見かけの特徴

私達が学ぶ時、その基本的方法としてアナロジーを用います。アナロジーの働きによって物事や考えがどんな類似性を持つのか、教えてもらわなくても自ずと見つけることができます。逆に言えば、私たちは学び手のアナロジーの力を借りて教えていると言ってもよいだろうとキャシーは言います。しかしレベル2で考えている子どもは先に述べた鮫とイルカの問題の場合のように、明確に言われない限り見かけの特徴に注目してしまいます。対象が共有する本質的な関連性に子どもが注目し、より深いアナロジーができるようになるには、レベル3に成長する必要があると言うのです。

大人と5歳児にまず一枚の絵を見せます。この絵に描かれていることを尋ねます。すると、大人も子どもも「猫が鼠を追いかけている絵」と答えました。次に大人も子どもも二つのグループに分けて、同じ猫が犬に追いかけられている、もう一枚の絵を見せます。一方のグループは中立条件群で「この猫を見て」と最初の絵の猫を指差してから、「2枚目の絵でこの猫に何が起こっているかな?」と質問しました。もう一方の関連条件群では、やはり最初の絵の猫を指差しながら「この猫が鼠を追いかけているのを見て。2枚目の絵でこの猫に何が起こっているかな?」と質問しました。中立条件群では子どもも大人も両方、2枚目の絵についても猫だけに注目した答えをしたそうです。しかし関連条件群では、子どもはやはり猫だけに注目して答えましたが、大人は犬にも注目し、どちらも何かを追いかけていると答えたそうです。レベル2で考えている子どもは関連性まで注目しなかったのです。

同じ理由でレベル2では比喩を用いることが難しいようです。親戚が帰った後、4歳の娘に「おばさんはsweet(素敵な人)だった?」と話しかけると、彼女はびっくりし、当惑した顔つきで「おばさんはチョコレートでできているの?」と母親に聞き返したそうです。それは、英語では食べ物が甘い時に使うsweetを「いつも子どもに甘いんだから」のような日本語の比喩とは違って「素敵」という意味で使うのです。

学力テストや入試のために学ぶように子どもを追い込んでいる場合、学校での知識教育がレベル2に留まっているとキャシーは言います。数学、読解、理科と幅広く学んでいるものの理解は浅いというのです。更に理科で学ぶトピックと数学で学ぶトピックを関連づけることはありません。テストで高得点をとることを目指した表層的な学びがとても不幸な結果を招いていると言うのです。

一つ目の不幸について、スタンフォード大学のリンダ・ダーリング=ハモンドはこう指摘しているそうです。「テストでの点とりゲームを最優先するためのカリキュラムが組まれ、たとえ子ども達にとって望ましいプログラムであっても、テストに関係ない内容ならば廃止されてしまう。そしてそのテストで点をとれない子は学校から追い出されてしまう」。

教師も自分の受け持つクラスの子ども達のテストの点数で評価されるので、美術のようなテストと無関係の教科を削って、テスト対策に時間をかけます。特別の支援を必要とする子どもに対しては、両親が承諾した場合、テストの日は「病欠」扱いにして受験させないようにしたり、「より面倒見のいい環境へ」という名目で転校を促したりするという事態が生じているそうです。学力テストで低得点であることが教師と子ども双方を脅かしているのです。

見かけの特徴” への8件のコメント

  1. 「アナロジーの働きによって物事や考えがどんな類似性を持つのか、教えてもらわなくても自ずと見つけることができます」とありました。個人的にはこういった気づきがとてもおもしろく、ついつい考えすぎてしまうこともありますが、類似性を発見することで物事の本質に近づけるような気がします。本質である部分を藤森先生から教えてもらったことで、自分の中で類似性を見つけるのが楽しくなりましたし、その感度が上がったような気がしています。しかし、最近ではこういった学びが得意な人と、より具体的なものから関連つけることが得意な人とそれぞれであるのかなと思うと、子どももまた同じかもしれませんね。おばさんの例えでは、その言葉だけにとらわれるのではなく、状況から判断した思考というのが大切になるのかもしれません。私たち大人もこのような状況から判断する力というのは生きていく上でとても大切な力になるような気がします。

  2. 最終段落の内容には、心を痛めてしまいます。人を評価するということ、それ自体を見直す必要性を感じました。
    言葉というのが思考する上で重要であるものの、そこには五感的な感覚や、感情が含まれるのですね。実体験の量と質によって、同じ音と字の言葉でも、人によって解釈が異なる。先日、汐見先生の五領域の研修「言葉」の領域で、二人称、三人称のその言葉の意味を知り、結びつけることで一人称の言葉の意味を深めていくことが重要であるという話がありました。つまり、人によってその言葉の意味や解釈は異なるものであり、それは経験値と知識の量と質によるということでした。

    それもそのはずですね。本来、言葉より先に体験、物事、気持ちがあり、それを言葉にしていったわけです。豊かな経験なしに、豊かな言葉は身に付かない。豊かな言葉がなければ、深い思考、学びには繋がらないのでしょう。
    オノマトペもまさに、実体験を元に身につく気がします。

    この時、経験の内容がテクノロジーによって大きく変化していること、子どもたちの中に経験値の差が生じていることも考えられます。
    動画視聴が盛んな現代では、昨日の分類の話について、もしかすると海の生き物に関する動画を多く見ている子どもは容易に分かることであったかもしれません。
    移動手段もテクノロジーの一つであり、水族館や海(沖へ出てイルカを見るなど)へ行った経験がある子どもとそうでない子どもでは、大きく異なります。
    また、YouTubeを見て覚えたであろう言葉使いも、よく耳にします。その反面、流暢な言葉とは裏腹に気持ちや思考が追いついていないように感じることもあります。(言葉の育ちの過程で、当たり前にそうした姿もあると思いますが。)

    テキストでは本当の言葉、本当の学びは得られないことと同様に、動画視聴では本当の言葉は身に付かないと考えます。自分が真に身につけた言葉からしか、真の思考は生まれないんですね。

    保育園においても、実体験を大切にしていきたいです。私の園の取り組みの一つで、カマドがありますが、まさに実体験、その時に感じたこと、気持ちの変化を言葉にする機会も意図的に設けていきたいなと考えました。

  3. 「テストの日は「病欠」扱いにして受験させないようにしたり」「学力テストで低得点であることが教師と子ども双方を脅かしている」という実態を聞くと悲しくなりますね。ここまでくると、その方法を取らざるを得ない教師も被害者なのかも、根本的な原因は教育方針や教育の在り方であることが感じられます。そのような教育体制である「テストで高得点をとることを目指した表層的な学びがとても不幸な結果を招いている」のであれば、抜本的な改革が必要になることは想像できますが、それがなんであるべきなのかが模索されている現状であることが伝わってきます。どこに評価の価値を置くかを変更すれば良いと思ってしまいますが、これから必要になる能力は数値化しにくい傾向があると以前知りました。ここまでくると、評価自体の存在意義が議論されなくてはいけないのかもしれません。評価は自己評価一本になる時代もくるのでしょうか。

  4. 本日のGTサミットにて藤森先生から米国の教育改革のことを伺いました。オバマ大統領以前の教育改革の結果を、今回のブログからも読み解くことができます。「美術のようなテストと無関係の教科を削って、テスト対策に時間をかけます。」ということが起こってしまうのでしょう。まことに生産性ということをはき違えた教育行政の結果です。ひいては、国力の減退に連動していくことでしょう。「テストで高得点をとることを目指した表層的な学びがとても不幸な結果を招いている」ということも容易に推測することが可能です。やはり「テストで高得点をとることを目指した表層的な学び」には問題あり、ということが言えるでしょう。そうした意図を持たずに結果として高得点ならわかりますが、意図した高得点がもたらす、その後のその人の人生は如何に?日本で実施される学力調査で上位あるいはトップを占めている自治体は果たしてそのことに見合うだけの幸いを大人も子どもも手にしているのか。

  5. 〝テストで高得点をとることを目指した表層的な学びがとても不幸な結果を招いている〟とあり、その事例が紹介されていますが、読んでいると悲しい気持ちになってしまいます。根本的に教育のあり方を考えていかなきゃいけないのでしょうか。何のために学校教育があるのか、受験やテストのための教育なのか、受験やテストは何のためにあるのか等、疑問はたくさん湧いてきます。きっとその現場にいれば、教師も生徒もしていることが不幸な結果に結びついていることに気がつかないのかもしれません。第三者的な、客観的なものも取り入れるなんかも必要なものかもしれませんね。

  6. 学力テストが子どもも教育者も脅かしているとするならば、それを継続させる意味とは本当に何なのでしょう。それは同時に親も脅かし、その歪みもまたしっかり子どもにのしかかってきます。
    運動会に向けて取り組んできたであろう成果を先週末に見てきました。生憎の雨で、待っている間も競技中も、子どもたちはとても大変そうでした。それにも増して教職員の方々が大変そうで、何とか1.2年生の部はやり遂げ、その次の部の途中で延期の方針が決定されたようです。学力テストはいわばこの際の雨のようで、それによって全ての人が振り回される、教育的好天を考えなくてはならないように思えてきます。

  7. 少なくとも私が表面的なものを第一の判断材料にしてしまうのは、今までそういった教育を受けてきたせいなのでしょうか。例えば子供と保護者が話しているときの言葉遣いで、どんな生活をしているのか想像してしまうし、連絡帳の書き方でどんな人なのか想像してしまいます。結果が逆になることも、思っても見ない結果になることもありますが、点取りゲームになっているカリキュラムを受けていなかったらどのように人を判断し分けていたのか気になるところです。

  8. 「テストで高得点をとることを目指した表層的な学びがとても不幸な結果を招いている」とありましたが、私自身もそのような教育を受けて育ってきました。答えを暗記し、テストで良い点を取ることが目標でしたが、本来の学びとは、生きる力につなげるものだと思います。意味がないように思える数学も、私たちが生活する上で繋がりがあり、欠かせないものです。恥ずかしながらこの歳になり、どう繋がっているのかがようやくわかり始めてきました。

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