資格取得

では、資格取得のためのテストはどう考えたらいいでしょうか?

テストのあと、一部の国では新聞が問題を公表し、教育省は最高得点の回答例を発表し、生徒、保護者、教員の全員が、質の高い仕事とみなされるものを学び、生徒は自身の成果と標準的な成果を比較できます。このようなテストは国家の資格制度とつながっていることが多いです。つまり、このような制度を備えている国では、人々は次の教育段階に進んだり、特別な領域でキャリアを始めたりするためには、自身に資格があることを示す必要があります。これらの制度では、身につけた知識とそれを使って働くために必要なパフォーマンスの両方の観点から、特定の資格を得るために何が必要であるかを誰もが理解しています。

スウェーデンおよび北欧の多くの国では、資格制度はモジュール式であり、資格取得が遅すぎることがないように設計されているそうです。そのような制度では、たとえテストに失敗しても、まだ成功していないというだけなのです。おそらく、何を学ぶか、どのように学ぶか、どこで学ぶか、いつ学ぶかといった点において、スウェーデンの成人がOECD加盟国の中でも最も深く考える傾向があることは偶然ではないとシュライヒャーは言います。そして、これは加盟国の中で、生涯学習プログラムへの参加率が公式にも非公式にも最も高いことを反映しています。スウェーデンの成人は、読解力や数的思考力においても世界最高水準なのです。

このような資格制度の国では、資格取得が遅すぎることはなく、テストはいつでも受検可能であり、その水準は決して下げられたり、撤回されたりしません。生徒は、資格取得のためには難度が高いコースを選び、一生懸命に勉強しなければならないことを知っています。生徒は、必要最低限の時間を過ごすだけでは、次の段階には進めません。これは生徒にとって大きなリスクがある制度ですが、通常、教員にはほとんど、あるいはまったくリスクはありません。この考え方を、保育士とか幼稚園共有の資格を取得することに当てはめるとどうあるでしょうか?

通常、テストは外部の人間によって採点されるので、教員、生徒、保護者は全員が同じ目標に向かう同志となります。ある程度の水準を維持したい教員と、子どもの最善の未来を望む保護者は対照的ですが、保護者が学校管理職に成績の変更を要求することはほとんどありません。保護者と生徒は、教員も学校管理職も試験の結果を変えられないことを知っています。したがって、結果を改善する唯一の方法は、生徒が学ぶことなのです。

入試選抜のような重要なテストは、本来の学習を犠牲にしてテスト対策に集中させたり、富裕層向けの巨大な教育産業を発展させ、不正行為を誘発することがあるとシュライヒャーは言います。こうした間題は実際に起こっているようですが、軽減可能だと彼は言います。

保護者や教育者は、テストが生徒の学習を改善せず、ただ不安にさせるだけだと主張することもあります。特に、生徒の将来を決定づけるような特定の教育課程や大学入学のための規準化されたテストは、生徒の不安をあおり、自信を傷つけるかもしれないと言うのです。それに対してPISAは、どのようなデータを示しているでしょうか?

資格取得” への6件のコメント

  1. 日本の入試は、ある一部の特殊能力を持っている学生以外にとって、艱難辛苦、そのもののでしょう。決して楽しそうではありません。楽しくもない受験勉強を、来年もう1年がんばれ、などとは言えませんね。日本の入試とは一体何のためにあるのだろうか。スウェーデンのことが紹介されていました。「たとえテストに失敗しても、まだ成功していないというだけ」。その通りでしょう。「何を学ぶか、どのように学ぶか、どこで学ぶか、いつ学ぶか」。こういうことを考える訓練が必要です。そう、訓練しなければその問題意識を持つことはできません。入試に合格しなければ先に進めない。本当は合格しなくても先に進めるはずですが、当事者たちがそのことに気づくまでにはどれだけの時間がかかるか、あるいは気づかないままか。「入試選抜のような重要なテストは、本来の学習を犠牲にしてテスト対策に集中させたり、富裕層向けの巨大な教育産業を発展させ、不正行為を誘発することがある」と私も思っています。「テスト対策」と「不正行為」。「テスト」「入試」って何でしょうか?別のやり方はないのでしょうか?

  2. 最近、障害について学んでいます。そこでは医学モデル、社会モデルという話が頻繁に用いられます。医学モデルとは、障害を持つ人を健常者に近づけること、社会モデルは、障害は社会と当事者の間に存在するものであり、社会をどんな人でも受け入れられるように変えることです。そうした話の中には、「努力では改善できないことがある」という話も大きく取り上げられています。一般的な成功を収めている人のそれも、そな人の努力などではなく、生まれ持った健常な体と周囲の恵まれた環境によって成されたものであると…。

    「誰でも努力すれば一定水準以上になれる…」ということが最近のブログ内で掲げられており、2つの話題が私の中で渦巻いていたのですが、ここへきてすっきりしました。

    全ての人が、その人に最適な、最善の努力ができる社会。ということだと考えました。
    医学モデルも否定しない。健常者を目指すための努力ではなく、何かのスキルを身につける為に努力をすること。それは、障害の有無に関わらない。そして、社会モデルとは皆が必要な支援を受けられることで、最善の努力を尽くせるようになること。
    社会経済的影響もある意味の障害であり、そうした様々な障壁に関わらず、皆が必要な支援を受けて、その人なりに志すものを持ち、それを目指して努力できること。

    努力はやらされるものではなく、したいと思うものであるのでしょう。

  3. 確かに、学校のテストと資格取得のテストとでは毛色が変わってくるかもしれませんね。どちらにせよ、「何を学ぶか、どのように学ぶか、どこで学ぶか、いつ学ぶか」を生徒自身で考えられる猶予やサポートは明確にしておくべき内容であることを理解しました。日本でも、テストの結果が通信簿に大きく左右されていたと思います。まさに、「保護者や教育者は、テストが生徒の学習を改善せず、ただ不安にさせるだけ」が横行してしまった結果は、そのような背景が関連していたことを感じます。しかし、今後は評価の内容が変容してくるというのをこれまでに学びました。「健康で思慮深く思いやりがあり、他者と関わって生きる幸せな子ども」「他者と協力し創造的で自分の能力を存分に発揮し、責任感溢れる市民」となれるようなテストに一刻も早くなることを願っています。

  4. 日本の入試制度にいかに問題があるのかということが世界と比べることでよく分かります。「入試選抜のような重要なテストは、本来の学習を犠牲にしてテスト対策に集中させたり、富裕層向けの巨大な教育産業を発展させ、不正行為を誘発することがあるとシュライヒャーは言います」ということからも本来の学びとはかけ離れたものであるということを感じざるを得ません。日本にいて、当たり前のテスト、入試に慣れているとなかなかそれが本来の学びであるという思考にはならないのかもしれませんね。我々の時代であればセンター試験が全てで、そこでつまづいてしまうと今までが全て台無しになるというような恐怖感があったように思います。学ぶことは常にできる。という感覚にはなかなかなりにくい制度なのかなと思ってしまいます。どのような子どもにしたいのか、教育とはどこへ向かっていくものなのかが明確になれば、そういったことも改善するのでしょうか。

  5. 今回の内容を読んでいて気がついたのですが、学生時代に机に向かってするのが「勉強」だという刷り込みのようなものは、テストの存在があるから生まれるものではないかと思いました。そして、それは同時に楽しくない。だから、勉強=楽しくないという刷り込みが多くの日本人にあるのではないかと考えたところでした。教育の目標は「他人と協力できる責任感溢れる市民」を育てることだと思いますので、それに沿ったテストや試験に変わっていくことになるのでしょう。センター試験が共通テストとなったのもそのような流れなんでしょうか。

  6. 保育士資格の試験勉強をしていた知人のテキストをのぞかせてもらうと、なるほど学生時代を思い出す内容で、ふとあの頃から何が変わったのだろう、そして、あの頃の学びは今の何になっているのだろう、と思いが湧いてきてしまいました。学校で習ったことの大半よりも社会に出てからの大半の方が生きることを支持してくれているような気がして、しかしながら、その生きること、というのも、より経済的な豊かさを求めるなら学歴が結局は必要、という意見もあったりするから面白いと思います。日本の教育のシステム全体が変わらなければ、この傾向の変化もまた生まれにくいのかもわからないと思えてきてしまいます。

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