創造性研究

科学雑誌の記事だけでなく一般的な新聞・雑誌でも、創造力が脚光を浴びています。先に掲げたソフィア・ローレンの言葉は、創造的に考えることが生きがいと若さを保つ道であると教えてくれています。では創造力とは何なのでしょうか。ちょっと調べただけで創造力の背後にある心の動きを捉えようとした数多くの言葉に出合います。「拡散的思考」「創造的認知」「洞察」「オリジナリティー」。これらの言葉は何となく意味が重なっている部分もあります。

J・P・ギルフォードは「創造力」を新しい間題に対して多くの異なった反応を生み出す能力と定義しているそうです。これは先に述べた新しい紙コップの使い方を思いつくことと重なります。ギルフォードはこの能力を「拡散的思考」と名づけ「与えられた情報から多様かつ多量の情報を生み出す力」と説明しています。紙コップ間題を例にして言えば、どれだけ多く紙コップの使い方を挙げられるかということであり、その使い方がどれだけ多様か、例えば、「容器」とか「小道具」などということであり、更にどれだけオリジナルな使い方をしているか、例えば、イアリングにするなどということだというのです。近代の創造性研究はこのような課題に基づいて行われたので、創造性の高い人物は沢山反応し、沢山の種類を思いつき、普通とは異なる賢い発想を沢山できる人とされました。この「反応」は、「流暢さfluency」、「思いつき」は、「多様さvariety」、「賢い発想」は、「独創性original」とあらわされます。

創造性研究の第一人者であるサー・ケン・ロピンソンは『枠をはみ出せ 創造性を育てる学び』(未邦訳)の中で創造性に関する三つの誤解について書いているそうです。第一の誤解は、創造力は「特別な人々」だけが持ち、全ての人々に備わっているものではないという考えだと言います。この思い込みに囚われて、創造力は普通の人の手の届かないところにあると多くの人は思ってしまうというのです。リチャード・フロリダはアメリカの労働人口の30%が、複雑で高度な課題を解決することを業務とする「クリエイティブクラス」という新たな人材にシフトしていることを明らかにしています。

私達の経済の仕組みは伝統的な産業から、個人として、また集団として創造性を発揮しなければ成り立たない形へと移り変わったというのです。幸運なことに「私達は皆様々な知識領域で創造性を発揮できる。創造性は一部の人だけが持つ特異な能力ではない」ということです。全ての人々に与えられた能力なのです。

「芸術には創造性が必要」という発想を、ロビンソンは創造力に対する二つ目の誤解と言っているそうです。創造性は「特別な人々」に託されたものだという思い込みに加えて、芸術のような「特別の活動」にのみ必要だという思い込みがあるというのです。もちろん芸術に創造力は不可欠ですが、実はどんな場面でも創造力は必要とされ、私達の行う全ての物事に影響を与えているというのです。

イタリアには創造力は特別なものではないという発想が根づいているようにキャシーは思うと言っています。それは、どこからそう感じているのでしょうか?

創造性研究” への7件のコメント

  1. 「新しい間題に対して多くの異なった反応を生み出す能力と定義しているそうです」とありました。予測不能な現代、未来においてこの力は必要不可欠なものでもありますね。そして、「与えられた情報から多様かつ多量の情報を生み出す力」とありました。創造性というものをぼんやりイメージで捉えていましたが、少し輪郭がつかめてくるような内容です。やはり、そのためには、様々な経験が必要なのかなと思いました。一つのことから様々なことを思い浮かべるためには、体験したり、経験したことがベースになるのではないでしょうか。人間万事塞翁が馬ではありませんが、あらゆる経験に無駄はないんだなと感じます。確かに、創造性についていろいろと誤解していたり、勝手にイメージを持っているなと思わされます。「芸術に創造力は不可欠ですが、実はどんな場面でも創造力は必要とされ、私達の行う全ての物事に影響を与えているというのです」このことからも創造性が特別なものではないということが分かります。

  2. 創造力をこう論理的に語るとなんだか固いものに感じてしまいますが、本来楽しむためのものであるように考えます。その根源は、子どもたちの遊ぶ力。
    子どもたちの姿からは創造力を感じずにはいられません。特別な力ではないことを日々体感しています。
    どうしたらもっと楽しいか?もっと面白い方法はないか?または、良い意味でもっとラクできる方法はないか?そんなことで良いのでしょう。子どもたちは、創造しようとして創造していない気がします。

    もう少し体の力を抜いて、脳みその筋肉をほぐしていきたいです。

  3. AI時代の到来に際して、今なら、私たち人間の想像力と創造力がまだまだ優位を占めているでしょう。占めているうちに手を打つ。AIは自己学習していくようです。ある分野においては、私たちホモサピエンスの能力を軽く凌駕しています。この勢いでいくと、私たち自身の存在価値がAIの下位に置かれることになるのでしょう。「創造性は一部の人だけが持つ特異な能力ではない」という当たり前の事実を私たちは忘れてしまう可能性が大いにあります。そうではないのです。どうも保育施設も学校施設も子どもの持つ創造性を信じていないようなところがあります。ある保育園でのお話し。3歳頃の子どもたちがごっこ遊びをしています。お皿やザルを頭においたりかぶったりして楽しんでいます。すると、年輩の保育士さんがやってきて、「お皿やザルは頭にのせません」と注意します。ごっこ遊びで使われるお皿もザルも本物ではなく玩具としてのそれらです。その子たちのそばにいた新人の職員さんは注意しなかった自分も叱られていると委縮してしまったそうです。子どもたちの想像力や創造力、これらが一体何を意味するのか。「先生」と呼ばれている人たちは本気になって考えなければならない時代を今迎えています。そして「子どもの存在を丸ごと信じる」ということは一体どういうことか、考えなければなりません。

  4. 「新しい間題に対して多くの異なった反応を生み出す能力」という創造性の定義に対して、まだ深く理解できませんが、何か実体としてを生み出すというよりも、多様で柔軟な価値観を使って新しい問題に向き合っているかといったニュアンスが強いのでしょうか。また、そのような「創造性」を妨げてしまう要因として、「刷り込み」「思い込み」があることを再確認しました。そして、頭ではわかっていても、実際に行動に移すことができないのが人間の性でもあると感じているように、「〇〇が、もし〇〇だったら…」という思考の幅を広げる遊び心は、「創造性」にはうってつけのように思いました。ごっこ遊びが多くの実行機能を育むのは、そのようなファンタジーさ、フィクションさが関連しているのでしょうね。

  5. 自分は創造性に欠ける人間なんだと思っていましたが、それは「特別なもの」と考えていたからなんだと思いました。これまでは特定の場所や活動、人たちが身につけているものとして捉え、そういう人たちに「憧れ」に近いような感情をもっていたことも事実です。子どもたちをみていても同じように「憧れ」を感じることもありました。それがないから、だから、自分はダメなんだと…。そう思うことは創造性を育むことの邪魔をしていたのでしょうか。子どもたちをみていると、創造性は能力を発揮しようとしているから発揮できているだけではないことを感じます。たぶん、楽しむこととほどほどなことが後押しするのではないかと感じています。一歩踏み出した感じです。

  6. 筋肉トレーニングをして筋肉をつけるように、想像力も創造力もトレーニングが必要なのではないかと思えてきます。人間は気付けば直していけるから気付くだけでいいという言葉を聞いたことがありますが、この想像力も創造力も、これからの時代に必要なのだと気付き、それを身につけていく為の思考に頭が切り替わるだけでこれからの時代の生き方へとフィットしていけるのではないかと思います。
    子どもたちは、保育がそれを助長する仕組みをもっていれば、無意識下でそれを育てていくことができます。雑巾の絞り方を誰に教わったかわからなくても確かに身についている、それのように、想像力も想像力も身についていけるように、これからの保育が在れるようにしていきたいと感じます。

  7. クリエイティブだとかオリジナリティーだとか、横文字が並んでいるとなんだか難しそうに見えて取っつきにくくなってしまいがちですが、それらは意外にも日常生活に溢れていて、それを特別と思い込むから特別になってしまう、ということでしょうか。例えばいつもと違う道で通勤してみようだとか、いつもは食べないようなおにぎりを買ってみようだとか、そういった部分にも、道順を頭のなかで組み立てるクリエイティブな力や、そのおにぎりに合うのみ物を模索するオリジナリティーが生まれるとすればそう難しいものと考えなくてもいいのかもしれないと思えてきますね。

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