善き市民

文字の読み書きや計算は、「コンテンツ」といいます、これまでの教育で特に大事にされてきたスキルで、キャシーらが言う6Csの一つです。彼女らは、6Csを、全ての子どもが深く考え、自ら創造し、行動する人になるために必要なスキルだと考えていると言います。これらのスキルを子どもが身につけることで、コミュニティに寄与しながら、個人の生活も充実しています。善き市民として成長できるというのです。

熱帯雨林の「仮想」旅行で使う船を一緒に作る仲間を募り、お互い協力し、アイデアを出し合うためには、コンテンツに続く二つ目の「C」—コラボレーションしなければなりません。宝島に到着して発見したことを文章にまとめれば、コミュニケーションする力が磨かれます。船を各自で設計した後、安定性、スピード、そして航海での耐久性について冷静に見極めなければなりません。この時にクリティカルシンキングして、どうしたらうまくいきそうで、どうしたら失敗しそうか判断します。邪気を払うために船体に緑色の怪物の絵を描いたり、海賊を撃退するためにライオンと虎の旗を掲げたrするという、思わず笑ってしまうような新しいアイデアを思いつくのはクリエイティビティが働くからです。しかし、いつも楽しいことばかりではありません。計画通りいかない事態が必ず生じます。最初考えていた素材ではうまく船を作れないと解った時、何度でも粘り強くやり直さなければなりません。そんな時、絶対に困難を乗り切れるというコンフィデンス、自信が問われるのです。

毎年夏に、次年度の新しいプロジェクトを考える時、フレンド・セントラル、スクールのスタッフが最も輝いて見えます。彼らは、これまで「熱帯雨林」「山村」あるいは「飛ぶとはどういうことか」というテーマを設定し、何の変哲もない普通の教室を面白く学べる空間に変えてきました。そして、子ども達が、基本的な学習事項についても6Csを通じて学ぶことができるように工夫してきたのです。教員自身も、興奮して学ぶ一員になります。そして、教員と子ども達が一体となって知識を構成する活気に満ちた教育の場が生まれます。このような教室環境において、人は、知識をただ消化・吸収するのではなく、知識を変容し続ける人になるのです。

もし全ての学校が、6Csを育てるようにデザインされたらどうなるでしょうか。もし子どもの成績表が、6Csのどのレベルまで到達したか評価するものになったらどうなるでしょうか。保護者面談が、テストの成績だけでなく、6Csについて語り合う場になったらどうなるでしょうか。もしあなたが受けとる子どもの成績表が、子どもの強みと弱みについて全てを組み合わせたプロファイルで評価されたらどうなるでしょうか。

私達は、自分の子どもが「成功」することを望んでいますが、それは、従来の学校の成績評価で捉えられるようなものではありません。これまでは、評価されるスキルが、6Csで言えば、コンテンツだけでした。知識というコンテンツをただ覚えているだけで、学校ではうまくやっていけます。しかし、仕事をするとなったらそうはいきません。どんなにコンテンツの面で優れていても、コラボレーションできないなら、プロジェクトマネージャーとしては雇えません。どんなにコンテンツの面で優れていても、クリエイティビティがないなら、新たな方針に基づいてこれまでにない方法を模索しようとする研究チームの一員としては雇えないというのです。

善き市民” への5件のコメント

  1. 私はCOTENT重視傾向が当分は続くのだろな、ここ日本では、と思っています。しかし、世界はCONTENTを基礎としながら残りの5Csによってホモサピエンスの未来を創造していくのだろう、と確信しています。直観的に、ですが。そしてそうした未来を創造する過程でさまざまな試練に私たちは遭遇することになるでしょう。今回の新型コロナウイルスもその一つです。気候変動や地震等の地球自身の体動によって私たちは生き死にの選択を都度突き付けられることでしょう。私は、私たちの生存戦略として今回示された6Csは、ありかなと思うのです。まぁ、プロジェクト保育のような感じがするので、素直に首肯できないなと感じる、聊か、厄介な面を私は有しています。それでも、子どもたち自らが発案し、創造していく作業としてのプロジェクトなら私は大いに賛成です。そのために、大人がヒントを提供することはあり得ると思っています。かつての「保育所保育指針」にあったように、大人と子どもとの関わりを起点としながら、やがて子どもたち同士の関わりに発展していく、というベクトル、これが大事だと思うのです。子どもたちのことは基本、子どもたちに任せておく。大人である私たちは、大人としてホモサピエンス生存戦略のために尽力する。例えば、選挙を通じて、戦争に反対する、とか、誰も置き去りにしない社会を作りたい、といった公約を表明する候補に一票を投じる、とか。現在をよりよく生き、望ましい未来を創り上げていく子どもたちのことを本気で思うなら、私たち大人は大人としてやるべきこをやる。このことが肝要だと思うのです。

  2. これまでの社会は、コンテンツのみを求めていたことから、それ以外にも社会でうまくやる能力が必要だとわかってきて、それらを求めるようになり、その能力が非認知能力や6Csということになるのだと感じます。「人は、知識をただ消化・吸収するのではなく、知識を変容し続ける人になる」という具体的な姿がありました。知識によって知識を得て活用し、もとあった知識を進化させ、「コミュニティに寄与」していける人材が、善き市民であるということなのでしょう。ということを踏まえると、6Csの一コンテツのみであった過去に比べると、そのほかにも5つの能力を身に付けることを求められるという、非常に高みを要求される、成熟された社会になっているということかもしれません。大事なのは、過去と今とでは、きっと成功の価値観が異なっているということのようです。

  3. 最後から2つ目の段落、もし全ての学校が〜における問いは、教育の可能性の扉を開けさせるかのようで、そういうものへ変容していくことを望みたくなります。子どもたちは現状、それとは異なる知識のコンテンツのみの習得に迫られるかのような毎日で、それさえなければ学校は楽しい場所なのに、と思う子も、そして親も少なくないでしょう。そして、それさえなければその「それさえ」こそが現代学校教育の全てであるかのようで、そしてそれはいよいよ不必要なものと判断されつつあります。

  4. これまでは知識の部分が重宝されてきた社会から、研究が進み、それ以外も大切であるということになり、非認知能力や6Csの研究がさらに進められることになったのでしょうか。さらにはコンピュータやインターネットなどの情報の時代となり、それらはこれまで重宝してきたものを簡単に補い、コンテンツ以外の能力に目を向けられやすくなってきたこともあるのかもしれません。むしろ、以前は目を向けることのないほど当たり前の能力であったのかもしれないなとさえ思えます。コンテンツに偏ることで段々失っていっていた能力である可能性もありますね。これからは〝知識をただ消化・吸収するのではなく、知識を変容し続ける人になる〟という高次なことが求められる社会へと変貌していくのでしょうか。なんか焦ります。

  5. ある会社の採用面接で、数人のグループにわかれ紙飛行機を作り、一番遠くまで飛ばしたものを採用する、という試験があったのを思い出しました。私だったらどうするかと色々考えたのですが、その試験でもっとも遠くまで飛ばしたグループの形は飛行機の形ではなく、紙を丸めたボールの形だったそうです。もちろんおもうところはいくつかありますが、自分一人だったらその案が思い付いたかと問われればNOと言わざるを得ないかもしれません。また、その形を思い付いても遠くまで投げる力がなければまた意味がありません。人と人とのコラボレーションというのは時に1+1を3にも4にもするのですね。

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