作り話

地の果ての秘境に未知の風変わりな文化、西洋文化とまったく異質な文化が発見されたというニュースは作り事で、他の文化と根本的に異なる、まったく独自の人間文化は存在しないことが明らかになっているそうです。そのような例をミラー氏は紹介しています。

人類学者のマーガレット・ミードは、1923年当時、コロンピア大学の大学院でフランツ・ボアズの指導を受けていました。ボアズはナチス統治下のドイツから逃れてきたユダヤ人であり、ナチスの優生思想の誤りを証明しようとする政治的、個人的な強い動機を持っていました。この目的そのものは立派ですが、ボアズがそのためにとった戦術はまちがっていました。生物学的要因は人間の行動になんらの影響も及ぼさず、環境、すなわち文化のみが行動を形づくることを証明しようとしたのです。ボアズは文化決定論の強固な支持者だったのです。

文化と社会化が人間行動を完全に決定することを示すため、ボアズはミードら大学院生に不可能な課題を与えました。西洋文化と大きく異なる文化、欧米人とまったく異なる行動がみられる文化を見つけてこいというのでした。ミードは教授の期待に応えるべく東サモアに向かいました。1925年8月31日、ミードはアメリカ領サモアに到着し、調査を開始しました。ボアズは知りませんでしたが、ミードは別の秘密の調査計画をかかえ、サモア滞在中はほとんどその仕事にかかりっきりでした。あと1カ月でサモアを去るという段階になっても、ボアズのフィールドワークはまったく進んでいませんでした。ミードは教授のために、サモア人の行動がアメリカ人の行動とまったく違うという証拠を見つけ、文化と行動は地域によって異なることを証明するこの仕事を急いで片付けようと決心し、1926年3月13日、現地の若い女性二人にサモアの若い男女の性的行動に関して聞きとり調査を行いました。

ミードは、欧米では男の子が性的に大胆で、女の子を積極的に追いかけ、女の子は受け身で、男の子からデートに誘われるのを待っていると知っていました。「サモアはどう違うのか。セックスについて、サモアの男の子と女の子はどう思っているのか」。ミードは二人の若い娘、ファアプァ・ファアムとフォフォア・プメルに聞きました。ファアプアとフォフォアは、当時世界中の若い娘がそうであったように、見ず知らずの人とセックスの話をすることに恥じらいを覚えました。二人は実際とは正反対のことをミードに語ったのでした。男の子たちは内気で、女の子が男の子を性的に追いかけると言ったのです。それは作り話でしたが、ファアプァとフォフォアにしてみれば、現実にはあり得ないばかげた話なので、まともな頭の持ち主なら真に受けるはすがないと思ったのでしょう。

しかし、ミードは真に受けたのです。二人の話はボアズが求めている“証拠”にもってこいだったからです。二人の証言をもとに、アメリカとはまったく違う、いや、正反対の思春期の性行動がありうると断言できる。つまり、人間の行動は完全に文化によって決定されるということだ!ミードは有頂天になりました。サモアを出航したのは1926年5月。1928年にはこの「発見」をもとに著書『サモアの思春期」(蒼樹書房)を刊行します。この本はたちまち世界的なベストセラーになり、文化人類学の古典となったのです。

作り話” への5件のコメント

  1. 我ながらヤバいな、と思いました。「文化決定論」に素直に傾倒するところでした。私は、いわゆる、「環境決定論者」です。ところが、よくよく考えてみると、「決定論」は極めて危険な思想です。進化心理学や人類学、あるいは宗教学や哲学的見地からしても危ない。まさに、養老孟司さんの「バカの壁」です。決定論は脳のステレオタイプ、脳は固定概念のほうがわかりやすく、動きやすいから。しかし、そこには、自ら動く、心臓や肺、あるいは手足の感覚が欠落している。もっとも、だからと言って、感覚論者に傾倒することはありませんし、ましてや「こころ論」者には与しません。「文化と社会化が人間行動を完全に決定する」。この「完全に」が問題ですね。「ある程度」でいいでしょう。ところが、学者は脳の徒。あらゆることに白黒つけなければなりません、しかも危なくない方法で。これからの時代は、実践家が正当に発言する時代です。そしてその発言を客観的に学者以外の人たちが評価する時代です。AIの発達はこの傾向を助長するはずです。100年経った今でも「優性思想」は健全です、残念ながら。中国は多民族国家です。そして、そこには漢民族を筆頭とするヒエラルキーが存在します。これが文化の恐ろしいところです。ホモサピエンスが他の種族と異なるのはこの「文化」でしょう。ところが、前回のブログのコメントにも記したように、諸刃の刃です。この文化のために私たちホモサピエンスは滅びてはいけないと思うのです。

  2. 作り話が世界的なベストセラーになるだけでなく、文化人類学の古典ともなったというのは衝撃ですね。ベストセラーになるものの共通項目として、人々の共感や衝撃といったものが関連していると思いますが、人類学の古典ともなってしまうというのは想像できません。相当の衝撃があったということでしょうか。また、ボアズ氏の行いを聞くと、偏った思想を持つことの弊害が見えてきます。信念とも見えるような偏った思想は、自分を奮い立たせて多大な行動力を生み出す代わりに、作り話を信じ込んで結果的に誤った事実を広めてしまうことにもつながるのですね。何かを強固に支持するというのは、そういった危険性も孕んでいるということのようです。正直、ミード氏がフォフォア・プメルの話を本当に信じていたのかは疑問ですが、文化をねじ曲げるのは容易にできてしまうことなのでしょうか。

  3. 作り話

    何か一つをを決定的に信じ込んでいるというのはすごく危険なことなんでしょうね。今回の内容からはそのようなことが読みとれるのではないか、そんな風に感じました。現地の若者が信じるわけがないと冗談を言ってみたのに、それに食いついてしまい、ことの真偽を確かめずに世の中に発表してベストセラーを記録してしまうというのは驚くべきことだと思います。後からの火消しはそれは大変なことであるのではないかと予想できます。
    信じるものがあるというのが不思議なほど人間に力を与えることは、漫画などにもありますが、現実でもあることだと思います。
    ですが、その代わりに間違った方向にいってしまうことも往往にしてあることなんだということを自分の中に留めておかないといけませんね。

  4. 最近は肉食系女子、という言葉にフォーカスが当たることが増えましたね。大半がそうではないとはいえ草食系男子なるものが一定数いるのは事実で、さらに一定数そうした男子に需要があるのも事実です。ではそういったものたちは、昨今の社会の変化で生まれたのでしょうか。私はもともと存在していたものの、なかなか表だって表現できなかったものが、ただ外に出しやすい環境になっただけではないかと思っています。やはりどんな状況でも、男が女を追いかけて女がそれを待つというのは、ほぼ不変の事実のような気がします。

  5. 塾生で塩についての番組を見た時に、自然物から塩分を摂る文化をもった国の人たちの映像が流されました。ですが、番組の中でも、その人たちも今は塩の魔力に取り憑かれてしまい、というような流れで、大量に塩をかけて肉を頬張っている場面が流されていたことを思い出します。人間の欲求や本能、それへの反応というのは人間である以上同じなのかもわからないと改めて思います。ウォシュレットの心地よさを知ってしまったら、どんな天変地異があってもまたそれを取り付けるだろうように、知ってしまったそれについてまたそれを求める感覚というのは、文化では制御できないものなのかもわかりません。

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