一般論

ミラー氏らは、この本で提示するアイデアは、彼らが提唱するものであれ、他の研究者によるものであれ、それらの多くは、非道徳的で醜悪な、人々の理想に反する、男性もしくは女性にとって受け入れがたい含みをもっていると言います。しかし、彼らはそれを提示しています。それは、科学的判断から、真実であると確信しているからだと言います。提示したからといって、彼らの観察なり確信から導きだせる帰結なり結論が、よいとか正しいとか、望ましいとか正当であると考えているわけではないと言います。
真実こそ、科学研究を導く指針であり、科学者にとって最も重要なものでなのです。さらに、社会問題を解決するには、いかなる場合もまず問題そのもの、そして考えうるその原因を正確に把握しなければならないと考えているようです。根本的な原因を知らなければ、正しい解決策を導きだすことは不可能だからです。事実の正確な観察は、基礎科学にとってだけでなく、社会政策を立案する上でも、重要な土台となると考えているのです。
ミラーらが想定した質間の多くは、たとえば、「だめな父親は多いのに、だめな母親が少ないのはなぜか」とか「なぜ暴力的な犯罪者はほぼ例外なしに男なのか」といったものは、ただのステレオタイプとして片付けられてしまうようなものかもしれないと言います。しかし、この本で取り上げた事柄の多くは、たしかにステレオタイプ的なものかもしれませんが、ステレオタイプというだけで、それが事実ではなくなる、もしくは議論する価値がなくなるかのように言うのはいかがなものだろうかと言います。
多くの「ステレオタイプ」は、統計をもとに、観察から導きだした一般論であり、それゆえ事実であることが多いようです。ステレオタイプと一般論の問題点はただ一つ、個別のケースには必ずしもあてはまらないことだというのです。ステレオタイプには、常にそれにあてはまらない例外があります。世の中には子どもの世話をよくみる父親も女性の犯罪者も大勢います。だからといって一般論がまちがっているわけではないと言います。危険なのは、統計にもとづく一般論を個のケースにそのままあてはめることだと言うのです。「ステレオタイプ」というとよくないものという印象がありますが、多くは経験にもとづく一般論にすぎないかもしれないのです。それが誰かにとって気に食わないか、ある集団に対して批判的であったり侮辱的であったりすれば、ステレオタイプというレッテルを貼られます。ある観察が真実であれば、経験的な一般論となります。誰かがそれに異議を唱えたとたん、それがステレオタイプになると言うのです。
たとえば、「男性は女性より背が高い」というのは、経験的な一般論です。一般論としてはまちがっていません。ちなみに、この現象についても進化、心理学の説明があるそうですが、この一般論にも個別的な例外はあります。平均的な女性より背が低い男性は大勢いますし、平均的な男性よりも長身の女性も珍しくありません。しかし、例外があっても、一般論が否定されるわけではないのです。人間社会ではどこでも、男性は平均して女性より背が高いのです。誰もがこの事実を知っていますが、誰もそれをステレオタイプとは呼びません。誰もこの見方に異を唱えないからです。さらに言えば、一般的に男性は女性よりも長身でありたいと思い、女性は男性より小柄でありたいと思っているからだとも言うのです。

一般論” への7件のコメント

  1. これまでこうだったから、みんながやっているから、上から命令されているから、・・・。「一般論」と「ステレオタイプ」。一般論に則ってやっていると気が楽な部分があります。今次、外出時にマスクをしないと何とも不安になってきます。「君の考えはステレオタイプだよ」と揶揄?されると、何だかむかつきます。何せ、オンリーワンを推奨される今日のこの頃ですから。とはいえ、空気読めよ、という同調圧力が一般論化しているとも言えます。「不都合な真実」。真実が不都合、と捉えられます。真実が不都合な時代とは私たちにとって幸せなのか、と論理の飛躍に飛びついてしまいます。それは兎も角としても、やはり思うことは、教育に携わる学者の皆さん、是非「真実こそ、科学研究を導く指針」を大切にして欲しいということです。つまり、目の前にいる子どもたちが施設や学校においてどうか、ということです。その事実に基づいて論理を組み立て、理論を提示し、現場の実践に結びつけて欲しいのです。

  2. 一般論では・普通は・みんな言っているなど、民主的な集団であればこのような考えはは少なからず生まれるとは思いますが、状況によってはそれが危険を招くこともあることをコロナ禍によって皆が体験していることと思います。そんな時こそ、真実を把握すること・根本的な原因を知ることから解決策を模索する必要があるのですね。また、“あなたはこういう人だよね”と言われることから生まれる感情は、その人との関係性によって左右する気がします。言われた人と深い関係性がある場合は、寛容的に捉えられますが、そうでない人からの言葉は「自分のなにを知っているのだろう」と少々疑ってしまうかも知れません。といったような思考もステレオタイプと言われれば、そうなのかも知れません。寛容的で柔軟な思考や行動を常に意識したいです。

  3. 例えば、自宅の前で我が子を遊ばせているとします。そこに近所の子たちも混ざって遊びはじめました。そして、その親たちも一緒に子どもをみています。そうすると、当然我が子と近所の子の間にトラブルが起き、ケンカがはじまります。その時に親がケンカしてるけど手を出しそうになかったので、ケンカをしばらくみているとするとどうなるか?
    もしかすると、近所の親からあそこの親は子どものケンカを止めないみてるだけの親だ、と思われるかもとか、我が子がいけないことをしても全然教えてあげないと思われるかも、とかいろんなことを考えるし、実際にそう思われていることもあるだろうと思います。一般論でいうと…ということを考えてしまいます。この場合、どうするのか?一般論と真実の微妙なところだと思います。このような場合は保育者で我が子がいれば、経験したことのあるものだと思いますが、自分はなるべく説明することにしています。ただ、あんまり難しい言葉を並べても分からないだろうし、相手にわかるように説明するのは難しい。ですが、それもできる発信だと思っています。

  4. 比較的日本の人たちはこの「一般論」に振り回されている人が多いように思います。それはもしかすると教育においても、保育においても、「変な協調性」がクローズアップされているからかもしれません。自分からその和の中に入ることを選ぶわけでもなく、一つの集団に詰め込まれることが多く、そこでの価値観があたかも絶対かのような状況になることが多く、そのため、同調することが重んじられる。確かに「秩序」という意味ではいいのかもしれませんが、悪く言えば、「他力本願」でもあるのかもしれません。とはいえ、自分自身も人のことは言えません。一般論とかけ離れると不安になります。そうならないためにはしっかりとした論理や理念を持つことが大切であると常々感じます。ステレオタイプ的に物事を見るのではなく、しっかりとした自分自身の指針が持てるだけの自信を持ちたいと思う今日この頃です。

  5. 人は統計的に物事をみていて、目につくもののなかで選び判断するという力で生き残ってきているのでしょう。赤ちゃんがそうして言葉を得ていくのと同じように大人も無意識のうちに脳のなかで統計的にみているのだと思います。ただ今の情報過多の世の中では、テレビであっても新聞であってもそれが意図的に情報操作されていることが多いというのが問題な気がします。そのようななかで生き残るためにも情報リテラシーの大切さが多くの学びの場でも言われていますがなかなか浸透しませんね。

  6. 「危険なのは、統計にもとづく一般論を個のケースにそのままあてはめること」なるほどとても勉強になりました。多くの一般論を全てに当てはめてそれを判断することはとても危険でありながら、当てはまらないわけでもない場合もあるということで、やはり一人一人を、或いはその家族単体を見る際の一つの目安、基準、参考値程度にする、ということなのかもわかりません。
    人は見た目によらない、としながら、内面は外見に出る、ということもあったりして、そのどちらも的外れな場合もあれば、どちらも真理であることもあるようです。それを用いる側の人間の感性が大切なようです。

  7. ステレオタイプと一般論。確かに、ステレオタイプは多くの場合、経験に基づく一般論でもありますね。経験的に、統計的にそうであるということはよくあります。しかし、その経験が個人の幅に限定されてしまうとまた偏ったものにもなるのかもしれません。また、だからといって全てにそれが当てはまるわけではなく、個別のケースで見ていくということも大切になりますね。これは子どもを見る上でもとても大切なことなのかもしれません。子どもを経験に基づく一般論でだいたいの傾向をこうであると判断してしまうときがあります。それが必ずしも間違えではないこともありますが、必ずしも当てはまる訳ではもないという意識は持っていたいですね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です