使えない知識

アメリカのデラウェア州の教師が置かれている状況は、アメリカの著名な教育ライター、リンダ・パールスタインの著書「テストされて』(未邦訳)で書かれていたことと重なるそうです。この本の中で、学校のカリキュラムを統括する管理職は全学年全ての教室を回り、指導案を忠実に授業しているかどうかチェックし、各学年が配当された知識項目を過不足なくカバーすることばかり気にかけているそうです。まさにレベル2の状態だとキャシーは言います。

これでは、学生が学校は退屈で、学力テストに対して強い不安を抱いていたとしても何の不思議もないと言うのです。家庭教師産業は200億ドルの規模まで成長し、そのうちの約2割は3歳から5歳までの子どもへの教育による収益だそうです。親達はもし学力テストでいい点をとれなかったら我が子の将来はないと考えてしまっていると言うのです。

殆どのテストが覚えた知識をただ吐き出すだけだとキャシーは言います。数学の公式を覚えてもただ新たな数を当てはめて計算し直す作業に過ぎないと言うのです。学習科学の観点では丸暗記は最適の学習方略とは言えないと言います。機械的に暗記する時は意味に注意を払わず、ただ繰り返し練習するだけになるからです。例えば毎朝、教室で星条旗への忠誠を誓う言葉ですら何の疑問も感じないでこう覚えているだけです。肝心の「flag (星条旗)」の部分を「frog (カエル)」、「republic (共和国)」を「wee public (公衆の面前でのおしっこ)」、「liberty (自由)」を「little tea (小さなお茶)」と平気で暗記していると言うのです。ただ暗記するだけでは分析力も、記慮を保持する力も育ちません。子ども達に批判的に分析することではなく、使えない知識を丸飲みすることを教えることになるだけだと言うのです。

子どもは断片的で浅いレベルでの知識コンテンツしか持っていないことが多いと言います。浅い理解しかない知識コンテンツが危険をもたらすことがあると言うのです。「I used to believe (私はこんなことを信じていたことがある)」という名の面白いウェプサイトがあるそうです。このサイトには大人が子どもの頃信じていた様々なエピソードが掲載されています。例えばこんなものがあるそうです。

「姉と私は、父か教えてくれた“斜面に住む牛”の話を信じていました。牛が長い間、斜面に生活しているうちに前足が長く、後ろ脚が短くなってしまい、このため平地ではちゃんと立てずに転んでしまうというのてす。」

知識の理解の仕方が浅くレベル2の知識コンテンツしか持ち合わせないと、見かけにしか注意がいかず、あり得ないようなことを信じてしまうと言うのです。

ここで、キャシーは、今、教育の分野で起こりつつあることに注目しています。教育において表面上の「見かけ」だけに着目すると、机の前に座らせて子どもを教育する方がよいという結論にすぐ達してしまいます。こうして全ての教育システムに同じやり方が浸透し、幼稚園の子ども達まで小学一年生と同じように学ぶことになってしまいます。学習科学が、子どもには自由に探索する時間が必要でそれが学校での学びの素地になると再三主張しているにもかかわらず受け入れられないと言います。ナンシー・カールソン=ペイジはこう警告しているそうです。「子どもの学びに対する根深い誤解が蔓延し、幼い子を机の前に座らせ、文字を書かせる勉強が拡大する一方だ。これがどんなに子どもの学びの発達を阻害しているか全く気づいていない。この状況が悲しく、辛い」。

使えない知識” への7件のコメント

  1. 「知識の理解の仕方が浅くレベル2の知識コンテンツしか持ち合わせないと、見かけにしか注意がいかず、あり得ないようなことを信じてしまうと言うのです」無知であることの怖さのようなものを感じます。無知というか、この場合は考える癖のようなものがなく、一方的に知識を教えられていることに慣れてしまうとこのような思考にも陥ってしまいそうですね。藤森先生の話でも教科書をそのまま信じるなという逸話がありますが、一方的に知識を受けとる方法ではこれからの時代は確実に生き残っていくことができませんね。「学習科学が、子どもには自由に探索する時間が必要でそれが学校での学びの素地になると再三主張しているにもかかわらず受け入れられないと言います」とありましたが、こういった学びに日本も早く転換していかなければなりませんね。

  2. 先日、「先生、うちの子ひらがな書けてますかね?」と聞いてこられたお父さんがいました。先生の話を聞けているか、返事はできているか、食事のマナーはできているかなど、様々な不安があるとのことでした。今回の話でいくと、ひらがなが書ける前に、椅子に座って一定時間集中してられるかや、鉛筆を自由に動かすことのできる微細運動は発達しているのかなど、そのような基盤の方が重要であるということでしょうか。暗記すれば良いという安易な考えになってしまうのは、短期的な視点で考えているということかもしれません。暗記を促すよりも、様々な繰り返し体験によって複数のデータを関連づけていくワーキングメモリの重要性も以前学びました。使えない知識を伝える授業や保育環境に変わって、自ら知識を求め、価値を創造していけるような環境が大切であると感じました。

  3. 定期テストを終わってしまうと、覚えたことのたいていは忘れてしまう、という学生が多かったですね、私が学習塾をやっていた頃。まぁ、かく言う私はそうではなかった、と言えるかといえば、まぁ、五十歩百歩、だったでしょう。それでも、自分の興味関心にひっかかったことは、忘れないどころか、その後も残り続け、たぶん深められ、今に至っていると思います。「殆どのテストが覚えた知識をただ吐き出すだけ」とは何とも勿体ない限りです。吐き出した後はきれいさっぱり忘れる。テストで点数を取るだけのための学び、何だかむなしく響いてきますね。もっとも、のちに応用させるための基礎知識は覚えておかなければなりません。しかし、この場合の記憶はやがて応用させるための土台としての記憶ということです。暗記することが全て悪いとは限りません。暗記を通して脳内に定着させてこそ知識は知識だけではなく、やがて知恵を生み出すことにも繋がるのでしょう。やはりテストで点数を取るため、ということがネックになっているような気がします。

  4. ナンシー・カールソン=ペイジはこう警告しているそうです。「子どもの学びに対する根深い誤解が蔓延し、幼い子を机の前に座らせ、文字を書かせる勉強が拡大する一方だ。これがどんなに子どもの学びの発達を阻害しているか全く気づいていない。この状況が悲しく、辛い」。

    この部分に集約されている気がします。この誤解を解かない限り、教育の在り方は本質的に変わっていかないのでしょう。

    そこを変えていく方法として、保育原理や人間学など人の発達や、人とは何かについて知る機会を義務教育に組み込むこと。
    保育士、幼稚園教諭に限らず、子育てをする上で、全ての人が知っておくべきことであると思います。私たちが今考えているようなことを、本来なら人類みんなで考えていくべきであります。
    学ぶ人たち自身が、学び始める前に、学びとは何かということについて考えるべきです。本当の学びについて知ることが、学びの始まりであるはずです。それは、理論的な小難しい言い回しではなくても、5.6歳児なら考えられることであると思います。

    それを言語優位ではなく、経験優位で感じ、学び取っているのが乳幼児なのではないでしょうか。

  5. 自分もそうですが、大人はどうしても机に向かって座っている態勢を学んでいる、勉強していると思いがちになります。その辺のところから変えていかなければならないのでしょうね。YouTubeなんかの動画を見ている時でも何か学んでいる?のでしょうかね。そんなことよりも友だちと外へ遊びに行って欲しいと思っているのですが、コロナの影響で放課後の時間の使い方も変わってしまってます。テストの勉強もそうですが、人との接触を制限してしまうことは将来的にどんな風に影響してくるんでしょうか。学校の内外で今、人との接触の機会というのが減少していっていることを感じ、にわかに危機感を感じています。

  6. 英語を学生時代の必修科目として習いましたが、話せない理由はこのようなところにあるように思えてきます。とにかく暗記、暗記でしたし、テストといえばその成果を披露する場でした。海外からの講師の人もいましたが、結局授業スタイルが現行のままだと、認知的な内容に終始してしまうのかもわかりません。
    話せるようになるようには様々な過程が必要と思いながら、いよいよ時代は多国語を話せるよりも、自分の言葉で話せることを求める様になってきたと感じます。それは、国語を推進する、とかそういうことでなく、教育スタイルそのものの変換を求められているのではないかと思えてきます。

  7. 子供達がよく鼻唄を口ずさんでいるのを聞くと、果たしてどれだけその歌詞の意味を理解しているのだろう、と疑問に思うことがあります。もちろん理解して歌わなければいけないということは全く無いのですが、理解していないその歌は、適当な言葉の羅列であって、それはもはや『あーわーやー』と適当に発しているのと同じ意味しか持たなくなります。子供にとって我々がきく、いわゆるjポップより、民謡のようなわかりやすい言葉を使った歌を好むのは、音の感じがいいとか、雰囲気ではなく、理解できる歌であるからなのかもしれません。

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