ミスマッチ

長い時間をかけて進化してきたヒトの子育てに関する性質が、現代の社会・文化の状況とミスマッチを起こしている例があると蔦谷氏は言います。しかし、ヒトの生物学的な性質と食い違うからといって、こうしたミスマッチをすぐさま悪と断罪することもできないとも言います。帝王切開は危険な状況にある母子の命を数えきれないほど救ってきましたし、粉ミルクは親たちの心強い味方でもあります。現代の日本であれば、西洋医学や多種多様の公的・私的サービスを適切に活用することで、こうしたミスマッチから生じ得るリスクは無視できるほど小さくなるといいます。

ヒトも長い進化の歴史を背負った動物であるという事実は、現代に生きる私たちの子育てに対して正解を指し示すものではなく、よりすこやかに子育てをするためのまた別な視点を与えてくれるものであると蔦谷氏は言うのです。人間にとっての常識や「当たり前」は、わずか数十年で変化し固定し、私たちの子育てを縛り制約していると言うのです。何十万年という進化の時間の中でヒトが行ってきた子育ての原型を知り、現代社会の子育てがどのくらい同じだったり違ったりするかを考えることで、そうした束縛を一歩引いて玲静に眺めることかできるのではないかと蔦谷氏はまとめています。これは、私がやっている作業と同じ考え方です。現在、子育て、子どもの心理について、常識だと言われているものが、エビデンスがあると言われているものが、本当にそうであるかを確認するのは、まず、子ども自身の姿を見て、そこから考えること、次に、世界中の人類の共通の先祖である、ホモ・サピエンスの進化から、そもそもを考えること、が大切だと私は思っているのです。

蔦谷氏は、さらに質量分析などの自然科学的な手法を用いて、主に過去のヒトの授乳・離乳習慣について調べているそうです。江戸町人の古人骨を分析した研究では、当時の子どもは三歳一カ月くらいまで授乳されていたことを明らかにしたそうです。江戸時代の医学書などには三歳くらいまで乳をあげるのがよいといった記述もあり、歴史学の研究成果とも矛盾しない結果だったそうです。縄文時代の離乳年齢を復元した研究では、当時の子どもは三歳半くらいまで授乳されていたことを明らかしたそうです。現代の感覚からするとだいぶ離乳が遅いように思えますが、母親の労働形態の変化や粉ミルクの普及のため、現代の工業化社会では一般的に授乳期間が短くなっていると蔦谷氏は言うのです。

ヒトに近縁な霊長類の授乳や離乳にも興味を抱き、オランウータンやチンパンジーの離乳年齢も同様の手法で調べているそうです。新しい方法の開発にも着手しており、タンパク質を網羅的に調べるプロテオミクス分析という手法を授乳や離乳の研究に応用したりもしているそうです。

彼は、さらに学びたい人のために、以下の本を紹介しています。1冊目は、ダイヤモンド・Jの「人間の性はなぜ奇妙に進化したのか」という本です。ダイヤモンド氏については、私もかつて彼の著書である「昨日までの世界」をブログで取り上げたことがあります。そこでは、人類が行ってきた伝統的育児をもう一度見直そうと言う提案がありました。また、「第3のチンパンジー」にも同じようなことが書かれてあり、とても興味深い本です。