自然言語

さらにミラー氏は別の例をあげています。外国語をかじった人なら誰でも知っているように、異なる文化で使われている言語はまったく違ったもののように思えます。英語と中国語はまったく違うし、そのいずれもアラブ語とは似ても似つきません。しかし、「表層」の違いにもかかわらず、すべての人の自然語は、ノーム・チョムスキーの言う文法の「深層構造」を共有しているそうです。この意味では、牛肉と豚肉が本質的に同じように、英語も中国語もアラブ語も本質的には同じなのだと言います。

ミラー氏は、その証拠を示しています。発達上問題がないかぎり、子どもは成長に伴って人間の自然言語を話すようになります。親の使っている言語が何であろうと、成長に伴って英語なり中国語なりアラブ語なり、その他の自然言語を話すようになるというのです。一群の子どもたちを、言語を教えてくれる大人のいない環境に置けば、独自の自然言語を発明するだろうとミラー氏は言います。だからといって、人間の言語能力は無限の可能性をもつわけではないと付け加えています。人間の子どもは、自然言語の代わりにプログラミング言語や論理記号のような非自然言語を使うようにはならないと言います。非自然言語のほうが自然言語より不規則動詞もなければ、文法の例外もないために、はるかに論理的で習得しやすいにもかかわらずです。たしかに、子どもが成長過程で習得する言語は多様ですが、それらはいずれも人間の進化の産物としての言語であって、コンピュータ科学や論理学が最近発明した言語とは本質的に違うとミラー氏は言うのです。

私は、これまで自然言語という言葉にはなじみがありませんでした。自然言語とは、人間がお互いにコミュニケーションを行うための自然発生的な言語なのですが、いまいちミラー氏の言うところがよく理解できません。園の今年のテーマが、「象徴機能」なので、その中心が、まず言語ということで、もう少しこの自然言語を理解しておく必要があるかもしれません。「私たち人間が日常書いたり話したりしている日本語や英語のような、自然な言語のこと」という説明があります。それだけですとよくわからないのですが、これと対比した言語が、プログラミング言語だと言われれば少しわかってきます。というのは、この二つの言語の違いは、言葉の曖昧性にあるということのようです。自然言語には、文の意味や解釈が一意に決まらない曖昧性があります。ここに象徴機能が働くのでしょうね。しかし、コンピュータに入力しようとすれば、あいまいな言語ではできません。こんな例が出されています。

「黒い目の大きい少女」といった時に、その解釈には、少なくとも以下のような二通り存在します。それは、「目が大きくて、肌が黒い少女」という解釈と、「目が黒くて、体が大きい少女」という解釈です。黒いが目の事か、少女の事か、また、大きいのは目なのか、少女なのかです。このように、自然言語には言葉の曖昧性が存在しています。

一方で、プログラミング言語で、「4 * 6 + 1」といったら、「4と6を乗算したものと1を加算する」という一つの解釈のみしか存在しません。プログラミング言語は、コンピュータを制御するためのプログラムを記述する言語であり、コンピュータが同じ表現を常に同じように解釈して、同じように制御するような作りになっています。ですから、自然言語のような言葉の曖昧性が存在しないというのです。ということで、プログラミング言語は、「自然」言語と対比する「人工」言語なのですね。

自然言語” への5件のコメント

  1. 私は、言語好きです。言語フェチです。それまで経験していなかった言語と接触すると、すごく楽しくなります。なるだけ、その言語の単語やセンテンスを使いたい、と思います。昨年シンガポールに行きました。そこでマレー語とタミル語に始めて接しました。そして、私の知りたい病が頭をもたげ、現地の方々にマレー語やタミル語を教えて頂きました。うるさい日本のオジサンだなと迷惑に思ったかもしれませんが。今回のブログで「自然言語」という概念に始めて接しました。私は生まれてこの方日本語と言われる言語を使用して生活してきました。それから準自然言語として英語という言語を使えるようになりました。フィリピン語、タイ語、ヒンディー語、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ロシア語、そして朝鮮語や北京語、について習得したいという欲望はあります。私たちホモサピエンスが使用する言語は「自然言語」という括りの中で共通性を持っていると考えます。ところがプログラミング言語や論理記号には、かつて哲学の徒であったくせに、ほぼ関心がありません。人工物だからか。「自然言語」の定義をもっと確認したいですね。私が日本語を操る時、語法等のストラクチャーを意識することはありません。その意味では確かに「自然言語」です。残念ながら、英語はストラクチャーを気にしてしまいます。その意味で、私にとってまだ自然言語とはなっていないということですね。がんばろう。

  2. 言葉は、言葉によって伝承されながら受け継がれていくのであると思っていたので、「一群の子どもたちを、言語を教えてくれる大人のいない環境に置けば、独自の自然言語を発明するだろう」というのは意外でした。確かに、良く考えてみれば、言葉を0から作り出したのも人類であると考えると当然なのかも知れません。また、自然言語の「黒い目の大きい少女」例は面白いですね。私は、黒目が大きい少女を連想しましたが、言葉をどこで切るかが重要であるのですね。そのための句読点であったり、「黒いというのは、何が黒いの?」などという、曖昧さを埋めるコミュニケーションが必要になってくるのであって、曖昧だからこその利点という恩恵を受けているのも人間なのでしょうか。人間がAIとの比較に、曖昧さや不完全さといったものがあがっているように、人口言語にはない、象徴的なものを共有することで生まれる繋がりのような自然言語の存在意義が強く感じられました。

  3. 自然言語ということの曖昧さや不確定さは「黒い目の大きい少女」の例で分かりやすく理解できました。自分は黒い目が特徴的な大きな少女、というのを連想しました。この場合、いろんな解釈ができることで、自分と他者とのイメージのすり合わせをするという過程があるというメリットも存在するのではないかと思います。このイメージの共有というような過程があることにより、人間は他者とのつながりを持つことができる、というより、意図してそのような曖昧さのままで留めているというような印象を受けました。

  4. 人類がバベルの塔の建設を企んだことから、すべての人類が協力しづらいように言語がわかれた、というのが神話のお話しですが実際は何故なのでしょうか。そこに言語が存在するということは、最初に誰かがトマトを見て「これをトマトと名付けよう」と決めたわけですが、さらにそのなかでも方言であったり独特の訛りであったりというのは作った人がいて、それを広めた人がいるから存在してるという、なんだか神秘にもにた不思議を感じるところです。

  5. 言語、という共通項の中でそれは共通している、例えば海外へ行けばジェスチャーで何とかなる部分があります。言語にならない仕草なのですが、思いが伝わるかのようです。身振り手振りは不思議ながら境界線をいとも簡単に超えるようで、その根底に流れる共通項と言語に流れる共通項はとても近いものがあると思います。伝えたい感情があり、出来事があり、という人間の感情から産みでたものがそれらに共通しているような気がして、改めて人間という括りで見ると、世界は繋がっているということを感じます。

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