信頼の文化

教員が十分な成果を上げられない場合、それは動機の欠如よりも知識の欠如によることがはるかに多いと同時に、オンタリオ州政府は、前政府が導入した試験制度を廃止あるいは弱体化しようとはしませんでした。政府は学校や人々に対して、州の試験によって定められた結果が重要であるというメッセージを一貫して伝えたのです。

シンガポールでは、行政と職業的な説明責任が組み合わさっているそうです。教員、校長、行政職員、生徒の全てが、一生懸命に取り組む強い動機を持っているのです。政府は、毎年の目標を定め、目標を達成するために支援し、そのうえで目標が達成されたかどうかを評価します。生徒の成績に関するデータも含まれますが、学校や地域社会に対する教員の貢献度、何人かの指導主事による判断等、その他の様々な尺度も含まれます。報酬や表彰制度には、名誉と給与賞与を含みます。教員一人ひとりへの評価は、学校エクセレンスモデルの中でおこなわれるそうです。

フィンランドの学校制度は信頼の文化によるものであるため、フィンランドから真の教訓を引き出すことは不可能だという意見があるそうです。そのような文化は、容易には伝わらないものだと彼らは言うからです。しかし、教員とより広い社会との関係では、信頼は、少なくともそれが前提条件であるのと同じくらい政策決定の結果であると主張することもできるとシュライヒャーは考えています。

フィンランドで教員が歴史的に享受してきた社会的地位を考えると、改革を推進するための強固な基盤があったとシュライヒャーは言います。フィンランドのリーダーは、教員を信頼することで彼らに権限を与え、彼らは生産性とイノベーティブな学習環境の好循環を生み出します。選挙のサイクルや政権を超えても取り組みが持続する政策の一貫性が、フィンランドの教員にリーダーへの信頼を与えているようです。教員はリーダーの誠実さを信頼し、彼らが主張したことを実行する能力に期待しているのです。

これは盲目的な信頼ではありません。実際、フィンランドにおける職業的な説明責任へのプレッシャーは強いそうです。フィンランドの学校間の生徒の成績変動がわずか5%にすぎないという事実は、追加の支援が必要なときに教育制度が介入できることを示しています。フィンランドを「標準テストがない楽園」と考える人がいる一方で、PISA2015における生徒からの回答は、そのイメージが間違っていることを示しています。フィンランドの学校で標準テストが実施される頻度は、OECD平均に近いそうです。違いは、テストがシステム内の障害や成果の低さを文書化するためではなく、生徒の学習を向上し、授業を改善し、学校がより効果的に機能するように用いられることなのです。標準テストをこう考えるといいのですね。テストが嫌だとか、テストを受けるのに緊張するのは、テストの結果について、多くは、成果の低さを文書化するために用いられるどころか、生徒個人の勉強の成果を評価するために行なわれ、それが生徒の学習向上や授業の改善に結び付いていない気がします。

信頼の文化” への8件のコメント

  1. シンガポールの評価制度は、乳幼児教育においてどのように実施されているのか気になりました。
    フィンランドの信頼は、乳幼児教育においても、系統性を持って同じように社会的な地位が保障されているのか気になりました。

    評価しづらい、乳幼児期の教育とその成果であります。その評価制度が形になっていくと、信頼も築きやすくなるのでしょうか…。

  2. 他者に権限を与える前提として、どれくらいの信頼が必要なのでしょうか。リーダーが求める質の高い実践をしていると判断してからでしょうか。それとも、何も実績も挙げていない人や仕事に関心がない人にも権限を与えるべきでしょうか。それは、人がどのように成長していくのか、そのプロセスを理解していなくては判断できないようにも感じます。「フィンランドのリーダーは、教員を信頼することで彼らに権限を与え、彼らは生産性とイノベーティブな学習環境の好循環を生み出します」とあり、権限を与えるから信頼するのではなく、信頼することで権限を与えるという視点が重要な気がしました。人によって異なるプロセスを見極め、適当な権限を適所に振り分けられた組織はどのような成長を遂げていくのか気になります。また、定期的に行われるテストが「生徒個人の勉強の成果を評価するために行なわれ、それが生徒の学習向上や授業の改善に結び付いていない気がします」という言葉を聞いて、非常に共感します。日本ではよく「補習」という形をとりますが、その効果は一時的であり、その後の学びや授業スタイルはこれまで通りといった感じですね。もっと、その子にあった学習スタイルを構築していく動きが必要なのかもしれません。

  3. 目的と手段を間違えてはいけないということを改めて感じるような内容でした。「政府は、毎年の目標を定め、目標を達成するために支援し、そのうえで目標が達成されたかどうかを評価します」というのも、目標の内容次第をいかに実りあるものにするかということが重要になってきますね。本質的な目標が設定されているからこそ効果を出しているのでしょうね。また「テストがシステム内の障害や成果の低さを文書化するためではなく、生徒の学習を向上し、授業を改善し、学校がより効果的に機能するように用いられることなのです」ということからもテストが生徒の成績を向上させるためのものになっているかということをちゃんと考えなければいけないということを感じさせます。どうも私が受けてきたテストもそういったものではなく、やってればいいみたいなもので、本質的な成績を向上させるようなものではなかったように思います。先生も出していないと何だか周りから言われるのかなと思ってみたり。

  4. テストで成績を付けられる子どもたち。今も昔も変わりません。テストや審査、残念ながらあまり良い想い出はないので、それらがあった時代に戻りたいとは少しも思いません。子どもの頃は良かったということを耳にすることがあります。本当かなと私は思い続けて今に至っています。テストと審査がない現在は極楽ですね。自分が学生だった頃もわが子の小中高においても、なぜ、こうした学習をするのか、という説明が私の頭の中には残っていません。少なくとも、テストをやった後、何か、私たち学生の動機づけとなるような改変が行われたか?どうもそうした記憶はありません。わが子もテストをやっては点数がつけられ、学期末には成績表が配布され、先生からの個別の所見が記録されておしまい。今回のテストの結果、この分野は今後このように改善に取り組む、などというメッセージを目にしたことがありません。これは極めて残念なことのように思えるのですが。

  5. 自分たちもそうであったように、今の子どもたちもまた、テストというもので評価をされ、その優劣が全てであるかのような教育であったように思います。ですが、本質というのはそうではなく〝生徒の学習を向上し、授業を改善し、学校がより効果的に機能するように用いられる〟ことがテストというものであるんですね。ということは、自分たちが受けてきたテストはなんだったのか。なんのための勉強なのか。自分たちはそうではなかったですが、その反省を生かして今の子どもたちに反映させていくことが必要ですね。テストがあることで、受ける側も出す側も相互に高まり合うことがこれからのテストであり、楽しめるテストとなることを感じました。

  6.  第二段落にある、一生懸命に取り組む強い動機なら私もシンガポールに負けていません。しかし目標の明確さや結果を出すという点では負けていると思います。そもそも目標や結果を明確にしていません。事業計画や保育目標はありますが、数値化できるものにはなっていません。到達目標は避けるべきとも言われます。しかしPISAでは順位までつけられ、ビジネスでは他国としのぎを削る競争社会です。ビジネスの為に教育がある訳ではありませんが、幸福度調査の低迷はいただけません。最近、私は目標、結果という言葉に少し敏感です。結果にこだわりたいお年頃です。

  7. 信頼、これはリーダーにとっても現場にとっても、つまりする側にとってもされる側にとっても、とても難しいことばだな、と感じます。たしかにできる人がすべてやってしまえば確実だし、効率もいいでしょう。しかし部下を、後輩を信頼し任せなければ本当の意味での組織の成長には繋がりません。それこそ職員のことも見守る目というのが大事になってくるわけです。さらにいえば、信頼された側もそれに答えようと普段以上の力を出そうと努力します。たしかに能力から明らかに越えたことを任せてはいけませんが、見守る保育で重要な持っている能力の120%はここでも出てきそうですね。

  8. 信頼の文化、何ともインパクトのある言葉です。それが好循環しているのがフィンランド、という印象を受けます。そういう土壌、風土の中で行われる教育、教育者のモチベーションや取り組み一つひとつに緊張感のような、緊迫感をもって行う必要があるような雰囲気を想像します。デモシカ先生という言葉に当てはまるような教員などなく、皆が専門としての自覚をもって仕事をしている印象です。

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