fujimori の紹介

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問い続ける

ビジネスの分野でも、見かけ上はうまくいっているので、会社がやろうとしていることについて深く探ろうとしないという傾向が見られたら、レベル2に留まっていると考えるべきだとキャシーは言います。どんなことでも常に問い続ける姿勢を持とうとしないCEOがトップにいる会社はやがて経営不振に陥るだろうと言います。キャシーは、キーボード付き携帯電話、ブラックベリーを製造していたリサーチ・イン・モーション社を例に挙げています。iPhoneやグーグルのアンドロイドが市場に現れて、携帯端末市場に風穴を開けた時、ブラックベリーは好調な業績を維持していました。二人の共同CEOはタブレット端末やスマートフォン業界には無知で、やがて会社の業績が急激に下がった時、責任をとろうとはせず、これまでのやり方に固執したのです。このため過去の成功に惑わされていたことを認めるまでにとても時間がかかり、ブラックベリーが業績を持ち直すには苦難の道を歩まなければならなかったのです。

わざわざ現像し、プリントする必要のないインスタントカメラとしてポラロイドカメラは一世を風靡しました。やがてデシタルカメラが主流となり、ポラロイド社もすぐにデジカメの製造に乗り出しました。しかし自分達のこれまでの方法にこだわり、デジタル技術全体の波が自分達の技術をあまり意味のないものにさせるとは考えませんでした。他社のデジカメは撮影されたデータをすぐに修正し、パソコンにアップロードできるように工夫しましたが、ポラロイド社は行いませんでした。ポラロイド社の業績はどんどん悪化し、2001年、会社は倒産してしまったのです。レベル2のコンテンツに甘んじた当然の結末だったのです。自分達の成功に疑問を感じず、うまく進んでいると思い込み、自分達が「どんな」活動を「なぜ」しているのかについて問い続けないこと。それは深く知るのをやめるのと同じなのだとキャシーは言うのです。

科学の分野でも「見かけ」に騙されることは起きます。中国のある農家が鳥に似た生物がかたどられている、一見すると化石に見えるような物を作りました。これを見た著名な古生物学者は恐竜と鳥類を繋ぐ進化上のミッシングリンクが見つかったと発表し、ナショナルジオグラフィック協会も世紀の発見と認めたのです。しかしそれはもちろん偽物ででっち上げだったのです。

次のレベル3は、「繋げて考える」です。それは、実際にないものをイメージできる力です。このレベル3の知識コンテンツを持つとレベル2とは大きく異なる変化が起きるとキャシーは言います。この大きな変化をイギリスの著名な発達心理学者、アネット・カーミロフ=スミスは非常に巧みな実験で明らかにしたそうです。彼女は5歳児と10歳児に「お家の絵」を描かせました。二人が楽しそうに絵を描き始めてしばらくしたら、二人にちょっと奇妙なお願いをします。「この世に存在しない家の絵を描いて!」と。この要求に対してどのくらい子どもは柔軟に対応し、臨機応変に学べるか見ようとしたのです。これまで知っていたのと全く異なる新しい方法で家を捉えることができるのか……これまでにない全く新たな特徴を付け加えた家を描くのか……

使えない知識

アメリカのデラウェア州の教師が置かれている状況は、アメリカの著名な教育ライター、リンダ・パールスタインの著書「テストされて』(未邦訳)で書かれていたことと重なるそうです。この本の中で、学校のカリキュラムを統括する管理職は全学年全ての教室を回り、指導案を忠実に授業しているかどうかチェックし、各学年が配当された知識項目を過不足なくカバーすることばかり気にかけているそうです。まさにレベル2の状態だとキャシーは言います。

これでは、学生が学校は退屈で、学力テストに対して強い不安を抱いていたとしても何の不思議もないと言うのです。家庭教師産業は200億ドルの規模まで成長し、そのうちの約2割は3歳から5歳までの子どもへの教育による収益だそうです。親達はもし学力テストでいい点をとれなかったら我が子の将来はないと考えてしまっていると言うのです。

殆どのテストが覚えた知識をただ吐き出すだけだとキャシーは言います。数学の公式を覚えてもただ新たな数を当てはめて計算し直す作業に過ぎないと言うのです。学習科学の観点では丸暗記は最適の学習方略とは言えないと言います。機械的に暗記する時は意味に注意を払わず、ただ繰り返し練習するだけになるからです。例えば毎朝、教室で星条旗への忠誠を誓う言葉ですら何の疑問も感じないでこう覚えているだけです。肝心の「flag (星条旗)」の部分を「frog (カエル)」、「republic (共和国)」を「wee public (公衆の面前でのおしっこ)」、「liberty (自由)」を「little tea (小さなお茶)」と平気で暗記していると言うのです。ただ暗記するだけでは分析力も、記慮を保持する力も育ちません。子ども達に批判的に分析することではなく、使えない知識を丸飲みすることを教えることになるだけだと言うのです。

子どもは断片的で浅いレベルでの知識コンテンツしか持っていないことが多いと言います。浅い理解しかない知識コンテンツが危険をもたらすことがあると言うのです。「I used to believe (私はこんなことを信じていたことがある)」という名の面白いウェプサイトがあるそうです。このサイトには大人が子どもの頃信じていた様々なエピソードが掲載されています。例えばこんなものがあるそうです。

「姉と私は、父か教えてくれた“斜面に住む牛”の話を信じていました。牛が長い間、斜面に生活しているうちに前足が長く、後ろ脚が短くなってしまい、このため平地ではちゃんと立てずに転んでしまうというのてす。」

知識の理解の仕方が浅くレベル2の知識コンテンツしか持ち合わせないと、見かけにしか注意がいかず、あり得ないようなことを信じてしまうと言うのです。

ここで、キャシーは、今、教育の分野で起こりつつあることに注目しています。教育において表面上の「見かけ」だけに着目すると、机の前に座らせて子どもを教育する方がよいという結論にすぐ達してしまいます。こうして全ての教育システムに同じやり方が浸透し、幼稚園の子ども達まで小学一年生と同じように学ぶことになってしまいます。学習科学が、子どもには自由に探索する時間が必要でそれが学校での学びの素地になると再三主張しているにもかかわらず受け入れられないと言います。ナンシー・カールソン=ペイジはこう警告しているそうです。「子どもの学びに対する根深い誤解が蔓延し、幼い子を机の前に座らせ、文字を書かせる勉強が拡大する一方だ。これがどんなに子どもの学びの発達を阻害しているか全く気づいていない。この状況が悲しく、辛い」。

アメリカの教育

2015年、ニューヨーク州のクオモ知事は州の実施する学力テストで自分の受け持つクラスの子どもが成果を出したかどうかで、教師の査定の40%が決まると認めたそうです。しかし実際には子どものテストの得点たけで優れた教師かどうか評価することはできないというのが、教育研究に携わる統計学者、心理測定の専門家、経済学者の共通した見解です。

二つ目の不幸は、教師がテスト対策に追われるためにただ暗記することを学びの手段としてしまうことだと言います。暗記することが悪いわけではなく、暗記する学びが必要な時もあります。ただ子どもにとって意味のある切実な問題に取り組むことなく、ただ暗記させると浅い学びしかしないと言うのです。それが問題なのです。丸暗記するだけでは、学んだ知識を状況に応じて使いこなすことができません。まだ子どもが小さいとレベル2の知識を披露しただけですごいと思ってしまいますが、3歳の子が50まで数えられたとしても、数の概念を理解しているわけではないと言うのです。

三つ目の不幸は知識の暗記とテストへと子ども達を追い込むことが彼らの心身を蝕んでいることだと言います。スクールバスに乗った瞬間に、不安で恐ろしく、泣きたくなり、お腹が痛くなってきます。学校が安全でも楽しい場所でもなく、恐ろしい場所になっているのです。せめて休み時間は思いきり走り回って、教室での緊張から解放されるひと時になってほしいのですが、低所得者の集まる地域の学校では休み時間が殆どないのが現状だそうです。

最後の不幸はテストのプレッシャーが不正を助長することだと言います。これは生徒のことを言っているのではないとキャシーは言います。アトランタの教育長は子どもの解答を改ざんして点数を操作するよう部下に指示していたことが発覚し、辞任に追い込まれたそうです。

落ちこぼれ防止法という「No Child Left Behind」略してNCLBや全米統一学力基準といった、これまでなされてきた教育改革は高い理想に基づいて作られたものでした。確かに子どもの学びはレベル1よりも深まったかもしれませんが、依然としてコンテンツ理解のレベルは2に留まり、まだまだ不十分であるとキャシーは言っています。

多くの科目を浅い学びでカバーしなければならないと、教師は自分の思うように授業できなくなると言います。キャシーらは、デラウェア州で勤務する教師の一人からこんなことを耳にしたそうです。彼女の学校では、学校から指導マニュアルを渡され、内容も授業を進めるペースも完全にその通りに進めなければならず、教師が自由裁量でできることは殆どないといいます。もし管理職が抜き打ちで監督に来た時、予定されたページを予定されたやり方で教えていないと後で叱責されると言います。子どもの様子を見て、まだ理解できていないと分かっても、そのまま台本通り説明し続けなければならないと言います。とにかく、その日に配当された範囲をこなさなければならないのだと言うのです。

このような授業が、それほど昔ではなく、今アメリカで行われていることにびっくりしますね。日本の教育に問題があるというだけではなく、世界中が教育改革を進めていかなければならないことを痛感します。

見かけの特徴

私達が学ぶ時、その基本的方法としてアナロジーを用います。アナロジーの働きによって物事や考えがどんな類似性を持つのか、教えてもらわなくても自ずと見つけることができます。逆に言えば、私たちは学び手のアナロジーの力を借りて教えていると言ってもよいだろうとキャシーは言います。しかしレベル2で考えている子どもは先に述べた鮫とイルカの問題の場合のように、明確に言われない限り見かけの特徴に注目してしまいます。対象が共有する本質的な関連性に子どもが注目し、より深いアナロジーができるようになるには、レベル3に成長する必要があると言うのです。

大人と5歳児にまず一枚の絵を見せます。この絵に描かれていることを尋ねます。すると、大人も子どもも「猫が鼠を追いかけている絵」と答えました。次に大人も子どもも二つのグループに分けて、同じ猫が犬に追いかけられている、もう一枚の絵を見せます。一方のグループは中立条件群で「この猫を見て」と最初の絵の猫を指差してから、「2枚目の絵でこの猫に何が起こっているかな?」と質問しました。もう一方の関連条件群では、やはり最初の絵の猫を指差しながら「この猫が鼠を追いかけているのを見て。2枚目の絵でこの猫に何が起こっているかな?」と質問しました。中立条件群では子どもも大人も両方、2枚目の絵についても猫だけに注目した答えをしたそうです。しかし関連条件群では、子どもはやはり猫だけに注目して答えましたが、大人は犬にも注目し、どちらも何かを追いかけていると答えたそうです。レベル2で考えている子どもは関連性まで注目しなかったのです。

同じ理由でレベル2では比喩を用いることが難しいようです。親戚が帰った後、4歳の娘に「おばさんはsweet(素敵な人)だった?」と話しかけると、彼女はびっくりし、当惑した顔つきで「おばさんはチョコレートでできているの?」と母親に聞き返したそうです。それは、英語では食べ物が甘い時に使うsweetを「いつも子どもに甘いんだから」のような日本語の比喩とは違って「素敵」という意味で使うのです。

学力テストや入試のために学ぶように子どもを追い込んでいる場合、学校での知識教育がレベル2に留まっているとキャシーは言います。数学、読解、理科と幅広く学んでいるものの理解は浅いというのです。更に理科で学ぶトピックと数学で学ぶトピックを関連づけることはありません。テストで高得点をとることを目指した表層的な学びがとても不幸な結果を招いていると言うのです。

一つ目の不幸について、スタンフォード大学のリンダ・ダーリング=ハモンドはこう指摘しているそうです。「テストでの点とりゲームを最優先するためのカリキュラムが組まれ、たとえ子ども達にとって望ましいプログラムであっても、テストに関係ない内容ならば廃止されてしまう。そしてそのテストで点をとれない子は学校から追い出されてしまう」。

教師も自分の受け持つクラスの子ども達のテストの点数で評価されるので、美術のようなテストと無関係の教科を削って、テスト対策に時間をかけます。特別の支援を必要とする子どもに対しては、両親が承諾した場合、テストの日は「病欠」扱いにして受験させないようにしたり、「より面倒見のいい環境へ」という名目で転校を促したりするという事態が生じているそうです。学力テストで低得点であることが教師と子ども双方を脅かしているのです。

表面的な知識

子どもは自分が正しいと思うことを見分ける感覚があり、自分の正しさの感覚に全て従わせようとします。正しいか間違っているかのどちらかに色分けしようとするのが、レベル2による思考の特徴だと言います。この時期の子どもは、ハンマーは道具で「も」あるという考えを否定します。幼い子にとってハンマーは一つの目的にのみ使われないといけないのです。

レベル1では子どもは表面的な知識しか持っていません。レベル2でも大抵の場合、外見に騙されることからまだ抜け出せないのです。レベル2のレンズで世界を見ている5歳の子はこんな感じだとキャシーは言います。友達、島、おじさん、それぞれについてどんな風に見えるか尋ねます。すると「友達は小さい子ども」「島には椰子の木がある」「おじさんはパイプを持った素敵な男の人」という答えが返ってきます。レベル2では見かけで判断しようとします。だからガソリンスタンドで給油しているのは男の人で、長い髪の毛の人は女の人というような認識をしてしまうのです。レベル2において子どもは多くのことを知っているのですが、それを繋げて考えようとはしないと言うのです。

しかし時折見かけに縛られないで判断する時もあると言います。キャシーは、こんな例を挙げています。スーザン・ゲルマンとエレン・マークマンは、4歳児に3枚の写真を見せました。一枚は黄色と黒の模様のあるきれいな熱帯魚です。一枚は鮫。そしてもう一枚にはイルカが写っていました。鮫とイルカは見かけがとてもよく似ていて、熱帯魚だけ異なった形に見えます。まず4歳児に対して、鮫と熱帯魚はどちらも「魚」だと教えました。次に熱帯魚は水中で呼吸しますがイルカは海の外で呼吸すると教えました。これらの知識を伝えた上で、鮫は水中と海の外のどちらで呼吸するか尋ねました。もしイルカと鮫の外見が似ていることに注目すれば、鮫は海の外で呼吸すると答えるでしょう。一方、鮫も熱帯魚と同じように魚の仲間だと考えれば、鮫は水中で呼吸すると答えるはずです。結果はどうなったかと言うと、子どもは何の迷いもなく、熱帯魚と同じように鮫も水中で呼吸すると答えたのです。4歳児でさえ、見かけの共通よりも「魚」という同じ仲間であることの方がより深い繋がりを持つと推測したのです。見かけを重要視するレベル2においても子どもは言葉を利用してより深く考えることができるのだとキャシーは言うのです。

子どもが表面的理解を超える時、アナロジー(類推)を使って考えています。ここで言うアナロジーは、適性試験等でよく出くわします。黒と白に対応するのは暗と明というような形式的問題を指すわけではありません。私たちは日常生活の中で考え、推論する時に当たり前のようにアナロジーを用いているのです。ある子の母親は弁護士でいつもスーツを着て仕事場に出かけます。友達のお母さんはスポーツ選手のトレーナーで、いつも運動着です。レベル2の子どもは友達のお母さんは運動着なので働いていないと判断します。ここで子どもはごく初期段階のアナロジーを用いて判断しているのです。仕事をしている人はスーツを着ている。だから自分の母親は働いていると考えます。仕事には様々な種類があるから仕事に行く時の服装も職種によって様々で、スーツを着ていなくても働いている場合があるかもしれないとは考えないのです。

理解の深さ

ただ知識というコンテンツを覚えただけで、意味について考えようとしないと必ず間違いは起こるとキャシーは言います。彼女は、レベル1のコンテンツ意識が企業にダメージを与えた例を挙げています。2011年にアラバマ州を竜巻が襲い多くの死者を出した翌日、ある企業が「自然は危険がいっぱい。なんとかしなくちゃ(Mother nature hates you. DeaI  with it.)」という宣伝メールを流してしまいました。もちろん、この広告コピーは竜巻が起こるより前に作られたものですが、担当者は命からがら逃げ延びた人々がこのメッセージを目にしたらどう思うだろうということを全く考えず、職務をただ遂行したのだったのです。あまりにも配慮を欠いた酷い事態を招いたことに対してCEOはすぐに謝罪しなければなりませんでした。

レベル1では知識の量が少ないことはもちろんのこと、理解の仕方も浅いのです。そして何度か繰り返し起こったことは、これから必ず同じように起こると思ってしまいます。例えば、電子レンジがチン!と鳴ったら、これからチンと鳴った音は全て電子レンジからだと考えてしまいます。これが乳幼児だけでなく、思春期の子どもにとっても、大人にとっても、レヘル1の学習方法だと言うのです。しかしこれはあまりにも浅い学び方です。但しテストをうまくこなして、学校で何とかやっていくことは、この程度の学び方でもできてしまうのかもしれないとキャシーは言います。

では、次の段階であるレベル2では、どうでしょうか。そのレベルでは、広く、浅く理解します。言葉を利用して「見かけ」への囚われを超え始めるのです。レベル2になるとレベル1よりも関心を持つ範囲が広がり、より多くのトピックを知ります。就学前の子どもは恐竜の名前、動物の種類、50までの数といったようなことを覚え、語ります。そして自分の名前や「止まれ」のサインといった言葉を読めるようにさえなります。かわいらしい女の子がYouTubeの動画を見ながら、恐竜のことについて話しています。彼女は恐竜の名前を沢山覚えていて、それぞれの外見についても語ることができます。しかし恐竜は哺乳類が生まれる前に存在した動物であり、生息していたのは6500万年前だということは知りません。そもそも6500年前ということが解らないのです。

レベル2の学びの始まりは言葉が利用できるようになることと連動しているとキャシーは言います。子どもは言葉で大人に問いかけられるようになります。これが大人を時にイライラさせるのです。子どもが延々「何で?」と聞き続けるからです。レベル2の段階では知識は明確で曖味さを許さないものだと捉えられているので、この段階に到達したばかりの子どもは「正しい」ことしか受けつけません。それで時に周囲の大人を困らせるのです。

ある母親が子育てお悩み相談にこんな文章を書き込みました。「私には3歳半の子がいますが、誰かが正しくないことを言ったリ、言い間違えをしたリすると、激しく騒ぎ立てます。2歳の子でも大人でもお構いなしに「違うよ!×××じゃないよ。×××だもん」と叫びます。…(中略)…子どもは自分の思うように相手を動かす方法として、また相手の注意を引くためにわざとそういう言い方をしているのかもしれないと思うようになりました。」

 

初期の学び

レベル1の初期の学びは、同時に起こる二つの事象を結び付ける赤ちゃんの学びですが、この時点での学びはある特殊な状況に限ったもので、いろいろな場面で柔軟に使えるものではないとキャシーは言います。コンテンツについて、レベル1の段階の子ども、もちろん大人も、覚えた知識を別々のビンに入れてゆくような学び方をします。従って理解に緊がりません。例えば他者が何かをするのを見ていますが、なぜそうしているのか知ろうとはしません。ある人が感謝祭のための七面鳥を紙袋に入れて調理していました。その人がどうしてそんなやり方をしていたかについては、自分の母親がそうしていたからという以外の理由はありません。紙袋を使うのは、七面鳥の肉をぱさつかせず、しっとりと焼くためだと理解したら、オーブンで焼く必要のある他の料理でも、しっとりとした感じを残したい場合に応用することかできるでしょうが、そういうことはできないのです。

赤ちゃんも同じであると言います。ここで、キャシーはジャン・ピアジェの有名なエピソードを紹介しています。彼が「猫」という言葉をバルコニーの下を歩く猫だけに使っていたら、彼の娘は絵の中に描かれた猫や他の場面で現れた本物の猫に「猫」という言葉を使いませんでした。「猫」という言葉は特定ン場所に結び付けられ、限定的にしか理解されていなかったわけです。つまりレベル1では、知識の理解が不完全で、柔軟に用いることができないのです。

日常生活の中でも同じようなことが起きます。ルーティーンを変えることができないのです。例えばお母さんが外出して、寝る時にお話を読んでもらえないと眠りに就くことができません。毎日繰り返されることで、次に何が起こるか予測することは学びましたが、不測の事態によってそれが変わり得ることは理解しないのです。

新しい領域を習得しようと思った時、誰もがレベル1の状態に陥ります。物理学でも、編み物でも、学び始めには、予測することに関心が向います。「次は何をやるの?」「テストのためにどんなことを知る必要があるの?」というのは初心者に典型的な質問です。初心者は領域を超えて物事を結びつけることができません。物理学で学んでいることが生物学で学んでいることと完全に分離されていて、双方には何の関連もないと思ってしまうのです。初心者は周りの熟達者をよく見て、真似し、自分も熟達しようとします。ただ、その真似の仕方は格好いい友達の新しいファッションスタイルを取り入れようとするのと同じなのだとキャシーは言います。

大学、そして社会人になってからも、レベル1の状態になることはあると言います。テストのために丸暗記するというのはまさにレベル1だと言うのです。たった6時間、一夜漬けでノートを見直して何とかBをとったとしても、同じテストを一週間後に行ったら、何も覚えていなくて落第するでしょう。レベル1の知識では対応できないようにするためにレポートをテストの代わりに出しても、レベル1のレポートが提出されることがあります。キャシーは、彼女の発達心理学の授業でのレポートの一例を挙げています。最初にダーウィンはこう言いましたと書かれ、次にピアジェはこう言いましたとなり、最後にヴィゴッキーがこう言いましたというようにただパラバラに関係ない断片か述べられているだけ。考えを総合し、理論全体を見渡そうなどという気はさらさらないと言うのです。

赤ちゃんからの科学

赤ちゃんは自分の周囲の複雑な世界を理解するために繰り返されるパターンを探し、規則性を発見する生まれつきの能力を持っています。例えばある人は微笑みと結びつけ、別の人は難しい顔つきと結びつけるというように、まず二つの事象を結びつけます。次にどのぐらいの頻度で生じるか計算します。こうしてある事象が起これば続いてどのようなことが起こるか予想できるようになります。ウィスコンシン大学のジェニー・サフランは、8か月の赤ちゃんが繰り返される事象のパターンを認識していることを明らかにしました。昼食の時、自分の名前が呼ばれると共に「ごはん」という言葉を耳にします。この後、高い椅子に座らされ、よだれかけをかけられ、暫く経つと目の前に食べ物が現れます。少なくとも日に三回、毎日これが繰り返されれば、一連の出来事を繋げて認識するようになります。だから9か月ぐらいになると、この流れをわざと崩して、例えばスプーンを口ではなくて耳に持っていこうとすると、「遊び」と分かり、興奮して喜ぶのです。

赤ちゃんは「模倣」によっても学びます。アンディ・メルツォフは、新生児が大人を真似して舌を突き出そうとすることを発見し、科学の世界に衝撃を与えました。赤ちゃんは極めて注意深く人々を観察し、他者から学ぶ準備をしていることがこの発見で解ったのです。赤ちゃんとこんなゲームをして遊んでみることをキャシーは提案します。「〇〇はどれぐらい大きいかな?」と言って、あなたの両腕を上げます。すると、それを見ている赤ちゃんもそれを真似します。これは中々難しいことなのです。なぜならあなたが自分の腕を上げた時赤ちゃんに見えることと赤ちゃん自身が自分の腕を上げる時に見えることは随分違うからです。それなのにあなたが腕を動かすことと赤ちゃんが自分自身の腕を動かすことをどうやって繋げるのでしょうか。実は赤ちゃんが他の人が腕を上げているのを見ている時、赤ちゃんの脳の中でミラーニューロンと呼ばれる細胞が活発に働いて、頭の中で自分の腕を上げていたのです。

二つの事象が同時に、あるいは連続して起こる頻度を計算しながら、これらの事象を結びつける「連合スキル」を活かして、赤ちゃんは単語を覚えていきます。例えばこんな具合です。赤ちゃんは自分の名前をものすごく頻繁に聞きます。「○○ちゃん、お腹空いた?」「○○ちゃん、ジュース飲む?」「○○ちゃん、かわいいねえ」などなど。他の単語が全く解らなくても「○○ちゃん」がいつも自分に向けられて言われるところから、それが自分の名前であることが解ってくるのです。同じように哺乳瓶を与えられる時、頻繁に「ボトル」という音のパターンか聞こえてくることに気づきます。すると「ボトル」という音と哺乳瓶が結びつきます。このようにして、赤ちゃんは自分で言葉の音を発音できるようになる前からいくつかの言葉の音と対象を結びつけることかできるのです。耳に入ってくる発話の中で、自分が「知っている」単語が沢山あればあるほど、知らない単語が際立って聞こえてきて、その単語を覚えやすくなるのです。つまり記憶に貯蔵していた音と対象の結びつきが、新しい言葉を覚えることを容易にするのです。

赤ちゃんは日常の生活の中の何気ない遊びをしている時に沢山のことを学びます。もしスプーンを投げたらスプーンはどうなる?上に動いて宙に舞う?それとも下の方向に動いて床に落ちる?赤ちゃんは色々なことを考え、ちょっとした「実験」をするのです。その赤ちゃんの姿はあたかも「ゆりかごの中の科学者」です。赤ちゃんの学びは、小さな波を寄せ集め、大きなうねりを作っていくようなものだと言うのです。生活の場で自ら活動して得た小さなコンテンツの波が集まり、赤ちゃんが幼稚園に行く年齢になる頃には、大波へと成長しているのです。

深い学び

私達は深く学び、深く知る存在にならなければいけないと言います。それはロボットやコンピュータがこれまで人がしていた単純作業を奪ってしまうからではありません。ロボットがもっと深く考えられるようになってきているからだと言うのです。自動運転する車が実際に走り始め、様々な分野でロボットの活用は進む一方です。入皖している時にナースコールを押したらロボットがやってきて、至れり尽くせりの世話をしてくれるという想像は夢物語ではないどころか、目前に迫っているのです。あなたの手を握り、共感し、あなたを心地よくしてくれる「ソフトスキル」を備えた社会的なロボットが会社にやってきます。会議室から工場まで全ての場所で、最高に教育されて柔軟で、世界で最も創造的かつイノベーティブなロボットが活躍しています。こうして簡単に仕事は機械にアウトソーシングされ、私たちの子どもの仕事はなくなっていくと言うのです。

知識コンテンツを獲得することに親も学校もそして教育産業もこれまで囚われ過ぎていました。しかしどうしたら子ども達の深い学びを促進できるか改めて問い直し、コンテンツの意味を再定義する時期に差しかかっていると言うのです。私達が身につけるべきコンテンツは人が発見した事実ではなく、問題を解決するための答えを自分でどのように見つけるかということと、そのために情報やリソースをどのように組み合わせるかということなのだと言うのです。

ダーウィンは「強い種や高い知性を持つ種が生き残るのではない。変化に対応できた種が生き残った」と書きました。今まさに子どもが必要とすることを見抜いていたのだとキャシーらは言います。では不透明な状況に直面した時、柔軟に用いることができるように、私たちはどのようにコンテンツを身につけてゆけばよいのか、ということを、キャシーらは、4半世紀にわたる学習科学の知見に基づいて、コンテンツを学ぶプロセスについて明らかにしていきます。

レベル1は、「特定の状況・領域について学ぶ」ということで、「初期の学び」です。それは、「同時に起こる二つの事象を結びつける赤ちゃんの学び」ということで、考えていきます。

乳児の世界は混沌とした状態にあるとかつては考えられていました。もし物体や人が自分の方に向かってきた時、まるでおかしな万華鏡を覗いているかのような滅茶苦茶なイメージに見えていると思われていたのです。しかし今では赤ちゃんは生まれる前から知識を学び始めていることが解っています。

胎内にいる時に母親が語ったお話や口ずさんだ歌について意味は理解していませんが、メロディーはしっかり覚えています。誕生すると学びは急速に広がります。いつも楽しいことをしてくれるおじさんと怖いおじさんを区別し、お母さんが食事の時に高い椅子に座らせてくれて、ごはんを口に運んでくれることを認識し、お気に入りの歌とお話がいつも同じ終わり方をすることを理解します。赤ちゃんは見て、聞いて、嗅いで、触って、味わって、つまり五感を全て使って学んでいるのです。手と口を動かして色々試そうとする様子はまるで小さな科学者のようだとキャシーは言います。

順応する力

21世紀に働く人々にとっての合言葉は「順応する力」であリ、グーグル流に言えば「臨機応変に学ぶ力」ということではないかとキャシーらは考えています。学び方を知らず、学び続けることができない人々はコンピュータに置き換えられ、低い所得しか得られず、社会の下層へと追いやられてしまうのです。高速道路の料金所で働く人が消えたように多くの職業が自動化・AI化によって消失します。従ってこれからの学校では、子どもに事実を教え込むことより、どう学び、どう情報を選択・統合し、イノベーティブに結論を引き出すかを教える必要があると言うのです。「なぜ、学んだものをすぐに忘れるのだろう?」(大学教育出版)の著者で、心理言語学者のフランク・スミスは、「全ての教室に仕掛けられた時限爆弾とは教わったことしか学べないということだ」と警告しています。毎日古くなり、時代遅れになっていくコンテンツしか教えない教育をこれ以続けていたら、子ども達は高校を卒業する時、時代遅れの人間になってしまうと危惧しているのです。

知識コンテンツは当然のことながら重要です。間題を解決するには知識はもちろん必要です。九九を覚えていれば、9×6=54と即座に答えられます。日常生活で頻繁に求められるちょっとした計算に非常に役立ちます。読解も同じで、言葉の知識があって文章の意味をすぐに読み取れるのはとても便利です。バスや電車に乗っている時に気になる問題を頭で解こうとしながら、窓外の看板や車内の広告の言葉を読みとってしまいます。こうして難なく文字を読みとり、テキストの意味をすぐつかめる読み手に子ども達を育てたいです。こう考えるとコンテンツはとても重要です。

しかし私達は事実を教えるレベルに留まっていてはいけないとキャシーらは言うのです。必要に応じて臨機応変に学ぶことができ、既に知っていることを組み合わせて新たな知識を生み出し、創造的に考える方法を教える能力が求められているのです。これからの学習環境は明確に定義できる問題に取り組んで、既に明らかにされている知識を身につけて終わりではなく、その知識を利用して答えがまだ解らない問題に取り組む場となるのです。たった一つの正解しかない問題を出し、子どもが正解を書けるかをテストする時代は過ぎたと言うのです。目指すべきは浅い学びではなく深く考える学びなのです。

カナダの心理学者クレイクとロックハートは1972年に「処理水準」というモデルを用いて学びの深さについて考えました。「単語の書かれているリストを見て声に出して覚えるのは、処理の水準が浅い表面的な学びである。私達は入試のために単語を丸暗記しようとしたが、このようにして覚えた知識は時間が経てば、すっかり抜け落ちてしまう。単語の意味をつかみ、実際に文を書く時に使えるようになって初めて深い水準まで処理された学びになる。解答欄を埋める知識記憶型テストと論述型のテストの違いはまさにこの点にある。別々に学んだ事実を関連させて説明しているかどうか、つまり深い水準まで処理して学んでいるかどうかは論述でなければ解らないのである。」