fujimori の紹介

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矛盾するデータ

ハリス夫婦は自身の二人の子どもに対しての育児スタイルは大きく異なっていたそうです。一人目に対しては厳格な決まり事はほとんど設けなかったそうですし、その必要もなかったと言います。ところが、二番目に対してはあらゆる規則をつくり、遵守させようとしたそうですが、どれもうまくいかなかったそうです。道理を説くなんて通用しなかったと言います。結局は「だまって言われたことをやりなさい」となるのが常だったと振り返ります。さらに、それさえも効果的ではなかったと言います。最後は半ばあきらめた形になってしまったのですが、どうにか彼女の難しい時期を切り抜けることができたそうです。

もし親が子どもの性格に合わせて育児スタイルを変えるのであれば、ボウムリンドと彼女の研究仲間たちは親から子への影響ではなく、子から親への影響を評価したといえるかもしれないと言います。親の望ましい育児が望ましい子どもを育てるのではなく、望ましい子どもが望ましい育児を引き出していたのかもしれないことになります。親が子どもに合わせて育児スタイルを変えないのであれば、ボウムリンドと仲間の研究者たちは環境の影響ではなく、遺伝的な影響を評価していたことになるかもしれないと言います。親の良い姿勢が良い子どもを育てるのではなく、良い親が良い子どもを生み出すのかもしれないことになります。

ハリスはこう考えています。中流階級のヨーロッパ系アメリカ人が程良い親になろうとするのは、それが自分たちの文化で良いとされているものだからと考えます。それを遂行できないのは、自分もしくは自分の子どもに問題があるからということになります。問題をかかえているのが自分であれば、それは自分が好ましくない性格上の特徴をもっているからであり、それが遺伝的に子どもに受け継がれてしまうかもしれないと考えるのです。子ども側に気むずかしさなどの問題があるとすれば、程良い親の育児スタイルでは通用せず、厳しすぎる親のスタイルへと方向変換を迫られることになってしまうのです。よって、ヨーロッパ系アメリカ人の場合、親が子どもに厳しすぎる態度をとるたいていのケースでは、その親は問題児をかかえているといえると言います。これはまさに親のしつけを研究する人々によって明らかにされた結果と一致しています。

他の人種、とりわけアジア系、アフリカ系アメリカ人では文化的要素が異なります。たとえば、中国系アメリカ人の家庭ではボウムリンドが権威派と呼ぶ厳しすぎる親の育児スタイルが実践されていますが、それは子どもが扱いにくいからではなく、それが文化的に望ましいとされているからです。そのため、アジア系、アフリカ系アメリカ人の家庭では親が厳しすぎると思われます。これもまた研究によって明らかにされたことと一致しています。

実際、研究によって明らかになったのは、アメリカ人全体の中でもアジア系アメリカ人の親には厳しすぎる親が多く、程良い親は最も少ないようです。しかし、あらゆる意味で、アジア系アメリカ人の子どもたちはアメリカ人全体の中でも最も有能で成功していると言われています。この結果は研究者の仮説と矛盾するのに、研究者たちはまったく臆さない様子であるとハリスは言います。

そのような態度を示しているのは彼らだけではないと言います。他の発達心理学者たちも同様だと言うのです。子育て神話に矛盾するデータは無視され、あいまいなものも子育て神話の地盤固めとして解釈されてしまっていると言うのです。

類似性

ボウムリンドとその後継者たちは幾十もの研究を実施し、そのすべてが同じ結論、「程よい親」の子どもはより望ましい人間に成長するという結論に達しています。データ分析と統計結果から、何らかの有意な相関関係が見いだします。仮に何も算出されなくても、分けるが勝ち手法で勝算を高めます。男女別に分ける。父親と母親に分ける。白人家庭と白人以外の家庭に分ける。往々にして、「程良い親」の好影響は、男の子か女の子か、父親か母親かで程度が違っています。また多くの場合、「程良い親」が好影響を与えるのは、白人の子どもに対してのみなのです。

ハリスは、これまで、実はずるい言い方をしてしまったと打ち明けています。全体としてはこれらの研究では、望ましい親の子どもは望ましい人間になるというゆるやかながらも適度に一貫した傾向が見られます。「程良い親」の子どもは他の子どもや大人とのつきあいもうまく、学業成績もよい傾向にあります。中高生になっても問題に巻きこまれることが少ないようです。一般的に彼らは「厳しすぎる親」や「甘すぎる親」に育てられた子どもより順当な人生を歩む、すなわち平均するとわずかですが、生き方がうまいと言えるでしょう。

問題はこれらの結果が行動遺伝学のデータと矛盾することです。親の姿勢を研究する者たちは、家族間の違い、つまりスミス家とジョーンズ家がどう違うかに関心をおきます。概して彼らが注目するのは各家族のうち子ども一人だけです。すなわちスミス家から一人、ジョーンズ家から一人といった具合にです。一方、行動遺伝学では各家族のうち二人を研究対象とします。それで何が解明されたかというと、子どもがスミス家で育てられようが、ジョーンズ家で育てられようが、その差はまったくないか、あってもわずかであるということです。スミス家の子ども二人の性格が似るのは、その二人が生物学的なきょうだいである場合だけです。もし養子であれば、その二人ともがスミス家で過ごそうと一方がジョーンズ家で過ごそうと関係なく、いずれにしても類似性はまったく見られません。

行動遺伝学研究の結果が暗に投げかけている疑問からは逃れることはできないとハリスは言います。親の育児スタイルは子どもの性格には影響しないのでしょうか、それとも親は一貫した育児スタイルをもたないのでしょうか、それとも親の育児スタイルは一貫していますが、それにより子どもが受ける影響は子どもごとに異なるのでしょうか。これらのいずれも、親の育児スタイルを研究している人々の考え方とは一致しません。もし模範的な親になることで子どもを望ましい人間へと育む、そうでなければ子どもを好ましくない方向へと導いてしまう、というのであれば、育児スタイルを研究する価値などなくなってしまうとハリスはいうのです。

ハリスは親の育児スタイルが常に同じであるとは思っていないそうですが、子どもが皆同じであるというのなら別だと言います。ハリス自身の二人の子どもはそれぞれまったく違っていたそうです。一人は養子でしたが、生物学的なきょうだいであっても事態は変わらなかったと言います。ハリス夫婦は二人に対しての育児スタイルは大きく異なっていたそうです。

親の三つのタイプ

マコビーとマーティンが進退の判断を世間に迫ってからの数年間は心をそそるような第三の選択肢は現われませんでした。行動遺伝学は引きつづき、家庭がその一員に永続的な影響を及ぼすことがあったとしても、それは特殊な例であるということを証明しつづけたのです。万が一、長期にわたる影響があったとしても、それはきょうだいによっても異なるものであり、それを予想することはできないだろうとハリスは言います。なぜなら、そのような影響は大人数のデータの集計結果では表面化してこないからだと言うのです。もちろんある特定の人物に関して、家庭環境が、たとえば批判的で要求の多い母親と影の薄い父親がどのように子どもの性格を形成して混乱した人物をつくりあげたかを説明することは簡単だと言います。このように証明も反証も挙げることもできないような過去について、根拠もないのに、自分だけで勝手に推測することは伝記作家が得意とする分野だとハリスは皮肉ります。

伝記作家とは異なり、行動遺伝学者同様、社会化研究者たちもデータ収集をつづけました。その多くはマコビーとマーティン以前の研究方法をそのままつづけ、つまり親の育児態度の違いを探り、その違いを子どもの社会的、感情的そして知的機能と対比させました。研究者たちは相変わらず家族間の違いに着目し、家族内の微環境の違いには目を向けませんでした。この研究法は発達心理学の教科書には必ず登場するため、さらに掘り下げて考えてみる必要があるのではないかとハリスは提案しています。

1967年、発達心理学者ダイアナ・ボウムリンドは親の子どもに対する姿勢を三つに分け、それぞれ「権威派」、「許容派」、そして「正当派」と名づけました。この呼び方ではどうも混乱を招きやすいので、ハリスは、「厳しすぎる親」、「甘すぎる親」、そして「程良い親」と呼ぶことにします。「厳しすぎる親」とは、独裁的で頑固な親です。規則をつくり、厳しくそれに遵守させます。必要なら体罰も辞しません。いわゆる「だまって言われたことをやりなさい」タイプです。「甘すぎる親」はその正反対です。子どもに強いるのではなく、何かをやってもらうようお願いします。規則?何のために?というタイプです。子には愛を、が彼らの信条です。

三番目が「程良い親」です。「程良い親」とは子どもに愛情を注ぎ、子どもを尊重しますが、制限は設けてそれを守らせます。子どもが正しく振る舞うよう、体罰などではなく、道理を説いて説得します。決まった法則などはありませんから、子どもの意見や要望も考慮します。要するに、「程良い親」とは、いわゆる20世紀末の中流階級のヨーロッパ系アメリカ人が理想とする親の姿です。

ボウムリンドとその後継者たちは幾十もの研究を実施し、そのすべてが同じ結論、「程よい親」の子どもはより望ましい人間に成長するという結論に達しています。確かに言葉は数値よりも説得力があるようだとハリスは言います。しかし、そのデータと統計結果を詳しく見てみると、以前のブログで取り上げたような結果をつくり出すデータ分析が随所に見られます。測定値を親からも、子どもからも多く取ることで、何らかの有意な相関関係が見いだされる可能性を高めます。

ジレンマ解消

サロウェイの意向とおそらく彼の幼少時の記憶にも反して、親の愛情と関心の一番おいしいところをもらえるのは上の子ではなく、下の子なのだとハリスは言います。これは万国共通のことだともいうのです。昔ながらの子育てが行なわれている地域では、赤ちゃんの頃はかわいがられますが、下のきょうだいが生まれると何の予告も弁解もなく三歳児はその地位から引きすり降ろされてしまいます。王国や大邸宅、家族の農場を受け継ぐのは上のお兄ちゃんかもしれませんが、だからといって母親が彼を一番愛しているとは限らないのです。彼が一番のお気に入りだったとしてもそれは彼が最初に生まれたからではないのです。

出生順位について、最後にもう一度ハリスは、エルンストとアングストの見解を紹介しています。

「出生順位に関する研究は、きょうだいの順番もその人数も明確であることから、いとも簡単そうに見えます。コンピュータに数値を打ちこみ、関連する要因間で有意差が認められれば、その後にもっともらしい説明をつけるのは簡単です。たとえばもし末子が他の順位の子どもより不安を示すという結果が出れば、それはその子が長いこと家族で一番弱い存在であったからだと説明できます。もし第一子が他よりも臆病であるという結果が出れば、それは経験の浅い母親による一貫性に欠けるしつけによるものだと説明できます。逆にもし中間の子がもっとも不安を感していれば、それは第一子でも末子でもないことから親におろそかにされたからだと説明できます。想像力さえはたらかせれば、四人きょうだいの二番目の女の子が不安をかかえている理由ですら説明することは可能です。かかる研究は時間と金の無駄遣い以外の何ものでもない。」

行動遺伝学者たちのジレンマ解消には出生順位説こそ理想的に思われたのですが、彼らは結局エルンストとアングストの忠告を受け入れ、不本意ながらも出生順位説をあきらめました。親の行動がさまざまであること、すなわち親が子ども一人一人に対して違う行動をとることは彼らもそのときすでに承知していたのです。行動遺伝学者にとって必要だったのは、こうした親の姿勢に見られるばらつきは、たんに子どものもつ生まれつきの特徴への反応、すなわち子から親への影響であるだけでなく、実際にはそれが子どもの性格に重大な影響すなわち親から子への影響を及ぼしていることを実証することだったのです。出生順位説ならそれが可能だと思われたのです。特定の子どもを他よりもかわいがるといった親の態度の違いが実際に子どもの性格を左右するのであれば、多くの親が下の子をよりかわいがっていることを踏まえると、出生順位の研究でもその形跡が結果に現われたはずです。しかしほとんどの研究、特に最近行なわれた大規模で綿密な研究では成人後の第一子とそれ以降の子どもの間には性格の違いはまったく見られませんでした。これらの結果から唯一論理的に結論が導けるとするならばそれは、親のお気に入り度といった徴環境の違いが子どの性格に一生残るような影響を及ぼすことはない、ということです。成人してからもまだ痕跡が残るような影響は何もないのです。

マコピーとマーティンが提示した一つ目の選択肢は、親は子どもになんら影響を及ぼさないというものでした。二つ目は、親の姿勢のうちで何が子どもに影響を及ぼすかは家族内でも子どもによって異なるという内容でした。出生順位はこの二つ目の選択肢を裏づける証拠となるはずでした。出生順位による作用を裏づける説得力のある証拠が見つからなかったことで、この問題もまた宙に浮いたままとなってしまったのです。

親の関心

サロウェイによると、第一子は幼少の頃から現状にどっぷりつかることを覚えてしまうと言います。親とうまくいかないなど、サロウェイが列挙するその他の理由がないかぎり、第一子は反逆しようなどとはまるで思わないのです。分け前以上の恩恵を受けてきた既存の仕組みをあえて崩そうなどとは思わないというのです。親から与えられるもの、その最も顕著な例が親の関心ですが、それをすべて真っ先にもらえるのが第1子なのです。親のお気に入りでありつづけるためには、「はい、ママ」「はい、パパ」と言ってさえいればいいのです。こうしてご機嫌とりの役割は第一子がすでに独り占めしてしまっているため、年少のきょうだいは家族の中で別の役を見つけ出さなければなりません。こうして反旗を翻すのが第二子以降の役目となるのです。成人してからの第二子以降はサロウェイの言う「異端的(正統的の反対語として)」なものの見方に傾倒しやすくなります。

このような説明に納得がいってしまいます。なるほどと思わせるものがあります。しかしハリスは、フランク・サロウェイの考えに偏見をもってしまっていると言うのです。なぜなら、ハリス自身が異端的なものの見方をするとされている第一子だからです。サロウェイ自身は第二子以降で、第一子に対して手厳しいと言います。彼の著書の中で第一子は、自分勝手で、偏屈で、嫉妬深く、頭が堅く、攻撃的で傲慢な性格として描かれています。カインは第一子であると、サロウェイは何度も指摘しています。彼は明らかに自分をアベルと同一視しているのだとハリスは言います。よく考えてみると、私も第1子ですから、ハリスと同じ印象を持ちます。どうも、身の回りの当てはまる例から判断してしまうことがあるようです。

サロウェイはエルンストとアングストが取りあげた研究をふたたび検討し、別の結論、それも自分の仮説を裏づけるような結論を導きました。しかし、ハリスは、この再分析は説得力に欠けているように思っています。サロウェイは、エルンストとアングストが大がかりな研究を行なったことや、そこでは注目すべき作用は何も見つからなかったことにはいっさい触れていないということを指摘しています。とりわけ彼らは第一子と第二子以降での意思疎通性に違いを見いだしてはいなかったことには触れていないとも言います。

出生順位による作用はちらっとは目に入りますが、目を凝らして見ると見えなくなる、そんなものであるとハリスは言うのです。その作用が何度となく結果として現われるのは、たんに人々がそれを求めつづけ、その結果が現われるまでデータを分析、再分析しつづけたからにすぎないというのです。出生順位の作用は、最近の大規模な研究よりも、古く測定数の少ない研究にしばしば出現しますが、最も頻出するのは、被験者の親やきょうだいが被験者の性格を評価する場合だと言います。

親の愛情も関心も均等に配分されるものではありません。サロウェイはその点では正しかったかもしれません。彼の本では、二人の子どもをかかえる母親の三分の二は、一方の子どもを偏愛している、特に目にかけていることを研究者に対して認めているという研究結果が紹介されています。ところが彼は、これら偏愛する母親の大多数がより関心をいだき、より愛情をもって接しているのが、下の子であると言っていることについては触れていないようです。この結果は後続する同様の研究でも裏付けられました。その研究ではははおやと父親の双方が面接を受けていますが、そのおよそ半数が一方の子により愛情を注いでいることを認めています。そのうち、母親の87パーセントと父親の85パーセントが下の子にとりわけ関心をいだいていたそうです。

信奉の復活

エルンストとアングストは、研究結果をまとめ、「出生順位は性格に永続的な影響は与えない」という結果を見つけたのです。それは、過半数の研究では有意な影響は認められなかったからです。なんらかの影響が認められても、それは被験者を小グループに分けた場合にのみ成立するもので、たとえば、女子には差があっても男子には差がないとか、小家族では差があっても大家族では差がないとかで、そのパターンにはなんら規則性はなかったのです。

何も見落としていないことを確認する意味で、エルンストとアングストは自分たちでも研究を実施しました。社会科学の研究としてはそれは壮大なものでした。彼らはチューリッヒ在住の7582名の大学生もしくは同年代の人に性格テストを行ないました。その中で、12にわたる異なる性格の強さを測定しました。その12の性格とは社交性、外向性、攻撃性、興奮性、不安傾向、神経質傾向、抑鬱性、抑制性、冷静さ、男性度、支配性、そして意思疎通性でした。

その結果は家族環境の影響力を信じる者にとっては何のなぐさめにもならなかったとハリスは評しています。二人きょうだいの被験者ではいずれの性格の強さにおいても、第一子と第二子の間には有意な差は認められませんでした。きょうだいが三人以上となると、わずかな差が見られた程度だったそうです。末子の男性度が若干低いというようなものでしたが、それはおそらく偶然によるものと考えられると言います。それは、測定される因子が多ければ、偶然に有意な差が生じることもあるからです。

エルンストとアングストは自分たちの研究結果を次のようにまとめました。

「たいへん深くかかわっているとされる環境因子は」すなわち出生順位は、「こうして性格や行動を予測するものにはなりえないことが明らかとなった。これにより、力学的心理学におけるわれわれの見解のほとんどが見なおしを迫られることになるだろう」

ところが、出生順位作用への信奉はそう簡単にはつぶされませんでした。「まるで起きあがりこぼしのように、打たれても打たれても起きあがってくる。」とハリスは言います。この信奉の復活を目指した多くの試みの中でもっとも注目をあびたのが、科学史研究家のフランク・サロウェイだったそうですである。サロウェイは自著『反逆者に生まれて』の中で、一般的に科学、宗教および政治思想において革新的な内容を支持するのは第二子以降で、それに抵抗を示すのが第一子であると主張しています。それは第二子以降には彼が「経験への疎通性」と呼ぶ特性が強いからだというのです。見たところ、革新的な思想は必ずしも第二子以降によって生み出されているわけではありません。ガリレオも、ニュートンも、アインシュタインも、ルターも、フロイトも、毛沢東も皆第一子だとハリスは言います。ところが、他者の斬新な考え方を受け入れるとなると、サロウェイの著書に掲載されているデータを見るかぎり、第一子は自ら極度に消極的となるようです。サロウェイによると、第一子は幼少の頃から現状にどっぷりつかることを覚えてしまうと言います。親とうまくいかないなど、サロウェイが列挙するその他の理由がないかぎり、第一子は反逆しようなどとはまるで思わないことになります。

第○○子

長い年月の間に出生順位に関するデータが次から次へと収集され、そのほとんどが性格テストの結果という形式をとっていました。数千にも及ぶ被験者が、まずページ上部に自分が育った家庭での自分の位置を記入し、その下に、才能に自信があるか、気持ちを表現するのは苦手か、決断が嫌いか、など該当するものに印をつけます。数百人もの研究者たちがこれらの用紙を収集し、そのデータを分析しました。残念ながら、この大事業は時間と紙の無駄遣いだったとハリスは言います。1990年、きょうだい関係の第一人者であるジュディー・ダンと行動遺伝学の第一人者であるロバート・プロミンが出生順位のデータをくまなく、そして、おそらくは切望しながら検証しました。そして出した結論が次のようなものでした。

「親がそれぞれの子どもに対してそれぞれ別の接し方をするという議論において、真っ先に思いつくのが子どもたちの出生順位だ。親は故意に第一子に対して、それ以降の子どもたちとは違った扱い方をすると考えられることが多い。…ここが肝心だが、実はそのような違いはこの問題とは関係ない。なぜなら一般の人々における性格や精神病理の違い、すなわちわれわれが説明しようとしている大人になってからの性格的な違いと、個人の出生順位との関連は明確になっていないからだ。これは、人々に広まり支持されている考え方の多くと反するものであるが、数多くの研究をくまなく検証した研究者たちの判断によると、出生順位はきようだい間の違いの中では些細な役割しか演じていないという。…出生順位に基づく体系的な性格上の違いが認められないのであれば、出生順位によって親の行動が異なることが、子どもの成長過程に重大な影響を及ぼすとは考えられない。」

ダンとプロミンは「数多くの研究をくまなく検証した研究者」について言及しているそうです。まず挙げられるのが粘り強いスイス人研究者であるセシル・エルンストとジュール・アングストだそうです。

エルンストとアングストは莫大な労力を費やし、出生順位に関する調査全体を見なおしたそうですが、その中で彼らは世界中で1946年から1980年の間に発表された性格と出生順位に関する研究のうち、入手できたものすべてを考察したそうです。データの中には被験者の行動を直接観察したものもあれば、親やきょうだい、教師などによる評価、さらには多彩な性格テストの結果も含まれていたそうです。これらの結果を収集することで、エルンストとアングストは「性格は出生順位によって違い、第一子的性格というものがある」という仮説を立証できると期待していたのです。

ところが、彼らはそれを立証しませんでした。エルンストとアングストはまず出生順位の影響が明らかにされていると言われる研究のほとんどに、修正することもできないような欠陥を見つけたのでした。その多くは研究者たちが、家族の大きさと社会経済的地位の違いを考慮し忘れていたことにありました。これら自身が相関関係にあることから、正確な結果が得られなくなるのです。エルンストとアングストはかかる欠陥をかかえる研究を排除し、残る研究結果をまとめ、「出生順位は性格に永続的な影響は与えない」という結果を見つけたのです。

出生順位

親が子ども一人一人に対して違った振る舞い方をするその原囚として考えられ、しかも子どもの生まれつきの特徴では説明できないことが一つあるとハリスは言います。それは、出生順位だと言うのです。第一子も第二子もどの遺伝子を受け継ぐかは当たりくじをひくようなもので、その確率は両者とも同じです。しかし彼らは産声をあけた途端、大きく異なる徴環境に身をおくことになります。家庭ではそれそれが違う経験をすることになり、しかも何を経験するかはどちらが先に生まれたかである程度正確に予測することができると言います。第一子は少なくとも一年間は親を独占できますが、ある日突然その地位を追われ、ライバルと競合する羽目になります。一方第二子は生まれたときから競争を勝ち抜くことが要求されます。第一子は不安で経験のない親に育てられますが、第二子は何をすべきかを熟知した、もしくはそう思っている親に育てられます。親は第一子にはより多くの責任と責めを負わせますが、自主性はあまり認めません。

もし子どもの性格が親の接し方に規定され、さらにもし親が第一子に対して弟妹とは別の接し方をするのであれば、どの順位で生まれたかが子どもの性格に痕跡を、しかも成長後にも見られるような痕跡を残すはずです。その痕跡を出生順位による作用と呼んでいるそうです。これは大衆向けの心理学本の人気テーマだそうです。次に書かれた文章は「機能不全家族」の概念を提唱したことで知られるジョン・ブラッドショーが第一子、第二子、そして第三子の性格特性の違いを説明したものです。

「第一子は決断の下し方や価値観が父親とまったく同じか逆かのいずれかである。…彼らは他人志向で、社会意識が強い。…第一子は自尊心を高めることが苦手な場合が多い。…

第二子は自分のいる体系の中で感情を維持することを優先させる傾向がある。…彼らは「裏の策略」を速やかに察知するが、自分がどう思うかをわかりやすく表現することができない。そのために第二子はナイーブで当惑しているように見える。第三子は自分のいる体系の中でも人間関係を優先させる。あまりかかわっていないようで、実際は深くかかわっている。矛盾する思いをいだくことが多く、なかなか決断を下せないところがある。」

私にはきょうだいが3人いますが、まさに彼のいうような特性を持っている気がします。しかし、研究中心の心理学者を悩ませるのは、このような発言はそれを実証するものがなければ口にできないということだとハリスは言います。概して第一子は第二子や第三子よりも自尊心の問題をかかえていることが多いということや、第三子は上のきょうだいよりも矛盾する思いに悩まされることが多いことを彼らは示さなければならないのです。性格テストの結果がその目的をかなえてくれそうですが、そのためには第一子、第二子、そして第三子の答えに系統的な違いが見られなければならないというのです。

50年以上もの間、あらゆる分野の研究中心の心理学者たちは系統的な違い、すなわち出生順位が性格に影響を及ぼしているという紛れもない証拠を求めてきました。行動遺伝学者も社会化研究者たちもそれを待ち望んでいました。それは育ちの影響力を信じている行動遺伝学者にとっては、自分たちの仮説と矛盾する結果が出たことを説明してくれるものとなるからです。社会化研究者にとっては、間違いなく有益になるのです。それによって家庭内の出来事が一生消えることのない重大な影響を及ぼすことが証明できるからです。

二つの選択肢

家庭も親もなんら影響を及ぼさないのか、それとも唯一影響を及ぼすものは家族内でも子どもによってそれぞれ異なると考えるのかという最後の判断を、マコビーとマーティンは読者に委ねたのです。一つ目の選択肢は子育て神話が間違っていることを意味します。二つ目の選択肢は子育て神話を救う唯一の命綱となります。一つ目の選択肢を選んだ人は誰一人いなかったそうです。発達心理学者の中でも、この分野で何が起きておるのかを自分とかかわりのあるわずかな部分だけでとらえるのではなく、分野全体の問題として注目していた学者は、マコビーとマーティンの提供した二つ目の選択肢にはせ参じたそうです。他の学者たちは天変地異の警告を無視して、ひたすら自分の仕事に精を出したのです。

マコビーとマーティンは「親の姿勢の中で何が効果的に作用するかは同じ家族内でも子どもによって大きく異なる」を二つ目の選択肢にしています。それはすなわち、親も家庭も大切であることに変わりはありませんが、実際には子どもはそれぞれ同じ家庭の中でも別々の環境に身をおいていることを意味しています。このような見地に立つ発達心理学者はこれを「家族内における構造的差異」と呼び、「同じ家族に育つ子どもたちが共有しない経験」を意味する言葉として用いています。たとえば、親がある子どもだけを他の子どもよりもかわいがる場合があります。かわいがられた子どもは情愛溢れる親に育てられることになりますが、他の子どもたちは冷淡にもしくは拒絶されながら育てられることになります。また親が一方には厳しく、他方には甘い場合もあります。一方を「運動選手」と、他方を「天才」と決めつける親もいるでしょう。家族内における構造的差異は子どもたち同士のかかわりの中から生ずることもあります。一人が支配的な親分肌の姉御になれば、他方はやっかい者の弟分になります。家庭は均質な環境ではなく、小さな微環境の集まりなのだというのです。

これは、もっともな考え方です。かかる微環境が存在することも、家族内の子どもがそれぞれ同じ家庭内で異なる経験をし、家族の他のメンバーと異なる関係を築き上げることも当然のことです。周知のことではありますが、仮に親が子どもたちを皆同じように扱おうと努力したとしても、実際にはそうはいきません。お母さんは自分のことを一番愛してくれた、だから立派な人間になることができた、誰もがそう思います。

ところが、難所はすぐに訪れます。この道は囚果の堂々巡りへとまっすぐにつながっていたのです。お母さんが自分のことを一番に愛してくれなかったのは、もともと自分が優れていたからだ、などとなぜわかるのでしょうか。自分が賢くなったのは、親が自分を「天才」と決めつけたからなのでしょうか、それとも自分が賢かったから「天才」と決めつけられるようになったのでしょうか。親の子どもへの接し方が違うとすれば、それは子どもたちの違いへの反応なのでしょうか、それとも親の接し方が子どもたちの違いを生んでいるのでしょうか。

この堂々巡りから抜け出すには親は子どもたちがすでにもち合わせている生まれつきの特徴に反応しているだけではない、ということを示さなければなりません。親が二人の子どもに対してなぜ違った行動をとるのか、二人の遺伝的な違いだけでは説明できないその理由を見つけ出さなければならないのです。さらにこれが難しいところですが、こうした親の接し方の違いが実際に子どもたちに影響を与えていることを示す証拠が必要となります。子から親への影響ではなく、親から子への影響を示すたしかな証拠が必要なのです。

わずかな影響

親はなんら影響を及ぼさないのか、それとも親は子ども一人一人に対して異なる影響を及ぼすのか、マコビーとマーティンが世間に与えた選択肢はこの二つだけだったのです。社会化研究者はそのいずれも好意的には受けとめませんでした。それはまるで疫学者に対し、ブロッコリも運動も健康にはなんら効果がない、もしくはそれらによって健康になる人もいれば体調を崩す人でもいる、と公言するようなものでした。確かにプロッコリも運動もそれによる効果は人によって違うかもしれませんが、少なくとも疫学では野菜を食べ、定期的に運動することはほとんどの人にとって有益であると全体的には考えられています。マコビーとマーティンによると、社会化研究ではそんな全体的な傾向があるのかないのかすら明確になってはいないというのです。

このマコビーとマーティンの言葉は核心的といえるほど重大な意味をもっていますので、ハリスは、さらに掘り下げて考察しています。「これらの結果」とは、社会化研究によって明らかにされたゆるやかで、気まぐれな傾向のことであり、行動遺伝学研究によって明らかにされた一緒に育てられたきょうだい間の予想外に低い相関関係のことです。「親が子どもに与える物質的な環境も、家族内の子ども全員にとって本質的に同じである親の特徴も、わずかな影響しか及ぼさないことを強く示唆している」。という内容を違う言い方をすると、今まで子どもたちに重大な影響を及ぼすと考えられてきたもののほとんどは結局重大な影響を及ぼしていないということを意味しているのです。親が仕事をしようがしまいが、本を読もうが読むまいが、お酒を飲もうが飲むまいが、喧嘩をしようがしまいが、結婚生活を続けようが別れようが、それらは「家族内の子どもたち全員にとって本質的に同じ」であり、それゆえにこれらすべては子どもたちに「わずかな影響しか及ぼさない」と考えられるのです。

確かにこの結論は、当時は随分と反論されたでしょうね。長い間、親の子どもへの影響が大きい、また、子どもが悪いことをすると親のせいであると思われたことに対する反論ですから。保育園に我が子を入所させている親に対して、母親が働いているので、子どもは悪くなるといった根拠のない批判がよくされていました。確かにその影響が大きいのであれば、同じ環境で育てられたきょうだいは全員悪くなるはずです。

さらに、同様に家庭の物理的な環境に関しても、それがアパートだろうが、農家だろうが、広々としていようが、こみ合っていようが、散らかっていようが、きれいに整頓されていようが、画材道具が多くて豆腐をよく食べようが、車のパーツだらけで高カロリー菓子をよく食べようが、これらはすべて「家族内の子どもたち全員にとって本質的に同じ」であり、それゆえに、これらはすべて子どもたちに「わずかな影響しか及ぼさない」と考えられるのだというのです。

マコビーとマーティンはいとも簡単に、何十年も社会化研究者たちが生計を立ててきた事柄をほとんど否定してしまったのです。さらに彼らはわずかに残る部分でさえ否定しようとしましたが、その最後の判断を読者に委ねたのです。