人類の文化は多様?

ほとんどの生物では、雄の適応度の上限緻が大きいのですが、例外的にそうではない生物もいるそうです。一部の魚、両生類、鳥は雄の体の中で受精卵が育ち、その結果、雌のほうが適応度の上限値が高いのです。こうした生物の雌は、“妊娠”している間も他の雄と繁殖行動を続けられるそうです。進化生物学が予測するように、こうした種では、雌のほうが雄よりも攻撃的、竸争的、暴力的だそうです。こうした種では、雌は恥じらいがちな雄と配偶関係を結ぶため、他の雌と激しく競争するのです。このように例外によって、どちらの性がより競争的・攻撃的かは適応度のばらつきによって決まるという法則が証明されるのだとミラー氏は言います。

進化的心理メカニズムと環境の双方が人間の行動を形成するというのが、進化心理学のとらえ方であるとミラー氏は言いました。しかし、ここである疑問がわいてきます。「なるほど、筋が通った話だ。たしかに、進化的心理メカニズムは行動に影響を与えているだろう。だが、文化のほうはどうなんだ。文化もまた、社会化を通じて人間の行動を形づくっているのではないか。伝統的な社会学者は、生まれつきの性向よりも、文化的影響で形成される部分のほうが大きいと言っている。それについて、進化心理学はどう考えているのか」という疑問です。

たしかに、文化と社会化はある程度、行動に影響を与えるとミラー氏は言います。しかし、伝統的な社会学者ら標準社会科学モデルの信奉者の大きな誤りは、人間の行動が無限の可塑性をもち、文化的な慣行や社会化によってどんな鋳型にもはめられると考えていることだと指摘します。多くの証拠が示すように、この見方はまちがっていると言います。人間の行動はさまざまに変えられますが、文化によって限りなく多様なものになるわけではないと言います。そもそも文化は限りなく多様ではありません。実際、進化心理学では、人類のすべての文化は表面的かつ些細な違いはあるものの、大なり小なり同じであると考えているそうです。

社会科学の議論だけでなく日常会話でも、英語のカルチャーという言葉は、多くの場合複数形で使われます。世界にはさまざまな支化があると思われているからです。ある次元では、たしかにそのとおりだとミラー氏は言います。アメリカ文化と中国文化は違いますし、いずれもエジプト文化とも違います。しかし、こうした文化的な差異はすべて表面的なもので、その奥深く、最も根底的なレベルでは、人類のすべての文化は本質的には同一だというのです。

文化人類学のマーヴィン・ハリスが考えた有名なたとえを引き合いに出せば、たしかに表面的なレベルでは、ある社会の人たちは牛肉を食べ、豚を神聖なものとして崇めるし、別の社会では豚肉が食料になり、牛が崇拝の対象になるということがあります。つまり具体的なレベルでは、文化の違いがあるのです。しかし、牛も豚も、犬やクジラやサルと同様、タンパク源であり、牛も豚も、ブッダやアッラーやイエスと同様、生きた崇拝の対象なのです。どの人間社会でも、人々は動物性タンパク質を摂取し、生きた対象を崇拝します。抽象的なレベルでは、例外はなく、人類のすべての文化は同一です。動物性タンパク質を摂取せず、生きた対象を崇拝しない文化が存在しないという意味で、人類の文化は限りなく多様とは言えないのだとミラー氏は言います。

人類の文化は多様?” への7件のコメント

  1. イスラエルのエルサレムには、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教という三大宗教があるなか、その三つの唯一神は名前が異なるだけで同じ存在を示していると聞きました。これは、ほとんど宗教に馴染みのない人の考えかも知れませんが、宗教一つをとっても「その奥深く、最も根底的なレベルでは、人類のすべての文化は本質的には同一だ」ということが理解できます。世界の争い事を、このようなマクロな視点で見ていくと、もっと平和が増えるというのはこれまでも言われてきたことだろうと思いますが、皆がそう望むとは限らないということなのでしょうか。そして、進化的心理メカニズムと環境から人間の行動を紐解いていくことは、多様な文化すらも網羅する共通の思想を再び思い出せれてくれるようにも感じました。

  2. 男性は攻撃的、競争好き、暴力的、というステレオタイプは、そうした傾向を持つ女性と具体的に出くわした時、???となります。この?に対する答えが今回のブログの冒頭に書かれてあることです。私はこのことを知って凄く納得しました。私たちの遺伝子は生物38億年の記憶を持っています。そして、その遺伝子にはオンオフがあるようです。村上和雄先生の著書を読むとわかります。「一部の魚、両生類、鳥は雄の体の中で受精卵が育ち、その結果、雌のほうが適応度の上限値が高い」当然私たちはこうした生物の遺伝子も受け継いでいるはずです。女性が攻撃的だったり、競争好きだったり、暴力的だったりすることの意味が合点しました。また、文化は表層的で実は私たちホモサピエンスの深層世界は同一であると私は思っています。「動物性タンパク質を摂取せず、生きた対象を崇拝しない文化が存在しない」。私は、この地球上の誰とでも関係を構築できると信じています。現在、SNSというツールによって全世界の人たちとほぼ瞬時で関係を築くことができます。なぜなら、私たちは深層では同一だから。このことは極めて重要なことです。藤森先生の提唱する見守る保育の真髄はこのことに関わるのです。

  3. 〝進化心理学では、人類のすべての文化は表面的かつ些細な違いはあるものの、大なり小なり同じであると考えている〟とありました。そのように考えていくと、各地での紛争や迫害や差別のようなものが、とてもちっぽけなものに見えてきました。進化心理学の視点からみていくと、世界のみんなと手を取り合うことができるような気がしますが、今までそうならなかったのにも何か理由があるのでしょう。
    現代では世界中の人々とすぐにつながることができるツールがあります。そのツールを駆使すればいろんなことができるようになりそうです。世界中の問題なら解決の糸口になるものかもしれませんね。

  4. 男性の持つ性質、女性の持つ性質というものがあるということを知りました。それが遺伝であれば、文化とは環境であるのでしょう。世界には様々な文化が存在し、宗教が存在し、それによって多様な環境がそれぞれにあるように思えますが、根本的なものは実はほとんど同じであるという解釈はとても新鮮で納得のできるものと思えます。遺伝と、そして、環境の中で育っていく人間、その本質は大きく変わらないのだと思うと、世界というものをもう少し小さく感じるような気持ちになります。

  5. 「大きな誤りは、人間の行動が無限の可塑性をもち、文化的な慣行や社会化によってどんな鋳型にもはめられると考えていることだと指摘します」無限の可逆性があるわけではないということ。得意、不得意、向き不向きではありませんが、一生懸命に努力すればいいというだけではなく、自分が好きなものを見つけてとか、得意なもの、向いているものを見つけて、その道を歩んでいけばということが付け加えられるといいのかもしれません。やはり持って生まれた才能のには勝てないですね。「こうした文化的な差異はすべて表面的なもので、その奥深く、最も根底的なレベルでは、人類のすべての文化は本質的には同一だというのです」そうなんですね。そうであると、やはり全人類的に共通するものはきっとあるはずです。それが教育、保育におけるものにも必ずあるはずですね。主体性を大前提とするということもそのようなことの一つでもあるのかもしれません。

  6. 「分化によって限りなく多様なものになるわけではない」とあります。これは「文化」という「そもそも」をどう見るかということなのでしょうね。表面上のあり方を見ていると非常に多様に見えますが、その根底にある「人が集団をつくり、その集団における一種のルール」という意味で文化があるということを見ていくと大きく見え方が変わります。そもそもそういった文化を作ること自体を考えると本質的には同じになってく来ますね。非常に深いです。どの部分まで掘り下げて考えていくかで見え方は大きく違ってきます。これからのグローバルな社会では、これくらい大きな視野で物事を見ていく視点が求められていくように思います。

  7. 文化の違いによって、様々な考え方や思考の持ち方が違う、まるで、人の種が違うかのようにいつの間になっているような概念をもっていたように思います。”文化的な差異はすべて表面的なもので、その奥深く、最も根底的なレベルでは、人類のすべての文化は本質的には同一だというのです。”根本的なところを振り返れば確かに、という内容でした。宗教によって、豚は食べない、とか文化によって食べない動物の種があるっても、実際に動物性たんぱく質をとるためにという根底を見れば、同一であることがわかります。根底、根本を見返すと、共通性があることを感じます。

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