探索して学ぶ

アリソン・ゴプニック達がずっと考え続けてきたように、子どもの方が大学生よりも新製品の取り扱いには優れているということが起こりつつあるようです。コンピュータの新しいプログラムについても、デジタル機器の新機能についても、明らかに子どもや若い世代の方が早く使いこなせるようになるのは、私達が既に実感していることです。レベル2の子どもは創造的な方法で新しい組み合わせを発見しようとします。例えばある4歳の女の子が自分のことを「キノコ姫」と呼んでいました。この子の母親はキノコを研究する菌学者だったのです。4歳の子はお姫さまという役を演じることを楽しみながら、そこにキノコ学者の母親の注意を引くという目的をうまく組み合わせて、創造的に解決したのです。

学校においても正解を教えたり段階的に丁寧に教えていったりするよりも、どんな解き方があるか探索して学ぶ方が子どもはより創造的になるというのです。組み立てて遊ぶおもちゃの場合も全く同じで、箱に書かれた手順通りに城や駅を作ってしまうとそれ以外の物を作ろうとする創造力が阻害されてしまいます。

これは学んだことを新たな事例に適応する、心理学用語では「転移」と呼ばれる間題解決にも繋がっていると言います。どのように「転移」を起こすかということは教育を考える上で永遠の課題だとキャシーは言います。子どもが同じ教室で同じ種類の問題を正解できたらそれでよいのかと言えば、誰もそんなことはないと言うでしょう。教育者が子どもに望むのは、学んだ知識を世の中で直面する課題に活用し、解決することです。キャシーは、分数を例にとって考えています。小学4年生で3/5+7/9のような分数の足し算を教わります。しかし全国テストの調査によると、多くの子どもが教室外では同じような分数計算を用いて現実の課題を解決できないことが明らかになっています。レストランの支払いを割り勘にするにも、居間に新しい椅子を置くためのスペースがあるか測定するのにも、分数は役に立つ知識です。なのに教室でやり方を教わっただけになってしまっているとキャシーは言うのです。

2006年10月10日の雑誌「タイム」でクラウディア・ワリスは強い危機感を抱いてこう書いているそうです。

「今のやり方に反発する教育者の間で交わされている暗い冗談がある。ワシントン・アービングの小説の主人公、アメリカ版「浦島太郎」のリップ・バン・ウィンクルが100年の眠りを経て21世紀に甦った。あまリにも変わってしまった世の中を見て彼は当惑した。男の人も女の人もせかせかと飛び歩き、耳に小さな装置をつけて話している。若者は家のソファーに座り、スクリーンを動きまわる小さなキャラクーを動かしている。老人は死と身体の障害を寄せつけず、胸にメトロノームをつけ、股関節は金属とプラスチックでできている。空港、病院、ショッピングモール、どこに行ってもリップは途方にくれた。しかし彼が最後に学校の教室に足を踏み入れた時、老人はここがどこなのかすぐに理解した。「学校だ」。彼は続けた。「まるで1906年に戻ってきたようだ。何もかも変わらない。いまだに黒板と言いながら緑なのか」。

この逸話を読んで、笑ってしまいますね。日本では、この記事から15年もたっているのに、現在でもまさに同じ状況です。

探索して学ぶ” への6件のコメント

  1. 学校や教育が変わらずとも、社会のその他の全てが変わっていくのだとしたら、もはや学校は何のために存在しているのだろう。
    ある環境の変化が起きた時に、ある種として生存率を高める為に「多様性」があるそうです。変化に対して柔軟でありたいと思います。
    日々変化する子どもたちの姿に対しても、柔軟に受容していきたいです。

  2. 「箱に書かれた手順通りに城や駅を作ってしまうとそれ以外の物を作ろうとする創造力が阻害されてしまいます」ということからは所ジョージさんを思い出しました。私の中では創造力の高い人の代表のような人なのですが、確かに、説明書は見ないという主義です笑。「教育者が子どもに望むのは、学んだ知識を世の中で直面する課題に活用し、解決することです」このような大局を見るというのか、そもそもを考えないのが日本の教育の問題でもありますね。まさに私たちの保育の中で、今どうではなく、将来のためにどうするべきかを考えてやっている訳ですが、保育に携わる人もこのことを忘れてはいけないなと思いました。子どもと関わる際に、そんなことに気をつけると、日々振り返りながら保育をしていけるのかなと思いました。「まるで1906年に戻ってきたようだ。何もかも変わらない。いまだに黒板と言いながら緑なのか」どの世界も教育というのはなかなか変わらないものなのでしょうか。教育だからこそ、慎重になるのも分かりますが、いいと思ったら、突き進む力も必要ですね。

  3. 「4歳の子はお姫さまという役を演じることを楽しみながら、そこにキノコ学者の母親の注意を引くという目的をうまく組み合わせて、創造的に解決した」とありましたが、子どもたちは本当に柔軟にある物と自分の需要とを結びつけていることがわかります。自分が遊びたい玩具で他児が遊んでいると、「貸して」ではなく、「わぁすごい。これはこうやって作ったの?」などと言いながら自然と自分もその玩具で遊べるように促しています。また、同時に友だちとも楽しく遊ぶことを自ら作り出しています。本当に感心します。そして、アメリカ版「浦島太郎」の話には笑ってしまいますね。日本の教育がいかに変化に対してかたくなであるのかが顕著に現れています。その背景には「変わらない勇気」みたいな美学があるのでしょうか。それとも単純なる怠慢なのでしょうか。

  4. 教育は国家百年の計、と言われますが、百年変わらないところが「学校」というのも、考えてみれば凄いことですね。確かに現在も「黒板」という名の緑板が教室という「教える部屋」にはおいてあります。私と息子の年齢差は40年。学んでいることをチラ見すると、私がかつて学んだこととほぼ一緒です。分数計算のことが紹介されていましたが、計算方法だけを教わりますね。学校を卒業すればほぼその方法を忘れてしまいますね。よほど算数数学が好きな大人でなければ、あれだけ練習したのに忘れますね。いずれにせよ、前例踏襲主義または思想変更主義教科書を使っている限り、教育はほぼ博物館の中の展示品が現在も生きて活躍している、といった感じですね。黒板も教室も指導も・・・内閣法制局の方針のままに名前も実態もそのまま。子どもたちの新型デバイスの操作の仕方に驚かされながら、一方で100年前。一体この現象は何なのでしょうか。

  5. 転移と呼ばれているものを期待して、自分は子どもにサッカーを習わせています。〝学んだ知識を世の中で直面する課題に活用し、解決すること〟とありますが、まさにその通りのことが息子に起こってほしいということを望んでいます。サッカーを通して生きる力を学んでほしい、そのための投資なら惜しまないと、同じようなことをほとんどの親は考えているのではないかと思います。そのために分数の例にあるようにどのようにすれば使えなくなるのか、逆に使うようになるにはどのようにすればいいのか、知りたくなりました。

  6. 浦島太郎もほっと一安心できる場所、学校。そうか浦島太郎の為に学校は変わらずにあるのか、何ともブラックなジョークでありながらある意味では笑えない冗談でもあると思えてきます。政治は経済、経済と言い続け、いつになっても教育に手がつきそうにないようにも思え、まだまだこの浦島太郎がほっとできる場所が継続されていきそうですが、それでも時代は進んでいくのだからこの共存というのは最早不思議と言えそうです。世の中には不思議なことはあまり深追いせずに不思議なままにしておくことも最善とされるようですが、この不思議も最大の不思議の一つと言えるように思えてきます。

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