ミスマッチ

長い時間をかけて進化してきたヒトの子育てに関する性質が、現代の社会・文化の状況とミスマッチを起こしている例があると蔦谷氏は言います。しかし、ヒトの生物学的な性質と食い違うからといって、こうしたミスマッチをすぐさま悪と断罪することもできないとも言います。帝王切開は危険な状況にある母子の命を数えきれないほど救ってきましたし、粉ミルクは親たちの心強い味方でもあります。現代の日本であれば、西洋医学や多種多様の公的・私的サービスを適切に活用することで、こうしたミスマッチから生じ得るリスクは無視できるほど小さくなるといいます。

ヒトも長い進化の歴史を背負った動物であるという事実は、現代に生きる私たちの子育てに対して正解を指し示すものではなく、よりすこやかに子育てをするためのまた別な視点を与えてくれるものであると蔦谷氏は言うのです。人間にとっての常識や「当たり前」は、わずか数十年で変化し固定し、私たちの子育てを縛り制約していると言うのです。何十万年という進化の時間の中でヒトが行ってきた子育ての原型を知り、現代社会の子育てがどのくらい同じだったり違ったりするかを考えることで、そうした束縛を一歩引いて玲静に眺めることかできるのではないかと蔦谷氏はまとめています。これは、私がやっている作業と同じ考え方です。現在、子育て、子どもの心理について、常識だと言われているものが、エビデンスがあると言われているものが、本当にそうであるかを確認するのは、まず、子ども自身の姿を見て、そこから考えること、次に、世界中の人類の共通の先祖である、ホモ・サピエンスの進化から、そもそもを考えること、が大切だと私は思っているのです。

蔦谷氏は、さらに質量分析などの自然科学的な手法を用いて、主に過去のヒトの授乳・離乳習慣について調べているそうです。江戸町人の古人骨を分析した研究では、当時の子どもは三歳一カ月くらいまで授乳されていたことを明らかにしたそうです。江戸時代の医学書などには三歳くらいまで乳をあげるのがよいといった記述もあり、歴史学の研究成果とも矛盾しない結果だったそうです。縄文時代の離乳年齢を復元した研究では、当時の子どもは三歳半くらいまで授乳されていたことを明らかしたそうです。現代の感覚からするとだいぶ離乳が遅いように思えますが、母親の労働形態の変化や粉ミルクの普及のため、現代の工業化社会では一般的に授乳期間が短くなっていると蔦谷氏は言うのです。

ヒトに近縁な霊長類の授乳や離乳にも興味を抱き、オランウータンやチンパンジーの離乳年齢も同様の手法で調べているそうです。新しい方法の開発にも着手しており、タンパク質を網羅的に調べるプロテオミクス分析という手法を授乳や離乳の研究に応用したりもしているそうです。

彼は、さらに学びたい人のために、以下の本を紹介しています。1冊目は、ダイヤモンド・Jの「人間の性はなぜ奇妙に進化したのか」という本です。ダイヤモンド氏については、私もかつて彼の著書である「昨日までの世界」をブログで取り上げたことがあります。そこでは、人類が行ってきた伝統的育児をもう一度見直そうと言う提案がありました。また、「第3のチンパンジー」にも同じようなことが書かれてあり、とても興味深い本です。

柔軟な離乳

ほかの霊長類とは異なり、ヒトでは、男女や子どもがそれぞれ獲得してきた食物を分かち合い、特に大人から子どもに積極的に食物を提供します。ヒト以外の霊長類でも母子間や大人間で食物を分配することはありますが、他個体が食物を取っていくのを黙認するという側面が強く、ヒトのように積極的に分け与えることはまれだそうです。こうした特徴のため、ヒトの子どもはスキルが未熟で体力が弱くても、肉や根茎など、獲得が難しいけれども栄養価の高い食物を多く食べることができ、病気や怪我をして一時的に食物を獲得できなくなっても、飢え死にすることなく、回復し生きながらえることができます。

離乳が早く柔軟であることも、ヒトの多産な性質に貢献しています。授乳中は母親の体内で分泌されるホルモンの濃度が変化し、栄養条件がそこまでよくなかった場合、排卵サイクルが停止し、妊娠できない状態になります。そのため、出産間隔を短くするには、離乳を早める必要があります。しかし、ヒト以外の霊長類では、離乳が終わると子どもは自力で生きていかねばならないため、まだ独立できない状態で無理に離乳を早めると、子どもは餓死したり捕食されたりしてしまいます。一方ヒトでは、離乳後も大人が子どもに食物を提供するため、子どもの死亡率を増加させることなく離乳を早められます。また、授乳中は乳を出せる母親の存在が必要ですが、離乳が終われば、ヒトでは共同保育と食物提供によって、母親がいなくとも子どもを育てられるようになり、母親は時間やエネルギーを次の子どもの妊娠に割り振ることができます。こうした特徴のため、平均的な離乳年齢は、チンパンジーで4~5歳、オランウータンでは6~7歳ですが、工業化していないヒトの社会では2~3歳と早くなっています。さらに、ヒト以外の霊長類の離乳年齢はそこまで融通のきかないものですが、ヒトの離乳年齢は柔軟で、全体の分布を見ると0~6歳といった広い幅があります。

このように、ヒトは、食物提供によって、子どもの死亡率を低下させ、条件に応じて早く柔軟に子どもを離乳させ、出産間隔を短くできるようになりました。さらに、共同保育によって、子育ての負担を母親以外にも分散させ、上の子どもがまだ独立していない段階で下の子どもを産み、手のかかる子どもを複数同時に育てられるようになったと蔦谷氏は言います。

長い時間をかけて進化してきたヒトの子育てに関する性質が、現代の社会・文化の状況とミスマッチを起こしている例があると蔦谷氏は言います。たとえば、20世紀になって子育ては核家族などのごく狭い関係に閉じられるようになりましたが、共同保育によって分散させていたコストや苦労が特に母親に集中し、虐待や自殺など、時に母子の命を危険にさらすほどのストレスがかかることになったと言います。また、帝王切開で産まれる子どもの数は世界的に増加し続けていますが、帝王切開で産まれた新生児は、膣を経由する際に獲得するはずだった、母親の持つ細菌の一部を受け継ぐ機会を失っており、免疫関連の疾患などにかかるリスクがわずかに増加することがわかっています。商業主義の粉ミルクが市場を席巻した結果、ヒトの早く柔軟な離乳が極端に走りすぎ、母乳のもたらす免疫的な防御を受けられずに亡くなる乳幼児が増加したという痛ましい過去もありました。進化によってヒトという動物の性質が生物学的に変わっていく速度より、ヒトをとりまく社会や文化の状況が変化する速度のほうが圧倒的に早いため、こうしたミスマッチが起こっていると蔦谷氏は分析しています。

難産で手がかかる

ヒトの乳幼児はひときわ無力な状態にあり、子育てには手がかかります。ヒト以外の霊長類では、乳幼児は親の身体に自力でつかまり、眠っている時も離しません。しかしヒトの乳幼児は自力でつかまることができないため、誰かが抱っこしてあげる必要があります。生後しばらくは首もすわりませんし、寝かしつけなども必要です。

ヒトの乳幼児が特に無力なのは、脳が大型化したためと言われています。ヒトの祖先で脳が大型化し始めたのは直立二足歩行が完成した後だったため、胎児の段階で脳を成長させて大きくすると、もはや産道を通ることができなくなってしまいます。そのためヒトは、胎児のように未熟な状態で生まれ、生後しばらくは急速に脳を成長させることで、脳を大型化させるようになりました。たとえばチンパンジーやゴリラでは、5歳くらいまでに脳重量は出生時の2倍になって大人の大きさに達しますが、ヒトの脳重量は出生後1年で2倍になり、5歳くらいまでには3.5倍になって、ようやく大人の脳の大きさの約90パーセントに達します。

出生後もしばらくは脳の成長にエネルギーをとられるため、ヒトの乳幼児の身体の発達はゆっくりになり、大人に依存する期間が長びきます。安静時のヒトが消費するエネルギーのうち、脳の消費分は、ヒトの大人では20パーセント程度なのに対し、5歳以下では約39パーセントから66パーセントに達します。

難産で乳幼児には手がかかるにもかかわらず、ヒトは非常に多産な霊長類です。野生チンパンジー、ゴリラ、オランウータンの平均的な出産間隔はそれぞれ5.5年、4.4年、7.6年ですが、ヒト狩猟採集民では3.7年です。ヒトの出産間隔が比較的短く、短期間にたくさん子どもを産み育てられるのは、共同保育、子どもへの食物提供、早く柔軟な離乳のためだと蔦谷氏は言います。

ヒトでは、母親以外の個体も子育てをよく手伝い、子育てのコストを母親から他者に分散させていると言います。ほかの霊長類では、子育てをするのは母親ひとりという種がほとんどです。しかしたとえば、工業化されていない社会の複数のヒト集団を調べた民族学的な研究では、乳幼児に対する食事、抱っこ、身づくろいなど直接的な世話のうち母親が担当する時間割合は平均して50パーセント程度で、残り50パーセントは年上のきょうだいやおばあちゃんや父親が担っていました。母親以外の女性による授乳もヒト社会では広く見られ、調べられた約200集団のうち47パーセントで観察されているそうですが、ほかの霊長類では、キンシコウやキツネザルや中南米の新世界ザルの一部でよく観察されるくらいだそうです。

霊長類の中でヒトの女性にのみ明確な閉経が進化したのも、共同保育に関連があると蔦谷氏は言います。個人差はありますが、狩猟採集民の女性は10代後半から繁殖可能になり、25~35歳くらいで繁殖力はピークに達し、50歳までには閉経して子どもを産めなくなります。女性にとっては、死ぬまで繁殖力を保ち自分の子どもを産み育てるよりは、中年以降は繁殖せず、血のつながった孫の子育てを手伝うほうが、ヒトの進化してきた環境では、結果的に多くの子孫を残せたと考えられています。実際、さまざまなヒト集団を調べても、特に母方のおばあちゃんが子育ての重要な協力者であることがわかっているそうです。

ペアの役割

セックスに見られる特徴も、ヒトが基本的にペアを維持する種であることを示しているそうです。発情期にのみ交尾する多くの霊長類と異なり、ヒトはいつでもセックスできます。また、女性がいつ排卵期にあるかは、行動や外見の特徴からはわかりません。妊娠可能な排卵期にある女性にのみアプローチする移り気な戦略がとれなくなり、確実に自分の子どもを残したければ、男性はペアをつくった女性と常に一緒にいる必要があるというのです。女性のほうも、ペアをつくって男性をつなぎとめておくことで、子育てや外敵からの防御に男性の協力を得られます。繁殖のためだけでなく快楽のためにヒトが行うセックスには、こうした男女のペアを維持するはたらきがあると考えられているそうです。

ヒトではさらに、ペアを基本とする単位が集まり、なわばりをつくって敵対することもなく、友好的に共存して大きな集団をつくります。しかし集団間ではかなり敵対的な闘争が起こることもありますが。ほかの霊長類は基本的に、集団のほかのメンバーの前でも平然と交尾を行います。しかし、ヒトは他者の目の届かない場所でセックスをします。ヒトでは、浮気を誘発することのないようにセックスが隠蔽されたのではないかとする説があるそうです。

直立二足歩行と脳の大型化のため、ヒトの出産は特に難産です。腰やお尻の部分にある骨盤は、二足歩行を支える重要な部位であるとともに、その内側には産道が通っています。二足歩行に適応したヒトの骨盤では、産道が湾曲して中央部が狭くなっており、胎児の頭がぎりぎり通れるだけの幅しかありません。これ以上産道を広げようとすると、骨盤の脚のつけ根が離れていき、足を踏み出すたび体の軸が左右にぶれて、二足歩行のエネルギー効率が低下します。そのため、胎児の頭がかなり通りづらいにもかかわらす、ヒトはこれ以上産道を大きくできなくなりました。

そして、ヒトの出産には命の危険がともなうようになり、医療の介入がない場合、出産によって母親が死亡する割合は1.5パーセントにのぼるとする報告もあるそうです。その一方、四足歩行をするほかの大型霊長類ではこうした制約がないため、胎児の頭に対して産道のサイズはわりと余裕があります。

大きくかたい頭を通すため、胎児のほうにもヒト独自の特徴が見られます。ヒトの産道の入口は左右に幅広で、出口は前後に広くなっています。前後に長い頭を通すため、胎児は、産道の入口では頭を横に向け、中央部で90度回転し、出口では頭を後ろに向けて出てきます。そして幅広の肩を通すため、また回転します。また、頭の骨は複数のパーツからなりますが、胎児の段階ではそれらがまだ完全にはくっついていません。頭の形が少し変わることで、産道の通過の困難さをやわらげます。

新生児の顔の向きも問題になるという説があるそうです。産道から出てきた新生児の顔は、ニホンザルなどの小型の霊長類では一般的に母親の腹側を向いていますが、ヒトでは背側を向きます。これは、胎児の頭の中でも最も大きくかたい後ろ側が、産道をどう通るかが異なるためだそうです。新生児が母親の腹側を向いていれば、母親は頭を出した新生児をひっぱって取り上げることができます。しかしヒトのように背側を向いている新生児を母親がひっぱると、新生児はエビ反りする方向に曲がり、場合によっては脊椎を損傷してしまいます。このため、ヒトの出産では産婆や親類などの他者がつきそい、胎児がなかなか出てこない時には、母親に代わって取り上げてやる必要があります。しかし、ヒトに近縁なオランウータンやチンパンジーでも、新生児の顔は母親の背中を向いて出てくるという報告もあり、頭が背中を向くと他者のつきそいが必要になるという因果関係に疑問を呈する研究者もいるそうです。

直立二足歩行

蔦谷氏は、ヒトの子育ての在り方に影響している進化における特徴を挙げています。直立二足歩行と、体重に対して特に大きな脳は、ヒトのユニークな身体的特徴だと言われています。直立二足歩行は500万~700万年前くらいに開始され、だんだん洗練されたものになっていきました。よつんばいではなく、まっすぐ立って歩くことで、ヒトの祖先は森林を出て生息域を広げることができるようになりました。直立二足歩行が完成した後、250万年前以降に、今度はヒトの祖先の脳が急激に大きくなり始め、す。脳の大型化を可能にしたのが、肉食と火の利用だったと考える研究者もいます。実は、日常的にこれほど動物の肉を食べる霊長類は、ヒトくらいしかいないと言われています。大型霊長類の主食である生の果実、葉と比べて、肉や火を通した食物は、消化吸収しやすく、得られるエネルギーも大きいことが知られています。腸は脳の次に多量のエネルギーを消費する器官ですが、消化吸収しやすいものを食べるようになれば、腸を短縮させて、消費エネルギーを節約できます。こうして生じた余剰のエネルギー大きな脳にまわすことができるようになったのです。

ほかにも特徴があります。それは、ヒトはゆっくり成長して長く生きる動物だということです。ほかの霊長類の子どもは、離乳が終わると独立して自力で生きていくのに対し、ヒトの子どもは離乳後も大人に依存します。伝統的な狩猟採集や農耕に従事する人々では、自分で獲得するエネルギーが消費するエネルギーを上回るようになるのは10代中頃から20代前半で、それ以前には大人から食物の供給を受けて生きています。

10代の思春期になると、ヒトは急激に成長して大人の身体に変わっていきますが、これはヒト特有の現象だそうです。思春期には体つきが女性、男性らしくなる二次性徴があり、生殖能力が獲得されますが、男女でその様相は異なります。ヒトの女の子は先に身体が成熟しますが、排卵サイクルが確立して繁殖可能になるのは数年後です。見た目は大人ですが、早すぎる妊娠のリスクを負うことなく大人の活動に加わり、後に繁殖を開始した時のための学習や経験を積むことができるのです。一方、ヒトの男の子は、生殖能力を先に獲得し、その後に身体が成熟するのです。見た目は子どものままなので、大人との競合を避けつつ、子孫を残すための競争にこっそり参入できるメリットがあると言います。

ヒトは、長い時間かけて成長し、学習や経験を積んだ後、長く生きてこの投資を回収していくと言われています。昔のヒト社会では、乳幼児の死亡率が高いため、平均をとると寿命は短くなってしまうのですが、長く生きる人は長く生きていたようです。たとえば生活環境の厳しかった縄文時代でも、15歳まで生き残れば、そのあと4割程度の人は60歳以降まで生き続けられたとする研究成果もあるそうです。

そして、基本的に男女がペアをつくり、長期間にわたって配偶関係を継続するのがヒトの特徴です。オスがハーレムをつくったり、交尾相手をころころ変えたりする種と異なり、ヒトでは、闘争の武器になるオスの真正面から数えて三番目の糸切り歯である犬歯のサイズが小さく、精子を産生する精巣(陰曩)のサイズもそこまで大きくありません。ヒトはペアをつくるため、メスをめぐるオスの身体闘争や交尾回数の競争が比較的ゆるやかなのがその理由だそうです。

親のがんばり

平石氏の子育ての説明を聞くと、自分は子どもがかわいいから子育てしているのであって、子孫を増やそうとか、ましてや自分の遺伝子を増やそうと思って子育てしているのではないと思ってしまうかもしれません。彼は、その意見は正しいと言います。自然淘汰は、結果として子孫の数が増えてしまうような特徴や行動を進化させるのであって、個々の動物が何を考えているかは重要でないからだと言うのです。身近にいる小さくてコロコロしていて、ギャンギャン泣くけれど、時にとろけるような笑顔を見せる存在。その笑顔を見たくてお世話してしまうことが、結果として子孫を残すことにつながっていれば、自然淘汰が働くのには十分だと言うのです。甘いお菓子を食べることが、結果として栄養摂取につながるのと同じように。お菓子の「甘さ」や、赤ちゃんの「かわいらしさ」は、適応的な行動を引き出す「スイッチ」だと平石氏は言います。

彼は、親の役割について冒頭で、家庭環境、たとえば「ほにゃらら教育法」の効果は小さそうだ、という話を紹介しました。なぜそうなのか、それが何を意味するのかについて、もう少し考えています。

実は、公教育の整備が不十分だと、家庭環境が子どもの知的能力に大きく影響するようだ、という議論があります。学校での教育が不十分だから、家庭や親による差が出るということです。逆に言えば、「親のがんばり」による上乗せがほとんどないことは、公教育が十分であることを示唆していることになると言います。そう考えると、親の影響力が小さいことは、嘆くことではないと言います。子どもの視点で見れば、特別な教育法を行う意思や余裕がない家に育っても、社会の中に学ぶ環境がきちんと用意されていることを意味するからだと言うのです。私たちが「親」としてがんばるならば、そのがんばりの一部は、自分の子どもにではなく、そうした社会を作り維持していくことに向けられても、よいのではないかと彼は、考えています。

「正解は一つじゃない子育てをする動物たち」(東京大学出版会)の本は、数人の研究者によるリレー執筆ですが、第1部では、動物の子育ての基本を伝えています。その1章は平石界氏によって、進化的考え方の枠組みを紹介しています。次の執筆は、海洋研究開発機構ポストドクトラル研究員である蔦谷匠氏による、「ヒトという動物の子育て」です。彼は、まず、「どんな動物?」という問いに、一言でいうと、「二足歩行で脳の大きなおサルさん」と答えています。それが、子育ての特徴を作っているようです。

ヒトであるホモ・サピエンスは、地球上の最も多様な場所に生息している霊長類である「サル」です。顔の正面についていて立体的にものが見える目、親指とほかの指で何かをつかめる手、体重に対して大きな脳などは、いずれも霊長類に共通する特徴です。DNAの塩基配列の違いを調べても、チンパンジーと非常に近く、ヒトとチンパンジーの系統は590万~730万年前頃に分かれたと推定されています。ヒトは20万~30万年前のアフリカに誕生し、約6万年前以降、世界各地に広がって定着していきました。野生霊長類の多くは熱帯や温帯の森林に暮らしていますが、ヒトは海を越えて行き来し、衣服によって寒さをしのぎ、オーストラリアや北極圏にすらも分布を広げました。

ちょうどよいバランス

親は、自分が持っている資源に対して、個々の子にどれだけ手間をかけるのか、という問題もあると平石氏は言います。それを彼は、こんな例を出しています。たとえば、ある親が持っている資源の合計を50として、そのうち子育てに使えるのが10だったとします。その10を子一人にすべて使うのと、二人に5ずつ使うのと、どちらがより多くの子孫を残すことにつながるのでしょうか。一人にかける手間が5でも10でもその子の生存確率に大きな差がないのならば、二人に5ずつ配分するのが「正解」だというのです。しかし5から8に増やすことで大幅な効果があるならば、ほかに回す資源を削ってでも、二人に8ずつ合計16の資源を子育てに使うのが、最適となるかもしれません。全く逆方向に、一人に0.1ずつにして100の子を産むほうが、子孫の数という点ではよい場面もあるでしょう。同時に産む子の数だけでなく、出産間隔も同じような意味を持ちます。1年に何度も出産するのと、数年間隔で出産するのとでは、話がたいぶ違ってきます。

さらにややこしいことに、親にとってちょうどよいバランスと、子どもから見たそれは必ずしも等しくないと平石氏は言います。親にとって「二人に5ずつ合計10がベスト」であっても、子からすれば「自分に10、弟に4がベスト」かもしれないというのです。彼は、これは人間くさい話に聞こえるかもしれませんが、ヒトでもヒト以外でも理屈は同じだというのです。

こうして子育てにかけられる資源の量と、子どもにかかる手間の大きさが決まってくると、それをだれが負担するのか、という問題が立ち現れてくると平石氏は言います。一人で子育ての手間が十分にまかなえるとなると、父親と母親のどちらがそれを担うか、夫婦の葛藤が生じると言います。両親のかかわりが必須な場合であっても、ズルして自分の負担を逃れようとする者が出てくるかもしれないと言うのです。鳥類やほ乳類など、受精がメスの体内で生じる場合、オスからすれば、生まれてきた子が自分の子である保証は100パーセントではありません。父性が不確実ならば、オスは子育てへの投資に消極的になるかもしれないというのです。

他方で、親以外の個体が子育ての負担を担うよう進化が働くこともあるようです。平石氏が自然淘汰の説明をした時のA型病の話を考えると、淘汰されるのは「A型の人」ではなく「A型の遺伝子」だったことに気づきます。つまり進化で重要なのは、遺伝子を残していくことなのです。血のつながった子どもの成長を助けることで自分の遺伝子を増やせる可能性があるので、きようだいや親戚が子育てに参画する場合も出てくるということになるというのです。

平石氏の、どうして子育てをするのか、誰が子育てをするのか、どうやって子育てをするのかという説明は、とても興味がわきます。少し理屈っぽさも感じますが、確かのそうなるのだということも納得します。このように子育てには、その動物の暮らしがさまざまにかかわってくることはわかります。それぞれの動物によって、どれくらいの大きさの動物で、何を食べているのか。誰と誰が一緒に暮らしているのか。もしくは単独生活者なのか。一度に産む子の数はどれくらいで、どのくらいの頻度で出産するのか。子どもの成長にどの程度の手間がかかるのか。随分と様々ですが、その中で人間はどうなのでしょうか?

子育ては大変

人間における「子育ての進化」を考えるうえで、平石氏は、まず進化について説明しました。そこで、進化とは環境に適した生物の子孫が増えていくことだ、と説明しました。それでは、なぜ動物は子育てをするように進化したのかということを考えます。この問いへの解答は一見簡単だと言います。生まれてきた子を放置するよりも、手をかけて育てたほうが、子どもの死亡率が下がり、子孫が増えてよさそうだと思います。しかし平石氏は、本当にそうだろうかと問いかけます。世の中には子育てをほとんどしない生物もいます。たとえばアゲハチョウの父親からの子への関与は、交尾をするところまでです。母親も、子の食べ物のそばに産卵するくらいのことはしますが、そこまでです。はらペこあおむしを見守って、りんごやいちごやアイスクリームを用意するわけではないというのです。

アゲハチョウのような放任主義でも、子(幼虫)はきちんと成長します。それならなぜ、われわれヒトは手間暇をかけて子育てをし、夜三時間ごとに起きて赤ちゃんにミルクを与えているのでしょうか。その解答を、平石氏は、進化から子育てを考える時に鍵となる点を紹介しています。それは子育てにかかわったことのある人ならば誰もが知っていることだと言います。「子育ては大変」。これが鍵だというのです。しかしなぜ子育ては大変なのでしょうか。彼は、それは親の持っている時間、体力、財産などの資源が有限だからだということに気づくだろうと言います。王侯貴族のように資源が潤沢にあれば、ずいぶんと子育ては楽になるはずだろうといます。しかし、現実の親の多くは、限りある資源をやりくりして、一方で自身の生命を維持し、他方で子どもを育てなければならないのです。進化的視点から見れば、自身の成長や配偶にも資源を回す必要があるのです。

では、何にどれくらい手間かかかるのでしょうか?何にどれくらいの資源を費やすのでしょうか?ベストなバランスは、その動物の生活スタイルによって変わってきます。より手間暇がかかることには、より多くの資源を使わざるをえないからです。資源配分のベストなバランスを決める要因には、さまざまなものがあると平石氏は言います。たとえば食べ物の種類です。手近で簡単に手に入る食料、たとえば草原の草などと、あちこちに散らばっている食料、たとえば森の中の果実とでは、手に入れるための手間暇が変わります。肉食ならば手間はさらに大きくなるでしょう。加えて、もし子どもが大人と同じものを食べられないなら、途中まで消化してから与えるとか、全く違ったかたちであるミルクに変えてから与えるといった手間が増えます。食べ物によっては、探し方や取り方を子どもに学ばせる手間も必要となってくるでしょう。

同じくらい重要な問題として、自分たちが食べ物となってしまう危険性も無視できないと言います。子が自分で身を守ることができないなら、親がそばにいて捕食者から守ってやる必要があります。親が狩りに出かける間、残された子の安全を確保するためには、安全な場所まで運んで隠す必要もあるかもしれないと言います。いくら保護してもある程度は死んでしまうことが避けられないなら、たくさんの子を産む、という対抗策が進化することもあります。

自然淘汰と進化

平石氏は、もう少し整理しています。現時点では血液型によって、環境への適応度に大きな差はありません。適応度とは、ごく簡単に言うと、生存確率と繁殖確率をかけ合わせたものです。しかしA型病が発生することで、A型遺伝子は環境に不適応な遺伝子となります。A型の人の生存確率は高くなるものの、繁殖確率がゼロになってしまうからです。そのため、いずれA型遺伝子は自然に淘汰(選別)されて消えていくことになります。世の中に残るのはA型病ウイルスに耐性を持つ、環境に適応した人々、つまりB型、O型の人々ということになります。自然淘汰による進化とはこのよう環境に適してないものの子孫が減り、適したものの子孫が増えていくことで、結果として、生物の集団(個体群)が環境により適した姿へと変化していくことを言うと説明しています。

進化について、平石氏はさらにこのような経緯を例に出しています。自然淘汰による進化には、何の「意思」も「目的」も介在しないと言います。B型やO型の人が淘汰されないのは「A型病への抵抗力を身につけよう!」と考えて食生活を変えたり、血液を鍛え直したりしたおかげではありません。たまたまA型病にかかりにくかっただけです。同じことはA型の人々についても言えます。彼ら彼女らが淘汰されたのは、怠惰で努力を怠ったからではありません。たまたまにすぎないのです。誰も何も考えていないのに、結果的に、生物が環境に適した「よい」姿に変化してしまうのが、自然淘汰による進化なのです。

あらためて進化をこのように説明されると、確かに、私たちがしばしばニュースなどで見かける「進化」と大きく異なります。平石氏は、スポーツ選手がインタビューなどで「もっと練習して進化していきたいです」などと言うことがありますが、この「進化」は、何かのゴールをめざし、そこに到達するために計画を立て、意思を持って進んでいく変化をさしています。それに対し、自然淘汰による進化にはあらかじめ決められたゴールはないというのです。スポーツ選手の進化も、自然淘汰による進化も、どちらも生物の姿が変化していく過程を表した表現ですが、その中身は大きく違うというのです。

生物は、その暮らす環境に適した姿かたち、能力を進化させています。それでは、進化した姿は「よい」ものと言えるのかということを平石氏は問いかけています。それを考える前に、「環境への適応としてのよさ」と「道徳的な善さ」を区別しておかねばならないと言います。動物には、思わず眉をひそめてしまうような例も、逆に感心してしまうような例もあります。例えば、身近なある動物の父親の無責任な姿と、その近縁種の父親の称賛に値する姿が紹介されます。しかし彼らの一方を「悪い父親」、他方を「善い父親」と評価することは控えなければならないと言います。

なぜでしょうか。「私たちからすると感心できないが、彼らの生き方では、それが善なのだ」という意見もあるかもしれません。うっかり賛成してしまいそうな意見ですか、これも少し違うと言います。このような論法で考えると、ある動物にとって「自然」なことは、道徳的にも善いことになってしまうからだと言います。それでは、病気で余命12カ月の人が3カ月後に亡くなるのは「善い」ことになってしまいかねないというのです。自然であることイコール道徳的に正しいとしてしまうのは、いささか安直であることかわかると言います。さまざまな子育ての例を知って、「こんなやり方があるのか!」「こんな手抜きもあるのか!」と驚いてほしいと平石氏は言います。それが、様々な動物の子育てのやり方を紹介する意味だというのです。しかしその時に、「この動物は道徳的に劣っている」とか、逆に「人間より道徳的だ」といった価値判断に飛びついてしまわないようにも、お願いしています。

自然淘汰

顔以外のこと、たとえば双生児二人の「賢さ」や「人柄」のそっくり度を調べたら、どのようになるかについては、数十年にわたって研究が行われてきたそうです。その結果、二卵性双生児の「賢さ」や「人柄」の類似度は、一卵性双生児のそれと比べると、ほどほどでしかないことが明らかになってきたそうです。すなわち、普通のきょうだいと同じくらいにしか似ていないのです。つまり、子どもの「賢さ」や「人柄」に、家庭環境が与える影響はかなり小さいようなのです。

それでは子育てに意味はないのでしょうか。そんなはずはない、と平石氏たちは考えているそうです。同時に、そんなにがんばりすぎる必要もない、とも思うというのです。人間社会にも、放任から過保護まで、さまざまな子育てのスタイルがあることは知られています。人間以外の動物にまで目を広げた時、そのバリエーションはさらに広がります。さまざまな動物が、それぞれが置かれた場所で、それぞれのやり方で子育てをしています。誰にでも当てはまる、誰もが従うべき「子育てを成功させるたった一つの正解」などというものは存在しないと平石氏は言うのです。「そんなにがんばりすぎる必要はない」とは、そうした意味だと言います。

他方で、ヒトの親が子を愛おしく思うことが無意味とも言えないと言います。ほかの動物の子育てを知ると、逆にヒトの子育ての特別さ、不思議さ、その意味が見えてくると言います。そこで、本書では「子育てにはさまざまな姿がある。あって当然である」ということを「進化」という視点を軸に平石らは考えていきます。そこで、まず、進化とは何なのか、進化の視点から子育てを考えるとはどういうことなのか、そんなことを彼は紹介しています。

新聞やテレピ、ネットなど、さまざまな媒体で使われている「進化」という言葉は、しばしば平石氏らが使う「進化」とは違うものだと言います。彼らは、「自然淘汰による進化」について考えていきます。では「自然淘汰」とは何でしょうか。「淘汰」という日常あまり使わない熟語が使われていますが、もともとはselectionという英語です。セレクション、つまり選別です。自然に選別される、といった意味合いが「自然淘汰」という言葉にはあります。

平石氏は、ある架空の病気を例に説明しています。人間にはABO式血液型があり、誰もがA型、B型、AB型、またはO型のいずれかの血液型を持っています。どの血液型だからといって、人生が極端に困難だったり、逆に楽勝モードだったりということはありません。さらに、血液型で性格はわからないことははっきりしています。ところがある日、A型の人だけが罹患し、そして患者は男女問わず不妊になってしまう「A型病」という不治の感染症が発生したとします。世界はどうなるでしょうか。A型病にかかったからといって死ぬわけではなく、むしろ患者の健康状態は以前よりよくなるとします。しかしどれほど健康になり日々が充実していても、A型病患者は子孫を残すことがありません。そのためA型の人が産む子が減り、A型の遺伝子が段々と減っていくと推測できます。いずれ世の中からはA型と、そしてAB型の人もいなくなるはずです。これが自然淘汰による進化です。