努力を奨励

企業の世界ではかつて創造性やイノベーションに関わる仕事は社内の極秘組織が担当しました。別々の部署から集まった人達の小集団で新しいアイデアを出すというやり方が多かったのです。しかし今となっては、このようなやり方はレベル1のクリエイティブイノベーションと言わざるを得ないとキャシーは言うのです。心理学者のハワード・ガードナーは「もし創造性が組織のDNAとして浸透していないなら、新たに入社してくる次の世代に伝えてゆくことかできないだろう」と言っています。社内の独立した小集団が創造的な仕事を担うという分割統治による戦略は最早機能しないのです。スリーエムはこの点において優れた企業の一例とキャシーは言います。良いアイデアを出したものは誰であっても表彰され、何をすればよいかはっきり解らないことに創造力を発揮して立ち向かうことの大事さが企業文化として定着していると言います。

創造力を安心して発揮できる環境は努力を奨励する場だとキャシーは言います。最終的な成果物だけでなく、途中のプロセスで生み出された下書きや試作品についても目を向けます。何かを作り出すために必死になって取り組む姿を大いに称賛するのだというのです。グーグルやIDEO、アップルといった企業はそうしているそうです。従業員は色々なアイデアを試行錯誤しながら試していいのです。それが許されて初めて、イノベーションを受け入れる環境を従業員自らが作り出してゆくだろうというのです。

幼い子がクレヨンで描いた絵は滅茶苦茶ないたずら描きにしか見えません。4歳の子の描いた家族の絵には指も手も描かれていないことがよくあります。しかしよく観察していると、沢山の意図が込められた象徴表現であることが解ります。このことを見抜けずちゃんと形を書かせようとすると、創造性を殺してしまうことになるのです。教室でよく見られるように、きれいに切り取られ、描かれた紙製の林檎を既に描かれた木の上に貼りつけて、見栄えの美しい絵を作らせても真の創造性は全く育ちません。

コンピュータゲームが創造力の育成にとって弊害になるのは、誰かが作った創造物をただ消費するだけになってしまうからだとキャシーは言います。クリエイティブイノベーションは何気ないありふれたところから生まれるのです。子どもが暇で何もすることがなく、自分でその時間を埋めないといけなくなった時、創造力が動き出します。そんな時、引き出しの中にあるいはテーブルの上に、新品のマーカーをたまたま見つけてしまうと夢中になって創作の世界に入り込んでゆくでしょう。インターネットも使いようによっては自発的な探索の道具となり得ます。ある事実をきっかけに予想もしない別の事実へと飛躍して調べられるからです。ガレージバンドというコンピュータアプリを使えば、誰でも作曲家となりミュージシャンになれるのです。ミッチ・レズニックの開発した「スクラッチ」は、コンピュータプログラミングをしながら物語を作れるところが素晴らしいのです。今では世界150か国以上、700万の人々に使われているそうです。年に一回、世界同時に開催されるスクラッチデーで作品を共有するチャンスもあるそうです。

努力を奨励” への7件のコメント

  1. 「従業員は色々なアイデアを試行錯誤しながら試していいのです。それが許されて初めて、イノベーションを受け入れる環境を従業員自らが作り出してゆくだろうというのです」まさにこれは保育園というチーム、集団を良いものへと導いていく考え方でもあるように思います。結果ではなく、積極的に試そうとしたり、やってみようとしたりする姿が容認されていると、職員が様々なことを試し、新たな価値を生み出していけるように思います。子どもへの関わり、環境の構成の仕方、チームのあり方、様々な分野でおもしろい取り組みが生まれていきそうです。そのためには当然ではありますが、園の理念とズレていてはいけませんね。そのためには明確に方向性が示されていることが改めて重要であると感じます。話は変わりますが、スポイトを使った実験をした時のことです。スポイトの使用意図は、コーヒーフィルターに水滴を垂らすというものだったのですが、ある女の子が、台紙で使っていたコピー紙に水を垂らすと、水が弾いて、なんとも不思議な感じになるということを発見し、何度も繰り返し行っていました。私の娘を同じようなことをすることがあります。こちらの意図にそぐわないことは、決してダメな行為ではありませんね。そんな姿を改めて大切にしたいと、保育でも子育てでも思いました。

  2. 「創造力を安心して発揮できる環境は努力を奨励する場だ」子どもたちが常識に立ち向かい創造力を働かせている姿は「努力」する姿なんですね。それはクリエイターやアーティストが何かを創ることや、アスリートが何かに挑戦することと同様な姿なのだと思います。

    「プロセスで生み出された下書きや試作品についても目を向けます。何かを作り出すために必死になって取り組む姿を大いに称賛する」これは見守る保育の中でも、説かれていることですね。それは結果はどうでもよい、結果よりプロセスが重要だということではないのでしょう。プロセスを最大限尊重し保障することで、最高の結果を得られるのだという認識を職員とすり合わせていきたいです。そして、その時生まれる結果は、これまでに無い新しい価値を持つ結果なのでしょう。

    「子どもが暇で何もすることがなく、自分でその時間を埋めないといけなくなった時、創造力が動き出します」
    朝の会で、どうにか子どもを集め、座らせて話を聞かせようとしてしまっている先生の姿がありました。子どもたちはラグの上で立ったり寝転んだり、おしゃべりをしたりしています。その時の朝の会の内容が退屈で「暇」に感じたのでしょうか。臥龍塾の中でも、コンテンツで溢れている今、子どもたちの興味をひくのは難しさを増していると話がありました。その時に必要なのは、コンテンツの工夫だけでなく、「人間力」人としての魅力や面白さや、保育者と子どもと子ども同士の関係性の楽しさを生かすことであると。特に2歳児は、面白くない退屈なことに対して素直で良いなーと思います。

    反対に、保護者からの連絡帳にあるエピソードでは、家までの帰り道のできごとがよくあります。自転車に乗って夜空を観察する、その日のできごとを会話する、何かを見つけて探索しながら帰る、安全な道を思い切り走って帰る、家に帰ることが目的のある意味退屈なその時間にこそ、何か楽しいことを創造しようと試みているように感じます。

  3. 物事をクリエイトすることをせずに、言われたことをそのまますることを強いられてきた大人には、耳が痛い話ですね。「クリエイティブイノベーションは何気ないありふれたところから生まれる」と聞いても、湧き上がってこないのが現状でしょう。しかし、ヒントがありました。「子どもをみる」ということです。「子どもが暇で何もすることがなく、自分でその時間を埋めないといけなくなった時、創造力が動き出します」というように、大人ができないのであれば、それを自然と体現してしまう子どもの姿から学べば良いですね。見たことがない物への好奇心は目を見張るものがあります。それを使って大人が想像できない使い方をする姿を見て、それは本来の使い方とは違うと諭すのか、それとも、面白い!他には?と考えが働くのかは、大人次第ということですね。

  4. 安心して「色々なアイデアを試行錯誤しながら試していい」人間関係がある組織は創造力が満ち溢れた組織となるでしょう。マニュアルがある、やり方が確立されてしまっているとさまざまなアイディアを出せない硬直化したものとなっていくでしょう。一人一人の違いを認められない、ギクシャクした関係から楽しい事は生まれ出てこないような気がします。「きれいに切り取られ、描かれた紙製の林檎を既に描かれた木の上に貼りつけて、見栄えの美しい絵を作らせても真の創造性は全く育ちません。」保育園等を訪問すると、こうした光景に出くわすことがあります。ある完成された作品として担当の先生が達成感を感じるためにあるのでしょうか。妙に整理整頓されていたり、博物館の展示室のようだったりするお部屋を観ると、子どもの存在を感じられないことがあります。これは一体どうしたことか。園長さんや主任さんの意向が結構反映されている結果なのでしょう。

  5. 〝イノベーションを受け入れる環境を従業員自らが作り出してゆく〟という環境でしか、イノベーションは発揮されないような気がします。そして、がんじがらめの環境では生まれない思考や発想というのがこれからの時代に必要な思考ということになるんでしょう。言われたことをしているだけではなく、自ら仕事を見つけだす、そんな姿勢がこれからの時代に必要なものなんですね。自分にはなかなか難しいことなのかもわかりません。ですが、幸いにもヒントとなる子どもの姿が近くにたくさんあることを知りました。クリエイトやイノベーションを自然としている子どもたちに助けてもらいながら仕事ができることは楽しいものだと思いました。

  6. 見守る、という言葉もまた、想像力を必要とし、また、保育を実践する現場には創造力を求める言葉でもあると思えてきます。一人一人見守るスタンスは異なりながらも、受け継いでいくような型も園独自に展開されていることもあるでしょう。多様性と型、2つの共存を叶えていくことは現場のイノベーティブな部分であると思いますし、2つの、いわば、主義が互いに響き合って一つの心地よい空間を生み出すような、そういう相互作用をチームで、フロアーで、園全体で構築していけたらと考えます。

  7. あるとき聞いて心に残ったエピソードとして、葉っぱの絵を子どもが紫でかいた、というものがあります。どんなに紅葉しても、紫にはなりえないその葉っぱを紫で表現したこどもにはどれだけの創造力があったでしょうか。しかしその話がわたしの心のなかに残った理由は、大人が、葉っぱは緑なんだから緑で書きなさい、としかったところにありました。型にはめ込む保育はきっと楽だし見映えもよいのでしょう。足並みを揃えることを良しとする日本人なら尚更です。しかし子どもには自分の思いを形にする権利がありそれは何人たりとも侵害してはならないのです。紫の木はその子のなかになくなってしまったのか、そっと心の片隅に残しているのかはわかりませんが、是非後者であることを望むものです。

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