広い視野からの「成功」

キャシーの知り合いがティーチ・フォー・アメリカのボランティアでフィラデルフィアの学校に派遣されたときのことです。彼女は、「形容詞」を教えるように言われたのですが、教室の子ども達はそもそも「名詞」を知りませんでした。ですから「形詞は名詞を飾る言葉だよ。トラックとか子どもとかは名詞でしょ。このトラックが赤かったら『赤い』トラックって言うでしょ。この『赤い』が形容詞だね」というようなことを子ども達に伝える授業はできないのです。その日は、「形容詞の日」で、形容詞のリストを覚えさせる授業が求められたのですから。

アメリカ版の浦島太郎とも言える、ワシントン・アービングの書いた「リップ・バン・ウィンクル」の主人公は、突然、何年もの時の過ぎ去った、何もかも変わってしまった世界に放り出されるようだとキャシーは言います。しかし、そんな彼が昔から変わっていないと思える場所は学校に違いないと言うのです。これだけ「教育改革」が叫ばれ、大規模ン実行してきたはずなのに、化石のように変わらない場所が近代の学校なのだとキャシーは言います。

どうしたら、人々全てが広い視野で「成功」を提えるようになり、学習科学の発見を活かした方法で子どもが学び、社会的な存在へと育っていくのだろうかとキャシーらは問いかけます。さらに、「どうしたら、全ての子どもが健康で思慮深く、思いやりがあり、他者と関わって生きるのをサポートできるだろうか。どうしたら、子どもが学びを楽しむ環境の中で他者と協力し、創造的で自分の能力を存分に発揮する、責任感溢れる市民へと成長してゆくだろうか。更に、どうしたらこのピジョンをこれまでの教育改や教育産業が作り出した教育観に囚われた人達に浸透させることができるだろうか」と問いかけます。

まさに、この課題は、私たち日本に対しても言えることです。そして、それは、現在の教育の在り方を見直さなければならないということを示しているのです。日本では、9月入学が話題になりましたが、それは、単に始まりを、4月から9月にすればいいということではなく、現在の生年月日で子どもたちを区切るという学年というあり方を、もう一度考え直すということでもあり、一斉画一での教育のやり方を見直すことも必要になってくるのです。

こんな袋小路に立った時にどうしたらよいかということを考えるうえで、ドラッカーのことばキャシーは紹介しています。「もし未開の土地に今いるとしたら最初にどんなことをしたいか考えよ」と語ったのです。何の制約もなく、どんなことでもできる状態で真っ先にやってみたいことは何か想像せよといっているのです。もしそれが見つかったら、本来のミッションの意味であるキリスト教の「伝道」の如く、ミッションを未開の地に伝え続けること。このドラッカーのアドバイスはグローバル時代のピジネスを考える上で極めて大事な考えになっていると言います。そして、その言葉は教育においても同じことが言えるだろうと言うのです。

今回の新型コロナウイルスによって、生活、教育が変わっていきます。それは、確かに人類にとって未開の世界かもしれません。未開の道を行くことになるかもしれません。その時にドラッカーは、「最初にどんなことをしたいかを考えよ」と言っています。

広い視野からの「成功」” への6件のコメント

  1. 先日のNHKの朝のニュースで、今回の新型コロナウイルス感染症によって休校となった中学校の学習進度を考慮して、東京都立高校の数学入試問題から三平方の定理及び標本統計に関する問題が削除される、ということが報道されました。その際、中学3年次において学習する数学の項目の列が映し出されました。私が20年前に学習塾で教えていた中3数学の内容と変わっていません。さらに驚いたことは、私が中学3年の頃に学習していた数学カリキュラムの3分の2は変わっていないことです。「化石のように変わらない場所が近代の学校」。このキャシー氏の発言に同様の感覚を覚えたところです。もっとも、学校のことだけを言っていられません。なにせ、認可保育園運営の基本となる、保育所に関連する「児童福祉施設最低基準」は、何と昭和23年から変わっていないのです。例えば、子どもの一人当たりの面積基準、「乳児室の面積は、乳児一人につき一・六五平方メートル以上、ほふく室の面積は、乳児一人につき三・三平方メートル以上、保育室又は遊戯室の面積は、幼児一人につき一・九八平方メートル以上、屋外
    遊戯場の面積は、幼児一人につき三・三平方メートル以上」。まぁ、「以上」とあり、最低を示しているので、これを下回ってはならない、ということでしょうが、園舎を建てるに際して、この最低基準をベースとするでしょう。この今から70年程前の基準がまかり通っている保育界。改めて変える勇気を持ち合わせない私たちの有様に愕然とするのです。

  2. 1番時代に敏感で変わることを恐れてはいけない学校という教育の場が「化石のように変わらない場所」としてキャシー氏らが警告をならしていることが理解できます。一部からは、社会を教える学校が一番社会を知らない、それを教えている教員が社会を知らないといった記事も見かけます。しかし、私はイスラエルを訪れた際、夏休みを利用して中東を旅している社会の先生や、日本の多くの学校の先生と会いました。決して多くはないのでしょうが、自らの経験や体験、そこでの感じ方や探究心が教育には大切であると知っている人もいます。そのような方が、増えることを願ってやみません。

  3. 化石のように変わらない場所の恩恵で多くの天才が輩出されてきました。それは教育がその人にフィットしたからか、はたまた化石のように変わらない場所に全く馴染めずに、それが結果としてその人の才能を伸ばすきっかけになり得たのか、そのどちらの要素も、まるで一つのフィルターのように、化石のように変わらないお陰でどの時代を通しても一定のフィルターをかけてくれていたと思います。ただ、思うのは、人は天才にならなくてもいいし、一人ひとりがそれぞれの幸せや成功を手にできればよくて、何かに特化した人間だけを輩出するフィルターは、大切な何かを奪ってしまってきたのかもわかりません。感染拡大を防ぎながら経済を回す、温風と冷風を同時にかけるようなものという比喩もありましたが、そこに、感染してしまう人への優しさや愛情、経済が回らないことでとてつもない被害を受けてしまっている人への優しさや愛情、そういったものが言葉や政策の裏側に見えるからこそ人の心に響くのであって、それは教科書の中からだけでは教わらない部分なのではないかと思えてきます。

  4. 〝化石のように変わらない場所が近代の学校なのだ〟とあります。そんな風に言われてみると、息子が小学生になり授業参観にはじめて行った時に感じたのは自分たちの頃とあまり変わらない授業風景です。黒板と机、イス。後ろに子どもたちの作品が飾られている、ランドセル。変わっていたのはタブレットを先生が操作していて、モニターには黒板に入りきらないものがそこに映し出されていたことくらいでしょうか。変わらない部分は必要なものだからでしょうか。これからのことを考えていくことで変わらない部分もあるんだと思います。変えるべき部分と変えてはいけない部分の見極めは難しいですが、重要になりそうです。このことはコロナウィルスにより、社会全体が変わることを余儀なくされている今、さらに重要度が増していると言えそうですね。

  5. どんなことをしたいか考える、を我々保育士に当てはめるとしたらどうなるでしょうか。まずはどんな子供になってほしいかを考えます。そしてそのような子供にするためには子供にとって自分がどんな存在でいるべきか、どのような態度で子供に接するべきかを考えます。最後に自分がそんな自分でいるために周囲の環境をどのように整えるかを考える、といったところでしょうか。

  6. 「化石のように変わらない場所が近代の学校なのだとキャシーは言います」その通りかもしれません。先日、私の好きな心優しいyoutuber夫婦が、自宅に突然やって来た中学生たちのフォローをするために、後日、学校の方に連絡をして何とか学生たちの思いに応えれるようにという旨を伝えたのですが、youtuberという存在を理解しきれない管理職の先生から辛い仕打ちを受けたそうです。私はそれを聞いた時にとても残念な気持ちになり、全てではありませんが、学校の閉鎖感のようなものを感じてしまいました。教師であれば、様々な価値観、新しい知見に対して興味関心を持ち、多様な人がいるということを理解していなければいけないのではないでしょうか。いつまでも変わらない学校をそんなところからも感じてしまいました。

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