テスト

保護者や教育者は、テストが生徒の学習を改善せず、ただ不安にさせるだけだと主張することがあります。しかしPISAの分析によると、校長が回答したテストの頻度は、生徒が回答したテストへの不安の度合いと関係がないようです。実際、OECD加盟国で平均すると、月に1回の標準テストあるいは教員が開発したテストを受けなければならない学校に通う生徒と、評価の頻度が少ない学校に通う生徒のテストに対する不安は、同程度のようです。生徒の成績と学校や国が生徒を評価する頻度の関係もまた弱いようです。

対照的にデータが示すのは、生徒が評価される頻度よりも、学校での経験のほうが不安を感じる可能性と強く関係することです。例えばPISAによると、教員が生徒をより多く支援したり、生徒のニーズに合った授業をしたときに、生徒の不安は少なくなります。生徒は、教員が彼らを不公正に扱っていると感じた時、例えば他の生徒よりも難しい生徒だと評価したときや、教員が彼らを実際よりも賢くないとみなしているとの印象を持ったときに、より多くの不安を感じるようです。

では、カリキュラム設計のためのテストは、どう考えたらいいでしょうか?教育の規準化やテストは、教育システムの目標ではなく始まりであるとシュライヒャーは言います。鍵となるのは、これらの規準やテトがカリキュラムや、教材や、最終的な教育実践にどのように反映されるかであるようです。しかし、カリキュラムや教材を開発し、それらを教育目標や規準、教員の育成やテストに関連づけることに注目し、リソースを投入する国が少ないことに驚かされると言います。

一つの国の中でも、何百万人もの生徒が何を学ぶかを決定する学者や官僚は僅かにすぎません。彼らは、生徒が知っておくべきこと、未来の世界で成功するためにできるようになるべきことよりも、規律の範囲や完璧さを守ろうとすることがあります。PISA2003の開発のために各国の数学のカリキュラムを研究したとき、シュライヒャーは、なぜ三角法や微分積分学のようなものを教えることが重要なのかを自間したそうです。その答えは、数学の内部構造にも、生徒にとって最も意味のある学習段階にも、今日の世界で数学が活用される方法にもみいだせなかったそうです。その答えは、何世代も前に土地の広さを測定したり、デジタル化以降に高度な計算を実行するなど、数学を用いてきた方法の中にあったのです。

生徒の学習時間は限られているにもかかわらず、私たちがもはや適切でないかもしれない教育内容を諦めきれないために、若者は過去にとらわれの身となり、学校はこの世界で成功するために必要な価値ある知識やスキルや人間性を育てる機会を失っているとシュライヒャーは思っています。

1990年代の終わり、日本はより深く、学際的な学びの時間を作り出すために学習指導要領の内容のほぼ3分の1を減らし、この状況に対応しました。教員はこの「ゆとり教育」という目標に賛成していましたが、政府はその効果が出る前に学力低下を懸念して、その改革を推進することをあきらめ、元に戻ってしまいました。その経緯をシュライヒャーはどう見ているのでしょうか?