子育てする動物たち

様々なヒト族が地球上に出現し、それぞれが進化していく過程で、淘汰が繰り返され、最終的には、唯一ホモ・サピエンスという種だけが生き残り、地球上に分布しています。その経緯については、様々に考察されてきて、私のブログでも何回かにわたって紹介してきました。それは、保育をするうえで、人類はどのように進化してきたのか、それは、どのように生活し、どのような子育てをしてきたかを知ることが、大切にしなければならないことのヒントが得られると思ったからです。また、世界中で様々な風土の中で、それぞれ独特な文化を形成してきた中で、その根底に流れる不易を知るためには、すべての現在の人類が同じルーツを持っていることから、それぞれの地域に分かれる前を知ることに意味があると思ったからです。

ビョークランドらは、彼らの考察から、発達心理学における幅広いトピックからのデータを呈示し、現象には多様性があるものの、共通性を見出したと確信しているそうです。この共通性と関連しているのが、進化の原則にもとづく発達的な視点だと言うのです。ヒトの本質には文化が介在しているため、非常に多様な社会的状況で生活しているそれぞれの人たちが、全てのヒトが直面する同じ問題をどのように理解し、解決しているかを評価する必要があると主張しているのです。

先日、「正解は一つじゃない 子育てする動物たち」(東京大学出版会)という本を頂きました。この本は、総勢21名の若手研究者たちが、それぞれ研究対象としている様々な動物たちの子育てを語っています。そこには、それぞれ違う生物がどのような子育てをするかが紹介されているのですが、様々な子育てのしかたがあるものです。誰が子育てを担当するのかということでも、もちろん母親が中心ですが、父親だけで世話をするもの、母親だけで世話をするもの、両親が揃って世話をするもの、ほかの個体も一緒になって世話をするもの、様々です。どれが正しいかということではありません。

その中で、私たち人類は、どのような子育てが正しいかということが、時代によってさまざまに議論されてきている気がします。もちろん、時代によって環境が変わってくるわけですから、変わってくるのは当然かもしれませんが、他の動物たちもそうなのでしょうか?寒い時代、暑い時代、食料が少ない時代、豊かな時代によって、子育ての分担が変わってきているのでしょうか?

この本を監修した総合研究大学院大学学長である長谷川眞理子氏は、あとがきに、このように書いています。

「最近の日本は、労働力不足と経済の停滞から、女性にもっともっと働いてもらおうという風潮が強まっています。ところが、保育所の数は足りず、子育てしながら働く環境が整っているわけではありません。保育所に入れない待機児童の数は、全国で4万7000人以上です。なぜまだこんな状態なのかと言えば、高度成長期に『男は仕事、女は家事・育児』という役割分担が普通になってしまい、その後の社会の変化に全く適合できていない後遺症なのです。そして、少子化が進んでいます。こんな社会状況がある一方、『子どもはこういうふうに育てるべき』という、固定観念のようなものがたくさん転がっています。古い考えが多く、『母性神話』『三歳児神話』など、神話と呼ばれるものも多いですが、相変わらず神話は存続し、信者はいなくなりません。」

子育てする動物たち” への6件のコメント

  1. 前日のブログのコメントに動物たちの象徴機能行動に触れました。今回のブログを読みながらシンクロニシティを感じてしまいました。「それぞれ違う生物がどのような子育てをするか」この課題化認識は結構重要な気がします。「世界中で様々な風土の中で、それぞれ独特な文化を形成してきた」私たち。生存とどうリンクするのか。「正解は一つじゃない」とわかっていても、何だか一つの正解じゃなければ落着かない私たち。こうした意識があるからこそ「『母性神話』『三歳児神話』」がまことしやかに語り継がれ、否定材料があちこちから提出されても、なおその勢は衰えを知らないようです。「相変わらず神話は存続し、信者はいなくなりません。」保育界でもそうですね。50年以上前の誘導保育は今なお息づいておるどころか当今の学者先生たちによって肯定されます。いくら子ども主体と言っても、結局、先生たちの誘導のままに一日の保育を終えてしまう幼稚園等が存在します。「相変わらず神話は存続し、信者はいなくなりません。」何とも残念無念です。

  2. 様々な動物の子育てについての言葉のように「時代によって環境が変わってくるわけですから、変わってくるのは当然かもしれませんが、他の動物たちもそうなのでしょうか?」「寒い時代、暑い時代、食料が少ない時代、豊かな時代によって、子育ての分担が変わってきているのでしょうか?」という問題提起にハッとしました。確かに、時代によって子育て環境や社会情勢、家族形態などは変わっています。しかし、そのような変化する状況であっても、人間の「子育て」という営みも決して変わることのない不易な面であることを再確認しました。人類の起源からの子育て論を、藤森先生が提唱していたことを踏まえると、人類が立ち返らないといけない視点は、まさに時代によって変わることのない伝統的子育てなのだと感じます。それは、家族だけとか、母親だけとかとか、正しいのはなんだとか、こうするべきだとかではなく、社会が子育て込みの枠組みで考えられ、それに関わる人たちが寛容さを持ち合わせながら、互いにとって有意義な時間を共有しようとする心構えが必要だと思いました。正しさよりも、楽しさ。そんな社会にしたいですね。

  3. 「子育てにどれが正しいというのはない」ということが書かれてありました。改めて再認識させられるフレーズです。ということは、ケースバイケースで考えながら行う必要があることや、子どもの今をみながら考えていくことが求められるということになるのだと思います。育児書に書いてあることが正しいということではなく、大切なものは他にあることを感じます。そして、人類史から子育てを考えていくことは子育ての中の不変的な、なくてはならないものが見えてくるのではないか、と思います。「何が正しいのか」ということを考えるよりも「こうすれば楽しくなるんじゃないかな」と考えながら行っていきたいですね。

  4. このブログを読むようになって、保育の考え方が大きく変わりました。正直、初めは保育と人類史というものがなかなかつながらなかったのですが、意識して子どもの保育を考えていくうちに、人の営みにおいて、本来あるべきものは昔から脈々と紡がれてきた人の営みにこそ見るべきものがあるということを感じるようになりました。また、さまざまな時代によって保育観や育児論というものは変遷が見られますが、結局のところ戻るべきところに戻ってきているようにも思います。ある意味で、人のテクノロジーというのは進化の一歩をたどっていますが、その進化はあくまで「人間力」というものが土台でなければいけないにもかかわらず、テクノロジーの進化によって、人の本来の能力が弱くなってきているようにすら感じます。世界中で「見守る」ということが受けてきているのはまさに、この人本来の不易な部分を見ているからであり、原理原則に立ち返ってるからなのだと思います。保育や教育というのは本来はそれほど、拾いアンテナを張っていなければいけないというのを改めて感じます。

  5. 男女平等を謳っておきながらレディースデイなどの享受は喜んで受ける女性たちや、嫁をこき使いながらも自分は遊びにいく姑たち、稼ぎもないのに嫁は家にいるべきとパートも許さない旦那など、不必要な固定概念というのはそれを押し付ける側が、自分の利益を最優先して、自分さえ良ければ、という考え方を正当化させるための道具として使っているような気がします。藤森先生が、お片付けの時に「自分で使ったものは自分で片付けなさい」というと自分で使ってないものは片付けなくなるといいますが、そういった小さな積み重ねが、大人になったときにこういった自分の利を優先する考え方を作ってしまうのかもしれませんね。

  6. 新しい著作の読解連載の始まりを感じます。新しい知見との出会いがとても楽しみです。
    様々な子育てスタイルを通して、人間の子育て、保育を解明していく、そして、子どものことを考えられた、子どもたちの為の社会になっていくきっかけがそこにあることを望んでしまいます。子どもにとっていい世の中は大人にだって絶対に良い世の中です。子どものことを真剣に考える国は、絶対に良い国です。

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