えだそうです。この研究では双子を被験者とする発達遺伝学の方法論を導人し、思春期の子どもたちの反社会的仲間集団への帰属における遺伝的関与を測定したのです。このような仲間集団への帰属に関しては遺伝子が大きく関与していましたが、親の子育て習慣の影響は確認できなかったのです。親の姿勢、それが双子に共通するものであっても、それぞれに異なるものであっても、双子の仲間への帰属意識および反社会的行動への傾倒を説明するには至らなかったそうです。

ティーンエイジャーがどのような仲間集団に属することになるのか、そこに遺伝子はどのように影響するのか。あくまでも間接的な影響だろうとハリスは考えています。遺伝子はまず子どもの性格、知性、才能に影響を及ぼすはずです。知性豊かで誠実になる遺伝子素因をもっている子どもは、学業を重視する仲間集団に入る可能性が高いのです。一方で危険を好み、刺激を求める遺伝子素因がある子どもは親が好ましく思わない仲間集団の一員になる可能性が高いのです。「類は友を呼ぶというように、攻撃的なティーンエイジャーや、刺激的で危険をともなうことに惹かれる者たちは、自分の同類を見つけだします。そのような性格特性は部分的には遺伝的なものであるため、自分と同類の者を見つけようとする者はある意味で自分と同じような遺伝子をもつ人を探していることになる」のです。

反社会的および攻撃的な行動

発達心理学者の中には、子どもから親への影響を調べる際、一卵性双生児であれば、遺伝的要因が首尾よく統制されていると考えている人たちがいるそうです。親が別々に扱っても、それが双子間の遺伝的な違いへの反応であるはずはありません。とはいえ、卵子が一つである一卵性の双子について、その遺伝的なちがいが存在することが知られる前から、双子であっても完全にうり二つではないことを、誕生の瞬間から二人が違っていることを私たちは知っています。双子をよく知る人たちであれば、二人の違いは一目でわかります。「発生におけるばらつき」と呼ばれる発達段階で偶発的に出現する違いが二人の身体的な特長となって表出するのです。異なる指紋、異なるそばかす、知力のわずかな違いなどです。双子の一人が糖尿病もしくは総合失調症を発症しても、もう一人は健康であり続けます。さらに幼少期より、双子の性格はそれぞれ異なります。親は子ども同士の違いを引き起こすのではなく、元々存在する微妙な違いに親が反応しているのだとハリスは言うのです。

反社会的および攻撃的な行動に関する研究は、発達心理学のみならず、社会学や犯罪学でも盛んに行なわれているようです。犯罪学では現在、ケビン・ビーバーとジョン・ポール・ライトを中心とした研究グループにより画期的な研究が実施されているそうです。犯罪学者のほとんどは子育て神話を信じて疑わないようです。ビーバーは、「彼らは、親は犯罪の主な原因だと信じている」と言っています。ハリスの本に刺激されたのか、ビーバーの研究グループはその仮説を検証しようといくつかの研究を行なったそうです。

最初の研究の題名は、「子どもたちの自制心の養成に親はどれだけ重要か」です。研究者たちはこの研究に参加した親の子育て習慣を数値化しました。子どもにどの程度目をかけ、愛情を注いだか、決まりごとを設定し、それらを守らせたか、などです。親だけでなく教師にも学校での様子、たとえば衝動や感情を抑えられるかどうか、学校で正しく振る舞うことができたかどうかの聞き取りを行ないましたが、親と教師の回答は切り離して処理したそうです。これは双子研究だったため、自制心の遺伝的影響についてはおよその見当がついたとハリスは言います。遣伝子の影響を考慮した上で検証した結果、子育て習慣と教師が評価する子どもたちの自制心との間には相関関係は認められなかったのです。

子どもの自制心を育てるのに、親は重要ではないというのであれば、何が重要なのでしょうか。まずは遺伝子でしょう。最初の研究がそれを示しました。ではほかには何があるのでしょうか。二つ目の研究でも自制心を取り上げましたが、ここでも親と教師が子どもの行動を評価し、親は自分の子育てについて報告しました。この研究には双子がいなかったことから遣伝子の影響を十分に統制できませんでしたが、親の子育て習慣と子どもの自制心の間でごくわずな関連性が認められたそうです。研究者たちは他の要因も検証しましたが、中でも子どもの行動を予測するものとして他を圧倒したのが、教室内の他の子どもたちの行動だったのです。同級生が頻繁に不良行為をはたらく環境下にいる子どもたちは、家庭での自制心の低下が認められたのです。以前ハリスは、就学前の子どもが保育園仲間の訛りを身につけ、それを家にまでもち帰る話をしていました。同じことが訛り以外の行動についても当てはまるという証拠があると言います。

家庭環境

12年を費やした研究をまとめた本が2000年に出版されました。この研究の調査対象は、みな両親の揃った安定した家庭で育てられたきょうだいですが、中には親が再婚した継きょうだいもいたそうです。さらには一卵性、二卵性双生児も含まれていました。このように研究を構成したことにより、研究者たちは今回測定の対象となった行動や特徴についてその遺伝子による影響を考察することが十分可能となったのでした。対象とした行動や特徴には反社会的活動、社会性、勤勉さ、自尊心、自立心、鬱症状等などが含まれていました。研究者たちはそれらの評価を複数の評価者から収集したのです。母親、父親、被験者自身、そして熟練した観察者たちも皆、評価を下しました。評価の平均値がとられましたが、この研究の場合、それは問題になりません。なぜなら親も子も、評価される行動や特徴はどれも家庭でのものだからです。家庭内の評価と学校での評価を一緒くたにしたわけではないのです。

この研究の目的は、以前ハリスが「いずれでもない」と述べた事象、すなわちきょうだい間の性格上の違いは遺伝子でも共有する家庭環境でも説明がつかないことを検証することだったのです。研究者たちは家庭内のわずかな環境の違い、親の子どもへの姿勢の違いなどからきょうだい間の違いを説明できるのではないかと考えていました。

たしかに親の子どもへの姿勢に違いはありました。だがそれできょうだい間の違いを説明できるわけではないのです。年齢の異なるきょうだいは、置かれている環境や条件が違いますが、そのきょうだい間の関係についても説明はつきません。「この壮大な12年にも及ぶ研究が遺伝子でもない、共有する因子でもないなにかを見つけるために設計されたことを踏まえると、十分な結果を得ることができなかったのは、残念ではあったが、むしろ気持ちが昂ぶった」とレイスは語っているそうです。

レイスにとって残念だったかもしれませんが、ハリスにとっては違っていました。この研究は重大な結果を導き出したと考えたのでした。親の姿勢の違いは、子どもの行動への反応であることがわかったのです。きょうだいでも同じようには行動しません。それはある部分は遺伝的な違いによるものですが、親はその遺伝的な違いが表出した状態に反応していたのです。

きょうだい間にみられる遺伝子以外の違いについては「十分な結果を得ることができなかった」のは仕方ありません。研究者たちが測定したいずれの事象も遺伝子以外の違いで説明できるものではありませんでした。研究者の一人、ロバート・プロミンは後にこれらの違いの原因を家族内だけで探したのが間違いだったと後悔したそうです。プロミンは、「ハリスが1998年に痛烈に主張したように、家族の外にも目を向けて、結果なしという事態を避けるべきだった。と述べています。

少なくとも研究に費やした労力と時間のすべてが無駄になったわけではありません。この壮大で、丁寧に実施された研究では子どもから親への影響を示すもっとも明確な証拠を得ることができたのです。子ども二人に対して、親がそれぞれ別の扱い方をするのは、子どもたちがそれぞれ違うからなのです。とはいえ、その違いは一般的に言うところの遺伝子による影響とは限らないのです。親は年少の子を年長の子と同じように扱うわけではありません。病弱な子を健康な子と同じように扱うことはしません。一卵性双生児であっても親は別々に扱うこともあります。二人は同じ遺伝子を持っているはずなのにです。少なくとも2008年まではそう考えられてきました。この年、学術誌アメリカン・ジャーナル・オブ・ヒューマン・ジェネティックス上で、一卵性双生児においてもわすかな遺伝子の相違があるという研究が発表されたのです。

親の目、教師の目

ディーター‐デッカードとプロミンの研究同様、アヴシャロム・カスピとテリー・モフィットが中心となって実施した二つの研究も母親と教師がデータを提供しています。父親の在不在、反社会的活動についても、子どもが虐待されているか否かも、すべて母親が回答しています。母親はまた子どもの日ごろの素行に関する問題や反社会的活動を評価するアンケート用紙も記入しました。教師も同様のアンケート用紙を記入しました。しかしここで研究者たちが二つのアンケートをどのように処理したのかに注目してもらいたいとハリスは言います。母親と教師による子どもたちの反社会的活動に関する報告は合算され、まとめて一つの反社会的活動スコアとして扱ったのです。

研究者たちは母親と教師による報告を別々に表示するのではなく、一つにまとめてしまったそうです。そのため、発表された報告書からは、不適切な活動に従事する父親の存在もしくは家庭内での身体的虐待が家庭内での子どもの行動に影響を及ぼしたのか、それとも学校での行動にも影響したのか、知る由もありません。それどころか、子どもの家庭内での行動についても疑わしいのです。というのも、その情報は、父親の反社会的な活動に関する情報と、子どもの過去の虐待に関する情報の提供者と同じ人物から得られたものだからです。二つの異なる質問に同一人物が回答した場合、ほとんどの場合、二つの回答の間に相関関係が見られます。この反応の偏向について以前ハリスは論じています。教師の回答に加えてもなんら解決にはならないと言います。もし教師による回答が学校での行動になんら悪影響を与えていないことを示していても、母親の回答と合算されていては、その結果を見出すことはできるなくなるからです。研究者たちはこの重大な欠陥を弁明するつもりで、一つの研究では教師と母親の評価の間に相関関係が認められたと発表したそうです。その相関関係は、五歳児で0.29、七歳児で0.38だったそうです。しかし、こうしたささやかな相関関係は、単に評価対象となった行動に及ぼした遺伝子の影響かもしれません。子ともが持つ素因遺伝子によるもので、それらは家庭から学校へ、またその逆へと継承されるものだとハリスは考えています。ディーター‐デッカードとプロミンの研究ではこの点は問題になりませんでした。なぜならきょうだい間では素因遺伝子が異なるとは考えられないからだそうです。

2000年に出版されたとても重要な本があるそうです。12年を費やした研究をまとめた一冊です。その研究を行なったのが、家族療法を専門とする精神科医であるディヴィッド・レイスと、行動遺伝学者であるジャネイ・ナイダーヒーサーと、発達心理学者であるE・メイビス・ヘザーリントン、そして行動遣伝学者であるロバート・プロミンだそうです。対象となったのは、10歳から18歳までのきょうだい720組です。彼らはみな両親の揃った安定した家庭で育てられたきょうだいですが、中には親が再婚した継きょうだいもいたそうです。さらには一卵性、二卵性双生児も含まれていました。すなわち被験者同士で共有する遺伝子の割合は一卵性双生児の場合の100パーセントから継きょうだいの場合のゼロまでということになります。

裏付けとなる証拠

ハリスは、人とのかかわりがあらゆる人間にとって重要なのだということを主張しているのです。私はハリスに共感し、同意するのはこの説です。それは、人は社会を形成して生きていく生き物だからです。また、教育の目的は、平和で民主的な社会の形成者としての資質を備えることにあるからです。

ハリスはこれら三つの説の裏付けとなる証拠を相当量集めて説明しました。とはいえ、どれだけ集めても集めきれないし、集めれば集めるほどより優れたデータを求めたくなるようです。彼女が初版出版後、関連した研究がいくつか発表されたそうです。ハリスは、その中で成果のあった研究、なかった研究をいくつか紹介しています。

カービー・ディーター‐デッカードとロバート・プロミンによる研究はハリスの学説をわかりやすく検証してしているそうです。彼らは実のきょうだいと養子縁組によるきょうだいの攻撃性を研究しました。子どもたちの攻撃性は数年間にわたり複数回、その親と教師により師価されました。結果はハリスの学説が推論したとおりだったそうです。親は年長が年少よりも攻撃的だと評価しましたが、教師は両者ともほぼ同じと評価したのです。第一子は家庭では親による評価より攻撃的でしたが、学校では教師による評価ではさほどでもなかったのです。第一子の年少の子どもたちに対する支配的な行動と、年少の子が年長の子のご機嫌取りをする行動は、家の中だけでみられる行動パターンだったのです。学校ではその第一子がより体格の良い子どもたちの言いなりになることもあれば、その弟妹がクラスでは一番体格がいいということもあるかもしれないのです。

二つの要因がこの研究の説得力を高めているそうです。一つ目はディーター‐デッカードとプロミンが年長の子を年少の子と比較したことです。両被験者グループとも遺伝子的に等質であると言って間違いありません。両者の間に体系的な遺伝子の違いはありません。よって両者を比較することにより、遺伝子の影響が統制された測定結果を得ることができるのです。二つ目は、ディーター‐デッカードとプロミンが親と教師の両方の評価を対象としたことです。親の評価は子どもの家庭での振る舞いの、完全とはいえませんが、指標となり、教師の評価からは子どもの学校での振る舞いを知ることができます。第一子も、第二子以降も、学校で経験することは似たり寄ったりですが、家庭での経験は全般的に異なります。ですから、ハリスは、これら二つの状況下での評価は異なるはずであるという学説を唱えたのです。実際、異なる結果が出たのです。これはハリスの第三の説に対する強力な裏付けとなります。

次に注目したいのが、ハリスのひらめきをもたらしてくれた少年非行に関する論文の筆者であるアヴシャロム・カスピとテリー・モフィットが中心となって実施した二つの研究の結果です。ともに研究対象は双子です。双子を選ぶというこの判断にはハリスも賛成しています。一つ目の研究では、研究者によると、良い父親をもつ子どもは父親と同居していれば良い子に育ちますが、父親が「反社会的な活動」にのめりこんでいるような場合は、父親と離れて暮らすほうが子どもは良い子に育つというものです。反社会的な父親が近くにいると、その子どもたちも好ましくない行動を取るようになる可能性が高いのです。二つ目の研究が示すのは、こちらも研究者によると、「虐待を受けた子どもは好ましくない行動をとる」、すなわち「反社会的な活動に従事する可能性が高い」ということです。

三つの説

様々な分野で様々の研究がされています。よくエビデンスが大切であると言われます。エビデンスとは、もともとは証拠・根拠、証言、形跡などを意味する英単語に由来する、外来の日本語です。それは、様々な分野でも使われることが多いのですが、主に医学や保健医療に使われることが多いようです。それは、医療行為において治療法を選択する場合、患者の命にかかわる問題であり、治療を施したり、投薬する場合などはできるだけリスクを避けるために、確率的な情報として、少しでも多くの患者にとって安全で効果のある治療方法を選ぶことが必要だかです。また、研究には、より客観性を持ち、数量的にも豊富なデータが必要だとも言われます。しかし、それは、多くは科学的な研究の際であり、人の存在や生き方などに関するものは、哲学に近いものが必要になると思います。ですから、答えは一つとは限らず、また、仮説を立てることが必要になります。

ハリスは、様々な他人からの批判や否定に屈せず、新しい考え方を発表しました。それは、児童発達に関する仮説を検証したものでした。この児童発達において、特に三つの説を述べています。第一の説は子どもの既格形成に親は完全にあるいはほとんど無力ということです。子どもはその性格と行動が親と似ることはありますが、その理由は二つあるとハリスは言います。一つは親から遺伝子を受け継ぐため、もう一つが両者は通常同じ文化あるいはサブカルチャーに属するからだと言うのです。

第二の説は子どもたちが社会化を果たし、性格が形成されるのは、家庭の外での経験、すなわち仲間と共有する環境の中だということです。

第三の説は一般化に関することです。一般化とは、ある刺激に対して条件反射が形成されると類似した刺激に対しても同様の反応をもたらすことをいいます。心理学者たちは長年、人の行動パターンはそれに伴う感情とともに、ある社会的状況から別の社会的状況にいとも簡単に継承されるものだと信じてきたそうです。第三の説によればその思い込みは間違っているとハリスは言うのです。異なる社会的状況においてどこか似た行動をとるのは、その多くの場合、遺伝的要因によるものだと言うのです。遺伝子はどこまでもついてきますが、親きょうだい間で身につけた行動は親きょうだい間でだけ有効だと言うのです。子どもたちは過去の社会的状況で学んだ行動パターンを引きずりながら新しい状況に向かうわけではないと言うのです。現状に即した新しい行動パターンを身につける準備はしっかりできているのです。

ハリスの考えはこれまで何度も要約されてきましたが、この第三の説に言及されたことはほとんどなかったそうです。しかしハリスにとってはこの第三の説こそが、最も重要な仮説だと言うのです。メディアではハリスの考えは次の八文字に集約されているそうです。それは、「親は重要ではない」というものです。もちろん親は重要であることは間違いありません。それは、ハリスも強く主張するところです。しかし、どこで、どのように重要なのか。「どこで」への回答につながるのがこの第三の説だと言うのです。親が重要な場面というのは「家庭」です。そして「どのように」への回答が人との関係だと言うのです。人とのかかわりがあらゆる人間にとって重要なのだということを主張しているのです。

知能への影響

今日の西洋社会では、もはや長子相続制は死に絶え、子どもたちがきょうだいと過ごすのは、ほぼ家庭内だけに限られるようになっているようです。家庭の外では、子どもたちは同年代の仲間とともに過ごすのです。家庭では兄の支配下におかれる弟も、仲間集団では優勢な地位に就く場合があります。きょうだい関係で育まれた行動様式は、移民の子どもにとっての親の言語と同様、玄関から出るときには家に置き去られてしまうのです。

おそらく長子相続制の時代には、出生順位による影響も実在していたのだとハリスは思っているようです。サロウェイの本に登場する歴史的データはそのように解釈できるのかもしれないと言います。性格に関する有効な測定値をを対象とした最近の研究では、出生順位による影響は認められていませんし、とるに足りないものであるとの結果が得られているのです。カー・ショーラーは自身の論文を「出生順位による影響―今ここには存在しない!」と題したそうですが、それは正しい判断だったとハリスは言うのです。

では知能への出生順位による影響はあるのでしょうか。IQにおいては第一子が優勢であるという主張が周期的に発表され、その都度注目を浴びてきました。しかしハリスはまだ納得できないと言います。もし第一子が実際により賢いのであれば、学業成績は第二子以降より良いはずですが、実際にはそうではありませんし、大学進学率が高いわけでもないのです。幸いにも、この特定の論争がどう決着しても、ハリスは、自分にとってはなんら得にも損にもならないと言うのです。ハリスの仮説は性格と社会的行動に関するもので、IQについては語っていません。性格が出生順位による影響を受けることはないのです。なぜなら家庭内で身につけた行動パターンは一度家からできると無効になるからです。対照的に、家庭内で身につけた事実情報および認知能力はどこにいっても役に立つのです。

ハリスは再度「性格と出生順位」について述べています。よほどその時にその議論がまことしやかに語られていることに対してハリスは憤り、順にきちんとその反対理論を説明していったのです。これは、その関係性についての是非論だけでなく、多く語られていることに対する再考の必要性と、言い伝えの危うさというものを教えてくれている気がします。育児論については、何度か新しい考えが提示されてきました。そして、それが、流行かのように広まったものもありました。しかも、それは新しい考え方でもあるにもかかわらず、昔からそうだった、ずっとそうだったという言い方で、あたかもそれが真理のような言い方をするものもあります。

そんな時に私に教えてくれたのは、著名な研究者の研究でもなければ、過去の偉大な研究者でもなく、子ども自身の姿でした。私は、ハリスと違って、過去の研究を再考するというよりも、子どもの姿をじっと眺めることにしたのです。そして、職員からの子どもの姿の報告を検討することにしたのです。そこでは、常識と言われているものにも、刷り込まれているものにも惑わされず、子どもの姿を観察することにしたのです。そして、そこで感じたことを、他の現場の園長、職員に話してみたのです。すると、実践をきちんとしていた人たちから共感されたのです。

ハリスも、様々な他人からの批判や否定に屈せず、新しい考え方を発表しました。それは、児童発達に関する仮説を検証したものでした。